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立野駅 JR九州・南阿蘇鉄道

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立野駅(たてのえき)は、熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字立野にある、九州旅客鉄道(JR九州)・南阿蘇鉄道の駅です。旧所在地の長陽村は平成17(2005)年2月に周辺3村が合併し「南阿蘇村」となりました。


JR九州の豊肥本線と、南阿蘇鉄道の高森線の2路線が乗り入れる。高森線は当駅が起点である。JR豊肥本線はスイッチバック構造となっており、全列車が停車する。

 

JRは島式ホーム1面2線を有する地上駅である。

駅舎は駅前への階段下にあるため、構内からだと車庫に隠れて見えない。

互いのホームは構内踏切で連絡している。


南阿蘇鉄道は単式ホーム1面1線を有する地上駅である。かつては島式ホーム1面2線であった。


JRの駅本屋はJRホームから見て構内踏切を渡った地点に所在する。駅本屋を出ると正面に南阿蘇鉄道高森線のホームがあり、右手が外部へ出る折返し階段となっている。

また、南阿蘇鉄道の駅本屋は高森線のホーム上にある。階段や高森線ホームなどが狭い空間に配置されているためJR駅舎の出口周辺は奥まった雰囲気がある。

JR側待合室には木製の長椅子が設置。自動券売機あり。
JR、南阿蘇鉄道共に無人駅である。

豊肥本線の当駅は勾配緩和のための3段式スイッチバック設備を有する駅として知られる。

駅舎およびホームはスイッチバック構造の底点に位置している。
熊本方面から来た豊肥本線の列車は当駅(スイッチバック底点)で進行方向を変えて後進し、スイッチバック頂点に向かう。頂点でさらに進行方向を変えて前進し大分方面に向かう。

のりば
南阿蘇鉄道ホーム ■高森線 高森方面


JRホーム 1 ■豊肥本線(上り) 肥後大津・熊本方面


JRホーム 2 ■豊肥本線(下り) 阿蘇・大分方面

南阿蘇鉄道ホームは国鉄時代、0番線だった。

1916年(大正5年)11月11日 - 宮地軽便線の駅として鉄道院が開設。
1922年(大正11年)9月2日 - 宮地軽便線が宮地線に改称。
1928年(昭和3年)12月2日 - 豊肥本線が全線開通、宮地線を豊肥本線に編入すると共に立野 - 高森間を高森線に分離。


1986年(昭和61年)4月1日 - 高森線が南阿蘇鉄道に転換。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により豊肥本線を九州旅客鉄道が継承。


2012年(平成24年)7月12日 - 九州北部豪雨により不通となったが、同年7月24日に当駅を含む区間は運転を再開した。
2013年(平成25年)4月1日 - 無人化。

■南阿蘇鉄道
所属路線 ■高森線


■九州旅客鉄道(JR九州)
所属路線 ■豊肥本線
電報略号 タテ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 387人/日(降車客含まず)
-2005年-
開業年月日 1916年(大正5年)11月11日
備考 共同使用駅
JR九州:無人駅

 

 

 


瀬田駅 JR九州豊肥本線

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瀬田駅は、阿蘇の外輪山に分け入る入口にある駅で熊本県菊池郡大津町大字大林にあります。九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線の駅です。駅の南側にはまとまった集落がある。

単式ホーム2面2線を有する地上駅。コンクリート造り、ほぼ真四角形の簡易駅舎。

待合室の内にはFRP製の椅子が設置されています。元来は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合せて2面3線を有する構造であったが中央の1線が撤去され2面2線になった。

互いのホームは構内踏切で連絡しています。駅舎は単式ホームに接する形で設けられており駅舎から見て奥には側線がある。無人駅。

のりば
1 ■豊肥本線(上り) 肥後大津・熊本方面


2 ■豊肥本線(下り) 阿蘇方面
大分方面ホームには待合いスペースがありFRP製の椅子が設置されています。

1916年(大正5年)11月11日 - 鉄道院が開設。
1922年(大正11年) 9月 - 現在地に移転。


1983年(昭和58年)11月30日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。

電報略号 セタ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 53人/日(降車客含まず)
-2005年-
開業年月日 1916年(大正5年)11月11日
備考 無人駅

キハ40形1000番台

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国鉄キハ40系気動車)は、1977年(昭和52年)から1982年(昭和57年)にかけて日本国有鉄道(国鉄)が製造した一般形気動車(ディーゼル動車)である。
これは国鉄の車両称号規程に則った制式の系列呼称ではないが、同一の設計思想により製造された気動車の形式を便宜的に総称したものである。具体的には、キハ40形(2代)、キハ47形、キハ48形の3形式およびこれらの改造により発生した派生形式を指す。

車齢が若かったこともあり、国鉄時代に本系列に対して行われた改番を伴う改造は、キハ40形1000番台の1例のみである。また、冷房改造についても、鹿児島地区での降灰対策のためバス用クーラーを使用した改造がキハ40形5両およびキハ47形10両に実施されたのみに止まっている。本系列に対する性能・接客両面での改良・改造が本格化するのは、国鉄分割民営化後のことである。
キハ40形1000番台
キハ40形1000番台は、1979年(昭和54年)4-5月に宇都宮運転所へ新製配置し烏山線で運用していたキハ40形2000番台(2011-2020:何れも富士重工宇都宮製作所が製造)のうち水戸運転所へ転出した3両(2018-2020:その後東北地区へ転出)を除く7両(2011-2017)からトイレを撤去し改番(1001-1007)したもので、国鉄時代に本系列に対して行われた改番を伴う改造の唯一例である。改造工事は大宮工場で施行、1986年(昭和61年)11月末から翌1987年(昭和62年)3月末の間に竣工した。定員は98名。当初は屋根上の水タンクも存置され外観上の変更はほとんど無かったが、外装塗色は新製配置時からの首都圏色(朱色5号の単色塗装)から烏山線独自のローカル色(白地に緑色M字様帯模様の2色塗装)に変更した。なお水タンクは後年撤去している。改造後も烏山線用として宇都宮運転所に配置、1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化にあたり全車JR東日本に承継されている。民営化後の1990年(平成2年)には東北地区に転出した1両(1006:当初小牛田運輸区に転配、一時新庄運転区を経て現在は秋田車両センター配置)を除きワンマン運転対応改造と座席のロングシート化工事を施行し定員を144名に増員した。1991年(平成3年)と1995年(平成7年)には同じく2000番台各1両(高崎運転所配置の富士重工製2087および水郡線営業所配置の新潟鉄工所製2139)に1000番台化工事を施し(それぞれ富士重工宇都宮製作所およびJR東日本郡山工場で施行)計2両が本番台として竣工、宇都宮運転所に配置、計9両(2013年時点で宇都宮運転所配置8両、秋田車両センター配置1両)が本番台となっている。これらのうち1000番台への改造前に冷房装置を搭載していた1008を除き、1995年から1996年にかけて冷房装置(AU34)を搭載した。
トイレ無し(屋根上の水タンク撤去済み)
冷房装置あり
乗降扉の半自動対応あり(乗降扉横に押しボタン式のドア開閉装置、ドア開閉時チャイム音)
宇都宮運転所の8両(1001-1005, 1007-1009)はロングシート車(ロングシートの中央部には消火器とくず物入れを設置)、ワンマン運転(後乗り前降り)対応(車内案内自動放送装置、外部スピーカー、乗降口案内表示器の設置)
秋田車両センターの1両(1006)はセミクロスシート車
なお、2011年4月15日に開通88周年を迎える烏山線の「烏山線全線開通88周年記念事業」として1003および1007をそれぞれ2010年12月および2011年4月より旧国鉄一般気動車色(朱色4号+クリーム4号、標準色)に塗装変更しているほか、1004および1005はそれぞれ2012年12月および2013年6月より旧国鉄首都圏色(朱色5号、近郊色)に塗装変更している。これらの塗装変更は何れも郡山総合車両センターで施行している。
キハ40 2011 - 2017・2087・2139 → 1001 - 1009

1977年(昭和52年)から1982年(昭和57年)にかけて計888両が製造され、日本全国の非電化路線に投入された。2014年現在でもJR旅客鉄道各社に多数が在籍し、主に普通列車用として広く用いられている。電車に近い車体構造の大型気動車で、客室設備の改善や走行機器の刷新なども図られている。その一方で、それ以前の在来型気動車と比較してエンジン出力は若干増加したものの重量も増加しており、動力性能はほとんど向上していない。
客用の片引き戸を車端部2か所に設置したキハ40形(両運転台)、キハ48形(片運転台)と、都市近郊向けに両引き戸を車体中央に寄せて2か所に設置した片運転台のキハ47形に大別されるが、各形式共投入線区の気候に応じた仕様の違いや、便所の有無などによって番台区分されている。国鉄分割民営化後は、各社ごとに使用線区の事情に応じた改造がきめ細かに実施され、派生形式や区分番台が多くなっている。なお、近年では事故や災害、地方路線の運用見直しや、より高性能で維持費の低廉な新型気動車への置き換えにより、廃車や保留車が発生している。

1950年代中期に量産された、国鉄初期の液体式気動車であるキハ10系は、1970年代に至って著しく老朽化・陳腐化が進行し、ことに接客設備面での劣悪さと台車設計の欠陥が問題となっていた。キハ10系は車体断面が狭く座席の設計に難があったが、台車の心皿荷重上限が小さく、座席の交換は重量増となるため、またロングシート化などの格下げ改造も定員増=荷重増となるため、いずれも困難で、交換用台車の新製などの改造予算確保よりも新車製造予算の確保が優先されたため、無煙化が一段落ついた1970年代後半まで抜本的な対策を講じられることもないまま、そのまま放置されていた。
一方で1970年代の国鉄は労使紛争が激しく、組合側は労働環境の改善を強く要求していた。その一環として、国鉄車両にも安全対策や整備性の改善が求められ、国鉄ではこの時期に1960年代に設計された量産形式を基本としつつ、随所を強化改良したマイナーチェンジ車を製造していた。本系列もその方針の下に全体に耐久性を高め、1950年代後半に製造されたキハ55系とキハ20系の老朽化進行も視野に入れつつ、それらの代替用一般形車両として開発された。


1974年(昭和49年)に開発されたキハ66系をベースにしており、車体や制御回路、変速機、ブレーキ方式などの基本構造は同系を踏襲しているが、搭載エンジンについてのみ大出力型ではなく、当時の国鉄の技術力・予算に見合った設計・出力のものとしている。また、国鉄時代には全国で大規模な車両の配置転換を行っていたことから、暖房やラジエーターをはじめ酷寒地向けを基本として設計された箇所が多く、温暖地で寒地向けの番台が使用されるなど、地域によっては多くの部分が過剰装備となっている(逆に寒冷地で温暖地向けの車輌が使用されていることもある)。
なお、本系列から北海道向け車両を別形式とせずに同一形式内での番台区分としたのも特徴である。

全長21.3 m(車体長20.8 m)、幅2.9 mという急行形気動車並の大型車体である。酷寒地や海岸沿いでの使用を考慮して外板、屋根板、床板には車両用耐候性高張力鋼板 (SPA) を用いており、耐久性を高めているが、板厚は例えば同じSPAを使用した201系電車と比較すると、外板厚が2.3 mmに対して国鉄気動車標準の1.6 mm, 屋根板厚は1.6 mmに対して1.2 mmと薄く、台枠に設けた軽量孔とともに軽量化にも一応配慮している。落成時期の関係から、製造当初は全車が朱色5号と呼ばれる明るい朱色一色、一部地域で「首都圏色」と呼ばれる塗装で落成しており、従来の一般形気動車の標準塗装であったクリーム4号と朱色4号の2色塗り分けで落成した車両は存在しない。これに対し、本系列と車体設計が類似する機器流用車であるキユニ28形は、1978年10月の「車両塗色および表記基準規定」改正に先立つ1978年2月から3月にかけて落成したキユニ28 1 - 6の6両のみが規定通り旧標準色の2色塗り分けとなっている。
前頭部はキハ66系のものを踏襲したもので、踏切事故・衝突対策として高運転台化、運転室長さの350 mm拡大、前面の外板を4.5 mm厚に強化、床下前面にスカートを装着している。運転台窓は運転席からの視認性に配慮した側面部に回り込んだパノラミックウィンドウを用い、前照灯は前面窓上にRBS-24V形150/50 Wシールドビームが2灯、尾灯は在来形気動車よりも高い位置に40 Wのものが2灯、それぞれ左右に振り分けて設置され、貫通路直上には列車種別表示器も設けられている。なお、これらの構成は設計年次が近いキユニ28形などの改造車も同様で、当時の標準設計であった。側窓は酷寒地形を除き、外はめ式のアルミ合金製2段ユニット窓として工数を削減している。酷寒地形は小型の1段上昇窓で、FRP製窓枠による内窓を組み合わせた二重窓構造とし、冬季の車内保温を図っている。

キハ40形、キハ48形は車体両端2か所に1 m幅の片開き扉、キハ47形はやや車体中央寄り2か所に1.3 m幅の両開き扉を設けている。いずれもステップ付で半自動扉であるが、ドアエンジンは在来車のような当初からの半自動式用ではなく、自動式用ドアエンジンの指令回路のみを変更して半自動動作に対応させており、人力での開閉はやや重い。キハ40形・キハ48形の寒地・酷寒地形は、いずれも客室と出入り台の間に仕切り扉を設けたデッキ付きとし、寒冷時の保温を図った。
運転台は機器配置・座席形状とも人間工学に配慮した構造となっている。また、投入線区の運用実態に配慮して製造時より側面にタブレットキャッチャーとその防護板を設け、タブレット閉塞式での通過運転に対応した。客室内壁の化粧板は、在来形気動車に比してやや明るい色調でまとめられている。初期に投入された車両は、キハ40形・キハ48形は薄茶色、キハ47形は淡緑色であるが、中期以降の車両は、北海道・本州以南用ともクリーム色となっている。座席はボックスシートを基本としてドア付近にのみロングシートを配したセミクロスシートとした。ボックスシートはシートピッチをキハ58系までの急行形車両と同等の1,470 mmとし、一般形気動車として初めて人間工学を採り入れた新形状のものとした。
暖房はキハ22形やキハ56系と同じ温水暖房式であるが、機関廃熱(機関冷却水)および機関予熱器での軽油燃焼による熱を使用して床下の熱交換器で温風を作り車内に循環させる方式を採用した。機関の冷却水を床下の熱交換器に通し、ここに外気および室内空気を循環させて暖める。なお、気温が低い時、下り勾配、停車時など、機関の廃熱だけでは冷却水温が上がらない場合には、機関始動用の機関予熱器を使用して補助的に加熱する。1両あたり2基搭載された熱交換器により暖房能力は公称30,000 kcal/hとなり、従来の軽油燃焼式温風暖房に比して著しく強力な暖房能力を得た。これは機器搭載に床下スペースを必要とするという難点があるものの、温水管を車体内に引き通す必要がなく、構造も単純であった。加えて運転室内には自動車用温水暖房装置が併設されている。
なお、その後の新形気動車ではエンジンの直噴化などで熱効率が上昇して機関の発熱が著しく減少したため、温水式暖房を採用する場合、熱源となる機関発熱が減少する下り勾配などで暖房能力が低下する、あるいは寒冷地では根本的に暖房能力が不足する、という問題が発生した。そのため、それらは変速機内装のコンバータブレーキの使用によって温度が上昇した変速機油を補助熱源とすることで下り勾配での暖房能力の不足を補う(直噴機関搭載で始動に不要として機関予熱器を省略したJR東日本キハ100・キハ110系など)、厳寒時の始動用に搭載されている機関予熱器を暖房熱源として常用する(JR北海道キハ150形など。ちなみにキハ150形の機関予熱器はそれ単体で本系列の暖房用熱交換器の公称能力〔空気と水の温度差50度の時の能力〕と同じ30,000 kcal/hの発熱能力を備えている)といった対策を講じている。これらは共に自動車用温水暖房を採用しているが、他社では機関の動作状態に影響されず、しかも構造簡易で確実な動作が得られる軽油燃焼暖房へ回帰した例も多い。
このように基本的な居住性は電車に近づいていたが、冷房装置は製造の段階では設置されず、準備工事の施工も見送られた。当時は地方路線の冷房化は時期尚早であると判断されたことに加え、国鉄の制式気動車では、連続定格出力150 - 180 PSと非力なDMH17系エンジンが標準だった(ただし本系列製造開始時点では同180 PSのDMH17C・H系に事実上収斂していた)期間が長かったという事情もあり、バスと同様の機関直結式冷房装置を採用することはそもそも不可能に近かった。そのため当初より冷房装置を搭載した特急形気動車では一部車両に大型のディーゼルエンジンを動力源とする発電セットを搭載して4 - 5両単位で給電を行うシステムを採用し、後に冷房を追加した急行形気動車でもコンパクトな発電ユニットを搭載して自車含め3両単位での電力供給を行うシステムを採用していた。DMH17系に代わるべき新型機関として本形式で制式採用されたDMF15HSAは、後述するようにDMH17系と比較して2割程度の出力増を実現したが、前述したように車体重量が大型化や事故対策などで大幅に増加したことから、満足できる走行性能が得られない状況であった。そのため、さらなる自重増を招く発電セットの搭載も、標準状態でさえ決して充分とは言いがたい機関出力をさらに低下させる直結式冷房装置の搭載も、共に採用したくとも採用できないのが実情であった。このことには利用者のみならず、バスとの競合などから冷房付きの新型車を切望していた各鉄道管理局の担当者からも失望の声があがった。
便所はFRPユニット組み立て式(初期製造車のみ化粧板を使用する通常構造)で、キハ40形は出入り台側から内開き扉、キハ47形・キハ48形は側面の客室側引き戸から出入りする方式とし、水タンクは屋根上搭載の重力給水式として、ポンプや空気配管を不要としている。汚物処理装置は搭載を考慮して機器搭載スペースを確保する準備工事が実施されたが、製造当初は地方路線の汚物処理施設整備がほとんど進んでおらず、便所搭載車は全車が従来通りの垂れ流し式として竣工した。

本系列は標準機関として従来のDMH17系エンジンに代えてDMF15HSA形(連続定格出力220 PS/1,600 rpm, 連続定格出力時燃料消費率185 g/PS/h, 最大出力250 PS/2000 rpm)を搭載する。このDMF15HSAは水平シリンダ形の予燃焼室式直列6気筒機関であり、TB11B形排気タービン過給器を装備、補機類はCW750D空気圧縮機、DM99AもしくはDM99B形4kVA交流発電機などで、いずれも歯車駆動としてVベルトを廃している。
この機関は、1963年に開発されたDMH15HS形の派生形であり、排気タービン過給器あり、中間冷却器なしの構成としたものである。しかし機関出力が小さいため、後に中間冷却器を追加したり、別の機関に取り替えた車両も存在する。

変速・直結各1段を備えるDW10形を装備する。これはキハ65形・キハ66系に搭載されたDW9形をベースに開発されたもので、トルクコンバータの構成は在来標準形のDF115・TC-2形(3段6要素)に対して、DW4形・DW9形やDE10形用のDW6形(2000番台[注釈 1])などと同じ中高速での引張力を確保するとともに、エネルギー損失を抑制した1段3要素となり、クラッチはいずれも湿式多板式で、変速、直結が各3枚、逆転機が8枚の構成、変速機油冷却は従来の空冷式から油冷却器による水冷式に変更となっている。変速機油は、従来のDF115・TC-2形では軽油が用いられていたのに対して、本形式では潤滑系の油を共用することとし、シール機構の簡略化を図った。また、逆転機を台車に装架するのが困難な2軸駆動車用のDW9の構造を踏襲して逆転機を変速機内に内蔵し、台車側には推進軸の方向転換と最終減速段を受け持つ減速機を装架している。なお、変速と直結の切替は変速機の入力軸と出力軸の回転差を検出してエンジンの吹き上げ、アイドル指令を出し、最適な回転数で切り替える半自動式とすることでショックのない変速を狙ったほか、変速機の特性の異なる手動変速の在来形気動車との併結に対応している。なお減速比は2.995と従来の一般形気動車よりもわずかに大きくされている。
トルクコンバータの構成の違いにより、起動時の動輪周引張力はキハ20系(定格出力180 PSのDMH17C形エンジン搭載車。変速機としてDF115A形ないしはTC2A形を搭載)の2,500 kg弱に対して2,400 kg弱と低く、車両重量の増大も相まって起動直後の特性で不利となり、「キハ40系=低出力」のイメージを強める一因となっている。ただし、例えば10 km/hではキハ20系の約1,800 kgに対し約2,100 kg, 50 km/hでは約600 kgに対し約800 kgと逆転しており、本来は特急・急行形用として開発された変速機を流用したが故の、中高速域を重視した特性が表れている。いずれも駆動方式は1軸駆動で内よりの第2軸を駆動し、逆転機は変速機に内蔵するため、台車にはキハ65形・キハ66系の第2減速機と共通(厳密には減速機支え装置の取り付け方向が推進軸と同じ側ではなく反対側となるため、完全に同一仕様ではない)のGB122形減速機が装架されている。

酷寒地形・寒地形は本形式用に新開発のDT44形・TR227形もしくはDT44A形・TR227A形空気ばね台車を、暖地形はコストダウンを優先し、従来からの標準台車であるコイルばね式のDT22D形・TR51C形を採用した。ただし、台車に逆転器を搭載しなくなった分、枕梁の軽量化を行っている。
酷寒地形・寒地形は枕ばねを空気ばねとしたが、これは寒冷地域でコイルばねの間に雪が詰まって固着・凍結し、ばねが効かなくなる問題があったこと、北海道には地盤の悪い低規格路線が多いこと、軽量化(DT44形が5,510 kg, TR227形が4,690 kg, 重量の増したDT44A形でも6,240 kg, TR227A形で5,400 kgである)、構造の簡略化、省力化などを考慮したもので、軸ばねは通常通りコイルばねであるが、ゴムで被覆したいわゆる「エリゴばね」として、雪咬みを防止している。初期に製造された車両は軸箱支持方式がペデスタル式で、荷重を軸箱直上の軸バネで伝えるDT44形(動力台車)・TR227形(付随台車)形であったが、以降は制輪子交換を容易にするためにそれぞれ乾式円筒案内式のDT44A形・TR227A形に変更された。枕ばね方式は保守面での制約などから、空気ばねを車体直結とするダイレクトマウント方式ではなくボルスタ直下に上揺れ枕を置きその下に空気ばねを挿入するインダイレクト方式(国鉄では165系電車などに大量採用されたDT32・TR69系台車で採用された支持方式)として基本構造をDT32系と共通化しており、空気ばね・ボルスタアンカ・LV4-1形空気ばね自動高さ調整装置などは同系列と同一品を使用している。枕ばねを横剛性の高いダイアフラム型空気ばねとして揺れ枕吊りを廃止したことや、ブレーキシリンダの台車装架などにより台車の揺動特性は優秀で、旧態依然としたDT22・TR51系コイルばね台車を装着する一般的な急行形気動車を超える快適な乗り心地が実現された。また、制輪子自動スキマ調整器が付きブレーキシリンダストローク調整作業も省力化されている。

本系列の初回生産グループである昭和50年度3次債務車は、各車間で各種電気信号の伝達を行うために用いるジャンパ連結器として、在来の一般形気動車と共通の制御用KE53形(接点数15)を2個と放送回路用KE66形(接点数2。在来の気動車と同様、片栓ジャンパ線を連結面を外から見て左側〔運転台の助手席側〕に、栓受けを右側に装備)を1個、それに電磁自動空気ブレーキ指令用のKE67形(接点数2。栓受は連結器の胴受の下に設置)を1個の合わせて4個のジャンパ連結器を実装して落成した。冷房装置を備えない一般形気動車ではこの4個のジャンパ連結器の搭載が必須条件であった。なお、冷房搭載の急行形気動車ではこれに加えて冷房制御用のKE53形1個と高圧電源供給用のKE8形(接点数2)1個が搭載される。
だが、技術の発達に伴って後追いでジャンパ連結器を追加していった結果成立した、芯線数の少ないジャンパ連結器を多数接続するこの構成は、複数の異なった形式を併用する上では互換性確保のために不可避の仕様だったものの、車両の増解結作業を非常に煩雑なものとし、保守上も部品点数が増えて望ましいものではなかった。このためそれら全てを、本系列の設計の基本となったキハ66系で2両ユニットの連結面間に使用されていた、新世代の多芯ジャンパ連結器であるKE91形(接点数90)へ集約・置換することが検討され、2回目の生産ロットとなった昭和52年度1次債務車でその準備工事として、妻面向かって左下に大きな縦長の窪みを設け、将来ここにKE91形を格納する計画とした。
しかし、昭和53年度本予算車ではジャンパ連結器格納用の窪みはそのままに、新たに設計されたKE93形(キハ183系などに使用されている接点数61の気動車用多心ジャンパ連結器。昭和53年度2次債車までは60ピン接続)1個で従来のKE53形2個を置き換えるように計画が変更された。このKE93形には在来の気動車との併結を考慮して、KE94形アダプタ(KE53形2個分の信号線をKE93形1個に変換接続するための二股アダプタ。KE93形に取り付けて使用)が用意され、これをKE93形にボルトで固定することで、KE53形2個を備える一般形気動車と併結可能としている。
なお、KE53形2個の接点数は合計で30にしかならず、KE93形では信号線の割り当てのない、多数の空き接点が存在する。これはKE66・67形相当の信号線の割り当て予約など、将来的な割り当て信号線数の増大を見込んで当初より接点数に余裕を与えられているためであり、それゆえKE93形をKE94形を併用せずに単独で使用する際には、KE66・67形や冷房用のKE53形1個の接続が不要となる。

本系列ではあらゆる面で刷新が行われたが、電車並みの丈夫な構造と追加装備は重量増加の原因となった。自重36 tから37 t, 断熱材補強など酷寒地対策を施した車両は約40 tにも達する。本系列による代替の対象となったキハ10系は1エンジン車で公称自重が28 tから32 t程度であり、これと比較すると1割から2割程度自重が重いことになる。これに対し、搭載機関の連続定格出力220 PSはあまりに非力であり、単位重量あたりの出力ではキハ10系とキハ20系の1エンジン車とおおむね同等、2エンジン車のキハ51やキハ52などには完全に劣る。車重と変速機設定が災いし、勾配の程度にもよるが登坂時には全出力状態でも従来の気動車同様30 km/hを下回ることも少なくない。本系列(暖地向け車)を使用した普通列車の速度種別設定は「停気F1」で、10パーミル勾配における均衡速度は51 km/hにとどまる。電化区間へ乗り入れる場合は、電車に比べ甚だしく加速力が劣るため足並みが揃わず、ダイヤ組成の障害にもなった。「戦前のキハ42000形ガソリンカーにも劣る低性能車」と批判された。キハ42000は伝達効率が高いものの総括制御のできない機械式変速機を搭載し、しかも車体長が19 m級で車体幅も狭くして軽量化を図っているなど本系列と設計思想が異なる点が多いが、単位重量あたりの出力や加速性能では実際に本系列を凌駕する。キハ40系の搭載機関出力は竣工の段階で既に不十分であり、この発言も両車を比較することにより本系列の車体重量に対する機関出力の不足を指摘することが目的であった。
発進時には、全負荷状態でもエンジンが轟音を立てるばかりでなかなか動き出さず、搭載されている変速機 (DW10) が在来の3段6要素変速機よりも発進時に不利な特性ということもあって、液体変速機を長々と空転させた末に数拍おいて動き出す状態であった。中速域においても、変速機の特性を生かすには、同系変速機を搭載するキハ181系やキハ66系などと同様、変速段を使用して65 km/h付近まで5ノッチで引っ張る運転操作が求められたが、通常45 km/hで変速-直結の切替を行なうTC2A・DF115A形変速機搭載の車両と併結した際や、DMH17系エンジン搭載車の運転に慣れていた運転士が運転する場合には、1段3要素の変速機の特性を活かしきる前に例えば50 km/h程度で直結に切り替えられてしまうと、変速段で約800 kgあった動輪周引張力が直結段では約500 kgとなってしまうなど、性能を出し切れない場面が多く見られた。
DMF15HSエンジン自体の定格時燃料消費率は185 g/PS/hであり、旧来のDMH17系エンジン(190 g/PS/h)と大差なく、 後年のDMF14HZA(154 g/PS/h)などの直噴エンジンと比べるともともと燃費は悪かった。また過熱防止のため全出力運転が5分までに制限されるDMH17系エンジンと異なり、DMF15HS系エンジンは全出力運転の時間制限がなかった。このため運行中は降坂・定速時以外ほぼ全出力で運転できてしまい、かえって相当時間に渡って過負荷を強いられることから、燃料消費量も増化した。後にJR東海がエンジン換装を行った際には、燃費が換装前の71%に改善されたほどである。DMH17系エンジンを1基搭載する車両の代替は一応可能であったものの、加減速の多い仕業や勾配路線には明らかに不向きであった。
また、古くから国鉄在来線では急勾配線区や冬季の排雪走行に適応する単行運転可能な気動車が不足していたが、強力車については余剰が予想されるキハ58系の格下げで対応するという方針であったため、キハ40系では勾配線区向けの形式は製作されなかった。しかしながらその後もキハ58系の需給調整は上手く行われず、依然として適当な代替車が不足し続けた。キハ53形500番台改造投入やキハ54形新製など、単行運転可能な2エンジン搭載車が導入されたものの、ごく一部の地域への導入であり、その他の地域では、経年のキハ20系の2エンジン車であるキハ52形が、同系列の1エンジン車が淘汰された後も2010年3月まで残存した。たとえばJR西日本が大糸線のキハ52形をキハ40形に置き換える計画を立て、線内で走行試験を行ったが、出力不足で計画は中止されたという事例がある。これらの問題に対応し、JRに現在残存しているキハ40系の多くが300 PS以上の高出力直噴エンジンに換装、もしくは過給器・燃料噴射系交換などによる既存エンジンの強化で性能改善を図っているが、自重過大という本系列の構造的な弱点を完全に克服するまでには至っていない。

東日本旅客鉄道(JR東日本)には、キハ40形117両(500番台92両・1000番台7両・2000番台18両)・キハ47形28両(0番台3両・500番台12両・1000番台2両・1500番台11両)・キハ48形74両(500番台41両・1500番台33両)の計219両が承継された。
東北地方など寒冷地での使用が多いこともあり、本格的な冷房化改造は東海以西の各社より遅かった。また民営化後の高出力車キハ100系・110系導入により、収容力は大きいが機関出力の小さい40系気動車は比較的平坦でワンマン運転に適さない線区に配置されている。他社に比べて数は少ないが、線区の事情に応じたワンマン運転対応工事や座席の変更の他、冷房装置 (AU26J-A×2) の搭載、機関のカミンズ製DMF14HZ (300 PS/2,000 rpm) への換装も継続的に実施されている。秋田地区の男鹿線用車と新潟地区の羽越・磐越西線で運用される車両には、更新時に混雑対策としてロングシート化とデッキの撤去も実施された。なお、五能線などではキハ40形でデッキの仕切りがある車両とワンマン対応の仕切りが無い車両が混在する。
青い森鉄道線・八戸線・津軽線・大湊線(快速しもきた・その直通列車)で運用されているキハ40 516 - 518とキハ48 539・556 - 559はトイレが撤去され、器材室に変更されている。ドアには「器材室」「トイレは他の車両です」と表示されている。形式と番号の変更を伴う改造は、前述のキハ40形1000番台2両とジョイフルトレインへの改造にともなう8両のみであるが、ジョイフルトレイン(イベント用列車)への改造は多く、現在までに8タイプが登場している。
同社では余剰による淘汰が開始され、2006年4月までにキハ40形13両とキハ48形2両の計15両が余剰により廃車となっている。2002年に廃車されたキハ40 511は会津鉄道に譲渡の上で展望気動車「風覧望(ふうらんぼう)」(AT-400形401)に改造され、現時点に於ける本系列唯一の譲渡例である。
2011年3月11日の東日本大震災による津波により、キハ48 502・1512(石巻線女川駅停車中の1639D)[22]、キハ48 552・1544(気仙沼線松岩駅 - 最知駅間の2942D)が流出し大破、廃車になっている。
また、女川駅隣接の温泉施設「ゆぽっぽ」に1両(旧キハ40 519)が保存され、車内を畳敷きとした上で休憩室として利用されていたが、こちらも津波で流され大破している

 

 

 

 

 

 

 

肥後大津駅 JR九州豊肥本線

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肥後大津駅(ひごおおづえき)は熊本都市圏東端、熊本県菊池郡大津町大字室にある九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線の駅です。
熊本駅からの電化は当駅までで、普通列車の多くは当駅で折り返し大分方面にはディーゼルカーへの乗り換えとなります。かつては、特急「有明」が当駅まで1日1往復乗入れていた。駅の裏手は国道57号線のバイパス沿いに開発が進んでおり、周囲は賑やかです。

昔、加藤清正がこの地方を参勤交代で滋賀県の大津の港に向かう際の最初の宿場町として「大津一の宿」と命名したことから、隣の瀬田駅の同名駅と同じ東海道本線(琵琶湖線)にある大津駅との混同を防ぐため旧国名の「肥後」を冠して駅名とした。ただし滋賀県の大津は「おおつ」、当駅は「おおづ」です。

駅北側は官公庁等がある大津町の中心市街地、南側は田畑と住宅が混在しているが、国道57号大津バイパス沿いに新たな商業施設等が立ち並び発展し続けている。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。黒を基調とした大きな木造駅舎(北口)。南口の駅舎はモダンな鉄筋コンクリート。互いのホームは構内踏切で連絡しています。
北口と南口があり、北口はJR九州鉄道営業、南口は大津町シルバー人材センターが駅業務を行う業務委託駅である。

2012年12月1日よりSUGOCAが利用可能となったが、当駅に自動改札機の設置は行われず、ICの読み取り機のみ設置している。大分方面へは中判田駅まで通常利用できないが、最短経路で計算されるため途中下車せず通過することは可能。切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台あり、みどりの窓口は北口に設置されています。

北口待合室にはFRP製など複数の形の椅子が混在しています。北口・南口相互間は駅係員へ申告し通行券を授受することで通行可能となっています。

のりば
1・2・3 ■豊肥本線 (上り) 水前寺・熊本方面
(下り) 阿蘇・大分方面

熊本空港に比較的近い位置にあるため、当駅から分岐して新線を敷設し熊本空港へ乗入れようとする計画があった。2006年2月に熊本県が発表した計画では光の森駅あるいは三里木駅からの分岐という形になり、特に三里木駅からの分岐が最有力視されていたが、計画は頓挫。
2011年10月に「駅南口及び駅前広場」が供用開始された。なお、南口供用開始に併せ熊本県はタクシー会社3社への委託により、当駅・熊本空港間を結ぶ無料の空港ライナー(ジャンボタクシー及び小型タクシーの乗合い)による利用客の輸送を、試験運行として実施している。

1914年(大正3年)6月21日 - 鉄道院が開設。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2011年(平成23年)3月12日 - 特急「有明」の豊肥本線乗り入れ廃止により、当駅を発着する特急がなくなる。また同日に当駅発着の快速列車が新設される。
2011年(平成23年)10月1日 - 駅南口が開設。
2012年(平成24年)12月1日 - 交通系ICカードSUGOCA導入。なお、当駅以東(阿蘇方面)は竹中駅まで非対応である。

電報略号 オツ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗降人員
-統計年度- 3,862人/日
-2010年-
開業年月日 1914年(大正3年)6月21日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

宍道湖観光遊覧船「はくちょう」

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宍道湖遊覧船「はくちょう号」は、フランスの河川を走る遊覧船をイメージしてつくられた大型クルーズ船。真っ赤に染まる宍道湖、城下町松江の風情。旅の思い出をいっぱいのせた「はくちょう」はゆったり気分にさせてくれます。

宍道湖(しんじこ)は、島根県松江市、出雲市にまたがる湖。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。日本百景。外海とは隔たりが大きいものの主に境水道・中海・大橋川を介して接続があり、淡水湖ではなく汽水湖となっている。

大橋川から宍道湖に入り、爽快な水辺の風を浴びながら約1時間かけて宍道湖の各ポイント周遊。途中、しじみ漁や悲しい伝説が残る「嫁ヶ島」など宍道湖ならではの風光明媚な風景を望み、水の都ならではの貴重な船旅を堪能することが可能です。
松江港~大橋川~宍道湖~玉湯沖~大橋川~松江港
第一便の爽朝クルーズから最終のサンセットクルーズまで一日6~7便運航。予約に応じて環境学習を含めたエコクルーズも出航。最終のサンセットクルーズが大人気です。
最終便のみに実施される「サンセットクルージング」。
各季節により夕暮れ時にあわせ出航時間を調整。一番見頃のタイミングにて出発し、夕日のベストポイントに遊覧船でエスコート。


島根県東北部に位置する。面積は日本国内で7番目、島根県内では鳥取県境に位置する中海に次ぎ、2番目に大きな湖である。形状は東西に長い長方形。東西約17km、南北約6km、周囲長47km。湖の面積の約5割が水深5m以上であり、湖底はほぼ水平となっている。
底質は沿岸部の100~200mが砂や砂質泥、それ以外は大部分が泥である。透明度は1.0mと悪く富栄養化が進んでいる。湖内に位置する島は、嫁ヶ島だけである。
流入河川は、最大流量を誇る斐伊川など宍道湖の北、西、南から20数河川に及ぶが、主な流出河川は東端に位置し、中海へ流れる大橋川である。一級水系斐伊川の本流の一部である。
宍道湖の東北部に位置する佐陀川は天明時代に掘削された排水用の人工運河であり、直接日本海(恵曇港)と接続している。これによって島根半島東部は本土と切り離されている。

中海や県内の神西湖と同様、浅海の一部が堆積物により外海と絶縁されて、浅い湖となった潟湖(海跡湖)の一つ。湖が形成されたのは約1万年前だと推定されている。なお、主に西岸の埋め立てのため、1965年当時と比較して面積が10%程度減少している。
宍道湖・中海の地形は時代より変化し、縄文時代早期には海進期にあたる。同時期に宍道湖は大社湾と接続し古宍道湾となり、中海は美保湾と接続して古中海湾となり、沿岸には谷部が形成された[7]。後に古宍道湾は砂州の発達や河川の沖積により閉塞し、古中海湾も同様の作用で閉塞し、現在の地形が形成された。
縄文時代の宍道湖では石錘や骨角製の刺突具であるヤスが多く出土しており、網漁など内湾性漁業が行われていたと考えらている。釣針や銛(もり)の出土は少ない。
水質の悪化により1959年以降遊泳禁止となっている。1974年に中浦水門建設が始まり淡水化事業が始まったが、霞ヶ浦の水門建設によるアオコの発生被害(しじみなどの絶滅)報告を受けて反対運動が起こり、水門は撤去された。

1951年、松江市は宍道湖十景を選定した。内容は、松江城の雪、天倫寺の晩鐘、秋鹿の出雲富士、一畑寺の月、平田の愛宕山の秋色、宍道の宿の夕鴨、玉造灘の春霞、嫁ヶ島の残照、白潟沖のえびかがり、大橋の朝霧である。


松江城の天守閣(国の重要文化財)は、宍道湖から約500m北に位置する。天倫寺の鐘は国の重要文化財であり、表面の彫刻で有名。松江市街の西のはずれの湖岸にほど近い台地にある。出雲富士は大山の別名。一畑寺は出雲市にある一畑薬師の略名、眼病に効果があるといわれている。愛宕山は、出雲市にある斐伊川を見下ろす丘。えびかがりとは、かがり火を使って湖内のエビを採取する漁法の一種。大橋とは宍道湖が大橋川に流れ出してまもなくの位置にかかる橋。晴天時に蒸発した水蒸気が朝方霧になりやすいことによる。

はくちょうⅡ
全長:16.8m
定員:100人
総トン数:19t
全幅:4.5m
航海速力:8ノット
馬力:320馬力×2基
装備:水洗トイレ・冷暖房設備・カラオケ

はくちょう
全長:14.5m
定員:60人
総トン数:16t
全幅:4.5m
航海速力:8ノット
馬力:135馬力×2基
装備:水洗トイレ・冷暖房設備

上熊本駅 JR九州鹿児島本線

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上熊本駅は、熊本市の北の玄関口熊本県熊本市西区上熊本二丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)・熊本電気鉄道(熊本電鉄)の駅です。夏目漱石や小泉八雲らの文化人が降り立った駅で、駅前には漱石の銅像が建っていました。

上熊本駅には特急が停車しJR九州の鹿児島本線と熊本電鉄の菊池線が乗り入れ、接続駅となっている。菊池線は当駅が起点となっている。

JR上熊本駅は開業時の地名(飽田郡池田村)から「池田駅」と命名された。
池田村は早くから熊本市との合併話が進んでいたため、開業して10年で「熊本市の上部に位置する駅」として「上熊本駅」に改称されたが、池田村を含む飽託郡(飽田郡と託麻郡が1896年に合併して出来た郡)が熊本市に編入したのは結局1921年になってからだった。
なお、「池田駅」はそれから49年後の1950年に熊本電気鉄道の駅名として使用されることとなる。

駅前は、駅を中心に放射状に道路が延び、駅前に喫茶店などの飲食店が数軒ある。左手側はパチンコ店・倉庫・大型マンション・県立体育館を通り市街へ至る。
正面台地には住宅街、右手には商店・軽工業工場が並ぶ。駅裏手は熊本製粉の工場に面し、その背後には井芹川、花園地区の住宅街となっている。
駅近くには熊本県立総合体育館がある。駅から熊本城まで歩いて20分ほどで、散策の出発点となっている。また肥後54万石城主の戦国大名加藤清正の菩提寺でもある本妙寺の参道入口も近くにある。
駅前から熊本交通センターなどの熊本市中心部方面や、熊本駅を経由する環状線などバスが利用できる。バス停のナンバリングが施されている。

島式ホーム2面2線を持つ地上駅である。高架化工事のため、木造駅舎は撤去され、プレハブの仮駅で営業しています。かつては島式ホームに加え駅本屋側に単式ホーム1面1線があり、単式ホームの1番線が下り線、島式ホーム外側の3番線が上り線となっていた。島式ホーム内側の2番線は特急などの待避線として使用されていたが、2006年に廃止された。

2006年11月には、地下通路と3番線への渡り廊下が使用開始され、エレベーターが2機(駅舎から地下通路へ、通路からホームへ)設置された。その後2007年4月22日より、島式ホームのみとなった。さらに2011年5月24日より、九州新幹線の高架下にホームが移設され、対面式2面2線となった。 2012年12月1日よりSUGOCAが利用可能となるが、自動改札機の設置は行われず ICの読み取り機のみ設置している。

のりば
1 ■鹿児島本線(下り) 熊本・八代方面
2 ■鹿児島本線(上り) 玉名・大牟田方面


JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、切符売場には。券売機は2台、オープンカウンター式みどりの窓口が設置されています。改札口は仮駅ということもあってか有人改札です。

頭上には液晶式の発車案内が設置されています。トイレは、駅舎移転前は24時間使用できたが、移転後は改札内に設置されているため、終電後は使用できない。2006年夏頃にキヨスクのコンビニ型店舗「ミニコンビニ」が再オープンした。九州では一番人気のゆるキャラ、KUMAMONのグッズがたくさん売られていました。狭い待合室があり長椅子が設置されています。
鹿児島本線が高架化された後には、駅西口の設置計画もある。

JR上熊本駅の二代目駅舎(大正2年7月)改築は洋風建築の名作と評価が高いが九州新幹線全線開業に伴う在来線高架化により2005年(平成17年)に解体が予定され、地元でも保存運動が起こった。
その後、駅舎の一部を保存し、熊本市交通局上熊本駅前駅の駅舎として使用することが決定し2006年(平成18年)7月1日に移築が完成した。ただし、移築されたのは駅舎正面の表面壁部分だけである

1891年(明治24年)7月1日 - 九州鉄道の池田駅として開業。
1896年(明治29年)に旧制第五高等学校に赴任した夏目漱石が降り立った場所としても知られる。1996年(平成8年)に漱石来熊100年を記念し、藤崎八旛宮 - 上熊本駅前 - 崇城大学の区間が「わが輩通り」と命名された。
1901年(明治34年)1月1日 - 上熊本駅に改称。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道の国有化により国鉄の駅となる。
1911年(明治44年)10月1日 - 菊池軌道(現・熊本電気鉄道)により池田(国鉄・上熊本と別名称) - 広町 - 千反畑(現在の藤崎宮前)間が開業。
1913年(大正2年) - 2代目駅本屋が竣工。
1913年(大正2年)8月27日 - 菊池軌道、池田 - 藤崎宮前 - 隈府(後の「菊池」)が全通。
1923年(大正12年)8月2日 - 菊池軌道が駅名を「上熊本」の改称並び、上熊本 - 室園間を改軌・電化。
1935年(昭和10年)3月24日 - 熊本市電が駅前に乗り入れ、上熊本駅前電停開業。
1950年(昭和25年)10月1日 - 熊本電鉄、池田隧道経由で北熊本まで開通並びに「上熊本~北熊本~隈府」を菊池線となる。
1953年(昭和28年)6月26日 - 熊本大水害にて熊本電鉄上熊本 - 藤崎宮前(路上駅)間が不通。


1954年(昭和29年)6月1日 - 熊本電鉄上熊本 - 藤崎宮前(路上駅)間の旅客営業を廃止、同区間を熊本市交通局に譲渡。
1954年(昭和29年)10月1日 - 熊本市交通局が熊本電鉄から譲渡した路線を1435mmの標準軌に改軌、熊本市電坪井線として開業。同日、熊本電鉄は電鉄上熊本 - (坪井線上熊本駅前) - 熊本倉庫間(0.23km)を市電坪井線と三線軌条で共用し「上熊本倉庫線」として運用開始。
1966年(昭和41年)7月6日 - 熊本電鉄上熊本倉庫線、廃止。
1970年(昭和45年)5月1日 - 熊本市電坪井線、廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により鹿児島本線の駅は九州旅客鉄道(JR九州)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
1997年(平成9年)3月22日 - 貨物列車の設定廃止。
小野田セメント(現在の太平洋セメント)のサービスステーション及び施設への専用線が存在し、金田駅からセメント輸送貨物列車が運行されていた。このほか、構内の一部が熊本製粉の専用線になっていた。
1999年(平成11年)3月31日 - 駅レンタカー営業所営業終了。
2002年(平成14年)熊本市電の車両基地が移転(作業用自動車庫・電車留置線は交通局に残された)。
2005年(平成17年)4月1日 - JR貨物の駅(貨物の取扱)が廃止。
2006年(平成18年)1月21日 - 駅機能を仮駅舎に移設。
2011年(平成23年)3月12日 - 九州新幹線全線開業に伴うダイヤ改正により、特急が無停車となる。
2012年(平成24年)12月1日 - 交通系ICカードSUGOCA対応。
2016年(平成28年) - 鹿児島本線連続立体交差化完成予定。

電報略号 カミ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 2,314人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1891年(明治24年)7月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 

駅名標は夏目漱石の著作にちなんだイラストです。

 

 

消防車 (陸上自衛隊駐屯地用)

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陸上自衛隊駐屯地用消防車は、陸上自衛隊の装備。駐屯地業務隊が運用する。駐屯地に配備される大型消防車のほか、補給処、燃料支処には化学消防車が配備される。一般の消防車とほぼ同じ。

ナンバープレートが自衛隊用の6桁になっており、車体側面に書かれる「消防本部」などの表示が「陸上自衛隊」となっている。建造物火災の消火作業のほか、ヘリコプター発着の際には墜落事故発生時の初期消火、本格的な消火活動開始までの繋ぎを目的として必ず待機するよう規定されており、ヘリコプターの起こす風による砂ぼこりを防止する散水車としても利用される。備え付けのホースもあり、タンク内の水量が無くなってきた場合、近くの井戸や河川からの給水が可能。


駐屯地近隣で火災が発生した場合、要請があれば近傍派遣として出動できる。駐屯地イベントの際、ヘリの降着地や戦車の体験試乗会場で水撒きをしている。

UT13C形コンテナ

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UT13C形コンテナは、日本貨物鉄道(JR貨物)輸送用として籍を編入している20・24ft・内容積13m³の危険品輸送向け私有コンテナ(タンクコンテナ)である。

8067 - 8070
日陸所有、液化塩素専用。全高2591mm(規格外)、最大総重量24.0t(規格外)、自重7.15t。
南延岡駅 - 北九州貨物ターミナル駅間専用。コキ50000積載禁止。コキ100~105系積載禁止。


植木駅 JR九州)鹿児島本線

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植木駅(うえきえき)は九州では有名なスイカの産地、熊本県熊本市北区植木町鐙田にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅です。平日の朝上りに1本だけ、当駅どまりの列車が設定されています。

周辺には集落が点在しているが植木町の南方外れであり、旧町役場のある中心市街地からはかなりの距離があり賑わいはない場所です。

開業時の地名(山本郡植木町)が由来。
古くは「森のある台地上の里」を表す「上村森(うえきもり)」と読まれ、古代から交通の要所だったと言う。その「上村(うえき)」がいつしか「植木」に転化したものが今の地名になったと言われる。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。駅舎は平屋のコンクリート造駅舎です。互いのホームは跨線橋で連絡している。当駅で普通列車が特急列車などの待避をする事がある。廃止された山鹿温泉鉄道が分岐し当駅から熊本駅まで山鹿温泉鉄道の気動車が乗入れていた。


JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、日中は窓口も営業しています。POS端末・簡易型自動券売機が設置されています。広い待合室には。FRP製の椅子が設置されています。


のりば
1 ■鹿児島本線(下り) 熊本・八代方面
2・3 ■鹿児島本線(上り) 大牟田・鳥栖・博多方面


1891年(明治24年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が開設。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が国有化され帝国鉄道庁が所管。
1917年(大正7年)12月12日 - 鹿本鉄道(後の山鹿温泉鉄道)植木 - 肥後豊田間開業。
1957年(昭和32年)7月26日 - 水害被災により山鹿温泉鉄道植木 - 植木町間運転休止。
1965年(昭和40年)2月4日 - 山鹿温泉鉄道全線廃止。
1976年(昭和51年) - 貨物取扱休止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2012年(平成24年)12月1日 - 交通系ICカードSUGOCA対応。

電報略号 ウエ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
開業年月日 1891年(明治24年)7月1日
備考 業務委託駅

阿波富田駅 JR四国)牟岐線

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阿波富田駅(あわとみだえき)は、徳島県徳島市かちどき橋一丁目にある四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅です。

駅周辺は中心市街地で住宅やビルが立ち並んでいます。駅番号はM01。特急列車は「むろと」(2・5号)と「ホームエクスプレス阿南」(1号)が停車する。徳島市街地の南側に位置し国鉄末期に設置された簡易駅です。徳島県庁の最寄駅で通勤客の利用が多く徒歩約5分強。また、高校生の利用も多い。

単式1面1線のホームである。築堤上にホームがあり、ホーム下に近距離切符販売機がある。

かつては券売機は存在せず、列車内で切符を買う必要があったが、駅の特急停車や利用者の増加に伴って1996年頃、駅入口に設置された。ホーム待合所にはFPR製の椅子が設置されています。


1986年(昭和61年)11月1日:開業。当初は通年営業の臨時駅としての開業だった。ただ、戦前現在の位置付近に富田浦駅が存在していたことがあり、実質復活ともいえる。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
1996年(平成8年)頃:近距離切符販売機を設置。


電報略号 トミ
駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 429人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1986年(昭和61年)11月1日
備考 無人駅

 

西中島南方駅 大阪市営地下鉄御堂筋線

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西中島南方駅は、大阪市淀川区西中島一丁目にある大阪市営地下鉄御堂筋線の駅。駅番号はM14。

駅周辺は北に隣接する新大阪駅から市街地が連坦しており、オフィスビル、ホテル、マンションのオフィス街や、居酒屋・風俗店などの歓楽街が入り混じっているため、昼夜人通りが絶えることがない。

幅4.2mの相対式ホーム2面2線を有する高架駅。
軌道およびホームは国道423号(新御堂筋)の双方車線に挟まれる位置にあり、地上を走行する阪急京都本線を高架でまたいでいる(高さ地上約5m)。改札口は駅の南北両端の地上部にある。南口は新御堂筋の高架橋に挟まれた窮屈な立地です。


他の御堂筋線の高架駅は島式ホームなのに対して、当駅は唯一相対式ホームとなっている。これは、当初は他駅と同様に島式ホームにする予定だったが、周辺の区画整理事業の遅れにより、御堂筋線の建設が新御堂筋との同時施工から通常の用地買収方式での御堂筋線のみの単独施工に変更されたため、相対式ホームに設計が変更されたことによる。
トイレは1階改札内に設置されており、多機能トイレを併設している。
当駅は梅田管区駅に所属し、中津駅が管轄している。

のりば
西中島南方駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 M 御堂筋線 梅田・なんば・天王寺・なかもず方面
2 M 御堂筋線 新大阪・江坂・千里中央方面
ホームには待合室が設置されています。

全国で初めて2つの地名を合体させた駅名と言われている。駅名の決定にあたっては、周辺住民から旧自治体名(西成郡西中島町)に由来する広域地名である「西中島」と、西中島町の9大字のひとつで、阪急の駅と同名である「南方」の2つの案が提示されていたが、両案を合体させる形で決着した経緯がある。ただし、阪急の駅は「みなみかた」と清音であるのに対し、当駅は「にしなかじまみなみがた」と濁音である。異なる地名が合体する例は大阪市営地下鉄の駅名ではよく見られ、特に谷町線に多い。

当駅南側にある「西中島南方駅前」交差点の読み方は、「にしなかじまみなみがたえきまえ」ではなく、「か」の濁点がない「にしなかじまみなみかたえきまえ」である。


1964年(昭和39年)9月24日 - 1号線(現在の御堂筋線)の梅田 - 新大阪間開通とともに開業。
1974年(昭和49年)7月22日 - 分区により駅の所在地が東淀川区から淀川区に変更となる。

駅番号 M14
所属事業者 大阪市交通局(大阪市営地下鉄)
所属路線 M 御堂筋線
キロ程 3.6km(江坂起点)
千里中央から9.5km
駅構造 高架駅
ホーム 相対式 2面2線
乗降人員
-統計年度- 59,685人/日
-2014年-
開業年月日 1964年(昭和39年)9月24日
乗換 南方駅(阪急京都本線)

大野下駅 JR九州)鹿児島本線

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大野下駅(おおのしもえき)は、熊本県玉名市岱明町大野下にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅である。玉名市の南西部、旧・岱明町の西のはずれに位置している。

現在、駅隣接の貸し駐車場や駅裏の平地となっている部分は貨物などの操車場があった。駅の南500mにある大ソテツは樹齢1000年ともいわれる古木で、天然記念物に指定されています。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。互いのホームは跨線橋で連絡しています。駅舎は上り側ホームに面しており平屋建です。バリアフリー化ともない駅の規模は大幅に縮小されました。待合室は独立し、冷暖房完備となりました。2010年3月に解体された旧駅舎は、太平洋戦争中、米海軍空母艦載機による空襲の際に受けた機銃掃射痕が天井に残っていた。2010年3月に新駅舎の使用を開始した。新駅舎には常設展示として、旧駅舎の弾痕の付いた天井板の保存と解説が設けられている。


かつては九州交通企画が駅業務を行う業務委託駅であったが、地元の要望から完全無人駅化はされず2010年4月1日より地元自治体が委託管理する簡易委託駅となり、早朝夜間を除き地元民の駅係員が常駐している。簡易委託化に伴い、POS端末は撤去された。近距離きっぷの自動券売機が設置され常時購入可能だが、駅係員がいる時間帯は窓口から手書き切符の購入もできる。駅係員がいる時間帯は、駅内の畳敷き休憩室を利用出来る(駅係員不在時、休憩室は施錠され利用出来ない)。

のりば
1 ■鹿児島本線(上り) 大牟田・博多方面
2 ■鹿児島本線(下り) 熊本・八代方面

1928年(昭和3年)11月28日 - 鉄道省が開設。
1945年(昭和20年)8月12日 - 荒尾駅方面から鹿児島本線路線沿いに飛来して来たロッキードP38の機銃掃射を駅舎に受ける。当時、兄の切符を買いに来ていた国民学校初等科の女生徒が退避姿勢をとっていたものの、銃撃の跳弾を受け駅舎内で亡くなった。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。


2010年(平成22年)
3月13日 - 旧駅舎さよならイベント開催。
3月15日 - 新駅舎の使用を開始。
4月1日 - 駅業務を簡易委託に変更。
2012年(平成24年)12月1日 - 交通系ICカードSUGOCA対応。

電報略号 オノ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1928年(昭和3年)11月28日
備考 簡易委託駅

 

自転車 海上自衛隊

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ビーンズハウス・レトロデザインの折りたたみ自転車。6段変速装備でしかもLEDオートライトを搭載


サイドLEDビームランプ:小さくても明るさ十分。洒落たフォルムで白く明るいLEDランプを搭載。LEDランプは、発電機が組み込まれているハブダイナモ式。センサーが周囲の明るさを感知して、自動的に点灯・消灯する。
外装6段変速機:平坦路だけでなく、坂道など走路に合わせてスポーティな走りが可能。
フロントキャリヤ:オプションで便利なコンパクトバスケットも装着できる。
クッションサドル:乗り心地のいい、レトロデザインのクッションサドル


■主要装備
サイドLEDビームランプ&ハブダイナモ
坂道なども軽快に走れる/外装6段変速機
ブラックパーツがおしゃれ/フロントキャリヤ
レトロデザインのクッションサドル

品名 ビーンズハウス
品番 B-BH063B
寸法 フレームサイズ 280mm
全長 1,518mm
全幅 570mm
ハンドル高さ 971mm
サドル高さ 771-930mm
折りたたみ時 高さ:680mm
長さ:880mm
幅:480mm
車輌総重量(総重量) 15.5kg
フレーム 20インチ折りたたみフレーム
フレーム材質 アルミ
ハンドル 折りたたみハンドル
前フォーク スチール
ペダル 折りたたみペダル
ブレーキ 前:サイドプルブレーキ、後:ローラーブレーキ
変速機方式 外装6段
スタンド 一本スタンド
タイヤ 20×1.5HE
リム アルミ
付属品 ワイヤ錠(ダイヤル式)、締付けバンド(2本)
乗車適応身長 140cm以上
乗車適応身長/20型:140cm以上
サドル高さ(最低地上高~最高地上高)/20型:77.1~93cm

KC135R 空中給油・輸送機 アメリカ空軍 

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KC-135は、アメリカ空軍などが運用している空中給油・輸送機。愛称はストラトタンカー(Stratotanker:成層圏の油槽機という意味)AMXSは航空機整備中隊(USAF)。KC-135RはA型のエンジンをF108に換装し、燃料搭載量の増加とAPUの追加が行われた改修機

民間旅客機であるボーイング707の姉妹機として知られるが、実際には先行設計されていた輸送機型の367-80をベースにしつつ、開発中であったボーイング707の設計を反映させる形で造られた。このため、ボーイング707よりも就役は先である。


空中給油機としては主翼と胴体床下タンクに計88.452t(115,562ℓ)の燃料を搭載可能だが、主翼内の燃料の一部は給油に使用できず別枠で管理されている。給油装置はフライングブーム方式で、プローブアンドドローグ方式の機体に給油する際には給油ブームの先端にドローグ方式のアタッチメントを取り付ける必要があるが、後の改修によって両翼端にMk.32B ドローグポッドが追加された機体もある。給油オペレーター席は胴体後部にあり、うつ伏せになって操作を行う。


輸送機としては最大38tのペイロードを持つが、貨物室床面にローラー・パレット用の装備が施されていないため、湾岸戦争後、一部の機体にはC-5などに備えられている貨物ローラー・システムが追加されている。また、搭載燃料全量を自己消費することで長い滞空時間が得られるため、多くの機体がVIP輸送機(VC-135)や空中指揮管制機(EC-135)、テスト機(NKC/JKC-135)、SR-71偵察機用JP-7特殊燃料タンカー(KC-135Q)などに改造された。


1970年代末からKC-135A近代化計画がスタートした。まず、エンジンをJ57からスラストリバーサー付きのJT3D ターボファンエンジン(軍正式名称TF33-PW-102、推力8,160kg)に換装したKC-135Eが1982年1月以降空軍州兵、空軍予備役軍団に引き渡された(約160機)。
そして、もう1つの近代化計画として、エンジンをCFM56 ターボファンエンジン(軍正式名称:F108-CF-100、推力:9,980kg)に換装し、燃料搭載量の増加とAPUの追加が行われたKC-135Rは、1984年6月から戦略航空軍団への引き渡しが始まった。また、KC-135QのCFM換装型はKC-135Tと呼ばれ、R/T型あわせて389機改造された。リエンジンに合わせて主翼、脚などの強化とアビオニクス更新も行われた。E型とR型を比較すると、APUを装備するR型は地上支援施設の援助なしで自立運用ができるが、スラストリバーサーを装備するE型は着陸性能でR型に勝る。
1990年代後半には後継機計画であるKC-X(次期空中給油機選定計画)が開始され、迂余曲折の末2011年2月にKC-767をベースにしたKC-46Aが後継機に選定された。計画では179機を調達予定で、まず18機を2017年までに調達するとしている。

KC-135R
全長:41.53m
全高:12.7m
全幅:39.88m
最大離陸重量:146.285t
最大燃料搭載量:118,388ℓ(F-15E:8.9機、F-22:8機、F-35:11機が満タンになる)
用途:空中給油・輸送
分類:空中給油機・輸送機
製造者:ボーイング社
運用者
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(アメリカ空軍)
初飛行:1956年8月17日
生産数:803機
生産開始:1954年-1965年
運用開始:1957年
運用状況:現役
ユニットコスト:3,960万USドル

 

長洲駅 JR九州)鹿児島本線

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長洲駅(ながすえき)は、造船と金魚の養殖で知られる熊本県玉名郡長洲町大字高浜にあります。九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅です。長洲港フェリーターミナルの最寄り駅で対岸に見える島原半島へのフェリーが発着しています。


全ての定期旅客列車が停車し、このうち特急「有明」がすべて当駅始発・終着で運行されている。当駅から熊本駅までは2014年3月15日のダイヤ改正をもって定期運行の優等列車の設定がなくなった。

開業時の地名(玉名郡長洲町)が由来。開業以来地名が変わっていない。
「長洲」の歴史は古く、1160年(永暦元年)、扇崎より三人の開拓僧が移り住んだのが始まりといわれている。

当時は「長渚」「千鳥ヶ浜」「泣洲の浜」などと呼ばれていたが、その地形が「有明海に面した潮汐差の大きくて細長い洲」であったことから戦国時代頃には今の「長洲」になったと言われる。
元々は漁業中心の港町であったが、肥後藩主であった加藤清正や細川綱利による干拓事業によって今のような水田が作られた。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。橋上駅舎を持つ。

大きな金魚のオブジェが、それぞれのプラットホームに1台ずつ設置(計2台)されている。ホームの巨大金魚は、「りゅうちゃん」、「らんちゃん」と名前が付けられていて、写真のとおり毎年ゴールデンウィークには金魚すくい大会が開催されているようです。


JR九州鉄道営業が業務を行う業務委託駅。切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台、みどりの窓口が設置されています。 2012年12月1日よりSUGOCAが利用可能となるが、自動改札機の設置は行われず ICの読み取り機のみ設置している。キオスクが撤退した待合室にはFRP製の椅子が設置されています。

改札口の頭上には液晶式の発車案内があります。北口側には産交バス長洲駅前バス停がある。長洲町立清里小学校へは北側口を利用。南口側の広場には広い駐車場があり、産交バス長洲駅南口バス停がある。駐車場はかつては無料だったが現在は有料である。

なお、長洲港フェリーターミナルとは2.2km以上離れており、タクシーでも10分ほどを要する。

南口が地上駅時代は裏口でしたが、現在は駅前広場も整備され、どちらかといえばメイン的な位置づけのようです。


のりば
1 ■鹿児島本線(下り)玉名・熊本・八代方面
2・3 ■鹿児島本線(上り)大牟田・博多方面
          (下り)玉名・熊本・八代方面


1891年(明治24年)4月1日 - 九州鉄道(初代)により開設。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が国有化され帝国鉄道庁が所管。
1982年(昭和57年)9月 - 熊本県内初の橋上駅舎に改築。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2012年(平成24年)12月1日 - 読み取り機を設置し、交通系ICカードSUGOCA対応。

電報略号 カス
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面3線
開業年月日 1891年(明治24年)4月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有


南荒尾駅 JR九州)鹿児島本線

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南荒尾駅(みなみあらおえき)は市街の南外れ荒尾市と長洲町を結ぶ幹線道路沿いの熊本県荒尾市増永にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅です。

荒尾市が三井三池炭鉱で栄えた事で人口が爆発的に増え、当時人気のあった荒尾第二海水浴場へのアクセスとして増設された駅である(以前は干潟ではなく砂浜が広がっていた)。当時は地元のラジオで海水浴場の状況が伝えられるほど人出で賑わった。

周辺は田畑と住宅が混在する地域である。当駅のすぐ東を国道389号が南北に走っており、産交バス南荒尾駅前バス停も国道沿いにある。また、すぐ西側には有明海が広がっているが、間近で見るためには一旦国道へ出て北側か南側の踏切を横断しなければならない。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。プレハブ風簡易駅舎。互いのホームは跨線橋で連絡している。


簡易駅舎を有する無人駅であるが、まれに管理駅である荒尾駅から社員が派遣され特別改札を実施する事がある。近距離きっぷの自動券売機が設置されています。狭い待合室にはFRP製の椅子が設置されています。

のりば
(駅舎側)■鹿児島本線(下り) 熊本・八代方面
(反対側)■鹿児島本線(上り) 大牟田・博多方面
上り下り、それぞれホームの跨線橋付近に短い上屋と待合所が設置されています。
晴れた日には島原半島にそびえる雲仙岳を望むことができる。

1950年(昭和25年)5月1日 - 日本国有鉄道が開設。
1950年(昭和25年)5月1日 - 日本国有鉄道が開設。
1971年(昭和46年) - 無人化。
2012年(平成24年)12月1日 - 交通系ICカードSUGOCA対応。
1972年までは夏場、荒尾第二海水浴場へのアクセスとして賑わった。

電報略号 ミア
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1950年(昭和25年)5月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)

 

JR東海キヤ95系気動車

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キヤ95系気動車(キヤ95けいきどうしゃ)は、東海旅客鉄道(JR東海)が保有する事業用気動車。車両先頭に黄色の塗装を施し「ドクター東海」の愛称があります。
全車が日本車輌製造で製造され、3両編成2本(6両)が名古屋車両区に配置されています。


従来の検測車(193系50番台)の老朽化と、従来西日本旅客鉄道(JR西日本)から車両(キヤ191系)を借り入れ、別々の車両で行っていた軌道関係と電気関係の検測を効率良く行うため、1996年(平成8年)に登場しました。2005年(平成17年)4月には第2編成(DR2・従来の編成はDR1)が登場しました。

気動車であるため、JR東海管内の在来線は電化・非電化を問わず検測が可能である。JR東海の路線(城北線を含む)のほか、名古屋港線、塩浜線、伊勢鉄道、樽見鉄道、愛知環状鉄道、あおなみ線、天竜浜名湖鉄道内での検測も行います。


キハ75形を設計のベースとしており、エンジンはカミンズ社製C-DMF14HZB (350ps) を両先頭車に各2基搭載し、変速機は新潟コンバータ製C-DW14A(変速1段・直結2段)、ブレーキシステムは電気指令式空気ブレーキを採用している。これにより最高速度120km/hでの運転が可能となり、営業列車運転中の時間帯でも他列車の運転に影響を与えることなく検測列車の運転が可能となった。なお、DR2編成ではエンジンを電子燃料制御方式のN14ER (C-DMF14HZC 360ps/2100rpm) とし環境にも配慮されている。
冷房装置は従来気動車の機関直結式とは異なり、ディーゼル発電機を電源とする集約分散式が採用された。冷房装置自体は373系電車と同一のC-AU714形×2である。
また高い測定精度の確保、非営業列車のため高速化を必要としないなどの理由から振り子装置は搭載されておらず、曲線での速度制限が多いため、曲線が多く運転速度が低くなる中央本線では、エル特急「しなの」を待避することもある。


車両には架線との接触状態などを確認するための下枠交差式パンタグラフが1基搭載されている。パンタグラフの近くには確認用のドーム型の小窓が設置されている。
ATS-PTへの対応は改造によって行われた。


キヤ95-1/2
東海道本線上で東京向きの先頭車。架線測定など電力関係を担当しており、ここの上部にパンタグラフが搭載されている。もちろん非電化区間では架線測定はしない。第2編成にはパンタグラフは設置せずに落成しており、しばらくは電力関係の測定を実施しない予定です。

第1編成 (DR1) の登場から10年が経過し、DR2の増備にあたっては新たな技術の導入が行われた。旧来のDR1に対しても機器の更新が行われ、DR2と同等の検査精度を確保しました。
●継目板監視装置
●画像処理のデジタル化
●位置精度の向上
●軌道データ処理の精度向上
●レール遊間測定精度の向上
これらの新技術搭載にあたり、それぞれの編成において3か月間の試験・確認・調整を行い、2006年(平成18年)4月から2編成による検査体制となった。これ以降、各路線において1か月に2回(昼間・夜間各1回)の軌道検測が実施されています。

最高速度 120km/h
車両定員 非営業車両
最大寸法
(長・幅・高) 20,900*×2,800×3,560(mm)
*中間車は17,000mm
車体材質 ステンレス
機関出力 350ps(C-DMF14HZB)×2 DR1編成
360ps(C-DMF14HZC)×2 DR2編成
駆動装置 液体式
変速段 変速1段・直結2段
台車 軽量ボルスタレス台車
* C-DT60A形(動力)
* C-TR249形(付随)
コイルバネダイレクトマウント台車
* C-TR250形(付随中間)
制動方式 電気指令式ブレーキ
機関ブレーキ・コンバータブレーキ
保安装置 ATS-PT ATS-ST EB装置 TE装置
製造メーカー 日本車輌製造
備考 2M1T編成。中間車は付随車。

 

 

立江駅 JR四国)牟岐線

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立江駅は、徳島県小松島市立江町株木にある、四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅。駅番号はM08。

元那賀郡立江町の玄関口で四国八十八箇所の札所の最寄駅。

駅は町の中心から少し離れており、駅前はガランとしていて寂しい。最寄の県道から駅に至る道路も狭い。

 

駅舎は地上駅舎。ホームは島式1面2線で、構内踏切を通る。小さくシンプルな開業以来の駅舎を、リフォームして使用している。 昭和47年頃無人化された。

その後しばらく簡易委託駅だったが、現在の状況は不明。待合室にはプラスチック製の長椅子が設置されています。

ホーム中央に短い上屋が設置されています。
当駅から勝浦町方面へ四国中央鉄道が分岐する計画だった。


四国19番札所立江寺に近いことから、お遍路さんが野宿することもある。

1916年(大正5年)12月15日 - 阿南鉄道の駅として開業。


1936年(昭和11年)7月1日 - 阿南鉄道が国有化され、国鉄の駅となる。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。

電報略号 タツ
駅構造 地上駅


ホーム 1面2線
開業年月日 1916年(大正5年)12月15日
備考 無人駅

東京第2陸軍造兵廠:荒尾製造所

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東京第2陸軍造兵廠:荒尾製造所(火薬)

東京第2陸軍造兵廠 は11の製造所と一つの研究所から成っていた。関東大震災で大きな被害があった東京都板橋区の旧東京陸軍造兵廠での火薬の生産を群馬県岩鼻や京都宇治などに広げ満州事変以降は火薬消費量の増大化にともない、敷地にゆとりがあり、火薬原料の石炭酸がが入手しやすい大牟田に隣接した、当時荒尾に生産増量の為、最新設備を備えたことによります。

東西約5KM南北最大1KM、二造荒尾は1938年(昭和13年)測量開始。14年には旧荒尾町、有明孫、八幡孫の100万坪を軍用地として買収し八幡村果樹園集落は赤田方面に集団移転させられました。

正門、本村門、有明門、八幡門の五カ所の門を設置したあとは従業員以外の工廠内の立ち入りが厳しく規制されました。1945年終戦までの数年間、多くの人的・物的エネルギーが投入されました。

来る総力戦に備えて、当時の最新鋭の火薬工場が建設されました。荒尾駅から二造まで引込線があり、電車(当時、だるま電車と称されていた。)が 貨車を牽引していました。

敷地中央部の市屋から緑ヶ丘まで、最大幅22m~15mの幹線具用道路約4KMを当初に整備し、支線道路や循環道路が網の目状に設置されました。また、原材料や製品の移送用に万田駅から二造中央部間に専用鉄道が施設(全長5195m)されました。昭和17年4月の荒川市政施行頃には、第一工場のクロベン工場やシダ工場が次々と完成して、火薬や炸薬の生産が開始されました。当時作成された「工員補助名簿 荒尾製造所」には、技官・雇員等の2592人が記載されている。

第1工場:黄色薬工場(トリニトロフェノール、ピクリン酸) 2棟 
シダ室・(石炭酸を先ず硫酸で2,4-ジスルホン酸とし、次いで硝酸でニトロ化して トリニトロフェノールを製造)
クロベン室・(クロルベンゼンを混酸でニトロ化し2,4-ジニトロ化物をつくり、 苛性処理してジニトロフェノールをつくり、更に混酸でニトロ化し トリニトロフェノールを製造)

茶褐薬工場(トリニトロトルエン、TNT) 2棟 
 トルエンを混酸でニトロ化してトリニトロトルエンを製造(バッチ式2段ニトロ化、TNTは最終的には水洗だけて、精製されて いないので不純物が若干残っていたものと思われる。)

白色薬工場 1棟 (テトリル)
 (ジメチルアニリンを混酸でニトロ化してテトリルを製造)

第2工場:(炸薬型成)第1工場からのトリニトロフェノール(ピクリン酸)、トリニトロトルエン(TNT)、テトリルを爆弾用に型成

 黄色薬は最盛期(昭和19年)に全国生産量の約3割、茶褐薬も約2割、合計生産量の最大は300トン/月
 原料は大牟田の三井染料から供給されたようです。(当時、原料は石炭系で、 石炭酸やベンゼン・トルエンは八幡製鉄所からも供給されたものと思われる。

<当時の原料製法>
 石炭をコークス炉で乾留(蒸し焼き)すると、軽油とコールタールが副生します。
 軽油の主成分はベンゼン、トルエン、キシレンです。蒸留で簡単に分けられます。
 ベンゼンを塩素化してクロルベンゼンが得られます。
 コールタールを蒸留すると、カルボル油が得られます。これを苛性ソーダで抽出して石炭酸(フェノール)を得ます。フェノールは凝固点が約40℃なので、取り扱う際には加熱が必要です。
 <混酸>
 濃硫酸と濃硝酸の3:1の混合物。アンモニアを空気酸化して生じるNO2を硫酸に 吸収させて作る。荒尾ニ造では硫酸と硝酸を別々に受入れていたようである。

 荒尾二造では爆弾や地雷の火薬、さく薬を生産、陸軍小倉造兵廠へ鉄道で輸送し、爆弾や砲弾に充填され、火薬生産の一大拠点として終戦までその生産力を保持していました。また、製品の爆薬は小倉造兵廠に送られたものと思われます。

 沿革
 1938 測量開始 国家総動員法成立
 1939 5ヶ年計画の工場建設着工
 1940 月田の丘陵切り通し工事、国鉄市尾ガード工事、官舎建築
 1941 本事務所完成
 1942 万田駅~二造間の専用鉄道開通
 1942 第1工場(黄色薬工場、茶褐薬工場、白色薬工場)、第2工場(炸薬型成)   完成、操業
 1945 8/15 終戦

 土地 947,415坪  建物 523棟(23,500坪) 最盛期には約2500人が働いていたようです。本格的な苦笑を受けることなく、石炭酸を原料とする黄色火薬工場ではしょうわ19年の月間では全陸軍生産量の29.6%の占有を茶褐火薬(TNT火薬)工場でも全国生産量の18.6%を占有するほどの膨大な生産量でした。時間の都合で一番の遺構である「変電所跡」に立ち寄よれなかったのが残念。

陸軍兵器廠(りくぐんへいきしょう)は、大日本帝国陸軍の機関の一つ。兵器・弾薬・機材などの補給、要塞の備砲工事を担当した。

日清戦争後の軍備拡充に対処するため、1897年(明治30年)9月、従前の砲兵方面本署・支署を廃止し陸軍兵器廠が創設された。陸軍大臣隷下の本廠を東京、大阪、門司、台湾の4箇所に設置し、各管区内の師団司令部・台湾守備混成旅団司令部・要塞などの所在地に支廠を置き統括した。

1903年(明治36年)5月、四つの兵器本廠を東京の兵器本廠に統合し、支廠を師団司令部所在地、門司・台北に置き、要塞所在地の支廠は業務を要塞司令部に移管し廃止した。
1918年(大正7年)6月、師団司令部・台湾総督府・関東都督府に兵器部が設置されたことに伴い、師団司令部等所在地の支廠を廃止し6支廠とした。また、1932年(昭和7年)8月、要塞の備砲工事業務を陸軍築城部に移管。
1940年(昭和15年)4月1日、兵器廠と陸軍造兵廠を統合し新組織の陸軍兵器廠となり、新設の陸軍兵器本部の隷下となった。また同時に兵器支廠を兵器補給廠と改称した。

 

大牟田駅 JR九州 JR貨物 西鉄

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大牟田駅(おおむたえき)は三井三池炭田を背景とした工業都市大牟田の代表駅で福岡県大牟田市不知火町一丁目および久保田町二丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)・日本貨物鉄道(JR貨物)・西日本鉄道(西鉄)の駅です。JR側駅舎(駅東口)の前を国道208号が鹿児島本線に並行する形で通っています。駅周辺は大牟田の行政の中心です。

開業当時の地名(三池郡大牟田町)から。なお、「大牟田」は、近世以来の地名、「大きなムタ(湿地)」の意。

中部有明地域の主要都市である大牟田市の中心駅で、全列車が停車する。JR九州の鹿児島本線と、西鉄の天神大牟田線が乗り入れており、このうち西鉄天神大牟田線は当駅が終点です。また、両線がともに乗り入れるのは当駅のみです。
九州新幹線の全線開業に伴いJR九州における広域輸送の役割は新大牟田駅が担うことになったため、当駅に停車する列車は快速及び普通列車が主流となり、特急列車は朝の上り・夜の下りに運行される「有明」のみとなった。また博多駅方面からの快速及び普通列車、熊本駅方面からの快速及び普通列車の一部が当駅で折り返している。


JR九州と西鉄は連絡運輸取決めを結んでいて、当駅を乗換駅として鹿児島本線の荒尾駅 - 熊本駅間の各駅と、天神大牟田線の新栄町駅以外の特急停車駅および太宰府線太宰府駅間の相互区間の連絡乗車券が購入できる。その場合、JRと西鉄の区間を合わせた通算キロが101km以上になると、通常のJRの乗車券と同様に有効期間が2日間となり、途中下車も可能になる。切符の購入は両社とも上記区間の駅のみで可能で、JRのマルス券は西鉄の自動改札には対応していないが、西鉄の自動券売機で発行した切符はJRの自動改札に対応している。なお、この連絡運輸は、以前は鹿児島本線熊本駅 - 西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)間および三角線も対象であったが、2004年3月の九州新幹線部分開業に伴い、現在の区間に短縮された。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。


直営駅で、みどりの窓口が設置されている。駅自動放送が導入されている。東口切符売場に券売機は2台、改札口の改札機は3台。西口切符売場にはICカードチャージ機と1台の券売機。

のりば
1 ■鹿児島本線 (下り) 玉名・熊本・八代方面
1番ホームは幅が広く、跨線橋の両脇に通路があります。
2・3 ■鹿児島本線 (下り) 玉名・熊本・八代方面
            (上り)久留米・鳥栖・博多方面
ホームには前面に上屋がかかっています。


昭和31(1956)年3月改築のコンクリート駅舎の東口は一部2階建て構造となっています。オープン構造の入口。当初3階建てで設計されていたが、石炭産業の斜陽化に伴い平屋建てに設計変更されている。以前はJR・西鉄それぞれのホームへ入出場することができたが、現在ではJRの改札口のみが設けられ、西鉄ホームへの入出場はできません。
ケンタッキーフライドチキンやファミリーマート(JR大牟田駅店)、トランドール、千年の宴、大牟田駅うどん店などが入居している。また、かつてはキヨスクもあったが、現在は閉店し自動販売機コーナーとなっている。

西口は、JR・西鉄双方の改札口が別々に設置されている。改札内でのJR・西鉄相互の乗換はできない。ファミリーマート(大牟田駅西口店)がある。また、西鉄改札口ではレンタサイクルのサービスもある。唯一の販売業者であった大牟田駅弁が2007年12月廃業して以降、当駅での駅弁販売は行われていない。なお、廃業直前に販売されていた弁当は御料理とたいらギ寿しでした。

電報略号 オム
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗降人員
-統計年度- 5,867人/日
-2011年-
開業年月日 1891年(明治24年)4月1日
備考 直営駅
みどりの窓口 有


1891年(明治24年)4月1日 - 九州鉄道(初代)の駅として開業。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道国有化、国有鉄道(当時は帝国鉄道庁)の駅となる。
1911年(明治44年)2月 - 現在位置に移転。
1939年(昭和14年)7月1日 - 九州鉄道(2代目)大牟田線(後の西鉄天神大牟田線)の大牟田駅が開業。
1942年(昭和17年)9月22日 - 九州鉄道(2代目)が合同合併し西日本鉄道成立により同社大牟田線となる
1945年(昭和20年)7月26日 - 大牟田大空襲被災により駅本屋を含め大牟田駅構内が焼失。
1956年(昭和31年)3月 - 現4代目駅本屋完成。
1986年(昭和61年)11月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅は九州旅客鉄道(JR九州)・日本貨物鉄道(JR貨物)が継承。
1996年(平成8年)3月16日 - 専用線発着を除くコンテナ輸送を、貨物列車からトラック輸送に転換。鳥栖駅との間にトラック便運行開始。
2001年(平成13年)1月 - 三井化学専用鉄道で海上コンテナ輸送開始。
2006年(平成18年)3月18日 - トラック便の発着駅を鳥栖駅から鳥栖貨物ターミナル駅に変更。

JR貨物の駅は、コンテナ貨物と車扱貨物の取扱駅となっている。専用鉄道発着を除く、駅のフロント(大牟田オフレールステーション)で取り扱うコンテナ貨物については1996年(平成8年)3月よりトラック便による代行輸送となっている。車扱貨物と専用鉄道を発着するコンテナについては、2008年(平成20年)3月15日改正現在でも貨物列車による輸送となっている。
大牟田オフレールステーション
駅東口の南側には、当駅に属するコンテナ集配基地の大牟田オフレールステーション(略称:大牟田ORS)がある。貨物列車代替のトラック便が、ここと鳥栖貨物ターミナル駅との間に1日10往復運行されている。取扱貨物は、12フィートコンテナのみとなっている。なお、「オフレールステーション」の通称は2006年(平成18年)4月より使用されている。
以前は駅フロントでも車扱貨物の取扱があり、南四日市駅よりタンク車で輸送された、三菱ガス化学佐賀製造所向けの過酸化水素水の取扱があったが、2003年(平成15年)3月にタンクコンテナ化された際に着駅が変更された。

仮屋川操車場・専用鉄道
大牟田駅から1.5kmほど北側の大牟田市下白川町に、仮屋川操車場と呼ばれる当駅構内扱いの施設がある。ここは旧・三池鉄道の旭町駅で、ここから南へ向かい三井化学大牟田工場に至る同社の専用鉄道が分岐している。専用鉄道には、南延岡駅発送の液体塩素が専用タンク車で、黒崎駅発送の濃硝酸が専用コンテナで到着している。また、海上コンテナの取扱いもあり、輸出コンテナが北九州貨物ターミナル駅を経由して北九州港から発送され、空コンテナが同港から到着している。
これらを輸送する貨物列車は、北九州貨物ターミナル駅経由で南延岡駅との間に1日1往復運行されている。駅構内・操車場内の入換作業用のため、同駅にはDE10形ディーゼル機関車が常駐している。

西鉄が新車両を導入する際は、JR線を通って大牟田駅まで回送され、構内で西鉄線に移し変えられていたが、1999年(平成11年)に導入された6050形6157編成以降は門司港から筑紫車庫へ直接陸送するようになった。太平洋戦争末期の大牟田大空襲により駅舎が全焼、駅史も焼失したため、1945年(昭和20年)以前に大牟田駅に勤務していた一般職員は元より駅長助役の氏名不明者も多数存在する。1番線熊本方に存在するホーム屋根の基礎に使われている中古レールの刻印は、八幡製鉄所製皇紀表記の珍品。旧九州鉄道(西鉄)は旧国鉄(JR)へ間借りする形で大牟田延長をしたため、駅舎は東口・西口ともJRの保有となっている。また、銀水 - 大牟田間の鹿児島本線と天神大牟田線の並走区間も、踏切構造はJRの基準に合わせられている。

 

 

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