掃海隊群:第1掃海隊
掃海隊群は、日本の海上自衛隊自衛艦隊隷下の掃海部隊。主に第二次世界大戦時に設置された機雷の撤去を任務とする。司令部は横須賀基地(船越地区)におかれています。
第1掃海隊(呉基地) MSC-687 いずしま、MSC-688 あいしま、MSC-690 みやじま
掃海隊群は、国周辺海域における機雷の除去を主たる任務とし、司令部を横須賀に置き、4つの掃海隊(第1、第2、第51、第101掃海隊)と2隻の掃海母艦(うらが、ぶんご)及び掃海業務支援隊から編成されています。
なお、第1、第2掃海隊はそれぞれ掃海艇3隻、第51掃海隊は掃海艦3隻、第101掃海隊は掃海管制艇2隻を兵力としています。
海上自衛隊掃海部隊の歴史は古く、大東亜戦争末期に彼我両軍によって我が国周辺海域に敷設された機雷を処分して戦後復興の礎となった航路啓開業務に始まり、朝鮮戦争における元山沖・仁川沖などの掃海にも従事した保安庁時代を経て、海上自衛隊創設に際しては帝国海軍以来連綿と続く部隊としてその母体となりました。(航路啓開業務は79名の尊い犠牲のもと、昭和60年まで続き、約6000個の機雷を処分しました。)
また、近年では、自衛隊の国際平和協力活動のさきがけとなった湾岸戦争後のペルシャ湾に掃海部隊を派遣しての機雷処分(1991年)、トルコ北西部地震に際しての国際緊急援助物資の海上輸送(1999年)、対テロ戦に伴う被災民救援物資のパキスタンへの輸送(2001年)及びインド洋方面派遣部隊への水中処分員派出(2002年〜2010年)等、広範多岐にわたる任務を遂行しております。
1952年(昭和27年)8月1日、保安庁(警備隊)発足に伴い、航路啓開業務は海上保安庁から保安庁に移され、海上保安庁から掃海船等76隻が移管された。これを受けて、同年11月1日、第二幕僚監部(後の海上幕僚監部)並びに横須賀及び舞鶴地方総監部に航路啓開部が置かれると共に、両地方隊に航路啓開隊が新編され、その下に第1ないし第10掃海隊が新編された。昭和28年9月16日、地方隊の航路啓開隊は解隊されて、業務は新編された基地隊、基地警防隊等に移された。また、1953年(昭和28年)10月16日に地方総監部が改組されて航路啓開部が廃止される。
1954年(昭和29年)10月1日に、長官直轄の部隊として第1掃海隊群(司令部、掃海艦「桑栄丸」、掃海艇「ゆうちどり」、第4掃海隊、第7掃海隊)が新編された。この部隊は第2次世界大戦中に敷設された機雷の掃海業務が一段落ついた1969年(昭和44年)3月15日に、長官直轄から自衛艦隊に編入された。
1961年(昭和36年)9月1日に第2掃海隊群(司令部、護衛艦「きり」、掃海艦「桑栄」、敷設艦「つがる」、敷設挺「えりも」、第32掃海隊、第33掃海隊、第34掃海隊)が新編され、自衛艦隊に編入される。
1977年(昭和52年)4月から1978年(昭和55年)3月までのポスト4次防「基盤的防衛力構想」では、東西日本海域にそれぞれ1個ずつの、合計2個掃海隊群を維持するものとされ、それと同時に地方隊の任務達成上欠くことができない部隊として、各地方隊にも掃海隊が置かれる。
1982年(昭和57年)度末には、2個掃海隊群及び地方隊に計14個掃海隊を保有していた。03中期防衛力整備計画(平成3年度-平成7年度)では、ペルシャ湾派遣掃海部隊の成果を反映した新型の07MSC「すがしま」型(510トン)2隻等の建造が計画された。
2000年(平成12年)3月に、08中期防衛力整備計画(平成8年度-平成13年度)を受けて、第1・第2掃海隊群を合併して1個掃海隊群とし、併せて掃海隊群の司令部機能を充実させるという機雷戦部隊にとって大きな改編となった。2004年(平成16年)3月に第3掃海隊が廃止になり、以後4個掃海隊編制となる。
掃海部隊は、旧日本海軍解体後も特別に存続が許され、苛酷な環境の下で黙々と掃海作業に従事し、朝鮮戦争では特別掃海隊を派遣し、また保安庁警備隊時代も相当数の掃海艇を擁してきた沿革があり、世界中の海軍の中でも海上自衛隊の実力が特に高い分野であるとされている。
掃海隊群
掃海隊群司令部(横須賀基地船越地区)
直轄艦艇
うらが(横須賀基地)
ぶんご(呉基地)
第1掃海隊(呉基地) MSC-687 いずしま、MSC-688 あいしま、MSC-690 みやじま
第2掃海隊(佐世保基地) MSC-601 ひらしま、MSC-602 やくしま、MSC-603たかしま
第51掃海隊(横須賀基地) MSO-301 やえやま、MSO-302 つしま、MSO-303 はちじょう
第101掃海隊(呉基地) MCL-727 さくしま、MCL-728 いえしま、自走式掃海具SAM1〜4号
掃海業務支援隊(横須賀基地船越地区)
呉掃海業務支援分遣隊(呉基地)