Quantcast
Channel: 観光列車から! 日々利用の乗り物まで
Viewing all 3250 articles
Browse latest View live

森山駅 /島原鉄道島原鉄道線

$
0
0

森山駅は、干拓事業の進展前この付近から諫早湾が望めた長崎県諫早市森山町下井牟田に所在いたします。島原鉄道島原鉄道線の駅です。 2005年3月に北高来郡森山町が諫早市に合併する前は、下り列車が旧諫早市と森山町の市町村境界を越え、森山町に入って直ぐの場所に位置した。 当駅に急行は停車せず、構内を低速で通過していく。

駅は江戸時代に拓かれた諫早湾の干拓地の水田地帯、干拓が行われる前に諫早湾に突出していた赤崎の岬の稜線が途切れる辺りに位置している。 駅の場所は、県道124号と国道57号の合流地点の北側でもある。 県道124号は、丘陵地帯の盆地に形成された古い集落である上井牟田(かみいむた)及び、集落の北に在る、同集落の人々によって拓かれた下井牟田(しもいむた)集落を南北に貫通している。 上井牟田と下井牟田は諫早市に合併する前の森山町の前身であった井牟田村に相当し、井牟田地区の住民が諫早市の中心方面に出る上で重要な駅である。下井牟田の集落の家並みは、ほぼ国道57号の南側を北限として絶えるが、国道の北側と駅舎の間の空間に若干の民家と企業の営業所、商店等が密集している。合併で消滅するまでは、駅周辺では県道124号が北高来郡森山町と諫早市の境界を成していた。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。二つのホームは干拓の里方の構内踏切(遮断機、警報機共になし)によって結ばれています。駅舎は無いが、待合所が南側のホーム上、干拓の里方に設置されており、この待合所の干拓の里方の脇が、駅の出入口となっている。駅前広場も未舗装ですが十分スペースがあります。無人駅。


1911年(明治44年)6月20日 - 開業。
 1964年(昭和39年)6月1日 - 業務委託化。
 1968年(昭和43年)3月31日 - 貨物営業廃止。
 1968年(昭和43年)6月15日 - 無人化。


所属路線■島原鉄道線
キロ程:7.5km(諫早起点)
駅構造:地上駅
ホーム:2面2線
乗降人員: -統計年度-
122人/日 -2005年度-(島原鉄道線内44駅中第22位)
開業年月日:1911年(明治44年)6月20日


 


小野本町駅 /島原鉄道島原鉄道線

$
0
0

小野本町駅は、長崎県諫早市宗方町に所在する島原鉄道島原鉄道線の駅である。駅のすぐ南を国道57号が東西に走る。駅の北側には田圃が広がっているローカルな雰囲気の駅です。駅前広場には十分な広さがあります。

線路の南側に単式ホーム1面1線を有する地上駅。待合所には郷土芸能:小野島新地節が描かれています。ホームの中ほど、南側に接して待合所が置かれており、この待合所の幸方が駅の出入口となっている。待合所にはプラスチック製の長椅子が設置されています。かつては交換設備や駅舎を有していました。無人駅。

右の空地に下りホームがあったらしいのですが、痕跡は見られません。

「新地仕舞うてから、ないどもして遊ぼう・・・」と唄われる小野島新地節は小野島町に伝承する新地節は沢村セツ女子の創作。この唄の源流は肥後熊本その他にも現存する。女子は明治18年、小野島村に出生し,生涯を和裁師範など子女教育に尽力された。大正後期、女子はその元唄をリズミカルに編曲し、さらに干拓地独特の板鍬持ちとかがり担いと二人一組に振り付けて、今日の小野島新地節踊りなった。女子は和裁の愛弟子など20人余の小野島女子青年団に踊りを伝授し、時至り大正13年、小学校の学校令の定めるところ、小野村の数校が統合された小野尋常高等小学校の開校祝賀会で初披露されたのが小野島新地節の始まりと伝えられている。

1911年(明治44年)6月20日 - 小野村駅(おのむらえき)として開業。
1964年(昭和39年)1月7日 - 小野本町駅に改称。
1968年(昭和43年)3月1日 - 貨物営業廃止。

所属路線 ■島原鉄道線
キロ程 4.8km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗降人員
-統計年度- 116人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第26位)
開業年月日 1911年(明治44年)6月20日

掃海隊群:第1掃海隊

$
0
0

掃海隊群:第1掃海隊

掃海隊群は、日本の海上自衛隊自衛艦隊隷下の掃海部隊。主に第二次世界大戦時に設置された機雷の撤去を任務とする。司令部は横須賀基地(船越地区)におかれています。

 

第1掃海隊(呉基地) MSC-687 いずしま、MSC-688 あいしま、MSC-690 みやじま

 

 掃海隊群は、国周辺海域における機雷の除去を主たる任務とし、司令部を横須賀に置き、4つの掃海隊(第1、第2、第51、第101掃海隊)と2隻の掃海母艦(うらが、ぶんご)及び掃海業務支援隊から編成されています。

  なお、第1、第2掃海隊はそれぞれ掃海艇3隻、第51掃海隊は掃海艦3隻、第101掃海隊は掃海管制艇2隻を兵力としています。

  海上自衛隊掃海部隊の歴史は古く、大東亜戦争末期に彼我両軍によって我が国周辺海域に敷設された機雷を処分して戦後復興の礎となった航路啓開業務に始まり、朝鮮戦争における元山沖・仁川沖などの掃海にも従事した保安庁時代を経て、海上自衛隊創設に際しては帝国海軍以来連綿と続く部隊としてその母体となりました。(航路啓開業務は79名の尊い犠牲のもと、昭和60年まで続き、約6000個の機雷を処分しました。)

  また、近年では、自衛隊の国際平和協力活動のさきがけとなった湾岸戦争後のペルシャ湾に掃海部隊を派遣しての機雷処分(1991年)、トルコ北西部地震に際しての国際緊急援助物資の海上輸送(1999年)、対テロ戦に伴う被災民救援物資のパキスタンへの輸送(2001年)及びインド洋方面派遣部隊への水中処分員派出(2002年〜2010年)等、広範多岐にわたる任務を遂行しております。

 

1952年(昭和27年)8月1日、保安庁(警備隊)発足に伴い、航路啓開業務は海上保安庁から保安庁に移され、海上保安庁から掃海船等76隻が移管された。これを受けて、同年11月1日、第二幕僚監部(後の海上幕僚監部)並びに横須賀及び舞鶴地方総監部に航路啓開部が置かれると共に、両地方隊に航路啓開隊が新編され、その下に第1ないし第10掃海隊が新編された。昭和28年9月16日、地方隊の航路啓開隊は解隊されて、業務は新編された基地隊、基地警防隊等に移された。また、1953年(昭和28年)10月16日に地方総監部が改組されて航路啓開部が廃止される。

1954年(昭和29年)10月1日に、長官直轄の部隊として第1掃海隊群(司令部、掃海艦「桑栄丸」、掃海艇「ゆうちどり」、第4掃海隊、第7掃海隊)が新編された。この部隊は第2次世界大戦中に敷設された機雷の掃海業務が一段落ついた1969年(昭和44年)3月15日に、長官直轄から自衛艦隊に編入された。

1961年(昭和36年)9月1日に第2掃海隊群(司令部、護衛艦「きり」、掃海艦「桑栄」、敷設艦「つがる」、敷設挺「えりも」、第32掃海隊、第33掃海隊、第34掃海隊)が新編され、自衛艦隊に編入される。

1977年(昭和52年)4月から1978年(昭和55年)3月までのポスト4次防「基盤的防衛力構想」では、東西日本海域にそれぞれ1個ずつの、合計2個掃海隊群を維持するものとされ、それと同時に地方隊の任務達成上欠くことができない部隊として、各地方隊にも掃海隊が置かれる。

1982年(昭和57年)度末には、2個掃海隊群及び地方隊に計14個掃海隊を保有していた。03中期防衛力整備計画(平成3年度-平成7年度)では、ペルシャ湾派遣掃海部隊の成果を反映した新型の07MSC「すがしま」型(510トン)2隻等の建造が計画された。

2000年(平成12年)3月に、08中期防衛力整備計画(平成8年度-平成13年度)を受けて、第1・第2掃海隊群を合併して1個掃海隊群とし、併せて掃海隊群の司令部機能を充実させるという機雷戦部隊にとって大きな改編となった。2004年(平成16年)3月に第3掃海隊が廃止になり、以後4個掃海隊編制となる。

掃海部隊は、旧日本海軍解体後も特別に存続が許され、苛酷な環境の下で黙々と掃海作業に従事し、朝鮮戦争では特別掃海隊を派遣し、また保安庁警備隊時代も相当数の掃海艇を擁してきた沿革があり、世界中の海軍の中でも海上自衛隊の実力が特に高い分野であるとされている。

 

 

掃海隊群

掃海隊群司令部(横須賀基地船越地区)

直轄艦艇

うらが(横須賀基地)

ぶんご(呉基地)

第1掃海隊(呉基地) MSC-687 いずしま、MSC-688 あいしま、MSC-690 みやじま

第2掃海隊(佐世保基地) MSC-601 ひらしま、MSC-602 やくしま、MSC-603たかしま

第51掃海隊(横須賀基地) MSO-301 やえやま、MSO-302 つしま、MSO-303 はちじょう

第101掃海隊(呉基地) MCL-727 さくしま、MCL-728 いえしま、自走式掃海具SAM1〜4号

掃海業務支援隊(横須賀基地船越地区)

呉掃海業務支援分遣隊(呉基地)

 

愛野駅 /島原鉄道島原鉄道線

$
0
0

愛野駅の駅名「愛野」は、南高来郡愛津村・野井村が1889年(明治22年)に合併して同郡愛野村となった際の合成地名です。長崎県雲仙市愛野町野井にある島原鉄道島原鉄道線の駅で急行が停車する駅です。戦前には当駅を起点として半島西岸の小浜までの鉄道路線が運行されていました。

愛野の中心部。駅の南側に町並みが広がっている。駅前には温泉軽便鉄道の愛野村駅があったことを示す記念碑および、「ほほえみの像」が立てられている。

愛野駅から吾妻駅までのきっぷは「愛しの吾が妻(いとしのわがつま)」に通じるとして縁起切符になっています。


相対式ホーム2面2線と側線1本を有する地上駅。南側のホームに面して天辺に十字架(2007年現在では横棒が外れて避雷針状になっているが)を持つ教会風の駅舎が置かれており、駅舎には駅事務室および待合所、トイレ(水洗式)が設けられている。また、北側のホームにも待合所が設置されている。有人駅であり、駅舎内の出札窓口において切符等の委託販売が行われています。

待合室にはバッチリ広告が入った木製長椅子が設置されています。ホーム上の待合所の長椅子は広告無しのFRP製です。貨物扱いしていた時代の側線跡も残っています。

1911年(明治44年)6月20日 - 島原鉄道により愛野村駅(あいのむらえき)として開業。
1923年(大正12年)5月5日 - 温泉軽便鉄道愛野村駅業務開始。
1924年(大正13年)5月31日 - 温泉軽便鉄道が温泉鉄道へ改称。
1933年(昭和8年)10月2日 - 温泉鉄道から雲仙鉄道へ譲渡。
1938年(昭和13年)8月16日 - 雲仙鉄道廃止。
1960年(昭和35年)11月5日 - 愛野駅へ改称。
1971年(昭和46年)8月1日 - 業務委託化。
1984年(昭和59年)9月30日 - 貨物営業廃止。
2010年(平成22年)3月14日 - 駅舎が塗り替えられ新しいデザインになる

所属路線 ■島原鉄道線
キロ程 12.4km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 347人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第9位)
開業年月日 1911年(明治44年)6月20日

 

 

 

諫早東高校前駅 /島原鉄道島原鉄道線

$
0
0

諫早東高校前駅、周辺の国道57号沿いにはレストランや大規模な衣料品店などが立地する長崎県諫早市森山町杉谷にあります。駅の東側は主に田圃が広がっていますが、駅の西側には住宅も多い。駅名にある長崎県立諫早東高等学校は、駅の西、数百メートル程の場所に位置し、当駅も朝と夕方は登下校の高校生で混雑します。島原鉄道島原鉄道線の駅。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。線路の西側にホームが置かれている。駅舎は無いが、ホーム上に簡単な待合所と飲み物の自動販売機2台が設置されている。ホームの手すりの支柱は頑丈そうなコンクリート製。ホームの釜ノ鼻方が緩やかな坂となっており、駅への出入りにはこれを使う。

待合所には長椅子が1脚設置。駅の釜ノ鼻方には第56号踏切があるため、駅の東側に出ることも可能である。自転車置き場は無いため自転車は乱雑な停められてます。無人駅。

1984年(昭和59年)11月12日 開業。

所属路線 ■島原鉄道線
キロ程 11.4km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗降人員
-統計年度- 463人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第5位)
開業年月日 1984年(昭和59年)11月12日

釜ノ鼻駅 /島原鉄道島原鉄道線

$
0
0

釜ノ鼻駅は、長崎県諫早市森山町本村に所在する島原鉄道島原鉄道線の駅である。駅の北側は田圃が広がる中に住宅が見え、駅の南側にも住宅が多い。駅前広場が舗装されスペースも十分あります。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。線路の南側にホームが置かれる。ホームの中ほど、南側に接して待合所がおかれており、この待合所に駅の出入口が設けられている。待合所には木製の長椅子が一脚設置されており本村浮立と白塔掛打の様子がペントされていますいます。無人駅。駅前には屋根なしの駐輪場がある。

本村浮立と白塔掛打についてですが浮立は、豊作祈願、家内繁盛、その他祝い事のために奉納されます。本村浮立は、森山町内に伝承されている郷土芸能の中でも代表的なもので、本村地区を中心に他の地区でも継承されています。また、掛打は佐賀地方で面浮立といい、諫早地方では、腰鼓を首からつるし、腹で安定させて打つことから掛打と名付けられ、白塔地区の人々によって大切に継承されています。


1935年(昭和10年)9月1日 - 開業。
 1962年(昭和37年)3月1日 - 業務委託化。
 1964年(昭和39年)3月31日 - 貨物営業廃止。
 1964年(昭和39年)5月1日 - 無人化。


所属事業者:島原鉄道
所属路線■島原鉄道線
キロ程:9.6km(諫早起点)
駅構造:地上駅
ホーム:1面1線
乗降人員: -統計年度-
75人/日 -2005年度-(島原鉄道線内44駅中第32位)
開業年月日:1935年(昭和10年)9月1日

 


 

YF1029号11t型 海上自衛隊

$
0
0

YF1029号11t型(交通船)海上自衛隊


基地港務隊、教育隊、基地隊などに所属し第1種に分類される支援船で、艦艇や基地間の人員輸送支援を行います。

呉支援船係船堀にて

●基準排水量:11t
●主要寸法:全長13.5m×幅3.8m×深さ1.7m×喫水0.6m
●エンジン:ディーゼル2軸 出力:360PS
●速力:約18kt
●船型:
●乗員:
●船質:FRP

船記号:YF1029 交通船
竣工:S56.03.16
造船所:日本飛行機杉田
所属:呉基地港務隊
定係港:呉

吾妻駅 /島原鉄道島原鉄道線

$
0
0

吾妻駅は、長崎県雲仙市吾妻町牛口に所在する。吾妻の中心部で、住宅が多い。駅前に商店もある。雲仙市役所(旧・吾妻町役場)の最寄り駅となっている。所属路線は島原鉄道島原鉄道線。急行が停車する駅です。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。長方形ののっぺりとした木造駅舎です。二つのホームは互い違いに設置されており、南側のホームが古部方、北側のホームが阿母崎方にずれている。二つのホームは構内中ほどの構内踏切(遮断機・警報機なし)で結ばれている。駅前には大きな自転車置場が設置されています。


南側のホームの阿母崎方、南側に接して駅舎が、北側のホームの中程には待合所が置かれている。駅舎は一階建てで、内部にはトイレ(水洗式)、待合所、駅事務室がある。駅舎のほか、北側の待合所の古部方から駅の外に出る階段も設置されており、駅の出入口となっている。待合室には広告入りの木製長椅子が設置されています。
有人駅。駅舎内の窓口で乗車券等の販売を行っている。窓口営業時間は、7時から18時までです。

1912年(大正元年)10月10日 - 山田村駅(やまだむらえき)として開業。
1960年(昭和35年)11月5日 - 吾妻駅に改称。
1966年(昭和41年)2月1日 - 業務委託化。
1970年(昭和45年)6月30日 - 貨物営業廃止。

所属事業者 島原鉄道
所属路線 ■島原鉄道線
キロ程 16.6km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 401人/日
-2005年度-(2005年度、島原鉄道線内44駅中第8位)
開業年月日 1912年(大正元年)10月10日

 

 


C12 167国鉄C12形蒸気機関車 若桜駅構内

$
0
0

C12 167:鳥取県八頭郡若桜町「若桜鉄道・若桜駅構内」


(2007年8月7日まで、兵庫県多可郡多可町加美区「多可町加美地域局」(旧加美町役場)に保存されていた)2007年若桜にやってきて手作業で動態復活されました。

若桜駅構内には給水塔、貯炭台、アッシュピットなど蒸気機関車現役当時の設備が残っています。

国鉄C12形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した過熱式のタンク式蒸気機関車です。軸重制限のある簡易線規格路線用の小型軽量な機関車として設計され、本形式からテンダー式のC56形が派生しました。

鉄道省(国鉄)向けとしては1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)まで、および1947年(昭和22年)に282両が製造されています。製造メーカーは川崎車輛、汽車製造会社、日立製作所、日本車輌製造、三菱重工業の5社である。火室は深く設計され焚火しやすく、38号機以降は、アーチ管を増設して伝熱面積を増加し蒸発量を増やす改良が行なわれています。


このほか鉄道省以外に納入され、戦時買収などにより鉄道省に引き継がれ、C12形に編入された同形車が11両 (C12 265 - 275) あるため、ラストナンバーはC12 293となっています。基本的にはデフレクターを装備していないが、C11形と同型のデフレクターを装備した車両も少数だが存在しました。

鉄道省以外向けでは小型軽量で軸重が軽いC12形は、国鉄規格の車幅が特認を要するものの地方私鉄や産業用鉄道向けにも最適で、同形機が外地を含む全国各地の私鉄や専用鉄道などに37両が製造・供給されている。このうち11両は、台湾総督府鉄道および樺太庁鉄道向けに製造されたものである。鉄道省向けの製造は1940年で一段落しているが、民間向けの製造はそれ以後に行なわれたものが多い。

 

全長:11350mm
全高:3900mm
軌間:1067mm
車軸配置:2-6-2 (1C1)
動輪直径:1400mm
弁装置:ワルシャート式
シリンダー(直径×行程):400mm×610mm
ボイラー圧力:14.0kg/cm²
火格子面積:1.30m²
全伝熱面積:73.3m²
過熱伝熱面積:19.8m²
全蒸発伝熱面積:53.5m²
煙管蒸発伝熱面積:46.1m²
火室蒸発伝熱面積:7.4m²
ボイラー水容量:2.9m³
大煙管(直径×長サ×数):127mm×3200mm×16本
小煙管(直径×長サ×数):45mm×3200mm×68本
機関車運転整備重量:50.05t
機関車空車重量:39.54t
機関車動輪上重量:32.00t(運転整備時)
機関車動輪軸重(最大):10.90t(第3動輪上)
水タンク容量:5.5m³
燃料積載量:1.50t
機関車性能
シリンダ引張力:
粘着引張力:
動輪周馬力:505ps

6月28日(金)のつぶやき

植松駅 /本四備讃線(瀬戸大橋線)

$
0
0

植松駅は、宇野線の彦崎駅とほど近く(1キロ弱)、当初予定がなかったところ、地元からの要望により設置された駅です。周辺は住宅、店舗が多いですが、飲食店は少ない岡山県岡山市南区植松にある。西日本旅客鉄道(JR西日本)本四備讃線(瀬戸大橋線)の駅である。駅前には小さなロータリーがあり、タクシーの営業所もあります。

裏手側は交通量の多い公道に面します。旧所在地は児島郡灘崎町で、平成17(2005)年3月に岡山市と合併しました。

相対式ホーム2面2線を有する駅舎のない高架ホームだけの駅です。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。
児島駅管理の無人駅ですが、吹きさらしの駅入り口には簡易式の自動改札機と近距離切符の自動券売機があります。ICOCA利用可能駅。駅前には小さな自転車置き場があります。


当駅はカーブ上にあるため、列車とホームの間に隙間ができる。またホームのかさ上げ工事もされていないので、乗降の際には足下に注意する必要があります。ホームの上屋は長いですが待合室も椅子もありません。元々設置計画のなかった駅であるため、沿線他駅よりホームが狭い。下り方にはすぐにトンネルがあります。

植松駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■瀬戸大橋線 上り 茶屋町・岡山方面
2 ■瀬戸大橋線 下り 児島・高松・丸亀方面

 

1988年(昭和63年)3月20日 - 本四備讃線開業に伴い設置。計画段階では、宇野線彦崎駅に近いという理由で、植松駅の予定はなかったが、地元からの要望により設置されることとなる。
2007年(平成19年)
7月15日 - ICOCA対応の簡易型自動改札機を設置。
9月1日 - ICOCA利用開始。

電報略号 ウマ
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 127人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1988年(昭和63年)3月20日
備考 無人駅(自動券売機 有)

快速「マリンライナー」

$
0
0

マリンライナー は、JR西日本による一般公募によって決定された。西日本旅客鉄道(JR西日本)と四国旅客鉄道(JR四国)が岡山駅 - 高松駅間を宇野線・本四備讃線・予讃線(瀬戸大橋線)経由で共同運行する快速列車です。

快速「マリンライナー」は、1988年4月10日に瀬戸大橋の完成に伴い、本四備讃線が開通したことにより運転を開始。これは、宇野線を運転していた快速「備讃ライナー」と宇高連絡船の普通便と急行便(ホーバー便)の代替といえます。
JRグループの快速・普通列車は1990年代から2000年代前半にかけて順次車内全面禁煙化が図られたが、当列車は快速「備讃ライナー」として運行を開始した際から全車禁煙となっており、当時としては思い切った施策でした。普通列車の車内が原則として全面禁煙となったのはJR西日本では1993年(岡山・広島支社管内では1992年)、JR四国では1994年である。ただし、JR四国管内の電車や1000形気動車は導入当初から車内全面禁煙です。

岡山駅 - 高松駅間71.8kmを52分 - 63分で運行している。全列車がこの区間でのみ運転されており、他区間への乗り入れや区間列車は設定されていません。「マリンライナー」は宇多津駅構内の短絡線「宇多津通過線」を経由するため、同駅は通過扱いとなります。運転開始以来(前身の「備讃ライナー」時代も含め)、列車番号は3120M+号数だったが、増発により3190番台まで達したため、2008年3月15日のダイヤ改正で3100M+号数に変更されています。基本的に1時間あたり2本運転されている。岡山駅で山陽新幹線との接続が考慮されており、高松発の始発列車は岡山発の始発の新幹線に、岡山発最終列車は岡山着の新幹線最終列車の到着と接続できるようにダイヤが組まれています。そのため最終列車の岡山発時刻は午前0時を過ぎている。列車が遅延した場合には、しばしば新幹線が延発することがあります。強風等により瀬戸大橋線が不通になった場合は、始発・終着駅を宇野駅へ変更して宇野港 - 高松港間において船舶による代行輸送を行うか、児島駅での折り返し運転を行うかのいずれかの措置がとられています。
茶屋町駅 - 児島駅間と坂出駅 - 高松駅間で最高速度130km/h運転を実施しています。日本の他地域で運賃以外の料金が不要な列車で130km/h運転を実施している事例は、JRでは常磐線上野駅 - 日立駅間においてE531系電車で運行される列車、京阪神地区の東海道本線・山陽本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)新快速と一部の快速、北海道の快速「エアポート」、JR以外では首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスなどと少ない。
JR四国内で実施している夏季・冬季の車内温度を保つためのドアの半自動扱いは高松駅のみで実施し、途中駅では全部のドアは自動で開閉する。また岡山駅でも冬季に限り、早朝や深夜を中心に半自動扱いを実施する列車がある。また普通車自由席に設置されている補助席は、朝ラッシュ時の上りは全区間、夕方・夜ラッシュ時の岡山駅→ 茶屋町駅・児島駅間では使用できません。

宇野線内の岡山駅 - 茶屋町駅間は通勤・通学需要が多く、終日混雑しています。
運行開始当初は毎時1本の設定であり、当時の瀬戸大橋ブームも相俟って、指定席がグリーン車のみで即日完売となるなど人気が集中したことから、瀬戸大橋線開業当日には「マリンライナー」2号の続行で2本の臨時列車(1本はキハ181系で茶屋町駅まで)が運行されたほか、翌4月11日からもJR西日本持ちの115系・JR四国持ちの111系などを使用した臨時快速が岡山駅 - 宇多津駅・坂出駅・高松駅間(一部は岡山駅 - 茶屋町駅・児島駅間の普通を延長運転)に運行されました。当初、これらの列車は市販の全国版時刻表には掲載されておらず、沿線で配布された修正時刻表にのみ記載される列車であった。その後も折からのバブル景気もあり、瀬戸大橋線の利用が好調であったことからスーパーサルーン「ゆめじ」編成のクモロ211形+モロ210形電動車ユニットも繁忙期を中心に増結に入るようになり、同年7月からは普通車にも指定席を設定するとともに、大型連休・お盆などの多客期の一部の列車は終日12両編成や11両編成で運用された。さらにJR西日本の117系100番台(指定席あり)や115系3000番台などを使用した臨時「マリンライナー」や、167系や115系を使用した臨時快速が岡山駅 - 高松駅間に設定され、213系の増備落成にともなう増発が実施される1989年3月までの間、毎日運転の臨時列車として運行された。臨時「マリンライナー」はその後も繁忙期に運行された時期があり、JR西日本の221系が使用されたこともありました。

2003年10月1日から、高松運転所(JR四国)に所属する5000系(3両編成)と、岡山電車区(JR西日本)に所属する223系5000番台(2両編成)が使用されている。基本的に両者を併結した5両編成で運転されているが、早朝・深夜は5000系(69 - 72・75号)または223系5000番台(1 - 3・73・77号)のみで運転される列車も存在するほか、8・12号は223系5000番台をさらに2両増結した7両編成で運転されています。

5000系電車は、2003年(平成15年)10月1日に営業運転を開始した四国旅客鉄道(JR四国)の直流近郊形電車。
本四備讃線(瀬戸大橋線)の快速「マリンライナー」の輸送改善を目的とし、これまで使用していた213系を置き換えるために新製された。
川崎重工業(5000形、5200形)および東急車輛製造(5100形)でM編成3両編成6本(18両)が製造され、通常は同時に投入された西日本旅客鉄道(JR西日本)岡山電車区配置の223系5000番台P編成2両編成(2007年 - 2010年は暫定的にサハ223形2000番台を組み込み3両編成となっていた)7本計14両とともに運用されている(運用については後述)。なお、川崎重工業・東急車輛製造とも本系列までJR四国とは取引がなかった。
車両構造は、213系で運転されていたグリーン席と指定席車を合わせて2階建てとし、東日本旅客鉄道(JR東日本)のE217系の2階建てグリーン車をベースとして、また普通車(自由席)はJR西日本の223系5000番台と連結する必要から、223系2000番台をベースとして設計されました。

編成は、岡山側から 5000形(Mc, 制御電動車) - 5200形(T, 付随車) - 5100形(Thswc, 制御車)のMT比1M2Tで構成され、通常は岡山寄りに223系5000番台2両編成を併結した5両編成で運転される。そのため、システム的にも223系5000番台の母体となった223系2000番台と同一で、VVVFインバータ制御(東芝製)を採用している。JR四国では会社発足後に新製した車両に配置区所の略号を表記しない方針だが、本系列には223系5000番台との関係で配置区所である高松運転所の略号「四カマ」の表記がある。ベース車両の違いから、5100形は車体側面にJR東日本仕様で、5000・5200形は妻面にJR西日本仕様で表記される。
223系5000番台と共通仕様であるため、JR西日本の通勤・近郊形車両と同じ旋律のミュージックホーンが搭載されている。
瀬戸大橋線のみを走行する「マリンライナー」専用車のため、狭小トンネルがある予讃線観音寺駅以西への乗り入れは考慮されていません。

平屋建て車(5000形、5200形)と223系2000番台との形態上の差は、運転台部分が幌で常時貫通できる構造とされ、先頭部の形状が若干変更されたのと、側窓の非常時の換気用内開き窓が廃され、223系1000番台とほぼ同一の構造となった程度で(これは瀬戸大橋からの眺望性を考慮したものとされ、後に223系2000番台5次車以降(宮原所属の6000番台を含む)・2500番台3次車も同様の構造に変更されている)、車体の配色もアーバンネットワークで使用されているものと同一である。223系5000番台との差も車体に貼付されたJRマークの色(コーポレートカラー)と排障器(スカート)の形状の違い(5000形のスカートはJR西日本車に施されている強化改造が行われておらず、223系登場時の原形のままである)程度でしかない。座席についても223系2000番台とほぼ同じ転換式クロスシートと収容式座席が設置されている。また、岡山方の先頭車は弱冷車になっている。JR四国の所有する車両では唯一、転落防止幌が設置されています。
本系列を特徴づける高松方の先頭車5100形は、2階をグリーン席、1階を普通席(いずれも指定席)としたダブルデッカーで、223系2000番台を基本とした平屋建て車と異なり、JR東日本のE217系のグリーン車のサロE216形、サロE217形を基本としてそれに運転台を付加した形となっている。運転台側の連結器は5101のみ電気連結器が装備されているが、それ以外は密着連結器のみです。ただし、電気連結器を装備するスペースは確保されています。また、高松寄り運転台後部には平屋席のパノラマシート1列4席(グリーン指定席)、岡山寄り車端部には車椅子対応の普通指定席2席やトイレも設置されているなど、多様なニーズに対応している。平屋部分以外の座席は自動転換装置があり、折り返し車内整備の際に使われる。なお、高松寄りのデッキはグリーン車の一部とみなされるためここでの立席乗車はグリーン料金が発生します。
グリーン車も普通車指定席も、ともに横4列のリクライニングシートで座席の前後間隔もあまり差がないことから1階席か2階席かだけの違いと思われていることが多く、普通車指定席は時間帯によっては満席となる場合がある。しかし普通車指定席には背面テーブルが省略され、リクライニング角度がグリーン席よりも浅いなど、実際には細部でも差別化が図られている。また、グリーン席・普通指定席共に網棚が設置されていません。
車体配色も他車と全く異なる独自のものとなっており、5101〜5103号は青系、5104〜5106号は赤系とされ、各車に岡山県の民話『桃太郎』にちなんだ3種のエンブレム(「桃太郎とイヌ」 (5101, 5104) ・「桃太郎とサル」 (5102, 5105) ・「桃太郎とキジ」 (5103, 5106) )が描かれています。
この5100形は、2004年(平成16年)度の財団法人産業デザイン振興会グッドデザイン賞および鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞している。両賞の受賞はJR四国の発足以来初である。なおブルーリボン賞は特急用車両に授与されることが多く、JRにおいて特急料金や急行料金不要な列車である快速「マリンライナー」での運用を主とする(登場以来定期列車では「マリンライナー」のみに使用されている)5100形の受賞は異例です。

本四備讃線(瀬戸大橋線)開業後
1988年(昭和63年)4月10日:瀬戸大橋の完成に伴うダイヤ改正により、次のように変更。
「備讃ライナー」と宇高航路の連絡船ならびにホーバークラフトを廃止し、岡山駅 - 高松駅間に快速「マリンライナー」を運転開始。
特急「瀬戸」を高松駅発着に変更。
特急「しおかぜ」「うずしお」「南風」の岡山駅乗り入れを開始。
1998年(平成10年)7月10日:「瀬戸」が285系電車に使用車両を変更し「サンライズ瀬戸」となる。
1999年(平成11年)3月13日:「マリンライナー」の岡山発15時以降の高松行の全列車が妹尾駅に停車するようになる。
2001年(平成13年)5月:高松駅改修による駅複合施設サンポート高松開業に伴う祝賀列車として臨時急行列車「サンポート高松号」が、485系により大阪駅 - 高松駅間で運行。
2003年(平成15年)10月1日:「マリンライナー」の使用車両を5000系・223系5000番台に置き換え、一部区間での最高速度を110km/hから130km/hに変更。
2007年(平成19年)6月下旬:223系5000番台編成に同2000番台付随車1両が組み込まれる。
2008年(平成20年)4月10日:瀬戸大橋開通20周年を記念し、「懐かしの213系マリンライナー号」を運転。
2009年(平成21年)3月14日:宇野線早島駅 - 久々原駅間の複線化により、「マリンライナー」の岡山駅 - 児島駅間での所要時間が1 - 2分短縮される。
2010年(平成22年)1月24日:223系5000番台編成に組み込まれていた同2000番台1両の減車が完了。

6月30日(日)のつぶやき

宇野駅 /宇野線

$
0
0

宇野駅は、ローカル盲腸線宇野線の終着駅です。かつては、四国への移動手段であった宇高連絡船との接続駅として、東京・大阪方面からのブルートレイン「瀬戸」や特急「うずしお」など優等列車や貨物列車が入線して賑わい、構内には側線や機回し線、引込み線などが幾本もある広大な駅でした。

しかし1988年(昭和63年)に瀬戸大橋の開通で四国との連絡口としての使命を終え、1990年(平成2年)には宇高航路で残っていた高速艇も休止になり、1994年(平成6年)2月に旧駅舎(鉄筋コンクリート2階建、屋上に平仮名で「うのえき」の看板)の北側へ新築されました現行駅舎へ移転し(この時までにホームが嵩上げされた)、翌年から始まった旧駅舎の解体をはじめとした駅前広場の再開発により、その名残もほぼなくなった。2011年(平成23年)3月12日現在、日中は普通列車が1時間に1本発着するのみとなっています。岡山県玉野市築港一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)宇野線の駅。

駅前には、バス・タクシー乗り場、コイン駐車場、駐輪場、ポスト、公衆電話、玉野警察署宇野駅前交番などがあります。また、パークアンドライド(要予約)に対応する。駅前はロータリーが整備され、また中央のオブジェを含め水棲生物の像があちこちにあり、公園のようになっています。

両開きの線路配置で、島式ホーム1面2線(頭端式)を持つ地上駅。平成6年に移転新築された南欧風の洒落た駅舎です。駅舎はホームとは直角に設けられています。列車留置用の側線が2本あります。出入口(改札)は1か所です。

直営駅(児島駅の被管理駅)であり、駅舎内にはみどりの窓口、みどりの券売機、近距離乗車券の自動券売機(オレンジカード対応)、玉野市観光案内所、キオスク売店、自動販売機、デジタル公衆電話(テレホンカード、ISDN対応)、改札内に水洗式トイレなどがあり待合室は十分に広いスペースです。自動改札機は設置されておらず、岡山地区でも使用が開始されたICOCAには改札、自動券売機ともに非対応です。駅スタンプも配備されました。

改札口には三角の明かり取り窓があります。駅構内に乗務員宿泊施設がある。移転前の駅は現行の駅よりも南側(海側)の像がある広場付近に南北に建っていた。駅南東の空地には、かつての宇高連絡船のバース跡がわずかながら残っています。

宇野駅プラットホーム
ホーム 路線     行先
1・2 ■宇野線 茶屋町・岡山方面
※日中は主に2番のりばから発車します。
ホームはカラー舗装されています。上屋は長いですが狭いホームです。

2004年(平成16年)8月30日に中国地方に上陸した台風16号の影響で瀬戸内海沿岸は予想以上の高潮が発生し、宇野駅周辺も冠水し翌朝始発列車の為に駅構内(ホーム)へ停泊していた岡山電車区所属の105系F8編成(2両)と、115系D18編成(3両)の2本の電車も床下浸水の被害を受け電気部品・回路の故障により自走不能に陥り、駅構内の電気・信号設備も冠水、駅事務所でもマルスなどの機器類が被災し、当日は始発からダイヤが大きく乱れ、各種乗車券・特急券など切符類の発券などをはじめとした駅事務にも支障をきたしました。
当時、岡山電車区では105系は新和歌山車両センター(当時)へ転出する編成があり、115系は短編成化・リニューアル工事、213系もワンマン化改造のために入場している編成が多く、予備車が極端に不足していたために、たまたま岡山電車区に留置されていた網干総合車両所所属の223系J1編成(6両)を急遽宇野線の運用に投入しました。

1910年(明治43年)6月12日 - 国有鉄道宇野線開業と同時に設置(一般駅)。宇高航路が開設され連絡船が就航。
1953年(昭和28年)4月5日 - 備南電気鉄道(のちの玉野市営電気鉄道)により、宇野駅 - 玉駅間が開業。
1955年(昭和30年)5月11日 - 濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して前者が沈没し168人死亡する事故が発生(紫雲丸事故・国鉄戦後五大事故の一つ)。この事故をきっかけに、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。
1956年(昭和31年)3月24日 - 備南電気鉄道が玉野市営電気鉄道となる。
1960年(昭和35年)
6月 - 宇野駅開業五十周年記念式典を開催。
7月6日 - 旅客ホーム2・3番線の使用を開始。
10月1日 - 宇野線電化、電車発着開始。
1961年(昭和36年)9月1日 - 宇野線の単線自動化が完成。
1965年(昭和40年)
8月26日 - 旅客ホーム1番線の延伸工事を開始。
9月25日 - みどりの窓口を開設(マルス102型端末設置)。
9月30日 - 旅客ホーム1番線の延伸工事が完成。
1968年(昭和43年)
6月4日 - 広潟第2踏切簡易跨線橋が完成・使用開始。同時に広潟第2踏切を廃止。
9月1日 - 駅構内にあり、開かずの踏切でもあった宇野踏切解消のため、宇野駅構内跨線橋工事が開始される。
1969年(昭和44年)
5月1日 - 宇野駅構内跨線橋が竣工・使用開始。宇野踏切を廃止。
8月23日 - 駅構内の大改良工事開始。
1970年(昭和45年)
4月5日 - 宇野線CTC化。
4月30日 - 宇野線の手小荷物運搬電車が運転終了し、手小荷物荷物の扱いも終了する。
5月1日 - 手荷物扱い駅でもあった備前田井駅・八浜駅の無人化に伴い、両駅の管理駅となる。
6月 - 宇野駅開業六十周年記念式典を開催。
10月1日 - 駅構内の大改良工事が完成。
1972年(昭和47年)
4月1日 - 玉野市営電気鉄道廃止。
11月8日 - 宇高航路にホバークラフトが就航。同時にホーム先端に乗り場ができる。
1980年(昭和55年)
6月 - 宇野線開業七十周年記念式典を開催。
1986年(昭和61年)11月1日 - 荷物・車扱貨物の取扱を廃止(旅客駅となる)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)が継承。
1988年(昭和63年)
4月9日 - 宇高連絡船のさよなら運航。
4月10日 - 瀬戸大橋開通。本四備讃線が開業し快速「マリンライナー」などが運転開始。同時に岡山駅 - 宇野駅間の快速「備讃ライナー」、宇高連絡船やホバークラフトは廃止され高速艇のみ存続。
1990年(平成2年)4月1日 - 高速艇「しおかぜ」運航休止。
1991年(平成3年)3月16日 - 休止されていた高速艇が正式に廃止となる。
1994年(平成6年)12月3日 - 北側(内陸方向)に建設していた新駅舎の使用を開始。同時に営業距離を0.1km短縮。現在、海際にあった旧駅施設と桟橋設備は全て解体され跡地は再開発されている。
1995年(平成7年)3月 - 旧駅舎の解体工事が始まる。旧駅舎や駅構内跡地周辺の再開発工事が開始される。
2004年(平成16年)8月30日 - 台風16号の高潮により被災(後述)。翌8月31日は、台風の影響により駅業務も支障が出て始発からダイヤが大きく乱れる。
2006年(平成18年)4月21日 - 強風のため、瀬戸大橋線が始発から運休し、宇高国道フェリーや四国フェリーの宇高航路での振替輸送を実施。これに対応するために、臨時「マリンライナー」が岡山駅 - 宇野駅間で終日運転される(宇野駅 - 茶屋町駅間ノンストップ、一部列車は茶屋町駅まで各停)。
2009年(平成21年)4月1日 - 本四フェリーが宇高航路から撤退。宇高航路は国道フェリーと四国フェリーの2社体制となる。

電報略号 ウノ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 1,198人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1910年(明治43年)6月12日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

備前田井駅 /宇野線

$
0
0

備前田井駅は、玉野市の丘状になった岡山県玉野市田井三丁目、玉野市街地の北端の住宅地に位置しホームからは瀬戸内海が望まれます。西日本旅客鉄道(JR西日本)宇野線の駅です。駅施設は傾斜地にあり、余裕のない立地です。土手下に駐車場がありパークアンドライドにも利用できる。駅前にバス乗り場(シーバス)、駐車場、駐輪場、公衆電話あります。

相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有する地上駅。駅舎はなく、直接ホームに入る形になっている。両ホームの宇野寄りにそれぞれ出入口があり、上下ホームは宇野寄りの構内踏切で結ばれています。


盛土上のために道路からは階段がある(スロープなどは無い)ので、駅構内まで車椅子で行く事は困難である。駅入口の階段は住宅地の路地の突き当たりにあります。線路配置はY字分岐(両開き)で、安全側線はありません。


児島駅管理の無人駅で、下りホーム側の出入口(構内踏切脇)には乗車駅証明書発行機が、上りホームの待合所内には自動券売機(岡山地区のICOCA導入時に交換された機種であるが、ICOCA装填口は省かれている)があります。

備前田井駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■宇野線 上り 茶屋町・岡山方面
2 ■宇野線 下り 宇野方面


※一時期のりば番号標が抹消されていた時期があったが、のちに復活しています。
現在は普通電車のみの運転となっているが、宇高連絡船が現役だった頃には優等列車や四国への貨物列車が運転されていた名残で、行き違いの線路有効長が長くなっています。

1939年(昭和14年)1月1日 - 宇野線の八浜駅 - 宇野駅間に新設開業。
1940年(昭和15年)11月1日 - 営業休止。
1950年(昭和25年)11月14日 - 営業再開。
1960年(昭和35年)10月1日 - 宇野線電化完成。電車の運転開始。駅舎の改良工事開始。
1961年(昭和36年)
4月 - 国道30号線開通。駅舎の改良工事終了。
9月1日 - 宇野線の単線自動化。
1970年(昭和45年)
4月5日 - 宇野線CTC化完成。
4月30日 - 宇野線の手小荷物運搬電車運転終了(茶屋町駅 - 宇野駅間の途中駅での荷物扱い廃止)。
5月1日 - 八浜駅・迫川駅・彦崎駅と共に無人化。荷物の取扱を廃止。
6月 - 無人化にあわせた駅の改良工事が実施される。
1987年(昭和62年)
3月23日 - 当駅を含む岡山駅 - 宇野駅間に213系電車を使用した快速「備讃ライナー」の運転開始。
4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継。日本貨物鉄道(JR貨物)が宇野線全線の第二種鉄道事業者となる。
1988年(昭和63年)4月10日 - 瀬戸大橋開通。本四備讃線が開業し快速「マリンライナー」などが運転開始。同時に岡山駅 - 宇野駅間の快速「備讃ライナー」、宇高連絡船やホバークラフトは廃止され高速艇のみ存続され、岡山行の直通列車が減少する。
2002年(平成14年)4月1日 - 日本貨物鉄道が「茶屋町駅 - 宇野駅間」の第二種鉄道事業廃止。自動券売機の運用が開始される。
2007年(平成19年)4月 - ホーム・待合室の改良工事が実施される。
2010年(平成22年)1月 - トイレ・通路の改良工事が実施される。

電報略号 タイ
駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 235人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1939年(昭和14年)1月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)

 


八浜駅 /宇野線

$
0
0

八浜駅は麦飯山の麓、岡山県玉野市八浜町大崎にあります。駅名の八浜の集落からはかなり離れていますが、付近の高校への通学利用もあり、利用者は比較的多い駅です。

西日本旅客鉄道(JR西日本)宇野線の駅です。駅前には大きなソテツの植え込みが目に入ります。バス(両備バス)・タクシー乗り場、駐車場、駐輪場、公衆電話あります。

相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有する地上駅。駅舎といえるものはなく、直接ホームに入る形になっている。出入口は、両ホームの中央付近に1ヶ所ずつあり(表口は上りホーム側)、上下ホームは屋根無しの陸橋で結ばれている。
配線は、2番線(下り線)側が一線スルーの線路配置で、安全側線あり。昔は通過列車の関係で発着番線はまちまちであったが、現在は上下線毎にホームを分けている。


児島駅管理の無人駅で、上りホームのブロック造りの物置型待合所の中に、近距離切符の自動券売機(岡山地区へのICOCA導入と同時に交換された機種であるが、ICOCA装填口は省かれている)と造りつけの長椅子があります。下りホーム側には乗車駅証明書発行機がある。トイレは上りホーム側にあり、男女兼用の水洗式。

八浜駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1(南側) ■宇野線 上り 茶屋町・岡山方面
2(北側) ■宇野線 下り 宇野方面
※現在は上記ののりば番号標は存在しないが、昔(有人駅時代)にはのりば番号標があった。

現在は普通電車のみの運転となっていますが、宇高連絡船が現役だった頃には優等列車や四国への貨物列車が運転されていた名残で、行き違いの線路有効長が長く、また下り線側が1線スルーの線路配置になっており、行き違いや通過列車待ち合わせの為に1・2番線の両側方向に出発信号機があります。
また有人駅時代の駅舎の跡地や、1970年(昭和45年)まで貨物扱いをしていた名残の引込線跡ポイントも上りホーム岡山側に残っています。

1910年(明治43年)6月12日 - 宇野線開通と同時に設置。
1960年(昭和35年)10月1日 - 宇野線電化完成。電車の運転開始。駅舎の改良工事開始。
1961年(昭和36年)
4月 - 国道30号線開通。駅前広場の改良工事開始。
9月1日 - 宇野線の単線自動化。
1970年(昭和45年)
4月5日 - 宇野線CTC化完成。
4月30日 - 宇野線の手小荷物運搬電車運転終了(茶屋町駅 - 宇野駅間の途中駅での荷物扱い廃止)。
5月1日 - 備前田井駅・迫川駅・彦崎駅と共に無人化。
1987年(昭和62年)
3月23日 - 当駅を含む岡山駅 - 宇野駅間に213系電車を使用した快速「備讃ライナー」の運転開始。
4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継。日本貨物鉄道が宇野線全線の第二種鉄道事業者となる。
1988年(昭和63年)4月10日 - 瀬戸大橋開通。本四備讃線が開業し快速「マリンライナー」などが運転開始。同時に岡山駅 - 宇野駅間の快速「備讃ライナー」、宇高連絡船やホバークラフトは廃止され高速艇のみ存続され、岡山行の直通列車は減少する。
2002年(平成14年)4月1日 - 日本貨物鉄道が「茶屋町駅 - 宇野駅間」の第二種鉄道事業廃止。自動券売機の稼動開始。

電報略号 ハハ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 436人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1910年(明治43年)6月12日
備考 無人駅(自動券売機 有)

海上自衛隊 17号級水船 YW20 YW22

$
0
0

海上自衛隊 17号級水船

基地港務隊に所属し、艦艇に真水の補給を行なう船です。離島が断水になった時、給水に駆けつけることもある。

YW20
1993計画310T型水船として前畑造船鉄工佐世保造船所で94.3/10起工5/30進水9/20竣工し呉地方隊佐伯基地分遣隊に配属

YW22
1993計画310T型水船として前畑造船鉄工佐世保造船所で94.3/10起工5/30進水9/20竣工し呉地方隊佐伯基地分遣隊に配属


310dwt
oa37.7x6.8x2.8x(3.6)m
D(いすゞ、UM6SD1T)x2/2 360bhp 10knt
同型船(8/1988-2000)
YW17 水船17号.18 水船18号.19 水船 19号.20 水船20号.21 水船21号.22 水船22号.23 水船23号.24 水船24号.


給水ポンプ(毎時150T)x2を装備.
203号級油船と略同型.
鋼製丸型船型.
1987-96計画310T型水船.
船尾に補給物資搭載スペース(2.3t)を設置.

常山駅 /宇野線

$
0
0

昭和14年開業の常山駅は、茶屋町以南で唯一交換施設のない棒線駅です。所在地は岡山県玉野市宇藤木。駅名にもなった常山(通称:児島富士)は女軍哀史(常山城:鶴姫)で知られ、常山駅からハイキングコースが整備されています。西日本旅客鉄道(JR西日本)宇野線の駅です。

常山は児島半島では金甲山・怒塚山に次いで3番目に高い山であり、その山容から児島富士や角山(つのやま。『備陽記』『吉備温故秘録』)とも呼ばれています。また、山頂には電波塔や玉野市指定史跡の常山城跡があり、本丸の部分である展望台からは児島湾干拓地や岡山市街地を見渡すことができる。

天正3年(1575年)毛利氏により攻撃を受けた三村氏一族最後の居城が常山城であり、常山城は毛利氏の軍勢に取り囲まれ上野隆徳は城内で自害したが、上野隆徳の妻である鶴姫は、武家に生まれた女としての信念を貫き、城内の侍女三十余名を率い、城外の毛利軍に突撃した。鶴姫は毛利軍の武将である乃美宗勝に一騎打ちを挑むが、乃美宗勝はそれを拒否し、思わぬ奇襲に乱れた軍を建て直した。鶴姫は再度城内に戻り、自害した。

宇野方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅(停留所)。茶屋町 - 宇野間では唯一交換設備が無く、同一ホームに茶屋町方面行きと宇野行きの双方が発着する。
児島駅管理の無人駅で駅舎はなく、ホーム岡山寄りの端の出入口から直接ホームに入る。ホーム上の待合所の下に近距離切符の自動券売機(岡山地区のICOCA導入時に交換された機種であるが、ICOCA装填口は省かれている)がある。入口脇には駐輪所が設置されています。構内にトイレは無いが、近くに公衆トイレがある。
ホーム脇の公園や常山の山腹には桜の木が植えられており、開花時期になると大変綺麗である。

 

1939年(昭和14年)1月1日 - 宇野線の由加(現・迫川) - 八浜間に新設開業。
1960年(昭和35年)10月1日 - 宇野線電化完成。電車の運転開始。
1961年(昭和36年)
4月 - 国道30号線開通。
9月1日 - 宇野線の単線自動化。
1970年(昭和45年)
4月5日 - 宇野線CTC化完成。
4月30日 - 宇野線の手小荷物運搬電車運転終了(茶屋町−宇野間の途中駅での荷物扱い廃止)。
1987年(昭和62年)
3月23日 - 岡山−宇野間に213系電車を使用した快速「備讃ライナー」の運転開始。
4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR西日本の駅となる。
1988年(昭和63年)4月10日 - 瀬戸大橋開通。本四備讃線が開業し快速「マリンライナー」などが運転開始。同時に岡山−宇野間の快速「備讃ライナー」は廃止。

電報略号 ツネ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 373人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1939年(昭和14年)1月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)

 

 

備前片岡駅 /宇野線

$
0
0

備前片岡駅は、旧・灘崎町の中心駅で、2005年(平成17年)3月22日に灘崎町が岡山市に編入合併後も岡山市南区灘崎地区の中心駅となっている。住宅は線路南の山側に集中しています。岡山県岡山市南区片岡字川西にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)宇野線の駅です。駅前には立派なロータリーがあります。

現在は普通電車のみの運転となっているが、宇高連絡船が現役だった頃には優等列車や四国への貨物列車が運転されていた名残で、行き違いの線路有効長が長い。また下り線側が1線スルーの線路配置になっており、行き違いや通過列車待ち合わせのために1・2番線の両側方向に出発信号機があります。貨物扱いをしていた名残の跡地も上りホーム岡山側に残っています。


相対式ホーム2面2線を有し、交換設備を備えた地上駅。児島駅管理の無人駅で駅舎はなくホーム上に待合室が設置、直接ホームに入る形です。出入口は下りホームの中央付近と、上りホームの宇野寄りにそれぞれ存在する(上りホーム茶屋町寄りにも勝手口あり)。互いのホームは屋根無しの陸橋で結ばれています。駅前にはきれいにトイレが設置されています。南側の入口には駐輪場があります。


上下線ホームそれぞれに待合所があり、上りホーム待合所内には近距離切符の自動券売機(岡山地区のICOCA導入時に交換された機種であるが、ICOCA装填口が省かれている)がある。下りホーム側には乗車駅証明書発行機がある。下りホーム待合室にはFRPの椅子が設置されています。
2番線(下り線)側が一線スルーの線路配置であり、安全側線を有する。そのため、昔は通過列車の関係で発着番線がまちまちであったが、現在は上下線別になっている。

備前片岡駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1(南側) ■宇野線 上り 茶屋町・岡山方面
2(北側) ■宇野線 下り 宇野方面
※現在は上記ののりば番号標は存在しないが、昔はのりば番号標があった。

1939年(昭和14年)1月1日 - 宇野線の彦崎駅 - 由加駅(現・迫川駅)間に新設開業。
1940年(昭和15年)11月1日 - 営業休止。
1950年(昭和25年)11月14日 - 営業再開。
1960年(昭和35年)10月1日 - 宇野線電化完成。電車の運転開始。
1961年(昭和36年)
4月 - 国道30号線開通。駅構内の改良工事開始。
9月1日 - 宇野線の単線自動化。


1970年(昭和45年)
4月5日 - 宇野線CTC化完成。
4月30日 - 宇野線の手小荷物運搬電車運転終了(茶屋町駅 - 宇野駅間の途中駅での荷物扱い廃止)。
5月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)
3月23日 - 当駅を含む岡山駅 - 宇野駅間に213系電車を使用した快速「備讃ライナー」の運転開始。
4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1988年(昭和63年)4月10日 - 瀬戸大橋開通。本四備讃線が開業し快速「マリンライナー」などが運転開始。同時に岡山駅 - 宇野駅間の快速「備讃ライナー」は廃止。

電報略号 カタ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 222人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1939年(昭和14年)1月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)

 

 

迫川駅 /宇野線

$
0
0

迫川駅、「はざかわえき 」と読みます。北は干拓地に広がり線路を挟んで南は低い山並みが迫り古くからの街並みが広がる岡山県岡山市南区迫川にあります。、西日本旅客鉄道(JR西日本)宇野線の駅である。現在は普通電車のみの運転となっているが、宇高連絡船が現役だった頃には優等列車や四国への貨物列車が運転されていた名残で、行き違いの線路有効長が長くなっている。有人駅時代の駅舎の跡地や、貨物扱いをしていた名残の跡地も上りホーム側に残っています。

相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有する地上駅。駅舎といえるものはなくコンクリート造りの小さな待合室が設置されています。上りホーム中央付近の入口から直接ホームに入る形になっている。反対側の下りホームへは屋根無しの陸橋で連絡している。下りホーム上には待合室が設置されています。


児島駅管理の無人駅で、上りホームの待合所の内部に、近距離切符の自動券売機(岡山地区のICOCA導入時に交換された機種であるが、ICOCA装填口は省かれている)がある。
宇野方面は上り線側が、岡山方面は下り線側が一線スルーの線路配置であり、安全側線はない。上りホームの幅は広くなっています。おそらく旧駅舎の基礎跡と思われる所に自転車置き場がありますがあまりルールが守られてないようです。

迫川駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1(入口側) ■宇野線 上り 茶屋町・岡山方面
2(反対側) ■宇野線 下り 宇野方面
※現在は上記ののりば番号標は存在しないが、昔(有人駅時代)にはのりば番号標があった。

1910年(明治43年)6月12日 - 宇野線開通と同時に、由加駅として開業。
1952年(昭和27年)11月15日 - 迫川駅に改称。
1960年(昭和35年)10月1日 - 宇野線電化完成。電車の運転開始。
1961年(昭和36年)
4月 - 国道30号線開通。駅西側の整備完了。
9月1日 - 宇野線の単線自動化。
1970年(昭和45年)
4月5日 - 宇野線CTC化完成。
4月30日 - 宇野線の手小荷物運搬電車運転終了(茶屋町駅 - 宇野駅間の途中駅での荷物扱い廃止)。
5月1日 - 備前田井駅・八浜駅・彦崎駅と共に無人化。荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)
3月23日 - 当駅を含む岡山駅 - 宇野駅間に213系電車を使用した快速「備讃ライナー」の運転開始。
4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継。日本貨物鉄道(JR貨物)が宇野線全線の第二種鉄道事業者となる。駅前広場の整備開始。
1988年(昭和63年)4月10日 - 瀬戸大橋開通。本四備讃線が開業し快速「マリンライナー」などが運転開始。同時に岡山駅 - 宇野駅間の快速「備讃ライナー」、宇高連絡船やホバークラフトは廃止され高速艇のみ存続され、岡山行直通列車は減少する。
2002年(平成14年)4月1日 - JR貨物が「茶屋町駅 - 宇野駅間」の第二種鉄道事業廃止。自動券売機の使用開始。

電報略号 ハサ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 232人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1910年(明治43年)6月12日
備考 無人駅(自動券売機 有)
* 1952年に由加駅から改称。

 

Viewing all 3250 articles
Browse latest View live