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荒尾駅  JR九州)鹿児島本線

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荒尾駅 は、荒尾市の代表駅で熊本県荒尾市万田にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅です。大牟田同様、三井三池炭鉱により発展した駅です。


全定期旅客列車が停車する。博多方面から来た快速列車は全列車が当駅で折り返している。JR荒尾駅北東側、大牟田寄りの踏切のある道に面して荒尾市電の荒尾駅(開設時は市電荒尾駅)が存在していた。

市電荒尾駅は小さな木造の小屋のような駅舎があるだけで、プラットホーム木製の島式ホーム2面1線有する地上駅だった。
国鉄荒尾駅の裏に存在したが、国鉄駅との連絡設備はなく、大牟田寄りの踏切を渡った後南下しなければならなかった。

開業時の地名は玉名郡荒尾村(のちの荒尾町)だったが、三井三池炭鉱の主力坑だった万田坑から採掘された石炭の取り扱い駅として開業したため、「万田駅」と命名された。その後の1942年(昭和17年)に荒尾町と周辺の村とが市制施行して「荒尾市」になったため、駅名も現在の「荒尾駅」に改称された。


「荒尾」は室町時代の古文書では「荒処」や「阿らお」と記されており、古くからあることは確認できているが「荒尾」となった由来ははっきりしていない。肥後国と筑後国の国境の南側にある荒地を意味する「荒処」が転化した説や、江戸時代の「荒尾手永(てなが)」に由来すると言う説、またこの地を小代一族荒尾氏が治めていたとされる説がある。

駅周辺は開業時から昭和50年代ごろまで長らく荒尾市の中心市街地となっていたが、現在はグリーンランド周辺に商業施設やニュータウンが多く集まっており、かつてのような賑わいはない。
市街地は福岡県大牟田市と連続しており、駅前を走る福岡県道・熊本県道126号大牟田荒尾線や、更に西側にある国道389号などを通じて両市の日常的な移動も盛んである。

また、駅舎は線路の西側にあり、線路の東側との行き来には約500m離れた踏切を横断しなければならない。この不便を解消するために、線路の東側に東口を設け、駅の東と西の人の往来を改善する計画もあるが、財政難のため凍結されている。

島式ホーム2面4線と多数の留置線を有する地上駅。駅舎は天井の高い木造です。中央のファサードに行灯式の駅名表示があります。また、駅両脇に倉庫と売店跡と思しきベンディングコーナーがあります。互いのホームは跨線橋で連絡している。駅前ロータリー部分にはバス乗り場があります。

みどりの窓口が設置されている直営駅である。SUGOCAが導入されている(SUGOCAと相互利用提携しているSuica、nimoca、はやかけんの利用も可能)。みどりの窓口で発券される乗車券は東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線(美濃赤坂線)の荒尾駅と区別するため、きっぷには「(鹿)荒尾」と印字される。また、自動販売機で発券される普通入場券も「(鹿)荒尾駅」と記載されている。

広めの待合室にはまるで喫煙所に見える待合室があります。改札口には改札機は2台あり改札頭上には液晶式の発車案内が設置されています。

のりば
1 ■鹿児島本線 (上り) 久留米・博多・小倉方面  
2 (上り) 久留米・博多・小倉方面 
※当駅終始発(大牟田方面からの折り返し)  
3・4 (下り) 玉名・熊本・八代方面


駅舎とホームは接してなく跨線橋を介します。ホームの両側には複数の留置線があります。1・2番ホームは上屋が短く嵩上げされていません。


かつて石炭積出し駅としての多数のヤード跡地は現在、駐車場になっています。

1912年(大正元年)11月1日 - 国鉄の万田駅(まんだえき)として開業。
1943年(昭和18年)6月15日 - 荒尾駅に改称。
1945年(昭和20年)3月 - 2代目の駅舎に改築。
1949年(昭和25年)12月21日 - 荒尾市電、市電荒尾駅 - 境崎駅間開通により市電荒尾駅(後の荒尾駅)が開業する。
1964年(昭和39年)10月1日 - 荒尾市電廃止。荒尾市電の荒尾駅も廃止となる。
1986年(昭和61年)11月1日 - 貨物の取扱を廃止。


1987年(昭和62年)
3月31日 - 貨物の取扱を再開。但し、貨物列車の設定は無い。
4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR九州・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
2006年(平成18年)4月1日 - JR貨物の駅(貨物の取扱)が廃止。結局取扱実績が無いまま廃止された。
2009年(平成21年)
2月20日 - 自動改札機が導入される。
3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。
2012年(平成24年)4月8日 - 駅前のロータリーを整備。万田坑第二竪坑櫓のモニュメントを設置。デザインは有明工業高等専門学校の機械工学科の学生が担当。

電報略号 ラオ
駅構造 地上駅
ホーム 2面4線
開業年月日 1912年(大正元年)11月1日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* 1943年(昭和18年)に万田駅から改称。


CL-168 やまぎく 第七管区海上保安本部

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第七管区海上保安本部の宇部に配属されている「やまぎく」です。船型は20メートル型巡視艇で総トン数は26トンです。

竣工:H23.03.15
造船所:木曽造船
管区:第七管区
配置:宇部

第七管区海上保安本部は、本部を北九州市門司区に置き、福岡、佐賀、長崎、大分の各県と山口県西部を管轄し、それらに接続する日本海西部及び東シナ海を担任海域としています。

本部の事務所として、海上保安部 10、海上保安署 10、 分室2、
海上交通センター 1、航空基地 1、を置き、管内全域に巡視船艇62隻、測量船1隻、灯台見回り船2隻及び中型飛行機2機、中型ヘリコプター3機を配備し、職員総数約1,500人で海上保安業務を行なっています。

やまぎくはCL「ひめぎく」型汎用巡視艇です。老朽化した巡視艇の代替えとして、目下鋭意建造されている巡視艇です。
海上保安庁の量産記録(96隻建造)を保持していた、巡視艇「ちよかぜ」型の代替を終了し、なおも巡視艇「やまゆり」型の代替のため建造され続けています。既に160隻以上が建造され、現在も同型巡視艇の”量産記録”を更新し続けています。
整備期間が長期にわたっているため、大きく4つのバージョンに分かれています。定員を1名増やし、船幅を20センチ大きくした6名定員艇の後期タイプ(幅広型)、推進器をウォータージェットにしたタイプ、放水銃を廃止して防弾性を向上させた警備機能強化型などのバリエーションがあります。
配属地の関係で、冷房を強化した南方型、暖房を強化した北方型もあります。
CL-36「きりかぜ」は海上環境業務強化指定船、CL-50「はまかぜ」は鑑識業務指定船に指定されています。
本船をベースに 灯台見回り船「ひめひかり」型 が作られています。また、その「ひめひかり」型は、平成20年4月1日付けで、全艇 CL型巡視艇「しらうめ」型 に区分変更されています。
H19年度末、ネームシップ「CL-11 すずかぜ」が、配置替えに伴い艇名を「ひめぎく」と改めたため、それに伴い本船型を「すずかぜ」型から「ひめぎく」型に変更表記されました。

CL「ひめぎく」型
●総トン数:23t/満載排水量:19t
●主要寸法:全長20.0m×幅4.3m、4.5m(CL46、CL58~CL73、CL76以降)×深さ2.3m
●エンジン:ディーゼル2基2軸 出力:1820PS (CL69~CL71、CL92.93、CL114はウォータージェット2基) 出力:1820PS
●速力:約30kt
●船質:高張力鋼
●航続距離:160浬
●乗員:5名(後期型は6名)
●主要装備:なし
●航行区域:沿海(制限付)

二軒屋駅 JR四国)牟岐線

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二軒屋駅(にけんやえき)は、徳島県徳島市南二軒屋町一丁目にある、四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅である。駅番号はM02。駅近くの徳島県立城南高等学校高校や徳島製粉への通勤通学客が多い。駅周囲はかなり賑やかです。

島式1面2線のホームである。留置側線がある。大きな庇が取り付けられた駅舎は地上木造駅舎となっています。

JR四国が経営する居酒屋0番線がある。かつては駅舎内にJR四国が運営するパン屋ウィリーウィンキー二軒屋店が入居していたが、現在は喫茶店になっている。

また駅舎横には系列の居酒屋が営業しています。待合室には飲料自動販売機、壁に沿って長椅子が設置されています。

のりば
1 ■牟岐線 主に徳島・板野・鳴門・穴吹方面
2 ■牟岐線 主に南小松島・阿南・牟岐・海部方面

ホームは構内踏切で結ばれています。ホーム中ほどには少し長めの上屋が設置されています。


1913年(大正2年)4月20日 - 阿波国共同汽船の駅として開業。同時に国有鉄道が借上げ(小松島軽便線)。
1917年(大正6年)9月1日 - 阿波国共同汽船が買収・国有化。
1961年(昭和36年)4月1日 - 小松島線徳島~中田間の分離により牟岐線に所属変更。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
2010年(平成22年)10月1日 - 無人化。

電報略号 ニケ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 454人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1913年(大正2年)4月20日
備考 無人駅

救急艇「かもめ」三原市消防本部

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 救急艇「かもめ」は、鷺浦町(佐木島・小佐木島)の救急体制の充実と、沿岸海域での水難事故等に対応するため導入されました。

 小型船舶操縦士4級免許で操船できるFRP製ボートで、夜間の安全航行が可能なレーダーや衛星利用測位システム(GPS)を搭載し、最高速度35ノットで三原港から佐木港まで約15分で到着します。

 固定式ベッドと補助ベッドの2台を積み、冷暖房および、人工呼吸器や酸素吸入器、除細動器等の医療器具を装備、救急救命士が応急処置を行います。


   ■ 主要装備
●衛星利用測位システム(GPS)/測深器
 海岸線地図上に自船の位置及び航跡、目的地などが表示され航海情報を得ることができます。
 測深機能により水深をデジタル表示し、海底の状況を確認できます。
●レーダー
 他船や島・岩礁などとの距離/方位を測定でき、海上衝突を予防することができます。
●サーチライト
 150Wキセノンランプを搭載、リモコンにより360度回転・照射角度を操作できます。
●ベッド
 固定式ベッドと補助ベッドにより2名の患者を搬送できます。
●医療器具
 除細動器などの高度救急医療器具を備えています。


■ 主要諸元
外装・内装
船 体 27フィートFRP製
GS-800フリーボートIII
日産マリーン(株)
全  長 9メートル44センチ
全  幅 3メートル20センチ
全  高 3メートル30センチ
総トン数 4.9トン
搭載機関 ディーゼル船内外機
ボルボ・AD41P(2基)
最大出力 400PS(200PS×2)
燃料タンク容量 400リットル
最大搭乗人員 12名
航行区域 限定沿海


 

文化の森駅 JR四国)牟岐線

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文化の森駅 (ぶんかのもりえき)は、徳島県徳島市八万町二丈にある、四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅である。駅番号はM03。

ホームは単式1面1線である。ホームに近距離切符販売機があります。駅舎はなく、築堤上に設置されたホームへは階段で連絡しています。

ホーム上屋には長椅子が設置されています。駅前には駐輪場と飲料自販機が設置されています。

駅の横には踏み切りがあります。
駅名「文化の森」は徳島県文化の森総合公園に因むものだが、当駅から文化の森へ行くには徒歩で約30分かかる上、駅前には路線バスもない上にタクシーも常駐していない。そのため、この駅を文化の森へのアクセス手段として使用する人はほとんどいない。「文化の森総合公園」への下車駅として開設されましたが徳島駅からバスで行くのが便利です。

1990年(平成2年)11月3日 開業。開業時は一部普通列車が通過していたが、2000年(平成12年)にすべての普通列車が停車するようになった。しかし2012年(平成24年)3月17日のダイヤ改正より再び上り普通1本のみ通過するようになった。


駅の南側にかかる園瀬川橋梁の掛け替え工事の関係で、1998年(平成10年)頃から一時仮線上に設置された仮駅で営業していましたが、2002年(平成14年)度に完成しました。

電報略号 フモ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 98人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1990年(平成2年)11月3日
備考 無人駅

新幹線0系 パンタグラフ

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新幹線用車両の中で0系列のみが特高圧引通線を持たず、各ユニットに1基(16両編成では8基)のパンタグラフを装備する。

0系16両編成時は、8台ものパンタグラフを上げて走行していたが、風切りとスパークにより、それらは非常に大きな騒音源となっていた。また、6両編成に短縮されてからもなお3台のパンタグラフを有しており、東海道・山陽新幹線の中では、1編成あたりの実使用パンタグラフが最も多い系列となっていた。100系は当初6台からパンタ半減工事にともなって3台(16両編成)もしくは2台(4・6両編成)に、300系は当初3台から2台に、それ以降の系列は、組成両数にかかわらず全て2台使用である。

JR化後はパンダグラフの両脇に、パンダグラフカバーが取り付けられました。JR西日本所属のNH82編成には例外的に特高圧引通し準備工事が施されており、0系では唯一屋根上にケーブルヘッドカバーを装着した車両が連結されるなど、外観に特徴があった。しかし、準備だけで結局特高圧引通しが行われることはなかった。

開業当時は駅構内が上下線同相給電ではなく、この渡り線の絶縁セクションの電圧差25 \sqrt{2}kV を引通線で短絡するため採用不可であったことと、送電方式にBT (Booster Transformer) き電方式が採用されていたため、特高圧引通線を装備した場合、力行切り替えセクション間にあるブースターセクションを短絡して帰線電流吸い上げ不能となり、給電線のほとんどの電流がパンタグラフと引き通し線を通じて流れアークが発生して損傷の危険があるため装備できなかった。


その後送電方式を現在のAT(Automatic Transformer)き電方式に変更する際に構内同相給電に改め、異相セクションをなくしたことで、設備側については特高圧引通線の装備が可能になったが、本系列については屋根上にヒートポンプ式の空調装置が並べられており、絶縁と空調機のメンテナンスの問題から装備することができなかった。ちなみに、屋根のように見えるのは空調装置のアルミ製のキセ(カバー)であり、構体としての屋根はキセの内部、空調装置の下側にある。

南小松島駅 JR四国)牟岐線

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南小松島駅は、徳島県小松島市南小松島町にある四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅である。

駅番号はM06。小松島市の中心駅であり、全特急列車が停車する。

駅名に「南」とついているが、小松島市の中心駅である。かつては小松島駅も存在したが、現在は廃止されている。駅の北側に市街地が広がっており、特に駅前周辺は住宅密集地。港町らしく、複数の蒲鉾店が駅前通り沿いに立地している。

島式1面2線のホームを持つ地上駅。三角屋根がある木造駅舎です。駅舎内には観光案内所や、JR四国グループのパン屋「ウィリーウィンキー」が出店している。

待合室の壁際には木造長椅子、中央には徳島でよく見る四角い椅子が設置されています。

のりば
1■牟岐線阿南・牟岐・海部方面(大半の列車)
徳島・板野・鳴門・穴吹方面(一部)


ホームは構内踏切で結ばれています。


2■牟岐線徳島・板野・鳴門・穴吹方面(大半の列車)
阿南・牟岐・海部方面(一部)


ホーム中央には古い上屋も設置されています。

1916年(大正5年)12月15日:阿南鉄道の駅として開業。
1936年(昭和11年)7月1日:阿南鉄道が国有化され、国鉄の駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。

電報略号 ミコ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 797人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1916年(大正5年)12月15日

錦帯橋バス 岩国市交通局

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岩国市は錦帯橋をはじめ岩国城などの多くの観光地や観光施設があります。岩国市営バスはこれらの観光地を周遊するバスを運行していますが、地元岩国にちなんだテーマによって工夫した特別なバス車両を運行しています。

①錦帯橋バス
岩国市が誇る名橋「錦帯橋」は世界木造橋梁上極めて貴重であり、市民の「誇り」となっています。そこで、半世紀ぶりとなる平成の架け替えを記念して、錦帯橋をラッピングしたバスをつくり、「錦帯橋バス」と命名しました。このバスは平成16年3月から山陽新幹線の新岩国駅及び山陽本線岩国駅と錦帯橋とを結ぶバス路線で運行を開始しております。

使用車両の特徴:車内には錦帯橋の歴史や架替え風景の紹介、また、創建図のミニ屏風も展示しています。


運行概要
車両種別 ①錦帯橋バス
運行コース: 岩国駅⇔室の木⇔裁判所⇔錦帯橋⇔下多田⇔新岩国駅
営業キロ: 11.2km
所要時分: 片道約30分
運行日: 毎 日
1日: 運行本数16本(平日)18本(土日祝)
運行時間帯:岩国駅8時43分始発20時50分最終(平日)
19時20分最終(土日祝)
新岩国駅 9時25分始発、21時35分最終(平日)20時10分最終(土日祝)
運行間隔: 約90分~100分
運行開始日: 平成16年3月13日

[車両諸元]
全長:8,990mm、全高:3,010mm、全幅:2,300mm、排気量:7,960cc、乗車定員:60人

【錦帯橋】岩国城下を流れる錦川にかかる「錦帯橋」は1673年に三代藩主吉川広嘉により創建されました。幅5m、長さ193.3m、橋面に沿って210mの規模を持つ5連のアーチ型木造橋梁です。しかし、1950年(昭和25年)のキジア台風で流失。「象徴」である錦帯橋を失うという大きな悲しみを乗り越え、再建されました。1922年には国の文化財「名勝」に指定されています。独特の構造を有する木造の造形美は、創建以来多くの人々の手によって大切に守り、受け継がれてきました。その330年の歴史を持つ錦帯橋は匠の「技」により今も往時の姿を保ち、人々に賞賛され愛され続けています。国指定名勝。日本を代表する木造橋。春は桜、夏は鵜飼いや花火の夜景、秋は城山の自然林の紅葉、冬は雪化粧と、「錦」の名の通り
、四季おりおりの色彩豊かな景観が楽しめます。

岩国市交通局(通称岩国市営バス)は、山口県岩国市および玖珂郡和木町を中心にバスを運行していた地方公営企業による公営バスである。本局は岩国市日の出町3-10にあった。2015年3月31日を最後に交通局を廃止、バス事業は2009年に交通局が設立した子会社の「いわくにバス」に全面譲渡された。

 

 


五郎駅 JR四国 予讃線

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五郎駅(ごろうえき)は、愛媛県大洲市五郎にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅。かつては内子線の分岐駅だった。駅の近くには菜の花畑があり毎年3月ごろにはこのあたりは黄色に染まることになる。あたりは田園地帯だが、駅の西南1kmほどの国道56号沿いには商店なども進出してきています。野口五郎がアイドルとして人気絶頂だった1970年代は、多くの女性ファンがこの駅を訪れ、入場券が飛ぶように売れました。ちなみに野口駅は、1984年に廃止された兵庫県の高砂線及び別府鉄道にありました。

この駅を開業させたのは愛媛鉄道です。1918年(大正7年)の2月14日に愛媛鉄道が長浜町駅(現在の伊予長浜駅)から大洲駅(現在の伊予大洲駅)までを開通させたのに伴い愛媛鉄道の途中駅、五郎駅(ごろうえき)としてこの駅は開業しました。
愛媛鉄道は1933年(昭和8年)の10月1日に国有化となり愛媛線とされる。軌間は愛媛鉄道時代から762mmのままだったが、1935年(昭和10年)10月、下灘駅から伊予長浜駅までの路線の開通にあわせて1067mmに改められました。このとき高松駅から下灘駅まですでにのびていた予讃本線が愛媛線を含めて伊予大洲駅までがつながったため、高松駅から伊予大洲駅までが予讃本線とされ、当駅も予讃本線の駅となりました。この日には、それまで愛媛線の一支線だった若宮信号場(伊予大洲・五郎間)から内子駅までの路線も同じく改軌となり内子線と改称、さらに五郎駅分岐とされたため当駅は予讃線と内子線の乗換駅ともなりました。


1986年(昭和61年)の3月には向井原駅から内子駅まで及び新谷駅から伊予大洲駅の新線が開通し内子線が短絡ルートに組み込まれた。このため内子線の当駅から新谷駅までが廃止となり、この駅は乗換駅ではなくなりました。
この駅はその後1987年(昭和62年)4月には国鉄の分割民営化により四国旅客鉄道の駅となって現在に至る。予讃本線は1988年(昭和63年)6月に予讃線と改称されました。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。内子線が当駅に入っていた頃はこの単式ホームのほか、さらに島式ホーム1面2線を有しており、あわせて2面3線だった。今でも使われなくなった島式ホームは残っていて構内は広い。ホームは緩く左にカーブしています。
木造の駅舎があり、かつては駅員も配置されていたが、これも内子線の廃止後撤去されました。現在はホーム上に簡便な待合所が設けられているのみです。待合スペースにはプラスチック製の長椅子が設置されています。駅名表示は、待合所の背中に小さく書かれているだけです。無人駅ですがが、駅近くのタバコ店で近距離乗車券のみを販売する簡易委託駅となっています。


1918年(大正7年)2月14日 - 愛媛鉄道の五郎駅(ごろうえき)として開業する。
1933年(昭和8年)10月1日 - 愛媛鉄道が国有化により国鉄愛媛線となる。
1935年(昭和10年)10月6日 - 下灘駅から当駅までが開通、また愛媛線全線も改軌となる。このとき高松駅から伊予大洲駅までが予讃本線とされる。また内子線が当駅分岐となった。
1986年(昭和61年)3月3日 - 向井原駅から内子駅までと新谷駅から伊予大洲駅までが開通する。これに伴い内子線の当駅から新谷駅までが廃止となり当駅は乗換駅ではなくなる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄の分割民営化により四国旅客鉄道の駅となる。
1988年(昭和63年)6月1日 - 予讃本線が予讃線に改称される。

電報略号 コロ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1918年(大正7年)2月14日
備考 簡易委託駅

 

西岐阜駅 JR東海)東海道本線

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西岐阜駅は、岐阜県岐阜市市橋四丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅である。国鉄末期に設置された岐阜県庁の最寄駅です。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。橋上駅舎を備え、高架橋(市道薮田精華線)上に出入口があり、南駅前広場・北駅前広場に降りることができる。


東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、岐阜駅が当駅を管理している。駅舎内部にはみどりの窓口や自動改札機、自動券売機などが置かれている。

TOICAおよび提携ICカードが利用できる。改札口には2色LED式の発車案内があります。


西岐阜駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■東海道本線 下り 大垣・米原方面


2 ■東海道本線 上り 岐阜・名古屋方面
ホーム上には簡易な仕切で囲まれた待合所が設置されています。

駅前広場にはタクシー乗り場がある他、かつては無料バス(ふれあいバス)が運行されていたが、2011年3月31日をもって営業を終了し、以降は地区内を回るコミュニティバス(西ぎふ・くるくるバス)のみが運行されている。なお駅玄関すぐ西の陸橋上に岐阜バスのバス停があったが2012年3月31日の路線廃止により、消滅している。駅北側の東口広場から岐阜駅方面のバスが1日数本発車している。


2007年5月8日より、西岐阜駅~岐阜大学・大学病院に岐阜大学スクールバスが運行開始。運賃は学生が120円、大学職員、病院通院者が200円。大学、病院内で発売される10枚綴りの回数券のみでの乗車。現金、バスカード(岐阜バスのICカード乗車券ayucaを含む)等の使用はできない。


1986年(昭和61年)11月1日 - 国鉄東海道本線の岐阜 - 穂積間に新設開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
1999年(平成11年)12月4日 - ダイヤ改正によりすべての快速系列の列車が停車。(これ以前は殆どの普通列車が大垣駅発着だったため、新快速、快速は停車せず、普通列車と下りの夜行便の快速ムーンライトながらのみの停車だった。)
2006年(平成18年)9月23日 - エレベータ2基設置、供用開始。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA導入。

電報略号 ニキ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 5,510人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1986年(昭和61年)11月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
* この間に岐阜貨物ターミナル駅有り (当駅から1.2km先)。

 

新幹線0系 普通車リクライニングシート

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新幹線「ひかり」の普通車に登場した“背中合わせ”型リクライニングシート。中ひじ掛けははねあげられ、手前のシートがリクライニングの状態になっている。

 現在の東海道新幹線はすべて「リクライニングシート」ですが、1964(昭和39)年に0系が登場した際、座席がリクライニングできたのは一等車(グリーン車)のみでした。当時はいまほどリクライニングシートが一般的でなく、0系の二等車(普通車)は背もたれを前後に動かして座席の向きを変える「転換クロスシート」が採用されていたのです。

 しかし昭和50年代に入り、国鉄が輸送サービスの向上を図るためアンケート調査を行ったところ、リクライニングシートを望まれる声が多いことが判明。そこで1980(昭和55)年11月から、0系の普通車をリクライニングシートに取り替える改造工事が始まります。また翌1981(昭和56)年に登場した0系車両からは、普通車の座席が全てリクライニングシートになったほか、定員を減らして座席の前後間隔(シートピッチ)を94cmから98cmに拡大するなど、居住性の向上が図られました。

 ただ3人掛け座席は横幅が広く、向きを変えようと回転させると前後の座席にぶつかるため、リクライニングは可能でも座席の向きを変えることはできないという形にせざるをえませんでした。

 これを解決したのが1985(昭和60)年にデビューした100系です。シートピッチを98cmから104cmへ拡大することで、横幅のある3人掛け座席でも前後座席にふつからずに、回転させることが可能になりました。 この普通車104cmというシートピッチは100系以来、東海道新幹線の標準となっています。

 

日産T30エクストレイル 航空自衛隊仕様

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エクストレイル(X-TRAIL )は、日産自動車が2000年から製造・販売するミドルサイズのSUV型の乗用車である。生産は2011年8月に日産から分社化された日産自動車九州が担当。

1997年(平成9年)の第32回東京モーターショーに出品されていたトレイルランナーをルーツとし、そのコンセプトを昇華して市販化した車がエクストレイルである。一部ではラシーンフォルザの後継とも云われているが、車格やコンセプトが全く異なるため、「全くの新車種としての登場」という表現が正しい。
初代(T30型)の発売時には「4人が快適で楽しい、200万円の使える四駆」というコンセプトで発売され(FF仕様もあり)、世界167の国と地域で80万台以上が販売されており、トヨタ・RAV4やホンダ・CR-Vに対抗する世界戦略車である。競合車たちがより高級車指向に向かってモデルチェンジを果たす中、エクストレイルは初代のコンセプトを貫き、他車とは異なるオフロード重視のキャラクターを維持している。2代目(T31型)とプラットフォームを共有しているデュアリスはオンロードユースに重きを置くのに対し、エクストレイルはオフロードユースに重きを置く。しかし基本的には両者共に乗用車と共用のプラットフォームに電磁多板クラッチによるスタンバイ4WDを組み合わせたものであり、はしご型フレームに直結4WDや副変速機を持つヘビーデューティーな仕様ではない。
2代目の途中から欧州ではクリーンディーゼル搭載車のみの展開となっており、販売価格はデュアリス(キャシュカイ)と比べるとかなり高価に設定されている。またアメリカ市場においては初代がカナダとメキシコで販売されていたが、2007年(平成19年)秋にデュアリス(キャシュカイ)の北米版であるローグが発売された関係で、2代目エクストレイルは販売されていない。
発売翌年の2001年(平成13年)から2010年(平成22年)まで、10年連続で日本国内におけるSUV形乗用車販売台数第1位の座を獲得した(翌2011年は同じ日産が発売するコンパクトSUVであるジュークに首位の座を譲った)。

日本仕様は2,000ccガソリン車(QR20DEエンジン搭載の自然吸気と、SR20VETエンジン搭載のターボ)だけだが、ヨーロッパではディーゼル車も設定されている。また、アジア、オーストラリア、中近東では2,500ccガソリン車(QR25DEエンジン搭載)が設定されている。尚、裕隆日産汽車で生産された台湾仕様はフロントマスクが異なる。
販売期間 2000年 - 2007年
乗車定員 5人
ボディタイプ 5ドアSUV
エンジン QR20DE 2.0L 直4 DOHC 150PS
SR20VET 2.0L 直4 DOHC 280PS
変速機 4速AT (E-ATx)
5速MT
駆動方式 FF / 4WD
サスペンション 前:独立懸架ストラット式
後:独立懸架パラレルリンクストラット式
全長 4,445 - 4,510mm
全幅 1,765mm
全高 1,675 / 1,750mm
ホイールベース 2,625mm
車両重量 1,340 - 1,480kg
先代 日産・ミストラル
プラットフォーム 日産・MSプラ

大久野島:火薬庫

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芸予要塞時代、島内には22門の大砲が設置されていました。それら砲台の弾薬や火薬を保管する倉庫でその頃5人の番人がいたそうです。


明治時代に、中部砲台、南部砲台、北部砲台の弾薬は全てこの火薬庫にありました。周りの壁はレンガ造りで残っていますが、大久野島の火薬庫に限らずどの砲台火薬庫の屋根が朽ちていることが多いのはもし爆発しても威力が抜けやすくするためワザと弱く作っているからとの事。

火薬庫の建物自体は南北に長く延びてます。毒ガス工場時代にも化学製品置き場して利用されていました。可部に描かれているMAG1の文字は「MAGAZINE 1」の略で朝鮮戦争当時この建物を日米安保条約によりアメリカ軍が弾薬庫として使用したときに描かれたものです。

倉庫の海側の土手は海や対岸から見えない様に人口的に盛り土をしています。結果、屋根部分の劣化につながったと思います。

火薬庫の構造及び設備
区  分 1級火薬庫(地上) 2級火薬庫(地上) 3級火薬庫(地上)
壁 の 厚 さ 鉄筋コンクリート造は15cm以上
コンクリートフロック造等は20cm以上 盗難及び火災を防ぎ得る構造 鉄筋⊃ンクリート造は20cm以上
補強コンクリートブロック造は30cm以上
但し,前面は10㎝以下の無筋コンクリート造
入 □ の 扉 二重扉
外扉の鉄板厚3mm以上 二重扉
外扉の鉄板厚2mm以上 二重扉
外扉の鉄板厚3mm以上
窓 地盤面からの高さ1.7m以上
直径lcm以上の鉄棒を10cm以下の間隔ではめこむ
床 地盤面から30㎝以上
床下に通気孔3個以上(金網張り,鉄棒はめ込み) (規定なし) 地盤面から30cm以上
床下に通気孔3個以上(金網張り,鉄棒はめ込み)
内     面 原則として板張り,床面には鉄類を表わさない
換  気  孔 天井から両つまに通じるよう,天井と両つまに各1個以上(金網張り)
(2級は規定なし)
暖     房 温水式のみ可
照     明 防爆式電灯,配線は金属管工事,ケーフル工事等,開閉器は庫外
屋     根 外面は金属板,スレート板,瓦等 ラスモルタル仕上げ等
避 雷 装 置 必ず設ける できるだけ設ける (不要)
土     堤 土塊で囲む できるだけ土堤で囲む 土煙又は簡易土堤で囲む
防火,警戒 境界に沿い2m以上の空地,貯水槽,警戒札 外側に注水できる設備
盗 難 防 止 外部にできるだけ夜間点灯,天井裏又は屋根に金網張り
見張人を常時配置する場合以外は警鳴装置を設置

万博記念公園駅 首都圏新都市鉄道

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万博記念公園駅は、茨城県つくば市島名(諏訪)にある、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅。駅番号は18。万博記念公園駅は、つくばエクスプレスで唯一請願駅(県より)として設置されました。

1985年に開催された国際科学技術博覧会会場がこの辺りに位置します。当時の会場は、現在では万博記念公園や筑波西部工業団地とかわり、豊かな自然と企業の研究施設の集積地となっています。

駅名は当駅を最寄とする公園、「万博記念公園」より由来。計画中の駅名の仮称は、当地の地名から取った「島名駅」(しまなえき)でした。

駅周辺は新興住宅地として開発され、高層マンションが建設され、現在は戸建住宅が続々建設中です。

駅の東側出口前の広場には、岡本太郎制作の「未来を視る」と題したモニュメントが設置されています。これは、1985年(昭和60年)に当時の筑波郡谷田部町(現:つくば市)で開催された国際科学技術博覧会(科学万博)に際して制作されたもので、当駅開業にあわせてつくば市御幸が丘の科学万博記念公園から万博記念公園駅前に移設されました。

大阪府吹田市にも当駅と同名の「万博記念公園駅」(大阪高速鉄道大阪モノレール線(本線)・国際文化公園都市線(彩都線))が存在するが、この駅からも岡本太郎が1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)に際して制作された太陽の塔の姿を望むことが出来る。

相対式ホーム2面2線で窓部分をとりこんだ縦縞のデザインが特徴の高架駅です。

切符売場に券売機は2台あります。改札口には自動改札機が3台。

万博記念公園駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 TX つくばエクスプレス線 つくば方面
2 TX つくばエクスプレス線 守谷・流山おおたかの森・北千住・秋葉原方面

2005年(平成17年)8月24日 - 開業。

駅番号 18
所属事業者 首都圏新都市鉄道
所属路線 TX つくばエクスプレス
キロ程 51.8km(秋葉原起点)


駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 2,215人/日(降車客含まず)
-2012年度-
開業年月日 2005年(平成17年)8月24日

安田駅 土佐くろしお鉄道阿佐線

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安田駅は、高知県安芸郡安田町にある土佐くろしお鉄道阿佐線(愛称:ごめん・なはり線)の駅。駅番号はGN23。

安田町の代表駅ですが駅は市街地から外れており、駅前には物産店(鮎の里ゆうすい)や戦没者慰霊碑などがある。周囲は田園風景が広がっている。バスは安田中学校前が最寄ですが、自由乗降区間のためバスに向かって手を挙げて乗車できる。

単式ホーム1面1線を有する高架駅。ホームは線路の南側に置かれている。ホームは狭く、駅自体がコンパクト。

ホームには屋根無しの階段で連絡、また裏手には、地上とホームを結ぶエレベーターが設置されている。無人駅。

名称は「やすだ アユ君」。安田川の鮎にちなんでおり、鮎を頭に乗せた釣り人風のキャラクターである。このキャラクターのモニュメントは西側道路沿い付近に設置されている。

電報略号 ヤタ
駅構造 高架駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 2002年(平成14年)7月1日
備考 無人駅

 

 

 


羽ノ浦駅 JR四国)牟岐線

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羽ノ浦駅(はのうらえき)は、徳島県阿南市羽ノ浦町宮倉羽ノ浦居内にある四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅。

阿南市の一部となった、旧・羽ノ浦町の玄関駅で利用者が多い。駅番号はM09。全特急列車が停車する。
1961年3月31日までは牟岐線貨物支線(古庄支線)が分岐していた。

島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、駅舎とホームは構内踏切で連絡する。正面に大きな三角屋根を持つ駅舎は木造駅舎です。留置側線がある。


JR四国の準社員による業務委託駅である(徳島駅管轄)。汲み取り式トイレがある。オレンジカード対応の傾斜式自動券売機がある。待合室には木造長椅子がありかつてはキヨスクもあった。


のりば
1 ■牟岐線 主に阿南・牟岐・海部方面


2 ■牟岐線 主に南小松島・徳島方面
ホームには木造の上屋があります。他に数本保線用の側線が設置されています。

1916年(大正5年)12月15日:阿南鉄道の駅として開業。
1936年(昭和11年)
3月27日:国鉄牟岐線当駅・桑野駅間が開業し、阿南鉄道と国鉄の接続駅となる。
7月1日:阿南鉄道を国有化。国鉄の駅に一本化される。当駅 - 古庄駅間旅客営業を廃止。
1961年(昭和36年)4月1日:牟岐線貨物支線(古庄支線)当駅 - 古庄駅間廃止。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。

電報略号 ハノ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 745人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1916年(大正5年)12月15日
備考 業務委託駅

 

一畑電気鉄道デハニ50形電車

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一畑電車の前身である一畑電気鉄道の自社発注車両で、1928年の北松江線小境灘(現・一畑口) - 一畑駅間開業で同線が全通した際に、これに伴う車両所要数増に対応して、まず以下の2両が新造された。
3形クハ3・クハ4
1928年4月竣工。小手荷物室付制御車(Tc)。
さらに、1930年の大社線川跡 - 大社神門間開業に先行し、1929年に最初から電装を施して以下の2両が新造された。
デハニ50形デハニ53・デハニ54
1929年12月竣工。小手荷物室付制御電動車(Mc)。
4両とも名古屋の日本車輛製造本店製である。

設計当時最新であったリベット組み立てと溶接組み立てを併用する構造の半鋼製16m級車体を備える。
1928年製の2両と1929年製の2両では、図面番号がそれぞれ「外イ 3948」と「外イ 6364」と異なっており、基本的なレイアウトは同一であるが、車体の一部の組み立て方法がリベットによる鋲接から電気溶接に変更され、車内天井部の構造が簡素化されるなど、細部設計には様々な相違が存在する。
その設計は当時の日本車輛製造による地方私鉄向け電車の標準規格設計に則ったもので、合理的かつ堅牢な車体を備える。
本形式はメートル制施行後の設計であるが、各部の寸法はメトリックではなくヤードポンド法に従っており、車体の全長は50フィート2 1/2インチ(15.3035m)、台車心皿間距離は33フィート8インチ(10.2616 m)となっている。車体の全長をはじめとする主要部寸法は全て先行して日本車輛製造本店で製作されたデハ1形のそれを踏襲しており、各部設計も手小荷物室設置に伴う区画の変更以外は極力デハ1形の設計と共通化を図っている。
新造時には、台枠下部の台車間にトラス棒と呼ばれる補強用の鋼棒が取り付けられていた。
妻面は三面折妻構造とし、貫通路のない非貫通形となっている。
側面窓配置は1d(1)D 12 (1)D1 あるいは1D(1) 12 D(1)d1(D:客用扉、d:荷物扉、数字:窓数)で、荷物扉のドアレール位置を客用扉から一段奥に移して干渉をさけることで、手小荷物室に隣接する客用扉と荷物扉の戸袋窓を1枚で共用する設計となっている。側窓は一段下降式で、窓の上下にウィンドウヘッダーおよびウィンドウシルと呼ばれる補強用の帯金が露出して取り付けられている。また、窓下部に線路と平行して保護棒が2本ずつ設置されており、窓枠は木製である。
屋根はシンプルな丸屋根で、屋根中央には一端のパンタ台部分からもう一端に向かってランボードと呼ばれる歩み板が設置され、その両脇に2列各6個のお椀形通風器がほぼ等間隔となるように設置されている。これらの通風器は左右の2個一組でその中央直下に位置する白熱電球による室内灯灯具と一体の通風口経由で車内と車外の換気を行う構造となっており、これにより合計6基の室内灯が車内天井中央にほぼ等間隔に並べて設置されている。なお、デハニ53・デハニ54だけでなく、クハ3・クハ4についても新造時より手荷物室部直上にパンタ台を備えた状態で竣工している。
座席はロングシートで、客用扉間の側窓11枚分にのみ設置されており、客用扉に隣接する側窓各1枚分の区画は立席スペースとなっている[出典 1]。
床板は木製で、短冊状の板を敷き詰める一般的な構造である。なお、制御車として竣工したクハ3・クハ4についても、新造時より床板の台車部分に主電動機および駆動装置保守用のトラップドアが4カ所設置されており、屋根上のパンタ台ともども将来の電装を前提として設計されていた。

電装品は三菱電機製の機器を搭載する。制御器は三菱電機の技術提携先であるアメリカのウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社からのライセンス供与に基づき設計製作された、HL電空単位スイッチ式手動加速制御器を搭載する。
なお、WH社および三菱電機の型番付与ルールでは、界磁接触器を搭載し弱め界磁制御に対応する制御器は型番末尾に"F"を付与することになっており、このルールに従うとHL制御器はHLF制御器となるが、後述する改造工事で界磁接触器を追加搭載し、弱め界磁制御機能を付加された、本形式をはじめとする一畑電気鉄道のHL制御器搭載車は現役時代の最終期までHLF制御器ではなくHL制御器搭載を公称している。

主電動機は三菱電機 MB-98AFG 直流直巻整流子電動機を電動車の各台車に2基ずつ吊り掛け式で装架する。歯数比は75:16(4.69)であったが、後に71:20(3.55)に改造した。 このMB-98系電動機は端子電圧750V時1時間定格出力75kW、というスペックからWH社のWH-556-J6のスケッチ生産品とも言われた機種で、一畑電気鉄道電化当時のデハ1形、本形式、それにデキ1形デキ1[注釈 1]の3形式以外では、デキ1形の姉妹車にあたる三河鉄道キ10形5両と、同じく三河鉄道のデ300形2両[出典 5]、それに信濃鉄道の電車などの信州の地方私鉄何社かの車両に採用された程度に留まる。
だが、実際にはこの電動機は定格回転数が890rpmで、額面上の定格出力こそ同等であったが、定格回転数が985rpmと低トルク高速回転特性を備えるWH-556-J6とは出力特性が全く異なっており、オリジナルを忠実に模倣するスケッチ生産品とは言い難いものであった[出典 5]。そのため、両機種を混用した名古屋鉄道(名鉄)ではそれらを搭載した車種を種車として製作された車体更新車の3700系を高松琴平電気鉄道(琴電)へ譲渡する際に、搭載電動機を全てMB-98Aに振り替えて送り出し、性能の良いWH-556-J6を手元に残すという判断を行っている[出典 5]。さらにこの電動機を受け取った琴電でも、その低性能ゆえにこれらのMB-98Aをより強力な三菱電機MB-115-AF(端子電圧750V時1時間定格出力93.3kW)や日立製作所HS-267(端子電圧750V時1時間定格出力94.4kW)へ短期間で全数交換しており、また信濃鉄道の国有化でこの電動機を手にした国鉄も制式形式を与える際にWH-556-J6をMT33、MB-98をMT34と別形式として運用上の注意を喚起するなど、このタイプの電動機は主立った導入各社でおしなべて低評価であったことが知られている。
一方で、この電動機は高速運転には向かなかったものの、山岳線で運用される電車や貨車牽引を行う電車に必要な強いトルク性能を持っており。そのため、本形式と同時期に日車が各社へ供給した標準設計車体を備える地方私鉄向け中型・小型電車では三菱電機製HL制御器とセットでこの電動機を採用したケースが幾つかあり、中には「丸窓電車」として後年有名になった上田交通モハ5250形電車のように、新造から廃車までこの電動機をほぼ無改造のまま長期にわたって使用し続けた例も存在した。
一畑電気鉄道で自社発注車3形式(デハ1形・デハ20形・デハニ50形)の電動機に対して戦後実施された弱め界磁制御への対応工事は、こうした低回転強トルクの出力特性を備えるMB-98系電動機の難点、つまり高速域での出力特性を改善するものである。本形式は改造後の歯数比3.55でさえ全界磁定格速度40.5km/hと名鉄のWH-556-J6搭載車が歯数比3.045の全界磁で定格速度52km/h程度の性能を発揮していたのと比較すると著しく鈍足で、全界磁並列最終段でも最高速度75km/hでの運転が精一杯であったが、弱め界磁取り付けとそれに続く歯数比変更の2つの改造により、弱め界磁段を用いて営業運転での認可最高速度を85km/hまで引き上げることは可能となった。

台車はメーカーである日本車輛製造がボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)社製のボールドウィンA形台車をデッドコピーして製作した、D形台車と呼ばれる形鋼組み立て釣り合い梁式台車の一種である、D16を装着する。軸距2,134 mm、車輪径860 mm、心皿荷重上限16 tである。ブレーキは手ブレーキ、およびアメリカのウェスティングハウス・エアブレーキ社が開発し、三菱造船所・三菱電機がライセンス供与を受けたSME非常直通ブレーキを搭載する。集電装置は集電装置は当初は三菱電機 S-514-A 菱枠パンタグラフを1基搭載した。S-514-AはWH社が開発したパンタグラフのライセンス生産品で、一畑電気鉄道以外でも三菱電機製機器のユーザーであった大阪電気軌道・参宮急行電鉄・神戸有馬電気鉄道などの各社で幅広く使用された機種である。もっとも後年、三菱電機がパンタグラフの生産から撤退したため、これを採用していた各社とも東洋電機製造などの他社製パンタグラフへの交換を余儀なくされている。


デハニ51・デハニ52号となる車両は当初電装されておらず、小手荷物室付制御客車として1928年4月7日付監第985号で設計認可を受け[出典 6]、1928年4月7日付で竣功届を提出した。メーカーである日本車輛製造が1928年に発行したカタログにおいても、本車を「郊外用小手荷物室附附隨電車」と記し、手小荷物室付きの附随車として一畑電気鉄道からオーダーされたものであったことと、既存電動車の設計をベースに区画割りなどの小変更を施すことで、規格を統一した車両製作に努めていることを紹介している。。なお、1928年は北松江線小境灘駅(現・一畑口駅) - 北松江駅(現・松江しんじ湖温泉駅)間が開業した年に当たる。
竣功届については鉄道省が1928年6月4日付監鉄第2503号ノ1で「記号『クハ』トアルヲ『クハニ』ト訂正スルコト」と照会し、さらに1929年5月23日付監鉄第2503号ノ2で至急回答するよう督促したが、一畑電気鉄道は、1929年5月28日付庶第83号で「今年三月三十一日付庶第五二号ヲ以テ電動客車ニ改造方認可申請致置候ニ付御認可ヲ得タル上形式称号及車輌番号変更致度候間左様御諒承被下度此段及御願候也」と回答し訂正を拒んだ。
この小手荷物室付制御客車の竣功図は「BATADEN 一畑電車百年ものがたり」に収録されており、それによれば形式称号および記号番号は3形クハ3 - クハ4号である。
電動客車への改造については、1929年3月31日付庶第52号で「弊社旅客、貨物ノ輸送能力ノ増加ト共ニ車輌ノ利用率ヲ高メル為」との理由から設計変更認可申請をし、1929年6月13日付監第1939号で認可を受け、1929年7月1日付庶第100号で竣功届を提出した。この竣功届では3形クハニ3 - クハニ4号からデハニ50形デハニ51 - デハニ52号に改造したことになっている。
また、1929年(昭和4年)には大社線の開業に備えてデハニ53・デハニ54が増備された。
1951年(昭和26年)10月にはデハニ51が手小荷物室を撤去し、窓配置を1D(1) 14 (1)D1へ変更、扉間の座席をロングシートとクロスシートの組み合わせによる セミクロスシートへ変更の上、デハ20形デハ21となった。また同じ年にはデハ1形、デハ20形とともにデハニ50形に弱め界磁機能を取り付ける改造が行われ、認可最高速度が75km/hから85km/hに向上した。もっとも、高速域での運転性能の向上には弱め界磁の付加だけでは不十分であったらしく、1955年7月7日付で歯数比が4.96から3.55へ変更されている。
1967年(昭和42年)9月には、デハニ54が荷物室と片側の運転台を撤去し、客用扉にドアエンジンを付加して自動扉化した上でデハ11(2代)に改番された。デハ11はデハ1形デハ7を改造したクハ111(2代)と2両編成を組成したが、90系入線のため1986年(昭和61年)3月24日をもって廃車となった。
デハニ50形は自動化された客用ドアを最後まで装備しなかった。一畑電気鉄道ではこのような車両を「在来車」と呼び、車体塗装を他の車両と変えることで区別していた。他の旧型車が黄色(カナリア色に近い)で塗装されていたのに対して、デハニ50形の車体色がオレンジであるのはこのためである。デハニ50形は“在来車”として最後の車両で、自動化された客用ドアを持たない営業用の電車としても日本で最後の車両である。
一畑電車の近代化が完了した1998年(平成10年)以降は、数少なくなった昭和初期の車両として団体列車などに運用されていた。デハニ52は、新型2100系の入線を控えた1994年(平成6年)9月、松江市の定期観光コースに使用するためにお座敷列車「ふるさと号」に改装された。この際に形式称号から荷物室を持つことを表す「ニ」が消えてデハ52となっているが、その後も「デハニ52」と表記されていることが多い。観光コース自体は利用が伸び悩んだために1996年(平成8年)9月30日に中止となっている。一方のデハニ53はラッシュ時の増結用となっていたが、北松江線の近代化が進んだために1996年10月1日に定期運用を外れた。3年後の1999年(平成11年)6月には畳敷きに改装され、デハ52同様ビール列車などの団体運用に従事するようになった。両車とも、工事列車の牽引車としても使用され、無蓋車ト60を牽引して保線に従事することがあった。冬季にはスノープラウを装着して除雪作業にもあたったほか、救援用にも使用された。なお、1995年(平成7年)にはエバーグリーン賞を受賞している。
しかし年を追うに従って交換部品の確保の観点から保守が難しくなった上、さらにブレーキシステムが単一系統であること・手動扉・ATS未設置・不燃化対策も未施工と、車両の安全基準を満たすことが出来ず新たに更新を行うことさえ出来なくなったことから、2009年(平成21年)3月29日に実施されたさよなら運転をもって営業運転を終了した。その後も車籍は残っており、映画撮影時を除いて、雲州平田駅構内に留置、もしくは出雲大社前駅で展示されている。ただ、飯野公央島根大学准教授らで構成される「デハニ50形活用検討協議会」により、動態保存を推奨する提言の原案がまとめられる方向で、時期や区間は限定されるものの、復活運行される可能性が高くなっている。

西原駅 JR四国)牟岐線

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西原駅(にしばらえき)は、徳島県阿南市那賀川町大京原にある、四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の駅。

戦後に開設された新しい駅です。駅番号はM10。かつては普通列車も一部通過してた小駅です。

単式1面1線のホームを持つ簡易地上駅。ホーム上の待合所にはベンチがあり、その裏にまたベンチがあるという二重ベンチ2重構造になっています。無人駅。

水洗トイレがある。駅入口はスロープでバリアフリー化されています。駅の近くで県道とアンダークロスしています。

1964年(昭和39年)10月1日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
1996年(平成8年)1月 - 利用者の寄付(約250万円)により水洗トイレが完成。

電報略号 ニラ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1964年(昭和39年)10月1日
備考 無人駅

 

柏原駅 JR東海)東海道本線

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柏原駅(かしわばらえき)は、滋賀県米原市柏原にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。滋賀県の駅では最東端に位置する。

「柏原」という駅名だが、同じ漢字でも読みが異なる駅がJRでは3駅存在する。マルス発行の乗車券では当駅は(東)柏原と表記されて区別される。関西本線(大和路線)にある柏原駅は「かしわら」福知山線にある柏原駅は「かいばら」また、信越本線黒姫駅も1968年までは柏原駅(「かしわばら」)と称しました。当駅は3駅中もっとも地味な存在で、朝夕の他は利用者も少なく閑散としています。

1883年(明治16年)に建設された当初の東海道線は関ヶ原から山中に分け入り、長浜に連絡していたが、大津方面への延長は、同線の途中(後の深谷駅)から分岐して現在の近江長岡に直通する線形となった。しかし、関ヶ原 - 深谷間には25‰の連続急勾配が残り、難所となっていたが、1899年(明治32年)10月に当駅経由の勾配緩和新線が開通し、旧線は同年12月に廃止となった。この新線区間に新設された駅が当駅です。


特急「つばめ」「はと」が蒸気機関車牽引だった当時は柏原駅の通過時分を国鉄本社へ直接報告する事となっていた。遅れが発生すると乗務員は後で叱責を受ける事もあり、時には「マル(定時通過)にしてくれ」と書いたメモをホームで監視する駅長に投げ渡す事もあったと言われる。

島式ホーム2面4線を有する地上駅。昭和32(1957)年3月改築、コンクリートブロック造の無骨な駅舎です。互いのホームは跨線橋で連絡している。


大垣駅管理の簡易委託駅となっている。自動改札機・自動券売機は設置されていない。なお、マルス端末は設置されているが、取り扱いに制限がある。

切符売場横の待合室には壁側に沿って椅子が多数設置されています。

 

柏原駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 (下り待避線、予備ホーム)
2 ■東海道本線 下り 米原・京都方面
3 ■東海道本線 上り 大垣・名古屋方面
4 (上り待避線、予備ホーム)


ホームから伊吹山が望めます。
下りホームの建物は運転事務室跡。

1900年(明治33年)2月21日 - 国有鉄道東海道線(1909年に東海道本線に改称)の関ヶ原 - 長岡(現・近江長岡)間に新設開業。一般駅。
1960年(昭和35年)9月16日 - 貨物の取扱いを廃止。


1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱いを廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道(JR東海)の駅となる。
現在は全ての旅客列車が2・3番線に発着しているため、1・4番線発の定期旅客列車はない。

電報略号 ワハ
駅構造 地上駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 262人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1900年(明治33年)2月21日
備考 簡易委託駅

曳船・50トン型 YT91

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曳舟、曳船とは、タグボートのことです。船舶や水上構造物を押したり引いたりするための船です。

サイズはさまざまであり、港湾で船舶が岸壁・桟橋に着岸・離岸するのを補助したり、河川や運河で艀(はしけ)などを動かしたりするために使われる数十トン級の小型のものから、外洋で海難救助などの作業に従事したり、大型プラントを海上輸送するために使われる数千トン級の大型のもの(オーシャンタグ)まで幅広い。
自身の船体を輸送対象に直に接触させて押すこともあるため、船体の外周には防舷物として古タイヤや樹脂などの緩衝材(フェンダー)が設けられている。
作業性を求めて作業デッキは低い位置に設けられている船が多く、一般的に荒天にはあまり強くないといわれる。

動力は自身の船体を動かすだけでなく、自身よりはるかに大きく重い他船や構造物をも動かす必要があるため、自身の船体サイズには不相応な強力なエンジンを搭載している(たとえば、2000トン級では10000馬力程度のエンジンを搭載していることが普通である)。ただし、エンジンやスクリューは速度よりもトルクを重視した低速型のセッティングになっており、馬力の割に速度は出ない。
港湾内などで使われるタグボートの場合、小さな船体に機動性が求められるため、スクリューには特殊な構造が用いられ、舵の機能を持たせたものが多い。

対象物をある程度長い距離移動させる場合は、タグラインと呼ばれるロープやワイヤーを掛けて牽引・曳航する。大型船舶の接岸を補助する場合などで進行方向に十分な作業スペースを取れない場合や、比較的細かい位置の調整を行う場合などは、防舷物(古い航空機用タイヤなど)を介して自身を対象に直に接触させて押す。
通常は1隻で作業を行うが、対象のサイズや周囲の状況によっては複数のタグボートを使用して、互いに連携しながら作業を行う。

YT91は海上自衛隊の支援船第1種に分類される押し船タイプの小型曳船です。従来のタイプに比べ、操舵室が船体中央に移され、操舵性が向上しています。支援船は自衛艦籍に艦籍がありません。
 曳航能力は5トンで、全周旋回式プロペラを採用しています。またこの大きさの船では初めて船首に揚索機を装備しています。


主要寸法:全長17.0m×幅4.8m×深さ2.4m×喫水1.2m
エンジン:ディーゼル2軸 出力:500PS
速力:約8kt
船質:鋼
建造費:2億6千4百万円

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