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関ヶ原駅 JR東海)東海道本線

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関ヶ原駅は戦国時代の合戦「天下分け目の関ヶ原」で有名な岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。

冬の積雪量が多く、よく路線が不通になることがあります。
南荒尾信号場で分岐していた上り本線・下り本線と通称「垂井線」と呼ばれる単線が当駅で合流する。岐阜県最西端の駅です。

島式ホーム2面4線を有する地上駅である。入口部分が改装された洋風木造駅舎です。駅舎は構内南側にあり、2つのホームとは跨線橋で連絡している。


東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、大垣駅が当駅を管理している。切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台。みどりの窓口、自動改札機が2台設置されています。

自動改札機は静岡地区の小規模駅で導入されている簡易型のものである。当駅から岐阜方面に限り、TOICAおよび相互利用先IC乗車カードの対応区間となっている。改札口に発車案内は設置されていません。


当駅で上り方面へ折り返す列車は上り本線に入線できないため、いったん垂井線を東方面に向かい垂井駅から上り本線に入る。そのため当駅から垂井駅までは複線を逆走しているように見える。


当駅以西は、国道21号と併走する区間(関ケ原町大字今須)に県境があり、ここまで岐阜県であるが(夏場以外は車窓からもカントリーサインが見える)、ここと当駅との間にトンネルを含めた峠越えがある。当駅から米原駅までは東海道本線(美濃赤坂線を除く)で最も本数が少ない区間であり、当駅を含む大垣 - 米原間の日中における普通列車は毎時2本程度しか走っていない。

関ヶ原駅プラットホーム
ホーム 路線 方向        行先 備考
1■東海道本線 下り(垂井線経由)米原・京都方面


2■東海道本線 上り(垂井線経由)大垣・名古屋方面 当駅始発専用
3■東海道本線 下り(本線経由) (特急・貨物列車の通過のみ)


4■東海道本線 上り(本線経由) 大垣・名古屋方面
下り停車列車は全て垂井線を経由するため、垂井線用の1番線ホームのみを使用する。本来の下り本線である3番線は通過列車しか通らない。構内下り方は急カーブとなっています。

駅舎からホームへ向かう通路にあった鉄道唱歌の石碑。関ヶ原バージョン。

1883年(明治16年)5月1日 - 官設鉄道の関ヶ原 - 長浜間開業時に設置。一般駅当時は、春照駅経由で長浜駅と連絡していた。
1889年(明治22年)7月1日 - 分岐点(後の深谷) - 長岡 - 米原 - 馬場間延長線開業。分岐点 - 長浜間休止。
1891年(明治24年)1月12日 - 長岡・長浜への分岐点に深谷駅(貨物駅)開業。深谷 - 長浜間が貨物線として運行再開。


1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
1899年(明治32年)10月15日 - 関ヶ原 - (柏原) - 長岡間の勾配緩和新線(現在線)が開業。
1899年(明治32年)12月28日 - 関ヶ原 - 深谷 - 長岡および深谷 - 長浜間廃線。


1944年(昭和19年)10月11日 - 新垂井駅経由の勾配緩和別線(下り専用)が開業。南荒尾信号場 - 垂井 - 関ヶ原間の下り線が撤去される。
1946年(昭和21年)11月1日 - 旧下り線が垂井線(単線)として復活。
1973年(昭和48年)10月1日 - 貨物の取扱いを廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱を廃止。


1986年(昭和61年)11月1日 - 下り本線(勾配緩和別線)にあった新垂井駅が廃止。全普通列車が垂井駅経由での運転となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道(JR東海)が承継。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA導入。ただし岐阜方面のみ利用可能で、米原駅との間は使用できない。

電報略号 セラ
駅構造 地上駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 1,095人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1883年(明治16年)5月1日
乗入路線
所属路線 東海道本線(上り本線・垂井線)
所属路線 東海道本線(下り本線)
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
* この間に南荒尾信号場有り(当駅から10.7km先)。

 


CH-101 二代目しらせ艦載機 AgustaWestland AW101

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CH-101 二代目しらせ艦載機
三代目南極観測船「初代しらせ」艦載機のS-61A-1の後継として、四代目南極観測船「二代目しらせ」用にCH-101が文部科学省予算で調達され、海上自衛隊によって運用されている。CH-101はその任務上極寒冷地対応とされており、所定の追加装備が施されているが、外観上の変化は僅かである。平成16年度と平成17年度に各1機、平成24年度補正予算で1機の計3機が調達された。
2007年5月にCH-101初号機がライセンス生産により川崎重工業から「しらせ飛行科」へ納入され、岩国基地の第111航空隊支援の下で試験と訓練を経て、2009年10月に「二代目しらせ」に搭載された。しらせ配備機は、部品調達の関係から今後も第111航空隊の支援を受ける。

アグスタウェストランド AW101(AgustaWestland AW101)は、イギリスのウエストランド社とイタリアのアグスタ社が共同開発した汎用ヘリコプターである。両社は2000年に合併し、現在はアグスタウェストランド社が販売と製造を請け負っている。
イギリスにおける愛称は、コチョウゲンボウを意味するマーリン(Merlin)ポルトガルとデンマークでもこの愛称が採用されている。

シーキングの後継機として開発されたため、機体の寸法・重量はシーキングに合わせて設計されている。大量の機材と長大な航続距離を求めた結果、3発のエンジンと巨大な床下燃料タンクを搭載する大型機となったが、オプションのテール及びローター折り畳み機構によって艦載機としての運用を可能としている。
巨大な機内空間は左舷にステップ付きドア、右舷にスライド式カーゴドア、後部にランプ・ドアを備え、民間輸送型で30人を乗せる事ができる。
5枚のメインローターはウエストランド社がリンクスで取り組んだBERPブレードを採用し、特徴的な外見を備えている。

海上自衛隊では、AW101を掃海・輸送ヘリコプターMCH-101と呼称し、掃海機および輸送機として運用する。2015年3月末時点のMCH-101の保有数は6機。
ローターと尾部に自動折り畳み機能を持ち、艦載機としての運用性を持たせている。また、自動飛行制御装置(AFCS)、能動制振装置(ACSR)といった電子機器を搭載しており、飛行性の向上と機体への負担を軽減している。


海上自衛隊では、掃海機MH-53Eの減勢にともなう後継機として、護衛艦へ発着可能で掃海具の小型化に対応した新型ヘリコプターを必要とし、2003年(平成15年)予算で新掃海・輸送ヘリコプターとして初めて1機が取得された。MCH-101の初号機は完成品輸入として2006年(平成18年)に納入された。2号機は川崎重工業によりノックダウン生産、3号機以降はライセンス生産が行われる。2003年の防衛力整備では、MH-53Eの事故による損耗分を含めた11機の取得が必要だと予算要求された。
MCH-101は平成16年度防衛白書において、ひゅうが型ヘリコプター護衛艦に輸送ヘリとして搭載、運用することが示唆されている。2012年にはノースロップ・グラマンが開発したポッド式LIDAR装置である空中レーザー機雷探知システム(AN/AES-1 ALMDS)を導入すると発表された。ALMDSはアメリカ海軍ではMH-60Sで運用される予定で、低率初期生産が開始されたばかりである。

主回転翼直径:18.6m
尾部回転翼直径:4.0m
胴体長:19.5m
胴体幅:4.6m(テールフィン除)
全長:22.83m(テールローター含、メインローター除)
全高:6.66m(テールローター含)
空虚重量:10.5t
有効積載量:5.443t
最大離陸重量:15.6t
発動機(民間用):GE CT7-6A(2,000軸馬力(shp)ターボシャフト3基
発動機(軍事用):GE T700-T6A1(2,145軸馬力(shp)またはR&R/チュルボメカ RTM322(2,263軸馬力(shp)ターボシャフト3基
超過禁止速度:311km/h
巡航速度:278km/h
乗員2名+乗客30
ホバリングIGE : 3307m

JR東海キヤ97系気動車

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キヤ97系気動車(キヤ97けいきどうしゃ)は、東海旅客鉄道(JR東海)が所有する事業用気動車である。

キヤ97-101 - 104・東海道本線上で神戸向きの先頭車。

レールの輸送に供される事業用の気動車で、キヤ97形・キヤ96形・キサヤ96形の3形式が存在する。
編成は、25mの定尺レール運搬用の2両編成4本と、200mのロングレール運搬用の13両編成1本があり、それぞれR1 - R4、R101の編成番号を称する。いずれもメーカーは日本車輌製造で、前者は2008年(平成20年)4月、後者は同年7月に運用を開始している。配置されている車両基地は、前者が名古屋車両区、後者が美濃太田車両区である。


エンジンは電子燃料制御方式で定格出力360PSのカミンズ製N14ER(JR東海形式:C-DMF14HZC)をキヤ97形およびキヤ96形に1基搭載する。液体変速機は加速性能を高める目的で変速2段・直結3段式とし、定低速用クラッチブレーキを内蔵した日立ニコトランスミッション製C-DW19A形を採用した。ブレーキシステムはキハ75形・キヤ95系と共通の電気指令式空気ブレーキであるが、自動空気ブレーキの機能も有しており、機関車による牽引も考慮されている。
空車時の最高速度は110km/h、レール運搬時は95km/hである。最大レール積載量は、定尺レール運搬用が25m×46本でロングレール運搬用が200m×20本となっている。
ロングレール運搬用車両の運転室の下部には積載したレールを下ろす際に通すことが可能な空間が確保されている。
なおR1・R2編成は、出場時に測定室を積載していたが、これはその後R101編成に積載された。

2010年に佐久間レールパークの保存車両をリニア・鉄道館に移動するために、配給列車が設定された。佐久間レールパークのある中部天竜駅は、道路事情が悪く、トレーラーによる車両輸送ができず、列車で輸送されることとなった。JR東海は、除雪用を除き機関車を保有していなかったため、キヤ97系R101編成を3両組成にした上で、保存車両を日本車輌製造まで運搬した。
2012年10月、事故で損傷した213系H2編成を日本車輌から名古屋工場まで輸送した。

編成 2両固定(R1-4編成)
最大13両(R101編成)
最高速度 110km/h
車両定員 非営業車両(事業用)
最大寸法
(長・幅・高) キヤ97形 18,200×2,800-2,935×3,998-4,080(mm)
キヤ96形 18,200×2,706×3,541(mm)
キサヤ96形 18,200×2,700×2,070(mm)
機関出力 360PS(C-DMF14HZC)×1 / 両(キヤ97形・キヤ96形)
駆動装置 液体式
変速段 変速2段・直結3段
台車 軽量ボルスタレス台車
* C-DT66形(動力)
* C-TR254形(付随)
軸箱支持:ウイング円筒積層ゴム+コイルばね 枕ばね:空気ばね
制動方式 電気指令式ブレーキ
機関ブレーキ・リターダブレーキ
自動空気ブレーキ
保安装置 ATS-PT ATS-ST EB装置 TE装置
製造メーカー 日本車輌製造
備考 2M編成(定尺レール運搬用)
8M5T編成(ロングレール運搬用)

 

垂井駅 JR東海)東海道本線

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垂井駅(たるいえき)は、古くは美濃国府が設置されて繁栄を誇った岐阜県不破郡垂井町垂井にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。

豊臣秀吉の智恵袋竹中半兵衛の出生の地です。古くは東海道線は勾配克服のため下り線は別線となっておりこの駅を通りませんでした。

この北方にあった下り駅新垂井駅は昭和61年に廃止されましたが、迂回線は残っており、下り通過列車のない変わった駅となっています。

構内北側に単式ホーム1面1線と南側に島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅であり、橋上駅舎を備える。南口駅前にはロータリーが整備され北口の駅前広場は公園風に整備されています。駐輪場も北口にあります。


東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、大垣駅が当駅を管理している。みどりの窓口、自動券売機1台、自動改札機3台などがある。TOICAおよび提携ICカードの利用が可能です。改札口の頭上にはLED式の発車案内が設置されています。


垂井駅プラットホーム
ホーム 路線  方向 行先          備考
1■東海道本線 上り 大垣・名古屋方面


2■東海道本線 上り 大垣・名古屋方面 関ヶ原駅始発・待避列車
3■東海道本線 下り 米原・京都方面
(垂井線経由) 上り 大垣・名古屋方面 関ヶ原駅始発のみ


関ヶ原駅始発の上り列車は、当駅まで垂井線(後述)を走行する都合上、上り本線から繋がっている1番線には入線できず、2・3番線に入線する。2番線は上り本線側からの列車の入線も可能であり、優等列車待ち合わせ時に入線する。


下り停車列車は全て垂井線経由のため、3番線を使用する。
ホームは大きく右にカーブしています。他に保線用の側線も設置されています。

垂井線:東海道本線の南荒尾信号場 - 垂井駅 - 関ヶ原駅間は、一見普通の複線に見えるが、これは上り本線と「垂井線」と呼ばれる別線との並列であり、下り本線は旧新垂井駅経由の迂回線である。「垂井線」南荒尾信号場 - 垂井駅間は下り専用で、垂井駅 - 関ヶ原駅間は上下双方向に運転可能な単線となっており、下り普通列車はその垂井線を走行する。


垂井線は特別な場合を除き普通列車のみが走行するため、垂井線の軌道は本線に比べて簡易な造りとなっており、最高運転速度も85km/hと低い。また、関ヶ原駅で折り返した列車は、その場で上り本線に折り返せないため、いったん垂井線を東方面に向かい垂井駅で上り本線に入る。そのため垂井駅 - 関ヶ原駅間は複線を逆走しているように見える。

1884年(明治17年)5月25日 - 国有鉄道大垣 - 関ヶ原間延伸時に開業。一般駅。
1944年(昭和19年)10月11日 - 新垂井駅開業により、上り列車のみの営業となる。垂井駅 - 新垂井駅間は省営バスが走った。
1946年(昭和21年)11月1日 - 旧下り線が垂井線(単線)として復活したことにより、下り列車の停車が再開。
1971年(昭和46年)10月4日 - 貨物の取扱いを廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱いを廃止。


1986年(昭和61年)11月1日 - 下り本線専用の新垂井駅廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
1995年(平成7年)3月5日 - 駅舎橋上化。
2002年(平成14年)11月12日 - 自動改札機設置。
2003年(平成15年)4月16日 - 北広場(ロータリー、歩道、駐輪場)の整備が完了。これにより以前から進められていた一連の駅周辺整備事業が完成した。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA導入。
2010年(平成22年) 2月13日 - 上下線ホームにエレベーター設置。駅構内に多機能トイレ設置。

電報略号 タル
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 2,542人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1884年(明治17年)5月25日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
* この間に南荒尾信号場有り(当駅から5.0km先)。

穂積駅 JR東海・JR貨物)東海道本線

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穂積駅(ほづみえき)は、岐阜県瑞穂市別府にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)東海道本線の駅です。
瑞穂市及び旧本巣郡穂積町の代表駅でもある。瑞穂市だけではなく、近隣町村からのパーク&ライドの拠点としての利用も多く、名古屋~大垣の途中駅ではベスト3に入る乗降者数を誇っています。

駅前の南側・北側にはタクシー乗り場や公衆トイレ、コインパーキングなどがあり、駅前広場が整備されている。駅北側は一部に私有地が残っている関係で整備が未完となっている。

島式ホーム1面2線を有する高架駅である。駅は盛土上に作られている。駅前広場は整備されていますが、市の代表駅としては駅前は賑わいはない。
ホームのある本線の他に、その外側に1本ずつホームの無い副本線(待避線)がある。この待避線は回送列車や貨物列車の旅客列車待避に使われている。また、上り副本線から電化されていない側線1本がある。この側線は、貨物の取り扱いがあったころは電化されていた。


駅長は配置されない駅員配置駅(直営駅)であり、岐阜駅が当駅を管理する。高架下の駅舎内部にはみどりの窓口、切符売場。ICカード対応の券売機が3台などが置かれている。TOICAおよび提携ICカードが利用できる。改札脇にはキオスクが営業しています。

穂積駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■東海道本線 下り 大垣・米原方面
2 ■東海道本線 上り 岐阜・名古屋方面
路線は大きくカーブしています。

汽車まつり - 毎年8月第1土曜日・日曜日に、穂積駅開設を記念してパレードなどが行われる。2006年(平成18年)は穂積駅開業100周年記念として例年より盛大に行われた。
駅東側にマンボのトンネルがあり、トンネル内西面に開駅当初のホームへの上がり口が設けられていた。2011年現在、トンネル内壁に塗られたペンキで見づらくなっているが、コンクリートで埋められた痕跡が確認できる。

貨物取扱:現在は臨時車扱貨物のみを取り扱っており貨物列車の発着が無い。駅南西に日本石油穂積油槽所があり、そこへ続く専用線が1997年頃まで存在していた。専用線には、汐見町駅発送の石油が到着していた。またそれ以前は、駅東にある砕石工場まで続く専用線も存在あり、現在もその名残がわずかに残っている。

1906年(明治39年)8月1日 - 国有鉄道東海道線(1909年に東海道本線に改称)の岐阜 - 大垣間に新設開業。
付近の路線は、開通当初は地上にあったが、1908年(明治41年)の複線化に伴い盛土路盤となった。
1929年(昭和4年)3月31日 - 南側に駅舎(木造)を新築。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1985年(昭和60年)10月22日 - 駅前広場整備、現在の3代目駅舎に改築。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)が継承。
1997年(平成9年)3月22日 - 貨物列車の発着が無くなる。
1999年(平成11年)12月4日 - 新快速及び新設された特別快速・区間快速の停車駅となる(快速は以前から停車)。
2003年(平成15年)5月1日 - 穂積町が巣南町と合併し瑞穂市となり瑞穂市の代表駅となる。
2006年(平成18年)3月11日 - エレベーター・多機能トイレ整備完了。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA利用可能となる。
2007年(平成19年)9月20日 - TOICA専用改札機を導入。

電報略号 ホミ
駅構造 高架駅(盛土上)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 8,426人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1906年(明治39年)8月1日
備考 駅員配置駅
みどりの窓口 有
* この間に岐阜貨物ターミナル駅有り(当駅から1.6km先)。

 

スーパー千鳥(高速船) 江田島市企業局交通課

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中町・高田ー宇品航路(高速船)。人のみを運搬する小型船です。 車両・二輪車は運搬できません。高速船は高速運航するため,多少揺れがあります。広島市内から江田島市西部(沖美町・能美町)方面へ公共交通機関のみで移動する場合は,こちらが便利です。(乗船時間 約30分).今後は瀬戸内シーライン株式会社が指定管理者になる予定です。

高速船は、通常の船舶より高速で航行できる船舶の一般的呼称である。国や機関によって種々の定義が用いられており、統一された定義はない。日本での国土交通省海事局や日本海難防止協会は、航海速力22ノット以上の船舶を高速船(高速旅客船)、35ノット以上の船舶を超高速船と定義している。


高速船の運航には概して経費がかかるため、並行して一般の旅客用船舶が運航されている場合には、鉄道の列車と同様に乗船券の他に特急料金や急行料金が必要となったり、料金に差が設けられる。例えば、かつての宇高航路の急行便(ホバークラフト、高速艇)も連絡船急行券を必要としていた。

船型は双胴(カタマラン)。カタマランは船体を細くすることで造波抵抗を減らし、甲板面積を確保するために双胴としたもの。波浪の影響も受けにくく、速度と直進性に優れる。波浪貫通型双胴船:ウェーブ・ピアーサーを双胴船に適用したもので、船首部を波を貫通するような鋭い形状とすることによって、波による動揺や造波抵抗の軽減を図っている。

船舶番号 136142
信号符字  
船籍港 江田島
船主名 江田島市
就航航路 宇品~中町
造船所名 三保造船所 大阪
竣工年月 1997年7月
就航年月  
総トン数 92トン
登録長 24.52m
型幅 6.80m
型深さ 2.30m
機関 ディーゼル×2
機関馬力 2,502PS
 

赤駅 平成筑豊鉄道田川線

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赤駅(あかえき)は、平成筑豊鉄道の35番目の駅です。

赤村役場の最寄駅で福岡県田川郡赤村大字内田にある未成線となった油須原線との分岐点付近に位置する駅です。

駅周辺には人家はありません。優等列車の運行はなく、普通列車のみ停車する。

駅前に村役場、中央公民館、保健センターなどの村の施設が集中している。ただし駅周辺に大きな集落や商店はなく、村の中心市街地へは隣の油須原駅のほうが近い。
駅前の道路は未完成に終わった日本国有鉄道(国鉄)油須原線用に用意された敷地で、道路上に敷設された軌道の上でボランティアの手によるトロッコ列車が月に1 - 2日程度運行されている。

下り列車進行方向に向かって左側に単式ホーム1面1線を持つ地上駅。待合室あり。ミスマッチな木製の駅名看板が掲げられた「赤村トロッコ油須原線事務所」が併設されたコンクリート造駅舎です。

ホーム入口にはFRP製の椅子が設置されています。またホームにもFRP製の椅子が設置されています。

駅ホーム前には、高齢者の方々が永年培った豊かな知識と経験や、熟練した木工品作りや果実の加工などの技能の活用を推進する「高齢者能力活用センター」が併設されています。

2003年(平成15年)3月15日 - 平成筑豊鉄道により開業。

所属事業者 ■平成筑豊鉄道
所属路線 ■田川線
キロ程 18.4km(行橋起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 2003年(平成15年)3月15日
備考 無人駅

観光列車 瀬戸内マリンビュー1号 再編集

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瀬戸内マリンビューは、西日本旅客鉄道(JR西日本)が広島駅 - 三原駅間を山陽本線・呉線経由で運転している快速列車(臨時列車)である。

2005年に広島県の大型観光キャンペーンにより、3月 - 8月の休日を中心に「スーパーサルーンゆめじ」を使用して、快速「瀬戸内おさんぽ号」が運転された。その後同年10月1日から観光列車として快速「瀬戸内マリンビュー」が運転されている。

2011年3月12日現在、臨時列車として土曜・休日のみ1日1往復運行されている。主として単線区間を定期列車の合間を縫って運行するため、通過駅であっても運転停車する場合がある。列車号数は一般的に下り列車は奇数、上り列車が偶数であるが、当列車は広島駅を基準としているため、下りが偶数、上りが奇数に設定されている(2012年の「清盛マリンビュー」運行に際しても、宮島口駅発が下りとなっている)。

なお、2011年3月11日までは毎日1日2往復で、1号が広島駅から三原駅まで運行、その後2・3号として三原駅 - 呉駅間を1往復し、最後に4号として広島駅に戻ってくる形で運行されていた。


大河ドラマ「平清盛」の連動企画として、2012年1月7日から2013年1月14日までの土曜・休日ダイヤにおいて宮島口駅 - 広島駅間で延長運転を行い、「清盛マリンビュー」として運転されていた。列車のヘッドマークに「大河ドラマ『平清盛』広島県推進協議会」のキャラクター「ひろしま清盛」のイラストを用いるなどの意匠変更が行われている。ドラマと関連イベントの終了に伴いタイアップも終了した。

2006年3月18日から2011年3月11日までは、広駅 - 三原駅間は各駅に停車していたが、2011年3月12日のダイヤ改正で、2005年10月の運転開始当初と同じ快速運転に戻された。

キハ47形気動車を当列車専用に改造したキハ47形7000番台を使用して2両編成で運転されており、1号車は指定席、2号車は自由席となっている。
全線電化の路線を全区間で気動車が走行するのは全国的にみても珍しい。

2005年(平成17年)3月19日:211系 スーパーサルーン「ゆめじ」編成(3両)が使用された快速「瀬戸内おさんぽ号」が運行開始。
2005年(平成17年)10月1日:キハ47形7000番台(2両)を用いて快速「瀬戸内マリンビュー」が運行開始。以降の本欄は「瀬戸内マリンビュー」について述べる。
2006年(平成18年)3月18日:広駅 - 三原駅間が各駅停車となる。


2010年(平成22年)7月 - 10月:大雨の影響により呉線に不通区間が発生し、運行休止になる。
2011年(平成23年)3月12日:ほぼ毎日2往復の運行から、土曜・休日のみの1往復運転に変更。広駅 - 三原駅間が快速運転に戻される。
2012年(平成24年)1月7日:山陽本線広島駅 - 宮島口駅間を延長運転し、宮島口駅 - 三原駅間の快速「清盛マリンビュー」として運転開始。この措置は2013年1月14日まで。

運行事業者 西日本旅客鉄道
列車種別 快速列車(臨時列車)
運行区間 広島駅・呉駅 - 三原駅
経由線区 山陽本線・呉線
使用車両
(所属区所) キハ47形7000番台
(下関総合車両所広島支所)
運行開始日 2005年10月1日
備考 2011年3月12日現在の



岐阜駅 JR東海)東海道本線・高山本線

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岐阜駅は、岐阜県岐阜市橋本町一丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。高架化により現駅舎の北側にあった旧駅舎が最近取り壊されたことや、周辺ビルの老朽化が著しいことから、現在「岐阜駅北口駅前広場整備計画」に基づいて、北口(長良口)では大規模な駅前再開発が行われている。また、岐阜駅北約21ha及び柳ヶ瀬通周辺約9haの地域は、「都市再生緊急整備地域」に指定され現在再開発が進んでいる。


JR岐阜駅バスターミナル、名鉄岐阜駅、名鉄岐阜駅に隣接するバス停(岐阜バスターミナル、名鉄岐阜のりば)までは駅の改札口のある2階部分からペデストリアンデッキで接続され、駅とバス停との一体化を図っている。夜間はデッキの一部が青く光る。
南口(加納口)は高架化に伴って、マンションの建設や道路の拡張、付近公園の整備などが行われた。

岐阜県の県庁所在地である岐阜市の中心駅であり、運輸省中部運輸局が認定する「中部の駅百選」の第二回選定駅となった。当駅の所属線である東海道本線と、当駅を起点とする高山本線が乗り入れ、分岐駅となっている。現在、日中の東海道本線の普通(各駅停車)は名古屋方面から当駅で折り返し、特別快速・新快速・快速・区間快速が当駅以西の各駅に停車する。
当駅周辺では、高山本線が比較的まっすぐ東進する一方、東海道本線上り側には半径600mのカーブが存在する。当初、東西両京を結ぶ鉄道幹線ルートは岐阜から東も、山側の中山道経由で建設される計画で、岐阜 - 大府は太平洋に面し港のある武豊から建設資材を運ぶための支線として計画された。結局、岐阜 - 東京間は中山道ルートの建設は困難と判断され美濃路・東海道経由で建設されることになった。ただし大府駅における武豊線と東海道本線の関係のように、高山本線が先に開通したわけではない。


東海道本線のうち、当駅を含む名古屋駅 - 米原駅間は東海道新幹線と別線区間となっており、この区間の選択乗車において当駅は東海道新幹線の岐阜羽島駅と対応している。したがって、名古屋以東または米原以西発着の普通乗車券・普通回数乗車券であれば、岐阜羽島駅発着のものであっても当駅を利用でき、逆に当駅発着のものであっても岐阜羽島駅を利用できる。ただし、区間の片端が岐阜駅または岐阜羽島駅、もう片端が名古屋駅・尾頭橋駅・金山駅のいずれか、という乗車券については適用されない(旅客営業規則第157条第1項第30号)。
当駅の北東約300mには名古屋鉄道の名鉄岐阜駅がある。またかつては、駅前に名鉄岐阜市内線の岐阜駅前駅があったが、2003年12月1日に休止、2005年4月1日に廃止されている。

島式ホーム3面6線を有する高架駅。1・6番線が東海道本線の本線、2・5番線が東海道本線の副本線、3番線が高山本線の副本線、4番線が高山本線の本線である。
構内の大垣駅寄りには、折り返し用の留置線が設けられている。1999年12月4日のダイヤ改正で日中の対名古屋方面の普通列車が大垣駅始発・終着から当駅始発・終着となったが、留置線の長さが短いことや配線構造などの関係で、すべての折り返し列車を引き上げることが困難となった。このため、4・5番線での直接折り返しが多くなった(一部は大垣駅・岐阜貨物ターミナル駅への回送)。その結果、快速系統の列車と普通列車の同一ホームでの乗り換えが一部で不可能になっている。
ホームの高さは東海道本線の1・2・5・6番線は110cmであり、高山本線の3・4番線はそれより低い92cmである。高山本線ではデッキのステップが低い気動車を運用することから、東海道本線より一段低く設計されたためである。なお、3・4番線には東海道本線の一部の列車(電車)も入る。
1992年に東海道本線下り線が高架化され、高架ホームのうち4 - 6番線の使用を開始したが、地上ホームの4番線は上り線高架化まで継続使用されることになり、暫定的に10番線と改称された。また、高山本線は、高架ホーム・地上ホームのどちらにも入線可能な構造になっていたが、高架ホームの使用は、東海道本線下り線と直通する特急・急行列車に限られた。
高架化で名鉄名古屋本線のガードを越えるため3階建て高架に匹敵する位置に駅が造られているが、これは1978年(昭和53年)の岐阜県都市計画審議会で「国鉄3階・名鉄現線2階」案が答申された計画をそのまま施工したためでもある。この「国鉄3階・名鉄現線2階」案には名古屋鉄道側は高架事業に参入せず、旧国鉄側との事業化に向けた都市計画及び工事締結を行い答申案の計画のまま現在の高架化となる。このため、高架2階部にあたるJR改札コンコース前の吹き抜け部にある短いエスカレーターと階段の向こう側(現在は本屋などのテナント部分)に名鉄線の駅とホームが建設される計画があったとも言われている。
駅舎外壁には、透明の板が張られている。
駅長・駅員配置駅(直営駅)である。管理駅として、東海道本線の西岐阜駅・穂積駅および高山本線の長森駅 - 鵜沼駅間の各駅を管理している。高架下の駅舎内部にはみどりの窓口や自動改札機、自動券売機などが置かれている。改札口は2か所ある。JR東海のTOICAおよび相互利用可能な各ICカードが利用可能となっている。
なお、ホームとコンコースを結ぶエレベーターは駅係員の操作を必要とする。(エレベーターのコンコース出入り口が改札外にあるため、駅係員が切符の確認、精算を行う)
高架下にはレストランや岐阜の特産品を扱う施設である「アクティブG」、商業施設である「アスティ岐阜」、図書館(市立)や運動施設など生涯学習拠点の「ハートフルスクエアG」がある。

岐阜駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1・2 ■東海道本線 上り 名古屋・岡崎方面 特急「しなの」「しらさぎ」は1番線
3 ■高山本線 - 美濃太田・高山方面
■東海道本線 上り 名古屋・岡崎方面 一部の列車
4 ■高山本線 - 美濃太田・高山方面 特急「ひだ」はすべてこのホーム
■東海道本線 下り 大垣・米原方面 一部の列車
上り 名古屋・岡崎方面 始発列車と一部の「ひだ」
5 ■東海道本線 下り 大垣・米原方面
上り 名古屋・岡崎方面 始発列車のみ
6 ■東海道本線 下り 大垣・米原方面
大阪発の特急「ひだ25号」は3番線に到着し、一旦待避線に入った後、4番線で「ひだ5号」と連結する。
大阪行きの特急「ひだ36号」と名古屋行きの特急「ひだ16号」の解放は4番線で行う。これ以外の名古屋行きの「ひだ」は2番線から発車となる。かつて駅弁が販売されていたが、2005年6月に業者が破産し現在は販売されていない(岐阜羽島駅も同じ業者であったが、同駅では別の業者が仕出し弁当を販売している)。以下はかつて販売されていたものである。

1980年から1990年代、JR岐阜駅 - JR木曽川駅間に、地元(岐南町、笠松町)を中心に岐阜南駅の設置の運動が盛んであった。しかし、推定で2,000 - 3,000人と乗客数の見込みが少なく、費用の負担でJRや県と折り合いがつかず、運動は衰退した。ちなみに、両町には名鉄名古屋本線も通過し、岐南駅、笠松駅がある。かつて東海道本線が建設される際、笠松町の中心付近を通し、駅を設置する計画があったものの、当時の笠松では木曽川を利用した舟運等が盛んで、鉄道により利用者減少の恐れや保守的な考えも影響し反対をした(鉄道忌避運動)。このため、東海道線は笠松の中心を外れ、駅も設置されなかったという。今なお東南隣の木曽川駅(愛知県一宮市)までは7.7km離れており、この周辺のほかの各駅間よりも距離が開いている。

1887年(明治20年)1月21日 - 官設鉄道(のちの国鉄・JR)が大垣駅から延伸した際の終着である加納駅(かのうえき。現在名鉄名古屋本線にある同名の駅とは別)として開業。一般駅。当時は現在よりも北側の、現・名鉄岐阜駅付近にあった。
1887年(明治20年)4月25日 - 官設鉄道が当駅から木曽川駅まで延伸(武豊駅までの既存線と直結)。途中駅となる。
1888年(明治21年)12月15日 - 岐阜駅に改称。
1889年(明治22年)6月 - 西に移転。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年に東海道本線へ改称)の所属となる。
1913年(大正2年)7月22日 - 現在地に移転。旧愛知駅(1909年廃止)の駅舎を移築し、1945年に空襲で焼失するまで使用。
1920年(大正9年)11月1日 - 高山線(1934年に高山本線へ改称)が各務ヶ原駅まで開通。
1948年(昭和24年)12月 - 駅舎再建。
1959年(昭和34年)4月1日 - 民衆駅として鉄筋コンクリート2階建ての駅舎完成。
1986年(昭和61年)11月1日 - 高架化工事に伴い貨物の取扱を廃止、岐阜貨物ターミナル駅へ移管。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道の駅になる。
1992年(平成4年)11月29日 - 東海道線下り線・高山線(一部)高架化。
1996年(平成8年)2月26日 - 東海道線上り線・高山線全面高架化。
1997年(平成9年)3月2日 - 高架駅完成。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA導入。
2007年(平成19年)2月5日 - 北口側1階の窓にステンドグラス設置。
2009年(平成21年)9月26日 - 北口駅前広場に、金箔製の織田信長像を設置。
2011年(平成23年)4月1日 - プラットホームにある全ての売店が閉店。

電報略号 キフ
駅構造 高架駅
ホーム 3面6線
乗車人員
-統計年度- 30,333人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1887年(明治20年)1月21日
乗入路線 2 路線
所属路線 東海道本線
所属路線 高山本線
乗換 名鉄岐阜駅
(名鉄名古屋本線・各務原線)
備考 駅長配置駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* 1888年に加納駅から改称。

 

戦艦陸奥 推進機

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陸奥(むつ)は、大日本帝国海軍の戦艦。艦名は青森県から福島県にかけての旧国名・陸奥国を名前の由来に持つ。帝国海軍の象徴として日本国民から親しまれたが、1943年(昭和18年)6月に主砲火薬庫から爆発を起こして沈没した。

昭和46年3月15日に海底から引き揚げられた、戦艦陸奥の推進機です。推進機の直径は4.2mあります。25ノットの推進力を支えていました。このスクリューは4基の内の左舷内側のもので材質はマンガン・ブロンズで翼面積74㎥重量は約11トンです。
現在は山口県周防大島町にある町立の陸奥記念館の野外展示にある。野外展示の場所は陸奥の沈んでいる海が一望できる丘です。

D52形蒸気機関車

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D52形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄、製造時は鉄道省→運輸通信省)の貨物用テンダー式蒸気機関車です。D52 1 日本貨物鉄道(JR貨物)広島車両所(準鉄道記念物)

第二次世界大戦中、日本国内の貨物輸送は、貨物船の軍への供出や、米軍による機雷封鎖などの事情により、内航運輸の輸送力が不足し、鉄道貨物需要が逼迫した情勢となった。D52形蒸気機関車は、そうした中で、1200tの貨物列車を牽引でき、東海道・山陽本線・函館・室蘭本線で運用するためにD51形を改良して誕生した機関車である。ボイラーを可能な限り大型化し、粘着重量を高めるとともに出力を上げた。軸配置はD51形と同一だが、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1,660馬力と、日本の蒸気機関車の中では最高の出力を持つ。
しかし、戦時中のため物資が極端に不足しており、戦争完遂まで数年だけ持てば良い、または走ればよいという戦時設計の発想から、銅系材料が節約され、木材など代用材が多数使われるなど、造りとしては非常に質の悪いものであった。そのため本来の力を出せない車両が多かった。また、ボイラー用材の幅広鋼材が不足したため、各缶胴の長さを変え、用材の寸法取りを合理化した。ボイラーの種類は3種(甲缶、乙缶、丙缶)あり、長さの差は煙室長で調整した。煙管長は5,000mmで統一されていたため、丙缶では燃焼室長が短くなっている。原設計は甲缶で、全て鋲接により組み立てられており、将来の増圧(18kg/cm?)を意図して2列鋲式であったが、乙缶・丙缶では1列鋲とし、長手継手を溶接とするなど、構造の簡略化が図られている。概ね、甲缶が国有鉄道工場、乙・丙缶が民間工場製と分かれている。
さらに、細部の設計変更は本省の承認を得ることなく、現場の工場長や監督官の一存に任せられた。そのため、ドームの角型化や サンドパイプの減少、工作の簡略化や装備の省略化が行われ、形態のバリエーションを生み出している。
本形式における特殊な装備の例としては、ディスク輪心がある。本形式では、二重壁の箱型としたボックス輪心が制式の設計であったが、円板を湾曲させて一枚板構造としたものである。終戦後に汽車製造で落成した380 - 384号機の5両がこれに該当する。
本形式の構造については、否定的な見方が多い中、それまで鋲止めだったボイラーの溶接による量産法の確立、ボイラー限界設計の実車における見極めによりその後のボイラーの安全基準や工作技術の向上に繋がったとする見方もある。また、鋳鋼製台枠の採用や、石炭の燃焼効率を高めるためボイラーに燃焼室を設けたり、重心の前方移動による牽引力増加(これにより、煙突がシリンダの排気口より前にせり出す構造は本機の外観上の特徴の一つとなっている)、船底型テンダーの採用による資材節減、工数低減による生産性向上等、とかく前例踏襲で技術革新に乏しかった国鉄における蒸気機関車開発において旧来の手法にとらわれない性能向上、生産手法の導入や現代でいうところのVE(バリューエンジニアリング)を実践する等、その後の技術向上に大きく貢献したとの見方もある。

民間メーカー5社と2か所の国鉄工場(工機部)で製造された。当初は全部で492両が製造される計画であったが、終戦により285両で製造は打ち切られた(最終出場は、1946年3月31日付の62号機。実際の落成日は4月16日)。そのため欠番が多数あり、最終番号は468号機である。


竣工した本形式は、東海道・山陽本線並びに北海道の函館・室蘭本線に配置され、後に東北本線にも進出した。本形式が全機出揃った1946年3月末時点の配置は札幌鉄道局(29両)、東京鉄道局(27両)、名古屋鉄道局(72両)、大阪鉄道局(81両)、広島鉄道局(76両)。

大戦中は一般貨物列車1100t、石炭集結列車1200t運転を実施するが途中停車・遅運転事故続発のため定数低下となり、この時期1200t列車を牽引していたのは結局EF12形電気機関車のみであった。
戦争中酷使され、しかも工作の良くなかった戦時設計車は、就役後にボイラー爆発事故を続けて3件も起こしたため、一旦全車の使用が停止され、ボイラーの検査が実施された。その結果、事故車および状態不良の55両は1950年(昭和25年)までに廃車され、後述の他形式への改造種車70両を除いた、残る160両のうち148両は、翌1951年以降、浜松工場、鷹取工場ならびに広島工場において、代用材を標準材に取り替え、ボイラーを順次新製された甲缶に交換するとともに、自動給炭機(メカニカルストーカー)設置などの装備改造を行うことによって、ようやく当初の設計どおりの性能を発揮できるようになった。形態的にも、ボイラー受台の中にあった排気膨張室兼用の給水加熱器の撤去と煙突前方の煙室上への新設、角型・カマボコ型ドームの丸型化、木製除煙板や炭水車炭庫側面の鋼板化等により、形態的にも戦前製作機と比べて遜色のないレベルとなった。一方、装備改造から漏れた12両(D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460)は、除煙板や歩み板、石炭庫側板等の木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、戦時型の面影を強く残していた。
この時期(1946年 - 1950年)に廃車となったものは、D52 5, 7, 8, 9, 27, 30, 47, 51, 59, 73, 78, 80, 83(事故), 84, 87, 88(戦災), 90(戦災), 91(戦災), 95, 97, 103, 107, 110, 111, 113, 114, 116, 120, 205, 206, 207, 208, 209(事故), 212, 215, 220, 221, 238, 346, 347, 350, 351, 359, 364, 371, 381, 394, 395, 409, 410, 411, 412, 413, 443, 465
軍事輸送の終了による貨物用機関車の余剰化と、旅行の制限がなくなったことによる旅客輸送量の激増にともなう旅客用機関車の不足のため、1948年から1949年にかけて本形式のボイラーを流用し、C59形相当で従軸を2軸とした足回りと組み合わせた旅客用機関車C62形が49両(うち1両は2両分のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出したため、種車となったD52形は50両である。)製造された。
また、1950年から1951年にかけて従軸を2軸として軸重を軽くし、線路規格の低い線区(乙線)への入線にも対応したD62形に20両が改造されている。
1949年(昭和24年)5月に電化区間が浜松まで延長され、D52形が改修され、名鉄局管内で集中使用するようになってD51形が950tを牽引する区間でD52形が1100tを牽引、さらに夏季牽引定数が設定されここで蒸気機関車による東海道区間での1200t列車牽引が実現し、EF12形・EF13形・EF15形の牽引定数1200tに追いついて、稲沢操車場 - 新鶴見操車場間で1200t列車を通し運転することが実現した。
戦後しばらくして、函館・室蘭本線からはいったん撤退し、東海道・山陽本線をはじめ御殿場線、岩徳線、鹿児島本線(門司 - 鳥栖間)で運用された。また一部は瀬野八の後部補機として使用されていたが、そこの配置車には自動給炭機が装備されていないものもあった。


最終的には再度北海道地区の函館・室蘭本線への充当を目的として、山陽本線の電化に伴い余剰機となった姫路第一機関区所属の8両(56, 136, 138, 202, 204, 235, 404, 468)と岡山機関区所属の5両(140, 201, 217, 400, 414)計13両が昭和35年度に、昭和43年度に吹田第一の142、糸崎の28の延べ15両が五稜郭機関区に配置され、函館・室蘭本線で1972年(昭和47年)まで使われた。本機の最終使用は1972年12月で、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202号機1両である。国鉄最強の称号で名高い本形式であり、SLブームの中での引退であったものの、軸重の重さゆえ運行できる路線が限定されたこと、貨物機であったことから一般のなじみが薄かったため、その引退はひっそりとしたものであった。

 

 

木曽川駅 JR東海)東海道本線

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木曽川駅は、愛知県一宮市木曽川町黒田字東針口にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。

一宮市木曽川町の玄関口だが名鉄新木曽川駅の方が列車の本数は多い。合併前の旧木曽川町に属する駅で、線内では愛知県最後の駅となります。

駅前に無料駐輪場があり、東口のロータリー、西口のタクシー乗り場にはタクシーが常駐している。 島式ホーム1面2線を有する地上駅であり、2008年(平成20年)4月12日に完成した橋上駅舎を備える。旧駅舎は明治期の木造駅舎でした。赤レンガのランプ小屋が今も残っています。ホームのある本線の他に、上り線に2線、下り線に1線ホームの無い副本線(待避線)がある。この待避線は、通常は回送列車の退避に、ダイヤ混乱時などに貨物列車の待避に利用されている。


駅舎は東西自由通路を兼ねる。東西の出入口にはエレベーターとエスカレータが各1機設置されている。


東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、尾張一宮駅が当駅を管理している。駅舎内部にみどりの窓口(一部休止の時間帯あり)や自動券売機1台、自動改札機3台、改札内にはTOICA専用チャージ機、エレベーター、トイレが設置されている。

LED式の発着案内板です。東西自由通路は、駅の営業時間が終わっても徒歩で通行可能となっており(自転車は押して歩く)、駅の反対側に行きたい時、通常の道路を通ると駅の北か南の踏切を渡って大きく迂回しなければならないが、近道として利用する事が可能である(西口からは東口出てすぐの郵便局などを利用する際に便利となる)。
改札内には、旧駅舎で使用されていた待合用のベンチと、旧駅舎とホームを結ぶ跨線橋で使用されていた柱が置かれている他、改札外、西口を出てすぐのところに、大正時代、ポイント切替のために使用する油を収納する油庫として使われていたレンガ倉庫が近代遺産として移設、保存されている。

木曽川駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■東海道本線 下り 岐阜・大垣方面


2 ■東海道本線 上り 名古屋・岡崎方面
上下線の外側には待避線が設置されています。

当初は文字通り木曽川のすぐ南側に設ける予定だったという。しかし周辺農家が、蒸気機関車が通る際の音、振動、煙等に鶏が驚き卵を産まなくなるのではないかと反対運動があり、今の位置に決定した。ちなみに、改名によって旧木曽川町が誕生するのは1910年である。

1886年(明治19年)6月1日 - 官設鉄道(のちの国鉄・JR)が一ノ宮駅(現・尾張一宮駅)から延伸した際の終着駅として開業。一般駅。
1887年(明治20年)4月25日 - 官設鉄道が当駅から加納駅(現・岐阜駅)まで延伸し、同駅から大垣駅方面への既設線と繋がる。これにより途中駅となる。


1888年(明治21年)6月 - 初代駅舎完成。
1891年(明治24年)10月28日 - 濃尾地震により駅本屋全壊。
1892年(明治25年) - 2代目駅舎完成。2008年まで使用。


1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
1962年(昭和37年)10月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
2006年(平成18年)6月 - 駅舎橋上化工事着工。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA導入。
2008年(平成20年)4月12日 - 東西自由通路・橋上駅舎完成。

電報略号 ソカ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 4,242人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1886年(明治19年)6月1日
備考 業務委託駅 みどりの窓口 有

 

尾張一宮駅 JR東海)東海道本線

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尾張一宮駅は、愛知県一宮市栄三丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。日本有数の繊維産業の町として隆盛を誇っていました一宮市の中心市街地に位置しています。名古屋鉄道(名鉄)の名鉄一宮駅と並行に位置し一体的なターミナルとなっており、ともに一宮市の代表駅となっている。また、両駅をあわせて「一宮総合駅」と称する場合もある。なお、地上駅時代は名鉄駅と改札口も共通であったが、1993年2月21日より供用を開始した名鉄駅の高架化に伴い分離された。繊維産業の町、尾張一宮は産業構造の変化によりかつての勢いはなく、撤退した工場の跡地はショッピングセンターなどへの再開発が進んでいます。

国鉄時代の名古屋 - 一宮 - 岐阜間の旅客数のシェアは名鉄が圧倒的に高かったが、国鉄が民営化してJR東海の経営となった後は列車の増発や速度向上(所要時間短縮)などが図られたほか名鉄の運賃値上げなどもあり、近年はJR線の利用者数が上回っている。

駅正面に「i-ビル」があり、高架化の一部とともに商業施設「アスティ一宮」などが入居している。また、駅機能として一体的となっている名鉄一宮駅に併設して名鉄百貨店一宮店が入居しているほか、名鉄線の高架下には名鉄一宮駅バスターミナル・一宮プラザおよび一宮七夕郵便局などが入居している。
かつてJR線・名鉄線ともに地上駅だったころは、駅周辺にある踏切は開かずの踏切であったが、高架化により解消された。また、駅付近で単独立体交差となっていた道路については、駅北側の八幡通は地下構造であったが埋め戻されたほか、さらに先にある国道155号は陸橋化されていたが撤去され、いずれも平坦な道路に戻された。なお、当駅の南口が面する道路は高架化後に新設されたものである。

島式ホーム2面4線を有する高架駅。ホームは10両以上の長さ(有効長)があり、上屋は8両分設置されている。内側の2・3番線が本線、外側の1・4番線が副本線となっている。(主に朝夕ラッシュ時に使用)1番線東側にホームのない副本線が1本あり、貨物列車や工事作業用列車の停車や待避、車両の留置などに使われている。


駅長・駅員配置駅(直営駅)であるほか、管理駅として清洲駅・稲沢駅・木曽川駅の3駅を管理している。駅にはオープンカウンター式のみどりの窓口、指定席券売機、自動券売機が置かれています。
高架下にはジェイアール東海ツアーズ一宮支店、アスティ一宮(商業施設)、ベルマート(コンビニエンスストア)が入居している。


尾張一宮駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1・2 ■東海道本線 上り 名古屋・岡崎方面
3・4 ■東海道本線 下り 岐阜・大垣方面

 

1886年(明治19年)5月1日 - 官設鉄道が清洲駅(現 枇杷島駅)から当駅まで延伸し、一ノ宮駅として開業する(一般駅)。
1886年(明治19年)6月1日 - 官設鉄道が当駅から木曽川駅まで延伸し、途中駅となる。
1891年(明治24年)10月28日 - 濃尾地震により本屋が全壊する[2][3]
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称が制定され、東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
1916年(大正5年)1月1日 - 尾張一ノ宮駅に改称する(なお、同日に上総一ノ宮駅も「一ノ宮駅」から改称されている)。


1952年(昭和27年)11月15日 - 尾張一宮駅に改称する。
1979年(昭和54年)2月1日 - 貨物の取扱を廃止する。
1986年(昭和61年)11月1日 - 荷物の取扱を廃止する。
1989年(平成元年) - 上り線、下り線の順に高架化する。
2006年(平成18年)11月25日 - IC乗車カード「TOICA」のサービス開始に伴い、当駅でも供用を開始する。
2007年(平成19年)5月31日 - 駅舎の解体工事を開始する。
2009年(平成21年)7月1日 - JR東海初の女性駅長が就任する。
2010年(平成22年)10月 - 新たな駅前ビル建設に着手する。
2012年(平成24年)11月1日 - 駅前ビル「i-ビル」が開業する(図書館施設は2013年1月10日に開業)。 

電報略号 イチ
駅構造 高架駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 26,255人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1886年(明治19年)5月1日
乗換 名鉄一宮駅(名鉄名古屋本線・尾西線)
備考 駅長配置駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* 改称経歴
- 1916年 一ノ宮駅→尾張一ノ宮駅
- 1952年 尾張一ノ宮駅→尾張一宮駅

呉市消防局 救急艇「とよはま2」

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呉市消防局は平成11.10 豊浜,豊町の消防事務を受託し,大崎下島出張所を開設。

救急艇を建造し,同出張所に配置しました。

救急艇「とよはま2」は病気やけがをして,すぐに病院で治療をしなければいけない人を運びます。

病院到着まである程度の応急処置もできます。


(現在,大崎下島出張所に配置され,豊浜町・豊町の人たちを搬送しています。)

富野山保塁 下関要塞

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富野山保塁は下関要塞の一つ。「砲台」は対艦射撃用の砲台、「保塁」は陸戦用の砲台の事である。

下関要塞とは、関門海峡周辺に設置された大日本帝国陸軍の要塞。当初は下ノ関要塞と表記した。

軽費老人ホーム望玄荘の近く5連の倉庫と両脇に一つずつ合計7つの倉庫と正面に一つ倉庫がある。

九州側は富野から東は和布刈、南は高蔵山にかけての小倉、門司の山々、下関側は火の山、霊鷺山などの山々の全体を要塞として活用した巨大な要塞で、小倉にあった第12師団の管轄下にあった。明治時代の任務は関門海峡、周防灘の沿岸防備であった。昭和になると朝鮮海峡の防衛と小倉陸軍造兵廠を中心とした小倉市街地の防空を主な任務としていた。そのため、玄界灘の島々にも砲台を築いている。


戦後、要塞の跡地は様々な運命を迎え、中には取り壊された施設もあるが、当時の状態で未だに残っている施設も多い。一部は陸上自衛隊が使用しているとみられる。

堡塁は、敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のことを言う。それひとつで小型の要塞となり、本格的な要塞は複数の堡塁を備えた。あるいは複数の堡塁を結んだ防御線が巨大な要塞を構成した。
堡塁は大砲の発展と共に姿を現し、航空機の登場と共に姿を消していった。

堡塁は、銃座、砲座、指揮所、観測所、兵舎や弾薬庫となる掩蔽棲息部、交通路、等からなる(これらが必ずしも全て備えられている訳ではない)。
堡塁同士は互いに組み合わされて防衛線となっており、侵攻を阻んだ。一般には都市などの外周に作られ、堡塁が抜かれない限り内部に砲弾が落ちないように築かれた。
15世紀以降、大砲による攻城側の攻撃力の上昇に伴い、城壁は無力化し、従来の砦や城では大砲に対抗できなくなった。そこで土を盛った防衛陣地を都市の外縁に配置した。砲撃の衝撃を軟らかい土で吸収しようという設計である。また斜面を設け、攻城側の砲撃に対しては城内部が死角となり、一方で守城側からの砲撃・銃撃は死角が無いように設計された。また、陣地がお互いの射程を補完することにより死角をなくし、更に多数の兵士による小銃による十字砲火を浴びせられるように設計された。こうした防御陣地が、堡塁の発祥である。


さらに、直接都市を防御するのではなく、次第に都市と軍事施設の分離する方式が主流となり、都市と離れた位置、あるいは国境線に、純軍事施設としての要塞を築くようになった。こうした堡塁に囲まれた形式の要塞は星型要塞と呼ばれる。戦術の発展に伴い、堡塁はいくつも組み合わされるようになり、外側の堡塁の一つが落ちても隣接する堡塁から集中攻撃を加えることができるようになった。さらに防衛線も複数設けることができるようになって要塞の防御力はさらに強化された。星形要塞は17世紀のヴォーバンによって体系化された。
しかしながら単なる土を盛った防御壁では、大きな角度がついた砲弾に対しては無力である。また榴弾が発明された事で、多数の小銃ではなく、少数の大砲でも要塞の防御が可能になった。そのため18世紀から19世紀にかけて、大砲を掩体壕に据える方式が主流となった。要塞の全体の設計としても、複雑な凹凸がある星形から単純な多角形となり、掩体壕をその多角形の辺の中心部分に突出して配置する、多角形要塞が誕生した。機関銃が実用化されると、それらも掩体壕に据えられるようになり、そうした掩体壕を中心に堡塁が構成された。
しかしながら19世紀以降、純軍事施設としての要塞は、十分な補給能力と機動能力を有した軍事集団によって、簡単に迂回・突破され、防衛すべき都市を攻略されるという弱点を露呈した。また機関銃や大砲の発達、有刺鉄線の発明によって、簡易な塹壕であっても十分な防衛陣地を構築できるようになった。よって第一次世界大戦時には長大な塹壕による防御線の構築が主流となった。しかしながらこの時代は堡塁から構成された要塞も未だ戦略・戦術の価値を持っており、旅順要塞攻略戦やヴェルダン要塞攻略戦では、攻城側に甚大な損耗を強いている。
航空機が実用化されると堡塁は上空から偵察や攻撃を受けるようになり、また建設に莫大な費用がかかることもあって、要塞ともども廃れていった。フランスが築いたマジノ線は、多数の堡塁を国境線に配置してそれらを結んだ、史上最大とも言える防御線であるが、ドイツ軍に簡単に突破されてしまった。


大日本帝国陸軍では、要塞を建設する際、対艦射撃用の海岸砲台を「砲台」、海岸砲台の背面を守る陸戦砲台を「保塁」として区別し、これらを複数組み合わせて、要塞を形成した。同じ形式に帝政ロシア軍の築いた旅順要塞、セヴァストポリ要塞がある。


稲沢駅 JR東海)JR貨物)東海道本線

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稲沢駅は、愛知県稲沢市駅前一丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)東海道本線の駅です。JR貨物の駅と愛知機関区(旧稲沢機関区)を併設し、国鉄時代から中京圏の貨物ターミナルの役割を担っている駅でもあります。駅の西側は小規模な商店街や閑静な住宅街が広がっています。稲沢市の市街地からはやや東に離れた場所で(約2km西へ離れた名鉄国府宮駅のほうが近い)、稲沢市と清須市(旧・春日町域)や一宮市との境界に近い。

稲沢駅に停車する列車は、東海道本線の名古屋駅方面と岐阜駅方面を結ぶ普通列車と一部の快速列車です。普通列車はおおむね1時間あたり上下4本ずつ停車する。快速列車やそれに類する列車(新快速など)は日中は通過するが、朝方・夕方の時間帯に限りごく少数の列車が停車する。1999年12月までは昼間にも毎時1本快速が停車していた。2009年3月14日のダイヤ改正までは、下り列車(大垣駅行き)に限り夜行快速「ムーンライトながら」の停車駅の一つであった。

稲沢駅新設の経緯は1886年5月1日、初代清洲駅から一ノ宮駅(現・尾張一宮駅)に至る、現在の東海道本線の一部にあたる区間が開業した。この時、この区間には途中駅が設置されなかった。稲沢市の前身にあたる稲沢町や下津村では、旅客や貨物の需要が見込めることから、路線開業の翌年(1887年)よりこの区間への駅新設に向けた請願を行った。しかし、清洲駅および一ノ宮駅から近く、かつ地形が平坦で交通の便が悪いとはいえない、と判断されて実現しなかった。
東海道線の複線化が進むと、五条川への架橋により清洲駅前後が急勾配となり蒸気機関車 (SL) の発車に障害をきたしているため、清洲駅が移転するのではないかと考えられた(実際に1906年に移転し枇杷島駅へ改称する)。同駅が名古屋駅方面へ移転すると駅間距離が伸びるため、近隣駅から近いため駅を設置しないという考えが変わるのでないか、と考えられ再び請願が行われた。この請願は認可され、下津村・山形村(現・稲沢市)長野に駅が新設される運びとなった。用地買収は稲沢町と下津村が共同で担当。駅の建設中に、下津村側が駅名を「下津駅」とするよう求めたが、結局駅名は稲沢駅に落ち着いた。そして1904年に稲沢駅は、1面2線のホームと駅舎、それらを結ぶ跨線橋が完成して開業した。

旅客営業を行うJR東海と貨物営業を行うJR貨物が使用し、旅客列車が停車する旅客駅としての側面と、貨物列車の運行拠点たる貨物駅としての側面を併せ持つ駅である。東京駅と神戸駅を結ぶ東海道本線の中間駅の一つであるが、今日では両駅へ向かう旅客列車は停車せず、名古屋駅方面と岐阜駅方面を結ぶ普通列車が主に当駅に停車している。この東海道本線は、東海地方ではJR東海が施設を保有して旅客列車を運行し(このような事業者を第一種鉄道事業者という)、JR貨物が施設を借りて貨物列車を運行する(同様に第二種鉄道事業者という)、という体制をとる。
開業は、明治末期の1904年のことである。1987年の国鉄分割民営化で、開業時から続いた国鉄の単独運営から、現在のようなJR東海・JR貨物の2社が運営する形態に移行している。また大正時代には、「日本三大操車場」に数えられる稲沢操車場が構内に建設され貨車を整理する拠点の一つとなったが、これは輸送方式の転換によって民営化前に廃止された。
駅は、名古屋市近郊の都市・稲沢市の東部に位置する。豊橋から名古屋、岐阜の間にはJRの東海道本線に並行して名古屋鉄道(名鉄)の名古屋本線が通っているが、この路線にある国府宮駅の方がこの駅よりも市の中心部にある。乗車客は1日あたり約7,800人で、国府宮駅には及ばない。

稲沢駅は全長5.85km、最大幅160m、敷地面積21万6千m?の構内を持つが、大半を貨物列車向けの施設が占め、旅客列車用の施設は、稲沢市駅前一丁目を中心とする地域にあるのみである。以下、旅客用の施設と貨物用の施設を分けて記述する。どちらも地上に施設がある地上駅という形態である。
なお、名古屋駅と稲沢駅の区間は、線路が4本敷設されている(複々線区間)。西側の2線は旅客列車が常用する路線(以下「旅客線」)、東側の2線は貨物列車が原則使用する路線(通称「稲沢線」)である。稲沢線は当駅が起終点で旅客線に合流(分岐)するが、その場所は構内の北側にあたる。稲沢線下り線は旅客線の上下線を跨いだ後駅ホームより2kmほど北側で下り線に合流し、稲沢線上り線は駅ホームより3.5kmほど北側で旅客線の上り線から分岐する。

旅客駅にあるホームは1面のみで、その両側を旅客線の上下線計2線が囲む島式ホームという形式をとる。ホーム西側の下り線側が1番線、その逆側(東側)の上り線側が2番線である。1番線には岐阜・大垣方面行きの下り列車が、2番線には名古屋方面行きの上り列車が停車する。
駅舎は、ホームの上階部分に建設された橋上駅舎で、併設された東西自由通路(跨線橋)で東口および西口に繋がる。2000年に、構内西側にあった地上駅舎から建て替えられた。ドーム状の膜屋根を特徴とする駅舎で、JR東海によれば、稲沢市の姉妹都市であるギリシャ・オリンピア市からイメージされる「丘」をキーワードとしたデザインだという。みどりの窓口(一部、業務を休止する時間帯あり)および自動券売機2台・自動改札機設置駅。バリアフリー関連の設備では、改札内に多機能トイレ(車椅子・オストメイト対応、ベビーシート備付トイレ)があり、駅舎とホームの間にエレベーター・エスカレーターが、東西自由通路の東西両口にエレベーターがある。また、キヨスクが構内の改札前で営業している。
有人駅で駅員の配置がある。ただしJR東海の直営ではなく、子会社の東海交通事業の駅員が配置されている業務委託駅である。駅長配置駅(直営駅)の尾張一宮駅の管理下にある。

貨物列車が用いる施設は、一部例外があるものの、おおむね稲沢線の上下線に囲まれた場所にある。貨物用の施設が広い構内の多くを占める。
貨物列車が到着・発車に使用する着発線・出発線は、旅客駅と南の清洲駅のほぼ中間に位置する。着発線・出発線群の北側から旅客ホームにかけては留置線が広がり、車両基地の愛知機関区の施設も留置線群の一角にある。JR貨物の事務室は構内東側でJR東海の駅舎とは独立しており、駅長も配置されている。また、旅客駅西側にはJR貨物の東海支社が建つ。乗務員の交代は基本的に貨物の着発線で行われるが、旅客線を通る夜間の列車には旅客ホームで交代する場合がある。
当駅に接続する専用線は、1983年時点では昭和石油と住友セメント(後の住友大阪セメント)のものがあった。住友大阪セメントの専用線は機関区の近くから同社稲沢サービスステーションへと続いており、本巣駅や近江長岡駅よりセメント輸送列車が到着していたが、2002年9月をもって廃止された。

開業当初の稲沢駅は、一般駅と呼ばれる、旅客・荷物・貨物の3種類を取り扱う駅であった。現在では旅客・貨物営業が継続され、荷物営業は廃止されている。荷物は、宅配便に相当する「小荷物」と、旅客の荷物を扱う「手荷物」があったが、稲沢駅ではその両方を取り扱っていた。基本的に荷物は配達も実施されていたが、1969年10月に取り扱いが廃止された。荷物の取り扱いそのものも、国鉄荷物輸送の原則廃止(1986年11月)に先立つ1984年2月に廃止された。
一方貨物は、種別が「コンテナ貨物」と「車扱貨物」の2つに分類された1974年10月の制度改定以降、車扱貨物のみを取り扱っている。

1904年(明治37年)8月5日 - 国有鉄道(国鉄)の駅として開業。
1907年(明治40年)4月18日 - 旧清洲駅から当駅を経て木曽川駅まで至る区間が複線化。
1925年(大正14年)1月16日 - 稲沢操車場開業。名古屋駅から当駅までの間に稲沢線(単線)を敷設。
1943年(昭和18年)9月 - 稲沢線複々線化。
1953年(昭和28年)3月 - 2代目の駅舎に改築
1953年(昭和28年)11月11日 - 名古屋駅から当駅までを電化。
1955年(昭和30年)7月20日 - 当駅から米原駅までを電化。
1965年(昭和40年)5月15日 - 駅前広場が完成。
1969年(昭和44年)10月1日 - 荷物の配達の取り扱いを廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取り扱いを廃止。
1986年(昭和61年)11月 - 稲沢操車場廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR東海・JR貨物が継承。
1998年(平成10年)3月30日 - 稲沢線電化。
2000年(平成12年)4月22日 - 橋上駅舎と自由通路が完成。
2003年(平成15年)4月7日 - 東口の駅前広場が完成。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICAの利用が可能となる。

電報略号 イナ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 8,112人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1904年(明治37年)8月5日
備考 業務委託駅
みどりの窓口有

 

14系寝台客車 スハネフ14系11 九州鉄道記念館

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国鉄14系客車は、日本国有鉄道(国鉄)が1971年(昭和46年)より設計・製造した客車の形式。

客車の冷暖房用などのサービス電源を、床下のディーゼル発電機でまかなう「分散電源方式」を初めて採用した12系客車をベースとし、同じく分散電源方式を採用しつつ、特急列車としての使用を前提とした車内設備を持たせた客車がこの14系である。昼行特急列車や座席夜行列車に使用する座席車と寝台特急列車に使用する寝台車があり、さらに寝台車は製造時期や仕様の違いにより14形と15形に分かれているが、いずれも機器などは基本的に同一である。
第15回(1972年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。

20系客車は寝台列車として大成功を収めたが、列車内でのサービス電源を電源車から供給する「集中電源方式」を採用していたことから、多層建て列車として運行する際には、分割された編成に給電するための別の電源車を必要とし、これが運用上の制約となった。
この運用上の制約を排除するため、客車のサービス電源を床下のディーゼル発電機でまかなう「分散電源方式」を採用して増備していた、12系客車を基本とした寝台車として設計・製作された形式が14系寝台車である。製造年度によりB寝台車室の違いなどから、14形・15形と2種類に分類される。
また、個室寝台に改造されたケースもある。
一部の車両については、座席車同様、北海道で使用していた旧形客車を廃車にする際の代替車両用として、耐寒耐雪改造が実施された。この車両は、折戸を引戸に改修するなどの措置が取られており、500番台の車両番号が与えられている。これらは14系500番台座席車同様、急行列車に使用されたが、急行が特急格上げ・気動車化された後、一部は気動車連結のために改造され、また「北斗星」の個室車両用に改造(同時に24系に編入)された車両もある。

14形寝台車
特徴としては、B寝台車の内装が、それ以前の標準寝台幅52cmを踏襲した20系客車と異なり、B寝台車のベッド幅を581・583系電車で採用したのと同様の70cmと大型化し、またユニット方式で内装を製造して車内に取り付ける形を初めて採用した。また、寝台車のベッドの収納などを省力化するため、中段寝台の自動昇降装置を初めて取り付けた。
形式はB寝台車のオハネ14形・スハネフ14形、A寝台車のオロネ14形、食堂車のオシ14形が用意された。A寝台車については、「プルマンタイプ」の開放式寝台車のみが製造された。食堂車については、電車・気動車の食堂車とほぼ共通の仕様となってコストダウンが図られた。合計188両が1971年から翌年にかけて製造されている。
まず、1971年に急行「瀬戸(下り)2号・(上り)1号」に試作車のオハネ14 1 - 7とスハネフ14 1 - 3が連結され、試験的に運行を開始した。同列車では他の従来型客車と連結する必要があったため、試作車は蒸気暖房(SG)管と電気暖房用引通し線を新製時より搭載している。


1972年3月ダイヤ改正で寝台特急「さくら」・「みずほ」・「あさかぜ(下り)2号・(上り)3号」の3往復で運用が開始された。
しかし1972年(昭和47年)に発生した北陸トンネル火災事故を機に、火元となる可能性のある電源エンジンを客室の直下に置く分散電源方式は防火安全対策上問題があるとされ、本形式の製造は一旦中止され、以後の増備は集中電源方式の24系客車に移行した。
1980年代から1990年代にかけてB寝台車の2段寝台化が行われたが、需給関係との兼ね合いもあり、全車には及ばなかった。2段化されなかった車両は急行列車や波動輸送用に使われたほか、JR西日本管轄であった「出雲3・2号」に廉価サービスの一環として、1989年(平成元年)から3段B寝台車を1両連結する措置がとられ、同列車が1998年(平成10年)に電車化されるまで続けられた。

寝台特急客車14系11は昭和47年に2世寝台特急として日本車両で製造されたものです。20系「さくら」「みずほ」などの置き換え用として運転を開始した車両です。保存されている「スハネフ14系11」は床下にディーゼルエンジンを搭載しており、自車両を含む5両に電気を送ることが出来ました。また、製造時は3段寝台客車で車掌室付でしたが、昭和57年から寝台が2段に改装されています。 永きに渡り活躍しましたが平成6年に寝台特急「みずほ」、平成17年には同「さくら」が廃止、平成21年の「富士」「はやぶさ」が廃止され、これが最後の運転となりましたが、九州では臨時列車として平成22年まで活躍し、引退後は熊本車両センターで保存されていました。

 

 

C-46戦術輸送機:天馬 航空自衛隊

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C-46戦術輸送機:天馬 航空自衛隊

カーチス C-46 コマンドー(Curtiss C-46 Commando)は、アメリカのカーチス・ライト社が製造した輸送機です。

史上最大のピストンエンジン双発機。原型機はダグラスDC-3に対抗するためにカーチスが開発した旅客機CW-20で、DC-3に対し客室の容量を40%ほど大きくした太い胴体にして36座席の旅客数で上回るという計画であった。そのため重量は45%ほど増加した。客室を与圧することも考慮して胴体の断面構造はダルマ型にされたが、与圧装置が装備されることはなかった。また、試作型CW-20Tは双尾翼の機体であったが、低速飛行時に不調であることが判明し、すぐに単一の尾翼に改められている。設計にかなり長期間を要したため、登場した頃には既にDC-3が市場を独占しており、旅客機としての確定発注は1機も得られなかったが、大きい客室容量はアメリカ陸軍の興味をひき、軍用輸送機C-46として採用された。C-46はエンジンに強力なR-2800「ダブル・ワスプ」が採用され、客室窓が少なくなった点以外はCW-20とほとんど変わらない機体だった。


第二次世界大戦では3,000機以上が生産されて、DC-3の軍用型C-47と共にアメリカ軍の輸送機の主力となった。アメリカ海兵隊にもR5Cの名称で採用されている。C-47に比べると、2,000馬力級の強力なエンジンを積んでいるため、性能は勝っていたが、一方で機体側、特に電気系統の故障率が高かったとも言われている。
ATC(航空輸送コマンド)が1942年6月に編成され輸送任務の需要が急増すると、大出力エンジンを装備するC-46が前線の山岳地帯や南大西洋横断に投入されるようになった。中でも、大日本帝国陸軍に対峙すべくイギリス領インドのアッサムからヒマラヤ山脈を越えて中華民国の昆明に物資を輸送する「ハンプ超え」が特筆される活躍であった。高さ7,000m級の山々を飛び越える輸送ルートは、与圧キャビンや排気タービンを持たない輸送機には苦難の連続だったが、C-47とともにこの作戦を成功させた。
第二次世界大戦後も朝鮮戦争で運用されたほか、ベルリン封鎖時の空輸作戦やベトナム戦争初期にも使用された。同盟国の航空自衛隊や中華民国(台湾)空軍などの軍へ供与されただけでなく、民間にも多くが払い下げられており、北米や中米、南米の民間航空会社では、現在でも少数が貨物輸送に使用されている。

日本では1954年にC-46Dが航空自衛隊へ36機供与され、「空のデゴイチ」と呼ばれ重宝された。飛行点検隊でフライトチェック機としても使用されたほか、独自の派生型として初の国産電子戦機材J/ALQ-1を搭載し電子戦訓練機としたEC-46Dや、F-86Dのレドームを機首に装備した飛行試験機C-46D FTBも存在した。1962年(昭和37年)には、損耗補充のため台湾空軍から廃棄予定の12機(C-46A 9機、C-46D 3機)を安価で購入。部品取りのための購入だったが、予想以上に状態が良かったため、整備してそのまま使用した。1978年まで使用され、日本で退役した際に供与分の残存機体はアメリカへ返納され、払い下げを受けた民間業者の手で千島経由、米本土へ帰還しており、その一部はカナダなどで現役である。
自衛隊で使用されたC-46は所沢航空記念公園、航空自衛隊入間基地、航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)、航空自衛隊美保基地、静岡県の河口湖自動車博物館などで野外展示されている。また、エンジン(R-2800)は航空科学博物館で展示されている。

全幅:32.91m
全長:23.26m
全高:6.62m
翼面積:126.34m2
エンジン:プラット・アンド・ホイットニー R-2800-51ダブル・ワスプ18気筒星型エンジン(2,000HP)×2
空虚重量:13,608kg
最大離陸重量:20,412kg
最大速度:435km/h(高度15,000ft)
巡航速度:278km/h
実用上昇限度:7,470m
航続距離:5,069km(巡航速度時)
乗員:4名
ペイロード:兵士40名、貨物6,800kg

丹波口駅 JR西日本 嵯峨野線

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丹波口駅(たんばぐちえき)は、京都府京都市下京区中堂寺南町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅です。青果市場に囲まれた立地です。駅の周辺は日本最古の花街「嶋原」として、元禄時代には栄華を誇っていましたが、現在はその面影もほとんどなく、下町の住宅地が広がっています。駅名は京の七口の一つ「丹波口」に由来する。

旅客においては山陰本線が乗り入れており、「嵯峨野線」の愛称区間に含まれています。このほか、京都貨物駅からの東海道本線貨物支線(通称:山陰連絡線)が乗り入れており、当駅の京都駅寄りで山陰本線に合流している。


かつての平安京の朱雀大路の跡を南北に走る山陰本線が、五条通(国道9号)と交差する位置にある。

島式ホーム1面2線を有する高架駅。京都貨物駅への貨物支線に入る列車は京都側の片渡り線を経由して上り線から下り線に移り、下り線から梅小路方への分岐に入る形になっている。
改札口は地上に1か所、ホームは2階にある。地上とホームはエレベーターと階段で連絡している。駅舎への出入口は五条通(国道9号)に面した北側と、千本通に面した東側に設けられています。いずれの出入口も駅全体の北端に存在する。

トイレは改札内の中2階に男女別、地上の駅務室横に車椅子対応があってそれぞれ水洗式です。


亀岡駅が管理し、ジェイアール西日本交通サービスが駅業務を受託する業務委託駅です。ICOCA利用可能駅。切符売場には券売機が2台、みどりの窓口があります。待合室ではキオスクが営業しています。JRの特定都区市内制度における「京都市内」の駅です。


丹波口駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■嵯峨野線 上り 京都方面
2 ■嵯峨野線 下り 亀岡・園部・福知山方面

1897年(明治30年)
4月27日 - 京都鉄道が大宮駅から二条駅間の延伸に伴い開業する。
11月16日 - 京都鉄道が大宮駅から京都駅まで延伸される。
1899年(明治32年)8月1日 - 大宮駅廃止により、隣の駅が京都駅となる。
1907年(明治40年)8月1日 - 京都鉄道が国有化される。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称が制定され、京都線の所属となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称が改定され、京都線が山陰本線に編入されたことに伴い、当駅もその所属となる。
1918年(大正7年)9月10日 - 東海道本線貨物支線が開通する。
1927年(昭和2年)12月1日 - 京都市中央卸売市場への専用線が開通する。
1976年(昭和51年)3月16日 - 高架化にともない、北へ500メートルの位置に移転する。貨物取扱業務を新設の京都市場駅へ移管する。
1984年(昭和59年)2月1日 - 京都市場駅が廃止となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の供用を開始する。
2009年(平成21年)7月20日 - 京都駅から当駅まで複線化される。

電報略号 タン
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 5,912人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1897年(明治30年)4月27日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■山陰本線(嵯峨野線)
所属路線 東海道本線貨物支線(山陰連絡線)
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
京 京都市内駅
2010年(平成22年)1月31日 - 当駅から二条駅まで複線化される。

六地蔵駅 JR西日本)奈良線

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六地蔵駅(ろくじぞうえき)は、京都府京都市伏見区にある京阪電気鉄道(京阪)、宇治市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)および京都市営地下鉄(京都市交通局、地下鉄)の駅です。JR転換後に設置された駅で快速停車駅に昇格しました。周辺は大型ショッピングセンターやマンションが建ち並びたいへん賑やかです。

山科川を挟んで西側の京阪の駅は京都市伏見区にあり、東側にあるJRおよび地下鉄の駅は宇治市にあり2市に分かれた駅となっています。1913年の京阪の駅開設時、駅の西北西にある京都六地蔵(京の六地蔵めぐり)の一つで大善寺が古くから「六地蔵さん」と呼ばれ親しまれている事から、この駅名が付けられました。
長らく京阪の単独駅であったが、1992年に奈良線の増発のために列車交換設備を設けた新駅としてJRの駅が宇治市側に、2004年に地下鉄の駅がそれぞれ開業し、これ以降は京阪の宇治線、JR西日本の奈良線、地下鉄の東西線の3路線の駅が同じ名称を名乗っている。なお、地下鉄の駅は同地下鉄で唯一、京都市外に位置している。JRと地下鉄の駅は地上と地下のほぼ同位置だが、京阪の駅とは南西へ徒歩10分(距離にして約500m)程度離れており、両駅の連絡は山科川沿いの一般道路を経由する。
乗車カードは、JR西日本の駅は「ICOCA」、京阪と地下鉄の駅は「PiTaPa」と「スルッとKANSAI」の利用エリアに含まれている。また、地下鉄駅では「トラフィカ京カード」にも対応しています。

京阪宇治線開業時から1960年代中期までの約50年間は、「大正大洪水」や1953年(昭和28年)の13号台風、1961年(昭和36年)の第2室戸台風で駅周辺が浸水するなど水害が頻発していたが、天ヶ瀬ダムの築造や山科川に堤防が築かれた結果、水害の恐れはほぼ無くなった。また、山科川の堤防完成に前後して、外環状線の開通や、醍醐石田団地、小栗栖団地などの団地が造成されるなど駅周辺の宅地化が本格化し、京阪では列車増発の為に六地蔵駅の南東側に変電所を設置した。

改札口は1箇所のみで、島式ホーム1面2線の列車交換が可能な高架駅です。築堤上のホームには地下道で連絡します。1番線を上下本線、2番線を上下副本線とした一線スルーとなっているが、行き違いのない宇治方面行の列車でも2番線を発着とする列車があります。
ホームは曲線上にあるため列車とホームの隙間が比較的広く空いているところがあり、この対策として櫛状のゴムを設置している。ゴムは旅客の体重を支えることができる強度があるとともに、ゴムと車両が接触しても安全上問題がないとされている。なお、2013年度より開始する奈良線の複線化事業にあわせて駅を曲線の緩やかな京都方に移転することにより、ホームを拡幅するとともに列車とホームの隙間を緩和する対策がなされる。
宇治駅が管理している直営駅である。改札横にキヨスクがあります。

臨時列車が運転されるときは、2番のりばから京都行きが発車することもある。
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■奈良線 上り 京都方面 全列車
下り 宇治・奈良方面 昼間の普通列車の一部
2 ■奈良線 下り 宇治・奈良方面 上記以外の列車


1913年(大正2年)6月1日 - 【京】宇治線開業と同時に開業する。
1917年(大正6年)9月26日 - 10月1日 - 【京】「大正大洪水」により周辺が浸水する。
1943年(昭和18年)10月1日 - 【京】会社合併により京阪神急行電鉄の駅となる。
1949年(昭和24年)12月1日 - 【京】会社分離により京阪の駅となる。
1951年(昭和26年)7月 - 【京】山科川が氾濫し、駅と周辺が浸水する。
1953年(昭和28年)9月25日 - 【京】台風13号で宇治川から逆流した水で山科川が氾濫し、駅と周辺が浸水する。10月1日に仮復旧し運行を再開する[3]。
1961年(昭和36年)9月16日 - 【京】第2室戸台風により駅と周辺が浸水する。
1966年(昭和41年)3月 - 【京】山科川堤防嵩上げ工事および橋梁架け替えに伴い、6日に中書島行きホームを、20日に宇治行きホームを堤防上にそれぞれ移設する[4]。旧駅跡はバスターミナルの用地となり、後に整備された。
1981年(昭和56年) - 【京】ホームに視覚障害者用誘導ブロックを設置する。
1984年(昭和59年)12月 - 【京】中書島行きホームに待合室を設置する。
1986年(昭和61年)3月 - 【京】トイレを水洗化する。
1992年(平成4年)10月22日 - 【JR】奈良線の桃山駅 - 木幡駅間に新設開業する。
1999年(平成11年)5月10日 - 【JR】同日に実施されたダイヤ改正により、終日快速停車駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - 【JR】ICカード「ICOCA」の供用を開始する。
2004年(平成16年)11月26日 - 【市交】東西線が醍醐駅から六地蔵駅まで延伸に伴い開業する。
2008年(平成20年)11月11日 - 【市交】構内に京都銀行がATMを設置する。
2010年(平成22年)9月1日 - 【京】車椅子対応エレベーターとオストメイト対応多目的トイレ設置するなど、バリアフリー対応を行う。
大阪から大津への短絡ルートとして醍醐線(六地蔵 - 醍醐 - 大津市馬場 12.5km)が京阪の手で1926年(大正15年)7月14日出願され、翌1927年(昭和2年)10月26日に認可されるが、1937年(昭和12年)2月26日付けで「醍醐線起業の廃止」が許可されています。

電報略号 ロク
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 7,394人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1992年(平成4年)10月22日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

 

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