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大平山(おおひらやま) 防空高角砲台

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大平山(おおひらやま) 防空高角砲台

砲台種類:防空高角砲台(防空機銃砲)
竣工時期:昭和16年
砲種:40口径89式12.7cm高角砲(連装)
数量:2基 4門
呉空襲時における発射段数
1945年5月 5日:188
   6月22日:15
   7月 1日:0


1945年5月5日の昼間の空襲はB29による空襲です。ねらわれたのは、広海軍工廠・第11海軍航空廠です。この軍需工場は日本海軍の航空機エンジン生産の拠点で、この時は勤労動員の学生を含む約5万の人たちが働いていました。午前10時40分から午前11時11分まで148機のB29が広の上空を覆いつくしました。投下された爆弾の量は合計722発(578トン)で、工場施設は壊滅的打撃を受けました。広島県警察史や呉地方復員部の資料によれば、犠牲者の数は少なくとも140人以上となっています。

防空砲台群は第1次世界大戦後、航空機の発達に伴い、防空砲台の必要性が認識され、呉軍港の周辺にも、高島台・灰ヶ峰など10ヵ所に30門の高名砲が設置されたが、それらは旧式のものであった。そこで1944年から1945年にかけて、防空高名砲台20ヵ所82門、機銃砲台12ヵ所49基103挺、探照灯台30ヵ所に増強がなされた。それにともなって、警備隊員も5807人に増やされた。しかし、射撃密度などの不足によって、実際にアメリカ軍機が来襲したとき鉄壁を誇っていたはずの対空砲火群は、ほとんど無力でした。

昭和20年6月22日の空襲は呉海軍工廠造兵部への空襲でした。前9時31分から午前10時43分までの間に、162機のB29が合計1289発(796トン)もの爆弾を、呉海軍工廠に投下したのです。 アメリカ軍の目標は海軍工廠の中でも造兵部(兵器工場)でした。戦後に使用するためだったのでしょうか、造船部にはほとんど爆弾は落ちていません。当時、呉海軍工廠では勤労動員の学生を含む約10万人が働いていました。造兵部はほぼ壊滅し、海軍工廠に隣接する宮原・警固屋地区、また安芸郡音戸町にも爆弾は降り注ぎました。

この空襲は、翌日の新聞には「死者1名もなし」と報道されましたが、実際には少なくとも400人以上の人たちが犠牲になっています。その中には、呉市・広島県内をはじめ中国・四国地方からの動員学徒、女子挺身隊も含まれていました。日本海軍の一大拠点であった呉。約60年もの間、次々と新型軍艦を世に送り出し続け、呉海軍の名を世界に響きわたらせていた呉海軍工廠は、この日、B29の爆撃によって壊滅させられました。

7月1日は呉市街地夜間無差別大空襲 (1945年7月1-2日)。日本の大都市のほとんどを焼き尽くしたB29部隊は、6月中旬から中小都市の空襲を開始しました。呉はその重要な目標の一つとして選ばれ、B29部隊の「最大努力」による爆撃で、ついに市街地が焼き払われてしいました。B29が、曇り空の呉上空に達し第一弾を投下したのは7月2日の午前0時2分でした。燃え上がった炎を目印にしてB29は次々と呉市街地上空に侵入し、すりばち状の呉市街地の周辺から中心部へと焼夷弾を投下していきました。周辺部を焼かれて、市民は逃げ道を封じられ、防空壕に逃げ込んだ人たちも、猛烈な火炎や吹き込む煙にまかれてゆきました。呉を襲ったB29は合計152機、全部で16万454発(1081・7トン)もの焼夷弾が投下された空襲は、午前2時5分まで続けられました。 この空襲で呉市街地は焼け野原となり、犠牲者は2000人以上ともいわれます。約337ヘクタールが焼失し、12万5千もの人が家を失いました。


一般的に防空とは敵航空機による攻撃で発生する危機を防ぎ、被害を最小化するために陸・海軍が監視、警報及び地対空火力防御を行い、空軍が戦闘機によって敵機を要撃することをいう。
一般市民の協力に基づいた防空活動、すなわち監視・通信・警報・灯火管制・偽装・消防・防火・防弾・避難・救護・防疫・配給・応急復旧などの活動、は民間防衛の一部である。(日本では通例として民防空と呼ばれた)航空戦力の持つ打撃力は極めて高く、陸上戦力・海上戦力・諸軍事施設・政経中枢都市にとって非常に大きな脅威である。ゆえに敵航空戦力に対する専門的な対抗手段が必要であり、その手段は各国軍隊で組織化されてきた。

四〇口径八九式十二糎七高角砲:日本海軍がはじめから高角砲として設計した初めての砲。設計に当たっては発射速度を大とする。1門あたり毎分14発を目標とした。弾の威力を大きくする。既存の12cm高角砲より径を0.7cm大きくし、被害半径を拡大させた。弾薬包の重量を35kg以下に抑える。砲員の体力消耗により発射速度が低下することを押さえるため。砲架はなるべく軽量化し、動作速度を上げる。俯仰速度は12度/秒となった。信管は自動調停とする。これも発射速度の低下を抑えるため。
とされた。
尾栓は閉鎖速度の速い横鎖栓式とされた。以後日本海軍で開発された高角砲は全てこの尾栓方式を採用している。1929年(昭和4年)より設計が開始され1931年(昭和6年)に第1号機が完成、翌年に正式採用される。この砲の時限信管は装填時に自動的に調停されるがこの調停器の開発は難航した。当初は誤差が許容範囲内(±0.2秒)に収まらず、たびたび改設計がされている。1935年(昭和10年)にようやく安定した精度が出るようになったという。
発射速度が大きく操縦性良好で命中精度も高かったため使用実績は良好であり、対空戦闘のみならず対水上艦戦闘においても高い評価を得ていたというのが通説である。「なぜこの砲を両用砲としてもっと積極的に使わなかったのか」という声は、当時の関係者からも聞かれている。
しかし1944年(昭和19年)になりアメリカ軍の苛烈な航空攻撃に直面したレイテ沖海戦参加艦である大和などからは、下記のようにこの砲に対して高角砲としての能力不足を指摘されている。
砲重量が重く旋回速度が遅いため高速機に照準が追従できない発射速度が遅く弾幕を形成できない大和などからは再三、秋月型駆逐艦に採用された長10センチ高角砲への換装を要望する声が上がっていたが、実現しなかった。 なお、松型駆逐艦では電動機の出力を上げて旋回速度を上昇させた物を装備している。

運用史
配備期間 1932年2月~1945年
配備先 大日本帝国海軍
関連戦争・紛争 太平洋戦争
開発史
開発期間 1929年~1931年
製造数 1,306門
諸元
重量 20.3トン(A1型)
要員数 11名
砲弾 通常弾, 三式弾, 照明弾
弾薬包全長: 970.8mm
砲弾重量 23.00 kg
34.320kg(弾薬包)
口径 127mm口径 / 40口径長
砲尾 横鎖栓式
仰角 -8°/+90°
俯仰速度: 12°/s(人力の場合3度/秒)
旋回角 旋回速度: 6度/秒(人力の場合3度/秒)
動力 電力
発射速度 14発/分
初速 720 m/s
最大射程 14,622 m
最大射高 9,439 m

下蒲刈島の中心にそびえる大平山の山頂周辺に防空高角砲台が造られていた。山頂部に砲座が残っている他は、公園で整備されてしまった為に余り残っていない。
大平山から尾根続きの大下トンネルと地蔵峠トンネルの近くに砲台付属の聴音探照所が設けられている。
全体的に他に見ない特殊な構造が多い。建設時期が第一期(昭和12年頃、螺山、烏帽子山、大向、鹿ノ川、灰ヶ峰)と第二期(昭和16年頃、亀ヶ首、大須山、前島、白木山)の間の昭和15年完成であり、多分に実験的要素の大きい砲台だったのかもしれない。ただこうした構造が他には用いられなかったところを見ると、有効性が見出されなかったものと思われる。

山頂部平坦地には3基の砲座がある。狭い山頂部を有効利用する為に石垣で張り出させている。

山頂平坦部中央には、大きく掘り下げられた指揮所跡がある。大平山砲台の付属聴音探照所の施設で、建物の周りを厚い土塁で囲んだり、掘り込んだ中に建物を建てたものが幾つかあるところをみると、現在は貯水槽となっている穴の底には何らかの建物があったと思われる。

山頂の南側にある平坦地は広場に、その南東下にある平坦地はテニスコートになっている。恐らくテニスコートの場所に兵舎が建てられ、広場とテニスコートの間の斜面に兵舎用の大型水槽が配置されていたものと思われる。

呉鎮守府の戦時日誌によると、昭和19年7月に他の砲台と同じく、2セットある探照灯・聴音機の内1セットを供出するよう指示が出されている。ただ黒島特設見張所は実現できておらず、計画倒れに終わったのか、引渡目録には2セット分の機器が含まれている。

ただ、戦後の米軍の施設の接収記録によると、探照灯の位置が砲座の西側になっており、大平山の北西約1kmにある標高248mの三角点辺りに新しい聴音照射所を造り、1セット分を移動済みだった可能性がある。


西大路駅 JR西日本)東海道本線

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西大路駅(にしおおじえき)は、京都府京都市南区唐橋西平垣町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅である。「JR京都線」の愛称区間に含まれている。周辺には京都を代表する企業の本社・工場が多数立地し、通勤客の利用も多い駅です。

盛土上に島式ホーム2面4線を有する地上駅(12両編成対応)であるが、乗降は内側線の2線のみが使用されている。新幹線の高架下に位置するコンクリート造駅舎です。駅舎および1番のりばの頭上を東海道新幹線が通過する。当駅の桂川方で上り外側線から京都貨物駅への線路が分岐しているが、この分岐の信号機は京都貨物駅の場内信号機であり、当駅自体は絶対信号機がなく停留所に分類されます。


エレベーターやエスカレーターは設置されていない。なお、既存のホーム・階段とも比較的狭隘な構造となっている。トイレは、設置されています。
直営駅(長岡京駅の被管理駅)。みどりの窓口、指定席券売機も設置されています。ICOCA利用可能で、ICOCAの相互利用対象カードも利用できる。JRの特定都区市内制度における「京都市内」の駅である。待合室は狭く椅子は設置されていませんがキオスクは営業しています。


西大路駅プラットホーム
ホーム 路線 方向(線路) 行先
1 □JR京都線 下り(外側線)(通過列車のみのため閉鎖)
2 ■JR京都線 下り(内側線)新大阪・大阪・三ノ宮方面
3 ■JR京都線 上り(内側線)京都・草津方面
4 □JR京都線 上り(外側線)(通過列車のみのため閉鎖)
外側のホームには柵が設置されています。

利用の少ない早朝と深夜、利用の増える平日の朝ラッシュ時を除き、1時間に高槻以西快速の普通が4本、全駅停車の普通が4本停車する。平日の11時台から14時台、土休日の13時時台と14時台は全駅停車の普通の運転はなく、高槻以西快速の普通のみが停車する。バス停は駅前ではなく、駅から徒歩2分の西大路通沿いにある。これは駅直下の立体交差が掘割構造になっており、その位置にバス停を設置する事が不可能なことによる。昭和58年(1983年)までは西大路九条を名乗っていたが、現在の位置に西大路九条を新設し、従来の西大路九条を西大路駅前と改称した。

京都市電西大路線が西大路九条駅から延長されたのに合わせて開業した。
1938年(昭和13年)9月16日 - 国有鉄道東海道本線の梅小路駅(現在の京都貨物駅) - 向日町駅間に新設開業。旅客取扱のみ。
1978年(昭和53年)10月1日 - 接続していた京都市電西大路線が廃止される。
1985年(昭和60年)3月14日 - 日中時間帯の快速列車停車により、内側線のホームが12両編成停車対応に増設される。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 ニオ
駅構造 地上駅(ホームは盛土上)
ホーム 2面4線(乗降は2面2線のみ)
乗車人員
-統計年度- 15,337人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1938年(昭和13年)9月16日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
京 京都市内駅
* この間に京都貨物駅(貨物駅)有り(当駅から0.7km先)。

 

二条駅 JR西日本)山陰線:嵯峨野線

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二条駅は、京都府京都市中京区西ノ京栂尾町(にしのきょうとがのおちょう)にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅です。京都市営地下鉄との連絡駅で、市街地中心には京都駅経由より時間短縮となるため、ラッシュ時を中心に利用客が多く、特急列車も停車します。二条城が至近にありますが、駅前の様子なども観光駅然とはしていません。

従来のJR駅は東の千本通側のみの出入り口であったが、地下鉄東西線開通および山陰本線(嵯峨野線)の高架化以降は西側も整備され、近年は西口にも路線バスやタクシーが乗り入れている。また、駅周辺は京都市の副都心となりつつある。最寄りのバス停は、駅西口ロータリにある二条駅西口と駅東側の千本通にある二条駅前がある。京都市交通局(市バス)・京都バス・西日本JRバスなどの各社が運行しています。


駅前には円山公園の枝垂桜三代目が植えられています。千本通が駅東側を南北に走る。また、東西方向の御池通は当駅で分断されており、自動車はいったん駅北寄り高架下の押小路通を迂回し御池通に戻る線形になっている。駅東側は千本通、御池通沿いを中心に多くの商店がある。西側は西大路通に至るまで住宅地と中小の工場の密集地帯である。駅の北西に二条自動車教習所がある。隣の円町駅までは、山陰本線高架化に伴う道路整備により、側道を歩いて行くことができる。(山陰本線の高架化並びに御池通の拡張が行われるまで東西方向への移動の為には駅を大きく迂回する必要があり北は旧二条通、南は三条通まで迂回が必要であった。高架化が完了するまで千本三条交差点の西側は線路の下をくぐるアンダーパスであったが現在は埋め戻されて三条通は平坦化している。)神泉苑・二条城および中京区総合庁舎(区役所)は徒歩圏内にあるが、地下鉄利用の場合は隣の駅である二条城前駅からのほうが近い。

JR西日本の山陰本線(「嵯峨野線」の愛称区間に含まれている)、京都市交通局の京都市営地下鉄東西線の2路線が乗り入れ、接続駅となっている。地下鉄の駅には「T15」の駅番号が与えられている。
JR西日本の駅は、特急列車を含む全列車が停車する。また、特定都区市内制度における「京都市内」エリアに属する。
JR西日本の駅では指定席券売機も設置されICOCAの、地下鉄の駅ではPiTaPaと「スルッとKANSAI」対応各種カード、「トラフィカ京カード」の利用エリアにそれぞれ含まれています。

島式ホーム1面2線を有する高架駅です。2010年1月に丹波口駅までの複線化が完成したことにより、分岐器や絶対信号機がない停留所となった。直営駅(亀岡駅の被管理駅)。
駅舎設計は浦辺設計が担当し、屋根は大きな木造トラスで覆われたデザインとなっている。このデザインは以前の駅舎との対比を含めて賛否両論ありますが、1997年度にグッドデザイン賞を受賞しました。ホーム上からは、遠く比叡山なども見渡すことが出来る。高架駅化される前は東の千本通側からしか駅に入ることができなかったが、現在は東西両方向に出入口が設けられており、乗降客以外の往来も可能であることから歩行者用自由通路としても機能しています。


改札口に出場専用の改札機は3台。改札口からホームへは階段が2本、エレベーターが1本、上りエスカレータが1本通じています。また、改札口の前にはキヨスク・ハートインがあります。また、ホームには待合室・自動販売機がありますが、売店はありません。トイレは改札内の地上北側にあり、男女別・車椅子対応です。


JR二条駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■嵯峨野線 上り 京都方面
2 ■嵯峨野線 下り 亀岡・園部・福知山方面
木製ドームはホーム全体は覆うに至らず、両端部分は野ざらしとなっています。

JR駅の地上駅時代にあった木造駅舎は、荘厳な社寺を彷彿とさせる造りや貴賓室も設置された立派な駅舎として全国的に知られていた。
建築当時は京都鉄道の本社を兼ねており、建築家の伊東忠太によって手掛けられたものである。京都鉄道社長田中源太郎によれば、当初はレンガ造りの計画だったが、二条城に近いので景観に配慮して和風建築に改めることにし、日本鉄道(東北本線)宇都宮駅の駅舎が優美であったため同社に種々問い合わせを行い模範としたという。
二条 - 花園間の高架化事業に伴う仮線の設置に支障するため1990年10月、木造駅舎の建物を東側に15m移動させる曳家工事が行われ、約300トンの建物を2日間掛けて移動させた。その後、高架化工事中の仮駅舎として使用が続けられたが1996年、高架化工事および新駅舎の完成に伴って駅舎としての役割を終えた。明治期の和風駅舎建築として唯一の残存例であり、京都の近代化を象徴する建物でもあることから1996年4月1日、京都市指定有形文化財に指定され、幅を縮小して梅小路蒸気機関車館に移築されている。
かつては現役最古の駅舎とされ、近年でもそう言われる事がある[19]が、これは誤りである。現存最古の駅舎は1882年(明治15年)築の旧長浜駅であるほか、現役最古の駅舎は1886年(明治19年)築の亀崎駅(異説もある)とされる。また、1980年代から1996年までの駅スタンプ(わたしの旅)は「入母屋造りの日本最古の駅」と書かれ、「国鉄で一番」を示す黒六角形のものであったが、二条駅より前に建てられた入母屋造りの駅舎は建部駅など数多く現存している。

1897年(明治30年)
2月15日 - 京都鉄道の当駅 - 嵯峨駅間の開通と同時に開業する。
4月27日 - 京都鉄道の大宮駅 - 当駅間が開通する。
1904年(明治37年)6月 - 京都鉄道本社屋を兼ねた駅舎が完成する。
1907年(明治40年)8月1日 - 京都鉄道が国有化される。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称が制定され、京都線の所属となる。
1912年(明治45年)
3月1日 - 線路名称が改定され、京都線が山陰本線に編入されるとともに当駅もその所属となる。
6月11日 - 京都市電千本線壬生車庫前 - 千本丸太町間開業に伴い、二条駅前停留所を設置。
1972年(昭和47年)1月23日 - 京都市電千本線の廃止に伴い、二条駅前停留所廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
1990年(平成2年)10月 - 高架化事業に伴い、曳家により駅舎が15m東側に移動される。
1996年(平成8年)3月16日 - 高架駅となる。同時に貨物列車の設定が廃止となる。木造駅舎は後に梅小路蒸気機関車館に移設された。
かつては駅西側には小規模ながら貨物ヤードが存在しており、駅の南側は引込み線として貨車が留置されていたほか、ここから南方へ三条通を越えて日本食糧倉庫や油槽所へ専用線が続いていた。
1997年(平成9年)10月12日 - 【地】京都市営地下鉄東西線の駅が開業。当時は末端の駅だった。
2000年(平成12年)9月23日 - 【JR】当駅 - 花園駅間が複線化される。
2003年(平成15年)11月1日 - 【JR】JR西日本でICカードICOCAの供用を開始する。
2006年(平成18年)4月1日 - 【JR】JR貨物が貨物取扱を廃止する。
2008年(平成20年)1月16日 - 【地】京都市営地下鉄東西線が当駅から太秦天神川駅まで延伸され、途中駅になる。
2010年(平成22年)1月31日 - 【JR】丹波口駅 - 当駅間が複線化されるとともに、交換設備を廃止する。

電報略号 ニテ
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 12,337人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1897年(明治30年)2月15日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
京 京都市内駅

移動式3次元レーダー(車載アンテナ装置)J/TPS-101

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移動式3次元レーダー(車載アンテナ装置)J/TPS-101

J/TPS-101は、航空自衛隊で運用されているレーダー装置。3次元レーダーであり、製造は三菱電機。1981年から運用されている。

J/TPS-100に続く、移動・再配置可能なレーダーシステムであり、固定レーダーサイトと連携し、対空警戒にあたる。空中線部もトラックに搭載されており、やや縦長の八角形のパラボラアンテナを持つ。
空中線装置のほか、送受信装置、通信装置、指揮管制装置などから構成されている。

優れた機動性を有する警戒管制用3次元レーダーで、当時最新のレーダー技術を駆使して完成 された。目標情報はその方位、距離、速度および高度等について計算機で処理表示 される。また本装置は、その特性に応じた通信装置を装備しており、固定レーダーサイトとの 連携運用が可能である。 2005年時では、移動警戒隊では全て用途廃止となったが、硫黄島で訓練支援のため若干数が使用されているとのことである。

送受信装置
送信装置と受信装置から構成されており、送信装置は大きな電力の高周波パルスを発生、受信装置は目標(航空機)からの反射波を増幅検波する。
指揮管制装置
 映像信号をブラウン管のスコープに写し、航空機等の移動情報を表示する。
通信装置
対空UHF通信装置および対地HF通信装置を使用して航空機およびサイト等を音声通信する。
発動発電機
空中線装置および各シェルターに電源を供給するもので多湿かつ塩害地域でも使用できる。

車載アンテナ装置全体
幅 約6.57m  高さ 約9.5m  重量 約3900kg

アンテナ部
幅 約5.4m   高さ 約6.2m

清洲駅 JR東海)東海道本線

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清洲駅(きよすえき)は、愛知県稲沢市北市場町古三味にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)東海道本線の駅です。戦国時代の城で知られる「清洲」が駅名ですが駅の所在地は稲沢市となり、駅のすぐ名古屋寄りが稲沢市と清須市(元の清洲町)の境になっています。清洲の市街地は名鉄の新清洲駅が最寄りとなります。

島式ホーム1面2線を有する地上駅です。大きな天窓がある平屋の鉄骨造駅舎は構内東側にあり、ホームとは跨線橋で連絡している。駅前は狭い。これまでエレベーターやエスカレーター等は設置されていなかったが、ホーム・改札口間の移動をバリアフリー化するために、既存の跨線橋の北側に並行して新たな跨線橋および上下移動のためのエレベーターが計2基設置され、2010年2月より供用を開始した。

既存の跨線橋にエレベーターを設置する工法は、橋の強度などの観点から問題があり構造上難しく、老朽化も目立っていることからと考えられる。また、旧来3両分の長さしかなかった上屋を4両分以上の長さに延伸する工事も同時に行われた。
稲沢市による駅前広場や駐輪場の整備を含めた西口設置構想も存在するが、実現には至っていない。


東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、尾張一宮駅が当駅を管理している。駅舎内部にはみどりの窓口や自動改札機3台、タッチパネル式自動券売機2台が置かれLED式の発車案内が改札口奥に設置されています。待合室は広くなく、設置の椅子は少ない。

撤退したキオスク跡地は自動販売機コーナーになっています。


清洲駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■東海道本線 上り 名古屋・岡崎方面


2 ■東海道本線 下り 岐阜・大垣方面
旅客列車などが通りホームがある複線の他にも、名古屋駅と稲沢駅を結ぶ貨物列車専用の路線「稲沢線」が旅客線の東側を通っている。貨物の取り扱いの名残で、当駅付近でこの稲沢線から着発線や側線が数本分岐しています。

JR貨物の駅は現在、臨時車扱貨物のみを取り扱っており、貨物列車の発着は無くなっている。
最後まで使用されていた専用線は、稲沢線から分岐し、同線東側に沿って南下し電気化学工業名古屋サービスステーションへ続くものであった。この路線はセメント輸送に使用され、2007年12月現在も荷役設備と共に残っている。
1997年頃までは、本線東側の駅北側にあった秩父セメントサービスステーション(既に閉鎖)へ続く専用線も存在し、この路線もセメント輸送に使用されていた。また1984年頃までは、稲沢線東側に沿って南下し、枇杷島駅近くにある麒麟麦酒名古屋工場へ続く3kmほどの専用線もあり、原料の麦芽や製品輸送に使用されていた。

駅前から織田氏の居城清洲城へ続く道があります。

1934年(昭和9年)2月24日 - 東海道本線の枇杷島 - 稲沢間に新設開業。
1962年(昭和37年)4月1日 - 専用線発着を除く貨物の取扱を廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東海・JR貨物の駅となる。
2002年(平成14年)頃 - 貨物列車の設定が無くなる。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA導入。
2010年(平成22年)2月17日 - 新たな跨線橋およびエレベーターの供用が開始。

電報略号 キス
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 3,503人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1934年(昭和9年)2月24日
備考
業務委託駅
みどりの窓口 有
[係員不在時間]05:35~05:55 10:30~11:00 12:00~13:30 15:20~15:50 16:40~17:40 20:30~21:00 22:30~23:00
* この間に五条川信号場有り(当駅から1.8km先)。

 

 

枇杷島駅 JR東海)東海道本線・東海交通事業

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枇杷島駅(びわじまえき)は、愛知県清須市西枇杷島町七畝割(ななせわり)にある、東海旅客鉄道(JR東海)・東海交通事業 (TKJ) の駅です。

JR東海の東海道本線とTKJの城北線が乗り入れる接続駅となっており、TKJの終点駅です。名古屋駅の隣駅ですが、庄内川を越え、駅間が4kmも離れているので、閑静な住宅街になっています。

島式ホーム2面4線を持つ地上駅です。2社の共同使用駅であり、改札を共用しています。TKJ城北線用の短いホームは、名古屋駅と稲沢駅を結ぶJR東海の貨物線「稲沢線」の本線上に設けられていることから、貨物列車の運転状況によって発着番線が変わる。また、構内北側の稲沢線から、東海道新幹線の高架の下を潜る保線車両留置線が分岐しています。


2008年(平成20年)12月に橋上駅舎が完成し、東西自由通路が設置され、駅の東側に駅前広場が新設された。自由通路は大きな窓と高い天井あるため、明るく非常に開放的な雰囲気を演出しています。また、2009年(平成21年)3月に駅西側の駅前広場が整備された。なお、かつての地上駅舎は、駅の西側を通るJR東海東海道新幹線の高架下に設置されていました。


駅設備はJR東海が保有し同社の名古屋駅の管理下でTKJに業務委託されており、実際の業務はTKJ社員が行っている(JRの駅としては業務委託駅)。TKJ直営の出札口は持たず、JR東海のみどりの窓口があり、両社線の乗車券類を扱う。

他に自動券売機1台、TOICAチャージ機、自動改札機3台が設置されている。改札口、東海交通事業とは共同使用駅です。

枇杷島駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1・2 〓TKJ城北線 - 小田井・勝川方面


3 ■JR東海道本線 下り 岐阜・大垣方面


4 上り 名古屋・岡崎方面

1886年(明治19年)4月1日 - 官設鉄道(のちの国鉄→JR)が熱田駅から延伸した際の終着である清洲駅(初代)として、現在地からやや離れたところに開業。
1886年(明治19年)5月1日 - 官設鉄道が当駅から一ノ宮駅(現 尾張一宮駅)まで延伸し、途中駅となる。


1891年(明治24年)10月28日 - 濃尾地震により本屋が全壊する[2][3]
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称が制定され、東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
1906年(明治39年)4月16日 - 移転し、枇杷島駅に改称する。
1980年(昭和55年)10月1日 - 専用線発着を除く貨物の取扱を廃止する。
1985年(昭和60年)3月14日 - 荷物の取扱を廃止する。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道(JR東海)と日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
1993年(平成5年)3月18日 - 東海交通事業 (TKJ) 城北線が尾張星の宮駅から延伸し、当駅に乗り入れる。


1995年(平成7年)12月1日 - 大阪セメント専用線が廃止される。
大阪セメントのセメント包装所への専用線があり、セメント輸送貨物列車が到着していた。
2006年(平成18年)4月1日 - JR貨物の駅が廃止され、貨物の取扱いが名実ともに終了する。
2006年(平成18年)11月25日 - IC乗車券「TOICA」のサービス開始に伴い、当駅における供用を開始する。
2008年(平成20年)12月13日 - 橋上駅舎の供用を開始する。
これに伴い駅の東側にも出入口が設置される。

電報略号 ヒワ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 3,335人/日(降車客含まず)-2009年-


開業年月日 1886年(明治19年)4月1日
乗入路線 2 路線
所属路線 東海道本線(JR東海)
所属路線 東海交通事業城北線
備考 共同使用駅
業務委託駅
みどりの窓口 有(係員不在時間あり[1])
* 1906年 清洲駅(初代)から改称。
** この間に五条川信号場有り(当駅から2.0km先)。

新幹線 冷水器

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100系、300系、500系は冷水器がありました。700系から冷水器はついていません。

車内で自由に飲めた冷水機.平たい紙コップの両端を指で押して汲んだ冷水は、なんだか贅沢なサービスのようでした。

紙コップは円筒形ではなく封筒形で底が平らではなかったため、テーブル上に置く事ができず、繰り返しの使用にも適したものではなかった。ペットボトル飲料の普及と衛生面から廃止された冷水機です。

ノーベル平和賞を受賞した故マザー・テレサさんが来日したのは1981(昭和56)年のことでした。新幹線に乗車して冷水機の水を飲んだ際に、紙コップを使い捨てにするのはもったいないとして、丁寧に持ち帰った話はすぐにマスコミが書き立てて話題となりました。

冷水機の周囲は、乗降デッキと車端部の洗面所・トイレとなっています。この一帯の造作も、0系ではステンレス枠が多用されています。

太秦駅 JR西日本)山陰本線

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太秦駅(うずまさえき)は、京都府京都市右京区太秦上ノ段町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の難読駅です。JR転換後に設置された新参駅です。駅周辺は住宅地。「嵯峨野線」の愛称区間に含まれている。「映画村の太秦」の印象で利用する観光客の他にも、近辺に住宅などが建ち並んでいるということもあって、駅規模の割に利用客は比較的多い。


円町駅開業前は当駅で下車し、嵐電・帷子ノ辻駅から北野線で北野天満宮や立命館大学衣笠キャンパスへ向かう利用者も多かった。また、早くから駐輪場が設置されていたので、自転車でキャンパスへ通学する立命館大学や佛教大学などの学生もいた。

嵐電の帷子ノ辻駅は南に約300m離れているが、乗換客は割合に多い。帷子ノ辻駅へは当駅東側にある嵯峨野線の踏切を渡り南西へ向かう方法もあるが、同駅西側にある歩行者・自転車用の跨線橋を渡って南東へ進むほうがやや早い。
駅の東500mほどに広隆寺、東映京都撮影所及び東映太秦映画村があり、かつては映画村へは花園駅から行く方がわかり易くやや早かったが、2011年9月に映画村リニューアルの際に新ゲート「撮影所口」が新設され当駅から徒歩5分とアクセスが大幅に向上した。(かつてはゴールデンウィークには、東映京都撮影所が休暇のため撮影所を開放して、東映太秦映画村の 「臨時駐車場」や映画村の「裏口」として利用する場合があった。)

相対式ホーム2面2線を持つ地上駅。駅舎は和風のコンクリート造駅舎です。2010年3月に前後の区間の複線化が完成したことで、分岐器や絶対信号機がない停留所となった。
駅舎は北側にあリ、1番ホームと接する南側を除く3方向に出入口が設けられている。西側の出入口は隣接する立体駐輪場への連絡口を兼ねている。駅舎側の1番ホームと相対する2番ホームを連絡するために跨線橋が設けられている。跨線橋は各ホーム東端に位置し、昇降手段は階段のみ(複線化により方向別停車になったが、エレベーターやエスカレーターなどのバリアフリー設備は整備されていない)。トイレは改札内にあり、男女別・車椅子対応である。新設駅のため配線は単線時代の従来の線路(2番線)にもう一線(1番線)を追加した形である。
亀岡駅が管理し、駅業務をジェイアール西日本交通サービスへ委託する業務委託駅です。みどりの窓口があり改札口に改札機が2台設置。切符売場にはタッチパネル式の券売機が2台設置されています。ICOCA利用可能駅。JRの特定都区市内制度における「京都市内」の駅です。待合室はそれ程広くなく椅子の数も少ない。撤退したキオスク跡には自動販売機コーナーが設けられています。

太秦駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■嵯峨野線 上り 二条・京都方面
2 ■嵯峨野線 下り 亀岡・園部・福知山方面

2010年3月の複線化工事完成までは、1番線を上下副本線、2番線を上下本線とした一線スルー配線になっており、通過列車は2番線を通過していたが、乗客への利便性向上のため京都行きの普通列車全列車と、当駅で行き違いを行わない園部方面の普通列車は、副本線である駅舎側1番のりばに停車していた。また、1989年の開業から1990年に電化されるまでの1年間、当駅に停車する全列車が1番のりばに停車し、2番のりばは使用されなかった(跨線橋には柵がされていた)。これは駅設置に際して2番線(南側)に隣接する民家から駅設置反対の声が強かったことに配慮したものと言われている。実際駅開業日のテープカット等の式典中、民家からマイク使用による駅設置反対の抗議演説が大音量で延々と行われるという事件も起きている。一時期は昼間の列車は上下線とも1番のりばに統一されていたが、2007年3月18日の改正で嵯峨野線の列車パターンがかなり変わり、昼間の園部方面行き電車の2番のりば停車が復活した。現在は複線化により方向別停車となっている。

1989年(平成元年)3月11日 - 山陰本線の花園駅 - 嵯峨駅(現在の嵯峨嵐山駅)間に新設開業。
1992年(平成4年)11月 - みどりの窓口営業開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。
2010年(平成22年)3月7日 - 当駅を含む花園駅 - 嵯峨嵐山駅間が複線化。交換設備廃止。

電報略号 ウツ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 4,373人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1989年(平成元年)3月11日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
京 京都市内駅

 

 


嵯峨嵐山駅 山陰本線

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嵯峨嵐山駅(さがあらしやまえき)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺車道町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。「嵯峨野線」の愛称区間に含まれている。近隣に嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線(トロッコ嵯峨駅)・京福電気鉄道嵐山本線(嵐電嵯峨駅)の駅があり、当駅からの乗換えが可能となっている。国鉄時代は列車本数が少なかったため近距離の利用が少なかったが、JRになって本数が増えて以降は利用が増加している。周辺が古くからの住宅密集地であることから日常的な利用が多い。

関西有数の観光名所である嵐山・嵯峨野へのJRにおける玄関口である。元の駅名は嵯峨駅であり、JRに移行後もこの駅名のままであったが、後に著名観光地である嵐山の名称を加えた嵯峨嵐山駅に改称されました。

駅舎は2007年3月までは、1897年に京都鉄道の駅として開業した当時の駅舎(使用終了時点でJR西日本では最古の現役駅舎)を改装して使用していた。1994年までは貴賓室も備えていたほか、レトロかつモダンな駅舎が周囲の風景に似合っていたが、京都 - 園部間完全複線化に向けた橋上駅舎への改築のために2007年3月からは仮駅舎が使用され、旧駅舎は仮駅舎の陰に隠れた。その後、2007年6月に旧駅舎の解体作業が始まり、歴史ある駅舎は姿を消した。2008年6月14日から現・橋上駅舎の使用開始にともない、旧駅舎側が南口となったほか、新たに北口と南北自由通路が設置された。また、北口には現駅舎完成時からエスカレーターが、南口側はエレベーターが改築当初からそれぞれ設置されていたが、エスカレーターは仮駅舎を撤去した跡に設置されたため、橋上駅舎の開業から少し遅れて同年11月21日の供用開始となった。駅舎は和風の内外装を持ち、付近景観に溶け込むように配慮されている。さらに、南口側の駅前広場(2500m?)が2009年2月28日から、北口側の取り付け道路と駅前広場は同年3月14日からそれぞれ使用開始となりました。

駅の西側や北側が、一般には嵯峨野と言われている地域であり、南西方向が嵐山である。主な観光地はいずれも駅からやや離れているが、今や嵐山・嵯峨野地区を代表する観光スポットのひとつとなった嵯峨野トロッコ(嵯峨野観光鉄道)のトロッコ嵯峨駅が隣接しているため、同駅へ乗り継ぐ利用者が見られる。他社の嵐山駅と比較すると、トロッコ駅に隣接していることと京都駅から乗り換え無しで到達できることが当駅の利点となっている。
嵐電嵯峨駅(京福電気鉄道嵐山本線)は南へ徒歩約4分、阪急嵐山駅は渡月橋を渡って南東方向へ徒歩約20分。
駅前から京都府道135号嵯峨嵐山停車場線が発し、天龍寺方面へ通じる。

島式ホーム2面4線を持ち、待避設備を備えた地上駅で、橋上駅舎を有する。ホームの有効長がやや長い。
直営駅(亀岡駅の被管理駅)かつICOCA利用可能駅。また、JRの特定都区市内制度における「京都市内」の駅です。
切符売場には、タッチパネル式の券売機が4台設置されています。改札口には自動改札機が4台。改札口奥の頭上にはLED式の発車案内があります。

嵯峨嵐山駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1・2 ■嵯峨野線 上り 二条・京都方面
3・4 ■嵯峨野線 下り 亀岡・園部・福知山方面
2番線の一部はフェンスで乗り場がふさがれています。

朝夕ラッシュ時に快速と普通の緩急接続が行われる。奇数番線(1番のりば・3番のりば)が主本線、偶数番線(2番のりば・4番のりば)が待避線である。また、京都方に片渡り線があるため、営業列車での使用例はないものの3・4番のりばから京都方面へ発車することもできる。複線化工事完成以前は単式・島式の複合型2面3線で、2番のりばを上下共用の待避線とした構成であった。
2008年6月14日に橋上駅舎が一部完成し使用開始となり、同年11月21日に駅舎は全面的に完成した。引き続き南北の駅前広場の整備も行われ、2009年3月までに完成した。4番のりば(下り待避線)を設置し両方向で優等列車の待避が可能な2面4線にする工事も行われ、2010年3月7日の花園駅 - 当駅間の複線化に合わせて供用を開始した。


1897年(明治30年)2月15日 - 京都鉄道開業当初の終着駅である嵯峨駅として設置。客貨取扱を開始。
1899年(明治32年)8月15日 - 京都鉄道が園部駅まで延伸し、途中駅となる。
1907年(明治40年)8月1日 - 京都鉄道が国有化され、国有鉄道の駅になる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。京都線の所属となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。京都線が山陰本線に編入され、当駅もその所属となる。
1961年(昭和36年)3月1日 - 貨物取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。


1989年(平成元年)3月5日 - 当駅から馬堀駅までが複線の新線に切り替えられる。
1994年(平成6年)9月4日 - 嵯峨嵐山駅に改称。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。
2008年(平成20年)
6月14日 - 橋上化開業および南北自由通路完成。
11月21日 - 南口エスカレーター等の完成により橋上駅全面竣工。
2009年(平成21年)
2月28日 - 南口駅前広場完成。
3月14日 - 北口駅前広場完成。
11月1日 - 当駅から園部駅までの複線化が完成(当該区間最後の単線区間だった亀岡駅 - 並河駅間の複線化に伴う)。
2010年(平成22年)3月7日 - 嵯峨野線最後の単線区間(京都駅構内除く)である花園駅 - 当駅間が複線化。交換設備を廃止して2面4線に拡張。

電報略号 サア
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 5,855人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1897年(明治30年)2月15日
乗換 トロッコ嵯峨駅(嵯峨野観光線)
嵐電嵯峨駅(京福電鉄嵐山本線)
備考 直営駅
みどりの窓口 有
京 京都市内駅
* 1994年に嵯峨駅から改称。

 

 

救難ヘリコプターS-62A(愛称:雷鳥)航空自衛隊

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救難ヘリコプターS-62A(愛称:雷鳥)航空自衛隊
水陸両用型の輸送ヘリコプター。ゼネラル・エレクトリックCT58-110-1ターボシャフト・エンジンを搭載し、11名の乗客を輸送可能。

シコルスキー S-62は、単発、1軸ローター式のヘリコプター。アメリカ沿岸警備隊や海上自衛隊、航空自衛隊によって救難機として使われたほか、民間でも広く輸送用に使用された。

S-62の開発に当たっては、シコルスキー S-55のダイナミック・コンポーネントを可能な限り再使用している。また、その機体設計はシコルスキー S-61の縮小版といえるもので、機体の底面が舟型に整形されていることから、水上での離着陸能力を有する。また、エンジンもS-61と同じ1,250 hp (930 kW) ゼネラル・エレクトリックT58-GE-8だが、機体が小型であることから、単発配置となった。この強力なエンジンにより、S-62は、原型機であるとともにこの時期に広く使われていたシコルスキー S-55よりも高速で、載荷性能も優れている。
この特性に注目して、アメリカ沿岸警備隊はS-62Cを購入し、当初はHU2S-1G シーガードとして運用していたが、1962年にHH-52A シーガードとして制式化された。HH-52Aは99機が生産され、長く運用されたが、1985年より後継のHH-65 ドルフィンが運用を開始するとともに退役していった。なお、うち1機はアイスランドに輸出された。
また、日本では航空自衛隊と海上自衛隊が救難ヘリコプターとして採用し(航空自衛隊は1963年から1983年まで9機、海上自衛隊は1965年から1986年まで9機)、運用していた。これにともなって、三菱重工業で1961年から1970年まで25機(うち民間7機)をノックダウン生産した。この民間向け生産分のうちの1機であった朝日ヘリコプター当時所属機は、その上昇性能をいかして富士山レーダー建設時にレドーム骨格輸送作業を行い、後にNHKの『プロジェクトX』でも取り上げられた。西日本空輸所属機は、1979年の角川映画『戦国自衛隊』に陸上自衛隊のヘリコプター役として劇中に登場している。

諸元
乗員: 3
全長: 13.58m (44ft7in)
全高: 4.33m (14ft2in)
空虚重量: 2,248kg (4,956lb)
有効搭載量: 1,382kg
最大離陸重量: 3,630kg
性能
最大速度: (108ノット)
巡航速度: 163km/h
航続距離: 743km
実用上昇限度: 3,570m (11,700ft)
上昇率: 5.8m/s (1,142ft/min)

 

円町駅 JR西日本)山陰本線

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円町駅(えんまちえき)は、京都府京都市中京区西ノ京円町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。「嵯峨野線」の愛称区間に含まれている。アーバンエリア。京都駅 - 城崎温泉駅間の直流電化区間内では最も新しく開業した駅です。朝夕は近くの多数の高校、大学の学生で賑わいます。

丸太町通が駅北側を東西方向に通り、駅のやや東方の円町交差点で西大路通と交わる。周辺は住宅が密集しているほか、前述の幹線道路沿線を中心に「えんえんたうん」などの商店街が構成されるなど商業地ともなっている。

駅開業前に進出した家電量販店のニノミヤ京都本店は、同社の経営破綻によりミドリ電化に譲渡され、現在はエディオン円町店となっている。花園大学へは南西へ徒歩8分。バス停は近隣の道路上に設置されている。なお、運行社局によって名称は異なるが、設置されている位置は同じです。


島式ホーム1面2線を持つ高架駅です。前後の区間の複線化と同時に開業したため、当初から分岐器や絶対信号機がなく、停留所に分類されています。
改札口は地上、ホームは2階にある。地上とホームはエレベーター、上りエスカレーターおよび2つの階段で連絡している。ホーム中央のやや西寄りに待合室がある。駅舎への出入口は南北にそれぞれ1つと、高架下の通路に面した東側にも設けられている。トイレは改札内の地上西側にあり、男女別・車椅子対応の水洗式になっています。


ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅(亀岡駅の被管理駅)です。また、IC乗車券「ICOCA」の利用が可能です。僅かですが待合室があり椅子が3脚と飲料自販機があります。

円町駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■嵯峨野線 上り 二条・京都方面
2 ■嵯峨野線 下り 亀岡・園部・福知山方面


2000年(平成12年)9月23日 : 山陰本線の二条駅 - 花園駅間の複線化とともに開業する。
2001年(平成13年)4月2日 : 快速の一部が停車するようになる(朝の上り快速3本が停車)。
2002年(平成14年)3月23日 : 快速の全列車が停車するようになる。
2003年(平成15年)11月1日 : ICカード「ICOCA」の、当駅における供用を開始する。
2013年(平成25年)10月1日 : ジェイアール西日本交通サービスが受託する業務委託駅となる。

電報略号 エン
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 7,589人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 2000年(平成12年)9月23日
備考 業務委託駅[要出典]
みどりの窓口 有
京 京都市内駅

高槻駅 JR西日本)東海道本線

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高槻駅(たかつきえき)は、大阪府高槻市白梅町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅です。

北摂の中心都市で、多数のバスが乗り入れ、JR西日本でも有数の利用客を誇っています。「JR京都線」の愛称区間に含まれている。

駅構内は8線あり、その内島式ホーム2面4線(12両編成対応)を持つ地上駅です。昭和54(1979)年7月改築の橋上駅舎で、周囲のデパート等とペデストリアンデッキでつながっています。北側(上り方)には上下線間に挟まれた8両対応の留置線が2線あり、各駅停車の折り返しに使用されている。また留置線の先は高架で上り線(内外線とも)を乗り越え、その先の吹田工場高槻派出所(旧高槻電車区)につながっており、夜間滞泊などを行う列車はこの線を走行する。
改札口は橋上駅舎の中央口と地下通路でホーム・構外を結ぶ西口改札の2か所。自動改札機はICOCA・相互利用各ICカードに対応。
当駅は駅長が配置された直営駅であり、管理駅として東海道本線の島本駅 - 吹田駅間の各駅を管理しているが、茨木駅と吹田駅には地区駅長を配置し、茨木駅は千里丘駅を、吹田駅が岸辺駅を管轄しているため、当駅が全面的に管理下においているのは島本駅と摂津富田駅のみです。


中央口付近は駅内コンビニである「ハートイン」・日本旅行「TiS」・マツモトキヨシ・神戸屋・ユニクロ・マネケン・ビアード・パパスイーツ・36STICKS・築地銀だこ・サブウェイが出店するSweetPlazaなどのテナントが充実している。改札内には「デイリーイン」がある。また、駅舎北側のミスタードーナツ横にある南北連絡通路は地上駅時代に北口・南口・プラットホームを連絡していた改札内通路を再利用したものであり、ホームへ通じていた階段跡が切り欠きとして残っている。西口は常時1名以上の駅員が配置されているが、自動券売機と自動改札機のみのシンプルな構造である。かつて改札口の手前にはキヨスクが存在していたが、2005年3月末日に閉店し、その跡地には飲料と新聞の自動販売機が設置されました。

駅のバリアフリー化としてホームと中央改札口の間にエレベーター・上り下りエスカレーターが設置されている。 また、2010年3月には中央口南出口の京都側にエレベーターが設置された。 同エレベーターの地上階のすぐ近くにタクシーのりばがある。 以前は、中央口南出口と改札口との間にはエレベーターが無かったので、車椅子利用者はペデストリアンデッキを移動してグリーンプラザ1号館前のエレベーターまで行く必要があった。 中央口北側についてはアクトアモーレのエレベーターを使うことになる。


高槻駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1・2 ■JR京都線 上り 京都・草津方面
3・4 ■JR京都線 下り 新大阪・大阪・三ノ宮方面

新快速は外側線を走行するため、1・4番のりばのみ停車できる(当駅前後で外側線を走行する快速も該当)。
内側線走行の快速列車については、新快速に合わせて1・4番のりばを使用するのが基本である。これは当駅止まり・当駅始発の各駅停車が快速・新快速を連続で待ち合わせるためである。しかし早朝など2・3番のりばに列車が停車しない場合であっても1・4番のりばを使用する。ただし、事故などのダイヤ乱れで新快速との同時入線が生じる場合などに快速が2・3番のりばを使用することもある。
各駅停車は当駅止まり・当駅始発のものを含み、2・3番のりばを使用するのが基本である。
始終着列車が多く、また快速・新快速を1番・4番のりばで共用するため、当駅構内の開通待ちによる機外停車(または徐行)する列車も少なくない。これを解消するために、現在の1番線と8番線を廃止し、その位置に外側線用のホームを増設する工事が行われることが2013年4月17日にJR西日本から発表されました。完成予定は、2016年の春ごろ。


1番線 - ホームなし、上り外側線(待避線)
2番線 - ホームなし、上り外側線(通過線)
3番線 - 1番のりば、上り内側線(待避線)
4番線 - 2番のりば、上り内側線(本線)
5番線 - 3番のりば、下り内側線(本線)
6番線 - 4番のりば、下り内側線(待避線)
7番線 - ホームなし、下り外側線(通過線)
8番線 - ホームなし、下り外側線(待避線)
1番線、8番線は回送列車や貨物列車の待避に使われる。
上り外側からは1・2・3番線に、上り内側からは3・4・5番線に進入でき、上り外側へは1・2・3番線から、上り内側には3・4番線から出発できる。下り外側からは6・7・8番線に、下り内側からは5・6番線に進入でき、下り外側へは6・7・8番線から、下り内側には5・6番線から出発できる。電車区への進入・出発は3-6番線から可能。

日中時間帯は1時間あたり新快速・快速(当駅から普通)がそれぞれ4本、各駅停車は8本(6本は当駅折り返し)停車する。この時間帯は福知山線(JR宝塚線)直通列車が、快速及び新快速と接続を取る。神戸方面発着の各駅停車は緩急接続を行わないが、下りは新大阪駅到着までに新快速に追い抜かれる。朝ラッシュ時の大阪方面は新快速と外側快速がそれぞれ8分間隔、各駅停車が4分間隔で発車する。夕方ラッシュ時は新快速が7分半間隔、各駅停車が8本(4本は当駅止まり)で、当駅→京都駅間で各駅に停車する列車は8本になるが、快速列車(当駅から普通)は長岡京駅付近で新快速に追い抜かれる。
2009年3月13日までは大阪方面から1時過ぎに終電が到着していた。現在はこの列車は廃止されており、0時54分の到着となっている。

京都駅 - 大阪駅間の鉄道が敷設された時、高槻にあった高槻城の石垣を切り崩して、鉄道建設に石材が流用された。そして大阪 - 向日町間が開業した際に、唯一の中間駅として当駅が設けられた。
その後、1877年(明治10年)に京都までの延伸がなされるが、この時は全線が単線であった。そして高槻は大阪と京都のほぼ中間地点にあったことから、大阪駅と京都駅をほぼ同時に発車した列車が、当駅で交換を行ったと言われている。
1876年(明治9年)7月26日 - 官設鉄道向日町駅 - 大阪駅間の開通と同時に開業。一般駅。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年より東海道本線)の所属となる。
1956年(昭和31年)3月1日 - 高槻電車区設置。面積5900m2、収容能力111両。
1957年(昭和32年)10月1日 - 京都駅 - 大阪駅間複々線完全復活、電車の内側線への完全移行に伴うダイヤ改正を実施し、急行電車の停車駅となる(同時に「急行電車」を「快速」と呼称変更)。
1979年(昭和54年)7月1日 - 橋上駅舎使用開始。高槻駅南側再開発完成。グリーンプラザたかつき竣工。国鉄高槻駅南バスターミナルの供用開始。
1981年(昭和56年) - 高槻駅北地区再開発事業準備組合が発足。
1982年(昭和57年)11月15日 - 貨物の取扱を廃止。
1985年(昭和60年)3月14日 - 201系投入によるダイヤ改正に合わせ、昼間の快速を当駅以東で「普通」に変更。
1987年(昭和62年)
3月31日 - 貨物の取扱を再開、但し以降の貨物取扱実績は無い。
4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
1990年(平成2年)3月 - ダイヤ改正により一部の新快速停車駅となる。
1993年(平成5年) - 高槻駅北地区再開発事業が「第一種市街地再開発事業」の都市計画決定(1994年に丸井が、1999年十字屋が相次いで出店を辞退するが、2001年平和堂の出店が決定し着工)。
3月 - 休日の新快速が朝にも停車するようになる(夕方以降は通過のまま)。
1995年(平成7年)9月 - 新快速が土休日終日停車となる。(同日並行する阪急が値上げ)
1997年(平成9年)3月 - 新快速の全列車停車駅となる。
2002年(平成14年)7月29日 - JR京都・神戸線運行管理システム導入。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCAの利用が可能となる。
2004年(平成16年) - 高槻駅北地区再開発事業が完了。総事業費は4020億円。
2006年(平成18年)4月1日 - JR貨物の駅が廃止され、貨物の取扱いが終了。

電報略号 タツ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 62,469人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1876年(明治9年)7月26日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有

 

JR西日本221系電車

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221系電車は1989年に登場した直流近郊形電車。西日本旅客鉄道(JR西日本)によって初めて新規に設計・製造された系列です。

国鉄分割民営化直後、ほかのJRグループ各社が新型特急電車を登場させる中、JR西日本が新生JRを象徴する車として、私鉄との競合が激しい東海道・山陽本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)や関西本線(大和路線)に投入した車両である。形式名として、2種類の走行機器を有していたことから、国鉄時代の続形式として「215・217系」とすることも検討されていたが、JR西日本として初めて投入する車両であることから、一の位を1として「221系」とされた。
開発にあたっては、1988年に瀬戸大橋線用クロ212形の設計を担当した近畿車輛が、同車のエクステリアデザインを基本としつつ、同社の親会社である近畿日本鉄道(近鉄)向け5200系電車で採用した、3扉転換クロスシートや扉間の連窓構造などを盛り込んだ設計コンセプトを提案し、これを全面的に採用する形で実設計が行われた。製造は主に近畿車輛・川崎重工業・日立製作所が担当したが、一部は自社の鷹取工場と後藤工場で組み立てられた。窓が大きく明るい車内など快適な居住性と高速走行性能を実現し、大量増備と線区限定での集中投入が続けられ、新快速や大和路快速の主力車両となった。
新快速の運用車両には153系が「ブルーライナー」、117系が「シティライナー」と愛称があり、本形式にも「アメニティライナー」の愛称が命名されたが、浸透しなかったこともあり、後継の223系には初代新快速用の113系と同様、特に車両愛称は与えられていない。登場当時は、製造時期がほぼ同じで設備も大差ない東海旅客鉄道(JR東海)の311系や九州旅客鉄道(JR九州)の811系とよく比較されたが、最終的に居住性に勝ると評価された221系が1990年(第30回)の鉄道友の会ローレル賞を受賞している。
なお、本系列は営業最高速度が120km/hに設定されているが、初期製造グループの新造直後に一部装備を改造の上で湖西線において160km/hによる試験走行を行い、特急「サンダーバード」用681系の開発に当たって貴重なデータを提供した。交通科学博物館(2014年4月6日閉館)では、運転シミュレータとして操作することができた。

20m級鋼製車体に片側3箇所の両開き扉という、近郊形としてはオーソドックスな構成となっている。相当数の増備が見込まれていたことから、211系や213系での軽量ステンレス構体ではなく、ステンレスに比べると当時は安価であった普通鋼を使用した構体とした。

塗装は全車白を基本に関西急電色である茶、JR西日本のコーポレートカラーである青、新快速シンボルカラーであるベージュの帯が車体下部に入るというものである。223系ではさらに窓周りに茶帯を追加したが、221系には波及していない。当初はいくつかの塗装案があり、485系「スーパー雷鳥」に似た、白地に側面および前面にコーポレートカラーのブルーとピンクの帯を配したものや、117系をイメージして車体下半分にクリームおよびマルーンの細帯を配したものがあった。

編成や車種構成の都合からMM'ユニット方式と1M方式の2種の主回路構成を採る形式が混在する。機構的には国鉄分割民営化後に製造された205系1000番台(MM'ユニット方式)および213系(1M方式)を基にしており、加えて耐雪ブレーキなどの耐寒・耐雪装備を備える。基本的なシステムは日本国有鉄道(国鉄)時代に新製した211系・213系に準ずるが、高密度高速運転が実施されている線区への導入を前提としていたためもあってか編成内のMT比1:1が維持され、かつ加速度も大きく設定されている。また、海からの潮風の影響が考えられるJR京都線・JR神戸線での走行を考慮して、海寄りに空制部品、山寄りに電気部品を集中的に配置してある。

主制御器は、205系で開発された CS57(MM'ユニット方式)と、213系で開発された CS59(1M方式)をそれぞれ基本とする、WCS57B・WCS59C が搭載されている。制御方式は界磁添加励磁制御であり回生ブレーキを常用する設計となっているため、211系などと同様に勾配線での抑速ブレーキも使用可能である。インバータ制御の採用は、コスト面の検討の結果見送られた。このシステムでは電動カム軸制御器と抵抗器が搭載されており、抵抗最終段までは従来どおりの抵抗制御と直並列制御を組み合わせて加減速するため、本系列でも発車直後の起動加速などの際に進段に伴う前後衝動が発生する。
運転台のマスコンは、ブレーキとマスコンが別々の横軸ツインレバー型をJR西日本としては初めて採用した。これはブレーキを掛けた状態から加速すると発車時の衝撃を緩和できるとの発想などから採用されており、阪急・大阪市営地下鉄堺筋線以外の関西の鉄道車両に多く見られる方式である。ワンハンドル型ではこの様な操作ができないため、あえて採用しなかったとの説もある。補機用の電源として、ブースタ方式DC-DCコンバータと3相インバータで構成された静止形インバータ(WSC23、容量 130 kVA、AC 440 V)がクモハ220形・モハ221形・モハ220形に、鉛蓄電池がモハ221形・クハ220形・サハ220形に搭載されている。空気圧縮機は水平対向式4気筒が採用され、モハ221形に WMH3093-WTC2000A が、サハ220形・クハ220形は WMH3094-WTC1000C が搭載されている。

台車には円錐積層ゴムによる軸箱支持機構を備えるボルスタレス台車である DT50・TR235 を基本とする WDT50H(動台車)・WTR235H(付随台車)が採用された。オリジナルとの相違点は高速走行時の安定性向上を睨んだヨーダンパ設置準備工事の有無で、これは1998年以降、順次追加取り付けが実施され、電動車は各台車の左右に、制御車と付随車は各台車の片側面にそれぞれ取り付けられた。

冷房装置はそれまで国鉄が採用していたAU75系の集中式1基搭載から、集約分散式の WAU701(冷凍能力18,000kcal/h)2基を各車毎に搭載する方式が採用された。これにより冷房装置の重量が2分されるため、集中式1基搭載と比較して構体、特に冷房装置を支持する天井の梁や側柱の強度設計が容易になっている。このWAU701は新鮮外気導入機能を内蔵し、マイコン搭載により自動運転が可能となっており、通年連続運転により屋根上で腐食の原因となっていたベンチレーターの廃止が実現している。

117系は片側2扉であったが、新快速の乗客増加と快速運用を考慮し、221系では3扉となった。この3扉でかつ全席クロスシートという配置は近鉄5200系に次ぐもので、国鉄、JRでは初となる。座席には117系と同様の転換クロスシートが採用されている。座席配置は、扉間に2人掛け6脚(シートピッチ 910 mm 、両端2つは固定式)×2列、車端部に4人掛けボックス席×2セットの構成である。117系にあった車端部の配電盤や機器箱などの機器類を極力床下に移設して無駄なスペースを徹底的に排除することで、座席定員は中間車は117系と同数の1両に64席、先頭車については運転台の直後に客用扉を配するレイアウトとしてトイレ設置車が6名、トイレ非設置車が4名、117系より少なくなっている。
座席モケットは、当初は淡い茶色であったが、2011年6月には225系0番台に準じたモケットに変更された車両が登場している。座席カバーは一般席が白、優先座席が緑となっている。また、つり革も車内の見通しの良さを優先し、客用扉付近以外は引き通し棒のみの準備設置に留められていたが、混雑時に問題が多いことが指摘され、中期以降は車内全体に通して設置する形に変更され、のちに初期の車両にも追設されている。
車内の車端部には LED 式の車内案内表示装置が設置されており、のちに登場した223系と違ってクロスシートに座った乗客から見やすいようになっている。この上部には号車番号表示とデジタル式時計も合わせて設置されており、JRグループの普通列車用車両では221系と311系、E233系(3000番台をのぞく)、キハ75形(0番台・100番台のみ)のみの特徴となっている。のちに増備された223系ではドアの上に LED のスクロール式の車内案内表示装置と号車番号表示が設置されているが、デジタル式時計は設置していない。トイレは和式で、編成中に1か所(クハ221形・クハ220形の2位側)設置されている。

当初から新快速としての運用以外にも近郊線区への配属も視野に入れていたこと、常にMT比(編成内の電動車と付随車の比率)が1:1になるように設定したことから、電動車2両でユニットを組む221形グループと電動車1両と付随車1両の2両でペアを組む220形グループが並行して製造された。この結果、奈良線向けの2両編成から東海道・山陽本線の最大12両編成まで需要に応じた編成を自由に組成でき、また6両編成時の113系のように電動車比率が必要以上に高くになることもなくなった。

 

 

 

 

LUGM-145機雷

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海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)の史料館2階(掃海艇の活躍)で展示されているイラクの機雷です。1991年5~9月に実施されたペルシャ湾掃海任務に対してアメリカ軍司令官より贈呈されたものです。

イラン・イラク戦争においては、ペルシア湾にタンカー航行妨害用の機雷が敷設されました。湾岸戦争においてもイラク軍がクウェート沖合いに機雷を約1,200個敷設し、戦後に日本を含む国際部隊が掃海作業を行っています。とりわけ、紅海やペルシア湾には機雷が数個敷設されただけで、原油価格が大きな影響を受け世界経済が激しく動揺するため、近時テロ目的の機雷が各国により非常に警戒されています。

史料館2階では戦後の航路啓開活動から第二掃海隊群編成後の掃海を写真とパネルで紹介しています。

機雷は、水中に設置されて艦船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する水中兵器をいいます。水中で人為的に仕掛けられる爆発装置のリムペットマインなどは含まない。機雷は機械水雷の略です。機雷に触れることを触雷(しょくらい)、機雷を設置した海域を機雷原(きらいげん)という。また、機雷を撤去することを掃海といいます。

島本駅 JR西日本)東海道本線

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島本駅は、周囲が小高い山に囲まれた大阪府三島郡島本町桜井一丁目にある西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅です。日本初のウイスキー蒸溜所であるサントリー山崎蒸溜所のある島本町の駅で島本町役場の最寄り駅です。「JR京都線」の愛称区間に含まれています。

普通電車(高槻駅以西で快速になる列車を含む)のみが停車する。
東口駅前にはバスのりば、有料の駐輪場(バイクおよび自転車が駐車可能、出入口は回転ゲート式)が設けられています。また、西口は現在のところ一般の自動車が通行可能な道路が整備されておらず、当面は自転車・歩行者専用道路のみ利用できる。
地元の要望を受け、入線メロディが導入されることになった。このメロディは島本町内にサントリー山崎蒸溜所があることにちなみ、サントリーオールドのCMソングで小林亜星作詞・作曲の『人間みな兄弟~夜がくる』を原曲としている。入線時の放送では電子ベルの使用が主流となっているJR京都線内の中間駅では唯一の入線メロディ導入となっている。
隣の高槻駅との駅間は5.3kmあり、JR京都線で最長となっている。

利用の少ない早朝と深夜、利用の増える平日の朝ラッシュ時を除き、1時間に高槻以西快速の普通が4本、全駅停車の普通が4本停車する。平日の11時台から14時台、土休日の13時時台と14時台は全駅停車の普通の運転はなく、高槻以西快速の普通のみが停車する。

島式ホーム1面2線(幅約7メートル、長さ約250メートル=12両編成対応)を持つ地上駅で、駅舎の屋根の形を島本町の山並みをイメージしている橋上駅舎です。当駅の前後区間は複々線だが、内側線を走行する列車のみが停車可能。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。
この区間は小高い築堤上にあるため、当初は駅舎を地下に設置するいわゆる「半地下形式」で建設される計画であったが、当駅は請願駅で島本町が事業費の大半を負担しなければならず、厳しい財政状況もあって建設費用を抑えられる橋上駅に変更された経緯がある。


直営駅ではあるが駅長は配置されておらず、高槻駅が地区駅を介さずに直轄で管理している。ICOCA利用可能駅であり、ICOCAの相互利用対象ICカードも利用可能。切符売場自動券売機、指定席券売機が設置されています。自由通路、中央右の出札・改札付近には、キオスクがあります。改札口にはLED式の発車案内と自動改札機。

島本駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■JR京都線 下り 新大阪・大阪・三ノ宮方面
2 ■JR京都線 上り 京都・草津方面

山崎駅と高槻駅との間は1876年の当区間の路線開業以来、7.5キロもの駅間距離で、新駅構想があった。
島本町内では、日本国有鉄道時代から新駅設置に向けた動きがあったが、財政上の問題などから見送られてきた。しかし、1997年にJR西日本から同町に対して新駅設置の希望の有無について打診されたことを受けて、町内で設置についての本格的な検討が始まる。同町の1999年度の都市計画マスタープランでは、新駅設置予定地を合宿施設と大阪府立青年の家付近としていたが、同施設が2001年3月に閉鎖されたことで新駅東側および駅前広場用地の取得に関する問題が解決に向けて大きく前進したため、一気に計画が進展することとなった。当初は2007年春の開業を目指していたが、建設計画が変更されたため、開業は2008年3月15日となった。また、開業式典には橋下徹大阪府知事がテープカットに参加した。


ホームの設置は、下り方面の線路を移設することでスペースを捻出して行われた。用地買収が難航していた駅西側の一部の土地は、駅開業後も所有者が買収に応じなかったため工事を着工することができなかったことから、西口からの歩道は一部通行止めとなっていた。このような状態がしばらく続いたが、用地買収が完了し工事が再開され、2009年3月27日に通行止めとなっていた歩道が完成し、新駅設置事業の全てが完了した。


2003年(平成15年)
3月 - 島本町とJR西日本が新駅設置に向けて基本協定締結。
8月 - JR西日本が近畿運輸局長に対して鉄道事業法に基づき、山崎駅 - 高槻駅間への新駅の設置を認可申請。
2005年(平成17年)
3月 - 駅前広場の整備工事に着手。
11月 - 新駅設置工事に着手。
2008年(平成20年)3月15日 - 開業。

電報略号 シマ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 5,889人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 2008年(平成20年)3月15日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

 

 


山崎駅 JR西日本)東海道本線

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山崎駅は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字西谷にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅です。「JR京都線」の愛称区間に含まれています。京都競馬場へのバスのアクセス駅にもなっており、レースの開催日には競馬ファンで賑わいます。

周囲は淀川と山に挟まれて平地が狭くなっていて阪急電鉄大山崎駅とは約250mと比較的近いため、徒歩での乗換が可能で、乗換の検索ソフトでは両駅が表示されるものも存在する。京都・大阪間では最も近接している駅です。また国道171号線、東海道新幹線も集中する場所です。

駅舎は京都府内にあるが、敷地の一部は大阪府三島郡島本町山崎にあり、ホーム上に府境を示す看板がある。1927年(昭和2年10月)に竣工した木造平屋建ての駅舎を有する。
駅の大阪方の曲線(通称サントリーカーブ、サントリー山崎蒸溜所に隣接していることが由来)は鉄道写真撮影のメッカとして有名であるが、現在は安全のためフェンスが設置され、撮影困難となっています。島本駅が開業するまで、隣の高槻駅までの距離はJR京都線で最長でした。

利用の少ない早朝と深夜、利用の増える平日の朝ラッシュ時を除き、1時間に高槻以西快速の普通が4本、全駅停車の普通が4本停車する。平日の11時台から14時台、土休日の13時時台と14時台は全駅停車の普通の運転はなく、高槻以西快速の普通のみが停車する。

島式ホーム2面4線(12両編成対応)と下り線に側線1本を有する地上駅。左側の出っ張り部分が目立つ木造駅舎です。ホームの外側線側(新快速・特急列車用)は封鎖されている(快速は内側の線路を通過)。傾斜面上にホームがあるため、駅舎はホームより下層に設けられている。2010年12月現在、エスカレーターやエレベーターは設置されていない。

駅の先すぐに京都寄りは半径500mのカーブとなるので、通過電車は駅構内手前から100km/hに減速する。周辺にサントリーの工場などが所在するためかつては貨物施設があったが、現在は跡地が保線施設となっている。トイレは設置されている。
直営駅(長岡京駅の被管理駅)かつICOCA利用可能駅。みどりの窓口があり待合室にはキオスクもあります。

山崎駅プラットホーム
ホーム 路線 方向(線路) 行先
1 □JR京都線 下り(外側線) (通過列車のみのため閉鎖)
2 ■JR京都線 下り(内側線) 新大阪・大阪・三ノ宮方面
3 ■JR京都線 上り(内側線) 京都・草津方面
4 □JR京都線 上り(外側線) (通過列車のみのため閉鎖)
ホームは地下道で連絡しています。

1876年(明治9年)8月9日 - 官設鉄道の向日町駅 - 高槻駅間に新設開業。客貨取扱を開始。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年より東海道本線)の所属となる。
1927年(昭和2年)10月 - 現在の駅舎が竣工。
1971年(昭和46年)10月1日 - 貨物取扱が廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 ヤサ
駅構造 地上駅
ホーム 2面4線(乗降は2面2線のみ)
乗車人員
-統計年度- 5,652人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1876年(明治9年)8月9日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* 正式な所在地。一部は大阪府三島郡島本町山崎にもまたがる。

日本国有鉄道 キハ07 41号 九州鉄道記念館

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国鉄キハ07形気動車は、日本国有鉄道(国鉄)が1951年に再生改造した一般形気動車(ディーゼル動車)である。旧形式名はキハ42500形(2代目)で、1957年の称号改正でキハ07形に改称された。

キハ42500形(2代目)の前身であるキハ42000形は昭和時代初期に鉄道省が開発したキハ41000形ガソリン動車を基本とし、大都市近郊路線に投入するために車体寸法を拡大して機関出力を強化したものである。
キハ42000形には、1935年(昭和10年)から62両が量産されたガソリン機関搭載の基本形式であるキハ42000形、および、1937年(昭和12年)に3両が試作されたディーゼル機関搭載の派生形式であるキハ42500形(初代)の2形式が存在した。キハ42500形(2代目) → キハ07形はこれらのうち、戦後まで残存していた車両について機関をディーゼル機関に換装して再生改造されたグループと、これらの設計に準じて戦後追加製造されたグループで構成される。

キハ42000形は、1935年から1937年にかけて62両(42000 - 42061)が製造された。このほか、ディーゼル機関を搭載した試作車キハ42500形が1937年に3両(42500 - 42502)製造されている。
製造は、民間の川崎車輛、日本車輌製造、新潟鐵工所のほか、鉄道省の大宮工場でも行なわれた。1934年度製造(1935年竣工)の最初の4両は各種試験に投じられたのち、2両は西成線(現・桜島線・大阪環状線の一部)用に宮原機関区に、別の2両が中央本線名古屋口ローカル用に名古屋機関区にそれぞれ配属された。以後は日本各地で多くの場合、1933年以降すでに先行して41000形が導入されていた路線にこれを置き換え、あるいは併用する形で投入され、捻出した41000形で新たな気動車運行路線を開拓する措置が(42000形増備が停止する1937年の戦時体制期までの短期間であったが)進められた。
戦後にもディーゼル機関を搭載し、ドアのプレスドア化など細部の仕様を変更した同形車が製造されている。こちらは、1952年に20両が製造された。

1957年に実施された気動車の称号改正によりキハ07形に改正された。戦前製は0番台、戦後製は100番台に区分の上で改番された。更に、1960年から1963年にかけて100番台のうち15両の変速機が機械式から液体式のTC-2に交換されて総括制御可能となり、200番台へ改番された。


戦前の代表的な機械式(クラッチで変速する方式)気動車で、連結運転の時は双方の運転士が合図しながら走っていました。昭和27年にガソリンエンジンをディーゼルエンジンに変更。
この車両は昭和32年に豊後森機関区に配置され、宮原線で使用されました。昭和44年に引退となり豊後森機関区や大分運転所で大切に保管されていました。戦前に製造された同型車で原形を保っているのはこの車両だけです。

■製造初年:1937
■製作社等:日本車両

長岡京駅 JR西日本)東海道本線

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長岡京駅は、京都府長岡京市神足(こうたり)二丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅です。「JR京都線」の愛称区間に含まれています。

JRでは長岡天神への最寄駅になるが、長岡京市では阪急京都線長岡天神駅の方が中心部の意味合いが近く、当駅周辺の建物の密度は低い。阪急長岡天神駅には西口から徒歩約13分。現在の駅舎前には、車掌車ヨ8000形が静態保存、かつて使われていた0系とD51形の車輪が展示保存されている。

かつては神足駅(こうたりえき)と名乗っていた。神足駅当時に使われていた駅名標は、現在神足二丁目に立てられています。長岡京市の中心部からはやや離れてはいるものの、企業への通勤客を中心に利用客がいる。また、京都府の運転免許試験場(当駅下車後、西口阪急バス・東口京都市営バス利用)への利用がある。近年駅周辺にマンション、ビルが建設され、道路も舗装され外観は綺麗に整備された。同じ長岡京市の中でも、より中心部に近い阪急電鉄長岡天神駅の利用者の方が多かったが、近年逆転している。

利用の少ない早朝と深夜、利用の増える平日の朝ラッシュ時を除き、1時間に高槻以西快速の普通が4本、全駅停車の普通が4本停車する。平日の11時台から14時台、土休日の13時時台と14時台は全駅停車の普通の運転はなく、高槻以西快速の普通のみが停車する。当駅は西大路-島本間のほかの駅と異なり、早朝からラッシュ時までに運転される京都以西快速となる電車も停車する。

島式ホーム2面4線を有する地上駅(12両編成対応)で、通常の乗降は内側線ホームのみを使う。昭和62(1987)年2月当時としてはエスカレーターのある駅はまだ珍しい橋上駅舎へ改築されました。駅から村田製作所・バンビオには直通の連絡道路が併結されています。向日町方で京都総合運転所への入出庫線が分岐しているため、場内・出発信号機を有する。


駅長が配置された直営駅であり、管理駅として西大路駅・桂川駅・向日町駅・山崎駅の4駅を管轄している。ICOCA利用可能駅であり、ICOCAの相互利用対象カードも利用可能。みどりの窓口があり切符売場には券売機は4台、指定席券売機も設置されています。改札口にはLED出発表示と自動改札機があります。改札横にはの大型のキオスク。

 

長岡京駅プラットホーム
ホーム 路線 方向(線路) 行先
1 □JR京都線 上り(外側線) 予備ホーム(通常は通過列車のみ)
2 ■JR京都線 上り(内側線) 京都・草津方面
3 ■JR京都線 下り(内側線) 新大阪・大阪・三ノ宮方面
4 □JR京都線 下り(外側線) 予備ホーム(通常は通過列車のみ)

2010年(平成22年)3月7日を最後に、当駅に停車する定期列車は内側線経由に統一された。ダイヤの乱れにより快速が外側線経由に変更される場合もあるため、外側線ホームへの柵の設置はなされていなかった(ロープにより封鎖されていた)が、2011年(平成23年)5月頃から外側線ホームにも柵が設置され(同時に黄色い点字ブロックや乗車位置表示も撤去)、非常時以外は乗降が不可能になっている。2004年10月15日ないし2006年3月17日までは平日にも外側停車設定があった。


1931年(昭和6年)8月1日 - 国有鉄道東海道本線の向日町 - 山崎間に神足駅(こうたりえき)として開業。客貨取扱を開始。
1985年(昭和60年)11月1日 - 貨物取扱が廃止。川の東側にあった住友セメントのサービスステーションへ専用線が続き、貨物輸送を行っていた。
1987年(昭和62年)
2月 - 橋上駅舎に改築。
4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。
1995年(平成7年)
6月12日 - 一部の快速が停車となる。
9月1日 - 長岡京駅に改称。平日の全ての快速が停車となる。
1996年(平成8年)3月16日 - ダイヤ改正により快速が全列車停車となる。
2002年(平成14年)7月29日 - JR京都・神戸線運行管理システム導入。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

キロ程 523.7km(東京起点)
京都から10.1km
電報略号 ナキ
駅構造 地上駅(橋上駅)


ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 19,975人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1931年(昭和6年)8月1日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* 1995年に神足駅から改称。

JUXS-S1 UAV(近距離用) 陸上自衛隊飛行ドローン

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JUXS-S1 UAV(近距離用)

陸上自衛隊の全翼式の小型UAV。翼幅約1.5 m,質量約4 kg、プロペラは2枚翅で、回転直径が目算で20cm程度と非常に小さく小型軽量である。手投げ離陸や狭いエリアへの着陸を実現し,離着陸には特別な装置・施設を必要としない。携行時には分割することができ,コンパクトに収納可能である。情報取得用のセンサーは,可視カメラなどが用意されている。2名の人員によって携行し,運用。本体の発進方法は、手投げする他、ゴムバンドを使ったパチンコのような簡易カタパルト方式。JUXS-S1は日立グループが製作、初号機を2011年2月に納入し,2012年6月現在,16機を納入済みである。
地上装置も同様に,携行可能な収納状態にすることができる。小型無人航空機の飛行時は地上装置を展開し,取得した情報の表示や目標の探知などの処理が可能となる。

無人機本体と制御装置で構成されています。制御装置は、「制御用の端末+伝送処理部+通信アンテナ」の3つの部分で構成されていました。防衛用としては敵の支配地域に進出し我の企画を秘匿しつつt、敵及び地域に関する詳細情報の継続的な収集に使用。災害用としては空中から捜索により近距離における災害状況等の情報収集に使用。

UAVは無人航空機や飛行ドローンは、人が搭乗していない航空機のこと。無人機の1種。単に、ドローン(Drone)と呼ばれる事もある。
「無人航空機」には全幅30メートルを越える大型から手の上に乗る小型までの様々な大きさのものが存在し、固定翼機と回転翼機の両方で軍用・民間用いずれも実用化されている。操縦は基本的に無線操縦で行われ、機影を目視で見ながら操縦するものから衛星回線を利用して地球の裏側からでも制御可能なものまで多様である。飛行ルートを座標データとしてあらかじめプログラムすることでGPSなどの援用で完全自律飛行を行う機体も存在する。似た性能を持つ巡航ミサイルや弾道ミサイルは通常は無人航空機には含まない。大きな機体ではガスタービンエンジンを搭載するものから、小さなものではガソリンエンジンを搭載し、極小の機体ではバッテリー駆動される。
固定翼機では、離着陸時に地上を滑走するものが多いが、小型の機体ではトラックの荷台に載せたカタパルトから打ち出すものや、さらに小さな機体では手で投げるものもあり、回収方法も小型のものではネットで受けるものもある。例としてRQ-2 パイオニアはネットで回収する。

無人の航空機を遠隔操縦するという発想は既に第一次世界大戦中からあり、第二次世界大戦時から研究が本格化した。当初はケタリング・バグのような飛行爆弾に近い攻撃用途での研究が多かったが、完全な無人作戦機として使えるものが実用化されることはなかった。
1944年には、アメリカ陸軍が強固に防御されたV1飛行爆弾発射施設などを破壊するため、B-17爆撃機を無人機に改造し高性能炸薬を積み込んで体当たりさせるという「アフロディーテ作戦」を立案していた。改造されたB-17はBQ-7と呼ばれ、不要な装備を全て外し、コックピットにテレビカメラを計器盤と外を見るための計2台を設置して無線操縦できるようにされていた。しかし、炸薬の安全装置解除が遠隔操作ではできないなどの問題があったため、パイロットと航空機関士が搭乗して離陸を行い、イギリス領空内で誘導母機と合流し炸薬の安全装置を解除してから脱出するという、無人機としてはまだ不完全なものだった。BQ-7は1944年4月から攻撃任務に投入されたものの、当時の技術的な問題から途中で操縦不能に陥り墜落してしまうことが多く、攻撃は一度も成功しなかった。その後ノルマンディー上陸作戦の成功により目標となる施設の地上制圧が可能になったこともあり、1945年に作戦は中止された。この作戦にはアメリカ海軍も便乗しており、改造する機体をPB4Y-1に変更して行っていた。1944年8月12日の初攻撃任務にはジョン・F・ケネディの兄ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアがPB4Y-1のパイロットとして参加していたが、脱出前に機体が原因不明の爆発を起こし戦死した。これを最後に海軍では行われていない。無人機型B-17は戦後も運用されており、1946年に行われた核実験「クロスロード作戦」では新型の無線操縦装置を取り付けたQB-17が核爆発後の降下物測定に使用された。


戦後、軍用での無人機として広く普及したものは「ターゲット・ドローン」と呼ばれる標的機であった。
標的機はその目的・運用上、無人でそれなりの機動ができることが望ましい。研究・開発は大戦中から始まっており、英国の練習機DH.82 タイガー・モスをベースとした無線操縦機Queen Bee(クインビー、女王蜂)は、そこから転じて生まれた「ドローン」(雄蜂)という呼称の由来となっている。
アメリカ空軍では1950年代にBQM-34 ファイヤービーのような高速飛行するジェット推進式の標的機を配備して、標的機の他にも試験的ながら攻撃用途での開発の先鞭が付けられた。ファイヤービーはパラシュートによる回収方法が採用されたが、アメリカ海軍では無線操縦式のヘリコプターであるQH-50 DASHにより、海上を飛行して魚雷を投下する用途で1960年代に開発配備した。


1970年頃から無線機の小型化や電子誘導装置が発達したことにより、写真偵察などを目的とする無人偵察機がアメリカやイスラエルで本格的に開発開始された。20世紀末からはさらなる画像電子機器や通信機器、コンピュータの発達により、リアルタイムでの操縦と偵察映像の入手、完全自動操縦などが可能となり、21世紀からは偵察機型から攻撃機型への展開が行われた。2010年度の米国防予算案では、4軍合計で無人機への予算を38億ドル要求し、1,297機の購入を見込んでいる。2009年度は1,071機の購入だった。また、高高度を飛行することで通信中継点となる軍用無人航空機の研究も進められている。一方、アメリカやイスラエルと異なり、欧州各国は無人機の有効性に懐疑的な主張が多く、本格的な開発に入ったのはアフガニスタン戦争やイラク戦争での、アメリカ軍の無人機の戦果を目の当たりにしてからであり、開発は遅れている。


日本では、1950年代から研究が開始されており、主に偵察分野で無人機を活用している他、無人ヘリコプターからのミサイル攻撃などを研究している。近年では、中国が、無人機の開発で急速に存在感を増しつつある。日本では、幅広い産業分野で無人航空機が利用されており、特に農業では農薬散布に広く利用されている。世界で初めて、産業用無人ヘリを開発したのは日本のヤマハ発動機であり、農林水産省から委託を受けて神戸技研が二重反転式ローターのRCASSの開発を進めていたが難航したため、撤退して、その後、1985年からエンジンの供給元であったヤマハ発動機が引き継ぎ、ヒロボーの協力で1987年に開発、翌年から実際に販売された
衛星との双方向の通信によってリアルタイムの操縦が行える高性能な機体では、地上側にパイロット席に相当する移動式の操縦ステーションが設置、これと軍用無人機とが組み合わされ、全体が1つのシステムとして機能するものも現れている。
無人ステルス機の研究も進められている。RQ-3 ダークスターやX-47のような実験機を経て、RQ-170 センチネルが実戦に参加していると推測される。ただし、機密が多く詳細は明らかではない。また、無人制空戦闘機といった計画も知られていない。

415系電車JR直流両用近郊形電車

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415系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した交直流両用近郊形電車。
国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)と九州旅客鉄道(JR九州)に継承されたほか、JR東日本が設計・製造した車両や西日本旅客鉄道(JR西日本)が113系を改造・編入した車両が存在する。

401系・421系は交直両用近郊形電車として1960年に、それぞれ50Hz・60Hz専用として登場した形式である。403系・423系はこれらの出力増強形としてそれぞれ1966年・1965年に50Hz・60Hz専用として登場した形式である。415系はこれらを50Hz・60Hz両用として1971年に登場した形式である。50Hzの401系・403系は電動車のみ異なり、制御車(クハ401)は共通とされ、60Hzの421系・423系も電動車のみ異なり、制御車(クハ421)は共通とされた。50Hzの401・403系と60Hzの421・423系の両系列の間では、制御車は415系が登場するまでクハ401、クハ421と分けられていた。一方、415系は制御車の形式をクハ411とした。基本設計については415系まで踏襲されている部分が多いが、運用線区の違いなどから行先票(サボ)受の位置が異なるなど外観等に多少の差異が見られる。

車体構造は153系を基本としている。すなわち全金属製セミモノコック構造で、車体幅を2.9mとし裾を絞った断面形状であり、車体長も同様に中間車で19.5mである。ただし近郊形として通勤使用を考慮し70系同様のデッキなし片側3ドアとした上、新たに101系と同じ1.3m幅の両開き扉を採用した。座席配置も70系のものを改良したセミクロスシートで、中間車の場合、扉間は扉近くの2人掛けロングシートに4人掛けボックスシ-トが4組挟まれ、車端部には3人掛けロングシートに4人掛けボックスシ-トが2組で、座席定員は76人(70系は車端部ロングシートのみで、座席定員は72人)、153系と比較して通路幅は540mmに対して860mmと広くとられ、座席は幅が狭く窓側の肘掛けが省略されている。便所は70系同様クハに設けられた。これらの構造は、以後長らく新性能近郊形電車の標準となった。

クハ401・421形の前面は、153系と同様に併結運転の便を図って貫通路を設けたデザインで、初期製造車はクハ153形0番台と同様に運転室のフロントガラスが大きい低運転台構造[2]だったが、401系は1962年製造分のクハ401-23から、421系は1961年11月製造のクハ421-17以降から、それぞれクハ153形500番台と同様、踏切事故対策である高運転台に変更され、以後長らく近郊形電車で使われ続けるデザインとなった。また、403系・423系用を含め屋上通風器など他の部分についても同時期のクハ111形に合せた改良が行われている。
台車は電動車用が101系と同一のDT21B形、付随車用がDT21B形をベースに台車枠形状などを付随車用に変更したTR64形とした。ブレーキ機構は価格的な面からディスクブレーキを使用せず踏面制輪子とした。なおクハ401-47・421-41以降はクハ111形と同様にディスクブレーキ付きのTR62形とし、ブレーキ容量増大を図った。

415系 は1971年(昭和46年)から製造が開始された。交流50/60Hz両用のTM14形主変圧器を搭載する「三電源方式」となっている。

411・415という中途半端な形式が採用され、クハ411形が300番台として301番から製造されたのは415系登場時に、401系・403系の411系、421系・423系の413系への形式変更、およびクハ401形・クハ421形のクハ411形0番台(1 - 90)・100番台(101 - 206)への改番が計画されていたからだが、実現には至らなかった。

営業最高速度 100km/h
起動加速度 1.6km/h/s(M:T=1:1時)
減速度 3.5(常用最大)
5.0(非常)
全長 19,500mm(最大長20,000mm)
全幅 普通鋼製車両2,900mm
ステンレス鋼製車両2,950mm
全高 普通鋼製車両3,654mm
ステンレス鋼製車両3,670mm
軌間 1,067mm
電気方式 直流1,500V(全系列共通)
交流20,000V 50Hz(401・403系、415系の一部)
交流20,000V 60Hz(421・423系)
交流20,000V 50Hz/60Hz(415系(一部を除く))
出力 100kW(401・421系)
120kW(403・423・415系)
主電動機 MT46B(401・421系)
MT54, MT54B(403・423系)
MT54B, MT54D(415系)
歯車比 17:82 (4.82)
駆動装置 中空軸平行カルダン撓み板継手方式
制御装置 シリコン整流器
抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
制動方式 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
製造メーカー 汽車製造(401系のみ)
東急車輛製造(421系を除く)
日本車輌製造(401系・415系のみ)
近畿車輛(421系・415系のみ)
川崎車輛→川崎重工業(403系を除く)
帝国車輛工業(423系のみ)
日立製作所
備考
第2回(1962年)ローレル賞受賞車両
受賞車両 401系・421系

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