大平山(おおひらやま) 防空高角砲台
砲台種類:防空高角砲台(防空機銃砲)
竣工時期:昭和16年
砲種:40口径89式12.7cm高角砲(連装)
数量:2基 4門
呉空襲時における発射段数
1945年5月 5日:188
6月22日:15
7月 1日:0
1945年5月5日の昼間の空襲はB29による空襲です。ねらわれたのは、広海軍工廠・第11海軍航空廠です。この軍需工場は日本海軍の航空機エンジン生産の拠点で、この時は勤労動員の学生を含む約5万の人たちが働いていました。午前10時40分から午前11時11分まで148機のB29が広の上空を覆いつくしました。投下された爆弾の量は合計722発(578トン)で、工場施設は壊滅的打撃を受けました。広島県警察史や呉地方復員部の資料によれば、犠牲者の数は少なくとも140人以上となっています。
防空砲台群は第1次世界大戦後、航空機の発達に伴い、防空砲台の必要性が認識され、呉軍港の周辺にも、高島台・灰ヶ峰など10ヵ所に30門の高名砲が設置されたが、それらは旧式のものであった。そこで1944年から1945年にかけて、防空高名砲台20ヵ所82門、機銃砲台12ヵ所49基103挺、探照灯台30ヵ所に増強がなされた。それにともなって、警備隊員も5807人に増やされた。しかし、射撃密度などの不足によって、実際にアメリカ軍機が来襲したとき鉄壁を誇っていたはずの対空砲火群は、ほとんど無力でした。
昭和20年6月22日の空襲は呉海軍工廠造兵部への空襲でした。前9時31分から午前10時43分までの間に、162機のB29が合計1289発(796トン)もの爆弾を、呉海軍工廠に投下したのです。 アメリカ軍の目標は海軍工廠の中でも造兵部(兵器工場)でした。戦後に使用するためだったのでしょうか、造船部にはほとんど爆弾は落ちていません。当時、呉海軍工廠では勤労動員の学生を含む約10万人が働いていました。造兵部はほぼ壊滅し、海軍工廠に隣接する宮原・警固屋地区、また安芸郡音戸町にも爆弾は降り注ぎました。
この空襲は、翌日の新聞には「死者1名もなし」と報道されましたが、実際には少なくとも400人以上の人たちが犠牲になっています。その中には、呉市・広島県内をはじめ中国・四国地方からの動員学徒、女子挺身隊も含まれていました。日本海軍の一大拠点であった呉。約60年もの間、次々と新型軍艦を世に送り出し続け、呉海軍の名を世界に響きわたらせていた呉海軍工廠は、この日、B29の爆撃によって壊滅させられました。
7月1日は呉市街地夜間無差別大空襲 (1945年7月1-2日)。日本の大都市のほとんどを焼き尽くしたB29部隊は、6月中旬から中小都市の空襲を開始しました。呉はその重要な目標の一つとして選ばれ、B29部隊の「最大努力」による爆撃で、ついに市街地が焼き払われてしいました。B29が、曇り空の呉上空に達し第一弾を投下したのは7月2日の午前0時2分でした。燃え上がった炎を目印にしてB29は次々と呉市街地上空に侵入し、すりばち状の呉市街地の周辺から中心部へと焼夷弾を投下していきました。周辺部を焼かれて、市民は逃げ道を封じられ、防空壕に逃げ込んだ人たちも、猛烈な火炎や吹き込む煙にまかれてゆきました。呉を襲ったB29は合計152機、全部で16万454発(1081・7トン)もの焼夷弾が投下された空襲は、午前2時5分まで続けられました。 この空襲で呉市街地は焼け野原となり、犠牲者は2000人以上ともいわれます。約337ヘクタールが焼失し、12万5千もの人が家を失いました。
一般的に防空とは敵航空機による攻撃で発生する危機を防ぎ、被害を最小化するために陸・海軍が監視、警報及び地対空火力防御を行い、空軍が戦闘機によって敵機を要撃することをいう。
一般市民の協力に基づいた防空活動、すなわち監視・通信・警報・灯火管制・偽装・消防・防火・防弾・避難・救護・防疫・配給・応急復旧などの活動、は民間防衛の一部である。(日本では通例として民防空と呼ばれた)航空戦力の持つ打撃力は極めて高く、陸上戦力・海上戦力・諸軍事施設・政経中枢都市にとって非常に大きな脅威である。ゆえに敵航空戦力に対する専門的な対抗手段が必要であり、その手段は各国軍隊で組織化されてきた。
四〇口径八九式十二糎七高角砲:日本海軍がはじめから高角砲として設計した初めての砲。設計に当たっては発射速度を大とする。1門あたり毎分14発を目標とした。弾の威力を大きくする。既存の12cm高角砲より径を0.7cm大きくし、被害半径を拡大させた。弾薬包の重量を35kg以下に抑える。砲員の体力消耗により発射速度が低下することを押さえるため。砲架はなるべく軽量化し、動作速度を上げる。俯仰速度は12度/秒となった。信管は自動調停とする。これも発射速度の低下を抑えるため。
とされた。
尾栓は閉鎖速度の速い横鎖栓式とされた。以後日本海軍で開発された高角砲は全てこの尾栓方式を採用している。1929年(昭和4年)より設計が開始され1931年(昭和6年)に第1号機が完成、翌年に正式採用される。この砲の時限信管は装填時に自動的に調停されるがこの調停器の開発は難航した。当初は誤差が許容範囲内(±0.2秒)に収まらず、たびたび改設計がされている。1935年(昭和10年)にようやく安定した精度が出るようになったという。
発射速度が大きく操縦性良好で命中精度も高かったため使用実績は良好であり、対空戦闘のみならず対水上艦戦闘においても高い評価を得ていたというのが通説である。「なぜこの砲を両用砲としてもっと積極的に使わなかったのか」という声は、当時の関係者からも聞かれている。
しかし1944年(昭和19年)になりアメリカ軍の苛烈な航空攻撃に直面したレイテ沖海戦参加艦である大和などからは、下記のようにこの砲に対して高角砲としての能力不足を指摘されている。
砲重量が重く旋回速度が遅いため高速機に照準が追従できない発射速度が遅く弾幕を形成できない大和などからは再三、秋月型駆逐艦に採用された長10センチ高角砲への換装を要望する声が上がっていたが、実現しなかった。 なお、松型駆逐艦では電動機の出力を上げて旋回速度を上昇させた物を装備している。
運用史
配備期間 1932年2月~1945年
配備先 大日本帝国海軍
関連戦争・紛争 太平洋戦争
開発史
開発期間 1929年~1931年
製造数 1,306門
諸元
重量 20.3トン(A1型)
要員数 11名
砲弾 通常弾, 三式弾, 照明弾
弾薬包全長: 970.8mm
砲弾重量 23.00 kg
34.320kg(弾薬包)
口径 127mm口径 / 40口径長
砲尾 横鎖栓式
仰角 -8°/+90°
俯仰速度: 12°/s(人力の場合3度/秒)
旋回角 旋回速度: 6度/秒(人力の場合3度/秒)
動力 電力
発射速度 14発/分
初速 720 m/s
最大射程 14,622 m
最大射高 9,439 m
下蒲刈島の中心にそびえる大平山の山頂周辺に防空高角砲台が造られていた。山頂部に砲座が残っている他は、公園で整備されてしまった為に余り残っていない。
大平山から尾根続きの大下トンネルと地蔵峠トンネルの近くに砲台付属の聴音探照所が設けられている。
全体的に他に見ない特殊な構造が多い。建設時期が第一期(昭和12年頃、螺山、烏帽子山、大向、鹿ノ川、灰ヶ峰)と第二期(昭和16年頃、亀ヶ首、大須山、前島、白木山)の間の昭和15年完成であり、多分に実験的要素の大きい砲台だったのかもしれない。ただこうした構造が他には用いられなかったところを見ると、有効性が見出されなかったものと思われる。
山頂部平坦地には3基の砲座がある。狭い山頂部を有効利用する為に石垣で張り出させている。
山頂平坦部中央には、大きく掘り下げられた指揮所跡がある。大平山砲台の付属聴音探照所の施設で、建物の周りを厚い土塁で囲んだり、掘り込んだ中に建物を建てたものが幾つかあるところをみると、現在は貯水槽となっている穴の底には何らかの建物があったと思われる。
山頂の南側にある平坦地は広場に、その南東下にある平坦地はテニスコートになっている。恐らくテニスコートの場所に兵舎が建てられ、広場とテニスコートの間の斜面に兵舎用の大型水槽が配置されていたものと思われる。
呉鎮守府の戦時日誌によると、昭和19年7月に他の砲台と同じく、2セットある探照灯・聴音機の内1セットを供出するよう指示が出されている。ただ黒島特設見張所は実現できておらず、計画倒れに終わったのか、引渡目録には2セット分の機器が含まれている。
ただ、戦後の米軍の施設の接収記録によると、探照灯の位置が砲座の西側になっており、大平山の北西約1kmにある標高248mの三角点辺りに新しい聴音照射所を造り、1セット分を移動済みだった可能性がある。