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七一式掃海具 音響掃海具S-2

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掃海浮標、オロペサ型係維掃海具とセットで使用します。もっとも大型なサイズ0で係維機雷と対する。


音響掃海具は音響機雷に対処する掃海具で第二次大戦中に開発された。音響機雷は航行中の艦船が発生させるノイズに感応して爆発するもので、音響掃海具はこのノイズを機械的に発生させて誘爆させる装置である。上の写真は音響掃海具の発音体で、開発名称はS-2と言う。1971年に制式化され「七一式掃海具」と呼ぶ。1個の発音体で低周波と中周波の同時発生が可能で、それ以前の音響掃海具に比べ掃海高率が向上している。ちなみに発音体の正面に付いている円状の部分が中周波発音部、側面の円状の部分が低周波発音部である。S-2の重量は約1,800kgで、サイズ0のフロートに吊り下げ、パワーケーブルをつないで曳航する。


梅坪駅 名古屋鉄道

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梅坪駅(うめつぼえき)は、愛知県豊田市梅坪町七丁目125番地にある名古屋鉄道の駅である。

島式1面2線の高架駅である。駅北側で三河線と豊田線が分岐している。20m車6両編成が停車可能なホーム長がある。

碧南方面のホームは若干カーブしているため、安全確認カメラが設置されています。

駅の出入り口は北側1か所のみ。駅集中管理システムを導入した無人駅であり、隣の豊田市駅から遠隔管理されている。
バリアフリー設備:車椅子対応エレベーター
トイレ:あり(多目的トイレあり)

のりば
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■三河線 下り 猿投方面
■豊田線 - 赤池・地下鉄伏見・上小田井方面
2 ■三河線 上り 豊田市・知立方面 ■豊田線からの列車を含む
ホームにはワンマン運転のためのセンサーが設置されている。

切符売場には券売機は2台。うち1台がタッチパネル式。改札口に改札機は3台。発車案内は設置されていません。

『名鉄120年:近20年のあゆみ』によると2013年度当時の1日平均乗降人員は5,678人であり、この値は名鉄全駅(275駅)中71位、 三河線(23駅)中6位、豊田線(8駅)中4位であった。
『名古屋鉄道百年史』によると1992年度当時の1日平均乗降人員は3,989人であり、この値は岐阜市内線均一運賃区間内各駅(岐阜市内線・田神線・美濃町線徹明町駅 - 琴塚駅間)を除く名鉄全駅(342駅)中113位、 三河線(38駅)中8位、豊田線(8駅)中6位であった。

駅前には大きなロータリーがある。愛環梅坪駅(愛知環状鉄道線)とはおよそ600メートル程離れている。

明治中期まで梅坪の地名は「梅ヶ坪」と呼ばれており、駅開業に当たり駅名を梅坪にするか梅ヶ坪にするかでひと騒動あったとされている。その影響で予定よりも開業が遅れたため、駅前に残る開驛紀念碑には「大正十二年八月建之」とあるものの、実際に開業したのは同年10月26日(官報では11月15日)であった。


1923年(大正12年)10月26日 - 三河鉄道の駅として開業。
1941年(昭和16年)6月1日 - 三河鉄道が名古屋鉄道に合併。同社三河線の駅となる。
1977年(昭和52年)12月25日 - 貨物営業廃止
1979年(昭和54年)7月29日 - 豊田新線(現在の豊田線)が開業。
2003年(平成15年)10月1日 - トランパス使用開始に伴い駅集中管理システム導入。無人化。
2011年(平成23年)2月11日 - ICカード乗車券「manaca」供用開始。
2012年(平成24年)2月29日 - トランパス供用終了。

駅番号 MY 08
所属事業者 Meitetsu logomark 2.svg名古屋鉄道
駅構造 高架駅
ホーム 島式 1面2線
乗降人員
-統計年度- 5,678人/日-2013年-
開業年月日 1923年(大正12年)10月26日
乗入路線 2 路線
所属路線 三河線(通称山線)
キロ程 18.4km(知立起点)
◄MY09 越戸 (2.0km)(1.4km) 豊田市 MY07►
所属路線 ■名鉄豊田線
キロ程 (**梅坪起点)
◄TT01 上豊田 (2.0km)(1.4km) (豊田市)*►
備考 *豊田線は豊田市駅まで直通運転
無人駅(駅集中管理システム導入駅)
** 正式な起点は赤池駅

コンテナ特急たから号

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 コンテナ特急たから号は、我国初のコンテナ専用列車として、かつて日本国有鉄道(国鉄)が汐留駅 - 梅田駅で運行していたコンテナ専用貨物列車です。

日本の鉄道貨物輸送は車扱貨物が中心であった当時において、日本初のコンテナ専用列車であった。21世紀初頭では鉄道による貨物輸送の主流となっているコンテナ輸送の先駆けとなった列車である。数々の試作・試験が繰り返され、その成果で誕生したのが、チキ5000形コンテナ貨車と、5000形コンテナです。牽引機には当時最新・最強を誇ったマンモス電機EH10が指定され、最後尾には時速85km/h対応の2段リンク機構が施されたヨ5000形が連結、チキ24両とヨ5000 1両の計25両で運転されました。
編成最後尾の車掌車には、「たから コンテナ特急」と標記した円型の行灯型テールサインを装着して運行していた。

鉄道コンテナの調査研究を進めていた国鉄は1955年(昭和30年)3トンコンテナを試作し1956年(昭和31年)6月よりトラ30000形無蓋貨車を使用して汐留-梅田間で試験輸送を開始し、9月より笹島-梅田、汐留-笹島にも試験輸送を始め、それは1957年(昭和32年)3月まで続けられた。そして4月より営業開始をしたが取引単位に適合しない、運賃が割高である、コンテナの個数が少なく使用しづらいと不評で1959年(昭和34年)5月には運用を中止した。3月に5トンコンテナを試作していた国鉄は6月より同時に開発された専用貨車チキ5000形コンテナ車により汐留-梅田間で試験輸送を開始し、その結果量産型のコンテナを製作することになった。
「たから」は、1959年(昭和34年)11月5日に運行を開始した。牽引するのはEH10形電気機関車で、当時吹田操車場 - 梅田間は非電化であったためこの区間のみD52形蒸気機関車が牽引していた。チキ5500形コンテナ車(1965年の称号改正によりコキ5500形となる)24両とヨ5000形車掌車を連結した25両編成で、全長は460 m、重量1,000 t、旧規格の5 tコンテナを120個積載し、速度種別は「特急貨甲A」、最高速度85 km/h、10時間55分で汐留と梅田を結んだ。表定速度は50.7 km/hであった。列車番号は下りが第71列車、上りが第72列車とされ、下りは汐留19時35分発、梅田6時30分着、上りは梅田20時40分発、汐留7時35分着であった。
1960年(昭和35年)10月1日のダイヤ改正においては、コンテナ専用列車は「たから」のみであったが、それ以外の方面に運転されていた急行車扱列車にコンテナ車を併結する形で、各地にコンテナ輸送サービスを開始した。また下りの「たから」の汐留発時刻が集荷の利便性のために50分繰り下げられ、汐留20時25分発、梅田7時36分着の11時間11分運転となった。
1961年(昭和36年)10月1日のいわゆるサンロクトオダイヤ改正において、「たから」は2往復運転となり、上下ともそれぞれ「第1たから」「第2たから」として運転されるようになった。列車番号はそれぞれ、第51列車・第50列車(第1たから)、第53列車・第52列車(第2たから)に変更となった。
1964年(昭和39年)10月1日の東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正では、新幹線に優等列車を転移させたことによって空いた東海道本線のダイヤを利用して貨物列車の増発が行われ、コンテナ専用特急貨物列車も5往復に増強された。


その後、急速にコンテナ貨物列車の運転は成長し、各方面に運転されるようになったが、その列車名は必ずしも「たから」とはされなかった。1966年(昭和41年)10月1日から10000系貨車を使用した貨物列車で初めての100 km/h運転列車が設定されるが、この列車名は「ことぶき」「さかえ」「あけぼの」などとされている。「たから」に由来する列車名の中では、九州へ向かう「西たから」、東北・北海道方面へ向かう「北たから」といった列車名が設定されている。また運転区間も東京側は隅田川・品川、大阪側は安治川口・湊川など多様化している。
1965年(昭和40年)からイギリス国鉄で開始された「フレートライナー」のサービスは、コンテナを利用してトラックと鉄道を一貫輸送サービスとして提供するもので、国鉄でもこれを参考に同様のサービスを開始することになった。1969年(昭和44年)4月25日からフレートライナーの運行が始まり、これに伴って「たから」の愛称は廃止となった。

2009年(平成21年)11月8日、「たから」の運行開始50周年を記念して、東京貨物ターミナル駅にてイベントが行われた。
2016年4月29日に開館した京都鉄道博物館に保存展示されたヨ5000形ヨ5008は、保存に際して「たから」時代の塗装に復元され、テールサインも掲出されている。

227系電車(Red Wing) JR西日本直流近郊形電車

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227系電車は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の直流近郊形電車である。「Red Wing(レッド ウィング)」という車両愛称が付けられている。

2014年(平成26年)時点で広島支社が保有していた電車は、いずれも日本国有鉄道(国鉄)時代に製造された車両であり、従来は近畿圏(アーバンネットワーク)への新車投入で捻出された、比較的若い車両などを転用して置き換えが行われてきた。しかし、経年35年以上の車両が大半を占めるなど老朽化や設備の陳腐化が進み、老朽車両の取り換えが急務とされていた。これを受けて、2013年(平成25年)3月に発表された「中期経営計画2017」で、広島都市圏(広島シティネットワークなど)への新型車両の投入と新保安システムの導入が記されていた。
これらの状況を鑑み、225系などで採用された安全性向上設計を盛り込み、より安全性の高い保安装置などを導入した広島エリア向け新型車両として開発されたのが本系列である。広島地区の在来線に新型電車が投入されるのはJR発足以降初めてで、国鉄時代から通算しても115系3000番台以来32年ぶりになる。そして、2015年3月14日のダイヤ改正により広島地区の在来線で運行を開始した。
2両編成と3両編成があり、最大8両まで編成を構成することで旅客の需要に柔軟に対応できる。原則として従来形式との併結運用は行わない。
2015年9月29日に「“JRシティネットワーク広島”のブランディング(227系電車と路線記号カラーデザイン)」として、2015年度グッドデザイン賞(移動用機器・設備部門)を受賞している。構造:JR西日本が所有する225系や521系3次車で採用された安全性向上のための構造を採用することにより、車内設備や旅客サービスを改善している。車体:材質はステンレス鋼 (SUS301, SUS304) を使用し、321系から採用されているスポット溶接を加えたレーザ連続溶接構造を採用している。ただし、運転台部分は鋼製である。全電動車編成とすることによって、車両構体の共通化によるコスト削減が図られている。
2005年(平成17年)4月25日に発生したJR福知山線脱線事故を受け、列車が衝突した際に運転席周りに比べて相対的に強度を低くした先頭上部が先につぶれることで力を上方へ逃がし、乗客への衝撃と客室の変形を抑える構造(クラッシャブルゾーン、ともえ投げ方式)を225系・521系3次車に引き続いて採用している。このほかにも床・側板・屋根の接合を強固にし、前面方向以外からの衝突に対しても変形を少なくする設計となっている。2編成もしくは3編成連結しての運用も考慮し、常時貫通タイプとしている。
前部標識灯(前照灯)およびフォグランプにはHID、後部標識灯(尾灯)にはLEDが使用されている。前照灯および尾灯の配置は521系3次車に準じている。側窓は225系と同様のレイアウトで3枚構成とされ、中央部は大型のガラスが採用されている。
転落防止幌に関しては、舞子駅で起きた乗客転落事故を踏まえて、従来車で取り付けられていた中間車同士の連結面だけでなく先頭車両同士の連結の場合も考慮し、運転台側面に先頭車間転落防止幌が取り付けられている。
外部表示には新たにフルカラーLED式を採用し、従来では分けられていた列車種別と行先表示を一体化させた。車体塗色:GKデザイン総研広島にデザインの依頼を行い、アーバンネットワークとは違った、広島らしいデザインが考案された。車体塗色は、広島らしさ(広島県木である「もみじ」や広島東洋カープ、厳島神社大鳥居など)と親しみやすさを感じさせる赤をシンボルカラーとしている。車体端部には縦方向の赤太線を配し、2・3両が基本となる編成の短さを強調した。そして、側窓下には赤ストライプを配している。前面貫通扉と側面車端部には「広島シティネットワーク」と新たに制定された愛称「Red Wing」のロゴマークが張り付けられている。

主要機器:321系や225系などで採用された、1車両中に動力台車と付随台車を1台ずつ配置し運転に必要な機器類を1両にまとめて搭載する「0.5Mシステム」と呼ばれる考え方を基本とし、すべての車両が電動車となっている。そのため、全車両に車両制御装置を搭載することを基本とし、クモハ227形には集電装置および空気圧縮機を追加している。
221系以降の設計思想を引き継ぎ、1 - 3位側(海寄り)に空制部品関係を、2 - 4位側(山寄り)に電気部品関係を集中的に配置する。
電源・制御機器:車両制御装置は WPC15A と呼称される。主電動機を制御する主回路部と補機類の電源となる補助電源部(補助電源装置)が一体化したユニットで、IGBT素子を使用した2レベル電圧形PWMインバータである。主回路部はインバータ1基で2基の電動機を制御する、いわゆる1C2M構成のVVVFインバータを搭載する。これに対し補助電源部は三相交流 440 V、75 kVA の容量を有しており、主回路部と同じくIGBTを用いた2レベル電圧形PWMインバータをCVCF制御し、他車の車両制御装置の補助電源部と並列運転を行うことで故障時の編成全体での冗長性を確保する設計である。
空気圧縮機は、除湿装置と一体化した低騒音型スクリュー式 WMH3098-WRC1600 をクモハ227形に搭載する。スクリュー式空気圧縮機は223系2000番台以降などでの採用実績がある。
集電装置はシングルアーム型パンタグラフ WPS28E が採用され、クモハ227形後位寄りに搭載する。バネ上昇式・空気下降式であり、上昇検知装置および電磁カギ外し装置を備える[1]。
主電動機はかご形三相誘導電動機 WMT106A が採用され、各車両に2基搭載する[1]。センサレスベクトル制御を採用し、1時間定格出力は 270 kW に増強されている。定格出力が115系(120 kW)の2倍以上となり、ブレーキ方式に抑速ブレーキ付き回生ブレーキ併用電気指令式ブレーキ WC114 を採用していることから、急勾配区間の鉄道難所である通称「瀬野八」の通過にも支障のない仕様となっている。
空調装置は、新鮮外気導入機能を備えた集約分散式である WAU708B を屋根上に1両あたり2台搭載しており、容量は 20,000 kcal/h 以上である。
車両情報システムとして、321系や225系で実績のあるデジタル転送装置を採用している。基幹伝送速度を10Mbpsから100Mbpsに向上させ、編成内で二重系構成とすることで、将来のさまざまニーズにもソフトで対応することが可能なシステムとなっている。
車両異常挙動検知システムを装備しており、各車の下部に搭載されている車両制御装置の脇にはその表示灯箱が装備されている。
台車:台車は、メンテナンス性の向上および部品共通化の観点から、225系や321系などで実績のある軸箱支持装置が軸梁式のボルスタレス台車とし、軸箱と台車枠との間に軸ダンパが装備されている。車体のロール方向の剛性向上のため、空気ばね間距離を 2,000 mmに拡大し、空気ばね高さを925 mmに低減させた設計は225系や321系と同等である。さらに、空気ばねの自動高さ調整装置の高さ調整棒には、動物などと接触した際の保護ガードを設けることで信頼性の向上を図っている[14]。また、ヨーダンパは準備工事としている。クモハ227形とモハ226形の場合は前位寄りに付随台車、後位寄りに電動台車を装着している。クモハ226形の場合はその逆である。
電動台車は WDT63B と呼称され、基礎ブレーキは踏面ユニットブレーキである。付随台車は中間車(モハ226形)が WTR246F 、先頭車(クモハ227形・クモハ226形)が WTR246G と呼称され、基礎ブレーキは踏面ユニットブレーキ+1軸2枚のディスクブレーキである。加えて、WTR246G にはバネ式駐車ブレーキが備えられている。
運転台:グラスコックピット構造の運転台。運転台計器盤は計器類と表示灯を廃し、タッチパネルの液晶モニターに表示するグラスコックピット構造の計器盤設定器を運転台正面に2台と右側そで部に1台を採用している。JR西日本の在来線車両では当形式が初採用である。主幹制御器は、221系以来実績のあるブレーキとマスコンが別々の横軸ツインレバー型としている。運転台周りの基本的な割り付けは225系に準じているが、ワンマン運転に対応するため運転室の構成の一部を見直している。
前面ガラスには飛散防止フィルムが貼り付けられている。ワイパーは運転士側に予備を含めて2本、助士側に1本、貫通扉に1本の計4本を装備する。
その他装備:保安装置は ATS-SW2 のほか、車両にデータベースを登録する新保安システム ATS-DW を初めて搭載しており、先頭車の運転台寄り(クモハ227形前位寄りおよびクモハ226形後位寄り)の下部にはドア扱い防止対策用のホーム検知センサーが取り付けられている。警笛は、空気笛であるAW-2、AW-5のほか、電子笛が先頭車両床下に搭載されている。
車内:「広島らしさ」をイメージした赤色を基調としたモケットの転換クロスシート
基本構造はアーバンネットワーク地区で運用されている223系・225系と同じシートピッチ 910 mm の転換クロスシートが扉間に5列(扉横は固定式)、車端部(運転台およびトイレ設置部を除く)にロングシート、出入口付近には収納式の補助席が設置されている。座席のモケットは「広島らしさ」をイメージした赤色を基調としたものを使用している。
車内照明はLEDを採用して省エネルギー化の推進を図った。LEDの光を一旦天井面に均一に照らしてから、その反射により室内を照らす間接照明式とすることで、LED照明特有のぎらつきや影を低減させている。
つり革や手すりは大型化され、緊急時につかまりやすく考慮されており、オレンジ色に変更されている。また、手すりの端部を曲線化することにより、乗客が手すりに衝突した時でも衝撃力が集中しないように配慮されている。
バリアフリー新法の施行により、車椅子スペースを先頭車(編成で2箇所)に設置するほか、クモハ226形に設けられるトイレは車椅子対応の大型洋式トイレとなった。客用ドアの室内側には黄色のラインを追加し、鴨居部にはドア開閉ランプを2灯を設置している。ドアエンジンは直動空気式である WTK131 を採用し、新たに開発された戸締め力弱め機能および戸挟み検知機構を備える。ドアチャイムは223系・225系と同じものだが、本系列は半自動時にもドアチャイムが鳴るようになっている。
車内案内表示装置は223系1000番台以降と同様のLED1行タイプのものが、乗降扉の上に1両あたり3箇所の千鳥状に配置されている。アーバンネットワーク管内の一部の車両で採用されているWESTビジョンの設置は見送られた。

形式:2両編成用・3両編成用で番台区分等は行われず、3両編成用は1-、2両編成用は65-の車番が割り当てられ、同番同士で編成が組まれる。クモハ227形 (Mc):上り向き制御電動車。前位寄りに運転台、3位寄りに車椅子スペースを備え、車両制御装置、蓄電池、空気圧縮機、集電装置などを搭載する。クモハ226形 (M'c):下り向き制御電動車。1位寄りに車椅子スペース、2位寄りに身障者対応トイレ、後位寄りに運転台を備え、車両制御装置、蓄電池などを搭載する。
モハ226形 (M'):中間電動車。車両制御装置、蓄電池などを搭載する。
2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正で、呉線「安芸路ライナー」を中心に、同線および山陽本線糸崎駅 - 岩国駅(一部由宇駅[注 6])間で運用を開始。運用開始日にはこの日開業した山陽本線新白島駅と、岩国駅でセレモニーが行われた。2016年(平成28年)4月時点で158両(3両編成(A編成)42本(A01-42)・2両編成(S編成)16本(S01-16))が下関総合車両所広島支所に配置されており、2018年(平成30年)度までに276両(3両編成64本・2両編成42本)を製造し、順次運用を拡大するとしており、2015年(平成27年)10月3日:可部線全線で営業運転を開始。
2016年(平成28年)3月26日:山陽本線福山駅 - 糸崎駅間および由宇駅 - 徳山駅間で営業運転を開始。同時に、山陽本線三原駅 - 岩国駅間及び可部線・呉線では平日昼間時間帯の運用ならびに土休日運転の快速「シティライナー」を227系で統一(土休日日中の各駅停車は旧型車両での運用あり)。

編成 2・3両
(すべての車両が0.5M方式の電動車)
営業最高速度 110 km/h
設計最高速度 120 km/h(準備工事)
起動加速度 2.5 km/h/s
減速度 3.9 km/h/s(常用最大)
3.9 km/h/s[# 1] / 4.4km/h/s[# 2](非常)
編成定員 408名(3両編成)
259名(2両編成)
車両定員 133名(クモハ227形)
126名(クモハ226形)
149名(モハ226形)
全長 20,000 mm
全幅 2,950 mm
全高 4,085 mm[# 3]
車体長 19,500 mm
19,570 mm(先頭車両)
車体幅 2,950 mm
車体高 3,630 mm
3,680 mm(先頭車両)
車体材質 ステンレス
編成質量 117.8t / 117.9t[# 4](3両編成)
80.7t / 80.8t[# 4](2両編成)
車両質量 40.2t(クモハ227形)
40.5t / 40.6t[# 4](クモハ226形)
37.1t(モハ226形)
軌間 1,067 mm
電気方式 直流 1,500 V (架空電車線方式)
編成出力 3両編成→270 kW×2×3=1,620 kW
2両編成→270 kW×2×2=1,080 kW
主電動機 かご形三相誘導電動機 (WMT106A)
主電動機出力 270 kW
歯車比 1:6.53
駆動装置 WNドライブ
制御装置 2レベルIGBT素子VVVFインバータ(静止形インバータ一体型)
WPC15A (1C2M)
台車 軽量ボルスタレス軸梁式台車(ヨーダンパ準備)
動力台車:WDT63B
付随台車:WTR246F・WTR246G
制動方式 電気指令式(直通・回生〔純電気式〕・抑速・耐雪・駐車ブレーキ付き)
保安装置 ATS-SW2・ATS-DW
列車防護無線装置
EB・TE装置
車両異常挙動検知システム
製造メーカー 川崎重工業車両カンパニー
近畿車輛

78式雪上車 陸上自衛隊

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78式雪上車は、陸上自衛隊の主に普通科部隊が、雪上における人員の輸送・哨戒に使用する雪上車。主に北海道の部隊(普通科以外の部隊も含む)、上越市の第2普通科連隊、米子市の第8普通科連隊など日本海側の豪雪地帯に配備されており、また、軽雪上車と同じ場所に配備される事が多い。1978年(昭和53年)に制式採用され、1996年(平成8年)に78式雪上車(B)型の配備が開始された。
隊員間の通称は「大雪(だいせつ)」と呼称される。操縦には大型免許及び大型特殊免許の取得が求められる。

この車両の最大の特徴は履帯である。通常の鉄ではなく、強化樹脂製(一部金属製)の履帯及び接地面にスパイクを埋め込んだゴムを使用している。また、転輪も鉄ではなくゴムタイヤを使用している。これらは78式雪上車を製作している大原鉄工所の独自の技術である。


大原鉄工所は新潟県長岡市に本社を構える老舗の企業で、南極観測隊の雪上車を製作したことでも知られる。厚い手袋を装着していても作業をし易いようあらゆる箇所に工夫がなされていたり、整備無しで1年間放置しても夏の暑さで劣化することは無く、また、翌年の冬にはそのまま使えてしまうというタフさも特徴である。実際には整備員が行う定期整備が半年毎にあるので無整備ではない、基本的に5月の運用終了時と10月の運用開始直前の2回整備が行われる。5月の時点で不具合箇所の点検整備及び車検など、10月では使用前のオイル関係の点検チェックが行われる
普段は荷台に幌を装着しているが、幌を取り払って荷台に銃架を置き、79式対舟艇対戦車誘導弾や12.7mm重機関銃M2などの部隊火器などを搭載する事も可能である。


継続して調達が行われており、平成15年度には18両、平成16年度には19両、平成17年度には15両が納入されている。なお、10式雪上車の納入開始に伴い22年度末をもって新規調達は修了している。
初期型運転席はいすゞの73式大型トラック部品(シフトレバーと各種計器スイッチ)などを流用した内部設計が採られており、改良型においては民生品の流用も行われている。

通常であれば大型特殊さえ取得していれば操縦可能だが、変速が5速MTであり、かつ公道走行時の操縦能力が試される関係上、部隊では大型免許の取得が求められる。

 

全長 5.20m
全幅 2.49m
全高 2.43m
車両総重量 6.0t
乗員数 2名(後部は12名まで乗車可)
装甲・武装
備考 最大積載量1,000kg
(5速MT変速、発進は2速発進)
登坂能力:約tanθ25%
機動力
速度 約45km/h(公道走行時の最高は操縦士の腕により50キロでの走行も可能)
エンジン 水冷4サイクル8気筒ディーゼル機関 175PS/2,800rpm
製作 大原鉄工所

西戸崎駅

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西戸崎駅(さいとざきえき)は、福岡県福岡市東区西戸崎一丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)香椎線の駅である。同線の起点駅。

もともと粕屋炭田で出土された石炭の積出港として賑わった駅でした。駅前は小規模なパチンコ店や雑貨店、飲食店等があり、近年はリゾート分譲マンションも幾つか供給されている。炭田の閉鎖後その当時面影はありません。

駅前の道路上に西鉄バスの「西戸崎駅前」バス停がある。当駅と志賀島島内を結ぶ系統や、香椎線に並行して海の中道を通る系統が発着する。

駅舎側に沿って単式ホーム2面2線を有する地上駅。ほとんどの列車は1番ホームに入線するが日に何本かは2番ホームが使用される。夏期に運行されるビアトレインは2番ホームに入線する。
旧駅舎は1904年に木造で建設され、その後石造りなど幾度かの改築を経て、1998年に全面ガラス張りの新駅舎に改築された(建築デザイナーは水戸岡鋭治)。
JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、マルスは無いがPOS端末が設置されている。SUGOCAの利用が可能であるが、カード販売は行わずチャージのみ取り扱いを行う。改札口は灯り取りの窓と吹き抜けにより明るく開放感があります。

のりば
1・2 ■香椎線 香椎・長者原・宇美方面
通常は駅舎側の1線が使用されます。

福岡都市圏の広がりとともに集合住宅も建設されるようになり、都心への道路事情の改善されいつのまにか福岡市の住宅街の一部となってしまったような感があります。


1904年(明治37年)1月1日 - 博多湾鉄道(1920年「博多湾鉄道汽船」に改称)が開設。
1942年(昭和17年)9月19日 - 博多湾鉄道汽船が西日本鉄道に合同合併し同社糟屋線所属駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 戦時買収により国有化し運輸通信省香椎線所属駅となる。
1984年(昭和59年)2月1日 - 貨物取扱廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 サイ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1904年(明治37年)1月1日
備考 業務委託駅
福 福岡市内駅

 

海ノ中道駅 JR九州)香椎線

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海ノ中道駅(うみのなかみちえき)は、海の中道海浜公園の敷地内に設置された駅で福岡県福岡市東区大字西戸崎にある、九州旅客鉄道(JR九州)香椎線の駅です。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。

駅舎は昭和62(1987)年の駅移転時につくられたログハウス風木造駅舎です。建物の左側部分に小さな駅業務部門があり建物の右側は海浜公園のエントランスになっています。


無人駅だが自動券売機が設置されている。イベント開催時や夏期は多くの利用客で賑わいます。待合室は広いスペースがあります。

休日などに管理駅から乗車券の出張販売をする場合もある。

改札口にはラッチが設置されています。SUGOCAの利用が可能であるが、カード販売とチャージの取り扱いは行わない。

駅前に出て踏切を渡るとマリンワールドやリゾートホテルの入口です。

1935年(昭和10年)7月1日 - 博多湾鉄道汽船の臨時停車場として開設。
1941年(昭和16年)2月1日 - 仮停車場に昇格。
1941年(昭和16年)7月15日 - 駅に昇格。


1942年(昭和17年)9月19日 - 博多湾鉄道汽船が西日本鉄道に合併。同社糟屋線となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 戦時買収により国有化。運輸通信省香椎線所属となる。
1987年(昭和62年)3月9日 - 旧駅から700m西戸崎方に移転する。なお、旧駅付近には1988年(昭和63年)7月14日に中道信号場が新設される。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。
2010年(平成22年)10月2日 - 隣接する国営海の中道海浜公園で飼育されているトカラヤギの九太郎が駅長に就任し、11月末まで、雨の日以外は駅長を務める。
2012年(平成24年)3月23日-再びトカラヤギの九太郎が駅長に就任。5月6日まで駅長を務めた。

電報略号 ナミ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1935年(昭和10年)7月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)
福 福岡市内駅

雁ノ巣駅 JR九州)香椎線

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雁ノ巣駅(がんのすえき)は、福岡県福岡市東区雁の巣二丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)香椎線の駅である。
SUGOCAの利用が可能であるが、カード販売とチャージの取り扱いは行わない。

駅周辺には雁の巣レクリエーションセンター(福岡ソフトバンクホークス二軍本拠地・雁の巣球場、アビスパ福岡練習場など)や福岡地区水道企業団海水淡水化センター(まみずピア)がある。
周辺の地名、最寄りバス停、施設名の表記はすべて「雁の巣」であり、JR駅のみ「雁ノ巣」である。交通機関の時刻表検索では注意を要する。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。待合室だけの簡易な駅舎です。待合室にはごみ箱や木製の長椅子が設置されています。上下線ホームは海ノ中道駅側の構内踏切で結ばれている。駅の直近に踏切がなく構内に改札もないため、近隣住民がホームの一部と構内踏切を通り道として利用する。
無人駅だが時折下りホームにて派遣された駅員が特別改札することがある。ホームのトイレが設置され上りホームには近距離きっぷ自動券売機、下りホームには乗車駅証明書発行機が設置されている(2011年頃撤去済)。

のりば
1 ■香椎線(上り) 西戸崎行き
2 ■香椎線(下り) 香椎・長者原・宇美方面
雁ノ巣駅で雁ノ巣折返しの列車もありますが、折返しまで待機しているわけではなく、一旦西戸崎駅まで行って折り返してくるようです。

1904年(明治37年)1月1日 - 博多湾鉄道(1920年、博多湾鉄道汽船に改称)の奈多駅として開業。
1942年(昭和17年)9月19日 - 博多湾鉄道汽船が西日本鉄道に合併。同社の糟屋線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 戦時買収により国有化。国鉄香椎線の駅となる。同時に雁ノ巣駅に改称。
1961年(昭和36年)12月21日 - 貨物扱い廃止。
1974年(昭和49年)3月5日 - 出改札要員無人化 乗車券発売簡易委託化。
1986年(昭和61年)11月1日 - 電子閉塞化により運転要員無人化。 
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、九州旅客鉄道の駅となる。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 ノス←ガン
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1904年(明治37年)1月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)
福 福岡市内駅
* 1944年に奈多駅から改称。
* この間に中道信号場有り(当駅から3.5km先)


TDT-1眼鏡部 海上自衛隊

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艦橋の上部指揮所の左右に1基ずつ上部指揮所(露天艦橋)に装備されている器材で、射撃指揮装置に対する目標指示の他、緊急時には電気信号によって砲をコントロールし、直接発射させる事ができる一種の簡易方位盤です。

電波で追尾ができなかった超低空目標または緊急目標を左上のアーム部に7倍双眼鏡をセットし捜索・追尾し射撃指揮装置に方位情報を指示できる装置です。

搭載兵器のコントロールに関してはあくまで射撃指揮装置2型(あるいは1型)がメインであり、このTDTは射撃指揮装置がトラブルを起こした際のサブ装置とのこと。

メーカー:三菱電機

奈多駅 JR九州)香椎線

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奈多駅(なたえき)は、福岡県福岡市東区奈多三丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)香椎線の駅。駅前を香椎線に並行して県道59号線が通る。

駅の裏手に住宅団地がある。朝夕は多くの通勤通学客で賑わっている駅です。

駅は下り方向に向かって左側に単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎はかわいらしい洋館風の木造で駅本屋がホーム端に置かれている。待合室には長椅子が設置されています。


JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、マルスは無いがPOS端末が設置されている。

SUGOCAの利用が可能であるが、カード販売は行わずチャージのみ取り扱いを行う。改札口の改札機は斜めに設置されています。

1960年(昭和35年)8月1日 - 日本国有鉄道が開設。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。

1988年(昭和63年)
3月 - 駅舎新設。
7月21日 - 委託職員を配置。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

電報略号 ナタ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


開業年月日 1960年(昭和35年)8月1日
備考 業務委託駅
福 福岡市内駅

塚口駅 JR西日本)福知山線

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塚口駅(つかぐちえき)は、兵庫県尼崎市東塚口町一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線の駅である。


アーバンネットワークおよび「JR宝塚線」の愛称区間に含まれている。かつては、福知山線の支線に当たる尼崎港線の起点でもあった。当駅周辺の道路が広くなったことに加え、JR東西線の開通などにより利用者が国鉄時代より増えている。

駅周辺は住宅街が広がる。留置線のすぐ脇には森永製菓の塚口工場があり、ホームに甘い香りを漂わせることもあったが、2013年6月に閉鎖された。
南側で交差する県道は2000年代に立体交差化され、併せて県道の東側にロータリーが整備された。
なお、阪急神戸本線の塚口駅とは直線距離で800mほど離れているが、神戸本線は当駅の北側で立体交差(オーバーパス)している。駅舎脇に石碑があります。

島式と単式の複合型2面3線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有しています。ホーム間の移動には跨線橋を使う。
単式ホームの屋根は島式ホーム分ほどの大きさで、ホームの外側にも張り出している。
3番線の外側や尼崎駅方の本線脇(共に東側)には数本の留置線があり、前者は尼崎駅発着の列車(夜間以外にも設定)など、後者は保線用車両の留置に使われている。


直営駅(尼崎駅の被管理駅)で、ICOCAが利用できる。切符売場には券売機が2台。改札口は兼業のみどりの窓口。

塚口駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 G JR宝塚線 下り 宝塚・三田方面 土休日の初発のみ2番のりば
2・3 G JR宝塚線 上り 尼崎・大阪・北新地方面 2番のりばは当駅始発・待避用
上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で記載している。
1番のりばが単式ホーム、2・3番のりばが島式ホーム。本線は下りが1番のりば、上りが3番のりばである。中線である2番のりばは折り返しのほか、大阪方面行きの普通が入線し、快速や特急の通過待ちを行うことがある。
JR東西線の開通前、上り線は2番線が本線、3番線が待避線として使用されていた(現行の逆)。また、尼崎港線の旅客扱いが行われていた頃は、3番線が起終点となっていた。

日中は1時間あたり8本で、JR京都線に直通する普通とJR東西線に直通する快速(当駅折り返し)がそれぞれ4本ずつ発車する。朝のラッシュ時はさらに本数が多く設定されている。
快速は東西線経由で当駅を始発・終着とするもののみが停車し、その他は全て通過する。これらは、2011年3月12日のダイヤ改正で、昼間宝塚駅まで運転していたものを当駅折り返しに変更したものである。(一部の列車は折り返さず、当駅の留置線に入る)。このような「快速始発駅」には、他に大和路線の柏原駅がある。

当駅が所属する福知山線は、長年にわたって単線・非電化という低規格の路線であったため、ターミナル駅である大阪駅からさほど離れていない割りに利便性は劣っていた。改札も、列車の到着時刻が近付くまで行われないローカル線方式だった。
しかし1981年の複線電化を機に、橋上駅舎が整備されるなど近代化が進み、ようやく大都市近郊駅としての機能を果たすようになった。
1984年までは、尼崎港駅へ至る支線(通称・尼崎港線)が当駅 - 尼崎駅間で分岐していた。開業当時はそれが本線とされ、尼崎港方面へ向かう線路が直線的に敷設(現在でも路盤の跡が残っている)されていたのに対し、現在の本線は一旦西にそれて大きく回り込むような線形となっている。この迂回ルート上にあるカーブで、2005年4月25日に脱線事故が発生した。


東海道本線の東京駅 - 大阪駅間で運転されていた長距離特急『つばめ』や『はと』は、大阪駅に到着した後に当駅まで回送された上、当駅で機関車を編成の後端に付け替えた後、宮原操車場へ入り方向転換を行っていた。これは各列車の先頭に展望車があり、展望車側を先頭にする必要があったためである。こういった運用に対応すべく、1956年11月のダイヤ改正を機に尼崎駅 - 当駅間は早々に電化された。その後も1978年10月のダイヤ改正まで、宮原操車場への回送の際の時間調整のため、大阪駅から一部の特急が当駅まで回送されて運行まで待機していた。同改正をもって電気運転は一旦廃止されたものの、電化設備はそのまま残され、1981年の線内電化の際に再利用された。


また、かつては貨物取扱を実施しており、駅東側の現在の留置線のあたりに貨物取り扱い線と貨物ホームが設けられ、近隣の森永製菓や三菱電機の工場からの貨物を主に取り扱っていた。駅北側には三菱電機への引き込み線があり、蓄電池式の機関車が入れ替えを行っていた。また引き込み線横の側線には、1980年代半ばまで、廃車となっていた国鉄シキ400形貨車が長らく留置されていた。貨物取扱量は多く、駅の北側と南側の両方には信号所が設置されていた。
阪神・淡路大震災が発生した折には、発生翌日から東海道本線の尼崎駅 - 甲子園口駅間が復旧するまでの数日間のみ、大阪方面からの列車の一部が当駅で折り返していた。

1891年(明治24年)
9月6日 - 川辺馬車鉄道の長洲駅(現存せず) - 塚口駅 - 伊丹南口駅(現存せず) - 伊丹駅間開業時に設置。旅客のみ。
11月15日 - 貨物取扱を開始。
1893年(明治26年)12月12日 - 川辺馬車鉄道が摂津鉄道と改称。塚口駅が廃止されたため塚口村有志者が復活を出願したとの資料があるが[出典 5][出典 6]、恒久的な廃止の予定だったのか、一時的な休止だったのか定かでない。
1894年(明治27年)3月6日 - 摂津鉄道の長州駅(現存せず) - 伊丹南口駅(現存せず)間に再開業。旅客・貨物取扱開始。
1897年(明治30年)2月16日 - 阪鶴鉄道が摂津鉄道を買収、同社の駅となる。
1898年(明治31年)6月8日 - 神崎駅(現在の尼崎駅) - 塚口駅間が開業。長州駅、尼ヶ崎駅(のちの尼崎港駅)方面は支線に。
1907年(明治40年)8月1日 - 阪鶴鉄道が国有化され、国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。阪鶴線の所属となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。阪鶴線福知山駅以南が福知山線となり、当駅もその所属となる。
1981年(昭和56年)4月1日 - 尼崎港線の旅客営業が廃止される。
1984年(昭和59年)2月1日 - 貨物取扱廃止。尼崎港線が廃止される。
1987年(昭和61年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。
1992年(平成4年)11月 - みどりの窓口営業開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード・ICOCAの供用開始。
2005年(平成17年)
4月25日 - JR福知山線脱線事故の影響で営業休止となる。
6月19日 - 福知山線が復旧、脱線事故後55日ぶりに営業を再開。

電報略号 ツカ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 8,859人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1894年(明治27年)3月6日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

平成筑豊鉄道400形気動車

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平成筑豊鉄道400形気動車は、平成筑豊鉄道が2007年(平成19年)から2010年(平成22年)にかけて導入した鉄道車両(気動車)である。

平成筑豊鉄道の第三セクター転換開業時から使用している100形・200形・300形の取替えを目的として2007年から製造された。
新潟トランシスが製造しているNDCと呼ばれる地方鉄道向け軽快気動車で、車体長さは従来の200形、300形と同じ18m級とされ、車内はセミクロスシートとなっている。ワンマン運転に対応した構造である。


2007年4月8日に401 - 403、2008年2月23日に404・405、同年12月20日に406・407、2009年3月14日に408、同年12月14日に409・410、同年12月21日に411、2010年12月18日に412が運用を開始している。この412の製造をもって400形の製造は終了し、同車の運用開始とともに300形以前の車両はすべて定期運用を終了した。
いずれも伊田線、糸田線、田川線で運用されている。
トイレの有無の差はあるものの、ほぼ同型の車両が錦川鉄道や肥薩おれんじ鉄道などで使用されている。

車体
普通鋼製車体で、車体形状は2004年に導入された肥薩おれんじ鉄道HSOR-100形に類似し、前面には貫通扉を設けている。前面左右の窓の上部に前照灯と尾灯を1個ずつ設置しており、貫通扉の上部にLED表示式の行先表示器を設けている。側面は両端部に引き戸の出入口扉を設け、側窓は固定式としている。


車体塗装は従来車両と異なる。401 - 407は黄色地に青色・緑色・空色の斜めのストライプを入れた塗装となっており、「なのはな号」の愛称が付けられている。黄色は沿線の菜の花を表し、青色・緑色・空色は水・緑・空を表している。408は平成筑豊鉄道のマスコットキャラクター「ちくまる」をテーマとしたラッピング車両「ちくまる号(ブルー)」となっている。409は沿線の行橋市にあるゆめタウン行橋の広告ラッピングを施した「ゆめタウン号」、410は石炭産業全盛期の筑豊の風景を描いた「炭都物語号」となっている。411は408と同様「ちくまる」を描いたラッピング車両であるが、デザインと地色は408と異なり「ちくまる号(グリーン)」の愛称が付けられている。412は100形と同様の旧標準色を施した。


台車・機器
エンジンは出力(330PS/2000rpm)、直列6気筒横形ディーゼルエンジンのコマツ製SA6D125で、台車は動台車2軸駆動方式のボルスタレス空気バネ台車となっている。
なお、400形同士や500形との連結はシステム上は最大6両までできるが、100形・200形・300形との総括制御はできない。


車内
座席は両側に二人掛けの座席を向かい合わせに配置した固定クロスシート(ボックスシート)を1組ずつ(計8席)設置しているほかはすべてロングシートとなっている。運転室は従来車両と同じく半室式で、運転室脇には運賃箱を設置し、運転室の横のスペースはバリアフリースペースとなっている。車内にトイレは設置されていない。なお、410のクロスシートは撤去された。
運転装置は列車情報制御装置TICSを装備したワンハンドルマスコンとなっている。
冷暖房装置として、機関直結方式の冷房装置と、温水温風ファン方式の暖房装置を備える。

最高速度 95 km/h
車両定員 119人
座席定員48人
車体長 18,500 mm
車体幅 3,188 mm
車体高 4,038 mm
車両質量 31.5t
機関 コマツSA6D125
機関出力 330PS (2000rpm)
変速機 TACN-22-1612B
制動方式 電気指令式・直通空気ブレーキ
製造メーカー 新潟トランシス

 

伊丹駅 JR西日本)福知山線

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伊丹駅(いたみえき)は、兵庫県伊丹市伊丹一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線の駅である。

大阪国際空港(伊丹空港)の西側に位置し、駅前からは唯一伊丹側から空港に向かう公共交通機関・伊丹市営バスも乗り入れている。
アーバンネットワークのエリアに属しており、「JR宝塚線」の愛称区間に含まれている。みどりの窓口が設置されている直営駅(宝塚駅の被管理駅)。自動券売機は全てタッチパネル式で、みどりの券売機もある。ICOCAの利用も可能。
当駅から約1キロ西には、阪急伊丹線の終着駅・伊丹駅がある。

相対式2面2線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。橋上駅舎の西口と駅前広場とはペデストリアンデッキで結ばれています。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。


ホームは島式2面4線への拡張が可能な構造となっている。ホーム間の移動は跨線橋を使う。これは、将来当駅から大阪国際空港まで鉄道線を延ばす構想があるためで、外側の用地は現在駐輪場などに使用されている。
エスカレーターは4基、エレベーターは2基設置されている。ホームの長さは10両編成対応(220m)だが8両編成分だけホームをかさ上げしたため、実質8両対応といえる。


駅構内にはキヨスクのほか、小規模な画廊『美術ギャラリー伊丹』がある。キヨスクは2005年4月にリニューアルされ、おしゃれなデザインの店内になっている。また駅前にハートイン伊丹店があり、ICOCA電子マネーが利用できる。

伊丹駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 G JR宝塚線 下り 宝塚・三田方面
2 G JR宝塚線 上り 尼崎・大阪・北新地方面

2階に通じる歩道橋は有岡城址に続いています。駅のある場所は有岡城跡の一部であることから、駅舎は城郭をイメージしています。

特急列車はすべて通過するが、その他の営業列車はすべて停車する。
日中時間帯の停車本数は1時間あたり8本で、快速(「丹波路快速」を含む)と普通列車がそれぞれ4本ずつ停車する。
大阪行きの快速列車は、当駅を出ると尼崎を経てわずか2駅で大阪駅まで到達できるため、大阪市内へのアクセスが充実している。
朝ラッシュ時の大阪方面は本数が非常に多く、また朝晩は東西線に直通する列車もある(その他の時間帯は京都線方面のみで、東西線・神戸線方面へは尼崎駅で乗り換えとなる)。

利用客はJR西日本の駅の中では36番目に多い。この内、福知山線内では2位(1位は宝塚駅、3位は川西池田駅)。
福知山線は長い間、単線非電化の地方ローカル線であったため、当駅も国鉄時代から大都市近郊の駅としては乗降客の少ない駅であった(改札口も常時開放はされておらず、列車到着時刻の前に改札を開始するローカル線方式だった)。しかし、1981年の複線電化、1987年の国鉄分割民営化、1997年のJR東西線直通運転の開始を経て、利便性が大幅に向上したことに加え、2000年代に駅周辺で大規模な商業開発が進展したことにより大幅に乗降客が増加し、近年ではJR西日本の各駅の乗車人員ランキングで上位50位以内に入るようになった。


なお、当駅の西には阪急伊丹線の伊丹駅があるが、当駅に比べるとやや利便性が劣ることや、阪神・淡路大震災により同駅が仮設駅舎で営業している間にJR東西線が開業してJRの利便性が上がったこと、大規模な商業施設の撤退などで阪急伊丹駅周辺の都市機能が相対的に低下していることなども利用客増加の要因として挙げられる。当駅と大阪国際空港をJRで結び、大阪駅まで乗り入れる「JR福知山線分岐線構想」や、兵庫県がLRTを同区間に設置する案などがあったが、採算の取れる見込みがなく、実現される可能性は低くなっている。

1891年(明治24年)
9月6日 - 川辺馬車鉄道の長洲駅(のちに廃止) - 塚口駅 - 伊丹南口駅(のちに廃止) - 伊丹駅間開業時に終点駅として設置。旅客のみ。
11月15日 - 貨物取扱を開始。
1893年(明治26年)12月12日 - 摂津鉄道の駅として再開業。伊丹駅 - 池田駅(現・川西池田駅)の開業により、中間駅となる。一般駅。
1897年(明治30年)2月16日 - 阪鶴鉄道が摂津鉄道を合併。阪鶴鉄道の駅となる。
1907年(明治40年)8月1日 - 阪鶴鉄道が国有化され、国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。阪鶴線所属駅となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。阪鶴線福知山駅以南が福知山線となり、当駅もその所属となる。
1979年(昭和54年)7月1日 - 貨物の取扱を廃止、北伊丹駅に移管。旅客駅となる。


1981年(昭和56年)5月 - 橋上駅舎化。
1986年(昭和61年)3月3日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
1992年(平成4年)11月 - みどりの窓口営業開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。
2005年(平成17年)
駅改装工事(JR西日本のNextStationPlanの一環)が行われる。
4月25日 - JR福知山線脱線事故の影響で列車の停車が無くなる(みどりの窓口のみ営業)。
6月19日 - 福知山線復旧、脱線事故後55日ぶりに営業を再開。

 

電報略号 イタ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 23,693人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1893年(明治26年)12月12日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* JR西日本の駅の中で第38位

 

 

 

 

北伊丹駅 JR西日本)福知山線

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北伊丹駅(きたいたみえき)は、兵庫県伊丹市北伊丹9丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線の駅である。
大阪国際空港の滑走路から猪名川を挟んで北西に数百メートルのところに位置し、離着陸ルートの真下にある(ホームには列車の通過音が聞き取りにくい旨を示す注意書きが掲示されている)。


登記上の所在地は伊丹市だが、施設の一部(北側)は川西市域にもまたがっている。乗客は伊丹市・川西市民が中心であるが、少数ながら大阪府池田市の住民も利用している。
「JR宝塚線」の愛称区間に含まれている。ICOCAや相互利用対象のICカードが利用可能。駅の南西・国道171号の高架下に、阪急バスと伊丹市営バスの「北伊丹」停留所がある。いずれも本数は60分から90分に1本程度で、それほど多くない。

周辺には工場が多い。また、北出口の川西市側は大規模なマンションや一戸建てといった住宅街が広がっており、南出口と北出口では様相が違うのが特徴。
近年は「産業道路」こと県道13号尼崎池田線沿いに郊外型の家電量販店が立て続けに出店している。
また駅東側にペットフードの工場があるため、夏季は特に異臭が漂う。

島式1面2線のホームを持つ地上駅。ホームの西側には留置線が2本あり、宝塚駅に到着した終電や一部の新三田駅に到着した快速はここまで戻って留置される。
ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅で、改札口は南口(伊丹市側)と北口(川西市側)の2か所ある(みどりの窓口などの主たるサービスは南口で行われており、北口は一部時間帯を除き無人である)。
北伊丹駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 G JR宝塚線 下り 宝塚・三田方面
2 G JR宝塚線 上り 尼崎・大阪・北新地方面


普通列車のみの停車のため、日中時間帯は1時間あたり4本が停車する。朝ラッシュ時の大阪方面は本数が多くなる。
かつては、「普通列車」であっても当駅を通過する列車があった。

当駅 - 大阪駅・北新地駅間の「昼間特割きっぷ」が販売されており、1枚当たり大阪・北新地までの大人普通運賃は、割引率が50%(半額)です。
昼間特割きっぷは区間によって割引率が異なるが、当駅発着のものが一番割引率が高い。
ホームから離れた駅本屋近くに国鉄時代の駅名標が残されている。大阪近郊のJR線では貴重な現存例である。
当駅を出てすぐ南の踏切には昔の線路の路盤の跡がある。
かつては駅の東側に貨物ホームなどの設備があった。宝塚駅や伊丹駅で行われていた貨物取扱を集約する形で設けられたが、完成後7年で廃止された。

1944年(昭和19年)4月1日 - 国有鉄道福知山線の伊丹駅 - 池田駅(現在の川西池田駅)間に、旅客駅として新設開業。
戦時体制を受け、従業員が増加した駅西隣の大阪機工の通勤用として設置された。同工場の一部は昭和50年代に閉鎖され、その跡地は県立西猪名公園となっている。
1966年(昭和41年)9月1日 - 専用線発着の車扱貨物の取扱を開始、一般駅となる。
ダイハツ工業の専用線が接続し、同社所有車運車クム2000形(私有貨車)30両の常備駅が川西池田駅から当駅に変更された。
1978年(昭和53年)10月1日 - ダイハツ工業専用線廃止。
1979年(昭和54年)7月1日 - 周辺4駅の貨物取扱を当駅に集約、車扱貨物の取扱を開始。
1986年(昭和61年)11月1日 - 貨物取扱全廃、旅客駅に戻る。当駅は福知山線内で最後まで貨物営業を行っていた駅であった。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。
2005年(平成17年)
4月25日 - JR福知山線脱線事故により、列車が停車しなくなる(みどりの窓口のみ営業)。
6月19日 - 福知山線復旧、脱線事故後55日ぶりに列車停車が再開。
2007年(平成19年)3月13日 - 南口のみエレベーター新設。
2014年(平成26年)4月1日 - 北口のみ朝夕を除き無人化。

電報略号 キタ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 5,050人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1944年(昭和19年)4月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
* 登記上の所在地。実際は兵庫県川西市にもまたがる。

京都市交通局2000形電車

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京都市交通局2000形電車(きょうとしこうつうきょく2000がたでんしゃ)は、1964年より新造され、京都市交通局(京都市電)に在籍した路面電車車両。
京都市電の全廃を待たずして1977年9月に全車廃車となったが、本形式のうち5両が伊予鉄道へ譲渡され、同社モハ2000形電車として導入された。

ラッシュ時のための連結運転と閑散時のワンマン運転の双方に対応可能なよう設計された中型車である。
1964年から1965年にかけて2001 - 2006の計6両がナニワ工機(現アルナ車両)で製造された。
なお、1965年に新造された2003 - 2006の4両は京都市交通局が市電用として新造した最後の車両である。

公共交通事業者の多くが、ラッシュ時に備えた設備投資を行うことを余儀なくされているが、その一方で、ラッシュ対策の車両や施設、あるいは要員が、昼間の閑散時には遊休化してしまうといった二律背反に悩まされる事例が、しばしば見受けられる。路面電車事業者もその例外ではない。
1960年代前半の京都市においては、市内中心部の地下鉄整備が実施されておらず、また市電が年間2億人以上の旅客を輸送して市内交通の大半を担い、なおかつ年間の乗客数が増加し続けていたことから、この問題がかなり深刻化していた。
そのため、1962年(昭和37年)3月27日からは朝ラッシュ時(午前7時から午前9時の間)に一部停留所を通過する急行運転を開始、運転時分の短縮と輸送力増強を現有施設・車両で実施するために最大限の努力が払われた。しかし、乗客数が急増しつつあった当時の情勢下にあってはこの施策だけでは急増する乗客数に対して充分とは言えず、抜本的な輸送力増強策を講じることが強く求められる状況となっていた。
この時期、東西の幹線である四条線においては、1963年(昭和38年)6月に阪急京都線が河原町まで延長されたことによって同線の負担が軽減され、一定程度状況の改善が実現したが、南北の幹線である烏丸線においてはそういった市電を補完あるいは代替する輸送機関は存在せず、京都駅前・四条烏丸の市内二大ターミナルで国鉄・阪急から乗り換える通勤・通学客を、烏丸丸太町以南のビジネス街や、同電停以北の文教地区に迅速かつ大量に輸送することが求められる状況にあった。
また、西大路線においては1960年代当時、円町以北の沿線が住宅地や文教地区として開発されつつあったが、円町 - 西大路九条間の沿線である中京区西部から右京区東部が、工業地帯として急速に発展しつつあったことから、工場通勤者の足を確保する必要に迫られていた。
そのため、市電の輸送力増強が求められたが、いずれの路線に新車を投入するにしても、昼間時においてはラッシュ時ほどの輸送需要が望めず、第二次世界大戦後に大量投入された1000形のような大型3扉車や、当時西鉄北九州線などで投入されてラッシュ時の輸送力増大に絶大な効果を発揮していたものと同様の大型連接車を投入するのは、閑散時の運用を考慮すると不経済・非効率に過ぎた。
そこで、ラッシュ時の大輸送力確保と閑散時のフリークエント・サービスの維持を両立しうる、従来の車両とは違うタイプの車両として、連結・解結によって編成両数を変更可能な連結車の投入が構想された。
道路上を走行する路面電車におけるこの種の長編成化は、いずこの都市でも道路交通の管制に当たる所轄警察署の許可を得ることが難しいが、幸いなことに京都市では第二次世界大戦後、1947年から翌1948年にかけて600形で1形2軸単車を牽引する親子電車を京都駅前 - 烏丸車庫間などで運転した実績があり、また近隣の京福電気鉄道嵐山本線や京阪京津線で同様の連結運転が実施されていて所轄警察署の許可を得ることが容易な状況にあり、さらに地上設備面でも連結運転を阻害する要因が少なかった。
このような背景のもと、本形式は、同じ時期に既存の600形からの改造で用意された2600形ともども、ラッシュ時は2両連結運転を実施して大量の通勤・通学客を一度に運び、昼間時以降は編成分割の上で1両単独で走行する、京都市電初のワンマンカーとして計画された。
本形式は、1963年度予算で1964年1月20日に2001・2002の1編成2両、1964年度予算で1965年1月30日に2003 - 2006の2編成4両が、それぞれ尼崎のナニワ工機で製造され竣工した。
運用開始は2001・2002が1964年3月16日、2003・2004は1965年4月15日、2005・2006は1965年4月8日である。

鋼製で全溶接による準張殻構造を採用、窓上下の補強帯を露出させないノーシル・ノーヘッダー構造かつ張り上げ屋根とした、平滑な外観の構体に軽合金製の窓枠・金具類を組み合わせる、近代的な全金属製車体を備える。
車体長は、連結運転を行うことから交差点通過時間などを考慮して800形より若干短い11,300mmに短縮され、車体高も屋根をやや浅く設計した結果、600形より若干高い3,160mmとなっている。車体幅は2,390mmでこれは900形などと同一であるが、側構の厚さは90mmと800・900形と比較して5mm厚く設計されているため、車内幅は1cm狭くなっている。
妻面は600形以来の伝統である傾斜角を備えたデザインを踏襲するが、その傾斜角は非常に小さくされ、面構成も丸妻ではなく後退角の小さな折妻による平坦な構成とされており、在来車と比較して若干スクエアな印象を与える。
また、従来とは客扱いの異なる連結運転とワンマン運転を実施することから、妻面幕板中央に2段式の方向幕を取り付けて下段に行先を、上段には「連結車」または「ワンマンカー」をそれぞれ表示する構造とし、左右にバックミラーを設置、車内に料金箱とテープレコーダーを設置している。また、夜間において既存のツーマンカーとの識別を容易とするため、ヘッドライトは方向幕の左右にシールドビームを幕板に埋め込み式として1灯ずつ取り付けている[8]。尾灯は角形のものが制御灯と一体の灯具に収めて妻面向かって左よりの窓下に設置されている。
窓配置は、閑散時に前乗り後降り式のワンマンカーとしても運用されることを考慮して、客用扉について左右非対称配置が採用されている。そのため、(1)D3(1)D1 3 1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)となっており、前後の運転台脇の側窓はいずれも狭幅の1枚窓、客用扉は運転台脇のものが800mm幅の2枚連接引戸、車体中央のものが1,000mm幅の片引戸としている。この引戸はドアエンジンが電磁駆動式となっており、この点でも在来車とは一線を画する。
車体中央の客用扉向かって右には連結運転時とツーマン運転時に車掌が乗務する車掌台が設置されており、この区画の側窓1枚は狭幅で上昇可能な1枚窓としている。また、前後の扉間(中央扉の戸袋窓含む)4枚と車掌台窓の右の3枚の合計7枚の側窓については700形の設計を踏襲した大きな2段上昇式窓を採用している。窓枠は妻窓も含めて全てアルミサッシを採用し、2段窓部分には下段の中央横方向に1本、保護棒を設置している。
妻窓についても700形の設計を踏襲し、左右の窓をやや細く、中央の窓を広くとった3枚窓構成を採用し、左右の窓を換気用として下降式としている点では700形と同様であるが、中央窓については下方約1/3で分割した2段窓構造とし、下段窓を上昇可能としている。妻窓の上部にはごく短いひさしが設置されており、妻窓は側窓より若干背が低くなっている。なお、ワイパーは空気圧駆動式のものを当初より搭載している。
塗色は従来の京都市電の標準色である窓上クリーム・腰部グリーンのツートンカラーではなく、連結車あるいはワンマンカーであることをアピールするために窓上アイボリーホワイト・腰部コバルトブルーの専用塗装が採用され、前面窓下にオレンジ色のワンマンカー識別帯が入れられている。
なお、本形式の自重は14.5tで、800形最終増備車よりも1.2t軽く、軽量設計で知られた700形直接制御車グループと同程度となっており、700形ほどではないものの軽量化された車体と、簡潔な回路構成の間接非自動制御器としたことの効果が大きかったことが見て取れる。

主電動機
900形以来京都市電の標準電動機となっていたSS-60を各台車に1基搭載し、吊り掛け式の駆動装置と組み合わせてある。歯数比は59:14で、これは同じSS-60を搭載する800・900・700形と共通である。
台車
全車とも日立製作所KL-11を装着する。この台車はプレス材溶接構造の台車枠を備え、コイルばねによる枕ばねを側枠から吊りリンクで吊り下げた揺れ枕で支持する。
軸距は1,400mm、車輪径は660mmで、いずれも京都市の標準寸法に従う。
このKL-11は先行した700形701 - 715に装着されていたのと同一品で、京都市だけではなく、1963年から1964年にかけて製作された西日本鉄道福岡市内線300形にも採用実績があった。また、サフィックス違いの同系台車は土佐電気鉄道600形や西日本鉄道北方線331形連接車の一部などに装着されており、決してその生産数は多くないが、1960年代の時点で車両新造を行えた西日本各都市の路面電車に広く普及した形式の一つである。
制御器
連結運転を行う必要から間接制御器の搭載が必須とされた。
ただし、それまでの間接自動制御とは異なり、電磁接触式スイッチによる間接非自動制御式の日本車輌製造NC-579主幹制御器およびNCH-452-RUD制御器を採用している。
主回路構成は力行7段、電気制動8段で、主電動機が永久並列つなぎであることから直並列制御を行わない。
これは、従来900形や700形などで採用されていた三菱電機AB間接自動制御器の場合、ノッチ操作からシーケンスドラムやカム軸が回転して主回路が進段するまでのタイムラグが大きく、たとえば交差点通過を急ぐ様な場合に直接制御車で一般に行われていた、追いノッチとよばれる主回路電流量の低下を待たずにノッチを進める乱暴な操作による急加速発進操作が出来ない、という連結運転時には致命的と言って良い問題を抱えていたことへの対策であり、連結車に極力直接制御車に近い走行特性を与える必要があったことから、特に操作応答性を重視して採用されたものである。
ブレーキ
単行運転を行う路面電車用として一般的なSM-3直通ブレーキに代えて、連結運転用としてM-18A弁を使用するSME非常弁付直通ブレーキが採用されている。
連結器
これも連結運転を行う必要から、コンパクトなトムリンソン式密着連結器を取り付けている。この連結器は電気連結器を下部に併設しており、ブレーキ動作に必要な空気配管も内蔵しているため、連結運転時にはこの連結器以外にはブレーキ用エアホースやジャンパ線などを接続する必要はなく、連結・解結作業が容易かつ短時間で行える構造となっている。
この連結器は使用しないときは連結器を車体の右隅に振ってロックする構造とされたが、その支持腕の関係で救助網は従来の網状の物が装着できず、神戸市電などと同様のフェンダー・ストライカーが取り付けられている。
集電装置
700形と共通のZパンタグラフを搭載する。

2000形電車は全車が烏丸車庫に配置され、4系統(京都駅前 - 四条烏丸 - 烏丸車庫前(現在の北大路バスターミナル) - 金閣寺前 - 西大路七条 - 七条烏丸 - 京都駅、現在の地下鉄烏丸線及び京都市バス205系統)に集中投入されて、当初の目的どおりラッシュ時の連結運転と、昼間時のワンマン運転に充当された。
連結運転時には、1両目に運転手と車掌、2両目に車掌の計3人が乗務し、1両目と2両目との連絡はブザーを用いた。
京都市交通局は、当初本形式について20両を新造することを計画していたが、交通局の財政悪化で本形式の製造は2年度6両で打ち切られ、運用数に対して不足する連結車については、600形の20年締換(更新)工事と併せて1mの車体延長や制御器の間接非自動制御器への換装などを実施する大規模な改造工事を交通局壬生工場およびナニワ工機で実施し、本形式と同等の連結・ワンマン運転対応車とした2600形18両で賄われた。このため、1965年1月に竣工した2003 - 2006の4両が京都市電最後の新造車となった。
1965年9月10日以降は、朝ラッシュ時の連結運転区間を西大路線・北大路線の全線と東山線の百万遍。以北に拡大し、翌1966年(昭和41年)11月7日には2600形全車の改造が完了したことから連結車の運用を10編成にまで拡大して、京都市内の通勤・通学輸送に大きな効果を発揮した。
1966年以降、京都市電のワンマン化が本格化することになり、その第一陣として600形が1600形へ改造されることになったのに伴い、従来専用色に塗装されていた本形式についても塗装の見直しが実施され、京都市電において第二次世界大戦後に標準色となっていた窓部クリーム・腰部グリーンのツートンカラーにワンマンカー識別用の赤帯を窓下に巻いた、以後のワンマンカーで標準となった塗装に変更された。
以後しばらくは大きな変化はなかったが、乗客数の減少と他系統のワンマン化の進展に伴い、1970年(昭和45年)1月16日に外郭線での連結運転が中止となって最混雑線区である烏丸線限定となり、翌1971年3月31日には連結運転そのものが終了となった。そのため、烏丸車庫所属系統のワンマン化の進展もあって本形式は他のワンマンカー各形式と共通運用化され、従来充当されていなかった各系統の運用に入ることになり、千本線(四条大宮まで)、河原町線、東山線(百万遍以南)などでの運用が、この時期に開始されている。
更に、1974年の地下鉄工事に伴う烏丸線(七条烏丸 - 烏丸車庫前間)廃止後、車掌の職場確保のために本形式全車が1600形、2600形の一部とともに暫定的にツーマン車として運行されることになり、ワンマン識別用の赤帯を撤去するなどのツーマン改造を受けた。これは、連結車は車掌台を残しており、また1600形は前後式出入台でワンマンでの客扱いがやりにくい、という苦情が出ていたためであった。しかし、これらの暫定ツーマンカーも翌1975年3月末までには全車ワンマンカーに復帰した。
廃車
間接自動制御車の全廃後、本形式は2600形とともに京都市電に残った数少ない間接制御車であった。しかし、連結運転を考慮した特殊装備が多かったこと、主電動機が永久並列つなぎであり、抵抗が主回路に挿入された状態で力行加速する機会が多く抵抗器の溶断事故が少なからず発生していたことなどから、以後は持て余し気味となり、京都市電の全廃を待つことなく1977年9月の河原町・七条線廃止時に全車廃車された。同時期には2600形も残存全車が廃車となっており、両形式の形式消滅をもって京都市電から間接制御車は全て淘汰された。

 

 

梅小路公園で保存中の2001号車(2015年8月10日撮影)
廃車後は2001が保存対象となって烏丸車庫跡に保存された後、同跡地の再開発によって京都市下京区観喜寺町のJR高架下に移動され、2014年3月8日からは梅小路公園で静態保存されている。

車両定員 90(着席32)人
全長 11,900mm(新造時。密着連結器含む)
11,700mm(連結器撤去後)
全幅 2,440mm
全高 3,800mm
車両質量 14.50t(新造時)
14.10t(連結器撤去後)
軌間 1,435mm
電気方式 直流600V
主電動機 SS-60[1]
主電動機出力 60HP×2(45kW×2)[2]
駆動装置 吊り掛け駆動
制御装置 単位スイッチ式間接非自動制御
日本車輛製造製NCH-452L-RUD
台車 日立製作所KL-11
制動方式 SME非常弁付直通ブレーキ
製造メーカー ナニワ工機(現アルナ車両)


艦内用各種食器 海上自衛隊

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海上自衛隊では艦内で使用する食器等にも工夫を施している。その代表格がお盆とお皿の小濃えお兼ね備えた銀色のプレート、通称{鉄板}。

凹みが掘られており、そのままおかず等をもりつけられ、汁物やごはんの食器は穴にはまり、船の同様で傾いたり滑ったりしない仕組みになっている。又、収納スペースを取らず、洗浄も用紙であり実用性を兼ね備えた一品である。

一般的にはランチプレートと呼ばれますよね。

230形蒸気機関車233号機

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230形蒸気機関車233号機 - 1903年、汽車製造製。
1984年、準鉄道記念物に指定、その後、2004年、鉄道記念物に昇格。2016年3月11日、国の重要文化財に指定。現存する最古の国産蒸気機関車。

国鉄230形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である逓信省鉄道作業局(官設鉄道)が発注したタンク式蒸気機関車である。本格的に量産が行われた初の国産蒸気機関車であり、日本で2番目の民間機関車メーカーである汽車製造会社が初めて官設鉄道に納入した機関車である。最も初期の国産機関車であるだけに、全くのオリジナル設計というわけにはいかず、イギリス製のA8形を基にしている。

官設鉄道A8形を模倣して国産化された車軸配置2-4-2(1B1)で2シリンダ単式の飽和式タンク機関車であるが、動輪直径がやや小さく(A8の1321mmに対して1245mm)、総軸距も51mm短縮(A8の5944mmに対し5893mm)されるなど、若干の寸法変更が見られるほか、クロスヘッドの滑り棒が、A8形の上下2本に対して本形式では上部の1本のみであるのが相違点である。
1902年(明治35年)から1909年(明治42年)にかけて計41両が製造され、官設鉄道に38両が納入されたほか、北越鉄道に1両、北海道鉄道に2両、高野鉄道に2両が納入された。北越鉄道と北海道鉄道の3両は、1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法により官設鉄道に編入され、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程では230形(230 - 270)と定められた。

元鉄道作業局のものは、おもに関西地区や中国、四国地方に配属され、使用線区は山陽本線、山陰本線、北陸本線などであった。一方、元北海道鉄道の2両は、国有化後樺太庁鉄道に貸し渡され、1915年5月31日付けで正式に保管転換された。1937年に川上幸義が実見したところによると、269は片側を切開したカットモデルとして大泊に保管されており、270は南樺鉄道で使用されていた。また、270の製造番号は製造銘板によれば3であり、公式記録と異なっていた。
1923年3月末時点で、230形は39両が在籍しており、神戸鉄道局に30両、門司鉄道局に9両が所属していた。神戸鉄道局管内における配置は、大阪(8両・237, 238, 250, 251, 256, 261, 267, 268)、池田(2両・265, 266)、岡山(2両・249, 257)、王寺(2両・245, 254)、奈良(3両・246, 248, 255)、米子(2両・232, 233)、鳥取(5両・231, 241 - 243, 253)、徳島(4両・230, 234 - 236)で、247と262がそれぞれ岐阜建設事務所と播州鉄道に貸し渡されていた。その後、245, 246, 255が名古屋鉄道局に転属している。門司鉄道局配置の9両は、239, 240, 244, 252, 258 - 260, 263, 264である。
廃車は1930年から始まり、1933年6月末時点で8両が廃車となっていた。大阪鉄道局管内に21両、門司鉄道局管内に5両、建設事務所に5両が配置されている。配置は、吹田(11両・237, 238, 248, 249, 256, 257, 261, 265 - 268・西成線、尼崎港線、有馬線用)、新舞鶴(2両・232, 233・舞鶴線用)、鳥取(2両・243, 253・倉吉線用)、広島(2両・244, 252・宇品線用)、杉安(2両・260, 264・妻線用)、厚狭(1両・240・美祢線用)で、6両(231, 241, 242, 250, 254, 262)は大阪、鷹取、鳥取で休車となっていた。建設事務所の5両は245 - 247, 251, 255で、1926年3月に転用されたものである。
1945年時点では、20両が使用されており、配置は新潟(1両・256)、浜松(2両・233, 249)、美濃太田(1両・252)、加古川(3両・237, 252, 267)、後藤工機部(1両・244)、岡山(5両・238, 243, 253, 256, 266)、広島(1両・260)、鳥栖(1両・268)で、他に5両が建設局配置である。加古川と岡山のものは、加古川線、吉備線で営業用として使用されていた。
戦後は、急速に廃車が進み、1953年時点で稲沢と鳥栖にそれぞれ1両(233, 268)を残すのみとなっていたが、これらも1960年代初めに廃車となっている。

全長:9,767mm
全高:3,658mm
軌間:1,067mm
車軸配置:2-4-2(1B1)
動輪直径:1,245mm(4ft1in)
弁装置:ジョイ式基本型
シリンダー(直径×行程):356mm×508mm
ボイラー圧力:10.6kg/cm²
火格子面積:1.11m²
全伝熱面積:67.1m²
煙管蒸発伝熱面積:60.6m²
火室蒸発伝熱面積:6.5m²
ボイラー水容量:2.3m³
小煙管(直径×長サ×数):45mm×2,959mm×147本
機関車運転整備重量:35.88t
機関車空車重量:28.02t
機関車動輪上重量(運転整備時):18.98t
機関車動輪軸重(最大・第1動輪上):10.26t
水タンク容量:4.5m³
燃料積載量:1.14t
機関車性能
シリンダ引張力:4,620kg
ブレーキ装置:手ブレーキ、真空ブレーキ

小型ドーザ 陸上自衛隊

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ブルドーザーは軍用でも用いられる。陣地や塹壕の造営といった任務だけでなく、敵の築造した塹壕やバリケードといった障害の排除にブルドーザーが有効だからである。

民生品に所定の改装(ゴムキャタピラを鉄製のキャタピラへと)施したもの民生品のモデルチェンジに併せて細部が微妙に異なる。前部のドーザで土砂を押し出したり地面の整地や掩壕の掘削など、様々な土木作業を行う。現在、陸上自衛隊では小型ドーザの後継としてクボタ建設機械の小型ショベルドーザA型を導入している。

全長 4,145~4,290mm(バックホー付)
全幅 2,170~2,230mm(バックホー付)
全高 2,900~3,030mm(バックホー付)
全備重量 3,790~5.130kg(バックホー付)
走行速度 前2.6km/h~7.3km/h、後4.5km/h~6.0km/h
登坂能力 tanΘ約38%(バックホー付)
接地圧 46Kpa
定格出力 29.4kW
製作 小松製作所 三菱重工業
備考 普通科部隊、特科部隊等に装備され、主として小規模な土木工事に使用し、掘削、排土、整地を行なう。またバックホーを装着し、掩体などの掘削作業を行なうことができる。


た陸上自衛隊が保有する75式ドーザは、砲煙弾雨の中で作業できるように弾片や小銃弾に対する装甲が施されている。また、ブルドーザーを保有せずとも、工兵車両や戦車などの装甲戦闘車両にドーザーブレードを装備して、整地や塹壕掘り、バリケード破壊などに用いられる事も多い。この他、イラン・イラク戦争における第5次ヴァル・ファジュル作戦では、イラン側が日本製ブルドーザーを投入、ドーザーブレードで銃弾から歩兵を守る盾となった。

デ・ハビランド・カナダ DHC-8-Q300 海上保安庁

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デ・ハビランド・カナダ DHC-8 (de Havilland Canada DHC-8) とは、1980年代初頭にカナダのデ・ハビランド・カナダ社が開発した双発ターボプロップ旅客機である。1992年にデ・ハビランド・カナダ社はボンバルディア・エアロスペース社 (Bombardier Aerospace) に買収されたがDHC-8の生産は続けられた。ただし、DHC-8の名称は“ダッシュ 8”(Dash 8)に変更された。また、1996年以降のものについては騒音・振動抑制装置が装備された低騒音型として、Q シリーズ (Q Series) という名称に再び変更され現在に至っている。総生産機数は800機以上である。
日本の航空会社では、-100/-200がコミューター路線の大型化により1990年代後半から、またQ300/Q400がYS-11の後継機として2003年より地方路線を中心に運用されている。

デハビランド・カナダ社の前作、デ・ハビランド・カナダ DHC-7(ダッシュ 7)はコミューター機として開発されたものであり、50名ほどを搭載できる機体のサイズや与圧された客室、強力なSTOL性能は適切なものであった。しかし、4発機であったために、価格がやや高く、運航経費の問題もあり、より経済的な機体が求められた。デハビランド・カナダ社は、DHC-7を発展させた双発機型の開発を決定し、1979年にこれはDHC-8として計画が公表された。初飛行は1983年7月20日。

大まかな機体形状はDHC-7を踏襲し、主翼は直線翼で高翼配置である。主脚はエンジンナセル後部に収納される。全幅はDHC-7の28.35mに対し、25.58mとやや小さくなっており、コックピット周辺の形状も段差のないものに変更された。コミューター機としてSTOL性能を重視し、前縁フラップはないが二重隙間フラップを装備しており、これは翼幅の80%に達している。エンジンはターボプロップエンジンの双発である。DHC-7はPT-6(1,100軸馬力)4発であったが、DHC-8はプラット・アンド・ホイットニー・カナダ社製PW120(2,000馬力)2基搭載に変更されている。尾翼はT字尾翼で垂直安定板は前方にフィン(ドーサルフィン)が伸ばされているなど、大きなものである。方向舵は二重ヒンジ式であり、操縦性を高めている。客室は与圧されている。

Qシリーズ (Bombardier Q Series) は、DHC-8を基にボンバルディア・エアロスペースが改良および生産した派生型。1996年第二四半期以降に生産が開始された。
Qシリーズで最も大きな機体はQ400であり、これが正式型名である。しかし、この機体を記述するに当たってDHC-8-400や、Qを付加してDHC-8-Q400とされる場合が日本国内外を問わずよく見かける。また“Dash 8”(ダッシュエイト)と表記・呼称されている場面も多々見受けられる。これらの現象については姉妹機であるQ300やQ200でも同様である。
コクピット計器類も改められている。三菱重工業がリスクシェアリングパートナーとして開発に参加し、中胴、後胴、垂直尾翼、水平尾翼、昇降舵/方向舵、ドアなど全体の半分近くの設計・製造を行っている。かつて日本の日本航空機製造が製造したターボプロッププロペラ機「YS-11」より少し大きな機体で、効率の良い6枚ブレードのプロペラを装備して比較的低回転数(離陸時1020rpm、巡航時850rpm)で所要の出力を発揮する。また、巡航速度は700km/h弱とターボプロップ旅客機としては比較的高速である。主な競合機であるATR-72と比較すると、巡航速度・航続距離・座席数の点などで優れている。
騒音・振動抑制装置(NVS:ノイズ・バイブレーション・サプレッション)は機内のマイクロフォンが騒音を拾い、そのデータを元に能動型制振装置が振動を緩和させる。1988年から研究が進められていた。ボンバルディアはQ シリーズに吸音素材の導入、反響を抑えるための構造の改善など設計から見直した。その結果、平均騒音値は75.1 dBAまで下がり、高空飛行時のボンバルディアCRJが発する騒音値よりも低いものとなった。

Q300 (DHC-8-Q300)
1986年に初飛行。ボンバルディアが開発し、プラット・アンド・ホイットニー・カナダ PW123を搭載してエンジンの性能を向上した。1989年にカナダのリージョナル航空会社が初導入。
日本ではANAウイングス、琉球エアーコミューターが運航する他、国土交通省航空局、海上保安庁が導入している。
ANAウイングスでは退役が進んでおり、2013年8月現在では1機にまで減らされ、東京 - 大島線及び東京 - 三宅島線の2路線のみで運航していたが、2014年3月31日をもって完全退役した。
乗員3名
座席数50-56(1 クラス 50)席
ペイロード6,126 kg
全長 25.7 m
全幅 27.4 m
全高 7.49 m
翼面積 56.2 m²
キャビン全長 12.6 m
キャビン床面積 30.6 m²
最大離陸重量 19,505 kg
最大着陸重量 19,051 kg
最大航続距離 1,558 km
最大巡航速度 528 km/h
エンジン P&WC PW123B
出力 2,500 shp x2

佃駅 徳島線・土讃線

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佃駅(つくだえき)は、徳島県三好市井川町西井川にある四国旅客鉄道(JR四国)の駅。吉野川沿いの狭い段丘上に位置し、駅周辺は僅かに住宅地があります。駅番号はD21・B24。


線路名称上は、徳島線の起点は当駅である。土讃線 (D21) - 当駅の所属線。徳島線 (B24) - 線路名称上は当駅が起点であるが、全列車が阿波池田駅まで乗り入れる。

土讃線琴平駅方面 - 徳島線徳島駅方面間を利用する場合は、分岐駅通過の特例で佃駅 - 阿波池田駅間を往復できる。

島式1面2線のホームを持つ地上駅。木造駅舎です。駅舎側1番線が土讃線上下本線(制限速度80km/h)で一線スルーと徳島線上下副本線、2番線が徳島線上下本線と土讃線上下副本線。


駅舎は平家建で、構内入口は側面にありホームには接しません。ホームとは屋根なしの跨線橋で結ばれています。

駅舎の待合室は広く木造の長椅子が設置されています。駅前広場は特になく、自転車の駐輪場も整備されていない。駅舎は直接道路に接している。


簡易委託駅で駅前の商店で近距離切符を販売していたが、現在は中止されている。
幅の狭いホームには小ぶりな上屋がありベンチも設置されています。

1929年(昭和4年)4月28日 - 讃予線(現在の土讃線)と徳島本線(現在の徳島線)の分岐点として佃信号場開設。


1950年(昭和25年)1月10日 - 佃信号場を格上げして佃駅開業。当初は土讃線の列車のみ停車。
1962年(昭和37年)7月18日 - 新ホームを設置して徳島本線の列車も停車開始。


1983年(昭和58年)4月1日 - 無人駅化(簡易委託駅化)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により四国旅客鉄道が継承。

電報略号 ツク
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 27人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1950年(昭和25年)1月10日

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