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土岐市駅 JR東海)中央本線

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土岐市駅(ときしえき)は、岐阜県土岐市泉町久尻にある土岐市の代表駅。東海旅客鉄道(JR東海)中央本線の駅です。

駅前には、巨大な美濃焼の水指と抹茶碗が置かれている。朝夕は名古屋方面への多くの通勤通学客で賑わう駅です。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを持つ地上駅。駅舎は2階建てのコンクリート造駅舎です。2つのホームは跨線橋で繋がっている。

1・3番線が本線で、2番線が副本線である。3番線の北側に車両夜間滞泊用の側線があり、朝晩には当駅を始終着とする列車が設定されている。


駅長は配置されない駅員配置駅(直営駅)であり、多治見駅が当駅を管理する。構内南側、単式ホームに隣接して設置された駅舎の内部にはみどりの窓口などが置かれている。切符売場にはICカード対応のタッチパネル式券売機が2台設置されています。

駅舎にはかつては多数テナントが入居していたのでしょうが、現在は閑散としています。
1番線ホームには366キロメートルのキロポストがある(ただし、東京駅起点の営業キロは353.7km)。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 ■中央本線 上り 多治見・名古屋方面
2 ■中央本線 上り 多治見・名古屋方面 始発列車及び一部の上り列車
3 ■中央本線 下り 中津川・長野方面


ホームには、長い上屋がかかっています。跨線橋にはエスカレータが併設されています。エレベータは併設ではなく独立して設置されています。



かつては、駅舎西側に東濃鉄道駄知線の頭端式ホーム1面1線(旧4番線)があったが、1972年(昭和47年)7月に休止、その後1974年(昭和49年)に廃止された。ホームの跡地は駐車場などに転用されている。

中央西線の駅では唯一「市」が駅名に入っている(中央東線では「山梨市駅」がある)。理由は、以下の三つが挙げられる。浪駅」周辺に土岐町という地名があり、混同するということで駅名に「市」であることを強調した。


土岐の旧来の地名が土岐郡であった。
旧駅名が「土岐津駅」であった。

1902年(明治35年)12月21日 - 土岐津駅(ときつえき)として、国鉄中央線 多治見 - 中津川間開通と同時に開業。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。中央西線の所属となる。
1911年(明治44年)5月1日 - 線路名称改定。当駅を含む中央西線が中央本線に編入される。


1922年(大正11年)1月11日 - 駄知鉄道の新土岐津駅が開業。
1928年(昭和3年)3月1日 - 駄知鉄道の新土岐津駅を国鉄土岐津駅に統合、両社の共同使用駅となる。
1944年(昭和19年)3月20日 - 駄知鉄道が東濃鉄道駄知線となる。


1965年(昭和40年)7月1日 - 土岐市駅に改称。
1974年(昭和49年)10月20日 - 東濃鉄道駄知線廃止(昭和47年7月豪雨により休止)。
1984年(昭和59年)1月10日 - 車扱貨物の取扱いを廃止。


1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱いを廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道の駅となる。
2006年(平成18年)11月25日 -TOICA導入。


電報略号 トシ
トツ(改称前)
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 5,589人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 1902年(明治35年)12月21日
備考 駅員配置駅
みどりの窓口 有
* 1965年に土岐津駅から改称


瑞浪駅 JR東海)中央本線

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瑞浪駅(みずなみえき)は、岐阜県瑞浪市寺河戸町にある瑞浪市の代表駅です。

東海旅客鉄道(JR東海)中央本線の駅で、瑞浪駅始発となる列車も多数設置されています。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを有する地上駅。昭和55(1980)年8月改築の駅舎は無機質で味気の無い2階建てのコンクリート造です。

1・2番線が本線、3番線が副本線となっている。2番線(下り本線)の名古屋方にも出発信号機が設置されており、同線から名古屋方面への折り返しも可能。

2つのホームはそれぞれ2箇所で跨線橋により繋がっている(釜戸方の跨線橋はエレベーターとエスカレーターが設備されている)。

その他に、1番線から分岐する保線用側線が1線ある。かつては、3番線外側に貨物取扱い用側線があったが、現在は駐車場となっている。


駅長は配置されない駅員配置駅(直営駅)であり、多治見駅が当駅を管理する。

単式ホーム(1番線)に隣接して置かれた駅舎の内部には、みどりの窓口や自動券売機(2台)などが置かれているほか、売店としてベルマートが入居している。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 ■中央本線 上り 多治見・名古屋方面 当駅始発は2・3番線


2・3 ■中央本線 下り 中津川・長野方面
名古屋方面からの一部列車が当駅で折り返しており、多くは3番線での折り返しである。

3番線は2番線と一括で中津川方面のホームと案内されているが、実際には名古屋方面の始発列車の方が多い。

オープン構造の駅入口は階段となっています。バリアフリー化として階段脇にスロープも設置されています。駅前広場は整備され車道もカラー舗装され、華やかな雰囲気です。


1902年(明治35年)12月21日 - 官設鉄道 多治見 - 中津川間延伸と同時に開業。一般駅。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。中央西線の所属となる。


1911年(明治44年)5月1日 - 線路名称改定。当駅を含む中央西線が中央本線に編入される。
1980年(昭和55年)8月 - 現在の駅舎に改築。


1984年(昭和59年)
1月10日 - 車扱貨物の取扱いを廃止。
2月1日 - 荷物の取扱いを廃止。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道の駅となる。
2006年(平成18年)11月25日 - TOICA導入。


電報略号 ツナ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 4,871人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 1902年(明治35年)12月21日


備考 駅員配置駅
みどりの窓口 有

C59 1 九州鉄道記念館 全体保存機

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国鉄C59形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計した、幹線旅客列車用テンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴクまたはシゴキュウ。一部がC60形に改造されたことや、大半が1970年代までに廃車されたため、全容をとどめるものは僅かに3両を残すのみである。戦後に九州に転属し、特急を牽引した。1965年に廃車後小倉工場で静態保存され、準鉄道記念物に指定された。九州鉄道記念館の開館に伴い移設されている。製造した汽車会社での製造番号が丁度2000番でもあるが、これは番号を他機と振り替えたもので、実際の製造順では同社の1993番になる。

本形式の設計が開始された1930年代末には、東海道・山陽の二大幹線の旅客列車、特に特急や急行などの優等列車は、主にC53形が牽引していた。だが、このC53形は3気筒の搭載により低重心化とスムーズな走行性能が得られた反面、複雑なグレズリー式弁装置を備えており、その実設計において設計陣がこの機構を十分理解していなかったこともあって、整備検修においては致命的と言って良い欠陥があった。このため同形式は故障等による年間の平均休車日数が他形式と比較しても格段に大きく、保守が容易で同等以上の性能を備える新型機関車を求める声は日増しに高まっていた。
C53形が97両をもって製造終了となった1930年以降、その後継となる新型旅客用機関車の設計を巡っては、同時期に南アフリカ国鉄が看板列車であったユニオンリミテッド用として設計した16E形が1,830mm径の大径動輪を備えていたことも影響して、これを上回る1,850mm径の動輪を備えた計画機など、様々な検討が行われていた。
だが、そういった強力機を運行するには、当時の日本国内では最良の条件を備えていた東海道・山陽本線であってさえ設備が貧弱に過ぎた。そのため、最終的にC59形として完成することになる、C53形の後継となるべき新型旅客用機関車は、C51形以来の1,750mm径動輪を備え、施設側が許容する上限である、16.8tの動軸重の範囲で設計されることとなった。

機関車本体の下回りはC51・C54・C55形・C57形と続いた鉄道省制式2気筒パシフィック機のそれを基本とし、ボイラーは設計時期が先行したD51形のものを基本としつつボイラー圧力を引き上げ、しかも長煙管構造とした。
このため台枠は棒台枠、動輪はC57形と類似の1,750mm径ボックス輪芯、弁装置はワルシャート式、先台車はエコノミー式復元装置を備えるLT219、そして従台車はばね式のLT156・156A[8]が採用され、ボイラーも鉄道省制式機では一般的な3缶胴構成[9]のストレートボイラーとされた。
また、シリンダーはボイラー使用圧力の高圧化に合わせてC51形と同じ行程のままで直径を縮小してあり、シリンダブロックには通風を穏やかにする目的で排気膨張室が組み込まれている。ピストンはC57形より採用されたH型断面のものが採用された。
運転台は各部寸法についてC57形のそれを基本としつつ、C58形と同様の密閉構造としたもので、これは戦後製造されたC61・C62形にも踏襲された。
炭水車は航続力の確保を目的として、石炭10tと25m³の水を積載可能な10-25・10-25A・10-25B形である。
全長は21,575mm(戦後型)で、C62形の21,475mmを上回り国産最長の蒸気機関車である。

川崎車輛、汽車製造、日立製作所の3社により、1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)までに100両、戦後の1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)までに73両の合計173両が生産された。ただし、番号は1 - 132・156 - 196で、戦後製造分に割り当てられていた133 - 155は緊縮財政下でキャンセルされ、欠番となっている。

デビュー当初から特急の先頭に立ち、C59形はC62形の登場まで特急の花形で、C62形の登場後もお召列車には本形式が充当されたことからもわかるように、現場の信頼も極めて高かった。
しかし、本形式、特に戦前形においては設計・製造上の問題点が幾つか存在した。一つは、従台車の荷重負担が過大となったこと、一つはボイラーの天井板が膨らむこと、もう一つは長煙管が祟って熱効率が低いことである。
従台車については摩耗率が異様に高くなり、しかも摩耗が進んだ状態のものを中心にタイヤ部に亀裂が入る、発熱でタイヤ部が頻繁にゆるむ、などのトラブルが頻発した。これは長く重いボイラーを持ち、また、火室など重量のかさむ部位が集中し重量配分の点で厳しくなりがちな後部について、燃焼室を設けて軽くする、車輪径を大きくするなどの配慮を欠いた結果、重心位置が車両後方に偏って重量配分の制約が生じ、そのしわ寄せが従台車にいってしまったことが原因である。実際、本形式の従軸軸重は約14.7tと幹線用機関車の動軸並みの値[19]の値となっていた。この問題については最後まで解決せず、保守担当者レベルでタイヤ摩耗に伴う交換時期を他の形式よりも厳しく管理することで、かろうじて致命的問題の発生回避が図られる状況であった。
ボイラー天井板の膨らみは、準戦時体制の下、材料となる鋼板の圧延品質の著しい低下の下製造された本形式の場合設計レベルでは回避不能の問題であった。戦後になって状態が悪かった一部についてはボイラー内火室部分の新製交換で対処されたが、後に交換工事未施工の戦前形が優先的に淘汰される一因ともなった。
長煙管と煙管断面積の不足により通風が悪くなり、そのために石炭の燃焼が悪く未燃ガス損失が増大して熱効率が低くなる問題は、本形式の設計を担当した鉄道省工作局車両課や各メーカーが本来燃焼室の付加による効率引き上げを意図して設計していたにもかかわらず、車両研究会での検討の結果、ボイラー内の煙管折損などが発生しやすく保守に難があるとして見送りとされたことに原因があった。この問題は、煙管を短縮して一般的な5,500mm長として燃焼室を付加した、つまり設計陣が当初想定したとおりの仕様で製造された戦後形で解決を見ており、長煙管仕様には熱効率の点で大きな問題があったことが判る。
戦前形については戦後になって内火室交換に伴って燃焼室を設けた機が1号機をはじめ何両か存在するが、残る大半の機体はそのままの仕様で運用され続けることとなった。
戦後形C59は全伝熱面積に占める過熱面積の割合が国鉄蒸機中では最も高く、これにより理論上は過熱温度が国鉄制式機関車中で最高となる。実運用上でも、白河越えを担当した機関区で「他に比べて蒸気の上がりが良い」と言われていた。
こうした好評と不具合を抱えつつ運用された本形式であるが、戦前には軍部の反対で電化が実施できなかった東海道・山陽本線が、戦後になって石炭不足対策も兼ねて急ピッチで電化を進められたため、本来の用途を失い早々と余剰が生じることとなった。
本形式は動軸重が平均16.2tと特甲線である東海道・山陽本線以外では転用可能線区が少なく、一部は亜幹線にも使えるように従台車を2軸化して動軸重を15tへ減らす改造を受け、C60形となった。
改造を受けなかった車両の一部は東海道・山陽本線並みの線路規格を持つ呉線、鹿児島本線(門司港 - 熊本間)、東北本線(上野 - 一ノ関間、最終期は臨時運用で盛岡までの運用実績あり)へ転じ、C60形となった車両は乙線規格に従う東北本線、常磐線、奥羽本線(秋田 - 青森間)、鹿児島本線(鳥栖以南)、長崎本線の各線に入線し、引き続き特急・急行列車牽引にも使われた。
やがてこれらの路線も電化されたため、多くの車両がまだ十分に使える状態でありながら、C59形・C60形とも1970年までに運用からはずされ、全車廃車となった。
糸崎機関区に配置されていた本形式の中には瀬野八越えを行う急行などの旅客列車のスピードアップのため補機運用に充当されることがあった。現存する164号機にはこの運用の際に使用した走行開放用の開錠装置が前部連結器横に取り付けられたままになっている。
本形式最後の定期運用となったのは糸崎機関区での呉線運用であり、ここではC62形と共に急行「安芸」などを牽引した。特に編成が長く換算重量も大きい「安芸」などの重量級寝台急行列車の牽引では、C62形と比較してわずかに動軸重が大きく勾配区間で空転しにくい本形式が好まれ、重点的に充当された。最後まで糸崎区に在籍していたのは戦後形の161・162・164の3両であったが、これらも1970年の呉線電化で余剰となり、161・162号機は廃車、動態保存機に指定された164号機は保存先に転属までの間、暫定的に亀山機関区所属として紀勢・参宮線での運転も検討されていたが、実際は一時的な保管先の奈良機関区を経て保存先の梅小路機関区に転属となっている。

動力方式 蒸気
製造所 汽車製造、川崎車輛、日立製作所
製造日 1941年 - 1943年、1946年、1947年
総製造数 173両
主要諸元
軸配置(ホワイト式) 4-6-2
軸配置(アメリカ式) パシフィック
軸配置(日本式) 2C1
軌間 1,067 mm
全長 21,360 mm(戦前型)
21,575 mm(戦後型)
全高 3,980 mm
最大軸重 16.17 t(戦前型 第2・第3動輪上)
16.04 t(戦後型・第2動輪上)
動輪上重量 44.76 t(戦前型)
44.11 t(戦後型)
総重量 80.25 t(戦前型)
79.75 t(戦後型)
含炭水車重量 137.15 t(戦前型)
134.63 t(戦後型)
燃料種別 石炭
燃料容量 10.0 t
水容量 25.0 m³
ボイラ 過熱式
ボイラ圧力 16.0 kg/cm²
給水加熱器 本省式
火格子面積 3.27 m²
大煙管寸法本数 140 mm×6,000 mm×28本(戦前型)
140 mm×5,500 mm×33本(戦後型)
小煙管寸法本数 57 mm×6,000 mm×90本(戦前型)
57 mm×5,500 mm×52本(戦後型)
煙管伝熱面積 155.8 m²(戦前型)
120.5 m²(戦後型)
火室伝熱面積 12.7 m²(戦前型)
14.6 m²(戦後型)
全蒸発伝熱面積 241.3 m²(戦前型)
217.7 m²(戦後型)
過熱器形式 シュミット式
過熱伝熱面積 71.1 m²(戦前型)
80.9 m²(戦後型)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ寸法 520 mm×660 mm
弁装置 ワルシャート式
最高運転速度 100 Km/h
出力 1,702 PS
定格出力 1,290 PS
引張力 13,860 kg
定格引張力 12,125 kg
単独ブレーキ 空気ブレーキ
列車ブレーキ 自動空気ブレーキ
経歴
運用者 鉄道省→日本国有鉄道
形式 C59形
同一形式両数 167両
車両番号 C591 - C59100(戦前型)
C59101 - C59132, C59156 - C59196(戦後型)

戦艦伊勢・日向 浮揚解撤記念碑

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呉市音戸町坪井 2 丁目 7-11(坪井区自治会館)  広電バス田原経由倉橋島線→「坪井」すぐ

伊勢型戦艦は、大日本帝国海軍の戦艦の艦級である。本級は扶桑型に引き続き建造された2番目の超弩級戦艦である。
同型艦は伊勢、日向の 2隻。

昭和 28 年建立。横の観音像も関係あるもので、付近で大破着底した戦艦伊勢の戦死者の霊を祀るために建てられた。日向は情島付近で着底、島にも碑があるという。

北号作戦を終えた日向は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定され、直後の3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発(二番砲塔左舷後部、左舷缶室、艦後部)が命中した。損傷を受けた日向は4月20日に第四予備艦に指定され、5月1日に特殊警備艦となり、呉港外(情島沖)で浮砲台となった。

7月24日の呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受け、日向の草川艦長も戦死した。この年7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していたが、これらの攻撃による乗組員の被害は、残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んだ。7月26日、日向は着底大破した。


戦後の1947年(昭和22年)7月、日向の解体が完了して艦歴を閉じた。なお、情島で着底した日向の様子を戦後にアメリカ軍が撮影したカラー映像が残っており、今日でもその被害の凄まじさを観察することができる。日向に装備されていた航海灯と軍艦旗が広島県呉市の大和ミュージアムに所蔵されている。

10月29日、伊勢は呉に戻った。11月1日、射出機を撤去し、伊勢は航空戦艦としての機能を失う。大戦末期、日本国内では石油・ゴムなどの資源が枯渇した。そこで伊勢は連合軍制海権下の南シナ海などを強行突破して資源を輸送する「北号作戦」に参加する。11月9日、佐世保を出港、南方に向かった。この作戦ではアメリカ潜水艦やアメリカ軍機の襲撃を受け、命中寸前の魚雷を高角砲で迎撃するなど危険な場面が度々あった[38]。1945年(昭和20年)2月20日、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした。


この後の伊勢は燃料不足のため「呉鎮守府第1予備艦(浮き砲台)」に指定され、燃料不足とアメリカ軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま呉港外・音戸町坪井沖に停泊した。7月24日、アメリカ軍機動部隊艦載機による呉軍港空襲により艦橋に直撃弾を受け、牟田口艦長はじめ艦の主だった指揮官20名ほどが戦死、浸水は5000tに達した。師岡勇高射長が艦長代理となり呉工廠第四ドックに曳航しようと作業中の7月28日、再びアメリカ軍艦載機の空襲により直撃弾11発を受けて大破着底、戦死者は573名に及んだ。空襲後、伊勢の二番砲塔は三式弾が装填されたまま最大仰角で停止した。火災もひどく暴発の恐れもあったため呉市街を向いたまま発射、発射後は砲塔が仰角を保ったまま艦の正中位置まで旋回したところで伊勢は完全に動力を失い停止した。このときの主砲発射が奇しくも日本海軍戦艦の最後の大口径砲の発砲となった。
終戦後、伊勢は引き揚げられて解体されスクラップとなった。

伊勢型戦艦は当初は扶桑型戦艦(扶桑、山城)の3番、4番艦として予定されていた。しかし、予算の関係で予定していた3番艦の起工が遅れ、しかも扶桑型に欠陥が見つかったため再設計された。扶桑型の問題点で解消できた部分は多いとはいえ、問題点等も含めると、まだまだ日本独自の技術よりは、イギリス式から受け継いだ流用技術に依存するところが多く、当時の日本の建艦事情の問題点も窺える。英国技術を日本流に昇華させ、日本独力の技術で建造された純正戦艦と呼ばれるようになるのは次の長門型戦艦まで待たなければならなかったとも言われる。

 

JR赤間駅 JR九州)鹿児島本線

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赤間駅(あかまえき)は、福岡県宗像市赤間駅前一丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅である。 小倉駅と博多駅のほぼ中間に位置する。
1961年(昭和36年)6月1日に門司港駅 - 久留米駅間が電化して速度向上が図られると、団地の造成などと相俟って福岡市及び北九州市に通う通勤・通学する居住者が増え、当駅周辺はベッドタウン化が進んだ。
快速や特急「きらめき」の停車駅だが、「ソニック」などの日豊本線乗り入れ特急列車は、朝晩を中心に一部の列車のみ停車する。

駅名の由来は開業時の地名(宗像郡赤間町)が由来。
古代から宗像氏が領有した地で、古くから宿場町(赤間宿)として栄えた。


1982年(昭和57年)に橋上駅舎となり、2004年(平成16年)に南口駅前広場完成し、2009年(平成21年)2月25日に北口駅前広場と自由通路などが完成して供用開始となった。 2009年(平成21年)に完成した自由通路南北線は北口と南口の双方に上りエスカレーターとエレベーターがあるガラス張りの通路で、長さが約110mあり、多目的トイレなども併設されている。


島式ホーム2面4線を有する地上駅である。改札口は中央に1ヶ所。駅舎内にはコンビニやパン屋があり、日用品に関しては駅構内で調達できる。コンビニ設置の際に駅本屋の増床もされ、改築直後の2倍程の面積になった。


以前は北側より対向式1番のりば、島式2番・3番のりば、対向式4番のりばの構造で、1番のりばが上り本線、3番のりばが下り本線であったが、1988年(昭和63年)3月13日付ダイヤ改正で快速・普通列車の緩急結合が当駅に集約されてホーム構造を変更。1番のりばがあった対向式ホームを島式に改修して新1番のりばを新設、北側から順に改称。対向式ホーム5番のりば(旧4番のりば)は不使用となった。今は線路・架線が撤去されホームのみ残る。2004年(平成16年)のダイヤ改正で赤間駅発着の普通列車が設定されるも5番のりばは再利用はせず、構内より西側に留置線を設置した。


直営駅で、みどりの窓口・自動改札機・自動精算機が設置されている。トイレは改札内に1つ(改札口より入場して右手)、南口階段下に1ヶ所(身障者用トイレ有り)、北口階段下に1ヶ所(身障者用トイレ有り)。南・北口のトイレは自由に利用可能。エレベーターは改札内も全ホームに完備されている。

のりば
番線 路線 方向 行先
1・2 ■鹿児島本線 上り 小倉・門司港方面


3・4 下り 香椎・博多方面

1999年(平成11年)度からを進められた「赤間駅周辺整備事業」の一環として自由通路南北線が整備され、南・北口と改札フロアを結ぶ上りエスカレーターとエレベーターが設置された。
改札フロアとホームを結ぶエスカレーターも1本ずつ設置されている(東郷駅側(下り、博多方面)は昇降ともエスカレーターのみ、教育大前駅(上り、小倉方面)側が階段)と改札フロアとホームを結ぶエレベーターも1基ずつ設置されている(東郷駅(下り、博多方面)側に設置)

駅弁:東筑軒がうどん店で駅弁も販売。主な駅弁はかしわめし弁当・こくうま鶏めし・大名道中駕籠・姫華かざり

北口・南口それぞれにバス停があり、ともに駅舎を出てすぐのロータリーで乗降車できる。バスの時刻表は駅構内でも確認することができる。沿線の住宅地をまわる路線で通勤・通学客の利用がある。
バス路線も多く、快速などの停車駅となっており、次の駅の教育大前駅の方が近い地区でも当駅を利用する場合もあるため、駅勢圏と呼ばれる駅の集客範囲は広めである。開業時から明治30年代までは、最多であった1900年(明治33年)度でも1日平均乗車人員は228人と不振であったため、貨物収入で損益の均衡を保った。2015年度の1日平均乗車人員は9,181人であり、JR九州の駅としては第16位である。

駅は、筑前二十一宿の一つとして数えられるほど江戸時代に栄えた唐津街道の宿場町・赤間宿の西側にある旧土穴村に開設された。 近隣にある生目八幡宮の南側にある低地はかつては入江で船着場となっており、釣川を通じて海とつながる水運の地であった。 駅開設時点では1889年(明治22年)の町村制施行時の9村合併により、赤間村の一部となっていた。現在は宗像市の中央部に位置している。
当地に駅が開設されたことで、周辺は幹線道路の開設と相俟って、宗像市の中心的な商店地区の1つとなった。 しかし、その一方で、旧赤間宿は衰退することになった。
1961年(昭和36年)6月の鹿児島本線電化を受けて「宗像森林都市」や製鉄団地等の住宅地の開発が進み、福岡市や北九州市へ通勤する住民が増加した。


南口側は、田久地区の約100万坪の用地を取得して「宗像森林都市」が民間企業により開発され、その一角には1966年(昭和41年)4月に東海大学と付属高校が開校した。
1999年(平成11年)度から「赤間駅周辺整備事業」が進められ、エレベーターとエスカレーターのある自由通路、北口と南口にバス・タクシー乗降場やロータリーのある駅前広場、駐車場や駐輪場、公園などを整備した。


しかし、この間の1999年(平成11年)11月にゆめタウン宗像、2000年(平成12年)11月にくりえいと宗像[24]と大型商業施設の進出が相次いだ。 こうした大型商業施設の影響を受け、老朽化が進んでいた北口周辺地区は商業地としての機能が衰退する形となった。 そのため、駅周辺整備事業の一環として北口では約3.6haの土地区画整理事業も実施され、道路整備と宅地造成が行われた。

北口:赤間駅北口広場公園 - 面積約997m2でイベント開催を考慮して段差のない形で作られており、夏と冬に祭りが開催されている。

かつてあった路線・未実現路線:石炭運般用ケーブル
宗像郡玄海町池田にあった大和炭鉱から石炭を運び、当駅で貨物列車に積み込んでいた。 なお、同炭鉱は1948年(昭和23年)1月に操業を開始し、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)には月産約3000トンを出炭したが、1960年(昭和35年)には月産約500トンへ減少し、後に閉山となった。

未実現路線
赤間鉄道
1896年(明治29年)11月に鉄道免許出願中となっていた福岡県内53社の中で、2社が当駅から吉武村を経由して鞍手郡西川村(現・鞍手町)までの鉄道計画の申請を行っていた[1]。
津屋崎鉄道
1896年(明治29年)11月に鉄道免許出願中となっていた福岡県内53社の中で、津屋崎町から当駅に至り、途中から先述の赤間鉄道と同じ経路で当駅を通過して鞍手郡宮田村から大隈町までの鉄道計画の申請を行っていた[1]。
鞍宗軌道
1912年(明治45年)に計画されたもので、当駅から鞍手郡西川村を経由して植木町までの鉄道を目指していた[1]。
宗像地方鉄道
1926年(大正15年)7月29日に鉄道省から免許を取得したもので、当駅から東郷町と田島村を経由して神湊町までを釣川沿いに伸びる路線を計画していた。

 

1890年(明治23年)
9月28日 - 九州鉄道(初代)博多駅 - 当駅間の開通に伴い、開業。
9月20日 - 九州鉄道(初代)当駅 - 遠賀川駅間が開通。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道が国有化。官設鉄道に移管。
1909年(明治42年)11月5日 - 城山トンネル開通に伴い、勾配緩和を図った遠賀川駅 - 当駅間の現行ルートが開通し、新線に切り替え。
1910年(明治43年)11月3日 - 城山トンネルが複線化。
1913年(大正2年)4月1日 - 福間駅 - 当駅間に東郷駅を開設。
1921年(大正10年)12月1日 - 博多駅 - 当駅間が複線化。
1961年(昭和36年)6月1日 - 門司港駅 - 久留米駅間が電化。
1982年(昭和57年)10月[要出典] - 現3代目駅本屋橋上駅に改築。
1987年(昭和62年)
2月5日 - みどりの窓口開設。
4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承が山陽新幹線以外の九州地区の旅客鉄道業務を継承。
2004年(平成16年)
3月13日 - ダイヤ改正及び構内改修工事により福岡都市圏の東の終着駅化し赤間 - 荒木間の普通列車が毎時1本運行開始。
南口駅前広場完成。
2009年(平成21年)
2月25日 - 北口駅前広場と自由通路などが完成し、供用開始。
3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。
2012年(平成24年)
2月26日-赤間駅北口土地区画整理事業の完成。1998年に着工された整備が完成


所属路線 鹿児島本線
キロ程 46.5km(門司港起点)
電報略号 アカ←アカマ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 9,181人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1890年(明治23年)9月28日[1]
備考 直営駅
みどりの窓口 有

豊後中村駅 JR九州)久大本線

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豊後中村駅は、大分県玖珠郡九重町大字右田にある、九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅である。豊後中村が九重町の実質的な中心駅になります。


九重山および九重"夢"大吊橋への玄関口であり、特急「ゆふ」が停車する。九重山へのバスも連絡しています。

駅周辺には古い商店街があります。


駅名に豊後が冠せられたのは、当時常磐線に中村駅があったからである。中村駅は1961年に相馬駅と改称された。その後、1970年に中村線(現・土佐くろしお鉄道)に中村駅が開業したが、当駅の方が古いにもかかわらず旧国名を冠するという珍しい現象が発生することとなった。なお、中村駅は国鉄の自動車駅時代は土佐中村駅を名乗っていた。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。もとは単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線のあわせて2面3線をもっていたが、駅舎から最も離れた1線が撤去され2面2線となった。ホームは跨線橋で結ばれています。

古くからの木造駅舎があったが、2010年(平成22年)に茅葺き屋根の新駅舎に建て替えられた。茅葺きの駅舎は全国で2例目。構内よりちょっと低い位置に駅舎があります。
2011年(平成23年)4月23日には、駅舎内に地元の食材を使った郷土料理を供する食堂が開業したが、2013年(平成25年)3月に閉店した。 その後、2013年(平成25年)9月に、九重町観光協会の事務所が九重町役場から移転した。


JR九州鉄道営業による業務委託駅であったが、2010年4月1日より九重町に業務が委託され、簡易委託駅となっている。切符の販売は町から受託した九重観光サービスが行っている。マルスは無いがPOS端末が設置されている。

1928年(昭和3年)10月28日 - 鉄道省(国有鉄道)の駅として開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2010年(平成22年)1月26日 - 駅舎建替工事開始。
2010年(平成22年)4月1日 - 簡易委託化。
2010年(平成22年)6月30日 - 豊後中村活性化交流センターと併設した新駅舎落成。

2012年(平成24年)- 駅舎内のテナント撤退。

電報略号 ナム
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 83人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1928年(昭和3年)10月28日
備考 簡易委託駅

 

早稲田停留場 都電荒川線

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早稲田停留場は、東京都新宿区西早稲田一丁目の新目白通り上にある、都電荒川線の停留場である。また、同線の終点でもあり早稲田大学の最寄停留所です。
東京地下鉄(東京メトロ)東西線の早稲田駅は当駅から南南東方面へ直線距離で約600mの位置にあり、所要時間は早稲田大学正門前を通って約12 - 15分ほどである。

もともと東京市電が先に開業し、車庫(現:都営バス早稲田営業所)も存在していた。そこに王子電気軌道が後から乗り入れた。

新目白通り上にある頭端式ホーム2面1線と降車専用ホームを有する地上駅である。1線に集約された終端部分には線路の南北両側にホームがある。北側のホームに乗客を降ろした後、南側のドアを開けて乗車させる。この位置に車両が停車中のとき次の車両が到着した場合は、少し西側の複線区間にある降車ホームに停車して乗客を降ろす。
新目白通りが拡張されるまでは家並みに囲まれた専用軌道上にあったが、道路拡張時に家屋の移転と共に、都電の線路も道路中央に軌道が位置するように移設されて現在の位置になっている。かつての軌道は高戸橋方面に向かう車道に変わった。

都電荒川線の乗降場は「早稲田停留場」であるが、最寄の交差点名称は「都電早稲田駅」と命名されている。

1918年(大正7年)7月6日 - 東京市電が下戸塚(のち早稲田と改称)電停まで開業。
1930年(昭和5年)3月30日 - 王子電気軌道早稲田駅開業。
1942年(昭和17年)2月1日 - 王子電気軌道を東京市が買収。
1949年(昭和24年)12月1日 - 旧市電(江戸川線)早稲田終点を旧王電(早稲田線)早稲田駅に延伸して接続。
1968年(昭和43年)9月29日 - 江戸川線早稲田 - 江戸川橋 - 大曲 - 九段下間廃止。早稲田車庫も同時に廃止された。

所属事業者 PrefSymbol-Tokyo.svg 東京都交通局
所属路線 都電荒川線
キロ程 12.2km(三ノ輪橋起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面1線 (頭端式ホーム)
開業年月日 1930年(昭和5年)3月30日

呉鎮守府水道 二河水源地

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二河水源地は,呉の名勝二河峡にあり,付近一帯は戦後に二河峡公園となっている。

呉鎮守府の軍用水道施設のひとつ。
1889(明治22)築造。

旧海軍が,明治22年最初の取水場を二河川二河滝付近に築造し,ここから約4km離れた宮原地区の高台に明治23年に築造した宮原浄水場に通水し,呉工廠等旧海軍施設に給水したのが旧海軍水道(旧軍港水道又は鎮守府水道)の嚆矢である。

二河峡の水源地につくられた石造りの坑門で、上部に「呉鎮守府水道」と刻まれた標石が置かれています。


第2海軍鎮守府建設委員会が,明治19年に用地買収を開始し,同21年12月から築造に着手し,同22年9月に竣工した石造りの取水場である。 取水場取水口の水路は一つの大きな岩の中央部をくり抜いたものである。

明治23年4月21日の鎮守府開庁式に御臨幸された明治天皇は,有栖川宮殿下に取水場設備を代閲させられた。
 築造当時は,他軍港の水道施設と比べて設備が過大すぎると評価された。

その後,昭和20年の終戦に至るまでの間,呉軍港の発展,拡張に合わせて,旧海軍は次つぎと施設を拡張,築造した。施設は,本庄水源地,戸坂浄水場,三坂地水源地,石内浄水場などであるが,戦前は海軍専用施設であったため,市民がその恩恵を受けることはなかった。戦後の連合軍への給水は,旧海軍水道施設の一時使用許可によってその任を果たすことができたが,これらの水道施設を呉市は昭和25年6月公布の旧軍港市転換法によって、呉市は昭和27年(1952年)に国から譲与を受け、市民給水の一水源として利用してきました。

昭和32年(1957年)以降は工業用水道事業の水源として、築造以来、すでに一世紀を超えた現在も取水しています。1998(平成10)年に国の登録有形文化財に指定されました。


アーチ形の開口部両脇に柱型を現した丁寧なつくりで,わが国初期の水道施設の一つとして貴重な施設です。歴史的価値と取水場周囲のすぐれた景観もあって「近代水道100選」に選定されている。現在は,工業用水道水源として利用。 1日最大取水量:12,000㎥


所在地:呉市大字荘山田村、呉市二河峡公園内
駐車場:約10台(無料)
指定: 国登録
指定年月日:【登録年月日】平成10年10月9日
法量:
石造坑口
流入側高さ2.80m,幅3.10m
流出側高さ4.67m,幅3.28m
長さ11.8m


H-Iロケット

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H-Iロケットは、宇宙開発事業団 (NASDA) と三菱重工業がN-IロケットとN-IIロケットに続いて開発し、三菱重工業が製造した人工衛星打上げ用液体燃料ロケットである。

Nロケットに引き続き、一部がブラックボックスの条件で米国のデルタロケットの技術を導入して作られた。第2段と第3段ロケットや慣性誘導装置を国産化しており、デルタロケットの技術導入を行った3種類のロケットの中では国産比率が最も高く、N-IIでは54%から61%だった国産化率がH-Iでは78%から98%まで向上した。次世代のH-IIロケットへの重要なステップとなったが、第1段が自主技術で開発したものではないために、N-IやN-IIと同様にデルタロケットの亜種として分類される。名称のためにH-IIとの類似点がN-IIよりも多いと勘違いされることが多いが、N-IIと共通の第1段を用いている等、技術的な類似点はN-IIの方が多い。
第2段用に液体酸素と液体水素を推進剤とするLE-5型エンジンを自主技術で開発できたことは、次世代のH-IIロケットの第1段用LE-7型エンジンの実現に道筋をつけた点で意義が大きい。LE-7の実用化にはそれにもかかわらず大変な努力を要したわけであるが、LE-5の経験が無ければさらに難易度が高くなったといえる。
1981年(昭和56年)に開発が開始され、1986年(昭和61年)8月13日にH-I試験機(第1号機)の打ち上げに成功、1992年(平成4年)まで合計9機を打ち上げ、すべて成功した。これにより「さくら」「ひまわり」「ゆり」など実用静止衛星の打上げを順調にこなし、さらに複数衛星の同時打上げの技術習得も行った。
関係機関の一部ではH-IAとも呼称されていたこともあり、後継として静止軌道に800kgの打上げ能力をもつH-IBロケット(後述)を開発する予定であった。しかし、2t級静止衛星の需要増加や国内技術の進歩のために計画を発展的に解消し、H-IIロケットの開発へと移行することになった。

Nロケットの打ち上げ能力不足を背景として1975年(昭和50年)から以下のような基本的な枠組みの元に調査研究が開始された。
昭和60年代初頭から10年以上主力機として使用することが可能であること。
静止軌道上に500から800kgの人工衛星を打ち上げることが可能であること。
昭和60年代後半の宇宙輸送系の技術基盤を蓄積できるものであること。
原則として自主技術を用いること。
この研究において上段の構成要素はほぼ決定されていたが、第1段をどういったものにするかが争点となった。第1段を新規開発するのであれば開発計画に間に合わず、N-IIの流用とすると新規開発要素が少ないために開発計画には間に合うが打ち上げ能力が計画値の下限にとなる等、それぞれ問題があった。最終的にはN-IIの第1段を流用した500kg級のロケットH-IA(後のH-Iに該当)をまず開発し、その後800kgまで能力を増強したH-IBを開発するという計画に落ち着いた(後にH-IBは計画中止)



主要諸元一覧
諸元\各段 第1段 補助ロケット 第2段 第3段 フェアリング

長さ(m)     22.44  7.25    10.32 2.34 7.91
全長(m)     40.3
外径(m)   2.44  0.79    2.49 1.34 2.44
各段全備重量(t) 85.8
     (段間部含む)40.3(9本) 10.6 2.2 0.6
全段重量(t) 139.9
      (衛星除く)
エンジン 名称 MB-3-3  キャスターII  LE-5     UM-129A
型式       液体ロケット 固体ロケット 液体ロケット 固体ロケット
推進薬種類
(酸化剤/燃料) LOX/RJ-1 HTPB   LOX/LH2   HTPB
推進薬重量(t)  81.4    33.6(9本)   8.8       1.8
比推力(s)  249 (海面上) 238(海面上) 442(真空中) 288(真空中)
平均推力(tf) 78.0(海面上) 22.5(海面上) 10.5(真空中) 7.9(真空中)
燃焼時間(s) 273 38 364 66
推進薬供給方式 ターボポンプ N/A ターボポンプ N/A
制御システム
ピッチヨー ジンバル N/A ジンバル(推力飛行中)
                  ガスジェット(慣性飛行中) スピン安定 N/A

3段式の液体+固体ロケット
第1段: MB-3-3型エンジン
推進剤にケロシンと液体酸素を使用した、N-IIとほぼ同じライセンス生産品。7号機以降はデルタIIと同様にタンクの塗装が省かれ、緑色の防錆塗料が露出している。
第1段補助ブースタ(SOB): キャスターII
N-IIロケット同様に日産自動車(後のIHIエアロスペース)がライセンス生産したもの。9基もしくは6基を搭載。
第2段: LE-5型液体ロケットエンジン
NASDAと三菱重工業、石川島播磨重工業、航空宇宙技術研究所が開発したもので、推進剤は液体酸素・液体水素を搭載し、軌道上再着火が可能。
第3段: UM-129A
日産自動車が製造する国産球形固体ロケットモータ。HTPB系コンポジット推進薬を使用する。GTO投入時に用いられ、LEOへの打ち上げでは用いられない。
ペイロードフェアリング
N-IIと同型のマクドネル・ダグラス製のデルタ用CFRPフェアリングを完成品で輸入。
誘導装置: 慣性誘導装置
国産化したステーブル・プラットフォーム方式のものを第2段に搭載。

運用国 日本
開発者 NASDA
三菱重工
マクドネル・ダグラス
運用機関 NASDA
使用期間 1986年 - 1992年
射場 種子島宇宙センター大崎射点
打ち上げ数 9回(成功9回)
開発費用 約1600億円[1]
打ち上げ費用 150億円
原型 N-IIロケット
公式ページ JAXA - H-Iロケット
物理的特徴
段数 2段または3段
ブースター 6基または9基
総質量 139.9 トン
全長 40.3 m
直径 2.44 m(第1段コア)
軌道投入能力
低軌道 2,200 kg
300km / 30度 (2段式)
静止移行軌道 1,100 kg
静止軌道 550 kg
(燃焼後アポジモータ質量含)
地球重力圏脱出軌道 770 kg

広島港停留場 広島電鉄宇品線

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広島港停留場(通称:広島港電停)は、広島市南区宇品海岸一丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場で同線の終点である。
開業から2001年までの電停名は宇品停留場(うじなていりゅうじょう)であり、現在も「広島港(宇品)」の名称で案内されるケースがある。

広島電鉄公式サイトでは、路線一覧では電停名を単に「広島港」としているが、電停ガイドでは「広島港(宇品)」としている。また、現地の電停名表記や電車の行き先表記も「広島港(宇品)」で案内されている。

広島の海の玄関としての、旅客・貨物両方においての広大なターミナルが広がる。西側には広大な工場地帯が形成されていが、JR駅に隣接する他のターミナルに比べると利用客は少なく、閑散としています。

2面3線の頭端式ホームとなっており、どのホームも2編成以上の電車が停車できるようホームが長く取られている。列車が発車する際には、各ホームずつ異なる発車メロディーが流れ、その後発車ベルが鳴る。Bホームに単車が入線する場合は進行方向右側、後方の乗降口からの下車となり、運転士による集札が困難な為、可搬式運賃箱で集札が行われる。
2003年(平成15年)3月29日の電停移設・延長の際に、延長区間の一部でインファンド工法による軌道が敷設された。ホーム東側には、バリアフリー対応のスロープで連絡した構内踏切が設置されています。


A 5号線 比治山下経由広島駅ゆき
B・C 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 西広島ゆき(朝ラッシュ時のみ)
通常5号線はAホームから発車するが、一部Cホームから発車する場合がある。
巨大な上屋があり他の電車停留所に見られない造りになっています。

1951年(昭和26年)4月1日 - 宇品停留場として開業。
1967年(昭和42年)10月1日 - 宇品停留場(2代目)移転。
2001年(平成13年)11月1日 - 広島港停留場に改称。
2003年(平成15年)3月29日 - 現在の場所である広島港宇品旅客ターミナル前に移転。
2009年(平成21年)10月 - ダイヤ改定により、当電停から宮島口までの直通運転がなくなる(西広島止めに変更)。
2013年(平成25年)11月 - ダイヤ改定により、宮島線から当電停までの直通電車がなくなる(広電前止めに変更)。

駅番号 U18
所属事業者 広島電鉄
所属路線 宇品線
キロ程 5.9km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
開業年月日 1951年(昭和26年)4月1日
備考 2001年に「宇品」停留所から改称

フェリーはやとも2

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フェリーはやとも2は、石崎汽船グループの松山・小倉フェリーが運航しているフェリー。

はやとも丸の代船として新来島どっく大西工場で建造され、1987年9月23日に就航した。
2009年11月1日、関西汽船の営業譲渡により、フェリーさんふらわあによる運航となる。
2013年4月1日、フェリーさんふらわあの松山 - 小倉航路撤退により、石崎汽船の完全子会社として設立された松山・小倉フェリーへ航路とともに継承される。

航路:松山観光港 - 小倉港(浅野岸壁)
フェリーはやとも2と本船で1日1往復を運航する。通常は夜行便のみだが、ドック期間中は片道を昼行便として1隻で往復する臨時ダイヤとなる。2003年まで小倉港は砂津岸壁を発着していた。

フェリーくるしまの同型船である。現在も関西汽船時代の緑色の船体塗装を維持している。
船体は4層構造で船橋楼甲板、客室甲板、2層の車両甲板を有し、上部からA - D甲板と呼称されている。A甲板は操舵室、乗組員区画および旅客区画、B甲板が旅客区画、D・C甲板が車両甲板となっている。船首および船尾にランプウェイを装備しており、車両甲板間は船内スロープで連絡されている。現在も関西汽船時代の緑色の船体塗装を維持している。


船室タイプの一覧
クラス 部屋数 定員 設備
特等A 2名 バス・トイレ・洗面台・テレビ・冷蔵庫付
特等B 4名 2段ベッド、洗面台・テレビ付
一等 6名 2段ベッド、洗面台・テレビ付
2等寝台D8名 2段ベッド
2等

設備:パブリックスペース/エントランス/案内所
供食・物販設備:軽食堂/売店/自動販売機
入浴設備:大浴場
娯楽設備:ゲームコーナー

2007年2月20日、4時50分、小倉港から松山観光港へ向かっていた本船は、松山観光港へ着岸する際、 左舷船尾が第1岸壁北端に10度の角度で衝突した。 衝突により、本船は左舷船尾部の外板に亀裂を伴う凹損を生じ、第1岸壁北端の防衝板に擦過傷などを生じた。事故原因は船位の確認が不十分で、第1岸壁に著しく接近したためとされた。

所有者 関西汽船
フェリーさんふらわあ
松山・小倉フェリー
運用者 関西汽船
フェリーさんふらわあ
松山・小倉フェリー
建造所 新来島どっく大西工場
姉妹船 フェリーくるしま
航行区域 限定沿海
船級 JG
信号符字 JI3311
IMO番号 8700448
MMSI番号 431300791
経歴
起工 1986年6月
進水 1987年
竣工 1987年
就航 1987年9月23日
現況 就航中
要目
総トン数 4,238 トン
全長 119.0 m
幅 21.0 m
機関方式 ディーゼル
主機関 神戸発動機2基
推進器 可変ピッチプロペラ 2軸
出力 11,200馬力
最大速力 21.5ノット
航海速力 18.0ノット
旅客定員 756名
車両搭載数 トラック73台、乗用車41台

赤嶺駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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赤嶺駅(あかみねえき)は、沖縄県那覇市赤嶺二丁目にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は2。


自衛隊基地を避けるて利用客を確保するため、最短距離の北周りではなく、南を回りで四角形の三辺を通るようなルートをとっています。その為、北緯26度11分36秒にあり、日本最南端の駅となっている。

島式ホーム1面2線を有する。エスカレーター・エレベーターの設備がある。

のりば
赤嶺駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 小禄・県庁前・牧志・おもろまち・首里方面


2 那覇空港行
那覇空港方面は大きく右にカーブしている。

駅設備
コインロッカー - 改札内に設置。
小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)25個


公衆電話 - 改札外に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札外に1台、改札内に2台(内1台は車椅子対応)、ホームに2台設置。
トイレ - 改札内に設置。

駅北側は赤嶺県営住宅、南側は大型マンションが立つ。

駅南側交通広場
タクシー乗り場
駐輪場(無料)
「日本最南端の駅」石碑

駅到着時の車内チャイムは、沖縄の童謡「花の風車(はなぬかじまやー)」を編曲したものが流れる。


ホーム西端からは、那覇空港滑走路南端付近が遠望できる。ただし、写真撮影には不適である。
改札付近での沖縄方言による案内放送では「あかんみ」と発音される。

2003年(平成15年)8月10日 - 開業。九州旅客鉄道(JR九州)指宿枕崎線西大山駅に代わり、日本最南端の駅となる。
2004年(平成16年)7月28日 - 「日本最南端の駅」の記念碑が設置される。

駅番号 2
所属事業者 Okinawa City Monorail Logo.png 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線(ゆいレール)
キロ程 1.95km(那覇空港起点)


駅構造 高架駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 1,958人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日
備考 日本最南端駅

伊予鉄道モハ50形電車

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伊予鉄道モハ50形電車は、伊予鉄道に在籍する軌道線用電車です。

1951年から1965年にかけてナニワ工機(現アルナ車両)と帝國車輛工業で製造された。モハ2100形増備により代替廃車が進行しているが、依然として軌道線用車両の主力である。
自社発注車は、製造年によって2つのタイプに分けることができる。他社から譲り受け、本形式に編入した車両もあったが、現在では他社譲受車は全廃された。
ワンマン化は、アルナ工機と自社古町工場で1970年から1972年にかけて行われた。また、冷房化改造は自社古町工場で1981年から1984年にかけて行われた。
自社発注車・前期形(51 - 61)
すべてナニワ工機の製造で半鋼製車体で深い屋根の重厚な外観を持ち古い工法で製造されている。これは新造計画の時、車輛製造メーカーで引き受け手が無く運輸省の紹介でナニワ工機で新造されることになり、ちょうどナニワ工機で製造されていた京都市電800形866-880号の車体を伊予鉄仕様に設計変更して51-55が造られ、56以降は同じくナニワ工機で造られていた広島電鉄500形電車と同じ前中扉仕様で造られた。 製造当初は直接制御方式(KR-8)だったが、1979年に京都市電から廃車となった2600形の制御器を購入し、間接非自動制御に改造された。また電動機も50kWのものに取り替えられた。

51 - 53
1951年製。伊予鉄道軌道線初のボギー車。
集電装置は製造当初ポールだったが、1953年にビューゲル、1966年に現行のZパンタに変更された。客用扉は製造当初は前後端に配置されていたが、1969年に前中扉に改められた。51号は刑事ドラマ「あぶない刑事」TV一作目第13話「追跡」で柴田恭兵扮する大下刑事が犯人が乗った電車を追いかけて飛び乗るシーンのロケ撮影で使用されている[7]。51,52,54号は冷房装置が三菱CU77からCU77CTに交換されている。
54 - 55
1953年製。51 - 53と同型だが、製造当初からビューゲルが搭載されていた。51 - 53と同様に集電装置のZパンタ化、客用扉位置の変更が実施されている。
56 - 58
1954年製。製造当初から前中扉で、客用窓は上段をHゴム支持固定窓、下段を上昇窓としたいわゆる「バス窓」となった。51 - 55と同様、集電装置のZパンタ化が実施されている。
56は2100形増備に伴い2005年度に廃車となり、57・58のみ現存する。
59 - 61
1957年製。台車は当時最新のコロ軸受け付き防音防振台車のFS78を採用した。また、前面窓は中央の窓が左右の窓に比べてやや横幅の広い窓となっている。他の50系と比べると数字が一回り太い。また60だけ数字が銀色になっている。

自社発注車・後期形(62 - 78)
62 - 69はナニワ工機(現・アルナ車両)で、70 - 78は帝國車輛で製造された。前面窓が鉄道線用の600系と同じデザインに変更され、屋根の浅い軽快なスタイルで、軽量構造を採用している。製造当初からすべて間接非自動制御方式で、Zパンタ、50kW電動機を装備した。
62 - 64
1960年(昭和35年)に3両が製造された。当時のバス車体で主流となっていたモノコック構造を取り入れた軽量車体で、側面にリベットと補強用のリブがある。自重は12.96 tとなっている(51 - 61は15.88 t)。また、このグループのみ前扉が2枚引き戸である。
2100形増備により62を最後として2005年(平成17年)3月までに3両とも廃車。これにより、2枚引き戸車は全廃された。
65 - 69
1962年に5両が製造された。車体の構造は62 - 64と変わらないが、前扉が1枚引き戸になった。
65は2100形増備により2003年度に廃車。66 - 69が現存する。
なお69号は、2015年に新塗装化されている。


70 - 78
1964年に70 - 73の4両が、1965年に74 - 78の5両が製造された。車体の形態は65 - 68と変わらないが、工法が従来の工法へ戻ったためリベット・リブがなくなり、車体重量も62 - 69より1トン増加し13.96tとなった。
製造当初は帝國車輛製コイルバネ台車TB-57を履いていたが、保守に手が掛かることから、1974年に名古屋市電1550系廃車発生品の住友金属工業製のKS-40J台車を購入し、交換された。78号は冷房装置が三菱CU77からCU77CTに交換されている。

主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流600V
最高運転速度 40 km/h
車両定員 80人(座席26人)
車両重量 15.88t
全長 11,950 mm
全幅 2,430 mm
全高 4170 mm


台車 新扶桑金属KS-40J(51-53)
住友金属KS-40J(54-58・70-78)
FS-78(59-61)
ナニワ工機 NK-21A(62-69)
NK-12(1001-1003)
主電動機 三菱電機 MB-336LR2
MB-336LR4(51-61)
主電動機出力 50kW×2


駆動方式 釣掛式
制御装置 間接手動加速抵抗制御
(電磁空気単位スイッチ式)
三菱電機HL-72-6DA(62-78)
HL-72-6D(改)(1001-1003)
日本車輛製造NC-579+NCH-452-RUD(改)(51-61)
制動装置 SM-3形直通空気ブレーキ

 

伴中央駅 広島高速交通

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伴中央駅(ともちゅうおうえき)は、広島県広島市安佐南区伴中央にある広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)の駅である。

駅の利用客数は沿線では最下位で駅の周囲は田園が広がっています。

 

島式1面2線のホームを持つ高架駅。

切符売場には券売機は2台。改札口に改札機が2台されています。

ステーションカラーは緑色。


のりば
1 下り 広域公園前方面


2 上り 本通方面

改札口、切符売り場のフロアと地上はのぼり専用のエスカレーター、階段、エレベーターを利用します。

1994年(平成6年)8月20日 - 開業。


1999年(平成11年)3月20日 - ダイヤ改正で急行列車が新設されたが、当駅は通過駅となる。


2004年(平成16年)3月20日 - ダイヤ改正で急行列車が廃止され、5年ぶりに全ての列車が停車するようになる。


2009年(平成21年)8月8日 - PASPY導入。

駅構造 高架駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 637人/日(降車客含まず)
-2007年-
乗降人員
-統計年度- 1,232人/日
-2007年-
開業年月日 1994年(平成6年)8月20日

沖縄そば 沖縄ソーキそば

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沖縄そばとは中華麺と同じ製法の麺を使用した日本の麺料理であり、沖縄県の郷土料理ともなっている。

沖縄県内では単に「そば」、あるいは方言で「すば」「うちなーすば」とも呼ばれる。農山漁村の郷土料理百選に選ばれている。
そばと呼ぶが蕎麦粉は一切使われず小麦粉のみで作られ、麺はかんすい(かん水)または伝統的に薪(ガジュマルも使用される)を燃やして作った灰汁を加えて打たれる。製法的には中華麺と同一であり、公正競争規約の上でも「中華めん」に分類されている。麺は一般に太めで、和風のだしを用いることもあって、その味や食感はラーメンよりむしろ肉うどんなどに類似する。
発祥については諸説あるが、庶民の食べ物としての「そば」が紹介されたのは明治後期のことで、県民食として大々的に普及して現在のような形態となったのは戦後、県外にもその存在が知られるようになったのは沖縄復帰以降のことである。
沖縄において「すば」「そば」は通常は沖縄そばを指し、蕎麦は「日本そば」「ヤマトのそば」「黒いおそば」などと呼んで区別される。返還直後には名称に関する議論もあったが、現在では「沖縄そば」という呼び名が全国的にも定着している。沖縄で小麦粉を原料とした麺料理が広く知られるようになったのは明治後期以降のことであり、本土出身者が連れてきた中国人コックが那覇の辻遊廓近くに開いた支那そば屋が、今日の沖縄そばの直接のルーツであると考えられている。したがって本土のラーメンと沖縄そばは、先祖を同じくする兄弟のような関係にあると言える。
街中にそば屋が増え、一般庶民が気軽に食べられるようになったのは大正に入ってからのことであるが、当初は豚のだし(清湯スープ)をベースにした醤油味のスープで、具材も豚肉とネギのみと、日本本土の支那そばと変わらないものであったようである。その後沖縄県民の味覚に合わせた改良が重ねられた結果、スープは現在のような薄めの色となり、今日にまで繋がる三枚肉、沖縄かまぼこ、小ねぎを具材とし、薬味として紅しょうがやコーレーグス(島唐辛子の泡盛漬け)を用いるという沖縄そば独自のスタイルが形成されていった。支那そばと並んで「琉球そば」という呼称が用いられるようになったのもこの頃のことである。

また現在は一般的な中華麺と同様に、麺には小麦粉と塩水、そしてかんすい(鹹水)が用いられるが、当時はかんすいが入手しづらく高価でもあったため、灰汁(はいじる)と呼ばれるガジュマルなどの亜熱帯の樹木灰を水に溶かした上澄み液が代用として利用されることが多かった。このような伝統的な製法の麺は、今日では特に木灰そば(もっかいそば)と呼ばれている。灰汁は琉球染めにも利用される身近なアルカリとして一般に用いられてきた経緯がある。
こうした老舗の店も、戦時中の食糧不足と沖縄戦によってすべて消滅したが、米軍占領下で小麦粉が豊富に出回るようになってからは次々と復活し、また戦争で寡婦となった女性たちが新しい店を立ち上げるなどして、戦後沖縄を代表する軽食として急速に普及していくこととなる。店の数が増えるにともなって、それぞれの店がさまざまな具材や、鰹や昆布を用いた和風の出汁を用いるなど競い合って工夫を凝らし、県民食として発展していった。またその一方で、ガスの普及に伴って麺打ちに使われる木灰の供給が減少したこともあって、かんすいを使用した大量生産の麺が一般的となり現在に至っている。
近年まで戦後の日本本土のラーメン文化の影響を受けることのなかった沖縄県では、復帰前の1970年頃にはすでに大衆食としての「すば」が定着し、上記の代表的なスタイルや、後に誕生する大ぶりのソーキを具にしたソーキそばは沖縄料理の定番となった。こうして生まれた沖縄そばは、沖縄本島に定着する過程と同時、あるいは相前後しながら、宮古諸島や八重山諸島、その他の島々へも広がるに至っている。


ソーキとは、沖縄で一般的に豚の骨付きあばら肉(スペアリブ)のことをさす。
「ソーキ」とは梳(すき)の訛りで、豚の肋骨が櫛に似た形状であるため、あばら肉もソーキと呼び習わすようになった。骨付きであるため「ソーキ骨(ブニ)」とも呼ばれ、昆布や大根・冬瓜などと煮込んだ汁物「ソーキ汁」にしたり、昆布、大根、豆腐などと共に「煮付け」として食される。 また、沖縄そばの具材としても用いられ、ソーキがのった沖縄そばを「ソーキそば」と呼ぶ。
他にも、柔らかく煮込んで下処理したものを焼いた網焼きソーキや、アメリカ文化の影響によるバーベキュー、中華風の炒め物など、様々な料理に利用されている。
伝統的な調理法としては、豚あばら肉を水からゆっくり長時間ゆで、煮汁を捨てて肉を洗い、再度新たに醤油、泡盛、黒糖、昆布、鰹だしなどを調合した煮汁で長時間煮込み、味を浸み込ませる。近年では圧力鍋が使用されることも一般的である。
「ソーキそば」に用いる豚あばら肉は、軟骨を含む肉(軟骨ソーキ)を使う場合が多いが、本来は固い骨を含む肉(本ソーキ、いわゆるスペアリブ)を用いる。本ソーキのことをAソーキ、軟骨ソーキをBソーキと呼ぶこともある。本ソーキの骨は食べられないが、長時間煮込まれた軟骨は柔らかく、肉と一緒に食べることができる。本ソーキを用いたソーキそばには、骨入れにするための空の椀が添えられていることが多い。


神田駅  JR東日本)東北本線

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神田駅は、東京都千代田区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
所在地は、JR東日本が鍛冶町二丁目、東京メトロが神田須田町一丁目である。

中小のビルが立ち並ぶオフィス街だが、周辺に金券ショップや居酒屋が多いことで知られている。なお、神田古書店街は当駅ではなく神保町駅が最寄りである。
銀座線の浅草寄り出口は中央通り・靖国通りが交わる須田町交差点に面し、秋葉原電気街の南端に近い。かつては万世橋駅(跡地は交通博物館〈2006年閉館〉に転用)や都電須田町電停への乗り換えが可能だった。当時は交通の結節点として賑わいがあった。
西口側には神田駅西口商店街があり、昔ながらの商店街が現在も残っている。そのため、都心としては珍しく物価が安い。周辺も含めて中通には一軒家も散見され、かつては下町の住宅地だったことがわかる。また、サラリーマンの街として知名度が高く、コストパフォーマンスの高い居酒屋の集積は例を見ない程で、新橋周辺と同様に各地より飲みに来る客も多い。


錦糸町や上野といったかつてからの歓楽街で、暴力団の力が強い地域を避けて当駅周辺に出店する店もある。
夜になると、多い日にはかつて30人近くの外国人売春婦が客引きを行っていたが、地元住民によるパトロールの効果で最近は減少して来ている。また、周辺に出店していた消費者金融の店舗は撤退し、安心して歩ける街となって来た(ただし、消費者金融の自動契約機は周辺に設置されている)。
また、周辺には戦時中に焼け残った大正 - 昭和初期に建てられた一軒家などもかなり存在している。
西口周辺には、東京都内で最初に建設された下水道(神田下水)の一部が現在も機能している。

JR東日本の各線と、東京メトロの銀座線が乗り入れ、接続駅となっている。銀座線の駅には「G 13」の駅番号が付与されている。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線と東北本線の2路線である(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照)。そのうち中央本線は当駅の所属線となっており、かつ当駅を起点としているが、旅客案内上は「中央線」と呼ばれ、当駅より東北本線上の中央線専用線路を介して東京駅まで乗り入れている。当駅には中央線電車のほか、東北本線電車線を走行する京浜東北線電車と山手線電車が停車するが、「東北(本)線」の名称は旅客案内では使用されていない。当駅は特定都区市内における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。

島式ホーム3面6線を有する高架駅で、京浜東北線南行の線路の東側に東北新幹線が、上層に東北縦貫線(上野東京ライン)が並行する。エスカレーターはホームと北改札との間を連絡するが、ホームと南改札との間には設置されていない。3・4番線に通じるエスカレーターは1階コンコースからそのままホームへと通じている。エレベーターは未設置である。
改札口は南北に2か所。北改札(秋葉原・御茶ノ水寄り)から東口と北口が、南改札(東京寄り)から西口と南口が利用できる。銀座線への乗り換えは北改札の北口側からとなる。
びゅうプラザ、指定席券売機が設置されており、東口にはVIEW ALTTEが存在する。みどりの窓口は、北口の営業が2013年2月23日をもって終了し、以降は南口のみの営業。
東北縦貫線工事に合わせ、ホームと改札を連絡するエスカレーターの大幅増設とエレベーターの新設工事、および南口コンコースと出入口を連絡するエレベーターの新設工事が行われた。

のりば
JR神田駅プラットホーム
番線 路線 方向 行先
1 ■京浜東北線 南行 東京・品川・横浜方面
2 ■山手線 外回り 東京・品川・目黒・渋谷方面
3 内回り 上野・田端・巣鴨・池袋方面
4 ■京浜東北線 北行 上野・赤羽・大宮方面
5 ■中央線 上り 東京行
6 下り 御茶ノ水・新宿・高尾方面

神田駅に発着する中央線電車(橙色帯の電車)は早朝と深夜を除きすべて快速または特別快速・通勤快速となる。この時間帯で中央線水道橋・千駄ヶ谷・大久保方面へ向かう旅客は、御茶ノ水・四ツ谷・新宿のいずれかの駅で中央線各駅停車(黄色帯の電車)に乗り換えることになる。水道橋方面については接近放送でも案内されている。 
中央線などで運用されているE233系車内のLCD案内では京浜東北線の表示がされているものの、自動放送による乗換案内はされていない。
JR中央線は、2020年度を目途に快速電車へ2階建グリーン車を2両連結させ12両編成運転を行なう。そのため快速電車が発着する5・6番線は、今後12両編成の列車が停車できるようにホームを延長する工事などが実施される。

1919年(大正8年)3月1日 - 鉄道院中央本線の駅として開業。
1925年(大正14年)11月1日 - 東北本線の駅が開業。乗り換え駅となる。
1931年(昭和6年)11月21日 - 東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)の駅が開業。
1941年(昭和16年)9月1日 - 東京地下鉄道が路線を帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に譲渡。
1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道が発足。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、中央本線、東北本線(京浜東北線、山手線)はJR東日本の管轄となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線が通過するようになる。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本でICカードSuica供用開始。
2004年(平成16年)4月1日 - 営団地下鉄民営化。銀座線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)が継承。
2007年(平成19年)3月18日 - 東京メトロでICカードPASMO供用開始。
2015年(平成27年)3月14日 - 京浜東北線の快速が停車するようになる。
2015年 (平成27年)6月20日 - 銀座線に発車メロディを導入。曲は「お祭りマンボ」

電報略号 カタ
駅構造 高架駅
ホーム 3面6線
乗車人員
-統計年度- 97,251人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1919年(大正8年)3月1日
乗入路線 3 路線
所属路線 ■中央線*
■山手線
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅
* 正式な路線名称
- 東京方は東北本線
- 御茶ノ水方は中央本線
** 営業運転上は東京駅が起点

曳船(タグボート) 因幡 株式会社日本海ポートサービス

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曳船(タグボート) 因幡は大型船の入出港時、接離岸を安全に行うため、押し曳きのタグ作業。狭水道で風、潮流や他船との衝突予防など、海難防止のためのエスコート業務を行っています。
タグボート(Tugboat)は、船舶や水上構造物を押したり引いたりするための船。
引船、曳船(ひきぶね・ひきふね、曳船はえいせんとも)、あるいは押船(おしぶね)と言う。

サイズはさまざまであり、港湾で船舶が岸壁・桟橋に着岸・離岸するのを補助したり、河川や運河で艀(はしけ)などを動かしたりするために使われる数十トン級の小型のものから、外洋で海難救助などの作業に従事したり、大型プラントを海上輸送するために使われる数千トン級の大型のもの(オーシャンタグ)まで幅広い。
自身の船体を輸送対象に直に接触させて押すこともあるため、船体の外周には防舷物として古タイヤや樹脂などの緩衝材(フェンダー)が設けられている。
作業性を求めて作業デッキは低い位置に設けられている船が多く、一般的に荒天にはあまり強くないといわれる。


動力は自身の船体を動かすだけでなく、自身よりはるかに大きく重い他船や構造物をも動かす必要があるため、自身の船体サイズには不相応な強力なエンジンを搭載している(たとえば、2000トン級では10000馬力程度のエンジンを搭載していることが普通である)。ただし、エンジンやスクリューは速度よりもトルクを重視した低速型のセッティングになっており、馬力の割に速度は出ない。
港湾内などで使われるタグボートの場合、小さな船体に機動性が求められるため、スクリューには特殊な構造が用いられ、舵の機能を持たせたものが多い。
アジマススラスター
プロペラが水平方向に360度回転する。アヒルが水中で脚を動かす状態を連想するためダックペラともいわれる。代表的なものとしては新潟鐵工所製ゼットペラ (Z-peller)、IHI製ダックペラ (Duckpeller) がある。
フォイトシュナイダープロペラ (Voith-Schneider Propeller, VSP)
円周上に配置された複数の羽を水平方向に回転させて推進力を得る方式。

対象物をある程度長い距離移動させる場合は、タグラインと呼ばれるロープやワイヤーを掛けて牽引・曳航する。大型船舶の接岸を補助する場合などで進行方向に十分な作業スペースを取れない場合や、比較的細かい位置の調整を行う場合などは、防舷物(古い航空機用タイヤなど)を介して自身を対象に直に接触させて押す。
通常は1隻で作業を行うが、対象のサイズや周囲の状況によっては複数のタグボートを使用して、互いに連携しながら作業を行う。


建造年 : 1984年
総トン数 : 146トン
呼出符号 : JJ3368
IMO No. : 8403662
所属会社:株式会社日本海ポートサービス(日本通運グループ)
所在地:〒684-0003 鳥取県境港市浜ノ町63番地1
TEL/0859-42-3777 FAX/0859-42-4117
従業員数:事務職 2名  作業職 8名(H26.5.19現在)
設備: 曳船3隻(伯耆、因幡、みすみ)
事業内容:曳船業務、船舶機械器具、部品および船用品販売業務、船舶修理並びに保船管理業務、
自動車及び荷役用機械器具・部品・資材の販売業務、
産地直送食料品の販売、生鮮食料品・加工食料品・冷凍食料品の販売、
事務用品及び什器の販売業務、前各号に付帯関連する事業

 

上安駅 広島高速交通

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上安駅(かみやすえき)は、広島県広島市安佐南区上安二丁目にある広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)の駅である。副駅名は上安(動物公園口)。駅に併設されるバスターミナルからは周辺団地へのバス路線が運行されています。

駅周辺には上安バスターミナルをはじめ広島市立まんが図書館あさ閲覧室、橋桁落下事故慰霊碑、フタバ図書GIGA上安店、広島市立安小学校、広島上安郵便局、広島銀行安支店、広島信用金庫安支店、広島市信用組合安支店、広島市安佐動物公園(バスへ乗り換え)などがあります。

島式ホーム1面2線を有する高架駅。ホームから1フロアー降りたところに券売機・改札がある。

切符売場には券売機は2台。

改札口には改札機は2台設置されています。

ステーションカラーは紫色。

のりば
1 下り 広域公園前方面
2 上り 本通方面

バスターミナルの屋上から駅がよくみえます。

バスターミナルとアストラムラインの連携は余り上手くいって内容です。

駅の改札フロアとホームは階段とのぼり専用エスカレーター、エレベーターで結ばれ駅へは加えてバスターミナルからもアプローチできます。

 

1991年(平成3年)3月14日 - 建設中の同駅付近で橋桁が落下し、15人が死亡・8人が負傷する大惨事が発生(広島新交通システム橋桁落下事故)。


1994年(平成6年)8月20日 - 開業。


1999年(平成11年)3月20日 - ダイヤ改正で新設された急行列車の停車駅となる。


2004年(平成16年)3月20日 - ダイヤ改正で急行列車が廃止。


2009年(平成21年)8月8日 - PASPY導入。

駅構造 高架駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 2,221人/日(降車客含まず)
-2007年-
乗降人員
-統計年度- 4,582人/日
-2007年-
開業年月日 1994年(平成6年)8月20日

京都駅

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京都駅は、京都府京都市下京区にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅である。

日本有数の観光都市である京都市の玄関となる駅であり、東海道新幹線の全列車が停車するほか、JRには北陸・山陰・関西空港・南紀方面、近鉄には奈良・橿原神宮・伊勢志摩など、各地を結ぶ特急列車が発着する。JRについては在来線特急の発着種類が日本一多い駅である(後述)。観光客はもちろん、京都市内あるいは各線乗換利用の通勤通学客も多く、1日平均の乗降人員が各社合計で67万人を超える日本でも有数のターミナル駅である。第1回近畿の駅百選に選定された。

乗り入れ路線は合計4社局が乗り入れている。
JR西日本 : 在来線各線 - アーバンネットワークエリアに属し、合計5方面の列車が発着する。東海道本線と山陰本線には同社による独自の路線愛称が付けられている。
東海道本線 - 当駅の所属線となっている。滋賀県方面は「琵琶湖線」、大阪方面は「JR京都線」の愛称で案内されている。
1駅隣の山科駅から分岐する湖西線の列車もすべて当駅へ直通している。
山陰本線 - 当駅が起点。園部駅まで「嵯峨野線」の愛称で案内されている。
奈良線 - 正式な起点は反対側の木津駅だが、列車運行上は当駅が起点となっている。


JR東海 : 東海道新幹線 - 全種別全列車が停車する。
近畿日本鉄道 : 京都線 - 当駅が起点。当駅と奈良とを結ぶ路線であり、JR西日本の奈良線と競合関係にある。駅番号として「B01」が付与されている。
京都市交通局 : 京都市営地下鉄烏丸線 - 駅番号として「K11」が付与されている。
JR西日本・JR東海の駅は特定都区市内制度における「京都市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。
当駅は、地上の駅に近鉄京都線が発着し、地下の駅に近鉄から京都市営烏丸線へ直通する列車が停車するため、地上と地下に同じ事業者・同じ路線の車両が停車する。
JR線、地下鉄線、近鉄線を区別するために、近鉄線は「近鉄京都駅」、地下鉄線は「地下鉄京都駅(烏丸線京都駅)」と呼ばれることが多い。

JR西日本の駅はICOCA、近鉄と地下鉄の駅はPiTaPaおよびスルッとKANSAI対応各種カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能な各カードにも対応している。JR東海の東海道新幹線の駅では、乗客が上記のカードのみを利用して自動改札機を利用することはできないが、新幹線の磁気乗車券や、EX-ICカードを在来線用のICOCAなどと組み合わせて使用することが可能となっている。

現在のJR在来線と東海道新幹線の駅は、かつては同じ日本国有鉄道(国鉄)の駅であったが、国鉄分割民営化後は在来線がJR西日本、新幹線がJR東海の管轄に分かれ、駅長もJR西日本とJR東海で別に配置されている。なお、JR西日本の駅は管理駅として山科駅を管轄するが、山科駅は地区駅長が配置され、一定の権限を持っている。夜間滞泊の設定もある。

ホームは、JR西日本管轄部分は「のりば」、JR東海管轄部分は「番線」と呼称する。
JR西日本在来線ホーム(0 - 10・30 - 34番のりば)
JR西日本の在来線各線は地上駅であり、東海道本線(JR京都線・琵琶湖線)・湖西線用の島式ホーム3面6線と単式ホーム1面1線、構内西側に山陰本線(嵯峨野線)用の頭端式ホーム3面4線、南側に奈良線用の頭端式ホーム2面3線(このうち1線のみ大阪方面に延びている)を持つ。各ホームは西側橋上駅舎と東側改札内地下通路で結ばれている。橋上駅舎から各ホームにはエレベーターが設置されている。
北側の烏丸中央口に面しているホームは、全長558mで日本一長いホームとして知られているが、0番のりば(旧1番のりば)のホーム自体の長さは323mであり、残りの部分は西端に切り欠きホームとして設けられている30番のりば(235m)である。この30番のりばは関西空港行きの特急「はるか」専用で、1994年9月の運転開始当初は「はるかホーム」という名称が付けられていた。なお、4代目の新駅ビル建設に際して旧1番のりばを取り壊し、現0番のりばのホーム拡幅に利用している。


以前は、運行管理上は、現0番線が2番線、現2番線が4番線、現7番線が11番線と呼ばれていたが、2002年の運行管理システムの導入の際に線路呼称を変え、運転線路名と旅客案内上ののりば名を一致させた。これに伴い、東海道本線上り通過線である1番線は、ホームとしては空番になっている。また、東海道本線の下り通過線は2002年の運行管理システムの導入の際に廃止されており、当駅を通過する吹田方面行きの貨物列車は6番または7番のりばを通過する。


西側にある山陰本線ホームは、以前は「山陰1・2番のりば」、1989年の増設後は「山陰1 - 4番のりば」と呼ばれており、機回し線(電化後に撤去)が敷設されていたが、1994年12月にホーム番号の呼び名が整理され、「はるかホーム」を含めて30 - 34番のりばと呼ぶようになった。30番台にしたのは、山陰本線の「さん」にかけたものである[12][。34番のりばは、日本一大きい数字のホーム番号である。
旧駅ビル時代は待合室が存在したが、その後長らくは、6・7番のりばにある小さな列車待ちスペース以外は、待合室は存在しなかった。2008年3月中旬、長距離列車の発着の多い0番のりばにも待合室が設置された。

JR東海新幹線ホーム(11 - 14番線)
JR西日本の各ホームの南側に、東海道新幹線用の島式ホーム2面4線を持つ高架駅である。全営業列車が停車するため通過線はない。
なお、新幹線ホーム(および新幹線車内)の乗り換え案内放送では、かつては地下鉄線はアナウンスされなかったが、2015年3月14日のダイヤ改正と同時にアナウンスされるようになった。


各ホームにはエレベーターが設置されており、11・12番線のエレベーターは1階の新幹線八条口まで繋がっている。
一部相互発着を行う列車がある。

のりば
方面表記は2015年4月現在の「JRおでかけネット」の駅構内図に即している。また、特急列車専用ホームは、当該特急の直通路線名で案内されているのでそれに合わせた。
基本的に、0 - 3番のりばが東海道本線上り(湖西線直通を含む)、4 - 7番のりばが東海道本線下り、8 - 10番のりばが奈良線、30番のりばが関空特急「はるか」、31番 - 33番のりばが山陰本線、11・12番線が東海道新幹線上り、13・14番線が同新幹線下りに用いられている。

JR西日本 在来線ホーム
のりば 路線 行先 備考
0 高山線 特急 高山方面
北陸線 特急 福井・金沢方面
中央線 特急 名古屋・長野方面
A 琵琶湖線 特急 大津・草津・米原方面
C 草津線 大津・草津・貴生川・柘植方面
B 湖西線 堅田・近江今津方面
2・3
A 琵琶湖線 大津・草津・米原方面 一部0番のりばから
4・5 A JR京都線 高槻・大阪・三ノ宮方面 一部は6・7番のりばから
6・7 W きのくに線 特急 白浜・新宮方面
智頭急行線 特急 鳥取・倉吉方面
A JR京都線 特急 新大阪・大阪方面
S 関西空港線 特急 関西空港方面 米原・草津方面からの直通列車
8 - 10 D 奈良線 宇治・奈良方面
30 S 関西空港線 特急 関西空港方面 当駅始発の列車
31 E 嵯峨野線 特急 福知山・城崎温泉・東舞鶴・天橋立方面 一部は30番のりばから
32・33 E 嵯峨野線 亀岡・園部・福知山方面 一部は31番のりばから
34 E 嵯峨野線 (京都止まり) 降車専用ホーム
JR東海 新幹線ホーム
番線 路線 行先
11・12 ■ 東海道新幹線 名古屋・東京方面
13・14 新大阪・博多方面

琵琶湖線の新快速・普通と、大阪方面から湖西線に直通する列車は基本的に2番のりばを使用するが、平日朝ラッシュ時の一部の新快速(琵琶湖線・湖西線とも)と、夕ラッシュ時に琵琶湖線経由で草津線に直通する普通列車は0番のりばからの発着となる。3番のりばは湖西線普通列車(および始発の快速)と、当駅で新快速を待避する琵琶湖線普通列車が使用する。
JR京都線方面の列車は、普通は主に4番のりば、新快速・快速(高槻駅から快速となる普通も含む)は主に5番のりばから発車する。ただし、朝ラッシュ時の新快速は6・7番のりばから発車する。


特急列車については関空特急「はるか」を除き、「サンダーバード」・「びわこエクスプレス」は0番のりば、「スーパーはくと」・「くろしお」・大阪行きの「サンダーバード」は6・7番のりばを使用する。
関空特急「はるか」は通常、行き止まりの30番のりばを使用するが、米原・草津発の列車に限り6・7番のりばを使用する。
0番のりばは、「スーパーはくと」・「くろしお」などの当駅終着列車も到着し、列車によっては「はるか」用の30番のりばに到着するものもある。
6・7番のりばは琵琶湖線・湖西線・草津線・奈良線からの当駅終着列車も到着する。その多くは京都総合運転所への回送になる。
2006年まで運行された東京発の寝台特急「出雲」は、東海道本線から山陰本線への直通が2番線以外では不可能なため、2番のりばを発着した。また、大阪方面から奈良線へ直通する臨時列車は、2・3番のりばを使用する。

在来線
JR京都線・琵琶湖線
日中時間帯は1時間あたり新快速・普通(大阪方面行きは高槻駅から快速)とも4本が発着する。土曜・休日の11・12時台は各駅停車の普通(当駅折り返し)が4本停車する。朝ラッシュ時の大阪方面は新快速・快速(当駅の次は長岡京駅に停車)・各駅停車の普通ともそれぞれ8分間隔で発車する。夕方ラッシュ時は新快速が7分半間隔、普通が8本(4本は当駅止まり)停車する。
湖西線
日中時間帯は1時間あたり4本(新快速を含む。土曜・休日は5本)発着する。朝時間帯の到着は本数が多い。夕方は4本(19時台は5本)発車する。
嵯峨野線
日中時間帯は1時間あたり快速が1本、普通が3本発着する。朝晩は福知山駅始発・終着列車の設定がある。
奈良線
日中時間帯は1時間あたりみやこ路快速が2本、普通が4本発着する。朝晩は区間快速が発着する。



発着する在来線優等列車
当駅は、山陰方面へ向かう「スーパーはくと」、関空特急「はるか」、山陰本線経由で北近畿方面へ向かう各種特急の起点となっている(ただし、「はるか」の一部は米原駅へ直通する)ほか、南紀方面の特急の一部も当駅まで乗り入れてくる。また、大阪駅発着の北陸・信州方面行きの特急も停車する。
北陸方面
特急「サンダーバード」(大阪駅 - 金沢駅・和倉温泉駅)
東海道・中央・高山線方面
特急「しなの」(大阪駅 - 長野駅。2016年3月26日のダイヤ改正前日まで)
特急「ひだ」(大阪駅 - 高山駅。大阪発着列車には富山直通はない)
特急「びわこエクスプレス」(大阪駅 - 米原駅)
山陰方面(智頭急行線経由)
特急「スーパーはくと」(京都駅 - 鳥取駅・倉吉駅)
阪和線・きのくに線方面
関空特急「はるか」(米原駅・京都駅 - 関西空港駅)
特急「くろしお」(京都駅・新大阪駅 - 白浜駅・新宮駅)
北近畿方面(山陰本線・舞鶴線・北近畿タンゴ鉄道線経由)
特急「きのさき」(京都駅 - 福知山駅・城崎温泉駅)
特急「はしだて」(京都駅 - 福知山駅 - 天橋立駅 - 豊岡駅)

特急「まいづる」(京都駅 - 東舞鶴駅)

出入口
在来線の出入口は、北側地上に「烏丸中央口」、北側地下1階に「地下中央口」、南北自由通路に通じる西側橋上駅舎上に「西口」、地下自由通路に通じる地下1階に「地下東口」、南東側地上に「八条東口」、山陰線ホームからアクセスできるビックカメラJR京都店二階に「西洞院口(にしのとういんぐち)」がある。
新幹線の出入口は、南側地上に「新幹線八条口」、南東側地上に「新幹線八条東口」、新幹線コンコース西側に「新幹線中央口」がある。在来線と新幹線は「新幹線中央乗換口」と「新幹線東乗換口」を介して乗り換えできる。
乗り換えは、烏丸口のバス利用者は「烏丸中央口」、八条口のバス利用者は「八条東口」「新幹線八条口」など、在来線⇔近鉄線は西口、在来線⇔地下鉄は地下東口、新幹線⇔近鉄線は新幹線中央口、新幹線⇔地下鉄は新幹線八条東口が至近である。
他の京都市内にある各線の駅や大都市の主要駅と比べると、烏丸中央口は駅前のターミナル(バス・タクシー)が広くゆとりがあるのが特徴である。

京都駅ビル(JR西日本)
京都駅は巨大な空洞で構成される
京都駅の駅舎のうち、JR西日本の烏丸中央口側のものを「京都駅ビル」と呼ぶ。地上16階、地下3階 (高さ60m)、敷地面積38,000m²、延床面積は238,000m²、東西の長さは470mにのぼり、鉄道駅の駅舎としては日本有数の規模である。1997年に完成し、新しい京都市の顔となりつつある。
現在の駅舎は4代目に当たる。1915年、大正天皇の御大典に併せて古典様式の2代目駅舎が渡辺節の設計により建築されたが、1950年失火により焼失、その後1952年に鉄筋コンクリート造の近代的な3代目駅舎が竣工した。しかし、駅が発展するとともに増築に次ぐ増築を重ねたため、地下街を含む商店街や連絡通路などを含めると構内の構造は複雑化し、不便なものになっていた。また駅舎本体にも老朽化に伴う種々の問題が生じて来た。そこで、抜本的対策として駅ビルの新築が計画された。これは1994年の平安遷都1200年記念事業の一環でもあった。
なお、ホーム南側(八条口側)にはJR東海の駅舎があるが、これは新幹線開通時に建設されたもので近鉄・新幹線のホーム下にあり、規模は小さく、新しい京都駅ビル建設の際も南北自由通路の設置やJR線と近鉄線の改札を完全分離化したことと、在来線の自動券売機が八条東口に集約され、JR東海の機種(地紋がJR東海の物で、左上に□に「海」の記述がありながら「西日本会社線」と表記)から烏丸口と同様のJR西日本の機種に変更されたこと以外は大きな変更はなかった。なお、駅ビル建設後も数年ほど八条東口の在来線時刻表はJR東海様式だったが、これも2015年現在はJR西日本の様式に変更されている。


京都駅ビルの設計
京都駅ビル(JR西日本)は、日本の鉄道駅舎としては異例の国際指名コンペ方式で行われ、新駅ビル設計者には原広司、安藤忠雄、池原義郎、黒川紀章、ジェームス・スターリング、ベルナール・チュミ、ペーター・ブスマンの7名の複数の建築家が指名された。設計審査の結果、先ず原広司案、安藤案、スターリング案の3案に絞り込まれ、さらなる協議を経て、原広司案が最終案として採用された。京都駅周辺は高さ120mまでの建築物が建築可能となる特例措置が設けられているが、高さ制限の緩和は古都の景観を損なうものとして反対意見も根強かったため、建物の巨大さ、高さに起因する圧迫感を回避し、いかに周辺環境との調和を図るかが作品の評価のポイントとなった。採用された原広司案は、最大高さを60mに抑えた上で、南北方向の道路に合わせて建物を分割して視線を通すなど、圧迫感を回避するような配慮が随所に見られる。
採用にいたらなかった諸案の概要は次の通り。


安藤忠雄案:線路上に巨大な屋根を架けてその上を広大な広場とし、さらにそこをまたぐようにして羅城門をイメージした逆凹字形の駅舎を建設する。
ペーター・ブスマン案:屋根部分を長大な弓形に湾曲させ、北面には京都の町屋を意識して高さ31mに揃えた軒先線を設ける。
池原義郎案:烏丸通の正面側を巨大な門形とし、そこから中央部に向かって階段状に高さを下げ、さらに西側に向かって上昇させる。
黒川紀章案:羅城門を意識した高さ120mの門型の超高層建築。圧倒的な重量感と黒色の配色の威圧感が賛否両論を呼んだ。
ジェームズ・スターリング案:空間を3分割し、西側に高さ120mの円筒形のホテルを建てる。
ベルナール・チュミ案:駅舎を南北に分割し、北側は31mのスカイラインを強調してその上に「京の七口」を意識した7本のタワーを建てる。南側は45mのスカイラインで揃える。

京都駅ビルの構造:京都駅ビルは、東側にホテルグランヴィア京都、西側に百貨店のジェイアール京都伊勢丹が位置する。その間の中央コンコースは、4000枚のガラスを使用した正面と大屋根で覆う広々とした吹き抜け(横幅147m、奥行29m、高さ50m)になっている。吹き抜けの最上部には地上45mの空中径路が通っている。
中央コンコースの巨大な吹き抜け空間は、映画『ガメラ3 邪神覚醒』ではガメラとイリスの決戦の舞台とされた。
吹き抜けから東西へは渓谷状の階段が設けられている。伊勢丹側の大階段は段数171段、高低差は11階建てビルに相当する35m、全長は70mある。大階段はコンサートや、毎年2月の「JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会」(主催:KBS京都)などイベント会場としても利用されるほか、カップルや観光客の憩いの場ともなっている。また、非常時の避難経路となることも想定されている。


京都駅ビルの延床面積238,000m2の内訳は、駅施設が約12,000m2、ホテルグランヴィア京都が約70,000m2、百貨店などの商業施設が約88,000m2、「美術館・えきKYOTO」などの文化施設が約11,000m2、駐車場が約37,000m2、行政関係施設などが約38,000m2、となっている。他都市の大規模な駅ビルの場合、面積のかなりの部分を企業向けの賃貸オフィスに割いていることが多いのに対して、京都駅ビルはそうした部分をほとんど持たない。
その後、嵯峨野線ホーム亀岡寄り側付近は京都駅NKビルが増築され、新しく改札口(西洞院口)を設けた。この改札口は、同ビルに出店した家電量販店ビックカメラ京都店の内部に取り込まれている。

建築・設計
建築設計:原広司 / アトリエファイ建築研究所
施工:京都駅ビル建設工事JV(大林・鉄建・大鉄他JV)
竣工:1997年
用途:駅舎・複合施設
構造:鉄骨造+鉄骨鉄筋コンクリート造
階数:地上16階、地下3階 (高さ60m、横幅470m、奥行80m)
敷地面積:38,000m2
建築面積:32,400m2
延床面積:238,000m2

現在の駅ビルが完成すると同時に、接近メロディが西武鉄道西武秩父駅の発車メロディとして使われていた曲と同じものに変更された。なお、導入後しばらくは発車時にもメロディが鳴動していたが、運行管理システム整備後は廃止されるとともに、次列車案内の際にJR神戸線で使われているサイン音と同様のものが使用されるようになった。
現駅舎には、2・3代目駅舎には存在しなかった駅名を示す看板(「京都」)が掲出されている。
南北自由通路を南(または南西)に八条通を跨ぐ形で延伸する計画があったが、財政難などの理由で頓挫した。

バス路線
南東北・関東・中部・中国・四国・九州方面の高速バス路線が発着している。また市内を縦横に結ぶ市内バスの起点や市内定期観光バスの出発地でもあり、多数のバスが発着している。

沿革
開業は1877年(明治10年)2月6日。 当初は、新橋駅 - 横浜駅間の鉄道に続いて2番目に開業した、神戸駅 - 当駅間鉄道の終着駅であった。
路線形状の都合や用地買収の楽な寂れた地域だったという理由から、旧来の繁華街である三条通などからは遠く離れた八条通付近に当駅が設置された。初代の駅舎の位置は現駅よりやや北側で、1914年(大正3年)に線路を付け替えて現在地に新駅が建設されるまで使用された。跡地は駅前広場の一部にあたる。
後に当駅から大津駅までの鉄道も開業するが、この時のルートは東山にトンネルを開削するだけの技術がまだなかったことから、現在のJR奈良線を稲荷駅周辺まで南下した後、現在の名神高速道路が走っている敷地を通って、大津駅へと向かうものとなった。
その後山陰本線が開通し、後に近鉄京都線となる奈良電気鉄道や、市内の路面電車(京都市電)も乗り入れるようになり、当駅周辺は急速に発展していった。
1921年(大正10年)8月1日に東海道本線のルートが新逢坂山トンネル・東山トンネルの開通によって馬場駅(現:膳所駅) - 当駅間で変更・短縮されることになった際に、利便性を上げるため五条の市街地近くに駅を移設する案と、新しい市街地の開発を図るため当地の北部を経由するルートに変えて、二条駅が現在設けられている付近に新しい京都総合駅を設けようという案もあったが、市街地付近に線路を引き込むのは予算や用地・工事の面で困難であったことと、当駅付近で線路を迂回させるのはトンネル開通に伴う距離短縮効果を失わせるということから、どちらも立ち消えになった。


東海道新幹線の計画当初は、当駅を経由せずに京都府南部を短絡させて同地に新幹線の駅を設け、速達列車の「ひかり」は同駅を通過させる案となっていたが、自治体や地元財界、地元住民などの猛反発を受けたことから、当駅に新幹線ホームを併設して全営業列車停車に落ち着いた経緯がある。また「のぞみ」が登場した1992年(平成4年)3月、東京発の一番列車「のぞみ301号」は名古屋駅と当駅を通過していた。JR東海の本社所在地である名古屋では「名古屋飛ばし」として問題となったが、京都では観光に適さない時間帯の列車であることから、ほとんど問題視されなかった。

1997年(平成9年)11月29日のダイヤ改正で、この「のぞみ301号」は廃止されている。なお、計画中の中央リニア新幹線を京都駅も経由するように地元側が誘致活動を行っているが、周辺府県および市町村の首長からも基本計画にある奈良ルート支持が多勢を占めており、非常に厳しい状況に立たされている。
同じく現在計画中の北陸新幹線は「米原」「湖西」「小浜・京都」各ルート案の経由地であり、京都駅以西は大深度地下路線とすることも検討されている。

1876年(明治9年)9月5日:大宮通仮停車場(現在の京都貨物駅付近) - 向日町駅間の官設鉄道が仮開業。

1877年(明治10年)
2月5日:明治天皇を迎えて鉄道開業式を挙行。
2月6日:京都停車場(京都駅)開業。大宮通仮停車場を廃止。
1879年(明治12年)8月18日:官設鉄道が当駅から大谷駅まで延伸。この路線はその後大津駅(後の浜大津駅)まで延伸され、さらに後には東海道本線の一部となった。
1895年(明治28年)9月5日:奈良鉄道(現在の奈良線)が当駅 - 伏見駅間を開業させて乗り入れ。
1897年(明治30年)
4月1日:奈良鉄道の京都駅を七条駅として分離。
11月16日:京都鉄道(現在の山陰本線)が大宮駅(のちに廃止)から延伸して当駅に乗り入れ。
1905年(明治38年)2月7日:奈良鉄道が関西鉄道に事業譲渡。七条駅は関西鉄道の駅となる。
1907年(明治40年)
8月1日:京都鉄道が国有化。
10月1日:関西鉄道が国有化。七条駅は国有鉄道の駅となる。
1908年(明治41年)6月1日:旧・奈良鉄道の七条駅を当駅に統合。
1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道の線路名称制定。新橋駅(のちの汐留駅) - 当駅 - 神戸駅間は東海道本線、旧・奈良鉄道の路線は奈良線、旧・京都鉄道の路線は京都線となる。
1912年(明治45年)1月31日:線路名称改定。京都線が山陰本線に編入される。
1913年(大正2年)6月21日:貨物の取扱いを新設の梅小路駅に分離。
1914年(大正3年)8月15日:2代目駅舎供用開始。1915年10月完成。


1921年(大正10年)8月1日:新逢坂山トンネル完成により、馬場駅(現・膳所駅 - 当駅)間を新線に切り替え。同時に奈良線旧線(伏見駅 - 当駅間)が廃止され、桃山駅 - 稲荷駅間に新線を建設し、東海道本線旧線(稲荷駅 - 当駅間)を奈良線に編入。
1934年(昭和9年)1月8日:駅構内で呉海兵団入営臨時列車の見送り客圧死事故(京都駅跨線橋転倒事故)。
1950年(昭和25年)11月18日:駅構内の食堂からアイロンの不始末により出火し、駅舎全焼。
1952年(昭和27年)5月27日:3代目駅舎完成。
1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線が開業。
1970年(昭和45年)10月1日:東海道本線で新快速の運転が開始され、当駅が東側の起終点となる。
1985年(昭和60年)3月14日:日中の快速が高槻駅まで各駅に停車するのに伴い、この時間帯の当駅始発・終着の普通の運行を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い、新幹線部分を東海旅客鉄道(JR東海)、在来線部分を西日本旅客鉄道(JR西日本)が継承。
1989年(平成元年)3月11日:山陰3・4番のりば(現在の32・33番のりば)増設。
1991年(平成3年)3月16日:奈良線用ホーム8・9番のりば増設。従来の8番のりばを10番のりばに呼称変更。
1994年(平成6年)
9月4日:山陰1番のりばを「はるかホーム」に、山陰2 - 4番のりばを山陰1 - 3番のりばに呼称変更。
12月3日:「はるかホーム」を30番のりばに、山陰1 - 3番のりばを31 - 33番のりばに呼称変更。
1997年(平成9年)
7月12日:4代目駅舎となる新・京都駅ビル完成。駅部分供用開始。同時に近鉄京都駅と改札を分離する。
9月1日:駅ビル開業を控えて日中の当駅始発・終着の普通の運行を復活。
9月11日:京都駅ビル全面開業。ジェイアール京都伊勢丹開業。

1998年(平成10年)11月4日:新幹線改札口に自動改札機を導入。
2002年(平成14年):1番のりばを0番のりばに呼称変更。
2003年(平成15年)11月1日:JR西日本でICカードICOCA供用開始。
2007年(平成19年)8月23日:JR京都駅NKビル開業。ビックカメラJR京都駅店が入店。店内に嵯峨野線ホームと直結する改札口の西洞院口を開設。
2008年(平成20年)2月13日:南北自由通路の西側橋上(西口改札前)に「スバコ(SUVACO)・ジェイアール京都伊勢丹」開業。
2009年(平成21年)7月20日:嵯峨野線当駅 - 丹波口駅間(京都駅構内は単線)が複線化。

電報略号 キト
駅構造 高架駅(新幹線)
地上駅(橋上駅)(在来線)
ホーム 2面4線(新幹線)
9面14線(在来線)
乗車人員
-統計年度- (JR西日本)-2014年-
193,972人/日(降車客含まず)
(JR東海)-2014年-
35,000人/日(降車客含まず)
開業年月日 1877年(明治10年)2月6日
乗入路線 5 路線
所属路線 ■東海道新幹線
キロ程 513.6km(東京起点)
◄米原 (67.7km)(39.0km) 新大阪►
所属路線 A 東海道本線(琵琶湖線・JR京都線)
(B 湖西線直通含む)
キロ程 513.6km(東京起点)
◄**山科 (5.5km)(2.5km) 西大路**►
所属路線 E 山陰本線(嵯峨野線)
キロ程 0.0km(京都起点)
(2.5km) 丹波口►
所属路線 D 奈良線
キロ程 0.0km(***京都起点)
(1.1km) 東福寺►
備考 JR西日本:直営駅(管理駅)
JR東海:駅長配置駅(管理駅)
みどりの窓口 有

千光寺山ロープウェイ 

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千光寺山ロープウェイは、広島県尾道市の千光寺山(大宝山)にある、市営の索道。

通常の営業時間は午前9:00から午後5:15まで。元旦や花見、連休、祭り等の際には運行時間が延長される。 15分毎に運行、所要時間は約3分。多客時、定員に達する毎にピストン運行する。毎年12月29日から31日までは定期点検のため運休する。

長江口から千光寺山頂を結んでいる。当初は観光客の利便性から尾道駅裏からの軌道敷設が計画されていたが、観光客を目論んだおのみち本通り商店街などの要望もあって、現在のルートに決定した。女性ガイドが毎回ゴンドラに乗り込んで肉声で案内する。
千光寺山自体が日本百景に選ばれるなど日本でも著名な絶景スポットで、ロープウェイからも同様に楽しめる。映画・絵葉書など尾道の風景映像によくこのロープウェイが登場する。山頂から麓にかけて千光寺や山頂展望台、日本さくら名所100選に選ばれた千光寺公園、艮神社、御袖天満宮、天寧寺、尾道市立美術館などが存在する。


現在のゴンドラは3代目で、愛称は初代・2代目と同じ「かもめ」と「さくら」。
1982年12月に導入された2代目は、2003年に当時の尾道市長の発案でそれまでの赤い車体から、公園の木々の緑に合わせたパステルグリーンに塗り替えられた。また、ゴンドラの前後には尾道市のシンポルマークが付けられ、車体名はアルファベット文字に書き換えられた。同年12月19日より通常運行が行われた。なお、この2代目の車両はは2011年1月30日午後5:15に運行を終了し、翌日から2月9日までは3代目車両への交換工事が行われた。


3代目の車両は大阪車輌工業製。一般からデザインが公募され、福岡県のフリーデザイナーによるものが採用された。車体はダークブラウンで「さくら」は山をイメージした緑色のドア、「かもめ」は海をイメージした青色のドアがつけられている。車体名はひらがなに戻っている。また、新しい客車は窓の面積が旧客車に比べ約3割大きくなっており、窓外の景色が撮影しやすくなっている。3代目車両は、2月10日、試運転、試乗会と撮影会の後、午前10時より通常運転が開始された。


2003年10月には、39年間無事故が続いたとして中国運輸局長表彰を受け、2007年3月26日に運行開始から50周年を迎えた。
2011年4月1日よりおのみちバスが運行を受託。おのみちバスとロープウェイのセット券「おのみちフリーパス」の販売も開始された。
2014年4月1日よりおのみちバスが指定管理者として引き続き管理・運営にあたることとなり、1月27日から3月7日まで2億2740万円をかけて開業以来使われていた原動機械装置を交換するなど大規模な改修が行われた。

全長:361m
高低差:115m
走行方式:3線交走式
定員:30人
駅数:2駅
輸送能力:720人/時
設計:東京索道

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