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坊っちゃん列車

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坊っちゃん列車とは、非電化・軽便鉄道時代の伊予鉄道に在籍した蒸気機関車 (SL) および、そのSLが牽引していた列車のこと。
夏目漱石の小説『坊つちやん』の中で、軽便鉄道時代の伊予鉄道が「マッチ箱のような汽車」として登場しており、四国・松山の中学校に赴任する主人公の坊っちゃんがこれに乗ったことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになった。
2001年より、伊予鉄道により松山市内の軌道で復元運行(ただし動力はディーゼル機関)されており、以後はこちらの方を指すことが一般的である。


初代坊っちゃん列車
1888年10月28日に伊予鉄道が松山(現在の松山市) - 三津間を762mm軌間で開業した際に、ドイツ・ミュンヘンのクラウス社製B形蒸気機関車(甲1形)2両で運行を開始した。牽引される客貨車も鉄道開業に伴う資材調達全般を請け負った刺賀商会の手配でドイツから輸入されたが、これらはあまりの小型さ故に分解されず、完成状態のまま木箱に詰めて納品されてきたという逸話が残る。
その後、路線開業で順次機関車・客貨車共に増備が進み、また1900年の南予鉄道と道後鉄道の合併もあって車両数は激増した。

1907年の時点での機関車各形式とその概要。
甲1形1 - 4
7.8t(改軌後8.5t) B型ウェルタンク機。1888年(Nos.1・2)および1891年(Nos.3・4)、クラウス社製。
甲2形5・6
1896年、クラウス社製。
甲3形7・8
9t(改軌後9.8t) B型ウェルタンク機1895年、クラウス社製。元道後鉄道1・2。
甲4形9・10
7t B型サイドタンク機。1896年、イギリス・フレッチャー・ジェニングス社(en:Fletcher, Jennings & Co.)製。元南予鉄道1・2。
甲5形11 - 14
9t(改軌後9.8t) B型ウェルタンク機。1901年(Nos.11・12)および1907年(Nos.13・14)、クラウス社製。
以上からも明らかな通り南予鉄道からの編入車である甲4形をのぞき全車クラウス社製の同系機で揃っていた。 このため、異端車である甲4形は稼働率が低かったことが伝えられており、1911年の車庫火災の際には車庫の奥に置かれていたことから車庫内からの移動も行えないまま焼失、その後も修理されずに放置されていた。
この2両の補充としては、新造車ではなく中古車の導入が図られた。同時期に近隣の別子鉱山鉄道で余剰を来していた、1形5 - 7が1912年6月に譲受されて甲6形15 - 17となったのである。これらも1894年(Nos.15・16)および1896年(No.17)、クラウス社製の甲1形同系機である。
もっともこれら3両は状態が悪かったとされ、1917年には置き換え対象であったはずの甲4形2両と共に全車除籍され、スクラップとして売却されている[2]。
また、この火災の際には客貨車も大きな被害を受けており、伊予鉄道ではハ31形を自社工場で製造するなどして焼失車の補充を行っている。
この後1931年に高浜線の改軌・電化が実施されたが、その際にも貨物列車牽引は蒸気機関車のままで残されたことなどから全線改軌となり、客貨車を含めて順次改軌工事が実施されたが、機関車についてはこの時点では増備も廃車も特に行われないまま推移した。ただしこの頃には道後鉄道編入車である甲3形の不調が目立つようになり、1940年頃にNo.8が状態不良で除籍され、残るNo.7も戦後早い時期に除籍されている。
戦後は混乱期の車両不足から、八幡製鐵所構内専用鉄道より1910年コッペル社製のNo.156を1946年に譲受し2代目甲6形15としたが、これは燃料の入手難等で郡中線が電化されたことで余剰となり、1952年に廃車されたため短期間の使用に終わった。
こうして紆余曲折を経て運行されてきた伊予鉄道の蒸気機関車群であるが、1953年にNo.6の部品流用でDB-1形DB-1を試作、さらに新造でDB-2 - 8が投入されたことでその役割を終え、1954年に運行を終了した。
このように、結果的には伊予鉄道自社プロパーの甲1・2・5形が最後まで残存し、他社編入車や中古車は早期に淘汰された状態でディーゼル化の日を迎えたことになる。
一方、客車についてはその後も2軸車2両を接合して1両としたハ500形などが非電化の横河原・森松線用として残存したが、これも1965年の森松線廃止と1966年の横河原線全線電化完成で役割を終え、また貨車も1956年の貨物輸送廃止を経て1960年に全車廃車となっており、ここに1888年以来78年に渡った「坊っちゃん列車」の系譜は一旦幕を閉じることとなった。

休止期
機関車は、1953年に同社が運営していた道後公園内にNo.1の実機が、762mm軌間仕様に戻し、先端に大きな火の粉止めを内蔵した輸入時の煙突のレプリカを取り付けて保存・展示され、さらにNo.3が愛媛大学工学部に教材用として寄贈された。しかし、人の出入りが自由な道後公園内に展示されていたNo.1は、その展示期間中に心ない者の手によって機器類が次々に盗難・破壊されて凄まじい荒廃状況を呈した。このため、1965年、伊予鉄道は自社が経営する有料遊園地である梅津寺パーク(現在の梅津寺公園)へNo.1を移設、愛媛大学に依頼して同型機であるNo.3の返却を受け、これの部品をNo.1へ移設して、先端にチムニーキャップのついた通常型煙突を取り付けた姿に復元[3]の上で、改めて保存・展示することとした。この際、部品を提供したNo.3の残存部品は廃棄されず、後にNo.1に移設した部品を採寸して製作したレプリカ部品を取り付けて、No.1のレプリカとして伊予鉄道本社前に展示されることとなった。1967年10月14日、梅津寺パークに保存のNo.1が鉄道記念物に指定された。
客車は、松山市内の子規堂に1両が保存されている。

米山工業製レプリカ運行期
1977年 松山市の機械メーカー・米山工業がレプリカの蒸気機関車を製作(ハ1形相当の2軸客車2両を含む)。
1988年5月 映画『ダウンタウン・ヒーローズ』撮影のために内子線旧線五十崎駅付近で運転。同年7月31日に映画の宣伝のため東京の越中島貨物駅で展示。
1989年8月17日 「みなと鉄道まつり北九州100」記念で北九州市の門司港で運転。
1989年10月8日 四国統一観光キャンペーン「しあわせランド四国」の一環として、旧内子駅付近で運転。
1994年4月9日 道後温泉で運転(道後温泉本館百周年の記念行事の一環としてイベント運行。道後の愛媛県県民文化会館西の空き地(県有地)で、短区間の折り返し運行)。
2000年5月3日-5日 宇和島駅構内で運転。
2001年3月30日-4月1日 正岡子規生誕100周年記念イベントの一環として松山駅構内で運転。
2001年9月14日には 北海道穂別町(現、むかわ町)主催のイベントにも貸し出され、旧国鉄富内線富内駅構内を走行した。
同列車は2006年現在、松山市内に保存されている。

 

伊予鉄道道後温泉駅前の引き込み線に待機の「坊っちゃん列車」1号機関車の復元機
松山の観光のシンボルの復活として、坊っちゃん列車の復元構想は、過去、いくつか起こっては消えていた。特に、観光の目玉を増やしたい観光関係者、特に道後温泉関係者にとって関心事であった。関係者ほかで構成される道後温泉誇れるまちづくり協議会でも特別委員会をつくって復活の可能性を研究していた。
一番の難点が、蒸気機関車に付きもののばい煙であり、特に、現在の伊予鉄道の市内電車(軌道)は市街地の大通りを走っているため、観光振興の名目で新たな公害を持ち込むものと社会的に批判を受ける恐れがあった。このため、関係者間でも、蒸気機関車として本格的な復元を望む人と、ある程度妥協して現代的にアレンジしばい煙をなくした列車とすべきという人が居るなど、意見の統一を見ていなかった。
結局はディーゼル方式が採用されることになり、伊予鉄道は、2001年に坊っちゃん列車の復元を発表、運行開始した。列車は往時の坊っちゃん列車をモデルにディーゼル動力方式を採用、汽笛は同社OBの協力を得、制服も当時のものを復元するなど、可能な限り往時に近づけた。その他、蒸気機関車ならではのドラフト音は車外スピーカーによって鳴らす方式を採用し、煙突からは水蒸気を使用したダミーの煙を出す発煙装置を採用する等の工夫がなされている。
現在の運行の概要
車両:ディーゼル機関車D1形 1 + 客車ハ1形 1・2(第1編成)、ディーゼル機関車D2形 14 + ハ31形 31(第2編成)
製造:新潟鐵工所
なお機関車のD1形は甲1形、D2形は甲5形をモデルとしている。
運行系統
2008年現在、市内線の以下の2区間で運行している。
大手町線・城南線の古町駅 - 道後温泉駅
花園線・城南線の松山市駅前 - 道後温泉駅
途中の停車電停はJR松山駅前、南堀端、松山市駅前、大街道、上一万。南堀端・上一万では降車のみ可能、古町・道後温泉・松山市駅前では機関車の方向転換が見られる。
復元運行開始後
2001年10月12日 伊予鉄道がディーゼル機関によるレプリカの列車の運行を市内線松山市駅前 - 道後温泉間で開始する。
2001年10月30日 南堀端停留場付近で脱線。11月1日運行再開。
2001年12月3日 大型客車ハ31形を増備。
2002年8月8日 第2編成登場。古町 - 松山駅前 - 道後温泉間でも運行開始。料金を1000円から300円に値下げ。
2007年7月25日 古町車庫構内で入換作業中に脱線。脱線した場所が高浜線と軌道線の交差地点付近だったため、両線の列車が2時間近く運休。事故を受けて伊予鉄道は坊っちゃん列車を当面の間運休とした。
2007年9月29日 上記の事故編成が整備を終えて運転再開に向けた試運転中、城南線の西堀端停留場 - 南堀端駅間で再び脱線。
2007年10月1日 1編成のみの運用で運行を再開。
2007年12月28日 7月に脱線した編成が運行を再開。

伊予鉄道創業時のものを再現した制服を着用した機関士と車掌が乗務している。
客車の屋根には分岐点でポイント操作を行うトロリーコンタクターを作動させるため、ダミーのビューゲル(進路制御装置と呼んでいる)が取り付けられている。この機器は分岐器制御専用で、動力車が電車や電気機関車ではなくディーゼル機関車なので集電は行わない。通常は降下させてあり、トロリーコンタクター付近でのみ上昇させて使用する。
道後温泉駅の専用の引き込み線には2編成が夜間と、1日おきに時間調整のために留置されており、観光客がその前で記念写真を撮るなどされ、親しまれている。もう1編成は古町車庫に留置される。
電車よりも出力が弱く、県庁前 - 上一万の登り勾配がきついので、道後温泉駅行き定期電車の続行ダイヤとなっている。
復活運行開始当時は乗車には記念グッズと市内電車1日乗車券込みの1,000円が必要でしかも1区間しか乗れなかったが、2002年8月から1回乗車のみなら300円、また全区間乗車も可となるなど実質値下げされ、利用しやすくなった。また、2006年9月よりICい〜カードでも坊っちゃん列車に乗車できるようになった。
常に機関車が先頭に来るように、また(蒸気機関車のレプリカのため)機関車が一方向に進むように入換作業が必須となるが、入換機関車やターンテーブルが用意できないため独特の方法で入換作業を行っている。具体的には機関車の下部に、軌道モーターカーと同じ方向転換装置(油圧ジャッキ)が埋め込まれており、入換時には客車を切り離した後でこの方向転換装置を動作して機関車全体を浮かせ、人力で機関車を180度転回させてからジャッキを下して、人力で客車を移動させてから再連結するという作業を行っている。2007年7月の脱線事故は、方向転換装置の格納表示に不具合があり、全部格納していない状態で格納済みと表示したため、転換装置が本来よりも下がった位置で運行され線路と接触し脱線したというものであった。下の写真は、松山市駅前での回転作業の模様。復元運行されている客車の1両であるハ31のオリジナルは、古町車両工場の一角に現在も保管されている。1911年製のオープンデッキ客車の実物として貴重な存在である。軌道線用の内燃車両は戦後は札幌市交通局(札幌市電)に存在したのみ(「札幌市電#過去の車両」を参照)で、運行再開に当たっては過去のものとなっていた「乙種内燃車」の運転資格を復活させた。


栗林駅 JR四国)高徳線

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栗林駅(りつりんえき)とは、香川県高松市藤塚町三丁目にある四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の駅である。

線内中間駅では最大の利用客を誇っている駅。駅番号はT25。駅表示パネルのコメントは栗林公園の駅。近年、駅周辺はマンションが急増し、人口が増加している。駅ホームから林立したマンションが眺められる。栗林公園は隣の栗林公園北口駅が最寄り駅である。

島式ホーム1面2線を有する高架駅。高架化は昭和52(1977)年、築30年以上の四国で最初の高架駅です。ホームへ上がるエスカレーターが設置されていて当時としては画期的なことでした。

1番のりばは8両編成対応。2番のりばは7両編成対応。CTC化後に1番のりばが一線スルー(現在は制限速度100km/h)化されている。 高架開業当時、ほとんどすべての急行「阿波」・「むろと」が通過していたが、上り列車は2番のりばを通過していた。しかし、2012年現在、特急「うずしお」を含めた全列車が停車する。
駅舎は高架下に設けられており、プラットホームを含めると3階建てとなる。


現在の駅舎は地上時代に駅の西側で高徳線を跨いでいた高松琴平電気鉄道琴平線をさらに跨ぐ形で高架化されている。 社員配置駅(高松駅助役栗林在勤配置)。みどりの窓口を備えるが、駅員が駐在するのは19時15分までである。2010年3月12日までは20時までであったが、3月13日のダイヤ改正より短縮された。切符売場には券売機は2台あります。


1階は店舗スペースとなり、2011年3月11日までは、旧駅舎時代から営業していたキヨスクが存在した。 2階はコンコースとなり、改札口外には水洗トイレを備える。
2階からホームまでの間には昇りのみエスカレータが設置されている。エスカレータの稼働時間は、朝の6時から夜の19時までである。一方、2014年(平成26年)4月現在、エレベーターは未設置で駅の入口からコンコースまでの間や、ホームからコンコースに降りる場合のバリアフリー対策は未対応である。現状ではそうした対策の必要な乗客に対しては、駅員が個別に対応を行っている。

栗林駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1・2 ■高徳線 上り 高松方面
下り 三本松・徳島方面

高徳線(起終点の高松駅・徳島駅を除く)で一番利用客が多い駅である。これは、高松 - 栗林間がU字型になっており、栗林駅から市街地中心部へ行く人が多いからである。
国鉄時代の高架化の際に設置された「栗林駅」の看板と「指定席は電話でも予約できます」の垂れ幕は、民営化されJR四国になった後もそのまま取り付けられたままだったが、2006年の春頃に看板は「JR 栗林駅」と書かれた新しい看板に変わり、垂れ幕は撤去された。
高架下には、駐車場、駐輪場、高松市の「レンタサイクルポート」(料金1日100円)がある。また駅の北側の敷地(高架化以前の駅敷地)には教会式の結婚式場がある。
駅前からは、ことでんバスの「ショッピング・レインボー循環バス」が日中は20分ごとに出ており、高松駅、瓦町駅などのターミナル駅(運賃150円)のほか、新興商業地、「レインボー通り」(運賃200円)まで行ける。
上記の通りホームが高い場所(海抜21m)にあることから、例年8月13日に開催される「さぬき高松まつり」の花火大会のとき、ホームから花火を見物する客が入場する。この現象は、1985年(昭和60年)ごろから始まったものと思われる。以前は花火観客は入場券を購入し、花火大会開催中には(花火が見える方角に当たる)1番線に入線する列車の注意放送があった。その後、窓口の営業時間が短縮されて花火の開始時刻(20時)の改札口が無人となったため、現在は入場券なしで入場が可能で注意放送もおこなわれなくなった代わりに、安全監視のための職員が開催中に臨時にホームに派遣されている。

1925年(大正14年)12月21日 - 開業。
1976年(昭和51年)11月1日 - 高架駅舎化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。
かつて、駅前には日本通運があった。

電報略号 リツ
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 1,037人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1925年(大正14年)12月21日
備考 みどりの窓口 有

 

1600GT コロナGT

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1600GTは、トヨタ自動車が生産していたハードトップ型乗用車。型式名はRT55。その成り立ちからコロG(コロナGT)とも呼ばれるが、正式名称ではない。

1967年8月発売開始。本車種は同年5月に登場したトヨタ2000GTの弟分という位置付けだった。ボディは、3代目コロナ2ドアハードトップ(コロナ1600S、後期型ボディ)の物を補強した他、サスペンションやブレーキも強化されている。
フロントフェンダーにエアアウトレットを追加し、フェンダーアーチをコロナのものより少し大きめに取っている。フロントグリルとリアクォーターピラーにはトヨタ2000GTに似た逆三角形の七宝焼きエンブレムが付けられ、スタイル上のアクセントとなっていた。塗色もコロナには見られなかった鮮やかな黄色をイメージカラーとしていた。標準で発売されたのは他に白、赤、銀など。
搭載されるエンジンは、コロナ1600S用のOHVツインキャブ『4R』型のシリンダーブロックに、ヤマハ発動機がアルミニウム合金製DOHC(1気筒当たり2バルブ)ヘッドを換装した『9R』型(JISグロス値最高出力110馬力)。これに4速MT車の『GT4』(96万円)と5速の『GT5』(100万円)とが併売された。尚、フロントシートと『GT5』のミッションはトヨタ2000GTの物を流用し、ステアリングホイールは同一デザインだがこちらはプラスチック製となっている。
発売から延べ13ヶ月、2222台をもって生産が終了した。系列的な後継車種はマークIIの高性能仕様である『1900GSS』となる。


国内レースでは、本車種のプロトタイプモデルとして3代目コロナの前期型のハードトップボディを元に作られたものがトヨタ・RTXの名で1966年3月の第4回クラブマンレース(日本グランプリの前座試合)に初参戦しており、それぞれ初勝利を飾っている。優れた空力特性とバランスの良い操縦性、軽量、150馬力以上の高出力、タフネスさを利用して、正式な発売後も同じクラスのベレットGTやブルーバードSSSのみならず、フェアレディ2000など大排気量車にも勝利を重ねることも多く、1968年の'68日本グランプリでは、当時の王者であったスカイライン・2000GTBを打ち破るなどし、約3年間ツーリングカーレースを席捲した。
翌1969年に開催されたJAFグランプリでは、初参戦のスカイライン・2000GTRと直接対決となる。不利が予想される中、ギア設定に功を奏した1600勢は予選から好調であり、予選のみならず本戦でも当初上位を独占するが、レース中盤からGT-R勢が作戦変更したことより形勢が逆転、今度は2位、3位を奪われ防戦一方の展開となる。しかし、ここで1位を走るドライバーの高橋晴邦が意地を見せ、辛くもリードしたまま振り切って1着でゴールした。がしかし、ゴール直後から日産側が『高橋が走路妨害した』と抗議を行い、この抗議が認められる判定が下されたことで、2位の篠原孝道のGT-Rが1位に繰上げとなり、高橋は1周減算の3位となった。なお、この日下された妨害判定には当時から異論があり、今もって後味の悪いレース結果として知られる。そして1600GTのワークスとしての出場はこのレースをもって終了した。

販売期間 1967年 - 1969年
乗車定員 4人
ボディタイプ 2ドア ハードトップ
エンジン 9R型 1,587cc 直列4気筒DOHC
駆動方式 FR
最高出力 81kW(110ps)/6,200rpm
最大トルク 137N·m(14.0kgf·m)/5,000rpm
変速機 4速MT
サスペンション 前後:ダブルウィッシュボーン
全長 4,125mm
全幅 1,565mm
全高 1,375mm
ホイールベース 2,420mm
車両重量 1,030kg
後継 トヨペット・コロナマークII

 

西巣鴨駅 東京都交通局(都営地下鉄)三田線

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西巣鴨駅(にしすがもえき)は、東京都豊島区西巣鴨三丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)三田線の駅。駅番号はI 16。南東250mには都電荒川線新庚申塚駅があります。

島式ホーム1面2線の地下駅。エスカレーターとエレベーター(A4出口 - 改札階と改札階 - ホーム階の2基)が設置されている。


ホームの巣鴨寄りには階段の躯体があるが、現在は壁で覆われており、改札口としての機能を持っていない。

切符売場には券売機が2台とICカードチャージ機が1台設置されています。改札口にはICカード専用機も設置され改札機は5台です。


のりば

番線 路線 行先
1 I 都営三田線 巣鴨・白金高輪・目黒・東急線方面


2 高島平・西高島平方面

巣鴨撮影所
巣鴨撮影所は、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区西巣鴨4丁目、西巣鴨交差点の近く)にあった撮影所である。
1919年(大正8年)、「天然色活動写真株式会社」(天活、1914年創立)が開設した。正法院や妙行寺など、寺社の多い巣鴨の地の利を活かしてロケーション撮影を行ない、時代劇などを製作したが、当時は日活(日本活動写真株式会社)が圧倒的に強く、天活の基盤は脆弱であった。1920年(大正9年)には天活は、もと天活創設者だった小林喜三郎(関東の興行師。アメリカの大作映画『イントレランス』の日本興行で成功したのは有名)が日活から脱退した人々と新たに創立した「国際活映」(国活)に買収される形で消滅した。
国活は、この巣鴨撮影所で、新派の俳優を加え現代劇も製作し日活の対抗勢力たろうとしたが、経営が悪化し配給が滞りわずか4年で倒産した。その後巣鴨撮影所は一旦、天活消滅後大阪の撮影所を引き継いで発足していた帝国キネマの撮影所となり、さらに1928年(昭和3年)、前年末に河合徳三郎が発足したB級映画専門会社「河合映画製作社」が手に入れた。河合映画は徹底した娯楽路線で次々配給先の映画館ネットワークを広げ、1933年(昭和8年)に「大都映画」となった。


1942年(昭和17年)、大都は合併により大映になり、同社は同年、巣鴨撮影所は閉鎖した。かわって巣鴨に入る映画会社はもはやなく、かつて日本最大の映画量産地だった巣鴨から、映画製作の活気は失われた。
撮影所跡地には、のちに「豊島区立朝日中学校」が建てられた。同校も合併統合により、2001年(平成13年)に廃校となった。元校舎は2004年より「にしすがも創造舎」になり演劇の稽古場などに使われている。

1968年(昭和43年)12月27日 - 都営地下鉄6号線の駅として開業。
1978年(昭和53年)7月1日 - 都営地下鉄6号線を都営地下鉄三田線に改称。


駅番号 ○I 16
所属事業者 PrefSymbol-Tokyo.svg 東京都交通局(都営地下鉄)
所属路線 I 三田線
キロ程 16.0km(目黒起点)
電報略号 鴨(駅名略称)


駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗降人員
-統計年度- 27,322人/日
-2014年-
開業年月日 1968年(昭和43年)12月27日
乗換 新庚申塚停留場(都電荒川線)

東京都交通局8800形電車

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東京都交通局8800形電車は、東京都交通局の路面電車車両。2009年(平成21年)4月26日に営業運転を開始した。

都電荒川線で使用されている7500形は老朽化が進行しており、その置き換え用として、2008年(平成20年)1月に9000形と別形式の「新型車両」として導入することが発表された。
この際、外観デザインについて、「荒川線の未来を開く、先進性と快適性」をコンセプトとした以下3つの案から公募投票が行われ、最多得票を獲得した1案のデザインが採用された。
優しさと親しみやすさを表現した、丸みのあるデザイン。
スピード感とスマートさを表現した、曲面を使用したデザイン。


都会的イメージを表現した、直線基調のデザイン。
なお、この投票の時点で、デザイン見本イラストは"8801"の車両番号が入ったものになっていた。
外観は、塗色が8500形までの緑・白基調のものと異なる。前面と側面上下縁辺にローズレッド・バイオレット・オレンジ・イエローのいずれかと、側面全体は白となり、前扉寄りに"Arakawa Line"のロゴが配置されている。客用扉は8500形・9000形と同様に、前扉が片開き・中扉が両開きの片側2扉となっており、扉上部には開閉時に赤く点滅する告知ランプが設けられている。客窓は荒川線では初めて横に長い大型窓が採用され、上部が引き違い式に開閉できるようになっている。


車内の座席はバラの模様が入ったピンク色のもので、他形式と同様に前向き座席とロングシートを点対称に配置したものであるが、ロングシート部分には9000形と同様に仕切り用の手すりを設けている。手すり部分には降車用押しボタンが設置されたほか、窓柱部分にも降車用押しボタンを上下2つ設置しており、着席客にも配慮した。 また、荒川線の車両で初めて2画面の液晶ディスプレイ(LCD)による車内案内表示装置を設置している。停車駅案内のみしか行っていなかったが、2015年から右側のlcdで映像広告を流せるようになったほか、左側の案内画面もROM更新を実施し情報量が格段に増加した。 内装は白系でまとめられており、床材は大理石を意識したものになった。手すりと扉の合わせ目、扉部分の床材は黄色になり、視覚障害者にも配慮している。


最初に落成した8801・8802の2両は2009年4月26日に運用を開始した。同年5月31日まで東京都下水道局のバイオマス発電によるグリーン電力を活用するとともに、デビュー記念ヘッドマークも装着して運転された。その後、同年6月7日に荒川電車営業所で開催された「路面電車の日」記念イベントでは2両が撮影会展示車両や臨時電車の運転に充当された。その後2010年12月25日に8810が搬入され、荒川電車営業所でお披露目イベントを行って営業入り、予定の10両が揃った。

8801号車から8805号車までのローズレッドのカラーリングは、荒川線沿線に植栽されているバラをイメージしたものである。 8810号車は荒川線に1両しかない黄色のカラーリングの車両であることから、その車両を見つけると幸せになれるとの都市伝説が生まれた。また東急世田谷線も黄色の車両が1編成のみであったことから、2011年11月1日から30日にかけて初の世田谷線との共同企画キャンペーン「都電荒川線×東急世田谷線 黄色い電車でハッピーに!」が開催され、ヘッドマークの掲出、「幸せの黄色いパスポート」の無料配布、幸せのクイズラリーなどが行われた。従来車両とは区別なく運用されている。 なお、登場後しばらくの間は毎週日曜日に決まったダイヤで定期運行されていた。

営業最高速度 40 km/h
起動加速度 3.0 km/h/s
減速度 4.5 km/h/s(常用最大)
5.0 km/h/s(非常)
車両定員 61名
(座席定員:20名)
全長 13,000 mm
全幅 2,200 mm
全高 3,800 mm
軌間 1,372 mm


電気方式 直流600V
(架空電車線方式)
主電動機 かご形三相誘導電動機
主電動機出力 60kW×2=120kW
駆動装置 WNドライブ
制御装置 IGBT-VVVFインバータ制御(東洋電機製造製)
台車 FS91-B
制動方式 回生・発電併用電気指令式電磁直通ブレーキ(応荷重制御付き)
製造メーカー アルナ車両

V-22 (航空機)オスプレイ

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V-22は、アメリカ合衆国のベル・ヘリコプター社とボーイング・バートル(現ボーイング・ロータークラフト・システムズ)社が共同で開発した航空機(垂直離着陸機)である。
愛称のオスプレイ(英: Osprey)とは、タカ目の猛禽類の一種である「ミサゴ」を意味する。

回転翼軸の角度を変更するティルトローター方式を採用することで、飛行中に固定翼機とヘリコプターの特性を切り替え可能な垂直離着陸機である。従来方式のヘリコプターに比べ、高速かつ航続距離に勝る特性がある。
1980年代初頭より開発が開始され、技術的困難や冷戦の終結に伴う予算の削減などで開発・量産および配備計画は当初の予定より大幅に遅延したものの、2000年代よりアメリカ海兵隊を始めとして海軍や空軍へも配備が始まっており、2013年からはアメリカ合衆国大統領随行要員の搭乗機としても運用されている。日本への売却も決定しているほか、いくつかの友好国からの購入交渉も進んでいる。

ヘリコプターは、垂直離着陸・ホバリング(空中停止)・超低空での地形追従飛行ができるが、速度が遅く航続距離も短い欠点がある。対して通常の固定翼機は、高速移動や航続距離の面では優れているものの、離着陸のために2,000-3,000m以上の滑走路が必須な上、垂直離着陸もホバリングも超低空での地形追従飛行もできなかった。
もしヘリコプターの利点である垂直離着陸・ホバリング・超低空での地形追従飛行をこなしつつ、通常の固定翼機のように高速移動かつ長い航続距離が可能ならば、戦略上非常に有用なことであるため、アメリカ軍は第二次世界大戦直後から両者の利点を併せ持つ航空機を求め研究を開始した。

1986年5月2日には全規模開発(FSD)が認められ、6機のMV-22試作機が製造されることとなった。開発は電子機器や胴体部分をボーイング・バートルが、ナセルや駆動系を含む主翼部分と尾翼部分をベルが担当した。1・3・6号機(その後予算削減で6号機は中止された)がベル、2・4・5号機がボーイング・バートルで組み立てられることとなった。
初飛行は1989年3月19日であった。当初は1988年に初飛行を行い、1991年頃に量産型の引渡しが予定されていたが、SDI計画や先進戦術戦闘機計画(後のF-22)などに比べ優先度が低く、予算の削減が行われた影響で計画が遅れた。
1989年12月には、国防長官であったディック・チェイニーが予算削減の一環として開発の中止を発表するが、その後の審査の結果、計画は続行されることとなった。その後何度か計画の中断が予定されたが結局中止となることはなかった。
試作機段階では2回、重大な航空事故もあったが、技術的問題はほとんど解決されたとの結論に至っており、V-22は1994年に量産が認められた。軽量化や製造の効率化などの製造費用の削減を含む再設計が行われ、1995年量産試作機(EMD)が4機製造された。最初の7号機の初飛行は1997年2月5日に行われた。
1997年4月には低率初期生産(LRIP)が承認され、まず5機の生産が決定し、2000年度までにさらに25機の生産が認められた。1999年4月には量産初号機が初飛行し、2000年までには艦上運用試験などが実施され、空軍仕様のCV-22BもEMD7号機と9号機を改修して試作試験が開始された。

大きな3枚の「プロップ・ローター」(Prop-roter)と呼ばれる回転翼がエンジンと共に固定翼の両端に備わっている。このプロップ・ローターを駆動するターボシャフトエンジンは、減速ギアや補機などと共にエンジンナセル内に収められ、固定翼の両端に取り付けられている。このポッド状のエンジンナセルとプロップ・ローターは一体となって、固定翼内端部のティルト軸ギアボックス(TGAB)での油圧機構によって前方から上方へ向きを変更できる。この全体が「ティルトローター・システム」と呼ばれる。左右のTGABは主翼内のシャフトで連接されており、左右共に角度が同調するようになっている。TGABによる角度変更は毎秒8度で動くため、90度の変更には11秒程度かかる。
左右のエンジンは片発停止となってもすぐには機体が墜落しないように、左右の駆動出力軸が固定翼内のクロスシャフトで連結されており、最大定格出力4,586kWであるところを1基だけでの飛行時には短時間ながら緊急時最大出力5,093kWを得ることができる。エンジン吸気口にはEAPS(エンジン空気/粒子セパレータ)が、排気口にはIRサプレッサー(赤外線排出抑制装置)が備わっている。
直径11.61mのプロップローターの3枚のブレードは、ブレード長が4.90m、弦長は付け根部で87.1cm、先端部で66.9cmであり、42度の捻り下げが付いている。この回転翼は長いために、地上に降着した状態でローターを前方に向けて回転させるとブレード先端が地面に接触してしまうので、保守点検時のような特定の状態を除けば地上で固定翼モードの角度までティルトすることは避け、約45度で固定する。プロップローターはピッチ可変式のハブを持つ。
プロップローターは互いに逆回転するため、カウンタートルクが打ち消しあう。地上駐機時の占有スペースを小さくするために、ローターのハブが定位置に止まり、ブレードが自動で折り畳めるようになっている。同様の機能を持つ他のヘリコプターと異なり、左右各2枚のブレードはハブより少し離れた位置で折れ曲がる。残り左右各1枚のブレードは折り畳み機構を持っていない。つまり、折り畳み可能な2枚のブレードは、折り畳み不可な1枚に沿うよう折り畳まれる。回転円盤面積(片側):105.36m2

固定翼
固定翼機での主翼に相当する高翼配置の固定主翼はわずかな上反角といくぶん前進翼である点を除けば単純な矩形翼であり、地上駐機時の占有スペースを小さくするために、中央取り付け部を中心に右方向へ90度回転するようになっている。ブレードを内側に折り畳み、ナセルも水平に倒した状態で右に90度回転するため、ローター半径などをそのまま加えた通常の幅25.78m、長さ17.48m、高さ6.73mから、幅5.77m、長さ19.20m、高さ5.56mにまで小さくできる。
主翼後端には内外に2分割された広いフラッペロンが付いており、固定翼モードでの操縦翼面として機能すると同時に、ヘリコプター・モードでは垂直下方へ大きく折れ曲がることで、固定翼の(回転翼のダウンウオッシュを遮る)面積を減じるようになっている。主翼内には片側4個に分かれた燃料タンクが収められ、クロスシャフトやTGAB用のリンク、それに配管類が走っている。
尾翼はテールブームの先に1枚の水平尾翼とその左右に2枚の垂直尾翼がH型に取り付けられており、それぞれには水平安定板と垂直安定板の後端部に動翼として昇降舵とラダーが付いている。
主翼面積(フラッペロン、中央翼部分を含む左右合計):35.49m2
フラッペロン面積(左右合計):8.25m2
垂直安定板面積(左右合計):21.63m2
ラダー面積(左右合計):3.27m2
水平安定板面積(合計):8.22m2
エレベーター面積(合計):4.79m2

燃料タンク
固有の燃料タンクは、主翼内に左右各4個と降着装置のあるスポンソン(英語版)前部に左右各1個の計10個により、6,513リットルの容量がある。これらは自己防漏対策が施されており、12.7mmの徹甲弾の貫通までは燃料漏れを起こさない。
また、キャビン内に任意補助タンク(MAT)を搭載することで搭載燃料を増やすことができる。空中で燃料を捨てる必要が生じれば、右主脚部のベント口から毎分303リットルの割合で空中投棄できる。
降着装置
降着装置は、前脚式の3脚すべてが二輪横並びのタイヤを持ち、油圧による完全引込式になっている。左右に各75度まで操向できる前脚は、後方へ畳んで格納され、胴体左右二本の主脚は前方へ畳んでスポンソン内に格納される。油圧が失われれば窒素ボトルによって19.3MPaの圧力で脚下げを行う。各脚柱には通常時で3.7m/secまで、交換修理を受容する前提でのクラッシュランディング時には7.3m/secまでの着地衝撃から機体を守る衝撃緩衝装置が組み込まれている。
ホイールトラック:4.64m
ホイールベース:7.62m。

装備
アビオニクス
グラスコックピットが採用されているが完全ではなく、機長席(右側席)側の姿勢指示器などにアナログ式を採用している。
操縦席の計器類は各正面に15.2x15.2cmのカラー液晶による多機能表示装置(MFD)が左右に並んで2枚あり、中央パネルには正面左にMFDより小型のシステム表示用単色液晶画面が、正面右に高度計や対気速度計といった通常の個別計器が配置されている。中央パネルの下部3分の2以上は15.2x20.3cmの横長単色液晶によるEICAS/CDU表示画面1つと多数の操作キーが並んでいる[注釈 6]。各2面のMFDには、機体姿勢や飛行諸元といった一次飛行表示や、航法情報、センサー画像情報、搭載システム情報が自由に表示できる。
航法装置としては、軽量慣性航法装置(LWINS)、AN/ARN-147全方位無線標識/計器着陸装置(VOR/ILS)、マーカービーコン装置、OA-8697/ARC VHF/UHF自動方位測定装置(ADF)、VHF FMホーミングモジュール、AN/APN-194(V)電波高度計、AN/APN-153(V)戦術航法装置(TACAN)、小型航空機搭載全地球測位システム(MAGR)が備わっている。
LWINSは3重の冗長性を備え、加速度、速度、位置、高度、磁方位、真方位についての情報を得る。
各軍共通の装備として、下方全方位へ指向できる赤外線センサとしてAN/AAQ-27A(mid-wavelength infrared(MWIR)imaging system)を備える。このMWIRは機首下面に搭載される。
米海軍型と米空軍型は地形追随および地形回避機能を持つAN/APQ-174レーダーを備える。米空軍では低高度での地形追随機能を高めたAN/APQ-186レーダーの搭載も進めている。レーダーは機首部左に搭載される。
操縦系統
機長席はヘリコプターと同じく右座席である。
飛行操縦システムは、自動飛行操縦システム(AFCS)を含む3重のデジタル式フライ・バイ・ワイヤによって構成されている。AFCSは、ピッチ安定、ロール安定、ヨー安定、機首方位維持、自動旋回調整、昇降速度補正といった機能を有している。航空機ではバックアップ用として油圧やワイヤーなど機械的なリンクを有するが、V-22では特殊な操縦特性(後述)を実現するため予備系もフライ・バイ・ワイヤとなっている。
主にピッチとロールの操作を行うサイクリック操縦桿は両足中間にあって右手で操作する。ヨー操作は足先左右のラダーペダルで行う。エンジン出力調整は出力制御レバー(TCL)で行う。通常のヘリコプターにあるコレクティブピッチレバー(を握って捻る)と異なるのは、相当するTCLが固定翼機のスロットルレバーと同様に前方に倒すことでエンジン出力が上昇する点である。エンジンナセルの角度調整は、TCLのグリップ内側の回転式ノブ「ナセル制御スイッチ」で制御する[5]。並列複座式の固定翼機ではスロットルレバーは機体中央にあるため機長(左座席)は右手、副操縦士は左手で操作するが、V-22では両座席の左側にTCLが設置されているため、両操縦士の操作は『足と右手で操舵、左手で出力調整』となる。
操縦翼面は、ピッチ可変式プロップ・ローターとフラッペロン、エレベータ、ラダーが存在する。フラッペロンはロール操縦時にはエルロンとして機能し、揚力が必要な場合には高揚力装置のフラップとして機能する。エレベータとラダーは通常の固定翼機と同じ機能を果たす。

自衛装備
輸送機であるためミサイルやロケット弾などは搭載しないが、後部ランプの左脇に銃架を設置出来るほか、自衛用として以下の装備が用意されている。
全軍共通装備
AN/AAR-47:ミサイル警報装置
AN/APR-39A:レーダー警戒受信機
赤外線警報装置
米空軍型
AN/ALE-47:チャフ/フレア投射装置(CMDS、対抗手段散布装置)
AN/ALQ211:統合型無線周波数対抗手段装置(SIRFC)
AN/AVR-2A:レーザー探知装置
IDWS
米海兵隊向けとして暫定防御兵器システム(IDWS)と呼ばれるRWSの航空機版ともいえるシステムの開発が進められている。
BAEシステムズ製の電子・赤外線センサ・ターレットと、機内搭載も可能なM134 7.62mmミニガン・ターレットと連動させて、機内の液晶ディスプレイとコントローラによって使用する。VMM-365部隊に最初に装備されて、アフガニスタンでの試験運用が行われると考えられている。
後部ランプの銃座はホイストと干渉するため同時に使用出来ないが、IDWSのミニガン・ターレットは干渉しない位置に設置できるため、隊員の降下・回収中にも安全を確保できる。


増槽
任務補助タンク(MAT)をキャビン内に搭載すれば、燃料を増やし航続距離の延伸ができる。1個で1,628リットルの燃料を収めるMATは、キャビン内に最大3個まで搭載でき、搭載燃料の最大容量は11,397リットルとなる。
受油装備
機首部右側に受油用プローブ(プローブアンドドローグ方式)を装備しており、空中給油機から空中で燃料を受け取ることができる。
給油装備
既に開発済みの給油装備に「迅速地上再給油キット(RGR)がある。これは、燃料供給ポンプ、ホース、コネクター、再給油ノズル3個から構成され、地上に駐機した状態で機内のMATから、地上の他の航空機や地上の車両へ燃料を供給するものである。
計画中の装備であるが、MATをキャビン内の前後に2個だけ搭載し、中央にリール式のホース&ドローグ・ユニットを備えることで、機体中央底部からこのホースを空中で垂れ下げ、他機へ空中給油する空中給油キット開発計画がある。これが完成すればV-22は空中給油機として利用できる。回転翼機への空中給油なら120ノットほどで飛行し、固定翼機なら最大250ノットで飛行しながら給油を可能とするものである[5]。一例を挙げると、近接航空支援機に対しては200nmi進出して1時間在空し、10,000ポンド(約4,536kg)ほどの燃料を他機に空中給油可能となる。
ホイスト
戦闘捜索救難や特殊作戦用として、隊員の降下や回収に利用できるホイストをキャビンの後部隔壁直前の天井部に設置できる。
76.2mの長さのワイヤーで最大272kgまで吊り下げられ、停止から最大1.14m/secでの上下無段階の速度制御が行える。
ホイストは銃座の上部にあるため同時使用は出来ない。

搭載重量
最大離陸重量
垂直離陸時:23,859kg
短距離離陸時:25,855kg
自己展開時:27,442kg
機内配置
降着装置や燃料タンクが機体底部のスポンソンに、主翼構造全体が機体の最上部に位置しており、機内は最前部の操縦室に続いて左右に分かれた電子装置収容区画と通路があり、その後ろに貨物室/客室となるキャビンがある。乗降はキャビン右側前方の乗降口と最後部の貨物扉から行える。機内は非与圧であるが、NBC戦環境下での生残性のために操縦室は6.2kPa、キャビンは4.8kPaの陽圧を掛けることができる。
操縦室
機体先端の操縦室に左右2席ある操縦席は、通常はヘリコプターと同様に右側が機長席、左側が副操縦士席であり、その後方中央に予備のジャンプシートが1席ある。操縦席は方向が変化する荷重に対して14.5G、横方向だけなら20Gまでの衝撃荷重に耐えられ、上下方向に40.6cmの緩衝ストロークを持っている。
キャビン
キャビン内は横断面で見れば正方形に近い矩形断面であり、大きな凹凸の無い長い機内搭載空間が得られる。このキャビンを兵員輸送仕様にすれば、左右の壁面に背を付ける向きで座面跳ね上げ式のトループシートを24席と右側最前方にクルーチーフ用の1席の計25席を配置することができる。後部の貨物扉は飛行速度240ノットまで空中で開閉できるので、空挺隊員の降下や貨物の空中投下が行える。非常脱出口がキャビン後部天井に1つある。傷病兵輸送仕様では、縦3床x4箇所で12床にする組合せや、縦3床x3箇所での9床に加えて看護員や軽症者などのための5名分のトループシートを配置することもできる。
キャビン最後部の下開き式ランプ兼用貨物扉は尾部側半分が天井方向へ、前方側半分が床方向へ開き、テイルブームが高い位置にあるために水平に大きな開口部が得られ、長尺物の搭載が容易である。
アメリカ海兵隊では大型のCH-53E スーパースタリオンと小型のUH-1Y ヴェノムの中間サイズのヘリとして採用されている。
日本の陸上自衛隊が採用している機種と比較するとUH-60Jよりは大きいが、CH-47よりは小さい。具体的には、キャビン寸法では長さ、幅、高さ、のいずれにおいてもCH-47に劣り、キャビン容積が少ないために、軽くても嵩張る貨物の積載では相対的に不利で、搭乗可能な人員も少ない。
機内搭載
機内最大ペイロード:9,072kg
キャビン
キャビン長:7.37m
キャビン最大幅:1.80m
キャビン最大高:1.83m
有効面積
有効総容積:24.3m3
貨物
貨物最大幅:1.72m
貨物最大高:1.68m

機外搭載
胴体下面の前後に計2個のカーゴフックを備え、機内に搭載できない貨物類を吊り下げて運搬することができる。
カーゴフック容量は4,536kg×2である(ただし、2つのフックを合わせた機外吊り下げ最大容量は6,804kgである)。

 

駐機モード。エンジンナセルは45度程度で固定されている。
艦載時。ローターと主翼を折りたたんでいる。
飛行モード
V-22は固定翼機の特性を持つ『固定翼モード』、ヘリコプターの特性を持つ『垂直離着陸モード』、その中間の『転換モード』の3つのモードを切り替えて飛行する。
固定翼モード
エンジンナセルが水平の状態。固定翼機と同じ特性となる。
巡航時に利用することでヘリコプターよりも高速移動が可能となる。
この場合、回転翼は広い面積を有し十分な推力を得られるので、通常の固定翼機に比べゆっくりな回転を示している。
垂直離着陸モード
エンジンナセルが垂直の状態。ヘリコプターに近い特性となる。
エンジンナセルは僅かだが後方まで向けることが可能で、低速ながら後退飛行もできる。
転換モード
エンジンナセルが1度から84度の状態。
離陸時の加速や着陸時の減速に利用される。
V-22の回転翼は大型のため、固定翼モードで離着陸すると地面に擦ってしまうが、エンジンナセルを傾けることにより、固定翼機に近い挙動で離着陸が可能となる。
この状態では傾けて回転翼と固定翼の両方の揚力を得て上昇できるため、固定翼機よりも短距離で離着陸することが可能である。
駐機時
陸上での駐機時にはエンジンナセルを45度程度に固定している。
艦載時には甲板上では垂直、格納庫やエレベーターでは固定翼を回転させるため水平にする。
操作
同じインターフェイスで固定翼機とヘリコプターを操縦することになるため、操縦桿やスロットルレバーはAFCSを介し対応するモードに合わせた操作として機体に伝達される。
離陸
V-22の離陸時には、転換モード(75度~60度)で短距離離着陸(STOL)するのが基本となる。通常の固定翼航空機のように地上滑走によって固定翼面だけで揚力を得る離陸は行えない。
積載量が少なく滑走距離が短い条件では、垂直離着陸モードによる離着陸も可能である。
巡航
垂直離着陸モード
垂直離着陸モードによる飛行制御はヘリコプターの操縦に近い。両足中間のサイクリック操縦桿と座席左側の出力制御レバー(TCL)、足先のラダーペダルによって行う。サイクリック操縦桿を左右方向へ倒すことで、2つのプロップ・ローターでコレクティブ・ピッチに差を作ることで左右の揚力差が生じ、また、同時にラテラル・サイクリックによる操作でプロップ・ローターの回転面が傾くことも加わって、ロール操作が行える。サイクリック操縦桿を前後方向へ倒せば、プロップ・ローターが前後に傾きピッチ操作が行える。ラダーペダルの片側を踏み込めば、2つのプロップ・ローターが互いに前方と後方に傾くことで機首の向きが変えられ、ヨー操作が行える。
固定翼モード
固定翼機モードによる飛行制御は固定翼機の操縦と同じである。サイクリック操縦桿は操縦桿に、TCLがスロットルレバーに相当し、ラダーペダルはそのままラダーペダルとして機能する。サイクリック操縦桿を左右方向へ倒すことで、左右互い違いに動く主翼後縁のフラッペロンが上下運動し、ロール操作が行える。サイクリック操縦桿を前後方向へ倒すことで、水平安定板後縁のエレベーターが上下運動し、ピッチ操作が行える。ラダーペダルの片側を踏み込めば、垂直安定板後縁のラダー2枚が連動して動くことでヨー操作が行える。
着陸
ランディングゾーンが十分に得られれば、転換モードで減速してから着陸することで自らが作る下降気流(ボルテックスリング)によって失速を招く危険を避けられる。
ランディングゾーンが狭い場合や重量が軽ければ、 垂直離着陸モードでほぼ垂直に降下して着陸する

垂直離着陸モードでの緊急時の着陸ではオートローテーションを行えるという情報がある一方で、垂直離着陸モードでは110ノット毎時(約200km/h)以上の速度がないとオートローテーションが行えないという情報がある[要検証 – ノート]。固定翼モードでは飛行中に両エンジンが停止した場合に垂直離着陸モードに切り替えることはできず、着陸には固定翼のみを使用する。回転翼は緊急着陸などで地面に接触した場合、脱落するように設計されている。但し、片側のエンジンが作動している場合は、そのまま飛行可能であり、転換モードおよび垂直離着陸モードへの切り替えが可能である。
性能
ティルトローター機であるV-22の最高速度は300kt(約555km/h)を超える。これは、現在米軍が採用している同規模のヘリコプターCH-53E(170kt(約315km/h)自重15t)と比べて実に130kt(約240km/h)ほど高速である。速度に特化した高速ヘリコプター(最大速度200kt(約370km/h)程度)と比べても1.5倍の速度差であり、シコルスキー社が開発している高速ヘリコプターの実験機シコルスキー X2(225kt(約418km/h)程度)よりも速い。
回送時(貨物積載無し)の航続距離は1,940nmi(3,593km)あり、空中給油が可能であるためさらに延長できる。これはCH-53Eの倍近い距離となっている。垂直離着陸をした場合には航続距離は短くなる。
固定翼を併用するために、回転翼だけよりエンジンの単位出力当たり大きな揚力を得られる。また、回転翼機よりも上昇限度が高い。またローターと主翼は折りたたむことが可能であり空母だけでなく強襲揚陸艦でも運用できる。例としてサン・アントニオ級ドック型輸送揚陸艦ではヘリコプター甲板に4機・格納庫に1機の積載とヘリコプター甲板から同時に2機の発着が可能とされている。
2007年9月にイラク配備のための輸送では、ワスプ級強襲揚陸艦「ワスプ」に10機が積載された


アメリカ国防総省では458機のV-22を調達することを計画している。内訳は海兵隊用の輸送機MV-22が360機、アメリカ特殊作戦軍向けの空中突撃用機CV-22が50機、海軍向けのHV-22が48機である。特殊作戦軍の調達については空軍からも予算が支出される。
2000年の開発段階での事故以降は大きな問題も発生せず、2005年に運用評価を完了した。2005年9月19日にCV-22量産1号機が空軍に引き渡された。2005年10月28日に国防調達会議は全規模量産(FRP)の開始を承認した。2007年12月からイラク西部の戦闘作戦に初めて参加し、初のヘリボーン作戦は、2008年3月18日にMV-263所属の2機のMV-22Bがイラクにおいて行った。
FY2010までに216機が調達されている(内訳はMV-22が185機、CV-22が31機)2008年3月28日に結ばれた契約ではFY2008からFY2012までに167機を104億ドルで調達することが取り決められた。
米陸軍は、UH-60とCH-47で十分任務を果たせるとしてV-22を採用していない。
2015年1月17日、米海軍は、C-2艦上輸送機の後継にV-22にすると発表。

在日米軍の再編で沖縄県宜野湾市の普天間飛行場の移設に伴う代替施設(名護市辺野古)への配備が計画されていることが、米軍作成資料から明らかになっているが、日本国政府は承知していないとしていた。しかし、2008年4月22日、外務大臣(当時)の高村正彦は、参議院外交防衛委員会で山内徳信議員の質問に対して「配備の可能性がある」との認識を日本政府として初めて示した。
その後、鳩山由紀夫内閣下で普天間基地移設問題が混乱し、2014年までの普天間飛行場移設が困難となったため、2011年6月6日、米国防総省は2012年後半に、MV-22を沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場に配備すると正式に発表した。それを受けて2011年6月13日、北澤俊美防衛大臣は、沖縄県庁で仲井真弘多知事と会談し、米軍普天間飛行場へのMV-22配備を説明した。2012年7月23日にはMV-22Bが岩国飛行場に搬入され、9月21日に日本国内初の試験飛行が山口県沖や福岡県沖で行われた。9月27日は日本の政府関係者を載せて飛行を行った。10月1日に、6機、2日には3機が普天間飛行場に移され、4日午前に訓練飛行が行われた。これに対し仲井真弘多沖縄県知事は、「これだけ県民が反対しているものを使い出すのは、非常にむちゃな話だ」と批判した。
米政府は2015年5月8日、2017年から空軍向けの特殊作戦型CV-22を横田基地に10機配備する方針を決め、日本政府に伝えた。2017年後半に3機、数年以内にさらに7機を配備する予定。
防衛省は2015年10月30日、国際入札により沖縄駐留海兵隊のオスプレイの定期整備拠点が、千葉県の陸上自衛隊木更津駐屯地に決まったと発表した。整備は富士重工業が行い、陸上自衛隊が導入する機体も同地で共同整備される。

日本の防衛省は、平成25年(2013年)度予算案にオスプレイ調査費を計上し、災害救援や輸送など自衛隊の活動目的に照らすとともに、離島対処に対する運用を研究することとなった。日本国内での取り扱いは三井物産エアロスペース株式会社が担当している。日本の導入価格は2012年12月時点で一機当たり約100億円と見られていた。
2015年5月5日、アメリカ合衆国国務省が17機のV-22BブロックC及び40機分の各種電子機器を含む、推定30億ドル(約3600億円)分の装備を日本に売却する事を承認し、同年7月14日、平成27年(2015年)度予算分の最初の5機を3億3250万ドル(約410億円)で購入する事に日本が合意したと発表した。
2015年12月24日、平成28年(2016年)度予算案にてオスプレイの残り12機分を1321億円で一括購入する案が見送られた。
2016年12月2日、防衛省は陸上自衛隊が導入する予定のV-22「オスプレイ」について、役務の調達の相手方を富士重工業に決定したと発表した

全長:17.47m(ピトー管含まず)
全幅:25.54m(ローター含む)
全高:6.63m(VTOL時)
ローター直径:11.58m
航続距離:
(強襲揚陸時):515nmi(953km)
(ペイロード4,536kg、垂直離陸):350nmi(648km)以上
(ペイロード2,721kg、垂直離陸):700nmi(1,295km)以上
(ペイロード4,536kg、短距離離陸):950nmi(1,758km)以上
フェリー距離: 補助燃料タンク使用時 1,940nmi(3,593km)
短距離離陸滑走距離:152m以下
実用上昇限度:26,000ft(7,925m)
上昇率:2,320ft/min(11.8m/s)
ホバリング限界高度
地面効果内:3,139m
地面効果外:610m以上(22,680kg時)、1,829m(20,866kg時)、4,267m(15,422kg時、95%出力)
空虚重量:15.032t
円盤荷重:20.9lb/ft(102.23kg/m2)(自重247,500lb時)
飛行荷重制限:+4G/-1G
最大離陸重量
垂直離陸時:23.981t
短距離離陸時:27.442t
エンジン:ロールス・ロイスアリソン社製T406(ロールス・ロイス社内名称 AE 1107C-リバティー)×2基(最大定格出力:4,586kW(6,150shp)、緊急時最大出力:5,093kW)
最高速度
通常時:305kt=M0.46(565km/h)
垂直離着陸モード時:100kt M0.15(185km/h)[要出典]
失速速度:110ktM=0.17(204km/h)(固定翼モード)
離着陸距離
貨物を載せず24人が乗り組んだ場合はヘリコプターのように垂直離着陸が可能
最大積載量を積んだ場合は垂直離着陸できない。離着陸には約487m(1,600フィート)が必要
上空でエンジンを停止させて着陸する『オートローテーション』飛行訓練や単発エンジン着陸訓練、編隊離着陸などの習熟訓練には、最短で約792m(2,600フィート)、最大で約1,575m(5,170フィート)が必要。

 

 

 

 

中国軍管区司令部防空作戦室の遺構(旧日本軍)広島城

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中国軍管区司令部跡(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、広島県広島市中区基町にある、中国軍管区司令部防空作戦室の遺構。

大日本帝国陸軍の軍管区の一つであり、かつて半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていた。

現存する被爆建物の一つであり、ここが広島市への原子爆弾投下の第一報を外に向けて伝えた場所である。

広島城址公園内の広島護国神社境内、城の内堀の石垣付近にある。半地下式鉄筋コンクリート平屋造。
施設は広島市が所有し、公益財団法人広島市みどり生きもの協会が管理している。普段は立ち入り禁止。

平和学習目的のみ屋内見学が許可され、その場合は事前に協会に予約する必要がある。
また入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。


広島城は1894年(明治27年)広島大本営が置かれて以降主要軍事拠点として機能しており、太平洋戦争に入ると天守を取り囲むように様々な軍関係の建物が建設された。
戦争末期、空襲下でも指揮できるようシェルター機能を兼ねた半地下式RC平屋構造で司令部防空作戦室が作られた。

1945年(昭和20年)6月12日には、本土決戦に備え広島師管区が中国軍管区に改称され、天皇に直隷し中国地方を管轄することとなった。
同1945年(昭和20年)8月6日被爆。周りの建物は1号庁舎の中央レンガ部分と拘置所の一部を残し爆風により壊滅した。

ここは爆心地から790mに位置したがその強固な構造形式のため倒壊には耐えた。熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって中の人間が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者を出した。

1956年(昭和31年)、広島市民球場建設を期に広島護国神社が広島城址公園内に移転してくると、ここは神社の倉庫として使用された。
1990年(平成2年)、被爆50年目間近になり、市に移管され歴史的な被爆建物として保存された。

構造
延床面積208m2。天井高は約1.9m、壁厚は50cmもあり、上部は土で覆われ木も生えている状況で一見するとわからなくなっている。


中は5つの部屋に仕切られており、当時は入口側からそれぞれ「情報室」「無線通信室」「指揮連絡室」「作戦司令室」と呼ばれた。
作戦司令室は、文字通り参謀や将校が作戦を練るところ。壁には防空監視哨の位置を示す電球が埋め込まれた中国地方と四国北部の地図があった。

小窓を布で隠すなど外から中の様子が分からないよう処理され、軍人用の入り口が別に設けられていた。片隅には臨時ニュースを流すときのため広島中央放送局(NHK広島放送局)アナウンサーが待機する場所も設けられていた。


指揮連絡室は、作戦司令室からの伝票を受け役所や主要軍事施設へ電話連絡していた。学徒動員で来ていた比治山高等女学校(現比治山女子高等学校)生徒2、3人で担当した。
無線通信室には通信兵が入っていた。


情報室は、防空監視哨からの電話を受け取るところで、ここのスイッチを操作すると作戦司令室の壁の地図の電球が点滅した。比治山高等女学校生徒10人程度で担当。
また、当時は重要書類を入れていた資料室や、すぐそばに鉄塔もあった。

第一報 8月6日
中国軍管区司令部跡
8時過ぎ、エノラ・ゲイが広島市街を目視確認する直前、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機(あるいはB-29)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。

陸軍中国軍管区司令部にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。続いて海軍の中野探照燈台・板城探照燈台や陸軍の中国軍管区司令部から呉鎮守府に続報があり、呉地区に空襲警報が発令された。

高射砲陣地が戦闘配置し、対空戦闘用意の態勢に移行して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。また呉鎮守府飛渡瀬砲台では15.5cm高角砲がエノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。


中国軍管区司令部の地下壕にある作戦室の指揮連絡室では、隣の作戦室からの伝票「八・一三、広島、山口、ケハ」を受け取り、学徒動員の恵美(旧姓・西田)敏枝が宇品高射砲大隊と吉島飛行場に、荒木(旧姓・板村)克子が四国軍管区司令部(善通寺)に、岡(旧姓・大倉)ヨシエが電話交換機を使って各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとした瞬間、原爆が炸裂した(中国軍管区司令部からの警戒警報は各方面に伝達されることはなかった)。


広島中央放送局の流川演奏所では、古田正信放送員が呉鎮守府が発令した警報のメモを持って第2演奏室(スタジオ)に入った。古田が原放送所(放送休止時間のため停波中)に警報発令の合図を送り、放送所の送信機が始動した直後に原爆が炸裂、演奏所と放送所を結ぶ中継線が断線したため警報は放送されなかった。

広島放送局では約40名の職員が犠牲となった。
広島城内にある中国軍管区司令部の地下壕は半地下式のコンクリート耐爆シェルターであったため、熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって多くの負傷者を出した。

荒木と岡は一旦壕の外に脱出したが再び地下壕に戻り、荒木は四国軍管区司令部からの電話連絡を受け、岡は西部軍管区司令部(福岡)と歩兵第41連隊(福山連隊)司令部に、広島空襲の第一報を電話で伝えた。

 比治山高等女学校の3年生が司令部へ出動したのは、1945(昭和20)年の4月だった。 3クラスの中から50数名が選ばれ、その後30数名が追加され90名になった。 生徒たちは3つの班に分けられ、8時間ずつ、交代で勤務していた。 


 岡(旧姓大倉)ヨシエさんはそのうちの1人であった。 8月6日もいつもなら午前8時に仕事が終わり、交代のため壕の外に出るところだったが、次の班の朝礼が長引き、引き続き仕事をしていた。 それが幸いし、原爆の直撃を免れた。

 しかし、反対に外で朝礼をしていた1班と3班の生徒は、その全員が亡くなった。 
 原爆が投下された広島の状況を他の司令部(福岡の西軍管区指令部と福山の歩兵41連隊)にはじめて連絡したのは岡さん。「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と電話で第一報を軍に伝えたとされます。2017年86歳死去

旧名称 中国軍管区司令部防空作戦室
用途 遺構
建築主 大日本帝国陸軍


事業主体 広島市
管理運営 公益財団法人広島市みどり生きもの協会
構造形式 鉄筋コンクリート構造


延床面積 208m2 m²
階数 半地下式一階建
所在地 広島市中区基町21番1号

 

東武200形電車

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東武200形電車は、かつて東武鉄道に在籍していた路面電車車両。1954年(昭和29年)に日光軌道線向けに新製された連接車である。

1953年(昭和28年)の100形導入により近代化が進められた日光軌道線であったが、多客時の輸送用に残存していた従来車を完全に淘汰し、併せて輸送力増強を図るべく、より収容力の大きな本形式が新製されることとなった。
1954年に201 - 206の6編成が宇都宮車輌および汽車製造東京支店で新製された。

湘南型の正面形状等、基本的な構造は100形に準じているが、2車体3台車の連接構造とされ定員が100形の96名から150名へと約1.5倍に増強されたことが最大の特徴である。連接部分は広幅貫通路とされ、渡り板を段差のない円形の特殊形状としたこともあって、一体感のある車内とされている。


客用扉は1編成当たり片側3カ所で、窓配置は1D5D1・3D31d(D:客用扉、d:乗務員扉)と左右非対称設計となっている。またこの関係で隣接して客用扉のない車掌台側には乗務員扉が設けられており、これに続く側窓1枚も構体がこの部分より絞られるなどの構造的な制約から、隣接する3枚の側窓が間柱の幅を80mmで等間隔としていたのに対し、180mmとやや幅広の間柱を置いている。客用扉は100形と同様、運転台寄りの1カ所のみが2枚連接構造の引戸で、他2カ所は通常の1枚引戸とされ、側面窓枠はいずれも木製の二段窓(上段下降・下段上昇式)である。
車内はロングシート仕様で室内灯は白熱灯、内張りは木製ニス塗り、床はリノリウム張りであった。車体塗装は100形と同一の淡緑地に朱色の帯を巻き、側面窓枠を朱色としたものとされている。

主電動機:主電動機は補極付きの直流直巻式整流子電動機である東洋電機製造製TDK-532A-Cで、歯数比は4.5(63:14)、駆動装置は吊り掛け式である。各電動機の定格出力は100形用のTDK-532Bと同一であるが、連接車となったことから両端の台車に2基ずつ合計4基搭載され、2基ずつ直列接続を行うために巻線の接続を変えて電流量をおよそ倍に増大、端子電圧を半分の300Vに設定している。


制御器:制御器は日光軌道線初の間接自動制御方式が採用され、東洋電機製造ES-202電動カム軸式制御器が搭載されている。このES-202は勾配対策として電気制動を持ち、制御段数は力行・制動とも13段、前述の通り主電動機を2基直列に接続したものを2群並列接続し、速度制御は直・並列切換と抵抗制御のみで、弱め界磁は行わない。
台車:台車は100形と同系の高力鋳鋼による一体鋳造台車枠を備える住友金属製KS-40Jであるが、当時の路面電車用台車としては珍しくブレーキシリンダーが台車枠外側に設置されている。併せてブレーキシリンダーの数も1台車当たり2基に増強されている。
ブレーキ:制動装置は電気制動連動のSME-D非常管付直通空気ブレーキで、前述の通り制動力確保のため各台車にブレーキシリンダーを装架しているため、中継弁を併用する。
集電装置:集電装置は東洋電機製造BC-3ビューゲルを各車体1基ずつ搭載し、原則として2基とも上昇させて使用していた。これは通常のビューゲルと異なり、上部に関節を設けて追従性を改善したものである。

登場後は100形と共に通勤・通学、そして観光輸送の足として運用された。また本形式は団体輸送等貸切列車運行の際には、その収容力の大きさを生かして優先的に使用されていた。なお、本形式の運行時には運転手は当初同線の旧型車や100形同様に立って乗務に着いたがすぐに運転台に事務用の椅子を設置して座って乗務するよう変更された。これは100形とワイパーの取り付け位置が異なり(100形は正面窓の上部、200形は下部に取り付け)、立って運転すると降雨・降雪時に著しく視界が不良になるためである。車掌は2人乗務し、1人は前寄り車体の車掌台で客扱いを行い、もう1人は後寄り車体の運転台で扉扱いを行う体制であった。
1968年(昭和43年)の日光軌道線廃止に伴い全車廃車され、車齢14年と経年は低かったものの、100形のように他社へ譲渡されることなく大半の車両が解体処分された。しかし203のみは民間に引き取られた後、1981年(昭和56年)3月にオープンした東武動物公園にて展示保存されることとなり、車内外を整備の上同所に移設された。さらに1989年(平成元年)には、同年5月にオープンした東武博物館に移設され、展示物として現在も静態保存されている。


JRで最も短い鉄道トンネル 呉線の川尻トンネル

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2014年(平成26年)9月24日までは東日本旅客鉄道(JR東日本)吾妻線の岩島駅 - 川原湯温泉駅間の旧線上に存在したトンネルである樽沢トンネル(全長約7.2m)だったが吾妻線が廃線になったため広島県、呉線の川尻トンネルが日本一短い鉄道トンネルとなった。

西日本旅客鉄道(JR西日本)呉線の川尻トンネルは全長8.7メートル、JRで最も短い鉄道トンネル。ちなみにJR東日本管内のトンネルでは、五能線の仙北岩トンネル(全長9.5m)が最短トンネルとなる。

呉駅からは東へ5駅目の安芸川尻駅が最寄り駅となります。

川尻トンネルの上には県道248号線(旧さざなみスカイライン)が通っています。

 

ただ吾妻線はルートが変更され、ダムが完成し貯水されても、樽沢トンネルは水没しません。そのため樽沢トンネルは「鉄道が通らない元日本一短い鉄道トンネル」として保存される可能性があるとのことです。

歩道に隣接して2車線の道路があり、見た目は跨線橋のようでトンネルと跨線橋が連続して一つの跨線橋になっている感じです。

川尻トンネルの三原側と反対側は断面が違います。

新庚申塚停留場 都電荒川線

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新庚申塚停留場(しんこうしんづかていりゅうじょう)は、東京都豊島区にある都電荒川線の停留場である。


250 m北西に都営地下鉄三田線の西巣鴨駅があり、徒歩連絡で乗換が出来る。

王子電気軌道の駅が開業した後に、志村方面への東京市電路線が平面交差する形で開業した。その後身が都営地下鉄三田線である。なお、停留場名に“新”が冠されているものの、庚申塚停留場より後に開業した訳ではなく、両停留場とも同日に開業している。何故“新”が冠されたかということは明らかとされていない。

国道17号線との交差地点に位置し駅周辺には寺院が多い。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。ホームには短い階段かバリアフリー対応のスロープで連絡します。


1911年8月20日 - 開業。
1966年5月29日 - 都電の志村橋~巣鴨車庫前間廃止。(18・41系統)


所属事業者 PrefSymbol-Tokyo.svg 東京都交通局
所属路線 都電荒川線
キロ程 7.6km(三ノ輪橋起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1911年(明治34年)8月20日
乗換 西巣鴨駅(I 都営地下鉄三田線)

 

警務隊用1/2tトラック 73式小型トラック

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73式小型トラックは、1973年(昭和48年)に採用された自衛隊の汎用小型軍用車両(トラック)である。三菱自動車工業(パジェロ製造)が製造するが現在は2種類の車両がある。 なお、「73式」となっているが実際は「制式化」されておらず、正式名称については「1/2tトラック」に変更された。

警務隊仕様は車体を白く塗り、赤色灯、サイレンなどが装備されている。現在調達しているのはフォグランプをバンパーに埋め込んでいるタイプ。市販パジェロJ-TOPと同じタイヤを使用しているが、J-TOP用の市販は打ち切られ、自衛隊専用タイヤとなりつつある。

警務隊とは自衛隊の中で治安を維持したり、犯罪捜査を行う事が認められた特別な警察権を持つ部隊です。いわゆる諸外国軍の「憲兵隊」に該当し、陸海空それぞれに組織され、防衛大臣直轄部隊であることも特徴です。この部隊に所属する者を警務官と呼びます。警務官の呼称については陸海空士長以下の者は、警務官補と呼称し、身分は司法巡査となります。三等陸曹、三等海曹又は三等空曹以上の者は身分が司法警察員となります。陸自では単に「警務隊」、海自では「海上自衛隊警務隊」、空自では「航空警務隊」と正式名称がそれぞれの部隊で異なります。警務官たちは普段の訓練では野外戦闘訓練や逮捕術の訓練などを行っています。国賓に対して「儀仗」を行うのも第302保安警務中隊の特別儀仗隊です。主に、部隊の中で起きる暴力事件や窃盗などの犯罪を捜査、立件するのが任務ですが、隊員による官品横流し事案の捜査も行っています。自衛隊員が国から貸与されているカンピン装備品をネットオークションで販売するのは横領という犯罪にあたるため、そこで登場するのが警務隊です。司法警察権を行使し、オークション事業者から個人情報を入手し捜査を行います。


旧式化が目立ち、排ガス規制などにも適応できなくなりつつあったジープタイプに代わり、1996年(平成8年)からはパジェロベースで、ショートホイールベースモデルのフレーム後端を若干伸ばし、積載対応のためリーフリジッド化された車両が採用され、「(新)73式小型トラック」となった。新型装備ではなく、旧型車両の更新であるため、複数メーカーによる競争入札は行われておらず、「73式」の呼称が引き継がれ、制式名称は「73式小型トラック」(平成13年度納入車から「1/2tトラック」に変更)となった。パジェロをベースにした事から、旧型と同じくシガーライターと灰皿を搭載したほか、民間向け車両の部品を流用した事からエアコンのような快適装備も引き継がれ、冷房可能なエアコン搭載車となるが、電装系は民間向けパジェロの12V仕様に対し、防衛省向けは24Vであるため、操作パネルは同じながらも中身は別物である。 国土交通省届出の車両型式はV13B(2代目パジェロがV2-4系、3代目パジェロがV5-6系)となっているが、生産された順は2代目パジェロの後となっている。テールレンズは初代パジェロの物を流用。
方向指示器及びライト切り替えスイッチは旧型に類似したものを使用しており、ライトの点灯はライトスイッチの操作が必須となる。
乗降性の改善のために取り付けたサイドステップのため全幅が小型車枠ではなくなっており、「小型」呼称ながら高速道路通行料金は普通貨物車(1ナンバー車)と同じ料金だったが、後に普通乗用車料金になるよう改装された。
変速機はロックアップ機構を省いたトルコン式ATで、市販型パジェロの2代目車両となるJ-TOP(幌車)の専用タイヤであった18インチの大径タイヤ(横浜ゴム製215/85・18、専用鉄ホイール)を装着し、デフロック可能なセンターデフ式フルタイム4駆機構のスーパーセレクト4WDを備える。不整地走破性は旧式純正JEEPと同等程度の性能を持つとされるが、前輪がリジッドから独立懸架となったことで操縦安定性は向上した。タイヤ径の拡大により、地上高、特にアクスルデフ下の最低地上高が増大している。

災害情報収集のためAM・FMラジオも標準装備されている。
440kgの最大積載量があり、固有の搭載火器はないが、5.56mm機関銃MINIMI、12.7mm重機関銃M2などの各種機関銃、対戦車ミサイルなどを搭載することが可能。誘導弾や通信機器の搭載専用車両は2人ないし3人で運用される。 基本型は6人の乗車が可能だが、従来のジープ型が後部扉から乗降する後部4人に対し、パジェロベースは後部2人乗車であり、残りの2人は前席後部の中間の席に運転席と助手席のシートを倒して乗降する。指揮官車など通信機材が積載された車両に関しては中間の座席を1つ取り外して通信機を設置するため、5人乗車となる。 初期型は従来よりも予熱に時間がかかるため、冬季のエンジン始動に時間がかかる[6]。 現在は新型エンジンを搭載して、バンバー上にあったフォグランプをバンパーに埋め込んだタイプ(数もひとつから二つに増えている)が納入されている。 2014年頃からボンネットにインタークーラー用のエアインテークが無いモデルの納入が始まっている。 イラク派遣で使用された際には、三菱自動車が防弾能力を持つ"付加材1/2tトラック用"という物品を納入しており、防弾処理が施された。

全長 4.14m
全幅 1.765m
全高 1.97m
旋回性能5.8m
重量 約 1.94t
最高速度 135km/h
乗員数 6名
積載量:440kg
出力:85kW ターボ車91.9kW
製作 三菱自動車工業

毘沙門台駅 広島高速交通

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毘沙門台駅(びしゃもんだいえき)は、広島県広島市安佐南区毘沙門台一丁目にある広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)の駅である。

広島県立安古市高等学校の学生と毘沙門台の団地、マンションの住人で賑わう駅です。

島式ホーム1面2線の高架駅。毘沙門台団地への連絡通路の関係で線内で唯一ホームと同じフロアーに券売機・改札がある。

切符売場に券売機は2台と改札口には改札機が2台あります。

ステーションカラーは緑色。

のりば
1 下り 広域公園前方面


2 上り 本通方面

駅の北側は崖に面しており崖上の毘沙門台団地側からは、長い階段で連絡しています。


駅に隣接して駐輪場があります。

1994年(平成6年)8月20日 - 開業。


1999年(平成11年)3月20日 - ダイヤ改正で急行列車が新設されたが、当駅は通過駅となる。


2004年(平成16年)3月20日 - ダイヤ改正で急行列車が廃止され、5年ぶりに全ての列車が停車するようになる。


2009年(平成21年)8月8日 - PASPY導入。

駅構造 高架駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 1,945人/日(降車客含まず)
-2007年-
乗降人員
-統計年度- 3,634人/日
-2007年-
開業年月日 1994年(平成6年)8月20日

F-16 (戦闘機) F-16c(米国空軍)

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F-16は、アメリカ合衆国のジェネラル・ダイナミクス社が開発した第4世代ジェット戦闘機である。愛称はファイティング・ファルコン (Fighting Falcon)。
ジェネラル・ダイナミクス社軍用機部門のロッキード社への売却と、ロッキードのマーティン・マリエッタ併合によるロッキード・マーティンへの改称により、現在はロッキード・マーティン社の製品となっている。

概要
バージニア州フォールズチャーチに本社を置くジェネラル・ダイナミクス社が開発した軽量戦闘機。当初は昼間軽量戦闘機として開発されたが、後に全天候対空/対地攻撃能力を付与された。正式な初飛行は1974年2月2日。大型化したLERXおよび胴体とLERX及び翼を一体で成形するブレンデッドウィングボディを採用し、フライ・バイ・ワイヤを搭載するなど、当時の革新的技術を積極的に取り入れている。初飛行から40年以上経過しているが、段階的な改良が続けられたことにより後発の4.5世代機に引けを取らない能力を維持し続けている。
アメリカ空軍では高性能だが高価なF-15と相対的には安価な本機での「ハイ・ロー・ミックス」運用が行われており、保有作戦機の過半数を占めている。なお多くの導入国では主力戦闘機として運用されている。
4,500機以上製造され、世界20ヵ国以上の空軍が採用した実績からベストセラー戦闘機と評されており、アメリカ製のジェット戦闘機としては約9,000機のF-86、約5,700機のP-80、約5,000機のF-4に次ぐ第4位の生産数を誇る。アメリカ空軍向けの生産は終了し、2012年時点で1,020機あるF-16も2020年代までにF-35Aに入れ替える予定であったがF-35の開発は遅延。2017年4月には、配備期間を2040年以降まで延長する決定がなされた。飛行制限時間は、これまでの8,000時間から12,000時間となる見込み。ロッキード・マーチン社は、C型、D型の機体改造に向けて努力する旨を発表している。
アメリカ以外では新規に採用する国があるため、輸出向けとして改良型の生産が続いており、2012年4月3日にはモロッコ空軍向けのF-16C Block 52アドバンストが4,500機目の納入機として完成した。
本機をベースとした戦闘機、攻撃機、練習機などの派生型が複数開発されている。

基本構造
F-16は当初から、胴体と翼を一体で成型するブレンデッドウィングボディ(BWB)や機体の操縦をコンピュータで補正・制御するフライ・バイ・ワイヤ(FBW)といった革新的技術を取り入れた設計となっていた。
ブレンデッドウィングボディは離着陸時や旋回時など大迎角での飛行の際に、胴体で揚力を発生する効果が大きいため、実質上、主翼面積を増大させたのと同等の効果を持つ。単純に主翼面積を増やした場合は、抗力の増大や回転率低下といった欠点も不可避のものとなるが、これを抑えることができる。また、胴体内容積を大きく取ることができるため、内部構造の簡素化や燃料搭載量増への効果がある。
従来の操縦系では操縦桿やフットペダルと動翼は主系統では油圧、予備系統ではロッドリンクやワイヤーによる機械式であったが、FBWでは一方の端からの入力を電気信号に変換して電線で出力側まで伝送する。これにより、機械的接続なしに操縦席の入力を動翼のアクチュエータに伝えたり、逆に動翼への圧力を操縦席側のサーボモーターによる擬似応答とすることが可能となった。
特にデジタル信号に変換することによりコンピュータによる補正が容易になり、F-16が静安定性緩和(relaxed static stability:RSS)による運動能力向上機(Control Configured Vehicle:CCV)として実現するに至っている。
LERXとブレンデッドウィングボディを持つCCVとすることにより、大きな主翼面積として翼面荷重を低く抑えるという手法を取ることなしに要求される運動性を獲得した。より小さな主翼面積は抗力や突風の影響を抑え、低空域での機動性や安定性、加速力の向上に寄与している。なお、静安定性緩和による水平尾翼の釣合い荷重の軽減に応じた尾翼面積の減少も空気抵抗低減に効果があったが、本格的生産後に判明した対地攻撃時の引き起こし時の不具合に対して30%面積を拡大されている。主翼には、後縁にフラップとエルロンの両方の機能を持つフラッペロンと前縁に前縁フラップが取付けられており、小さい旋回や大迎角での飛行などの空戦時の機動性向上が図られている。また、エア・ブレーキはエンジンノズル付近の両側に取付けられている。
機体の構造材料としてはアルミニウム合金が高い割合を占め、F-100以降にアメリカ戦闘機に広く採用されているチタニウム合金の使用率は2%程度である。F-15の25.8%と比べると10分の1程度であり、価格低減を重視している。一方で複合材料の使用率は4%に達し、F-15の1.2%よりも高い。また、F-15のボロン系に対し、より発展したグラファイト系の複合材料を採用している。
基本構造はA型の時点でほぼ完成しているが、武装やアビオニクスの拡張性が高く、メーカーがアップデートや採用国の要求に合わせた改修を行っている。

エンジン
試作機からBlock 25までの機体は、プラット・アンド・ホイットニー社製のF100を一基搭載していたが、Block 30からは、ゼネラル・エレクトリック社製のF110 の搭載も可能なエンジンベイとなった[35]。
機体下面に装備され、外見上の目立つ特徴となっているエアインテークは遷音速域での効率に重点を置いた固定式となっており、軽量な機体に高出力のエンジンでありながらも最高速度をマッハ2に留めている。LWFは遷音速域で起こる格闘戦を目的としてマッハ2以上の最高速度の要求がなかったため、ジェネラル・ダイナミクスでは、最高速度をマッハ2.2とする可動式エアインテークを装備した場合と最高速度をマッハ2程度とした固定式エアインテークを比較すると、超音速領域の最高速度と余剰推進力を除いた同一条件要素において固定式エアインテークの方が優れているとした結果である。

武装
M61A1 20mmバルカン砲を固定武装とし、主翼先端部や主翼下にAIM-120 AMRAAMやAIM-9を搭載可能。これに加え、無誘導爆弾やクラスター爆弾、レーザー誘導爆弾、ロケット弾などを搭載できる。

愛称
愛称は、当初「マスタングII」や「コンドル」も検討されていたが、空軍士官学校でマスコットに使用されているファルコン(隼)と決定した。しかし、航空機の商標としては『ファルコン』がダッソーのビジネスジェットダッソー ファルコンに使われているため、訴訟を避ける目的で、ファイティング・ファルコン(Fighting Falcon:戦う隼)と言う名称が制定されている。米空軍のパイロットや整備員の間での非公式な愛称として、宇宙空母ギャラクティカ オリジナルシリーズに由来する「バイパー」や「エレクトリックジェット」と言う名称も使用されている。
非公式名称の一つの「バイパー」はインド向けに提案されていたF-16INの現地公式名称として、メーカー側でも使用していた。


運用
当初格闘戦のための軽量戦闘機として開発されたにもかかわらず、対地攻撃に使用できる十分な対地攻撃能力を兼ね備えた結果「スウィング・ロール」や「スウィングファイター」と呼ばれた。近年、この種の機体はマルチロール機と呼ばれている。
低速・低空での運動性が良好であることから湾岸戦争前の時点で派生機のA-16がA-10の後継の座をA-7FやAV-8Bと争っていたが、湾岸戦争での実績に対する再評価によりA-10を延命改修した上で2028年まで使用した後、F-16ともどもF-35で更新するという決着となっている[41]。
低速・低空での運動性が良好という特性により無改造で高度な曲技飛行が可能なため、アメリカ軍ではサンダーバーズ(空軍)やPACAF F-16 Demo Team(太平洋空軍)で曲技機として使用されている。
2014年9月9日、F-16Dにおいて飛行後の点検時にロンジロン(縦通材の中で最も強度が高い部分)にクラックが見つかり緊急点検を実施したところ、82機で亀裂の発生が確認された。該当機は飛行が停止され現在ロッキード・マーティンと協力して修理方法を開発中である。なお該当の機体は平均機齢が24年、5,500飛行時間以上である。

F-15は1960年代後半から1970年代末にかけてのインフレにより高価になり、アメリカ空軍でも当初計画されていた配備済のF-4全機をF-15と発展型で置き換える事ができなかったため、F-16を並行配備して作戦機数を確保している。
低い高度での任務が主軸となる対地攻撃任務は制空任務より損耗率が大きいため、高価なF-15が制空任務専門に充てられたのに対し、相対的に安価なF-16は制空・対地の双方の任務に用いられ、フランスのミラージュ2000などとともに小型・軽量ながら現代の本格的なマルチロールファイターの先駆けとなった。
F-15系列機に対する対地攻撃任務面の長所として、軽量小型でかつCCV設計の採用によって空気抵抗が小さく、高度300m以下での低高度での機動が上回っている点もあげられている。しかしその一方で、兵器の搭載量に関してはF-15には及ばない。
アメリカ空軍をはじめ多くの国で運用中であるが、2020年代からはF-35 ライトニングIIへの更新が進むとされる。ただしアメリカ空軍はF-16を2025年まで運用できるよう改修しており、また、アラブ首長国連邦など最新型を運用している国では2025年以降も運用されることが予想される。
F-16は日本のF-2の原型になっている。

F-16C/D
Block 25
1984年から配備開始。第二段階のMSIP(中核電子機器、コックピット、機体フレームの変更)によるA/B型の能力向上型。エンジンはF100-PW-220に、レーダーはAN/APG-68に換装し、コックピットには2基の多機能ディスプレイや広角HUD(在来型の視野角度10°に対し15°)が搭載され、AIM-7の運用能力を得た。搭載機器の変更により垂直尾翼基部の厚みが増し前方に延長され、機体構造の改良により機体後部のパネルラインが以前の機体と変わっている[87]。なお、新造機を採用したのはアメリカ空軍のみ。


Block 30/32
1987年から配備開始。リスク軽減を目的としたAFE[88]プログラムにより、F-15Eと共通のエンジンベイを使用した型で、従来までのF100に加えてF110 (F110-GE-100) エンジンが搭載可能になった。この型以降、ブロックナンバーの下1桁は搭載するエンジンを表し、「0」がF110搭載型、がF100搭載型となる。F110を搭載したBlock 30後期生産型(86-0262以降)からはエアインテークを拡大したMCID(モジュラー・コモン・インレット・ダクト、通称「ビッグ・マウス」) に変更(これに対し従来のエアインテークはNSID:ノーマル・ショック・インレット・ダクトと呼ばれる)してエンジンの吸気効率を改善し、カタログスペックから低下していた低中高度のエンジン出力を改善した。以降のモデルでもエンジンノズル形状の違いとともにF110搭載機とF100搭載機の識別点となっている。他にはエアインテーク部にRCS軽減処理を行い、在来型よりレーダー捕捉を困難にした。
後にAIM-120の運用能力を得た機体はBlock 30B/32Bとも呼ばれる。その後さらにAGM-45 シュライクおよびAGM-88 HARM対レーダーミサイルの運用能力も加えられ、ワイルド・ウィーゼル任務にも使用可能になった(この能力を本格的に持つのは後述するBlock 5Xになってからである)。


F-16C Block 25
全幅:9.45m
全長:15.03m
全高:5.09m
翼面積:27.87m²
自重:8.27t
最大離陸重量:19.19t
発動機:プラット・アンド・ホイットニー F100-PW-220(A/B使用時 10,809kg)1基
RCS:約2m²
FCS:AN/APG-68[104]
レーダー警戒装置:ALR-69[注釈 7]
燃料搭載量:
最大速度:マッハ2.02
上昇率:15,240m/m
実用上昇限度:15,240m
離陸滑走距離:260m
着陸滑走距離:600m
最大搭載量:7,070kg
航続距離:4,200km
乗員:1名
機体寿命(各種派生型共通):4,000時間
F-16C Block 40 (F-16CG)
全幅:10.00m(翼端AAM含む)
全長:15.03m
全高:5.09m
翼面積:27.9m²
空虚重量:8,627kg
全備重量:10,780kg
最大離陸重量
制空任務:12,331kg
最大装備:19,187kg
発動機:ゼネラル・エレクトリック F110-GE-100(A/B使用時 128.9kN)1基
FCS:AN/APG-68(V)[104]
レーダー警戒装置:ALR-69もしくはALR-56[227]
燃料搭載量:3,896L(機内搭載)+1,402L×2(増槽)
最大速度:マッハ2.0 (2,414km/h)
実用上昇限度:15,240m
機外搭載量:5,443kg
戦闘行動半径
Hi-Lo-Hi:740nm
Hi-Lo-Lo-Hi:340nm
迎撃任務:710nm
航続距離:2,000nm
乗員:1名
F-16C Block 50 (F-16CJ)
全幅:9.45m
全長:15.04m
全高:5.09m
翼面積:27.9m²
自重:8,270kg
全備重量:12,000kg
最大離陸重量:19,190kg
発動機:ゼネラル・エレクトリック F110-GE-129(A/B使用時(13,340kg)1基
推力重量比:0.69
FCS:AN/APG-68(V)5,(V)9
レーダー警戒装置:ALR-56M[228]
最大速度:マッハ2.0
上昇率 : 15,240m/min
実用上昇限度:15,240m
翼面荷重:687.7kg/m²
翼福加重:236.9kg/m²
最大搭載量:7,070kg
戦闘行動半径 : 1,760km
航続距離 : 3,980km
乗員:1名

 

 

 

 

 

 

 

丸子山米軍兵士慰霊碑

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呉市音戸 町と倉橋町の境にある倉橋側の丸子山にその碑はあります。道ののり面に余り目立ちませんが表示があり、そこの階段を上っていきます。


爆撃機は45年7月24日、音戸町の民家に墜落し、搭乗員1人が死亡。52年、大戦中に長男を戦地で失った当時の藤脇区長が「戦争が終われば敵味方はない。平和な日本になるように」と、十字架の碑を建てたという。

当時を覚えてる人の話だと「墜落直後、地響きが起きたのを覚えている」との事。1945(昭和20)年7月の呉地区に停泊中の艦艇を空襲した。呉沖海戦に参加した米軍艦載機1機が墜落し搭乗員3人のうち2名が脱出したが、1名は落下傘が開かずに死亡し脱出できなかった1名は機体と運命を共にし1名は捕虜になった。落下傘降下で助かった1人の兵士は呉の海軍刑務所に連行されました。

墜落地点は能美島、音戸町、倉橋町に囲まれた釣士田港付近

 

碑に関して呉市立明徳小学校の明徳同友会が表示板の整備や慰霊祭などにかかわっているようすです。墓碑自体は地元の地区長さんが建立されたとか。

比治山橋停留場 広島電鉄(皆実線)

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比治山橋停留場(通称:比治山橋電停)は、広島県広島市南区比治山本町にある広島電鉄皆実線の路面電車停留場。


西側すぐそばを京橋川が流れ、比治山橋が架かる。市内中心部方面へは比治山橋と結ばれています。橋のたもとには被爆石碑『広島県道路元標』がある。対岸は中区になり、住宅街である。東側は比治山の南端にあたり、麓は住宅街のほか行政関連の施設も多い。

相対式2面2線。連接車に対応したホームです。広島駅方面ホーム入口に安全地帯標識が設置されホームには横断歩道からスロープで連絡します。上屋はホーム全面に整備されています。


運行路線
南行きホーム 5号線 広島港(宇品)ゆき・宇品二丁目ゆき・皆実町六丁目ゆき
北行きホーム 5号線 広島駅ゆき

1944年(昭和19年)12月27日 - 開業

所在地 広島市南区比治山本町
北緯34度22分59.54秒 東経132度28分7.2秒
駅番号 H6
所属事業者 広島電鉄
所属路線 皆実線
キロ程 1.4km(的場町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1944年(昭和19年)12月27日


那覇空港駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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那覇空港駅(なはくうこうえき)は、沖縄県那覇市字鏡水にある、沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は1。沖縄唯一の鉄道の起点駅。


東経127度39分8秒にあり、日本最西端の駅である。

駅構造
島式ホーム1面2線。ラッシュ時を除いて1番ホームのみを使用する。
当駅改札階と那覇空港ターミナルビル2階(出発ロビー)とが連絡通路で同平面にて結ばれており、当通路上にはムービングウォークが併設されている。

那覇空港到着ロビーは空港ターミナルビル1階のため当駅と同一平面で結ばれていないことから、到着客の手荷物運搬性に配慮しターミナルから駅手前までは空港備え付けカートの使用が認められている(片道のみ)。
自動改札はQRコードを利用しています。


のりば
那覇空港駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1・2 ■沖縄都市モノレール線 小禄・県庁前・牧志・おもろまち・首里方面


主に1番線が使用されるが、ラッシュ時には2番線も使用される。

駅設備
自動券売機
売店 - 改札内にちんすこうの売店あり。現在当線で唯一の売店である。
飲食店 - 35コーヒーステーションカフェ(日本最西端の駅弁を販売)
コインロッカー - 改札外に設置。
小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)50個
公衆電話 - 改札内(売店横)に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札外に2台、改札内に1台(車椅子対応)、ホームに2台設置。
トイレ - 改札内に設置。

駅周辺
那覇空港
国内線旅客ターミナル
国際線旅客ターミナル
那覇空港事務所
那覇空港税関支署
那覇空港内簡易郵便局
那覇航空交通管制部
陸上自衛隊那覇駐屯地
航空自衛隊那覇基地
国道332号
沖縄県道231号那覇空港線
沖縄都市モノレール本社
ゆいレール展示館


発車メロディと駅進入時の車内チャイムは、琉球民謡の「谷茶前(たんちゃめー)」を編曲したもの。
戦前の沖縄県営鉄道などを含め、沖縄本島に設置された駅として最西端に位置する。
日本最南端の駅である赤嶺駅は当駅の隣駅であり、当駅から所要4分、で行くことができる。


沖縄県内にJRグループの路線が(航路を含めて)存在しないため、日本最東端の駅であるJR東根室駅や日本最北端の駅であるJR稚内駅へ(から)はJRの路線のみでは到達できず、航空機か船舶航路を利用する必要がある。


当駅構内で販売されている「油味噌かつサンド」は日本最西端の駅弁である。
改札付近での沖縄方言による案内放送では「なーふぁくーこー」と発音される。


歴史
開通前の仮称の駅名は「空港駅」であった(「那覇」はつかなかった)。
2003年(平成15年)8月10日 - 当駅 - 首里間開業と同時に開業。
2004年(平成16年)7月12日 - 日本最西端駅記念碑が設置され、除幕式が挙行される。

駅番号 1
所属事業者 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線(ゆいレール)
キロ程 0.00km(那覇空港起点)
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 5,269人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日
備考 日本最西端駅

 

尾道水道クルーズ GOLDⅡ

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元大学生によるガイドのもと、日本遺産に認定された港町・尾道の歴史や街並みをのんびりクルージングします。

しまなみ海道新尾道大橋をくぐったり、尾道造船の巨大な新造船を間近で見ることができます。
さらに千光寺山ロープウェイとセットになったお得なセット券も販売されています。

(3月~5月、7月~11月)の期間限定の尾道水道クルーズ。(11:00/12:00/13:00/14:00)尾道港発
【所要】約40分

アクセス【乗り場】
●尾道港桟橋[ウォーターフロントビル1F]
・JR尾道駅より徒歩3分

●十四日元町(とよひもとまち)桟橋[尾道市役所西側]
・千光寺山ロープウェイ山麓駅より徒歩3分

船名 GOLDⅡ
船籍 尾道
進水年月 平成5年9月
旅客定員 遊魚船の場合23名その他の場合50名
総トン数 19t
全長 17m
全幅 4.6m
深さ 1.7m
主機関 ヤンマー390ps×2基
船種 遊魚船(旅客船)
航海速力 15knt
最高速力 20knt
航行区域 水平
船内設備 操舵室…1、機関室…1 客室…1、トイレ…1
無線設備 携帯電話

 

会社名 瀬戸内クルージング
郵便番号 〒714-0086
TEL 0865-62-2856
URL http://s-cruise.jp
従業員 13名
営業エリア 瀬戸内海一円
有資格内容 一般旅客定期航路事業 内航不定期航路事業
代表者 藤井 一彦
所在地 岡山県笠岡市五番町5-16
FAX 0865-63-0613
E-mail info@s-cruise.jp
設立年 明治31年
定休日 不定休
業務内容 離島への定期船の運航及び、不定期船の運航

 

新清水駅 静岡鉄道静岡清水線

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新清水駅(しんしみずえき)は、静岡市清水区相生町にある静岡鉄道静岡清水線の駅。駅番号はS15。
1975年までは駅前を同社の路面電車(清水市内線)が走っていた。

駅構造
駅舎は平屋のコンクリート造駅舎です。
櫛形ホーム(複線)
3面2線で、1番線の降車ホームとなる対向式ホームと、1・2番線に挟まれた乗車専用の島式ホームからとなる櫛形ホームである。かつてはさらに2番線と3番線(昔は路面電車の清水市内線とつながっていた線路で、現在は取り外されている)との間にも島式ホームがあり、現在もその形はとどめている。また留置線跡の架線が長らく残されていたが、近年になって撤去された。
清水市内線の連絡線は駅前の道路で横砂駅方面と港橋駅方面に分かれるデルタ線を形成していた。直通運転は行っておらず、長沼駅の車両工場への車両回送や夜間等の留置線として使用されていた。
改札口はかつて清水市内線(市電)が走っていた国道149号線に面する大きな改札口(正面口)と、新静岡側の市道に出る小さな改札口(巴町口)がある。改札機は4台。出場専用機も1台設置されています。切符売場には券売機は3台。定期券売り場も併設されています。
ホームに入線する手前、踏み切りの先から速度制限が25km/hと極端に下げられたかなり急なカーブと勾配が存在する。かつてはこの踏切の位置に両渡り線が存在したが、現在運行中の1000系電車ではこの位置では通り抜ける事ができない為、現在は巴川橋梁を渡った新静岡側に設置されている。この為、新清水駅に入線する電車が鉄橋の手前で信号待ちをして入線する事がある。事実上この両渡り線と駅までの区間は単線並列区間となっている。このカーブでは列車の通行時に、レールと車輪が軋むフランジ音がかなり大きい音で発生していたため、騒音低減を狙ってレールに水を撒く散水装置を設置していた事があったが、思ったような成果が得られなかった為か程なく撤去されている。ちなみにこの巴川橋梁で、映画「ビー・バップ・ハイスクール (第1作)」のロケを静岡鉄道の協力の下で行った際、電車の窓から川に転落するスタントシーン(電車内での乱闘シーン)が撮影された。
便所は改札内降車ホームの東側、軌道車止め前付近にある男女別の水洗式。
尚駅舎は2008年まで二階建てのテナントビルであったが、テナントとして入居していた店舗が退去して空きテナントとなった区画が多くなった事と、建物の耐震補強の為、現在の駅舎部分を残して二階部分と駅舎の南側を撤去し、改装の上、取り壊したテナント部分をファミリーマートの店舗敷地に提供している。同時にトイレの周辺も改装された。


のりば
1 ■静岡清水線 草薙・新静岡方面(降車ホーム)
2 ■静岡清水線 草薙・新静岡方面(乗車ホーム)
3 □(旧清水市内線)


駅周辺
静岡市役所清水庁舎・清水区役所
清水駅(徒歩約10分)
ホテルサンルート清水
三菱東京UFJ銀行 清水支店(旧東海銀行店)
みずほ銀行 清水支店(旧第一勧業銀行店)


バス路線
区内のバス交通はしずてつジャストラインが運行している。路線名の前の数字は幕番号(行先番号)である。 またエスパルスドリームプラザの送迎用無料バスが駅前から発着している。駅向かいのホテルサンルート清水から100m程南下した位置にある乗車専用のバス停となっている。


歴史
1908年(明治41年)
5月18日 - 静岡鉄道(旧)辻村駅として開業。 当駅 - 清水町(後の波止場駅)間開業。
8月 - 会社合併により、大日本軌道の駅となる。
12月9日 - 鷹匠町(現:新静岡) - 当駅間開業。
1918年(大正7年)
以前 - 当駅 - 波止場間廃止。
月日不明 - 江尻新道駅に改称
1919年(大正8年)5月1日 - 会社譲渡により、駿遠電気の駅となる。
1923年(大正12年)3月12日 - 会社名改称により、静岡電気鉄道の駅となる。
1933年(昭和8年)3月29日 - 清水相生町駅に改称。
1943年(昭和18年)5月1日 - 会社合併により、静岡鉄道の駅となる。
1954年(昭和29年)10月1日 - 新清水駅に改称

駅番号 S15
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 11.0km(新静岡起点)
駅構造 地上駅
ホーム 櫛形 3面2線
乗車人員
-統計年度- 3,004人/日(降車客含まず)
-2015年-
乗降人員
-統計年度- 6,384人/日
-2015年-
開業年月日 1908年(明治41年)5月8日
乗換 清水駅 - 東海旅客鉄道徒歩10分

日暮里駅 JR東日本)京浜東北線

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日暮里駅(にっぽりえき)は、東京都荒川区西日暮里二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京成電鉄・東京都交通局の駅である。

駅の西側には昔ながらの商店街「谷中ぎんざ」や谷中霊園がある。反対に駅の東側では駅前再開発が行われている。南東側には繊維問屋街がある。
駅東口付近のバスターミナルには、太田道灌の騎馬姿の銅像がある。
かつては駅前に駄菓子問屋が集まった一角があったが、日暮里・舎人ライナーの乗り入れに伴う駅前再開発で建設されたサンマークシティがあり、山手線日暮里駅直結の3棟の高層マンションおよび付属施設で構成され、3棟ともに居住・商業施設が一体となっている。


駄菓子屋が「ステーションガーデンタワー」に入店したほか、日暮里に本部を置くエドウインも入店した。
駅北側は短い区間ながらJR線の6複線と京成線の上り線の計13線がほぼ同一平面で併走し、日本最多の併走区間となっている。この区間では1日当たり約2500本もの列車が通過する。併走の様子は北口の跨線橋である下御隠殿橋から見ることができる。北改札口の西口駅舎には当駅を走るJR車両のイラストが展示されていて、下御隠殿橋には列車を模したレリーフが飾られている。南口側は新幹線が地下に潜り、京成線がJR線を跨ぎ越すため、5複線になる。


JR東日本の各線、京成電鉄の本線、東京都交通局の日暮里・舎人ライナーの3社局の路線が乗り入れ、接続駅となっている。このうち京成電鉄の駅には「KS02」、当駅を起点とする日暮里・舎人ライナーの駅には「01」の駅番号が付与されている。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線と常磐線の2路線であり(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)、東北本線を所属線としている。東北本線は田端駅経由の本線と尾久駅経由の支線との分岐駅となっているが、支線を経由する列車線で運行される宇都宮線(東北線)・高崎線列車はホームがなく通過となり、本線経由の電車線で運行される京浜東北線電車および山手線電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」は使用されていない。一方、常磐線に関しては中距離電車および常磐線快速電車が停車する[1]。同線は線路名称上は当駅を起点としているが、列車はすべて東北本線上の専用線路を介して上野駅まで乗り入れているほか、一部列車は上野東京ラインによって品川駅まで運転される。また当駅は、特定都区市内における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。

JR東日本3面6線、京成電鉄3面2線、日暮里・舎人ライナー1面2線の計7面10線のホームを持つ。京成下りホームおよび日暮里・舎人ライナーのホームが高架ホームのほかはすべて地上ホームである。橋上駅舎を有している。改札は北口と南口の2か所で、北口は「東口」と「西口」の2つの出口がある。JRと京成の間には中間改札があり、構内乗り換えが可能である。
また、当駅を起点として日暮里・舎人ライナーが開通し、北口の駅前広場上空に既存駅に対して直角に駅舎が設置されるとともに先のコンコースを介して3社局の駅が連結された。これと並行してJR・京成とも駅改良工事を施工したが、特に京成側は国土交通省の鉄道駅総合改善事業として日暮里駅整備株式会社を事業主体とし駅の構造を変えてしまうほどの大規模な工事となり、その進捗によって駅出入口、通路、階段、改札口などの変更が頻繁に行われ、駅構内では係員が常駐し、肉声や拡声器を使って利用客の案内・誘導を行っていた。

東口では、2007年6月頃からガムテープを使った案内表示がコンコース内外で展開されるようになった。これに伴い案内員も減り、スムーズに人が流れるようになった。なお、案内表示は手作業で製作した独自の書体を使用している。この書体は、以前の新宿駅改良工事で乗り換え案内テープを製作した際にも話題となったもので、考案者で当駅の警備担当者でもある佐藤修悦の名前を取って「修悦体」と呼ばれている。
JR東日本と京成電鉄では、ホーム番号を連番で設定している(京成電鉄:0 - 2番線、JR東日本:3 - 12番線)。開業日はJRが先である。

3面6線の島式ホームと線路、また4本の通過線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有する。
駅改良工事によって北口コンコース周辺の駅上部に人工地盤が建設され、コンコースが大幅に拡幅された。これにより改札口や通路が広げられ、エスカレーターやエレベーターなどのバリアフリー設備も完備した。当初予定していた改良工事はこれで終了となるはずであったが、一つ上野寄りにある中央連絡通路までコンコースを広げることが決定し、今後、新たな人工地盤の建設工事が開始される予定である。ただ2014年のJRのファクトシートでは日暮里駅開発の記載がなくなっている。


2008年3月30日、「エキュート」としては4箇所目の駅ナカ施設「エキュート日暮里」が一部でオープンし、「ブックセンターリブロ」が開店、また同年7月22日にはベーカリー&スイーツショップ「東京バックハウス」が開店した。その後、新設した人工地盤上にも店舗を展開する計画であったが、コンコースのさらなる拡張が決定したため、まずは工事に干渉しない範囲に規模を縮小した上で2009年6月20日にスイーツ、惣菜、フラワーショップなど新規に15店舗が暫定的に開店した。今後、コンコースの拡張に合わせ、エキュートも拡大する予定である。ただ2014年のJRのファクトシートでは日暮里駅開発の記載がなくなっているので、エキュート拡大の計画は不透明である。なお、改良工事以前は駅構内に中華料理・カフェ・花屋などの店舗があった。
バリアフリー関連では各ホームにつながるエスカレーターとエレベーターを設置。2007年6月から12月にかけては改札口周辺を改良するため、自動改札機・自動券売機・自動精算機およびみどりの窓口を暫定的に南(従来のコンコース内)へ移動させた。この場所は従来の北口通路を塞ぐ位置だったため、工事期間中はコンコース内の動線が迷路状に無理矢理つながっている状態で複雑になり、さらにコンコース全体の床面も20cmほど嵩上げしたため段差やスロープがあちこちにある状態になっていた。


旧来は北側連絡通路と中央連絡通路にそれぞれJRと京成の乗り換え改札口があったが、同年7月14日に新しい人工地盤の上に乗り換え改札が新設されたことに伴い、北口通路と中央通路がつながった。これにより出口がなかった中央連絡通路から北口改札へ抜けることが可能となった。
当駅は利用者数に対してホーム幅が狭いため、特に朝夕のラッシュ時は大変な混雑となる。出口や乗り換えのための通路が4本もあり、そこにつながる階段およびエスカレーターの数は、ホーム1本当たりで考えると東京・上野・池袋・新宿などの他の主要駅より多い。2013年10月20日、京成線下りホーム高架化により発生した空きスペースを利用して常磐線ホームの拡幅工事を実施した。2008年3月には、駅コンコースにLED式発車標が設置され、常磐線と京浜東北線の発車時間を確認できるようになった(山手線は従来通りホーム上のみ設置)。なお、京浜東北線の表示は快速運転時間にはホーム上の発車標のような「只今の時間は通過」ではなく、北行列車利用の場合は2駅先の田端駅まで、南行列車利用の場合は2駅先の上野駅まで、それぞれ山手線を利用した上での京浜東北線への乗換案内をスクロール表示している。

のりば

番線 路線 方向 行先
3 ■■常磐線(快速)(■上野東京ライン) 上り(南行) 上野・東京・品川方面
4 ■■常磐線(快速)・成田線 下り 北千住・松戸・取手・成田・土浦・水戸方面
9 ■京浜東北線 南行 上野・東京・品川・横浜方面
10 ■山手線 外回り 上野・東京・品川・目黒方面
11 内回り 池袋・新宿・渋谷方面
12 ■京浜東北線 北行 田端・赤羽・大宮方面


5 - 8番線は常磐線ホームと山手線・京浜東北線ホームの間を通過する東北本線(宇都宮線・高崎線)の線路に振られる形で欠番となっている。かつて東北本線にもホームがあったが、戦前の時点で停車する列車はほとんどなく、戦後には全列車が通過となった。その後も列車ダイヤの乱れや多客時の臨時列車運転時には当駅に臨時停車して客扱いすることもあったが、東北新幹線の建設が決まると、1977年に当駅付近で地下入口の線路用地確保のためホーム撤去を行い、線路を常磐線寄りに移動した結果、5 - 8番線が欠番(通過線)になった。なお、ホーム現存時代から現在まで、5番線は上野駅高架ホーム(5 - 9番線)着の上り列車、6番線は同駅地平ホーム(13 - 17番線)着の上り列車、7番線は同駅地平ホーム発の下り列車、8番線は同駅高架ホーム発の下り列車が使用しており、この複々線は上野駅から尾久駅手前まで続いている。1975年頃までは主に秋葉原貨物駅との連絡用に、常磐線ホームの三河島駅寄りから分岐して田端操駅に至る単線の連絡線があった。
2005年7月8日まで常磐線の普通列車には、415系の7・8両編成の列車も存在していた。現在はすべて10・15両編成のE531系となっているが、線路際に「8両最前部」の標識が現在でも残っている。
日中の京浜東北線は全列車が快速となり、当駅を通過する。このため、この時間帯に当駅から京浜東北線を利用するには山手線に乗車し、京浜東北線の快速が停車する上野駅もしくは田端駅で乗り換える必要がある。特に常磐線から京浜東北線北行への乗り継ぎについては、山手線で田端駅まで利用した上で乗り換えるように案内がある。
4番線のサインは「常磐線・成田線」などと常磐線快速電車と直通する成田線も表記されている。なお、当駅には常磐線各駅停車が一切乗り入れていないため、乗り場のサインでは「(快速)」の表記が省略されている。
線路間に古レールを利用した昭和初期以来の構造物が一部残っているが、線路移動工事によって途中で切断されているものが多い。
山手線で運用されているE231系500番台と京浜東北線で運用されているE233系1000番台の車内液晶ディスプレイ (LCD) の乗り換え案内における常磐線のラインカラーは、前者が緑色■のみ、後者が青色■のみとなっている。
バリアフリー設備/エスカレーター:南口・北口 - 山手線・京浜東北線、常磐線ホーム(南口 - 常磐線ホームは平日6時30分から9時30分まで上り運転)・エレベーター:北口 - 山手線・京浜東北線ホーム・多機能トイレ

JR日暮里駅より北側に隣接する西日暮里駅とは、駅間距離が0.5kmと、山手線・京浜東北線の中で最も短い。加えて適度な高低差があるため、双方の駅のホームが目視できる。
JR日暮里駅のイメージキャラクターは、谷中のネコをイメージして、JR社員が考えた「にゃっぽり」。駅スタンプに用いられ、またエキュート日暮里でグッズも販売されている。JR東日本:駅長のおすすめ情報 日暮里駅のイメージキャラクターが駅スタンプになる。

1905年(明治38年)4月1日 - 日本鉄道の三河島 - 日暮里間が開通し、現在のルートが完成時に開業。
1906年(明治39年)11月1日 - 日本鉄道の国有化に伴い、当駅も国有とされる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により東北本線の所属となる。
1928年(昭和3年)頃 - 現在地より北寄りにあった駅を現在地に移転。
1931年(昭和6年)12月19日 - 京成電気軌道(現・京成電鉄)の駅が開業。
1952年(昭和27年)6月18日 - 日暮里駅構内乗客転落事故。南側跨線橋(1928年建設)[2]の10番線に面した羽目板が破れて乗客が落下したところに電車が進入し、8人が死亡。
1954年(昭和29年)8月13日 - 乗客転落事故を受け、混雑解消のため谷中墓地下の崖を削り取り、11・12番線ホームの新設工事を開始[3]。
1974年(昭和49年) - 「日暮里駅改良工事」を開始。最初に始まったのは、東北本線・高崎線の在来線ホーム2本を撤去して新幹線の路線を構内に確保するための在来線軌道移設切り替え工事。
1977年(昭和52年) - 東北本線・高崎線の在来線ホーム2本が撤去される。
1979年(昭和54年)12月 - 新幹線の上野乗り入れが発表され、構内工事が始まる。また南側に各ホームを連絡する狭隘な地下通路があったが廃止された。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、国鉄の駅はJR東日本に継承。
1988年(昭和63年)3月13日 - 京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線が通過するようになる。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本でICカードSuica供用開始。
2005年(平成17年)4月1日 - 開業100周年。記念オレンジカード・駅弁など発売。
2007年(平成19年)3月18日 - 京成電鉄でICカードPASMO供用開始。
2008年(平成20年)3月30日 - 日暮里・舎人ライナー開通に伴い東京都交通局の駅が開業。

電報略号 ニツ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 3面6線
乗車人員
-統計年度- 103,809人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1905年(明治38年)4月1日
乗入路線 3 路線
所属路線 ■京浜東北線
■山手線
所属路線 ■■常磐線(快速)
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅
正式な線路名称
- 常磐線(快速)三河島方は常磐線
- 他の路線は東北本線
* 全列車が上野駅まで乗り入れ。
2009年(平成21年)
6月20日 - 駅ナカ「エキュート日暮里」が一部オープン。
10月3日 - 京成線下り線が高架化、1階が上り線ホーム・3階が下り線ホームとなる。
2013年(平成25年)10月20日 - 常磐線ホームの拡幅工事が行われた。

有明フェリー サンライズ

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1994年(平成6年)2月竣工。
林兼造船建造


総トン数
888トン
全長
59.3m
全幅
13.4m
巡航速力
13.50ノット


車両積載能力(乗用車換算)
約75台
旅客定員
486名


設備
マッサージ機
就航日
平成6年4月1日
その他
エレベーター設備なし

有明フェリー(ありあけフェリー)は、有明海自動車航送船組合が運航するフェリーである。この航路は1993年(平成5年)4月以降、一般国道389号の海上区間を結ぶものとなっている。

航路 : 熊本県玉名郡長洲町長洲の長洲港 - 長崎県雲仙市国見町土黒甲の多比良港(14km)
便数 : 午前6時 - 午後8時までの間、通常期(Aダイヤ)に19便、オフ期(Bダイヤ)に16便(2010年(平成22年)4月現在)


所要時間(片道) : 約40分

運航中の船舶サンライズ
1994年(平成6年)2月竣工。888総トン、全長59.3m、幅13.4m、3,600馬力、最大速力15.6ノット、林兼造船建造。
旅客定員490名。車両積載数:85台(乗用車換算)


有明みらい
2012年(平成24年)4月竣工・28日就航。759総トン、全長57.3m、前畑造船建造。
旅客定員450名。車両積載数:69台(乗用車換算)。最上部となる第四甲板の一部が展望デッキとして開放されている。バリアフリー対応で車椅子固定スペースやエレベーターを装備。第八有明丸の代替。
有明きぼう
2014年(平成24年)2月竣工・4月1日就航。759総トン、全長57.3m、前畑造船建造。
旅客定員450名。車両積載数:69台(乗用車換算)。船内仕様は「有明みらい」と同一。第十有明丸の代替。船体には熊本県のキャラクター「くまモン」をはじめとして沿岸自治体のゆるキャラがあしらわれ、中間部には国道389号線の海上区間を表すマークが表示されている。

 

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