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道の駅 「たからだの里さいた」のドーナツ

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道の駅 「たからだの里さいた」のドーナツ

道の駅「たからだの里さいた」は、讃岐と阿波・土佐を結ぶ交通の要衝である香川県三豊市財田町の香川県道・徳島県道5号観音寺池田線沿いにある道の駅です。駅には温泉施設「たからだの里・環の湯」があり、鉄分を含んだ温泉とナトリウムを多く含んだ温泉があり、年間20余万人が訪れています。物産館においては地域の食材をトッピングした手作りアイスがあるほか、新鮮な野菜や果物が販売されています。

電話0875・67・3883 三豊市財田町財田上180-6 営業時間8時?18時、日帰り入浴9時から21時(受付20時30分)休館日:物産館(毎週月曜日・12月31日〜1月2日)(月曜日が祝祭日の場合は翌日)  日帰り入浴中学生以上500円・3歳以上300円高松道さぬき豊中ICよりR11、県道5号経由で10分 駅施設:駐車場大型3台・普通104台・身障者用1台/トイレ/物産館/温泉施設/宿泊施設


 地元食材だけを使って専用の油で揚げたこだわりドーナツ。リングのサクサク系や丸いふんわり系、カップ入りなど味も形も違う6種類があります。

【ドーナツ】▲サクサク系はプレーン、抹茶、かぼちゃなど。ふんわり系はイチゴやミカンのジャム入り


島鉄湯江駅 /島原鉄道島原鉄道線

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島鉄湯江駅は旧有明町の代表駅です。駅前には丸政水産経営の有玉温泉(温泉浴場)と駐車場があります。駅の南側および北側に集落が立地し、人家が多いのですが駅周辺は閑散としています。国道251号は駅から北へ行ったところを東西に走っています。南高湯江郵便局が駅の南およそ500メートルの所に、島原市立湯江小学校が駅の南西約1キロメートルの所にある。長崎県島原市有明町池田にある、島原鉄道島原鉄道線の駅です。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎は島鉄標準の四角い木造駅舎です。線路はほぼ北西から南東に走り、ホームは線路の北東側に置かれています。1階建の駅舎がホームのほぼ中央、北側に接して置かれ、内部には多比良町方から順にトイレ、待合所、駅の事務室があります。


無人駅。事務室の窓にはブラインドが降り、待合所側に設けられた出札窓口はシャッターが閉じたままの状態となっています。待合室には広告入りの長椅子が設置されています。なお、自動券売機や自動改札は設置されていません。


1919年(大正8年)5月6日 - 湯江駅(ゆええき)として開業。
1934年(昭和9年) - 島鉄湯江駅に改称。
1966年(昭和41年)3月1日 - 業務委託化。
1968年(昭和43年)3月31日 - 貨物営業廃止。
1968年(昭和43年)8月30日 - 交換設備撤去。
2000年(平成12年)4月1日 - 無人化

キロ程 31.8km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗降人員
-統計年度- 181人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第18位)
開業年月日 1919年(大正8年)5月6日

有岡駅 土佐くろしお鉄道宿毛線

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有岡駅は、四万十市西端の集落に位置する高知県四万十市有岡字スギノキにある駅です。土佐くろしお鉄道宿毛線の駅。駅番号はTK43。宿毛線では唯一の交換駅で、半数程度の列車が有岡駅で行き違いとなっています。

建設計画上では今より中村側に120 mほどの位置にあった。周辺開発計画に合わせる形で1978年(昭和53年)に計画変更となっています。また同時期に、有岡駅から平田駅までの区間は経路変更となっています。

相対式ホーム2面2線の高架駅です。無人駅で駅舎はありませんが上下線各ホームに待合所があります。構内踏切や跨線橋はなく、各ホームそれぞれに階段で連絡します。

1番線が進入速度無制限の一線スルー通過線となっていますので特急列車との交換は普通列車は必ず中村側から右側に入ります。交換列車がない場合は普通列車も左側線路に入線します。

細長い待合室にはFRP製の椅子が設置されています。駅前には駐輪場、駅入り口には仮設風のトイレと飲料水の自動販売機が設置されています。

1997年(平成9年)10月1日 - 開業。

電報略号 アオ
駅構造 高架駅
ホーム 相対式 2面2線
開業年月日 1997年(平成9年)10月1日
備考 無人駅

大三東駅 /島原鉄道島原鉄道線

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大三東駅(おおみさきえき)の駅からは有明海を望む絶好のロケーションに位置した駅です。ここの護岸には、江崎海岸と書いてあります。長崎県島原市有明町苅木にある、島原鉄道島原鉄道線の駅。急行が停車する駅です。難読駅として時々、取り上げられる駅でもあります。

相対式2面2線ホームを持つ地上駅。無人駅。駅舎は待合室のみの簡易なものです。下り線ホーム上には三方を囲まれた屋根付きの椅子がある。

駅前には自転車置場があり 待合室には木製の広告入り長椅子があります。ホームは構内踏切で結ばれています。

1913年(大正2年)5月10日 - 開業。
1964年(昭和39年)9月1日 - 業務委託化。
1968年(昭和43年)3月31日 - 貨物営業廃止。
1980年(昭和55年)2月1日 - 無人化。

キロ程 34.1km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 121人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第24位)
開業年月日 1919年(大正8年)5月6日

 

 

UH-60J 救難ヘリコプター:航空自衛隊

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UH-60J 救難ヘリコプター:航空自衛隊


救難ヘリコプターUH-60Jは、米国の救難専用ヘリコプターHH-60Aの航空自衛隊向け改造機。航続距離が長く、広い救難可能区域を持った救難ヘリコプターです。航続距離が長いので救難可能区域も広く、ほぼ防空識別圏内をカバー、遭難者を生存可能時間内に救助できる区域が広がる、などの特徴を持っています。また1軸回転翼を採用したため操縦性も向上しました。


1988年(昭和63年)度予算から調達を開始し2011年(平成23年)度予算までに45機の予算を計上しています。
救難隊用のKV-107の後継として、アメリカ空軍のHH-60Aをベースに改良し、機首に赤外線暗視装置(FLIR)や航法気象レーダー、機体両側面に捜索用バブルウインドウ(半球状に膨らんだ形の窓)や大型の増槽を装備している。UH-60Jの開発当時には全天候型の救難専用ヘリコプターはまだ実用化されておらず(HH-60Gは開発中で、試作機のみ完成していた)、本機が初の実用化例となった。

FLIRはforward looking infra-redの略で、「赤外線前方監視(装置)」「前方監視赤外線(装置)」などと訳される。航空機(特に軍用機)に搭載され、前方の赤外線画像をビデオカメラで撮影するシステムである。特定のシステムの名称ではなく、この種のシステムに対する一般名詞である。FLIRにより、夜間や悪天候時の操縦が可能になる。FLIRで得られた赤外線画像は、コクピットやパイロットのHUDに表示されたり、武器システムに直接送られたりする。

実際の救難現場ではU-125Aと組んで運用される。長らく救難隊用に白と黄色の塗装であったが、2005年(平成17年)生産分からダークブルーの洋上迷彩塗装に切り替えられ、既存の機体も順次変更されている。また、48-4579号機以降の機体にはチャフ/フレア・ディスペンサーやミサイル警報装置が装備されているほか、アビオニクスも改良されている。これらの機体はUH-60J (SP)と呼ばれ、それ以前の機体と区別されている(「SP」はSelf Protectionの略)。さらに98-4588号機からは空中給油用の受油プローブが装備されている。また、自衛用の5.56mm機関銃MINIMIの装備も開始されている。
2011年度予算から航空自衛隊のUH-60J後継機の調達が予定されていたため、提案要求書に基づき川崎重工業、三菱重工業、ユーロコプタージャパンが提案書を提出した。2010年11月5日、防衛省は、三菱重工のUH-60Jの能力向上型「UH-60J(近代化)」を選定したと発表した。費用は約40機分の機体と20年間の維持経費などで約1,900億円としている。

分類 救難ヘリコプター
乗員 5人
全幅(ローター部を含む) 5.43m(16.36m)
全長(ローター部を含む) 15.65m(19.76m)
全高 5.13m
ローター直径 16.36m

搭載数 2基
名称 T700IHI-401C
連続最大出力 1,662shp/1基
型式 ターボシャフト・エンジン
全備重量 約10.0t

最大速度 143kt(約265km/h)
巡航速度 127kt(約235km/h)
実用上限限度 13,500ft(約4,000m)
航続距離 約1,295km

三会駅 /島原鉄道島原鉄道線

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三会駅(みええき)は、周囲は住宅が多い長崎県島原市大手原町にある、島原鉄道島原鉄道線の駅です。急行は停車しません。

駅の北側は道路に沿って住宅が多い。また駅の南東は島原新港に近い工業団地となっています。駅裏の国道251号沿いにはローソン・コンビニがあります。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホーム幅は狭く、ホーム上にはベンチが2つほど設置されています。

 

ホーム島原方の端から駅の東側に構内踏切(警報機・遮断機とも無し)がのびており、これが駅の出入り口となっています。屋根付きの待合所は構内踏切を出た脇の線路傍に置かれています。トイレはありません。

1913年(大正2年)9月24日 - 開業。
1964年(昭和39年)3月31日 - 貨物営業廃止。
1966年(昭和41年)6月1日 - 業務委託化。
1973年(昭和48年)2月1日 - 無人化。

キロ程 37.5km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗降人員
-統計年度- 109人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第28位)。
開業年月日 1913年(大正2年)9月24日
最寄のバス停 三会駅前 (島鉄バス) 徒歩4分
乗換案内 空港・須川港・諫早方面(島鉄バス)
駐車場等 車用 約1台(送迎用) / 自転車用 約5台
トイレ なし

島原鉄道 保線車両 富士重工業製(TMC370)

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島原鉄道 保線車両 富士重工業製(TMC370)

保線用モーターカーとして、富士重工業製の小型機TMC100Bを保有しており、レール等の資材運搬に使用していました。1999年にはより大型のTMC370が入線した。同機は前後とも自動連結器を有して救援車両の牽引にも対応し、残存していた機関車D3703が置き換えられました。

島鉄では貨物列車に使用されていたC12形蒸気機関車の置き換えを目的として1968年に川崎車輌で製造された330馬力の内燃機関を2台搭載する液体式ディーゼル機関車(D37形)を使用していました。1984年の貨物輸送廃止により1988年に01・02が廃車となり03は事業用として残され、雲仙普賢岳噴火災害後の復旧工事にも使用されたのですが、モーターカーTMC370の導入に伴い1999年に廃車となり、南島原市にある「ふかえ桜パーク」に静態保存されました。

手前はバラスト輸送貨車:バラスト(線路の砂利)を輸送する貨車。バラストを輸送するだけでなく、散布できるようになっています。後ろにレール運搬貨車:クレーンがついており、クレーンでレールの上げ下げをします。

島鉄のTMC100は富士重工宇都宮製作所で製造されたもので1961年に登場。1999年にTMC370が登場すると引退し現在では保存扱いになっています。TMC100は機関出力75kW(102PS)、車体前後にピンリンク式連結器、後部に簡易連結器を持ち、床下には転車装置を装備しています。

島原駅 /島原鉄道島原鉄道線

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島原駅は、長崎県島原市片町にある、島原鉄道島原鉄道線の駅です。線内でも最大の利用者数を誇る文字通りの中心駅として揺るぎない地位を占めています。


駅前は島原市の市街地が広がっています。長崎県南部地方、島原半島の行政・経済の中心地です。島原駅の駅前(駅西側)を国道251号が島原鉄道線に並行して通っています。

急行は駅から終点(南島原駅または島原外港駅)まで、各駅に停車いたします。

相対式2面2線ホームを持つ地上駅。平成元年建築の駅舎は島原城の大手門をモチーフにした貫禄ある特徴的な駅舎です。駅の漢字が「驛」と旧漢字で記され、事務所には明治天皇・皇后両陛下の御写真と日の丸の旗、それに神棚も有ります。

有人駅で線内で数少ない自動券売機・窓口が備えられています。待合室の売店では土産物も多数取り扱われています。連絡乗車券も発売しています。

改札口付近もお城をイメージしたデザインの装飾が施されています。ホームと駅舎は警報機付きの構内踏切で連絡しています。

島原駅構内の中央部に「島原の子守唄」の銅像や溝には錦鯉が泳いでおり水の都島原、歴史の町島原を物語っております。

島原市:江戸時代、有馬氏に代わり島原に移った松倉氏が島原城を築城したことから城下町の形成が始まる。松倉氏は島原城築城や海外出兵を口実に飢饉の中でも過酷な年貢を取り立て、他方では捕らえたキリシタンを雲仙に連行し熱湯を浴びせて拷問するなどの弾圧を繰り返したため、領民の反発を招き、1637年、近世最大の一揆として名高い島原の乱につながる。乱の鎮圧後、松倉氏に代わり島原藩主は高力氏、松平氏と移り、荒廃した島原半島と島原藩は復興していく。島原の歴史でもうひとつ忘れてならないのは雲仙岳の火山活動である。1792年、雲仙岳は火山活動を開始、当初は小規模な活動にとどまり、物珍しさから領民が見物に行こうとするほどであったが、その後大地震で雲仙岳東側の眉山(現在の島原市街地から間近に見える)の一部が崩壊、流れ出した土砂が島原城下を襲って多数の死傷者を出しただけでなく、有明海に流れ込み対岸の肥後に大津波となって押し寄せた。日本における有史以来最大の噴火活動として「島原大変肥後迷惑」と呼ばれ、現在も九十九島の景観などにその名残を残す。そして、記憶に新しいのが1990年から5年あまりにわたって続いた噴火活動である。火砕流と土石流の被害から逃れるため地域住民は長期の避難生活を強いられることとなり、雲仙岳には溶岩ドームが形成され最高峰の平成新山となった。現在では急速に復興を遂げ、雲仙の玄関口として多くの観光客を受け入れる観光都市となっています。

1913年(大正2年)9月24日 - 開業。
1984年(昭和59年)9月30日 - 貨物営業廃止。


1989年(平成元年)12月22日 - 現駅舎落成。
2008年(平成20年)3月 - 構内踏切に警報機・遮断機設置。


所属路線 ■島原鉄道線
キロ程 40.5km(諫早起点)
駅構造 地上駅


ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 1,622人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第1位)
開業年月日 1913年(大正2年)9月24日


島鉄本社前駅 /島原鉄道島原鉄道線

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島鉄本社前駅は、長崎県島原市弁天町二丁目にある、島原鉄道島原鉄道線の駅。その名のとおり、島原鉄道の本社が駅前にあります。昭和の末期と新しい歴史の駅です。

バスターミナルの最寄り駅でもあります。駅周辺には住宅が多く、商店等も多数あります。急行停車駅です。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。ホーム上に駅舎が設けられています。 ホームの幅はあまり広くありません。またホームには点字ブロックなどは設置されていません。

無人駅。外港以南の南目線廃止までは有人駅でした。待合室には木製の長椅子が設置されています。自動券売機の設置はありません。

島原鉄道株式会社は、長崎県の島原半島一帯で鉄道・路線バス運行事業および船舶運航事業などを経営している会社です。

雲仙普賢岳の噴火災害からの復旧中の増資時に長崎県や地元市町が一部株式を保有するようになったが、途中からの資本参加であり、第三セクターとは扱われていません。


1984年(昭和59年)11月12日 - 開業。
2008年(平成20年)4月1日 - 駅無人化。

キロ程 41.5km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗降人員
-統計年度- 218人/日
-2005年度-
開業年月日 1984年(昭和59年)11月12日

 

JR九州885系電車特急「白いかもめ」

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JR九州885系電車特急「白いかもめ」


かもめは、九州旅客鉄道(JR九州)が博多駅 - 佐賀駅・肥前鹿島駅・長崎駅間、および諫早駅 - 長崎駅間を鹿児島本線・長崎本線を経由して運行している特急列車です。列車名は海鳥のカモメが由来です。「かもめ」の名称を使用した列車は戦前から運行されており、日本国有鉄道(国鉄)・JRグループでは特急列車の名称として使用されている。戦前は「鷗」と漢字表記であったが、戦後はすべて平仮名表記になっています。

「和」のテイストがある「海鴎」、グリーン車は半室構造。フローリングにブラックのシート。座席には本革が採用され床のフローリングは「天然木」です。1+1+1の3ブレストで4列を配置。シートピッチは1,150mm。2席側はそれぞれが独立して設置されていて、実質全席が1人掛け席になっています。その他指定の車両シートは980mm。テーブルはインアーム式、センターアームからテーブルを引き出します。向かい合わせで全てのテーブルを引き出すと、中央に大きなテーブルが出現するようになっています。座席の座り心地はグリーン車ともにボディーホールディングは良く有りません。

デッキと客室を仕切るガラス戸は「和紙」を挟みこみ、独特な半透明な雰囲気があります。


特急「かもめ」は、1976年7月1日に長崎本線と佐世保線全線の電化により、それまで小倉駅・博多駅 - 長崎駅間で運行していた急行「出島」の一部を特急に格上げする形で、7往復で運行を開始した。運行区間の線路容量の都合から、6往復については小倉駅・博多駅 - 肥前山口駅間で佐世保駅発着の特急「みどり」を併結していた(残りの1往復に関しては「みどり」編成を「かもめ」の付属編成として連結し、肥前山口駅で増解結していた)。


1980年10月と1982年11月の2段階に分けて残りの「出島」は「かもめ」に格上げされ、福岡市と長崎市を結ぶ昼行優等列車は「かもめ」に統一されました。また小倉駅乗り入れは1980年10月にいったん終了した後、一部列車が再度小倉駅発着となったり、門司港駅始発で運行されていた時期もあったが、2005年3月に門司港駅乗り入れが廃止されて以降は博多駅以北への乗り入れは行われていません。
「みどり」との併結は1978年10月に全列車で行うようになった後、1985年3月に日中の一部列車が単独運行となり、1986年11月にはいったん全列車単独運行となった。国鉄分割民営化以降「かもめ」が増発されたのを受けて1988年3月に「みどり」との併結が復活し、以後増発されるたびに併結列車が増える傾向にあった。1992年からは「みどり」併結列車の一部でハウステンボス駅発着の「ハウステンボス」も併結するようになりました。新型車両の投入が進んだことで1996年に運行開始当初から使用されていた485系電車は「みどり」併結列車のみで用いられるようになり、2000年には単独運行の列車は885系電車、「みどり」併結列車はそれまで単独運行の列車で使用されていた783系電車に置き換わった。2011年3月12日のダイヤ改正で783系充当の列車のほとんどが787系電車での運行になったのと合わせて「みどり」との併結運行は終了しました。

定期列車は博多駅 - 長崎駅間25往復、博多駅 - 佐賀駅間3往復、肥前鹿島駅 → 博多駅間上り1本と、平日のみ長崎駅 → 諫早駅間上り1本が運行されている。佐賀駅・肥前鹿島駅発着列車は100号台、諫早駅発着列車は200号台が付与されています。


博多駅 - 長崎駅間の列車は、885系電車充当の列車と、時間帯によって787系電車充当の列車がそれぞれ1時間に1本運行され、毎時1 - 2本の運行である。区間運転の列車は主に朝と夜間に運行されています。このほか、繁忙期には博多駅 - 佐賀駅・長崎駅間で臨時列車が運行されることがある。

長崎駅発着列車はゴールデンウィーク、お盆、3連休などに3往復程度設定されるほか、福岡Yahoo!JAPANドームなどでのコンサートや長崎ランタンフェスティバルの際に「コンサートかもめ」や「ランタンかもめ」の名前で運行される場合があります。その際、ランタンフェスティバル向けの臨時列車は「ランタンかもめ」の列車名で運行されます。佐賀駅発着の臨時列車は時期によって異なるが、最大で片道7本程度設定される。

航空電源車:高機動車:陸上自衛隊

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航空電源車:高機動車:陸上自衛隊

第13旅団/第13飛行隊(防府分屯地)
電源車は、主として他者(他車)に電力を供給するための発電機を搭載した自動車です。駐機中のエアコン、照明などのサービス用や、メインエンジンの始動用の電力を供給するのが目的です。ヘリコプターのエンジン始動の為に電力供給する装備で各航空部隊に配備されている(航空機はエンジンを止めると自力で電力供給出来ない)。
今日では高機動車ベースの車両が多く見られます。交流発電機や整流装置等を搭載している。

全長:4.7m/全幅2.1m/全高2.0m/重量4.4t
性能:地上において航空機の電源器機整備用電源並びに航空機始動用電源として交流・直流電力を供給する車両。発煙機3形を流用。

高機動車は、陸上自衛隊が装備している人員輸送用車両です。1990年代初頭に陸上自衛隊に採用された人員輸送用自動車。開発・納入はトヨタ自動車、製造は日野自動車が担当している。現在では配備が進み、殆どの普通科部隊に配備されている。価格は一両辺り約700万円弱で、基本型と派生型を含めてこれまでの製造台数は累計3,000両を超え、現在も調達が続いています。自衛隊専用で市販はされていません。

松尾町駅 /島原鉄道島原鉄道線

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松尾町駅は旧有明町南端の小さな集落、長崎県島原市有明町松崎にある、島原鉄道島原鉄道線の駅です。駅前は広く、駐車場があります。これを抜けると駅の東側を島原鉄道に並行して走る県道208号に至り、県道沿いに数軒の商店などが立地いたします。また駅前の県道沿いには松尾簡易郵便局もあります。国道251号は駅の西側を走っており、県道208号を通って到ります。島原鉄道線の駅の中では利用客はあまり多くない駅です。

島原市有明町には長崎県最大の巨樹「松崎の大楠」があります。大楠は、島原鉄道「松尾町駅」に程近い有明町松崎の民家(森本家)の裏庭で、それこそ屋敷を覆いつくさんばかりに聳え立っています。樹齢 : 1000年 樹高 : 30.5m 幹周り:13m 枝張り:33×29m 長崎県指定天然記念物。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。ホームは線路の東側に置かれています。駅舎はなく、ホーム上に待合所と駐輪場が一体となった建物が置かれています。

待合所には木製の広告入り長椅子が設置されています。駅の出入り口もこの建物にあるが、改札はない。無人駅となっています。

1931年(昭和6年)10月1日 - 開業。
1964年(昭和39年)9月1日 - 交換設備撤去。
1966年(昭和41年)6月1日 - 業務委託化。
1968年(昭和43年)3月31日 - 貨物営業廃止。
1973年(昭和48年)2月1日 - 無人化。

キロ程 35.2km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗降人員
-統計年度- 73人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第35位)
開業年月日 1931年(昭和6年)10月1日

三菱 SH-60K哨戒ヘリコプター :海上自衛隊

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三菱 SH-60Kは日本の海上自衛隊がSH-60Jを基にして、三菱重工業と防衛庁(当時)で独自に改造開発を行い、哨戒能力の向上を目指した哨戒ヘリコプターです。

SH-60 シーホークは元々対潜哨戒専用に作られたヘリコプターであり、1991年(平成3年)から配備したSH-60Jでは捜索用電子機器を大量に搭載したため機内空間が狭く、ヘリコプターが本来持つ汎用性に欠ける面がありました。また武装はMk46短魚雷2本のみであり、7.62mm機銃を搭載する場合は装備品の一部を取り外さなければならず、通常の潜水艦捜索任務に加え、不審船など脅威対象の変化や、阪神・淡路大震災を教訓として大規模災害など突発的な事態への対処など、任務の多様化が求められ、SH-60Jの老朽による代替を機に、能力向上を図るべく、同機を基にした日本独自の改造開発が行われました。

SH-60J後継機に求められたのは、「対潜戦・対水上戦能力の向上」、「人員物資輸送・警戒監視など多用途性の向上」、「安全性の向上」であった。これらを実現する為、搭載機器類の追加・変更にとどまらず、機体形状の変更やローター、エンジンまで手が加えられた。SH-60Kは機内空間を拡大したほか、エンジン換装、新開発の高性能ローター、着艦誘導支援装置、戦術情報処理表示装置を装備している。多目的化に付随して、捜索救難および輸送のため、キャビン内の完全防水化 と床面強化が要望されていたが、計画段階で見送られた。物品搬出入の効率化のため、キャビンドアが2重式となっています。対水上レーダーは分解能の高い逆合成開口レーダー(ISAR)に、ディッピングソナーは探知距離の長い低周波ソナーに変更。また、対潜魚雷以外にも対艦ミサイル(AGM-114M ヘルファイアII)や対潜爆弾の装備も可能となり、探知能力とともに攻撃能力も向上しました。これらの新技術の導入により、SH-60Jとは全く別種の機体と呼べるものとなり、開発にも長い時間を必要とした。すでに研究は、SH-60Jが配備された翌年の1992年(平成4)に始まっており、1997年(平成9)にSH-60J改として正式に開発・試作を開始した。防衛庁ではUS-1A改と同列の改造開発扱いであったが、三菱では新規開発なみの体制であった。2000年(平成12)7月の初飛行を予定していたが、複合材により一体成形されたメインローターに不具合が生じたため調整が行われ、2001年(平成13)に試作機が工場初出荷、3月27日に初飛行。2002年(平成14)より2004年(平成16)度まで2機(シリアルナンバー:8401・02)が防衛庁技術研究本部(TRDI)と試験部隊である第51航空隊において、技術・実用試験が行われました。2005年(平成17)3月に防衛庁長官の部隊使用承認を受け、SH-60Kとして正式採用、同年8月10日に量産初号機(8403)と2号機(04)が海上自衛隊に納入されました。

機首は赤外線探知装置(FLIR)や各種アンテナ搭載の為に再設計されたが、空気抵抗を考慮して各部分を滑らかに配置、長くとがった形状となった。FLIR(AN/AAS47)は機首右側に設置され、AGM-114M ヘルファイアII空対艦ミサイル(元々は対戦車ミサイル)誘導用のレーザー・デジグネーター機能を有します。また、ヘルファイアミサイルは元々対戦車用に開発されたものなので大型艦船の撃破はできないが不審船対処にはかなりの能力を発揮できるものであろうと期待されている。機首前方左右にはESMアンテナ、機体下部の円形アンテナの横にはMWS(AN/AAR)用のセンサーが設置された。また。機首の延長により、ピトー管も伸ばしました。


室内空間は前方に33cm、上方に15cm拡大した。室内配置では対潜戦でソナーやソノブイを搭載、人員輸送では9名分の座席、災害時には担架、警戒・監視では7.62mm機銃を配置するなど、様々な仕様があるが、これらは簡単に交換が可能であり、高い多様性を有している。胴体右舷キャビンドア開口部も拡大し、救難や輸送任務に対する適応性も向上した。それに伴い、右舷ドアは従来の1枚式から分割2枚式に変更、ドアの上部には救助用のホイストを設置し、救難作業にも対応する。
また、ドアスライドが長くなった為、右舷のウェポン・パイロンが後方に移設された。同時に、尾部右舷のMAD(磁気探知装置)パイロンも後方へ移設された(このため、MAD投下ポイントに若干の変更が生じている)。胴体左舷のウェポンパイロンは外側へ大きく張り出し、M299ランチャーを介してAGM-114Mミサイル2基を搭載できるほか、従来のMk46魚雷に加えて国産の97式魚雷や対潜爆弾が搭載可能となった。左舷バブルウィンドウも大型化され、目視での警戒・監視がしやすくなった。
尾部両舷にはESMアンテナを装備、前方のアンテナと合わせて周囲360度の電子情報をくまなく収集できる。左舷後方にはチャフ/フレア・ディスペンサー(CMD)装着用のマウントを通常装備、さらに後方には多機能型フライトレコーダーが装備、基本的な飛行諸元だけでなく、機体の各部に追加されたセンサー情報や振動データも記録できる。

高性能メインローターシステム:メインローターブレードが新開発の特殊な形状に変更された。翼端は内側から外側へ向かって、まず10度の上半角、次いで20度の下半角、50度の下半角が付けられている。これらの部分には40度の後退角と先細り(テーパー)が付けられ、翼端の翼弦はコードの約30パーセントとなっています。
前縁や翼端を除いて複合材料で形成されており、スパー部分にケブラー繊維(AFRP)を使用したことによって、軽量かつ高強度のブレードが仕上がった。このシステムは、ローター直径を変更することなく、構造や形状の変更によって効率向上を図るもので、ホバリング可能重量を約10.9t(24,000lb)へと、SH-60Jの約9.9t(21,884lb)から1tも引き上げることができた。翼端の特徴的な形状によって、翼端から発生する渦の干渉による抵抗が低減し、また高速飛行時の後退側ブレードの失速と、前進側ブレードの衝撃波の影響を軽減できた。ただし、開発段階では、翼端に何度も亀裂を生じており、またこの翼端の形状が空気抵抗を生むため、最大速力がSH-60Jよりも時速30キロ程度も低下している。
同時に、メインローターのハブ構造も改良が加えられ、8本ボルト固定式から2本のシェアボルト固定式となり、ブレード交換時の作業効率が格段に向上している。

乗員: 3・4名、最大12名
全長: 19.8m(ローター回転時)
全幅: 3.3m(ローター折りたたみ時)・16.4m(ローター回転時)
全高: 5.4m
主回転翼直径: 16.4m
テールローター直径: 3.4m
全備重量: 10.65t
最大設計重量: 24000ポンド(約10.9t)
発動機: GE/IHI T700-IHI-401C2 ×2
出力: 2,145shp(離昇)×2
超過禁止速度: 139ノット(ちなみにSH-60Jは180ノット)
航続距離:約800km
実用上昇限度:約4000m
武装: 固定なし、7.62mm機銃、Mk46魚雷、97式短魚雷、AGM-114M、対潜爆弾

 

 

8月6日(火)のつぶやき

草津駅 東海道本線/草津線

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草津駅は、東海道本線と草津線の分岐駅となっており、米原〜京都間の中間主要駅です。滋賀県草津市渋川一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅です。2011年の駅利用状況はJR西日本の駅の中で第27位で、滋賀県内のJRの駅では最も多い。

当駅以西は複々線区間となります。琵琶湖線の運行ダイヤは日中時間帯は1時間あたり7本が停車し朝晩は本数が多い。草津線の運行ダイヤは日中時間帯は1時間あたり2本が発着し朝晩は京都駅発着も設定されています。現在は、臨時車扱貨物のみを取り扱っており、貨物列車の発着はない。これは一旦廃止された貨物取扱を、国鉄分割民営化直前に将来の貨物取扱再開に備え「開閉期間・取扱範囲は別に定める」として再開させたものです。民営化前の1986年まで旅客駅西口の北側に有蓋車用の貨物ホームが存在しました。

当駅の所属線である東海道本線と、当駅を終点とする草津線が乗り入れている。東海道本線は「琵琶湖線」の路線愛称設定区間に含まれている。草津線の一部の列車は東海道本線の京都方との直通があります。IC乗車カード「ICOCA」の利用エリア内であるが、草津線については貴生川駅を越えての利用が不可能となっている。

島式ホーム3面6線を持つ地上駅。1968年(昭和43年)に緩い勾配の三角屋根を持つ橋上駅に改築され、1970年(昭和45年)に当駅 - 京都駅間複々線化によるホーム増設(5・6番のりば)により現在の形になった。他にホームを持たない線路を上下各1本持ち、回送列車や貨物列車の待避に使用されています。きっぷ売り場に券売機は5台。オープンカウンター式のみどりの窓口に指定席券売機も2台設置されています。


南口には草津宿本陣の関所をイメージした橋上庭園があります。
当駅 - 京都駅間の複々線が完成した時に草津線の線路変更が行われ、東海道本線からの直通草津線上り列車は東海道本線を立体交差で越える構造になった。草津線の旧線路敷は道路に転用されている。
草津線(旧線)分岐点横には草津線用蒸気機関車の転車台・給炭所・給水塔の設備もあった。現在それらの跡地は保守車両基地とマンションになっている。かつては貨物扱いと草津線直通列車の機関車交換作業、操車場機能があり、上下線の外側には側線が残っているが、現在は使用されていない。
草津線を開業した関西鉄道が駅南側に検修庫などを持っていた。使用廃止後も跡地が平成になるまで残っていたが、現在は近鉄百貨店草津店とマンション(近鉄不動産物件)になっている。
当駅は駅長が配置された直営駅であり、管理駅として東海道本線の野洲駅・守山駅・栗東駅・南草津駅と、草津線内のすべての中間駅を管理している。


草津駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1・2 ■草津線 - 貴生川・柘植方面 一部列車は5・6番のりば
3・4 ■琵琶湖線 下り 京都・大阪方面 草津線からの直通は2番のりば
5・6 ■琵琶湖線 上り 米原・長浜方面

通常は上表のように使い分けられるが、例外として、草津線と琵琶湖線を直通する列車については、下り草津線から京都方面は草津線2番のりば、上り京都駅から草津線方面は琵琶湖線6番のりばを使用する。このほか、草津線の5時台の始発列車も琵琶湖線5番のりばから発車する。
琵琶湖線の京都・大阪方面の下り列車(草津線からの直通を除く)は、当駅から先で内側線・外側線のどちらを通るかにかかわらず、原則として特急と新快速は3番のりば、普通は4番のりばを使用する(ただし当駅始発列車は例外)。また米原・長浜方面の上り列車は一部を除き、内側線を経由した列車が5番のりば、外側線を経由してきた列車が6番のりばを使用する。

 

琵琶湖線ホームには終日、駅係員が常駐し旅客の整理及び客扱終了合図を行っている。
1番のりばは行き止まり式で、草津線の到着・出発と東海道本線下り到着が可能。
駅の北側には4・5番線のみ出入り可能な留置線が2本あり、当駅折り返し列車が使用する。
駅南側に旧草津川の天井川トンネルがあるため、トンネルを越えた南側に内外転線の渡り線を持つ。
東海道本線下りは場内・出発と第二出発を、また上りは第一場内・第二場内と出発の各信号機を持つ。
草津線場内信号には1番線(2番のりば)の誘導信号機が併設されており、草津線列車を本線上り列車の後方へ連結することができる。
アーバンネットワーク運行管理システムの導入以前は、駅自動放送を用いず、全て駅係員の肉声で案内を行っていた。

草津駅南側にある踏切は「下笠道踏切」と呼ばれ、草津駅に西口がなかった頃から、草津市西部への連絡路として交通量が多く、開かずの踏切として知られていた。そのため自動化が遅れたが、草津駅のホーム下を抜ける自動車専用の地下道ができ、下笠道踏切は歩行者専用になって自動化された。その後歩行者専用の地下道が建設され、2007年4月6日に地下道が開通し、下笠道踏切は閉鎖された。

1889年(明治22年)
7月1日 - 官設鉄道の駅が開業(関ヶ原駅-馬場駅(現在の膳所駅)間の開通と同時)。客貨取扱を開始。
8月1日 - 構内での飲食物販売開始。
12月15日 - 関西鉄道 当駅 - 三雲駅間開通。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年より東海道本線)の所属となる。
1907年(明治40年)10月1日 - 関西鉄道が国有化される。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。旧・関西鉄道の柘植駅 - 草津駅間が草津線となる。
1956年(昭和31年)11月19日 - 東海道本線電化。
1967年(昭和42年)4月12日 - 橋上駅舎完成、供用開始。
1968年(昭和43年)4月10日 - 西口開設。
1970年(昭和45年)3月9日 - 当駅 - 京都駅間の複々線が完成。
1971年(昭和46年)4月26日 - 当駅発着となる新快速の運転開始。
1980年(昭和55年)1月24日 - 草津線電化工事完成。
1986年(昭和61年)11月1日 - 貨物取扱廃止。
1987年(昭和62年)
3月31日 - 貨物取扱再開。ただし以降の貨物取扱実績は無い。
4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 クサ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 3面6線
乗車人員
-統計年度- 27,435人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1889年(明治22年)7月1日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* 当駅から東海道本線(南草津・大阪方)は複々線。

 

 

 

 

 


南島原駅 /島原鉄道島原鉄道線

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南島原駅は、長崎県最東端の駅で長崎県島原市津町にある、島原鉄道島原鉄道線の駅です。長崎県島原市の中心街から南へ約1.5キロ、駅の周辺には住宅や商店が多い。国道に出た所に島鉄バスの湊広馬場停留所があります。口之津・加津佐方面の乗り場前には温泉が湧き出ています。

なぜ市中心部から離れた場所まで一気に鉄道を通す必要があったのか。それは、この場所が島原の玄関口の役割を果たしていたからで徒歩数分の場所に江戸時代からの歴史を持つ港があり、鉄路と海路をつなぐ必要性と必然性があったとのことです。 

急行の設定は2008年(平成20年)3月31日までは諫早駅から南島原駅までであったが、翌日のダイヤ改正時から増発されたため、隣の島原外港駅(終点)まで設定されている。島原鉄道本来の開業区間は南島原駅までで、南島原駅以南は口之津鉄道として開業し、通称「南目線」と呼ばれていました。

湊新地駅(みなとしんちえき)として開業、湊新地駅は開業数年後に島原湊駅に改称。福岡県の三池港や熊本県の三角港などと結ぶ旅客船と鉄道の乗り換え客などで駅周辺は大いににぎわいました。しかし旅客船の大型化に伴い、数百メートル南に新たに島原外港が59年に完成すると、島原湊駅は玄関口の役割を失いました。島原外港駅が60年に開業し、島原湊駅も南島原駅に改称、一気に寂れていきました。

単式1面、島式1面の計3線ホームの地上駅である。堂々とした水色の洋風木造駅舎ですが、実際に駅舎として使用されているのは向かって左側の一部分です。1950年ごろと2002年に改装・改修が行われたが、外観は開業当時の姿を残しています。

車両基地が併設されており、南島原駅で折り返す列車が多いため、留置線を数本有し、夜間滞泊がある。一番留置線側のホームはあまり使われておらず、列車の留置に使われる事が多い。また、列車交換を行わない場合は上下とも駅舎側のホームに停車します。ホームは構内踏切で結ばれています。

駅舎内にはタグチ薬局南島原支店が入っている。待合室にはFRP製の椅子が並んでいます。2008年(平成20年)3月31日までは南島原駅で乗務員が交代していました。
本屋前の上下本線間に格納式の給油設備があります。島原外港駅 - 加津佐駅間の廃止以前は島原鉄道線の気動車は下り諫早発加津佐行きで運用後、折り返し上り列車となって南島原駅停車中に給油を受ける運用が組まれている例が多かった。このため上り列車の南島原駅停車時間が長く設定されていることが多く、乗客を乗せたまま給油作業が行われる光景が見られました。

島原外港駅 - 加津佐駅間が廃止される前は、一部列車は南島原駅で車両交換を行っていました。キハ20形使用の列車は同車の運用が原則的に諫早駅 - 南島原駅間に限られていた(夏休み・冬休みやゴールデンウィーク等を除く)ため、南島原駅で乗換えとなっていました。

1913年(大正2年)9月24日 - 湊新地駅(みなとしんちえき)として開業。
1920年(大正9年)頃 島原湊駅(しまばらみなとえき)に改称。
1922年(大正11年)4月22日 - 口之津鉄道により当駅 - 堂崎駅間が開業。
1957年(昭和32年)3月21日 - 貨物営業廃止。
1960年(昭和35年)11月5日 - 南島原駅に改称。

キロ程 42.3km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗降人員
-統計年度- 109人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第27位)
開業年月日 1913年(大正2年)9月24日

 

廃駅 加津佐駅 /島原鉄道島原鉄道線(廃線区間)

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加津佐駅は、長崎県南島原市加津佐町水下津にあった島原鉄道島原鉄道線の駅でした。島原鉄道島原鉄道線の終着駅でした。島原半島南西部に位置する加津佐町は2006年3月の8町合併で南島原市となりました。「加津佐史話」によると、加津佐の古名は「笠津(かさづ)」。曹洞宗の開祖の道元が鎌倉時代に「笠」に乗って、この地に降り立ったという言い伝えが地名の由来になったという。1990年代半ばの雲仙普賢岳の土石流災害で南目線の島原外港〜深江間が運休となり、1997年に水無川付近の高架化により復旧を果たしたのですが、赤字により全通後わずか10年の2008年3月末に南目線の島原外港〜加津佐間が廃止されました。

駅の目の前には広がる白砂青松の前浜海水浴場です。さらにその先、西を望むと、緑に覆われた岩戸山が見える。約300種の亜熱帯植物が自生する国指定天然記念物「岩戸山樹叢(じゅそう)」のほか、岩戸観音や禅宗の僧侶が建てたと伝えられる「猿の墓」などの史跡があり、自然豊かな景観が広がっています。

駅前には小さな広場があります。諫早方面行きのバス停は道路に面したところにある。以前は県営バスも運行されていたにもかかわらず、島原鉄道バスの時刻しか掲載されていなかった。しかし、2007年(平成19年)3月末限りで県営バスが島原半島から撤退したため、現在は全便のバスが掲載されています。諫早方面のバスは旧県営バスの便を島原鉄道バスが代替する形にはならなかったため、従来より便数が減少しており、注意が必要です。駅舎の反対側は海岸に通じており、夏季には海水浴場となります。駅付近にはコンビニ(ファミリーマート)がある。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。廃止されても駅舎は撤去されていません。レールは外され、枕木が積まれています。側線が2本あり、滞泊車両の留置に使用された。駅の奥には車止めがありました。車両留置機能のみで、給油や検修のための設備はなかった。

1928年(昭和3年)2月25日 - 口之津鉄道の駅として開業。
1943年(昭和18年)7月1日 - 会社合併により、島原鉄道の駅となる。
1984年(昭和59年)10月1日 - 貨物取扱廃止。
1985年(昭和60年)4月23日 - 現駅舎竣工。
2005年(平成17年)4月 - 無人化。
2008年(平成20年)3月1日 - 3月31日 - 廃止に伴って一時的に有人化。
2008年4月1日 - 島原外港・加津佐間の廃線により、廃駅となる。

加津佐駅は車両留置機能のみで、給油や検修のための設備はなかったが、1993年4月から1997年3月まで雲仙普賢岳の噴火・土石流災害により島原外港 - 深江間が不通・休止となっていた期間は、不通区間の南側で運行する車両の給油・検修が当駅構内で行われました。給油にはタンクローリーが用いられた他、駅構内にもドラム缶を利用した仮設設備を設け、全般検査時期を迎えた車両についてはクレーン車で車体を上げて台車やエンジン等を取り外し、南島原の車両基地へ陸送して整備することで対応しました。仕業検査・月検査や、全般検査時の車体関係の整備は加津佐駅構内で行われたが、ピットや点検台もなく困難を伴う中での作業となった。

加津佐漁港からはイルカウオッチングの船も出ており、天草灘に生息する約300頭の野生のイルカの群れを楽しむことができる。イルカとの遭遇率は99%。船から手を伸ばすとイルカに触れるぐらい近づける。土日祝・GW・夏休みは増便。1日4便が出港し、所要時間は約1時間。事前予約が必要で、料金は大人(中学生以上)2500円、小学生1500円、幼児(4歳以上)1000円。

 

8月9日(金)のつぶやき

廃駅 白浜海水浴場前駅 /島原鉄道島原鉄道線(廃線区間)

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白浜海水浴場前駅は、長崎県南島原市口之津町町名にあった島原鉄道島原鉄道線の駅でした。廃駅前には白浜海水浴場が広がっています。レールは外され、踏切部分は舗装されていますがホームは残されています。廃線までは駅近くに立地する口加高校への通学利用が多く、南目線では最大の利用者数を誇っていました。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。 駅舎はなく、ホーム上に待合所と飲料類の自販機が設置されている。

駅の待合室は、中央部が奥側へと入り込む二段式の構造。利用者数を反映して、待合所の上屋は長くなっています。ホームの口之津方に出入り口がある。無人駅。


1932年(昭和7年)11月15日 - 口之津鉄道により女学校前駅(じょがっこうまええき)として開業。
1943年(昭和18年)7月1日 - 会社合併により、島原鉄道の駅となる。
XX年XX月(戦後) - 廃止。
1973年(昭和48年)10月1日 - 現駅名で復活。
1986年(昭和61年)4月 - 現待合室が竣工。
2008年(平成20年)4月1日 - 島原外港・加津佐間の廃線により、廃駅となる。

白浜海水浴場: 有明海と橘湾との境界に配置しており、白浜という名称のとおり海水は透明度が高く、白砂と緑の松林に囲まれた美しい自然環境にあります。背後にある松林は、キャンプ場として利用しており、家族連れの利用者が多い。
また、7月の最終日曜日には、ファッションモデルを招き、「夏の水着大撮影会」を開催し、県内外からの多くのカメラマンの参加により、盛り上がります。環境省選定「快水浴場100選」の海水浴場。

廃駅 口之津駅 /島原鉄道島原鉄道線(廃線区間)

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口之津駅は、長崎県南島原市口之津町西大屋にあった島原鉄道島原鉄道線の駅でした。廃駅周辺には住宅が多くコンビニ等もあります。1572年(天正7年)に口之津港へ異人船が到来したことに因んだ記念物があります。

口之津廃駅から徒歩15分程の位置に、口之津歴史民俗資料館・海の資料館という施設がある。廃駅前には、島原鉄道バス「口之津」バス停・フェリー乗り場(道路を挟んだ反対側)があります。また、島原鉄道バスの口之津営業所があり、路線バスの運行上の拠点となっています。

島鉄標準の木造駅舎や信号機などはきれいに撤去されています。かつての待合室には一人掛けのプラスチック製の椅子がありました。

構内は非常に狭く、駅ホームの裏側には隣家の壁が差し迫っていました。裏手に回ると、ホーム跡が残っておりまだバラストもあります。

1928年(昭和3年)2月25日 - 口之津鉄道の駅として開業。
1943年(昭和18年)7月1日 - 会社合併により、島原鉄道の駅となる。
1968年(昭和43年)10月1日 - 貨物営業廃止。
1971年(昭和46年)8月1日 - 業務委託化。
1974年(昭和49年)5月18日 - 島原寄りに100m移転し、同時に交換設備を撤去。
1986年(昭和61年)4月1日 - 新駅舎竣工。
2001年(平成13年)9月30日 - 無人化。
2008年(平成20年)4月1日 - 島原外港・加津佐間の廃線により、廃駅となる。

 

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