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東武1720系電車Deluxe Romance Car

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1720系電車は東武鉄道に在籍していた特急形車両。
1960年(昭和35年)から1991年(平成3年)まで運用していた。通称はデラックスロマンスカー(Deluxe Romance Car 略称:DRC)。「デラ」の愛称で親しまれていた。
先行系列である1700系電車も後に同一の車体に更新された。

約30余年間に亘り、東武鉄道を代表する列車として日光・鬼怒川方面への特急列車に用いられた。1960年に第1編成(1721編成)が製造され、同年10月9日から特急列車専用車両として営業運転が開始された。後に1973年にかけて、7編成42両がナニワ工機(のちアルナ工機、現・アルナ車両)、日本車輌製造で製造されている。また、後述する1700系の改造車と合わせ、9編成54両となった。
1990年6月1日に後継車である100系「スペーシア」が営業運転を開始し、1991年8月31日にさよなら運転を行い定期営業列車での運行を終了したが、同年100系が鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞したことを記念して、同年9月8日に浅草-東武日光間で往路は100系、復路は1720系による臨時列車が運行され、これが最後の1720系の旅客輸送となった。なお座席の一部と台車・モーター等の足回りは伊勢崎線急行(後に特急に格上げ)「りょうもう」用の200系に流用され、書類上は廃車ではなく車体新製による更新扱いとなった。

東武鉄道は昭和31年に登場した1700系特急車によって東京・日光間の優位性を確保していたが、国鉄東北本線および日光線の電化と、それに伴う新型列車の登場に危機感を抱き、次のようなコンセプトをもとにそれに対抗する新型特急車両の開発を進めた(当時のカタログより)。現在わが国で使用されている高性能車に比較して居住性が優れ、特に外人観光客に好まれるものであること。曲線・勾配における加、減速力、特に高速度における加、減速力を高くとり、均衡速度において他の追随を許さないものであること。車両編成全体の形状・構造において、優美・斬新であり、スピード感に溢れ、しかも格調高いものであること。電気装置・走り装置、その他諸装置は堅牢・高性能であること。軽量構造であること。

設計時点で登場を想定していた日本国有鉄道151系電車に対抗するため、速度面での優位性と、国際的な観光地である日光方面への外国人利用者にも対応した車内設備を備える。
性能的には1700系の電動機を改良し中速度〜高速域の性能向上を図り、平坦線釣合速度は165km/h(運転最高速度は110km/h)。起動加速度2.3km/h、減速度3.7km/h/s(常用)の高性能を得ている。
主回路機器は2000系・2080系と共通で、主電動機は東洋電機製造製TDK-824形補償巻線付自己通風形直巻電動機(端子電圧375V、電流225A、1時間定格出力75kW、定格回転数1,600rpm、最高回転数5,000rpm、最弱め界磁率20%、質量665kg)を搭載した。また、主制御器は多段式電動カム軸方式の日立製作所製MMC-HTB-10C(直列10段、並列8段、弱め界磁5段、発電制動17段)で、日光線の勾配区間用に抑速ブレーキを装備した。駆動方式は中空軸平行カルダン、歯車比は75:20(3.75)で当時カルダン駆動車としては国鉄151系電車(3.50)、小田急3000形電車「SE」車(3.71)に次ぐ高速運行用の仕様であった。全界磁定格速度が66km/hと高い上に、弱め界磁制御を20%まで行うことによって上記の高速性能を確保している。


ブレーキ装置は発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ(HSC-D)であり、常用・非常ブレーキ時ともに発電ブレーキを併用した。
台車は、当初アルストム式軸箱支持方式の空気ばね台車住友金属製FS334(東武形式TRS-60M、固定軸距2,100mm)を装着していたが、増備途中でS形ミンデン式軸箱支持方式の同FS370(TRS-67M、固定軸距2,300mm)に変更され、初期の編成についても全て後者へ換装された。
全電動車方式の6両固定編成で、車両番号は第1編成は1721 - 1726・第2編成は1731 - 1736・・・と付番され、浅草方が17○1・東武日光方が17○6となっている。一方、旅客案内上の号車番号は逆に東武日光方が1号車で浅草方が6号車である。
前面形状はボンネットスタイルであり、国鉄151系電車より大型のヘッドマークを装備する。このヘッドマークは電動式ではなく、手で差し替える方式を採用している。
側面には当時の国鉄1等車と同様に座席毎の固定窓が並ぶ。塗色は伝統の渋いツートンだが、塗り分けは国鉄特急形に準じている。
冷房装置は分散式で製造当初から搭載され、屋根にある室外機は個別のキノコ形カバーである。
車両長は優等車両としては初めて20m級となっている。

室内:座席:当時の国鉄特急形一等車(現在のグリーン車に相当)と同等の多段ロック式リクライニングシートとフットレストを全車に装備した。座席の前後間隔(シートピッチ)は1100mmと広く、向かい合わせ使用時でもテーブルが使用可能なよう、窓側に折り畳み式テーブルを設けている。
サロンルーム:8個の回転椅子とジュークボックスが設けられたフリースペースである。しかし、CDの急速な台頭など時代の変遷によりジュークボックスで使用するレコードが入手難になり、席数を増やす意味合いもあって、1989年に通常座席に変更した。ビュッフェ:1編成あたり2箇所の配食施設を設けた。トイレ:外国人観光客に配慮して、和式と洋式の2種類が設けられた。マジックドア:貫通路の自動ドア。日本の鉄道車両としては最初に導入した。車内電話の計画は登場時からあり、電話室がサロンルームに設置されていたが、車内電話用地上設備の設置が進まなかったことなどからサービス自体は見送られ、後年の増備車では電話室を設置しないで登場、電話室を設置していた車両も撤去されている。1987年(昭和62年)になってカード式公衆電話が設置される事となり、電話室の復活・新設が行なわれた。

高速試験:就役間もない1960年11月12日には非公式ながら1720系および1700系による高速試験が行われている。最高速度を時速105kmから時速110kmに、目標としては115kmまで引き上げることを目的に行われた。この試験の結果、時速110kmへの引き上げが妥当だとして、当面時速110kmとして対応することになった。 さらに19日にも中間車2両を抜いた4両編成で試験が行われた。しかし、高速で走行していた状態から非常ブレーキをかけた際に滑走し、全車輪が大きく摩耗してしまった。そのため、この時の高速試験は中止されている[4]。
事故と5700系代走:1984年12月15日18:15分頃、日光線家中駅付近の踏切で、浅草17:00発鬼怒川温泉行きの特急「きぬ」号が乗用車と衝突する事故が発生し、乗用車が炎上、これから類焼する形で先頭車1756号の前面部と車内、さらに2両目1755号の車内までもが焼損した。この後、事故編成撤去の際には1751号〜1754号+7800系2両という組成での回送も見られた。この直後の年末年始の繁忙期には特急編成は予備編成なしのフル稼働となるが、この事故により車両が不足する事態となった。このため、その間、特急運用の一部について、かつての特急車である5700系6両による運転で代行した。性能面および旅客サービス面で1720系と差があり、特に1720系のダイヤでの運行は不可能なため、5700系の性能に合わせた臨時ダイヤで運行された。また、この5700系にはヘッドマークや方向板は取り付けられなかった。乗客には特急券の払い戻しや、了解をとって乗車してもらうなどの対応が取られた。1756号+1755号は翌1985年1月12日に復旧が完了、運用に復帰した。
晩年:1980年代後半に入ると、鉄道趣味雑誌からは度々その古さが指摘されるようになった。その息の長さは、私鉄最大数を誇った8000系とともに、東武の保守的な姿勢の象徴とされた。しかし、比較対象を挙げてみるならば、小田急電鉄SE車は1720系より先の登場だが、定期列車の運行終了は同じく1991年である(ただし、小田急ロマンスカーには1987年までに、3100形 (NSE)・7000形 (LSE)・10000形 (HiSE)といった後継車両が投入されている)。また、ほぼ同時期に登場した名古屋鉄道"パノラマカー"7000系も、1999年に有料特急運用から外れた後、2008年12月26日の運行をもって定期運転を終了している。以上のように、同時代に登場した大手私鉄の有料特急用優等車と比較して、DRCが特段に後年まで運用されていたというわけでもない。

第1編成の1721Fは各地で静態保存されている。先頭車、東京都墨田区にある東武博物館に1721号が、さいたま市岩槻区の岩槻城址公園内に1726号が保存されている。なお、東武博物館のものは展示スペースの関係で車体の前半分のみである。どちらも台車はオリジナルのFS334台車に戻されている。

東武1720系電車
Deluxe Romance Car
東武1720系電車 特急「けごん」
東武1720系電車 特急「けごん」
編成 6両
営業最高速度 110 km/h
設計最高速度 165 km/h
起動加速度 2.3 km/h/s
減速度 3.7 km/h/s(常用最大)
編成定員 316人
全幅 2,850 mm
編成質量 217t
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
(架空電車線方式)
主電動機 補償巻線付自己通風形直巻電動機 TDK-824-A
歯車比 75:20(3.75)
制御装置 多段式電動カム軸方式日立・MMC-HTB-10C
台車 一体圧延車輪空気バネ付 FS-334型
→ S形ミンデン式軸箱支持方式 FS-370型
制動方式 電気制動併用 HSC-D(A-1非常弁付)
保安装置 東武形ATS
製造メーカー 日本車輌製造東京支店・ナニワ工機(現・アルナ車両)

 

 

 


武田尾駅 JR西日本)福知山線

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武田尾駅(たけだおえき)は、兵庫県宝塚市玉瀬字イズリハにある、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線の駅である。


アーバンネットワークおよび「JR宝塚線」の愛称区間に含まれている。駅前は武庫川の渓谷と山々が広がるのみですが週末ともなると武庫川渓谷へのハイキング客の姿が多く見られます。

武庫川の直上に架けられた橋梁とトンネルで構成されている。かつて武庫川にダムの建設が計画されていた関係で、川からホームまではかなりの高さがある。駅舎のある北側は馳渡山の山麓に位置する。


当駅から西に徒歩10分ほどの距離の地区には武田尾温泉の温泉郷が広がっており、その玄関口でもある。駅前に若干の駐車スペースがありバス停があります。古くから北に離れた西谷地区からの路線バスが乗り入れているが、過疎化や宝塚市街地への道路が整備されたことから利用者は減少しており、宝塚市内の駅では最も利用者が少ない。

当駅付近の福知山線は、元々武庫川に沿って単線・非電化の線路が敷かれており、列車交換のため長時間停車する鈍行列車も珍しくなかった。
その後、1980年代の複線・電化を機に現在の新線に架け替えられてからは、大阪方面への高速運転が行われている。列車の本数も大幅に増加した。

2面2線の相対式ホームを持つ高架駅で駅舎はなく、ホームには武庫川を渡る橋の下から連絡します。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。改札口へ階段入口脇には丸椅子とテーブルが設置され、待合所となっています。さらに改札口からホームへは階段を上がる必要があります。


ホームの南半分は橋梁(第二武庫川橋りょう)上、北半分はトンネル(第1武田尾トンネル)内にある。また、橋梁の大阪寄りは西宮市域である。
宝塚駅が管理する無人駅だが、ICOCA(および相互利用対象のICカード)が利用可能で、自動券売機および自動改札機(集札機能のない簡易型)が設置されている。
なお、旧線時代は1面2線の島式ホームで、武庫川と県道を跨ぐ神戸水道の水道管の真下に三田方面へと通じるポイントが敷設されていた。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 G JR宝塚線 下り 三田・篠山口方面
2 G JR宝塚線 上り 宝塚・大阪・北新地方面
日中は1時間あたり4本が停車する(全て普通)。朝ラッシュ時の大阪方面は本数が多い。

開業当初は、阪急田園バスのバス停がある武庫川の沿道が旧線であった。当駅周辺は山間の狭いV字谷となっているため、建設工事や落石防止などの護岸工事、そして保線作業が大変な区間であった。福知山線の大半のトンネルがこの周辺に集中しており、現在でも当時の護岸工事の痕跡が多数存在する。
1986年に当駅を含む宝塚駅 - 三田駅の新線が整備され、旧線が廃線になるとその直後から口コミが広がり、今では人気のハイキングコースとなっている。
廃線直後は旧国鉄により「立入禁止」の措置が執られ、入口に柵が設置されたが、にもかかわらずハイキング利用者が増加したため、1990年にハイカーが自己責任を負うことを条件に開放された。
2008年8月10日には、西宮市内のトンネル近くですれ違ったハイカーが岩場に転落・死亡するという事故が起こったため、これを機にJR西日本は対策を行ったが、ハイカーからなる団体に反対され、決定的な対策が講じられないまま現在に至っている。宝塚市も財政難であるため、整備が難しいのが現状である。
コース上の落石対策等の安全対策は万全ではなく、途中には照明のないトンネル(長いもので300 - 400m程度あるため、懐中電灯などの明かりになるものは必携)、当時のままの古い鉄橋や枕木などがそのまま放置されているなど足場が悪く、安全には十分留意する必要がある。また、当駅 - 生瀬駅間のコース途中に抜け道は存在しないため、体調はもちろんのこと、水場やトイレ、食料や飲み物についても考慮する必要がある。常に山間のコースであるため、携帯電話の電波は弱い(機種によっては圏外)。
後に、武田尾側の200m程度は遊歩道として整備され、入口付近にトイレが設置された。

1899年(明治32年)1月25日 - 阪鶴鉄道の有馬口駅(現・生瀬駅) - 三田駅間延伸により開業。旅客・貨物取扱開始。
1907年(明治40年)8月1日 - 阪鶴鉄道国有化。国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。阪鶴線所属駅となる。
1912年(明治45年)3月1日 - 線路名称改定。阪鶴線の福知山駅以南が福知山線に改称し、当駅もその所属となる。
1971年(昭和46年)3月1日 - 貨物取扱廃止。


1986年(昭和61年)8月1日 - 当駅を含む生瀬駅 - 道場駅間の新線切り替えに伴い、駅を移転。同時に無人駅化された(同年11月1日に電化。代わりに西宮名塩駅に駅員を配置)。旧駅跡は道路として整備された。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード・ICOCAの供用開始。

電報略号 タケ
駅構造 高架駅*
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 572人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1899年(明治32年)1月25日
備考 無人駅(自動券売機 有)
* 一部は山岳トンネル内

 

 

東武デハ1形電車大正13年系

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東武デハ1形電車は、かつて東武鉄道に在籍した電車。1924年(大正13年)に新製された東武初の電車であり、製造年から大正13年系とも称される。

1924年(大正13年)10月1日の伊勢崎線浅草(初代・現在のとうきょうスカイツリー) - 西新井間電化完成に伴い、全8両(デハ1 - 8)が導入されたのが本形式である。全車とも両運転台構造の電動車であり、製造は日本車輌製造東京支店で行われた。

車体:16m級木造ダブルルーフ車体で、車体塗装は茶色一色塗りである。前面形状は緩い曲面を描く丸妻構造で、前面窓を5枚備える。5枚窓のうち左右両端の窓上には行先表示窓が設置されており、その分上下寸法が中央寄りの3枚に比べて縮小されたものとなっている点が特徴である。側面窓配置は1D232D232D1(D:客用扉)で、乗務員扉は設置されていない。客用扉下部にはステップが設置されており、当該部分および客用扉引き込み部分の車体裾が一段下がった形状となっている。車内乗務員スペースはHポールによって仕切られており、運転台は中央部に設置されている。車内はロングシート仕様であった。
主要機器:当時の国産メーカーの技術が未熟であったこともあり、主要機器は輸入品で占められている。主電動機はウェスティングハウス製WH556-J6で、1両当たり4基搭載した。制御器は電磁空気単位スイッチ式手動加速制御(HL制御)、台車は鍛造台車枠を備える釣り合い梁式台車であり、製造当時の日本の電化私鉄に大量に導入されていたJ.G.ブリル27-MCB-2を装備する。制動装置はM弁を使用したAMM自動空気ブレーキを採用した。パンタグラフは1両当たり2基、屋根の前後両端に振り分けて搭載し、これは戦前の東武車両(電動車)における標準仕様として長く踏襲された。
なお、連結器は当初簡易型連結器を採用し、緩衝器(バッファー)を併用していたが、比較的早期に通常の自動連結器へ交換され、以降増備された車両と統一された。

全車電動車として竣工した本形式であったが、デハ7, 8(いずれも初代)の2両は早期から制御車代用として運用され、事実上デハ6両クハ2両の陣容であった。その後1931年(昭和6年)には同2両を正式に電装解除して電装品を大正14年系クハ1形1, 2(いずれも初代)に提供し、同車と車番交換を行う形でクハ1形1, 2(いずれも2代)と改称・改番された。デハ2についても1934年(昭和9年)に電装解除され、クハ1形11と改称・改番されたが、その後同車は年代は不詳ながら事故で被災し、復旧名義でデハ10系クハ12形1108が新製され、車籍は同車に引き継がれている。

戦災による被災車は1両も発生しなかった本形式であったが、1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)にかけてデハ3, 4, 6の3両が地方私鉄に譲渡された。これは国鉄63系割り当て車導入の見返りとして、保有車両の地方私鉄への供出を運輸省より指示されたことによるもので、3両の内訳は上信電鉄に2両、新潟交通に1両となっている。
デハ3 → 上信電鉄デハ11・デハ4 → 上信電鉄デハ10・デハ6 → 新潟交通モハ19
1951年(昭和26年)に施行された大改番によって、大正13年系はデハ1形がモハ1100形、クハ1形がクハ210形にそれぞれ改称・改番された。・デハ1 → モハ1100・デハ5 → モハ1101・クハ1 → クハ210・クハ2 → クハ211
ただし、クハ2両は大改番前年の1950年(昭和25年)に運転設備を撤去の上で熊谷線へ転属し、蒸機牽引列車の客車として運用されていた。また、モハ1100は大改番施行以前より制御車代用として運用されており、後に片運転台化の上越生線に転属した後、1951年(昭和26年)にクハ212と改称・改番されて正式に制御車となった。
その後、1954年(昭和29年)にキハ2000形が導入され、熊谷線の動力近代化が成ったことを機に、クハ210, 211は矢板線に転属し、同時にクハ212も矢板線へ転属した後、1955年(昭和30年)に3両揃って正式に客車化され、コハフ10形11 - 13と改称・改番された。
クハ210 - 212 → コハフ11 - 13
これら3両は1959年(昭和34年)6月の矢板線廃止まで運用された後、同年8月10日付で全車廃車となった。

本形式で唯一電車として残存したモハ1101であるが、戦後は鬼怒川線で電機代用として貨物列車牽引に用いられた後、野田線に転属して配給車代用として運用され、さらに1956年(昭和31年)1月より西新井工場の入換車に転用された。その際、外板の老朽化が著しかったことから、車体外板に鋼板を張り付けて簡易鋼体化が施工されている。また、1964年(昭和39年)8月には車内の座席を撤去し、事故復旧用機材を搭載している。入換車として転用されて以降、車体塗装は当時の一般車と同様に変更され、茶色一色、ベージュ地に裾部と窓周りがオレンジのツートンカラーを経て、最終的にはセイジクリーム一色塗りとされていた。
こうして、外板に鋼板を打ち付けた以外は大きな改造を受けることなく車体の基礎構造および外装と主要機器について原形を保ったまま、約25年余にわたって入換用途に専従した同車であったが、東武初の電車であるという貴重性が評価され、東武鉄道創立80周年記念事業として開園した東武動物公園にて展示保存されることとなって1981年(昭和56年)に除籍され、57年に及んだ車歴を終えた。保存に際しては車番を大改番以前のデハ5とし、外観の整備のほか、入換車時代に撤去された車内設備の復元が行われ、往時の姿が再現されている。
その後、東武鉄道創立90周年記念事業として1989年(平成元年)5月に東武博物館が開館したことに伴い、同車も同博物館へ移設され、現在に至っている。


東武デハ1形電車
大正13年系
車両定員 92人
全長 16,129 mm
全幅 2,734 mm
全高 4,059 mm
車両質量 32.7t
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
(架空電車線方式)
主電動機 直流直巻電動機WH556-J6[1]
制御装置 電磁空気単位スイッチ式手動加速制御
台車 ブリル27-MCB-2
制動方式 AMM自動空気ブレーキ
保安装置 なし
製造メーカー 日本車輌製造東京支店

古国府駅 JR九州)久大本線

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古国府駅(ふるごうえき)は、JR化後に設置された新しい駅で大分県大分市大字古国府にある。九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅である。駅は付近の高校への通学で朝夕は混雑します。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。山と道との間の非常に狭いスペースに設けられた駅で、ホームの幅が非常に狭い上、駅舎も出改札窓口のみの簡素な構造となっている。駅前広場などといったスペースはありません。駅前には多数の自転車が並んでいます。


かつてはJR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、マルスは無いがPOS端末が設置されていたが、2014年7月1日をもって無人駅となった。また、自動券売機が1台設置されている。ICカードSUGOCAは出入場とチャージのみ対応。

1988年(昭和63年)3月13日 - 開業。
2012年(平成24年)12月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。
2014年(平成26年)7月1日 - 無人駅化。

電報略号 フル
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 362人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1988年(昭和63年)3月13日
備考 無人駅

 

東武ED5010形電気機関車

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東武鉄道では、長らく蒸気機関車を貨物輸送の主力としていたが、1955年に貨物列車電化計画が決まり、自社発注の電気機関車が順次、増備されていった。ED5010は、先のED5000形を基本に日立製作所で製造されたもので、1957年7月から1962年7月にかけ、4回に渡って14両が製造されている。ED5000形よりも車長は短い。なお、製造時期によって細部に差異が見られる。

1次量産型と2次量産型とに分かれているが、大きな特徴は、車体台枠が覗いている点である。何れも、茶色塗装、デッキ付で、デッキは黄色塗装で正面にはゼブラ模様が施されている。なお前照灯は後にシールドビーム2灯化された。
1次量産型:ED5011 - ED5015が該当する。外見上の特徴は、車体側面のベンチレーターが4個取り付けられている点である。正面窓は、3つで、ほぼ同じ大きさ、同じ位置になっている。
全機が、東上線用として、坂戸機関区に配置されたが、ED5011は後に杉戸機関区に転属となった。


2次量産型:ED5016 - ED5024がこれに該当する。外見上の特徴は、車体側面のベンチレーターが2個取り付けられていることである。正面窓は、乗務員扉の窓が少し下寄りになっている。
当初は全機が杉戸機関区に配置されていたが、ED5016、ED5017は後に坂戸機関区に転属となった。

日本国有鉄道の貨物削減や自社の貨物削減等により、廃車が早かった。ED5011は1984年1月に、東上線では貨物列車廃止に伴い、2両(ED5014, ED5015)が1984年9月11日に、2両(ED5012, ED5013)が1986年3月29日に廃車となった。
さらに6両(ED5016 - ED5021)が1986年10月31日に廃車、残る3両(ED5022 - ED5024)も杉戸機関区の廃止に伴い、1987年に廃車となり、形式消滅した。

保存車両は2両が保存されている。東上線で使用されていたED5014とED5015は廃車後、杉戸倉庫に留置された。ED5014は1985年に解体されたが、ED5015は再塗装等の整備が行われ、東武博物館に展示されている。なお、シールドビームはそのままとなっている。
ED5020は廃車後、埼玉県杉戸町に譲渡され、杉戸高野台の公園内にヨ126と連結した姿で保存されているが、状態は悪く窓は全てトタンでふさがれている。


全長:12,000mm
全幅:2,740mm
全高:3,995mm
重量:45.5t
電気方式:直流1500V(架空電車線方式)
軸配置:B-B
台車形式:DTH57
主電動機:MT40形×4基
歯車比:17:72=1:4.24
1時間定格出力:568kW
1時間定格引張力:5280kg
1時間定格速度:39.0km/h
最高運転速度:
動力伝達方式:1段歯車減速、吊り掛け式
制御方式:抵抗制御、直並列2段組合せ制御
制御装置:電磁空気単位スイッチ式
ブレーキ方式: EL-14AS空気ブレーキ、手動ブレーキ

木太町駅 JR四国)高徳線

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木太町駅(きたちょうえき)は香川県高松市木太町、住宅密集地にある四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の駅です。

駅番号はT24。高松大学、高松短期大学などの学生が朝夕の通勤通学利用として賑わいます。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎およびトイレは設置されてなくホームに待合所があります。ホーム上屋下の待合所にはにはFRPの椅子が設置されています。


開業当初ホームは2両編成の列車しか止まれない長さで、現在は設定がないものの、普通列車の一部は当駅を通過していた。ホームは1996年までに4両編成の長さにのばされて現在は全普通列車が停車します。

駅東の踏み切りには小さな駅名標があります。

1986年(昭和61年)11月1日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR四国の駅となる。

電報略号 タキ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 309人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1986年(昭和61年)11月1日
備考 無人駅

ロープウェイゴンドラ(明智平ロープウェイ)

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明智平ロープウェイは、栃木県日光市にある索道(ロープウェイ)である。
明智平駅と展望台駅を結ぶ路線で、東武グループの日光交通が運行している。展望台駅からは華厳滝や中禅寺湖、男体山などを望むことができる。
かつては国鉄・東武日光駅から路面電車(東武日光軌道線)とケーブルカー(東武日光鋼索鉄道線)で明智平まで乗り継ぐことができたが、 国道の渋滞などの理由で1968年に路面電車が廃止されると、その影響で1970年にケーブルカーも廃止されてしまい、このロープウェイのみが残される形となった。
その後、中禅寺湖畔の中禅寺温泉ロープウェイも老朽化などのため2003年に運行終了したため、奥日光地域における唯一の鉄道路線となっている。

明智平駅:日光市細尾町深沢に位置し、付近を第二いろは坂が通過する。1932年から1970年にかけては東武日光鋼索鉄道線(ケーブルカー)も発着していた。駅舎はドライブインである明智平パノラマレストハウスと一体化しており、乗り場は地下階に設置されている。レストハウスには食堂・土産物屋がある。
展望台駅:栃木県日光市細尾町に位置する。駅舎は2階建てで、2階が展望台となっている。駅周辺の人工物は茶ノ木平へのハイキングコースが見られる程度だが、冬季は閉鎖され、茶ノ木平へ通っていた中禅寺温泉ロープウェイが廃止されたなどの理由から通行する人は少ない。
接続路線:東武バス日光
明智平駅付近への路線バスを運行する。日光駅・東武日光駅と中禅寺温泉・湯元温泉行を結ぶ路線で「明智平」下車。なお、明智平停留所は一方通行の第2いろは坂途中にあり、中禅寺湖方面へのみ通行可能である。


1933年11月3日 日光登山鉄道により開業
1943年 不要不急線として撤去
1950年 東武鉄道により復活。不要不急線として撤去された索道では唯一復活した。
1985年4月1日 日光交通へ営業譲渡

全長:0.3km
高低差:86m
最急勾配:30°
最高速度:9km/h
走行方式:交走式
定員:16人
運転時分:3分
駅数:2駅

写真のゴンドラは東武博物館に保存のゴンドラです。

長さ:2400mm
幅:1540mm
高さ:4620mm

製造年 1950(昭和25)年
製造会社 川崎車輌製造
自重 800㎏
定員 16人
廃車 2001(平成13)年

音羽町駅 静岡鉄道静岡清水線

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音羽町駅(おとわちょうえき)は、静岡県静岡市葵区音羽町にある静岡鉄道静岡清水線の駅。駅番号はS03。系列のスーパーを併設する駅ビルの片隅に位置します。

駅構造
コンクリート造駅舎でオレンジ色など鮮やかな色使いのデザインです。


島式ホーム(複線)
島式1面2線のホームを持つ地上駅。

駅舎からホームへの移動は、構内踏切を利用する。

静鉄音羽ビルの片隅が駅舎となっている。切符売場に券売機は2台、改札口には改札機が2台設置されています。

ホームは狭く、安全のため固定の柵がある。スロープが存在し、バリアフリーに対応している。
のりば
1 ■静岡清水線(下り) 草薙・新清水方面


2 ■静岡清水線(上り) 日吉町・新静岡方面


利用状況
「静岡市統計書」によれば、2014年度の一日平均乗車人員は764人、降車人員は834人であった。この乗降人員は静岡清水線全15駅中12番目である。

上屋の無い駅前の駐輪場は雑然としています。


駅周辺
音羽山清水寺(きよみず山公園)
静岡横田郵便局
市営沓谷霊園(大杉栄の墓がある)
静岡朝日テレビ
国道1号
ジャンボSPOPIAシラトリ
静岡学園中学校・高等学校


歴史
1908年(明治41年)12月9日 - きよみず公園前駅として開業。
年月日不詳 - 公園前駅に改称。
年月日不詳 - 音羽町駅に改称
尚、1996年(平成8年)3月31日までは急行停車駅であった。戦前には同駅の近くに静岡市電気部の火力発電所が存在した(跡地は公園になっており、現在は「音羽公園」と呼ばれるが、以前は「火力公園」とも呼ばれた)。長沼駅構内に留置されている無蓋車ト1、ト2はその発電所で使用する石炭を清水港から運ぶために使用されていた。

駅番号 S03
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 1.0km(新静岡起点)
駅構造 地上駅
ホーム 島式 1面2線
乗車人員
-統計年度- 764人/日(降車客含まず)
-2014年度-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日


トキ1形貨車 (3分の1重量測定用)

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1960 (昭和35)年4月から1971 (同46)年3月まで製造された2軸ボギー無蓋貨車です。東武鉄道に在籍した貨車中、同一形式で最多の222両を所有するとともに、東武で最後に造られた車体長13.8mの大形貨車でした。 写真の貨車は1967 (昭和42)年に造られた49~88号の中の一両で、もとの車号は不明です。廃車後、約3分の1にカットされ、改造されて元杉戸工場構内で重量測定用に使用されていました。小さくなっていますが、かつての面影を残すものです。
ト…無蓋車 キ…荷重トン数25t以上

国鉄トキ1形貨車は、かつて日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省等に在籍した無蓋貨車である。1909年(明治42年)に、鉄道作業局が汽車製造で5両を製作した、日本初の25トン(石炭荷重15トン)積み汎用二軸ボギー無蓋車である。製造当時は、ムボ1001形(ムボ1001 - ムボ1005)と称した。手用制動機付きであったことから、1911年(明治44年)の鉄道院車両称号規程制定ではフオト6199形(フオト6199 - フオト6203)、後にオト6199形(オト6199 - オト6203)、となった。1928年(昭和3年)の車両称号規程改正では、トキ1形(トキ1 - トキ5)に改称された。同時期に試作されたホテワ1形(後のテキ1形(初代))とともに、当時日本最大級の貨車であったが、いずれも量産には至らなかった。また、本形式は、昭和初期まで日本最大の無蓋車であった。車体は木製で、一部(片側2か所)をあおり戸とした他は固定4枚式の側板、妻板を有した。妻板の上部はフラットである。台枠は鋼製で、中梁は中央部の高さを増した魚腹型である。台車は軸距1,529mmのアーチバー式の二軸ボギー台車で、枕バネはコイルバネを並べたものである。数が少なかったことから専属配置され、主に木材輸送に使用されたが、1949年(昭和24年)までに全車が廃車となった。

鶯谷駅 JR東日本)京浜東北線・山手線

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鶯谷駅(うぐいすだにえき)は、東京都台東区根岸一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。

駅の西側は上野恩賜公園(上野の山)の北側に位置し、高級住宅街の上野桜木や東京藝術大学の最寄り駅である(以前は上野桜木にも京成線の駅があった)。寛永寺、東京国立博物館、国際子ども図書館、大名時計博物館、東京文化財研究所が近い。

例年、七夕の前後3日間に下谷七福神と当駅近郊の商店街で、入谷朝顔市が開かれ、下町の夏の風物詩として賑わう。東側は屋台や居酒屋が点在し、ホテル街を形成している。小さな路地が多い地区である。

近年古い建物は次第に姿を消し、新築マンションが竣工されていることから昔のイメージの鶯谷は消えつつあり、昔ながらの近所付き合いも比較的なくなってきている。東京芸大や専門学校の学生、新築マンション購入者の家族が多く、北口は上野桜木(高級住宅街)の住民も多い。

乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線1路線のみであるが、当駅には電車線を走る京浜東北線電車および山手線電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」とは案内されていない。また当駅は、特定都区市内における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。

島式ホーム2面4線の地上駅である。北側市街地と上野公園を結ぶ陸橋がこれらを跨いでいる。出口は北口と南口の2ヶ所がある。北口は地上駅舎のようになっているが、南口は橋上駅舎になっている。南口の橋上駅舎は1927年に造られ瓦葺きの木造駅舎が今だに残っています。


みどりの窓口はないが、南口に設置されている指定席券売機で指定席券などが購入できる。南口改札の改札機は3台。北口改札には改札機総数3台あり、うち1台がICカード専用機です。
駅名の「うぐいす」にあやかって、朝の時間帯にはプラットホーム上のスピーカーから、鶯の鳴き声を流している。


現在、山手線ホームへホームドアの設置工事などを含む改良工事を行っている。このため、ホームの一部に仮囲いが設置されているため、狭くなっている。

のりば
JR鶯谷駅プラットホーム
番線 路線 方向 行先
1 ■京浜東北線 北行 田端・赤羽・大宮方面


2 ■山手線 内回り 池袋・新宿・渋谷方面
3 外回り 上野・東京・品川・目黒方面
4 ■京浜東北線 南行 上野・東京・品川・横浜方面
京浜東北線快速運転時間帯(主に10時 - 15時の間)は全列車が当駅を通過するため、この時間帯は2・3番線の山手線しか利用できない。京浜東北線を利用するには上野駅か田端駅での乗り換えとなる。


上野 - 日暮里間は京浜東北線・山手線(東北本線電車線)以外に宇都宮線・高崎線(東北本線列車線)・常磐線も併走し、上野駅電留線もある。
バリアフリー設備:エスカレーター⇒南口 - ホーム・エレベーター⇒南口 - ホーム・多機能トイレ

バス路線:最寄りの停留所は、言問通りにある都営バスの「鶯谷駅前」と「下谷二丁目」及び台東区コミュニティバス「めぐりん」の「鶯谷駅北」「鶯谷駅南」、「ぐるーりめぐりん」の「根岸三丁目」となる。

1912年(明治45年)7月11日 - 鉄道院東北本線の駅として開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、JR東日本の駅となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線が通過するようになる。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカードSuica供用開始。

所属路線 ■京浜東北線
■山手線
(いずれも正式には東北本線)
キロ程 4.7km(東京起点)
大宮から25.6km
電報略号 ウス


駅構造 地上駅(一部橋上駅)
ホーム 2面4線(通過線6線)
乗車人員
-統計年度- 24,481人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 1912年(明治45年)7月11日
備考 山区 東京山手線内・東京都区内駅

MTVR アメリカ海兵隊

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MTVR(Medium Tactical Vehicle Replacement, 中型戦術車両後継型)は、アメリカ合衆国のオシュコシュ社で開発され、アメリカ海兵隊とアメリカ海軍で採用されている6×6輪駆動、積載量7tクラスの軍用トラックシリーズの名称である。


MTVRはM939 5tトラックシリーズの設計をベースとして発展させた6輪駆動のオフロードトラックで、1998年から実戦配備された。7tトラックと言われるが、これはオフロード条件での仕様を表した数値で、舗装道路上では約2倍の14t程度の積載量を持つ、大型のトラックである。
M939A2シリーズと同様に、空気圧自動調整システム(CTIS, Central Tire Inflation System)を標準装備している。キャブ部分には機関銃リングマウントを標準装備しており、MCTAGS, MCTAGS-R(機関銃手用装甲キット)を装着して運用されるケースもある。2009年にアフガニスタンに派遣された車両では、キャブ部分にプラサン社で開発された装甲パッケージを装着し、対IED用の妨害装置を装備した車両が多く見られた。
MTVRには合計12種類のバリエーションと、同時に開発された牽引用トレーラーがあり、アメリカ海兵隊ではM777 155mm榴弾砲の牽引用途の他、燃料や飲料水の輸送、兵員輸送、物資の輸送など、幅広く活用されている。エクストラロングホイールベースの車両では、TEUサイズのコンテナを搭載可能である。
2004年、2005年のDARPAグランド・チャレンジに出場した無人自動車であるテラマックスは、MTVRをベースに開発されている。


形式
MK23 Standard Cargo Truck
ホイールベース4.7m、6×6輪駆動のカーゴトラック型。MTVRシリーズの基本形に相当する。
MK25 Standard Cargo Truck with self-recovery winch
ホイールベース4.7m、6×6輪駆動のカーゴトラック型、ウィンチ装備。
MK27 Extended Cargo Truck
ホイールベース5.5m、6×6輪駆動のカーゴトラック型。
MK28 Extended Cargo Truck with self-recovery winch
ホイールベース5.5m、6×6輪駆動のカーゴトラック型、ウィンチ装備。
MK29 Dump Truck
ホイールベース4.7m、6×6輪駆動のダンプトラック型。
MK30 Dump Truck with self-recovery winch
ホイールベース4.7m、6×6輪駆動のダンプトラック型、ウィンチ装備。
MK31 Tractor Truck
ホイールベース4.7m、6×6輪駆動のトラクター型。フラットベッドトレーラーを牽引する。
MK36 Wrecker Truck
ホイールベース5.5m、6×6輪駆動のレッカー型。荷台部分にクレーンを装備する。
MK37 HIMARS Resupply Vehicle
M142 HIMARS 自走多弾頭ロケット砲の弾薬運搬・再装填に使用される。フラットベッド式の荷台で、後部にクレーンを装備。
Short Bed Cargo Truck 4X4
ホイールベース4.7m、4×4輪駆動のショートカーゴトラック型。
9t LHS(Load Handling System)6X6
ホイールベース5.8m、6×6輪駆動のコンテナ搭載型。
16.5t LHS(Load Handling System)8X8
ホイールベース6.5m、8×8輪駆動のコンテナ搭載型。
MTVRトレーラー
MK38 HIMARS Resupply Trailer
M142 HIMARS 自走多弾頭ロケット砲の弾薬運搬に使用される牽引用トレーラー。MK37と組み合わせて運用される。
MK105 MTVR Cargo Trailer
MTVRシリーズと共に使用されるように設計されたカーゴトレーラー。約4トンの積載能力を持つ。
MK149 MTVR Water Trailer
MTVRシリーズと共に使用されるように設計された水タンク搭載トレーラー。600ガロン(2,268リットル)の水を運搬可能。

MTVR Dump Truck
種類 6輪駆動 7tトラック
原開発国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
運用史
配備期間 1998年~
配備先 アメリカ海兵隊、他
関連戦争・紛争 イラク戦争、アフガニスタン紛争、他
開発史
製造業者 オシュコシュ社
諸元 (MK23 Standard Cargo Truck)
重量 12,700 kg
全長 8.016 m
全幅 2.500 m
全高 3.658 m(キャブ)
エンジン キャタピラー C13 12.8L 6気筒ディーゼル
変速機 アリソン 4700 SP 7速オートマチック
懸架・駆動 6輪駆動、独立懸架式

D51 231標準形 蒸気機関車

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単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。
主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、その所属両数は総数1,115両に達しており、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。なお、一時的に籍を置いた1162 - 1166号機(→台湾鉄路管理局DT678 - 682)を含めると1,120両になるが、この5両については通常はカウントの対象外とされる。「デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった。また、「デコイチ」という愛称もある。

蒸気機関車の代名詞でもあったD51形は、廃車、除籍後実に178両が全国各地の鉄道博物館、その他博物館、公共施設、学校、公園などで静態保存されることとなった。そのうち187・488・745号の3両は準鉄道記念物に指定されている。これらのほか、2両(200号機、498号機)が動態保存されている。D51 231は東京都台東区「国立科学博物館」の野外に展示されている。

標準形
D51 86 - 90・101 - 954
先台車:LT126、従台車:LT154B、テンダー:8-20A・B、動力または手動(ねじ式)逆転機搭載
8-20Aは86 - 90・101 - 106・199 - 211に連結。AとBの相違点は炭水車の台車で、Aは軸ばねにコイルばねを用い、側枠を一体鋳鋼製としたTR24形類似のもの、Bは軸ばねに重ね板ばねを用い、側枠を鋲接板台枠構造としたものである。
逆転機は134号機以降、微妙な操作が行いにくい動力式から手動式に戻された。
前述のとおりナメクジ形は重量配分が悪く、重量列車牽き出し時に空転が多発する傾向があり、牽き出し時の重心移動を考慮すると本来一番重く設定されてしかるべき第1動軸の軸重が13.17tと第2 - 第4動軸に比して1t以上軽く、適正な重量配分ではなかった。そのため、1937・1938年に浜松工場で製造された86 - 90号機において改良試作が行われ、給水暖め器を煙突前に枕木方向に載せ、担いばねの釣合梁(イコライザー)の支点位置を変更して動輪重量の配分を可能な限り修正する、動力式逆転機を手動式に変更する等の設計変更が行われた。これによりナメクジ形で問題とされた点は概ね改善された。ただし、ナメクジ形と比較すれば改善されてはいたものの、先行形式であるD50形と比較すると動輪、とくに牽き出し時に実効軸重が低下する第1動輪の粘着性能が劣り(標準形の昇圧後で動軸重は第1動軸から順に14.73t・14.77t・14.95t・15.11t。つまり、1次形と比較して多少の改善はあったものの第1動軸から順に第4動軸まで軸重が順に増えていくという、重量列車や勾配線での列車の牽き出し時に問題となる軸重の配分状況に変化はない)、ボイラー圧力の引き上げなどによりシリンダー出力が増大していたこともあって、空転多発の一因となっていた。そのため、粘着性能の良否が直接列車の定時運行に影響する北陸本線や信越線などの勾配線では、敦賀機関区を筆頭に改良版であるこの標準形さえ忌避し、額面上の性能では劣るが空転しにくいD50形の配置を強く要望する機関区が少なからず存在した。これらの機関区に本形式が配置されるようになるのは、当時在籍していたD50形が戦時中の酷使で疲弊、老朽化し、他区からの転入による代替車両の確保が事実上不可能となってから、つまり本形式以外の選択肢が消滅して以後のことである。なお、本形式については戦時中以降、輸送力増強を図って動軸重の引き上げが許容され、フロントデッキなどにコンクリート塊の死重を搭載することで空転癖の改善が実現を見ている。その後1938年6月竣工の101号機以降はこの仕様で新製され、この姿が広くD51のイメージとして流布することとなった。
なお、このグループでは一部に台枠が圧延鋼板をくりぬいた棒台枠ではなく、D51 354 - 359・403 - 405など、鋳鋼製台枠を採用したものが存在する他、1943年度製造分以降では、除煙板やナンバープレート、テンダーの石炭庫側板を木材で代用し、また煙室前部上方と煙室扉上部の丸みを省略するなど、金属資源節約と各部工程の簡略化が順次推し進められ、準戦時形と呼ぶべき仕様に移行した。戦後はこれらも徐々に標準形と同等の仕様となるように改修が行われている。

D51 231は1938年度製造された(127両)の1両で日本国有鉄道長野工場(3両) : D51 229 - 231(製造番号1 - 3)東海道本線・山陰本線その他で活躍し昭和50年12月15日北海道追分機関区で休車するまで約216万KMを走行した。
車歴:新潟局配属
1946-2-21現在 吹田
1946-12-31現在 吹田
1947-9-8借入 亀山
1947-10-11返却
1947-10-26借入 鷹取
1947-12-4返却
1954-1-12借入 亀山
1954-3-2返却
1954-6-15盛岡
1954-9-2重油併燃装置取付
1966-10-27第3動輪取替
1968-3-24(8-11?)小樽築港
1968-8-27耐寒工事施工
移動日不明 追分
1976-3-10廃車 追分

動力方式 蒸気
製造所 川崎車輛・汽車製造
日立製作所・浜松工場
日本車輌製造・大宮工場
鷹取工場・小倉工場
長野工場・土崎工場
郡山工場・苗穂工場
三菱重工業
製造日 1935年 - 1950年
総製造数 1,184両
主要諸元
軸配置(ホワイト式) 2-8-2
軸配置(アメリカ式) ミカド
軸配置(日本式) 1D1
軌間 1,067 mm
全長 19,730 mm
全高 3,980 mm
最大軸重 14.30 t
総重量 78.37 t(運転整備)
テンダ重量 47.40 t(運転整備)
含炭水車重量 125.77 t
燃料種別 石炭
燃料容量 10.0 t
水容量 22.0 m³
ボイラ 過熱式(水容量:6.0 m³)
ボイラ圧力 14 kg/cm²(初期型)
15kg/cm²(標準型)
火格子面積 3.27 m²
大煙管寸法本数 140 mm×5,500 mm×35本
小煙管寸法本数 57 mm×5,500 mm×94本
煙管伝熱面積 147.4 m²
火室伝熱面積 17.5 m²
全蒸発伝熱面積 168.8 m²
過熱器形式 シュミット式
過熱伝熱面積 41.4 m²
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ寸法 550 mm×660 mm
弁装置 ワルシャート式
最高運転速度 85 Km/h
出力 1,400 PS
定格出力 1,280 PS
単独ブレーキ 空気ブレーキ
列車ブレーキ 自動空気ブレーキ
経歴
運用者 鉄道省→日本国有鉄道
形式 D51形
同一形式両数 1,110両
車両番号 D51 1 - 949, 1101 - 1161
愛称 デゴイチ・デコイチ
運用地域 日本全国
保存 180両(動態2両)
経歴
運用者 胆振縦貫鉄道→鉄道省
形式 D51形
同一形式両数 5両
車両番号 D5101 - D5105→D51950 - D51954
運用地域 北海道
経歴
運用者 台湾総督府鉄道
→台湾鉄路管理局
形式 D51形→DT650形
同一形式両数 37両
車両番号 DT651 - DT687
運用地域 台湾
経歴
運用者 国連軍→韓国鉄道庁
(現・韓国鉄道公社(KORAIL))
形式 D51形→ミカ(미카)7形
同一形式両数 2両
車両番号 D51101・102→ミカ7 1・2
運用地域 韓国
経歴
運用者 サハリン州鉄道
形式 D51形
同一形式両数 30両
車両番号 D51-1 - D51-30
運用地域 ソ連

消防艇(フェリー型)もみじ

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消防艇は、災害活動、訓練、調査等の水上業務遂行のために使用する船舶をいいます。消防艇(フェリー型)もみじは世界文化遺産の宮島と廿日市市沿岸の安全を守っています。
日本国内初のフェリー型消防艇で救急車両がそのまま乗ることができます。

救急車両は3t程度の消防車両や救急車両を搭載できます。船首に車両を積むスペースと放水銃を備え、船内には救急患者室も用意されています。乗務員は4人で最大30人まで乗船できます。宮島から対岸の病院への救急搬送は年間約200件あり、民間のフェリーが運航していない夜間の約60件は、患者を救急車から消防艇に乗せ替えていました。救急車ごと運ぶことで、患者への負担軽減に貢献しています。

 

船籍:日本
船籍港:廿日市
総トン数:19トン
航海速力:20ノット
全長:20.80m 型幅:5.00m
最大搭載人員:30人
最大搭載重量:7000kg又は車両1台
竣工年月:2007.04.19
建造:(株)木曽造船
建造費:1億9千万円
所管:総務省 廿日市市消防本部 宮島消防署

運航状況(航行時間、距離、運航間隔、運行本数)は航行時間/距離約10分/2km運航本数 年間60回です。

柴山駅 JR西日本)山陰本線

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柴山駅(しばやまえき)は兵庫県美方郡香美町香住区浦上字小畑、集落から離れた高台に位置します。

西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。松葉ガニの水揚げで知られる柴山港の最寄駅です。

豊岡駅管理の無人駅で通常は普通列車のみ停車駅であるが松葉蟹の季節に特急「はまかぜ」が臨時停車することもある。自動券売機は無い。

相対式ホーム2面2線のホームを持つ地上駅。駅舎はトタン屋根の大きな木造駅舎ですが駅舎機能は左隅のみです。

海側の1線(1番ホーム)は使用されておらず棒線構造となっている。

線路は現存しているがポイントが撤去され本線からは切り離されている(2012年1月時点)。

駅舎側のホーム(2番ホーム)のみの1面1線として運用され豊岡方面と浜坂方面行きが共用している。待合室には造り付けの長椅子と一人掛けの椅子が3つ。

1947年(昭和22年)6月26日 - 国有鉄道山陰本線の佐津駅 - 香住駅間に新設開業。旅客営業のみ。
1965年(昭和40年)10月1日 - 海側ホーム(1番のりば)を新設。
1971年(昭和46年)10月1日 - 貨物取扱を廃止。


1984年(昭和59年)10月1日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。


2001年(平成13年)3月3日 - 海側ホーム(1番のりば)を閉鎖。

電報略号 シハ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線


乗車人員
-統計年度- 117人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1947年(昭和22年)6月26日
備考 無人駅

三宮駅 神戸市交通局

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三宮駅は、兵庫県神戸市中央区雲井通八丁目(神戸新交通)、北長狭通一丁目 (神戸市営地下鉄)にある神戸新交通・神戸市交通局の駅。

神戸市の中心繁華街である三宮に位置している。西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線(JR神戸線)の三ノ宮駅を含め各社局の路線が集まる交通の要衝となっており、神戸市内最大のターミナル駅として機能している。フラワーロードを挟んで東寄りに阪神と神戸新交通の駅、JR三ノ宮駅、西寄りに阪急の駅がある。三宮地下街は阪神の東西両改札と地下鉄西神・山手線、南側は地下鉄海岸線の三宮・花時計前駅と直結している。阪急・地下鉄西神・山手線の東口および神戸新交通からは階段・エスカレーターや連絡通路で結ばれている。

山陽電気鉄道(山陽)の列車が神戸高速線を介して阪急・阪神の神戸三宮駅に発着する関係上、神戸高速線では、阪急・阪神の神戸三宮駅を区別する意味で社名を冠して「阪急神戸三宮駅」「阪神神戸三宮駅」と案内しているほか、山陽からの直通列車では「阪急三宮」「阪神三宮」の案内も見られる。

地下鉄三宮駅:単式ホーム1面1線×2層構造の地下駅である。駅番号はS03。駅イメージテーマは「国際性と未来志向」。
当駅 - 大倉山駅間は幅員の狭い生田新道の地下を通るため、地下1階に改札口、地下2階に1番線(新神戸・谷上方面行き)、地下3階に2番線(西神中央方面行き)ホームがある。
地下鉄海岸線、阪神本線への乗り換えおよびさんちかへは東改札口の東側にある地下の連絡通路を経由することにより、地上へ上がらず到達することが可能である。
駅名標には、広告として近隣の温浴施設名が付記されている。
可動式ホームドアの設置が予定されている。


地下鉄三宮駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■西神・山手線 新神戸・谷上方面
2 名谷・総合運動公園・西神中央方面


現在、一般的に三宮と呼ばれる地に駅を設けた最初の路線は、1905年(明治38年)開業の阪神本線である。それに先駆けて、1874年(明治7年)には後の東海道本線となる官営の鉄道が阪神間に開業していたものの、同線における三ノ宮駅は現在地より西に600mほどの場所(後に元町駅が設けられる地)に置かれていた。
阪神は当初、市街電車と同じ軌道法準拠で敷設された都市間電車(インターアーバン)であった。それゆえ、神戸市街においては岩屋駅以西で併用軌道を用いて路線が敷設されており、東海道本線に並行する形で雲井通八丁目(現在の三宮ターミナルホテル付近)に同線の終端として、この地に駅が設置された。このときは同線の神戸側終端であったため、神戸駅ないし神戸雲井通駅と呼ばれていた。後に現在のJRと同じ駅名である三ノ宮駅に変更された。
阪神は当初、集客のため神戸雲井通から先、神戸市街を循環する路線の敷設を計画していたが、神戸市街への路面電車敷設を目論む他出願者との競願となったことから協議が行われ、最終的に神戸市街の路線は神戸電気鉄道(後に市営化)が敷設することを決定、阪神は同社との提携で雲井通から200m南下した所(当時は滝道と呼ばれ現在は国際会館が設けられている地)に路線を延伸し、同地で接続を図ることとなった。その工事は1912年(明治45年)に完成し、同地に新たな神戸駅(滝道駅)が開設され、元の神戸駅(神戸雲井通駅)は三ノ宮駅と改称された。

大正時代になると、阪神に続いて阪神間の都市間輸送に参入する事業者が現れた。大阪市の梅田を起点に北方へ向かう路線、現在の阪急宝塚本線などを当時運営していた箕面有馬電気軌道(箕有)である。同社は阪神が滝道に延伸されたのと同じ年、神戸と西宮を結ぶ環状線敷設のための特許を収得していた灘循環電気軌道という業者に着目し、阪神との駆け引きの末これを買収、社名も箕面有馬電気軌道から阪神急行電鉄(阪急)と改め、阪神間新線の建設に取り掛かった。現在の阪急神戸本線である。
このとき、同社は当初から三宮の地に乗り入れることを計画していたといわれ、その方法を阪急は高架線にするものとしていたが、市では市街地の分断を憂慮して地下化を要請したことから対立し、工事に着手することが不可能となった。このため阪急では、とりあえず市電が延伸されてきていた上筒井の地に暫定ターミナルの神戸駅を設置し、当地への延長については引き続き市と協議を行うこととした。一方、阪神では阪急という競合相手の出現を危惧し、神戸市街と御影付近に存在した併用軌道を解消して、スピードアップを行い対抗することを画策した。阪神は1929年(昭和4年)に御影付近の高架化を完成させ、神戸市街の併用軌道も同様の手法で解消しようと考えていたが、阪急の時と同様に神戸市が難色を示したことから、阪神側は併用軌道の解消を優先的に考えて譲歩し、地下線化に計画を変更した。こうして1933年(昭和8年)に岩屋駅 - 三宮駅 - 神戸駅(滝道駅)間の併用軌道線は廃止され、代わって岩屋から三宮までの地下線が開業した。新たな地下ターミナルは頭端式ホームを採用し、阪神では神戸側の拠点駅となったことから、この新たな地下駅を神戸駅と命名した。


一方、阪神の地下線工事が進む中、1931年(昭和6年)には鉄道省東海道本線の高架化が完成し、三ノ宮駅が現在地に移転した。この頃、市の都市計画の一環として同駅周辺に新たな街を形成する指針が示されており、今日に至る繁華街の下地が造られ始めていたのである。
そして阪神の地下線が完成する頃には、阪急も国鉄と同様に高架線で三宮に乗り入れることがようやく認められ、工事に着手しようとしていた。これに対して阪神は、1934年(昭和9年)に阪神間で省線電車の運転が開始されたこともあり、阪急や国鉄との競争にさらされる中で輸送シェアを保つためにはさらなる対抗措置が必要であると考え、三宮から元町・湊川方面へ延伸するための免許を収得、頭端式で開業した三宮の神戸駅を急遽中間駅構造に改造し、突貫でとりあえず元町まで延伸することにした。
阪急の三宮延伸と阪神の元町延伸は、どちらが先に開業するか神戸市民の注目を集めていたといわれており、結局は阪神が一足早く1936年(昭和11年)3月18日に元町延伸を果たし、阪急は2週間遅れで同年4月1日に当地への延長を果たした。これに伴い、阪神では神戸側のターミナルが分散したことから神戸駅を三宮駅と改称し、一方で阪急は三宮が新たな神戸側における唯一の拠点駅となったため、阪神に代わって神戸駅を名乗ることになった。

太平洋戦争により、神戸の市街地は三宮も含めて焦土と化すが、戦災復興都市計画の中で戦前の段階で既に繁華街となっていた三宮の地を、新開地に代わって行政の中心地にもする事が定められ、市役所が湊川から三宮に移転するなど、戦後の駅周辺は神戸の中心地として栄えるようになった。
1968年(昭和43年)、市電の代替となる高速鉄道路線の形成および神戸周辺を通る私鉄線(阪神・阪急・山陽・神戸電鉄)同士の連絡を図る目的で、神戸高速鉄道が開業した。これに伴い、頭端式構造で三宮に設けられた阪急の神戸駅も阪神と同様に通過駅構造となり、阪神同様にターミナル機能が分散したことから、三宮駅へ改称された[3]。
1981年(昭和56年)には神戸新交通、1985年(昭和60年)には神戸市営地下鉄も三宮に乗り入れ[6]、おおむね今日の様相となった。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災により、阪急の駅ビルが甚大な被害を受けた。駅の施設は5箇月ほどで復旧されたが、駅ビルは再建されていない。
2009年(平成19年)3月20日 、阪神西大阪線が近鉄難波駅まで延伸(阪神なんば線と改称)し、同日より阪神三宮駅からほぼ終日、大阪ミナミおよび奈良方面行きの直通列車が運行されるようになった。
2013年(平成25年)4月30日、阪急阪神ホールディングスは、傘下企業にある2つの三宮駅について改称を発表し、阪急は2013年12月21日に、阪神も2014年4月1日に、それぞれ神戸三宮駅に改称した。

1905年(明治38年)4月12日 阪神電気鉄道の神戸駅(神戸雲井通駅)が開業。
1912年(大正元年)11月1日 滝道駅(神戸駅)までの延伸に伴い、三宮駅に改称する。
1931年(昭和6年)10月10日 鉄道省(国鉄)東海道本線の高架化に伴い、同線の三ノ宮駅が現在の元町駅付近阪神の三宮駅至近の現在地へ移転。
1933年(昭和8年)6月17日 阪神が付近の路線を地下化する[2]とともに、三宮駅は神戸駅に改称、滝道駅を廃止。
1936年(昭和11年)
3月18日 阪神の元町延伸により、再び三宮駅と改称。
4月1日 阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の神戸駅が開業する。同時に、それまでの同線における神戸側ターミナルだった従来の神戸駅を上筒井駅(1940年廃止)と改称し、支線(上筒井線)の駅とする。
1968年(昭和43年)4月7日 神戸高速鉄道東西線が開業する。同時に、阪急の神戸駅を三宮駅に改称。
1981年(昭和56年)2月5日 神戸新交通ポートアイランド線の三宮駅が開業。
1982年(昭和57年) 阪急の三宮駅でホームを10両対応に延伸。
1985年(昭和60年)
6月18日 神戸市営地下鉄西神・山手線の三宮駅が開業。
阪神の三宮駅が上記開業に合わせ3番線ホームを延伸し、北改札口を新設。
1995年(平成7年)
1月17日 阪神・淡路大震災が発生し、当駅発着の路線はすべて運行を停止。
2月1日 震災発生時より、阪神本線および神戸高速鉄道東西線の当駅と高速神戸駅間に取り残されていた1編成(阪神5131形)を使用して運行再開し、駅の営業も再開。
2月16日 神戸市営地下鉄西神・山手線が全線で運行再開するも、当駅は全列車通過扱い。
3月13日 阪急神戸本線の王子公園駅と当駅間が、正雀工場から陸送された3編成(阪急8000系)を使用して運行再開し、阪急の駅が営業を再開。
3月16日 神戸市営地下鉄西神・山手線の駅が営業を再開。
6月1日 神戸高速鉄道東西線の(阪急)三宮駅と花隈駅間の運行を再開。
6月12日 阪急神戸本線が全線復旧。
6月26日 阪神本線が全線復旧。
7月31日 当駅と中公園駅間が運行再開し、神戸新交通の駅が営業を再開。
2007年(平成19年)10月 阪神の三宮駅が、大規模改良工事を着工。
2009年(平成19年)3月20日 阪神なんば線の延伸開業により、ほぼ終日にわたり当駅と大阪ミナミおよび奈良方面の直通列車が運行されるようになる。
2010年(平成22年)10月1日 神戸高速鉄道の事業形態変更に伴い、東西線の(阪急)三宮駅と新開地駅間を阪急神戸高速線と呼称する。同時に、阪急の駅を神戸高速鉄道との共同使用駅から阪急単独駅に変更。
2012年(平成24年)
3月20日 阪神の三宮駅に東口が新設される。
6月2日 阪神の三宮駅で配線変更が実施され、上下本線の間に折り返し線が移動する。
2013年(平成25年)
3月20日 阪神の三宮駅が、大規模改良工事を竣工。
12月21日 阪急の三宮駅が神戸三宮駅に改称[7]。 同時に駅番号を導入。
2014年(平成26年)4月1日 阪神の三宮駅も神戸三宮駅に改称。 同時に駅番号を導入。

地下鉄 三宮駅

駅番号 S03
所属事業者 神戸市交通局 (神戸市営地下鉄)
所属路線 西神・山手線
駅構造 地下駅
ホーム 単式2面2線(2層式)
乗車人員
-統計年度- 60,732人/日(降車客含まず)-2013年-
開業年月日 1985年(昭和60年)6月18日[6]

 

 

 

 

 

 


N-WGN本田技研工業・CINDERELLA GIRLS nana abe

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N-WGN(エヌ ワゴン)は、本田技研工業が生産、販売する軽トールワゴン型の軽自動車である。


N-WGNは2011年11月に発売したN-BOX(N-BOX +含む)を皮切りに展開している「Nシリーズ」の第4弾で、軽自動車の「新しいベーシック」を目指し、基本性能を高次元で備えた軽自動車規格のミニバンとも言える軽ハイトワゴンとして開発された。全高はFF車で1,655mm、4WD車で1,675mmとなっており、既発売のN-BOX(1,780-1,800mm)より低く、N-ONE及び先代モデルのライフ (1,610-1,630mm)より高くなっている。
なお、LPL(開発責任者)は前出2車の浅木泰昭ではなく、2代目フィットやフィットシャトルのLPLを歴任した人見康平である。

パワープラントはS07A型エンジンとCVTを搭載する。なお、エンジン型式そのものはN-BOX/N-ONEと同様だが、ホンダの軽自動車では初となるツインインジェクションシステムやナトリウム封入バルブを新たに採用。NA車では高圧縮比化(N BOXは11.2、N-ONEは11.0に対し、11.8に向上)されたが、ナトリウム封入バルブの採用により排気バルブ近辺の温度を下げることでノッキングの発生を抑え、高出力・高トルク性能を保持したまま低燃費化を実現し、NA車及びターボ・FF車は「平成27年度燃費基準+20%」を、ターボ・4WD車は「平成27年度燃費基準+10%」をそれぞれ達成している。
CVTも従来より軽量化・高効率化を進めており、アイドリングストップ時に油圧を保持する電動油圧ポンプはより軽量な機械式の蓄圧タイプに変更された。アイドリングストップの上限作動速度も減速時10km/h以下まで引き上げられた。
安全性能においても、N-BOX/N-ONE同様に急ブレーキ時にハザードランプを高速点滅させることで後続車に注意を促すエマージェンシーストップシグナル、車両挙動安定化制御システム(VSA)、坂道発進時の後退を抑制するヒルスタートアシスト機能(HSA)を全タイプ標準装備するほか、約30km/h以下の前方車両との衝突の回避・被害軽減をサポートするシティブレーキアクティブシステム(CBAS)とサイドカーテンエアバッグシステム・前席用i-サイドエアバッグシステムをセットにした「あんしんパッケージ」がタイプ別に設定(標準装備、またはオプション設定)されている。

Nシリーズが提案する『次世代の軽ワゴン』を表現したものである。「WGN」は、ワゴンの略称をロゴタイプにしたもので、ステップワゴン(STEP WGN)と商標を共有している。

製造国  日本
販売期間 2013年-
乗車定員 4人
ボディタイプ 5ドア 軽トールワゴン
エンジン S07A型:658cc 直3 DOHC
駆動方式 FF/4WD
変速機 CVT
サスペンション 前:マクファーソンストラット
後(FF):車軸式
後(4WD):ド・ディオン式
全長 3,395mm
全幅 1,475mm
全高 1,655-1,675mm
ホイールベース 2,520mm
車両重量 820-910kg
LPL(開発責任者) 人見康平
生産台数 22万522台
先代 標準仕様:ライフ(5代目)
カスタム仕様:ライフ DIVA(2代目)

『アイドルマスター シンデレラガールズ』(THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS)は、バンダイナムコエンターテインメント(旧バンダイナムコゲームス)とCygamesが開発・運営する『THE IDOLM@STER』の世界観をモチーフとする携帯端末専用のソーシャルゲーム。2011年11月28日からMobage上で提供されている。
2015年にテレビアニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』が放映されたほか、同年9月から本作を題材にしたスマートフォン向けの音楽ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ』がiOS・Android向けアプリとして配信されている。2016年10月にはVRアイドルライブゲーム、『アイドルマスター シンデレラガールズ ビューイングレボリューション』が発売された


ナナ阿部(安部菜々阿部ナナは?) モバイルゲームで生産される可能なアイドルの一つであるシンデレラガールズ:STER IDOLM @。彼女は声れるマリー・三宅(三宅麻理恵三宅マリー)。彼女は現在シンデレラガールズの無名の才能機関に勤務中ですが、アニメでは346のプロダクションと提携しています。

惑星ウサミンに由来する永遠に17歳のエイリアンであると主張する疑わしい時代の偏ったパートタイマーメイド。彼女は非常に素晴らしく、決定的で勤勉ですが、彼女の他のかなり偏った性質のために見過ごされることが多いです。彼女はしばしばPlanet Usaminとコミュニケーションをとり、 "Piipii☆"という音を使用します。彼女はアニメの巨大なファンであり、アニメを見るときにライン上のダビングをするポイントまで、セイウーになることを夢見ている。

彼女のCINDERELLA MASTER CDでは、ナナはCDインタビューの途中で母親から電話を受ける。ナナの母親は彼女に投票を促します。つまり、実際には少なくとも20歳であり、日本の投票年齢は最低です。彼女の身長と外見は17歳になるかもしれないが、彼女の個人的な人生は、彼女が言うよりもずっと年上であることを指摘する。シンデレラガールズシアターのコミックには、いくつかのアイドルたちが若いアイドルたちと古すぎるという呪いを論じている会話が含まれています。ナナは、バックグラウンドで目立って見える表現をしています。ナナ自身は、彼女が17歳以上であることを示すフレーズ、思い出、またはコメントを不注意にスリップする傾向があります。

ナナは、彼女が話すウサミンの話を覚えておらず、目立つ矛盾を作り出したり、子供の想像力に反する恐ろしいシナリオを発明したりする習慣があります。ナナの宇宙人の主張は、一種の行動として明白に提示されている。彼女のラインと漫画の外観の多くは、彼女が一緒に行くように、彼女が明らかにパニックを起こし、物事を作り上げることが特徴です。他のシンデレラ・ガールズのキャラクターは、彼女の外界のファンタジーに絶えず穴を開けるため、彼女はもっと恥ずかしい声明を語り、彼女をさらに恥ずかしくする。ナナは永遠の17歳の女性に対する主張が挑戦されたとき、非常に困惑して守ります。彼女のスクールユニフォームSRでは、ずっと前に彼女が本当のものを取り除いたので、彼女は「惑星ウサミン高等学校制服」を抜き出したことを暗示しています。

Starlight Stage commu にもとづいて、以前は秋葉原エリアの小さな舞台で見ることができるアイドルタイプのアンダーグラウンドアイドルとして活動していました。これは、彼女が既に聴衆に歌と踊りを経験していることを意味しています。彼女はまた、彼女の生きている後のcommuで、彼女が彼女が地下の場面にいたときに慣れていたことを好きであったことを彼女のファンに個人的に迎えることができないことについて謝罪していると言った。彼女は「プラネット・ウサミン」と呼ばれるアパートに住み、電車を使って通勤してオフィスから1時間も離れています。

名前: 安部菜々 (安倍なな)
声優: 三宅麻理恵 (三宅麻理恵)
年齢: 17永遠に
高さ: 146 cm
重量: 40 kg
誕生日: 5月15日
血液型: O
3つのサイズ: 84-57-84
利き手: 右
趣味: "Usamin"とのコミュニケーション
占星術: おうし座
故郷: 「ウサミンスター」
カードの種類: 可愛い

古島駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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古島駅(ふるじまえき)は、沖縄県那覇市古島にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。

駅番号は12。新都心の北端に位置しています。

駅構造
相対式ホーム2面2線を有する高架駅。国道330号の上に建つ。

エスカレータ・エレベーターが設置されている。相対式ホームなので、コンコースが広くなっています。

のりば
古島駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 首里方面


2 おもろまち・牧志・県庁前・小禄・那覇空港方面

駅設備
ATM - 改札外に1台設置。うちなーネット(沖縄銀行・沖縄海邦銀行古島駅MMK出張所)
利用時間 - 平日8:00 - 22:00、土日祝9:00 - 20:00
コインロッカー - 改札内に設置。
小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)12個


公衆電話 - 改札外に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札外に1台(車椅子対応)、改札内に2台、各ホームに1台設置。
トイレ - 改札内に設置。

駅周辺
交通広場(駅前ロータリ、西口からエレベータで1階へ)
タクシー乗り場
駐輪場(無料)
公共機関・公共施設
那覇市役所新都心銘苅庁舎 - 徒歩約10分
那覇市IT創造館 - 徒歩約10分
ジスタス浦添 - 徒歩約5分


教育機関
那覇市立銘苅小学校 - 徒歩約10分
学校法人興南学園 興南中学校・高等学校 - 徒歩約5分
店舗
ファニチャーMAX-Plus大川家具 - 徒歩約1分
タウンプラザかねひで古島店(スーパーマーケット) - 徒歩約2分
Big1古島店(ディスカウントストア) - 徒歩約3分
郵便局
浦添内間郵便局
その他施設
マリエールオークパイン(結婚式場) - 徒歩約2分
出雲大社沖縄分社 - 徒歩約3分
道路
国道330号
沖縄県道82号那覇糸満線(環状2号線)

バス路線
路線詳細は沖縄本島のバス路線を参照。
古島駅前バス停(国道330号沿い)
21番・新都心具志川線 (琉球バス交通)
88番・宜野湾線 (琉球バス交通)
90番・知花(バイパス)線 (琉球バス交通)
98番・琉大(バイパス)線 (琉球バス交通)
112番・国体道路線 (琉球バス交通)
古島バス停(駅西口エレベータより中二階へ 県道82号向け)
11番・安岡宇栄原線 (那覇バス) ★石嶺方面
55番・牧港線 (琉球バス交通) ●浦添・牧港・沖縄コンベンションセンター方面
56番・浦添線 (琉球バス交通) ●浦添方面 
なお、行き先毎にバス停留所のポール位置に違いがあるので、利用の際には注意を要する(方面ごとの各印は、停車するバス停を示す。ポール位置は以下の通り)。
●印は西口より「中2階」へ、エレベータまたは階段降り口から古島インター向けに歩いてすぐの所
★印は西口より「中2階」へ、古島インターを横断・左折してすぐの所
古島インターバス停(駅東口エレベータより中二階へ 県道82号向け)
11番・安岡宇栄原線 (那覇バス)
33番・糸満西原(末吉)線 (那覇バス)

その他
駅到着時の車内チャイムは、八重山民謡「月ぬ美しゃ(つくぬかいしゃ)」を編曲したものが流れる。
駅のホームからは市立病院前駅を目視することができる。

 

歴史
2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅番号 12
所属事業者 Okinawa City Monorail Logo.png 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線
キロ程 9.96km(那覇空港起点)


駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 2,324人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日

海老江駅 JR東西線

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海老江駅(えびええき)は、大阪府大阪市福島区海老江五丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)JR東西線の駅である。計画時の仮称は「野田阪神駅」となっており、他社の名称が駅名に含まれる可能性があった。また、海老江にしたのは大阪環状線の野田駅と区別する意味合いを持つ。


他社名の入る駅名としては京成電鉄千葉線の「国鉄千葉駅前駅」があったが、国鉄分割民営化を機に「京成千葉駅」と改称されている。

島式ホーム1面2線を持つ地下駅。改札口は1ヶ所のみ。改札外の北新地寄りにある連絡通路から、地下鉄千日前線野田阪神駅へ繋がっている。また、地上への出入口は野田阪神北交差点付近と野田水道局前交差点付近に1ヶ所ずつで、地下鉄や阪神線への乗換は前者の方が便利である。1992年4月に付近の建設現場で地下水が遮水壁を破って浸水し道路を陥没させる事故が発生し、東西線の開業が遅れる原因になった。また駅の地上に繋がる各出入り口付近には淀川の氾濫を想定して重厚な水防壁が設けられている。


直営駅(北新地駅の被管理駅)かつICOCA利用可能駅。独立したみどりの窓口があり券売機は3台。定期券発売機も設置されています。
改札口にはオープンカウンター式有人通路があります。

海老江駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 H JR東西線 下り 尼崎・宝塚・三ノ宮方面
2 H JR東西線 上り 北新地・京橋・四条畷方面

日中時間帯は1時間あたり快速4本、各駅停車4本の合計8本が停車する。朝ラッシュ時は本数が多くなる。すべての列車が停車する。

「海老江」を名乗る駅としては、1975年に廃止された阪神北大阪線に先に存在した。ただし、こちらの方は阪神野田駅から北に延びる道路上にあったため、場所は若干異なる。同じ阪神の軌道線でいえば、国道線の中海老江駅の方が当駅に近い。
また、1980年に廃止された富山地方鉄道射水線にも海老江駅があった。こちらは1929年開業ということで、阪神北大阪線より後にはなるが、軌道を除いた鉄道では、こちらが一番古い海老江駅となる。現在もプラットホ-ムの一部が残っている。
駅シンボルは、当駅付近が藤の名所であったことにちなみ、「野田藤」である。
1992年4月3日、地盤を掘り下げていた時に壁から水が漏れ、民家34戸に被害が出た。これが原因で、JR東西線の開通が2年も遅れることになった。

1997年(平成9年)3月8日 - JR東西線開通日に開業。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

電報略号 エヒ
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 11,083人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1997年(平成9年)3月8日
乗換 野田駅(阪神電鉄本線)
野田阪神駅(地下鉄千日前線)
備考 直営駅

国鉄C62形蒸気機関車 26号

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国鉄C62形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。
1948年から翌年にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両(日立製作所21両・川崎車輛(現在の川崎重工業車両カンパニー)15両・汽車製造13両)が製造され、その牽引力や重量から、輸送量を要求される、主に平坦地や、軟弱地盤の少ない東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。通称シロクニ。

終戦当時、国鉄(当時は運輸省)には戦時物資輸送用の貨物用機関車が大量に在籍していたが、これらは終戦とともに大半が余剰となった。一方で、旅客用機関車はかなり不足していた。これに加え、増える一方の買出しも、旅客用機関車の不足にさらなる拍車をかけた。しかし占領軍の方針や資材の不足もあり機関車の新製は困難だった。
そこで、GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち一部の車両のボイラーを旅客用機関車に転用することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車の設計を流用して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった。財政難で発注がキャンセルされたC57・C59形(戦後型)のメーカー仕掛部材救済が目的の一つであり、鋳造台枠を削って無理やり収めた2軸従台車の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。なお、D52より転用のボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機を除いては後に新製ボイラーに換装されている。
占領軍 (GHQ) のインフレ抑制政策(ドッジ・ライン)の指示は、本形式とC61形がほぼ全機ロールアウトする後の1949年3月のことであり、巷間言われるような関係はない。
これにより、D51形からC61形、D52形からC62形が改造された。C61形は、C57形相当の乙線規格の機関車で、C62形はC59形に代わる特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を目的に改造されたものである。

機関車全長は、炭水車を含めて21.48m。重量は145.2t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750mm。軸配置は、従来の2C1(先輪2輪+動輪3輪+従輪1輪の意味)のパシフィック形では軸重が特甲線の上限を超過してしまうため、従輪を2軸とした2C2(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08t以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変え、[1]先台車の板バネ枚数を16枚から17枚に増やしバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9tへ引き下げることが可能[2]で、この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造されたものと、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重型は白河駅以南の東北本線や、仙台駅以南の常磐線で使用されたほか、末期には、電化の進展で余剰を来たした通常形を軽軸重形に改造の上で、軽軸重形の需要があった函館本線に転用している。弁装置は国鉄制式機の通例どおりワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。
軽軸重形は空転防止(出力抑制)のため、シリンダ内にスリーブを挿入してのボアダウンが併せて施されたとの通説があるが、初期に軽軸重型に改造されたものはボアダウンはされておらず、昭和28年発行の鉄道技術発達史にも軸重の変更以外の記述がない。また最初に函館本線に転属した3号機にもこの対策は施されず、軽軸重化工事のみで運用されていた。また、他の転属機についてもボアダウンしたとの改造記録はなく、機関士の使用感が違ったとの記録もない。D62形の例と混同され、広まった可能性が指摘される。
本形式の製造は、治具や生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場(1 - 21号機)、川崎車輌兵庫工場(22 - 36号機)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係でC61形の発注をキャンセルされた汽車製造大阪製作所(37 - 49号機)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、本形式の設計は試作機としての役割を持つ1 - 4号機を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当した37号機以降は、基本的には36号機以前と共通設計ながら、前後で同一形状の蒸気溜りと砂箱のキセや、弁装置の調整など、C59形の設計に参加した高田隆雄ら同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。
ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、煙管長は5,000mm、燃焼室付きである。
炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の、全溶接構造の船底形車体に、石炭10tおよび水22tを搭載可能とする10-22形が連結されていた。2 - 4号機で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー、動力部は炭水車に装備)装備試験を行った結果、好成績が得られたため、国鉄・汽車製造・ダイハツ工業の共同による動力部を機関車取付けとしたものが開発された事から5号機以降でこれが制式化され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。ただし、初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。
本形式は大直径動輪の上、破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、蒸気溜りと砂箱を覆うキセも幅広で扁平なものとなった。このため加減弁の開閉装置は通常のリンク式が使用出来ず歯車式とした[3]が、開閉が重く振動音が大きいなど問題があり、後に改良型のリンク式として解決を図った。また、汽笛も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている。
ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m²時の最大出力は1,620PSで、これは母体となったD52形の1,660PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現している。実際に新造開始直後山陽本線糸崎駅 - 八本松駅間で実施された、ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型C59形との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20パーセント以上節約されるという好成績を収めている。これはC59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いためである。

1948年から1949年の間に完成したC62形49両は、広島、広島第二、糸崎、下関、岡山、姫路、宮原、梅小路(以上は東海道本線・山陽本線沿線の各機関区)、宇都宮、尾久(以上は東北本線沿線の機関区)に分散配置され、既存のC59形と共通運用で運転が開始された。そのほとんどが当初各メーカーに近い機関区に配置された。具体的には、日立製作所笠戸工場製の21両は浜松機関区に配置された6号機と後期製造の軽軸重形3両(19 - 21号機、宇都宮機関区)を除く全17両が岡山駅以西の各機関区に、川崎車輛兵庫工場製の15両はやはり浜松に配置された28号機以外の全14両が下関から梅小路までの東海道・山陽本線の各機関区に、そして汽車製造大阪製作所製の13両は後期製造の軽軸重形5両(45 - 49号機、尾久機関区)以外の8両は岡山、宮原、梅小路の3機関区にそれぞれ分散配置されている。これは納品後の不具合洗い出しと、運用に当たる乗務員・各機関区の保守陣の習熟が目的と見られる。
1949年3 - 4月に落成した軽軸重形の8両(日立の19, 20, 21号機と汽車製造の45, 46, 47, 48, 49号機)は、新製配置より東北本線および常磐線用として尾久および宇都宮に配置されているが、これら以外にも初期製造のうちの11両(7, 8, 9, 10, 11, 22, 23, 24, 37, 38, 39、いずれも1948年11月上旬までに使用開始された実績のある機体)が同年6月までに新製配置区から東北本線および常磐線沿線の機関区(白河、宇都宮、尾久、水戸、平)に転属しており、東京以北区間でのC62形運用はこれら19両で開始された。なお、東北本線での充当区間は白河駅以南区間のみであったが、試験的に白河駅以北へ入線したことがあった。しかし、勾配の連続する郡山駅 - 福島駅を中心に空転が頻発したこともあり、本格的に運用されることはなかった。

現存機5両のうち、動態保存機は2号機1両のみである。また、3両が2016年4月に開館した京都鉄道博物館に所在する。いずれも車籍は有していない。

26号機
2014年4月に閉館となった大阪市港区・交通科学博物館には26号機が1966年から閉館まで静態保存されていた。その後、2016年に開館した京都鉄道博物館に移設された。

基本情報
運用者 運輸省→日本国有鉄道
製造所 日立製作所・川崎車輛・汽車製造
製造年 1948年 - 1949年
製造数 49両
引退 1973年
愛称 シロクニ
運用範囲 東海道本線・山陽本線
常磐線・函館本線
主要諸元
軸配置 2C2
軌間 1,067 mm
全長 21,475 mm
全高 3,980 mm
機関車重量 88.83 t
動輪上重量 48.23 t(原形)
44.59 t(軽軸重形)
総重量 145.17 t
動輪径 1,750 mm
軸重 16.08 t
(原形 第1・第2動輪上)
14.96 t
(軽軸重形 第1・第2動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 520 mm×660 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 16.0 kg/cm²
大煙管
(直径×長さ×数) 140 mm×5,000 mm×35本
小煙管
(直径×長さ×数) 57 mm×5,000 mm×94本
火格子面積 3.85 m²
全伝熱面積 244.5 m²
過熱伝熱面積 77.4 m²
全蒸発伝熱面積 167.1 m²
煙管蒸発伝熱面積 147.4 m²
火室蒸発伝熱面積 17.5 m²
燃料 石炭
燃料搭載量 10 t
水タンク容量 22 t
制動方式 空気、自動空気ブレーキ
最高運転速度 100 km/h
最大出力 2,163 PS
動輪周出力 1,620 PS
シリンダ引張力 13,870 kg
粘着引張力 12,058 kg

食堂車(丸屋根車)スハシ38形(スシ28形301号)

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スシ28形(改造車)
スシ37形(旧37800形)のうち冷房装置を設備していなかった車両に対して1953年の車両称号改正時に改形式・改番を行った車両で、丸屋根車。
旧番号により、下記の番号が付番された。
103 - 105
1954年に冷房装置をスシ48形 (13 - 15) に移設したマシ29 102 - 104を編入した車両。1965年までに廃車され形式消滅した。
151
スシ37 76を改番した車両で、屋根は丸屋根であった。車体設計と台車が他の100番台とは異なることから番号で区別された。1964年に廃車となり区分消滅した。

スロシ38000形は、スロシ37950形の増備車として1933年と1935年に日本車輌製造と小倉・鷹取の両鉄道省工場で合計15両(スロシ38000 - 38014)が製造された二等・食堂合造車である。1941年の車両称号改正によりスロシ37950形とともにスロシ38形とされ、スロシ38 6 - 20が付番された。
落成後スロシ38000 - 38005は札幌局に、スロシ38006 - 38014は門司局にそれぞれ配置された。
1933年に落成したスロシ38000 - 38004は、台枠にUF45を使用し車体裾が2列のリベットで接合され、スロシ38005以降は台枠がUF48に変更され車体裾のリベットが1列に変更されていて、スロシ37950形では出入台を締め切った形状とされていた物置と冷蔵庫置場も側板を外妻まで延長する形で塞ぐ構造に改め、これにより物置の容量がわずかながら増加している。
室内は、スロシ37950形同様前位より便所・化粧室と5列分の転換式腰掛を持つ二等室、二人掛けと一人掛けのテーブルが各3列配された食堂と調理室が配置されていて、二等室と食堂を仕切る仕切壁の引戸は食堂のテーブル配置に合わせて中心よりオフセットされて取り付けられているため、この部分の隅用腰掛もそれに合わせて幅が変更されていることから一人掛けテーブルのある側の腰掛は幅が狭く二人掛けとできないことからこの部分を一人掛けとして使用し、定員は二等室19名・食堂18名とされた。
また、食堂の内装もスロシ37950形から大きく変更され、スロシ38000 - 38004はのちのスシ37 58 - 67と同様吹寄と幕板部分を一体化したベニヤ板を壁紙張り仕上げとした構造になり、スロシ38005以降はのちのスシ37 68以降と同様食堂の窓上にクシ形模様が取り付けられたほか、幕板および吹寄は壁紙に替えて乾燥すると荒肌面仕上となる特殊な塗料で塗装された。
1942年より門司局に配置されていた9両をスロハ37形に改造する予定とされたが、実際に改造されたのは1両で、残りはその後の計画変更により1944年に調理室付三等車マハシ49形として改造され、スロシ38 19をマハシ49 23に改造して形式消滅した。

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