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市立病院前駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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市立病院前駅(しりつびょういんまええき)は、沖縄県那覇市古島にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は13。


計画当時の仮称は「末吉駅(すえよしえき)」であった。

駅の周囲は住宅地です。駅は那覇市立病院の前にあり、病院とは連絡通路で結ばれています。

駅構造
島式ホーム1面2線。エスカレーター・エレベーター・那覇市立病院との連絡通路あり。
駅は那覇市立病院の前にあり、病院とは連絡通路で結ばれています。


のりば
市立病院前駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 首里方面
2 おもろまち・牧志・県庁前・小禄・那覇空港方面

駅設備
コインロッカー - 改札内に設置。
小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)25個


公衆電話 - 改札内に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札外に2台(内1台は車椅子対応)、改札内に1台、ホームに2台設置。
トイレ - 改札内に設置。

駅周辺
公共機関・公共施設
那覇市立病院 - 駅直結
駅連絡口の利用時間は7:00 - 21:00。時間外は正面玄関(徒歩5分)を利用。
末吉公園・末吉宮跡 - 徒歩5分
瑞穂酒造 - 徒歩1分
郵便局
首里末吉郵便局


教育機関
那覇市立松島小学校
那覇市立松島中学校
コンビニ
ローソン首里末吉一丁目店

バス路線
那覇市立病院前バス停
11番・安岡宇栄原線 (那覇バス)


33番・糸満西原(末吉)線 (那覇バス)

その他
駅到着時の車内チャイムは、宮古民謡「クイチャー」を編曲したものが流れる。

歴史
2003年(平成15年)8月10日 - 開業。


駅番号 13
所属事業者 Okinawa City Monorail Logo.png 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線
キロ程 10.88km(那覇空港起点)
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 818人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日


クハ103形制御車1号車

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- 1964年、日本車輌製造製。
103系通勤形電車の先頭車で、103系のトップナンバーのひとつである。
2011年3月30日に廃車となった車両で廃車後は吹田総合車両所に保管されていた。京都鉄道博物館へ回送される際に阪和線のスカイブルーから大阪環状線のオレンジバーミリオンに塗装が変更された。前面と側面の方向幕は黒地に白文字で「大阪環状線」と表示されている。

国鉄103系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車。
国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で経済性を最重視して設計され、1963年(昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式である。
国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、比較的駅間が短く速度の低い線区を主に使用することを前提として設計されたが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35%まで弱めて高速特性を近郊形電車の111系並に設定している。設計当時多くの路線で最高速度が95km/hであったこともあり、よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などに投入された結果、高速性能を求められるケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造を、高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策などを施して改善した車両も存在した。なお、最初の投入先が山手線であったことから一部の雑誌執筆者からは駅間距離が短い山手線専用形式と言われたこともあったが、当時の関係者によって完全に否定されている。最高速度は100km/hとなっているが、MT比1:1では90km/hを超えると加速余力は少なく実用95km/h程度である。
本系列の設計は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系にも応用[8]された。
新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両であるが、全車が同時に存在したことはない。
JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれたが、老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)では2001年、東日本旅客鉄道(JR東日本)では2009年に形式消滅となった。

103系は長期間にわたり大量に製造されたことから、特に試作後20年を経過した1980年代後半より、アコモデーション面での見劣り、オイルショック以後の省エネ施策の未対応、スピードアップ要求に対応出来ないほか、乗り心地面など様々な面が指摘されるようになる。103系と同時期に設計された国鉄車両も同様な問題点があったが、例えば101系が一部の短区間路線を除き1990年代初めには置きかえられていた反面、103系は最終増備車が1984年(昭和59年)製であることから、21世紀に入っても大量に残っていた。初期に製造された車両を少量数しか承継せず、比較的早い時期に近郊形電車で置き換えが可能だったJR東海は別にして、103系と同時期に製造され続け、103系同様に陳腐化した113系や115系電車を大量に抱えるJR東日本やJR西日本では置き換えのペースが遅く、最新の車種との格差が広がる結果となった。
通常の大量生産される輸送機器では同一の製品を20年以上もそのまま作り続けることは考えにくい。例えばスーパーカブのように基本設計の完成度が高く、登場時点で既に21世紀の製品にも劣らない信頼性を有していたものであっても、オイルショック以降の環境・安全面での要請の高まりに対応して大幅な改良が加えられてきた。しかし、103系電車は試作車が落成後20年以上も製造が続けられ、目立った改良は1974年以降の生産分の先頭車両がATCに対応した高運転台タイプに改められた程度で、1980年代に205系が登場するまで新世代の通勤車両は103系を置き換えるには至らなかった。

JR大塚駅 JR東日本)山手線

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大塚駅(おおつかえき)は、東京都豊島区南大塚三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。


大塚駅にJR東日本の山手線、大塚駅前停留所に東京都交通局の都電荒川線が乗り入れ、接続駅となっている。
JR東日本の駅には環状線としての山手線電車のみが停車し、それ以外の列車はホームがないため通過する。特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。駅番号はJY 12。


山手線の駅は、同線(品川 - 新宿 - 赤羽)から分岐して常磐線を結ぶルートの開業により設置された。当初の計画では、目白から分岐し、現在の文京区大塚(現在の東京メトロ丸ノ内線新大塚駅付近)を通るルートであり、大塚の地に駅が置かれるはずであった。しかし、後に池袋からの分岐に変更されたため、計画時の駅名のまま現在の位置に開業した。本来、当駅周辺は「巣鴨」(巣鴨村)である。大塚駅前に巣鴨警察署があるのもこのためで、そのほか、当駅周辺や当駅より西側や南側でも「巣鴨」と名が付くものがいくつか存在している。
駅の開業後は駅名に合わせて次第に「大塚」と呼ばれるようになり、1969年の住居表示実施に伴い、実態に合わせて現在の「南大塚」、「北大塚」となった。駅名から地名が変更された例としては山手線沿線では他に「恵比寿」、「代々木」、「高田馬場」、「目黒」、沿線以外では「新小岩」、「中板橋」等がある。

島式ホーム1面2線を有する高架駅。線路の南北の地上部分にそれぞれ南口と北口の駅舎が建てられていたが(特に南口は山手線の駅舎としては貴重な木造駅舎であった)、2棟共2009年に解体され、バリアフリー対応などの改良工事が行われている。南口は現在、改良工事のための広大なスペースが設置されている。その改良工事の進捗により、2008年6月1日より池袋寄りにエスカレーターが設置され、後にエレベーターも設置された。そして、2009年1月11日より新改札口を開設し、旧南口・北口および各切符売り場が廃止され、新出入口に移動したので、南口・北口間を改札を通る事なく行き来できる様になった。後に構内(いわゆる駅ナカ)に飲食店やパン店などが開店した。
2013年(平成25年)、駅南口に地上12階・地下1階の駅ビル『JR大塚南口ビル』が建造された。地下1階〜4階には複合商業施設『アトレヴィ大塚』(2013年9月21日開業)が入っている他、スポーツ施設、保育園、オフィスなどが入居。また都電大塚駅前停留場への連絡通路の確保や、環境に配慮した設備の導入などが成されている。

切符売場に券売機は5台、改札口の有人通路はシースルー式。発車案内は設置されていません。オープンカウンター式のみどりの窓口があります。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 JY 山手線 内回り 池袋・新宿方面
2 外回り 上野・東京方面


JR東日本
1903年(明治36年)4月1日:日本鉄道の駅が開業。貨物営業も開始。
1906年(明治39年)11月1日:鉄道国有法により国有化。
1909年(明治42年)10月12日:線路名称制定により山手線の所属となる。
1974年(昭和49年)10月1日:貨物の取り扱いが廃止。


1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR東日本の駅(山手線所属)となる。
2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2009年(平成21年)10月17日:南北自由通路が使用を開始。
2013年(平成25年)4月20日:ホームドア使用開始。

駅番号 □JY 12
所属事業者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 JY 山手線
キロ程 17.2km(品川起点)
電報略号 オツ←ヲツ
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 55,726人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1903年(明治36年)4月1日
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅

 

 

1800形蒸気機関車1801号機

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1800形蒸気機関車1801号機 - 1881年、英国キットソン社製(旧番の40号に復元、鉄道記念物)。1965年、準鉄道記念物に指定、その後、2004年、鉄道記念物に昇格。

国鉄230形蒸気機関車)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である逓信省鉄道作業局(官設鉄道)が発注したタンク式蒸気機関車である。本格的に量産が行われた初の国産蒸気機関車であり、日本で2番目の民間機関車メーカーである汽車製造会社が初めて官設鉄道に納入した機関車である。最も初期の国産機関車であるだけに、全くのオリジナル設計というわけにはいかず、イギリス製のA8形を基にしている。

官設鉄道A8形を模倣して国産化された車軸配置2-4-2(1B1)で2シリンダ単式の飽和式タンク機関車であるが、動輪直径がやや小さく(A8の1321mmに対して1245mm)、総軸距も51mm短縮(A8の5944mmに対し5893mm)されるなど、若干の寸法変更が見られるほか、クロスヘッドの滑り棒が、A8形の上下2本に対して本形式では上部の1本のみであるのが相違点である。
1902年(明治35年)から1909年(明治42年)にかけて計41両が製造され、官設鉄道に38両が納入されたほか、北越鉄道に1両、北海道鉄道に2両、高野鉄道に2両が納入された。北越鉄道と北海道鉄道の3両は、1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法により官設鉄道に編入され、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程では230形(230 - 270)と定められた。
官設鉄道、鉄道作業局ではA10形と称し、38両が納入された。北海道鉄道、北海道鉄道へは1902年製の2両が納入されており、製造番号3, 4である。同社ではB1形(3, 4)とされた。これらの総軸距は官設鉄道A8形と同一の5944mmで、官設鉄道へ納入されたものと異なっている。これは台湾総督府鉄道へ渡った製造番号1, 2と同仕様である。鉄道史研究家の川上幸義は、製造番号1, 2と同様、製造番号3, 4も台湾総督府鉄道向けに見込み生産したものではないかと推定している。1909年の改番では、269, 270となった。北越鉄道、北越鉄道へは、1905年製の1両(製造番号26)が納入され、同社のG形(18)となった。1909年の形式図では、官設鉄道のものと同じ図にまとめられているが、メーカーに残る図では、1904年製の製造番号5で東武鉄道8となり、後に鉄道省810となった機関車と同形(総軸距5944mm)であるとされている。1909年の改番では、268となった。台湾総督府鉄道、1901年製の記念すべき製造番号1, 2も、本系列に属する機関車(参宮鉄道納入のものと同形)である。これらは、1900年7月頃から納入先が未定のまま製造に着手し、その後台湾総督府鉄道に納入されることとなったが、製造番号1は輸送中の海難事故により、同時に発送されたエイボンサイド製のA3形1両とともに喪われ、製造番号2のみが台湾に到着して同部の18形に編入され、30となった。1903年には、代機として製造番号6が製造され、同年開催された内国勧業博覧会に出品の後、台湾に送られた。同機は翌年、31として入籍している。その後、台湾向けには同形機1両(製造番号18・32)が追造されている。太平洋戦争後は、イギリス製の同系機とともにBK10型とされ、BK22 - BK24に改められた。高野鉄道、国有鉄道との接点を持たなかった同形機としては、高野鉄道の2両(6, 7。『汽車蒸気機関車製造史』によれば、3, 4。製造番号53, 54)がある。これらは、官設鉄道へ納入されたA10形後期形と同形である。両機は、同鉄道の電化によって余剰となり、1916年5月に東上鉄道に譲渡され同車の4, 5となった。1920年4月に東上鉄道が東武鉄道に合併されたのに伴い、同社のC2形(18, 19。いずれも3代)となっている。両機は1937年に廃車され、18は田川の温海炭鉱に、19は1939年11月に胆振鉄道(後の胆振縦貫鉄道)に譲渡され、同社の4となった。同機は戦時買収直前の1944年2月に、三菱重工業水島航空機製作所専用線に譲渡され、1となっている。その後、水島都市開発、水島工業都市開発鉄道を経て倉敷市営鉄道となり、1958年3月まで使用された。晩年には映画「麦笛」「黒帯三国志」「流転の王妃」に映画用に改装されて出演し、1961年12月に解体された。同系で後に買収によって国有鉄道籍を得た機関車には、225形(225)と810形(810)の2両がある。いずれも総軸距は5944mmである。前者は、1903年製(製造番号12?)の中国鉄道5(2代)が、1944年の戦時買収により、国有化されたもの、後者は、1904年製(製造番号5?)の東武鉄道初代C2形(8(2代))であり、1915年に18(2代)に改番された後の1917年に芸備鉄道に譲渡されて同社の形式D(6)となり、1937年(昭和12年)に国有化されたものである。
また、1903年には製造番号7, 8として、動輪径が1321mmのものが2両製造され、参宮鉄道に納入された。汽車製造製の"A8"系は、都合51両が製造。

元鉄道作業局のものは、おもに関西地区や中国、四国地方に配属され、使用線区は山陽本線、山陰本線、北陸本線などであった。一方、元北海道鉄道の2両は、国有化後樺太庁鉄道に貸し渡され、1915年5月31日付けで正式に保管転換された。1937年に川上幸義が実見したところによると、269は片側を切開したカットモデルとして大泊に保管されており、270は南樺鉄道で使用されていた。また、270の製造番号は製造銘板によれば3であり、公式記録と異なっていた。
1923年3月末時点で、230形は39両が在籍しており、神戸鉄道局に30両、門司鉄道局に9両が所属していた。神戸鉄道局管内における配置は、大阪(8両・237, 238, 250, 251, 256, 261, 267, 268)、池田(2両・265, 266)、岡山(2両・249, 257)、王寺(2両・245, 254)、奈良(3両・246, 248, 255)、米子(2両・232, 233)、鳥取(5両・231, 241 - 243, 253)、徳島(4両・230, 234 - 236)で、247と262がそれぞれ岐阜建設事務所と播州鉄道に貸し渡されていた。その後、245, 246, 255が名古屋鉄道局に転属している。門司鉄道局配置の9両は、239, 240, 244, 252, 258 - 260, 263, 264である。
廃車は1930年から始まり、1933年6月末時点で8両が廃車となっていた。大阪鉄道局管内に21両、門司鉄道局管内に5両、建設事務所に5両が配置されている。配置は、吹田(11両・237, 238, 248, 249, 256, 257, 261, 265 - 268・西成線、尼崎港線、有馬線用)、新舞鶴(2両・232, 233・舞鶴線用)、鳥取(2両・243, 253・倉吉線用)、広島(2両・244, 252・宇品線用)、杉安(2両・260, 264・妻線用)、厚狭(1両・240・美祢線用)で、6両(231, 241, 242, 250, 254, 262)は大阪、鷹取、鳥取で休車となっていた。建設事務所の5両は245 - 247, 251, 255で、1926年3月に転用されたものである。
1945年時点では、20両が使用されており、配置は新潟(1両・256)、浜松(2両・233, 249)、美濃太田(1両・252)、加古川(3両・237, 252, 267)、後藤工機部(1両・244)、岡山(5両・238, 243, 253, 256, 266)、広島(1両・260)、鳥栖(1両・268)で、他に5両が建設局配置である。上記のうち、加古川と岡山のものは、加古川線、吉備線で営業用として使用されていた。
戦後は、急速に廃車が進み、1953年時点で稲沢と鳥栖にそれぞれ1両(233, 268)を残すのみとなっていたが、これらも1960年代初めに廃車となっている。

230形で最後に残った2両が静態保存されている。また、台湾の同系機(BK10形)も1両が保存されている。233 - 大阪市港区「交通科学博物館」→京都市下京区「京都鉄道博物館」 - 鉄道記念物(2004年指定。1986年、準鉄道記念物指定) - 機械遺産(2007年認定12番) - 重要文化財(2016年指定。美術工芸品)。2014年4月の交通科学博物館閉館後、2016年4月29日から京都鉄道博物館で保存展示されている。268 - 佐賀県鳥栖市・鳥栖駅裏

全長:9,767mm
全高:3,658mm
軌間:1,067mm
車軸配置:2-4-2(1B1)
動輪直径:1,245mm(4ft1in)
弁装置:ジョイ式基本型
シリンダー(直径×行程):356mm×508mm
ボイラー圧力:10.6kg/cm²
火格子面積:1.11m²
全伝熱面積:67.1m²
煙管蒸発伝熱面積:60.6m²
火室蒸発伝熱面積:6.5m²
ボイラー水容量:2.3m³
小煙管(直径×長サ×数):45mm×2,959mm×147本
機関車運転整備重量:35.88t
機関車空車重量:28.02t
機関車動輪上重量(運転整備時):18.98t
機関車動輪軸重(最大・第1動輪上):10.26t
水タンク容量:4.5m³
燃料積載量:1.14t
機関車性能
シリンダ引張力:4,620kg
ブレーキ装置:手ブレーキ、真空ブレーキ

市ケ谷駅 中央・総武線 JR東日本

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市ケ谷駅(いちがやえき)は、東京都千代田区・新宿区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
JR東日本と東京メトロの駅は「市ケ谷」、都営地下鉄の駅は「市ヶ谷」と表記する。
所在地は、JR東日本が千代田区五番町、東京メトロが新宿区市谷田町一丁目、都営地下鉄が千代田区九段南四丁目である。

JR東日本のほか、東京メトロと都営地下鉄による地下鉄各線が乗り入れ、接続駅となっている。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は中央本線であるが、当駅には緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。


地下鉄は、次の3路線が乗り入れており、各路線ごとに駅番号が付与されている。
東京メトロ
Y 有楽町線 - 駅番号「Y 14」
N 南北線 - 駅番号「N 09」
都営地下鉄
S 新宿線 - 駅番号「S 04」

当駅は3社局が乗り入れる駅であり、日本でも当駅だけの3社局全相互間の連絡改札口がある。東京メトロ - JR東日本間の連絡改札口はJR東日本の管理、都営地下鉄⇔東京メトロ・JR東日本間の連絡改札口は都営地下鉄の管理である。いずれも乗り継ぎ自動精算機が設置されている。


連絡改札自動化の実験として、2枚連続投入式(重ねて同時に投入するのではなく1枚ずつ続けて投入)の改札機の実用試験がJR東日本によって行われ、そのまま本採用となった(のちに更新されている)。また、東京都交通局 - 東京メトロ間の連絡改札口に自動乗り継ぎ精算機が設置されたのは当駅が最初である。
2013年3月16日より、都営地下鉄⇔東京メトロ間の連絡改札口を経由して相手方の駅構内を通過できる、駅構内通過サービスが導入された。

JR東日本:島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。出口は新宿寄りに1か所ある。他に地下鉄各線への乗り換え口がある。
ホームは外濠の真横にあり、外濠には釣り堀もあり平日でもたくさんの人が釣り糸を垂れています。とくに桜が満開となる時期の景観は美しい。
2009年1月頃から、案内サインが新しいものに更新されている(目白駅と同時に実施)。


のりば
番線 路線 方向 行先
1 ■中央・総武線(各駅停車) 西行 新宿・中野・三鷹・立川・高尾方面


2 東行 御茶ノ水・東京・両国・千葉方面 お堀に沿って左にカーブしています。
三鷹以西ならびに東京駅への直通は早朝・深夜のみであり、それ以外の時間帯は四ツ谷駅や御茶ノ水駅で中央線快速への乗換が必要となる。

オープンカウンター式のみどりの窓口。

1895年(明治28年)3月6日 - 甲武鉄道の駅として開業。当初は旅客営業のみ。
1906年(明治39年)10月1日 - 甲武鉄道の国有化により官設鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる。
1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道発足。
1974年(昭和49年)10月30日 - 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)有楽町線の駅が開業。
1980年(昭和55年)3月16日 - 都営地下鉄新宿線の駅が開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、中央本線の駅はJR東日本の駅となる。
1996年(平成8年)3月26日 - 営団地下鉄南北線が開業。


2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本でICカードSuica供用開始。
2004年(平成16年)4月1日 - 営団地下鉄民営化により、有楽町線・南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)の駅となる。
2013年(平成25年)3月16日 - 駅構内通過サービス導入。(東京地下鉄⇔都営地下鉄のみ)


所属事業者 JR logo (east).svg東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 ■中央・総武線(各駅停車)
(正式には中央本線)
キロ程 5.8km(東京起点)
千葉から41.9km
電報略号 イチ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 60,673人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1895年(明治28年)3月6日
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅

サンダーバード(特急列車)JR西日本

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サンダーバードは、西日本旅客鉄道(JR西日本)およびIRいしかわ鉄道が大阪駅 - 金沢駅・和倉温泉駅間を東海道本線・湖西線・北陸本線・IRいしかわ鉄道線・七尾線経由で運行する特急列車である。

1995年4月20日に、485系で運転されていた「雷鳥」の一部列車に、当時新型車両であった681系電車を投入し、この列車を「スーパー雷鳥(サンダーバード)」としたのが「サンダーバード」の始まりである。1997年3月22日のダイヤ改正で「スーパー雷鳥(サンダーバード)」から「サンダーバード」に改称された。
これ以降、681系とその後継車である683系電車を使用する列車はすべて「サンダーバード」としていたが、683系の投入により485系で運転されていた「スーパー雷鳥」は「サンダーバード」に統合され、廃止された。その後、683系の増備により「雷鳥」の運転本数は徐々に減少し、2011年3月12日のダイヤ改正ですべての列車が681系または683系の「サンダーバード」として運転されるようになった。
2015年3月14日の北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間の開業により、新幹線と重複する金沢駅 - 富山駅・魚津駅間は廃止され、金沢駅 - 富山駅間は新幹線「つるぎ」(シャトルタイプ)、それから先の黒部宇奈月温泉駅以東は新幹線「はくたか」(停車タイプ)で代替されている。金沢駅 - 和倉温泉駅間についてJR西日本は「七尾線に乗り入れる特急の存続に前向きな方針を示し」、最終的に1往復がIRいしかわ鉄道を経由して七尾線に継続して乗り入れることになった。そのほかは金沢駅 - 和倉温泉駅間のシャトル列車「能登かがり火」で対応する。また、山陽・九州新幹線沿線から北陸新幹線沿線ならびに「しらさぎ」・「ダイナスター」・「能登かがり火」とともに石川県の南加賀・能登地方から首都圏への重要なアクセスを担っている。

名付け親は当時のJR西日本社長・井手正敬。JR西日本の公式説明によれば、「サンダーバード」 (Thunder bird) は、アメリカ先住民族のスー族に伝わる神話に登場する雷光と雨を起こす巨大なワシに似た空想上の鳥であり、これに由来して命名されたものとしている。
当初「スーパー雷鳥(サンダーバード)」という列車名だった経緯もあり、「サンダーバード」は鳥の「雷鳥」の英語名(「雷鳥」の「雷」が「サンダー」、「鳥」が「バード」であるため)としばしば誤解される。実際の「雷鳥」の英語名は「Grouse(グラウス)」もしくは「Ptarmigan(ターミガン)」である。
681系が「スーパー雷鳥(サンダーバード)」として営業運転を開始した際のJR西日本のテレビコマーシャルには、1960年代のイギリスのテレビSF人形劇ドラマ『サンダーバード』(国際救助隊)のキャラクターを起用していた。CMの内容は北陸エリアと関西エリアとで若干異なっていた。

2016年3月26日現在、定期列車は大阪駅 - 金沢駅間で24往復が運転されている。うち1往復は和倉温泉駅まで延長運転されている。所要時間は大阪駅 - 金沢駅間が2時間35 - 40分である。
全列車が湖西線経由で大阪駅を発着として運転されるが、強風などで湖西線が運転見合わせになった場合は、米原駅経由で迂回運転される。米原駅では原則として運転停車だが、事情により客扱いをすることもある。2000年代に入ってからは比良おろしとよばれる強風による運転規制の強化により迂回運転が増えていたが、防風柵の設置工事により迂回運転は減少するとしている(湖西線#路線環境を参照)。迂回運転による所要時間の増加は約30分だが、折り返しとなる列車がさらに遅れる場合も多い。風が小康状態となり、かつ運転規制が解除されると湖西線経由に戻される。なお、何らかの理由で湖西線が不通になった事態を想定して、米原駅経由のダイヤもあらかじめ設定されている[8]。
なお北陸新幹線金沢開業以前の2015年3月13日までは、14往復が大阪駅 - 富山駅間、1往復が大阪駅 - 魚津駅間での運行であり、大阪駅 - 富山駅間の平均所要時間は3時間20分であった。富山駅・魚津駅発着系統は増結により12両編成で運転される場合、列車によっては金沢駅で1 - 9号車と10 - 12号車の増解結を行うことがあった。
停車駅:(2016年3月)大阪駅 - 新大阪駅 - 京都駅 - (堅田駅) - (近江今津駅) - (敦賀駅) - (武生駅) - (鯖江駅) - 福井駅 - (芦原温泉駅) - (加賀温泉駅) - (小松駅) - (松任駅) - 金沢駅 - (津幡駅)- (羽咋駅) - (七尾駅) - (和倉温泉駅)

吹田総合車両所京都支所もしくは金沢総合車両所に所属する681系電車及び683系電車9両編成が充当されている。681・3系の使い分けはなく共通運用で、681系及び吹田総合車両所の683系0番台は1 - 6号車が基本編成、7 - 9号車が付属編成で、和倉温泉駅発着列車では付属編成が金沢駅で増解結され、金沢駅 - 和倉温泉駅間は6両編成での運行となる。また、金沢総合車両所の4000番台は1 - 9号車まで9両固定の編成である。なお多客期は大阪方に681系もしくは683系の3両を増結して12両編成での運転となる。また、吹田総合車両所京都支所に所属する681系1000番台(先行試作車)は2015年3月14日の北陸新幹線の金沢開業から暫くの間は「しらさぎ」運用に就いていたが、同年7月からはその使用車両に余裕が出てきたことが理由として「サンダーバード」運用に復帰している。
かつては1号車(グリーン車)が大阪方の先頭車であったが、北陸新幹線開業に伴うダイヤ改正に伴い編成の方向転換が行われ、2015年3月14日以降は1号車が金沢方の先頭車となっている。


種類 特急列車
前身 特急「雷鳥」・「スーパー雷鳥」・「白鳥」[注 1]、寝台特急「日本海」・「つるぎ」、急行「きたぐに」
運行開始 1995年4月20日 …「スーパー雷鳥(サンダーバード)」として
運行終了 2015年3月13日(金沢駅 - 富山駅・魚津駅間)
後継 新幹線「つるぎ」・「はくたか」(和倉温泉駅発着列車を除く金沢駅以東)
現運営者 JR logo (west).svg 西日本旅客鉄道(JR西日本)
Ir ishikawa logo.png IRいしかわ鉄道
旧運営者 富山地方鉄道
路線
起点 大阪駅
終点 金沢駅・和倉温泉駅
使用路線 東海道本線・湖西線・北陸本線・IRいしかわ鉄道線・七尾線
技術
車両 681系・683系電車
(吹田総合車両所・金沢総合車両所)
軌間 1,067mm
電化 直流1,500V(大阪駅 - 敦賀駅間、津幡駅 - 和倉温泉駅間)
交流20,000V 60Hz(敦賀駅 - 津幡駅間)

オハ46形客車13号車 軽量形三等車

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オハ46形客車13号車 - 1955年、汽車製造製。
2011年10月31日、宮原総合運転所にて除籍、廃車の後、梅小路蒸気機関車館にて静態保存。オリジナル車で、鋼板製の屋根と屋根布押えのない妻面上部です。

軽量形三等車
乗客にも現場にも好評だったスハ43系だが、積車重量が40トンの「ス」級であるため、長大編成を組む際には機関車に大きな負担となる問題があった。そこで、1955年には、各部の軽量化を図り重量を「オ」級に下げる改良を行った、オハ46形・オハフ45形が製造された。車体構造や内装はスハ43系と同等であるが、屋根が鋼板製となったため、妻面のキャンバス押さえが省略され、雨樋も金属製となり、縦樋が円管状の細いものとなっていることなどが外観上の特徴である。台車はTR47であるが、側枠や軸箱守の素材に工夫を行う等により、軽量型となっている。

オハ46形
0番台(オハ46 1 - オハ46 60、電気暖房付き車両は基本番号 + 2000)
軽量改良形として新製されたグループで、1955年に汽車製造、川崎車輌、日立製作所で60両製造された。基本構造はスハ43形と同じであるが、鋼板屋根化されているため妻面のキャンバス押さえが省略されており、雨樋も金属製の細いものとなっている。軽量化のため 内装の合板の薄板化、台車軸箱の薄肉化、連結器の材質なども変更されている。1965年から1967年にかけて11両が緩急設備を取り付けオハフ45形100番台に改造され、1981年から1983年の間に5両がスユニ50形に改造された。

 

高松琴平電気鉄道1300形電車

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高松琴平電気鉄道1300形電車

高松琴平電気鉄道1300形電車は高松琴平電気鉄道の通勤形電車である。もと京浜急行電鉄1000形で、1974・1976・1978年に東急車輛製造(1305+1306は川崎重工業)で製造された。2007年(平成19年)と2011年(平成23年)に4両ずつ入線した。制御電動客車の1301 - 1308による2両編成4本の8両が在籍し、長尾線で使用されている。

車体
車体は長さ17.5mの鋼製車体。窓配置はC3'-d1D3D3D2で、客用扉は片開き、窓は2段上昇式である。また、前面の窓上に方向幕と種別幕を備える。連結面は幅広の貫通路で、貫通扉はない。
張上げ屋根で、奇数号車の連結面寄りにPT43形パンタグラフを備える。冷房装置は集中式の三菱電機CU-71系(能力36000kcal/h)で、1両につき1台を屋上に搭載している。
走行装置
電機関連は東洋電機製造製である。主電動機は端子電圧375V時90kW×4、制御方式は自動加速式抵抗制御で、1台で8個の主電動機を直並列制御する。


車両来歴
種車は1080形と同じ京急1000形で、1080形と同じくアンチクライマーの最下段が半分切り欠かれているが、1080形が1959年 - 1960年に製造された通称「Bグループ」(1次量産車)であるのに対し、こちらは1971年 - 1978年に製造された「Fグループ」(5次量産車)と呼ばれるタイプである。Fグループは当初より冷房付きで新製され、主電動機の出力向上・車体直結式空気バネ台車の採用など、1080形とは似て非なる車両である。
これまで1020形以降ことでんに入線した車両はHL制御・電磁SME制動の在来車両との併結が行えるようにマスコン・ブレーキの改造を受けていたが、本形式は長尾線の増結運用がなくなったことや改造費用圧縮のためにこれらの改造を行なわずに入線した。このため同車はことでんで初めて発電制動併用セルフラップ式電磁直通制動(HSC-D)を採用することとなった。また主幹制御器もことでんの営業車両では唯一種車のものをそのまま使用しているため、同じ元京急1000形でありながら1080形とは併結できない。
車内設備は1200形に準じて車椅子スペースの設置、つり革の交換(丸形→三角形)、座席モケットの交換(一般席は紺→緑・優先席は灰→赤)等が実施された。また、1200形1250番台に続き優先席付近には携帯電話の電源を切ることを促すオレンジ色の吊革が採用されている。1305編成以降は、戸当たりゴム部分に黄色いテープが貼付され、ドア付近床面も黄色に変更されている。1301-1302は、伊藤園(おーい お茶)の全面広告電車となっている。
2007年6月に長尾線用に2編成が搬入され、同7月31日夕方より営業運転を開始した。これにより長尾線で主にラッシュ時の増結運用を行っていた旧型車は定期運用から離脱。同車の登場によって余剰となる長尾線用の600形・700形のうち各形式2両ずつを志度線へと転属させることによって同線の旧型車定期運用を置き換えた。これにより、ことでんは同8月1日に定期列車の冷房化率100%を達成した。
なお、これにより運用を離脱した旧型車の一部(20形・1000形・3000形・5000形)はイベント用車両として動態保存車となった。
2010年8月時点では1301編成は伊藤園の「おーいお茶」の全面広告、1303編成が香川県軽自動車協会の全面広告車となっておりオリジナル塗装の編成は存在しなかったが、2011年、1303編成は広告終了によりオリジナル塗装になっている。
2011年8月28日に2編成が増備され、9月1日から運用されている。またこの編成が新町検車区(京急本線神奈川新町駅に隣接)から運び出される様子が2011年9月15日にテレビ番組「空から日本を見てみよう」(テレビ東京系)で放送された。
1305編成は2014年11月3日より、『月刊コミック@バンチ』連載中の漫画作品『うどんの国の金色毛鞠』のキャラクター「ポコ」をラッピングした「ポコでん」として運行された。当初は契約期間が1年だったが、2015年11月からさらに1年間ラッピングが延長され、2016年10月27日まで運行された。
貫通扉の渡り板は京急時代は普段上げられていたが、ことでんでは下げられることが多い。


車歴と現在の編成
琴電での車番と編成 京急での車番 琴電への入線 京急での廃車 製造年 製造
メーカー
← 長尾瓦町・高松築港 →
1301 1302 デハ1313・デハ1316 2007年6月 2007年1月 1974年 東急車輌
1303 1304 デハ1291・デハ1298 2007年3月 1976年
1305 1306 デハ1305・デハ1308 2011年8月 2010年6月 1974年 川崎重工
1307 1308 デハ1243・デハ1250 1978年 東急車輌
1080形との相違点
種車の年次による相違に加え、ことでんの入線時期・入線時の改造内容の相違から、以下の通り1080形とは多数の相違点が見られる。
マスコンは従来のHL用ではなく、京急時代のものを採用している。
ブレーキ方式は1080形の電磁SME-Dに対し、HSC-Dを採用している。
冷房装置は1080形の屋上集約分散式に対し、屋上集中式を搭載する。
屋上通風器が無い。
先頭部の雨樋の形状が異なる。
妻部形状は1080形の丸妻に対し、三面折妻である。
方向幕は1080形のブリッジ方式の白地黒文字に対し、SPC方式の黒地白文字を採用する。
側面の種別表示幕が撤去されている。
車側表示灯は1080形の電球式に対し、縦長LED式を採用する。
台車は1080形のTS-310に対し、TH-1000を履いている。
ワイパーは1080形の手動式に対し、ウォッシャ機能付きの電動式を採用している。
電子ホーンが装備されている。
前面の車両番号表記とことでんロゴの位置が逆である。
乗務員室仕切扉は1080形のステンレス製に対し、軽合金製である。
冷風ダクトの配置が異なる。
車椅子スペースが装備されている。
座席モケットは1080形の種車そのままの紺色(優先席は灰色)に対し、ことでん伝統の緑色(優先席は赤色)である。
つり革は1080形の丸形に対し、1200形と同様の三角形である。
床敷物は1080形の種車そのままの薄緑色に対し、1200形と同様の深緑色(滑り止め付)である。
優先席付近のつり革はオレンジ色である。


高松築港駅 高松琴平電気鉄道

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高松築港駅は、香川県高松市寿町一丁目にある、高松琴平電気鉄道琴平線の駅である。
IruCa取扱い窓口・IruCa定期券窓口がある。

高松琴平電気鉄道
琴平線
長尾線(起点は瓦町駅だが、ほぼ全列車が当駅始発・終着、稀に瓦町駅止まり有。)
JR四国の高松駅は西に約200mの位置にあり、乗換所要時間は約5分。

駅構造
櫛形2面2線のホームを持つ。路線別に乗り場が分けられており、琴平線が東側の1番ホーム及び降車専用の2番ホーム(3番ホームとの島式)、長尾線が西側の3番ホームを使用している。


のりば
1 ■琴平線 栗林公園・仏生山・滝宮・琴電琴平方面
2 ■琴平線 降車専用ホーム
3 ■長尾線 高田・平木・長尾方面
自動改札機(TOSHIBA製)はあるが、ICカードIruCa専用のため通常の切符の投入口はない。通常の乗車券は有人改札か、窓口で入鋏を受ける。駅舎は平屋建てで、トイレは男女別の水洗式である。

駅前緑地
現在、当駅と駅前に面する中央通りとの空間は芝生緑地となっている。ここには旧駅舎が位置していたが、高松市街地再開発により路線を高架化(または地下化)したうえで当駅の移転が決定したため、旧駅舎は一足早く撤去された。あくまで仮駅舎の名目で現在の駅舎が建設されたが、その後の情勢変化もあり、この移転計画は最終的に放棄された。
旧駅舎には琴電グループが経営していた高松グランドホテルが入っており、当駅のホーム以外の駅舎部分はその1階に間借りする形だった。またこのビルは高松琴平電気鉄道の本社ビルも兼ねていた。その時代にはホテル内施設として、旧コトデングループによる土産物売場や食堂路地が隣接していた。

1948年12月26日 築港駅として開業。現在の高松築港駅ができるまでの仮駅的扱いであった。当時は琴平線のみが発着。
1953年10月20日 志度線の電車が乗り入れを開始。
1954年1月1日 高松築港駅に改称。
1955年9月10日 仮駅から210m北寄りの現在地に移設。
1994年6月26日 瓦町駅の改修工事に伴い、志度線に代わって長尾線が発着するようになる。
2000年 旧駅ビルが取り壊され、現在の駅舎になる。
2010年 7 - 8月にかけてホームのかさ上げ工事が実施される。
琴平線の瓦町 - 当駅間は高松空襲の被害で廃止された市内線の代替路線として戦後の1948年末に全線開通したものであり、当駅も開通と同時に開業した仮駅を経て1955年に現在地に開業した。それ以前のこの敷地は高松城の濠であり、現在1番ホームに隣接している濠が細長い当駅の敷地まで続いていた。

駅周辺施設:高松港,サンポート高松,高松港旅客ターミナルビル,JR高松駅,高松シンボルタワー
,JRホテルクレメント高松,玉藻公園(高松城址)1番線のすぐ東側に高松城の石垣や堀があり、ホームから堀を泳ぐ海水魚を眺めることができる。

移設・高架化構想(中止)
香川県の再開発計画では、高架化の上ルートを変更して中央通りを跨いで西進し、JR高松駅南側の空き地に移転するはずだったが、琴電の民事再生法適用や香川県の財政難等の事情により、2005年1月に高架化事業の凍結が決定された。ただし、その決定に際しては「サンポート乗り入れによる交通結節機能の強化」が条件として付けられており、これに従って同年7月に香川県が有識者による再検討委員会を発足させた。委員会は2006年3月までに事業内容の見直し案を3つ程度答申し、それをもとに香川県側が最終判断を行うことになっていた。
最終的に委員会は5回開催され、当初予定よりも大幅に遅れて2009年5月に
当初の予定通り全区間の高架化
国道11号(片原町 - 瓦町駅間)以北の高架化
変形五叉路となっている本町踏切(高松築港 - 片原町駅間)でさぬき浜街道を高架化
の3案を県に答申して解散した。事業費は1の場合340億円、2は200億円、3は60億円と試算された。なお、現在の事業計画では2010年度が事業完了年度となっており、同年度末には事業認可が切れるため、それまでに香川県は事業の再開・中止の決定を求められることになった。第3案が採用された場合には、当駅の移転は行われない可能性があった。
2008年の第4回検討会では、琴電のLRT化が見直し案の一つに含まれていた。上記の通り最終答申からは外されたが、これとは別に2007年に就任した高松市の大西秀人市長はLRTの導入に前向きな姿勢を示し、2008年より独自に「総合都市交通戦略検討委員会」を設置して可能性を探っている。琴電側はいずれにおいてもLRT化には慎重な姿勢を示している。
香川県の真鍋武紀知事は、2009年10月6日の定例県議会本会議で「現状では再開の目処が立たず、来年度末までの事業認可期間の延伸も非常に困難」と述べ、事業の中止に向けた意向を示した。知事は10月24日に県の公共事業再評価委員会に事業について諮問し、再評価委員会は2010年2月10日に事業中止の答申を行った。これを受けて2月25日の香川県議会で真鍋知事は計画の中止を正式に表明した。ただし、将来の再開に備えて都市計画決定自体は取り消さずに残す見通しと報じられている。
当初の計画では、JR高松駅とはわずかに離れているため、乗り換え時の不便さが問題視され、あるJR東日本幹部は新聞の取材に対し「(当時)まったくの更地からJRと私鉄の新駅を別々に作るケースを探すほうが難しい」とJR四国・琴電の対応に首を捻った。
中止表明に際して真鍋知事は「(両駅間の連絡については)屋根つき歩道や案内標識を整備することにより、利用者の快適性や利便性の向上を図っていく」と述べ、これを受けて2010年7月にそれまでJR高松駅入口からタクシー乗り場までであった歩道の屋根が、中央通りの交差点手前まで延長された。
高松築港駅が移転するはずだった場所は、高速バス専用ターミナルに転用されることとなり、2013年10月1日に供用を開始している。

駅番号 K00 (琴平線)
N00 (長尾線)
所属事業者 高松琴平電気鉄道
所属路線 ■琴平線(■長尾線直通を含む)
キロ程 0.0km(当駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 10,824[2]人/日
-2014年-
開業年月日 1948年(昭和23年)12月26日
乗換 JR高松駅(■予讃線・■高徳線

JR新山口駅 山陽新幹線・山陽本線・山口線・宇部線

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新山口駅は、山口県山口市小郡下郷にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅である。

山口県の県庁所在地・山口市の玄関口となる駅である。2005年の合併までは旧・小郡町に位置し、2003年までは小郡駅(おごおりえき)と称していた。
山陽新幹線の停車駅のひとつであり、また4方向に伸びる在来線のターミナルでもある。鉄道路線以外に萩・秋芳洞方面や山口宇部空港へ直行バスが運行されており、県央地区における交通の要衝としての役割も担う。乗降客数は山口市の中心駅である山口駅を上回り、同市内で最も多い。山口県庁の最寄駅でもある山口駅は、当駅から山口線で営業キロ12.7kmの内陸部にある。同駅までの所要時間は特急「スーパーおき」で約12分、快速「通勤ライナー」で約17分、普通列車で約22分である。
列車運行上の要衝でもあり、山陽本線の四辻駅 - 小野田駅間各駅と山口線・宇部線・小野田線各線のすべての中間駅を管轄する山口地域鉄道部と下関総合車両所運用検修センター新山口支所(旧小郡機関区)が併設されている。また、夜間滞泊が設定されており、山口線の観光列車「SLやまぐち号」の始発駅である。
なお、2015年度のJR西日本の1日平均運輸取り扱い額は2,392万7千円(同社管内駅第18位)である。

乗り入れ路線
山陽新幹線と在来線各線との接続駅となっている。
在来線は当駅の所属線である山陽本線と、当駅起点で山口市中心部および島根県の津和野・益田方面へ通じる山口線、同じく当駅を起点として瀬戸内海沿岸の阿知須・宇部市中心部方面へ通じる宇部線が接続しているが、目的地によっては時間がかかる。なお、山口線は特急列車や快速列車、臨時快速列車の「SLやまぐち号」も運転している。また、宇部線もかつては「のぞみリレー号」などの快速列車も運転されていた。


新幹線は開業時から速達タイプの「ひかり」の一部が停車していた。2003年のダイヤ改正からは「のぞみ」の一部が停車するようになった。2017年現在では「のぞみ」、「さくら」が毎時1 - 2本停車するほか、山陽新幹線内で運行される「ひかり」が、朝と夜に上下2本ずつ停車する。加えて、週末や多客期を中心に臨時の「のぞみ」「さくら」「ひかり」が設定される。さらには、当駅始発、当駅終着の「こだま」も存在する。一方で新大阪駅~鹿児島中央駅間を最速達で結ぶ「みずほ」は、臨時列車を含め停車しない。

1900年(明治33年)に、旧吉敷郡小郡村の玄関口となる小郡駅として開業。1975年(昭和50年)3月に新幹線も同駅で開業。2003年(平成15年)10月1日に現駅名「新山口駅」に改称した。
駅名改称
1997年に山口商工会議所が「小郡駅」から「新山口駅」への改称を求めることを決議し、1998年には小郡商工会議所が小郡町議会に要望書を提出していた。
再度駅名の改称の機運が高まったのは2003年(平成15年)で、地元からの新幹線「のぞみ」停車への要望を受けて、JR西日本から同年10月のダイヤ改定にあわせた駅名改称の打診があったことを当時の小郡町の岩城精二町長が明らかにした。このときは、かつてとは状況が異なっており、平成の大合併による旧小郡町と山口市の合併が具体化していた。幾度か協議を重ねた後、駅名の改称に至った。一方、住民らによる「小郡町の将来を考える会」が町長に変更撤回を申し入れる動きもあった。改称にあたってJR西日本が必要とした費用4億2880万円のうち半額を山口県と関係自治体が折半した。

1900年(明治33年)12月3日 - 山陽鉄道 三田尻駅(現・防府駅) - 厚狭駅間の開通と同時に、小郡駅として開業。一般駅。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道の国有化により国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)
2月21日 - 大日本軌道山口支社線が乗り入れ。
10月12日 - 線路名称制定。山陽本線の所属となる。
1913年(大正2年)2月20日 - 山口線が山口駅まで開業。大日本軌道山口支社線が廃止。
1925年(大正14年)3月26日 - 宇部鉄道が本阿知須駅(現在の阿知須駅)から延伸し当駅に乗り入れ。
1928年(昭和3年) - 三田尻駅構内より三田尻機関庫が当駅構内に移転し小郡機関庫(現下関総合車両所運用検修センター新山口支所)発足。
1943年(昭和18年)5月1日 - 宇部鉄道が国有化し宇部東線となる。
1948年(昭和23年)2月1日 - 線路名称改定により、宇部東線が宇部線となる。
1961年(昭和36年)1月1日 - 北口(在来線口)駅舎が現在のものとなる。
1965年(昭和40年)9月24日 - みどりの窓口営業開始。
1975年(昭和50年)3月10日 - 山陽新幹線の岡山駅 - 博多駅間延伸により停車駅となる。
1984年(昭和59年)1月1日 - 車扱貨物の取扱を廃止。北口駅舎の西側に有蓋車用の貨物ホームが設置されていた。


1987年(昭和62年)
3月31日 - 貨物(臨時車扱貨物)の取扱を再開。但し、将来貨物設備を整備されることに備えたものであり、発着列車の設定は無い。
4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道と日本貨物鉄道(JR貨物)が継承。
2003年(平成15年)10月1日 - 駅名を新山口駅に改称。同時に山陽新幹線「のぞみ」停車駅となる。
2005年(平成17年)2月20日 - 山陽新幹線改札口に自動改札機設置。
2006年(平成18年)4月1日 - JR貨物の駅(貨物取扱)が廃止。取扱実績のないまま廃止された。
2009年(平成21年)8月29日 - 山陽新幹線へのEX-IC導入により、在来線改札口にIC読取機を設置。
2011年(平成23年)3月12日 - 九州新幹線全線開通により「さくら」の停車駅になる。
2012年(平成24年)7月14日 - 駅舎改築のため在来線口の駅舎での営業を終了し、仮設駅舎での営業が始められる。在来線口の駅舎は順次解体される。
2013年(平成25年)7月28日 - 豪雨災害により山口線が被災し、当駅を含む一時全線が運休。(以降8月5日までに地福駅 - 新山口駅間については運行再開。)
2013年(平成25年)11月16日 - 益田駅 - 津和野駅間の運行再開。なお、津和野駅 - 地福駅間は復旧のめどが立たない状態が続く。中国ジェイアールバスにより、新山口駅 - 津和野駅間でノンストップつわの号の運行が開始した。
2014年(平成26年)3月10日 - 橋上駅舎の一部が完成・併用開始され、在来線の各ホームにエレベーター、エスカレーターが設置された。
2014年(平成26年)8月23日 - 山口線地福駅 - 津和野駅間の運転が再開されて、同時に津和野駅での折り返し運転だった特急スーパーおき号の乗り入れも約1年ぶりに再開。また中国ジェイアールバスにより運行されていた、新山口駅 - 津和野駅間のノンストップつわの号の運行は終了。
2014年(平成26年)12月12日 - 新幹線口に待合室および隣接する商業ゾーンがリニューアルオープン。
2015年(平成27年)10月3日 - 南北自由通路の併用開始に伴い、在来線改札口を橋上駅舎に移転、集約。
2016年(平成28年)12月14日 - 北口駅前広場の西側部分が完成、併用開始。これによりの自家用車・タクシー乗場が西側に移設。

駅構造
1番のりばにある観光用駅名標。ちなみに「小郡」の歴史的仮名遣いは「をごほり」である。
在来線が橋上駅、新幹線が高架駅となっている。在来線改札は駅の南北をつなぐ自由通路の横にあり、新幹線改札は南口(新幹線口)にある。2015年10月2日以前は北口(在来線口)にも駅舎があり在来線改札が南北の駅舎に設けられていたが、同年10月3日をもって南北自由通路が開通し、南北の在来線改札口が閉鎖された上で一本化された。また、橋上駅舎上の改札にはみどりの窓口はない。在来線改札口にICカード簡易読取機が設置されているが、これはEX-IC利用客用であり、ICOCAそのものはサービスエリア外であるため使用できない(駅構内のキヨスク新山口3号とデイリーイン、在来線改札横のセブン-イレブンハートインではICOCA電子マネーを含めた交通系電子マネーでの支払いが可能)。南口には山陽新幹線用の自動改札機とSMART ICOCA専用クイックチャージ機が設置されている。新幹線口1階(改札外)には土産物や飲食店を備えた「アイスタ新山口」(旧称:新山口駅名店街)が立地する。


在来線は5面8線の地平ホームを持つ。1番のりばと8番のりばが単式で、2・3番のりば、4・5番のりば、6・7番のりばがそれぞれ島式である。かつては1番のりばの東側の切り欠き部に0番のりばがあったが、2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正を以って使用が停止され、その後かさ上げされてSL広場となった。また、以前から営業列車の停車しない3番のりばも、駅改修工事時にフェンスが設置された。
山陽本線は4番のりばが上り本線、6番のりばが下り本線であり、当駅を跨ぐ列車は基本的にこれらのホームを使用する。5番のりばは中線、7番のりばは下り副本線にあたる。5番のりばより宇部・下関方面、6番のりばより防府・徳山方面への折り返しが可能で当駅到着後、回送せず折り返す列車はこれらのホームを使用する。6番のりばが既に他の列車で塞がっている場合、下り列車は7番のりばを使用する。また、宇部線の構内配線は他の2路線と完全に分離されており、構内にある下関総合車両所新山口支所に入線することも出来ないため、8番のりばの南に宇部線の電車が待機するための電留線が設けられている。2番のりばにはかつて山口線と山陽本線を直通していた急行列車である「あきよし」「さんべ」の号車案内が残る。
新幹線は、16両編成対応(ホーム長410m)の相対式ホーム2面2線(内側に上下通過線2線を挟む)を有する高架ホームである。構内は博多方向に向かって左方向に半径4,000mの曲線を描いている。12番のりばの南側(外側)に保守用車両の出入りする側線が設けられているが、本線のホームとは高低差があり壁で遮られている。

のりば
のりば 路線 方向 行先 備考
1・2 ■山口線 - 山口・津和野方面 「SLやまぐち号」は1番のりば
「スーパーおき」は2番のりば
3 (回送列車等のみのため閉鎖)
4・5 ■山陽本線 上り 防府・徳山方面 当駅始発の一部列車は6番のりば
6・7 下り 下関方面 当駅始発の一部列車は5番のりば


8 ■宇部線 - 宇部新川・居能方面
11 ■ 山陽新幹線 上り 広島・新大阪方面 一部の上り回送列車は下りホームに停車
12 下り 博多・鹿児島中央方面
本稿では公式サイトの広島エリア路線図[10]に従いラインカラーを表記しているが、山陽本線については2017年3月改正時点では駅掲示時刻表に限り、岩国駅以東からの延長のような形で赤いラインカラーシンボル(アルファベットなし)が使われている。


バリアフリー化の状況
2011年に開催されたおいでませ!山口国体・おいでませ!山口大会や、2015年の第23回世界スカウトジャンボリーの開催に合わせてバリアフリー化を行っている。2010年度・2011年度に、新幹線駅舎にエレベーターが設置され、2014年3月より駅舎の一部が橋上化されたのとあわせて、在来線の各ホームにもエレベーター、エスカレーター(上昇のみ、下降はなし)が設置された。

駅弁
長年にわたり、小郡駅弁当(1910年創業)が営業を行っていた。2010年7月1日に経営の効率化を目指して小郡駅弁当が徳山駅弁当・下関駅弁当を吸収合併し、その2駅でそれまで人気だった一部「かんばん」弁当(下関駅の「ふく寿司」など)も小郡駅弁当が販売を継続していた。
その小郡駅弁当も鉄道の高速化や駅舎の改良に伴うコンビニや飲食店の進出に押され、2015年4月30日をもって駅弁事業を含めた仕出し事業全般から撤退し、山口県内から駅弁業者が消滅することになった。小郡駅弁当の撤退を受け、売店を運営しているジェイアールサービスネット広島が販売継続を模索、「ふく寿司」と「SL弁当」を調理方法や包装を含めて小郡駅弁当から継承したものを広島駅弁当が製造し、5月1日から発売開始した。
なお、駅構内のうどん店は引き続き小郡駅弁当が運営する予定である。


駅周辺の市街地
元々は駅北側(在来線口)に市街地が開けていたが、山陽新幹線開業以後、駅南側(新幹線口)の開発が急速に進んでいる。また、駅の南北を問わずビジネスホテルが数多く建ち並んでおり、また、予備校・学習塾も駅周辺に多く立地する。

北口(在来線口)周辺
駅前ロータリーから山口県道214号新山口停車場長谷線が延び、山口県道335号江崎陶線(旧・国道2号)および国道9号に接続する。国道9号は長きにわたって小郡市街地付近で2車線となっており、山口市中心部と国道2号(小郡道路)を結ぶ上でのボトルネックとなっていた。2011年に拡幅(小郡改良、4車線化)が完了し、バイパスともなっている山口宇部道路の開通もあって、駅周辺の渋滞は軽減傾向にある。
駅北側が元々の旧小郡町中心部にあたり、以前からの公共施設や金融機関はこちら側に集中する。
山口市小郡文化資料館
山口市小郡総合支所(旧 小郡町役場)
山口市立小郡中学校
山口南警察署新山口駅前交番 : かつては小郡警察署(現 山口南警察署)も駅北側にあった。
山口銀行小郡支店
西京銀行小郡支店
西中国信用金庫小郡支店
小郡郵便局
小郡大正町郵便局

南口(新幹線口)周辺
駅南側は元々は椹野川右岸に広がる田園地帯だったが、新幹線駅開業時から小郡駅前第1土地区画整理事業、小郡駅前第2土地区画整理事業、小郡駅前第3土地区画整理事業の3期に分けて土地区画整理事業が施行され、オフィスビルやマンションが林立する市街地に生まれ変わった。山口市とその周辺地域の陸上交通の要衝に位置していることもあり、支社・営業所が集積する。
駅前を山口県道353号新山口停車場上郷線が通過し、国道2号小郡道路小郡インターチェンジに接続している。同インターチェンジ付近に公共施設のいくつかが移転している。
駅前正面に、小郡に縁のある種田山頭火の銅像が設置されている。
山口南総合センター「さんびる」
山口市南消防署
小郡浄化センター
山口市立小郡南小学校
山口県総合交通センター
山口南警察署
山口県若者就職支援センター
イオンタウン小郡
小郡黄金町郵便局
ローソン山口統括本部
セブン-イレブン山口統括本部
YIC studio(専門学校)

新山口駅ターミナルパーク整備事業
2004年7月29日、当時の1市3町(山口市、小郡町、阿知須町、秋穂町)で構成していた山口県央部1市3町合併協議会で、山口市役所の位置について「新市発足時は現在の山口市役所の位置とする」一方、「将来の事務所の位置については(中略)新山口駅周辺が適地であるという意見を踏まえながら、県央中核都市にふさわしい位置を考慮し、整備については新市発足後10年を目途に審議すること」との附帯決議が出されたこともあり、合併後の山口市では山口市役所内の単独部局として「ターミナルパーク整備部」を設け、新山口駅とその周辺の整備計画「新山口駅ターミナルパーク整備事業」を進めている。2007年(平成19年)11月に整備構想、2009年(平成21年)2月に基本計画が策定された。2016年度までの完了を目標として、整備が進められている。

施設整備計画
駅前広場 - 表口(北口、在来線口)駅前広場は、西側の山口市土地開発公社が所有する大規模遊休地の一部を利用して従来の約6,100m2から約11,000m2に拡張し、新幹線口側に発着する路線バスもすべて集約される予定である[21]。一方、新幹線口駅前広場(約9,600m2)は拡張せずに再整備を実施し、現在の路線バス乗り場を利用してタクシーと一般車の交通動線を完全に分離する予定である。


自由通路 - 幅員約10m、延長約140m、天井高約6mの南北自由通路を設置し、路線バスの表口側への集約に伴う新幹線口側の利便性低下を抑える[20]。県道新山口停車場長谷線、新幹線口側に伸びる自転車歩行者専用道路「風の並木通り」とともに「南北のシンボル軸」としての位置づけられている[21]。2015年10月3日供用開始。両側の壁面を緑化し、県内最大の垂直庭園である。ベンチなどもあり、24時間通行可能。なお、駅東側にある既存の自由通路は、自転車利用を中心とした通路として活用される予定である。


アクセス道路 - 2011年(平成23年)に開通した山口宇部道路長谷IC(国道9号線交点)から表口(北口、在来線口)へ直接アクセスする道路の整備が検討されている。
橋上駅舎 - 表口(北口、在来線口)駅前広場の拡張および南北自由通路の建設に伴い駅舎が橋上化された。これにより表口と新幹線口に分かれていた在来線改札が橋上駅舎に集約された。
県道新山口停車場長谷線再整備 - 南北のシンボル軸において、北側のシンボルロードとして位置づけられ、美装化、緑化及びバリアフリー化が行われる予定。

新山口駅北地区重点エリア整備事業
同駅北側に広がる国道9号、山口県道335号江崎陶線、山口県道214号新山口停車場長谷線に囲まれた街区の市街地整備を行う事業として2009年度から検討が始まり、2010年3月に整備方針が決定した。方針では、駅北側に広がる大規模遊休地をAゾーン(先行整備地区)、北口(表口)正面の街区をBゾーン(民間誘導地区1)、これら以外の街区をCゾーン(民間誘導地区2)として整備を行っていくとしている。このうちAゾーン(先行整備地区)は、他のゾーンに先行して新山口駅ターミナルパーク整備事業と同時に整備が行われる予定であり、2014年度の整備完了を基本目標としている。

事業進捗状況
北口の駅前広場の設計については公募型プロポーザル方式による設計者選定が実施され、設計者に中原中也記念館を手がけたプランツアソシエイツ(東京)を選んだ。同社の呈示したプランは「まちと駅をつなぐ『0番線』」をコンセプトに、新たな「山口の杜」となる駅前広場のあり方を提案したもので、街づくりのきっかけとなる駅前広場を通過点でなく目的地として活用するための市民との協働の取り組みが高く評価された。


設計が具体化したことで2012年度より駅改良工事に本格着手しており、2012年7月13日をもって既存の北口駅舎の使用を終了し、現駅舎の東端部分を改装して設けられた仮設駅舎での営業と現駅舎の解体工事が始まっている。2014年3月10日から新通路の利用が始まる。

バス
新幹線口と在来線口それぞれに複数ののりばを有するバスのりばがある。ただし、ターミナルパーク整備表口広場の整備が完了し次第、全てのバス発着場は表口に集約される予定である。


新幹線口
駅本屋前に3本のホームがあり、中国ジェイアールバスを中心とした路線が発着する。近郊路線は基本的に発着しない。バス発券窓口があり、中国ジェイアールバスの子会社である西日本バスネットサービスが管理している。
1番のりば
福岡行き「福岡・山口ライナー」(中国ジェイアールバス・JR九州バス)
萩行き「はぎ号」(防長交通)
萩・明倫 センター行き「スーパーはぎ号」(中国ジェイアールバス・防長交通)
山口駅行き(中国ジェイアールバス)
2番のりば
秋芳洞行き(防長交通)
山口宇部空港行きリムジンバス(中国ジェイアールバス・防長交通)
3番のりば
山口宇部空港行きリムジンバス、宇部新川駅行き特急バス(宇部市交通局)


在来線口
駅ロータリーの反対側の市道沿いに複数のホームが並ぶ。防長交通の管理するバス発券窓口があり、バスカード等を販売している。新幹線開業前からのターミナルで、中国ジェイアールバス以外の各社(防長交通・宇部市交通局・サンデン交通)が乗り入れる。防長交通は旧山口市交通局便を含めたほぼ全便がこちらに乗り入れる。萩行き「はぎ号」は防長担当便の乗車のみ。
サンデン交通の神戸・大阪行き夜行高速バス「ふくふく大阪号」が新幹線口ではなく在来線口に乗り入れていたのは、旧山陽急行バス時代も含めてこちらにしかターミナルを有していなかったという経緯による。
新山口駅ターミナルパーク整備事業による駅前広場整備で、駅正面に停留所が移設される予定となっているが、防長交通の乗り場については、工事進捗に伴い2013年10月1日から当面の間、暫定的に従来の乗り場から西に約200m移動した先(駅正面から徒歩3分)に移設されている。

所在地 山口県山口市小郡下郷1294
北緯34度5分36.5秒 東経131度23分51.2秒座標: 北緯34度5分36.5秒 東経131度23分51.2秒
所属事業者 JR logo (west).svg西日本旅客鉄道(JR西日本)


電報略号 シヤ
コリ(小郡駅時代)
駅構造 高架駅(新幹線)
地上駅(橋上駅)(在来線)
ホーム 2面2線(新幹線)
5面8線(在来線)


乗車人員
-統計年度- 7,686人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1900年(明治33年)12月3日
乗入路線 4 路線
所属路線 ■ 山陽新幹線
キロ程 474.4km(新大阪起点)
東京から1027.0km
◄徳山 (44.3km)(35.1km) 厚狭►


所属路線 ■山陽本線
キロ程 459.2km(神戸起点)
◄四辻 (5.2km)(4.0km) 嘉川►
所属路線 ■山口線
キロ程 0.0km(新山口起点)


(1.0km) 周防下郷►
所属路線 ■宇部線
キロ程 0.0km(新山口起点)
(2.8km) 上嘉川►
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* 2003年に小郡駅から改称。

 

 

JR荒木駅 九州旅客鉄道(JR九州)

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荒木駅 は、福岡県久留米市荒木町白口にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅です。


一部の博多方面からの普通列車が当駅で折返すほか、快速列車との緩急接続も行う。また、準快速列車の大半は当駅始発着となる。かつては、データイム羽犬塚始発の上り快速は荒木まで先行、荒木で後続の大牟田・瀬高方面からの鳥栖行き上り普通列車の到着を待って出発していた。下り快速の瀬高、大牟田方面への普通電車の乗り換えによく利用される。

駅名の由来
開業当時の地名(三潴郡荒木村)が由来。現在でも駅所在地の地名は「久留米市荒木町」である。
「荒木」の地名の由来は諸説あるが、平安時代の書物『和名抄』に荒木郷の地名がある事から古くからある地名である。大荒木の臣の居住した所に由来するとの説や、この地が湿地帯を開墾して作られた開墾地で、古代は「新開(あらき)」と読まれていたのが「荒木」に転化したと言う説もある。

駅構造
島式ホーム2面4線を有する地上駅。互いのホームは跨線橋で連絡している。ホームのない留置線(そのため夜間停泊が設定されている。)もある。駅舎改築前の本屋側1番線ホームは宇品駅、京都駅に次ぎ日本で3番目、九州に所在するホームとしては最長の存在であった。

これは当時の帝国陸軍久留米師団将兵の乗降を容易にさせるために設計されたものだったと伝えられている。
JR九州鉄道営業が駅業務を行う業務委託駅で、駅舎内部には自動改札機やみどりの窓口が設置されている。

駅舎はコンクリート打ち放しの駅舎で小さな窓があります。駅舎全体アーバンチックなデザインです。

切符売場にタッチパネル式の券売機が1台。みどりの窓口も営業。待合室には長椅子が1脚設置されるのみです。改札口の改札機は2台。改札口の頭上には液晶式の発車案内が設置されています。

のりば
1・2・3 ■鹿児島本線 (上り) 久留米・鳥栖・博多方面
4 ■鹿児島本線 (下り) 大牟田・熊本・八代方面

 

歴史
1910年(明治43年)4月20日 - 国鉄の駅として開業。
1945年(昭和20年) - アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射を複数回受ける。このうち、筑紫駅列車空襲事件と同じ8月8日に駅舎と駅構内の列車が攻撃された際のガンカメラ映像が発見されている。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道・日本貨物鉄道の駅となる。
1996年(平成8年)
3月16日 - 貨物列車の設定廃止。
この年 - 駅舎が改築される。
2005年(平成17年)12月10日 - JR貨物の駅が廃止。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

所属事業者 JR logo (kyushu).svg九州旅客鉄道(JR九州)
所属路線 鹿児島本線
キロ程 118.8km(門司港起点)
電報略号 ラキ
駅構造 地上駅
ホーム 2面4線


乗車人員
-統計年度- 1,309人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1910年(明治43年)4月20日[1]
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

プラッサー&トイラー マルチプル・タイタンパー JR九州

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Plasser&Theurerは、世界109ヶ国に15,500台以上の大型マシンを販売しているオーストリア最大の輸出業者の1つで、鉄道整備トラック保守用機械の大手メーカーです。オーストリアの機械・鉄鋼建設産業の輸出の6%を占めています。同社は1953年に9人のグループによって設立されました。ジョセフ・テュアラーが30%、娘のエリザベス・マックス・テュラーが30%、ドロテア・テュラーとハンス・ヨルグ・ホーレーがそれぞれ20%ずつ保有している私有企業です。現在、同社は100カ国以上で活動しています。

プラッサー&トイラーは調整を含むすべての目的のために鉄道メンテナンスマシンを製造タンピングトラック、設置およびメンテナンス架線及び関連機器を。他の製品には、鉄道橋の検査および修理車両およびフラッシュバット溶接機が含まれる。

マルチプルタイタンパーやバラストの改ざんは、パック(またはために使用される機械であるタンピング)バラスト軌道の下に鉄道線路トラックは、より耐久性のあるようにします。機械的タンパーの導入に先立って、この作業はビーターの助けを借りて手作業で行った。より速く、より正確で、より効率的で、労働集約的であるばかりでなく、コンクリート 枕木は、手で持ち上げるには重すぎる(通常250kg以上)ため、タンピングマシンは不可欠です。持ち上げ機能やライニング機能を持たないプレーン改ざんツールとしても利用できます。

かつては人力に頼っていた保線作業も、近年は機械化が進み作業の正確さ・迅速性が高まってきました。保線機械の中での“代表的な万能選手”が、このマルチプル・タイタンパーです。タンピング(砂利のつき固め)、レベリング(線路の高さの調整)、ライニング(線路の曲がりの修正)を一度に行う大型機械で、1時間に300~500mの保線作業が可能です。
このほか、バラスト・クリーナー(砂利の交換をする)、バラスト・コンパクター(砂利の締め固めをする)、マルチプル・パワーレンチ(コンクリートまくらぎの締結装置を締め直す)、レール運搬車、モーターカー、ダンプトロリー、軌道検測車などが導入されています。軌道の保線作業は、列車の安全確保だけでなく民鉄の列車運転回数の増加・輸送力増強を支えています。

初期のマシンはトラックを持ち上げてバラストを梱包しただけでした。タンパーライナーやタンピングライニングマシンとも呼ばれるより現代的な機械は、乗客と貨物の快適な乗り心地を実現し、適用される機械的歪みを軽減するために、列車に乗ってレールに。これは、通過する列車や霜取りの重さから枕木が沈んだ場所を見つけて、トラックのたるみを引き起こすことによって行われます。タンパーは各寝台とレールを持ち上げ、バラストを下に詰めます。寝台が再び敷かれると、垂れ下がったレールが適切な高さに座ります。霜作用が隣接レールをより高く上昇させた場合、バラストタンパーはレールを元のレベルよりも上げて、ラインレベルを再び作ることができます。「ライニング」レールにはバラストタンピングが含まれていないため、レールができるだけ完全に平行で直線的になっていることを保証するだけです。1つのマシンにタンピングとライニングを組み合わせると、両方の機能を実行するために1つのマシンだけをトラック上で実行する必要があるため、時間とコストを節約できます。

トラックのメンテナンス機械
Plasser&Theurerは、トラックのメンテナンス、スイッチの設置と更新、交差点と平野のトラック、オーバーヘッドカテナリーの設置、トラックのジオメトリの状態を監視するための設備に特化しています。

同社は、最高の品質と出力を要求する製品を提供することに全力を尽くしており、その包括的なマシンのサイズと出力はさまざまで、クライアントはその業務に最適なマシンを選択することができます。

Plasser&Theurerはまた、生産プロセスにおける研究、開発、新設計および改良に継続的に投資しています。

効果的なタンピングプロセス
新しいUnimat 09-4x4 / 4Sは、コンパクトマシンと大型ユニバーサルタンピングマシンとの間のギャップを埋めるため、より簡単にプロセスを突き抜けることができます。

優れたタンピング出力は、ユニバーサル・タンピング・ユニット、4レール・タンピング、3レール・リフティングなどの実績のあるコンポーネントを使用して、連続作業を行い、トラックおよび分岐部に対応します。ここでは、実証済みのワン・スリー・ザ・タンピング・テクノロジーが新しいマシンに組み込まれています。より低いアクスル荷重は、より大きな適用分野を可能にする。これは、費用対効果の高い、高品質の廃棄物保守の要件です。

Unimat 09-4x4 / 4Sは、ターンアウトが完全に突き刺されるため、幾何学的に安定しています。これを達成するために、Plasser&Theurerは、個別に横方向に移動可能な旋回タンピングユニット、個々に下降可能な踏みタンピングライン、トラックと旋盤用の吊上げユニットとライニングユニットを組み合わせたものなど、数多くの技術を開発しました。

このシステムは、3レール・リフトと4レール・タンピングを補完し、分岐点を注意深く完全に処理します。

制御および測定ユニット用の最先端装置
Plasser&Theurerは、効果的な操作のために特別な機械制御システム、ユーザーフレンドリーなPlasser Intelligent Control P-IC 2.0を使用しています。クリアでタッチスクリーンのメニューガイドとユニバーサル操作ユニットにより、すべての機械機能に一元的にアクセスできます。アームレストには、安全かつ迅速な操作を保証する追加の操作コントロールがあります。

正確な測定システムは、Unalat 09-4x4 / 4S(CALカーブレーザーなど)に組み込まれており、折れ線や曲線でも測定ベースを拡張します。 WIN-ALC自動誘導コンピュータは、動作中に測定システムを完全に制御します。

データ記録プロセッサ(DRP)を使用して、測定グラフおよび作業グラフを評価することもできます。測定データを電子的に転送するオプションもあります。

スプリットユニバーサルタンピングユニット
ユニマット09-4x4 / 4Sダイナミックには、よく知られている機械設計、すなわち動的な安定化を備えた連続動作、ユニバーサルタンピングマシンがあります。この機械は英国の状態に適応しており、制御システムは完全に最新です。

Plasser&Theurerは、4レールのタンピングを備えたスプリットユニバーサルタンピングユニットと、サイクリックアクションで機能するサブフレーム内のリフトユニットと3レールリフティングを組み込んでいます。機械装置は、睡眠検出システムおよびCAL曲線レーザシステムによって完成される。

この機械は当然、英国の鉄道グループの基準に準拠しています。つまり、台車を機械のために再設計する必要がありました。この新しい設計の過程で、Plasser&Theurerはパルス制御噴霧(PCS)アーク曲線に従って溶接方法を使用しました。

最適制御・診断システム
Plasser&Theurerの新しいP-IC 2.0機械制御システムで、すべての操作、調整、診断機能を完全に統合することで、作業者は職場からのすべての関連データにアクセスできます。

遠隔保守による生産性の向上
Unimat 09-4x4 / 4S Dynamicには、P-IC 2.0マシン制御システムに加えて、Plasser Datamaticテレマティクスモジュールが組み込まれています。

このシステムの核心は、個々の信号の表示や評価だけでなく、GPSの位置や機械の状態など、マシンのライブ情報データの送信です。

レールの保全:
移動式レール整流
レールの傷や継ぎ目の隙間は乗り心地を悪くし、鉄道車両に損傷を与え、トラックシステムに悪影響を及ぼします。通常、それらは回線上でのみ修復できます。同じことがレール溶接にも適用されます。ここでもモバイルの作業方法が必要です。

Plasser&Theurerはレールの欠陥を除去するための幅広い機械を提供しています。平面研削盤と研削盤は、縦横のレール形状の不具合の効果的でコスト効率の良い補正を保証します。それ以外にも、APTシリーズのモバイル溶接機は、実績のある電気フラッシュバット溶接のプロセスを軌道にもたらし、過去数年にわたって完成しています。

どのようなレールの欠陥が発生する?
レールの摩耗は、鉄道交通量による通常の摩耗の結果として発生します。トラックに欠陥があると、特別な異常が発生します。通常、レールヘッドの磨耗や変形、ひだと波の形成が予想されます。すべてのレールの傷は、トラックのメンテナンス費用を増加させます。乗客のために、旅行の快適さを提供し騒音を発生しません。。

レールの欠陥はどのように排除されますか?
移動レール研削は、主に研削ユニットの振動運動に基づいて機能し、第2に、機械の連続的な前進に基づいて機能する。研削砥石は、レールの断面に適合します。

レールプレーニングは、レールを取り外すことなくレールヘッドを再成形する。これを達成するために、さまざまな面取りツールが適切な順序で適用されます。この方法の特別な利点は、溶接レールがトラックに取り付けられている間に新しいプロファイルが与えられることである。

長年の溶接作業に適用されていたフラッシュバット溶接プロセスは、移動溶接機によってトラック上で直接使用できるようになりました。溶接プロセスで異物は使用されません。得られる溶接は、他の溶接プロセスよりも優れた機械的特性を有する。

オントラック車両:フラッシュ - バット溶接技術を使用したモバイル全自動レール溶接ロボット。閉鎖溶接を行うのにも適している。

 

 

永山駅 京王永山駅・小田急永山駅

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永山駅は、東京都多摩市永山一丁目にある、京王電鉄・小田急電鉄の駅である。
事業者により正式名称は異なるが、いずれも近接しており、相互乗換駅として案内されている。
京王永山駅(けいおうながやまえき) - 京王相模原線の駅。駅番号はKO40。
小田急永山駅(おだきゅうながやまえき) - 小田急多摩線の駅。駅番号はOT 05。

多摩市役所の「施設案内」 や 多摩市立永山図書館の「交通案内」、日本医科大学多摩永山病院の「MAP」、ヒューマックスパビリオン永山の「MAP」 など、駅周辺施設の交通案内には、京王・小田急両駅の正式名称を表記せずにまとめて「永山駅」と表記する例や、正式名称と「永山駅」という通称を併記する例が多数見られる。
また、多摩市が2003年に策定した 多摩市商業活性化計画 では、当駅周辺部を「永山駅周辺 (PDF) 」と定義している。
同文書内「多摩センター駅周辺 (PDF) 」の節では「駅には小田急多摩線と京王相模原線が乗り入れ」という記述が見られ、多摩市当局が、「京王・小田急両者はそれぞれ別個の駅を設置しているのではなく、「多摩センター駅」という一つの駅に両者が乗り入れている」と解釈していることが明確に読み取れる。よって、多摩センター駅と類似の構造を持つ「永山駅」についても多摩市当局が同様の解釈を適用していると考えることができる。
また、駅前バスターミナルも停留所の正式名称も、京王バスグループおよび小田急系の神奈川中央交通共に「永山駅停留所」であり、多摩市が運営する駅近くの駐輪場の名称も「永山駅駐輪場」となっている。
これら数多くの事例からも、行政・民間を問わず多くの施設・団体が、京王永山駅と小田急永山駅を総称して「永山駅」と呼称していることがわかる。

多摩ニュータウン開発の中で、第1次入居住区となった諏訪・永山地区を包括する住民生活サービス施設を集積する「地区センター」の所在地に永山駅が設置されている。しかし、同地区の入居開始時には鉄道建設工事の遅れから当駅は存在していなかった。その際には北方約3kmに位置する京王線の聖蹟桜ヶ丘駅が最寄り駅となり、住民は3年間バス連絡による通勤・通学を余儀なくされたため、「陸の孤島」と揶揄されていた。しかし当駅の開設後においては、同じ新宿を起点とする京王・小田急の2路線を当駅では選択して利用でき、その後も両線の都心への地下鉄線直通運転が実現相まって、飛躍的に利便性が高まり、恵まれた交通環境となっている。

駅所在地名が多摩市永山であることから、「京王永山」「小田急永山」と名付けられる。なお、「永山」とは駅所在地の北方に流れる乞田川沿いの地区を示す旧大字乞田の小字名で、かつて付近南方に「上長山」「下長山」と名付けられた山があったことに由来する。「長」が「永」に変わった経緯は不明であるが、線路を敷設する当地の南西側丘陵地区を示す旧大字貝取の小字名は「瓜生(うりゅう)」であった。
すでに北海道旭川市に日本国有鉄道(国鉄)宗谷本線永山駅が存在すること、また京王および小田急は同時期に開業した多摩センター駅と同様に両線が同じ新宿駅を起点とするため、乗客の誤乗車と不正乗車を防止する目的から、あえて会社名を冠した「京王永山駅」および「小田急永山駅」として明確に区別することとなった。
建設計画時の仮称駅名は、所在地の旧大字地名「乞田(こった)」とする案と小字名「瓜生(うりゅう)」とする案があった。その後、ニュータウン開発で表示地名が「永山」に変更されている。

京王・小田急両永山駅は、3層構造のコンクリートラーメン高架橋の建造物で両社が隣接して設置されており、駅舎もほぼ一体化しているため、両線の乗り換えは便利である。3層目がプラットホーム、2層目が駅舎と店舗を包含しペデストリアンデッキに通ずるコンコース、1層目が店舗とバスターミナル、タクシー乗り場に通ずるコンコースとなっている。多摩センター駅とともに京王線 - 小田急線相互間の乗り換え客も多い。そのため、2008年3月15日より連絡定期券の発売が開始された。

京王電鉄(京王永山駅)
相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。ただし、駅東側(新宿駅側)は多摩丘陵の地面に接しており、すぐのところに「若葉台第2トンネル」の隧道口がある。ホーム有効長は駅開設時から10両編成に対応し、8両編成分の上屋を設備していたが、10両編成で運行される列車が増えたことから、リニューアル工事で調布方の上屋がさらに延長された。ホーム上には空調付き待合室、改札階と連絡するエスカレーター・エレベーターがそれぞれ設置されており、バリアフリー化が完了している。
改札口は1か所のみであるが、東西南北方向に通じるペデストリアンデッキに直接接続している。また、改札外にはA LoT(売店)がある。


のりば
番線 路線 方向 行先
1 KO 相模原線 下り 京王多摩センター・橋本方面
2 上り 調布・明大前・笹塚・新宿・都営新宿線方面

小田急電鉄(小田急永山駅)
相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。当初からホーム有効長は10両編成に対応していたが、京王と異なり相当期間運行される列車編成が短かったため、ホームの上屋も乗降階段のある中央部分に限られていた。その後、10両編成の列車が運行されるようになったことから、大規模なリニューアル工事で2006年1月31日より10両編成分の上屋を設置し、同時にエコロジー活動の一環として上面に「太陽光発電パネル」を取り付けて自動券売機や自動改札機の電力として活用している。また、京王と同様に空調付き待合室が設置されている。
バリアフリー対応としては、上下線ホームと改札階を連絡するエレベーターがある。駅へのアクセス等出入口付近の様相は京王永山駅と同等である。
2008年度末から、改札ラッチ内とプラットホームで乗客案内用の発車標の使用が開始されている。
2013年1月に、駅名標がLED化され、多摩線内で初めて駅名標が新型になった。
2016年7月15日までは、駅係員の配置は、7時30分から終電までであったが、翌日16日より、始発から7時30分にも係員が配置され、終日係員配置駅になった。
のりば
ホーム 路線 方向 行先
1 OT 多摩線 下り 小田急多摩センター・唐木田方面
2 上り 新百合ヶ丘・新宿・千代田線・小田原・片瀬江ノ島方面


京王および小田急は都心・新宿方面への移動手段として競合をしている。小田急が京王より4か月半ほど先行して開通したにもかかわらず、1990年代後半まで小田急が多摩線内を各駅停車のみ運行させていたこともあり、利便性のあった京王の利用者が圧倒的に多かった。しかし、2000年以降、小田急が地下鉄千代田線・JR常磐線に直通する「多摩急行」や帰宅ラッシュ時に新宿駅などから着席が保証される特急ロマンスカーの運行を開始したことなどで、小田急の利用者が増加傾向にある。
一方、京王もかつて最速種別であった当駅を通過していた特急の運転を取り止め、代わって設定された急行が停車するようになり、加えて急行が都営新宿線直通になったことなどから、少しずつ利用者を取り戻している。また2013年2月22日のダイヤ改定から再開された特急も、京王稲田堤・南大沢と共に停車駅へ加えられている。

多摩ニュータウンの第1次入居地区で開発の先駆をなした地域である。駅の所在地が丘陵地帯の谷間に位置し、周辺はその地形を利用して歩行者と車の通行を立体的に隔離した、歩車分離の街づくりの手本とも言える空間構成を形成している。
周辺各住区の住民サービスの生活拠点となる「地区センター」に位置付けられているため、衣食住に関わる店舗や娯楽、医療・保健関係の諸施設が集積している。また、ニュータウン開発の拠点になった旧住宅公団の本部建物やJTBなど大手企業の研修センターとなる建物が林立している。駅施設と商業施設「グリナード永山」は歩車分離の原則に基づいた導線で一体的に結合され、市立の複合文化施設「ベルブ永山」を経由して隣接する永山北公園から住居地方面に向かう歩行者専用道路に通じている


年表
1974年(昭和49年)
6月1日 - 小田急多摩線開業に伴い、小田急永山駅開業。各駅停車の停車駅となる(暫定開業で駅構内に仮設の渡り線を設置して折り返し運転開始)。
10月18日 - 京王相模原線延伸に伴い、京王永山駅開業。各駅停車および快速の停車駅となる。
1975年(昭和50年)4月23日 - 小田急多摩センター駅までの延伸区間が開通し、中間駅となる。
2000年(平成12年)12月2日 - 小田急多摩線にて特急ロマンスカー「ホームウェイ」および急行の運転開始。小田急永山駅が停車駅となる。
2001年(平成13年)3月27日 - 京王相模原線にて急行の運転開始。京王永山駅が停車駅となる。
2002年(平成14年)3月23日 - 小田急多摩線にて多摩急行の運転開始。小田急永山駅が停車駅となる。
2004年(平成16年)12月11日 - 小田急多摩線にて区間準急の運転開始。小田急永山駅が停車駅となる。
2006年(平成18年)3月 - 小田急永山駅のリニューアル工事完了。
2008年(平成20年)3月15日 - 小田急多摩線にて特急ロマンスカー「メトロホームウェイ」の運転開始。小田急永山駅が停車駅となる。
2013年(平成25年)2月22日 - 京王相模原線の特急(2代目)運行開始に伴い、特急の停車駅となる。(2001年まで走っていた初代特急は通過していた)
2014年(平成26年)
3月15日 - 小田急多摩線にて準急の運転開始。小田急永山駅が停車駅となる。
8月21日 - 小田急永山駅の自動改札機が新型に更新される。
2015年(平成27年)9月25日 - 京王相模原線にて準特急の運転開始。京王永山駅が停車駅となる。

伊予鉄道700系電車

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伊予鉄道700系電車(いよてつどう700けいでんしゃ)は、伊予鉄道の鉄道線用電車。
1987年(昭和62年)から1994年(平成6年)にかけて京王帝都電鉄5000系電車を京王重機整備にて改造の上、購入したものである。

110系、120系などの置き換え目的で投入された。松山市寄りから、クハ760形 (Tc) - モハ710形 (Mc) - モハ720形 (Mc) の3両編成またはクハ760形 (Tc) - モハ710形 (Mc) の2両編成を組む。2015年度末現在、3両編成5本(15両)と2両編成2本(4両)の計19両が在籍し、営業運転では2両編成を2本併結した4連での運用もある。かつては伊予鉄道の鉄道線用電車の過半数を占める同社の主力であったが、3000系の導入により数を減らしている。
京王帝都電鉄の軌間が1,372mmであるのに対して、伊予鉄道の軌間は1,067mmであるため、電動車は廃車発生品の台車に交換し、制御車は車軸を交換して軌間変更に対応した。電動車の大半(種車がデハ5101 - 5112)は吊り掛け駆動車であったが、台車交換とともにカルダン駆動に変更している。種車の関係から狭幅車(旧番号の下2桁01 - 06・51 - 56)と広幅車(同07 - 14・57 - 62)がある。
種車はモハ727以外は非冷房車であったが、運用開始後に自社で改造を実施して全車同一の三菱電機CU-127R形集約分散式冷房装置を搭載している[注 1]。冷房化された当時は800系と同じように「今年も涼しい冷房電車増車」のマークが取り付けられたが、後に側面の窓にステッカーで表示されるようになった。
後期の譲受車の一部は種車となる制御電動車が払底したため、京王時代の中間電動車の電装品を移設して制御車を電装した。そのため、制御装置は東洋電機製造製ES-556B(モハ711 - 719・721 - 723の12両)と日立製作所製MMC-HTB-20B(モハ710・720・724 - 727の6両)というように異なっている。このうち、ES制御器の方は元来京王2700系が使用していたものを流用しているため、製造から半世紀以上経過している。なお、ES制御器は発電ブレーキ(電制)を使用できないため、MMC制御器装備車も合わせて電制を使用していない。


610系に合わせた新塗装化(旧色は市内線車両と同色)は1994年から開始され1997年に完了している。過渡期には新旧混色での運転も見られた。2015年度より2度目の新塗装化(橙色一色化)が実施されており、2015年度末の時点でモハ725編成とモハ726編成の2編成6両が新塗装になっている。モハ725編成の新塗装化時に、モハ725とクハ765の貫通扉にみきゃんのPRのシールが貼られていた。2017年度末の時点では3両編成が727編成と720編成、2両編成が718編成が新塗装化されている。
なお、610系との併結運転も可能だが、放送設備などのサービス機器の相違から、実際に連結して運用された例はない。

台車
モハ710形は、東武2000系廃車発生品のFS340に交換されている。
モハ720形は、721・723・726・727・720の5両は東武2000系廃車発生品のFS340、722・724・725の3両は小田急2220形廃車発生品のFS316に交換されている。
また、モハ710形の中には小田急デハ2217・2218号車の廃車発生品の空気バネ台車であるFS321を装着していた車両がいたが、のちに全車がFS340に統一されている。

伊予鉄道では2009年度から2011年度にかけて郊外線向けの新型車両である伊予鉄道3000系電車(3両固定編成×10本。元京王3000系)を導入した。本系列はこれにより3両編成3本が廃車された。このうちクハ763 - モハ713は銚子電気鉄道へ譲渡されて同社の3000形となり、2016年3月26日から営業運転を開始した。

製造所 東急車輛製造・日本車輌製造
主要諸元
編成 3両 (2M1T)
2両 (1M1T)
軌間 1,067 mm
電気方式 直流 600/750 V
(架空電車線方式)
最高運転速度 65 km/h
設計最高速度 80 km/h
車両定員 130 人
全長 18,000 mm
全幅 2,844(広幅車)/2,800(狭幅車) mm
全高 4,100 mm
台車 住友金属工業製FS-316 FS-340
主電動機 直流直巻電動機
三菱電機製MB-3032-A(FS-316装備車)
東洋電機製造製TDK-824(FS-340装備車)
主電動機出力 75 kW
駆動方式 平行カルダン
歯車比 5.31(FS-316装備車)
6.06(FS-340装備車)
編成出力 4両 (600kW)
3両 (600kW)
2両 (300kW)
制御装置 抵抗制御
東洋電機製造製ES-556B(改)
日立製作所製MMC-HTB-20B
制動装置 電磁直通ブレーキ HSC
保安装置 ATS
備考 京王重機整備にて譲渡改造の実施。

 

伊予鉄道モハ50形電車

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伊予鉄道モハ50形電車は、伊予鉄道に在籍する軌道線用電車です。

1951年から1965年にかけてナニワ工機(現アルナ車両)と帝國車輛工業で製造された。モハ2100形増備により代替廃車が進行しているが、依然として軌道線用車両の主力である。
自社発注車は、製造年によって2つのタイプに分けることができる。他社から譲り受け、本形式に編入した車両もあったが、現在では他社譲受車は全廃された。
ワンマン化は、アルナ工機と自社古町工場で1970年から1972年にかけて行われた。また、冷房化改造は自社古町工場で1981年から1984年にかけて行われた。
自社発注車・前期形(51 - 61)
すべてナニワ工機の製造で半鋼製車体で深い屋根の重厚な外観を持ち古い工法で製造されている。これは新造計画の時、車輛製造メーカーで引き受け手が無く運輸省の紹介でナニワ工機で新造されることになり、ちょうどナニワ工機で製造されていた京都市電800形866-880号の車体を伊予鉄仕様に設計変更して51-55が造られ、56以降は同じくナニワ工機で造られていた広島電鉄500形電車と同じ前中扉仕様で造られた。 製造当初は直接制御方式(KR-8)だったが、1979年に京都市電から廃車となった2600形の制御器を購入し、間接非自動制御に改造された。また電動機も50kWのものに取り替えられた。

51 - 53
1951年製。伊予鉄道軌道線初のボギー車。
集電装置は製造当初ポールだったが、1953年にビューゲル、1966年に現行のZパンタに変更された。客用扉は製造当初は前後端に配置されていたが、1969年に前中扉に改められた。51号は刑事ドラマ「あぶない刑事」TV一作目第13話「追跡」で柴田恭兵扮する大下刑事が犯人が乗った電車を追いかけて飛び乗るシーンのロケ撮影で使用されている[7]。51,52,54号は冷房装置が三菱CU77からCU77CTに交換されている。
54 - 55
1953年製。51 - 53と同型だが、製造当初からビューゲルが搭載されていた。51 - 53と同様に集電装置のZパンタ化、客用扉位置の変更が実施されている。
56 - 58
1954年製。製造当初から前中扉で、客用窓は上段をHゴム支持固定窓、下段を上昇窓としたいわゆる「バス窓」となった。51 - 55と同様、集電装置のZパンタ化が実施されている。
56は2100形増備に伴い2005年度に廃車となり、57・58のみ現存する。
59 - 61
1957年製。台車は当時最新のコロ軸受け付き防音防振台車のFS78を採用した。また、前面窓は中央の窓が左右の窓に比べてやや横幅の広い窓となっている。他の50系と比べると数字が一回り太い。また60だけ数字が銀色になっている。

自社発注車・後期形(62 - 78)
62 - 69はナニワ工機(現・アルナ車両)で、70 - 78は帝國車輛で製造された。前面窓が鉄道線用の600系と同じデザインに変更され、屋根の浅い軽快なスタイルで、軽量構造を採用している。製造当初からすべて間接非自動制御方式で、Zパンタ、50kW電動機を装備した。
62 - 64
1960年(昭和35年)に3両が製造された。当時のバス車体で主流となっていたモノコック構造を取り入れた軽量車体で、側面にリベットと補強用のリブがある。自重は12.96 tとなっている(51 - 61は15.88 t)。また、このグループのみ前扉が2枚引き戸である。
2100形増備により62を最後として2005年(平成17年)3月までに3両とも廃車。これにより、2枚引き戸車は全廃された。
65 - 69
1962年に5両が製造された。車体の構造は62 - 64と変わらないが、前扉が1枚引き戸になった。
65は2100形増備により2003年度に廃車。66 - 69が現存する。
なお69号は、2015年に新塗装化されている。


70 - 78
1964年に70 - 73の4両が、1965年に74 - 78の5両が製造された。車体の形態は65 - 68と変わらないが、工法が従来の工法へ戻ったためリベット・リブがなくなり、車体重量も62 - 69より1トン増加し13.96tとなった。
製造当初は帝國車輛製コイルバネ台車TB-57を履いていたが、保守に手が掛かることから、1974年に名古屋市電1550系廃車発生品の住友金属工業製のKS-40J台車を購入し、交換された。78号は冷房装置が三菱CU77からCU77CTに交換されている。

主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流600V
最高運転速度 40 km/h
車両定員 80人(座席26人)
車両重量 15.88t
全長 11,950 mm
全幅 2,430 mm
全高 4170 mm


台車 新扶桑金属KS-40J(51-53)
住友金属KS-40J(54-58・70-78)
FS-78(59-61)
ナニワ工機 NK-21A(62-69)
NK-12(1001-1003)
主電動機 三菱電機 MB-336LR2
MB-336LR4(51-61)
主電動機出力 50kW×2


駆動方式 釣掛式
制御装置 間接手動加速抵抗制御
(電磁空気単位スイッチ式)
三菱電機HL-72-6DA(62-78)
HL-72-6D(改)(1001-1003)
日本車輛製造NC-579+NCH-452-RUD(改)(51-61)
制動装置 SM-3形直通空気ブレーキ

 


新小岩駅(JR東日本)総武本線

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新小岩駅(しんこいわえき)は、東京都葛飾区新小岩一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。葛飾区最南端の駅。
運転系統としては、快速線を走る総武快速線および緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が停車する。

また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。駅番号は総武快速線がJO 23、中央・総武線各駅停車がJB 25。

駅構造
島式ホーム2面4線を有する高架駅である。改札は南北の2箇所で、自動改札機が設置されている。南口にはみどりの窓口、指定席券売機が設置されている。
高架の高さが十分でないため、駅1階部分は地上より1mほど低い半地下になっている。

改札口とコンコースとの階段横には車椅子用の簡易昇降機(ステップリフト)が、コンコースと高架上のホームとは車椅子対応のエスカレーターで連絡しているものの、階段の上り下りが必要な構造にも関わらず駅構内にエレベーターは設置されていない。


線路によって周辺地域は南北に分断されているが、当駅には改札外自由通路はないため、駅の南北を徒歩で往来する場合は、入場券を購入する場合以外は平和橋通りの歩道を迂回する必要がある。
このように当駅は南北の往来とバリアフリーに問題があることから、スロープを備えた南北自由通路とホームへのエレベーターを整備する駅改良事業が事業者および自治体によって進められており、このうち南北自由通路については2018年度の供用開始が予定されている。

のりば
南から順番にホーム番号が振られており、南側が各駅停車、北側が快速線のホームである。快速千葉方面行きの線路のさらに北には越中島支線の線路が通っている。
番線 路線 方向 行先 備考
1 JB 総武線(各駅停車) 西行 秋葉原・新宿・中野方面
2 東行 小岩・市川・船橋・千葉方面


3 JO 総武線(快速) 上り 錦糸町・東京・横浜方面 東京駅から JO 横須賀線へ直通
4 下り 船橋・津田沼・千葉方面
(出典:JR東日本:駅構内図)
3・4番線に停車する11両編成の列車は、ホームの錦糸町・東京寄りに停車しない。

駅周辺
信号所として開設当時は沼や田んぼが広がっていました。
新小岩地域は江戸川区に接する葛飾区の南端に位置し、新小岩駅は葛飾区の南の玄関口になっている。


駅周辺は総武線の線路とホームの下を通る平和橋通りとで市街が南東、南西、北東、北西の4つに分断されており、南側が新小岩、北東が東新小岩、北西が西新小岩と町名もそれぞれ異なる。駅の南口は南西、北口は北西地域に、北口と連絡通路「スカイデッキたつみ」でつながる東北広場は北東地域に位置する。


南口
駅前ロータリーを挟んで正面に位置するルミエール商店街を中心に繁華街が広がる。市街地は江戸川区松島と連続している。
江戸川区役所
新小岩ルミエール商店街 - 駅の南側にある全長420メートルの商店街。アーケードは葛飾区内で初めて設置した。
クッターナ新小岩 - 飲食店ビル
西友 新小岩店
東京デリカ 本社
新小岩駅前郵便局
関東第一高等学校(私立)
東京都立江戸川高等学校
東京都立小岩高等学校
葛飾区立小松中学校
葛飾区立小松南小学校
鏡山部屋
武蔵川部屋(施設としては旧中村部屋)


北口
東京聖栄大学のキャンパスが立地する駅北口から蔵前橋通りへの通りは「大学通り」と命名されており[12]、一帯は飲食店などの商店街になっている。かつて駅西側から荒川にかけてあった大同製鋼(現大同特殊鋼)の工場跡地は新小岩公園と都営アパートになっている。
新小岩公園 - TBSのドラマ『ビューティフルライフ』の撮影に使用された。
東京聖栄大学(私立)
新小岩学園 - 葛飾区立の小中一貫校。
葛飾区立新小岩中学校
葛飾区立松上小学校
東京都道315号御徒町小岩線(蔵前橋通り)
新小岩陸橋
平井大橋
首都高速道路中央環状線 平井大橋出入口

東北広場
新小岩操駅(現新小岩信号場駅)の規模縮小に伴い不要となった敷地の一部を利用して整備された。南口から移された一部バス路線の停留所とタクシー乗り場、駐輪場がある。東北広場同様に貨物駅の元敷地に作られた私学事業団総合運動場を除き、周辺は住宅地である。
スカイデッキたつみ - 平和橋通りを跨いで北口と東北広場をつなぐ屋根つきの歩行者専用路。エレベーター、エスカレーターを備え、バリアフリーにも対応している。名称は連絡通路上から見える平和橋通りと蔵前橋通りの交差点(たつみ橋交差点)に由来する。
私学事業団総合運動場 - 日本私立学校振興・共済事業団の「福祉事業」として設置されている運動場。

最寄りのバス停留所(バス停)は、南口ロータリーの「新小岩駅」、北口付近平和橋通り上の「新小岩駅北口」、北口から連絡通路「スカイデッキたつみ」を経由して平和橋通りを渡った先にある「新小岩駅東北広場」の3箇所である。

1926年に設置された新小岩信号所を駅に昇格したものである。開業当時の周辺地名は小松菜の名の由来にもなった「小松」であり、北陸本線小松駅との区別のために「下総小松駅」となるところが、周辺住民の要望によって信号所の名前のままの「新小岩駅」となった。その後、昭和40年代に実施された住居表示の際に、周辺の地名も駅名に合わせて新小岩・東新小岩・西新小岩となった。
1926年(大正15年)
2月14日 - 国有鉄道の新小岩信号所として開業する。
7月1日 - 新小岩操車場となる。
1928年(昭和3年)7月10日 - 駅に昇格し、新小岩駅となる(旅客のみ取り扱い)。当初は南口のみ設置されていた。
1944年(昭和19年) - 周辺企業の請願で北口を設置する。
1945年(昭和20年)
6月10日 - 空襲による被害を受ける。
6月11日 - 貨物扱いを開始する。


1956年(昭和31年)2月3日 - 北口駅前の近くに米軍機が墜落し爆発炎上する(新小岩駅前米軍機墜落事故)。
1968年(昭和43年)6月1日 - 貨物扱いおよび操車場業務を、新小岩操駅(現在の新小岩信号場駅)に分離する。
1972年(昭和47年)7月15日 - 当駅を含む区間が複々線化され、快速線の運用を開始する。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、JR東日本の駅となる。
2001年(平成13年)11月8日 - ICカード「Suica」の当駅における供用を開始する。
2011年(平成23年)
3月5日 - 東北広場および北口連絡通路(愛称:スカイデッキたつみ)の供用を開始する。
3月28日 - 新小岩駅東北広場バス停留所が開設される。
2013年(平成25年)12月21日 - 南北自由通路整備工事の着工式が行われる。

所属事業者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 シワ
駅構造 高架駅
ホーム 2面4線


乗車人員
-統計年度- 74,135人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1928年(昭和3年)7月10日
乗入路線 2 路線
所属路線 JO 総武線(快速)
駅番号 □JO 23
キロ程 10.0km(東京起点)
◄JO 22 錦糸町 (5.2km)(5.4km) 市川 JO 24►
所属路線 JB 総武線(各駅停車)
駅番号 □JB 25
キロ程 10.0km(東京起点)
千葉から29.2km
◄JB 24 平井 (1.8km)(2.8km) 小岩 JB 26►
備考 2路線とも正式名称は総武本線
みどりの窓口 有
区 東京都区内駅

 

県総合運動場駅 静岡鉄道静岡清水線

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県総合運動場駅は、静岡市駿河区栗原(ホームの所在地は駿河区国吉田三丁目)にある静岡鉄道静岡清水線の駅。駅番号はS08。

駅名の通り静岡県草薙総合運動陸上競技場、静岡県草薙総合運動場硬式野球場が隣接し、イベント開催時には多くの観戦客で賑わう駅です。

島式ホーム2面4線で、静岡清水線で唯一上下線で待避・追越が出来る駅である。 2011年のダイヤ改正により、下り急行の停車駅となり(上り通勤急行は通過)、平日朝に県総合運動場駅ー新静岡駅間の区間列車が設定される。

当駅止まりの下り普通列車は急行に接続し、平日早朝の新清水発上り一部普通列車は当駅にて通勤急行の通過待ちを行う。

ホームと改札口の間は地下通路でつながっている。改札口は2か所あり、駅南側は栗原(草薙総合運動場方面)、駅北側は国吉田三丁目(国立印刷局静岡工場方面)に出る。

駅南口の駅舎は駅ビルを併設したモダンな駅舎です。イベント時の観客集中に備えて駅前は広く、、臨時切符売場も設置されています。

南口の切符売場には新旧取り混ぜて3台の券売機が設置。改札口にはイベント対応のため、改札機は4台と多数設置されています。

駅全体が小高い丘の上にあるが、これは静岡清水線古庄駅~県総合運動場駅間に3本の鉄橋と盛土で作られた高架(これは国道1号、大谷川放水路及びJR東海道本線・東海道新幹線・静岡貨物駅を越えるためのものである)があり、県総合運動場前駅はこの高架が地上に降りる直前の位置にあるからである。


2番線(下り新清水方面)と3番線(上り新静岡方面)が本線で、待避線の1番線と4番線を使用する定期列車は新静岡駅-県総合運動場駅間の区間列車、および新清水駅を平日の6時31分と44分に出発する2列車(4番線にて通勤急行の通過待ち)のみであるが、草薙球場や総合運動場でスポーツイベント等開催の際には、この番線に電車を待機させ、乗客が集中した際に臨時便として発車させる事も可能な構造である。


駅北口の新清水側には片渡り線が設置されている。切符売り場には券売機と改札機が設置されるのみで、終日無人です。

輸送障害時の折り返し他、2011年10月1日のダイヤ改正によって平日の朝に設定された、新静岡駅と同駅を結ぶ区間運転の列車を転線させる目的で使用されている。

ただし新清水側に引上げ線設備はないため、1・2番線に停車後、入換信号機によりそのまま前進し、栗原2号踏切を越えた下り本線上の停止位置目標で停車し、エンド交換後、再度入換信号機に従い渡り線を通って4番線、または3番線に入線する。


のりば
1・2 ■静岡清水線(下り) 草薙・新清水方面
3・4 ■静岡清水線(上り) 長沼・新静岡方面

駅南口は駅ビルを併設したモダンな駅舎です。イベント時の観客集中に備えて駅前は広く、、臨時切符売場も設置されています。

駅周辺には静岡栗原郵便局・静岡県草薙総合運動場・静岡県草薙総合運動場陸上競技場・
静岡県草薙総合運動場硬式野球場・静岡県草薙総合運動場体育館・テレビ静岡・国立印刷局静岡工場(旧:大蔵省印刷局静岡工場)・シャンソン化粧品本社・日本レーベル印刷本社・ヤマダ電機テックランド静岡国吉田店・コジマ×ビックカメラ静岡店などがある。

1908年(明治41年)12月9日 「運動場前駅」として開業。
1991年(平成3年)11月1日 駅名を「県総合運動場駅」に改称。
全国高校総体を機に駅が改築され、同時に駅名を改称。


2011年(平成23年)10月1日 駅名標・電車内掲出路線案内の英文表記を"Pref.Sports Park"に変更。同時に行われたダイヤ改正によって設定された、新静岡-県総合運動場前間の区間列車を平日朝に設定(各駅停車のみ、運転は10月3日から)。

パサールカードには、「運動」と印字される。
静岡清水線で唯一駿河区に設置された駅である。

駅番号 S08
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 4.8km(新静岡起点)
駅構造 地上駅


ホーム 島式 2面4線
乗車人員
-統計年度- 1,531人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日

 

 

 

MH908 はなみどり2号:ベル 412EP(やしま搭載機)救難ヘリ

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ベル 412(英語: Bell model 412)はベル・ヘリコプター・テキストロン社が開発した汎用ヘリコプター。ベル・エアクラフト社のベル 212の発展型である。

ベル 205(UH-1D/H)を双発エンジンにしたモデルであるベル 212は1968年に初飛行している。このベル 212の改良計画は1978年から本格開始された。初飛行は1979年8月3日、FAAの型式取得は1981年1月である。
型式取得した当月に納入が開始されている。その後、燃料搭載量と離陸重量を高めるなどの改良を加えたベル 412SP (Special Performance) が開発された。1991年には、変速機を改善した412HP (High Performance) も開発された。その後、デュアル・デジタル自動飛行制御システムを備えた412EP (Enhanced Performance) が生産され、その軍用派生型としてCH-146グリフォンが開発され1992年に初飛行した。
2013年3月にはFADECを装備したPT6T-9エンジンに換装し、完全統合型グラスコックピットとするなどの改良を加えた最新型412EPIが公開された。

ベル 412EP
デュアル・デジタル自動飛行制御システム、PT6T-3Dエンジン搭載。後にBLRエアロスペース社が開発したファストフィン・システムを装備させている。これはテールブームに取り付けられる2枚のストレーキと後縁を切り欠いたヴァーティカルフィンで構成され、このシステムを装着することにより、従来より小さなパワーで飛行することが可能になり、ペイロードを1,250ポンド(約570kg)増やすことができるとしている。ベルは新造の412EPすべてに、このシステムを標準装備する。

主に改良された箇所はローターであり、複合材製の4枚ブレードを採用する。このブレードはノーメックスでできたハニカムコアをガラス繊維で包んで互いに結合しており、内部には凍結防止用のヒーターマットを組み込んでいる。ローター・ヘッドは鋼と軽合金製でエラストメリック・ベアリングやダンパーが装備されている。エラストメリック・ベアリングにより機械的なヒンジと重い粘性ダンパー両方の排除を実現し、これにより巡航速度は約40km/h速くなり、機内の振動や騒音が減少した。また、エラストメリック・ベアリングは潤滑を必要としないため、確認が目視検査でよくなった。そのほか、フレックスビームヨークで、迅速な制御応答性を提供しながらも、ローターの寿命を延ばすことを可能としたほか、システムを保護し、問題をパイロットに警告するのに役立つ主変速チップ検出器が搭載された。
胴体部については燃料タンクの容量が約50%増加し、コックピット内の操縦装置が一部変更されている以外はベル 212とほぼ同等である。

日本における採用
日本では消防防災航空隊や警察航空隊、海上保安庁などにも多数採用されている。

海上保安庁のベル412EP
2015年(平成27年)7月17日には、陸上自衛隊の次期多用途ヘリコプター(UH-X)として、ベル412EPIをベースとした共同開発機が選定された。
2015年9月2日、防衛省は富士重工とUH-X開発プロジェクト立ち上げ事業について、試作請負契約を締結した。
2021年(平成33年)から20年かけて1機12億円で150機を調達する予定で、試作1号機は2018年に完成、量産初号機の納入は2021年を予定している。
また、富士重工ではベル 412SPを実験母機とし、独自に開発した富士ベアリングレスローター(FBR)を装備させ試験を実施した。このローターはGFRP製フレックスビームおよびブレードとCFRP製ピッチスリーブなどから成り、高速性能や航続距離の向上、振動や騒音の低減を目指していた。実験機は1996年3月29日に初飛行しそれから4か月にわたって50回以上の試験を実施した。試験の結果、振動については素のベル 412と比較して120Ktあたりでは側面方向に対しては低くく垂直方向に関してははやや高くなりそれほど差は出なかったが、騒音については低空飛行時に1.5dB、アプローチで0.7dB、離陸で0.5dBとなり何れも素のベル 412を下回る結果となった。また水平飛行性能については5Kt程度の最大速度の増加とともに必要馬力の減少が認められるなど好結果を収めた。

(412EP)
乗員:1-2名
乗客:13名、約6,614ポンド(3,000kg)の最大外部負荷
主ローター直径:14.0m
全長:17.1m(胴体長 13.1m)
ローター直径: 14m
全高:4.6m
エンジン:プラット・アンド・ホイットニー・カナダPT6T-3Dターボシャフトエンジン(出力 900軸馬力)2基(ツインパック)
空虚重量:3,079kg
最大離陸重量:5,397kg
航続距離:約662km
最大速度:約260km/h=M0.21
巡航速度:約226km/h=M0.18
実用上昇限度:6,096m
上昇率:6.86m/s
パワーウェイトレシオ:437W/kg
用途:汎用ヘリコプター
製造者:ベル・ヘリコプター・テキストロン
運用開始:1981年
運用状況:現役

 

長沼駅 静岡鉄道静岡清水線

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長沼駅は、静岡県静岡市葵区長沼一丁目にある静岡鉄道静岡清水線の駅。

駅番号はS06。駅に隣接して長沼工場と鉄道営業所があり、静岡清水線の運行拠点となっている。入出庫を兼ねた当駅始発列車(平日朝)・当駅行き列車(毎日夜)も設定されている。

下りの島式ホーム1面2線、上りの単式ホーム1面1線の島式と単式の複合型2面3線である。 駅の北側には長沼工場の検車庫と留置線が広がる。 長沼工場からの上り方(新静岡方)への導入のための渡り線及び構内入換用の引き上げ線がある。 便所は上りホームにある男女共用の水洗式。 例年行われる「しずてつ電車まつり」は、当駅と長沼工場が会場となる。 有人駅。

駅舎は鉄筋コンクリート造で特に飾り物などはありません。駅前のスペースはほとんどありません。


のりば
1・2 ■静岡清水線(下り) 草薙・新清水方面
3 ■静岡清水線(上り) 音羽町・新静岡方面


1番線は主に車両の停泊及び、同駅発の区間運転に使用され、通常は列車の発着はしていない。車両検査の都合などの理由によって、稀に車両を交換するために1番線に入線した車両の乗客を、2番線に待機していた車両に移動させる場合がある。また1番線に普通列車を待避させ、2番線を通過する急行が追い抜きを行うことも可能であり、この運用は2011年12月10日~2012年1月9日の土・日・祝日に臨時急行が運転された際、初めて実施された。

駅周辺には東静岡駅 - JR東海東海道本線。途中かなり細い路地を通るのでわかりづらいが、順路には公設、静岡鉄道両者が設置した案内看板が複数ある。・バンダイホビーセンター・静岡県立科学技術高等学校・愛宕霊園 - 静岡市営墓地、周辺には静岡大火後に旧寺町から移転させた寺院群がある。・日東紡愛宕ゴルフガーデン・静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)

切符売場には券売機は2台あり内、一台がタッチパネル式の新型です。改札口、改札機は2台設置。

1908年(明治41年)12月9日 - 開業


ちびまる子ちゃん - 入江小学校3年4組の戸川先生の暮らすアパートが当駅周辺の街にある。物語では「浅沼駅」になっていて、終点から2駅前、「清水駅」からの運賃は160円という設定であった。かなり大きな駅であった。快速は停車、急行は通過。
模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG - 第1部のゲーム内のステージに、長沼工場とその周辺が登場した。
ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭 - 車両工場敷地内でロケが行われた。

駅番号 S06
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 3.1km(新静岡起点)
駅構造 地上駅
ホーム 島式・単式複合 2面3線
乗車人員
-統計年度- 1,104人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日
乗換 東静岡駅 - 東海旅客鉄道 徒歩8分

A-10 サンダーボルトII

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A-10は、フェアチャイルド・リパブリック社の開発した単座、双発、直線翼を持つアメリカ空軍初の近接航空支援(CAS)専用機。戦車、装甲車その他の地上目標の攻撃と若干の航空阻止により地上軍を支援する任務を担う。
公式な愛称は第二次世界大戦中に対地攻撃で活躍したリパブリック P-47に由来するサンダーボルトII(Thunderbolt II)だが、一般にはメーカーなどでも使われるウォートホッグ(イボイノシシ)やホッグ(ブタ)という渾名が広まっている。
二次任務の前線航空管制機として対地攻撃機の誘導に当たる機体はOA-10と呼称される。

1950年代-1960年代にかけてのアメリカ空軍の戦略ドクトリンは核兵器による大規模破壊相互報復であった。この期間の爆撃機は核兵器搭載のために設計され、戦闘機の大半も核兵器搭載可能になったことで近接航空支援や地上攻撃は戦闘機の副次的任務と考えられていた。このため、戦闘機として第一線を退いたF-100 スーパーセイバーをこの任務に充てていた。しかし、ベトナム戦争においては核兵器を使うような事態は発生せず、軽視していた近接航空支援が主任務となった。
これを担うのにF-100のような超音速戦闘機は適していると言えず、海軍のA-1 スカイレイダーを借用したりA-7 コルセアIIを制式採用したが、A-1は老朽化が進み、A-7ではF-100やその他の戦闘爆撃機と同様に敵味方の近接した中で有効な支援を行うのに必要な低速度での運動性がなかった。このため、ダグラスAC-47、フェアチャイルドAC-119、ロッキードAC-130といった輸送機を改装したガンシップを対人阻止および対地攻撃に使用して特に夜間に効果を上げ、最終的には練習機を改装したノースアメリカン T-28やセスナ A-37を対ゲリラ戦や地上攻撃に使用した。このためアメリカ陸軍だけではなくアメリカ空軍内でも近接航空支援充実の要望が高まり、ベトナム戦争で多くのアメリカ軍対地攻撃機を撃墜した小火器、地対空ミサイル、小口径の対空兵器にも対応できる専用機体の調達を促すことになった。また、近接航空支援に使用されるUH-1 イロコイやAH-1 コブラの小口径機関銃や無誘導ロケット弾は非装甲目標にしか対応できないという意見もあった。F-4 ファントムIIを近接支援機として使用するアイデアもあったが、その高い巡航速度と莫大な燃料消費は空中待機を許さず、緊急出動に限られることとなった。また、F-4設計当時は「ミサイル万能論」のために空対空のドッグファイト性能が軽視されており、初中期型は固定武装を持たない機体が多かった。そして、M61 20mm機関砲を搭載しない型では走行中の装甲車両には無力であった。
1967年3月6日にアメリカ空軍はエーブリー・ケイ大佐を責任者に据えて21社に対してA-Xまたは実験攻撃機と呼ぶ低価格の攻撃機の設計研究を目的とする提案要求を提示した。1969年には空軍長官はピエール・スプレイに対して提案されたA-Xに対する詳細要件を作成するように依頼したが、スプレイがF-Xの論議に関わっていたという経緯から内密とされた。 スプレイはベトナムで作戦に従事するA-1 スカイレイダー操縦士との議論や、Ju 87 の戦闘記録などの近接航空支援に使用されていた、またはしている機体の有効性の分析、エネルギー機動性理論を考慮の結果、必要なのは長時間の空中待機、低速での運動性能、強力な機関砲、卓越した生存性を持つ、イリューシン Il-2、ヘンシェル Hs129、A-1 スカイレイダーの長所を兼ね備えた機体であると結論付けた。また、機体価格は300万ドル未満とした。ちなみにJu 87の戦闘記録のなかでもにハンス・ウルリッヒ・ルーデルは重要視され、彼の著作は計画関係者の必読書とされた。
1970年5月にアメリカ空軍はソビエト連邦機甲部隊対応と全天候戦闘を重視したより詳細な提案要求を提示した。要求性能としては口径30mmの対戦車機関砲(ジェネラル・エレクトリック製GAU-8とフィルコ・フォード製GAU-9の競作)を装備し、16,000lbf(7,258kg)以上の兵装搭載能力、進出距離400kmで2時間の空中待機という高い航続性能、低高度での高い機動性、簡易飛行場を使用可能な優れた短距離離着陸性能、高い生存性、容易な整備性などが出された。 ボーイング社、セスナ社、フェアチャイルド社、ジェネラル・ダイナミクス社、ロッキード社、ノースロップ社から設計案が提出され、1970年12月8日にノースロップ社とフェアチャイルド社の案を採択し、それぞれYA-9AとYA-10Aとして試作されることになった。YA-10Aは1972年5月10日に初飛行し、YA-9Aは10日遅れの5月20日に初飛行している。
1972年10月10日-12月9日の比較評価試験で操縦特性はYA-9Aに劣るものの生存性と試作機からの量産改修点の少なさを高く評価され、1973年1月18日にA-10として制式採用となり、前量産機として10機が発注された。
その後、議会筋の圧力により前量産機のうち4機(73-1670-73-1673)をキャンセルした上に、アメリカ空軍内部でもすでに装備しているA-7Dとの並行装備に対する疑問が出され、A-7Dとの比較評価を受けることとなった。
1974年にヨーロッパの地勢や天候に似たカンザス州フォートライリイをテスト場とするためにカンザス州マッコーネル空軍基地を拠点としてA-7DとA-10Aの操縦経験のないF-100もしくはF-4のパイロット4名が参加した。1月-4月にかけて両機の初等訓練から慣熟飛行を行った後、4月15日からテスト場に設置した地上目標と防空陣地に対する16任務各2出撃のテストを実施した。任務は敵軍と友軍の戦況が膠着した場合と敵軍が友軍を迅速に突破した場合に大別され、武装は最大12発のMk.82 500ポンド爆弾、ロックアイ集束爆弾、ナパーム弾、(A-10へのインテグレーションが未済であったためにシミュレーションによる)AGM-65 マーベリックを使用し、また、上限高度も1,000ft、3,000ft、5,000ft、制限なしとされた。比較審査の結果はM61A1と同等の速射力と、より大きな破壊力を持つGAU-8 30mm機関砲が固定武装として選定された。さらに、対空砲火への抗堪性、良好な操縦性による対空戦闘での脆弱性の軽減、及び特に低雲高や視界の制限された条件で近接航空支援を実施する際の良好な操縦性によりA-10が近接航空支援用により優れた機体であることを示した。これによりA-10の必要性を認めた議会は開発の継続を認め、当初140万ドルの機体単価は170万ドルになったものの、生産計画は予定通りに進行し、1975年10月にA-10前量産初号機(73-1664)の初飛行を実施した[3]。
1976年3月にアリゾナ州デビスモンサン空軍基地への配備が始まり、1977年10月に最初の飛行隊が実戦配備可能となった。最終号機は1984年に出荷され、総数715機を生産した。A-10の操縦は非常に容易と考えられたために複座練習機型は製造されなかった。
当初は739機の生産が計画されたが、最終的に1983年までに719機で生産が完了した。

A-10は、下に折れ曲がったドループ(ウィング・チップ)を持つ長スパンの直線翼により低高度低速度域で良好な運動性を発揮し、2.4km程度の視界下で300m以下の高度での長時間の待機飛行を行うことができる。小さく遅い移動目標への攻撃が困難とされる戦闘爆撃機の巡航速度よりも遅い、555km/h程度で飛行する。補助翼は上下に分割し、制動補助翼としても機能する。フラップ、昇降舵、方向舵その他の動翼にはハニカム板を使用している。
近接航空支援作戦という任務の性格とA-10の比較的低い巡航最高速度から、前線近くの基地からの運用を想定した構造となっている。
丈夫な降着装置や低圧タイヤと大きな直線翼が発揮する短距離離着陸性能により、攻撃を受けた空軍基地のような悪条件下でも多量の武装を搭載した作戦行動を可能としている。また、戦場に近い設備の限られた基地での給油や再武装、修理を想定した設計により、エンジンや主脚、垂直安定板を含む多くの部品が左右共通という他には見られない特徴を持つ。
外板と縦通材をNC工作機で一体整形して接合や密封の問題をなくし、製造工程でのコストを節約している。また、戦訓でこの外板製法が他の製法より高い抗堪性を持つと判明している。外板は構造部材ではないので破損時には現場で調達できる間に合わせの資材で張り替えることもできる。
主翼後方胴体上面という特異なエンジン配置は様々な利点をA-10にもたらしている。エンジンの排気を水平安定板と2枚の垂直尾翼の間を通すことにより、6:1というバイパス比により低めとなっているゼネラル・エレクトリックTF34-GE-100 ターボファンエンジンの赤外線放射をさらに低減して赤外線誘導ミサイルの擾乱を図っている。また、限定的ながらも主翼を対空兵器に対する盾としている。
地上においては吸気口を地表から離すことにより砂や石などの異物吸入による損傷(FOD)の可能性を低め、駐機中にエンジンを運転したままでも整備点検や再武装作業時の地上要員の安全を確保できるために再出撃時間を短縮できる。また、同じエンジンを翼下に懸架した場合よりも翼が地面に近づき、整備点検や武装作業の負担を軽減している。
大重量のエンジンを支持するパイロンは、4本のボルトにより機体に結合されている。また、高いエンジン配置によって生じる機首下げモーメントを相殺するため、エンジン・ナセルは機軸に対して9度上向きに機体へ結合されている。

A-10は非常に頑丈に作られており、23mm口径の徹甲弾や榴弾の直撃に耐える。
二重化された油圧系と予備の機械系による操縦系統により油圧系や翼の一部を失っても帰投・着陸を可能としている。油圧を喪失した場合、上下左右動は自動的に、ロール制御はパイロットによる手動切り替えスイッチの操作により、人力操舵へと切り替わる。この時は通常よりも大きな操舵力が必要となるものの、基地に帰還し着陸するのには充分な制御を維持できる。機体自体もエンジン一基、垂直尾翼1枚、昇降舵1枚、片方の外翼を失っても飛行可能な設計となっている。
主脚は引き込み時も収容部から一部露出しており、胴体着陸時の機体制御を容易にしつつ下部の損傷を軽減する。また、脚は支点から前方に引き上げられるため、油圧喪失時に脚を下ろすと風圧でロック位置に引き下ろすことができる。
コックピットと操縦系の主要部は予想される被弾方向や入射角の研究で最適化された12.7-38.1mmの厚さと機体の空虚重量の6%となる408kgの重量を持つチタン装甲で保護される。『バスタブ(浴槽)』とも呼ばれるこの部分は23mm砲のみならず57mm砲でのテストを受けている。着弾の衝撃で装甲内側が剥離した際の破片から保護するために、パイロットに面した部分にケブラー積層材で内張りを施している。キャノピーは防弾のために拡散接合した延伸アクリルで作られており、小火器の攻撃から耐えることができ、内部剥離を起こしにくくなっている。前面風防は20mm砲に耐える。
泡消火器付き自動防漏式燃料タンクは空間装甲としての効果を意図してインテグラルタンクとはせずに胴体と分離してある。また、内外面に貼り付けられたポリウレタン網は被弾時の破片飛散を止めて燃料の漏出を抑える。4個の燃料タンクは被弾やエンジンへの供給断の可能性を減らすために機体中央に集められ、タンクが破損した際には逆止弁で他のタンクからの燃料移送を止める。燃料システムの部品の多くは燃料タンクの内側に設置して外部への燃料漏れを抑え、すべての外部配管は自己防漏式になっている。
給油システムは使用後に取り外され、機体内で保護されていない燃料系統はなくなる。
また、パイロンで支持されたエンジンは、防火壁と消火装置により燃料システムその他胴体部の火災から保護されている。
燃料系・油圧系統、機関砲弾倉などにも施した装甲の総重量は1,010kgに及び、機体重量の17%を占める代わりに高い防御性を発揮する。

A-10は、7tを超えるペイロードを持ち、11ヶ所のハードポイントに様々な外部武装を装備できる。また、劣化ウランを弾芯とした30mm徹甲弾を使用するGAU-8 アヴェンジャーガトリング砲を主要武器として内蔵している。
当初の設計では毎分2,100発と4,200発の発射速度だったが現在は毎分3,900発に固定している。射撃開始から最高速度となるまで0.5秒かかるため、最初の1秒で50発を発射し、その後は毎秒65発となる。GAU-8はA-10が30度で降下した際の射程1,220mに最適化されて12.4mの円内に80%という集弾率となっている。
機体自体もGAU-8の搭載のために設計しており、発射の瞬間に砲口に向かって9時位置となる砲身を機体中心と合わせるために砲自体を進行方向左、前脚を右に寄せて配置している。地上での旋回半径は内側の主輪と前輪の距離で決まるため右回りの方が小回りになる。


弾倉は初期の機体では1,350発収容していたが、装填時の弾倉の螺旋部分の破損が多かったために1,174発の砲弾を収容する補強された弾倉に交換された。リンクレス弾薬の装填にはGAU-8専用のGFU-7E 30mm弾ローディングアセンブリカートを必要とする。大量の弾薬の誘爆は壊滅的な結果となるため、幅1.52m、長さ2.74mにもなる弾倉の防護には充分な注意が払われており、弾倉と外板の間には異なった厚さを持つ幾枚ものトリガープレートと呼ぶ多くの板を配置し、炸裂弾を外側の装甲で起爆させ、内側の装甲でその破片を防護する空間装甲としている。
また、電子光学(TV誘導)誘導または赤外線誘導のAGM-65 マーベリック空対地ミサイルも頻繁に使用している。機関砲よりも長い射程を持つマーベリックは、近代的な対空システムに対するより安全な選択肢となる。
湾岸戦争では前方監視赤外線カメラを装備していなかったため、夜間任務ではマーベリックの赤外線カメラをFLIRの代用とするアイディアが実行された。このため信頼性の問題から利用されなくなりつつあったLAU-88(三連装ランチャー)によりマーベリック3本搭載し、内1本をカメラとして利用していた。
他には集束爆弾やハイドラ70ロケット弾ポッドも使用する。
A-10は、レーザー誘導爆弾の運用能力も備えているが、A-10の作戦高度速度域では安価な無誘導爆弾で充分な精度を発揮できる上に誘導兵器の操縦時間をほとんど取れないため、実際の使用は希なこととされている。
また、A-10は通常自衛用として片翼にALQ-131ECMポッドともう一方に2発のAIM-9を携行する。


本機は1976年より実戦部隊に配備され始めたが、1980年代末になると夜間運用能力の不足や遅い速度、行動前の制空権確保の必要性を問題視された。もちろん、それは近接航空支援に特化した本機にとっては、元より承知で切り捨てた性能である。しかし、同時期に開発されたマルチロール機のF-16は、低空・低速での運動性も高く、近接航空支援もこなせる機体であった。加えて地上攻撃用の兵器・装備の性能向上により、近接航空支援に特化した機体でなくても、十分にその任務を果たす事ができるようになった。その結果アメリカ空軍ではF-16をコストパフォーマンスが高いとして調達を優先し、本機のような攻撃専用の機体の優先順位は低下した。
また、A-10は空軍高級将校の目には余分な物に映り、近接航空支援はAGM-114 ヘルファイアを搭載できる陸軍のAH-64 アパッチに押し付けようとした。また、A-10自体も陸軍と海兵隊に移管しようとする動きもあったが、四軍の分掌を定めた1948年のキーウエスト合意によって阻まれた。
そのため、1980年代後半に低空飛行時の安定性の向上ならびに目標策定能力の向上を目的としたLASTE(Low Altitude Safety and Targeting Enhancement)計画が検討されたが、湾岸戦争以後の1991年まで実施されていない。さらに冷戦終結により対戦車攻撃力の必要性が薄れた事と、軍縮の気運によりますますもって攻撃専用機である本機が贅沢視される事となり、配属飛行隊の多くがF-16に転換され、相当数が空軍州兵や空軍予備役などの所属になった。この時期にOA-10Aという名称が作られたが、これは観測任務に対する名称であり機体としてはA-10Aとまったく同一である。残ったA-10もF-16の近接航空支援型で更新する方針であった。
そのまま活躍も無く消え去ると思われた本機の運命を大きく変えたのが、1991年に発生した湾岸戦争であった。イラク軍の対空能力が低いことと、砂漠地帯であるために天候が良好であったこと、なにより実際の戦闘が開発意図や運用想定(欧州平原で友軍の制空権下でワルシャワ条約機構の機甲部隊を撃破する)に沿っていたことも手伝い、AH-64A アパッチなどの対戦車ヘリコプターが砂漠環境での機械的トラブルに悩まされたのを尻目に、主に装甲車輌などの移動目標攻撃に活躍した。A-10Aの累計出撃数は8,755回、OA-10Aの戦線航空統制任務は656回に及び、戦果はイラク軍の戦車987両、装甲兵員輸送車約500両、指揮車両など249台、トラック1,106台、砲兵陣地926ヶ所、対空陣地50ヶ所、SAMサイト9ヶ所、レーダーサイト96ヶ所、指揮所など28ヶ所、塹壕72ヶ所、スカッド発射台51基、FROG発射台11基、燃料貯蔵タンク8ヶ所、航空機地上破壊10機、Mi-17ヘリコプター撃墜2機を記録した。
この活躍により、空軍はF-16の近接航空支援版でA-10を更新しようとする考えを改めている。そして、1991年半ばより棚上げされていたLASTE改修が始まった。改修作業は機体の定期修理に合わせてサクラメント航空兵站センターで開始されたが、夜間運用能力の付与については緊急の課題とされ、1993年6月には空軍参謀長より1996年10月を期限とするよう指示が出された。最終的にはグラマン社と契約し、1997年に全機の改修が完了した。 LASTE改修のうち「低高度安全」については自動操縦装置と電波高度計の装備によるGCAS機能であり「照準改善」はF-16と共通の爆撃コンピューターの装備による自動攻撃機能を指す。また、LASTE改修とは別にNVG(暗視装置)適合化が行われた。これらはNVG編隊灯によって区別される。
1994年にはA-10の運用寿命の延長が決定され、当初の目標は2008年とされた。A-10の近代化はフェアチャイルド社が航空産業から撤退していたためにロッキード・マーティンが受注すると共にA-10の知的財産権も獲得し、1999年から「ホッグアップ」計画として実施されている。また、運用寿命の延長と並行して、戦闘能力向上を図る精密交戦プログラム(PEP)能力向上計画が2004年から実施されている。PEP能力向上計画は、スパイラル・ワンとスパイラル・ツーの2段階で改修作業が行われ、スパイラル・ワンではコックピットに12.7cm×12.7cmの多機能ディスプレイ2基を導入したグラスコックピット化とHOTAS概念の導入、新型兵装搭載管理システムの搭載、兵装パイロン6基に対する精密誘導兵器(PGM)搭載用改修、統合直接攻撃弾薬(JDAM)と風偏差修正小弾ディスペンサー(WCMD)の統合化、スナイパーXRまたはAN/AAQ-28 ライトニングAT目標指示ポッド(英語版)の携行能力付与、電源能力強化、デジタル・データリンク装置の統合化準備作業が行われ、エンジンもTF34-GE-100から信頼性の向上したTF34-GE-101に換装された。スパイラル・ツーではさらに、統合戦術無線システム・セットの導入、新型データリンク装置の装置、位置評定報告システムの強化が行われる。


PEP能力向上計画の試作改修機には、A-10A量産684号機が使用されることになり、試作改修初号機は2005年1月20日にエグリン空軍基地で初飛行し、第46試験航空団第40飛行試験飛行隊に引き渡されて、飛行試験を行った。量産改修機A-10Cは2006年から全規模量産改修が開始され、同年11月29日から部隊配備を開始、デビスモンサン空軍基地の第355戦闘航空団第357戦闘飛行隊が最初に受領し、続いてムーディ空軍基地の第23航空団第74および第75戦闘飛行隊が受領した。そしてA-10Cは、2007年8月21日に初度作戦能力(IOC)を獲得、同年11月7日にはメリーランド州空軍第104戦闘飛行隊がA-10C飛行隊として初めてイラクに展開している。これら改修によって16,000時間まで耐用飛行時間を延長し、A-10Cを2028年までは運用する予定である。アメリカ空軍では機体の塗装を灰色単色でエンブレムも目立たないように彩度を抑えたロービジ迷彩に統一しているが、第23航空団ではシャークマウスをペイントした状態で任務に就いている。
アメリカ空軍は、2008年の時点でA-10Aを273機、OA-10Aを94機の計367機を保有しており、2009会計年度までに最大125機をA-10Cに改修する計画で進めており、最終的には保有する367機すべてをA-10Cに改造する計画であった。が、2012年の国防総省の「国防予算の優先度と選択」においては、A-10を102機退役させるとされた。2012年の時点で345機を保有している。
冒頭で述べた通りに本機の能力が疑問視された当時は、後継機として専用機(A-7F/A-16)の開発も検討された事があるが、プランは中止され、現在はF-16ともどもマルチロール機であるF-35統合打撃戦闘機で更新する予定であるが、F-35の開発の遅れによりA-10の退役も先延ばしされ、近代化プログラムが進められている。
2015年の国防予算案の概要にて、予算削減のため、航空戦力としてA-10の全廃、及びU-2偵察機を退役させるという発表がされていたが2016年1月に対イスラム国空爆等の戦果を受けて退役を無期限延長した。
フェアチャイルドは製造終了後に買収・分割を繰り返し最終的に航空産業から撤退したため、スペアパーツの供給などアメリカ軍へのカスタマーサポートはボーイングが受注している。ボーイングでは独自の機齢延長プログラムとして自社で新規製造した翼への交換を行っており、2017年までに173セットが納入される予定。

乗員:1名
全長:16.16m
翼幅:17.42m
全高:4.42m
翼面積:47m2
自重:9,760kg
運用重量:14,850kg
最大離陸重量:22,950kg
エンジン:GE製TF34-GE-100×2 ターボファンエンジン(A/Bなし)
エンジン推力:4,110kg×2
巡航速度:560km/h
巡航マッハ数:M0.45
戦闘行動半径:1,290km
フェリー航続距離:4,100km
実用上昇限度13,640m
上昇率:1,830m/min
武装
固定武装:GAU-8 30mm ガトリング砲×1(1,174発)
爆弾:GBU-10/12、Mk77、クラスター爆弾、ペイブウェイ、JDAM
ミサイル:AGM-65、AIM-9
ロケット弾

 

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