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有明フェリー 有明きぼう

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総トン数
758トン
全長
57.0m
全幅
12.8m


巡航速力
13.5ノット


車両積載能力(乗用車換算)
約67台
旅客定員
450名


設備
身障者用エレベーター、展望デッキ
就航日
平成26年4月1日
2014年(平成24年)2月竣工
前畑造船建造。

船内仕様は「有明みらい」と同一。第十有明丸の代替。船体には熊本県のキャラクター「くまモン」をはじめとして沿岸自治体のゆるキャラがあしらわれ、中間部には国道389号線の海上区間を表すマークが表示されている。

有明フェリー(ありあけフェリー)利用状況は、長崎自動車道、九州自動車道から離れている島原半島の住民にとっては、福岡・本州方面への重要な足の一つとなっている。有明海の北側の比較的穏やかな内海を航行するフェリーということもあり、就航率90%以上を誇っている

有明フェリー:本社所在地 日本
〒859-1311
長崎県雲仙市国見町土黒甲2-28
設立 1956年(昭和31年)9月19日
業種 海運業
法人番号 1000020428566
外部リンク http://www.ariake-ferry.com/

他交通機関との接続
長洲町側では、最寄りのJR九州長洲駅と2.2km以上離れており自動車でも10分ほどを要し、また産交バスの路線本数も少ない。なお、一部の便に接続する形で長洲駅とを結ぶ予約制乗合タクシーを運行している。
一方、多比良港側ではバス停が至近に存在するほか、島原鉄道線「多比良町駅」まで徒歩5分程度である。
1968年(昭和43年)から1997年(平成9年)まで、長崎 - 熊本間の特急バス「ありあけ号」がこの航路経由で運行されていた。
その他
冬場にはカモメが乗客からの餌を求めフェリーに群がり、乗客による給餌も盛んに行われている。フェリー内の売店でも餌として『かもめパン』販売している。また、運が良ければ船上からスナメリを観察することができる。

昭和
1956年(昭和31年) : 有明海自動車航送船組合設置。
1958年(昭和33年) : 多比良 - 長洲航路の運航開始に伴い「有明丸」が就航(6往復)。
1959年(昭和34年) : 「第二有明丸」が就航し二隻体制となる(10往復)。
1967年(昭和42年) : 「第三有明丸」が就航し三隻体制となる(14往復)。
1968年(昭和43年) : 長崎市-熊本市を結ぶ特急バス「ありあけ号」運行開始。
1971年(昭和46年) : 「第五有明丸」が就航し4隻体制となる(24往復)。
1977年(昭和52年) : 「第六有明丸」が就航。
1985年(昭和60年) : 「第八有明丸」が就航。
1988年(昭和63年) : 「第十有明丸」が就航。
平成
1994年(平成6年) : 「サンライズ」が就航。また多以良港に新ターミナルビルが完成。 
1996年(平成8年) : 長洲港に新ターミナルビルが完成。
1997年(平成9年) : ありあけ号運行休止。
2000年(平成12年) : 運航効率改善のため長洲港に二層式可動橋が完成。従来の4隻体制から3隻体制での運航が可能となる。
2001年(平成13年) : 多比良港に二層式可動橋が完成。
2012年(平成24年) :「有明みらい」が就航。

過去に運航していた船舶
有明丸
1958年(昭和33年)就航。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、聖火輸送の大役を担った。
第二有明丸
1959年(昭和34年)就航。
第三有明丸
1967年(昭和42年)就航。就航時は一層甲板だったが、1973年に輸送力増強のため二層甲板化改造を実施。
第五有明丸
1971年(昭和46年)就航。後に第三有明丸と同様に二層甲板化改造を実施。
第六有明丸
1977年(昭和52年)就航。就航当初より二層甲板を装備。
第七有明丸
1980年(昭和55年)就航。車両甲板を改良し、従来の船では不可能だった大型トレーラー等の輸送に対応。
第八有明丸
1985年(昭和60年)3月竣工。722総トン、全長57.3m、幅12.8m、2,600馬力、最大速力14.6ノット、林兼造船建造。
旅客定員470名。車両積載数:75台(乗用車換算)
第十有明丸
1988年(昭和63年)2月竣工。721総トン、全長57.0m、幅12.8m、2,600馬力、最大速力14.7ノット、林兼造船建造。
旅客定員470名。車両積載数:75台(乗用車換算)

 

 

 


県庁前駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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県庁前駅(けんちょうまええき)は、沖縄県那覇市久茂地一丁目にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は7。シンボルカラーは黄土色。
国際通りに近く、沖縄の経済・行政の中心。沖縄県庁および那覇市役所の最寄り駅である。計画当時の仮称は「御成橋駅(おなりばしえき)」であった。

駅構造
島式ホーム1面2線。エスカレーター・エレベーターあり。パレットくもじに直結している。

のりば
県庁前駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 牧志・おもろまち・首里方面
2 小禄・那覇空港方面

駅設備
定期券発売所
売店 - 現在はなし。(改札内に以前設置されていたが2004年3月閉店)
コインロッカー
パレットくもじ(2F)との連絡通路上に設置(スーツケース用の大型あり)
改札内にも設置


公衆電話 - 改札外に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札外に2台(内1台は車椅子対応)、改札内に1台、ホームに2台設置。
トイレ - 改札内に設置。


駅周辺
駅名が示すように沖縄県庁の最寄り駅であるとともに、沖縄県庁に隣接する那覇市役所の最寄り駅でもあり、那覇市のみならず、沖縄県の経済・行政の中心ともいうべき地域である。駅の南側約80mにある県庁北口交差点から東進すると国際通りに入る。

交通(タクシー)
駅前にタクシー乗り場
パレットくもじ前広場にベロタクシー(自転車タクシー)が待機
公共機関・公共施設
沖縄県庁舎
県庁前県民広場
那覇市役所
沖縄県警察本部
教育機関
那覇市立開南小学校
沖縄県立那覇商業高等学校
金融機関
みずほ銀行那覇支店
沖縄銀行本店
琉球銀行本店
コザ信用金庫那覇支店
郵便局
美栄橋郵便局(ゆうちょ銀行那覇支店併設)
店舗
パレットくもじ デパートリウボウ
わしたショップ本店
娯楽施設
シネマパレット(映画館)
観光
国際通り
福州園 徒歩約6分
放送局
沖縄テレビ放送
琉球放送
琉球朝日放送
道路
国道58号
沖縄県道39号線(国際通り)
沖縄県道42号線

駅進入時の車内チャイムは、琉球民謡の「てぃんさぐぬ花」を編曲したもの[3]。
開業当時の1日乗車券の券面の写真は当駅付近を撮影したものである。ただし、沖縄銀行の屋上に設置された看板や國場ビルの屋上看板にある「國場組」「日本航空」の文字やロゴ等は消されていた。後にゆいレールのイメージイラストを経て現在はQRコードつきの通常の切符のレイアウトに準じたものになっている。

 

歴史
2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅番号 7
所属事業者 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線
キロ程 5.91km(那覇空港起点)
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 5,822人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日

海軍司令部壕

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海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されている。沖縄県豊見城市と那覇市の市境に位置する。

設営:1944年(昭和19年)、太平洋戦争において日本軍の敗色が濃厚となり戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになった。沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見下ろす標高74mの火番森あるいは七四高地と呼ばれる丘が選定された。


司令部壕は1944年8月10日に着工されたが、本格的な工事は10月10日の十・十空襲以降に始められ同年12月に完成した。海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、ほとんどの工事はつるはしなどを用いた手作業で行われた。小禄地区周辺にはこの他にも多数の防空壕が建設され多くの住民が動員されたが、海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず工事は軍隊の手のみによって行われている。

枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されている。坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡が残されている。


作戦室:7.5m2 の広さがあり作戦を立てるために使われた。幕僚室:10m2 の広さがあり幕僚が手榴弾で自決した痕跡が残されている。司令官室:壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されている。暗号室:17m2 の広さがあり、ここから約2,900通の電報が発信された。医療室:7.5m2 の広さがあり負傷兵用の2段ベッドが置かれていた。下士官室、兵員室:壕内に2ヶ所、それぞれ13m2 の広さがあり兵士が休息するために使われた。戦闘が激化した時期には壕内に4,000名もの兵が集まり坑道も事実上の兵員室となっていた。このような中で多くの兵士は立ったまま睡眠を取る有様であった。発電室:壕内に3ヶ所、それぞれ5m2 の広さがあり発電機が置かれていた。

戦闘:1945年(昭和20年)1月20日、佐世保鎮守府から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになった。
アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まった。3月31日午前8時には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まった。5月11日、大田司令官は壕内生活で注意すべき教訓を電報にて報告している。
5月半ばになるとアメリカ軍は那覇市街地に迫り、首里付近に集結していた陸軍は5月22日に沖縄本島南端部への撤退を決め、小禄司令部壕を守っていた海軍もこれに合流するため武器の一部を廃棄して5月26日から移動を開始したが、命令の行き違いがあり5月28日に小禄司令部壕へ引き返している。6月に入ってアメリカ軍の攻撃が激しくなったため陸軍との合流は断念せざるを得なくなり、海軍は司令部壕付近に孤立する状況となった。


6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。大田司令官は6日夕方に辞世の句とともに訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜には「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中で壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵による突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられている。13日午前1時、大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。

戦後:1953年(昭和28年)3月、戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様であった。壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された。1958年(昭和33年)には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立された。
1970年(昭和45年)3月1日、壕内の内の長さ300mの区域が復元され、旧海軍司令部壕として一般に公開されるようになった。そして、1972年(昭和47年)には周辺の6.5haが海軍壕公園として整備されている。
現在:沖縄県から当公園の運営管理を財団法人沖縄観光コンベンションビューローに委託している。最近では、近くに滑り台等の遊具が設置されており、地域住民の憩いの場として親しまれている。また高台に位置している為、那覇市内などの夜景が見えるスポットである。

面積 6.5ha
開園 1970年3月1日
建築家・技術者 Naval Ensign of Japan.svg 大日本帝国海軍
運営者 財団法人沖縄観光コンベンションビューロー[1]
年来園者数 165,714人(2010年度)[2]
現況 年中開放
設備・遊具 旧海軍司令部壕など
駐車場 有り
事務所 海軍壕公園管理事務所
事務所所在地 沖縄県豊見城市豊見城236番地
公式サイト 旧海軍司令部壕

皆実町六丁目停留場 広島電鉄(宇品線・皆実線)

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皆実町六丁目停留場(通称:皆実町六丁目電停)は、広島市南区皆実町三丁目・五丁目・六丁目にある広島電鉄宇品線・皆実線の路面電車停留場。両線の乗り換え電停である。

電停周辺には御幸橋、JTサンダーズの本拠地でもある猫田記念体育館 、2008年開業のショッピングセンターゆめタウン広島(元々は、旧専売局・現日本たばこ産業(JT)広島工場があった)があります。

宇品通りと千田通りが交差する皆実町交差点の南・北・西に線路が延び(南と西が宇品線、北が皆実線)、交差点の北側と西側にそれぞれ相対式2面2線のホームを有する。西側(皆実町六丁目に所在)が宇品線ホーム、北側(皆実町三丁目および皆実町五丁目に所在)が皆実線ホームである。

三方向の線路は相互に接続し、デルタ線を形成している。日中は本電停に発着する電車はすべて広島港あるいは宇品二丁目始発・終着のため、西⇔北方向の線路は営業運行では使用されないが、千田車庫から回送されて本電停始発・終着の5号線となる電車が存在しており、回送線としては毎日使用される。また、臨時系統として広島駅 - 比治山下 - 皆実町六丁目 - 鷹野橋 - 八丁堀 - 広島駅の循環線が運行された実績もある。

運行路線
宇品線(西行き)ホーム 0号 広電前ゆき
1号線 (紙屋町東経由)広島駅ゆき
3号線 西広島ゆき
宇品線(東行き)ホーム 1号線3号線 広島港ゆき
3号線 宇品二丁目ゆき
皆実線(南行き)ホーム 5号線 広島港ゆき・宇品二丁目ゆき
5号線 当電停止まり
皆実線(北行き)ホーム 5号線 比治山下経由広島駅ゆき
1号線でも5号線でも広島駅へ行けるが、5号線のほうが所要時間が短い。

1935年(昭和10年)12月27日 - 路線移設に伴い、皆実町電停として開業
1944年(昭和19年)12月27日 - 皆実町三丁目に改称
1945年(昭和20年)
8月6日 原爆投下により、運行休止
8月18日 電鉄前 - 向宇品口が複線で復旧
戦争直後、専売局前電停となる(時期は不明)
1948年(昭和23年)7月1日 皆実線の運行を再開
1949年ごろ - 専売公社前に改称
1962年ごろ - 再度、皆実町三丁目に改称
1971年(昭和46年)5月1日ごろ - 現在の皆実町六丁目に改称
2008年(平成20年)10月ごろ - 皆実線ホームが改修される。

所在地 広島市南区皆実町三・五・六丁目
北緯34度22分27.12秒 東経132度27分50.61秒
所属事業者 広島電鉄
駅構造 地上駅
ホーム 各2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■宇品線
駅番号 U9
所属路線 ■皆実線
駅番号 H9

 

箱崎駅 JR九州)鹿児島本線

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箱崎駅(はこざきえき)は、福岡県福岡市東区筥松(はこまつ)二丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅である。


通常時は各駅停車しか停車しないが、毎年9月中旬の放生会(一般には「ほうじょうえ」だが、筥崎宮では「ほうじょうや」と読む)期間中には快速列車も臨時停車する(夕方 - 夜間のみ)。

駅名の由来は開業当時の地名(糟屋郡箱崎町)が由来。「崎」は「岬」を意味し、古くから多々良川の河口で栄えた港町であった。また「箱崎」は天皇や皇族との縁の深い土地で、かつて応神天皇の胞衣を納めた筥を埋めた事から「筥崎」と言う地名になり、それが「箱崎」に転化したと言う。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の計2面3線、どちらも12両編成対応のホームを有する。駅舎は曲線を多用した斬新なデザインの高架駅である。

基本的には、1番のりばを千早・折尾・小倉方面、3番のりばを博多・南福岡・鳥栖方面が使用しており、2番のりばは特急列車や回送列車の待避に使われている。
直営駅で、みどりの窓口が設置されている。

切符売場には仕様違いのタッチパネル式自動券売機・自動改札機を備え、SUGOCAの使用が可能である。

オープンカウンター式のみどりの窓口がある。改札口には改札機は3台。頭上にLED式の発車案内が設置されています。
JRの特定都区市内制度における「福岡市内」の駅である。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 ■鹿児島本線 上り 赤間・小倉・門司港方面
2 待避線


3 下り 博多・二日市・久留米方面
2番のりばは待避の他に、博多駅発着の特急列車の折り返しにも用いられる(吉塚駅の引上げ線が3本しかなく、繁忙期を中心に満線になることが多いため)。

駅周辺は九州大学を中心に発展した古くからの市街地であり、大規模商業施設は存在しない。近年では区画整理が進んで高層の集合住宅も目立つようになっています。
移転前は筥崎宮のちょうど裏手にあったが、移転で遠のいた。逆に九州大学箱崎キャンパスへは近くなっている。

2002年12月1日、下り線が高架化された際に約440m香椎駅寄りへ移転した。これにより博多駅からの営業キロが2.8kmから3.2kmとなったため、当駅と博多駅の間では初乗り運賃が適用されなくなり(初乗り運賃の適用範囲が営業キロ3kmまでのため)値上げとなった。


1890年(明治23年)9月28日 - 九州鉄道(初代)が開設。
1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が国有化され帝国鉄道庁が所管。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。


2002年(平成14年)12月1日 - 下り線が高架化され箱崎駅が約440メートル香椎側に移転(上り線は仮ホーム)
2004年(平成16年)3月13日 - 上り線高架化され高架事業完成。
2008年(平成20年)3月15日 - ダイヤ改正により当駅終着の普通列車が2本新設される。
2009年(平成21年)3月1日 - ICカードSUGOCAの利用を開始。

 

所属路線 鹿児島本線
キロ程 75.0km(門司港起点)
電報略号 ハキ
駅構造 高架駅
ホーム 2面3線


乗車人員
-統計年度- 2,604人/日(降車客含まず)
-2000年-
開業年月日 1890年(明治23年)9月28日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
福 福岡市内駅
* この間に千早操車場有り。

 

大塚駅前停留場 東京都交通局

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大塚駅前停留場 東京都交通局

 

JR大塚駅前停留所に東京都交通局の都電荒川線が乗り入れ、接続駅となっている。駅名は大塚であるが、文京区大塚ではなく、豊島区南大塚に位置する。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。
JR高架下、大塚駅の巣鴨方、ガード下いっぱいに停留場が設けられている。同駅の南口・北口双方から当停留場に至ることが可能で、事実上JRの駅の自由通路を兼ねている。このホームを経由して大塚駅の南北を移動する人も多い。
西側の線路に上り(三ノ輪橋方面)、東側の線路に下り(早稲田方面)の電車が発着する。駅の向原方には渡り線があり、大塚駅前止まりの電車がこれを用いて転線する様子を見ることができる。当駅折り返しとなる列車も設定されています。下りホームの北端近くに窓口があり、定期券などを販売している。

東京都電の大塚駅前停留場としては、現存する荒川線の他に、春日、上野広小路方面への路線の停留場もあった。ただし、飛鳥山停留場の場合と異なり、現・荒川線とは線路は繋がっていなかった。
第二次世界大戦前はデパート、花街もあり賑わっていたため、大塚に地下鉄が乗り入れる予定であったが、大塚駅一帯は低地で、地下鉄を通す技術が難しかったこともあり、実現しなかった。その代わりとして、当初大塚駅を設置する予定であった南の高台に東京メトロ丸ノ内線の新大塚駅が開業している。

東京都交通局
1911年(明治44年)8月20日:王子電気軌道大塚駅(現・大塚駅前停留場)が開業。
1925年(大正14年)11月12日:東京市電大塚駅前電停が開業。
1942年(昭和17年)2月1日:王子電気軌道が東京市に買収され、市電大塚駅前電停に組み込まれる。
1971年(昭和46年)3月18日:大塚駅前 - 錦糸町間の都電(16系統)が廃止。現在は都営バスの都02系統が同じルートを通っている。
2007年(平成19年)3月18日:ICカード「PASMO」の利用が可能となる。

所属事業者 PrefSymbol-Tokyo.svg 東京都交通局
所属路線 都電荒川線
キロ程 8.9km(三ノ輪橋起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1911年(明治44年)8月20日

消防艇「ひまわり」

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消防艇とは、水上や沿岸において発生した火災の消火や災害への対応を行う船舶である。主に地方政府の消防組織や沿岸警備隊が保有している。
専用に設計された消防艇の多くは強力なポンプを備え、取り込んだ水を船の高い位置に取り付けられた放水銃から放水することで火災消火を行なうが、その他にも救助専門艇や指揮専門艇、これらの兼用艇がある。積載する化学消火剤を放水に混ぜることで石油火災に対処するものもある。

消防艇「ひまわり」は平成27年3月に配備されました。また同船は、スクリューではなくウオータージェットで進むため、沿岸の浅い地域など活動領域も広がった
 小倉北消防署浅野分署に消防艇基地を置き、北九州市の200キロメートルを越える沿岸地域一帯の安全災害に備えています。


 消防艇には、化学消火装置や水中探査カメラや救難用ジェットスクーターも装備しており、水難事故発生時には、水難救助隊とともに活動を行います。

新消防艇は、全長約20メートル、総トン数19トンで、これまでの「ひまわり」よりも少し小さい船体となりましたが最大速度は43.3ノット。これまでの倍以上のスピードが出るほか、放水砲や計器類、水中ソナーなど各装備も最新のものとなりました。
最大定員は18名。海上での救難や救急、防災等、北九州市の海と島の安全安心を守る。

整備費は2億6000万円

肥前鹿島駅(JR九州)長崎本線

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肥前鹿島駅(ひぜんかしまえき)は、佐賀県鹿島市大字高津原にある、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線の駅である。所在地鹿島市の代表駅。

島式ホーム1面2線を持つ駅。一見、全コンクリート造に見えるが後方に古い木造駅舎の地上駅である。ホームと改札口は線路の下を介してつながっている。

従来エレベーター、エスカレーターは設置されていなかったが、2013年3月にエレベーターが設置された。


特急を含む全列車が停車するため一線スルー式配線にはなっておらず、原則として左側通行である。但し折り返し列車もあるため、肥前竜王方から見て右側にも入線できる。最終の下り普通列車の多良行きは右側に入線した後、同じく最終の下り特急「かもめ49号」を先行させた後に発車する。

ステップ付きの783系電車が入線していた名残でホームのかさ上げは行われていなかったが、エレベーター設置と同時にかさ上げされ、バリアフリー対応となった。
佐賀鉄道部が管理する業務委託駅で、JR九州鉄道営業が受託。みどりの窓口が設置されている。自動券売機はあるが、自動改札機は設置されていない。

改札口を出た右側に売店、待合室、自動販売機を備え、駅舎の外にはトイレ、駐車場、タクシー乗り場がある。
待合室は広く多数木製の長椅子が設置されています。

のりば
ホーム 路線 方向 行先
1 ■長崎本線 上り 肥前山口・佐賀・鳥栖・博多方面


2 下り 多良・肥前大浦・諫早・長崎方面
ホーム上屋の支柱は祐徳稲荷を模して上屋の支柱はは朱色に塗られています。

駅周辺
鹿島市の中心市街地の北端部に位置しており、当駅の南側・西側に市街地が広がる。
祐徳バス鹿島バスセンター - 駅向かい。
国道207号 - 駅のすぐ西側を長崎本線に並行して通る。


鹿島郵便局
鹿島市役所 - 約1km南側。
鹿島市民図書館 - 同上
旭ヶ岡公園(鹿島城) - 約1km南西側。
佐賀県立鹿島高等学校 - 同上
佐賀県立鹿島実業高等学校 - 同上
祐徳稲荷神社は当駅からバスまたはタクシー利用となる(位置としては肥前浜駅のほうがやや近い)。


1930年(昭和5年)11月30日 - 鉄道省が開設。 鹿島駅と区別するため肥前鹿島となった。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。


2013年(平成25年)3月1日 - 駅舎内のバリアフリー化。
2016年(平成28年)4月1日 - 肥前鹿島駅長廃止。業務委託化。

所属事業者 九州旅客鉄道(JR九州)
所属路線 長崎本線
キロ程 54.6km(鳥栖起点)


電報略号 ヒカ←カシマ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 1,211人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1930年(昭和5年)11月30日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 


JR御茶ノ水駅 東日本旅客鉄道(JR東日本)中央総武線・丸ノ内線

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JR御茶ノ水駅(おちゃのみずえき)東日本旅客鉄道(JR東日本)の所在地はJR東日本が千代田区神田駿河台二丁目、神田川(外堀)南側(千代田区側)にJR東日本の駅が、北側(文京区側)に東京メトロの駅がある。

駅名の御茶ノ水、古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。

JR東日本の駅は、当駅の所属線である中央本線と、当駅を終点とする総武本線(支線)との分岐駅となっている。中央本線の当駅以西(新宿方面)は急行線(快速線)と緩行線との複々線区間である。急行線には東京駅発着の中央線快速電車が、緩行線には総武本線(錦糸町駅方面)と直通運転を行っている中央・総武線各駅停車が乗り入れる。ただし早朝・深夜帯は、東京駅発着で中央緩行線に乗り入れる各駅停車も運行される。
またJR東日本の駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」、類似の制度である「東京山手線内」に属している。

中央線快速の駅番号は「JC 03」である。中央総武線各駅停車の駅番号は「JB 18」である。丸ノ内線の駅番号は「M 20」である。

現在の中央本線の新宿 - 八王子間は、私鉄の甲武鉄道が建設した。その後甲武鉄道は東京市街地中心部への路線延長を図り、1895年(明治28年)4月3日に飯田町駅まで蒸気機関車による運転で開通した。この飯田町駅は飯田橋駅よりも東側にあった駅で、後に貨物駅となり1999年(平成11年)に廃止となった。さらに甲武鉄道は、列車運転本数の増加を図るとともに、蒸気機関車の運転による音や煤煙の公害を軽減する目的もあって、路線の電化を行って電車の運転を開始し、路線の市街地方面へのさらなる延長を行った。こうして1904年(明治37年)12月31日に飯田町から御茶ノ水までの路線が当初から複線電化で開通し、御茶ノ水駅がこの際に開業した。御茶ノ水 - 中野の間で1日28往復、新宿までは10分間隔の運転であった。当初の御茶ノ水駅は現在地よりも新宿寄り、御茶ノ水橋を挟んで反対側にあった。当時の駅舎の跡地には神田警察署お茶の水交番が所在している。駅舎は洋風木造平屋建て、またプラットホームは相対式ホーム2面2線であった。
この区間の建設に当たっては、東京市区改正委員会から道路への影響を避けるように求められ、結果として外濠の内側を走る経路が選択された。また土手や崖地の景観をできるだけ保全するように求められ、さらに湧水にも苦しめられる難工事となった。こうした条件から、御茶ノ水駅は神田川と崖が迫る狭隘な場所に建設される結果となった。
甲武鉄道はさらに御茶ノ水駅より東側の区間の建設を進めていた。しかし1906年(明治39年)10月1日に鉄道国有法により甲武鉄道は国有化され、御茶ノ水駅は国有鉄道の駅となるとともに、御茶ノ水駅より東への延長工事も国鉄へ引き継がれた。1908年(明治41年)4月19日に昌平橋駅までが開通して、当駅は中間駅となった。また同年10月12日に国有鉄道線路名称が制定されて、御茶ノ水駅が所属する路線は中央本線と命名された。


総武本線の乗り入れ工事
1923年(大正12年)9月1日には関東大震災に見舞われ、御茶ノ水駅は駅舎が一部焼失する被害を受けた。しかしこれは応急復旧されてそのまま使用された。また神田川に面した崖が大規模に崩落し、この箇所を復旧した形跡は2010年代に入ってもなお残されている。
それまであまり輸送量の大きな路線ではなかった中央本線は関東大震災後、復興資材となる砂利の輸送が拡大し、通勤輸送についても輸送量が急増した。さらに失業対策事業の一環もあって、大正末期に御茶ノ水 - 中野間の複々線化工事に着手することになった[7]。またこの頃、総武本線は両国駅が起点だったため、旅客はバスに乗り換えて他の路線の駅に向かわなければならなかった。総武本線を市街中心地まで延長して他の路線と連絡させる計画は古くからあったが、関東大震災で市街地が焼失したことを契機とする区画整理の一環として線路用地を買収し、両国と御茶ノ水を結ぶ高架路線を建設することになった。
この工事に伴い、御茶ノ水駅はそれまでの所在地より東側の、お茶の水橋と聖橋の間に移転した。出入口は御茶ノ水橋と聖橋の双方のたもとに設けられた。プラットホームは島式ホームを2面設置して、両国と連絡する総武本線の線路を内側、中央本線の線路を外側にした方向別配置とした。総武本線の線路は御茶ノ水を出ると、33パーミルの上り勾配で登って中央本線の上り線を跨ぎ越す構造とされた。総武本線は中央本線の緩行線・急行線の双方ともに連絡でき、かつ折り返しもできる配線とされた。プラットホームは完成時点では全長152.2メートル、幅は川側の中央本線上り・総武本線下りホームが6.5メートル、山側の総武本線上り・中央本線下りホームが5.8メートルとなった。
工事は、中央本線の電車が行き交う脇で、しかも駿河台の民家に近接して高さ12メートルにおよぶ擁壁を構築する必要があるなど、困難なものとなった。施工は大倉土木(現在の大成建設)が請け負った。総武本線側の工事が完成して1932年(昭和7年)7月1日から御茶ノ水駅に総武本線の電車が乗り入れを開始し、続いて1933年(昭和8年)9月15日に御茶ノ水 - 飯田町間の複々線化工事が完成して中央線急行電車(現在の中央線快速)が運転を開始した。
総武本線の乗り入れ工事に合わせて、2代目の御茶ノ水駅舎の建築が行われた。この頃の建築界では、過去の様式にとらわれずに新しい建築材料にもっとも適した建築をしようというウィーン分離派(ウィンナー・セセッション)の動きが出ていた。そして鉄・ガラス・コンクリートといった材料を使って、無装飾で実用本位な建築を行うインターナショナル・スタイルが誕生し、日本においてもこうしたモダニズム建築の動きが見られるようになった。こうしたモダニズム建築の様式による駅舎の設計を行ったのは、東京帝国大学建築学科を卒業して鉄道省に入省した、建築家の伊藤滋であった。設計に際しては、湯島聖堂の近くにあるから東洋趣味を重んじたものにするように、との外部団体からの要望も寄せられたが、伊藤はこれを一蹴し、震災復興橋梁として先に完成していた聖橋(1927年完成)、御茶ノ水橋(1931年完成)との調和を重視した設計を行った。それまでの駅はいったん乗客を待合室に滞留させてからプラットホームへ導くものであったが、伊藤は駅は道路の一部であるとして旅客流動を重視した設計を行い、やってくる乗客を次々に捌く新しい電車時代の駅を設計した。これは駅舎設計の根本的な転換で、以降の通勤電車の駅の設計の基本となった。これ以降、乗降客数は比べ物にならないほど増加したものの、御茶ノ水駅はその機能を果たし続けている。

国鉄分割民営化直後、JR東日本では1988年(昭和63年)に御茶ノ水駅の改築計画を打ち出した。従来の単なる通過点としての駅から、人々が楽しみ、最新の情報が得られる多様なサービス機能を備えることが必要であるとして、「都市型未来志向のモデル駅」として、事業費65億円、賞金2000万円の公開コンペを1989年に実施した。252点の応募があり、ゼネコンの応募した作品が最優秀に選ばれた。最優秀賞の設計は、3階建て延べ床面積約11,000平方メートルで、1階は列柱とアーチのコンコース、2階には水族館とホール、3階には美術館を備えるものであった。しかしその後、列車の運行を止めずに工事を進めるには上部を支える強い支柱が必要で技術的に難しいといった理由からJRはチームを解散し、改築計画は自然消滅となった。
改築計画の消滅により、1932年に完成した駅構造がそのまま21世紀まで使い続けられることになった。駅が神田川と駿河台に挟まれた狭隘な場所にあるという構造上・立地上の問題からバリアフリー対応が十分に行われず、車椅子用のリフトは設置されているが、エレベーターやエスカレーターは設置されていないままであった。周辺に大学病院などの大規模な病院が数多く立地し、外来で通院する高齢者などから苦情が寄せられていたため、2002年に周辺の8病院が連名でJR東日本にバリアフリー対応の要請を行い、また、2006年12月下旬からエレベーターとエスカレーターの設置を求める署名運動が行われて、2008年に約1万2000人分の署名を千代田区長に提出して対策推進を要望した。
これに対して、JR東日本は長らく費用面から及び腰であったが、2010年3月26日に、当駅で2010年度末からバリアフリー整備を行うことがJR東日本より発表された。また同日千代田区もJR東日本と連携して駅前広場の整備事業を行うことを発表した。その内容は、線路上空に人工地盤を設置し、改札内に連絡通路を新設し、御茶ノ水橋口駅舎および聖橋口の駅前広場機能の整備を行う。また、聖橋口駅舎を人工地盤上に移設してエレベーターやエスカレーターなどを設置することによりバリアフリー整備を行うものであった。これには、聖橋口前での旧日立製作所本社ビル(御茶ノ水セントラルビル)跡地での大型複合ビル建設など、病院の町としてだけでなく新たなオフィスビルの集積を目指した都市改造プロジェクトが進められていることから、新たな客層獲得がJR東日本の改修工事着手を後押しすることになったと推測されている。
今回の計画は、当駅が狭い場所に立地していることから非常に難易度の高い大規模な工事になり、それに伴い列車の運行を変更する可能性もあるという。2010年度内に概略設計や関係者との調整を行い、同年度末の工事着手を目指して検討が進められる。2013年の秋以降は、駅構内や周辺の耐震補強を含めた本格的な駅改良工事へ入り、バリアフリー整備関連は2018年度まで、駅前広場機能整備は2020年度の完成を目標としている。
JR中央線は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに快速電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため快速電車が発着する1・4番線は、今後12両編成の列車が停車できるようにホームを延長する工事が実施される。


島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。御茶ノ水橋と聖橋の間にホームがあり、それぞれの橋の南側に出口がある。それぞれ御茶ノ水橋口と聖橋口と称する。駅本屋は御茶ノ水橋側(水道橋側)にある。さらに聖橋口より東側(秋葉原側)に平日の朝のみ機能している出口専用の臨時改札口がある。高台の擁壁と神田川の間に線路が敷かれているため、ホームの幅が非常に狭い。トイレは御茶ノ水橋口と聖橋口の改札口内にあるが、ともに多機能トイレはない。
御茶ノ水橋口駅舎は、1932年(昭和7年)7月の総武本線乗り入れに合わせて使用開始された、伊藤滋設計によるモダニズム建築であり、それまでの乗客を待合室に滞留させてからプラットホームに導く駅から、旅客流動を重視して次々に乗客を電車に流し込む、新しい通勤電車の駅のスタイルを初めて確立した[13]。西側の聖橋口駅舎は大きく改築されており原形を留めていないが、御茶ノ水橋口駅舎は建設以来大きく手を入れられていない[31]。しかしバリアフリー対策工事に2013年度から着手することになっていることは前記した。
外側2線を中央線快速が、内側2線を中央・総武線各駅停車がそれぞれ使用し、同じ方向の列車を同じホームで乗り換えできる、方向別複々線となっている。これを実現するために御茶ノ水駅の前後に立体交差が設置されている。並走する三鷹 - 御茶ノ水間のうち同方向であれば、階段を使わずに乗り換えが可能な唯一の駅である。
当駅を境に中央線と総武線の各駅停車の列車が相互直通運転を行う。ただし、早朝と深夜は中央線・総武線は分離して運転を行う。総武線は当駅で折り返すが、中央線は当駅の水道橋方で快速電車が走る急行線と緩行線との間を転線して東京駅発着で運転され、快速用のE233系電車が使用される。総武線の上り列車は2番線に到着し、そのまま中央緩行線下り本線に引き上げ、その後3番線に入線して総武線下り列車となる。この時間帯には、千葉方面から新宿・中野・三鷹方面、その逆の三鷹方面から錦糸町・津田沼・千葉方面へ行く場合は、どちらも当駅での乗り換えが必要となる。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 JC 中央線(快速) 下り 新宿・立川・高尾方面 立川駅から JC 青梅線へ直通
(青梅方面行の列車)
2 JB 中央・総武線(各駅停車) 西行 新宿・中野・三鷹方面 早朝・深夜は1番線
3 東行 錦糸町・船橋・千葉方面 早朝・深夜は当駅始発
錦糸町駅で JO 総武線(快速)との接続あり
4 JC 中央線(快速) 上り 東京方面

年表
1904年(明治37年)12月31日 - 当駅 - 飯田町駅間開通と同時に甲武鉄道の駅として御茶ノ水橋の新宿寄りに開業。旅客営業のみ。
1906年(明治39年)10月1日 - 鉄道国有法による甲武鉄道の国有化に伴い、官設鉄道の駅となる。
1908年(明治41年)
4月19日 - 昌平橋駅 - 当駅間が開通。
10月12日 - 国有鉄道線路名称制定により、中央本線の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により駅舎の一部が焼失したが、応急復旧して継続使用。御茶ノ水付近は崖の崩落を含む施設被害を受ける。
1932年(昭和7年)7月1日 - 現在地に改築移転。両国と結ぶ総武本線が乗り入れ。
1933年(昭和8年)9月15日 - 御茶ノ水 - 飯田町間複々線化完成、中央線急行電車(現在の中央快速線)運転開始。
1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道発足。
1954年(昭和29年)1月20日 - 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)丸ノ内線の駅が開業。
1968年(昭和43年)7月16日 - 22時30分頃、1番線において追突事故発生。
1972年(昭和47年)7月15日 - 総武快速線の開業に伴い、総武本線の起点駅から総武本線支線の終点駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により国鉄の駅はJR東日本の駅となる。同時に聖橋口の東側に出口専用の臨時改札口が開設される。開設当初は日曜祝日を除く8時00分 から9時15分のみ使用。
1993年(平成5年)11月4日 - 営団地下鉄の定期券うりばが東京駅構内へ移転のため閉鎖。代替措置として、継続定期券発売機を導入。
1999年(平成11年) - JR東日本の駅が関東の駅百選に選定される。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本で交通系ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2004年(平成16年)4月1日 - 営団地下鉄民営化により、丸ノ内線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)の駅となる。
2007年(平成19年)3月18日 - 東京地下鉄で交通系ICカード「PASMO」の利用が可能となる。
2010年(平成22年)3月26日 - JR東日本と千代田区による、駅のバリアフリー化工事および駅前広場機能整備事業が発表される。

JR東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 チヤ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 104,890人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1904年(明治37年)12月31日
乗入路線 2 路線
所属路線 JC 中央線(快速)
(正式には中央本線)
駅番号 □JC 03
キロ程 1.3km(神田起点)
東京から2.6km
◄JC 02 神田 (1.3km)(4.0km) 四ツ谷 JC 04►
所属路線 JB 中央・総武線(各駅停車)*
駅番号 □JB 18
キロ程 4.3km(錦糸町起点)
千葉から38.7km
◄JB 19 秋葉原 (0.9km)(0.8km) 水道橋 JB 17►
乗換 新御茶ノ水駅(東京メトロ千代田線)
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅
* 正式な路線名称
- 秋葉原方は総武本線支線
- 水道橋方は中央本線

巡視船「くにさき」

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巡視船「くにさき」はくにがみ型巡視船です。

くにがみ型巡視船海上保安庁の巡視船の船級。区分上はPL(Patrol vessel Large)型、公称船型は1,000トン型。(実際には約1700トンある。広報等配布資料は約1500トン) 配置替えに伴ってネームシップが改名したことから、くにさき型とも呼ばれる。

しれとこ型以来、1,000トン型巡視船は代々、比較的低速の排水量型船型を採用してきた。しかし不審船事案や尖閣諸島問題対処の必要から、平成14・15年度では高速高機能大型巡視船(あそ型)、平成17年度以降は拠点機能強化型巡視船(はてるま型)と、いずれも警備能力を重視した滑走船型の高速船が建造された。
しかしこれらの高速巡視船は、高速航行時の運動性は優れていたものの、特にフィンスタビライザーの効果が落ちる低速・停船時の動揺が大きく、また船殻軽量化のため船型を切り詰めたために、船内容積や航続力の面で妥協した部分も多かった。一方、最初の1,000トン型巡視船であるしれとこ型は、昭和52年度補正計画より建造されたことから、2010年代において大量退役が予想され、代替が必要となっていたが、これらはいずれも汎用型であり、警備機能特化では不足が懸念されるようになっていた。このことから、平成21年度補正計画では、速力の要求を緩和した汎用型の巡視船2隻が建造されることになった。これが本型である。


これら2隻は1隻の建造費が74億円と高騰したことから、翌年度以降は、スペックダウンによって価格低減を図ったいわみ型に移行した。しかし2013年1月に、尖閣諸島の警備に専従する部隊の創設が決定されると、この任務にはいわみ型では機能的に不足であると判断されたことから、本型の建造を再開してこれに充当することとなった。平成24年度予備費および補正計画、更に平成25年度補正計画で、計16隻が追加建造される計画となった。この建造再開後の建造費は57億円まで低減された。

設計:本型は、船型は排水量型、船質は鋼(主船体は高張力鋼および軟鋼、上部構造物はアルミニウム合金)と、いずれも従来の方式に回帰している。また低速航行時の安定性改善のため、減揺装置としては、フィンスタビライザー1組とともに、上部構造物後方に減揺タンク(ART)を備えている。これらの施策により、乗員の負担は大幅に軽減された。なお船尾甲板は発着甲板(ヘリコプター甲板)とされており、ヘリコプターに対して電源や燃料を供給できる。
同世代の巡視船と同様に指揮機能の集約を図っており、船橋に機関管制盤2基を配置したほか、操舵室の後方にはOIC(Operation Information Center)室が配置され、通信区画や武器管制区画が設けられている。なお窓は防弾ガラス、囲壁も防弾仕様とされている。また操舵室の下には電気機器室(OAフロア)も設けられた。
主機関は、強力なV型12気筒ディーゼルエンジンを2基搭載しており、機種としては、PLHでも採用実績のあるSEMT ピルスティク社製12PC2-6V型(6,600 kW/8,900 hp)と考えられている。推進器は、やはり従来の方式に回帰して、スクリュープロペラが採用された。速力の要求は緩和されたとはいえ、それでも23ノットの速力は確保された。なお、高速高機能大型巡視船やはてるま型で不評だった舷側排気は廃止され、従来通りの煙突が復活している。

装備:主兵装は、赤外線捜索監視装置との連接によって目標追尾型遠隔操縦機能(RFS)を備えたJM61-RFS 20mm多銃身機銃とされた。また平成25年度補正計画で、尖閣専従部隊とは別枠の老朽更新用として整備される分(13番船以降)では、はてるま型と同様に、より本格的な射撃管制機能(FCS)を備えたブッシュマスターII 30mm単装機銃を搭載する予定である。また操舵室上には、これらの射撃指揮用に用いられる赤外線捜索監視装置とともに、遠隔監視採証装置も設置されている。
はてるま型と同様の高圧放水銃も搭載された。これは消防船「ひりゆう」が船橋上に装備しているものをもとに多少圧力を高めて使用しており、放水能力は毎分2万リットルに達する。消火用とともに非致死性兵器としての性格もある。


搭載艇としては、煙突の右舷側には高速警備救難艇を、左舷側と後方には複合艇を、それぞれ1隻ずつ搭載した。はてるま型では搭載艇を増やす必要から複合艇のみを積んでいたが、高速警備救難艇は複合艇よりも速度は劣るものの、救難用途の場合はかえって優れている場合もあることから、本型では高速警備救難艇も復活することになった。PL01「おき」及び02「えりも」においては救難仕様として小改正が実施されており、救難資器材庫が設置されているため、複合艇は1艇の搭載となる。

配備:平成21年度補正予算で2隻の建造予算が計上されたが、汎用性の追及により建造費が高騰したため、平成22年度補正予算、平成23年度予算、23年度第3次補正予算では、より安価ないわみ型の建造予算が6隻分計上された。当初は平成25年度予算概算要求でもいわみ型4隻が計上されていたが、尖閣諸島国有化以降の尖閣諸島海域における事態の緊迫化と領海侵犯の多発を受けて取り消され、平成24年度予備費で本型4隻、平成24年度補正予算で本型6隻の建造予算が計上された。さらに平成25年度補正予算でも6隻(標準型4隻、救難強化仕様2隻)の新規建造と、平成24年度予備措置船2隻の建造前倒しが認められている。
2016年2月24日のPL-89「あぐに」とPL-90「いぜな」の就役をもって、つがる型2隻と石垣港を拠点とする本型10隻の計12隻の尖閣領海警備専従体制が完成した。本型のうち6隻で複数クルー制を採用し、他船と合わせ12隻分の稼働率を確保し、大型巡視船14隻相当の勢力となる。
なお海上保安庁では船艇の番号について明確な規程がないことから、初期建造船と尖閣専従部隊向け、老朽更新向けとで、同型船の番号が3度も大きく飛ぶという異例の措置になっている。

計画年度:平成21年度
補正計画:番号PL-09
船名:(配属替えに伴い「くにさき」に改名)くにさき
建造:三菱重工業 下関造船所
所属:中城(第十一管区):転属:門司(第七管区)

基本情報
種別 1,000トン型PL
運用者 海上保安庁
就役期間 2012年 - 現在
前級 はてるま型
次級 いわみ型
要目
総トン数 1,700トン
全長 96.6メートル (317 ft)
全幅 11.5メートル (38 ft)
深さ 5.2メートル (17 ft)
主機関 ディーゼルエンジン×2基
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 25ノット以上
(公称では23ノット以上)
乗員 定員42名
兵装 20mm多銃身機銃×1基 (PL-09、10、81~90)
30mm単装機銃×1基 (PL-11~)
搭載機 ヘリコプター甲板あり、ハンガーなし
搭載艇 高速警備救難艇×1隻
高速複合警備艇×2隻(PL01及び02は1隻)
FCS RFS射撃指揮装置 (20mm機銃用)
レーダー 対水上捜索用、航海用
光学機器 遠隔監視採証装置
赤外線捜索監視装置 (RFS兼用)
その他 遠隔放水銃×1門
停船等表示装置

 

出雲ぜんざい

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ぜんざいの語源は主に2説ある。
1つは仏教用語である「善哉(ぜんざい・よきかな)」を由来とする説である。一休宗純が最初に食べたとされ、この食べ物の美味しさに「善哉」と叫んだ事から名称とされた。「善哉」とは仏が弟子を褒める時に使う言葉であり、サンスクリット語の素晴らしいを意味する「sadhu」の漢訳である。
もう1つは、出雲地方の神事「神在祭」で振る舞われた「神在餅」を由来とする説である。「神在餅」の「じんざい」が訛り、「ぜんざい」へと変化したと言われている。
出雲國に神在もちいと申事あり。京にてぜんざいもちいと申ハ。これを申あやまるにや。10月にハ日本國の諸神ミな出雲國にあつまり玉ふゆへに。神在と申なり。その祭に赤豆をにて汁をおほくし。すこし餅を入まいらせ節々まつり候を。神在もちい申よし。」(祇園物語より抜粋)

ぜんざい(善哉)は、豆(主に小豆)を砂糖で甘く煮た日本の食べ物である。
餅や白玉団子、栗の甘露煮などと共に供されることが多い。一般的には豆の原型が存在するものを指して用いられるが、例外もある。
関東地方では、汁気のない餡そのものをぜんざいと呼ぶが、関西地方では粒餡を用いた温かい汁物をぜんざいと呼ぶ 。汁気のない餡を用いたものは、関西では「亀山」や「小倉(おぐら)」と呼ばれる。

 出雲地方では旧暦の10月に全国から神々が集まり、このとき出雲では「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行われています。

 そのお祭りの折に振る舞われたのが「神在(じんざい)餅」です。その「じんざい」が、出雲弁(ずーずー弁)で訛って「ずんざい」、さらには「ぜんざい」となって、京都に伝わったと言われています。

 「ぜんざい」発祥の地は出雲であるということは、江戸初期の文献、「祇園物語」や「梅村載筆」(林羅山筆:儒学者)、「雲陽誌」にも記されています。

松江藩の地誌『雲陽誌(うんようし)』佐陀大社の項に「此祭日俚民白餅を小豆にて煮家ことに食これを神在餅といふ出雲の国にはしまる世間せんさい餅といふはあやまりなり」とあります。その他、いくつかの古文献にも「神在餅」についての記述があるところから当社は「ぜんざい発祥の地」であるといわれています。」と書かれており、実際に出雲地方の正月に食べる雑煮は小豆汁の雑煮であるなど小豆との関係が強い。神前に供えた餅自体が「善哉」であり、この餅を食べる為の小豆を使用した食事をも善哉と呼ぶようになったとする説。

BEC819系電車

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BEC819系電車(BEC819けいでんしゃ)は、九州旅客鉄道(JR九州)の近郊形交流用蓄電池駆動電車。「"D"UAL "EN"ERGY "CHA"RGE TRAIN」の頭文字をとった「DENCHA」の愛称がある。

JR九州が非電化区間で運行しているキハ40系等の気動車の経年置き換えを目的として開発した。世界初の交流方式による蓄電池電車となった817系改造の試作車による試験結果を踏まえ、実用化した量産車両として製作されるものであり、車体・接客設備は817系2000番台をベースとしつつ、305系からのフィードバックも行われている。
2014年11月に投入を公式発表、2016年1月29日に詳細が発表された。車体の塗装や内装デザインは他のJR九州の車両同様水戸岡鋭治が担当している。

車体は『人と地球の未来にやさしい』をコンセプトとし、817系をベースに305系で採用された電気式戸閉装置「スマートドア」(押しボタン式半自動ドア)や「マルチサポートビジョン」(大型液晶ディスプレイ)を導入しており。外装には817系2000番台の白色をベースに乗降扉に「地球をイメージ」した青色を配色しており、乗降扉の脇には817系と同様の「CT」のシンボルマーク(水色)と「819 DENCHA DUAL ENERGY CHANGE TRAIN」のロゴが青色で描かれている。編成記号はZが用いられている。1編成(2両)当たりの重量は70 t で、設計最高速度は120 km/h。
817系と同様のアルミ合金製車体で、前面は貫通形(クハBEC818形に貫通幌設置)であり、前照灯はLED化されており、817系1100番台以降と同じく大型のLED行先表示器を前面と側面に設置している。

主回路制御方式は817系と同じく交流回生ブレーキ付きの主変換装置(PWMコンバータ+VVVFインバータ)を搭載したVVVFインバータ方式を採用している。主回路の構成は架線からの交流20,000V 60Hzを主変圧器[注 2]を介して降圧した後にPWMコンバータで直流1600Vに変換し、その後にVVVFインバータで三相交流にして誘導電動機を制御するが、PWMコンバータとVVVFインバータの間には主回路用蓄電池と補助電源装置が繋がっており、両者とも直流1600Vの電力を使用している。コンバータとインバータ各1基で2基の主電動機を制御する1C2M構成を1群とし、それを2群としたものを主変換装置に搭載しており、1群に不具合が発生した場合には、それを切離して別の1群で運転ができる片群運転が可能となっている。
主電動機は保守性の向上と塵埃の浸入を防止を図るため、電動機内部を外気から遮断した全閉形外扇方式の三相かご型誘導電動機のMT404K(出力95kW/個×4)を採用しており、817系より出力を絞っている。


主回路用蓄電池は主回路用蓄電池箱に収められており、クハBEC818形にマンガン酸リチウムイオン電池CH75-6を搭載している。それを72個直列に接続されたモジュールを3並列とした構成としており、モジュール自体を1つの主回路用蓄電池箱にまとめて、それを3つ床下に搭載した「3バンク」の構成としている。各バンク入力部には電磁接触器を設置しており、バンク内の主回路用蓄電池に異常が発生しても、主変換装置からの指令により異常が発生したバンクの電磁接触器を開放することで、残りの正常なバンクでの運転継続が可能となっている。各バンクの主回路用蓄電池箱は、箱内の温度の均一化や冷却のため、箱にファンを搭載しており、817系の識別を目的に青色に塗装され、その上部に緑色表示灯を6つずつ装備して点灯させることで、夜間での識別を可能としている。搭載されている主回路用蓄電池の総容量は、定格電圧1600V(最大1814V)、定格容量383.6kWh(新製時点)となっており、817系試作車よりも高電圧大容量となっている。そのため、制御車の車両重量は817系よりも約7.5t増加しており、主回路用蓄電池が床下のスペースをほぼ占めているため、非常用空気タンクなどの機器配置を見直しており、817系で搭載されていた補助電源装置や電動空気圧縮機などはクモハBEC819形に搭載されている。その他にも、床上に設置されていた客室サービスや安全を損なうことがない機器類を連結側の車体妻面に配置した機器室に収納している。


主回路システムにおいては、「架線走行モード」と「蓄電地走行モード」の2つの走行モードがあり、架線走行モードでは、電化区間はパンタグラフを上げて、屋根上にある交流遮断機の真空遮断機(VCB)を入りの状態とするモード、蓄電地走行モードでは、非電化区間はパンタグラフを下げて、屋根上にある交流遮断機の真空遮断機(VCB)を切りの状態とするモードであり、ともに主回路用蓄電池は主回路に接続されている。電化区間では、架線走行モードとし、加速中は通常の交流形電車同様に架線からの給電により主電動機を駆動させ、惰力時ならびに減速時には、架線から設定された充電率に到達するまで、主回路用蓄電池に小電流での充電を自動的に行い、非電化区間では、蓄電地走行モードとし、主回路蓄電池からの給電により走行、減速時には回生ブレーキから発生した電力を主回路充電池に充電を行う方式となっており、非電化区間の走行後の電化された駅での停車中において、主回路用蓄電池に短時間で大容量の電力を供給する急速充電を行うことで充電時間の短縮を図ることが可能であり、10分間の充電で約90kmの走行が可能である。これにより、気動車からの置き換えにより動力費を5割削減することを目標とするという。
補助電源装置は出力80kVAの静止形インバータを採用しており、PWMコンバータで変換した直流1600Vの電力を三相交流440Vに変換して電力を供給している。電動空気圧縮機はメンテナンスの省力化を図るため吐出量が約700L/minのオイルフリーコンプレッサを採用している。


集電装置(パンタグラフ)は下げ定位の空気上昇式のシングルアーム式を採用しており、クモハBEC819形の屋根上に設置されている。設置されている部分を低屋根構造とすることで、狭小断面トンネルでも走行可能としており、パンタブラフの折り畳み高さ3980mmに抑えている。また、上部のすり板を4枚とすることで、架線からの急速充電中において、すり板1枚当たりに流れる電流値を抑制している。
台車は空気ばね式のボルスタレス台車であるDT409K(制御動力車)・TR409K(制御車)であり、車輪直径等の寸法・歯車比は817系のDT404K・TR404Kと同じである。前者は電動機の形式変更に伴って電動機の取付け部分の構造が変更されており、後者は制御車の床下に大容量の主回路蓄電池箱を搭載したことによる重量増(約7.5t)となったため、軸箱支持装置に電動車用の円錐積層ゴム式に変更されており、台車枠に取付けられている差圧弁やユニットブレーキも電動車用のものが使用されている。
ATSは新製時から、JR九州が2011年頃から設置を進めているATS-DK形を装備。ATS-SK形の機能に加えて、省令に基づくパターン連続照査に対応した形になっている。

運転台の主幹制御器(マスターコントローラー)は左手操作のワンハンドル式である。正面に12.1インチのワイド乗務員支援モニタを装備しており、車両の制御状態・サービス機器の状態・主回路蓄電池の温度や電圧などの管理や監視を行っている。側面には蓄電池への急速充電を開始するためのスイッチや蓄電池走行起動スイッチなどを配置しているが、その他の機器配列については817系2000番台と同じである。
電化・非電化区間の切り替えには『パンタグラフインターロックシステム』と呼ばれるシステムを使用している。これは地上に設置されたIDタグを使って信号を送り、乗務員支援モニタにパンタ上げ・下げ指示の表示および、運転機器に力行禁止指令・解除を送る。


非電化区間突入の際は、IDタグ(上り、パンタグラフ下げ)により、パンタグラフ下げの指令をモニターに注意喚起を出すとともに、その後に運転停車してパンタグラフを降下させずに力行(加速)させても、力行禁止の指令が働き車両を停止させ続ける。運転士が停車中にパンタグラフを手動操作で下げることで、力行禁止が解除されるが。万が一、パンタグラフを上げたまま非電化区間に突入した場合は、建築限界などによりパンタグラフを損傷しないよう、別のIDタグにより非常制動および、強制パンタ下げが行われる。


一方電化区間突入の際は、IDタグ(下り、パンタグラフ上げ)により、パンタグラフ上げの指令をモニターに注意喚起を出すとともに、その後に運転停車してパンタグラフを上昇させずに力行(加速)させても、力行禁止の指令が働き車両を停止させ続ける。運転士が停車中にパンタグラフを手動操作で上げることで、力行禁止が解除されるが。万が一、パンタグラフを下げたまま電化区間に突入した場合でも、走行中にはパンタグラフは損傷しないため、損傷の心配はない。

座席は817系2000番台・3000番台や305系と同様、合板(プライウッド)のシートにモケットを貼り付けたオールロングシート。座席形状・つり革配置なども817系2000・3000番台とほぼ同じであるが、座面は305系と同様の厚みが増したものとなったほか、枕木方向のつり手が増設されている。扉側の仕切り板は305系に準じたポリカーポネート製の大型のものとされた。


トイレはクハBEC818形の3位側に設置されており、汚物処理装置には清水加圧式が採用されている。
側扉上にはこれも305系と同様の次駅等の案内を行う案内表示器(マルチサポートビジョン)が千鳥状に設置されている。また、各車両1台ずつ設置されている車端部の機器室壁面にあるMSVには、次駅等の案内と合わせて架線・蓄電池・主電動機等の間のエネルギーの流れが表示される。ワンマン運転対応であるが運行予定区間では駅収受式が採用されており、整理券発行機・や表示器等の車内収受式ワンマン運転用機器は準備工事のみ行われている。

クモハBEC819(Mc)+クハBEC818(Tc)の2両編成。車両定員はクモハBEC819が座席40名/立席93名、クハBEC818が座席40名/立席91名で編成定員は合計264名。JR九州の在来線旅客車両では初のアルファベットが入る形式名になった。
クモハBEC819形
2両編成の若松方に連結される制御電動車。主電動機・主変圧器・主変換装置(CI)・補助電源装置(SIV)・電動空気圧縮機(CP)・制御用蓄電池を搭載。
集電用のパンタグラフを搭載するがパンタ部分は非電化区間での運用に備え低屋根構造(パンタ折り畳み高さ3980mm)となっている。
クハBEC818形との連結側車端部に機器室を設置。
クハBEC818形
2両編成の直方・折尾方に連結される制御車。主回路用蓄電池(Bt)を搭載。
クモハBEC819形との連結側車端部にバリアフリー対応の清水空圧式洋式トイレと車椅子スペースを設置。

2016年(平成28年)4月に1編成2両が落成し、試運転を経て、同年8月24日に車両が直方車両センターで報道陣に公開され、同年10月1日には筑豊本線直方駅 - 中間駅間で試乗会が行われたのち、同年10月19日に筑豊本線(若松線)折尾駅 - 若松駅間での営業運行を開始した。運行開始初日には若松駅で出発式を行った。導入当初は2両1編成のみでの運用で、同区間で昼間時間帯に火曜日以外の各日1日4往復運行した。


続いて2017年(平成29年)2月13日・24日に下松から量産車が3編成ずつ甲種輸送され、この6編成は同年3月4日のダイヤ改正より営業運転を開始した。これにより若松線を走行する全列車がBEC819系での運転となった。同ダイヤ改正では若松線の列車の多くが若松駅 - 直方駅間の運転となり、折尾駅を経由し非電化区間と電化区間を直通する営業運転も開始された。また、篠栗線を含む直方駅 - 桂川駅 - 博多駅間でも運用されるようになり、当形式だけでなく、従来の817系との連結運用も存在する。
なお、非電化区間走行後の蓄電池への充電は、電化されている折尾駅で行われ、その際には非電化区間では折り畳んでいた集電装置を上昇させる。
若松線を導入路線に選定した理由については電化区間との直通運用が可能な路線であることの他に「蓄電池で走行する路線長が搭載可能な蓄電池の容量に適している」「北九州市が世界の環境首都を目指しており、市内を走る若松線への導入がふさわしい」としている。
同形車
東日本旅客鉄道(JR東日本)ではBEC819系をベースに耐寒耐雪対応等のカスタマイズを行ったEV-E801系を2017年3月4日から奥羽本線・男鹿線(秋田 - 男鹿間)で営業運転している。

製造所 日立製作所
主要諸元
編成 2両
軌間 1,067(狭軌) mm
電気方式 交流20,000V 60Hz
(架空電車線方式/非電化区間においては蓄電池駆動)
最高運転速度 120 km/h
設計最高速度 120 km/h
起動加速度 電化区間 2.6 km/h/s
非電化区間 1.5 km/h/s
編成定員 264人
車両定員 131人 - 133人
車両重量 35.5t - 36.6t
編成重量 72.1t
最大寸法
(長・幅・高) 20,000 × 2,950 × 4,096 mm
(パンタ折り畳み高さ3,980mm)
車体材質 アルミニウム合金
台車 円錐積層ゴム式ボルスタレス台車
DT409K・TR409K
主電動機 かご形三相誘導電動機
MT404K形
主電動機出力 95kW
駆動方式 TD継手式中実軸平行カルダン駆動方式
歯車比 6.50(14:91)
編成出力 95kW×4=380kW
制御装置 IGBT素子VVVFインバータ制御
制動装置 回生ブレーキ(全電気式)併用電気指令式空気ブレーキ
保安装置 ATS-DK、EB、乗務員無線、防護無線

 

 

 

小禄駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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小禄駅(おろくえき)は、沖縄県那覇市田原三丁目にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は3。

各駅ごとに異なる紅型の文様が設定されているが小禄駅の紅型の文様は、青です。

島式ホーム1面2線を有する。エスカレータ・エレベーターあり。イオン那覇ショッピングセンターとの連絡通路がある。


のりば
小禄駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 県庁前・牧志・おもろまち・首里方面


2 那覇空港方面

イオン那覇ショッピングセンター には 店舗の2階部分と駅が直結している。


駅設備
コインロッカー - 改札内に設置。
小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)25個
公衆電話 - 改札外に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札外に1台、改札内に2台(内1台は車椅子対応)、ホームに2台設置。
トイレ - 改札内に設置。
駐輪場 - 駅北口の交通広場前にある。無料。


駅南側には小禄市営団地がある。
駅前交通広場にはタクシー乗り場があります。

駅到着時の車内チャイムは、沖縄民謡「小禄豊見城(うるくとぅみぐしく)」を編曲したものが流れる。
改札付近での沖縄方言による案内放送では「うるく」と発音される。

沖縄都市モノレール線計画当時の仮称は「田原(たばる)駅」であった。
2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅番号 3
所属事業者 Okinawa City Monorail Logo.png 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線(ゆいレール)
キロ程 2.71km(那覇空港起点)
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 3,391人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日

奥武山公園駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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奥武山公園駅(おうのやまこうえんえき)は、沖縄県那覇市奥武山町にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は4。

愛称ゆいレールの「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。

島式ホーム1面2線。エスカレーター・エレベーターあり。

のりば
奥武山公園駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 県庁前・牧志・おもろまち・首里方面


2 小禄・那覇空港方面


駅設備
コインロッカー - 改札内に設置。
小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)25個
公衆電話 - 改札外に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札内に2台(内1台は車椅子対応)、ホームに2台設置。
トイレ - 改札内に設置。

駅周辺に野球場や陸上競技場を備えた沖縄県営奥武山公園は駅前、漫湖公園は徒歩約10分。


駅南側は住宅地です。旧海軍壕方面へのバス発着駅。

駅到着時の車内チャイムは、沖縄の童謡「じんじん」を編曲したものが流れる。


各駅ごとに異なる紅型の文様が設定されている。奥武山公園の紅型文様は、緑


2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅番号 4
所属事業者 Okinawa City Monorail Logo.png 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線
キロ程 3.68km(那覇空港起点)
駅構造 高架駅


ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 2,018人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日

水玉乱舞号【クサマヤヨイ号】松本周遊バス(通称:タウンスニーカー)

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水玉乱舞号【クサマヤヨイ号】
松本市出身の前衛芸術家草間弥生さんにデザインの「水玉乱舞号」。草間弥生さんのトレードマークとも言える水玉模様を大胆にも、白地のバスに散らし、車内広告にも水玉があしらわれ、バス全体で草間ワールドを満喫できるバスです。因みにナンバーは「841」です。

松本周遊バス(通称:タウンスニーカー)
松本市内を片方向循環する路線。多客期には増発される場合がある。この路線は、1999年に松本市長が松本駅 - 松本城間における周遊バス運行を発案したことが発端で、同時に、松本電気鉄道も100円運賃による市街地循環バスを計画していたため、双方の計画をすり合わせることにより誕生した路線である。この路線の運行前は市街地におけるバス利用者はあまり多くなかったが、運行後は他路線も含め利用者が増加傾向となった。車両は日野・レインボー、日野・ポンチョ(いずれもタウンスニーカー専用デザイン)を使用しているが、場合によっては一般色の日野・レインボーを使用することもある。 水玉乱舞号【クサマヤヨイ号】、アルプちゃん号などの特徴的なラッピングバスも運行している。

ポンチョ(Poncho)は、ジェイ・バスが製造し、日野自動車が販売している路線用小型ノンステップバス。
愛称の由来は、ポンと乗ってチョこっと行くことから。また衣服のポンチョにもかけている。
2002年から2005年に発売された初代ポンチョと2006年以降の2代目ポンチョ(ポンチョIIとも言う)の2種類。

ADG-HX6J系/BDG-HX6J系
2代目ポンチョ(ショート)の車内(日立自動車交通)
2代目ポンチョは初代とは異なり、純日本製のバスとなった。日野自動車・いすゞ自動車のバス製造事業統合に伴い、ジェイバス小松事業所で製造される。2004年の第38回東京モーターショーに参考出品したリエッセをベースとした純国産の小型ノンステップバス「ポンチョL」を量産化向けに仕様変更し、2006年(平成18年)3月22日に発売開始した。
“シンプルで丸みある親しみやすい外観デザイン”や“ユニバーサルデザイン思想の乗降性や室内空間”をコンセプトとしており、それが評価され、2006(平成18)年度のグッドデザイン賞を受賞している[1](受賞番号06A12031)。可愛らしい外観に合わせて燈火類は全て丸形で揃えられているが、これらは専用部品ではなく、前照灯は日野と同じくトヨタグループに属するダイハツの軽自動車、2代目ムーヴの流用、リヤのランプ類も2代目セレガと共通とするなど、個性を出しつつコストを抑えている。
短めの全長に対して出来る限り広いノンステップエリアを確保するため横置きリアエンジン式とされ、さらにトランスミッションの上にエンジンを重ねる2階建て配置とすることで、長いホイールベースと短いリアオーバーハングを両立させている。
エンジンは排気量4.7リッター・ターボ付き直列4気筒のJ05D (J5-IIF)型(132 kw/180 ps)となる。あわせて排出ガス浄化システムに「DPR」を採用して、PMを低減することで「新長期規制」(平成17年排出ガス規制)に適合している。また、ABSが標準装備となっている。2006年(平成18年)12月20日には電子制御式5速オートマチックトランスミッション車が追加設定された。
車体は基本的にリエッセをベースとしているが、2代目セレガ同様、サスペンションやエンジンなど、前後それぞれ別のシャーシを、フルディップカチオン電着塗装を済ませたボディに「ポン載せ」する工法にて組み立てられている。全長はリエッセと同じ7 mの「ロング」に加え、6.3 mの「ショート」が新たに設定された。全面ノンステップとはいかなかったものの、ホイールベース間に関しては車椅子が回転できる幅のノンステップフロアが確保されているほか、ニーリング機構が標準装備となった。乗降扉はワンボックスカーのような外側スライド式のプラグドアで、ロングでは2扉となる。このほか、ロングでは定員30名以上を確保しており、非常口も設置されている。仕様としては、ロング・ショートともに「前向きシートタイプ」・「横向きシートタイプ」・「前向きシートタイプ・寒冷地仕様」の3種類が設定されている。
車両価格は初代とほぼ同じ1,541万円(ロング・都市型多区間)であり、路線バス仕様として設定されているステップリフト付きのリエッセ(新車価格1,036万円)に比べて500万円ほど高価である。製造台数は2007年11月末時点で200台以上が製造されている。
その後、2007年7月18日に一部改良を実施し、NOx・PMをともに10 %低減させた。外観・内装ともに改良前(排ガス記号ADG代)のモデルとの違いはほとんどなく、見た目での判別は困難である。さらに、2007年9月には、京浜急行バス・横浜市営バスにおいて、ポンチョでは初めて側面LED式大型行先表示機を搭載した車両が登場した。
2008年10月には、ロングに座席定員18名を確保した1扉車が追加設定された。
型式は
ショート ロング
排出ガス規制識別記号ADG代車 ADG-HX6JHAE ADG-HX6JLAE
排出ガス規制識別記号BDG代車 BDG-HX6JHAE BDG-HX6JLAE
定員
ショート(形式:ADG/BDG-HX6JHAE)
ノンステップ部横向き:座席14+立席10+運転席1の計25人乗り
ノンステップ部前向き:座席10+立席18+運転席1の計29人乗り
ノンステップ部左側横向き、右側前向き:座席12+立席14+運転席1の計27人乗り(寒冷地仕様)
ロング(形式:ADG/BDG-HX6JLAE)
ノンステップ部横向き:座席14+立席16+運転席1の計31人乗り
ノンステップ部前向き:座席11+立席24+運転席1の計36人乗り
ノンステップ部左側横向き、右側前向き:座席12+立席21+運転席1の計34人乗り(寒冷地仕様)


田町駅 東日本旅客鉄道(JR東日本)JK 京浜東北線・JY 山手線

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田町駅は、東京都港区芝五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。

線路名称上は東海道本線1路線のみである(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)が、当駅には電車線を走る京浜東北線電車および山手線電車のみが停車し、旅客案内では「東海道(本)線」とは案内されていない。また当駅は、JRの特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。 - 駅番号「JK 22」(JK 京浜東北線)、「JY 27」(JY 山手線)。

 

駅名の由来
田町という駅名は、三田口(西口)周辺一帯に広がっていたかつての町名からとられたものである。『文政町方書上』によると、江戸時代に田畑が町屋へと移り変わったため、田町と呼ばれるようになったという。
明治初期は頭に芝を付けて「芝田町」と呼ばれていた(その後、1911年5月に「芝」の冠称が省かれる)。海岸に面した細長い範囲の町で、この海岸線に沿った海上防波堤の上に鉄道が敷設された。


1909年、この鉄道の新駅として、田町駅が芝田町一丁目に設置された。現在の芝浦口(東口)周辺一帯は当時まだ陸地ではなく、1913年に埋め立てられてから工業地帯へと変貌を遂げた。この芝浦口周辺は新芝町(後の西芝浦一丁目)と名付けられた。
駅名に採用された田町は、港区の発足した1947年に再び芝田町に町名変更となった。その後、住居表示実施に伴う町名・町域の変更により、1964年7月に一部が芝五丁目に、1967年4月に残りの全域が三田三丁目になり、地名としての田町は消滅した。

駅構造
島式ホーム2面4線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。
京浜東北線と山手線は、田端駅から当駅まで、同一方向の電車は同じ島式ホームを共有する方向別複々線となっている。東京方面から京浜東北線南行(横浜方面)と山手線外回りとの相互乗り換えをする場合、南隣の線路別複々線配置の品川駅ではなく当駅で乗り換えを行うことにより、階段などを使わずに乗り換えることができる。そのため、京浜東北線

南行と山手線外回りの車内では当駅での乗り換えを促すアナウンスが流れる。以前は乗降客が非常に多い割にホームが狭く、駅利用者が平日に集中するため、朝のラッシュ時にはホームに人が溢れがちで危険であった。さらには、バリアフリー化に合わせエレベーターやエスカレーターの設置の動きがあったが設置する充分なスペースが無かった。そのため、3・4番線ホームの拡幅、階段の増設・コンコースの増床等の駅構内の改良工事を行い、2004年に終了した。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 JK 京浜東北線 北行 東京・上野・浦和・大宮方面
2 JY 山手線 内回り 東京・上野・池袋方面
3 外回り 品川・目黒・渋谷・新宿方面
4 JK 京浜東北線 南行 蒲田・横浜・関内・大船方面 横浜駅から JK 根岸線へ直通

山手線は内回り・外回り共に朝に当駅始発の電車がある。これらの電車は品川駅西側の留置線に置かれた車両を当駅まで回送し、始発電車となる。
浜松町寄りに2・3番線への出入りが可能な留置線が1本設置されている。この留置線は当駅 - 新宿駅 - 田端駅間の列車の運転が行われた時に使用された。現在は、外回り当駅始発の方向転換で使用される。


当駅には北改札口と南改札口の2ヶ所があるが、両改札口は自由通路を挟んで相対している。
改良工事が行われる前は、各ホーム品川寄り階段通路から接続する臨時改札口(出口専用)が三田口側地上に設置されていた[4]他、ペデストリアンデッキ側に20台以上の自動改札機が並ぶ三田口、三田口のすぐ脇の陸橋側に自動改札機数台が並ぶ芝浦口があった。
三田口側にみどりの窓口と指定席券売機が設置されている。

駅設備
バリアフリー設備
北改札口(エスカレーター)、南改札口(エスカレーター・エレベーター)
トイレ
北改札口・南改札口それぞれに車椅子対応タイプも含めて設置されている。
その他
芝浦口とそれにつながるペデストリアンデッキは港区が設置したもので、JRは管理しておらず、鉄道営業法に定める鉄道用地にあたらない。駅の看板は、ペデストリアンデッキの入口ではなく駅舎の入口箇所に設置されている。


「三田口(西口)」と「芝浦口(東口)」の2ヶ所が設置されている。
三田口
駅前を交通量の多い第一京浜(国道15号)が通っており、さらに日比谷通りとの交差点にも隣接している他、都営三田線や浅草線の三田駅も存在するなど交通の便がいいことから、森永製菓、森永乳業や三菱自動車工業、日本電気、バンダイナムコホールディングスなど幾つかの大企業の本社や、FCAジャパンやアボットジャパン、SBJ銀行などの外資系企業のオフィス、官公施設が点在しており、高層・超高層のビルが多い。とりわけ、日本電気は本社がある「NECスーパータワー」だけでなく、当駅周辺のビルに数多く分散して入居している。


三田口周辺には、慶應義塾大学や戸板女子短期大学、普連土学園中学校・高等学校や東京女子学園中学校・高等学校を始めとして教育施設も多いため、学生街の様相も呈しており、飲食店など商業施設も集積している。そのためか、都市銀行の大部分の支店は三田口側に集約されている。
また、港区内の他地域と同様にボツワナやハンガリー、イタリアやクウェートなど多数の国の大使館、芝税務署や三田労働基準監督署、港勤労福祉会館や障害者福祉会館などの官公庁及び公共施設の他にも、寺や神社、教会などの宗教施設が多数存在する。地形的には、20世紀に入り芝浦口側が埋め立てられるまでは海辺であった駅周辺を離れると丘が多く起伏に富んでおり、やや離れた丘陵地には高級住宅やマンションが多く建っている他、さらに近年は三田口側駅近辺にも高層高級マンションがいくつか建設されている。
なお、駅前のロータリーは構造上非常に狭くなっている。その中にタクシー乗り場があるので、一般車両の進入はあまり見られない他、バス乗り場も第一京浜に面してのみ設けられている。

芝浦口
駅開業後の1926年に開設された。当時、田町駅の乗降客数は1日約4万人を数え、その3分の1が芝浦方面の埋立地に建てられた工場の労働者による利用だったため鉄道省が総工費17,000円を投じ、約40坪の改札口が設置された。
芝浦口側は、そのほとんど全てが20世紀に入って新たに埋め立てられた地であるために、橋梁を除き全体に扁平な土地で、運河も多い。さらに埋立地として新規開発された工業区域であることから、工場や倉庫、オフィスビルなどは多いものの、三田口側には多数存在する諸外国の大使館や寺や神社などの宗教施設は皆無で、官公施設や教育施設も少ない。さらに都営住宅や2000年代に入り新たに開発された高層マンションを除くと住宅も少ない。


こうしたことから三田口に比べると商業施設も少なく、かつては1990年代にはジュリアナ東京やゴールドなどの「ベイサイドエリア」へ向かう人々で賑わっていた芝浦口側も週末はやや閑散としている。一方で、工場や倉庫の跡地、新規埋立地に大規模な再開発も進んだことから状況は変わりつつあり、新三井製糖の工場や都電操車場の跡地に建設された芝浦アイランドなどの大規模な高層マンション群の分譲や、その他の中小マンションの建設が進んだことから住人の数が急激に増えている。
これらの変化を受けて、駅前は2004年に路線バスの乗り入れができるように整備され、都営バスとちぃばすのターミナルとして機能している[注釈 1]。また、駅前にあった港区立芝浦小学校は芝浦4丁目へ移転し、東京ガスの跡地にできたみなとパーク芝浦内に、スポーツセンターと芝浦港南地区総合支所(2015年に閉鎖)等が移転した。2008年5月29日には、自由通路先のペデストリアンデッキに、視覚障害者向けの電子情報案内盤をNPOと港区が共同設置した。案内盤はタッチパネル式で、地図のボタンを押すと目的地までの道順を音声で案内する。また、各種イベント情報なども表示する。

1909年(明治42年)12月16日 - 鉄道院東海道本線 品川駅 - 烏森駅間の開通と同時に開業。旅客営業のみの旅客駅。
1926年(大正15年)4月1日 - 芝浦口を開設。
1932年(昭和7年)7月28日 - 午後4時52分、到着していた山手線外回り電車の後部に2両を増結しようとしたところ、ブレーキが効かずに追突する事故が発生。増結車両の運転手1名と乗客6名が重軽傷を負う。
1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道が発足。
1960年(昭和35年)6月15日 - 午後7時50分ごろ、京浜東北線桜木町行き電車が浜松町 - 田町間のレールが破損しているのに気づき停車し車掌らの誘導により乗客が線路上を歩いて田町駅方面へ向かっていたところ、横須賀線東京駅行き電車にはねられ4人が死亡する事故が発生。
1968年(昭和43年)6月21日 - 都営浅草線の三田駅が開業し、同駅との乗り換え業務を開始。
1970年(昭和45年)
3月 - 橋上化および東西自由通路整備に着手。
5月1日 - 荷物取り扱いを廃止。
1971年(昭和46年)2月6日 - 東西自由通路が開通。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる。
1991年(平成3年) - 臨時改札口を開設。
2000年(平成12年) - 東西自由通路を幅7mから16mへの拡幅する整備工事に着手。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2003年(平成15年)
日付不明 - 拡幅された東西自由通路が開通。
3月16日 - 工事のため、山手線外回り電車が同日6:30以降終電まで通過となる。

所属事業者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 チタ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 148,834人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1909年(明治42年)12月16日
乗入路線 2 路線
所属路線 JK 京浜東北線*
駅番号 □JK 22
キロ程 4.6km(東京起点)
大宮から34.9km
◄JK 23 浜松町 (1.5km)(2.2km) 品川 JK 20►
所属路線 JY 山手線*
駅番号 □JY 27
キロ程 4.6km(東京起点)
◄JY 28 浜松町 (1.5km)(2.2km) 品川 JY 25►
乗換 三田駅
(都営地下鉄浅草線・三田線)
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅
*いずれも正式には東海道本線

五反田駅 東日本旅客鉄道(JR東日本)・Jr山手線

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五反田駅(ごたんだえき)は、東京都品川区東五反田一丁目および同二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京急行電鉄(東急)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。

駅名の由来:1911年、官設鉄道が荏原郡大崎町上大崎字子の神(現在地)に駅を開設したが、近隣の下大崎の字で、街が形成しつつあった五反田(現在の品川区東五反田一・二丁目の一部)を駅名に採用した。なお、五反田とは「五反の田」を意味する(一反は約992m²)。

駅の直下を大動脈の国道1号線が通っている

乗り入れ路線は3路線が乗り入れる接続駅となっている。
JR東日本 : JY 山手線 - 電車線で運行される環状線としての山手線電車のみが停車し、それ以外の列車は通過する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。駅番号は「JY 23」。
東急 : IK 池上線 - 当駅を起点としている。駅番号は「IK01」。
都営地下鉄 : A 浅草線 - 駅番号は「A 05」

島式ホーム1面2線を有する高架駅である。急曲線上にホームがあり、駅の真下には国道1号線が交差している。改札口はJRが管轄する1階改札口と東急が管轄する東急五反田ビル口と2箇所ある。改札口。有人通路はシースルー式に改装されています。


2010年時点では駅構内の改良工事を実施している。改札内のトイレと改札外のみどりの窓口・自動券売機(いずれも移転)はそれぞれリニューアルが実施された上に、ホームと1階改札口を連絡するエレベーターが新設された。その後も、東口には改良工事のための建材を置くスペースが広く確保されている。
2008年(平成20年)3月14日には、駅西側に直結した複合商業施設「アトレヴィ五反田」が開業した。高級スーパーマーケット「成城石井」や飲食店などが入居している[5]。さらに改札内にはドラッグストアが、改札を出た正面(ホームの真下)にはNEWDAYSやベーカリーなどが開業した。
東急五反田ビル口の自動券売機は東急仕様となっており、入場券の口座を有していない。そのため、JR駅の入場券は「精算書」と書いた紙片を販売している。



のりば

番線 路線 方向 行先
1 JY 山手線 内回り 品川・東京・上野方面
2 外回り 渋谷・新宿・池袋方面

バス;最寄り停留所は、駅前のバスターミナルにある「五反田駅」となる。なお、4 - 6番乗り場は駅正面にあるが、かつては駅の反対側に2・3番乗り場が存在していた。以下の路線が乗り入れ、東京都交通局、東急バスにより運行されている。

駅番号 □JY 23
所属事業者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 JY 山手線
キロ程 2.9km(品川起点)


電報略号 タン
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 133,814人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1911年(明治44年)10月15日
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅

 

トヨタ・コロナ初代 T10型

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トヨタ・コロナ初代 T10型(1957年 - 1960年)

1950年代半ば以降、日本の乗用車市場ではトヨタ自動車が1500cc車のクラウンで中型タクシー市場を、日産自動車が860-1000cc車のダットサン・110/210で小型タクシー市場をそれぞれ押さえるという構図ができ上がっていたが、日本の二大メーカーである両社は、それぞれ相手の領域に食い込もうと新型車開発を続けていた。
コロナはこうした状況で誕生したトヨタの対ダットサン対抗馬である。しかし、本格的な商品として企画されていたのは 2代目のT20系であり、初代T10系はそれまでのつなぎとしての企画であった。 この背景には、当時 乗用車の設計に強い発言力を有していたタクシー業界が20系の完成を待てず、そのニーズにこたえる必要のあったトヨタ自動車販売の意向で、開発・発売を急がせたという事情があったという[1]。すなわち、T10系は クラウンの信頼性の高さが立証されて存在価値が薄まり1956年に生産を中止されていたクラウンのタクシー用姉妹車 トヨペット・マスター(前輪固定懸架)の車体中心部ボディプレス、クラウンの足回り、そして1940年代後期から使用され、乗用車用としてはすでに時代遅れになっていたSV式のトヨタ・S型エンジン(最高出力33PS/4500回転、最大トルク6.5kgm/2800回転(グロス値))などといった 既存のコンポーネンツを寄せ集めて、マスターの開発・製造を担当した関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)で急遽開発された車であった。ただし唯一画期的であったのは、関東自動車工業がトヨタ本体とは独立して独自に1950年代前半から研究を続けていたモノコック構造[注釈 2]が、トヨタの量産乗用車として初採用されたことであった。このため、車両重量はようやく1000kgの大台を割っている。


1957年7月 - 発売。ボディは4ドアセダン(ST10型)と、トヨペット・コロナラインとして別モデル扱いされた2ドアバン(ST10V型)があった。その丸みを帯びたスタイルから、「ダルマコロナ」の愛称で親しまれたが、前輪独立懸架で乗り心地が良い点を除くと、ライセンス生産していたオースチンのノウハウでOHV1,000ccエンジンを既に開発・搭載していたダットサン1000セダン(210系)と比較し、開発費がかけられなかったこともあって、ハード面の評価は低かった。
1958年4月 - マイナーチェンジを受け、車体の側面にモールが追加された。フロントフード先端のエンブレム、ドアハンドルの意匠を変更した。
1959年10月 - 再びマイナーチェンジを受け、型式がST10型からPT10型に変更される。懸案であったエンジンをより強力なOHV式水冷直列4気筒997ccのP型に変更し、最高出力45PS/5000rpm、最大トルク7.0kgm/3200rpm(グロス値)とした。最高速度も105km/hと、ようやく100km/hが可能となった。フロントグリルもメッシュタイプに変更され、後席寸法を拡大し、乗車定員は4名から5名に増加した。

販売期間 1957年7月 - 1960年
乗車定員 4人
ボディタイプ 4ドアセダン
3ドアバン
エンジン S型 0.995L 直4
P型 0.997L 直4
駆動方式 FR
変速機 3速MT
サスペンション 前:ダブルウイッシュボーンコイル
後:リジッド半楕円リーフ
全長 3,912mm
全幅 1,470mm
全高 1,555mm
ホイールベース 2,400mm
車両重量 960kg
ブレーキ 4輪ドラム
最高速度 90km/h(初期型)

コロナ(CORONA)は、トヨタ自動車が1957年から2001年まで生産・販売していた、セダンを中核とするCDセグメント相当の乗用車である。トヨタ車として初めて日本国外でも生産された車種である。

 


カローラ、クラウンとともに トヨタの伝統的なセダンであり、中核的な位置づけになる車種である。高度経済成長期には日本のマイカー代表車種として、広く親しまれたクルマである。
特に地方都市では 小型タクシーとしても多く用いられた。1960年代から1970年代 コロナの競合車種は 日産のダットサン・ブルーバードであった。このブルーバードとコロナが繰り広げた 熾烈な販売合戦が「BC戦争」と呼ばれるものである。
1957年7月の初代以来11代の系譜をたどったが、2001年以降はコロナ名称は消滅。後継モデルは「プレミオ」の名とともに系統を継承している。

橋本駅 東日本旅客鉄道(JR東日本)横浜線/相模線・京王電鉄相模原線

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橋本駅(はしもとえき)は、神奈川県相模原市緑区橋本六丁目及び同二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄の駅である。京王電鉄の駅番号はKO45。


駅名の由来:江戸時代に、橋本付近を流れる境川にかかる両国橋一帯のことを「橋本宿」と呼んだことから、「橋本」となる。

JR東日本の横浜線と相模線、京王電鉄の相模原線の2社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。
JR東日本の駅は横浜線を所属線としている。また相模線は当駅が終点であるが、一部時間帯の列車は横浜線八王子方面へ直通する。
東海旅客鉄道(JR東海)によるリニア中央新幹線の駅が併設される予定である。


JR東日本
3面5線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。1 - 3番線を横浜線、4・5番線を相模線が使用している。ただし、直通運転の関係上、茅ヶ崎方面からの八王子行の列車は5番線から発車する。1番線が単式ホーム、2・3番線、4・5番線は島式ホームである。
ホームの相模原・南橋本寄りにもう一方の連絡通路があり、エスカレーターとエレベーターが設置されている。


のりば
北口側を1番線として、以下の通りである。
番線 路線 方向 行先 備考
1 JH 横浜線 上り 町田・新横浜・東神奈川・桜木町方面
2 当駅始発


3 下り 相原・八王子方面 朝の始発1本のみ2番線
4 ■ 相模線 - 海老名・厚木・茅ケ崎方面
5
JH 横浜線 下り 相原・八王子方面 相模線からの直通のみ


2番線は主に、早朝の下り当駅始発と特急はまかいじを待ち合わせる土・休日8時台の八王子行を除きすべてが町田・東神奈川方面へ向かう電車である。朝夕ラッシュ時などの一部時間帯は、出入庫の関係で当駅始発や当駅止まり、折り返し電車が存在する。快速運転時間帯の日中は下りの場合、当駅止まりの後に折り返しとなり、降りた同じホームで後続の快速電車に乗り換えることができる。一方、上りの場合、快速は隣のホーム1番線に停車するため、階段を使って乗り換える必要がある。通過駅の矢部駅・淵野辺駅・古淵駅を利用する場合は、当駅ではなく次の相模原駅で乗り換えた方が便利である。
南東方向には、主に横浜線の車両を留置している鎌倉車両センター橋本派出所がある。
1番線ホームと2番線ホームの間にホームがない線路がある。旅客案内以外ではこのホームがない線路を2番線と呼び、2番線ホームを3番線・3番線ホームを4番線…とホームに対し線路の番号を1つ大きくした番号を用いることがある。この線路はかつて貨物の取り扱いをしていた頃に貨車や機関車の入換線や待避線として使用されたり、臨時列車の一時留置などに使用されていたが、近年ではあまり使用されていない。ただし、南東の車両留置線が工事などで使用できない場合はまれに横浜線の車両が留置されることがある。
相模線ホーム側隣の2線は留置線と八王子寄りの引き上げ線1本があり、主に相模線の車両が使用している。なお、八王子寄りの引き上げ線は1984年まで存在していた国鉄橋本工場の専用線の一部を転用したものである。
発車メロディーは、1番線が「Verde Rayo」、2番線が「Mellow time」、3番線が「Water Crown」、4・5番線が「近郊地域20番」(2番線のみ櫻井音楽工房製、それ以外東洋メディアリンクス製)となっている。4・5番線はスイッチを押すと必ず1コーラス流れるシステムである。
2015年5月29日より、JRのホームすべての番線でATOS放送が導入された。こちらは当初より上野東京ライン・宇都宮線などで使用している最新型アナウンスである。


駅構内設備
KIOSK - 改札階改札入って右手ほか。
飲食店 - 1番線隣接の「味の食彩館はしもと」内にあり、一部店舗は改札内からの利用が可能。
みどりの窓口(営業時間 7:00 - 20:00)は1か所2窓口。過去には自動券売機コーナーの隣に窓口が一つあるのみで、周辺に大学が多い上に京王線との乗換駅であることから、新年度初めには通学定期券の購入者が長蛇の列をなす光景が見られたが、2007年3月15日に自動券売機コーナーに指定席券売機が1台設置されたことにより、若干の混雑の緩和がなされ、2008年11月にびゅうプラザ併設型に改装した際に窓口や指定席券売機の設置数を増やした。なお、びゅうプラザに関しては現在は営業を終了している。
JR改札前の通路は、京王線コンコースと接続し南北自由通路となっている。JR利用者だけでなく、京王線やバスの利用者も通行するため、非常に混雑する。この通路沿いにいわゆる駅ナカ店舗がある。下記に一覧を示す。
NEWDAYS(コンビニエンスストア)
BECK'S COFFEE SHOP
UNIQLO
ビューアルッテ (ATM)

京王電鉄:島式ホーム1面2線を有する高架駅。ホームが3階、改札およびJR線のりばへの連絡通路が2階となる。エスカレーターとエレベータが設置されている。
ホーム部分の屋根は、側壁により支持されているため、ホーム上に柱はない。

のりば
番線 路線 行先
1・2 KO 相模原線 京王多摩センター・調布・明大前・笹塚・新宿・都営新宿線方面


駅構内設備
京王リテールサービス(売店「A LoT」、2・3階)
構内ではないがJR・北口方面への通路に次のような施設がある(いわゆる駅ナカ施設)
京王クラウン街 - 京王ストア・啓文堂書店などのテナントがある。
2階(改札階)コンコース(京王ストア前に出る出口前)に三菱東京UFJ銀行のATMが、コンコース(京王ストア口前付近)と改札内に東京都民銀行のATMが、TSUTAYAの前にみずほ銀行のATMが設置されている。

リニア中央新幹線誘致
東京都 - 大阪市の間をほぼ直線で結んだ建設ルートが予定されるリニア中央新幹線は、神奈川県相模原市付近を通過することが想定されており、橋本駅が建設候補地となっている。2012年2月に神奈川県が『橋本駅をリニア中央新幹線中間停車駅とするよう』、JR東海側に要請する方向で調整が進んでいることを明らかにした。駅前の神奈川県立相原高等学校の敷地が、駅建設予定地となっている。
なお、橋本駅は、県の「北のゲート」としての構想から、相模線の複線化、倉見駅への東海道新幹線新駅設置とともに、検討が行われている。
また、橋本駅以外にも、在日米軍相模総合補給廠の一部返還が予定される相模原駅などは、小田急電鉄多摩線の延伸とともにリニア中央新幹線の誘致も求める声があった。ただし相模原駅となると米軍補給廠の真下を横断することとなり、安全保障上の観点から米軍の同意を取り付けることは非現実的であるという見方もあり、立ち消えとなっている。

駅周辺
神奈川県の北の入口と位置付けられ、県や市、民間が主体となった再開発が進む。また、中心市街地活性化法では相模原市の第一の都市核として認定されている。
駅の北口付近には超高層マンションが立ち並び、建設ラッシュが続く。当駅を核とした市街地域や住宅地域は、北部へ境川を越えて西部に拠点のない町田市まで広がっている。駅北方は以前からの住宅街である。
駅の西(南口から600m以上離れた場所)、かつての国鉄車両センター跡地にも超高層マンションやハイテクパーク、コーナン、東急ストア、橋本郵便局、相模原北警察署が完成している。
駅の南西部は、比較的新しく開発された住宅地が津久井方面へ広がっている。かつての大山街道である旧国道16号線沿いには宿場町のイメージが残る。相原高校の南には工場地帯が広がる。
南口南東部の大工場地帯は、当駅付近が首都圏都市再生特別法に指定されたことを受けて超高層マンションや大型ショッピングセンターアリオ橋本、電機メーカー研究所、接着剤メーカーなどが進出、または進出する予定である。
北口
北口には再開発の際にペデストリアンデッキが設けられ、その下はバスターミナル・タクシー乗り場になっている。このペデストリアンデッキから直接「ミウィ」、「イオン」橋本店(2002年10月26日に「ビブレ」から改称後、2011年3月1日に店舗ブランドがイオンに統一されたため「サティ」から改称)および、飲食店等の入ったビル「味の食彩館はしもと」に行くことができる。
橋本駅北口再開発ビル
イオン 橋本店 - 計画当初は「橋本そごう」が出店する予定であったが、1997年にそごうの経営悪化を理由に断念し、ビル自体の規模を縮小の上でビブレが2000年(平成12年)3月4日に出店した。
シティ・プラザはしもと - 5階と6階に入居。相模原市が政令指定都市になってからは緑区役所が入居していたが、2013年3月17日に緑区合同庁舎に移転した。
ミウィ橋本(2001年(平成13年)9月14日開業)
相模原市橋本図書館
杜のホールはしもと
横浜銀行 橋本支店
みずほ銀行 橋本支店
三菱東京UFJ銀行 橋本支店
りそな銀行 橋本支店
八千代銀行 橋本支店
SING橋本
ドン・キホーテ SING橋本駅前店
MOVIX橋本(シネマコンプレックス)
フィットネスクラブ ルネサンス橋本(フィットネスクラブ) ほか
橋本本町郵便局
橋本神明大神宮
東横イン 橋本駅北口
国道16号(東京環状)
八王子バイパス

南口

相模原協同病院

アリオ橋本(2010年(平成22年)9月17日開業)
神奈川県立相原高等学校
相模原協同病院
表忠碑 - 病院付近にある。山縣有朋 書。
国道16号(東京環状)
橋本陸橋 - JR横浜線との立体交差
橋本駅南入口交差点 - 地下横断道(2013年7月開通)
橋本五差路(橋本高架橋) - 国道129号との交点
国道129号 - 終点:(緑区橋本五差路交差点=国道16号交点)
国道413号 - 終点:(緑区西橋本五丁目1番=国道16号交点)
緑区合同庁舎
相模原市緑区役所
相模原北メディカルセンターほか
ホームセンターコーナン 相模原西橋本店
ロイヤルホームセンター 相模原橋本店
神奈川県立橋本高等学校
相模原市立勤労者総合福祉センター(サン・エールさがみはら)
ラ・フロール(2003年(平成15年)5月29日開業[10])
オーケー 橋本店
コナミスポーツクラブ
コジマ×ビックカメラ 橋本店
神奈川県相模原北警察署
山梨信用金庫 橋本支店
西武信用金庫 橋本支店
橋本郵便局
ゆうちょ銀行 橋本店
かんぽ生命 橋本支店
静岡銀行 橋本支店
橋本公園
相模原北公園
正継寺
バス路線
一般路線バスは神奈川中央交通(神奈中バス、一部は神奈川中央交通東・神奈川中央交通西)と京王バス南により運行されている。高速バス・空港リムジンバスには神奈中バス以外の運行事業者も含まれるため。

相模線の乗換階段のところに「SuicaやPASMOなどで厚木駅で下車する場合は乗換改札機と駅改札機の2回、カードを読ませる」旨の掲示がある。
JR線の長距離乗車券では和歌山線の橋本駅と区別するため、「(横)橋本」と印字される。
過去には小田急多摩線や西武多摩川線の延伸も計画されていた。
神奈川県内に所在する京王電鉄の駅は当駅と若葉台駅、京王稲田堤駅(いずれも相模原線)のみである。

 

1908年(明治41年)9月23日 - 横浜鉄道 東神奈川駅 - 八王子駅間の開通時に現在の名称にて開業。住民の要望によって設置された駅で、当初計画に駅設置の予定はなかった。
1910年(明治43年)4月1日 - 鉄道院が借り上げ。
1917年(大正6年)10月1日 - 国有化され、国有鉄道横浜線の駅となる。
1931年(昭和6年)4月29日 - 相模鉄道相模線が厚木駅から延伸開業。
1944年(昭和19年)6月1日 - 相模鉄道相模線が国有化、国鉄相模線となる。
1945年(昭和20年)5月 - 国鉄橋本工場(後の国鉄大宮工場橋本車両センター)が操業開始、工場へ続く側線が完成。
1980年(昭和55年)3月 - 現在の駅舎(2代目)に改築。
1984年(昭和59年)
2月1日 - 貨物取扱が廃止。北口の東側に1面2線の貨物ホームが存在したほか、国鉄工場線から分岐し大和製罐東京工場へ続く専用線も存在した。
3月 - 橋本車両センター閉鎖。その後設備は解体されて更地となり、しばらく放置されていたが、1986年(昭和61年)に跡地の一部を利用して忠実屋(ダイエー買収後いったん閉店の後、東急ストア(閉店))橋本店が開業したのを初めに、2000年代に入ると橋本郵便局やコーナンが開業し、再開発によって変貌を遂げた。なお、1990年頃までは専用線の一部のレールや踏切も撤去されずに残っていた。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる。
1990年(平成2年)3月30日 - 京王相模原線が南大沢駅から延伸開業と同時に京王初の自動改札機が導入された。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本でICカードSuica供用開始。
2004年(平成16年)12月 -京王電鉄改札内にエレベーターが設置される。
2005年(平成17年)1月 -JR改札内にエレベーターが設置される。
2007年(平成19年)3月18日 - 京王電鉄でICカードPASMO供用開始。
2009年(平成21年)12月 - 2010年(平成22年)1月 - JR橋本駅に第二面から第一面、第三面に待合室が設置される。
2013年(平成25年) - 横浜線よくするプロジェクト で駅構内のLED照明、室内サインを改装実施
2014年(平成26年)3月31日 - びゅうプラザの営業を終了。

所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 ハモ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 3面5線
乗車人員
-統計年度- 64,473人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1908年(明治41年)9月23日
乗入路線 2 路線
所属路線 JH 横浜線
キロ程 33.8km(東神奈川起点)
◄相模原 (2.8km)(1.9km) 相原►
所属路線 ■ 相模線
キロ程 33.3km(茅ケ崎起点)
◄南橋本 (2.0km)(1.9km) (相原)*►
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有


京王電鉄
はしもと
Hashimoto
◄KO44 多摩境 (2.5km)
所在地 神奈川県相模原市緑区橋本二丁目3番2号

駅番号 KO 45
所属事業者 京王電鉄
所属路線 KO 相模原線
キロ程 22.6km(調布起点)
新宿から38.1km
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗降人員
-統計年度- 94,129人/日
-2015年-
開業年月日 1990年(平成2年)3月30日

 

コロナ(CORONA) 2代目 T20型

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コロナ(CORONA)は、トヨタ自動車が1957年から2001年まで生産・販売していた、セダンを中核とするCDセグメント相当の乗用車である。トヨタ車として初めて日本国外でも生産された車種である。車名の由来,英語の「太陽冠」から。

カローラ、クラウンとともに トヨタの伝統的なセダンであり、中核的な位置づけになる車種である。高度経済成長期には日本のマイカー代表車種として、広く親しまれたクルマである。
特に地方都市では 小型タクシーとしても多く用いられた。1960年代から1970年代 コロナの競合車種は 日産のダットサン・ブルーバードであった。このブルーバードとコロナが繰り広げた 熾烈な販売合戦が「BC戦争」と呼ばれるものである。
1957年7月の初代以来11代の系譜をたどったが、2001年以降はコロナ名称は消滅。後継モデルは「コロナプレミオ)」→「プレミオ」の名とともに系統を継承している。

2代目 T20型(1960年 - 1964年)
1960年4月 - フルモデルチェンジ。トヨタが総力を挙げてダットサンセダン(1959年にダットサン・ブルーバード(310系)にモデルチェンジ)打倒を目指して開発された本格的な小型乗用車であった。当時のオペル・レコルトを彷彿とさせるデザインは当時の日本車の水準を越えた流麗もので、当時増加傾向にあった女性ドライバーには特に好評であった。車体は先代同様4ドアセダンのみで、ライトバンおよびシングル/ダブルピックアップは引き続きコロナラインとして別シリーズであった。販売キャンペーンも新しい方式が取られ、発表に先立ち1960年2月頃から新聞紙上に車体デザインの輪郭や一部分を露出して人気を煽る「ティザーキャンペーン」が日本で初めて実施された。設計上最大の特徴は1枚リーフとコイルの組み合わせによるカンチレバー式のリアサスペンションであった。優れた操縦性と乗り心地を実現したが、当時未舗装が多かった地方の道路でタクシーとして酷使されると、耐久性不足が露呈された。また、ピラーが細くスマートなボディも強度不足が指摘された。こうして主にタクシー業界で不評が広がり、当初好調に立ち上がった販売も1960年末頃には伸び悩むようになり、小型車市場でのダットサン・ブルーバードの優位は、T10系の時代と変わらず続き、トヨタは乗用車メーカーとして国内2位の座に甘んじることになった。トヨタは状況を回復すべく必死で対策を講じた。


1961年3月 - 小型タクシー枠が拡大されたことを受けて、クラウンと同じ新規格一杯のR型1,453cc60馬力を搭載した「コロナ・1500」(RT20系)を投入、同様に1,200cc版を投入したブルーバードに対しパワー競争で差をつけた。さらに10月には「コロナ・1500デラックス」(RT20D系)を追加し、自家用車向け販売を強化した。また、特に女性ドライバーに人気があることからイージードライブ装置付きモデルに早くから力を入れ、2速オートマチックトランスミッションの「トヨグライド」(トルクコンバーター付きだがLとDの変速は手動であった)、自動クラッチ(電磁クラッチ)の「サキソマット」(通常の3速MTのクラッチ操作のみ自動化、トヨグライドより性能ロスが少ない)が追加された。また、1500登場と同時に問題のリヤサスペンションをコンベンショナルなリジッド半楕円リーフスプリングに変更した。
1962年 - 日本で最初のカラーCMとなる「コロナ・1500デラックス」のテレビCM放映。「スタント・ドライブシリーズ」の1つとして制作されたもので、内容は色とりどりのドラム缶の上を走行したり、砂ボコリを上げながら蹴散らすというものだった。
1963年4月 - オーストラリア・ビクトリア州・ポート・メルボルンにあった自動車組み立て会社オーストラリアン・モーター・インダストリーズにてトヨタ・ティアラ (Tiara)として生産が開始され、これが日本国外で生産された初めてのトヨタ車となった。なおオーストラリアン・モーター・インダストリーズは後にトヨタが買収し、1985年にトヨタ・オーストラリアとなる。
1963年5月 - 第1回日本グランプリ、ツーリングカー1300 - 1600クラス「C-5」に出場し、1位から3位までを独占した。宿敵ブルーバード・1200は別クラスになったことも幸いしていたが、コロナが丈夫で高性能であることをアピールする好機として、トヨタは盛んにこの戦果を宣伝した[注釈 5]。T20系はまた、対米輸出の戦略車種としても位置づけられ、こちらでも「トヨタ・ティアラ」(クラウンの『王冠』と意味を重ねたネーミング)として1,900ccエンジンを搭載して輸出されたが、1960年にビッグスリーが相次いでコンパクトカーを発売して輸入車に反撃を開始したこともあって、トヨタの期待に反して販売は伸び悩み、アメリカ市場から一時撤退することとなる。

トヨペット・コロナ(2代目)
T2#型
4ドアセダン
1960 Toyopet Corona 01.jpg
コロナライン
1962 Toyopet CoronaLine 01.jpg
販売期間 1960年4月 - 1964年
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドアセダン
3ドアバン
トラック
エンジン P型 1.0L 直4
R型 1.5L 直4
駆動方式 FR
変速機 2速AT / 3速MT
サスペンション 前:ダブルウイッシュボーンコイル
後:トレーリングアームコイルリーフ
全長 3,990mm
全幅 1,490mm
全高 1,440mm
ホイールベース 2,400mm
車両重量 940kg
ブレーキ 4輪ドラム
最高速度 110km/h
1000 3速MT(前期型)

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