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大崎駅 東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線/埼京線/湘南新宿ライン・東京臨海高速鉄道(TWR)

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大崎駅(おおさきえき)は、東京都品川区大崎一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京臨海高速鉄道(TWR)の駅である。JR東日本とTWRが構内を共用する共同使用駅である。

JR東日本の各線と東京臨海高速鉄道のりんかい線が乗り入れている。りんかい線は当駅を終点としている。このうち、JR東日本の駅には「OSK」のスリーレターコード、りんかい線の駅には「R 08」の駅番号が付与されている。
当駅に乗り入れているJR東日本の路線は、線路名称上は山手線のみである。ただし、東海道本線の支線(通称「品鶴線」)と接続する大崎支線と旧蛇窪信号場までも当駅構内の扱いとなっている。運転系統としては次の3系統が停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。
JY 山手線 : 電車線を走行する環状線としての山手線電車 - 駅番号「JY 24」
JA 埼京線 : 新宿駅方面の山手貨物線を走行。りんかい線との相互直通運転を実施 - 駅番号「JA 08」
JS 湘南新宿ライン : 山手貨物線と品鶴線武蔵小杉駅方面を直通運転 - 駅番号「JS 17」
また当駅は、JRの特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。

1901年(明治34年)2月25日:日本鉄道品川線の駅として開業。当時は島式ホーム1面2線だった。
1902年(明治35年)10月15日:貨物の取り扱いを開始。
1906年(明治39年)11月1日:日本鉄道が国有化。
1909年(明治42年)10月12日:線路名称制定により山手線の所属となる。
1945年(昭和20年)5月24日:太平洋戦争中に空襲に遭い、ホーム全焼。
1965年(昭和40年)7月:目黒川信号場と蛇窪信号場を、当駅構内に統合。
1966年(昭和41年):橋上駅化。山手線ホームを拡張の上、現在の島式ホーム2面4線とした。
1980年(昭和55年)10月1日:貨物の取り扱いを廃止。なお、1970年(昭和45年)頃まで明電舎大崎工場(現・東京事業所)への専用線があり、貨物輸送を行っていた。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR東日本所属の駅となる。
1996年(平成8年)3月16日:埼京線の運行区間を恵比寿駅まで延長。同駅では折り返しが不可能だったため当駅との間を回送し、当駅で折り返しを実施していた。
2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2002年(平成14年)12月1日:りんかい線が当駅まで延伸開業[1]。大崎支線のホームが供用開始された事により、埼京線の客扱運転区間が当駅まで延長されてりんかい線との直通運転を開始。また、湘南新宿ラインの停車駅となる。同時期にコンコースを拡幅し、南改札口を供用開始、従来の改札口は北改札口となる。
2010年(平成22年)11月:南連絡通路の拡幅工事が始まる。また、Dilaの整備も進み、ユニクロなどが入居する。

駅構造

島式ホーム4面8線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。相互直通運転している関係でJR東日本・TWRで駅舎・改札内・ホーム・着発線を共用している。
標識などを見る限りJR東日本の色が強いが、どちらか一社の所有ではなく、鉄道資産としてもJR・TWRの共同所有となっている。両社の財産境界は5 - 8番線の途中に設定されており、TWR「りんかい線」とJR「大崎支線」一緒の終点標が設置されている。
架空電車線への電力供給は通常JR東日本から行われる。万一JRから給電できなくなった場合に備えてTWRから6・7番線に供給できる電線を設けている。そのため、TWR線はJR線の停電にかかわらず当駅構内を含む自社線内の通常運行が継続できる仕組みである。
一方、駅管理はJR東日本が行っている。すべての着発線がJR東日本(東京圏輸送管理システム)の運行管理下にあり、駅務においてもJR東日本(東京支社)が社員を配置して行っている。

通路
駅舎は、五反田寄りと品川寄りとにそれぞれ北改札口と南改札口を持ち、両コンコースは「Dila大崎」を介してつながっている。品川寄りのコンコースからのJR山手線ホームへのエスカレーターは、設置位置のホームが狭いために1人用である。また、北改札口からの出口は東口と西口が、南改札口からの出口は新東口と新西口があり、東口及び新東口にはゲートシティ大崎などへ、新西口にはThinkParkなどへのペデストリアンデッキがつながっている。

設備
自動精算機でりんかい線の乗車券の精算を行うことは可能だが、精算にパスネット(現在は発売終了)は使用できない。自動券売機もJR東日本線用のものとTWR線用のものが別に設置されているように表記されているが、TWR線の券売機でもJR東日本線の乗車券を購入することが可能である。なお、乗車券の地紋はJR東日本(JR E)のもので発行される。
JR東日本が営業するみどりの窓口では、当駅発着のりんかい線の普通乗車券・往復乗車券・定期乗車券も発売している。


のりば
番線 事業者 路線 方向 行先 備考
1・2 東日本旅客鉄道 JY 山手線 内回り 品川・新橋・東京・上野方面
3・4 外回り 五反田・渋谷・新宿・池袋方面
5 JA 埼京線 北行 新宿・池袋・赤羽・大宮方面 定期列車使用なし
東京臨海高速鉄道 R りんかい線 上り 東京テレポート・新木場方面 主にJR埼京線からの直通
東日本旅客鉄道 JS 湘南新宿ライン 南行 横浜・大船・小田原・逗子方面
6・7 JA 埼京線 北行 新宿・池袋・赤羽・大宮方面 6番線はごく一部のみ
東京臨海高速鉄道 R りんかい線 上り 東京テレポート・新木場方面 主に当駅折り返し
8 一部列車のみ
東日本旅客鉄道 JS 湘南新宿ライン 北行 大宮・宇都宮・高崎方面
JA 埼京線 新宿・池袋・赤羽・大宮方面
JR山手線
電車の保守整備を担当するJR東日本東京総合車両センター(東総セ)が隣接している。このため山手線電車で当駅始発・終点となる設定がある。
1番線ホームの線路の品川寄りの一番反対側には、詰所に直結する運転士交代用のホームが設置されている。
主に1・3番線を使用する。2・4番線は東京総合車両センターに出入りする電車が使用する。2012年12月22日より、1・3番線のみ可動式ホーム柵の使用が始まった。
環状運転列車は当駅で列車番号を変更する。
TWR
現地の案内では、5 - 8番線全てに埼京線・りんかい線が表示されている。
線内折り返し(新木場方面行き)列車は6・7番線から発車する。
5・8番線の駅名標の線
JR横須賀線武蔵小杉駅開業までは3方向に分かれ、恵比寿 - 大崎 - 大井町(りんかい線)・西大井・横浜となっており、青・緑・オレンジ・紺色のラインカラーが使用されていた。
武蔵小杉駅開業後は恵比寿 - 大崎 - 大井町(りんかい線)・西大井の2方向となっている。
湘南新宿ライン北行については当駅を境に種別案内が変更される場合がある。高崎線直通の快速列車は当駅から先では各駅に停車するため、当駅から北では「普通」として案内される。逆に、宇都宮線直通の普通列車で大宮 - 小山駅間を快速運転する列車については、当駅から北では「快速」として案内される。

 

山手線ホーム(2016年6月)

発車メロディ
発車メロディは、1 - 4番線(山手線ホーム)がサウンドファクトリー[要出典]、5 - 8番線(埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線ホーム)が櫻井音楽工房[要出典]、それぞれの製作によるメロディが流れている。
1 ■ 遊園地のある駅
2 ■ 海の駅
3 ■ 教会の見える駅
4 ■ SF10-38(整理番号)
5 ■東京臨海高速鉄道■■ 瞬く街並みV1
6 ■東京臨海高速鉄道 ホリデイV1
7 ■東京臨海高速鉄道 春待ち風V2
8 ■東京臨海高速鉄道■■ 小川のせせらぎV2(山手線渋谷駅と同じ)


JR山手貨物線は、駅の北方から構内に向けて品川方面に向かう本線と、蛇窪信号場方面に向かう大崎支線とに分岐する。本線側の線路にはホームが設けられていない。
かつては大崎支線側の線路にもホームはなく通過線と着発線があり、埼京線が恵比寿発着だった頃は、同駅が閉塞内の駅で折り返し設備がなかったため、当駅まで回送してこの着発線を使用して折り返しが行われていた。
この大崎支線側の線路には、2002年12月1日からJR埼京線・湘南新宿ライン・TWRりんかい線用として5 - 8番線のホームが設置された。
JR湘南新宿ラインは蛇窪信号場で横須賀線(品鶴線)と合流するが、北行は信号場手前のポイントを通過する。この事態を解消するため、当駅に近い位置に新たな短絡線を新設する計画がある。
新宿方面発着成田エクスプレスは山手貨物線を走行し当駅を通過、目黒川信号場で横須賀線(品鶴線)と合流する。
利用状況
JR東日本 - 2015年度の1日平均乗車人員は154,544人である
同社では浜松町駅に次いで第17位。埼京線とりんかい線の開業以前はJR山手線のみ停車する駅で、乗車人員が5万人程度であった。しかし、両線の開業(延長)や湘南新宿ラインの停車開始、次項で記す駅周辺の再開発などもあり、急激に乗車人員が増加している。
東京臨海高速鉄道 - 2015年度の1日平均乗車人員は59,203人である[利用客数 2]。
りんかい線内全8駅中第1位。

駅周辺
以前は山手線だけの駅であり、周辺はソニーや明電舎などの工場地帯であった。東京都が1982年に大崎副都心に指定すると緩やかながら再開発が進み、2002年12月に埼京線・りんかい線・湘南新宿ラインが利用可能になってからは開発が加速している。
大崎ニューシティ
大崎駅前郵便局
ホテルニューオータニイン東京
ゲートシティ大崎
ゲートシティ大崎郵便局
パークシティ大崎
オーバルコート大崎
アートヴィレッジ大崎
大崎センタービル
ThinkPark
ダイワロイネットホテル東京大崎
大崎ウエストシティタワーズ
NBF大崎ビル (旧:ソニーシティ大崎)
大崎ウィズシティ
大崎駅西口郵便局
品川区立大崎図書館
大崎フォレストビル
日本クッカリー 本社
警視庁大崎警察署
立正大学 - 山手通り沿い(西側)。
品川区立日野学園
品川区立御殿山小学校
このうち、大崎ニューシティ、ゲートシティ大崎、ThinkPark、NBF大崎ビル、大崎ウエストシティタワーズ、大崎ウィズシティは、ペデストリアンデッキを介して駅と直接つながっている。

東急バスは従来東口側の大崎駅停留所に発着していた。品川区によって新たに西口側に大崎駅西口バスターミナルが整備され、WILLER EXPRESSが2015年(平成27年)12月7日夜行便より、東急バスが翌12月8日より乗り入れを開始した。それぞれ以下の路線が乗り入れている。当駅のみ山手線で唯一都営バスが乗り入れていない。


大崎駅西口バスターミナル(2016年6月)
西口バスターミナルは一般社団法人大崎エリアマネージメントによって運営されている。面積は約1392平方メートルで、バス乗降場は0 - 3番の4バースある。品川区や運営団体では今後以下の路線の他、盛岡・青森、秋田、富山・金沢、鳥取・島根、広島などを発着する路線の乗り入れを目指していく。2016年10月31日からは成田空港・芝山町を結ぶ成田シャトルが運行を開始
湘南新宿ライン利用で当駅と西大井駅間を含む区間を乗車する場合、運賃・料金計算は品川駅経由として扱われる。
年に1回(概ね体育の日の前後に)、当駅発着の山手線ノンストップ一周の団体専用臨時列車「夢さんばし号」が運行されている。
2013年8月には、コミックマーケット84開催期間限定で、駅構内アナウンスにVOCALOID「蒼姫ラピス」とマスコットの「大崎一番太郎」が使用された。

所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
東京臨海高速鉄道ロゴマーク.svg 東京臨海高速鉄道(TWR)
電報略号 オサ←ヲサ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 4面8線
乗車人員
-統計年度- (JR東日本) -2015年-
154,544人/日(降車客含まず)
(東京臨海高速鉄道) -2015年-
59,203人/日(降車客含まず)
開業年月日 1901年(明治34年)2月25日
乗入路線 4 路線
所属路線 JY 山手線(JR東日本)
駅番号 □JY 24
キロ程 2.0km(品川起点)
◄JY 25 品川 (2.0km)(0.9km) 五反田 JY 23►
所属路線 JS 湘南新宿ライン(JR東日本)
(正式には山手線)
駅番号 □JS 17
◄JS 16 西大井* (5.6km)(3.6km) 恵比寿 JS 18►
所属路線 JA 埼京線**(JR東日本)
(正式には山手線)
駅番号 □JA 08
(3.6km) 恵比寿 JA 09►
所属路線 R 東京臨海高速鉄道りんかい線**
駅番号 ○R 08
キロ程 12.2km(新木場起点)
◄R 07 大井町 (1.7km)
備考 共同使用駅(JR東日本の管轄駅)
みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅
* 運行計算上は品川駅経由。
** 両線で相互直通運転実施。

 

 

 


作業用防護衣:個人用防護装備 戦闘用防護衣 防護マスク 陸上自衛隊

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作業用防護衣:
有害な化学物質やウイルスから人体を防護する。重量約350g


個人用防護装備 防護マスク:
有毒化学剤及びフォールアウト等を吸引しないように顔面に装着して人体を防護するために使用する。 重量約2Kg


個人用防護装備 戦闘用防護衣:
有毒化学剤、放射性物質及び微生物剤の身体への浸透及び付着を防止するために使用する。 重量約3.8㎏

化学防護服とは、一般的に有毒気体(いわゆる毒ガス)や病原体となるウイルス(天然痘など)といったものの付着や吸引を防ぐための、保護を目的とする特殊な被服である。

これらは人体に害をなす危険な液体や気体(あるいはエアロゾル)・粉末などの固体が人体に付着したり吸引するのを防ぐために着用される。写真に示される陽圧式化学防護服では、内部の圧力を外気圧より高く維持することでそれらの侵入を防いでいる。それ以外にも、浸透性の無い素材を使った非陽圧式の化学防護服では、腐食性の液体など有害物質の接触を遮断するものが存在する。簡易なものではつなぎのように手足は別の手袋などで、顔は呼吸用のマスクで覆われるものも見られる。
有毒な気体に関しては、自然発生的な火山ガス(高濃度の硫化水素など)のほか、化学兵器のようなものがあげられる。自衛隊の化学科部隊、警察のNBCテロ対応専門部隊や機動隊化学防護隊、消防の化学機動中隊や特別高度救助隊、消防救助機動部隊などの救助隊に配備されているほか、各種有害物質を扱う産業現場でも用いられている。また、「化学」とは付いているが前述の通り、危険な微生物やそれらへの感染者を扱う医療や研究分野での利用も見られる。
なおこれらの着用をした場合、この衣類の外部表面が有毒物質に曝露(さらされる)ため汚染される。これを脱ぐ際に外部に付着した汚染物質に触れてしまっては元も子もないため、脱衣の際にはシャワーを浴びるなどして除染してから脱ぐ。対応する汚染の種類によっては使い捨てにされることもあり、その場合は脱いだ衣類は汚染廃棄物として処理される。
なお、化学防護服を含む個人防護具(PPE)には防護レベルが設定されている。その設定方法には、米国式(レベルA~D)と欧州式(タイプ1~6)がある。日本では米国式が用いられることが多い。
レベルA
呼吸具としては供給式のもの(自給式呼吸器(SCBA)または送気マスク(SAR))を使用する。スーツの被覆範囲は呼吸具を含めた全身となる。
レベルB
呼吸具としては供給式のもの(SCBAまたはSAR)を使用する。ただし、呼吸具はスーツから露出していても良い。
レベルC
呼吸具としては、供給式以外のガスマスク(濾過式など)を使用する。

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優れた高い透湿性
透湿度300g/㎡・h以上
※透湿度は高いほど優れ、一般的な防水衣料では200g/m2以上で快適なレベルとされています。
高い耐水性
耐水度150cm以上
※耐水度も高いほど優れ、雨傘で、50cm以上必要とされています。
本商品は、外部の雨水等の侵入は防ぎ(耐水性)、運動等による発汗によって生じる水蒸気は外に放出する(透湿性)優れた機能を有します。

温井ダム

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温井ダム(ぬくいダム)は広島県山県郡安芸太田町、一級河川・太田川水系滝山川に建設されたダムである。


国土交通省中国地方整備局が管理を行う国土交通省直轄ダムであり、太田川の治水と県都・広島市を始め広島県中西部および芸予諸島への利水を目的とした特定多目的ダム法に基づく特定多目的ダムとして2001年(平成13年)に建設された、高さ156メートルのアーチ式コンクリートダム。ダムによって形成された人造湖は龍姫湖(りゅうきこ)と命名され、財団法人ダム水源地環境整備センターによってダム湖百選に選ばれている、広島県の主要な観光地である。

ダムが建設された滝山川は太田川の主要な支流の一つである。島根県境の大平山(標高862.8メートル)西麓付近を水源として山県郡北広島町(旧・芸北町)を南に流れ、途中王泊ダムの人造湖である仙水湖で北東より流れ来る高野川を合流。王泊ダム通過後国道186号と並行する形で流れ、名勝・滝山峡を形成してダム地点を通過後深山峡で知られる深山川を合流させたのち、国道191号・加計大橋直下で太田川に合流し瀬戸内海に注ぐ。流路延長約34.0キロメートル、流域面積約260平方キロメートルの河川で、流域の全てが中国山地内に存在する急流河川である。滝山川はダム湖である龍姫湖の上流端より太田川合流点までの8.0キロメートル区間が、国土交通省の直轄管理区間(指定外区間)となっている。


ダムは太田川合流点より約5キロメートル上流に建設され、下流には王泊ダムの発電所である滝山川発電所と滝本発電所の取水口である滝本(滝山川)ダム、さらに加計発電所といった中国電力の水力発電施設が連続する。これらの下流には加計の中心部が広がる。
なお、ダムが建設された際の所在自治体は山県郡加計町であったが、平成の大合併によって戸河内町、筒賀村と合併し現在は安芸太田町となっている。ダム名は水没した安芸太田町(旧・加計町)温井地区より命名されている。


広島県の旧安芸国地域を主要な流域とする太田川は、古くは福島正則など広島藩による治水・利水事業が実施されていた。しかし「暴れ川」である太田川は洪水を繰り返し流域に大きな被害を与えた。明治時代以降、軍都として発展する広島市の治水対策は特に重要視され、太田川放水路が内務省の手によって1934年(昭和9年)より着手され、太平洋戦争による中断を挟み、1965年(昭和40年)に完成する。利水では1912年(明治45年)7月に広島電灯による亀山発電所の運転開始後、太田川水系でも水力発電開発が進み、1935年(昭和10年)には滝山川上流に王泊ダムが完成した。1957年(昭和32年)にはかさ上げによるダム再開発事業が実施され、発電能力を増強。太田川本流の立岩ダム、支流・柴木川の樽床ダムと共に「太田川三ダム」として地域の電力需要に応えた。
太田川放水路の完成で広島市中心部を含む太田川下流部は治水安全度が飛躍的に向上したが、反面上中流部においては部分的な河川改修が行われる程度で本格的な治水事業には進まなかった。前述の「太田川三ダム」は水力発電専用であり、洪水調節は目的に有していなかった。1964年(昭和39年)の河川法改訂で太田川水系は翌1965年(昭和40年)に一級河川の指定を受け、広島湾河口から73.5キロメートル地点上流、現在の安芸太田町戸河内付近までが直轄管理区間として指定され、同年に治水の基本計画である「太田川水系工事実施基本計画」が策定された。また1966年(昭和41年)5月17日には建設省河川局長通達・建河発第一七八号が発令され、発電用ダムなどの利水ダムに関しても治水に対する責務が明確化。「太田川三ダム」は通達第一類ダムに指定され、多目的ダム・治水ダムに準じた洪水時の放流対策が義務付けされた。しかし、太田川中上流部の治水対策は万全とは行かなかった。こうした中、1972年(昭和47年)7月、梅雨前線による集中豪雨(昭和47年7月豪雨)が中国地方全域を襲い、太田川水系では特に滝山川・柴木川上流域で総降水量が600ミリを超えた。この豪雨により太田川は1948年(昭和23年)に定められた計画高水流量毎秒6,000立方メートルを上回る洪水となり旧加計町を中心に大きな被害を与えた。

太田川水系の新ダム計画
一方原爆投下による壊滅的被害より奇跡的な復興を遂げた広島市では、マツダの自動車工場を始め工場が進出、また人口も飛躍的に向上して上水道需要が急激に増加した。これに対し太田川水系では上水道供給を目的としたダムなどの大規模水道施設の整備が遅れていた。このため建設省は中国地方最大の河川・江の川と太田川水系を連結した形での開発を企図。江の川本流に土師ダムを1975年(昭和50年)に完成させて中国電力可部発電所を経由した形で江の川の河水を太田川に導水。同年完成した太田川本流の高瀬堰より取水する形で広島市などの水需要に対応しようとした。しかしその後も広島市の人口は増加し遂には100万人を超えるに至った。また離島である芸予諸島の水不足も慢性化しており、新たな水資源開発に取り組む必要性が生じた。
1972年7月豪雨による甚大な被害を機に建設省は太田川水系の治水計画を再検討することになり、1975年4月に太田川水系工事実施基本計画の改定が行われた。この中で従来の河川改修に加え洪水調節目的を有する多目的ダムの建設が計画され、検討の結果太田川本流と、昭和47年7月豪雨で特に降水量が多かった滝山川にダムを建設することが定められた。治水基準点である広島市安佐北区玖村の計画高水流量を毎秒12,000立方メートルとし、この内太田川上流の計画ダム群で毎秒4,500立方メートルを調節。残りの毎秒7,500立方メートルを堤防整備や河道改修などで調節するとした。また増え続ける広島市などの水需要にも対処することがダムの目的に盛り込まれた。
こうして計画されたのが温井ダムである。温井ダムは1967年(昭和42年)4月よりダム地点の地質などを調査する予備調査が実施されていたが、豪雨災害を機に1974年(昭和49年)4月より滝山川総合開発事業として実施計画調査が開始され、太田川水系工事実施基本計画改訂後の1977年(昭和52年)7月には基本計画が官報で告示された。なお、工事実施基本計画で浮上した太田川本流のダムは山県郡戸河内町吉和郷地点が検討され、吉和郷ダム計画となったがこちらについては計画が進むことはなかった。

補償
1977年より正式な事業として採択された温井ダムは、先述の通り1967年より予備調査が開始されている。この時よりダム計画は明らかとなり事業者である建設省はダム計画の地元への説明を開始するが、水没予定地である温井地区では直ちに反対運動が起こる。ダム建設によって水没などにより移転を余儀なくされる住民は水没13戸、非水没14戸の合計27戸である。実施計画調査が始まった1974年8月には温井ダム対策協議会が発足し、ダム建設に対し反対の姿勢を見せた。しかし当時反対運動が激しかった群馬県の八ッ場ダム(吾妻川)や奈良県の大滝ダム(紀の川)、熊本県の川辺川ダム(川辺川)とは異なり、「何が何でも反対」という姿勢ではなく移転住民が納得する補償条件を提示できれば、ダム建設には同意するというものであった。
温井ダム対策協議会第二代会長であった佐々木寿人は建設省との交渉において、「温井地区の住民は誰一人として、故郷を水没させるダムを建設してくれと頼んだ覚えはない」として住民の全てがダム建設には反対であると主張した。しかし広島市などの受益地にも親戚や知り合いもいるので下流の人々を困らせたくはないし、将来的に必要な施設であれば反対一辺倒ではなく協議のテーブルには着くとして、建設省に対しては門前払いをしなかった。ただし以下の条件は絶対条件として建設省に同意を求めた。
温井地区の住民が全員住むことができる代替地を造成すること。ただし今までの集落が再現できるようなものであること。
現在以上の生活が維持できるような生活再建対策を提示すること。ダム建設の是非はその計画を見て判断する。
計画に対する変更などを説明する場合は、建設省当局が協議会(現地)に出向いて説明すること。協議会から出向くことはないこと。
交渉は協議会と建設省の間に一本化すること。広島県・広島市など下流受益地は、建設省を通じて協議会への依頼などを行うこと。
以上4点を条件とし、これを受諾すれば交渉の場に臨むことを建設省に伝えた。彼らは水没後の生活再建が成るかどうかを重視していたが、建設省はその扱いに苦慮する。水没住民の生活再建対策としては1973年(昭和48年)に施行された水源地域対策特別措置法があり、一定の基準を超える水没物件を有するダムについては国より補償金のかさ上げをはじめとする生活再建対策の強化・補助を行うことが定められ、川辺川ダムなど補償交渉が紛糾している多くのダムが指定されていた。ところが温井ダムについては移転予定戸数が27戸、水没予定農地が9.5ヘクタールであり、同法の指定基準である移転戸数30戸以上・水没農地30ヘクタール以上に該当しない。このため水源地域対策特別措置法による生活再建対策が利用できないという状況であった。
しかし太田川総合開発の観点で温井ダムの建設は不可避の事業であり、建設省は上水道受益事業者である広島県や広島市の協力を得て、協議会が求める代替地建設を実施することを決める。それは付近を通る国道186号を中心としてダム完成後湖畔となる小温井・奥温井地区に宅地1戸当たり面積1,000平方メートル、農地1箇所当たり面積4,000平方メートルとする都市計画を提示。神社や共同墓地、集会場なども付近の適当な場所に移転する代替地を建設することにした。まず1982年(昭和57年)3月より国道186号の付け替え工事に着手、続いて1984年(昭和59年)4月より先の都市計画に基づく代替地・新温井団地の造成を開始した。同時期地元加計町当局はダムを利用した町興しを目指し、温井ダム周辺に多数のレクリエーション施設を建設して観光客を呼び込む方針を固め、移転住民に対する支援・協力を約束した。この施設群はダム建設時に利用される資材置き場や工事作業員宿舎を有効利用するものである。
こうした事業者・下流受益者の連携により協議会が求める生活再建対策は水源地域対策特別措置法を利用しない形で進められ、後に「温井ダム方式」と呼ばれた。協議会側もこの事業者側の姿勢を認め、1986年(昭和61年)12月に一般補償基準に調印し、補償交渉は妥結した。以後1989年(平成元年)より住宅の移転が開始され、同時に本格的なダム工事にも着手することが可能となった。なお最後まで難航した漁業権交渉は1990年(平成2年)に妥結している。ダム本体の工事は1991年(平成3年)より開始され、1998年(平成10年)に完了。試験的に貯水を行う試験湛水を経て2001年(平成13年)10月8日、ダムは完成した。実施計画調査以来27年、予備調査から起算すれば完成まで34年という長期間のダム事業となった。なお、建設省に対し生活再建対策を要求した二代目協議会会長であった佐々木は1984年(昭和59年)に死去するが、最後に漏らした言葉は「ダムを見てから死にたかった」という本音であった。


温井ダムは計画当初、高さ155メートルの重力式コンクリートダムとして計画されていた。外観は群馬県の草木ダム(渡良瀬川)に酷似しており、常用洪水吐きが草木ダムに比べ1門多い。しかしその後の地質調査において、中生代白亜紀に形成されたと推定されている岩盤の花崗岩は緻密かつ堅固であり、基礎岩盤が堅固でないと建設できないアーチ式コンクリートダムでも建設が可能であるという結論に達した。このため型式もアーチダムへと変更された。またダムの高さも1メートルかさ上げされ、現在の高さ156メートルとなる。アーチダムとしては日本一の高さを有する黒部ダム(黒部川)に次ぎ第二位の高さである。なお、温井ダム完成と同月に新潟県の三面(みおもて)川に奥三面ダム(高さ116メートル)が完成し、同時期に東西で大規模なアーチダムが完成している。しかし、アーチダムは建設地点が先の理由から厳しい制限がなされ、建設可能なダム地点が少なくなっている現在アーチダムとして計画されているのは川辺川ダムのみである。しかし川辺川ダムは民主党政権により建設中止の方向性が強まり、川辺川ダム以外にアーチダムとして計画されているダムも存在しないため今後日本においてアーチダムが建設される可能性は皆無に近く、温井ダムは奥三面ダムと共に「日本最後のアーチダム」となる可能性が高い。
ダムの目的は治水(洪水調節、不特定利水)と利水(上水道供給、水力発電)の四つである。洪水調節については太田川水系工事実施基本計画により、太田川上流の多目的ダム群による洪水調節計画の一環としてダム地点における計画高水流量毎秒2,900立方メートルを毎秒1,800立方メートルカットし、下流には毎秒1,100立方メートルを放流する。ダムには非常用洪水吐きが5門、常用洪水吐きが6門備えられているが、大規模な洪水には非常用洪水吐き、中規模の洪水および雨季に備えて事前に放流する時にはダム中央部の常用洪水吐き2門を使用し、それ以外は下部の常用洪水吐き4門を使用する。不特定利水については慣行水利権分の農業用水補給や河川生態系維持、塩害防止、地下水の水位維持などを目的に広島市安佐北区玖村地点において毎秒19立方メートルの河川維持用水を放流する。
上水道の供給については土師ダムと共に広島県中西部の水がめとして、放流された水は高瀬堰において取水され広島市をはじめ呉市、東広島市、竹原市、安芸郡府中町・熊野町・海田町・坂町、そして芸予諸島の江田島市、豊田郡大崎上島町の5市5町に対し合計で一日量として30万立方メートルの用水を供給する。内訳は広島市上水道が一日量20万立方メートル、広島県上水道(呉市など残りの自治体)において一日量10万立方メートルの供給量である。水力発電についてはダム直下に建設された中国電力温井発電所において、最大2.300キロワットを発電する。温井ダムは太田川水系の治水と利水に対し重要な役割を担っている。しかしここ最近の気候変動に伴う異常気象は、太田川水系の治水対策をさらに難しいものとしている。

台風14号の被害と温井ダム
温井ダム完成により、太田川水系の治水対策は強化され、広島市などの対する上水道供給態勢が確保された。治水については建設中に発生した1999年9月の台風18号において、洪水調節機能を行使できない工事中の段階であったにもかかわらず流入量毎秒910立方メートルの洪水を毎秒460立方メートルに抑えるなど、早速治水機能を発揮した。しかし本来の計画においては、温井ダムのほか太田川本流の新規ダム計画と合わせることで毎秒4,500立方メートルの洪水を制御すると定めており、温井ダムだけでは計画通りの治水目標は達成できない。太田川本流上流部における治水を担うはずのダム計画であった吉和郷ダム計画は立ち消えに近い状況で、この地域は治水対策について空白状態であり、弱点となった。太田川水系上流部の治水計画は例えるなら飛行機のエンジンが片翼しか機能していない状態であり、こうした中で発生したのが2005年(平成17年)9月の台風14号による豪雨災害である。
この台風は宮崎県において大淀川で降り始めからの降水量が1,000ミリを超えて記録的な水害となったほか、高千穂鉄道が大きな被害を受け廃止に追い込まれたり、高知県では貯水率0パーセントだった早明浦ダム(吉野川)が一日で貯水率100パーセントとなる[注 5]など、各地で豪雨による被害をもたらした。広島県では南西部を中心に総降水量が500ミリを超える豪雨をもたらし、太田川は昭和47年7月豪雨の毎秒6,800立方メートルを超える毎秒7,200立方メートルの流量を記録。整備が遅れていた太田川上流・中流において家屋流失や道路損壊などの被害を多発させた。この時に降雨パターンは昭和47年7月豪雨の時とは異なり、治水事業の空白地帯だった太田川本流最上流部や支流の水内川上流部などに集中的に降雨しており、太田川治水事業の弱点を台風に衝かれた格好となった。一方、温井ダムのある滝山川上流部では降雨量は比較的少なかった。結果的に温井ダムではカバーできない太田川上流・水内川上流域の豪雨によって被害が拡大したが、被災住民の一部からは「温井ダムは役に立たなかった」、あるいは「温井ダムの放流で被害が拡大した」という意見が出て、太田川河川事務所が住民に対して行ったアンケートにおいても温井ダムに対する批判が挙がっている。

国土交通省は2007年(平成19年)3月に太田川水系の管理方針を定めた太田川水系河川整備基本方針を策定し、現在はこの方針に沿い太田川水系の中長期的な新たな整備計画である太田川水系河川整備計画を策定中であるが、策定を行う上での諮問機関である太田川河川整備懇談会において、太田川水系の新たな治水方針を検討している。先の住民アンケートでは「災害に強い太田川」を求める声が多かったが、ダム計画については近年のダムに対する否定的風潮もあって「ダムを造らない治水対策」を求める声がある一方で、既設ダムの放流運用の改善や太田川上流もしくは中流に新たなダムを建設して万全の対策を望む声もあり、住民間でも意見が分かれている。検討されている河川整備計画では太田川の計画高水流量を毎秒12,000立方メートルとし、そのうち、毎秒8,000立方メートルを堤防整備や河川改修で賄い、残り毎秒4,000立方メートルをダムで賄うとした。
この計画案では先の太田川水系工事実施基本計画と比べダムで賄う分を毎秒500立方メートル減らすことて大規模ダム建設の必要性を低くしたが、それでも温井ダムは毎秒1,800立方メートルの洪水調節能力しかないため、残りの毎秒2,200立方メートルは新たにダムを建設することで対応せざるを得ない。ダム建設が厳しさを増している現在の状況を鑑み、差分のうち毎秒500立方メートルを上乗せし堤防建設や河川改修で賄うことも検討されたが、太田川下流域は高度の宅地開発がなされ堤防沿いに人家が集中し、新規に堤防を拡幅すると多数の移転家屋が生じるほか、河川敷を縮小するためアンケートで多く寄せられた河川敷の有効利用を求める住民の声と矛盾すること、高瀬堰の改築が必要になること、さらに天然アユの産卵床が川底掘削によって破壊されるなどの問題が発生する。この場合でも毎秒1,700立方メートル分は残るため、結果的に上流部のダム建設は不可避でありかつ事業費が高額になることから、新規ダムの建設以上に困難が予想された。いわゆる緑のダムについては日本学術会議が2001年11月に答申した『地球環境・人間生活にかかわる農業及び森林の多面的な機能の評価について』の中で森林の涵養力について、「中小洪水ならば洪水緩和効果が期待されるが、大洪水では顕著な効果が期待できない。(中略)ダムなどの治水事業と組み合わせることで初めて機能を発揮する」という結論を引用し、太田川流域の81パーセントが森林であり、問題の上流部では広葉樹林が主体であること、水系内の土壌保水力の限界点は経年的に変わらないことなどを挙げ、単独での効用を否定している。


このため懇談会では発電用ダムを含む既設ダムの運用改善と共に新規洪水調節施設の検討がなされ、太田川本流のほか滝山川、柴山川、三篠川、根谷川、水内川などの主要支流におけるダム建設の可否が検討された。過去の豪雨における降雨パターンや流域の宅地分布、環境や景観などを参考に検討された結果、台風17号の主要な降雨地帯であった太田川本流や柴山川などの上流域北西部・南西部が建設には有利であるとの結論に達した。この区域には1975年の太田川水系工事実施基本計画で構想された吉和郷ダム計画の予定地付近も含まれており、中国新聞は2008年(平成20年)3月26日付の記事で「太田川に新ダム構想、安芸太田が有力」として吉和郷ダム計画復活の可能性をにおわす報道を行った[22]。だが河川整備計画に関連する懇談会資料では吉和郷ダムを含め具体的な予定地点については記されておらず、現時点では吉和郷ダム計画が復活するかは全く未定である。同記事では吉和郷より上流の太田川本流にある中国電力・立岩ダムの再開発案もあると報じていることから、今後どのような形でダム計画が定まるかは不明である。しかしより万全の治水整備を行う上では太田川上流域のダム計画は避けられず、河川整備計画における課題事項として検討が進められている。


温井ダムによって形成された人造湖は、龍姫湖(りゅうきこ)と呼ばれる。総貯水容量は8,200万立方メートルでドラム缶に換算すれば約4億本分、太田川水系では最大規模であり、広島県内においても弥栄(やさか)ダム(小瀬川)の人造湖・弥栄湖に次ぐ規模の大きさを誇る。湖名の由来は地元の温井地区に古くから伝わる民話「江の淵の大蛇」に因む。これは姫が大蛇(龍)に化けるという内容のものであり、この民話より湖名を付けている。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」の一つに、広島県内では神龍湖(帝釈川ダム・帝釈川)、八千代湖(土師ダム・江の川)、本庄水源地(本庄ダム・二河川)および弥栄湖と共に選ばれている。2002年(平成14年)には郵便切手にも描かれたが、ダムが図案となったのは温井ダムのほかは黒部ダム、佐久間ダム(天竜川)、小河内ダム(多摩川)、日吉ダム(桂川)しかない。
龍姫湖周辺は様々なレクリエーション施設が整備されているが、これは補償交渉におけるダム対策協議会の要望と旧加計町の地域振興策によるものである。湖畔にはリゾートホテルである温井スプリングスを始め、半島部には延長1.5キロメートルの観光用散策道路などがある自然生態公園、レンタルサイクリング施設やバラ園、カフェテラス、さらには宿泊も可能なロッジもある龍姫湖のさとや工芸センターなど、多種にわたる施設が存在する。またダム本体も積極的に開放されており、エレベーターでダム内部を巡視するための監査廊に立ち入ることもできるほか、ダムの真下にも行くことができる。滝本ダム付近より国道を右折して旧国道186号に入り、滝山川発電所を通過して滝山峡を北進するとダム直下付近に行くことができるが、現在は落石の危険があるため滝山川に架かる橋よりダム本体まで通行止めとなっており本体には行けない。毎年5月から6月にかけては洪水調節のために湖の水位を下げるための放流が実施され、ダム中部にある常用洪水吐き2門から勢いよく放流する様が見られる。夏には「龍姫湖まつり」が開催されるほか、2010年(平成22年)からはダム周辺を発着点とする88キロメートルの長距離マラソン大会「安芸太田しわいマラソン」が開催されている。名勝・三段峡にも比較的近いほか、世界遺産に登録された石見銀山と厳島神社の中間付近に位置し、道路の便も良いため訪問しやすい。
こうしたダムを中心に据えた様々な観光施設の整備など積極的な地域振興を実施したことで、安芸太田町の観光客数はダム完成前に比べ増加した。ダム完成前後で比較すると旧加計町の観光客数は前年の2.4倍に増加し、ダム完成翌年の2002年(平成14年)には年間観光客数が100万人を突破。それ以降も概ね年間80万人前後で推移するなど、旧加計町が目指した地域振興策は成功を見ている[25][注 6]。観光地として成功したダムとしては年間訪問客数が延べ130万人を超える神奈川県の宮ヶ瀬ダム(中津川)を筆頭に北海道の金山ダム(空知川)、岩手県の御所ダム(雫石川)、京都府の日吉ダムなどがあるが、温井ダムもその成功例である。「ダムで栄えた村はない」と批判される面があるが、工夫次第で町の活性化につながった一例でもある。温井ダムは広島県の主要な観光地の一つとして、重要な位置を有している。

温井ダムへのアクセスは、観光地ということもあり自家用車のほかバスによるアクセスも整備されている。自家用車では中国自動車道・戸河内インターチェンジ下車後国道186号に入り、浜田市方面へ直進すれば到着する。また浜田市方面からは国道186号を広島方面へ南下すれば到着する。所要時間は広島市内から約1時間15分、浜田市内から約1時間10分である。公共交通機関ではJR広島駅新幹線口より発着する浜田・益田市方面行きの石見交通バスは乗換なしで直行できるほか、広島バスセンターより発着する三段峡行きの広電バスで途中中国自動車道・加計バスストップで加計交通温井線に、または戸河内ICバスセンターで総企バス芸北線に乗り換え、温井スプリングス停留所で下車すれば到着できる。鉄道はかつてJR可部線の加計駅が最寄り駅であったが、2003年(平成15年)11月に可部駅と三段峡駅間が廃止されたため、ダムにアクセスしやすい最寄駅は広島駅となる。

河川 太田川水系滝山川
ダム湖 龍姫湖【ダム湖百選】
ダム諸元
ダム型式 アーチ式コンクリートダム
堤高 156 m
堤頂長 382 m
堤体積 810,000 m³
流域面積 253 km²
湛水面積 160 ha
総貯水容量 82,000,000 m³
有効貯水容量 79,000,000 m³
利用目的 洪水調節・不特定利水・上水道・発電
事業主体 国土交通省中国地方整備局
電気事業者 中国電力
発電所名
(認可出力) 温井発電所(2,300kW)
施工業者 鹿島建設・西松建設・五洋建設
着工年/竣工年 1974年/2001年

 

 

 

 

 

 

 

代々木駅(JR東日本)・(都営地下鉄)

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代々木駅(よよぎえき)は、東京都渋谷区代々木一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。

駅名の由来
当駅に近かった旧代々木村にちなむ。
ただし、当駅所在地は旧代々木村(駅開業時点では合併して代々幡町)ではなく、旧千駄ヶ谷村(同じく千駄ヶ谷町)であり、在来の代々木地域には含まれない。地元住民にとって代々木といえば、当駅周辺より上原や富ケ谷といった地域を指していた。
開業当時、旧代々木村に駅がなく(小田急小田原線と京王線は開通前)人口が多かった(合併後で7万人)ことが背景と見られる。

 


JR東日本の中央本線と山手線の2路線、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れ、接続駅となっている。都営地下鉄の駅には「E 26」の駅番号が付与されている。
JR東日本の駅は、中央本線を所属線としている。中央本線・山手線とも複々線で、中央本線は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみ、山手線は電車線で運行される環状路線としての山手線電車のみがそれぞれ停車し、中央線快速・埼京線・湘南新宿ラインおよび特急列車は停車しない。特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。駅番号は山手線が「JY 18」、中央・総武線各駅停車が「JB 11」。

2面2線の相対式ホームが1面2線の島式ホームを挟み、合計3面4線を有する高架駅。サイバーチックで近未来的な雰囲気、2階建ての駅舎です。

真ん中の2・3番線(島式ホーム)は、中野方面行中央・総武線と、渋谷・品川方面行山手線が同じホームで乗り換えできるようになっている。ホームの新宿寄りには段差があり、柵と階段が設置されている。なお、中野方面行中央・総武線と池袋・上野方面行山手線は、次の新宿駅で同じホームで乗り換えできる。
出入口は西口・東口と北口の3ヶ所で、西口と北口には指定席券売機が設置されており、大江戸線の乗換口にもなっている。東口は山手貨物線(埼京線)の路盤下をもぐる非常に狭い通路の先にあるが、特徴的なドーム型出入口で知られている。


北口改札内コンコースには各ホームとの間にエスカレーターがあり、北口出口に大江戸線改札までエレベーターが設けられている。東口・西口改札内コンコースには各ホームとの間にエレベーターが設けられている他、スロープや多機能トイレが設置されている。
北隣の新宿駅が度重なる改良工事で当駅側に相次いで延長された。2016年現在で新宿駅の5・6番線ホーム南端と当駅のホーム北端は100m程度しか離れていない。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 JY 山手線 外回り 新宿・池袋方面
2 内回り 渋谷・品川方面
3 JB 中央・総武線(各駅停車) 西行 中野・三鷹方面 三鷹以西直通は早朝・深夜のみ
4 東行 御茶ノ水・千葉方面 東京発着は早朝・深夜のみ

発車メロディ
1 ■ せせらぎ
2 ■ 春
3 ■ 高原
4 ■ 古いオルゴール

4番線のみ櫻井音楽工房製で、それ以外は日本電音製である。かつて4番線は日本電音製の「草原」であった。また1番線の「せせらぎ」はかつて大塚駅などで使用していた旧標準Ver(鐘の音が弱い)、3番線の「高原」は低音のオルガン調であった。

駅周辺
小田急小田原線の南新宿駅まで西へ、新宿駅まで北へそれぞれ数百メートルの距離にある。タカシマヤタイムズスクエアのうち、紀伊國屋書店新宿南店は「新宿」を名乗るものの、距離は当駅の方が近い。

1980年代から1990年頃まで、山手線内回りホーム先頭付近に落書き対策として「落書きボード」が設置されていた。初期は駅近辺の予備校生などによる合格祈願や励ましなどのコミュニケーションが行われたが、いつの頃からかアニメやマンガのキャラクターなどの落書きが多く見られるようになった。水道橋駅にも同様のものがあった。
映画『君の名は。』にも登場する。

 

 

開業前
1885年(明治18年)3月1日:日本鉄道の品川 - 赤羽間が単線開業。現在の代々木駅付近に鉄道線路が敷設される。
1894年(明治27年)
9月23日:大日本帝国陸軍の軍用線が新宿駅 - 青山軍用停車場間に開設。
10月9日:甲武鉄道新宿 - 牛込間が開業。
1895年(明治28年)12月30日:甲武鉄道の新宿 - 飯田町間が複線化。
1904年(明治37年)8月21日:甲武鉄道の飯田町 - 中野間が電化。
1905年(明治38年):日本鉄道品川線の渋谷 - 新宿間が複線化。


開業後
1906年(明治39年)
9月23日:甲武鉄道の駅として開業。当時は後に中央本線となる路線のみに駅があった(高架線の相対式ホーム)。
10月1日:鉄道国有法により国有化。
1909年(明治42年)
10月12日:線路名称制定により中央東線(後の中央本線)の所属となる。
12月16日:品川線が山手線と改称。山手線列車が代々木駅に停車開始。当時は現在の山手貨物線付近にホームが存在していた(地上線の相対式ホーム)。
1923年(大正12年)9月:関東大震災でほぼ完成していた代々木駅の新駅舎に若干の被害が出る。
1924年(大正13年)12月5日:山手貨物線の原宿 - 新大久保開業に伴い、山手線・中央線のホームが現在地(高架線の3面4線)に移転。
1925年(大正14年)
4月:代々木 - 新宿間に中央線下りの乗り越し線完成。新宿駅の乗り換えが方面別に。
11月:山手線が環状運転開始。
1927年(昭和2年)
2月7日:新宿御苑で大正天皇の大喪の礼が執り行われ、代々木 - 新宿御苑仮停車場間が開業(9日まで)。
3月1日:代々木 - 信濃町駅間が複々線化。
1976年(昭和51年)7月:みどりの窓口営業開始(2014年11月14日営業終了)。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅(中央本線所属)となる。
2000年(平成12年)4月20日:東京都交通局、都営地下鉄大江戸線新宿 - 国立競技場間開通と同時に同局の駅が開業。この開業に合わせ、JR東日本は西口駅舎を改築し、新宿寄りの乗り換え地下通路を延伸して北口駅舎を新設した。
2001年(平成13年)11月18日:JR東日本でICカード「Suica」の利用が可能となる。
2002年(平成14年)5月30日:JR駅構内で火災が発生。山手線が全線ストップし、走行していた列車も緊急停車した。
2007年(平成19年)3月18日:東京都交通局でICカード「PASMO」の利用が可能となる。

所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 ヨヨ
駅構造 高架駅
ホーム 3面4線
乗車人員
-統計年度- 70,200人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1906年(明治39年)9月23日
乗入路線 2 路線
所属路線 JB 中央・総武線(各駅停車)*
駅番号 □JB 11
キロ程 9.6km(東京起点)
千葉から45.7km
◄JB 12 千駄ケ谷 (1.0km)(0.7km) 新宿 JB 10►
所属路線 JY 山手線
駅番号 □JY 18
キロ程 9.9km(品川起点)
◄JY 19 原宿 (1.5km)(0.7km) 新宿 JY 17►
備考 山区 東京山手線内・東京都区内駅
* 正式な路線名称
- 千駄ケ谷方は中央本線
- 新宿方は山手線

 

クイーン・エリザベス (客船・3代)

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イタリアのフィンカンティエリ社のモンファルコーネ造船所で建造され、2010年に竣工された。姉妹船のクイーン・ヴィクトリアに比べ、公室アレンジの違いなどにより90,400総tとヴィクトリアより400総tほど大きい。

キュナード社がカーニバル・コーポレーションの子会社となった関係で、クイーン・ヴィクトリアの他にホランド・アメリカ・ラインに2隻、コスタ・クルーズに2隻の準姉妹船が就役あるいは建造中である。

2092人を収容でき、全長は294mでキュナード社が建造した船舶の中ではクイーン・メリー2、初代クイーン・エリザベス、クイーン・メリーに次いで4番目に長く、クイーン・ヴィクトリアと同じ全長である。

内装は初代クイーンエリザベスの就航した1930年代のアール・デコを基調としている。デッキは12層で客室は全部で1029室あり、そのうちの838室は海側の客室(オーシャンビュー)である。


エンジンはキャタピラ社の子会社のMak製で4基のMak 12 M 43 Cと2基のMAK 8 M 43 Cが搭載され、出力は64MWである。

最高速力は23.7kt、航海速力22ktの計画であり、先代・先々代のような高速のオーシャン・ライナーとしての機能は有していない。

クイーン・エリザベスの就航により、キュナード社はクイーン・エリザベス2の引退以来、再び3隻のクイーンが就航する。船名にクイーン・エリザベスの名を用いることは女王の許可を得た。


船名(艦名)のクイーン・エリザベスにまつわる状況は1940年から1948年の状況に似ている。
キュナード社の初代クイーン・エリザベスと戦艦クイーン・エリザベスが同時に現役であった。
空母クイーン・エリザベスの就役が2020年頃に予定されている。

基本情報
船籍 バミューダ
所有者 カーニバル・コーポレーション
運用者 キュナード・ライン
経歴
発注 2007年10月
起工 2009年7月2日
進水 2010年1月5日
処女航海 2010年10月12日


要目
総トン数 90,400トン
全長 294m(964.5ft)
全幅 32.3m(106ft)
喫水 8m(26ft)
機関方式 4 × MaK社製 12 M 43 C ディーゼル
2 × MaK 8 M 43 C ディーゼル63.4 MW
速力 約23.7ノット
旅客定員 2,092名

 

道後温泉駅 伊予鉄道城南線

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道後温泉駅(どうごおんせんえき)は、愛媛県松山市道後町1丁目にある伊予鉄道城南線の駅。城南線の起点で市内電車(松山市内線)の3、5、6号線3つの系統が乗り入れる市内線の主要ターミナルでもある。愛媛県の代表的な観光地・道後温泉への最寄駅である。坊っちゃん列車の終着駅であるため、引き上げ線で坊っちゃん列車の機関車の方向転換が見られる。

相対式ホーム2面2線
ホームの西側に引き上げ線があり、折り返しや夜間滞泊に使われている。この引き上げ線は1927年に廃止された、旧道後鉄道城北線ルートの名残である。
坊っちゃん列車展示線1線
夜間駐機し、ライトアップされる。昼間も運行の合間に入線することがある。


駅舎
1911年(明治44年)建築の旧駅舎が明治洋風建築そのままの外観で復元されており、周辺の景観形成に寄与している。夜間ライトアップあり。鉄骨造駅舎。
観光の拠点駅であり、職員が常駐しているが、改札はなく、運賃収受は他の電停と同様に車内で行う。
駅舎1階には観光案内所と「SHOP坊っちゃん列車」というみやげ物店がある。
駅前
道後温泉商店街(アーケードあり)の南入り口に隣接している。
駅前広場及び駅前の道路は、松山地方の秋祭りの一つである湯神社・伊佐爾波神社の祭礼の時には、未明から神輿の鉢合わせが行われる。やや見世物化しているが、見物客も大変多い、荒々しい祭りである(通行止めになる)。

のりば
道後温泉駅
ホーム 路線 行先
1 ■3号線 松山市駅行き
■5号線 JR松山駅前行き
■6号線 本町六丁目行き
2 降車専用

バスのりば
駅前には伊予鉄道のバスのりばがあるが、駅前広場が狭いので、引き上げ線の北側に路線バス松山空港・湯の山ニュータウン線用のターンテーブルがあり、乗客を乗せたまま方向転換する。
瀬戸内運輸が道後経由で運行している大三島特急線は、当駅から南へ50m前後の位置にある「道後公園北口子規記念館前」停留所から発着する。

1895年(明治28年)8月22日 - 道後鉄道が道後駅を開業。762mm軌間。
当時は城北方面から現在の樋又通りを経由して道後に入り、道後でスイッチバックしてから現在より東寄りのルートで松山(のち一番町、現在の大街道)に向かっていた。
1900年(明治33年)5月1日 - 合併により、道後駅が伊予鉄道の駅になる。
1907年(明治40年)3月 - 松山電気軌道が道後駅を開設。1435mm軌間。
※現在の上一万から道後まではほぼ現在の城南線と同じルート。
1911年(明治44年)8月8日 - 旧道後鉄道を762mm軌間から1067mmに改軌、電化。同年駅舎新築。
1921年(大正10年)
4月1日 - 松山電気軌道が伊予鉄道に合併される。
5月1日 - 旧松山電気軌道の道後駅廃止。
1926年(大正15年)5月2日 - 一番町(現在の大街道)〜上一万〜道後の現在の城南線開通。同時に旧道後鉄道の道後〜御宝町(現在の勝山町)廃止。
1927年(昭和2年)4月3日 - 旧道後鉄道の城北線道後〜木屋町廃止
1961年(昭和36年)4月1日 - 道後温泉駅に改称。
1986年(昭和61年)5月31日 - 駅舎の老朽化に伴い、一部建材を再利用・旧駅舎を忠実に再現する形で新築された駅舎完成。

駅番号 24
所属事業者 伊予鉄道
所属路線 城南線
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 3067[1]人/日
-2014年-
開業年月日 1895年8月22日

 

 

桜木町駅 東日本旅客鉄道(JR東日本

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桜木町駅(さくらぎちょうえき)は、神奈川県横浜市中区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・横浜市交通局(横浜市営地下鉄)の駅である。
1872年(明治5年)、日本で最初に鉄道が開通した時に初代の横浜駅として開業した。その後、東海道本線の延伸に伴い「横浜駅」の名称を現在の横浜駅に譲り、1915年(大正4年)に桜木町駅に改称された。また、2004年(平成16年)1月30日までは東京急行電鉄(東急)の東横線も乗り入れており、その終着駅であったが、翌々日の2月1日にみなとみらい線が開業したのに伴い廃止となった。

乗り入れ路線
JR東日本の根岸線と、横浜市営地下鉄のブルーライン(3号線)が乗り入れている。なお、当駅におけるJRと横浜市営地下鉄との連絡運輸は設定されていない(隣の横浜駅と関内駅が指定されている)。
JR東日本の駅には、根岸線と直通運転を行っている京浜東北線の電車のほか、東神奈川駅から直通している横浜線の電車も日中の多くの電車と朝晩の一部電車が当駅へ乗り入れを行っている。また、当駅からは東海道本線支線(高島線)が分岐しているが、この高島線は基本的に貨物列車専用であり、定期旅客列車の運行はない。
横浜線の昼間時の根岸線直通電車は全列車が当駅折り返しであり、横浜線快速電車も平日は全ての電車が当駅折り返しで運行されている。
横浜市営地下鉄の駅には「B18」の駅番号が与えられている。

島式ホーム2面3線を有する高架駅で、折り返し用の中線を2本のホームで共用している。この中線(2・3番線)は関内・磯子方面とはつながっておらず、横浜・東神奈川方面への折り返ししかできないため、2番線を降車専用、3番線を乗車専用としている。2015年3月時点におけるダイヤでは、折り返しは朝時間帯の一部列車とデータイム時(6 - 17時台 (土休日は18時台))に横浜線直通列車が、その他の時間帯は京浜東北線直通列車が使用している。夜間留置の列車もこの中線を使用する。
また、当駅は高島線と根岸線の合流点にあたるため、両ホーム横浜方の上には信号扱い所が設けられ、終日運転取扱者がここに常駐する。また、忘れ物の取り扱いも終日ここで行っている。
エレベーターは改札内と上下各ホームを結ぶものが存在する。改札口はこれまで関内方面の1つだけであったが、2014年7月1日に横浜方面に北改札が新設され[2]、これに伴い、従来の改札口は南改札とされた(なお、この改札口周辺もリニューアル工事が実施されている)。同時に東西通路も整備され、みなとみらい方面や紅葉坂方面へのアクセスの改善が図られている。また改札の新設に合わせ、同月16日には高架下を利用した駅併設の商業施設として、JR東日本のグループ会社である横浜ステーシヨンビルが管理・運営する「CIAL桜木町」が開業している。
さらに2020年度に向けて3つ目の改札を整備する計画(構想段階)も持ち上がっている。計画では駅舎を南側に延伸した上で、「鉄道創業の地」記念碑がある広場付近(地下道への入口と横浜桜木郵便局の間辺り)に新たな改札を設け、2020年に新市庁舎が完成予定の北仲通地区方面に向けてペデストリアンデッキも整備する方針としている。新改札の設置により、同地区や野毛地区、馬車道地区といった周辺地区の結節点として回遊性の向上や駅混雑の緩和などが期待されている。なお、今回の整備構想は2014年度より検討を開始し2016年10月までに方針が定まったが、2017年2月時点では新改札の設置場所等も含めて検討中の段階で、横浜市では「2017年度中」にも最終決定したい考え。


のりば
のりばは北東(横浜港)側を1番線として、順に下表のように割り当てられている。
番線 路線 方向 行先
1 JK 根岸線 下り 関内・磯子・大船方面
2 降車専用ホーム
3・4 JK 京浜東北線 北行 横浜・東京・大宮方面
JH 横浜線 - 新横浜・町田・八王子方面

当駅周辺地区(みなとみらい地区)は、横浜市における都心(ツインコア)の一つである「横浜都心」に指定されている。
旧東急東横線ガード下の壁面は、スプレーで描かれたグラフィティ(ストリートアート)がいくつも並んでいる事で知られていた(旧高島町駅まで続いており、名物となっていた)。廃線跡は高架の遊歩道を整備する工事が進行中で、紅葉坂方面へのペデストリアンデッキの設置も計画されている。遊歩道の整備に伴う壁面工事によって、前述のストリートアートも現在では撤去されている。
当駅は1989年の横浜港開港130周年を記念して現在のみなとみらい地区で開催された「横浜博覧会」、さらには2009年の横浜港開港150周年を記念して同地区で開催された「開国博Y150」会場の最寄り駅の一つでもあった。

発車メロディ
2005年12月5日まで五感工房製の「JR-SH3」と「JR-SH4」を使用していたが、翌6日から3番線のメロディが櫻井音楽工房製の「twiIight」に変更された。その後、二代目横浜駅開業100周年記念イベントにあわせ、2015年7月25日から降車専用ホームである2番線以外の全ホームで「線路は続くよどこまでも」に変更された。各ホームでアレンジが異なっている。

北行方面(3・4番線)も横浜駅までは根岸線ではあるが、当駅には横浜線の列車が多数乗り入れているため、のりばの案内では区別のため便宜上、直通先である「京浜東北線」の名称が記載されている。
1・4番線には高島線からの貨物列車も通過するため、これらのホームに設置されている電車の接近を示すランプには『電車がまいります』の表示の上に『通過列車』のランプがある。表示器はかつて横浜線で汎用されていたタイプの旧式のもので、横浜線・根岸線内で現在使用されている『電車が』『きます』を交互表示するタイプのものとは異なる。このタイプは2014年1月現在、当駅と八王子駅横浜線ホームでのみ使用されていたが当駅のものは2014年内にリニューアル工事及び北改札口設置工事の際、『電車がまいります』または『通過電車がまいります』が横にスクロールするタイプの新しいものに交換され2015年現在、八王子駅のものを残すのみとなっている。また、ATOS導入前、接近放送には貨物列車の通過放送も流れていた。


4番線の横浜方に設置されている根岸線出発信号機と高島線出発信号機にそれぞれ『電出』(電車線出発の意)と『貨出』(貨物線出発の意)と記されているのは、かつての京浜線が東海道本線の『電車線』、高島線が東海道本線の『貨物線』とそれぞれ同じ東海道本線の支流にあたっていたための名残りであり、横浜 - 桜木町間が根岸線に編入されて久しい今日でもこの表記が残っている。
当駅の配線は、上下本線の間に中線の線路が1本だけ入り、これを両側のホームで共用する形となっている。同様の構造の駅には川越駅(3-6番線)や蒲田駅、東十条駅(京浜東北線)などがある。
当駅のホーム上の方面案内サインは現駅舎への改良と同時に採用されたもので、現在のJR東日本のサインシステムのプロトタイプにもなっている。近年になりピクトグラム表示が追加されるなど、時代に合わせた修正も行われている。

2004年6月2日にリリースされた横浜出身の平成フォークデュオ・ゆずの通算20枚目のシングル「桜木町」は、東急東横線の桜木町駅を唄った歌である。ゆず本人達曰く、桜木町駅(特に東急東横線)は相当思い入れのある駅だったため、東急東横線の桜木町駅がなくなると聞いた時に思い出の場所を歌に残そうと思い、作った曲との事である。また、彼らの楽曲「雨と泪」(1998年)のプロモーションビデオに根岸線と東急東横線の桜木町駅ホームが登場している。
山崎まさよしのヒット曲「One more time, One more chance」の舞台でもある。
いきものがかりの曲「花は桜 君は美し」のプロモーションビデオは、根岸線の駅舎の前で撮影された。
2008年2月20日にデビューした黒人演歌歌手ジェロのデビューシングル「海雪」のプロモーションビデオ撮影は、桜木町駅と隣の高島町駅の旧東急東横線高架下のストリートアート沿いやガード下で行った。

1989年の横浜博覧会開催時、JR東日本の駅前で「夢空間'89」というイベントを開催し、試作寝台客車3両の公開を行った。また、駅改札近くには「さかさま小路」と呼ばれる人や車が逆さまになった彫刻などが展示されていた。この展示はいすゞ自動車が製作したもので、自動車は当時発売されていたいすゞ製乗用車(ジェミニ・ピアッツァ)がモデルとなっている[17]。
1998年、JR東日本の駅が関東の駅百選に選定された。選定理由は「明治5年に開業した鉄道発祥の地の駅で、現在は「みなとみらい21」都市の玄関口となっている駅」。横浜市営地下鉄と当時存在した東急の駅は選定の対象になっていない。
鉄道発祥の地であるため、構内に機関車の模型や日本の鉄道の恩人エドモンド・モレルの像が飾られている。
2007年9月14日から2010年3月31日まで、旧東急東横線桜木町駅舎を改修した展示・イベントスペース「創造空間9001」が開設されていた。この9001の名称は、東横線桜木町駅の廃止の日に最後に入線した渋谷発桜木町行最終電車に充当された9000系9001Fの渋谷方先頭車のクハ9001に因んで命名された。
1989年まで、駅近くの公衆トイレは旧駅舎から道路を跨いで反対側に汲み取り式のものがあるだけであったが、現在は水洗式に変わっている。また、新駅舎完成後に現在のみなとみらい方面にも水洗式の公衆トイレが設置された。
根岸線での乗り換え案内放送では横浜市営地下鉄を省略するが、E233系1000番台の液晶モニターには乗り換え案内が表示されている。また、当駅では連絡定期券の取り扱い指定駅になっていない。
高島線は、東海道貨物支線の一部であるが、将来、貨客併用化される計画がある。計画が実現された場合、当駅が旅客線の駅となるので、京浜東北線の混雑緩和が期待される。
1993年に駅舎の増築を実施した際、担当の施工業者が駅員用便所の配管を間違え、本来は下水管に繋げるべきところを雨水管に繋げるミスを犯したため、汚水が20年に亘って付近の大岡川に流入していたことが、2013年になって判明。JR東日本ではこの便所を含めた施設の使用を中止している

 


JR東日本
かつての横浜駅であり、品川駅と並ぶ日本初の鉄道の駅である。その説明板が駅構内及び関内方のガード沿い(旧駅前広場)にある。
1872年6月12日(明治5年5月7日):品川 - 横浜間で仮開業した日本初の鉄道の横浜駅として開業。
1873年(明治6年)9月15日:貨物の取り扱いを開始。
1887年(明治20年)7月11日:官設鉄道が国府津駅まで延伸開業、スイッチバック式の配線となる。
1909年(明治42年)10月12日:東海道本線所属駅となる。
1915年(大正4年)
8月15日:横浜駅(2代目)開業により桜木町駅に改称、東海道線の電車線の終点駅となった。程ヶ谷駅(現在の保土ヶ谷駅)への路線が廃止され、スイッチバック解消。
12月30日:貨物の取り扱いを廃止。機能は駅東側に新設された東横浜駅に業務を移管。
1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により、開業時からの駅舎は焼失。
1927年(昭和2年):駅舎改築。
1951年(昭和26年)4月24日:構内で京浜線電車が全焼し、死者106名・負傷者92人を出す大惨事となる(桜木町事故、国鉄戦後五大事故の一つ)。
1964年(昭和39年)
5月19日:根岸線が磯子駅まで開通、同時に根岸線所属に変更。
6月1日:東海道本線貨物支線(高島線)が高島駅まで開通。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道の駅となる。
1989年(平成元年)頃:横浜博覧会の開催に合わせて、駅舎を移転・新築(現駅舎)。
1998年(平成9年):「関東の駅百選」に選定される。
2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2007年(平成19年):改札内にエレベーターを新設。


2014年(平成26年)
7月1日:北改札及び東西通路を開設。
7月16日:横浜ステーションビルが管理・運営する商業施設「CIAL桜木町」が開業。
2015年 (平成27年)
7月25日:発車メロディが「線路は続くよどこまでも」に変更。
横浜市営地下鉄
1976年(昭和51年)9月4日:3号線横浜 - 伊勢佐木長者町間の開通時に開業。
2007年(平成19年)
3月18日:ICカード「PASMO」の利用が可能となる。
5月12日:ホームドア使用開始。
2008年(平成20年)3月30日:3号線に「ブルーライン」の愛称を付与。
2012年(平成24年)5月1日 - docomo Wi-Fiによる、無線LANサービス開始。
2015年(平成27年)7月18日 - ダイヤ改正により運転を開始した快速の停車駅に設定される。
東京急行電鉄(廃止)
2004年1月30日までは東横線の終着駅だったが、2日後の2月1日の横浜高速鉄道みなとみらい線の開業により東横線が横浜駅よりみなとみらい線への相互直通運転を開始したため、廃止された。
1932年(昭和7年)3月31日:東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)の東横線が高島町駅から延伸開業し、その終着駅として開業。
1956年(昭和31年)9月10日:高島町 - 当駅間が複線化。
1971年(昭和46年)2月 - 自動改札機設置(5台)
2001年(平成13年)3月28日 - ダイヤ改正により東横線の特急運行が開始。
2004年(平成16年)1月30日:横浜高速鉄道みなとみらい線の開業に伴い、この日の終電をもって営業終了。翌31日付けで廃止。

 

所在地 横浜市中区桜木町一丁目1

所属事業者 JR logo (east).svg東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 サチ
駅構造 高架駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 68,546人/日(降車客含まず)
-2015年-


開業年月日 1872年6月12日(明治5年5月7日)
乗入路線 3 路線
所属路線 JK 根岸線
(JH 横浜線直通含む)
駅番号 □JK 11
キロ程 2.0km(横浜起点)
大宮から61.1km
八王子から46.4km
◄JK 12 横浜 (2.0km)(1.0km) 関内 JK 10►
所属路線 東海道本線(貨物支線)
(高島線)
キロ程 8.5km(鶴見起点)
◄東高島 (2.9km)
備考 みどりの窓口 有
浜 横浜市内駅
* 1915年(大正4年)8月15日に横浜駅(旧)から改称。

国鉄103系電車

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国鉄103系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車。
国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で経済性を最重視して設計され、1963年(昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式である。
国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、比較的駅間が短く速度の低い線区を主に使用することを前提として設計されたが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35%まで弱めて高速特性を近郊形電車の111系並に設定している。設計当時多くの路線で最高速度が95km/hであったこともあり、よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などに投入された結果、高速性能を求められるケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造を、高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策などを施して改善した車両も存在した。なお、最初の投入先が山手線であったことから一部の雑誌執筆者からは駅間距離が短い山手線専用形式と言われたこともあったが、当時の関係者によって完全に否定されている。最高速度は100km/hとなっているが、MT比1:1では90km/hを超えると加速余力は少なく実用95km/h程度である。
本系列の設計は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系にも応用[8]された。


新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両であるが、全車が同時に存在したことはない。
JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれたが、老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)では2001年、東日本旅客鉄道(JR東日本)では2009年に形式消滅となった。
分割民営化時(1987年)と2017年現在の在籍両数比較
会社 JR東日本 JR東海 JR西日本 JR九州 総計
1987年 2,418両 70両 894両 54両 3,436両
2017年 0両 0両 180両 21両 201両

 

 

運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
九州旅客鉄道
製造所 汽車製造、東急車輛製造、近畿車輛、川崎車輛/川崎重工業、日本車輌製造、帝國車輛工業、日立製作所
製造年 1963年 - 1984年
製造数 3,447両
主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
最高運転速度 100 km/h
設計最高速度 110 km/h
起動加速度 2.0[* 1] - 3.3 km/h/s[* 2]
減速度(常用) 3.5 km/h/s
減速度(非常) 5.0 km/h/s
車両定員 48(席)+88(立)=136名[* 3]
54(席)+90(立)=144名[* 4]
全長 20,000 mm
全幅 2,832 mm
全高 3,935 mm
車体材質 普通鋼
台車 ウイングばね式コイルばね台車
DT33・TR201
主電動機 直流直巻電動機
MT55形
主電動機出力 110kW×4基 / 両
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
制御方式 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
バーニア制御(地下鉄対応型)
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
手ブレーキ
^ 4M4T編成
^ 8M2T編成(1000番台)
^ 先頭車
^ 中間車


青井駅(首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス)

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青井駅(あおいえき)は、東京都足立区青井三丁目24番1号にある、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅。駅番号は06。

駅構造
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。駅入口の上屋は5連のアーチを描いています。

のりば
ホーム 路線 行先
1 つくばエクスプレス 流山おおたかの森・守谷・つくば方面


2 北千住・秋葉原方面

切符売場。券売機は4台。改札前に待合スペースがあり造り付の長椅子があります。
オープンカウンター式の有人改札があります。

駅周辺
「青井 (足立区)」、「弘道 (足立区)」、および「綾瀬 (足立区)」も参照
青井兵和通り商店街
西友青井店
綾瀬川
環七通り
首都高速6号三郷線 加平出入口
足立西加平郵便局


足立綾瀬郵便局
青和バラ公園
東京地下鉄(東京メトロ)千代田線北綾瀬駅(徒歩15分)
足立区立青井小学校
青井保育園
ヤマダ電機 テックランド DIGITAL館足立
東京都立江北高等学校
バス路線[編集]
足立区コミュニティバス「はるかぜ」の路線が当駅を発着する。

歴史

2005年(平成17年)8月24日 開業。

駅番号 06
所属事業者  首都圏新都市鉄道
所属路線 つくばエクスプレス
キロ程 10.6km(秋葉原起点)


駅構造 地下駅
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 6,028人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 2005年(平成17年)8月24日

 

信楽高原鐵道SKR400形気動車

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信楽高原鐵道SKR400形気動車(しがらきこうげんてつどうエスケーアール400がたきどうしゃ)は、2015年(平成27年)に登場した信楽高原鐵道の気動車である。

SKR300形SKR301号車を置き換えるため、2015年(平成27年)9月に導入された。信楽高原鉄道鉄道の新車導入は、SKR310形SKR312号車が2002年(平成14年)に導入されて以来13年ぶりである。新潟トランシス製NDCシリーズで、信楽高原鉄道鉄道では初の18 mクラス車である。製作費用は税込で1億7,280万円とされている。

新潟トランシス製の標準気動車NDCをベースとし、信楽高原鐵道で初めて18 m級の車体が採用された。客用扉は片側2か所、運転室直後に1か所、反対側の小窓一枚を挟んだ車端にもう1か所が設けられ、運転室には乗務員扉も設けられた。扉間には固定窓6組が設置された。戸袋部に窓はない。「"陶都 信楽"の伝統を鉄道により未来へつなぎ、四方を山に囲まれた高原の風景に溶け込むデザイン」をコンセプトとし、塗装色は「信楽焼の温かみのある色味」と「高原の紅葉」をイメージした茶褐色をベースに、金色のラインが3本入れられたが、これの3本のラインには「産・官・民」が一体感をもって鉄道を未来へ守っていくという意味合いがある。
客室はロングシートで、4位側車端部に車椅子スペースが設置され、扉には開閉予告チャイムが設置された。内装は側壁、床ともに木目調のものが使用された]。車内には運賃箱や整理券発行機などワンマン運転用の設備が搭載されている。前面にはLED式の行先表示機を備えている。

走行装置
エンジンは、 新潟原動機製のDMF13HZディーゼルエンジンを搭載(連続定格出力243 kW / 2,000 rpm)を1基搭載、動力はTACN-33-1608液体変速機を介して台車に伝達される。台車は前位(貴生川方)が2軸駆動の動力台車NF01PD、後位(信楽方)が従台車のNF01PT。その他、砂撒き装置とフランジ塗油器が搭載された。列車情報制御装置(TICS)が搭載され、全電子制御となったため、SKR500形以外とは併結運転ができない。

空調装置
暖房装置はエンジン排熱を利用した温風式である。冷房装置は機関直結式能力18 kWのもの2台が搭載された。

車歴表
車両番号 竣工
401 2015年9月19日

運用
SKR401が2015年(平成27年)10月4日に営業運転を開始し、代替としてSKR301が前日の10月3日に営業運転を終了、紀州鉄道に譲渡された。ブレーキ方式が変更されたため、在来車とは連結できない。SKR500形の登場後は、SKR500形と連結して運用されることがある。

運用者 信楽高原鐵道
製造所 新潟トランシス
製造年 2015年
製造数 1両
運用開始 2015年10月4日
主要諸元
軌間 1,067 mm
設計最高速度 95 km/h
編成定員 122(50)人
括弧内は座席定員
自重 31.6 t
全長 18,500 mm
車体長 18,000 mm
全幅 3,093 mm
車体幅 2,900 mm
全高 3,947 mm
車体高 3,660 mm
床面高さ 1,150 mm
車体材質 普通鋼
台車 前位:NF01PD
後位:NF01PT
車輪径 860 mm
固定軸距 2,100 mm
台車中心間距離 13,000 mm
機関 横形直噴式ディーゼルエンジン DMF13HZ
機関出力 243kW(330 PS) (連続定格)
変速機 TACN-33-1608形液体変速機
変速段 変速1段、直結3段
搭載数 1基 / 両
制動装置 電気指令式空気ブレーキ(二重)
保安装置 ATS-SW2
EB装置

Oshkosh P-19R Aircraft Rescue and Fire Fighting vehicle (米軍)

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Oshkosh P-19R Aircraft Rescue and Fire Fighting vehicle

Oshkosh P-19Rは、2013年に米海兵隊によって選択された航空救助および消防(ARFF)車両です。最初のフィールディングは2017年6月に発生し、P-19Rは最初の応答として機能します軍用基地および遠征用飛行場での航空機の緊急事態における車両。

オシュコシュは、2013年5月30日に、米海兵隊が次世代の航空救助および消防(ARFF)車両を供給することを発表しました。P-19リプレースメント(P-19R)は、1984年に初めて建設されたOshkosh P-19A艦隊に代わるもので、サービス寿命の終わりに達しています。 P-19R契約は2018年5月まで延長され、総額192百万ドル(192,852,826ドル)が見積もられています。

テストのために2013年12月に3台のプロトタイプ車を納入した後、2015年4月にP-19RがMilestone Cの認可を経てプログラムを移行するために必要なすべての政府開発テストと評価、低レート初期生産(LRIP)。その納品命令が下され、その月にLRIPが開始され、製品検証テスト(PVT)をサポートするための車両が出荷予定となりました。6つのLRIP車両が2016年2月にアバディーン試験センターに納入されたアバディーンメリーランドではPVT、チェリーポイントノースカロライナではFUE(First Unit Equipped)テストを実施しています。テストは2016年3月から2016年6月まで実施されました.2016年8月18日、OshkoshはFull Rate Production(FRP)決定を発表しました。

2017年5月22日、オシュコシュは、米国海兵隊が、追加の54P-19Rに対して3300万ドル以上の配達命令を受領したと発表しました。オシュコシュは、同社が2017年6月に最初のP-19Rを建設する予定であり、合計で2019年までに164のP-19Rを配給すると述べている。 2017年7月27日、オシュコシュは米国海兵隊が、追加の23のP-19Rについては1600万ドル以上。オシュコシュのP-19R契約は2018年まで延びており、164〜200車両を注文することができます。

P-19Rは従来のCセクション剛性シャシーをベースにしており、そのホイールベースは4.851mです。動力は、後部に取り付けられた横置き15.2リットルのCaterpillar C15 6気筒インラインターボチャージャー式水冷4ストロークディーゼルエンジンで、600馬力(448kW)のエンジンを搭載しています。これは、Allison 4700 SP 7速フルオートマチックトランスミッションとオシュコシュ35000シリーズシングルスピードトランスファケースに接続されています。この設定はオシュコシュのLogistic Vehicle System Replacement(LVSR)と共有されています。これは海兵隊員と協力して行われています。

サスペンションは、オシュコシュTAK-4完全に独立したダブルウィッシュボーンオールラウンド、および16インチの独立したホイールトラベルのコイルスプリングによるサスペンションです。TAK-4サスペンションは、海兵隊のLVSRおよび中規模戦車代替車両(MTVR)に搭載され、Oshkosh M-ATVや、アフガニスタン海兵隊が保有するクーガー MRAPにも搭載されています。P-19Rにはミシュラン XZL 1600 R20タイヤが装着されています。ダナ中央タイヤインフレーションシステム(CTIS)は、このドライバが交差されている地形に合わせてタイヤ圧を調整することができ、装着されています。スペアタイヤ/タイヤは車両の後部に搭載されています。

タクシーには4人、運転手と3人の乗組員が座っています。運転手は中央に座っている。

P-19Rにはパワーディバイダが装備されているため、車両の走行と同時にポンプが可能です。ホース、はしご、その他の消防救助装置に加えて、P-19Rには1000ガロンの水、130ガロンの発泡剤、500ポンドのHalotron補助消防士が搭載されています。屋根とバンパーのタレットを組み合わせると、1分間に750ガロンの水を吐き出し、火災から1000フィートまで吐き出します。

本体でのクロスレイホースのベッドには、構造的な火災のために使用することができるかから水を引くために消火ホースへの便利なアクセスを提供消火栓などの河川や池などまたは天然源を。 P-19Rの下面に車両の下に火災や燃料流出を消すために水と泡の56リットルを吐出可能なノズルがあります。車の前では、オシュコシュは水と泡をフロントガラスに噴霧するノズルを設置して、それを冷たく保ちました。
Oshkosh P-19R Aircraft Rescue and Fire Fighting vehicle

P-19Rはまた、1999年に同社の商用消防車用に開発されたOshkoshのCommand Zone統合制御および診断システムも装備しています。Command Zoneは、すべての主要車両ネットワークを操作および診断するコンピュータ制御のエレクトロニクス技術です。システムのバックボーンは、車両コンポーネントを連携させ、診断とトラブルシューティングの効率化を合理化する多重化技術です。ローカル監視システムとリモート監視システムの両方で、コマンドおよび制御ネットワーク、ノートパソコン、オンボードディスプレイスクリーンまたはハンドヘルドパーソナルデジタルデバイスを介して、重要な車両情報にリアルタイムでアクセスできます。

Weight 16,220 kilograms (35,760 lb) curb weight, 21,775 kilograms (48,005 lb) Gross Vehicle Weight Rating (GVWR)
Length 33.17 ft (10.11 m)
Width 8.50 ft 1 in (2.62 m)
Height 10.5 ft (3.20 m)
Crew 4 (driver + 3)
Engine Caterpillar (CAT) C-15 15.2-liter, 6-cylinder inline water-cooled diesel developing 600 hp and 1850 ft/lbs torque.
Payload capacity 1,000 gallons of water, 130 gallons of foam agent, and 500 lbs of Halotron auxiliary firefighting agent
Transmission Allison 4700 SP seven-speed fully automatic transmission and Oshkosh 35000 Series single-speed transfer case
Suspension Oshkosh TAK-4 (ISS with coil springs)
Fuel capacity 265 litres (70 gal)
Operational
range
262 miles (422 km)
Speed 72 mph
Steering
system
power-assisted, front


航空機レスキューおよび消防 (ARFF)は、空港の緊急事態に関与する航空機の乗客および乗組員の対応、災害緩和、避難および可能な救助を含む消防の特別なカテゴリーです。

空港は、各国政府の傘下、または国際民間航空機関の基準の下で自発的に規制監視を行うことができる。

航空緊急事態の大規模な死傷者の可能性のために、緊急時の対応機材と人員が緊急事態に到着する速度が最も重要です。 航空機をすべての危険、特に火災から守るための到着と最初の任務は、搭乗した乗客と乗組員の生存可能性を高めます。 空港の消防士は、消防発泡材、乾燥した化学薬品、航空機内の燃焼する航空燃料を消火するために使用される清浄剤の適用を訓練し、乗客を避難させて火災危険区域を出る道を維持している。 さらに、キャビン内で火災が発生するか、またはそこから外に出て火災が発生すると、ARFFの対応者はこれらの火災の制御/消火にも取り組む必要があります。

ARFF機能のためには特殊な消火装置が必要ですが、その設計は主に速度、給水能力、オフロード性能、およびエージェント排出率など、多くの要因を前提としています。 事故は空港施設のどこでも発生する可能性があるため、消火の可能性、避難の可能性、および/または追加の資源が現場に到着するまで、火を入れるために十分な水やその他の代理人を運搬しなければならない。

燃焼する燃料によって激しい輻射熱が発生するため、消防士は、防火アンサンブルを着用します。これらのアンサンブルは、 近接近接スーツと呼ばれる体から離れた熱を反射するために銀色の材料でコーティングされています。 また、航空機の燃焼室内に入るときなど、煙や他の超高温ガスの存在下で作業することを可能にする清浄な空気の供給源を提供するために、 自給式の呼吸装置を着用しなければならない。

救助活動を実行する必要性は、歩行者の危険軽減と安全な避難の第二の要因です。 自分自身を救出できない乗客は、航空機から取り外して医療を提供する必要があります。 このプロセスは非常に労働集約的で、消防士とサポート要員の両方が必要です。 大規模な死傷事故の性質のため、救助隊員は被災者を分類し、生存に最も影響を与える可能性のある場所で彼らの努力を指示するためにトリアージを使用します。

緊急事態が宣言された後、ARFF機能は、場面を保護し、周辺またはゆっくりと進化する危険を排除し、捜査官のための場面を維持するのを支援するものに戻る。 多くの場合、FAAは調査義務を遂行するが、重大な傷害または致命的な事故があった場合、 国家交通安全委員会 (NTSB)が調査し、ARFF偶発事象が必要な場所で援助する。

アメリカ合衆国のARFF

フロリダ州ウェストパームビーチの パームビーチ国際空港のパームビーチ郡火災救助隊のドラゴン1は、 スノズルの使用を実証しています。
連邦航空局 (FAA)は、定期航空便を運航するすべての米国空港でARFF運航を義務づけています。 これらは、政府機関によって特別に規制されている唯一の民間防火サービスです。

ARFFサービスを受けるために必要な空港は、FAR遵守のためにFAAによって少なくとも年に1回検査される(パート139)。軍事ARFF事業は、個々の事業部門の任務要件を満たさなければならない。

空港インデックス
航空運送機の長さと毎日の平均出発便数の組み合わせに基づいて、各FAAパート139証明書所有者にインデックスが割り当てられます。 空港で最長の航空運送航空機に平均5便以上の出発便がある場合、一致する指標が使用されます。 最も長い飛行機の平均飛行時間が5日未満の場合は、次に低い指数が使用されます。 この指数は、ARFF車両の必要数と消火剤の必要量を決定する。

 

奈良駅(JR西日本)関西本線・桜井線・奈良線 ・片町線

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奈良駅は、奈良県奈良市三条本町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅である。

奈良市におけるJRの中心駅であり、京都・天王寺方面へ向かう快速列車が多数発着している。第3回近畿の駅百選に選定されている。
2010年(平成22年)の平城遷都1300年記念事業を目処に行われている駅周辺の土地区画整理事業とあわせて、当駅の高架化事業が行われ、同年3月13日に最後まで地上のりばから発着していた桜井線が高架化された。
なお、近鉄奈良線の近鉄奈良駅は、当駅から直線距離で約900mほど東に位置しており(徒歩距離は三条通り経由で約1,100m)、移動に徒歩15分程度を要する。乗降客数は市中心部に位置する近鉄奈良駅の方が多い。


乗り入れ路線
当駅には以下の路線が乗り入れている。
関西本線 - 当駅の所属線であり、「大和路線」の愛称区間に含まれている。駅番号はJR-Q36。
桜井線 - 当駅を起点としている。「万葉まほろば線」の愛称が設定されている。
線路名称上、当駅に乗り入れている路線は以上の2路線であるが、これらに加えて関西本線木津駅を起点・終点とする以下の2路線の列車も乗り入れている。
奈良線 - 全列車が当駅まで乗り入れる。駅番号はJR-D21。
片町線 - 「学研都市線」の愛称がある。早朝・深夜の2往復のみが乗り入れる。

JR奈良駅周辺は、かつて関西本線(大和路線)と桜井線が地上を走っており、奈良市の旧市街地を東西に分断しているため奈良市都市部の発展を妨げていた。また、これらと交差する跨線橋も狭く、周辺道路の交通渋滞が激しく起こっていた。そのため、街の再生と交通の円滑化を図るため、平城遷都1300年にあたる2010年(平成22年)の高架化完成を目指し、2002年(平成14年)から連続立体交差が進められ、周辺土地区画整理事業(シルクロードタウン)や3箇所の高架橋道路の平坦化が行われていた。
2003年(平成15年)9月6日まで使われていた2代目駅舎は1934年(昭和9年)に完成したもので、周囲の景観に配慮して方形屋根に相輪を持つ和洋折衷様式が採用されている。大阪鉄道局建築課が京都帝室美術館懸賞設計に応募し落選した設計案を再利用したものだった。高架化に伴い取り壊される予定であったが、その歴史的価値から反対の声は根強かったこともあり、曳家によって元の位置から18m移動された上で保存され、奈良市総合観光案内所として利用されている。また、旧駅舎のホールにはなら・シルクロード博覧会に出品されたサモトラケのニケのレプリカ像が飾られていたが、駅舎移設に際して奈良市立一条高等学校に寄贈されている。地上駅時代は乗り換え跨線橋で東西を結んでおり、東西2箇所に改札口があった。


2010年3月13日に完成した3階建ての駅舎の高架駅で、改札口は高架化を機に2階の1ヶ所に集約し、3階がホーム、2階は駅業務施設と商業施設、1階は商業施設が設けられている。ホームと線路の配置は島式ホーム3面5線の構造である。
駅舎ファサードの基本コンセプトは『「奈良らしさの表現」―青丹よし―』であり、3階のホームの側壁には五色のカーテンウォールが設置され、「青丹よし」を現代的に表現している。ホーム部分には寺社の伽藍をイメージした飾り鉄柱を設置、サーモンピンクに塗られている。飾り柱の上には、垂木をイメージした装飾も設置されている。また、2階部分外装は白壁を意識した白塗り、1階部分外装は近隣のなら100年会館のような瓦をイメージした黒タイル張りとなっている。
内装は、改札内は無装飾であるが、改札外部分は天井には格天井を意識した装飾が、また柱は吉野杉で美装されており、一部柱には組物を思わせる装飾が施されている。また、柱からは釣灯篭を思わせる照明も吊るされている。
駅舎構内には1階・2階部分に幅員20mの自由通路が作られ、西口2階はデッキと接続、東口2階はJR奈良駅NKビルと接続した上で、1階に降りる階段とエスカレーターが設置されている。また、2010年10月3日には、1階自由通路南側には商業施設「ビエラ奈良」が開業し、2012年3月2日に自由通路北側の1・2階部分に「ビエラ奈良」の第2期分が増床オープンした。
当駅は駅長が配置された直営駅であり、管理駅として関西本線の加茂駅・木津駅・平城山駅、片町線の西木津駅、佐保信号場を管理している。

のりば
のりば番号 路線 行先 備考
1 U 万葉まほろば線 天理・桜井・高田・和歌山方面
Q 大和路線 王寺・天王寺・JR難波方面 早朝のみ
番号なし


ホーム Q 大和路線 王寺・天王寺・JR難波・大阪方面
2
3
D 奈良線 宇治・京都方面
4・5 H 学研都市線 同志社前・長尾・四条畷方面
Q 大和路線 木津・加茂方面 一部3番のりば
D 奈良線 宇治・京都方面


1番のりばと同一ホームの反対側は、数字のないのりばとなっている。2番のりばに到着する列車は両側で客扱いを行い、大和路線下り列車と万葉まほろば線の列車との同一ホームで乗り換えることができる。2番のりばへの到着時には、2番のりば側の扉が先に開き、発車時はのりば番号なし側の扉が先に閉まる。なお、数字のないのりばは「こののりば」と自動放送されている。
朝ラッシュ時に桜井線(万葉まほろば線)・和歌山線経由でJR難波駅へ向かう快速があるが、大和路線法隆寺駅経由の列車と誤乗を防ぐ意味で、「普通 万葉まほろば線経由王寺行き」と案内されている。


3方向すべての入線・発車に対応しているのは3・4番のりばのみである。1・2番のりばは木津・桜井方面からの入線と法隆寺・桜井方面への発車のみ対応しており、5番のりばは法隆寺方面からの入線と木津方面への発車のみ対応している。なお、関西本線の下り本線は2番線、上り本線は5番線である。
旅客案内上ののりばと運転取り扱い上の番線は次の通り。
1番のりば…1番線
番号無しのりば、および2番のりば…2番線(下り本線)
3番のりば…3番線
4番のりば…4番線
5番のりば…5番線(上り本線)

奈良市の目抜き通りである三条通り商店街の西端に位置する。春日大社参道の始点であり、参道入口を示す常夜灯が駅前広場に立つ。三条通りは歴史ある地元向け老舗店と観光客向けの土産店などが混在するが、2000年代に入ると全国チェーンのレストランやカフェなども増えた。奈良旧市街地の中心である。
寺社の建ち並ぶ観光地である奈良公園へは、駅を東へ、三条通り商店街を徒歩(約15分)で向かうか、奈良交通の市内循環バスなどの公共交通機関を利用することになる。北側は古くからの市街地。さらに行くと奈良テレビ放送や鴻池運動公園がある。駅前東側を南北に奈良県道754号が走る。
西側はシルクロードタウン21と称した再開発が進み、マンションなどの住宅街である。高架新駅完成を見込んでいくつかのホテルやショッピングモールも営業を開始しているが、西口のホテル建設が頓挫したため現在も一部は空き地となっている。なお、線路高架化に伴う高架下の道路整備が遅れているため西側の交通事情はよいとは言えない。


高架化工事中の2006年(平成18年)、旧駅ホームの下から謎の遺構が発見されたため奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が行われた結果、明治時代の転車台と判明した。発掘された転車台は高架化工事に支障するため、そのままの形で保存されることなく撤去されたが、一部のレンガなどは同研究所附属博物館が保存し、展示会も行われている。
奈良駅には奈良機関区(のち奈良気動車区)が所在していたことから、1980年代後半までは転車台と機関庫が存在しており、1986年(昭和61年)8月に蒸気機関車C56形160号機による「SL大和路号」が運転された際にこの転車台が使用されている。


1890年(明治23年)12月27日 - 大阪鉄道 (初代) 王寺駅 - 当駅間の開通時に、同線の駅(一般駅)として開業。
1896年(明治29年)4月18日 - 奈良鉄道 木津駅 - 当駅間の開通時に、同線の駅が開業。
1899年(明治32年)
10月14日 - 奈良鉄道線が京終駅まで開通。
5月21日 - 関西鉄道 大仏駅 - 当駅間の開通時に、同線の駅が開業。
1900年(明治33年)6月6日 - 大阪鉄道が関西鉄道に合併。
1905年(明治38年)2月7日 - 奈良鉄道が関西鉄道に合併。これを以って関西鉄道の単独駅となる。
1907年(明治40年)
8月21日 - 関西鉄道線 加茂駅 - 大仏駅 - 当駅間が廃止。
10月1日 - 関西鉄道が国有化され、国有鉄道の駅になる。


1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により、関西本線所属となる。
1934年(昭和9年) - 寺院風の駅舎が完成。
1945年(昭和20年)7月22日 - 空襲による被害を受ける。
1984年(昭和59年)2月1日 - 貨物の営業が廃止され、旅客駅となる。
1987年(昭和62年)
4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
7月31日 - 駅舎のライトアップが始まる。


1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、関西本線で「大和路線」の愛称を使用開始。
2003年(平成15年)
9月7日 - 高架化工事のため仮駅舎に移転。
11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2005年(平成17年)9月11日 - 高架化工事のため仮線・仮設ホームでの営業を開始(当初は同年5月22日の予定であったが、JR福知山線脱線事故の影響により延期された)。
2006年(平成18年)7月7日 - 構内遺跡の存在が発表される。
2008年(平成20年)
3月15日 - おおさか東線の放出駅 - 久宝寺駅間の部分開業によるダイヤ改正に伴い、新設された直通快速の発着駅となる。
6月29日 - 関西本線ホームが高架化。
2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2010年(平成22年)
3月13日 - 桜井線ホームが高架化され、駅機能がすべて高架部に移設。路線愛称の制定により、桜井線の当駅 - 高田駅間で「万葉まほろば線」の愛称を使用開始。
10月3日 - 東西自由通路が開通し、ビエラ奈良が先行オープン。
2011年(平成23年) - 駅東口デッキに屋根を設置。
2012年(平成24年)3月2日 - ビエラ奈良が全面開業。
2013年(平成25年)3月 - 連続立体交差事業が完了。
2018年(平成30年)春 - 駅ナンバリング導入予定。

 

所在地 奈良県奈良市三条本町1-1

所属事業者 J西日本旅客鉄道(JR西日本)
電報略号 ナラ
駅構造 高架駅
ホーム 3面5線
乗車人員
-統計年度- 18,071人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1890年(明治23年)12月27日
乗入路線 3 路線
所属路線 Q 関西本線(大和路線)**
(D 奈良線直通含む)
駅番号 JR-Q36(大和路線)
JR-D21(奈良線)
キロ程 133.9km(名古屋起点)
加茂から13.0km
京都から41.7km
◄*平城山 (3.8km)(4.8km) 郡山►
所属路線 U 桜井線(万葉まほろば線)
キロ程 0.0km(奈良起点)
(1.9km) 京終►
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* この間に佐保信号場有り(当駅から2.9km先)。
** このほか、H 片町線(学研都市線)の一部列車(早朝・深夜のみ)も当駅を発着

しらさぎ特別急行列車

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しらさぎは、西日本旅客鉄道(JR西日本)および東海旅客鉄道(JR東海)が名古屋駅・米原駅 - 金沢駅間を東海道本線・北陸本線経由で運行する特別急行列車(エル特急)である。

1964年10月1日に東海道新幹線の開業に合わせて、名古屋駅 - 富山駅間の特急列車として運転を開始した。しかし481系電車の落成が間に合わず、運転開始は12月25日にずれ込むことになった。運転開始当初から一等車と食堂車を含む11両編成で運行される。

北陸新幹線と重複する金沢駅 - 富山駅・和倉温泉駅間は廃止され、金沢駅 - 富山駅間はシャトルタイプの新幹線「つるぎ」で代替された。金沢駅 - 和倉温泉駅間についてJR西日本は「七尾線に乗り入れる特急の存続に前向きな方針を示している」とされており、金沢駅発着の特急「能登かがり火」で代替している。


北陸新幹線の敦賀以西ルートでは「小浜・京都ルート」が優位になっていることから、北陸経済連合会は「名古屋への利便性を配慮すべきだ」として「しらさぎ」の存続を要望している。
列車名は山中温泉の開湯伝説に登場する白鷺が由来となっている。

2015年3月14日現在の運行概況は次の通り。
定期列車は名古屋駅 - 金沢駅間で8往復、米原駅 - 金沢駅間で8往復の計16往復、1時間ごとに1本、米原駅の下り列車をおおむね毎時56分発、金沢駅の上り列車をおおむね毎時48分発で運転している。このほか、臨時列車として米原駅 - 金沢駅間で3往復のダイヤが用意されており、多客期に運転されている。米原駅では東海道新幹線との接続が考慮されており、日中は「ひかり」(東京駅・新大阪駅発着列車)と9 - 10分で接続して、福井県の芦原温泉駅以南から首都圏へつなぐ列車である。また、名古屋駅・米原駅から富山県各地ならびに「サンダーバード」や「ダイナスター」とともに石川県の加賀温泉駅以北から首都圏への重要なアクセスを担っている。
2008年3月14日まで、通勤・通学輸送の関係で平日のみ泊発の「しらさぎ」が運転されていたが、翌15日のダイヤ改正で「おはようエクスプレス」に系統分割された。


列車番号は名古屋駅発着の列車が号数+M、米原駅発着の列車は号数+5000Mである。
停車駅[
金沢方面
名古屋駅 - 尾張一宮駅 - 岐阜駅 - 大垣駅 - 米原駅 - (長浜駅) - 敦賀駅 - 武生駅 - 鯖江駅 - 福井駅 - 芦原温泉駅 - (大聖寺駅) - 加賀温泉駅 - 小松駅 - (松任駅) - 金沢駅
( )は一部列車が停車。
長浜駅:下り3・7・13・51・55・57号、上り6・12・16・56・58・60号が停車。
大聖寺駅:上り64・66号が停車。
松任駅:下り15・51・57・59号、上り2・16・52・54号が停車。

基本的に6両編成での運行。多客期等は付属3両編成を増結し、9両編成で運転する。
間合い運用で本列車のほかに「ホームライナー大垣」「能登かがり火」「ダイナスター」でも使用される。
681系0番台・2000番台
2015年3月14日より、金沢総合車両所に所属するW編成(0番台)・N編成(2000番台、元北越急行所属車)が主に使用されている。


これらの編成は「はくたか」や「サンダーバード」から転用されたもので、転用にあたって683系2000番台と同様に側面には青とオレンジ色の帯が施されており、金沢総合車両所松任本所と吹田総合車両所でラインカラーの変更(N編成は車体全体の塗り替えも実施)が行われた。ただし先代や転用前とは異なりエンブレムステッカーは貼られていない。
683系8000番台
2015年6月頃より金沢総合車両所所属の元北越急行所属車であるN03・N13編成が「しらさぎ」色に塗り替えられ、上記の681系と共通運用で使用されている。
それ以前にも同年4月に代走として北越急行色のまま米原 - 金沢間の列車で使用された実績を持っている。

担当車掌区所
JR東海とJR西日本がそれぞれ自社線内を担当し、名古屋駅発着の列車は米原駅で交代する。なお、2004年3月ダイヤ改正までは運転士のみ交代し、車掌は両社ともに終着駅まで乗務していた。
JR西日本
米原列車区
敦賀地域鉄道部敦賀運転センター
福井地域鉄道部福井運転センター
金沢列車区
JR東海
大垣運輸区
名古屋運輸区

1987年(昭和62年)4月1日:日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化により、名古屋駅 - 米原駅間は東海旅客鉄道(JR東海)、それ以外の区間は西日本旅客鉄道(JR西日本)による運行となる。
1988年(昭和63年)3月13日:ダイヤ改正。
米原駅 - 金沢駅間で特急「きらめき」を1往復新設。
「しらさぎ」の全列車が名古屋駅 - 富山駅間運転に統一。
1989年(平成元年)3月11日:ダイヤ改正で以下の変更を実施。
「加越」の2往復を名古屋駅発着の運転とし「しらさぎ」に変更。「加越」6往復「しらさぎ」8往復運転。
1991年(平成3年)
3月16日:「加越」1往復を「きらめき」に変更し2往復運転。同時に自由席を設定。
9月1日:七尾線電化に伴い「しらさぎ」の1往復が和倉温泉駅発着に延長。
1992年(平成4年)3月14日:「きらめき」の停車駅を大幅に増加。
1997年(平成9年)3月22日:ダイヤ改正で以下の通り変更。
「きらめき」を「加越」に統合し7往復運転。


2000年代の動き
2001年(平成13年)7月12日:「しらさぎ」の名古屋・富山方先頭車に「スーパー雷鳥」から転用のパノラマグリーン車が投入。同時に塗装変更を実施。
2003年(平成15年)
3月15日:「しらさぎ」4往復に683系を投入。
7月19日:「しらさぎ」「加越」683系に統一し485系の運用が終了。
10月1日:ダイヤ改正により以下変更を実施。
「加越」が「しらさぎ」に統合されて廃止。「しらさぎ」は16往復になる。米原駅発着の「しらさぎ」は50 - 60号を付番。
「しらさぎ」は武生駅・鯖江駅に全列車停車。
「おはようエクスプレス」・「おやすみエクスプレス」を運転開始。このため上り「しらさぎ」1本が平日のみ泊発になる。
2004年(平成16年):水害により不通となった高山本線経由「ひだ」の代替として以下の措置を実施。
和倉温泉駅発着の定期列車から金沢回転車を臨時列車扱いで1往復富山駅発着に変更。
2006年(平成18年)
3月18日:「しらさぎ」レールゴーサービスを廃止。
9月23日:「くずりゅう」米原駅 - 金沢駅間で国鉄色に復元した475系6両編成での復活運転を実施。
2007年(平成19年)3月18日:2号車指定席を禁煙車化。
2008年(平成20年)3月15日:平日のみ運行されていた泊発の列車を「おはようエクスプレス」に変更。これにより、「しらさぎ」の全列車が富山駅発着に戻る。
2009年(平成21年)6月1日:全車禁煙化。
2010年代の動き
2013年(平成25年)3月16日:JR東海区間(名古屋駅 - 米原駅間)の車内販売を廃止。
2014年(平成26年)9月15日:JR西日本区間(米原駅 - 金沢駅・富山駅・和倉温泉駅間)の車内販売を廃止。
2015年(平成27年)
3月14日:北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間開業に伴い、「しらさぎ」の金沢駅以東を廃止(金沢駅 - 富山駅・和倉温泉駅間を廃止)。また、車両は683系2000番台から681系、列車編成では基本6両編成、多客期等は9両編成(JR西日本区間のみ、JR東海区間は6両編成)に変更される。
4月28日:先の北陸新幹線の金沢開業により、「しらさぎ」運用から離脱された683系2000番台を289系として直流化され、京阪神から南紀方面の「くろしお」と北近畿方面の「こうのとり」「きのさき」「はしだて」に転用されることが正式に発表された。
6月頃:683系8000番台の塗装変更が終了し正式に「しらさぎ」として運用開始、入れ替わる形で681系1000番台が「サンダーバード」に復帰する形で本形式での定期運用から撤退。
7月18日:台風11号による大雨の影響で、「しらさぎ」の名古屋駅・米原駅 - 敦賀駅間が終日運休になり、敦賀駅 - 金沢駅間が「ダイナスター」として臨時運転された。

種類 特別急行列車(エル特急)
現況 運行中
地域 愛知県・岐阜県・滋賀県・福井県・石川県
前身 特急「加越」「きらめき」
運行開始 1964年10月1日
運行終了 2015年3月13日(金沢駅以東)
後継 新幹線「つるぎ」、特急「能登かがり火」(金沢駅以東)
運営者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
東海旅客鉄道(JR東海)
旧運営者 日本国有鉄道(国鉄)


路線
起点 名古屋駅・米原駅
終点 金沢駅
使用路線 東海道本線・北陸本線
技術
車両 681系電車・683系8000番台電車
(JR西日本金沢総合車両所)
軌間 1,067 mm
電化 直流1,500 V
交流20,000 V・60 Hz
最高速度 130 km/h

 

敦賀駅 (JR西日本)・(JR貨物)北陸本線・小浜線

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敦賀駅(つるがえき)は、福井県敦賀市鉄輪町一丁目に所在する、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。


日本海側の港町として栄えた敦賀市の中心駅である。駅前には都奴賀阿羅斯等(つぬがあらしと)の銅像、駅前通りには港町に因み宇宙戦艦ヤマト(ヤマトよ永遠に)および、鉄道の町に因み銀河鉄道999の銅像がそれぞれ設置されている。
北陸本線を所属線としており、当駅が起点となる小浜線を含め2路線が乗り入れている。この2路線に加えて、2つ隣の近江塩津駅から分岐する湖西線の列車も多数乗り入れ運行系統上の終着駅となっている。また、事務管コードは▲541413を使用している。
このほか、当駅からは敦賀港駅へ通じる北陸本線貨物支線(通称「敦賀港線」)が分岐している。この支線はJR貨物の第一種鉄道事業路線であるが、2009年3月いっぱいで貨物列車の設定がなくなり踏切の線路が埋められて、事実上休線となっている。なお、JR貨物は北陸本線の第二種鉄道事業免許を有している。
北陸本線有数の難所である柳ヶ瀬越え、杉津越えに南北を挟まれた駅で、かつてはその歴史的背景から機関区が所在したため広大な敷地を有する。駅構内の東側には敦賀第一機関区と客貨車区が、また交流電化時には駅南側に敦賀第二機関区が設けられ、峠越えに備えた重装備のD51形蒸気機関車が多数配置され、機関車の交換や地域輸送列車の仕立てが多数行われていた。長時間停車の列車も多く、乗客がホームに出て休む姿も多かった。1960年代に入り近代化が行われ、「鳩原ループ線」、深坂トンネルおよび北陸トンネル建設による新線切り換え・複線化と交流電化が行われ輸送力の強化が図られた。現在は長距離列車は交直流電車を使用する優等列車へ置き換えられ、2015年3月13日の大阪行き臨時寝台特急列車「トワイライトエクスプレス」を最後に長時間停車する列車はなくなった。さらに、国鉄時代には特急列車も含めて当駅には全列車が停車していたが、民営化後は大阪・名古屋方面から福井・金沢・富山方面への速達性を高めるため、また特急列車の増発などの影響で当駅を通過する列車も設定されている。
その後、電車化や貨物列車削減および民営化によって敦賀第一機関区は廃止、旧敦賀第二機関区はJR西日本の敦賀運転所となり、さらに組織変更が行われ福井地域鉄道部敦賀運転派出を経て、現在は敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室となっている。交流電気機関車の営業用第一号となったED70 1号機は敦賀第二機関区に配置され、使用停止後も永らく敦賀運転所内に保管されていた(現在は長浜鉄道スクエアにて屋内展示)。なお敦賀地域鉄道部は、北陸本線の新疋田駅と小浜線の各中間駅を管理下に置いている。
一方、貨物列車の中継としての機能もあった。前述の通称「敦賀港線」への貨物列車や専用線発着の私有タンク車による硫酸輸送等もあったが、現在は貨車継走はなく、旧機関区や側線群が整理され大きな未使用地になっている。なお、この場所は島式ホーム2面4線を持つ高架駅として計画されている北陸新幹線の駅用地などとして利用する構想がある。
交流電化は当時最新の技術であったが、その後は直流区間への高価な交直流電車のやりくりができないなどのデメリットも出てきた。そのため、地域活性化の起爆剤として大部分の費用を地元自治体の負担により、2003年に小浜線を直流で電化し、2006年には湖西線永原 - 近江塩津間と北陸本線長浜 - 当駅間の直流化を実施し、当駅まで新快速をはじめとする直流電車が乗り入れるようになった。新快速は湖西線経由の場合は近江舞子駅、北陸本線経由の場合は彦根駅まで各駅に停車する。なお、ICOCAなどの各種乗車カードは利用できず、改札内の通路にはその旨を記した看板が掲げられている。
隣の南今庄駅とは、16.6㎞離れており、山陽新幹線を除き、JR西日本で最も駅間距離が長い区間である。


北陸本線・湖西線直流化工事
詳細は「北陸本線#米原駅 - 敦賀駅間の輸送改善」および「湖西線#直流化工事」を参照
北陸本線の長浜駅と当駅までと、湖西線の永原駅と近江塩津駅までの直流電化への変更が滋賀県と福井県が主導となって決まり、2003年4月に工事協定を結び、同年10月26日に着工した。工事は2006年9月23日深夜から9月24日未明にかけて行われた電気設備切替工事をもって完了し、同年10月21日から京阪神方面との新快速をはじめとする直流電車の直通運転が始まった。これにより、朝8時台の福井行き1本以外の普通列車は、当駅で系統が分断された。
従来は、北陸本線長浜駅 - 虎姫駅間と湖西線永原駅 - 近江塩津駅間にあったデッドセクションが、当駅北3.9km地点(北陸トンネル敦賀側坑口から200m)に移設された。
ちなみにこの直流電化事業は、2003年完成の小浜線電化事業、計画中の琵琶湖若狭湾快速鉄道(リゾートライン、現在は計画撤回)計画と共に「嶺南鉄道三点セット」と呼ばれている。
また敦賀市都市計画マスタープランによると、北陸新幹線敦賀駅駅舎整備事業と平行して現在工場と農地が広がる木の芽川右岸を開発、中高層の高度利用も考慮した住宅地および商業地を整備する計画が存在するようだが、具体化に至っていない。

駅舎改築計画とその後
完成から50年以上が経過し、一部で老朽化が進む駅舎について、バリアフリー化もあわせた改良が検討されてきたが、駅のホームが比較的軟らかい地盤の上にあることからエスカレータやエレベーターの設置が難しく、目に見える形で進んでいなかった。しかし、2009年から2010年にかけて敦賀市が事業主体となって駅舎改築が検討されていることが明らかになった。


駅舎を3階建てに改築し、改札口を3階に移動。跨線橋で各ホームにアクセス
駅舎は2代目駅舎(1910年落成、1945年7月12日の敦賀空襲で焼失)をモチーフにしたデザインを中心に検討中。
バリアフリー化は駅舎1階 - 3階と跨線橋 - 各ホームにエレベーターを設置する事で実現。
駅舎を現地から30mほど南に移動(概ね市営駐車場の東側の位置)。
しかし、2007年末頃から北陸新幹線の敦賀駅までの延伸を考慮し、「新幹線の状況が決まらない以上、駅舎改築には同意できない」とJR西日本が表明し、駅舎改築計画は事実上凍結された。その後、現駅舎を大規模リニューアルする案が浮上、2008年11月25日に開かれた「敦賀駅周辺整備構想策定委員会」でその方針が明らかとなった。概要は以下のとおりである。
中2階を新設、トイレを増設し、待合室を拡張。観光案内所も拡充へ。
一部は中2階までの吹き抜け構造に。床面積は約1.5倍の1330平方メートルとなる。
外観デザインは当初3案が存在。これに加え、先の改築計画でまとまった2代目駅舎をモチーフとした案を追加した。
JR西日本のバリアフリー化工事は、幅4mの跨線橋を新設した上で各ホームとの間にはエレベーターと上りエスカレーターを新設。
駅舎のうち、駅長室がある部分は現状のままとする。
費用は約6 - 8億円と見込まれ、2009年度当初予算へ盛り込んでJR西日本が2009年度に着手するバリアフリー化工事と同時着手、2年の工期をめどに同時完成を目指すとしていた。その後、駅舎デザインに関して市民からの提案があり計画は少々延期されたものの、2010年5月頃から仮駅舎を建設、10月22日に仮駅舎の使用を開始した。旧駅舎(待合室辺り)は解体された後、敦賀市が2013年の完成予定で建設する。 2014年4月5日、「敦賀駅交流施設オルパーク」が開館した。
なお、これらのバリアフリー設備については2012年12月16日に使用が開始された。

駅構造
島式ホーム3面6線と切り欠きホーム1線、合計3面7線のホームを有する地上駅。駅舎は構内の西側にある。1・2番のりばには小浜線、3 - 7番のりばには北陸本線の列車が発着する。
4番のりばは、5番のりばの新疋田方を切り欠いてあるため、ホームの階段からさらに150mほど離れている。構造上は小浜線列車の発着も可能である。北陸本線の下り本線は3番のりば、上り本線は6番のりばであり、どちらも主に特急列車が使用している。小浜線の本線は1番のりばである。また、2番のりばは「小浜1番線」、4番のりばは「中1番線」、5番のりばは「中2番線」、7番のりばは「上り1番線」として扱われている。
2006年9月24日に構内全域の電化方式が交流から直流に変更された。同年10月21日より、3番のりばの向かい側(旧4番のりば)が5番のりばに、切り欠きホーム(旧5番のりば)が4番のりばに変更された。
ホームは改札口やコンコースより高い位置に設けられている。その構造であるがゆえにホームの周囲(特に東側)に風を遮るものがなく、特に冬は寒風に晒されるという難点もある。
各ホームともカーブ状の線形に位置している。また、列車の通過速度は制限がかけられており、比較的速度を落とす。また、一部の特急電車は当駅でパンタグラフの昇降を行うほか、一部列車では乗務員の交代がある。当駅を通過する列車でも冬期に着氷の点検を行うときには運転停車を行い、ホームに待機している作業員が車両を点検、氷を落として発車する。客扱いを行う列車は乗降中に点検を行う。
小浜線が電化するまでは金沢・富山方面へ向かう特急列車が2番のりばに到着し小浜線と同一ホームで乗換えができたが、電化工事が始まった2002年から、2番のりばを直流電化にするため、3番のりば発着になった。そのため、主に旧4番(現5番)のりばに発着していた上り特急列車も6番のりば停車に変更されている(ただし、当駅で機関車交換を行う上り寝台特急列車は5番のりばに停車していた。)
実際にホームの嵩上げが行われているのは、1・2・4番のりばのみであり、新快速も乗り入れ当初は4番のりば折り返しをメインにしていたが、現在は5番のりば折り返しの新快速が増えたため、福井方面の列車との乗り換えの利便性が高まった。
旅客駅としてはJR西日本敦賀地域鉄道部の直営駅であり、みどりの窓口が設置されている。

 


在来線
のりば
のりば 路線 方向 行先 備考
1・2 ■小浜線 小浜・東舞鶴方面
3 ■北陸本線 下り 福井・金沢方面 特急・普通


4 A 北陸本線・B 湖西線 上り 大阪・米原方面 新快速・普通
5 ■北陸本線 下り 福井・金沢方面 主に普通
A 北陸本線・B 湖西線 上り 大阪・米原方面 新快速・普通

6 特急
7 新快速・普通
■北陸本線 下り 福井・金沢方面 一部の普通


当駅から近江塩津方は近畿エリアの路線記号の適用対象であるが、当駅は金沢支社管内に含まれている関係で、2015年3月14日改正時点でも構内の旅客案内に路線記号は取り入れられていない。
北陸本線上り方面からは1-5番のりばに、北陸本線下り方面からは5-7番のりばに、小浜線からは1・2・4・5番のりばに入線できる(ただし、4・5番のりばからの小浜線定期列車の停車設定はない)。
普通列車は時間帯によって停車するのりばに違いがある。新快速で4番のりば以外に停車するものがあり、福井方面からやってくる当駅止まりの列車の場合、時間帯によって7番のりばに到着するものもあれば5番のりばに到着する列車もある。このため、当駅止まりの上り列車から後続の上り特急列車に乗り換えようとする場合、前者は対面乗り換えが可能だが、後者は6番のりばへ回る必要がある。


小浜線の列車は主として1番のりばからの発車である。2番のりば発の定期列車は1本あるかないかという程度であり、到着後入庫する列車の降車用として使用されることが多い。
敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室から小浜線ホームには直接入ることはできない。このため一度4番のりばに入線後、転線する必要がある。また、イベントなどで小浜線へ直通運転がある場合、4番のりばなど小浜線のホーム以外に入線することがある。


新幹線
北陸新幹線の金沢 - 当駅間は2023年に開業予定である。ホームの位置は国道8号のバイパスを跨ぐ関係上、高さは24m(8階建てのビルに相当)、現駅舎のホームまでの距離は約200mで計画されており、利便性に関して指摘されている。構造は2面4線で計画されている。
当駅 - 新大阪駅間の計画があり、小浜、京都、松井山手(京田辺)を経由するルートで検討している。

ダイヤ
日中は北陸本線は特急が「サンダーバード」(一部の列車は通過)・「しらさぎ」とも毎時1本停車する。福井方面の普通列車・姫路方面の新快速とも毎時1本停車し、折り返す。朝晩には米原駅に行く列車や6時11分発の快速列車がある。

敦賀駅交流施設オルパーク
駅舎の隣接地には、敦賀市が整備した交流施設「オルパーク」が所在する。
敦賀市が整備する形で2014年4月5日に開館した施設で、駅機能の一部を補完し、且つ公民館の機能を持たせた交流施設として整備され、敦賀市が所有し、敦賀駅交流施設管理運営共同企業体(エコシステム、南洋ビルサービスによる企業体)が指定管理者として運営管理を行っている。東京大学教授で建築家の千葉学が設計し、1909年頃に建設された2代目駅舎のシルエットを基に「『過去と未来』が交わる創造的な空間」を原案としてデザインされた。愛称は一般公募から選定により決定したもので、「オル」は「人が集まって居る(おる)」とヘブライ語で「絆」を表す「ol」を表しており、「市民と来訪者が絆を深め、賑わいを生み出す」という理念が込められている。
1階には休憩所(待合室)、総合案内所(観光案内所)のほか、テナントとしてコンビニエンスストア「セブン-イレブン ハート・イン JR敦賀駅店」(ICOCA電子マネー対応・セブン銀行ATMあり、営業時間 6時30分 - 21時00分[注 1])、駅弁「塩荘」売店(営業時間 7時00分 - 20時00分)、立ち食いそば店「気比そば・うどん あまの」(営業時間 7時00分 - 20時00分)、福井銀行のATMコーナーなどが出店している。2階には多目的室と休憩所が設けられている。
バリアフリー対策としてエレベーター1基が設けられているほか、1階にはオストメイト対応の多機能トイレ、2階には授乳室が設置されている。

その他の施設
近距離用の自動券売機は高額紙幣が利用出来ないが、金沢支社管内で最も早く自動改札に対応した近距離券売機である。高額紙幣で乗車券等を買う際にはみどりの券売機を利用する。同支社管内の直営駅では唯一、近距離用券売機上に掲げられている運賃表にアーバンネットワークのラインカラーが採用されている[18]ほか、掲載区間も従来より拡大されている。
3番・5番のりば中央部、6番・7番のりば中央部にそれぞれ塩荘の売店と待合所がある。
以前、改札口から連絡通路脇に小便小僧があり、鯉が飼育されていた。
駅東側には広大な敷地が広がり、転車台や給水塔など歴史的価値のある構造物も現存している。


貨物取扱
現在、JR貨物の駅としては車扱貨物の臨時取扱駅となっており、貨物列車の発着は無い。貨物設備は無く、専用線も当駅には接続していない。
最後まで使用されていた専用線は、東洋紡へ続くものであった。この路線は、浮島町駅から当駅まで輸送されてきたエチレングリコールを輸送するために使用されていたが、1996年頃に廃止された。また、当駅東側にあるJX金属敦賀リサイクル(当時は日鉱亜鉛敦賀製錬所)へ続く専用線もあり、黒部駅へ輸送する亜鉛焼鉱の搬出に使用されていたが、亜鉛製錬終了に伴い1995年10月頃に廃止された。
なお、日鉱亜鉛から東洋紡績へ、といった同一駅構内間の輸送が行われていたこともあった。
当駅から南に敦賀地域鉄道部および敦賀運転センター車両管理室がある。車両基地である敦賀運転センター車両管理室構内にはJR貨物関西支社の乗務員区所である「敦賀機関区」が併設されている。北陸本線の上り列車で敦賀駅を発車して車窓右手側に確認できる。


駅弁
塩荘が販売している。
いかめし
華ちらし
鯖街道さばずし(ハーフサイズ)
角鹿弁当
鯛鮨
ます寿司
炙ります寿司
あなごずし
笹すし
焼きさばずし
越前ごのみ
鯖街道さばずし
鯛の舞

駅前
改札口は西側のみで正面にバス・タクシーのりば、隣接して市営駐車場(有料)・駐輪場(無料)がある。駅前からは片側2車線の道路があり歩道はアーケード付き商店街となっている。なお、駅前を含む市街地全体がモータリゼーションにより活気が失われていることから、駅周辺の活性化のための再開発事業が行われている。
公共施設
敦賀警察署駅前交番
嶺南振興局二州健康福祉センター
敦賀駅前合同庁舎
福井労働局敦賀労働基準監督署、敦賀公共職業安定所
金沢国税局敦賀税務署
プラザ萬象
敦賀市立図書館
敦賀市福祉総合センター「あいあいプラザ」
製造業・研究機関
福井大学 敦賀キャンパス(附属国際原子力工学研究所 )
東洋紡 敦賀第1工場
商店街・主な商業施設
敦賀駅前商店街
敦賀本町二丁目商店街・敦賀本町一丁目商店街 - 国道8号沿線に所在する。
平和堂アル・プラザ - 物販や飲食のほか、映画館(アレックスシネマ)が入居している。
主な宿泊施設
敦賀マンテンホテル駅前
ホテルルートイン 敦賀駅前
東横イン 敦賀駅前店
金融機関など
日本郵便敦賀駅前通郵便局
敦賀信用金庫 駅前出張所
福邦銀行 敦賀支店
福井銀行 敦賀支店
北陸銀行 敦賀支店

駅東側
東側は木の芽川を挟んでいくつかの工場が立地している。
駅前からは、線路を直接跨ぐ道路がないため迂回の必要があるが、北陸新幹線駅舎新設工事と併せて行われる予定の東口開発の際には、駅前通りをそのまま東に伸長し、国道8号敦賀バイパスに接続させる計画がある。
JX金属敦賀リサイクル
日本ピーエス 本社工場

その他
氣比神宮 - 北へ約1.3kmに位置している。
敦賀港 - 北へ約1.7kmに位置している。駅前バスのりばには、新日本海フェリーが発着する敦賀新港への連絡バスが発着する。

バスのりば
敦賀駅停留所(ロータリー内)
福井鉄道(福鉄バス) - 若狭線(美浜駅行)、菅浜線(白木行)、敦賀フェリー線(フェリーのりば直行)
敦賀市コミュニティバス(市営、福井鉄道及び敦賀海陸運輸に運行委託)- 14路線で、白木地区を除く市内全域を網羅している。
ぐるっと敦賀周遊バス(敦賀観光協会運営、敦賀観光バスに運行委託) - 観光向け
敦賀白銀町停留所(北西約300mの福井鉄道・コミュニティバス白銀町[北西向き]停留所と共用)
小松・加賀温泉・福井・武生・敦賀 ⇔ 東京駅・東京ディズニーランド(中日本エクスプレス) - 夜行便。このほかの敦賀市に停車する高速路線バスは、北陸自動車道敦賀ICのバスストップを使用している。
今庄365スキー場(温泉)直行バス
1日1往復のみ。土日祝と年末年始(12月29日から1月3日まで)のみの運行。運賃は大人600円・小児300円となっている。

主なJRの現業機関
敦賀地域鉄道部 - 金沢支社に属する地域鉄道部のひとつ。駅や施設および車両区所などを横断的に管轄している。車両は125系電車・521系電車やEF81形電気機関車を配置している。また、寝台特急「日本海」・「トワイライトエクスプレス」の大阪行きは当駅で機関車の付け替えを行っていた。夜間滞泊もある。かつては、福井地域鉄道部敦賀運転派出と称していた。
敦賀機関区 - JR貨物関西支社の乗務員区所。

その他
2004年に放送された『列島縦断 鉄道12000キロの旅 〜最長片道切符でゆく42日〜』で、当駅は6月5日のスタート地点となった。なお、朝の生放送は当駅からではなく敦賀トンネル温泉から中継された。
2016年3月26日改正以降からは、当駅発湖西線経由の「播州赤穂行き」の運転がなくなった。播州赤穂行きの運転は、すべて北陸本線経由(米原駅経由)に変更された。
湖西線経由の敦賀行きも、播州赤穂駅発着から、網干駅または姫路駅へ変更されている

 

 

歴史
1882年3月10日 - 官設鉄道の洞道口駅(後の洞道西口駅) - 敦賀駅間(のちに北陸本線を経て柳ヶ瀬線となる区間)と敦賀駅 - 金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)間(現在の敦賀港線)の開業により、一般駅として設置される。
1895年4月1日 - 線路名称が制定され、東海道線の所属となる。
1896年7月15日 - 北陸線として敦賀駅から福井駅間が開業する。
1897年9月20日 - 東海道線の敦賀駅から金ヶ崎駅間の旅客営業が廃止される。
1902年11月1日 - 線路名称が改定され、東海道線の米原駅 - 敦賀駅 - 金ヶ崎駅間が北陸線に編入される。
1909年
6月1日 - 氣比神宮南西脇より現在地に移転する。
10月12日 - 線路名称が改定され、北陸線が北陸本線になる。
1910年 - 2代目駅舎が完成。
1917年12月15日 - 小浜線当駅 - 十村駅が開業する。
1919年1月11日 - 当駅 - 敦賀港駅間の旅客営業が再開される。
1945年 - 敦賀空襲で2代目駅舎を焼失する。バラックによる3代目駅舎を建設する。
1951年3月 - 4代目の駅舎が完成する。
1957年10月1日 - 北陸本線木ノ本駅 - 近江塩津駅 - 当駅間の新線が単線開業および交流電化され、旧線は柳ヶ瀬線となる。
1962年6月10日 - 敦賀駅から今庄駅間に北陸トンネルが開通し、当該区間の切り替えに伴い交流電化、複線化される。
1963年9月30日 - 鳩原ループ線が開通し、新疋田駅から当駅間が複線化される。柳ヶ瀬線の疋田駅 - 当駅間が休止される。
1964年5月11日 - 休止中の柳ヶ瀬線が廃止される。
1986年11月1日 - 荷物の取り扱いを廃止。
1987年
3月31日 - 敦賀港線の旅客営業を廃止する。
4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
1997年3月22日 - 定期貨物列車の設定が無くなる。
2003年
3月15日 - 小浜線が直流電化開業する。
10月26日 - 北陸本線、湖西線の直流電化工事が開始される。
2006年
9月24日 - 北陸本線、湖西線の直流送電が開始される。
10月21日 - 北陸本線長浜駅 - 当駅間の直流電化により、新快速が当駅までの乗り入れを開始する。旧4番のりばを5番のりばに、旧5番のりばを4番のりばに変更する。
2010年10月22日 - 仮駅舎の使用を開始。
2012年12月16日 - バリアフリー化工事が完了。エレベーター、エスカレーターの使用を開始。
2014年4月5日 - 「敦賀駅交流施設オルパーク」が開館。
2018年
春 - 駅ナンバリング導入予定。
夏 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる予定。

所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
日本貨物鉄道(JR貨物)
電報略号 ツル
駅構造 地上駅
ホーム 3面7線
乗車人員
-統計年度- 3,602人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1882年(明治15年)3月10日
乗入路線 3* 路線
所属路線 A 北陸本線
(B 湖西線直通含む)
キロ程 45.9km(米原起点)
◄新疋田 (6.7km)(16.6km) 南今庄**►
所属路線 北陸本線貨物支線(敦賀港線)
キロ程 0.0km(敦賀起点)
(2.7km) 敦賀港►
所属路線 ■小浜線
キロ程 0.0km(敦賀起点)
◄西敦賀 (3.3km)
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* この他柳ヶ瀬線(1964年廃止)。
** この間に交直流電化のデッドセクションあり。

 

セスナ 172 セスナ スカイホーク(単発プロペラ推進高翼式の軽飛行機)

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セスナ スカイホーク(Cessna Skyhawk)は、4座席、単発プロペラ推進、高翼式の軽飛行機で、セスナ・エアクラフト・カンパニー(以下セスナ社と略称する。)が製造している軽飛行機である。1955年に初飛行し翌1956年に引き渡しが始まった。シリーズ名別で集計した場合、2015年時点で累計生産機数は4万5千機に達し、歴史上世界で最も多く生産されている機体シリーズである。
当初はモデルナンバーのセスナ 172 (Cessna 172)の名称で販売されていたが、現在では愛称だったスカイホーク(Skyhawk)を商品名としている。

1920年代に製造されたセスナ社の最初の製品の「モデルA」を観ると、当時の機体材料は木金混構造の骨組に布張りといった相違点もあるが、現在のセスナ社が製造する単発軽飛行機の高翼配置単葉という基本デザインの片鱗を窺うことができる。1930代の大恐慌直後に開発された「モデルEC-1」や「モデルEC-2」を見れば、ランディングギアの配置を除きほぼの現在のモデル 172とほぼ同じデザインに到達していたことが解る。
セスナ社は自社の設計した飛行機の内、民間機については第二次大戦後に開発された機体シリーズから3桁の数字の「モデルナンバー」で表すようになった。
モデル 172のデザインの基となる直系の機体シリーズはモデル 170である。モデル 170は、高翼配置単葉の翼、金属製のセミモノコック構造の胴体、水平対向の空冷ピストンエンジンを採用していた。モデル 172においてもこれらの基本デザインは踏襲された。一方でランディングギアの形式が尾輪式から前輪式に、主翼の外板が布製から金属製に変更された。垂直尾翼の形は楕円型から矩形に変更となった。基本形状はほとんど変更されていないが、グラスコックピットの採用などアビオニクスのアップグレードは定期的に行っている。小型機のプロペラにはハーツェル・プロペラが採用されることが多いが、モデル 172はセスナと同じテキストロン傘下のマコーレイ・プロペラ・システムズ製が採用されている。
モデル 172の最初の飛行は1955年に行われた。この年に量産が開始し、1956年から引き渡しが始まった。
以降、年を経るに従い少しずつ改良を重ね続け、次々と新しい型式を開発し製造を続けた(特に1960年代はセスナ社の意向で当時の自動車メーカーと同様に毎年新しいモデルを売り出していた)。その後1980年代には、製造物責任法絡みの問題と事業の採算性を理由として、182スカイレーンや206ステーショネアなどの他のモデルと共に製造中止の憂いを受けることとなる。1996年には製造販売が再開された。
高翼式のため安定性が高く、練習機や撮影機などの事業用から個人所有の遊覧機までゼネラル・アビエーションで人気が高い。また製造数が多いため習熟した整備士や中古機も多いことも人気の理由である。
Robert Timm とJohn Cook は、ラスベガスのマッカラン国際空港から飛び立ち、1958年12月4日から1959年2月7日に64日22時間19分5秒の滞空時間の記録を保持している。給油は走行中のトラックから行った。1987年にマチアス・ルストがモスクワの赤の広場に着陸した時にも使用された。
軍用型はT-41 メスカレロと呼ばれる。

型式172
モデル 172の基本型式である。最初の機体は1955年に製造が開始され、1956年から引き渡しが始まった。1960年初頭に新型式172Aが登場するまで製造を続けた。コンチネンタル社製O-300(145hp)水平対向6気筒空冷エンジンを搭載し、最大離陸重量は2,200lb(998kg)である。オプション無しの当時の基本価格で8,995米ドルであった。1960年に製造終了となるまでの5年間で合計4,195機製造された。1956年モデルともいう。


寸法諸元
全長:8.28 m (27 ft 2 in)
全高:2.72 m (8 ft 11 in)
全幅:11.0 m (36 ft 1 in)
翼面積:16 m2 (174 ft2)
ホイールベース:1.65 m (5 ft 5 in)
トレッド:N/A m (N/A ft)
室内高さ:1.22 m (48 in)
室内幅:1.00 m (40i n)
室内長:3.61 m (11 ft 10 in)
座席数:4
貨物重量:54 kg (120 lb)
貨物容積:0.85 m2 (30 cuft)
重量諸元
最大ランプ重量:1,160 kg (2,558 lb)
最大離陸重量:1,157 kg (2,550 lb)
最大着陸重量:1,157 kg (2,550 lb)
最大無燃料重量:N/A kg (N/A lb)
燃料重量:144 kg (318 lb)
燃料容量:201 L (53 gal)
運用自重:744 kg (1,641 lb)
有効積載量:416 kg (917 lb)
最大有償荷重:413 kg (911 lb)
最大燃料時有償荷重:272 kg (599 lb)
性能諸元
最大巡航速度:230 km/h (124 kt)
航続距離:1,185 km (640 nm)
離陸距離:497 m (1,630 ft)
離陸滑走距離:293 m (960 ft)
着陸距離:407 m (1,335 ft)
着陸滑走距離:175 m (575 ft)
実用上昇限度:4,267 m (14,000 ft)
海面上昇率:223 m/分 (730 ft/分)
超過禁止速度:302 km/h (163 kt)
失速速度:89 km/h (48 kt)
パワープラント
製造者:ライカミング・エンジンズ
型式:IO-360-L2A
出力:180 hp
プロペラ製造者:マコーレイ・プロペラ・システムズ
プロペラ形式:金属製2翼、固定ピッチ

 


東山防空砲台(戦争遺構)周南緑地

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東山防空砲台(戦争遺構)周南緑地
周南緑地(しゅうなんりょくち)は、山口県周南市徳山遠石に位置する都市公園(緩衝緑地)です。

周南市、当時徳山には海軍の燃料廠(第三海軍燃料廠)がありました。その徳山海軍燃料廠を米軍の攻撃からの防空防衛ためにいくつもの防空砲台が作られています。この西緑地となっている近辺には高角砲を2基もつ東山防空砲台が設置されました。戦時、徳山警備隊田平機銃砲台として、25ミリ連装機能には士官1名、下士官・兵22名が任に着いたといわれています。


西緑地には防空指揮所跡が大戦遺構として残っています。1945(昭和20)年5月10日の爆撃機B29など延192機による徳山海軍燃料廠や大浦油槽所などへの空襲で通信機能を喪失。14日(8時)に徳山電話中継所に応急設置。続いて新しい防空指揮所として東山に設置された様子です。


昭和20年5月:12.7cm連装高角砲2基 13mm単1門 既設:110cm探照灯1 
新設防空指揮所(東山)作業(隧道作業)5/17着工、5/31迄30/100完了

昭和20年8月31日:引渡:
12.7cm連装高角砲 2基
2式陸用高射装置 1基
98式4.5m高角測距儀 1基
92式110cm探照灯 1基

用地、79530m2
兵舎他、木造11棟、795m2

用地:47080m2、建物:800m2


重化学工業を基幹産業とする徳山市(現周南市)では1960年代以降大気汚染や水質汚濁などの公害が発生し、また急速な都市化によって市街地北部の丘陵地域では住宅団地の開発が盛んに行われるなど市域内の緑地面積も減少しつつあったことから、1964年(昭和39年)より公害防止対策に着手し生活環境の改善に取り組んできた[2]。周南緑地はその一環として事業化され、公害防止事業団(現環境再生保全機構)により1968年度(昭和43年度)から1986年度(昭和61年度)にかけて整備された緩衝緑地である。
公園の面積は76.9haであり、周南市の公園面積の約半分を占める。園内は東緑地、中央緑地、西緑地、横浜緑地、遠石緑地の5つの区域からなり、各種スポーツ施設も備えるなど緩衝緑地の他に運動公園としての機能も併せ持つ[3]。中央緑地:周南緑地の中央部を占める。市販の地図などでは周南緑地運動公園などと表記されることもあるが、条例上は周南緑地の一部分として扱われている。東緑地:周南緑地の東側にあり、総合スポーツセンターやサッカー場、トリムコースなどがある。中央緑地との間は市道遠石馬屋線で分断されているが、横断歩道橋が掛けられている。西緑地:西緑地の万葉の森に植えられている大賀ハス


1966年(昭和41年)に現在地(周南市徳山鉢窪)へ移転した京都大学演習林徳山試験地(現・京都大学フィールド科学教育研究センター徳山試験地)の跡地に整備された。植物園としての役割を持ち、ハナショウブ(75種類、約20,000株)や大賀ハス(約2,000株)、万葉植物(木本類約70種、草本類約60種)、ヤエヤマザクラなどが植えられている。

可部駅(JR西日本)可部線

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可部駅(かべえき)は、広島県広島市安佐北区可部二丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)可部線の駅。2003年(平成15年)12月1日から2017年(平成29年)3月3日までの13年3ヶ月の間は、同線の終着駅であった。

相対式ホーム2面2線を持つ地上駅。
ICOCAが利用可能。ICOCA対応自動改札機が設置されている。JRの特定都区市内制度における「広島市内」の駅である。


直営駅。駅構内には可部線全線の保守・運営を管轄していた可部鉄道部があったが、2006年(平成18年)6月30日をもって廃止された。この組織変更により可部線内の各駅の管理権限は西広島駅に移されていたが、2010年(平成22年)7月1日より当駅が管理駅として可部線内の各駅(横川駅を除く)を再び管轄するようになった。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 B 可部線 上り 緑井・横川方面


2 下り あき亀山方面
あき亀山駅への延伸開業までは、2番のりばからも横川方面の列車が発車し、夜間留置が行われていた。なお、1番のりばと2番のりばはそれぞれ改札口が独立しており、改札内ではつながっていない。

2016年(平成28年)12月17日までは、単式ホーム1面1線(旧1番のりば)と島式ホーム1面2線(旧2・3番のりば)を持つ地上駅であった。

可部線延伸のための駅改良に際し、島式ホームの片側であった旧3番のりばが改称され、現在の1番のりばとなった。なお現在の2番のりばは、駅改良前にはホームのない側線であった旧4番線にホームを新設して設けられたものである。


駅改良直前の時期には、大半の列車は旧2番のりばから発車していたが、朝晩の一部の列車は旧1番のりばや旧3番のりばから発車するものもあった。なお三段峡方面廃止前から旧3番のりばにも架線があり、電車の入線も可能であった。
旧3番のりばは当駅において三段峡方面につながる唯一の旅客ホームであったため、主に三段峡方面ゆき、および三段峡方面から当駅を直通する広島方面ゆき列車の発着に使用された。旧1・2番のりばは頭端式であったため、広島方面への折り返し専用であった。旧3番線は構内北端で保線用車両留置線2本を北に向け分岐していた。旧3番線の外側にはホームのない側線(旧4番線)があり、構内両端で旧3番線に合流していた。かつては、さらに外側にも側線があった。


三段峡方面が存続していた当時、上記の配線のため当駅に停車する三段峡方面直通の列車同士が行き違うことはできなかった。1970年代には、臨時快速「三段峡」の下りは当駅で上りの定期列車と交換していたが、その定期列車が旧3番線に停車しているため、快速は側線経由で行き違いをし、当駅を通過扱い(運転停車)にするというダイヤであった。


三段峡方面廃止後、旧3番線は、前述の保線用車両留置線を分岐し、外側の側線を合流して構内から少し北に伸びたところ(国道54号のオーバークロス手前)で車止めが設置され、途切れていた)。このため、旧3番のりばに列車が到着する場合は万一の過走事故防止のため構内踏切(列車停車位置より北側にある)が作動したが、実際に構内踏切部分の線路まで営業用列車が進入することはなかった。


当駅の手前には場内信号機が2基設置されていた。三段峡方面が存在した当時の名残で、旧3番線が本線扱いとなっており高い位置に信号機が設置されていた。旧1・2番線用の信号機は低い位置に設置され共通で副本線扱いとなっており、その下に進路表示機が付属していた。副本線用場内信号機が「黄」を現示している場合は付属の進路表示機に数字で「1」または「2」が表示され、到着番線を指示していた。


延伸計画に伴う駅改良
2013年(平成25年)2月、広島市とJR西日本は、2015年(平成27年)春を目標に旧河戸駅方面へ再び延伸(事実上の電化復活)することで合意した[広報 5]。その後、踏切設置の調整や駅建設用地取得の手続きに手間取った事で、開業予定が2度延期されており、2017年(平成29年)3月4日の開業の予定となった。JR西日本は同年11月28日に許可申請を行い、2014年(平成26年)2月25日に事業許可を取得した。延伸時には旧1・2番のりばを廃止し、旧3番のりば(=現1番のりば)と、旧側線部分に新設されるホーム(=現2番のりば)を使用した相対式ホームに改良されることとなった。 そのホーム改良に合わせて従来の西口への通路は封鎖され上下線分離駅となり、東西間の自由通路を設置すると2015年(平成27年)2月6日に発表した。これらの改良工事については延伸開業に先駆ける形で、2016年(平成28年)12月1日に東西自由通路が、12月18日にホームの改良がそれぞれ完成し、使用を開始した。

駅周辺
国道183号(国道191号・国道261号との重複区間)が駅の西側を通っている。
西口は近年再開発により可部駅西口広場が完成し、2007年(平成19年)12月3日に従来の可部駅停留所と可部駅前停留所を統合し、可部駅西口広場にバス停留所が移設された。
また、2008年(平成20年)4月からは、北寄りに駐輪場と、車椅子対応のトイレも使用を開始した。これにより、閉鎖された東口トイレの代わりに、駅の改札内しかトイレがなかった不便が解消され、同時にバリアフリー対応を実現した。しかし、車椅子利用者にとっては列車に乗る前に階段を数段上らなければならないのがネックとなっている。
廃止された河戸駅との中間位置に、広島市安佐北区役所・可部区検察庁・可部簡易裁判所・安佐北警察署・広島北税務署などがある。あき亀山駅まで再延伸時には、その周辺に河戸帆待川駅が設置されて可部駅が最寄ではなくなった。
駅正面には大和重工の本社もある。

バス路線
可部駅西口広場にあり勝木・大林方面の1 - 4と国道上に設けられた広島方面の5か所ののりばがある。2007年(平成19年)12月3日に使用を開始。これに伴い、下り便は、元「可部駅前」停留所に停車する代わりに、一旦国道183号を右折して、全便がこの停留所に停車するようになった。また、可部線廃止区間の代替バス(広島電鉄・広島交通)もここから発着しているが、広島・三段峡直行便は高速道路を経由するため可部駅には入らない。

かつては、可部線の電化区間と非電化区間の境界駅であったが、非電化区間が2003年(平成15年)11月30日限りで廃止され、一時は終着駅となった。しかし、2017年(平成29年)3月4日に可部線の当駅 - あき亀山駅間が開業した事により、再び途中駅となった。
1911年(明治44年)7月13日 - 大日本軌道広島支社線(当時)が太田川橋停留場(現在の上八木駅)から延伸し、その終着である可部駅として開業。一般駅。
日付不詳 - 可部町駅(かべちょうえき)に改称。
1919年(大正8年)3月11日 - 大日本軌道広島支社線が可部軌道へ譲渡され、同社の駅となる。


1926年(大正15年)5月1日 - 可部軌道が広島電気に合併され、同社の駅となる。
1928年(昭和3年)11月9日 - 線路改軌・電化工事に伴い営業休止。
1929年(昭和4年)12月2日 - 営業再開。
1931年(昭和6年)7月1日 - 広島電気線が広浜鉄道へ譲渡され、同社の駅となる。
1933年(昭和8年)4月20日 - 広浜可部駅(こうひんかべえき)に改称。
1936年(昭和11年)
9月1日 - 広浜鉄道国有化、国有鉄道可部線の可部駅となる。
10月13日 - 可部線が安芸飯室駅まで開通。途中駅となる。
1984年(昭和59年)
1月1日 - 車扱貨物の取り扱いを廃止(旅客駅となる)。
2月1日 - チッキの取り扱いを廃止。


1987年(昭和62年)
2月1日 - みどりの窓口営業開始。
4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)が継承。
2003年(平成15年)12月1日 - 可部線の当駅から三段峡駅までの非電化区間が廃止され、67年ぶりに終着駅となる。
2005年(平成17年)10月1日 - 4両編成の列車の広島側1両でドアカットを開始。


2007年(平成19年)
7月26日 - ICOCA対応の自動改札機の設置が完了。
9月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2008年(平成20年)3月15日 - 4両編成の列車のドアカット解消。
2010年(平成22年)7月1日 - 可部線の三滝駅 - 中島駅間の各駅を管轄する管理駅となる。
2014年(平成26年)8月20日 - 平成26年8月豪雨により広島市で土砂災害が発生。緑井駅 - 当駅間で8月31日まで運転を見合わせた。
2015年(平成27年)2月6日 - JR西日本が延伸改良した可部駅のイメージパースと自由通路設置を明らかにした。
2016年(平成28年)
12月1日 - 東西自由通路の使用を開始。
12月18日 - 新2番のりばの使用を開始。旧1・2番のりばの使用を停止し、3番のりばを1番のりばへ改番。
2017年(平成29年)3月4日 - 可部線の当駅 - あき亀山駅間が開業し、再び途中駅となる[1]。このダイヤ改正で当駅始発・当駅止まりの運用が消滅した。

所属路線 B 可部線
キロ程 14.0km(横川起点)
広島から17.0km
電報略号 カヘ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 3,665人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1911年(明治44年)7月13日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
広 広島市内駅
* 一時期可部町駅や広浜可部駅を名乗っていた。

 

ダイハツ・コペンLA400K型 痛車shiki ichinose

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コペン(Copen、COPEN)は、ダイハツ工業が製造・販売する軽自動車規格の前輪駆動2人乗りオープンカーである。

ダイハツとしては1993年に生産中止となったリーザスパイダー以来の軽オープンカーであり、軽市販車では世界初となる電動油圧ポンプの開閉式ルーフのアクティブトップ仕様をもつ。
「コペン」の車名は、発売前のショーモデル時代は「コンパーノ」の名称の復活も検討されていたが、ダイハツ・新宮会長(当時)が新しい名称への移行を求めたために「軽オープン」から「KOPEN」と名付けられた。後に軽自動車のKをコンパクトカー(Compact car)のCに変え「Copen(Cのみ大文字)」に落ち着いた。 2代目もショーモデル時代は「KOPEN」であったが、発売時には「Community of Opencar life」から「COPEN」となった。車名ロゴは全て大文字となったが、2代目発売後も「Copen Club」「Copen Site」のように、初代の英表記「Copen」も使用されている。なお、同社の車両型式の表し方は原則末尾がS(セダン)かV(バン) であるが(他にテリオスキッドやアトレーワゴンなどのステーションワゴンは(G)) 本車 はオープンカーのみに付けられる[1]「K」となっている。
アクティブトップ
独特のルーフシステムは、ドイツのベバスト(Webasto)社とイタリアのピニンファリーナ社が共同で設立したOASys(Open Air System)社の手によるものである。開閉所要時間は約20秒。開放時、ルーフは後部のトランク部分に収納される。サイドブレーキセンサーと車速センサーを用いた安全装置があり、走行中の開閉はできない。


2代目 LA400K型(2014年-)
フルモデルチェンジされた2代目は、先代の製造終了から1年10か月を経てショーにて発表され、その後発売された。新たな骨格構造「D-Frame」と、脱着構造「Dress-Formation」が、主な特徴である。
骨格構造「D-Frame」
フロント・サイド・リア・フロアを切れ目なくつないだ構造としたことで曲げ剛性やねじれ剛性を高め、高い走行性能とルーフオープン時の剛性確保を行った。また、骨格だけで強度を担保する構造となったことでドアを除くボディ外板の一部を樹脂製にすることが可能となった。車両後端をダックテール形状にすることで高速走行時の揚力を大幅に低減し、走行安定性を高める優れた空力性能を実現した。
脱着構造「Dress-Formation」
D-Frameによりボディ外板の一部を樹脂化し着脱が可能な構造となり、購入後でもユーザーの好きなタイミングで、ボンネットフード、トランクフード、バンパー(フロント/リア)、フェンダー(フロント/リア、左右各1個ずつ)、ロッカー(左右各1個ずつ)、フューエルリッドの樹脂外板11パーツとヘッドランプ・リアコンビランプを着せ替えできるようになった。外装パーツの着脱は販売店で行われる。また、外装を外した状態で公道を走行することはできない。
2015年10月には、交換用「DRESSパーツ」の発売を開始。「ローブ」から「セロ」に交換できる「フルセット」に加え、フロントパーツ(ヘッドランプ・フード・フロントバンパー・フロントフェンダー)のみを交換する「フロントセット」、リアパーツ(リアコンビランプ・トランクフード・リアバンパー・リアフェンダー)のみを交換する「リアセット」の3種類を設定するほか、D-SPORTからは東京オートサロンに出展したストリート仕様を市販向けにリファインした「エクスプレイ」用のDRESSパーツを発売した。
外装は「ローブ」「エクスプレイ」「セロ」で全く異なるパーツを使用している。初代と異なり、ドアミラー・ルーフ・バックパネルはブラック(ブラックマイカメタリック〈X07〉ボディと同色)塗装、ドアアウターハンドルはシルバー(ブライトシルバーメタリック〈S28〉ボディと同色)塗装、Aピラーとフロントガラス上端のボディはエンジンルーム等と同様にソリッドのブラック塗装で統一されてある。ボディカラーは「ローブ」「エクスプレイ」がそれぞれに8色、「セロ」が9色の設定となっている。2016年4月現在、「エクスプレイ」専用色として「オフビートカーキメタリック」、「ローブ/セロ」専用色として「リキッドシルバーメタリック」、「セロ」専用色として「ブリティッシュグリーンマイカ」が設定されており、残りの7色は「ローブ」「エクスプレイ」「セロ」共通カラーとなっている。

販売期間 2014年 -
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドア オープン
エンジン KF-VET型 658cc 直3 DOHC IC付ターボ
駆動方式 FF
最高出力 47kW (64PS) /6,400rpm
最大トルク 92N·m (9.4kgf·m) /3,200rpm
変速機 5速MT / CVT
サスペンション 前:マクファーソン・ストラット式コイルスプリング
後:トーションビーム式コイルスプリング
全長 3,395mm
全幅 1,475mm
全高 1,280mm
ホイールベース 2,230mm
車両重量 850-870kg
最低地上高 110mm

内装は、全車インパネ・トリム基調色を全車ブラックに統一され、それぞれの色を基調とした「ベージュインテリアパック」「ブラックインテリアパック」「レッドインテリアパック」無償のメーカーオプションとして選択することができる[補足 9]。
メーターは、全車自発光式3眼メーターを採用するが、「ローブ」はブラックリングとシルバーヘアライン加飾を、「エクスプレイ」はシルバーリングとレッドグラフィック盤面を、「セロ」はシルバーリングとブラック盤面をそれぞれ採用。インパネガーニッシュもスタイル・グレードで異なり、「ローブ」はセンタークラスターと同じカーボン調を、「エクスプレイ」と「セロ」はシルバーをそれぞれ採用し、「セロ」はインパネガーニッシュの範囲を運転席まで広げている。
また、エアコン吹き出し口の上にインパネオーディオクラスターがあり、それをステアリングスイッチとともに取り外すことのできる「純正ナビ・オーディオ装着用パックレス」をメーカーオプションとしている。
エンジンは初代のJB-DET型から、DVVTを採用したKF型(KF-VET型)に変更となり、最大トルクがスペックダウンされたが、低排出ガス性能を高めたため「平成17年基準排出ガス75%低減レベル(☆☆☆☆)」認定を取得。トランスミッションは7速スーパーアクティブシフト付CVTと5MTとなる。また、CVT車にはアイドリングストップシステム「eco IDLE(エコアイドル)」も装備されており、CVT車は「平成27年度燃費基準+20%[補足 13]」を、MT車も「平成27年度燃費基準」を達成している。安全面に関してはスマートアシストは非装備ながら、VSC&TRC、ブレーキオーバーライドシステム(アクセルペダルとブレーキペダルが同時に踏まれた場合にブレーキ作動を優先する機能)、エマージェンシーストップシグナル(60km/h以上で走行中に強くブレーキを踏むとブレーキランプの点灯と同時にハザードランプを高速点滅して後続車に注意を促す機能)などが装備される。


志木一の瀬(一ノ瀬志希一ノ瀬子規は?) で利用可能なアイドルですIDOLM @ STERアイドル:シンデレラガールズ。彼女の基本カードはノーマルで、長野エリアで入手できます。彼女は後に、「Seventh Heaven」、「Perfume Tripper」、「Blooming Culture」、「CD Debut」、「Night's Smell」というタイトルのレアカードセット2セットとSレアカードセット5セットを受け取りました。彼女にはスターライトステージ専用の2つのSSR 、「ミスティック・エリクシール」と「招待ダイブ」があります。

シキは「狂った科学者」としてしか描けない好奇心を持った少女です。彼女は実験が大好きで、注目を集める新しいものを見つけることによって動機付けられています。興味がないなら、彼女は興味がありません。プロデューサーによって偵察されるのではなく、彼女は彼女の実験の一環として彼を選んだ。彼女はプロデューサーを嗅ぐと、彼の匂いは彼女が実験のための正しいものだと確信した。彼女はこの理由からアイドルになった。

彼女がフェロモンを使ってファンを惹きつけ、アイドルの形でも、彼女の髪は乱雑に見えていないように見えます。

第11回マジックアワーSPで、彼女はアイドルになる前にアメリカの大学に行ったことが明らかになったが、彼女はそれに飽きて帰国した。彼女は日本の高校に通っていて、自分で生活していますが、家に帰ることはめったにありません。彼女はタバスコのソースが好きで、彼女の特技は化学ですが、彼女はワサビを嫌い、早起きします。

シンデレラ・ガールズ・シアター・スカートの結びつきで、椎木は柳生清良さんの紹介を受けています。彼女の嗅覚の習慣は彼女の最初の行の早い段階で現れ、彼女の「Nyahaha」の笑いはすぐに現れた。彼女は両者とも鼻を知っている佐賀史香さんと長崎みかさんと友人のようです。彼女の匂いがしばしば彼女を眠りにつかせ、プロデューサーのジャケットを穏やかな匂いの源として高く評価します。シキキはワイルド・ウェストの映画のバックグラウンド・キャラクターとして仕事をした。

彼女のストーリーシーンは、iDOLM @ STERシンデレラガールズ:スターライトステージでは、彼女の両親との関係はかなり遠く、彼女の父親は彼女に近いものであることを暗示していました。シキの父は化学の学者であり、娘が分かち合っていることを熱心に研究しています。研究活動に参加するために世界各地を頻繁に訪れ、シキとほとんど時間を過ごしません。しかし、志木は彼と一緒に写真を撮ったことが好きだった。彼女の母親については、これまでのところ彼女が話すことを拒否しているので、彼女に関する情報はほとんどない。現在、彼女の志木との関係については、ファンダムの間に多くの憶測がある。

名前: 一ノ瀬志希 (一ノ瀬しき)
声優: 藍原こみ (相原琴美)
年齢: 18
高さ: 161 cm
重量: 43キロ
誕生日: 5月30日
血液型: O
3つのサイズ: 83-57-82
利き手: 右
趣味: 観察、疑わしい科学実験、失踪
占星術: ジェミニ
故郷: 岩手県
カードの種類: 可愛い

高野山駅 南海鋼索線

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高野山駅(こうやさんえき)は、和歌山県伊都郡高野町にある、南海鋼索線の駅。駅の標高は867m。駅番号はNK87。
「近畿の駅百選」に選定されている。

 

駅構造
頭端式2面1線の階段状のホームである。
駅舎は1928年(昭和3年)完成の木造2階建て。 洋風建築を基調とする外観で、高野山の玄関駅らしい頂上に宝珠を載せるなど寺院風の宝形造の屋根を持つ。1階がコンコース、2階が待合室である。 待合室には慈尊院や高野線の歴代車両の写真などが飾られ、また展望室もある。 この駅舎は2005年(平成17年)に国の登録有形文化財に登録された。(登録名は、南海電気鉄道鋼索線高野山駅駅舎)
平成27年2月22日、駅舎の改修工事が完了し式典が執り行われる。 2つのホームは、乗車用と降車用に分かれており、それに対応して、改札口も入口と出口が別になっている。


ホーム 路線 行先
(左側) 鋼索線 極楽橋行き(高野線連絡 橋本・なんば方面)
(右側) 降車専用
日・時間帯によっては前者のホームを乗車・降車兼用として使うこともあり、さらに車内保温のためにケーブルカー山上側の一番前の扉だけを開放することもある。
当駅は、駅長が配置され、下古沢駅~高野山駅の各駅を管轄している。
自動券売機1台と券売窓口があり、特急券や「天空」指定券等は窓口で購入・指定券引き換えを行う。

駅周辺

駅前広場。バス駐車場となっている。

駅前に、奥の院など高野町中心部へ向かう南海りんかんバスのバス停とタクシー乗り場がある。それ以外の施設はみやげ物店兼食堂一軒とコインロッカーのみであり、高野山へのバス・タクシー連絡所という意味合いが強い。バス停では、バス一日乗り放題のチケットも売られている。2011年に高野山がミシュラン・グリーンガイドの3つ星観光地になってからは外国人の乗り換え客が増加したこともあり、シーズンを中心に多くの案内係員が駅前で乗り換えの案内を行っている。
なお、南海りんかんバスの他に山内に乗り入れる定期路線バス(野迫川村営ならびに有田鉄道バス)は行政施設や土産物屋が揃う南海りんかんバス千手院橋停留所にそれぞれの「高野山」停留所があり、また大十オレンジバスなどの不定期観光路線バスや、その他の団体向け観光バスは大型の駐車場を備える南海りんかんバス奥の院前停留所付近に発着する。

その他
駅から高野山中心部へ直接向かう道路は、女人堂の手前(和歌山県道118号高野橋本線交点)まで南海りんかんバス私有の専用道となっており、一般車両や歩行者の通行は禁止されている。この専用道は1933年(昭和8年)6月に、南海りんかんバス高野山上路線の前身である高野山自動車が開設したものである。この駅に一般車両が向かう場合は、大門方面からの国道480号および町道(町道大門高野山駅線。この道も1934年4月に同じく南海りんかんバスの前身のもう一社である高野山大門自動車が開設したもの)を利用する。徒歩で高野山中心部に向かう場合は、極楽橋駅から女人堂方面への登山道(和歌山県道118号高野橋本線、2016年に世界遺産に登録された高野参詣道の京大坂道不動坂)を使用するコース、高野山駅から先述の町道・国道480号を通り、大門を経由するコースとなる。
ケーブルカーに定員を遥かに超える乗客が押し寄せ、いわゆる「積み残し」が発生した場合、約7分後に臨時便が運行される。
2009年(平成21年)3月に、降車側のホーム山下寄りに、ケーブルカーのみの駅としては日本初の事例となるエレベーターが新設され、コンコースを結ぶ連絡通路も新設された。日本のケーブルカーのみの駅でエレベーターがあるのは、当駅のみである。
鋼索線運休時には、南海りんかんバス千手院橋停留所が「臨時高野山駅」となり、学文路駅まで代行バスが発着する。
かつては、大運転の下り列車(難波→極楽橋)の方向幕は「高野山」と表示されていた。後に「高野山極楽橋」と表示されるようになったが、英字表記は現在でも「KOYASAN」から変更されていない。

1930年(昭和5年)6月29日 - 高野山電気鉄道鋼索線開通と同時に開業。
1947年(昭和22年)3月15日 - 社名変更により、南海電気鉄道の駅となる。
2000年(平成12年)10月 - 駅業務を子会社の南海ビルサービスに委託。
2014年(平成26年)7月7日 - 駅舎のリニューアル工事(耐震補強及び改修工事)に着手する。
2015年(平成27年)
2月20日 - 駅舎のリニューアル工事を完了。
2月22日 - リニューアル記念セレモニーを行う。


駅番号 NK 87
所属事業者 南海電気鉄道
所属路線 鋼索線(高野山ケーブル)
キロ程 0.8km(極楽橋起点)
汐見橋から65.3km
難波から64.6km
電報略号 ヤマ
駅構造 地上駅
ホーム 頭端式 2面1線
乗降人員
-統計年度- 2,477人/日
-2016年-
開業年月日 1930年(昭和5年)6月29日
備考 業務委託駅

65式8cm双眼鏡(海上自衛隊 掃海艇ゆげしま デッキ装備)

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65式8cm双眼鏡は12cm双眼鏡よりひと回り小さい、口径8cmの双眼鏡。掃海艇などに装備されています。

65式8cm双眼鏡:倍率は15倍:本体:重量:9.5kg

防衛庁
65式8cm双眼鏡托架
物品番号:取得番号:2005年3月製:興和株式會社

航行中は航海科の見張員が配置され見張りを行います。視認度には4段階あり、何も見えない0度からなにか見える1度、船らしき物が見える2度、船型が見える3度、番号・船名が見える4度となっている。張員が目標を発見すると、目標の種類・数、方向角、距離、動静、視認度、見張所番号を報告。視認度、見張所番号は省略可。目標物が航空機の場合はさらに高角を報告。

艇首を0度として反対側の10度から180度の手前5度を見張る。また戦闘見張の場合は範囲がより広く、霧中見張の場合はより狭い。

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