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高崎駅 JR東日本)・JR貨物)・上信電鉄

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高崎駅(たかさきえき)は、群馬県高崎市八島町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)・上信電鉄の駅である。

 

当駅は古くから交通の要衝として栄え、現在も9路線が乗り入れる群馬県のみならず北関東最大のターミナル駅として機能している。新幹線開業前は東京方面から上越線方面と信越本線方面との分岐点として機能していた。長距離輸送の役目を新幹線に譲った現在でも上越新幹線と北陸新幹線の分岐点となっているほか、在来線においても群馬県内各地へ向かう各路線のターミナル駅としての役割を担っている。
事務管コードは▲411416を使用している。

乗り入れ路線
当駅にはJR東日本の新幹線・在来線各線と、上信電鉄の上信線が乗り入れている。上信線は当駅を起点としている。
JR東日本の新幹線は上越新幹線と北陸新幹線の2路線が乗り入れている。北陸新幹線は当駅が起点であるが、当駅以南は上越新幹線に乗り入れて東京駅まで運転されている。
JR東日本の在来線は次の各線が乗り入れている。いずれも第二種鉄道事業としてJR貨物の貨物列車も運行されている。
高崎線 : 当駅の所属線であるとともに当駅を終点としている。埼玉県や東京都心方面への動脈であり、上野駅発着の列車と、新宿駅経由で東海道線へ直通運転を行う湘南新宿ラインの列車、上野駅・東京駅経由で東海道線へ直通運転を行う上野東京ラインの列車が発着している。また下記の上越線・信越本線と線路が接続されており、直通が可能となっているが、現在の定期列車は上越線・両毛線にのみ直通する。
上越線 : 当駅が起点とし、群馬県北部の水上・越後湯沢方面へ通じている。

信越本線 : 当駅が起点である。かつてはその名のとおり信越方面へ通じていたが、北陸新幹線開業と同時に横川-篠ノ井間が廃止(軽井沢-篠ノ井間は第三セクター「しなの鉄道」に経営移管)され、分断されてしまった。
正式な線路名称上は以上の3路線だが、路線の途中駅から分岐する以下の各線(これらについてはJR貨物は鉄道事業免許を持たない)の列車も当駅へ乗り入れており、3路線を合わせると合計6方面の列車が発着している。
八高線 : 倉賀野駅から高崎線経由で乗り入れる。
両毛線 : 新前橋駅から上越線経由で乗り入れる。高崎線からも一部列車が「高崎・両毛線」として前橋駅まで直通運転する。
吾妻線 : 渋川駅から上越線経由で乗り入れる。

在来線
在来線は構内の西側、地上にある3面7線の島式ホーム(1線のみ切り欠きホーム)を使用する。ホームは2番線から8番線まであり、3番線は4番線の大宮方を切り欠いたホームである。3番線(八高線)以外は、基本的に発車番線が固定されていない。高崎線と上越線・両毛線の一部の列車が当駅を経由して直通運転を行う以外は当駅始発・終着で運行されている。かつては1番線(単式ホーム)があったが、2004年(平成16年)に廃止され、通過線となっている。この1番線は1997年9月30日に廃止されたL特急「あさま」の下り列車などが使用していた。1番線ホーム跡の線路側には1番線の表示が現存しているものの柵でふさがれており、上信電鉄のホームである0番線への通路に利用されている。定期列車は全列車が停車する。
在来線各ホームには待合所があり、2・3・4番線設置の待合所は初電 - 終電まで利用可能である。
発車標はすべての改札・ホームでLED式が使用され、また各ホームには接続列車の案内表示機もある。


在来線のりば
在来線 地上ホーム
番線 路線 行先 備考
2・4・7・8 ■高崎線 熊谷・大宮・上野・東京・新宿・横浜・小田原・熱海方面
(湘南新宿ライン)(上野東京ライン) 朝の一部を除く当駅始発の列車は主に2番線、
上越線からの直通列車は7・8番線を使用
2・4・5・6 ■上越線 新前橋・渋川・水上方面


■吾妻線 長野原草津口・万座・鹿沢口・大前方面
■両毛線 前橋・伊勢崎・桐生・小山・宇都宮方面 高崎線からの直通列車は2・4番線を使用
■信越線 安中・横川方面
3 ■八高線 児玉・小川町・高麗川方面


実際の案内標では3・7・8番線を除いてラインカラーの区別や路線別に分けた表記はせず、コーポレートカラーの緑(■)を用いて方向別に一括して表記している。
当駅から発車する八高線の列車は非電化区間の高麗川駅までの乗り入れのみで、高麗川駅から電化区間の拝島・八王子方面へは、高麗川駅で八王子行きの列車へ乗り換える必要がある。
発車メロディは全ホームで東洋メディアリンクス製の『Gota del Vient』が使用されている。なお、メロディは車掌が扱うため、3番線から発車する八高線のうち、ワンマン運転を行う列車では省略される。
当駅で折り返す列車は、到着後車内清掃および点検を行う。
臨時列車の「SLみなかみ」および「SL碓氷」は2番線から発車する。なお、両列車の同時発車などのイベントがある場合の発車番線は「SL碓氷」が4番線、「SLみなかみ」が5番線からそれぞれ発車する。SL列車の折り返しは8番線に到着する。
特急列車は、下りは2番線(あかぎ号・スワローあかぎ号は一部4番線)から、上りは7番線(一部8番線)から発車する。
臨時列車運転時やダイヤが乱れると発車ホームが変更される場合がある。
気動車のみ発車する3番線も電化されている。


新幹線
新幹線は構内の東側、高架上にある2面4線の島式ホームを使用する。ホームは副本線上に設けられており、本線は通過線となっている。上越新幹線・北陸新幹線とも共通のホームを使用するが、基本的に上越新幹線の下り列車は12番線から、上り列車は13番線から発車し、北陸新幹線の下り列車は11番線から、上り列車は14番線から発車する。なお、北陸新幹線の上り通過列車の一部は本線ではなく14番線を通過する。14番線を通過する場合、可動式安全柵がないため列車は減速する。
上越新幹線と北陸新幹線の施設上の分岐点は当駅から約4km北側で、北陸新幹線の下り線はこの分岐点まで上越新幹線の線路を走っている。一方、上り線は当駅構内まで上越新幹線と北陸新幹線の線路が別になっている。この下り線の分岐点には、純日本製で日本最大の「ノーズ可動式38番高速分岐器」が設置されており、分岐側(長野側)へは160km/hで、直線側(新潟側)へは240km/h以上での走行が可能である。なお、この分岐器の挿入工事には延べ3日を要し、その間は上越新幹線の部分運休が実施されその代替として上越線の当駅 - 越後湯沢間で「新幹線リレー号」が運転され上沼垂運転区(当時)所属の485系や長野総合車両所(当時)所属の489系、青森運転所(当時)所属の485系と583系などが使用された。


このように下り線だけ一部で線路を共用してその先に高速分岐器を配置しながら、上り線では高速分岐器を使用せずに線路を別にしているのは、線路の立体交差と関係している。北陸新幹線の上り線が上越新幹線の上り線に合流するためには最低でも上越新幹線の下り線をまたがなければならず、分岐点では実際に上越新幹線の上下線の上をまたぎこす立体交差になっている。立体交差をした後に、線路を接続できる同じ高さまで降りてくるためにはある程度の距離を必要とするため、この間が別線となり、そのまま駅構内へと接続することになる。また、双方からの列車がほぼ同時に進入してきた際にも分岐点の手前で待たせることなく、同時に駅構内へ入れることができるという利点もある。これに対して下り線側は上越新幹線と北陸新幹線が同時に駅を出発する必要性は薄い上に、他の線路をまたがずに分岐できることから、別線路を敷設する建設費を節約するために実際の分岐点まで線路を共用している。この間に加速した新幹線が分岐点通過に際して減速を強いられるのは不合理であることから、反位側でも160km/hの高速で通過可能なる38番ノーズ可動式分岐器を配置することになった。
ホームの屋根の一部にはソーラーパネルが設置されており、発電された電気は駅構内の照明、空調設備などに利用されている。
発車標はこちらも改札・ホームともLED式のものが使用され、コンコースにはLED式の先発列車の編成案内表示機もある。乗車案内表示機が11~14番線のすべての新幹線ホームに設置されている。14番線のものは先発列車のみ表示することができる。なお、下り11・12番線には、北陸新幹線が金沢駅まで延伸開業するのに合わせて設置された。

 


新幹線のりば
新幹線 高架ホーム
番線 路線 方向 行先 備考
11・12 ■ 上越新幹線 下り 越後湯沢・長岡・新潟方面
■ 北陸新幹線 下り 長野・富山・金沢方面
■ 上越・北陸新幹線 上り 大宮・上野・東京方面 当駅始発
13・14
新幹線ホームは全ホームで発車時にベルが鳴る。
当駅で編成の増結(Maxとき号とMaxたにがわ号)を行なう列車がある。(上りに数本)

駅舎
駅東西を結ぶ中央コンコースに面して改札が設置されており、改札内にはNEWDAYSなどの施設が、改札外には商業施設や観光案内所が入っており賑わいをみせている。
中央コンコース(シンフォニック・アヴェニュー)とは別に、その南側にも線路をまたぐ東西自由通路がある。
みどりの窓口(改札外3窓、在来線改札内1窓)・びゅうプラザ(みどりの窓口とは別のエリア)・自動券売機・指定席券売機が設置されている。2006年度に自動体外式除細動器 (AED) が設置された。


高崎駅構内の施設
当駅は東口・西口の双方にペデストリアンデッキが整備されており、それぞれのデッキ中央から駅構内への中央コンコースと、南側に東西自由通路(かつて改札が東西に分かれていたころの名残)がある。
中央コンコース
東西を結ぶ中央コンコースは「シンフォニック・アヴェニュー」と名付けられており、キオスクや駅弁販売店、NEW DAYSの店舗がある。
JR在来線の改札口はコンコースの中央部に存在し、新幹線改札口はコンコース東寄りにある。上信電鉄乗り場(0番線・JR改札外)へはかつてはコンコース西寄りから階段で分かれていたが、2012年3月1日に西口ロータリーに出入り口が新設され、コンコースからの連絡階段は廃止された。0番線への通路は、かつての1番線の大部分が転用されており、そば屋とトイレがある。
JR改札口の向かい側には、群馬県観光案内所・高崎市観光案内所と高崎駅インフォメーションセンター、JR東日本お客さま相談室がある。


西口側
上越新幹線開業と同時にオープンした駅ビル「モントレー」があり、コンコース階のラジオ高崎のサテライトスタジオや各階に商業施設のほか、6階 - 10階にホテルメトロポリタン高崎がある。
西口の施設を以下に示す。モントレー内の商業施設などについては、当該記事を参照のこと。
1階
群馬県警察高崎駅西口交番(夜間は無人となり、東口交番に警察官が駐在している)
東和銀行ATM
ローソン
マツモトキヨシ
モントレー1階通路
2階
モントレー店舗
コンコース階
モントレーエントランス
ラジオ高崎サテライトスタジオ「CoCoA」
西口駐輪場(利用可能時間:6時00分 - 終電)
3階 - 7階
モントレー店舗
6階 - 10階
ホテルメトロポリタン高崎
8階
モントレー屋上庭園・貸し菜園
東口側[編集]
東口側にはE’site(イーサイト)高崎が2010年12月12日にオープンし、多数の店舗が入居している。
東口の施設を以下に示す。イーサイト内の商業施設などについては、当該記事を参照のこと。
1階
イーサイト店舗
2階(西口の駅ビルモントレーを基準にすると「コンコース階」)
イーサイト店舗
東口駐輪場通路
びゅうプラザ高崎駅
VIEW ALTTE(JR東日本のATM)
3階
高崎市市民サービスセンター
高崎駅献血ルーム Harmony

貨物取扱
JR貨物の駅は現在、臨時車扱貨物の取扱駅となっており、定期貨物列車の設定はない。
かつては駅の南側にある日本製粉高崎工場(現・ニップン冷食高崎工場)へ続く専用線があり、穀物輸送などが行われていたが、1994年(平成6年)3月ごろに廃止された。また、駅北側にあった日清製粉高崎工場(1988年6月閉鎖)への専用線もあり、鶴見線大川駅から穀物輸送が行われていたが、工場の閉鎖に伴い廃止された。なおニップン冷食の専用線は現在も残っており、列車内から見ることができる。


駅弁
当駅の駅弁はすべて高崎弁当の調製で、NREたかべん(高崎弁当と日本レストランエンタプライズ (NRE) の合弁会社)が販売している

駅周辺
当駅を中心として高崎市の中心市街地が展開しており、特に東口周辺の開発が目立つ。高崎駅と周辺の高層ビルや商業施設をつなぐペデストリアンデッキが建設中(一部開通)であり、また、東口に清水建設が長年保有していた土地にヤマダ電機の本社兼大型都市型量販店「LABI1高崎」が2008年(平成20年)7月11日にオープンした。
駅の東西にロータリーがある。西口前にはバスのりばが集中し、駅の2階からペデストリアンデッキが各バスのりばと各方向の歩道を結んでいる。駅の周辺には店舗やオフィスビル、ホテル、マンション、各種公共施設、各官庁出先機関などが立ち並んでいる。郊外型店舗優勢の群馬において県内随一の駅前繁華街である。
西口
高崎市の中心街に面していることもあり東口に先立ち再開発が行われ、東口に比べると活気がある。またペデストリアンデッキは再開発によって設置されたアパホテルやワシントンホテルなどの施設とも直結しており、それ以外にも徒歩1分程度の場所に高島屋高崎店などもある。
東口
東口前にはタクシープールやバスのりばがある。
隣接地にヤマダ電機LABI1高崎があり、周辺の建物とともにペデストリアンデッキによって結ばれている。1階はバスターミナルである。また500メートルほど離れた場所にビックカメラ高崎東口店や日本中央バスの営業所がある。
東口前から東毛広域幹線道路(国道354号)が通じており、2014年8月末に玉村伊勢崎バイパスが開通した事により伊勢崎・太田・館林方面まで全通した。また、2014年2月22日には東毛広域幹線道路と関越自動車道の交差地点に高崎玉村スマートインターチェンジが供用開始された。

高崎線下り最終電車の到着時刻は午前1時37分である。これは高尾駅とともに、列車の到着時刻としては日本で最も遅かったが、2016年3月のダイヤ改正でJR神戸線の西明石行き最終電車の終点到着時刻が午前1時38分に繰り下げられたため、全国で最も遅い終電到着時刻の座を明け渡し、現在ではJR東日本で最も遅い終電の到着時刻となっている。


1884年(明治17年)
5月1日 - 日本鉄道の駅として、新町 - 高崎間開通と同時に開業。
8月20日 - 日本鉄道線が前橋駅間まで開通。
1885年(明治18年)10月15日 - 官設鉄道(国鉄)(現在の信越本線)が横川駅まで開通。
1897年(明治30年)5月10日 - 上野鉄道線(現在の上信電鉄上信線)が福島駅(現在の上州福島駅)まで開通。
1900年(明治33年)- 二代目駅舎に改築。
1906年(明治39年)11月1日 - 日本鉄道が国有化。
1917年(大正6年)7月6日 - 三代目駅舎改築竣工。
1928年(昭和3年)- 遺失物取卸駅に指定される。
1930年(昭和5年)5月23日 - 第3ホーム(現5・6番線)を増設。
1935年(昭和9年)10月6日 - 北跨線橋増築。
1946年(昭和21年)11月18日 - 東口営業開始。
1965年(昭和40年)10月1日 - みどりの窓口を設置。
1966年(昭和41年)
2月3日 - 第3ホームを上野方面に30メートル延伸。
8月20日 - 旭町の中居里踏切が立体地下道になる。東口6番線に貨物コンテナ基地が完成。
12月28日 - 上信電鉄新設ホーム使用開始。


1968年(昭和43年)10月1日 - 第4ホーム(現7・8番線)を新設。
1970年(昭和45年)10月1日 - 旅行センターオープン。
1971年(昭和46年)4月1日 - 駅レンタカー新設。
1973年(昭和48年)
3月25日 - コインロッカーを設置。
11月21日 - 構内の専売局専用線が廃止される。
1975年(昭和50年)9月30日 - 構内の高崎製紙専用線が廃止される。
1976年(昭和51年)
2月14日 - 1番線舗装、軌道を敷設。
11月 - 上越新幹線工事着工。


1978年(昭和53年)7月17日 - 仮8番線使用を開始。
1980年(昭和55年)
3月1日 - 中央跨線橋の新設工事着工。
8月1日 - 西口駅前広場の改良工事着工。
9月16日 - 仮駅舎建設工事着工。
11月18日 - 駅ビル新築工事着工。
11月29日 - 業務を仮駅本屋へ移転。
12月1日 - 旧本屋(三代目駅舎)を解体。


1981年(昭和56年)
2月25日 - 8番線使用開始および9番線の新設。
5月1日 - 中央跨線橋、使用開始。
10月21日 - 構内の日清・日本製粉の専用線が廃止され、一般貨物の取り扱いが全廃される。
1982年(昭和57年)
3月1日 - 新駅舎完成。
4月14日 - 駅ビルモントレーオープン。
11月15日 - 上越新幹線が開業。南跨線橋が自由通路となる。
1983年(昭和58年)10月5日 - 西口広場で陶板壁画「だるまの詩」の払拭会。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅はJR東日本・JR貨物に承継。
1994年(平成6年)12月3日 - 貨物列車の設定が廃止。これ以降の貨物列車発着はない。
1997年(平成9年)10月1日 - 北陸新幹線(長野新幹線)が開業。
2001年(平成13年)
11月18日 - JR東日本でICカードSuica供用開始。
12月1日 - 湘南新宿ライン運行開始。
2004年(平成16年)10月16日 - 1番線の客扱い廃止。
2005年(平成17年)
7月3日 - 東西2箇所の改札口が1箇所に統合。それに伴いみどりの窓口が1箇所になり、上信電鉄との連絡運輸が廃止。
9月25日 - 新幹線直通改札口新設。
秋 - 高崎駅東側にE’siteがオープン。
冬 - 高崎駅ステーションルネッサンス完成。
2008年(平成20年)3月15日 - モバイルSuica特急券のサービス開始。
2009年(平成21年)3月 - 東口と高崎タワー21を結ぶペデストリアンデッキが完成。
2010年(平成22年)
10月12日 - Suica専用改札設置。
12月12日 - 東口駅舎の改築と駅舎前のペデストリアンデッキの工事が完了。E’siteの拡張も完了し名称を「E’site高崎」に変更。
2012年(平成24年)
3月1日 - 上信電鉄専用の出入り口が西口ロータリーに新設された。それに伴い、コンコースからの連絡階段・エスカレーターが廃止された。


所属事業者 JR logo (east).svg東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 タカ
駅構造 高架駅(新幹線)
地上駅(橋上駅)(在来線)
ホーム 2面4線(新幹線)
3面7線(在来線)
乗車人員
-統計年度- 29,748人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1884年(明治17年)5月1日
乗入路線 8 路線
所属路線 ■上越新幹線
キロ程 74.7km(大宮起点)
東京から105.0km
◄本庄早稲田 (19.0km)(46.6km) 上毛高原►
所属路線 ■北陸新幹線
キロ程 0.0km(高崎起点)
◄*(本庄早稲田) (-km)(18.5km) 安中榛名►
所属路線 ■高崎線**
(■八高線直通含む)
キロ程 74.7km(大宮起点)
東京から尾久経由で105.2km
高麗川から65.3km
◄倉賀野 (4.4km)
所属路線 ■上越線**
(■吾妻線・■両毛線**直通含む)
キロ程 0.0km(高崎起点)
(2.8km) 高崎問屋町►
所属路線 ■信越本線
キロ程 0.0km(高崎起点)
(2.4km) 北高崎►
備考 みどりの窓口 有
* 全列車が上越新幹線に乗り入れ。
** 高崎線 - 上越線・両毛線の間で直通運転実施。


遠隔操縦式掃海具SAM(自走式掃海具)海上自衛隊

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管制艇(MCL)からの無線管制により磁気掃海と音響掃海を実施する。唯一の掃海管制艇「くめじま」より操作。くめじまは2018年、除籍予定。

くめじま引退の後は無線官制装置・遠隔操縦一式は他の艇に移管されSAMSAM(自走式掃海具)は存続する予定との事です。

重量:25t
主要寸法:全長18.0m×幅6.2m×喫水1.7m
エンジン:ディーゼル(無線操縦) 出力:215PS


速力:約8kt
船型:双胴船型
乗員:なし


所属:第101掃海隊
主要装備:磁器・音響掃海具
ステルス性も考慮したデザインとなっている。

海自で運用されているSAMは海上・陸上の管制所から最大2基を制御できる。
自走式掃海具SAMはスウェーデンからの輸入艇で導入されたのは平成10年からです。


・主な任務は、掃海艇が入ることができない浅海面の掃海を担当します。航洋性はない。
・掃海管制艇からの無線操縦により速力8ノットで自走し、磁器掃海と音響掃海を同時に実施します。

かつて、安室奈美恵のご主人がTRFのサム(SAM)だった時「NAMIE」と付けられてペントされているのもありました。。※現在は「NAMIE」の表記は消されています。

赤羽橋駅 東京都交通局 大江戸線

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駅東側の赤羽橋口。首都高速の高架下にあります。

赤羽橋駅は、東京都港区東麻布一丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅である。駅番号はE 21。2000年(平成12年)12月12日、都営地下鉄大江戸線(国立競技場 - 清澄白河 - 都庁前間)全線開業により開業した。

駅名にもなっている「赤羽橋」(古川に架かる桜田通り(国道1号)上の橋)がある。出入口の上に首都高速都心環状線 (C1)が通っており、同線の芝公園出入口も近い。


島式ホーム1面2線の地下駅である。改札は地下1階、ホームは地下2階にある。


ホームの側壁に多数の四角いガラスを埋め込んでいる。このガラスは、イタリアのベトロアレド社が製作した物である。
また、緊急時などのために麻布十番側に渡り線を設けており、折り返しが可能な構造になっている。なお、現時点で当駅折り返しの列車は設定されていない。

切符売場には券売機が2台とICカードチャージ機が1台設置されています。改札口には改札機は5台(うち1台が出場専用)。

のりば
番線 路線 行先
1 E 都営大江戸線 大門・門前仲町・両国方面


2 六本木・新宿・都庁前方面

駅改札内設備
改札口は地下1階、ホームは地下2階にある(事実上は地下3・4階に相当する)。
待合室はない。
トイレは地下1階にあり、「だれでもトイレ」を併設している。
エレベーターとエスカレーターは地下1階 - 地下2階を結ぶ。

 

駅番号 ○E 21
所属事業者 PrefSymbol-Tokyo.svg 東京都交通局(都営地下鉄)
所属路線 E 大江戸線
キロ程 21.3km(都庁前起点)
電報略号 赤(駅名略称)
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 18,167人/日(降車客含まず)
-2014年-
乗降人員
-統計年度- 36,187人/日
-2014年-
開業年月日 2000年(平成12年)12月12日

南海6000系電車(6000系)

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南海6000系電車(なんかい6000けいでんしゃ)とは、南海電気鉄道の高野線で運用されている一般車両(通勤形電車)の一系列。

6000系 概要
製造初年は1962年。同年12月25日から営業運転を開始した。南海の4ドア通勤車としては初の高性能車である。東急車輛製造がアメリカ・バッド社のライセンス供与を受け、日本で初めて開発したオールステンレス車体を採用した。東急車輛製のオールステンレス車としては同じ1962年に、その嚆矢となる東京急行電鉄(東急)7000系電車、続いて京王帝都電鉄(現・京王電鉄)3000系が登場しているが、この2系列は18m級3ドア車であったのに対し、同年12月に登場した本系列は初めての20m級車体となった。側扉は片開き式で、2017年5月現在の高野線所属車では唯一の存在である。南海本線に導入された7000系は、本系列の普通鋼製車体バージョンである。ステンレス車体は事故などで損傷した際の修繕が難しかったため、6000系以後も踏切の比較的少ない高野線はステンレス車、南海本線は鋼製車というパターンが9000系の投入まで続くこととなった。
登場当初は難波方からモハ6001形(Mc、制御電動車)+サハ6801形(T、付随車)+モハ6001形(Mc)の3両編成であった。1964年に新製された編成は同じ3両編成でもモハ6001形(Mc)+モハ6001形(Mc)+クハ6901形(Tc、制御車)の構成に変更されている。 制御方式は抵抗制御だが、日立製作所製超多段(バーニア)制御器(形式:VMC-HTB-20AN)を採用し、スムーズな加速を実現している。起動加速度はM・T同数編成で2.5km/h/s、2M1T編成で3.4km/h/sである。主電動機は三菱電機製MB-3072-A(後にB)で、出力は600V時115kW/1600rpm、1500V時145kW/2000rpm、昭和37年当時の狭軌電車用電動機としては最強クラスのモーターである。1500V時の定格速度は60km/hで、通勤車としては高いうえに弱界磁制御を30%まで行う。駆動装置はWNドライブ。ブレーキ方式は発電ブレーキ併用電磁直通空気ブレーキ (HSC-D) 、台車は米バッド社の技術の下、製造元の東急車輛製造が改良し軽量化を図った軸箱梁式のパイオニアIII(東急車輛製造製TS-702、付随台車はTS-702[T])型で、軸箱外側に露出したディスクブレーキのローターが特徴である。
本系列登場時、南海電鉄の架線電圧は600Vであり、本系列は600V対応の電装品を搭載して製作されたが、1500Vへの昇圧が決定した1965年以降の新製車は600Vと1500Vの双方に対応する複電圧車となり、さらに1966年以降の新製車は輸送需要も高まりつつある時期とも重なり4両編成とされた(この時の編成はMc+Tc+T+Mc)。また初期車も4両編成化されており、このために登場当初は先頭車だった車両を中間に組み込んだ編成が存在する。初期車は1972年に複電圧仕様に改造され、1973年10月の昇圧を迎えている。


1969年まで72両が新製され、2017年5月現在も全車が在籍している。車齢50年を越えて現役を続ける例は鉄道車両では少なくないものの、同世代の車両の多くが廃車、譲渡、転属される中で、大手私鉄の車両で1両の廃車も転属もなく、50年もの間同一線区を動かなかった例は非常に珍しい。老朽化が目立たないため、代替車両の計画も今のところ具体化していない。
また、更新後に検査を行った所、腐食がほとんど見受けられなかったためVVVFインバータ制御化も検討されたが、全車が更新を終えていたため計画は立ち消えとなった。
車両構造上、同期登場の7000系は普通鋼製だったことが災いし、塩害による車体へのダメージが酷いことから、2015年10月までにすべて廃車となっており、車体の構造が明暗を分けた格好である。

 


改造工事
クハ6901形奇数番号車の方向転換
1969年に6000系の製造が終了したが、この時点での6000系はMc+T+T+Mcの編成が3本、Mc+Tc+T+Mcの編成が15本であった。1971年に高野線で6両運転を開始するにあたり、後者の編成の形では6両を組む際に効率が悪くなることからこの編成を前者の形の4両編成と2両編成に組み替えることにした。これに合わせて、増結編成を確保するためクハ6901形の奇数番号車を1970年から1973年にかけて国鉄の竜華操車場に依頼して方向転換を行った。製造当初はすべて下り方に運転台があったクハ6901形だが、この方向転換により奇数番号車は上り方、偶数番号車は下り方に運転台がある形となった。これにより、6000系はMc+T+T+Mcの編成が10本、Mc+T+Tc+Mcの編成が1本、Mc+TcとTc+Mcの編成が各7本ずつに再編された。
複線化対策工事・長編成化対策工事
三日市町駅 - 橋本駅間の複線化工事を実施し、完成した際に橋本駅まで20m車を入線させることが決定したが、紀見峠を越える急勾配区間で抑速制動を使用するため、電動車に設置していた電動発電機 (MG) を隣の制御車・付随車に移し、その空いたスペースに電動車の抵抗器を増設する工事が1976年から1981年にかけて実施された。
また長編成化により増解結の頻度が多くなったことから増解結作業の効率化を図るため、1980年から1982年にかけて、非冷房のままそれまでのNCB-II型密着自動連結器に代えて、CSD-90型回り子式密着連結器と電気連結器とを一体化した全自動密着連結器に取り替えられた。
一部の車両では複線化対策工事と長編成化対策工事が同時に施工されている。
なお、6013F・6029F・6035Fの3編成12両には、方向幕の設置工事が複線化対策工事と同時に行われたが、電気連結器設置と同時に方向幕はあまり使用されなくなり、以後更新までは方向幕を余白状態として他の編成と同様に方向板を掲げて運用されていた。


更新工事
1985年より車体の更新と、冷房改造を実施することになった。本系列のパイオニアIII台車では冷房を搭載した分の車重増加に対応できないため、住友金属工業製S型ミンデン台車への更新も同時に行うこととした。施工は、初期に東急車輛で更新された一部を除き、南海車両が担当している。
台車更新では、60両分の台車を新製のS型ミンデン台車(住友金属工業製FS-392C、付随台車は092A)とし、一部の付随車12両分の台車は更新後経年が浅かった10000系によって置き換えられた旧1000系の廃車発生品であるM車(電動車)用だったミンデンドイツ式台車(形式:FS-355)を装着した。
この改造により当時パイオニアIII台車だった6100系との併結は不可能になったが、S型ミンデン台車装着の6200系との併結は可能となった。6100系のS型ミンデン台車装着改造車である6300系との併結も可能である。細かいところでは、パイオニアIII台車の撤去に伴い、バッド社とのライセンス契約を示すプレートが車内から外されている(これは後述の6300系も同様である)。また、ラッシュ時の乗客のドアへの挟み込みに備えて、客用ドアの再開閉スイッチの追加も行われた。
この際、台車の問題により更新済みの編成と更新前の編成の間で併結が不可能となり、全編成の更新が完了するまでこの状況が続いた。また、T車(付随車)に関しては機器配置が変更されたため更新後はサハ6801形をサハ6601形に改番した。
なお、前述の方向転換後も唯一固定編成の中間に組成されていたクハ6901形6901号車はこの改造と同時に運転台を撤去し、サハ6601形6610(6009F4両編成の3号車)として現在に至っている。これ以外の6000系は更新時の車号改番は行われなかった。

製造当初は高野線難波 - 三日市町間で使用されていたが、1984年3月11日のダイヤ改正で林間田園都市駅まで20m車が入線可能となり、また1992年11月10日のダイヤ改正では橋本駅まで20m車が入線可能となったため、現在では難波 - 橋本間と泉北高速鉄道線で使用される。
2005年10月16日のダイヤ改正以後は運用の効率化を図るために、橋本以北では中型車の2000系ズームカー運用を減少させたこともあり、運用数が多くなっている。従来ラッシュ時に2000系で運用されていた列車を6000系列などの大型車に置き換えることで、混雑緩和が図られている。また同ダイヤ改正では乗客減のほか、全体的に20m車両の運用の増加により車両不足となったため、昼間時の各停の一部に4両編成が十数年ぶりに復活したほか、平日朝の泉北高速鉄道線直通区間急行・準急に見られる10両編成から6000系列が撤退し南海車両による10両編成列車が消滅した(泉北高速鉄道線の10両編成列車も2013年7月19日を以って消滅している)。8連の運用もどちらかというと泉北の車両で運転されることが多い。なお、各駅停車の4連運用は従来6000系・6300系に限定されていたが6200系VVVF更新車も使われるようになった。 一方で急行・区間急行はラッシュ時を中心に8連での運用が多い。各駅停車も泉北高速線内完結や、河内長野〜橋本駅間で運用するものは8連で運転される列車がある。


南海では車両故障時の冗長性の確保を重視しているため、6000系の4両固定組成(編成内にMGが1台しかない)は組成単独では使用されない(かつては6200系の4両固定組成も、編成内に制御器とCPが1台しかないために単独運用、更に4両組成に別の2両組成が1編成しか併結しない場合の6両編成運用を避けていたが、4両固定組成の全車VVVF制御化でこの制限は解除された)。また千代田検車区の配線の関係で6両固定編成や4両固定編成と2両固定編成を連結するときは2両固定編成が必ず下り方になる。6000・6200・6300系は相互に連結可能なので混結は珍しくないが、組み合わせ方にはかなり制約がある。また、6000各系列(元8200系の、6200系50番台も含む)の4両組成と、6両組成には全編成、難波方から4両目となる4号車には「女性専用車」のステッカーが貼られている。このため、平日朝ラッシュの8両編成の急行と区間急行で運用される場合、4号車が「女性専用車」となる。ただし8両編成でも、準急行・各駅停車では実施していない。
なお、6000系については併結時に運転席と反対側にある乗務員用の席が空席となるため、そこに着席することも出来る。実際、その席に着席するとボックスシートなどと同じく線路方向を向いて座ることが出来る(ロングシートは横方向)ので利用する人も多い。また、6000系と6300系の一部に運転席が撤去された車両があるが、やはり運転席と反対側のスペースには自由に入れる。貫通扉を閉めれば半個室状態になるため、ラッシュ時を中心にこのスペースを利用する人もいる。
1985年6月16日のダイヤ改正までは汐見橋線での運用があった。また1995年まで橋本駅の最長編成が4両編成であったため、三日市町駅での増解結作業を行う運用も存在していた。いずれも6000系・6100系限定での運用だった。


基本情報
製造年 1962年 - 1969年
製造数 72両
主要諸元
設計最高速度 120(100※) km/h
台車
S型ミンデン式ダイレクトマウント空気ばね台車
FS-392C・FS-092A
ミンデンドイツ式ベローズ式空気ばね台車
FS-355
(軸箱梁式パイオニアIII形台車※)
(TS-702・TS-702T※)
主電動機 直流直巻電動機
制御装置 超多段式バーニア抵抗制御方式
VMC-HTB-20AN
制動装置 電磁直通ブレーキ
(発電ブレーキ併用、抑速ブレーキ付き)
備考 ※は更新前のデータ

壺川駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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壺川駅(つぼがわえき)は、沖縄県那覇市壺川三丁目にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は5。


駅構造
ゆいレールでは少ない相対式ホーム2面2線。エスカレーター・エレベーターあり。

のりば
壺川駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 県庁前・牧志・おもろまち・首里方面


2 小禄・那覇空港方面

 

駅設備
コインロッカー - 改札内に設置。
小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)15個
公衆電話 - 改札外に1台設置。


自動販売機(飲料) - 改札外に2台(内1台は車椅子対応)、改札内に1台、各ホームに1台設置。
トイレ - 改札内に設置。
駐輪場 - 駅北側にある。無料。


駅周辺
駅南西を国場川が沿い、対岸には奥武山公園がある。当駅からは歩行者・自転車用の「北明治橋」で奥武山公園に短絡しているため、那覇まつりなどの催事中は混雑する。
那覇市沿岸漁業協同組合 鮮魚直売店「さかな」 - 徒歩約5分 
「海人がつくる壺川駅前弁当」を販売。「駅弁」と宣伝されることもあるが、駅での販売実績がないため厳密な意味での「駅弁」とは見なされず「駅前弁当」と称している。鉄道会社公認の駅で販売されている駅弁としては、同じ路線上の那覇空港駅構内で販売されている「油味噌かつサンド」が最南端且つ最西端である。油味噌かつサンドの材料は全て沖縄県産品で、トンカツは沖縄ハム総合食品(中頭郡読谷村)、油味噌(アンダンスー)は赤マルソウ(糸満市)、パンはオキコ(中頭郡西原町)製のものが使用されている。

海人がつくる壺川駅前弁当は、沖縄県の那覇市沿岸漁業協同組合が経営する壺川直売店さかなが販売している弁当である。2003年8月10日の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)開業を記念し、壺川駅を最寄り駅とする直売店さかなが同年1月に京王百貨店新宿店で開催された元祖有名駅弁と全国うまいもの大会で先行販売され、8月のゆいレール開業と同時に正式販売を開始した。


戦前に沖縄本島で営業していた沖縄県営鉄道で駅弁が販売されていたことを示す記録が残っていないこともあり「沖縄初の駅弁」ないし「日本最南端の駅弁」をキャッチフレーズにしているが、通常の駅弁と異なり駅構内で販売されている訳ではないため厳密には「駅弁」とは言えないとする意見もあり、あくまで「駅前」弁当を称している。なお、駅弁大会ではこうした定義に関わり無く他の弁当と同様の「駅弁」として扱われている。
ほぼ2-3年単位で弁当の中身を全面リニューアルする点が特徴で、2003年の販売開始当初は海ブドウにモズク・錦糸卵・カツオ・イカなどが具に用いられていたが、2006年には大東諸島の名産であるサワラのにぎり寿司(島寿司)となり、2009年にはクロカジキの漬け丼にモズクを添えたものとなっている。
弁当は壺川直売店さかなで購入できる。「駅前弁当」を称しているが、実際に壺川駅の真正面にある訳ではなく、国場川を左手に見ながら北西に380メートルほど歩く必要がある。営業時間は午前9時から午後6時まで、日曜日と元日(1月1日)は休業。沖縄本島以外では、各地の百貨店で行われる駅弁大会に出展されることがある。ただし、出展される弁当は名称が同じでも現地の弁当と仕様が異なる「特装品」の場合がある。

沖縄県営奥武山公園 - 徒歩1分
那覇中央郵便局
沖縄国際ユースホステル - 徒歩約5分
沖縄ハーバービューホテル - 徒歩約10分

駅進入時の車内チャイムは、沖縄民謡「唐船ドーイ」を編曲したものが流れる。
ホームからは隣の奥武山公園駅を目視する事も可能。
改札
近での沖縄方言による案内放送では「ちぶがー」と発音される


2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅番号 5
所属事業者 Okinawa City Monorail Logo.png 沖縄都市モノレール


所属路線 ■沖縄都市モノレール線
キロ程 4.52km(那覇空港起点)
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 1,959人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日

ブルーインパルス(曲技飛行隊・航空自衛隊)

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ブルーインパルス(Blue Impulse)は、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)の愛称である。
当初は部隊の中の1チームという位置づけであったが、1995年には正式に1部隊として独立した。正式部隊名は第4航空団飛行群第11飛行隊で、広報活動を主な任務とし、展示飛行を専門に行う部隊である。世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使用して空中に描画を行う、いわゆる「描きもの」が得意なチームとして知られている。
旧日本陸海軍が行なっていた曲技飛行(アクロバット飛行)の歴史も含めた上、第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と称している。なお、航空交通管制における編隊のコールサインは、愛称がそのまま用いられている。


T-4時代(1995年以降)
独立した飛行隊として発足
1989年ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた。
T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きくなるが、独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになるという問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた。


展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかったが、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており、自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期で、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた。
こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた。1992年11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,135作品が集まった。その中から、精神科医で飛行機ファンとしても著名な斎藤章二のデザイン案が採用された。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された。
1994年10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成され、翌1995年7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演したが、この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示されたため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した。
こうして、1996年4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行、1996年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた。
初の国外遠征
第11飛行隊として発足した翌年の1996年、アメリカ空軍からブルーインパルスへ、アメリカ空軍創設50周年を記念してネバダ州のネリス空軍基地において行なわれる航空ショーである「ゴールデン・エア・タトゥー」 (GOLDEN AIR TATTOO) での展示飛行の招請があった。これに対して検討を行なった結果、1億数千万円を投じて、ブルーインパルス史上初となる国外への展開が決定した。
しかし、アメリカでは観客の方向に向かって飛ぶことは禁じられており、高度制限もアメリカの方が厳しいなど、日本とアメリカでは展示飛行の基準が異なっていた。アメリカ連邦航空局 (FAA)の係官が来日し、松島基地でアクロバット飛行の内容をチェックしたが、さまざまな懸案が指摘された。これに伴い、課目についても進行方向を変えたりするなど、部分的な変更を迫られた。
ブルーインパルスが運用するT-4には太平洋を横断するだけの飛行能力はなく、輸送船に船積みした上で海上輸送することになり、1997年3月4日からアメリカ本土への移動が開始された。まず陸上自衛隊の木更津駐屯地まで機体と機材を輸送し、そこで輸送船にクレーンで船積みされ、同年3月10日に木更津港を出港した。パイロットが渡米するまでは訓練に使用できる機材がないため、第1航空団と第4航空団の教育集団から通常仕様のT-4をリースして訓練を行なった。
機体は同年3月28日にカリフォルニア州サンディエゴのノースアイランド海軍航空基地に到着し、同年3月26日に成田を出発した整備員が受領し、整備が行われた。パイロットは4月5日に松島基地を出発し、4月6日に成田から出発、現地で整備員と合流し、4月10日にネリス空軍基地へ向かった。ネリス空軍基地ではサンダーバーズが使用する空域を使用した訓練が行なわれたが、標高が高いことから気圧が低く、空気密度が低いためエンジンのパワーが落ち、編隊を組むのも容易ではなかったという。また、砂漠での訓練飛行は地上目標物が少なく苦労したという。
「ゴールデン・エア・タトゥー」は1997年4月25日・26日に開催され、アメリカ空軍のサンダーバーズのほか、カナダ空軍からはスノーバーズ、ブラジル空軍からはエスカドリラ・ダ・フマサ、チリ空軍からはアルコネス]、そして日本からブルーインパルスと、5カ国のアクロバット飛行チームが競演することになった。
サンダーバーズのような迫力はなかったものの、正確で緻密なパフォーマンス、日本とは全く異なる環境であるにもかかわらずトラブルのなかったブルーインパルスの整備・支援体制は、参加した軍関係者からも高い評価を得られた。この時に披露された課目のうち、ブルーインパルスのオリジナル課目である「スター&クロス」については、最初のうちは5機がバラバラの方向にスモークを引いているようにしか見えず、ほとんどの観客は意図が分からなかったという。しかし、スモークが伸びるにつれ、会場にいた子供の「スター!」という声があちこちから聞こえだした。アメリカ空軍のみならず、アメリカ合衆国そのものの象徴でもある星が空中に描かれると、観客からは絶賛されたという。
会期終了後、4月28日にネリス空軍基地からノースアイランド海軍航空基地へ移動し、そこで再度船積みを行なって5月6日に出港、松島基地に帰還したのは5月28日であった。
このアメリカへの展開は3ヶ月に及んだため、この1997年の展示飛行回数は15回にとどまった。なお、この年には松島基地に新しい隊舎が完成した。

1990年代後半
1998年には長野オリンピック(長野五輪)の開会式上空における航過飛行(フライバイ)の要請を受けた。東京五輪とは異なり「五輪を描く」ことはなかったものの、開会式の会場が冬期の山岳地域であり、会場が冬期迷彩のように視認性に劣るため[123]、会場の脇には移動式TACANが設置された。また、開会式当日は第11飛行隊の飛行隊長が会場から無線で編隊に直接指示を送る体制をとった。開会式当日、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章の演奏・合唱が終了すると同時に、会場上空で5色のスモークを引きながらレベルオープナーを披露した。
同年7月には松島基地にブルーインパルス専用の格納庫と「ブルーインパルス・ミュージアム」が完成、同年7月27日の松島基地航空祭において「お披露目式典」が行なわれた[101]。
1999年からはカラースモークは使用されなくなった。一方、1982年の事故以来、浜松基地の航空祭では水平系の課目しか行われていなかったが、この年の11月14日には浜松基地で行われた「エアフェスタ浜松」においては、17年ぶりに垂直系の課目を含めた展示飛行が行われた。
飛行隊として独立してから、部隊運用や管理はスムーズに行なわれており[125]、全国の航空自衛隊隊員にとって、ブルーインパルスは魅力的な部隊となった。
40周年目の事故
ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた。
ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落、3名が殉職するという事故が発生した。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった。
事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされたが、1991年の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故であった。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった。
このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し、自治体との話し合いを続けた結果、2001年2月9日から訓練飛行を再開した。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため、第11飛行隊発足当時のメンバーであったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し、パイロット育成を実施した。また、機体も2機が失われてしまったが、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため、6機での展示飛行は出来なくなってしまった。
それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われたが、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった。
2002年4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開したが、これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められた[128]ことから、9月までに2機のT-4が引き渡され、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からであった。
この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた[128]が、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことが出来た。

自衛隊では航空祭のみ活動する臨時の曲技飛行隊が複数存在するが、ブルーインパルスは唯一常設の曲技飛行隊である。
前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年12月以降の体制について記述する。

組織
第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されている[160]が、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である。
第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められていることが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行ないやすくするためである。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない。これは、空士は二等空士・一等空士・空士長とも任用期間が3年に限られており、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮である。
通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されていることや、整備員とパイロットの連帯感が強いことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている。

飛行班
飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある[129]が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわないため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる。
自衛隊では珍しく所属するパイロットの個人名が紹介されている。
3年間という任期が定められており、任期の3年の内訳は
1年目
TR(訓練待機、Training Readiness)として演技を修得する。展示飛行の際にはナレーションを担当したり、訓練のため後席に搭乗することがある。
2年目
OR(任務待機、Operation Readiness)として展示飛行を行う。
3年目
ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRのパイロットに演技を教育する。
限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することも出来ない。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている。
パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていることのほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される。なお、手当ては普通のパイロットと同様である[129]。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年時点ではどちらかといえば後者の方が多かったが、2010年時点では本人が希望することが多くなっている。
それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている。
なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている。
基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があった他、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。

整備小隊
地上クルーのうち整備を担当するのが整備小隊で、整備小隊長以下20人前後が在籍。整備員は「ドルフィンキーパー」と呼ばれ、整備服の左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN KEEPER" と記される。1機につき3名の機付整備員が配置され、そのうち1名が機付長として受け持つ機体についての作業を任されている]。他の部隊と異なり、機体を磨く作業が重要視されているのが業務内容の特徴である。航空祭などではエンジンスタートや地上誘導などを担当するだけではなく、展示飛行の際にはウォークダウン・ウオークバックを披露する。観客に背中を見せる機会が多いため、展示服の背中にはブルーインパルスのロゴも入っている。
パイロットと同様、任期は3年間を原則としており、通常は1月に着任して実務訓練を受ける。また所属隊員の個人名が紹介されている。

総括班
総括班長は2006年4月までは5番機のパイロットが兼務していたが、2006年4月以降は展示飛行を行なわないパイロットが選任されている[173]。パイロットであるため、ネームタグは飛行班と同じデザインで、7番機のポジションナンバーが入っている。
総括班は、飛行スーツやヘルメット、酸素マスクなどの維持管理を行う「救命装備員」(LIFE SP)、飛行計画(フライトプラン)を管理する「飛行管理員」(DISP)]、物品調達を行う「補給員」(SUPPLY)、その他の庶務を行う「総務員」(ADMIST)という業務内容で、航空祭の時にもパイロットや整備員と同行して展示飛行の準備を行うため、展示服が用意されている。

支援設備
格納庫(ハンガー)は1998年7月に建設された。緩やかなアーチ形状の屋根で、正面には "Home of The Blue Impulse" という文字が入れられておりハンガー内部の床面中央には直径10mほどの大きさでブルーインパルスのエンブレムが描かれている。
飛行隊舎は格納庫に隣接しており、1階には資料展示室があるほか、屋上には訓練を見学するための観客席が設けられている。
なお、同隊舎と格納庫は2011年3月の東日本大震災による津波で水没し損傷したが、駐機場と格納庫を約3,6メートルかさ上げし、格納庫には防水扉を設置。滑走路との間に長さ約200メートル、幅約23メートルの誘導路も新設した。
業務用車両として、現地クルーの移動支援用にトヨタ・ランドクルーザーとホンダ・アクティを導入していたが、2010年に日産・エクストレイルを導入した[186]後、ランドクルーザーは使用されていない]。いずれもブルーインパルスの機体と同じイメージの塗装が施されている。この他、ブルーインパルス専用のトーイングカーと電源車を保有する。なお、給油車については飛行群ではなく整備補給群の所属であるが、そのうち1台は「スモークオイル専用の給油車」で、松島基地にしか存在しない。

T-4(1996年以降)
3代目機体T-4は、その機体形状から「ドルフィン」の愛称もある国産の中等練習機である[204]。翼面荷重が260キログラムと小さく、エンジン推力に対する重量比もF-86FやT-2と比較すると大きく、低空での性能はF-15をも凌ぐ。このため、「360°ループ」のような高Gの連続課目や「バーティカルキューバンエイト」のような垂直系の高負荷課目が余裕を持って出来るようになった。
ブルーインパルスが運用する機体は戦技研究仕様機と称し、以下の点が通常仕様と異なっている。
発煙装置
胴体後方の第3燃料タンクを発煙油(スモークオイル)専用のタンクに転用している。発煙油の搭載量は約320リットル(85ガロン)で、通常の展示飛行1回で使用する発煙油は200リットル程度である。背面飛行などで機体の姿勢に変化があっても供給が途切れないように、発煙油のポンプはタンク内の上下2箇所に設けている。また、これに関連して、操縦席には発煙油の残量計・発煙油ポンプのスイッチ・スモークのON/OFFのトリガーが増設されている。
通常仕様のT-4では、速度が240ノット以上になると垂直尾翼の過荷重防止策として、方向舵の作動角が5度に制限されるラダー・リミッターが装備されている[208]が、戦技研究仕様機ではアクロバット飛行時の機動性を高めるため、作動角の制限を10度に拡大している。
バードストライク対策
低い高度を高速で飛行する機会が多いため、通常仕様では風防(キャノピー)は厚さ11ミリメートルのストレッチアクリル製であるが、戦技研究仕様機ではアクリルとポリカーボネートの4層構造として、厚さも25.4ミリメートルとなっている。これは、450ノットの速度で重量4ポンド(約1.8キログラム)の鳥とぶつかった場合にも損傷を防げる強度である。また、ヘッドアップディスプレイ (HUD) の表示板をガラス製から樹脂製に変更し、破損時の危険性を低下させているほか、操縦ケーブルが格納されている主翼前縁部にも防護構造を施している。
低高度警報装置
降着装置とフラップがともに収納されている場合に、設定した高度以下になると警報を促す装置を装備している。
こうした変更により、通常仕様のT-4とは大きく仕様が異なる。このため、F-86FやT-2と違い、原則として通常のT-4で訓練することができなくなった。2010年までに導入されたT-4戦技研究仕様機は、11機全機が新造機として取得され、後に2機が既存機の改修で追加されている。
機体の塗装は、T-2と同様に一般公募が行われ、応募された2,135点の中から、斎藤茂太の子でモデラーやF-4のファンとして知られる精神科医の斎藤章二によるものが採用された[98]。
なお、T-4導入後の1995年8月には、T-4の後継機としてF-2支援戦闘機の導入が俎上に上っており、1996年度の防衛予算案でブルーインパルス仕様として9機のF-2が計上されたが、認められなかった。


展示飛行
国立競技場のファイナルイベント、「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」での展示飛行(2014年5月31日)
展示飛行が行われるのは、各地の航空自衛隊の基地で行われる「航空祭」が主である[212]が、国民的な行事への参加などもみられる[213]。また、2010年ごろには、海上自衛隊や陸上自衛隊など、航空自衛隊の基地以外でのイベントへの参加もみられるようになっている。


ただし、民間航空と滑走路を共用している基地の場合、ブルーインパルスが展示飛行を行なっている間は一切の離着陸が出来なくなるため、展示飛行がみられないこともある。こうした基地で展示飛行が行われる場合、開催日のかなり前から民間航空会社へ協力を要請しており]、ノータム(NOTAM)と呼ばれる航空情報にもその旨運航関係部署に配信される。開催当日、民間航空会社側では配信された情報によって、出発地の離陸時間を調整したり、空港手前の旋回待機を行ったりしている。
また、飛行場以外の場所や、滑走路が短くT-4の離着陸が出来ない基地での展示飛行では、別の基地に展開を行ない、そこを拠点にして展示会場まで飛ぶ方法がとられており[213]、これを「リモートショー」や「リモート展示」と称している。

気象条件
ブルーインパルスの展示飛行内容は、気象状態や使用可能な空域などによって決められる。
アクロバット飛行の展示飛行は、視程(目視できる距離)が8キロメートル以上で行なわれ、雲底の高さ(シーリング)によって以下のように区分されている[218]。
第1区分
シーリングが10,000フィート以上
第2区分
シーリングが7,000フィート以上
第3区分
シーリングが5,000フィート以上
第4区分
シーリングが3,000フィート以上
この区分は、そのときの天候に応じた可能な限り高い区分での展示飛行を行なっているため、展示飛行中であっても天候の変化によって変更されることがある。
空域に制限がある場合や飛行場以外の会場で行われる展示飛行では、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが3000フィート以上ある場合に「編隊連携機動飛行」と呼ばれる展示飛行が実施される。バンク角が90度を超えないような水平系の演目や、航過飛行(フライバイ)などを組み合わせた内容となる[213]。
また、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが1500フィート以上ある場合は、航過飛行(フライバイ)が実施される。それ以下の気象条件では、ブルーインパルスの展示飛行は原則として行われない。

各機の役割
通常、展示飛行は予備機を含めた7機で展開を行う。予備機を除いた6機の役割は以下の通りである。
1番機(編隊長、Leader)
編隊の先頭を飛行する編隊長機で、編隊の隊形の基準になるため、正確な操縦が要求されるが、僚機の追従が難しいような操縦は出来ないため、慎重な飛行が求められる。すべてのメンバーを統率し、高度や安全の責任をすべて負う役割で、TAC部隊でも飛行班長クラスのベテランが担当する。
2番機(左翼機、Left Wing)]
隊形変換の際に移動の速さの基準となる役割を持つため、課目の見栄えを左右する。
3番機(右翼機、Right Wing)
チーム内で最も若いパイロットが担当する。2番機の動作に合わせて隊形の対称性を確保する役割がある。


4番機(後尾機、Slot)
後方から隊形をチェックする役割。1番機の後方に入り込むため、垂直尾翼に1番機のジェット排気が当たる状態となり、縦系統に動く課目ではうまく舵が合わないとキャノピーがジェット排気の中に入り込んでしまうため、「地獄の後尾機」とも称される、編隊で最も過酷なポジション。
5番機(第1単独機、Lead Solo)
1機のみで行う「ソロ課目」や、6番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つ。第2編隊長機としての役割もあり、1番機にトラブルが生じた場合は残りの機体を統率する。デルタ隊形の場合は4番機の左側に入る


6番機(第2単独機、Opposing Solo)
1機のみで行う「ソロ課目」や、5番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つほか、5機での課目では1番機が率いる編隊と合流する。デルタ隊形の場合は4番機の右側に入る


スモーク
展示飛行で使用されるスモークは、切削油(スピンドルオイル)と称する、本来は機械加工の潤滑・冷却に用いる油をエンジン排気口の後部に噴射、エンジン排気の温度によって油が気化し、それが大気中で冷却されて微小粒子へと凝結し、白いスモークとして見えるという仕組みである。
スモークは課目に応じて発生させるタイミングが決まっており、1番機や5番機からの指示によってスモークを発生させたり停止したりしている。ただし、1機のみで行う「ソロ課目」においては、パイロットの判断により使用する。
なお、1998年まで使用されていたカラースモークは、切削油に専用の染料を混ぜることによって発生させていた。カラースモークを使用しなくなった理由としては、以下の理由が挙げられている。
染料を混合した切削油は十分に攪拌しておく必要があるため、展示飛行直前の給油(実機への搭載)が前提となり、手間がかかる。
機体に染料の飛沫が付着した場合、除去作業の手間がかかる。
染料の沈殿を防ぐため、展示飛行ごとに切削油の抜き取り作業が必要になる。
染料そのものの購入コストがかかる。
1998年の防府市と千歳市での展示飛行で、「車に色がついた」との苦情が寄せられ、調査の結果カラースモークが原因と判明した
カラースモークの色はポジションによって決まっており、1番機と5番機が白(ホワイト)、2番機が青(ブルー)、3番機が赤(レッド)、4番機が黄(イエロー)、6番機が緑(グリーン)を使用していた。
カラースモーク再開について、2020年の東京オリンピック開会式で再び五輪マークを描く構想が空自内で持ち上がり、航空開発実験集団がフランスなど海外の展示飛行で使用している染料を取り寄せて、車や洗濯物などの地上物への影響や、機体との適合性など、日本で使えるかどうかの検証を行い、2017年末をめどに調査結果をまとめ、可否を判断する予定である。

T-4 塗装
1997.1~
1992年11月、T-4ブルーインパルスの塗装デザイン案がT-2の時と同様に一般公募された。選ばれたのは精神科医でもあり、ブルーインパルスの熱狂的なファンでもあった斉藤章二氏のデザイン案であった。幼少のころに強い印象に残ったF-86Fブルーインパルスのデザインを意識した作品だという 。
そのデザインは、上面はF-86F同様白でまとめられているが、下面はヴァーミリオンではなくブルーになっている。主翼や水平尾翼も上面は白、下面はブルーで統一されている。尾翼は全面ブルー、そこにポジションの数字が入れられている。
この塗装デザインは2016年現在も使用されている。

T-4時代
1996年(平成8年)
4月 防衛大学校入校式で、「T-4ブルーインパルス」最初の公式展示飛行(編隊課目のみ)を行う[101]。
5月5日 岩国航空基地「日米親善デー」で、「T-4ブルーインパルス」最初の第1区分公式展示飛行(フル演技)を行う。
1997年(平成9年)
4月 アメリカ合衆国ネバダ州・ネリス空軍基地にて開催の『アメリカ空軍創設50周年記念エアショー(「ゴールデン・エア・タトゥー」)』にて初めて海外での展示飛行を実施[106]。
1998年(平成10年)
2月 長野オリンピック開会式で展示飛行。
1999年(平成11年)
この年からカラースモークの使用を中止。
11月14日 浜松基地航空祭で18年ぶりとなる第1区分の展示飛行を実施。
2000年(平成12年)
7月4日 飛行訓練後の帰投中に2機が墜落し、パイロット3名が殉職。事故以降、その年の展示飛行を全て中止する。
2001年(平成13年)
2月 飛行訓練を再開。
8月26日 松島基地航空祭より4機による展示飛行を再開する[128]。
9月11日 アメリカ同時多発テロ事件発生により、これ以降、当年度の全ての航空祭が中止に[123]。
2002年(平成14年)
5月26日 静浜基地航空祭より航空祭における展示飛行を再開。
6月4日 2002 FIFAワールドカップにて埼玉スタジアム2002上空で展示飛行。
8月 墜落事故で失われた機体の補充として新たに2機の新造T-4アクロバット仕様機を受領。
12月の岐阜基地航空祭から6機体制に戻る。
2004年(平成16年)
9月・10月「パシフィックツアー」中のサンダーバーズと百里、浜松で競演するも天候不順で展示飛行は全て中止。
2005年(平成17年)
12月開催の那覇基地航空祭にてT-4ブルーインパルス化初の展示飛行(編隊課目のみ)を実施。
2007年(平成19年)
4月28日 熊本城の築城400年祭の一環として、熊本市上空にて展示飛行(航過飛行)を実施、熊本県出身の村田将一3等空佐が1番機を操縦した。
9月30日 F1 日本GP決勝が開催される「富士スピードウェイ」上空で展示飛行(航過飛行)を実施予定だったが、悪天候により飛行中止。
2008年(平成20年)
4月12日-13日 瀬戸大橋開通20周年事業でサンポート高松上空と瀬戸大橋上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
2009年(平成21年)
6月1日-6月2日 横浜開港150周年を記念して、第28回横浜開港祭において、横浜市西区臨港パーク上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
10月18日 米空軍アクロバットチームサンダーバーズと三沢基地航空祭で競演。
2010年(平成22年)
3月27日 プロ野球チーム東北楽天ゴールデンイーグルスのホーム開幕戦のオープニングにて、クリネックススタジアム宮城上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
8月22日 第56回松島基地航空祭にてブルーインパルス創設50周年記念として航空中央音楽隊が「The Simmer of the Air」等を生演奏する中、展示飛行を実施。
9月25日 第65回国民体育大会ゆめ半島千葉国体の開会式において、千葉マリンスタジアム上空でデルタ隊形による編隊航過飛行を実施。
2011年(平成23年)
3月11日 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波被害のため松島基地所属の航空機は壊滅的被害を受けたが、第11飛行隊の保有する10機のうち、7機(天候調査などに使用される通常仕様の1機を含む)が翌日の九州新幹線全通を祝う編隊通過飛行のため芦屋基地に展開、2機がIRAN(メーカーでの整備)に出されていたため、第11飛行隊の航空機で被害を受けたのはブルーインパルス仕様T-4の1機のみであった。しばらくは芦屋基地を拠点とし飛行訓練を行った。
8月7日 千歳基地航空祭において、シーズン初の展示飛行(編隊連携機動飛行)を実施。
8月20日 宮城県東松島市で、震災後初めて地元での編隊飛行を披露。最寄りの松島基地は未だ使用できないため、この日は青森県の三沢基地から離陸。
2012年(平成24年)
11月3日 入間航空祭にて、展示飛行中の2番機にバードストライクが発生し緊急着陸。その後の展示飛行は中止となってしまった。
2013年(平成25年)
3月25日、松島基地に戻るのを前に、芦屋基地を一般開放して、周辺住民に感謝の気持を込めて、芦屋基地で最後の展示飛行を行った。
3月31日、松島基地でブルーインパルスの帰還式が開かれた。ブルーインパルスは震災以来、拠点としていた芦屋基地を離れ、2年ぶりに松島基地へと帰還した。
2014年(平成26年)
1月29日、松島基地から南東に約45kmの太平洋上で1番機の機首部と2番機の左後方が接触し同基地へ緊急着陸。ブルーインパルス同士の接触事故は発足以来初。
5月31日、国立競技場のファイナルイベント「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」にて、競技場上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
2016年(平成28年)
8月28日、一般公募9,000人と特別招待1,000人の合計10,000人限定で公開された「松島基地復興感謝イベント」にて展示飛行を実施。基地上空で展示飛行を披露するのは6年ぶりとなる。
2017年(平成29年)
8月26日、「東松島夏まつり」にて展示飛行を実施。
8月27日、「松島基地航空祭」(完全一般公開)にて午前・午後の2回に渡り展示飛行を実施。同基地完全一般公開での展示飛行は2010年以来7年ぶりとなる。

創設 1960年4月16日
(第1航空団第2飛行隊内「空中機動研究班」として)
国籍 日本の旗 日本
軍種 航空自衛隊
任務 曲技飛行による航空自衛隊の広報活動
基地 浜松基地(1960年4月16日から1981年3月31日まで)
松島基地(1982年7月以降)
ニックネーム ブルーインパルス
モットー 創造への挑戦(Challenge for the Creation.)
使用機種 ノースアメリカン/三菱重工業 F-86F(1960年4月16日から1981年3月31日まで)
三菱重工業 T-2(1982年7月から1995年12月22日まで)
川崎重工業 T-4(1995年12月22日以降)
主なミッション 東京オリンピックにおける展示飛行(1964年)
日本万国博覧会における展示飛行(1970年)
ネリス空軍基地における展示飛行(1997年)

旭橋駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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旭橋駅は、沖縄県那覇市泉崎一丁目にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は6。


駅構造
相対式ホーム2面2線。エスカレーター・エレベーターあり。


のりば
旭橋駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 県庁前・牧志・おもろまち・首里方面


2 小禄・那覇空港方面


駅設備
コインロッカー - 改札内に設置。小型(最初の8時間300円、以後2時間毎に100円追加)25個。
なお、駅前の那覇バスターミナル内にも設置。
公衆電話 - 改札外に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札内に2台(内1台は車椅子対応)、各ホームに1台設置。
トイレ - 改札内に設置。


那覇市の中心市街地の西側に位置している。当駅の西側には国道58号、東側には久茂地川がモノレールに並行して通っているほか、駅南側の旭橋交差点で国道58号・国道330号・国道390号(サンシャイン通り)が交差している。
駅から久茂地川を挟んで東側に那覇バスターミナルがあり、久茂地川の上に架かる連絡橋を渡って行くことができる。なお、かつてこの場所には沖縄県営鉄道の那覇駅があった。


久茂地川東側の約4.5ヘクタールの地域では2002年から再開発事業が進められている。国道330号南側(旭町)の再開発区域全域に「カフーナ旭橋」の愛称が付けられている。久茂地川沿いのB-1街区と、B-1街区から沖縄国税総合庁舎を挟んで東側のC街区では官公庁ビル・オフィスビル・ホテルなどが、C街区の東隣のD-1街区ではマンション「フレスコア旭橋」が、C街区の南隣のE-1街区では駐車場がそれぞれ建てられた。那覇バスターミナルはA街区として再開発区域に含まれており、建て替えのため2015年4月6日より2018年3月末までの予定で閉鎖中である。
官公庁
沖縄国税総合庁舎(沖縄国税事務所・那覇税務署)
総務省沖縄総合通信事務所 - カフーナ旭橋B-1街区
外務省沖縄事務所
沖縄県南部合同庁舎・沖縄県市町村自治会館 - カフーナ旭橋C街区
沖縄県庁・那覇市役所・沖縄県警察本部 - 当駅から徒歩圏(約400m)。なお、最寄り駅は当駅ではなく、隣の県庁前駅である。


交通機関
那覇バスターミナル
那覇港那覇ふ頭 - 当駅の西約500mにあり、当駅が最寄り駅。沖縄本島北部(本部港)、与論島(与論港)、沖永良部島(和泊港)、徳之島(亀徳港)、奄美大島(名瀬港)、鹿児島市(鹿児島新港)と那覇を結ぶマルエーフェリーおよびマリックスラインが発着する。
バス停留所については後述。
金融機関
琉球銀行那覇ポート出張所
沖縄県労働金庫(ろうきん)本店 - カフーナ旭橋B-1街区
郵便局
東町郵便局
日本郵政グループ那覇ビル(旧日本郵政公社沖縄支社、旧郵政省沖縄郵政管理事務所)
日本郵便沖縄支社
ゆうちょ銀行沖縄エリア本部(那覇支店は美栄橋郵便局に併設)
企業
おきでん那覇ビル(沖縄電力那覇支店)
沖縄バス本社・旭町整備工場(両者は離れた場所にある)
第一交通産業オフィスコート - カフーナ旭橋C街区
KDDI沖縄支店
ラジオ沖縄
日本生命那覇支社
ホテル
リーガロイヤルグラン那覇 - カフーナ旭橋B-1街区
サザンプラザ海邦
那覇東急REIホテル - カフーナ旭橋C街区
ホテルルートイン那覇旭橋駅東
ダブルツリーbyヒルトン那覇

駅到着時の車内チャイムは、沖縄民謡「海のチンボーラー(うみぬちんぼーらー)」を編曲したものが流れる。

那覇バスターミナルは再開発事業により一時閉鎖中であるが、国道330号に面する乗り場は一時閉鎖後も使用している。

ほかに、国道330号側に旭橋バス停、北東側(国際通り側)にバスターミナル前バス停、東側に上泉バス停、南東側に旭町バス停があり、那覇バスターミナル構内に発着していた路線はこれらの停留所に発着している。


2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅番号 6
所属事業者 Okinawa City Monorail Logo.png 沖縄都市モノレール


所属路線 ■沖縄都市モノレール線
キロ程 5.33km(那覇空港起点)


駅構造 高架駅
ホーム 2面2線


乗車人員
-統計年度- 2,959人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日

100000立級大型空港用化学消防車

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製造国:オーストリア(ローゼンバウアー)
サイズ:全長11.8m 全幅3.0m 全高3.7m
車両総重量:32335kg


最高速度:112km/h以上
乗車定員:3人
加速能力:80km/h 35秒


水タンク容量:10500L
泡沫容量:650L
粉末容量:300kg
主タレット:5300L/min・80m以上
バンパータレット:800L/min・40m


1886年に設立されたローゼンバウアー(Rosenbauer)社は145年以上に渡り、防火・防災に対する消防技術の第一人者として高い評価を受けています。ローゼンバウアーは車両、消火システム、装備品など、消防に関するあらゆる製品を取り揃えており、いずれも世界中の消防機関からの大きな信頼を得ています。

そのサービスや事業ネットワークは全世界100ヶ国以上に広がり、消防署、企業や工場内の消防組織、消防団などから信頼のおけるパートナーとして選ばれています。

空港用化学消防車「パンター(PANTHER)」は空港用消防車の最高峰であり、国際空港を中心として既に1,350台以上が配備されています。加速度、消火性能、デザインなど全てにおいてパンターは従来のスタイルを陵駕しています。かつ、数多くの国際的な賞に輝く世界初の消防車です。

日本には国が定める厳格な規格に対応しつつ短期間の納入が可能な国内企業が存在し、外国企業にとっては厳しい市場環境と言える中、1994年にローゼンバウアーは日本市場への進出を果たします。その際には、1991年に鮮烈にデビューしたパンターが導入されました。

ローゼンバウアーと代理店である帝国繊維株式会社による、長期的なオリエンテーションの成果はその性能や顧客からの要望と共に結実しました。ローゼンバウアーは過去20年において50台以上の車両を日本に輸出しています。成田や関西といった国際空港から帯広や北九州といった地方空港まで、ローゼンバウアー の消防車は活躍しています。間もなく羽田、福岡、仙台の空港にも納入が予定されています。


空港用化学消防車とは、航空事故に備えて空港に配備される化学消防車。大量の水槽と強力な放水の土台となる大型車でありながら、広大な飛行場で速やかに展開する速力と高い不整地走行能力が求められる。
日本ではモリタが製造している他、ローゼンバウアー、オシュコシュ、シデス製車両も輸入されている。かつては東急車輛製造も製造していたが、現在は製造されていない。


舟入幸町停留場(広島電鉄江波線)

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舟入幸町停留場(ふないりさいわいちょうていりゅうじょう、舟入幸町電停)は、広島県広島市中区舟入幸町にある広島電鉄江波線の路面電車停留場である。

江波線の軌道は道路上に敷設された併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが設けられている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟んで配置されている。ただし互いのホームは交差点を挟んで南北にずれていて、交差点の北に土橋方面へ向かう上りホームが、南に江波方面へ向かう下りホームがある。下りホームは連接車両に対応した長さをもつ。入口に立つ安全地帯の標識は若干大きめです。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、6号線、8号線、9号線が乗り入れる。連接車対応で延伸された跡が窺えます。


上りホーム 6号線 広島駅ゆき。広島駅方面乗場のホームは延伸されていません。
8号線 横川駅ゆき
9号線 白島ゆき
下りホーム 6号線8号線9号線 江波ゆき
ホームには横断歩道からスロープで連絡します。

周辺
付近は住宅街である。西にしばらく行くと天満川が流れ、東にしばらく行ったところには旧太田川(本川)が流れる。
フレスタ舟入店
スシロー舟入店
広島原爆養護ホーム舟入むつみ園
舟入公園
舟入第三公園

 

舟入幸町停留場は1944年(昭和19年)6月、江波線の舟入本町から舟入南町までの区間が開通したのに合わせて開業した。ただ当時は太平洋戦争下であり、翌年の8月6日には原爆投下により江波線をはじめ広島電鉄の市内線は全線不通となる。当停留場も被爆の翌日に休止、そのまま1947年(昭和22年)に一度廃止された。停留場が復活したのはそれから10年以上経過した1959年(昭和34年)11月のことである。
1944年(昭和19年)6月20日 - 江波線の舟入本町 - 舟入南町間が開通。あわせて当停留場も開業。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下、市内線は全線不通となる。
8月7日 - 当停留場が休止。
1947年(昭和22年)11月1日 - 江波線が復旧、運転を再開。ただし当停留場は廃止される。
1959年(昭和34年)11月1日 - 復活、再開業。
2008年(平成20年)3月 - 下りホームが改修され、連接車両に対応したホームとなる。
2013年(平成25年)2月15日 - 9号線の運行が八丁堀から江波まで延長され、当停留場にも乗り入れる。


駅番号 E3
所属事業者 広島電鉄
所属路線 江波線
キロ程 1.3km(土橋起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1944年(昭和19年)6月20日

元乃隅稲成神社

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元乃隅稲成神社(もとのすみいなりじんじゃ)は、山口県長門市油谷津黄にある神社。

1955年(昭和30年)に、地元の網元であった岡村斉の枕元に白狐が現れ「吾をこの地に鎮祭せよ。」というお告げがあったことを元に、太皷谷稲成神社(島根県津和野町)から分霊されて建立された。

全国の稲荷神を祀る神社が「稲荷神社」と記すのに対し、「稲成神社」の字を充てているのはこのためである(全国で約4万社ある「稲荷神社」に対して、「稲成神社」はこの2社のみ)。

商売繁盛、大漁、海上安全は元より、良縁、子宝、開運厄除、福徳円満、交通安全、学業成就、願望成就の大神として、地域の人々の信仰を集めている。


神社から日本海側に見下ろした先には、断崖下の海蝕洞に荒波が打ち付ける度に海水が中の空気と一緒に吹き上がる現象が見られる「龍宮の潮吹」があり、神社の間に1987年(昭和62年)から10年かけて奉納された123基の朱色の鳥居が、龍宮から100メートル以上に渡り並んでいる。

また、裏参道出口付近にある大鳥居の中央上部(高さ約4m)に設置された、「日本一入れづらい」とも言われる賽銭箱は、見事賽銭を投げ入れることが出来れば願いが叶うと言われている。


アメリカのニュース専門放送局・CNNが2015年3月に発表した「Japan's 31 most beautiful places」(日本の最も美しい場所31選)の一つとして選ばれた。

御朱印
社務所にて、かわいい白狐さんの御朱印が頂けます。
平日は無人ですが、あらかじめ半紙に書いてある御朱印が準備されていますので、御朱印代を奉納し、頂く事ができます。

中国自動車道 美祢ICから車で60分
JR山陰本線 長門古市駅からタクシーで約20分

所在地 山口県長門市油谷津黄498
位置 北緯34度25分11秒
東経131度3分46秒座標: 北緯34度25分11秒 東経131度3分46秒
主祭神 宇迦之御魂神
伊弉冉尊
創建 1955年(昭和30年)

仙台駅(JR東日本仙山線・東北本線・東北新幹線)・仙台市交通局

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仙台駅(せんだいえき)は、宮城県仙台市青葉区中央一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・仙台市交通局(仙台市地下鉄)の駅である。仙台市地下鉄の駅番号は、南北線がN10、東西線がT07である。JR東日本の駅は、東口および一部ホームが宮城野区榴岡一丁目にまたがっている。また、仙台市地下鉄東西線の駅は青葉区中央三丁目となっている。


東北地方最大の都市・仙台市の代表駅である。東北新幹線は当駅を通る全営業列車が停車する。仙台都市圏と首都圏との間の高速アクセス手段は、東北新幹線が大宮駅 - 上野駅間を延伸開業した1985年(昭和60年)に、航空路線の仙台空港 - 羽田空港便が廃止されてからは、新幹線が独占的に担っており、当駅の新幹線利用客は1日平均4万人以上となっている。在来線は後述するように、仙台周辺の宮城県内の各都市や仙台空港、山形市、福島市、一関市などとを結ぶJR各線が発着する。市内各所を結ぶ地下鉄も乗り入れ、東北地方最大のターミナル駅となっている。

「ショッピング、食事、ホテル等の施設も充実し、文化の発信基地としての役割も担う駅」として、東北の駅百選に選定された。なお、1961年(昭和36年)に客貨分離されている。
仙石線を除くJR在来線の軌道敷は、北は宮城野橋(X橋)付近から南は北目町ガード(六道の辻)付近まで及び、仙石線仙台駅は仙台トンネル内を仙台駅東口駅前広場の地下から宮城野通り西端地下まで及ぶ。地下鉄仙台駅は、南北線が愛宕上杉通り地下を北は中央通りから南は仙台駅西口バスプールまで(仙石線あおば通駅と青葉通り地下で直結)、東西線が南町通り地下を通っている。


R東日本
新幹線は線路名称上は東北新幹線のみであるが、当駅には東北新幹線の列車の他、秋田新幹線直通列車(こまち号)や北海道新幹線直通列車も停車する。
在来線は次の各線が乗り入れる。
東北本線 - 当駅開業時からの路線であり、当駅の所属線となっている。
仙山線 - 当駅を起点とし、山形駅までを結んでいる。
仙石線 - 石巻駅までを結んでいる。かつては当駅が起点であったが、地下化と同時に起点は1つ隣のあおば通駅となり、当駅は途中駅となった。
正式な線路名称上は以上の3路線であるが、東北本線を介して以下の路線も乗り入れる。
常磐線 - 福島県浜通りへと通じている。岩沼駅から東北本線経由で乗り入れる。
仙石東北ライン - 仙石線高城町駅以東から、仙石線・東北本線接続線、東北本線を経由して乗り入れる列車の愛称。当駅を起点としている。
仙台空港鉄道仙台空港線 - 仙台空港とを結ぶ空港連絡鉄道。名取駅から東北本線経由で全列車が乗り入れ、全区間に「仙台空港アクセス線」の愛称が付けられている。
阿武隈急行阿武隈急行線 - 槻木駅から東北本線経由で一部列車が乗り入れる。土休日は、「ホリデー宮城おとぎ街道号」との列車名が付される。


国有化は、日本鉄道が1906年11月1日、宮城電気鉄道が1944年5月1日。
国鉄丸森線の阿武隈急行移管は1986年7月1日。
国鉄分割民営化によるJR東日本移管は1987年4月1日。

駅舎は地上4階建/地下1階、南北方向に広がっている。駅西口に駅ビルが併設され、S-PAL仙台本館(地上6階/地下1階)・ホテルメトロポリタン仙台(地上21階/地下2階)が南側に、S-PAL II(地上2階部)が北側に位置する。また、東口再開発に合わせてS-PAL仙台東館(地上6階・一部4階/地下1階建、2016年3月18日開業)及び宿泊施設棟(地上14階/地下1階建、2017年6月19日開業)・オフィス棟(地上13階/地下1階建、2018年度以降開業予定)も建設される。
コンコースは在来線が2階、新幹線が3階にある。


在来線改札口は西口側に「在来線中央改札口」(中央口から改称)、S-PAL地下1階に「地下南口」、東口側・仙石線地下改札口に「JR仙石線仙台駅改札口」(仙台駅東口改札から改称)の3か所で、東口再開発に合わせて東口2階コンコースにも新設される[36]。
みどりの窓口は、3階中央みどりの窓口と3階新幹線乗換口(新幹線乗換口は在来線改札内のため、当日分のみ)の3か所で、JR仙石線仙台駅改札口(仙台駅東口改札)と地下南口改札にはない。中央口北側に「びゅうプラザ仙台」がある。かつては1階にJR北海道が運営する「JR北海道プラザ仙台支店」があり、みどりの窓口としても機能していたが、現在は閉店している 。新幹線中央改札口に指定席券売機があるが、これはえきねっとで申し込みをした乗客の為の切符受け取り専用機となっている。
なお、3F新幹線南口改札口にあった指定席券売機とえきねっと専用受取発券機は2015年12月6日から使用を開始した南口改札口と2F在来線コンコースとを接続する乗換通路の工事に伴い、みどりの窓口側に移設された。


仙台市地下鉄への乗換は、地下南口から西口地下歩道を経由して地下鉄東改札へのルートが便利。仙台市地下鉄仙台駅とは地下自由通路・西口地下歩道で接続しているため、地下自由通路を利用すればあおば通駅からJR仙台駅(仙石線を含む)への徒歩連絡も可能であるが、連絡運輸は行っていない。
駅舎の屋上は、ジェイアールバス東北が管理する24時間営業の「仙台駅屋上駐車場」(駐車可能台数333台。時間貸し・月極)となっており、愛宕上杉通りと柳町通との交差点から出入庫する。地上との高低差があるため、入庫用と出庫用の二重らせんの自走ループ線によるスロープ棟が併設されている。
直営駅(駅長・助役配置)であり、管理駅としてあおば通駅を管理している。JRの特定都区市内制度における「仙台市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となる。
JR仙台駅の事務管コードは▲231035、仙台市内の事務管コードは▲239901である。


のりば
1番線 - 1面1線の単式ホーム。
2 - 4番線 - 1面3線の島式・切欠きホーム。切欠き式となっている3番線は、青森方には進行不可能である。
5・6番線 - 1面2線の島式ホーム。
7・8番線 - 1面2線の島式ホーム。通常は仙山線用として使用されている。
9・10番線 - 地下2階にある仙石線専用の1面2線の島式ホーム。
11 - 14番線 - 4階高架にある2面4線の島式ホーム。


在来線 地上ホーム
1・2 東北本線 (下り) 岩切・利府・塩釜・小牛田方面
仙石東北ライン 塩釜・高城町・石巻方面
3東北本線 (上り) 岩沼・白石・福島方面
仙台空港アクセス線 名取・仙台空港方面
4 東北本線 (下り) 岩切・利府・塩釜・小牛田方面
(上り) 岩沼・白石・福島方面
常磐線 亘理・相馬・原ノ町方面
仙台空港アクセス線 名取・仙台空港方面
仙石東北ライン 塩釜・高城町・石巻方面


5 東北本線 (上り) 岩沼・白石・福島方面
常磐線 亘理・相馬・原ノ町方面
仙石東北ライン 塩釜・高城町・石巻方面
6東北本線 (上り) 岩沼・白石・福島方面
常磐線 亘理・相馬・原ノ町方面
7・8 仙山線 愛子・作並・山形方面


仙石線 地下ホーム
9 仙石線 (上り) あおば通行き


10 (下り) 本塩釜・松島海岸・石巻方面
新幹線ホーム(高架)
11・12 東北・秋田・北海道新幹線 (下り) 盛岡・新青森・秋田・新函館北斗方面
(上り) (当駅始発)郡山・大宮・東京方面
13・14 (上り) 郡山・大宮・東京方面


西口(中央口)側は、伊達政宗が仙台城下町を開府して以来の仙台の中心地である。メインストリートである青葉通りは、大手銀行や証券会社が連なり、金融街を形成している。
1887年(明治20年)12月15日に東北本線の仙台駅開業の際、駅舎が現在の西口に設置されて成立した。西口にはその後、1925年(大正14年)6月5日に宮城電気鉄道・仙台駅(1952年移設)、1926年(大正15年)11月25日に仙台市電・仙台駅前駅(1976年廃止)、1987年(昭和62年)7月15日に仙台市地下鉄・仙台駅、2000年(平成12年)3月11日にJRあおば通駅が設置され、仙台の玄関口として機能している。
2階コンコースと直結するペデストリアンデッキは、新幹線開業前の1977年12月に完成したもので、その面積・総延長距離は日本一である。ペデストリアンデッキは、アエル、かつてさくら野百貨店が入居していた豊ビル、Loft、LABI、EBeanS、仙台パルコといった、駅前に立地する大型店をはじめとするビルの2階部に接続している。


駅西口と中央改札口との間にある「ステンドグラス前」は、仙台市都心部の待ち合わせ場所として利用されている。以前はステンドグラス横に伊達政宗像(2代目)があり、「伊達前」と呼ばれていたが、2008年10月から12月の仙台・宮城デスティネーションキャンペーンに向けた駅改修のため、同年3月1日をもって大崎市に譲渡され、同月16日より同市にある陸羽東線有備館駅に移設された。また同年2月1日より、4代目の駅舎に設置されていたものを復刻したアナログ式の大時計が2階中央改札口前のコンコース壁面に設置されている。「ステンドグラス前広場」は催事場として、各種の物販イベントやギャラリーなどに用いられる。また、ステージを設置して、無料のミニコンサートもしばしば開催される。定禅寺ストリートジャズフェスティバル in 仙台や仙台ゴスペル・フェスティバルでは、ペデストリアンデッキ上で演奏が行われる。
仙台駅西口駅前広場には、北から「一般車降車場」(一般車用の降車ロータリー)およびそれに囲まれた仙台駅自家用車駐車場(平面駐車場。60台駐車可。最初の20分間は無料、以後200円/30分)、「ロータリー降車場」(タクシー、観光バス、一般車の降車)、「タクシープール」、「仙台駅西口バスプール」が並んでいる。2008年のデスティネーションキャンペーンに合わせ、一般車から降車する場合は、「一般車降車場」または「ロータリー降車場」を使用し、一般車に乗車する場合は、仙台駅自家用車駐車場を使用するよう変更された。
西口北側は、繁華街である一番町に通じるショッピングストリート中央通りが東西に伸び、多くの買い物客で賑わう。西口南側の南町通りと柳町通りの間(EBeanSの裏)には「仙台朝市」があり、生鮮食料品を始めとする店舗が立ち並ぶ。

東口側には、仙台城下町の開府前に仙台平野の中心地があったが、現在の町並みとの関連は薄い。1882年(明治15年)2月25日、県内初の軌道である宮城木道(木道社)が東六番丁13番地に東六番丁停車場を設置し貨物輸送を始めるが、1887年(明治20年)12月15日に東北本線の仙台駅が東六番丁に設置されて廃線となった。その後、1929年(昭和4年)6月1日に宮城電気鉄道・東七番丁駅が設置され、仙台東口駅、仙石線仙台駅と改称しながらも東口の動線を集めていた。1978年(昭和53年)3月18日に仙台駅構内に東西自由通路が開通して西口と繋がり、仙台駅東第一土地区画整理事業により宮城野通りが開通し、2000年(平成12年)3月11日に仙石線仙台駅が地下化され、オムニバスタウン事業により東口の整備が進むと、東口の動線は現在の宮城野通口に集まるようになった。
このような変化により、中小規模の店舗が多かった東口周辺にヨドバシカメラ仙台店などの大型店が進出した。2003年に撤退した旧ラオックス跡にはBiVi仙台駅東口がオープンした。他方で駅前広場の再開発も進められ、2004年7月に東口ペデストリアンデッキが新たに供用を開始し、同時に高速バス乗り場も整備された。現在、JRバス東北・東北アクセス・宮城交通・日本中央バスなどが高速バス乗り場を使用している。


仙石線地上線跡地一帯では仙台駅東第二土地区画整理事業が進められ、マンション開発を中心に高度利用が進む。さらに、地下鉄東西線開業に伴い新たに宮城野通駅が開業した。JR東日本が東口再開発事業を進め、商業施設・ホテル・オフィスの4棟の駅ビル及び在来線改札口を新設。ヨドバシカメラも連鎖再開発事業を実施するなど、長らく「駅裏」と呼ばれてきた地区が変わりつつある。
東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地、Koboパーク宮城への最寄り駅は仙石線の宮城野原駅であるが、仙台駅東口ペデストリアンデッキから球場正面入口までは宮城野通りを一直線に約1.6km、徒歩20分程で行くことができる。また試合開催時に限り、東口バスプール - 宮城球場間のシャトルバス(仙台市営バス・宮城交通の共同運行、運賃100円)が運行されるほか、JRバス東北(一部共同運行会社を含む)の高速バスの一部が延長運転し宮城球場前まで乗り入れる。

江戸(東京) - 仙台の所要時間は、江戸時代には上りが約半月かかった(仙台藩の参勤交代では8-9日間)。1876年(明治9年)の奥羽巡幸において明治天皇が馬車で各地を回ると、1877年(明治10年)に仙台・国分町と岩沼とを結ぶ馬車会社が開業し、さらに馬車会社の万里軒が1881年(明治14年)に仙台 - 白石、1883年(明治16年)に仙台 - 福島の運行を開始した。このような都市間乗合馬車を乗り継くことで、東京 - 仙台の所要時間は3泊4日に短縮された。

1887年(明治20年)12月15日、日本鉄道の駅として仙台駅が開業。このとき東京府・上野駅から宮城県・塩竈駅まで通じ、上野 - 仙台間の所要時間は12時間20分となった。すると鉄道と並行する都市間乗合馬車は急速に衰退して廃業し、仙台 - 塩竈間に並行していた馬車軌道の木道社(宮城木道)も廃業に追い込まれた。
仙台駅周辺における当初の敷設計画では、多くの都市と同様に市街地端へ線路を設け(現在の宮城野貨物支線に近いルート)、当時の宮城郡苦竹村、現在の仙台貨物ターミナル駅付近に停車場を設けようとした。しかし、仙台城下町以来の街の衰退を恐れた地元商人がこれに反対し、費用負担を申し出て日本鉄道に変更を求めた。これが仙台区のほとんどの組(現在の町内会)を巻き込んだ運動になった。一方、士族を中心にした東京在住の仙台出身者は、都市の将来発展のためには原案が望ましいと論じていたが、最終的には当時の宮城県知事松平正直も変更を支持し、地元の費用負担なく東六番丁通りの現在位置に決定した。
初代の駅舎は木造平屋建ての小さな建物で線路の西側に位置し、幅35m・奥行き8m・面積236m2であった。また、駅前広場には馬車を回すロータリーがあった。
1894年(明治27年)、駅舎は改築され、木造ペンキ塗、中央部は2階建て両翼は平屋、面積8,407m2という、当時としては大きく立派なものとなった。この駅舎には増・改築が重ねられたが、1945年(昭和20年)の仙台空襲により焼失した。
この間、1906年に日本鉄道は国有化され、国鉄東北本線となった。1925年に仙台地区では初の直流電化路線である宮城電気鉄道(後の仙石線)が西塩釜駅まで開業し、1929年には仙山東線(後の仙山線)が愛子駅まで敷かれた。所要時間は1926年に上野 - 仙台間が8時間弱となり、乗降客数は1928年に1日平均9,649人を数えた。この頃の仙台駅は東北地方で最多の旅客をさばいたが、貨物では青森駅・塩竈駅(旧駅)などに引き離され、6位に留まった。1909年(明治42年)の汽車貨物では、米529トン、雑穀160トン、麦粉328トン、食塩383トン、酒406トン、鮮魚458トン、鉄類369トン、陶磁器298トン、硝子器150トンなどを送り出した。1926年(大正15年)11月25日には仙台市電が仙台駅前駅 - 荒町日赤病院前駅において開業し、駅前広場に隣接する駅前通りに仙台駅前停留所が設けられた。


1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲で仙台市街は大きな被害を受けた。仙台駅も死者4人を出して破壊され、他の駅から資材を回すなどしてバラック建ての駅舎を急造した。終戦直後の仙台駅発着の車両は、石炭不足で削減されて超過密状態で、利用客の8割が食料買い出しに向かう人々であった。その一方で、進駐軍は車両やホームを専用で留め置いて効率的運用を妨げ、その将兵の中には駅員に横暴を働く者もあった。
1948年(昭和23年)に新駅舎の建設が始まり、翌1949年(昭和24年)に竣工した。新たに駅前広場へのメインストリートとして青葉通りが敷かれ、1950年に駅前の舗装が完成したことで、駅および駅前広場の復興は一段落した。駅舎は木造モルタル2階建、面積2,023.9m2であった。この駅舎は仮駅舎の予定であったが、結局1972年(昭和47年)まで使用されることになった。1952年(昭和27年)6月1日には仙石線の地下ホームへの発着が廃止となり、工事のための運休を経て、9月26日から従来仙台東口仮乗降場として使用していた設備を仙石線仙台駅として運転するようになった。


1951年(昭和26年)、東北子供博覧会開催時に、博覧会事務局は駅前広場の一部を11か月の期限付きで借りて建物を作った。しかし、博覧会終了後、河北新報社長菅野千代夫を社長とする河北実業株式会社が設立され、土地の賃借権を主張して返還を拒み、建物を店舗用に賃貸した。これが駅前ショウハウスである。地元有力紙の関連企業を相手にした明け渡し交渉は難航し、1972年までそのままとなった。
復興計画の一環として、国鉄は1946年(昭和41年)、仙台駅前後の曲線区間を避け短絡する宮城野貨物線を敷き、そこに貨物駅を設置し、仙台駅を旅客専用にする計画を作成した。その後、貨物取り扱いの増加により12年後の1958年に工事が始まり、1961年に宮城野駅が開業した。これに伴い、仙台駅は貨物の取り扱いを廃止した。
新幹線の登場まで、仙台駅に停車する急行・特急は少しずつ速くなっていった。上野駅-仙台駅間の所要時間でその一部を拾うと、戦時中の1945年(昭和20年)1月に急行202列車は8時間33分かかった、初の特別急行列車である特急はつかりは、1958年(昭和33年)の登場時に5時間25分で走った。1965年(昭和40年)には、東北本線の電化により常磐線を経由しない特急電車ひばりが現われ、4時間35分とした。

東北新幹線開業に伴う駅舎新築のため、1972年に西口駅前広場に仮駅舎を設置、仮駅舎の後方の旧駅舎を取り壊し、新築駅舎は1977年に竣工、在来線のみの駅として部分供用を開始した。新幹線工事のために、1973年2月1日始発駅発の列車から、深夜に仙台駅を通過する旅客列車は宮城野貨物線へ迂回となり、1978年(昭和53年)10月2日から仙台駅経由に戻った。この間、長町駅に代わりに停車して長町 - 仙台間で代行バスの運転が行われ、また多客期や荷物列車については仙台駅経由が続けられていた。駅前ショウハウスの店子は仮駅舎設置時に強制執行で立ち退かされた。仙台市電は、1976年(昭和51年)4月1日に廃止となり、仙台駅前停留所も撤去された。
新駅舎の全面供用は、およそ5年後の新幹線開業時である1982年となった。1990年代に入ると駅構内の東側の留置線が整理され、家電量販店やアミューズメント関連施設の用地となった。利用客は1986年、新幹線・在来線合わせ、1日平均17万5千人となった。
新幹線停車駅は、仙台駅、宮城野駅、長町駅が浮上し、それぞれ「新幹線現仙台駅建設促進期成同盟会」、「新幹線東部地区設置期成同盟会」、「新仙台駅誘致仙南期成会」を結成して運動した。宮城野駅、長町駅は、ルート上に曲線区間が少なく減速を最小として通過できること、敷設距離短縮による工事費節減のメリットがあった。しかし、新幹線停車駅へ全列車停車すること、仙台市都心部へのアクセス利便性の確保から、新幹線停車駅は仙台駅に決定した。



2004年(平成16年)、仙台空港鉄道(仙台空港アクセス線)の開業に先んじ、ホームの改良工事を実施。1番線と2番線(当時)の間にあった中線を活用するため、2番線(当時)の北側部分(盛岡方面)を埋め、切欠きホームとした。中線に接するホームを新2番線とし、旧2番線を3番線に、以降在来線のホーム番号が1つずつ大きい数字に繰り下げられている。2007年(平成19年)3月18日、仙台空港鉄道が開業し、仙台駅への乗り入れを開始した。
2008年(平成20年)に入ると、地下鉄東西線開業に向けた工事が本格化していった。

東口再開発
2009年夏、JR東日本は仙台市地下鉄東西線開業に呼応する形で東口一帯の所有地再開発に着手する構想を発表した。計画の変更等を経て2012年1月、再開発計画を正式発表。再開発予定地に含まれたZepp Sendai及びE-GATE(商業施設)は2012年に閉鎖、解体。2013年3月27日、再開発工事が着工した。
これに合わせ、仙台市は西口・東口駅前広場の再整備を行い、バスターミナルの増設や移設・改編等に取り組む。
東西自由通路の拡幅
仙台駅の東西をつなぐ自由通路の幅を6mから16mに拡幅した。通路は3階層分の吹き抜け構造で[39]、2016年3月18日に完成した]。自由通路拡幅の工費の3分の2は、仙台市が負担した。
商業施設と新改札口の設置
東西自由通路の両側、在来線ホームの上に2棟の商業施設を建設する。北棟は4階/地下1階建、南棟は6階/地下1階建で、自由通路を合わせた延べ床面積は約43,000m2。自由通路と同様に、2016年3月18日完成。北棟2階部には新改札口(東口)、南棟上層階には約250台分の駐車場を新設。新商業施設はS-PALとの連動を視野にいれている。

ホテル棟
ホテルは、E-GATE跡地に建設予定。14階/地下1階建、延べ床面積は約14,000m2、客室は280室。ホテルメトロポリタン仙台の別館を想定しているが、コンベンション施設やウエディング施設を併設する本館とは異なり、宿泊特化型となる。宿泊料金は本館よりも高く設定される見込み。低層階は商業施設となり、北棟商業施設と一体となる。2014年春着工、2017年6月19日開業。

オフィス棟
オフィスは、Zepp Sendai跡地に建設予定。13階/地下1階建で、1階には多目的ホールを設置する。着工時期は未定。完成は2018年度以降となる見込み。
駅内リニューアル
新幹線連絡改札口の増設(東京方面側)及び移設(新青森方面側)、構内店舗・みどりの窓口の改修、ベビー休憩室の新設などが行われた[。2014年4月には、駅舎天井の改修工事にも着手。仙台城の大広間をイメージした格子天井を茶色を基調とした色合いにし、東口再開発とのデザインに連続性を持たせる。
また、「おみやげ処 せんだい」がリニューアルしたほか、「駅弁屋 祭」の出店、2015年12月4日には「ずんだ小径」がオープンするなど、駅構内店舗の改装・新規開店も行われた。
仙台市は、西口地下歩道・地下鉄入口(地下1階)と西口バスターミナル(地上階)、ペデストリアンデッキ(2階)、新幹線改札階(3階)とを結ぶエレベーターの新設工事を行う。

仙台駅は駅弁の種類が日本で最も多い駅である。仙台 - 首都圏・東北各都市間のビジネス客による需要や、東北新幹線車内の需要、観光客による需要が多いこと、仙台は山海の食材が豊富に揃う、といった点から駅弁の種類が増加していった。「伯養軒」と「こばやし」の2つの業者が1つの駅で競い合っていたことに加え、現在は先の2社の他に「日本レストランエンタプライズ」(NRE) が加わっている。「牛タン」弁当が売上一番であるが、他にも駅弁が数多く作られている。 この他に、NREがJR東日本管内の有名駅弁を集めて販売している売店「駅弁屋 旨囲門」や「駅弁屋 祭」が中央改札外にあり、全国の主な駅弁も当駅で購入できる。
駅弁以外にも、歩きながら食べられる安価なグルメとして「ずんだシェイク」が認知されている。中央通りの笹かまぼこ屋の「ひょうたん揚げ」、一番町のお茶屋の「抹茶ソフトクリーム」と並び、仙台の三大食べ歩きグルメとなっている。駅3階の新幹線中央改札口の脇に、「牛たん通り」「寿司通り」と称して、仙台牛タン焼きの店とすし屋が軒を連ねている。


1890年(明治23年):大泉屋弁当部(現在のウェルネス伯養軒)が弁当の販売を始める。
1894年(明治27年)6月1日:2代目の駅舎が完成(写真1894年)。
1897年(明治30年):磐城線(現在の常磐線)乗り入れ開始。
1904年(明治37年)
2月8日:第2師団の応召兵が仙台に向けて集結開始。
2月17日:第2師団の出征輸送開始。
1905年(明治38年):駅構内で食堂、売店の営業が始まる。
1906年(明治39年)11月1日:日本鉄道が国有化。
1909年(明治42年)10月12日:線路名称制定、東北本線所属駅となる。
1925年(大正14年)6月5日:宮城電気鉄道線(現在の仙石線)が西塩釜駅まで開業。
1926年(大正15年)11月25日:仙台市電開通。
1928年(昭和3年)4月20日:名掛丁に地下道を設置。


1929年(昭和4年)9月29日:仙山東線(現在の仙山線)が愛子駅まで開業。
1945年(昭和20年)7月10日:仙台空襲で駅舎が損傷
1948年(昭和23年)
日付不明:駅舎の大時計を宮城県中央児童館に寄贈。
4月:4代目の駅舎の工事開始。
1949年(昭和24年)
5月7日:正面入口に大時計設置。
5月18日:4代目の駅舎が完成。
1952年(昭和27年)
6月1日:仙石線の地下ホームが廃止となる。工事のために仙石線を運休。
9月26日:仙石線の仙台東口仮乗降場として使用されていた設備を利用して仙石線の運転を開始。
1961年(昭和36年)6月1日:新設の宮城野駅に貨物取扱の一部を譲渡、一般向けの貨物営業終了。
1972年(昭和47年)1月:5代目の仮駅舎が建てられる。
1973年(昭和48年)2月1日:新幹線工事のために深夜の旅客列車を宮城野貨物線へ迂回開始。
1976年(昭和51年)4月1日:仙台市電廃止。
1977年(昭和52年)12月15日:6代目(現在の)駅舎が営業を開始。


1978年(昭和53年)
3月18日:東西自由通路が完成。同時に駅ビル・S-PAL開業。
10月2日:深夜の旅客列車迂回運転を終了、仙台駅経由に戻す。
1980年(昭和55年)2月13日:西口に大時計が取り付けられる。
1982年(昭和57年)6月23日:東北新幹線開業(写真 1983年仙台ターミナルホテル(現在のホテルメトロポリタン仙台)建設前)。
1984年(昭和59年)1月15日:貨物の取り扱いを全廃(旅客駅となる)。キリンビール仙台工場、日本専売公社仙台工場専用線廃止。
1986年(昭和61年)11月1日:荷物の取り扱いを廃止。
1987年(昭和62年)
4月1日:国鉄分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)が継承。
7月15日:地下鉄南北線開業。


1988年(昭和63年)7月11日:仙台ターミナルホテル開業。
1996年(平成8年):駅構内でコンサートを行う「みちのくエキコン」がスタート。
2000年(平成12年)
3月11日:仙石線の地下化に伴い、地下ホームの使用を開始。
9月22日:ISO9001認証取得。
11月11日:この日の公演をもって「みちのくエキコン」が打ち切りとなる。
2002年(平成14年)
東北の駅百選に選定される。
12月8日:JR駅に自動改札機導入。
2003年(平成15年)10月26日:ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2005年(平成17年)
3月1日:新2番線ホームの使用を開始。
4月9日:同日夜から翌朝にかけて電子連動化工事が行われる。同17日に放送設備も更新。
2007年(平成19年)3月18日:仙台空港鉄道仙台空港線開業に伴い、仙台空港アクセス線として仙台空港駅まで直通運転を開始。


2008年(平成20年)
2月1日:4代目駅舎に設置されていたアナログ式大時計が2階中央口前コンコース壁面(3階部分との吹き抜け部分)に復刻。
3月15日:モバイルSuica特急券のサービスを開始。
6月18日:S-PAL II営業開始。
8月10日:仙台駅北部名掛丁自由通路が使用を開始。
2009年(平成21年)
3月14日:東北新幹線郡山 - 仙台間のSuica FREX定期券・Suica FREXパル定期券と、新幹線停車駅が2駅以上含まれるSuica定期券のサービスを開始。
12月5日:地下鉄南北線駅の可動式ホーム柵の運用開始。
2011年(平成23年)
3月11日:JR仙台駅は東北地方太平洋沖地震によって駅舎の天井や壁が崩落するなどの甚大な被害を受けたため、地下鉄仙台駅は設備点検のため営業を中止。
4月7日:東北地方太平洋沖地震の余震とみられる地震により、JR仙台駅は案内板の崩落やスプリンクラーの誤作動によって浸水するなど、再び被害を受け、JR・仙台市地下鉄ともに運転を取りやめた。
7月23日:仙台空港アクセス線が運転を再開したことにより、仙台駅に乗り入れる全路線が復旧。
8月22日:地下鉄東西線開業に向けた地下鉄仙台駅改良工事を開始。
2013年(平成25年)
3月27日:JR仙台駅東口再開発事業着工。
10月:駅前広場再整備事業着工。
2014年(平成26年)12月6日:地下鉄南北線でICカード「icsca」の利用が可能となる。
2015年(平成27年)
5月30日:仙石東北ライン開業。
12月6日:仙台市地下鉄東西線開業。新幹線南改札口業務委託化。
2016年(平成28年)3月18日:仙台駅東西自由通路を6mから16mに拡幅。同時に、S-PAL仙台東館営業開始]。
2017年(平成29年)3月21日:地下東口改札と地下南口改札を無人化


電報略号 セン
駅構造 高架駅(新幹線)
地上駅・地下駅(在来線)
ホーム 2面4線(新幹線)
4面8線(在来線・地上)
1面2線(在来線・地下)
乗車人員
-統計年度- 87,340人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1887年(明治20年)12月15日
乗入路線
所属路線 ■東北新幹線
(北海道新幹線・■秋田新幹線直通を含む)
キロ程 351.8km(東京起点)
◄白石蔵王 (45.0km)(43.2km) 古川►
所属路線 ■東北本線
(■常磐線直通・仙台空港アクセス線■■仙石東北ライン**含む)
キロ程 351.8km(東京起点)
◄長町 (4.5km)(4.0km) 東仙台►
所属路線 ■仙山線
キロ程 0.0km(仙台起点)
(3.2km) 東照宮►
所属路線 ■仙石線
キロ程 0.5km(あおば通起点)
◄あおば通 (0.5km)(0.8km) 榴ケ岡►
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
仙 仙台市内駅(中心駅)
* 正式な所在地。東口および仙石線ホームは宮城野区榴岡一丁目(北緯38度15分36.7秒 東経140度53分2.9秒)にまたがる。
** 塩釜駅(運賃計算上は松島駅)から仙石線高城町駅に乗り入れ

 

第1海兵航空団司令部飛行隊 UC-35D セスナ 輸送機

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セスナ・サイテーション (Cessna Citation)はセスナ社が生産するビジネスジェット機。当初ひとつのモデルの名称であったが、続々と開発された新設計の機体もサイテーションと命名され、現在ではセスナ社の生産するジェット機は全てサイテーションと呼ばれている。初代サイテーションは先進のコンセプトが多くの追従者を生んだ小型ジェット機。

サイテーション・アンコール (Model 560 Citation Encore) 1998年初飛行、型式証明1999年、2000年引渡。価格は688万ドル。ウルトラより30万ドル高い。アンコールはウルトラを基本とし、効率の良い新世代のエンジンPW535Aへ換装することによって、より少ない燃料(推力10%増、燃料消費率16%低減)で長い航続距離(VFR 1,850km、IFR 3,150km)が可能になった。高効率化によって燃料搭載量(2,637kg→2,403kg)を減らし、その分ペイロードを増加することが可能になった。機体構造は変更がないので着陸重量は不変であるが、出力向上の恩恵で最大離陸重量は150kg増加し、満タン時のペイロードは110kg増加している。高度13,700mまでの上昇時間は31分。トレーリングリンクのランディングギアを搭載


UC-35D サイテーション・アンコールのアメリカ海兵隊型
MWHS-1(第1海兵航空団司令部飛行隊)
任務:空輸作戦支援
範囲:2880km
上昇限度:13500m
普天間基地

 

 


乗員 パイロット2名・乗務員1名・乗客7名
全長 14.90m
全幅 15.91m
全高 4.64m
自重 4,196kg
最大離陸重量 7,484kg
最大速度 796km/h
航続距離 3.628km
エンジン 名称:P&Wカナダ JT15-5D×2基


 民間で使用されているビジネスジェット機セスナ560サイテーションVアンコールを軽輸送機として採用した機種。在日米軍では以前は普天間基地の第1海兵航空団司令部飛行隊で1機を運用していたが、現在では第36海兵航空群/司令部飛行隊で3機を運用している。

縮景園前停留場(広島電鉄白島線)

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縮景園前停留場(しゅっけいえんまえていりゅうじょう、縮景園前電停)は、広島県広島市中区上幟町にある広島電鉄白島線の路面電車停留場。
広島藩初代藩主浅野長晟の別邸として築かれた庭園、縮景園の最寄りである。


構造
白島線の軌道は道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが置かれている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配置されている。

ただし互いのホームは斜向かいに位置していて、南に白島方面へ向かう下りホーム、北に八丁堀方面へ向かう上りホームがある。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、9号線のみが乗り入れている。
上りホーム 9号線 八丁堀ゆき・江波ゆき
下りホーム 9号線 白島ゆき

周辺
停留場名にもなっている縮景園は北東に位置し、停留場前には広島県立美術館がある。戦後しばらくの間は広島県立図書館も立地していたが、これは1988年(昭和63年)に千田町に移転した。西側には検察庁(広島高検・地検)が入居する広島地方法務合同庁舎や裁判所(広島高裁・地裁・簡裁)など司法関連の施設が集積する。このほかにもオフィスビルやマンションなどが立ち並び、2004年(平成16年)には市内で最も高い超高層マンションであるアーバンビューグランドタワーがオープンしている。
広島市立幟町中学校 - 原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子が在籍していた。
広島東税務署
広島司法書士会館
RCC中国放送
広島城
縮景園前バス停 - 広電バス12号線が停車する。


白島線が営業を開始した1912年(大正元年)、縮景園の前に位置する当地にはまず泉邸前停留場(せんていまえていりゅうじょう)が設けられた。「泉邸」とは縮景園の別名である。白島線の軌道は開業時、広島城の外堀を埋め立てて造成された道路(現在、白島通りの一筋西にある広島東税務署前の道路)上に敷設されており、八丁堀から北上する軌道はこの道路沿いに進んだのち、東税務署前でクランク状に折れて広島県立美術館前で再び北上を開始するという経路をとっていた。泉邸前停留場はこの軌道がクランク状に折れる箇所に設けられていた。
太平洋戦争下の1945年(昭和20年)2月より停留場は営業を休止する。その後同年8月6日に原爆が投下され、白島線をはじめ広島電鉄の市内電車は全線が不通となる。他の路線の復旧は被爆直後から行われたが、白島線の運転再開は7年後の1952年(昭和27年)まで待たねばならない。というのも、戦後の都市計画の中で従来軌道が敷かれていた道路の東に新たな幹線道路(白島通り)が建設されることになり、この道路上に白島線の軌道を移設することにしたからである[5]。新線への移設により従来存在していた軌道のクランクは解消され、泉邸前停留場は廃止された。このとき、代わって新線上に開業したのが当停留場である。


1912年(大正元年)11月23日 - 白島線が開通、泉邸前停留場が開業する。
1945年(昭和20年)
2月1日 - 営業を休止する。
8月6日 - 原爆投下により白島線が全線休止。
1952年(昭和27年)6月10日 - 白島通りの建設により軌道が新線へ移設され、白島線が営業再開。泉邸前停留場が廃止され、新線上に縮景園前停留場が開業。

駅番号 W3
所属事業者 広島電鉄
所属路線 白島線
キロ程 0.7km(八丁堀起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1952年(昭和27年)6月10日

航空救難資機材

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投下発煙筒(KS-1/KS-2)
約16分間または8分間
海面漂流物の目印または風が弱いときに風向きを判断するときに用いることもある。
KS-2と発煙時間約8分のもももある。

マリンマーカー
発行(これに伴い白色の発煙):約15分間)
海面漂流物等の目印、夜間においてはホバーリングの補助目標に用いる

シーマーカー
海面が捕獲的穏やかな日に巡視船艇に漂流物(油)の位置をしらせたり、自らの目標として使用する。

ストレッチャー(英語: stretcher)は、動けない怪我人や病人を搬送するための器具である。
ワイヤストレッチャー
傷病者を担架に乗せてホイスト装置で吊り上げます。

サバイバルスリング
要救助者に装着してホイスト装置で吊り上げます。

救助用縛帯
要救助者に装着してホイスト装置で吊り上げます。

エバックハーネス
要救助者に装着してホイスト装置で吊り上げます。

バスケットスリング
傷病者を担架に乗せてホイスト装置で吊り上げます。

スケッドストレッチャー
脱力した要救助者、傷病者を担架に乗せてホイスト装置で吊り上げます。
(隊員が背負って降下することが出来ます。)

減圧式固定担架
傷病者を担架に乗せ、ホイスト装置で吊り上げます。
(隊員が背負って降下することが出来ます。)

 

 

古川駅(JR東日本)東北新幹線・陸羽東線

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古川駅(ふるかわえき)は、宮城県大崎市古川駅前大通一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。


東北新幹線と、在来線の陸羽東線が乗り入れ、接続駅となっている。新生大崎市の代表駅であり、宮城県北部の交通の要衝です。

東北新幹線と陸羽東線の線路が直角に交差している。
陸羽東線は地上駅で、島式ホーム1面2線を持つ。ホームは古川駅移転時の鉄道輸送事情を考慮し約8両分の長さがある。新幹線ホームは3階にある高架駅。本線(通過線)をはさんだ2面3線の構造となっているが、13番線にあたる部分には線路が敷かれていないので、実質的には2面2線の構造になっている。


直営駅(駅長・管理助役・助役配置)で駅長事務室内に宮城サポートセンター(古川)を併設している。

管理駅でもあり、地区駅として石巻駅・小牛田駅・鳴子温泉駅・くりこま高原駅の各管理駅を統括する。

また、陸羽東線の塚目駅 - 池月駅間の各駅を管理下におく。


事務管コードは▲231304を使用している。
駅舎の2階には、みどりの窓口、びゅうプラザ、自動券売機、指定席券売機、自動改札機(新幹線・在来線)、待合室、NEWDAYS、立ち食いそば屋、VIEW ALTTE がある。

このほか、駅舎の1階にはピボット(スーパーマーケット)や飲食店が入居する。

切符売場には主要駅らしく、タッチパネル式の券売機が3台設置されています。

のりば
番線 路線 方向 行先
在来線
1 ■陸羽東線 上り 小牛田方面


2 下り 鳴子温泉・新庄方面
上り 小牛田方面(1日3本)かつて貨物扱いをしていた名残で、複数側線が設置されています。

新幹線
11 ■東北・秋田・北海道新幹線 下り 盛岡・新青森・秋田・新函館北斗方面


12 上り 仙台・東京方面

ホームには主要駅らしく冷暖房完備の待合室が設置されています。

駅周辺
周辺には大崎市の中心市街地古川の街並みが広がる。
以前は中心街のある駅西側にはSATYなどスーパーや個人商店などが数多く存在したものの、現在では閉店した店舗が目立っており、決して賑やかとは言えない。

しかし、近年ではこの廃れてしまった駅西側周辺部の活性化を図るべく、付近の商店街や、まちづくり会社である台町TMC株式会社を主体として、老朽化の激しい建物を取り壊し、新しい施設を造成するといった再開発事業が進められている。

また、2006年3月18日には、駅から徒歩5分という好立地に、再開発商業施設である複合施設型シネマコンプレックス、シネマ・リオーネ古川がオープンした。市街地と反対の南東側にはイオン古川店がある。


駅前には大駐車場が設置され、パークアンドライドの拠点として活用されています。


1913年(大正2年)4月20日:国有鉄道陸羽線(現在の陸羽東線)の古川駅として開業(地図)。一般駅。
1915年(大正4年)6月11日:陸前古川駅(りくぜんふるかわえき)に改称。


1974年(昭和49年)4月1日:みどりの窓口営業開始。
1980年(昭和55年)11月1日:旅客設備が現在地(地図)に移転、古川駅に再改称。
1982年(昭和57年)6月23日:東北新幹線開業。


1984年(昭和59年)2月1日:荷物の取扱を廃止、コンテナ貨物の取扱を開始。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本・JR貨物の駅となる。


1996年(平成8年)3月16日:貨物列車の発着が廃止され、自動車代行駅となる。
2002年(平成14年)4月1日:JR貨物古川駅が廃止、古川コンテナセンターが設置される。


2006年(平成18年)4月1日:古川コンテナセンターが古川オフレールステーションに改称。
2010年(平成22年)2月24日:駅南口・中里口側のエスカレーターの使用開始(正面口・東口側のエスカレーターは以前より使用されていた)。


2014年(平成26年)4月1日:在来線改札口でSuicaの利用開始(チャージ残額での利用のみ可能、Suicaカードの及びSuica定期券の発売はしない)。


2016年(平成28年)3月26日:東北新幹線仙台 - 古川間、陸羽東線小牛田 - 古川間でもSuicaの利用が開始。古川駅がSuica対応駅となり、Suica 及び Suica 定期券の発売・払いもどし・再発行の取り扱い開始。


所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 フル
駅構造 高架駅(新幹線)
地上駅(在来線)
ホーム 2面2線(新幹線)
1面2線(在来線)


乗車人員
-統計年度- 4,766人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1913年(大正2年)4月20日
乗入路線 2 路線


所属路線 ■東北新幹線
キロ程 395.0km(東京起点)
◄仙台 (43.2km)(21.2km) くりこま高原►


所属路線 ■陸羽東線
キロ程 9.4km(小牛田起点)
◄陸前谷地 (2.8km)(2.7km) 塚目►
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* 1915年 - 1980年の間は陸前古川駅


やまびこ(JR東日本)東北新幹線

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やまびことは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が東北新幹線の東京駅・那須塩原駅・郡山駅 - 仙台駅・盛岡駅間で運行している特別急行列車である。

新幹線の「やまびこ」は、1982年6月に東北新幹線の開業の際に、東北新幹線における速達型列車(東海道・山陽新幹線における「ひかり」に相当)として運転を開始した。1994年7月にはE1系「Max」の営業運転が開始されたことにより、この車両を使用する列車は「Maxやまびこ」の列車名で運転されていた。


一方、東北新幹線の各駅停車型列車(東海道・山陽新幹線における「こだま」相当)については「あおば」の名称が与えられた。開業当初、「あおば」は昼間時間帯は大宮駅 - 仙台駅以南での運転となり、仙台駅 - 盛岡駅間については「やまびこ」が各駅に停車することで代替とされたため、下りの始発列車と上りの最終列車のみに「あおば」の名称が使われた。1994年のE1系営業運転開始時には「あおば」にも投入され、「Maxあおば」の列車名で運転されていた。


1995年に「あおば」の運行体系が見直され、首都圏の近距離新幹線列車(東京駅 - 那須塩原駅間を各駅停車で運行される系統)が「なすの」「Maxなすの」として分離され、「あおば」の本数が減少。さらに1997年10月の北陸新幹線(高崎 - 長野間)先行開業に伴うダイヤ改正を期に列車名の体系が見直され、「あおば」「Maxあおば」を「やまびこ」「Maxやまびこ」に統合し、「やまびこ」は、「東京駅 - 仙台駅・盛岡駅間を走行する新幹線列車」に列車の性格が改められた。その後、2002年12月1日の東北新幹線八戸延伸時に新たな速達列車として「はやて」が、2011年3月5日のE5系投入時にさらなる速達列車として「はやぶさ」が登場している。


在来線でも「やまびこ」が運転されていた時期があり、1959年に福島駅 - 盛岡駅間の準急列車として運転が行われ、1961年には青森駅まで運転されていた。1963年に一度廃止されたが、1965年に東北本線盛岡駅まで電化の伸長に伴い、「つばさ」の盛岡駅発着編成を分離して「やまびこ」の名称を与えた。その後、1982年の東北新幹線開業に伴い、「やまびこ」の列車名は新幹線の列車で使用されることになった。

一方、「あおば」も1971年から1975年の間、仙台駅 - 秋田駅間を東北本線・北上線・奥羽本線経由で運行する特急列車の名称として用いられてきたことがある。

東京駅 - 福島駅間で「つばさ」と併結運転する列車と、全区間で単独運転を行う列車がある。2002年12月1日に速達列車を最速達列車「はやて」として分離。これにより速達列車に設定されていた「こまち」との併結はなくなった。2005年12月10日以降、日中時間帯の下り列車において、仙台駅で同一ホーム(11・12番線)にて盛岡行「やまびこ」と新青森・秋田行「はやて」「こまち」との乗継ができるようになった。
東京駅 - 盛岡駅間の列車は、全列車基本的に仙台駅(一部列車は郡山駅) - 盛岡駅間が各駅停車となる。「つばさ」を併結する「やまびこ」は基本的にすべて仙台駅始発・終着となるが、各駅停車にはならない。
毎週休前日の夜間時間帯には、下り臨時やまびこ号が1本(249号)運転される。

新幹線総合車両センターに所属しているE2系およびE5系、JR北海道函館新幹線総合車両所に所属しているH5系、秋田車両センターに所属しているE3系およびE6系の5車種が使用されている。
E5系・H5系は10両編成で、6両編成のE3系を併結した16両編成、E6系を併結した17両編成で運転されている。単独で運転される列車もあるが、最高速度はいずれも275km/hとなる。E5系・H5系で運転される列車(290号を除く)はグランクラスの営業も行われる[2]。ただし、早朝深夜の一部の列車では座席のみの営業となり、グランクラス料金が値下げされる。223号のみH5系が使用され、E6系を併結する。
E3系は6両編成(秋田新幹線の初代「こまち」編成)で、E5系と併結して16両編成で運転される。
E2系は10両編成で、山形新幹線「つばさ」を併結する場合は東京駅 - 福島駅間で17両編成の運転になる。
かつては200系、E1系、E4系も使われていた。

1982年(昭和57年)6月23日:東北新幹線の開業により、速達列車として「やまびこ」が運転開始。
1985年(昭和60年)3月14日:東北新幹線の上野駅乗り入れとともに、「やまびこ」の途中停車駅を、大宮駅(一部宇都宮駅)・福島駅(一部郡山駅)・仙台駅のみ停車の速達タイプの列車を運行開始。
なお、これらの速達「やまびこ」は『スーパーやまびこ』とも呼ばれた。新幹線の場合、公式には「スーパー」の表記を用いないため、一部から発生した通称とされるが、東北地方では駅員もこの名前を使用していた。
1988年(昭和63年)3月13日:途中停車駅を仙台駅のみとした超速達タイプの列車を運行開始。
1991年(平成3年)6月20日:東北新幹線の東京駅乗り入れとともに、超速達タイプ「やまびこ」は上野駅を通過し、東京駅 - 仙台駅間ノンストップ運転になる。また、16両H編成による「やまびこ」が登場。
1992年(平成4年)7月1日:山形新幹線開業により、「やまびこ」は東京駅 - 福島駅間で「つばさ」との併結を開始。
1994年(平成6年)7月15日:E1系Max営業運転開始。「Maxやまびこ」「Maxあおば」新設。
1995年(平成7年)12月1日:東京駅 - 那須塩原駅間で「なすの」「Maxなすの」が運転開始。「あおば」「Maxあおば」を大幅に削減。
1997年(平成9年)
3月22日:ダイヤ改正により次のように変更。
E2系営業運転開始。
秋田新幹線開業に伴い、「やまびこ」の盛岡駅(一部仙台駅)以南で「こまち」の併結を開始。
仙台駅 - 盛岡駅間で運転されていた「あおば」は「やまびこ・こまち」61・62号に変更。
宇都宮・福島駅・郡山駅への速達タイプ「やまびこ」の停車を減らし、ほとんどの列車が大宮駅 - 仙台駅間をノンストップ運転とする。
10月1日:北陸新幹線一部先行開業によるダイヤ改正により、「あおば」「Maxあおば」を「やまびこ」「Maxやまびこ」に統合して廃止。
12月20日:E4系Maxが営業運転開始。


4月29日:E4系Maxと「つばさ」の併結運転を開始。
12月4日:ダイヤ改正により次のように変更。
E1系Maxの定期運用終了。
「こまち」の併結車両をE2系に統一。
2000年(平成12年)12月31日:盛岡駅 - 東京駅間の最終列車「やまびこ56号」は列車名を「ミレナリオやまびこ56号」に変更して運転。また「ミレナリオやまびこ56号」に先行する同区間の「やまびこ28号」についても併結相手の秋田新幹線の最終列車が「ミレナリオこまち28号」に変更して運転されることから「ミレナリオやまびこ28号」に変更して運転。


2001年(平成13年)9月21日:「つばさ」の併結車両をE4系Maxに統一。
2002年(平成14年)
5月30日:この日を最後に200系F編成におけるビュフェ営業廃止。
6月22日:東北新幹線大宮駅開業20周年に合わせ、200系F93編成を使用した「想い出のあおば」を運転[4]。
12月1日:東北新幹線の八戸駅延伸により、速達「やまびこ」の大半を八戸駅まで運転区間を延長し、「はやて」として分離。
定期列車としては「やまびこ」は盛岡以北を走行してはいないが、200系の一部には「やまびこ 八戸」の方向幕が用意されていた。
「こまち」の併結列車を「はやて」に移行。
2003年(平成15年)12月1日:200系H編成における「カフェテリア」・「トレインマッサージ」の営業廃止。
2004年(平成16年)3月13日:ダイヤ改正により、200系F・H編成の定期運用廃止。
2005年(平成17年)12月10日:ダイヤ改正により次のように変更。
東京駅 - 盛岡駅間の「はやて」を設定。
速達「やまびこ」が消滅。「やまびこ」は仙台駅以北で各駅停車となる。
仙台駅以北における「Maxやまびこ」定期運用終了。
2007年(平成19年)
3月18日:全車両禁煙化。
6月23日:東北新幹線大宮開業25周年に合わせ、リニューアル済みの200系K47編成を原色へ塗装変更して運転。
2008年(平成20年)3月15日:ダイヤ改正により、東京駅 - 盛岡駅間で「やまびこ」の所要時間が短縮。
2011年(平成23年)11月19日:E5系の増備により次のように変更。
一部列車にE5系投入開始。グランクラスの営業やE3系との併結運転を開始。
大宮以北にて200系の定期運用終了。


2012年(平成24年)
3月17日:ダイヤ改正により次のように変更。
「つばさ」を併結する列車の一部をE4系「Maxやまびこ」からE2系「やまびこ」へ置き換え。
「やまびこ」208号を仙台駅始発、「やまびこ」124号を盛岡駅始発へそれぞれ変更。
大宮以北におけるE4系16両編成の定期運用終了。
6月23日:東北新幹線大宮開業30周年に伴い、大宮駅 - 盛岡駅間で運転された「やまびこ235号」に200系を充当。
9月29日:ダイヤ改正により次のように変更。
大宮以北におけるE4系の定期運用を終了し、「Maxやまびこ」廃止。
「つばさ」を併結する列車をE2系に統一。
2013年(平成25年)
3月16日:ダイヤ改正により次のように変更。
一部列車にE6系投入開始。
E5系使用の一部列車でグランクラスの専任アテンダントによる車内サービスを廃止。対象列車はグランクラスが値下げされる。
「やまびこ」290号(仙台駅 - 郡山駅間のみ運転)をE2系からE5系に置き換え。同列車は1 - 9号車のみの客扱いとなり、グランクラスは非営業・締め切り扱いとなる。
9月28日:ダイヤ改正により次のように変更。
E2系とE3系0番台の併結による定期運用終了。
2016年(平成28年)3月26日 : ダイヤ改正により次のように変。
東京駅 - 仙台駅間運転の列車でグランクラスの専任アテンダントによる車内サービスを廃止し、座席のみの営業となる。
JR北海道が所有するH5系の運用開始(下り1本:「やまびこ223号」のみ)


種類 特別急行列車(新幹線)
現況 運行中
地域 東京都、埼玉県、茨城県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県
前身 特急やまびこ、特急はつかり(上野駅 - 盛岡駅間)、特急ひばり
運行開始 1982年6月23日
運営者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
旧運営者 日本国有鉄道(国鉄)
路線
起点 東京駅
終点 盛岡駅
営業距離 496.5 km(東京 - 盛岡間)
使用路線 東北新幹線
車内サービス
クラス グランクラス・グリーン車・普通車
座席 グランクラス指定席
グリーン車指定席
普通車指定席
普通車自由席
技術
車両 E2系(JR東日本新幹線総合車両センター)
E3系(JR東日本秋田車両センター)
E5系(JR東日本新幹線総合車両センター)
H5系(JR北海道函館新幹線総合車両所)
E6系(JR東日本秋田車両センター)
軌間 1,435 mm
電化 交流25,000 V・50 Hz
(架空電車線方式)
最高速度 275 km/h

 

 

 

日赤病院前停留場 広島電鉄宇品線

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日赤病院前停留場(にっせきびょういんまえていりゅうじょう、日赤病院前電停)は、広島市中区千田町一丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。
停留場の西には広島赤十字・原爆病院が隣接する。


宇品線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが設けられている。ホームは低床式で2面あり、2本の線路を挟み込むように向かい合って配置された相対式ホームという形態をとる。路線の起点から見て左側に広島港方面へ向かう下りホームが、右側に紙屋町・本線方面へ向かう上りホームがある。ホームにはほぼ全長にわたって上屋が設けられている。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、1号線、3号線、7号線、それに0号線が乗り入れる。
0号線には当停留場止まりの列車があり、当該列車は乗客を降ろした後そのまま発車し、広電本社前停留場の手前の渡り線を通って千田車庫に入る。2003年(平成15年)には乗り換え制度の変更により当停留場は下り列車に限って乗換停留場になり、当停留場止まりの列車から広島港方面へ向かう列車に乗り換えられるようになった。


下りホーム 1号線3号線 広島港ゆき
3号線 宇品二丁目ゆき
0号線7号線 広電前ゆき
0号線 当停留場止まり
上りホーム 1号線 広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき
7号線 横川駅ゆき

周辺
停留場北側には広島大学の校地が広がっていたが、一部の学部を除いて東広島市に移転し、跡地は再開発エリア「ひろしまガーデンガーデン」へと変貌している。

当停留場は1912年(大正元年)、宇品線が紙屋町から御幸橋までの区間で開通した際に高等師範前停留場として開設された。その名が示す通り、開業当時は広島高等師範学校が停留場前に所在していたが、1929年(昭和4年)に広島文理科大学が設立され広島高師がその附属校になると、停留場名もこのころ大学前停留場に変更された。1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下により広島電鉄の市内線は被害を受け休止されるが、当停留場を含む宇品線の紙屋町から電鉄前までの区間は同年9月中には運行を再開している。
戦後、広島文理科大学は新制広島大学に包括され、1962年(昭和37年)に廃止された。1964年(昭和39年)には停留場名も広島大学前停留場に改められている。しかしのちに広島大学は大部分の学部が東広島市のキャンパスへ移転、これに伴い停留場名は2001年(平成13年)に日赤病院前停留場と3度目の改称を行った。
1912年(大正元年)11月23日 - 宇品線の開業と同時に高等師範前停留場として設置。
時期不詳 - 大学前停留場に改称。
1934年(昭和9年)3月 - 紙屋町寄りに100メートル移設され、現在の位置になる。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下により、運行休止。
9月12日 - 電鉄前 - 紙屋町が単線で復旧。複線での復旧は同年12月中旬。
1964年(昭和39年)2月18日 - 広島大学前停留場に改称。
2001年(平成13年)11月1日 - 日赤病院前停留場に改称。同時に当停留場止まりの電車が設定される。
2003年(平成15年)8月1日 - 隣の広電本社前停留場とともに乗換停留場の指定を受ける。

駅番号 U6
所属事業者 広島電鉄
所属路線 宇品線
キロ程 1.7km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1912年(大正元年)11月23日

 

スズキ キャリイKU 米軍岩国基地

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キャリイ(CARRY )は、スズキ(1990年9月以前は鈴木自動車工業)が製造、販売するトラック型の軽自動車(軽トラック)。

10代目まではワンボックス(キャリイバン)もラインナップされていたが、8代目からの併売時期を経て10代目キャリイ=3代目エブリイ中盤以降はエブリイに完全移行している。
車名は英語で「運ぶ」の意味。なお、カナ表記に関しては「キャリー(長音)」「キャリィ(捨て仮名)」などと誤表記されるケースが少なからず存在する。
2016年現在、同社の新車で購入できる自動車の商標としては最古の商標(12代55年)となる。


この車は、1971年~2009年までの39年連続で、日本国内で販売されているトラック(軽・小型・普通)の車名別年間販売台数第1位である。さらに、2010年1月で累計販売台数400万台を達成した。
シャーシ構造が全く異なる51系(10代目キャリイ/3代目エブリイ。トラックがFR、1BOXがMRと駆動方式すら違う)と16系(11代目キャリイ/現行エブリイ)を除いて、バンタイプのスズキ・エブリイと2002年までは共通の構造を多く有していた。スズキからマツダにOEM供給を行っているマツダ・スクラムのトラックタイプは、この車両を元に一部外装パーツの変更を行ったものである。またエブリイも1981年まではキャリイを名乗り、1991年〜1993年の間は上級車種以外の車種についてはキャリイバンの車名で販売されていた。
軽自動車の新規格に適合させるため1999年以降のキャリイはセミキャブ・ロングホイールベース仕様だったが、2005年11月におよそ7年ぶりにフルキャブ・ショートホイールベース仕様の「FC」系が追加された(ボディサイズは新規格で、農耕用に特化したタイプ)。ただし、OEM車種のスクラムトラックにはこの仕様が設定されなかった。2013年8月のフルモデルチェンジに伴ってフルキャブ・ショートホイールベース仕様へ統合され、OEM車種のスクラムトラックもフルキャブ・ショートホイールベース仕様へ移行された。
なお、欧米や東南アジア、インド、オーストラリア等では排気量を拡大したモデルが生産、販売され、また大宇国民車(現:韓国GM)からは9代目(エブリイにおける2代目)が「ラボ(LABO)」(エブリイは「ダマス(DAMAS)」)、南米ではシボレーブランドで「Chevrolet CMP」と言う名称でいずれも現在も生産されているが、ダマスはフェイスリフトを受けている。

11代目 DA52T/DB52T/DA62T/DA63T/DA65T型(1999年- 2013年)
1999年1月9日
フルモデルチェンジ[DA52T/DB52T]。
新規格に対応するため、車体を拡大すると共にセミキャブオーバータイプとなる。エンジンは先代と同じく[F6A型]。ターボ車に続き自然吸気の4WD車もEPI化するが、自然吸気の2WD車は従来のキャブレター仕様のままとなる。AT車は「ターボ(パワステ付)」のみに設定されている。ターボは60psから56psになった。
1999年11月25日
マイナーチェンジ。
荷台の長さが競合他車に比べ短く不評だったため、キャビンを短縮して荷台を延長。そのため居住性が若干損なわれる。ボンネットやフェンダーなどドアを除く前部のパネルも変更され、初期型およびエブリィとの互換性を失う。フロントのエンブレムはSからSUZUKIに変更。
排出ガス規制およびグリーン税制の強化に伴いキャブレター仕様が廃止され全車EPI化された。また、MT車にはクラッチスタートシステムを新たに装備した。グレード体系を見直し、「KA」はスタンダードタイプのみ。従来の「KA・パワステ付」、「KA・エアコン付」は「KD・パワステ付」、「KD・エアコン付」に変更し、パワステ・エアコンを装備した「KC」を追加。また、新グレードの「KD」、「KC」、既存の「KA」にAT車が設定される。
2000年5月17日
一部改良。
従来の「KA」に代わり、ラジオ付で税抜55.5万円からのお買い得グレード「KU」を追加。また、先代から継続設定されていたターボエンジン搭載車(インタークーラー無し)の「ターボ」が廃止となる。
2001年2月9日
エアコン・パワステを標準装備し、上級仕様の内装を採用した特別仕様車「KUスペシャル」を発売。
2001年9月4日
一部改良[DA62T]。
エンジンが全車K6A型オールアルミDOHCとなる。これにより、軽トラックでは初の「優-低排出ガス車(☆☆)」認定を取得。防錆対策を強化、純正スチールホイールのリム幅の変更により(4.00B→3.50B)最小回転半径を小さく(4.1m→3.8m)し、フロント部分に簡易型ガーニッシュ(「SUZUKI」ロゴあり)が装着され、更にインパネのデザインを一新。基本グレードは「KU」のみとなるが、従来の「農繁」を継承した「KU農繁セレクション」が新たに設定された。また、この型式より2WD車と4WD車の表示区別がなくなり、両方共"DA"となる。
2002年5月16日
マイナーチェンジ[DA63T]。キャビンの形状をそれまでのエブリィとほぼ共通なスタイルから大幅に変更し、発売当初と比べると実質的なフルモデルチェンジに近いマイナーチェンジとなった。軽トラックでは唯一となる分離荷台を採用したことで衝撃を低減し、補修による交換も容易になった。また、1979年発売の[ST30]から長きに渡って使われてきたテールランプの形状が変更された。当初ダンプのテールランプは変更されていないが、その後統一されている。ダッシュボードスピーカーは廃止されドアスピーカー取付け部を設けた。グレード体系に「KC」が復活。いくつかの仕様も設けられ、「KC」と「KCパワステ」の4WD・5速MT車には「農繁仕様」を、「KC」には穴あきサビ5年、表面サビ3年の長期サビ保証をつけた「重防錆仕様」、「KCエアコン・パワステ」の2WD・5速MT車には地上高605mmの低床荷台とした「低床仕様」を設定した。また、この代よりフロントバンパーには塗装はがれの心配がない白色樹脂を使用している。
2005年8月26日
一部改良。「KC」シリーズ全タイプでバッテリーカバーを追加し、AM/FMラジオを採用。「KU」を含む全車に運転席シートバックポケットを装備した。
2005年11月30日
主に農家を対象とし、フルキャブ・ショートホイールベースを採用し、旋回等の取り回し性に優れた「FC」シリーズ[DA65T]を追加。グレードは「FC」・「FCエアコン・パワステ」の2グレードで、全タイプの4WD車にはデフロック機構を追加した「農繁仕様」も設定される。「FC」に販売店装着オプションのエアコンを取り付けるとドアスピーカーの取り付けは板金を加工しない限り不可能となるため販売店での取り付けは出来ない。そのためかDIYで取り付けたユーザーの中にはダッシュボード上にスピーカーを乗せる者も存在する。なお「FCエアコン・パワステ」は取り付け可能。トランスミッションは全車5MTのみである。また、「KC」シリーズにはヘッドライトマニュアルレベリング機構を追加し、サイドターンランプの形状を変更、平成19年排ガス基準に適合した。
2006年6月
ショートホイールベース車に「FCパワステ(4WDのみ設定)」、「FCパワステ 農繁仕様」を追加。
2007年7月
「KC」の2WD・3AT車と「FC」の2WD車を廃止。
2007年12月4日
「重防錆仕様」のベースモデルが「KC」から「KCエアコン・パワステ」に変更。これにより、4WD車が追加された。
2008年4月
「KCエアコン・パワステ」に「平成17年基準排出ガス50%低減レベル(☆☆☆)」を達成した「低排出ガス仕様」を追加。
2009年4月
ラインナップが整理され、ロングホイールベース車は「KU」、「KCエアコン」、「KCエアコン・パワステ(重防錆仕様、低排出ガス仕様)」、「KC農繁仕様」を廃止。ショートホイールベース車は「FC農繁仕様」を廃止した。また、フロントのエンブレムは「SUZUKI」ロゴから「Sマーク」に変更した。
2010年5月18日
仕様変更。ラインナップを整理し、「KC」の4WD・3AT車、「KCパワステ」の2WD車を廃止。また、同日に仕様変更を実施したエブリイ・エブリイワゴンと同じく、フューエルキャップを給油時の紛失防止の為に、給油口付近とプラスチック製のひもに結ばれた形に変更した。
2011年10月11日
初代の「スズライトキャリイ」から誕生50年を記念し、「KCエアコン・パワステ」をベースに、荷台作業灯、専用ファブリックシート表皮(撥水加工)、誕生50年記念専用デカール、デフロック機構(デフロック機構は4WD・5MT車のみ)を装備するとともに、ボディー全体の塗装に中塗りを追加し、荷台の裏側などにPVCアンダーコートを追加、アングルポストやヒンジ類にまで防錆処理を施した「重防錆仕様(穴あきサビ5年・表面サビ3年のサビ保証付)」とした誕生50年記念車「KCリミテッド」を発売。
2012年5月17日
一部改良。2012年7月からのシートおよびシートベルトに関する保安基準の改正に対応して、シートの背もたれをハイバックタイプへ変更して、ヘッドレストを大型化。また、2013年1月から施行される灯火器及び反射器等に関する法規に対応するため、後方反射板の取付が行われた。
2012年7月6日
仕様変更。ラインナップを整理し、「KCパワステ」の4WD・3AT車を廃止。これにより、3AT車は「KCエアコン・パワステ」のみとなる

 

広電本社前停留場 広島電鉄宇品線

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広電本社前停留場(ひろでんほんしゃまえていりゅうじょう、広電本社前電停)は、広島県広島市中区千田町三丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。広島電鉄の本社は当停留場の東に位置する。
駅の愛称は「トランヴェール・エクスプレス(TRAIN VERT-EXPRESS)」。案内表示などでは「広電前」と省略される。

構造
宇品線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷かれた併用軌道で、当停留場も道路上にホームが設けられている。ホームは低床式で2面あり、2本の線路を挟み込むように向かい合って配置されている(相対式ホーム)。路線の起点から見て左側に広島港方面へ向かう下りホーム、右側に紙屋町・本線方面へ向かう上りホームがある。ホーム長は3両・5両連接車に対応している。
御幸橋停留場寄りに渡り線、日赤病院前停留場寄りに千田車庫への引込み線と渡り線があり、御幸橋停留場寄りにある渡り線は当停留場で折り返しとなる7号線系統の電車が使用する。折り返し作業はかつて係員の誘導によって行われていたが、2006年ごろに折り返し設備の自動信号化がなされている。
停留場の上屋は2012年の電車開業100周年に合わせてヨーロッパ風のデザインに改められ、併せて「トランヴェール・エクスプレス」という愛称が与えられた。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち1号線、3号線、7号線、それに0号線が乗り入れる。広島電鉄が定める乗換え指定電停の一つであり、当停留場が始発あるいは終着である7・0号線と1・3号線との乗り継ぎを行うことができる。
かつて、紙屋町方面から千田車庫に入る1・3号線系統の電車は広電前行きとして運行され千田車庫入口のすぐ内側で乗客を降ろしていたが、2001年11月以降は直接車庫に入る場合は日赤病院前行きとして運行されている。

ホームには横断歩道からバリアフリー対応のスロープで連絡します。
下りホーム 1号線3号線 広島港ゆき
3号線 宇品二丁目ゆき
0号線7号線 当停留場止まり
上りホーム 0号線 当停留場止まり

ホームの上屋は全面に整備されています。
1号線 広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき
7号線 横川駅ゆき
ホーム柵には広告看板が取り付けられています。

付近はおおむね中層住宅街で、小さな商店なども立ち並ぶ。東にしばらく歩くと京橋川、西にしばらく歩くと元安川に出る。南西には広島県情報プラザ(館内に広島県立図書館と広島県立文書館)、健康科学館などの文化施設が集まる。
東には広島電鉄の本社と工場機能を持つ千田車庫が隣接する。本社ビル前にあるマダムジョイ千田店の敷地には電車開業100周年に合わせて広島電鉄70形電車が保存され、改装のうえレストラン「トランヴェール・エクスプレス」として営業を行っていた。レストランは100周年記念事業の終了により2013年3月に閉店している。
広電バス12号線 広電ボウル前バス停
広島バス21-1号線、50号線 広電前バス停
千田公園
中区スポーツセンター
広島市立千田小学校

当停留場は1912年(大正元年)、宇品線が前身の広島電気軌道の路線として紙屋町から御幸橋までの区間で営業を開始した際に開設された。停留場のある千田町には当時自社の発電所が設けられていたため、開設時の停留場名は発電所前停留場)であった。その後1917年(大正6年)に広島電気軌道は広島瓦斯と合併し広島瓦斯電軌となり、千田町には同社の瓦斯電軌運輸部が置かれた。1927年(昭和2年)ころには停留場名も電鉄前停留場に改称されている。いっぽう千田町発電所については広島電気からの受電が開始されたために予備発電所となり、その後老朽化も進んでいたことから1934年(昭和9年)に操業を停止、翌年10月には廃止が届け出られて千田町変電所に改められた。
太平洋戦争下の1942年(昭和17年)には広島瓦斯電軌から運輸部門が独立して広島電鉄が設立され、その本社は当地に置かれた。しかしその3年後の1945年(昭和20年)8月6日に広島市に原爆が投下され、宇品線をはじめ広島電鉄の市内電車は全線が不通となる。本社屋も被害を受けたが、郊外の楽々園遊園地にその機能を移しつつ復旧を進めた結果、千田町変電所の再稼働により8月中には当停留場から向宇品までの区間が運行を再開、翌月には紙屋町方面の路線も運行を再開した。千田町に本社機能が戻されたのは被爆から1年後のことである。
停留場名は1958年(昭和33年)、広島電鉄が自社の略称をそれまでの「電鉄」から「広電」に改めたことに呼応して広電本社前停留場に改称された。2012年(平成24年)には前身となる広島電気鉄道の創立、市内電車の開業から100周年を迎えたことを記念して、停留場の上屋がヨーロッパ風に改装されている。
1912年(大正元年)11月23日 - 宇品線開業とともに、発電所前停留場として開業。
1927年(昭和2年)頃 - 電鉄前停留場に改称。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下により、運行休止。
8月18日 - 当停留場 - 向宇品間が複線で復旧。
9月12日 - 当停留場 - 紙屋町間が単線で復旧。12月中旬には複線で復旧。
1958年(昭和33年)3月16日 - 社名の略称が「電鉄」から「広電」に改められ、停留場名も広電本社前停留場に改称。
2003年(平成15年)8月1日 - 隣の日赤病院前停留場とともに乗換停留場の指定を受ける。
2012年(平成24年)7月9日 - 停留場の上屋をヨーロッパ風のデザインに改装する。
電鉄前への改称時期を1916年以前とし、途中1920年ころから1927年ころまで電鉄軌道運輸課前停留場(でんてつきどううんゆかまえていりゅうじょう)と称していたとする資料もある。ただし『広島電鉄開業100年・創立70年史』では1918年(大正7年)当時の停留場名を「発電所前」としている。


駅番号 U7
所属事業者 広島電鉄
所属路線 宇品線
キロ程 2.1km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1912年(大正元年)11月23日

ボンネットバス(信楽高原バス)

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信楽高原バス。ボンネットバス。信楽支所管内を運行。甲賀市コミュニティバス(こうかしコミュニティバス)は、滋賀県甲賀市で運行しているコミュニティバスの総称。実際の運行は滋賀バスとシガ・エージェントシステムが受託している。甲賀市を構成する水口町・甲南町・甲賀町・土山町・信楽町の各町が市町村合併以前から運行していた路線と、2004年10月1日の合併以後に新設された実証運行路線とがある。
一部で三雲駅(湖南市)、石山寺駅(大津市)南草津駅 (大津市)など市外へも路線を延ばしている。鉄道駅との連携は概ね良い。


ボンネットバスは、バスの形態の1つで、運転席より前、客室外のフロント部にエンジンを設けた構造である。

バスにおいては古くから存在する形態である。
この構造では、エンジンの保守、放熱と客室の安静化に効果があるが、エンジンの上も客室として利用可能なリアエンジンバス等と比較すると、ボンネット部の空間は単なる機器スペースということになり、その分輸送効率は低下する。 しかし、ボンネット部が衝突事故の際の緩衝作用を担ってくれるため、乗務員の安全性を確保する上でも利点がある。また騒音や振動の面でも有利である。
先進国の多くではボンネット型 = 旧式のイメージがあるが、アメリカでは大型トラックに見られるようにボンネット型が好まれる傾向もあり、現在も新型車の開発と生産が続けられている。スクールバスをはじめ、軍、国家機関や州政府などにも採用されているほか、中南米やアフリカなどに輸出されている。

日本のボンネットバス
1950年代頃までは大多数のバスがボンネットを持った形状であったため「ボンネットバス」の呼称は無かったが、キャブオーバーやリアエンジン車の台頭と共にそれらと区別するため、ボンネットを持った形状のバスは「ボンネットバス」と呼称されるようになっていった。 なお、民間においては、ボンネットバスを「鼻高バス」、箱形車体のバスを「鼻ペチャバス」と称する地方もあった。

山間部で残存した理由
呉市交通局で最後まで使われたボンネットバスの1両。現在はイベント用に残されている
日本においては、大量輸送時代とともにボンネットバスの導入例が減少し、1971年には量産タイプのボンネットバスの製造は中止されることになった。しかし、製造中止後も、ボンネットバスは山間部の路線を中心に使用されていた。
ボンネットバスの特徴は、その構造上、前輪が運転手より前に位置していることである。そのため、山間部の狭隘道路に許認可された狭隘路線では、運転手が路肩の位置を把握しやすく、そのことが運転のしやすさにつながっていた。また、集落においては、通常の箱型車体ではオーバーハングとなる前頭部が民家の軒に支障を来すケースもあったが、ボンネットバスでは軒下にボンネット部分をくぐらせることにより通過可能であった。このため、ボンネットバスを箱型車体のバスに置きかえるにあたっては、バス会社が民家にお願いして、軒を切り詰めてもらった、という逸話もある。しかし、これらも道路の整備とともに改善され、ボンネットバスである必然性は失われていった。
実際の小回り性能は、全長に対しホイールベースの比率が小さくなる箱型車体が有利である(運転しやすい)。
1982年には江若交通の、1984年には呉市交通局の路線車が運用から外れたことで、定期運用されるボンネットバスは、いったん日本の路上からは消えることとなった。なお、期間限定的なものでは、岩手県北自動車が松川温泉線で厳冬期に限り四輪駆動のボンネットバスを路線バスとして運用している。


観光用・話題作りの方策へ
その一方、1970年代後半以降は、観光路線において目玉車両として運行する例も登場する。その嚆矢となったのが、1976年6月より運行を開始した、東海自動車の「伊豆の踊子号」である。以後、観光用の路線バスとして運行されているものが増加してゆくことになる。最後までボンネットバスを製造していたのがいすゞだったため、現在残る車両もいすゞ車が多い。
また、1987年に上毛電気鉄道で運行を開始した日野BH15型は、バス利用促進のための話題作りとして、廃車になっていたバスをレストアしたもので、ダイヤ限定ながら通常の生活路線で利用されていた。以後、廃車になっていたボンネットバスをレストアして、営業運行に使用するケースも散見されるようになっているが、これには高度なレストア技術を持つ福山自動車時計博物館の功績も大きく、同館経由で入手した車両が非常に多い。


排出ガス規制への対応
しかし、いかに観光用としての保存車両とはいえ、営業用として運行する以上、排出ガス規制から逃れることはできない。また、製造中止から相当な年月が経過し、部品の確保も困難となり、運行継続が困難となった。このため、上毛電気鉄道のボンネットバスは1993年に運行を中止(同社はバス事業からも撤退、バスは日野に引き取られた)、その後も西東京バス「夕やけ小やけ号」のように、ボンネットバスの運行を終了するケースが多くなった。
その一方、神戸市交通局「こべっこII世号」のように、排出ガス規制に対応したトラック用のシャーシをベースにして、ボンネットバスのレプリカを作成したり、磐梯東都バス「森のくまさん号」のように廃食用油を原料としたバイオディーゼル燃料を使用して、環境に優しいバスをアピールする方策も見られるようになっている。なお、「こべっこII世号」については、2006年にCNGバスへの改造が行なわれている。
また近年では、マイクロバスをレトロ調ボンネットバスとして仕立て上げ、定期観光バスなどに使用されるケースも多数ある。

 

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