旧呉海軍造兵部第九工場・旧砲熕部精密兵器工場(ダイクレ呉第二工場)
現在は、(株)ダイクレ呉第二工場亜鉛メッキ工場として使用されている工場建屋。造兵部第九工場として建設された建屋で末期には砲熕部精密兵器工場として使用された。
日本広しいえでも旧呉海軍工廠の建屋の中で、大きく状態も良い工場建屋です。米軍による呉空襲では造船所は残しつつも兵器工場はほぼ完全破壊しました。
工場建屋の造兵部の施設ではファサードが現存する貴重な工場建屋です。戦前の海軍工廠をそのまま威容を感じさせる貴重な工場建屋です。
当時建築に装飾性も求められたようで、軍需工場いえでも装飾性としてファサードはレンガと御影石で彩られています。
呉鎮守府建築科とそのトップである桜井小太郎の関与が濃厚との話でした。
戦後は旧海軍工廠の技術者が創業したグレーチング工場となり現在に至っている。グレーチングという製品自体が元々は軍艦の部品です。
戦艦大和などの建造を手がけ、旧海軍でも主導的な役割を持つ工場であった。工場は大きく造船所と兵器工場に分かれている。
兵器工場部分が米軍の空爆で破壊された一方、造船所は(戦後の接収を考慮したのか)大きな被害を免れ、結果的に明治時代以来の近代化遺産が多く残されている。そんな造船所の中枢を担った建物。
外観は赤レンガに覆われ、左右対称で、両端にウィングがあります。左右のウィングで形が違うので、片方は増築なのかもしれないとの説があります。。
ジョサイア・コンドル(ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) はイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた)を師と仰ぎイギリスで研鑽を積んだ桜井小太郎が呉にいた時期は鎮守府庁舎や造兵部第九工場など装飾性の高い作品が多いが、それらよりは時代が下っている。
外観は簡素な作りになっています。窓は縦長で、1階の窓はアーチで建具は木製(2~3階は水平アーチでアルミサッシに変えられています。
RCと思われる梁とアーチが同居している。主要構造はRC造といわれているが、説によるとRC造レンガ貼りでは無いのではとの事。
もし1920年竣工というのならば、関東大震災前の試行錯誤している時代のRCであるため、広島の旧陸軍被服支廠倉庫のようにレンガとRCのハイブリッドという可能性もあるとのことである。
旧呉海軍工廠の遺構という歴史的価値とレンガとRCのハイブリッドなら極めて高い建築技術史上の価値をも有することになる。建物の中には砲塔組立用のピットが現在も残っており、原子炉圧力容器の検査等に使用されている。
話によると本来工場向けの設計ではなく欧米、駅舎向け設計を元に建築されたとのこと。南北の入り口はまさに列車が通りぬけれるような3本、入り口ある作りになっています。
山側の正面には無数の米軍機による機銃掃射の後が残っている。また、正面あった工起版は旧呉海軍工廠礎石記念塔に利用されています。
旧呉海軍工廠(旧海軍の軍需工場)の一部として建てられたもので、戦後は、旧海軍の技術者が創業した会社の工場へと変わり、現在に至っています。
表面は赤レンガで覆われていますが構造は鉄骨造です。機能が重視される工場施設でありながら外装はレンガと御影石で彩られており、デザイン性も高く、かつての海軍工廠の威容や呉の歴史を感じさせる貴重な存在となっています。
鉄骨は当時、強度の問題で国内製造物では足りないとの判断でアメリカ、カーネギーからの輸入である。レンガはイギリスからの輸入では国産、安芸津のレンガとのこと。
工場の山がわにはいくつもの防空壕があり、呉の空襲で学徒動員された大勢の学生が生き埋めになった。
竣工 1903年、1902年との説あり
構造 レンガ+S造
所在地 広島県呉市昭和町7-10
呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)とは、広島県呉市にあった日本の海軍工廠。戦艦「大和」建造で有名。
終戦により工廠は解散。現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場として大型民間船舶の建造を行っており、艦艇建造は行っていない。
1889年 (明治22年) 呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置される。当初造船は神戸にあった小野浜造船所に頼っていたが、徐々に呉での設備を拡充、小野浜造船所は後に閉鎖された。
1903年 (明治36年)に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。その後は東洋一と呼ばれるほどにまで設備を充実させた。
工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を越える程で、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場であった。
戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、日本海軍艦艇建造の中心地となった。
砲熕部(砲塔の製造、開発)、製鋼部(装甲板の製造、開発)が設置され戦艦建造の主導的役割を果たしていた。三菱重工業長崎造船所で建造された戦艦「武蔵」の主砲塔、砲身も呉で製造されている。
1912年3月29日、1万人参加のストライキがうたれた。このストライキには、作家の宮地嘉六も参加し、第九工場の首謀者として検挙された。さらに、1918年8月の1918年米騒動には多数の工廠労働者が参加し、銃剣を持った海軍陸戦隊と対峙し、死傷者が出た。
戦中
1945年6月22日9時よりB-29・290機が飛来し、造兵部を中心に施設を破壊した。海軍工廠関係の死者約1900名。
呉軍港空襲
戦後
JMU呉工場(旧:呉工廠) JMU呉工場(旧:呉工廠)
JMU呉工場(旧:呉工廠)
土地、設備は播磨造船所と米ナショナル・バルク・キャリア社(NBC)が引き継ぐ。呉造船所、石川島播磨重工業(現IHI)呉工場を経て現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場。呉工場での自衛艦艇の建造は無いが、修理は行っている。
なお「造船船渠(大和の建造用ドック)」は1993年に埋め立てられ、跡地は工場として再利用されている。しかし、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、自衛艦や米軍艦船などが現在も使用中である。
呉海軍工廠が大和建造時に採用した船体を部分ごとに造るブロック工法、部品共通化などの革新的管理システムは、後に世界に広まる効率的な日本型生産方式の源流ともいわれる。