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美栄橋駅 沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

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美栄橋駅(みえばしえき)は、沖縄県那覇市牧志一丁目にある沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅である。駅番号は8。

駅は繁華街の国際通りからは500m少し離れている。

駅構造
島式ホーム1面2線。エスカレーター・エレベーターあり。

のりば

美栄橋駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 ■沖縄都市モノレール線 牧志・おもろまち・首里方面


2 県庁前・小禄・那覇空港方面

駅設備
コインロッカー - 改札内に設置。中型6個・小型25個
公衆電話 - 改札外に1台設置。
自動販売機(飲料) - 改札外に1台、改札内に2台(内1台は車椅子対応)、ホームに2台設置。
トイレ - 改札内に設置。
駐輪場 - 駅南側にある。無料。

駅周辺
駅の位置は繁華街外れの住宅街。久茂地川に沿って位置する。
交通
駅前にベロタクシー(自転車タクシー)が待機
料金 - 「ちょい乗り」100円から
駅前にタクシー乗り場あり
接続する路線バス
毎週日曜日12:00 - 18:00の間は国際通りがトランジットモールにより交通規制されるため、一部の国際通り経由の路線バス(30番・33番・46番・52番・61番)が経路を変更して「美栄橋経由」として久茂地川沿いの市道を通過、美栄橋駅前にもバス停が設置されている。通常は国際通り(三越前(市内線)・牧志(市外線)の各バス停)または国道58号(若松入口)まで徒歩10分ほど移動する必要がある。
公共機関・公共施設
那覇市観光案内所(那覇市観光協会) - 徒歩5分
とまりん(那覇港泊ふ頭ターミナル) - 徒歩約10分


教育機関
那覇市立前島小学校
金融機関
沖縄銀行牧志支店 - 徒歩5分
琉球銀行壺屋支店 - 徒歩7分
三菱東京UFJ銀行那覇法人営業所 - 徒歩7分
沖縄海邦銀行本店 - 徒歩10分
郵便局
那覇久茂地郵便局
店舗
D-naha(ディーナハ、旧ダイエー那覇店ビル) - 徒歩1分
ジュンク堂書店
那覇オーパ - 徒歩5分
COM*D - 徒歩5分
沖縄三越 - 徒歩6分
観光
国際通り - 徒歩5分
第一牧志公設市場 - 徒歩約10分
宿泊施設
東横イン那覇美栄橋駅 - 徒歩1分
リッチモンドホテル那覇久茂地(旧ロイネットホテル那覇久茂地) - 徒歩4分
道路
沖映通り
国道58号


駅到着時の車内チャイムは、沖縄の童謡「ちんぬくじゅーしー」を編曲したものが流れる。
改札付近での沖縄方言による案内放送では「みーばし」と発音される。


歴史
2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅番号 8
所属事業者 沖縄都市モノレール
所属路線 ■沖縄都市モノレール線
キロ程 6.63km(那覇空港起点)
駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 2,504人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 2003年(平成15年)8月10日


愛知川駅(近江鉄道本線)

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愛知川駅(えちがわえき)は、滋賀県愛知郡愛荘町市895にある近江鉄道本線の駅。

愛荘町の代表駅です。駅の周辺はまとまった市街地を形成しています。

愛荘町は中山道の宿場町として栄えました旧中山道65番目の宿場愛知川宿があり、明治天皇が小休した部屋がそのまま保存されています。

相対式ホーム2面2線の地上駅である。貴生川寄りに引き上げ線がある。南東側には東海道新幹線が並走している。

ホームと駅舎は遮断機付きの構内踏切で結ばれています。ホーム幅は比較的広い。

開業以来のおよそ100年の歴史ある駅舎は、老朽化のために取り壊され、愛知川コミュニティハウスとして新しく建て替えられた。

宿場をモチーフにしたと思われる和風デザインの駅舎です。勾玉を模した入口扉の窓があります。

コミュニティハウス内には「るーぶる愛知川」というギャラリー・観光案内所を兼ねた売店・待合室があります。


駅員は平日の7時から9時30分の間のみ配置される。


駅周辺
愛荘町立愛知川びんてまりの館
愛荘町立愛知川図書館
愛荘町役場愛知川庁舎
愛荘町立愛知中学校
滋賀県立愛知高等学校
愛知川郵便局
東近江警察署愛知川警部交番
平和堂愛知川店
中山道愛知川宿

1898年(明治31年)
6月11日 - 開業。当初は終着駅であった。
7月24日 - 八日市まで延長、途中駅となる。


2000年(平成12年)3月4日 - 新駅舎開業。愛知川駅コミュニティハウス(るーぶる愛知川)併設。

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(湖東近江路線)
キロ程 17.9km(米原駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面2線
開業年月日 1898年(明治31年)6月11日

静岡鉄道A3000形電車

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静岡鉄道A3000形電車(しずおかてつどうA3000がたでんしゃ)は、静岡鉄道の通勤形電車である。


1000形の置き換え用に製造される車両である。車両形式の由来は、「Activate(活性化させる)」「Amuse(楽しませる)」「Axis(軸)」の3つのAから。
2016年(平成28年)3月24日に最初の編成が営業運転を開始し、2024年(平成36年)頃までに総合車両製作所横浜事業所にて2両編成12本(合計24両)を製造する。編成はクモハA3000形(Mc・静岡側)-クハA3500形(Tc・清水側)となっている。
第1編成となるA3001 - A3501の2両が2015年(平成27年)12月15日に製造元の総合車両製作所横浜事業所から富士駅まで甲種鉄道車両輸送され[3]、17日に同駅より長沼工場まで陸送により搬入された。18日午後には報道陣向けに記念セレモニーが行われ、その後試運転を経て2016年3月24日から営業運転を開始した。また、同車の運用開始に先立ち、1000形1004F(クモハ1004 - クハ1504)が同月10日に定期運用を終了、翌日のお別れイベントをもって引退した。


1000形以来43年ぶりとなる新型車両の導入に当たって、静岡鉄道ではスペシャルサイトを開設(外部リンク項参照)、新静岡駅に運行開始日までのカウントダウンボード設置、各種イベントでのPR、さらに特別に撮影したイメージムービーをYouTube上で複数公開[4]するなど広報活動に力を入れた。
2017年(平成29年)3月24日からは、第2編成となるA3002 - A3502が営業運転を開始し、それに伴い1000形1002F(クモハ1002 - クハ1502)が3月18日に運用を終了した。
2017年5月24日付で「鉄道友の会」のローレル賞を受賞した。


車体
車体は普通鋼製の前頭部を除き、総合車両製作所のsustinaと呼ばれる新開発の軽量ステンレス車体を採用(私鉄の編成としては全国初採用)。前照灯、標識灯、尾灯には省エネルギー化と省メンテナンス化のためLEDが採用された。 前面と側面の行先表示器はフルカラーLED式となっている。白色での行先表示以外にも、多彩なイラストなどが表示できるようになっている。


運転台
ハンドルは1000形を継承したT字型ワンハンドルマスコンで、運転席を中心に人間工学に基づいた配置としている。ワンマン運用での安全運行と乗務員の疲労軽減のため、通常使用しないスイッチはキセ内に納め、シンプルで使いやすい運転台とした。
機器監視、空調や車内外表示器制御などを常に監視するモニタリング装置が設置され、乗務員支援や故障時における早期復旧に備えている。さらにドライブレコーダーを設置し、小型の前方監視カメラで記憶される映像により、万が一の事故の際に検証時間を短縮することができる。


内装
車内はオールロングシートで、車いす・ベビーカースペースを各車両乗務員室寄りに1ヶ所ずつ配置し、2段手すりを設置することで利便性向上を図った。車内灯は、LEDを採用することで省エネルギーと省メンテナンス化を図った。直接光と間接光のハイブリッド照明で、荷棚広告は直接光、客室内は間接光で照明する。客室では、左右の側壁をロールバーで結合することにより、構体の剛性と側面衝突など非常時における車内空間保持性能の向上を実現し、車体の振動も抑制できる。なおA3000形は全席優先席となる。
ドア上には32インチハーフサイズの液晶ディスプレイを用いた東芝製のデジタルサイネージ装置が1両に3ヶ所千鳥配置され、現在地や行先、列車種別、路線図や沿線案内などを高画質で表示するだけでなく、季節により背景が変わる仕様となっている。また、横長の画面を活かした表示の他、広告枠も用意して多彩な情報を提供する。駅名はインバウンド対策として、日本語、英語、中国語(簡体字・繁体字)、韓国語を表示する。
窓ガラスはUVカットグリーンガラスを採用している。
つり革には、全国初となる2段つり革(1つのつり革に高さが違う2つの取っ手がついた吊革)を導入した。
また、各車両の天井には4台の防犯カメラを設置し、安全・安心な輸送サービスを強化を図った。
県外観光客や訪日外国人の呼び込みへ、無料のWi-Fiサービスも行う。


主要機器
主制御装置は、静岡鉄道の車両として初となるIGBT素子を用いた東洋電機製造製のスナバレス2レベル方式のVVVFインバータ制御(RG6033-A-M)を採用。1台の制御装置で2台の電動機を制御するインバータを2群(1群2台モータ駆動)搭載し、1群単位で解放可能なシステムとしている。制御方式は応答性とトルク制御性に優れたベクトル制御とし、遮断器等にはエアレス方式のアークレスタイプを採用することで保守の低減を図った。
主電動機は、省保守性、低騒音、高効率化を目的として、東洋電機製造製の全閉内扇式かご形三相誘導電動機(TDK6254-A)を採用した。開放部がない全閉内扇式のため低騒音化が図れる他、油潤滑方式を採用したことで、潤滑油の交換のみを行うことにより分解整備を不要とし、保守性が向上した。
補助電源装置は、容量100kVA、出力三相AC440Vの静止型インバータ(SIV)で、1台の装置に2台のインバータ部・制御部を内蔵した待機二重系を採用した。主回路構成は低騒音化に有利な3レベル方式のIGBT素子を使用した電圧形インバータとした。
ブレーキ方式は、回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキを採用し、滑走再粘着制御付である。
空気圧縮機は、かご形三相誘導電動機駆動によるスクロール式オイルフリータイプのURC1200D-Iを採用する。吐出し量は400L/minで3台設置する。
パンタグラフは、軽量化と保守省力化を図るため、同鉄道初のシングルアームパンタグラフを採用(東洋電機製造製)。すり板は焼結銅合金、ばね系は3元系構造とすることで、追従性能の向上を図った。クモハA3000に関節部分を連結面側に向けた形で取り付けられる[9]。
台車は、総合車両製作所製のTS-840(電動台車)・TS-841(付随台車)で車体直結式の空気バネ支持方式台車(枕梁付き)を採用し、1000形の台車をベースに細部をリニューアルすることで、さらなる性能向上を図った。車軸軸受は密封式として従来の軸受より保守性を向上させた。また、曲線通過時の車輪フランジ摩耗低減のため、フランジ塗油装置を装備している。この他、滑走防止制御を行うため付随台車の軸端には速度発電機を取り付け、各軸ごとの滑走防止制御を働かせる。
駆動装置はTD平行カルダン駆動方式を採用し、メンテナンス性と静音性の両立を図った。歯車比は99:14である。
空調装置は、冷房装置は三菱電機製のR407C冷媒を使用した冷房能力52.3kW(45,000kcal/h)の集中型装置(CU737)を屋根上に各車両1台搭載している。カレンダー機能や温度センサ、乗車率検知を使った全自動運転を行う。送風装置は横流ファン(ラインデリア)を各車両5台設置(うち1台は乗務員室内)した。暖房装置は750Wのシーズ線式ヒータをクモハA3000形には13台、クハA3500形には12台設置した。


車体デザイン
車両デザインは7編成は静岡市にちなんだ7色(1編成に1色ずつで、色〈およびイメージ、モチーフ〉は■パッションレッド〈情熱的 活動的、いちご〉、■プリティピンク〈かわいい ロマンティック、桜エビ〉、■ブリリアントオレンジイエロー〈暖かさ 幸福感、みかん〉、■フレッシュグリーン〈新しさ 優しさ、山葵〉、■ナチュラルグリーン〈安全 自然、お茶〉、■クリアブルー〈安心 誠実、富士山〉、■エレガントブルー〈上品 信頼、駿河湾〉)を採用し、「shizuoka rainbow trains」と称する。
5編成は無塗色で、全面広告車に対応する。


製造所 総合車両製作所横浜事業所
主要諸元
編成 2両編成2本(2両)
軌間 1,067 mm
電気方式 直流600V
(架空電車線方式)
最高運転速度 70 km/h
設計最高速度 90 km/h
起動加速度 2.5 (3.0) km/h/s
減速度(常用) 3.5 km/h/s
減速度(非常) 4.5 km/h/s
編成定員 238(座席78)人
車両定員 119人
車両重量 クモハA3000形 (Mc) 34.3t
クハA3500形 (Tc) 29.5t
編成重量 63.8t
全長 18,000 mm
車体長 17,580 mm
全幅 2,742 mm
車体幅 2,740 mm
全高 4,015 mm
車体材質 ステンレス
台車 総合車両製作所製ボルスタ付空気ばね台車
Mc車:TS-840・Tc車:TS-841
主電動機 東洋電機製造製 全閉内扇式かご形三相誘導電動機
主電動機出力 120kW
駆動方式 TD継手式中実軸平行カルダン駆動方式
歯車比 99:14 (7.07)
編成出力 480kW
制御装置 IGBT素子VVVFインバータ制御
(東洋電機製造製)
制動装置 回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキ、保安ブレーキ、滑走再粘着制御
保安装置 i-ATS(変調方式MSK、車上パターン制御方式)、ATS-SN(点制御速度照査機能付)
備考 第1編成でのデータ
第57回(2017年)
ローレル賞受賞車両

 

長谷野駅(近江鉄道本線)

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長谷野駅(ながたにのえき)は、滋賀県東近江市今堀町にある近江鉄道本線の駅。

駅周辺は閑静な市街地外れの集落に位置する駅です。


単式ホーム1面1線を有する地上駅。駅舎は無い。無人駅となっている。駅にトイレは未設置。少々きつい傾斜のスロープはホームまで階段に沿って伸びています。

ホームには待合所が設置されています。駅構内施設は誘導ブロックのみで列車接近
装置や行先案内装置などありません。

ホーム待合所には時刻表とおしらせ案内板のほか木製の長椅子が設置されています。

駅の規模の割には立派な駐輪場が駅前にあります。


駅周辺
御代参街道
石造道標「八日市飛行場道」1930年(昭和5年)建立
今堀日吉神社
長緒神社


1916年(大正5年)12月27日 - 開業。

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 27.5km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 片式1面1線
乗車人員
-統計年度- 88人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1916年(大正5年)12月27日

旧呉海軍造兵部第九工場・旧砲熕部精密兵器工場(ダイクレ呉第二工場)

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旧呉海軍造兵部第九工場・旧砲熕部精密兵器工場(ダイクレ呉第二工場)

現在は、(株)ダイクレ呉第二工場亜鉛メッキ工場として使用されている工場建屋。造兵部第九工場として建設された建屋で末期には砲熕部精密兵器工場として使用された。

日本広しいえでも旧呉海軍工廠の建屋の中で、大きく状態も良い工場建屋です。米軍による呉空襲では造船所は残しつつも兵器工場はほぼ完全破壊しました。

工場建屋の造兵部の施設ではファサードが現存する貴重な工場建屋です。戦前の海軍工廠をそのまま威容を感じさせる貴重な工場建屋です。


当時建築に装飾性も求められたようで、軍需工場いえでも装飾性としてファサードはレンガと御影石で彩られています。

呉鎮守府建築科とそのトップである桜井小太郎の関与が濃厚との話でした。


戦後は旧海軍工廠の技術者が創業したグレーチング工場となり現在に至っている。グレーチングという製品自体が元々は軍艦の部品です。

戦艦大和などの建造を手がけ、旧海軍でも主導的な役割を持つ工場であった。工場は大きく造船所と兵器工場に分かれている。

兵器工場部分が米軍の空爆で破壊された一方、造船所は(戦後の接収を考慮したのか)大きな被害を免れ、結果的に明治時代以来の近代化遺産が多く残されている。そんな造船所の中枢を担った建物。

外観は赤レンガに覆われ、左右対称で、両端にウィングがあります。左右のウィングで形が違うので、片方は増築なのかもしれないとの説があります。。

ジョサイア・コンドル(ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) はイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた)を師と仰ぎイギリスで研鑽を積んだ桜井小太郎が呉にいた時期は鎮守府庁舎や造兵部第九工場など装飾性の高い作品が多いが、それらよりは時代が下っている。

外観は簡素な作りになっています。窓は縦長で、1階の窓はアーチで建具は木製(2~3階は水平アーチでアルミサッシに変えられています。

RCと思われる梁とアーチが同居している。主要構造はRC造といわれているが、説によるとRC造レンガ貼りでは無いのではとの事。

もし1920年竣工というのならば、関東大震災前の試行錯誤している時代のRCであるため、広島の旧陸軍被服支廠倉庫のようにレンガとRCのハイブリッドという可能性もあるとのことである。
旧呉海軍工廠の遺構という歴史的価値とレンガとRCのハイブリッドなら極めて高い建築技術史上の価値をも有することになる。建物の中には砲塔組立用のピットが現在も残っており、原子炉圧力容器の検査等に使用されている。

話によると本来工場向けの設計ではなく欧米、駅舎向け設計を元に建築されたとのこと。南北の入り口はまさに列車が通りぬけれるような3本、入り口ある作りになっています。

山側の正面には無数の米軍機による機銃掃射の後が残っている。また、正面あった工起版は旧呉海軍工廠礎石記念塔に利用されています。


旧呉海軍工廠(旧海軍の軍需工場)の一部として建てられたもので、戦後は、旧海軍の技術者が創業した会社の工場へと変わり、現在に至っています。


表面は赤レンガで覆われていますが構造は鉄骨造です。機能が重視される工場施設でありながら外装はレンガと御影石で彩られており、デザイン性も高く、かつての海軍工廠の威容や呉の歴史を感じさせる貴重な存在となっています。

鉄骨は当時、強度の問題で国内製造物では足りないとの判断でアメリカ、カーネギーからの輸入である。レンガはイギリスからの輸入では国産、安芸津のレンガとのこと。

工場の山がわにはいくつもの防空壕があり、呉の空襲で学徒動員された大勢の学生が生き埋めになった。


竣工 1903年、1902年との説あり
構造 レンガ+S造
所在地 広島県呉市昭和町7-10

呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)とは、広島県呉市にあった日本の海軍工廠。戦艦「大和」建造で有名。

終戦により工廠は解散。現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場として大型民間船舶の建造を行っており、艦艇建造は行っていない。

1889年 (明治22年) 呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置される。当初造船は神戸にあった小野浜造船所に頼っていたが、徐々に呉での設備を拡充、小野浜造船所は後に閉鎖された。

1903年 (明治36年)に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。その後は東洋一と呼ばれるほどにまで設備を充実させた。

工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を越える程で、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場であった。

戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、日本海軍艦艇建造の中心地となった。
砲熕部(砲塔の製造、開発)、製鋼部(装甲板の製造、開発)が設置され戦艦建造の主導的役割を果たしていた。三菱重工業長崎造船所で建造された戦艦「武蔵」の主砲塔、砲身も呉で製造されている。


1912年3月29日、1万人参加のストライキがうたれた。このストライキには、作家の宮地嘉六も参加し、第九工場の首謀者として検挙された。さらに、1918年8月の1918年米騒動には多数の工廠労働者が参加し、銃剣を持った海軍陸戦隊と対峙し、死傷者が出た。


戦中
1945年6月22日9時よりB-29・290機が飛来し、造兵部を中心に施設を破壊した。海軍工廠関係の死者約1900名。
呉軍港空襲


戦後
JMU呉工場(旧:呉工廠) JMU呉工場(旧:呉工廠)
JMU呉工場(旧:呉工廠)


土地、設備は播磨造船所と米ナショナル・バルク・キャリア社(NBC)が引き継ぐ。呉造船所、石川島播磨重工業(現IHI)呉工場を経て現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場。呉工場での自衛艦艇の建造は無いが、修理は行っている。

なお「造船船渠(大和の建造用ドック)」は1993年に埋め立てられ、跡地は工場として再利用されている。しかし、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、自衛艦や米軍艦船などが現在も使用中である。


呉海軍工廠が大和建造時に採用した船体を部分ごとに造るブロック工法、部品共通化などの革新的管理システムは、後に世界に広まる効率的な日本型生産方式の源流ともいわれる。

新幹線:エヴァンゲリオン プロジェクト「500 TYPE EVA」

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エヴァンゲリオン プロジェクト「500 TYPE EVA」

エヴァンゲリオン プロジェクトとは


2015年、山陽新幹線は全線開業から40周年、「エヴァンゲリオン」はTV放送開始から20周年を迎えました。

これを記念して、2015年11月より「新幹線:エヴァンゲリオン プロジェクト」を始動しました。


2015年(平成27年)11月7日より運行を開始した、山陽新幹線運行開始40周年ならびにテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」放送開始20周年記念のコラボレーション企画による編成。

エヴァンゲリオンシリーズのメカニックデザインを手掛けた山下いくとがエヴァ新幹線のデザインを担当し、原作・総監督の庵野秀明が監修を務めた。

山下は500系新幹線の大ファンで、「エヴァ的カラーリングにするとともに元のデザインを生かして未来からやってきた500系みたいにできたらいいな」と述べている。


外観をエヴァンゲリオン初号機をモチーフとしたカラーリングに全面塗装。

1号車には展示コーナー「新幹線×エヴァンゲリオンパネル」「フォトスポット※」「ジオラマ」と、エヴァンゲリオンの実物大コックピットを再現し、ゲームも楽しめる「展示・体験ルーム」に改装。

エヴァンゲリオンの実物大コックピット



新幹線×エヴァンゲリオンパネル


フォトスポット


ジオラマ


2号車は肘掛けやカバー、床面や貫通扉などにEVAデザイン」装飾を施し、作品の世界観を表現した「特別内装車」とした車内空間をご体験いただけます。

通常の「自由席」としてご利用できる。

 

車内チャイムも従来の「いい日旅立ち・西へ」からアニメ主題歌の「残酷な天使のテーゼ」のオルゴールバージョンに変更されている。


プラレールカー同様、新大阪 - 博多間を通して運転するこだま730・741号に限定運用されている。

「特別内装車」は自由席扱いのため、乗車券+自由席特急券のみで利用できるが、「展示・体験ルーム」への入室と「実物大コックピット搭乗体験」利用には、事前の予約が必要。

また「特別内装車」の一部は「展示・体験ルーム」入室者向けの待合スペースとなっており、乗車券・特急券のみでは着席できない。

2016年3月15日からは、1号車の「実物大コックピット搭乗体験」は引き続き予約が必要だが、「展示・体験ルーム」は予約なしで自由に入室できるようになった(混雑時は制限が掛かる場合がある)。


当初は2017年3月までの運転を予定していたが好評のため2018年春まで延長されることが発表された。

1号車に乗車のお客様に乗車特典をご用意している。「500 TYPE EVA」GUIDE BOOK 

(記念乗車証付き)+ポストカード2枚セット※平日乗車の方限定。旅行商品の場合は、さらに特典があるPLANNBは「500 TYPE EVA オリジナルバスタオル」PLANAは「500 TYPE EVA オリジナルNガージ」がご用意されています。

博多駅ひかり広場のキヨスク売店を、「500 TYPE EVA」オリジナル商品をはじめ、 エヴァンゲリオン関連商品を販売するショップとしてリニューアルしている。

博多駅新幹線改札内の喫茶店「カフェ・エスタシオン博多」の一部コーナーで「500 TYPE EVA」オリジナルメニューをご提供するカフェを営業いている。

山陽新幹線での「500 TYPE EVA」車両の運転に加え、新幹線沿線において、「500 TYPE EVA」オリジナル商品やオリジナル弁当、オリジナルグッズを販売。500 TYPE EVA」車内で、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」にも登場する銘酒『獺祭』を販売。オリジナル弁当、新神戸駅、西明石駅の淡路屋店舗にて販売

 

豊郷駅(近江鉄道本線)

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豊郷駅(とよさとえき)は、滋賀県犬上郡豊郷町八目11-1にある近江鉄道本線の駅。豊郷町の代表駅で、市街地中心部にも近く、賑わいが感じられます。

テレビアニメ『けいおん!』に登場する高校のモデルとされている町立豊郷小学校(旧校舎群)の最寄り駅であり、休日を中心に当駅を利用するファンも少なくない。

そのため、豊郷駅周辺では作品の人気にあやかった町おこしが行われ、近江鉄道でも記念切符の発売などの取り組みを行っている。特に大規模イベントが行われる日は駅員が配置され、臨時列車が運行されることもある。


2011年4月頃には、「けいおん!!」仕様の駅名標が「けいおんでまちおこし実行委員会」によって製作された。この駅名標は、駅南側にあるガソリンスタンドの宮川石油で見られる。


八日市方面行きホーム上に「一乗り 二乗り 三押スナ」と刻まれた石柱がある他、ホーム上屋の支柱は「BARROW STEEL」社製の古レールで、「1899」の年号が陽刻されている。

相対式2面2線のホームを有する地上駅。
駅舎は和風な雰囲気がある駅舎です。

本線に向かって西側(米原方面行きのホーム側)に設けられており、貴生川方面行きのホームへは遮断機付きの構内踏切を渡る必要がある。

下りホームの待合所がありバラック風の非常に簡素な造りになっています。

なお、線路自体は貴生川方面行きのホームに向けた一線スルー型の配線となっている。


待合所を兼ねたコミュニティハウスを併設している。待合所中央には木製の椅子が設置され高い天井が開放感を出しています。

ホームに面した入口には出札口が設けられており、平日の朝(7時から9時30分)のみ駅員が配置され、それ以外の時間は無人となる。

入口扉の窓が扇形になっており凝ったデザインの扉になっています。

駅周辺
駅の西側は豊郷町の中心市街地で、住宅地や学校・病院・商店・工場などが建っている。駅の東側を東海道新幹線が近江鉄道線に並行して通っており、それより東側には田園地帯が広がっている。
豊郷町役場
豊郷町立豊郷小学校
豊郷町立豊日中学校
豊郷郵便局
滋賀銀行 豊郷支店
滋賀中央信用金庫 豊郷支店
豊郷病院
豊会館
豊郷武道館
伊藤忠兵衛旧邸
くれない公園
伊藤忠兵衛翁碑
中山道

バス路線
「愛のりタクシーたが」は3路線、それぞれ1時間おきに運行されている。市立病院・南彦根駅・高宮駅・多賀大社前駅など、全路線が経由する停留所もある。


近江鉄道開通の翌年、高宮駅 - 愛知川駅間に駅を新設するにあたり、豊郷村の大字四十九院・八目および愛知郡日枝村の三者においてその位置が争われ、ひとまずそれらの中間にあたる八目に、伊藤忠兵衛が土地を提供し、仮停車場が設置されることになった。

それから6年後の1905年(明治38年)12月、近江鉄道から駅舎改築の申し入れがあり、大字八目(一部大字石畑)の用地提供、村内有志の寄付により、1906年(明治39年)4月、本停車場が竣工した。


1899年(明治32年)3月19日 - 仮停車場が開業。
1906年(明治39年)4月14日 - 本停車場が竣工。
1972年(昭和47年)10月 - 貨物取り扱いを廃止
1996年(平成8年)4月3日 - 駅舎を改築。


所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(湖東近江路線)
キロ程 15.0km(米原駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線
開業年月日 1899年(明治32年)3月19日

沖縄都市モノレール1000形電車

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沖縄都市モノレール1000形電車(おきなわとしモノレール1000がたでんしゃ)は、沖縄都市モノレールの跨座式モノレール車両である。


2003年8月10日の沖縄都市モノレール線開業時から使用されており、同社唯一の旅客用車両形式である。2両固定編成で、首里駅側の車両は1200番台、那覇空港駅側の車両には1100番台の番号が付けられているが、形式はいずれも1000形である。十位と一位の末尾2桁は編成番号で、各車両、同一編成では同一番号に揃えられている。
2001年の試運転開始時に試作車として1201+1101の1編成が日立製作所で製造された。翌2002年に全線での試運転開始に合わせて1202+1102 - 1207+1107の6編成が日立製作所で、1208+1108 - 1212+1112の5編成が川崎重工で製造され、この12編成が開業時より営業運転に使用されている。
開業後、2007年度に1編成増備される予定だったが実現せず、2009年度(2010年)に1213+1113の1編成、2016年度に1214+1114の1編成を増備し、現在14編成28両が在籍する。増備車はいずれも日立製。
2012年1月に発表された中長期経営計画で示されている2019年春の浦西延伸時の運転計画案では、必要車両数は発表時点での編成数より6編成多い19編成となっている。

車体
アルミニウム合金製で、2001年に搬入された試作車は無塗装であったが、溶接跡が目立ったため、量産車では全塗装に変更され、後に試作車も塗装された。塗装は車体上部がグレー、下部が首里城を表すシンボルカラーの赤色で、裾部に黒色のラインが入る。ラッピングを施して運行されることがある。
前面には外開き式の非常用貫通路があり、丸みをおびた形となっている。また、時期によっては開通記念などの幕が貼られることもある。
行き先表示などの方向幕機器は設置されていない。

車内設備
座席はロングシートで、表地の模様は紅型をモチーフにしている。運転室と乗降扉の間にクロスシートが運転室方向を向いて設置されており、この部分には側面窓はないが前面展望が可能である。側面窓は他の車両に比べ、大型の窓を設置している。そのため背ずりの部分が窓より高くなることから、背ずりが1人ごとに上に飛び出しており、定員着席を促すとともに景色を妨げないようにしている。
連結部には荷物置き場が設けられている。車椅子スペースは那覇空港側の車両の車端部に設置されており、この部分のみ側窓の下端が高い位置にある。側面窓は上部1/3が手動で開閉可能、下部が固定窓である。車椅子スペースの窓は固定窓である。
ドアに注意を促すステッカーは当初から貼られていたが、さらに注意を向けるため2008年中には幼児向けの大型のステッカーが全編成にはられた。
2010年にはバリアフリー化の観点から、連結面側座席の全席が優先席となり、優先席付近のつり革の色を黄色に変更したほか、乗降扉付近に点字付きの号車・ドア番号表示を追加している。これらは同年6月11日までに全編成に施工されている。
ドアの上部には車内案内表示装置が設置されており、片方はLEDランプにより案内があるが、もう片側はシールを貼っただけとなっているものと、片方が液晶ディスプレイ(LCD)方式の車内案内表示装置で、もう片方が新しいシールが貼ってあるものとがある。後者がてだこ浦西駅まで延伸する際までに整備される予定である。その他、ドアチャイムが取り付けられている。
次駅や駅接近時の案内放送は自動放送で、駅接近時には駅ごとに異なる沖縄音楽をアレンジしたチャイムが流れる(那覇空港駅:『谷茶前』、赤嶺駅:『花の風車』、小禄駅:『小禄豊見城』、奥武山公園駅:『じんじん』、壺川駅:『唐船ドーイ』、旭橋駅:『海ぬちんぼーら』、県庁前駅:『てぃんさぐぬ花』、美栄橋駅:『ちんぬくじゅうしぃ』、牧志駅:『いちゅび小節』、安里駅:『安里屋ユンタ』、おもろまち駅:『だんじゅかりゆし』、古島駅:『月ぬ美しゃ』、市立病院前駅:『クイチャー』、儀保駅:『芭蕉布』、首里駅:『赤田首里殿内』)。
増備車では車内設備を中心に改良が図られている。


2009年度増備車(1213+1113)では以下の点が変更されている。
ロングシートの方にも手すりが片側3つずつ追加されているほか、車体中心部のつり革の数も増加している。優先席の座席の表地は守礼門、シーサー、ハイビスカスが描かれた赤い色に変更された。
優先席付近のつり革の色は製造当初より黄色であるほか、位置を他のつり革より10cm低くした。
乗降扉付近に点字付きの号車・ドア番号表示を追加した。
ドア付近の床面を黄色に塗装し、乗客に注意を促している。
火災対策から貫通路に透明の貫通扉が設置されたほか、天井が従来のポリカーボネイト製から金属製へと変更された。そのためクーラーの吹き出し口、荷物棚のデザインがやや変更された。
2016年度増備車(1214+1114)では以下の点が変更されている。
側面窓の上下寸法を縮小して窓下端の位置を高くした。
座席の変更。
乗降を容易にするためドア周辺の空間を拡大し、扉間の座席は縦幅を縮小し12人掛けから10人掛けとした。
背ずりは一体型となり、窓下端の位置を高くしたこととあわせて、窓下端より上の張り出しと、背ずりと窓の間にあった空間がなくなった。これにより通路幅が従来車より18cm拡大された。
扉と座席の間に袖仕切りを設置した。
扉には開扉予告灯を設置した。
車内案内表示器にはこれまでの日本語漢字・日本語仮名・英語に加え、中国語簡体字・中国語繁体字・韓国語の表示を追加した。

運転台
運転台は、右側に設置されており、右片手のワンハンドルでマスコンのノッチ数は力行4段、ブレーキ7段、非常である。マスコンのノッチを力行から切に戻し、P2にすると定速運転となる。ドアエンジンには空気式を採用している。
乗務員1名によるワンマン運転が行われているが、ATOを搭載せず全区間で手動運転。

機器
主電動機は出力100kWの三相かご型誘導電動機を6台搭載している。1200形の先頭台車のみ主電動機を搭載していない。制御装置はIGBT素子の日立製VVVFインバーター制御(1C2M)となっている。
ブレーキは回生ブレーキ併用の電気指令式ブレーキとなっており、動力車では停止寸前まで回生ブレーキが作動し、遅れを空気ブレーキで補うようになっている。
台車は2軸ボギー構造となっており、電動台車と付随台車で構成されている。走行軸と水平輪(案内輪と安定輪)よって構成され、車体を直接支持するボルスタレス台車を採用している。
駆動装置は、2段減速直角カルダン駆動方式で直接台車枠に固定されており、主電動機をたわみ板式接手(TD接手)を介して結合している。このほか、台車には集電装置、車体接地装置、ATC・TD用信号用アンテナ等が取り付けられている。
静止型インバータは架線電圧のDC1500Vを群のインバータで分圧し、それぞれのインバータにより直流から交流に変換し、トランスで合成して規定の電圧(AC200V3相-60Hz)を出力する。1214Fでは2基装備となった。
密着式連結器を装備しているが、通常は連結運転は行わない。

製造所 日立製作所、川崎重工業
主要諸元
編成 2両固定編成(MC1・MC2)
電気方式 直流1500V
最高運転速度 65 km/h
起動加速度 3.5 km/h/s
減速度(常用) 4.0 km/h/s
減速度(非常) 4.5 km/h/s
編成定員 165人(内座席65人)
車両定員 MC1:83人(内座席31人)
MC2:82人(内座席34人)
車両重量 MC1:27.5t
MC2:26.3t
編成重量 53.8t
全長 14000 mm
車体長 14700 mm
全幅 2980 mm
全高 5100 mm
車体材質 アルミニウム合金
主電動機 三相かご型誘導電動機(100kW×6台/編成)
主電動機出力 100kW
駆動方式 TD継手式2段減速直角駆動方式
編成出力 600kW
制御装置 VVVFインバータ制御(IGBT素子)
制動装置 回生併用電気指令式電磁直通空気ブレーキ
保安装置 ATC/TD

 


UH-1N イロコイ「ツインヒューイ」アメリカ空軍

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第374空輸航空団/第459空輸飛行隊

UH-1N イロコイ
最初に生産されたモデル。アメリカ空軍、アメリカ海軍、アメリカ海兵隊が運用。長年にわたって運用するアメリカ海兵隊は、アビオニクスの改善、防御装置、FLIRなど、いくつかのアップグレード機を開発した。

UH-1N ツインヒューイ(UH-1N Twin Huey)は、1969年4月に初飛行した中型軍用ヘリコプターである[1]。米ベル社製の本機は、1名のパイロットと14名の乗客分を合わせた15席配置があり、乗客に代わって貨物を搭載する場合では 6.23m3(220立方フィート)の収容能力がある。機外吊下げ(スリング)だけでは 2,268kg(5,000ポンド)が輸送できる。CUH-1N ツインヒューイが原型で、CH-135 ツインヒューイとしてカナダ軍から最初に発注された。

ベル 205の胴体を引き延ばし、エンジンをツインパック方式に強化したベル 212は、元々はカナダ軍向けに開発され、CUH-1N ツインヒューイの名前が与えられていた。後にカナダ軍は、新しい命名体系を採用したため、本機はCH-135 ツインヒューイという新たな名前が与えられた。カナダ軍は1968年5月1日に開発を承認した。50機を購入し、1971年5月に引き渡しが始まった。
アメリカ陸軍も自軍向けにツインヒューイの購入を計画していたが、下院の軍事委員会議長、L・メンデル・リバーズによって反対されたため、取得が危ぶまれる事態となった。リバーズは、ツインヒューイのエンジン プラット・アンド・ホイットニー・カナダ PT6Tがカナダ製であることから否定的な立場をとった。カナダ政府は、アメリカ軍の兵役逃れを受け入れていた様にアメリカのベトナム戦争への関与を支持しておらず、東南アジアに対するアメリカ政府の方針に反対していた。また、リバーズは、エンジンの取得がカナダとの貿易赤字になることも問題視した。議会は、PT6Tの代替にT400エンジンの獲得を確定した場合のみツインヒューイの購入を許可した。その結果、294機のベル 212が発注され、1970年に引き渡しが始まった。
アメリカ軍は、カナダ軍と異なりUH-1の公式名称であるイロコイ(Iroquois)をUH-1Nでも採用したが、アメリカ軍の将兵達は、UN-1Nをヒューイ(Huey)または、ツインヒューイ(Twin Huey)と呼んだ。
ベル 412は、ベル 212から更に発展したヘリコプターである。大きな相違は、メインローターのブレードを複合材製の4翅にしたことである。


駆動・回転翼系統
2基のプラット・アンド・ホイットニー・カナダ PT6 ターボシャフトエンジンの2本のタービン出力は、PT6T-3/T400 ターボツインパックによって1本のローターシャフトへまとめて出力され、UH-1Nのメインローターを駆動する。それらは最高1,342kW(1,800shp)を生み出す。たとえ片方のエンジンが停止しても、残されたエンジンが30分間なら671kW(900shp)の力を、最大荷重下での巡航継続が求められる状況なら571kW(765shp)の力を発揮できる。
アメリカ海兵隊(USMC)は保有する多数のUH-1Nに対して、飛行中の安定性を保つためにローターヘッドにサーボ入力を与える安定制御増大システム(Stability Control Augmentation System)を加える改修を施した。この近代化改修では、コンピュータ・システムが安定性を保つことで、メインローターヘッド頂部でジャイロとして働いていたスタビライザーバー(Stabilization Bar)を取り外すことになった。



戦歴
アメリカ海兵隊のUH-1Nは2003年のイラク侵攻の間、海兵隊によって運用された。UH-1Nは、地上の海兵隊部隊のために偵察と通信サポートを行なった。それらはナーシリーヤでの激しい戦いでは、近接航空支援(CAS)も求められた。
記録的なスカイダイビング
1972年3月6日にアメリカ海軍第6南極開発隊(VXE-6)のハインドリック V. ゴリック(Hendrick V. Gorick)は、UH-1Nで20,500フィート(6,248m)の高度からジャンプした。これは南極大陸におけるパラシュートのスカイダイビングの記録を作った。

 


乗員 2人
胴体全長 12.92m
全幅 14.69m(ローター含)
全高 4.53m
自重 2,786kg
最大離陸重量 5,800kg
エンジン 2基  名称:P&WC T400-CP-400  出力:1,290shp/基
最大速度 228km/h
航続距離 420km
製作 ベル社
備考 米空軍が連絡・汎用などの目的で使用する輸送ヘリコプターで、ツインパックエンジンを搭載している。公式な名称は「イロコイ」だが、通称では「ツインヒューイ」
在日米軍では第374空輸航空団/第459空輸飛行隊で4機が運用されている。

平田駅(近江鉄道八日市線)近江鉄道

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平田駅(ひらたえき)は、滋賀県東近江市平田町にある近江鉄道八日市線の駅。

駅周辺は住宅団地が立地するため、比較的利用客の多い駅です。

しかし駅の南側には田園風景が広がる長閑な顔を持つ駅です。

駅は国道に面しているため、駅前広場はありません。

相対式2面2線の地上駅です。

切符売場、窓口は平日朝の7:30~8:50および午後15:15~16:20のみ有人駅となる。ただし午後は降車客の改札業務のみである。

駅舎は近江鉄道に多い、コミュニティホールを併設したものです。

待合室には木製の長椅子が設置されています。

ホームは嵩上げされていますが、幅は広くありません。列車接近装置は設置されています。

八日市方面のホームと駅舎は構内踏切で結ばれています。

1987年のワンマン化以前は、朝時間帯に当駅~近江八幡間の区間運転便が運転されていた。


1996年頃に上下ホームの幅を広げる工事が行われ、上下線のホームが互いに近接するようになった。

また、駅舎側ホームにある上り線の下り方面の発車信号が撤去された。


駅周辺
近江八幡市との市境が北西に迫っている。
滋賀県立八日市養護学校
国道421号


1913年(大正2年)12月29日 - 湖南鉄道の駅として開業。
1927年(昭和2年)5月15日 - 琵琶湖鉄道汽船に合併され、同社の駅となる。


1929年(昭和4年)4月1日 - 八日市鉄道に譲渡され、同社の駅となる。
1944年(昭和19年)3月1日 - 近江鉄道に合併され、同社の駅となる。
2006年(平成18年)11月20日 - 新駅舎完成


所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■八日市線(万葉あかね線)
キロ程 5.0km(八日市駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面2線
乗車人員
-統計年度- 181人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1913年(大正2年)12月29日

在日米海兵隊憲兵隊パトカー(マツダ・アテンザ3代目)

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憲兵(けんぺい)とは、戦闘支援兵科の一種であり、主に軍隊内部の秩序維持と交通整理を任務とする。英語ではMilitary police(MP)と記され、軍警察(ぐんけいさつ)とも呼ばれる。また、日本軍の憲兵については特にkempeitaiと表記されることも多い。一般警察としての役割も兼ねている憲兵組織は国家憲兵と呼ばれる。

憲兵とは平時においては軍隊内部の秩序・規律を維持し、戦時においては主に交通整理・捕虜取り扱いなどの業務を行う兵科である。国によってその編成は一律ではないが、一個師団には概ね全人員に対して3%程度の人員が憲兵隊を構成しており、少なくても100人から200人程度で憲兵中隊が編成されている。大隊以上の規模を持つ憲兵隊では、犯罪捜査の要員や法曹有資格者も所属している場合がある。
規律正しさから特殊な任務を担うことも多く、現在の日本の陸上自衛隊では国賓に対する栄誉礼を行う特別儀仗隊は、警務科に属する第302保安警務中隊の隊員を以て編成される。また、朝鮮半島の共同警備区域(板門店)で南側の警備に当たっているのも憲兵である。

憲兵の制度ならびにその職掌は、沿革や制度設計思想により各国で大きく異なり、一様ではないが、フランスの国家憲兵隊を範とした国では、各軍の一兵科としてではなく、陸海空軍から独立した編成を採り、軍内部の秩序維持のみならず、一般の行政警察機能を重視したものである。具体的には、ジャンダルムリ(フランス共和国)のほか、ジャンダルマ(トルコ共和国)、カラビニエリ(イタリア共和国)などがその例である。他にも、チリ(カラビネーロス・デ・チレ)やアルゼンチン(ゲンダルメリア・ナチオナル・アルヘンチナ(スペイン語版))などに存在する。旧日本陸軍の憲兵もフランスの制度を範として創設された国家憲兵の一種であり、日本海軍の軍事警察や行政警察、司法警察をも職掌した。
憲兵は、警察権を行使することを明確にするため、軍服に兵科色、徽章、腕章等を着用していることが多い。また、ヘルメットや弾帯を白くする等で目立つようにしている場合もある。


マツダ・アテンザ
アテンザ(ATENZA)は、マツダが製造・発売する中型乗用車(欧州Dセグメント)である。日本国外向けの車名はMazda6(マツダ6)。カペラの事実上の後継車として発売された。
3代目はマツダのフラッグシップモデルとして位置づけられている[1]。
中国市場では2017年現在もこれまでに発表されたマツダ6の歴代3世代が全て併売されている。車名は初代がマツダ6、2代目がマツダ6睿翼(ルイイー)、3代目がマツダ6阿特茲(アテンザ)となる。
3代目 GJ系(2012年 -
新世代技術の「SKYACTIV TECHNOLOGY」と新デザインテーマの「魂動(こどう)- Soul of Motion」を採用したフラッグシップモデルとして開発された。また、CX-5に次いで2車種目となる「SKYACTIV」全面採用車でもある。
この代から、先代まで設定されていたハッチバックモデルが廃止された。これに合わせてスポーツワゴンの名称は「アテンザワゴン」に変更された。
メカニズム[編集]
ガソリンエンジン車は従来通り2.0Lと2.5Lの2種類が用意されるが、それぞれ直噴エンジン仕様となり、2.0L車は「SKYACTIV-G 2.0」、2.5L車は「SKYACTIV-G 2.5」となった。「SKYACTIV-G 2.0」は2代目アクセラやCX-5に採用されているPE-VPS型ではなく、圧縮比を13.0に高めた改良型のPE-VPR型となる。「SKYACTIV-G 2.5」は新開発の2.5L直噴エンジンPY-VPR型で、250N・mの高トルクを持つ力強い走りとクランクシャフトの振動を相殺するバランスシャフトを搭載したことで静粛性を兼ね備えている。
さらに、日本国内向けアテンザでは初[補足 2]となるディーゼルエンジン車が設定され、エンジンにはCX-5同様に直噴ターボコモンレールディーゼルエンジン「SKYACTIV-D 2.2」を搭載するが、こちらもSH-VPTS型ではなく、改良型のSH-VPTR型を搭載している。
併せて、アイドリングストップシステム「i-stop」に加え、乗用車用では世界初となる蓄電器にキャパシタを採用したことで電気を急速に蓄え、使う時には一気に放出できる特長を持つ減速エネルギー回生システム「i-ELOOP(アイ・イーループ)」を全車に標準装備したことで優れた燃費性能を実現し、2.0Lガソリン車とディーゼル車は「平成27年度燃費基準+20%」、2.5Lガソリン車は「平成27年度燃費基準」をそれぞれ達成した。この「i-ELOOP」は、アクセルオフで発電する一種の回生ブレーキであるが、キャパシターに蓄えられた電力はエアコンを始めとした各種電装品で消費する。蓄電量に十分な余裕があるときにはオルタネーターでの発電は行われず、発電のために燃料を使わないことで燃費を向上させている。
トランスミッションは発進時以外の全ての領域でロックアップし、スムーズで素早い変速が可能な6速AT「SKYACTIV-DRIVE」を採用。併せてディーゼル車にはマツダの日本国内向け車種では初めて、ショートストローク化による素早いシフトチェンジと、構造の見直しによる軽い操作感を両立した小型・軽量設計の6速MT「SKYACTIV-MT」を設定した。
軽量高剛性ボディの「SKYACTIV-BODY」や軽量設計のシャシ「SKYACTIV-CHASSIS」も採用している。なお、この「SKYACTIV-CHASSIS」のホイールベースはセダンとワゴンで異なり、セダンの2,830mmに対して、ワゴンは80mm短い2,750mmとなるが、セダンはこの内の32mmを後席空間の拡大に充てているのに対し、ワゴンではリアのタイヤ位置とサスペンションの取り回しを見直して室内への張り出しを前方に寄せ、荷室容積と使い勝手を重視している[37][38]。
安全性能も強化されており、衝突回避や被害軽減を図る衝突被害軽減ブレーキに、より早い段階でドライバーの認知支援を行うアクティブセーフティ技術を取り入れた独自の先進安全技術「i-ACTIVSENSE(アイ アクティブセンス)」を採用した。
エクステリア
エクステリアは2011年の東京モーターショーで出品された「雄(タケリ)」のデザインテイストを採り入れるなど、新世代車に採用されている共通デザインテーマ「魂動(こどう)- Soul of Motion」を採用し、凛とした存在感と生命感のあるダイナミックな美しさを表現したほか、「魂動」デザインを際立たせるボディカラーとして、こだわりをもつ職人の手で作り出すような精緻で高品質な「匠塗(TAKUMINURI)」専用プログラムで塗装した「ソウルレッドプレミアムメタリック(オプションカラー)」を設定した。尚、マツダが筆頭株主である広島東洋カープはこの色をモチーフとした特別塗装色のヘルメットを公式戦やセ・パ交流戦、マツダがスポンサーとなるオールスターゲーム等で使用する。
グレード
グレード体系はセダン・ワゴン共通で「20S」・「25S L Package」・「XD(クロスディー)」・「XD L Package」の4グレードを設定し、車両本体価格はセダン・ワゴンで同一の価格に設定された。また、リアのエンブレム配置が変更となり、2代目まで左側にあった「MAZDA」のロゴエンブレムがなくなり、車名ロゴエンブレムが「Atenza」から「ATENZA」に変更された上で右側から左側に移動。右側には「SKYACTIV」搭載車の証として、CX-5でデザインを一新した「SKYACTIV TECHNOLOGY」エンブレムが装着された。

マツダ・アテンザ(3代目)
GJEFP/GJEFW/GJ5FP/GJ5FW/
GJ2FP/GJ2FW/GJ2AP/GJ2AW型
販売期間 2012年-
設計統括 梶山浩(主査)
デザイン 玉谷聡(チーフデザイナー)
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドアセダン
5ドアステーションワゴン
エンジン PE-VPR型 2.0L 直4 DOHC
PY-VPR型 2.5L 直4 DOHC
SH-VPTR型 2.2L 直4 DOHC ディーゼル 直噴ターボ
駆動方式 FF/4WD
変速機 6速AT/6速MT
(MT車はディーゼル車のみ設定)
サスペンション 前:マクファーソンストラット式
後:マルチリンク式
全長 4,860mm - 4,865mm(セダン)
4,800mm - 4,805mm(ワゴン)
全幅 1,840mm
全高 1,450mm(セダン)
1,480mm(ワゴン)
ホイールベース 2,830mm(セダン)
2,750mm(ワゴン)
車両重量 1,440 - 1,600kg(セダン)
1,460 - 1,620kg(ワゴン)
別名 マツダ6(日本国外)

原宿駅 JR東日本)山手線

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原宿駅(はらじゅくえき)は、東京都渋谷区神宮前一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の鉄道駅である。駅番号はJY 19。

駅名は、開業当時近隣にあった地名、原宿(豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿)から。
特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。また、近接する東京地下鉄(東京メトロ)千代田線の明治神宮前〈原宿〉駅との連絡運輸が実施されている。なお、副都心線の連絡運輸は渋谷駅となるため、この駅での連絡運輸はない。しかし山手線車内の自動放送においては当駅においても副都心線への乗り換え案内がなされている。


原宿・表参道地区のアクセス駅で、近隣は若者を中心に賑わいをみせているが、明治神宮や代々木公園の森林に接しており、改札内に乗換路線もないことから、ホーム上は比較的閑静である。


二代目となる現在の駅舎は1924年(大正13年)に竣工した木造建築で、都内で現存する木造駅舎で最も古い。建物は二階建てで、尖塔付きの屋根に白い外壁という、イギリス調のデザインとなっている。窓格子は二重斜格子文で、階段に使用されている廃レールには、1950の刻印が見られる。


駅構造
山手線の島式ホーム1面2線が、通常使用されている。
表参道口にはトイレが設置され、改札外に地下鉄線への乗り換え口がある。コンコースとホームを連絡するエスカレーターとエレベーターが設置され、改札まではスロープとなっているなどバリアフリー措置が取られているが、竹下口には何もない。自動改札機が設置されている。表参道口には簡易Suica改札機も設置されている。臨時ホームは簡易Suica改札機のみ設置されている。


発車メロディは、外回り・内回りともに当駅オリジナルのメロディが使われている。なお。2011年3月1日から20日までは期間限定でmiwaの楽曲「春になったら」が採用され、1番線ではサビ、2番線では冒頭部を使用していた。また、臨時ホームでは発車ベルが使われる。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 JY 山手線 内回り 渋谷・品川方面
2・3 外回り 新宿・池袋方面


臨時ホーム
当駅の特徴として、外回り線(代々木方向)に1面1線の明治神宮敷地内「臨時ホーム」(3番線ホーム)が、内回り線(渋谷駅方向)の駅手前・代々木寄りに1面1線の皇室専用ホームがある。
「臨時ホーム」は、例年正月のみ使用される明治神宮初詣客向けのもので、1940年(昭和15年)元日から供用が開始された。 明治神宮は毎年日本で最多の初詣客が訪れ、山手線は大晦日から元日にかけて終夜運転が行われる。この時間帯は外回り線は臨時ホームで乗降を行い、2番線ホームは使用中止となって方面標も3番線ホームに設置される。
改札も明治神宮側の臨時改札口で行われるため、渋谷駅のようなホームとなるだけでなく、表参道口と竹下口は内回り専用となる。

皇室専用ホーム
駅北側(代々木駅寄り)の貨物線線路から分岐する形で設置されている、皇室専用駅。
正式な名称は原宿駅側部乗降場であるが、「北部乗降場」、「北乗降場」、「帝室御乗降場などとも呼称され、宮廷ホームの通称でも知られる。設置以来お召し列車の発着に使われ、2013年(平成25年)現在は財務省とJR東日本の共同所有となっている。
有効長は217メートル、ホーム長は171メートルあり、一般客が乗り降りする山手線のホームとは厳格に区別された宮廷ホームは簡素な造りで、屋根には古レールが使われているなど派手さはない。これは宮廷ホームが造られた当時、大正天皇が病気療養中だったためで、あまり派手な駅を作ると療養中の天皇が利用している姿が人目につき、健康を害している天皇の姿を国民(当時は「臣民」と呼んでいた)が目の当たりにしたら、社会に動揺が広がることにもなりかねないと考えられ、あえて控えめに造られたとされている。敷地内にはホームのほかに、信号扱所、貴賓室、待合室がある。
このホームが使用される際のみ、原宿駅は運転取扱駅へと一時的に昇格する。通常は当ホームの出発信号機・場内信号機はレンズ部分に黒い蓋をして使用停止とし、山手貨物線本線(通過線)側の出発信号機・場内信号機は閉塞信号機として扱っている。
大正時代
病弱だった大正天皇が宮城(きゅうじょう、皇居の旧称)から沼津御用邸や葉山御用邸等へ静養に出発するための専用駅として設置された。
工事は1925年(大正14年)夏、旧原宿駅跡地、および旧原宿変電所跡地とその側線を転用する形で着工され、同年10月15日に完成した。同年12月17日には試運転が行われ、大正天皇が初めて利用したのは、1926年(大正15年)8月10日、葉山御用邸に出発する際であった。
しかしながら大正天皇は同年12月25日に崩御、同27日に霊柩列車によってこのホームに戻ることとなった。

昭和時代
昭和時代には昭和天皇・香淳皇后が那須や須崎(静岡県下田市)にある御用邸や全国植樹祭などへ向かう(行幸啓)場合などに運行される専用のお召し列車が年に数回発着していた。また、香淳皇后が須崎・那須両御用邸へ静養のために向かう際には、このホーム発の専用列車に乗車していた。
昭和天皇がこのホームを利用する場合、三権の長(内閣総理大臣・衆議院議長・参議院議長・最高裁判所長官)、国務大臣、日本国有鉄道(国鉄)総裁、東京鉄道管理局(1969年(昭和44年)4月以降は東京西鉄道管理局)長が揃って「お見送り」をすることが、国鉄時代の慣わしであった。
皇族専用ホームは皇族による利用のほか、1979年(昭和54年)には201系電車の試作車展示や、1988年(昭和63年)にはパビリオン列車「アメリカントレイン」の出発式といった、各種イベントにも用いられた。


平成時代
今上天皇の時代になると東京駅を利用することがもっぱらとなり、それ以前に他交通機関の発達もあって鉄道利用が少なく、お召し列車の運行自体が稀になっている。
今上天皇が原宿駅の皇室専用ホームを最後に使用したのは2001年(平成13年)5月21日、第52回全国植樹祭から帰った際であり、以来皇室専用ホームを皇族が利用した実績はない。
原宿駅・皇室専用ホームが利用されなくなった背景には、山手貨物線が、埼京線の延伸や湘南新宿ラインの運行開始などに伴って過密ダイヤとなり、お召し列車の運行には不適切になっているという事情もあるという。乗降場の周囲では草刈りは定期的に実施されているものの、場内信号機は白い蓋で塞がれており、分岐器が使用停止のまま長らく列車の発着がないためにレールが錆び付くなど、即座には使用できない状態となっている。一方、皇室専用ホームは廃止されたわけではなく、宮内庁では今後、国賓の地方への案内といった場合に使用される可能性が示唆されている。
2016年10月30日に、原宿駅開業110周年の記念として、ホームの一般公開が行われた。


駅改良工事
JR東日本によると、2020年の東京オリンピック開催に向けて、当駅の駅改良工事に着手することが発表された。年始のみ使用している臨時ホームを新宿・池袋方面行き外回り専用ホームとして常設化される他、2階建ての駅舎に建て替え・エレベーターとエスカレーターの増設・トイレや改札口と通路の拡張などが行われる。また、新駅舎は明治神宮口にも設置される[10][19]。なお、今回常設化される外回り専用ホームにはホームドアも設置され、改良工事後の島式ホームは内回り渋谷・品川方面行き専用ホームになる。

駅周辺
「原宿」、「神宮前 (渋谷区)」、「神南」、「代々木神園町」、および「千駄ヶ谷」も参照
明治神宮
代々木公園
明治通り
竹下通り
表参道
国立代々木競技場
アドヴァン 本社
原宿駅前ステージ - アイドルグループ「原駅ステージA」と「ふわふわ」の専用劇場。
明治神宮前〈原宿〉駅 - 東京メトロ千代田線・副都心線

原宿ファッションジョイボード文化展
駅構内のホーム沿いに設置されている大型看板「原宿ファッションジョイボード」(縦3m×横4m)の17面すべてを1週間限定で貸し切り、社会的・文化的メッセージのあるポスターの連作を展示する広告展開企画で、1979年12月から春と秋の年2回開催している。
1979年冬:原宿ものがたり
2002年春:ワールドカップ 日本代表がんばれ
2014年春:ブレイブサークル大腸がん撲滅キャンペーン”40歳になったら毎年、大腸がん検診を受けましょう!
2014年秋:『福島魅力再発見の旅』〜「福が満開、福のしま。」でお待ちしております〜
2015年春:パスワード―もっと強くキミを守りたい―

 

 

歴史
開業時は乗降客が少なかったが、1919年(大正8年)に明治神宮が造営された後には発展を続けた。乗降客が増加した1929年(昭和4年)には竹下口地下道、1939年(昭和14年)には明治神宮側臨時プラットホームが設置されている。
戦前
1906年(明治39年)
10月30日:日本鉄道の駅として開業。同時に貨物営業も開始。駅は現在位置より代々木駅寄りにあった。
11月1日:日本鉄道が国有化、国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日:線路名称制定により山手線の所属となる。
1914年(大正3年)
5月24日:昭憲皇太后の葬儀が隣接する代々木練兵場で行われる。原宿駅南方より引込み線を敷設し霊柩列車出発用の代々木仮停車場を設ける。
12月18日:駅北側(代々木寄り)に原宿変電所設置。京浜線電化にあたって新設された矢口変電所から受電し、総容量1,000kWで直流600Vを給電した。
1916年(大正5年)1月:明治神宮造営のために駅北部から分岐する引込み線を設置。
1920年(大正9年)11月1日:明治神宮が完成、鎮座祭が行われる。
1922年(大正11年)
7月12日:渋谷 - 当駅間が複々線化。
11月11日:原宿変電所廃止。
1923年(大正12年)9月1日:関東大震災。

駅番号 □JY 19
所属事業者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 JY 山手線
キロ程 8.4km(品川起点)
電報略号 ラシ


駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
この他、外回り線に臨時ホーム
代々木寄りに原宿駅側部乗降場を設置
乗車人員
-統計年度- 73,733人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1906年(明治39年)10月30日
乗換 明治神宮前〈原宿〉駅
(東京地下鉄(東京メトロ)千代田線・副都心線)
備考 山区 東京山手線内・東京都区内駅
1924年(大正13年)
6月:開業当初よりも南寄り(渋谷駅寄り)の現在地に移動[5]。現在に続くイギリス風木造駅舎が竣工、設計は鉄道省技師の長谷川馨。
12月:当駅 - 新大久保間が複々線化。
1925年(大正14年)10月15日:原宿変電所跡地に原宿駅側部乗降場(宮廷ホーム)が完成。病弱だった大正天皇が日光・沼津・葉山の御用邸に静養に出発する専用の目的で建設された。
1941年(昭和16年)2月1日:貨物取り扱いを廃止。
1945年(昭和20年)4月14日:空襲により駅舎に直撃弾を受けるも、すべて不発により焼失を免れる。


戦後
戦災からの復興の過程、隣接する千駄ヶ谷地区には連れ込み宿が林立、原宿駅前にも同様の旅館が出現した。しかしながらそれらを一掃しようという運動が近隣住民やPTAを中心に行われ、その結果原宿駅を含む原宿地区は1957年(昭和32年)、文教地区の指定を受け、その結果風俗営業は姿を消した。
1952年(昭和27年)10月14日:鉄道開業80周年を記念して「皇室専用ホーム」の一般公開を実施。復元された北海道最初の蒸気機関車「義經」「しづか」が展示された。
1972年(昭和47年)10月20日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の明治神宮前駅が付近に開業。
1976年(昭和51年)7月:みどりの窓口営業開始(2017年1月31日営業終了)。


1987年(昭和62年)
4月1日:国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道の駅(山手線所属)となる。
7月1日:目白駅とともにホームの全面禁煙を試行[8](1994年9月まで)。なお、他の駅で喫煙コーナー設置による分煙が採用されたため、統一する形でいったん取りやめとなった後、2009年4月より再度全面禁煙化された。
1997年(平成9年):「関東の駅百選」に認定される。選定理由は「神宮の森とマッチしている西洋風の駅舎」。
2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2015年(平成27年):1・2番線ホームにホームドアを設置。
2016年(平成28年)6月8日:2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて千駄ヶ谷駅、信濃町駅とともに駅舎の建て替えを含む改良工事を発表。

松本駅 (JR東日本)・アルピコ交通

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松本駅(まつもとえき)は、長野県松本市深志一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・アルピコ交通の駅である。大糸線は当駅が起点で、駅番号「42」が付与されている。


長野県第二の都市・松本市の中心駅。周辺に多くの観光地があり、当駅はその拠点駅となっている。駅周辺には繁華街が広がり多くの企業、また高等学校、信州大学をはじめとする各種学校の最寄駅でもあり、利用者層は幅広く平日は朝夕を主として、休日は日中を含めて混雑が見られる。土休日には観光ツアーの団体客、旅行客等の利用で賑いをみせる。


JR東日本の篠ノ井線と大糸線、アルピコ交通の上高地線が乗り入れている。JRの駅としての所属線は篠ノ井線であり、大糸線と上高地線は当駅を起点としている。篠ノ井線の列車については、塩尻駅を介して中央本線(中央東線・中央西線)へ直通する列車も多数設定されている。そのためJR東日本では、旅客案内上は当駅以南も中央本線の一部として案内されている。
特急列車は、東京方面とを結ぶ「あずさ・スーパーあずさ」と、名古屋・長野方面とを結ぶ「しなの」の全列車が停車するほか、土休日に運転される「はまかいじ」が発着する。「あずさ・スーパーあずさ」については大糸線に直通する一部列車を除き当駅を始終着としている。
当駅以南、塩尻駅を経由し中央本線甲府、東京方面が東京近郊区間に入る。なお、当駅は中央本線、篠ノ井線系統では東京近郊区間の末端にあたる。

駅構造
当駅はJR東日本とアルピコ交通が構内を共用する共同使用駅で、JR東日本が駅を管轄している。標高は586.0メートル。
0番線から7番線(0・6・7番線は切欠きホーム)まで、各ホームに2線ずつ、計4面8線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。
改札口は1箇所で3階にある。その他3階に、JR東日本の設備として駅事務室・みどりの窓口(通常2 - 3窓口、営業時間:5:30 - 23:00)・びゅうプラザ松本(営業時間:平日10:00 - 18:00、土休日10:00 - 17:30)、VIEW ALTTE(ATM)がある。また、自動券売機(8機、うち2機は上高地線にも対応)、指定席券売機(みどりの窓口内 5機(内、クレジットカード専用1機)自由通路側 2機)、自動改札機(6通路、Suica対応)を設置している。松本市も設備を有しており、市民サービススペース(自動交付機コーナー)と観光案内所がある。アルピコ交通のフリー切符は販売しておらず松本バスターミナルまで行く必要がある。


直営駅(駅長配置)であり、管理駅として篠ノ井線の村井駅 - 冠着駅間の各駅および大糸線の北松本駅・島内駅・島高松駅を管理している。
駅舎の店舗は、駅ビル「MIDORI」と2階・3階で接続しているほか、3階にスターバックスコーヒー、NEWDAYS(土産屋を併設)がある。改札脇には精算窓口があり、運賃精算のほか、車急式急行券(急行列車運転時のみ)、車急式自由席特急券、おはようライナー乗車整理券が購入できる。
改札の外には、お城口(東口)・アルプス口(西口)それぞれにエスカレーターとエレベーターが設置され、車椅子利用者単独での利用が可能である。


改札の中の通路及びホーム上にNEWDAYS、各種売店がある。駅そばは0・1番線と6・7番線にあるが、前者は更級で後者は黒い冷凍麺。改札の中には、すべてのホームにエレベーターが、6・7番線を除く各ホームにエスカレーターが設置されている。特急列車が発着するホームの長野方には喫煙ルームが設置されている。
2007年5月1日に松本市制施行100周年を迎えるにあたって、駅舎・駅前広場の改良工事が行われた。お城口に三代目駅舎の表札が掲示されており、これは当時南安曇郡豊科町(現安曇野市豊科)在住の俳句宗匠・篆刻家の曽山環翠による揮毫木彫である。

のりば
番線 路線(直通路線) 行先
0 ■中央東線 塩尻・上諏訪・甲府・新宿方面
■中央西線 塩尻・木曽福島・名古屋方面
1・5 ■中央東線 塩尻・上諏訪・甲府・新宿方面
■中央西線 塩尻・木曽福島・名古屋方面
■篠ノ井線 篠ノ井・長野方面


2・3 ■中央東線 塩尻・上諏訪・甲府・新宿方面
■篠ノ井線 篠ノ井・長野方面
■大糸線 穂高・信濃大町・白馬・南小谷方面


4 ■中央東線 塩尻・上諏訪・甲府・新宿方面
■篠ノ井線 篠ノ井・長野方面


6 ■大糸線 穂高・信濃大町・白馬・南小谷方面
7 ■上高地線 新村・波田・新島々方面


発着番線はスマートフォンアプリ「JR東日本アプリ」から閲覧可能な駅構内図に基づく。
名古屋方面特急「しなの」は、全列車1番線に到着する。(大糸線に直通する臨時列車は除く)
1番線からも長野方面行きや塩尻方面行きの列車が発車する。大糸線と塩尻方面を直通する列車は、線路配置の関係から1番線には進入できず、2 - 5番線から発車する。


発車メロディはかつて長野駅でも使用されていたチャイムが3回流れるものであった。現在は五感工房製のメロディーが使用されているが、音程が少し高い、当駅のみのバージョンとなっている。なお、7番線は当初からベルを使用している。


2016年12月現在松本電鉄上高地線はアルピコ交通上高地線と社名を変えてから約5年が経っているが松本駅の乗り換え放送では松本電鉄上高地線と名称を変更せず案内している。


駅弁

主な駅弁。
とりめし
小さな信濃路
山賊焼
安曇野ちらし
安曇野釜めし
山里おつまみ弁当
山菜釜めし
とり釜めし
地鶏めし
月見五味めし - 松本駅を代表する駅弁
アルプス道づれおむすび弁当
信州和風牛肉弁当
櫓膳
信州あずみ野物語
アルプスの四季
大糸線の旅
信州ジビエ祭弁当


駅周辺
お城口(東口)
国道143号
長野県道23号松本停車場線
こまくさ道路
しらかば大通り
公園通り
松屋松本駅前店
マクドナルド松本駅前店
アリオ松本(松本バスターミナル)
井上百貨店
丸善松本店
信州予備学校
松本大学予備校本校校舎、駅前校舎
ホテル東横INN松本駅前本町
ホテルブエナビスタ
PARCO松本店
伊勢町Mウィング
松本市時計博物館
浄林寺
松本市役所


アルプス口(西口)
松本協立病院
JR東日本松本運輸区
JR 東日本松本車両センター
アルピコ交通上高地線西松本駅(歩いて5~6分)

NHKの連続テレビ小説「おひさま」第103回で、1947年(昭和22年)頭の設定で、松本駅が炎上し、市内の主人公宅のそば屋が、足止めを余儀なくされた人たちに対して炊き出しをする場面があった。上がる炎が見えるのみで、駅自体は登場しなかった。

歴史
1902年(明治35年)6月15日 - 国鉄篠ノ井線 当駅 - 西条駅間の開通と同時に開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1915年(大正4年)4月5日 - 信濃鉄道(現在の大糸線)(現在のしなの鉄道とは無関係)南松本駅(現在の篠ノ井線の南松本駅とは別)が開業。のちに松本駅に統合。
1921年(大正10年)10月2日 - 筑摩鉄道島々線(後の松本電気鉄道→現在のアルピコ交通上高地線)が開業。
1937年(昭和12年)6月1日 - 信濃鉄道が国有化。
1942年(昭和17年)4月 - 駅舎改築。
1947年(昭和22年)2月4日 - 夕方に駅舎内から出火し、木造2階建300坪が全焼。出火原因は漏電が疑われている。田沢駅、南松本駅で折り返し運転を行った。
1948年(昭和23年)4月 - 駅舎改築。
1964年(昭和39年)4月1日 - 松本電気鉄道浅間線廃止。後に駅前広場を改良。
1965年(昭和40年)10月1日 - みどりの窓口設置。
1968年(昭和43年)6月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1978年(昭和53年)7月 - 駅舎改築。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅はJR東日本の駅となる。
2006年(平成18年)5月20日 - 東西自由通路一部供用開始(改札口供用開始、西口バリアフリー化、みどりの窓口移転)、自動改札機稼動開始。
2006年5月19日以前は、東口は3階に改札口、みどりの窓口等がある橋上駅舎、西口は6・7番線ホームに直接接続する地上駅舎であった。びゅうプラザは東口を出て右側に設けられていた。
旧自由通路は駅コンコースとは独立しており、西口からは旧西口改札口横の階段を、東口からは駅ビル内を通り抜けるか、駅お城口北側、駅ビル北側入り口付近の自由通路を利用する必要があった。
2007年(平成19年)1月頃 - 6番線・松電線ホーム連絡通路の工事開始。
4月26日 - 自由通路全面供用開始(これに伴い元東口を閉鎖)。
6月- 西口整備竣工。
9月1日 - 駅舎改築完成。
2010年(平成22年)- 駅ビル前のオアシス風の広場を解体し、銅像もどこかへ移設、広場が整備される。将来的にはバス乗場や駐車場などが整備変更になる。
2011年(平成23年)4月1日 - 松本電気鉄道が「アルピコ交通」に社名変更。それに伴い松本電鉄上高地線がアルピコ交通上高地線となる。
2012年(平成24年) - 駅前広場整備事業が完成。
6月16日 - 篠ノ井線開業110周年記念イベントが開催される。
2014年(平成26年)4月1日 - 東京近郊区間に編入され、 Suica利用可能駅になる。
2016年(平成28年)6月1日 - 明科駅の業務委託化に伴い、明科駅 - 冠着駅間が当駅管理となる。
2017年(平成29年)4月1日 -Suicaに関わるすべてのサービスを開始。

所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
アルピコ交通
電報略号 モト
駅構造 地上駅(橋上駅)


ホーム 4面8線
乗車人員
-統計年度- (JR東日本)-2015年-
16,303人/日(降車客含まず)
(アルピコ交通)-2015年-
1,915人/日(降車客含まず)
開業年月日 1902年(明治35年)6月15日


乗入路線 4 路線
所属路線 ■篠ノ井線(JR東日本)
(■■中央本線直通含む)
キロ程 13.3km(塩尻起点)
◄南松本 (2.4km)(8.3km) 田沢*►
所属路線 ■大糸線(JR東日本)
駅番号 □42
キロ程 0.0km(松本起点)
(0.7km) 北松本 41►
所属路線 ■アルピコ交通上高地線
キロ程 0.0km(松本起点)
(0.5km) 西松本►


備考 共同使用駅(JR東日本の管轄駅)
直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
標高:586.0m
* この間に平瀬信号場有り(当駅から4.2km先)。

多目的小型ビジネス飛行機MU-2(三菱重工業)

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MU-2は、日本の三菱重工業が製造した多目的小型ビジネス飛行機で、双発のプロペラ機。1963年(昭和38年)初飛行。

日本初のビジネス飛行機
三菱から多数の技術者が出向し、日本航空機製造でYS-11の開発が行われていた1960年(昭和35年)ごろから企画が始まった。三菱はF-86FやS-55のライセンス生産を通じて戦前の自信を取り戻しつつあり、次期主力戦闘機の調査団として参加した三菱の池田研爾課長は、アメリカで多数の小型ビジネス機を目撃し、「この程度なら三菱でもできるのでは」と考えて、帰国すると早速、若手技術者らに自分の見たものを説明し、独自に計画を進めた。
コンセプトとしては、軍民両用の小型ターボプロッププロペラ機で、市場は北米の社用・自家用のビジネス向けとした。また、日本の現状を考えて、技術的にも経営的にも背伸びしないもの、欧米その他、海外に輸出可能なものとして設計を進めた。
なるべく欧米の真似ではなく、三菱らしさを前面に出すため、基礎技術など以外はほとんど独自に設計を行った。参考として役立ったのが、三菱が保管してきた戦前および戦中の軍用機図面で、若手技術者は陸軍の「キ83」試作遠距離双発戦闘機を参考にしたほか、アメリカの航空雑誌の断片記事のコピーで勉強したという。
当時の小型飛行機は、戦前のレシプロエンジンをそのままターボプロップに載せ変えているだけという場合が多く、全く最初から設計した三菱は、それだけで注目を集め、有利だと考えられた。
1963年(昭和38年)9月14日に試作1号機(JA8620)が初飛行したが、いろいろと不具合が見つかり、また、量産方式に不慣れな点があったことから、ライセンス生産していたF-86Fの方式を参考にした。1965年(昭和40年)2月19日にMU-2Aが運輸省(現国土交通省)航空局の型式証明を取得し、9月には米国向けにギャレットエンジンに変更したMU-2Bも取得、11月にアメリカの連邦航空局(FAA)の型式証明も取得でき、翌1966年(昭和41年)に発売を開始した。
型式証明に先立って、1964年(昭和39年)に西ドイツ・ハノーファーでの航空ショーに出品、「ゼロ戦を作った三菱のビジネス機」として注目を集め、翌1965年(昭和40年)からは欧米各地へデモフライトを行い、前宣伝を行ってきた。日本国内では陸上自衛隊と航空自衛隊が作戦機として、そして毎日新聞社が社機として採用を決定、これも相当な宣伝になった。
なお、1966年(昭和41年)には、日本での公演の為に来日していた当時のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンが三菱重工小牧工場を訪れ、MU-2のコックピットに座ったという出来事もあった。カラヤンのMU-2に対しての感想は上々であったという。


アメリカでの販売
また、三菱は北米に販売網を持たないため、販売とアフターサービスを小型機業界4位のムーニー社(Mooney International Corporation)に委託して、三菱は機体を半完成状態で輸出し、ムーニーの工場でアメリカ製の装備品調達と最終組み立てを行うことになった。
万全の体制で販売に臨んだはずであったが、ムーニーが販売開始間もなく、MU-2には関係ないところで経理上の問題を起こして急速に経営難に陥り、倒産寸前となってしまった。三菱は余波を避けるために1967年(昭和42年)、ムーニーのあるテキサス州サンアンジェロ市に、三菱重工が8、三菱商事が2の割合で出資した現地法人三菱アメリカ・インダストリー(MAI)を設立したものの、設立直後にムーニーがMU-2の事業から撤退したため、サンアンジェロ工場を購入し業務を全て引き受けた。販売には航空機セールスマンクラブで人材を探し、全てアメリカ人に営業をさせることで、未知の民間機業界に乗り込んだ。同時に機体のファミリー化を図り、長胴型や出力増強型を販売し、顧客のニーズに応えられるようになった。
アメリカには国内で飛ばす航空機は、その50パーセント以上を米国製の部品で作られていなければならないという法律(バイアメリカン法)があり、そのためにムーニーに委託して部品を調達してもらっていたが、三菱が自らやらねばならなくなった。しかし部品企業は、民間航空機事業を初めて行う三菱を信用せず、なかなか調達できなかったり、できても異常に値を吊り上げられてしまう有様だった。そこで、三菱はそれまでの日本人ではなく、アメリカ人営業マンに買い付けに行かせると、それだけで部品価格が下がったという。
三菱が販売を開始した1967年(昭和42年)、ようやく5機を受注して以降、安定性の高い飛行機として評判が広がり、年産40機から50機にまで成長した。ところが、ベトナム戦争によって米政府は財政赤字に陥り、1971年(昭和46年)、米政府はドル防衛策として円の固定相場制を変動為替に移行すると発表した。いわゆるニクソン・ショック、ドル・ショックであった。円は急速に値上がりし、輸出するだけで高い利益を得ていた日本経済は大打撃をこうむった。MU-2も、アメリカに輸出という形をとっていたため、採算割れを起こしてしまい赤字が増大(航空機は初期投資が膨大なため、多少の売上では黒字にならない)、コストダウンを迫られた。それでも1972年(昭和47年)は月産6機、1973年(昭和48年)には月産8機を維持し、赤字ながら販売は好調だった。この様子は、米国に挑戦する日本企業として注目を浴び、CBSは特別番組を制作するほどだった。
生産中止
だが、1973年(昭和48年)秋に起きた中東戦争は、世界的なオイルショックをもたらし、原材料や人件費が暴騰して、急激なインフレーションが起こった。燃料費の高騰によってエアラインは軒並み経営不振となり、また、販売を委託していた北米の各社も経営不振に陥って、MU-2の受注が急減した。そこで、委託販売を止めて再びMAIが直接販売を開始したが、売れ行きは伸び悩んだ。
1987年(昭和62年)、新型機ビジネスジェット機であるMU-300に販売を集中するため、MU-2の生産を終了した。総生産数は762機、世界27カ国で販売され、世界の小型ビジネス機の中でもベストセラーであった。三菱はその後もMU-2のプロダクトサポートを担当していたが、一度MU-300と共にビーチクラフトに移管された。
1998年(平成10年)に再度三菱に移管され、名古屋航空宇宙システム製作所から業務の拠点とするダラスへ社員2名が派遣され、現地社員と共にサポートを行った。2002年(平成14年)と2005年(平成17年)には米国航空雑誌として著名な『アビエーション・インターナショナル・ニュース』誌で、自家用機プロダクトサポートのターボプロップ部門において第1位の評価を得た。


機体
外見は高翼・双発エンジンの常識的なものであるが、小型軽量な機体の割に室内容積は大きく、市場では特に500km/hを越える高速巡航性能、航続力、悪天候下でも良好な操縦・安定性等が好評であった。エンジン、内装、燃料タンクなどに改良を加えながら短胴型6種と長胴型4種(自衛隊向けを除く)が生産され、海外向け商品名は、短胴型がSolitaire、長胴型がMarquiseとされていた。
構造や技術には独自のものを取り入れた。最大の特徴である主翼後縁全長に渡るダブル・スロッテッド・フラップは、同級機に比べて5割程度翼面荷重を大きくし、強力な短距離離着陸(STOL)特性・速度性能・高い運動性を保っている。このフラップによって、通常の補助翼は使用できず、横方向の操縦にはスポイラーを使用する。主翼を小型化したことで、尾翼も小さくなり、機体の軽量化によって、高性能低価格の飛行機を実現した。
エンジンは、このクラスとしては世界に先がけてターボプロップエンジンを採用、試作・試験機であるMU-2Aは仏・チュルボメカ社のアスタズII K(715馬力)を搭載していたが、主たる輸出先であるアメリカ合衆国向けの量産機は、米国製ギャレット・エアリサーチ TPE331とした。このため、A型は試作2機・量産1機の3機で生産中止となっている。
降着装置は地上での視界に優れる前脚式で、全てがドアを持った引き込み式である。
MU-2が持つ高速性と機動性は、殊に北米において評価が高く、この機体を形容する言葉として"Hot rod"(ホットロッド)が用いられるほどである。低空でも高速飛行できる特性から、近年では小口輸送用の高速輸送機として貨物機に改造される機体も増えている。


バリエーション
MU-2A
最初の生産型。仏チュルボメカ「アスタズ-II」Kエンジン(562馬力)を搭載。
MU-2B
アメリカ合衆国向けにエンジンをギャレット・エアリサーチ TPE331-25A(705馬力)に変更。
MU-2C
防衛庁向け。Bの陸上自衛隊仕様。制式名称LR-1。
MU-2D
防衛庁向けにBを出力増強したもの。三菱社内呼称。
MU-2E
防衛庁向け。Dの航空自衛隊仕様。
MU-2F
Dを出力増強・長胴(ストレッチ)化したもの。
MU-2G
Fの長胴タイプ。胴体下部に脚バルジを設けて車輪を格納した。乗員2名・乗客4-12名。
MU-2J
Fを出力増強したもの。
MU-2K
Jの長胴タイプ。
MU-2L
Jを出力増強したもの。
MU-2M
Lの長胴タイプ。
MU-2N
Lを出力増強したもの。最終生産型。
MU-2P
Nの長胴タイプ。


スペック
定員 - 7-9(用途別)
全長 - 長胴12.03m、短胴10.13m
全幅 - 11.95m
全高 - 長胴4.17m、短胴3.9m
自重 - 3,200kg (種別により多岐)
最大離陸重量 - 5250kg (種別により多岐)
エンジン - ギャレット・エアリサーチ TPE331-10-501M×2
最大速度 - 571km/h=M0.47
航続距離 - 2780km
各自衛隊での運用
MU-2販売当時の日本ではビジネス機の市場が小さかったため、民間ではそれほどの売上にはつながらず、専ら自衛隊への納入となった。
航空自衛隊
MU-2S
航空自衛隊では、三菱がMU-2Dを自衛隊仕様にしたMU-2Eを、1967年(昭和42年)にMU-2S救難捜索機(遭難機の乗員を捜索する任務)として採用し、1987年(昭和62年)までに29機を導入、全国の救難隊に1-2機ずつを配備した。機体は与圧キャビンの廃止、航法・通信装備の強化、救命具・マーカーのラック設置、投下用スライドドアの増設、77ガロン入り燃料タンクの増設、胴体両側面には水滴型の大型観測窓を設置するなど、多岐の改造点があるが、外見の特徴は機首に搭載されたドップラー・レーダーで、レドームにより通常より50cmほど長くなっている。
老朽化のため、1995年(平成7年)からU-125Aに順次交代し、2008年(平成20)10月22日に退役した。
機体概要
全長10.7m
全幅11.9m
全高3.9m
自重3.6t
運用重量2,900kg
最大離陸重量4,600kg
エンジン TPE331-25AB ターボプロップ2基搭載(605PS×2)
プロペラ ハーツェルHC-B3TN-5
直径2.29m/3枚羽根
燃料容量 375gal(機内298gal+増加タンク77gal)
最大速度460km/h=M0.38
航続距離1750km
海面上昇率1,400ft/分
乗員4名
機体概要
全幅11.94m
全長12.03m
全高4.17m
主翼面積16.55m2
運用重量2,915kg
最大離陸重量4,700kg
エアリサーチTPE-331-1-151Aターボプロップ×2
プロペラ ハーツェルT10178HB-11
直径2.29m/3枚羽根
燃料容量 366gal
巡航速度525km/h=M0.43
実用上昇限度27,000ft
海面上昇率1,400ft/分
飛行航続距離2,500km
乗員2名、乗客10名
陸上自衛隊
陸上自衛隊ではMU-2Cを連絡偵察機(駐屯地の連絡輸送と偵察を行う任務)LR-1として採用した。1号機は1967年(昭和42年)5月11日に初飛行、1969年(昭和44年)から量産2号機以降が引き渡され、1984年(昭和59年)までに20機を導入した。機体は空自のMU-2Sと同様にキャビン与圧を廃止し、(ただし、後期に製造された機体は与圧キャビンを持つ)乗員2席・乗客5席とした。偵察時は JKA-30A カメラ2基と12.7mm重機関銃M2を2挺装備できる。
沖縄県の第101飛行隊に配備されていたLR-1では、通常の迷彩塗装ではなく、オリーブドラブを基調とした白とオレンジ色に塗られた沖縄仕様となっていた。
LR-1の老朽化に伴い2000年(平成12年)から後継機のLR-2としてレイセオン製ビーチ 350 キングエアの導入が進められ、2016年(平成28年)2月15日の19号機の最終フライトをもってLR-1は用途廃止となった。
機体概要
全長12.0m
全幅10.1m
全高3.9m
TPE331-6A-251M ターボプロップ2基を搭載(715PS×2)
最大離陸重量4750kg
最大速度539km/h=M0.44
巡航速度440km/h=M0.36
航続距離2000km

ティルトローター試作機案
アメリカ陸軍では、1971年(昭和46年)にティルトローター機の開発検討を開始し、翌1972年(昭和47年)春にV/STOL・テイルトローター計画をNASAと共同で発表した。これに対して4社が仕様書を提出し、その中でベルエアクラフト案の「モデル300」とボーイング・バートル案の「モデル222」が選定された。この「モデル222」は、研究開発費を低減させる為に、「MU-2Jの胴体・尾部・降着装置を利用する」と明記していた。1973年(昭和48年)4月にはベル案が採用されることが決定し、MU-2Jの利用は無くなったが、XV-15と名づけられた「モデル300」の胴体形状はMU-2に類似しており、XV-15はMU-2を利用していると言う俗説も生まれた。ベルの説明書などには、MU-2について一切書かれていない。
登場作品
映画
『MU-2』(1965年)
三菱重工業の制作したPR映画。「日本で戦後初めて設計開発された多用途小型航空機」としてのMU-2を、「独自の優れた性能のビジネス・プレーン」としてパイロットの目を通して描いた。日本産業映画大賞、通商産業大臣賞、第19回広告電通賞、日本短編映像秀作百選。
『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年)
千葉真一扮するパイロットの主人公が、台湾へ運ぶ航空機として登場する。
『首都消失(映画)』(1987年)
東宝制作の劇場映画。陸上自衛隊のLR-1が登場。突如出現した「雲」を確認するべく出動した偵察機として2機が飛行、1機が「雲」に突入し爆発する。撮影にはプロペラが回転し、警戒灯が点滅する精巧なプロップモデルが使用されている。
『空へ-救いの翼 RESCUE WINGS-』(2008年)
角川映画製作の劇場映画。航空自衛隊のMU-2Sが登場。
漫画
『神の獣』巴啓祐(モーニングKCデラックス)
オーガ攻撃のため富津岬観音崎間に敷設した機雷原の効果監視任務で登場。オーガの発する磁力に引き寄せられ爆発した。
『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』
漫画版にて、陸上自衛隊のLR-1が、特地に持ち込んだ自衛隊の装備の1つとして登場。特地の駐屯地周辺の上空を、警戒飛行する。

 

用途:ビジネス飛行機
分類:多用途機
製造者:三菱重工業
初飛行:1963年9月14日
生産数:762機
退役:2008年(空自) 2016年(陸自)
運用状況:現役

小網町停留場(広島電鉄本線)

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小網町停留場(こあみちょうていりゅうじょう、小網町電停)は、広島市中区堺町二丁目にある広島電鉄本線の路面電車停留場。道が狭いため観音町停留場から小網町停留場までは、時速30kmで走行する。市内線で唯一安全地帯が設置されず、路面に直接乗場が描かれています。


本線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷かれた併用軌道で、当停留場も道路上に乗り場が置かれている。ただし当停留場付近は道幅が狭く、軌道の両脇とも1車線分しか幅がないために安全地帯となるホームが設けられず、道路上に白線を引いて乗り場としている。このようなホームのない平面停留場は広島電鉄では唯一である。車内放送でも平面停留場である旨が伝えられ、また注意が呼びかけられている。

乗り場は上下2面あり、東西方向に伸びる2本の線路を挟み込むように向かい合わせに配置されている(相対式)。路面には「電車乗場」の表示がされています。

線路の北側に広島駅方面へ向かう上りの乗り場が、南側に広電西広島駅方面へ向かう下りの乗り場がある。上りの乗り場側には掲示物の適切な掲示場所がないため、下りの乗り場側にある電柱に上下両方面の時刻表や、電停名標、路線図を掲示している。

運行系統
本線には広島電鉄が運行するすべての系統が乗り入れているが、このうち当停留場には2号線、3号線、それに0号線が乗り入れる。
上り乗り場 0号線 日赤病院前ゆき・広電前ゆき
2号線 広島駅ゆき
3号線 宇品二丁目ゆき 朝時間帯は広島港ゆき
下り乗り場 2号線 広電宮島口ゆき
2号線3号線 広電西広島ゆき

周辺
停留場のすぐ西には天満川が流れ、本線は広電天満橋にて渡河する。この橋は広島電鉄で唯一現存する電車専用橋である。南方には平和大通りが通じている。手前側が進入禁止となっているために車の通行は少ない。


小網町停留場は1912年(大正元年)12月、本線が紙屋町から己斐までの区間を開通させたのと同日に開設された。太平洋戦争下の1944年(昭和19年)からは休止されたが、原爆投下後の路線復旧に合わせて、1945年(昭和20年)8月15日に営業を再開している。
隣の土橋停留場とは200メートルほどと近く、後述の通り停留場の構造が簡素であることから、一時は廃止が検討されたことがあった。

1912年(大正元年)12月8日 - 本線が己斐まで開通した際に開業。
1944年(昭和19年)6月10日 - 休止。
1945年(昭和20年)
8月15日 - 本線の西天満町 - 小網町間が被爆から復旧、己斐から小網町まで運転を再開。
8月19日 - 本線の小網町 - 土橋間が復旧。

駅番号 ●M14
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■本線
キロ程 3.6km(広島駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1912年(大正元年)12月8日


ちびまる子ちゃんのラッピングトレイン( 1000形)静岡鉄道

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静岡鉄道×ちびまる子ちゃんランドのコラボラッピングトレイン
ちびまる子ちゃんのイラストに彩られた車両が、
まる子ちゃんの生まれた街を駆け抜けます!


【1011号編成】 

車体のラッピングはもちろん「ちびまる子ちゃん」仕様、車内アナウンスの一部は「まる子」がアナウンス。車両内のつり革も特別仕様になっています。

1000形
100形や300系などの在来車の置き換え用に製造された車両である。東急車輛製造にて2両編成12本(合計24両)が製造された。編成はクモハ1000形(Mc・静岡側)-クハ1500形(Tc・清水側)となっている。2017年4月現在で10編成が在籍しており、300系の車体をモチーフにした編成や、ちびまる子ちゃんラッピングを施した編成もあるなど、バラエティに富んでいる。


全長18mのオールステンレス車両。走行機器類は300系を基本にし、主電動機は定格出力100kWの直流直巻電動機、抵抗制御で中空軸平行カルダン駆動方式を採用している。
1973年に1次車が登場し、その後鉄道友の会静岡支部より「79年 おれんじ賞」を授与されている。
A3000形への置き換えに伴い、2024年までに全編成が引退する予定。2016年3月24日のA3000形第1編成の営業運転開始に先立ち、クモハ1004 - クハ1504編成が同年3月11日に営業運転を終了した。2017年5月現在1004編成と1002編成が引退している。

『ちびまる子ちゃん』(ちびまるこちゃん)は、さくらももこによる日本の漫画・同作品を原作とするテレビアニメである。また本作の主人公のニックネームでもある

静岡清水線(しずおかしみずせん)は、静岡県静岡市葵区の新静岡駅と、同市清水区の新清水駅を結ぶ静岡鉄道の鉄道路線。

路線距離(営業キロ):11.0km
軌間:1067mm
駅数:15駅(起終点駅含む)
複線区間:全線複線
電化区間:全線(直流600V)
閉塞方式:自動閉塞式
保安装置:i-ATS・ATS-SN(速度照査機能付)


運行形態
全列車2両編成ワンマン運転となっている。平日は朝ラッシュ時間帯に最大1時間あたり15本、土曜休日の終日と平日の昼間は6-7分間隔の高頻度運転を行っており、昼間の普通列車は新静岡 - 新清水間を21分で結んでいる。その運行形態や路線の特性から、欧米ではLRTとして紹介されることもある。ワンマン運転は終日行われている。新静岡 - 新清水間の全線通し運転が基本であるが、平日ダイヤにおいて朝に急行と接続する新静岡 - 県総合運動場間の区間列車や、長沼駅の北側に隣接して車庫(静岡鉄道では鉄道運転所と称する)があるため、朝夕ラッシュ時の前後には出入庫運用として、柚木発新静岡行き、新静岡発柚木行き、新清水発長沼行き、長沼発新清水行きの区間列車が数本設定されている。
急行
2011年10月1日のダイヤ改正で、15年ぶりに急行運転が復活し、平日朝に新清水行きが運行されている。停車駅は、新静岡・県総合運動場・草薙・御門台・狐ヶ崎・桜橋・新清水。いずれも乗降客が多い駅という[2]。その反面、利用客の少ない県立美術館前駅と入江岡駅は区間運転の普通列車が運行しない区間の駅であるにもかかわらず急行は通過となり、朝ラッシュ時は実質減便となった。なお、急行列車が先行する普通列車を追い抜くことはないが、県総合動場駅で新静岡発県総合運動場行の区間列車から接続している。

かつて設定されていた急行は、日中も運転され、運動場前駅(現・県総合運動場駅)で先発の普通列車を追い抜く運転も行われていた[3]が、1985年からは各駅の乗車機会向上のため各駅に停車する普通が増発され、急行運転は平日の朝夕のみとなった。その後急行は1996年4月1日のダイヤ改正で廃止され、2011年10月1日の改正で復活するまでの間、定期列車はすべて普通列車のみで運行されていた。
通勤急行
2011年10月1日のダイヤ改正で新設され、平日朝に新静岡行きが運行されている。停車駅は新清水・桜橋・狐ケ崎・御門台・草薙・古庄・日吉町・新静岡。早朝の2本のみ、県総合運動場駅で普通列車を追い抜く。
臨時急行
臨時急行は、2011年12月10日 - 2012年1月9日の土日祝日(12月31日を除く)に「セノバ号」として運行されたのが初めてであり、この時は新静岡と古庄 - 新清水の各駅に(新静岡行きは日吉町駅にも)停車した。次いで2012年の4月7日・8日の両日に、「静岡まつり」の観客輸送対応列車(列車愛称なし)として運転され、この時は下り列車(新清水行き)は通常運転されている急行の停車駅に、上り列車(新静岡行き)は、同じく通勤急行の停車駅に停車した。
普通

新静岡 - 新清水間の全線で運行される列車のほか、入出庫運用として新静岡 - 柚木間、 長沼 - 新清水間の区間列車がそれぞれ運行されている。また、平日朝には新静岡 - 県総合運動場間の区間運転が行われ、葵区・駿河区側に所在する急行・通勤急行通過駅利用者への配慮がなされている。

狐ヶ崎駅 静岡鉄道静岡清水線

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狐ヶ崎駅(きつねがさきえき)は、静岡県静岡市清水区上原にある静岡鉄道静岡清水線の駅。駅番号はS12。駅周辺は住宅地です。

駅構造
駅舎は橋上駅舎です。駅舎の高い天井が開放感を演出しています。
島式ホーム(複線)
ホームは1面2線の島式ホーム(昔は対向式ホーム)で、橋上駅である。出口は1つ、エレベータが2基ある。


新清水方に非常用の上下渡り線が設置されている。これはの狐ヶ崎ヤングランドへの乗客輸送のため、かつて同駅発着の臨時列車が設定されていたことの名残である。

かつては単式ホーム1面、島式ホーム1面の2面3線構造のホームで、単式ホームは多客混雑時に運行された当駅折り返しの臨時列車用の臨時ホームであった。その後遊園地が閉園し、臨時ホームと線路が撤去され駐輪場となったが現在も運行障害時に折り返しが出来るように渡り線は残されており、2011年10月1日のダイヤ改正で使用が開始された幕には「新静岡 - 狐ヶ崎」の行き先が新たに追加された。切符売場には券売機が三台設置、改札口には改札機が三台、設置されています。また、改札横の待合スペースには長椅子が1脚設置されています。


のりば
1 ■静岡清水線(下り) 新清水方面


2 ■静岡清水線(上り) 新静岡方面


狭いホームには上屋があり防護柵が設置されています。

利用状況
「静岡市統計書」によれば、2014年度の一日平均乗車人員は2,495人、降車人員は2,327人であった。この乗降人員数は静岡清水線全15駅中4番目である。


駅周辺
狐ヶ崎は鎌倉幕府創設に貢献した梶原景時とその一族が鎌倉からの追手に殲滅された地である(葵区の谷津山南側の曲金地区という説もある)。鎌倉御家人の吉香友兼が景時の三男景茂を討ち取った備中青江為次の太刀は、名刀「狐ヶ崎」と呼ばれる。友兼は翌日に戦傷死したが、子孫の安芸国人吉川氏、さらにその家系を簒奪した毛利分家旧岩国藩主吉川氏のもとで、伝来の家宝として拵えともども管理され、岩国市の吉川史料館で保存されている。刀身、拵えとも国宝に指定である。刀身は、いかにも平安末から鎌倉前期らしい、ふんばりの付いた見事な元反りの刀姿と、古青江らしい澄んだ直刃と地肌が特徴で、美術的価値を高く評価されている。拵えは、源平期から鎌倉初期の武士の刀装のありかたを示す貴重な歴史的史料である。
狐ヶ崎ヤングランド(現:イオン清水店。店内にボウリング場「ヤングランドボウル」がある)
上原堤
静鉄自動車学校

歴史
1908年に上原駅(うわはらえき)として開業。1927年、狐ヶ崎ヤングランドの前身である狐ヶ崎遊園地が開園した際に遊園前駅(ゆうえんまええき)に改称された。このときに静岡鉄道が狐ヶ崎遊園地のCMソングとして北原白秋に作詞を依頼をし、民謡研究家の町田佳声の作曲でできあがった新民謡「ちゃっきり節」の発表が、狐ヶ崎遊園地で行われた。遊園地は1967年に一旦閉園。翌1968年に狐ヶ崎ヤングランドとして再開したのにあわせて駅名も狐ヶ崎ヤングランド前駅(きつねがさき―)に改称した。駅名はその後1980年代後半頃に狐ヶ崎駅に改称され、1993年に狐ヶ崎ヤングランドも閉園となった。

かつては遊園地へ向かう行楽客のために同駅を発着する臨時列車も設定されていたが、後に廃止となっている。そのために駅舎側にもう一面対向式ホームが存在していたが、廃止と共にレールが撤去され、現在は同駅駐輪場の土台として残存している。なお新清水側に同駅の臨時ホーム発新清水方面行きの列車が使用していた渡り線が今なお残されている。 狐ヶ崎ヤングランドの跡地はジャスコ清水店(現:イオン清水店)となったが、同店3階に作られたボウリング場は、現在も「狐ヶ崎ヤングランドボウル」の名称で営業している。
1999年、全面改築し、バリアフリー化された。また、中部の駅百選にも選ばれた。
1908年12月9日 上原駅として開業。
1927年頃 遊園前駅に改称。
1944年頃 狐ヶ崎駅に改称。
1968年頃 狐ヶ崎ヤングランド前駅に改称。
1985年以降 狐ヶ崎駅に改称。
1996年(平成8年)3月31日以前のダイヤにおいても急行停車駅であった。


駅番号 S12
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 8.3km(新静岡起点)
駅構造 地上駅
ホーム 島式 1面2線
乗車人員
-統計年度- 2,495人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日

 

 

御門台駅 静岡鉄道静岡清水線

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御門台駅(みかどだいえき)は静岡市清水区七ツ新屋一丁目にある静岡鉄道静岡清水線の駅。急行停車駅。駅周辺には大型施設などはなく住宅地が広がっている。利用者が多い駅です。駅番号はS11。

駅構造
島式ホーム(複線)
島式1面2線のホームに挟まれた地上駅です。駅舎はホームと一体型になっており、踏切の東側中央部から出入りする。歩道は設置されていない。構造上、上り列車が接近すると、通過が終了するまで踏切が塞がれる。


便所は駅スペースの都合上、駅とは離れた場所に設置されている。改札を右側に出て踏切と公道を通り、西側新静岡寄りの線路脇、駐輪場を兼ねた静岡鉄道の社有地にある。

仮設風の水洗式便所(男女共用)がある。かなり窮屈なスペースの切符売場に券売機が2台。同じく狭いスペースの改札口に改札機が2台設置されています。


のりば
1 ■静岡清水線(下り) 桜橋・新清水方面


2 ■静岡清水線(上り) 草薙・新静岡方面
ホームは狭いが上屋があり長椅子も設置されています。

利用状況
「静岡市統計書」によれば、2014年度の一日平均乗車人員は1,358人、降車人員は1,422人であった。この乗降人員数は静岡清水線全15駅中9番目である。

駅周辺
清水御門台郵便局
静岡市清水有度公民館
静岡市立清水有度第一小学校
しずてつストア御門台店

歴史

1908年(明治41年)12月9日 有度学校前駅として開業。
1961年(昭和36年)3月1日 現駅名に改称。
1996年(平成8年)3月31日以前のダイヤにおいても急行停車駅であった。

駅番号 S11
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 7.4km(新静岡起点)
駅構造 地上駅
ホーム 島式 1面2線
乗車人員
-統計年度- 1,358人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日

草薙駅(静岡鉄道)静岡清水線

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草薙駅(くさなぎえき)は、静岡市清水区草薙一丁目にある草薙駅の駅。駅番号はS10。

東海道本線の草薙駅へは徒歩3分ほど。静岡清水線各駅でJR駅に最も至近な駅で中間駅では最大、線内でも有数な利用者が多い駅です。

駅構造
3段の屋根がお洒落な鉄骨造の駅舎です。
相対ホーム(複線)
相対式ホーム2面2線を有する。


上りホーム踏切脇にある男女別の水洗式便所は改札内からのみ利用できるが、駅係員に申し出る(早朝・夜間はインターホンを使用し、その指示に従う)ことで改札外からも利用可能(駅頭の自動券売機上部にピクトグラム掲示あり)。切符売場に定期券売り場と切符券売機が3台併設。改札口には改札機3台と出場専用機が1台設置されています。

のりば
1 ■静岡清水線(下り) 桜橋・新清水方面


2 ■静岡清水線(上り) 長沼・新静岡方面


構内踏切で結ばれています。
上屋のあるホームは広く多数の自動販売機が設置されています。

利用状況
東海道本線草薙駅との乗換駅であり、利用者が多い。
「静岡県統計年鑑」及び「静岡市統計書」によると2015年度の1日平均乗降人員は7,082人(乗車人員:3,575人、降車人員:3,507人)である。この乗降人員数は静岡清水線全15駅中2番目である。


駅周辺
草薙駅 - 東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線 ※当駅開業の17年後に開業。
静岡銀行本部
静岡サレジオ高等学校・中学校・小学校
南幹線
静岡県立大学
「考える犬」
魚新
草薙神社


歴史
1908年12月9日 開業。
1996年(平成8年)3月31日以前のダイヤにおいても急行停車駅であった。

駅番号 S10
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 6.4km(新静岡起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線


乗車人員
-統計年度- 3,575人/日(降車客含まず)
-2015年-
乗降人員
-統計年度- 7,082人/日
-2015年-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日
乗換 草薙駅 - 東海旅客鉄道徒歩3分

JR九州 MR786軌道モータカー(松山重車輌工業)

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軌道モータカー:

主に鉄道の保守作業に使用される小型の自走する動力付きの鉄道車両の一種である。日本では法規上は車籍のない作業用の「機械」扱いで「鉄道車両」ではない。アメリカでは、人を運ぶ小型のモーターカーをSpeeder(スピーダー)と呼ぶ。

鉄道省の使用開始は1919年ごろでアメリカブダ社製8馬力で甲府保線事務所で使用した。国産車は1924年で車体をタカタモーターカー企業社、加藤製作所、東京瓦斯電気工業、泉自動車製作所、黒板工業所等で製作、ハーレーダビッドソンのガソリン機関を使用した。1930-1931年には純国産化された。加藤製作所では伝達装置はフリクションドライブ、動力は焼玉エンジンの使用例がある。鉄道連隊も所有していた。

用途
資材運搬、人員輸送、保守、点検に用いられ、資材を積んだ小型貨車を牽引する場合もある。近年では編成化された小型貨車の先頭の遠隔操縦用の運転台からの操作でプッシュプル運転が可能な車両も存在する。車体は警戒色として黄色系統に塗装されている場合が多いが、東海旅客鉄道(JR東海)の濃淡ブルーや、近畿日本鉄道の薄緑色など、近年では黄色以外の塗装も多くなっている。走行用の動力(原動機)は、古くはガソリンエンジンが主流であったが、現在ではディーゼルエンジンが主流で、空気圧縮機や、作業用にPTO経由で油圧ポンプを駆動するものもある。車両によっては車体中央に自車昇降用油圧式ジャッキを持ち、自車をジャッキアップした後に車体を手動もしくは自動で旋回させてその場で方向転換させることが可能である。

取扱い
日本では法規上の「鉄道車両」ではなく、線路上を自走する保線用機械の一種という扱いである。そのため、運転者の動力車操縦者免許は不要であり、保線係員等の免許不保持者などでも操縦が可能なため、作業にあたり同資格の取得や専門運転者の別途手配の必要がない。ただし、機械扱いであるため、最高速度は45km/hに制限されている上、本線上を走行させる場合は線路閉鎖を前提とする。また、軌道回路に影響を与えないよう車輪は電気的に絶縁構造となっており、軌道回路を用いた列車検知装置や自動踏切等には反応しない(但し、排雪用の機種などで作業の必要上、軌道回路に反応するようにしているものもある。後述)。このため走行に当たっては、線路閉鎖の手続きのみならず、在線状況の確認や分岐器の進路転換の際運転指令所や信号扱所との慎重な打合せを要し、踏切も手動で作動させる等、特別な取扱いが必要である。
貨車移動機と混同されることがあるが、モーターカーは保線作業用動力車であり、貨車移動機は貨車の入換用動力車である。また、貨車移動機は信号等に反応するよう車輪は絶縁車輪ではなく通常の車輪を使用している。共通の基本設計に基づいて製作されたモーターカーと入れ替え用小型機関車も存在するが、仕様は明確に区別されている。
主なメーカーは北陸重機工業や松山重車輌工業、日本除雪機製作所などである。
分類
かつては作業用、貨物型、兼用、大型などの分類があり多様なモーターカーが使用されていたが、近年は除雪用と大型以外のモーターカーは軌陸車やカートへ置き換られ減少している。

松山重車輌工業株式会社
名称 軌道モータカー
型式 MR786
車体寸法 全長 7,900 mm
全幅 2,637 mm
全高 3,658 mm
重量 18,000 kg
エンジン定格出力 183.9kW/2,000min-1
排出ガス対策 第二次基準適合
搭載装置 脱線復旧アウトリガー
13kVA発電機
シンクロブレーキ
保守用車ATS
ドライブレコーダー

松山重車輌工業株式会社
事業の種類 鉄道用軌道車輌・保線機器の製作・改造・修理、各種産業用車輌・機器の製作・改造・修理
資本金 90,000千円
従業員 70名
面積 本社工場 総敷地:16,497m3
敷地建物 事務所:704m3
工場:4,195m3
合計:4,899m3
営業品目 ・鉄道線路保守用作業機械器具製造販売
・各種プラント製造販売

 

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