Image may be NSFW. Clik here to view. オリジナルのだしを使用した定番メニューとは別に、かつて実際に岡山県・宇野と香川県・高松をつなぐ宇高連絡船のデッキで販売していたうどんだしがを再現した「連絡船うどん(きつね、鳴門わかめ、月見)」の3メニューを加える。店はJR高松駅構内、ホームだけでなく、外からも入れます。
Image may be NSFW. Clik here to view. 讃岐うどん 香川県においてうどんは地元で特に好まれている料理であり、一人あたりの消費量も日本全国の都道府県別統計においても第1位である。料理等に地域名を冠してブランド化する地域ブランドの1つとしても、観光客の増加、うどん生産量の増加、知名度注目度の上昇などの効果をもたらし、地域ブランド成功例の筆頭に挙げられる。日経リサーチの隔年調査では地域ブランドの総合力において350品目中1位となり(2008年、2010年連続)、観光客は行き先選択の理由、香川の魅力の第一にうどんを挙げ、2011年には香川県庁と香川県観光協会はうどんを全面的に推しだした観光キャンペーン「うどん県」をスタートさせた。 古くから良質の小麦、塩、醤油、そして地元ではイリコと呼ばれている煮干しなどが、讃岐国(現香川県域の旧国名)の特産品であり、それらうどんの材料の入手が容易であった。元禄時代の一枚の屏風絵にも複数のうどん屋を認めることができる。時代が下り、現在の地域ブランド名称として広く知られるようになったのは、うどんを名物とし始めた1960年代頃と考えられている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 香川県のうどん店や家庭で作られるうどんを指すとともに、日本全国各地の飲食店でもうどん料理が当名称で供されていたり、冷凍食品など店頭で手軽に入手可能など、香川県外の地域でも容易に食せる料理として広まっている。代表的なうどんの一種として有名になったことや、2006年から開始された地域団体商標制度への登録は「地名+商品名」でも、一般的に使用されている名称で全国各地で作られている物は難しいという見解を特許庁は示しており、該当する商品(後述)において「本場」「特産」などと表示する場合のみ、公正競争の観点から規制を設けた程度にとどまっている。本場でしか味わえない点と、どこでも容易に触れ得る点の両面から、「本場の味を試したい」という欲求を呼び起こすことに成功している一方で、日本国外でのブランド防衛では後手に回った事例も見られる。 小麦粉の切り麺であるうどんは香川にしかないものではなく、古来全国にあるが、讃岐は特にうどんのトップブランドとして広く認知されており、各地のうどんを紹介する際に「第二の讃岐うどん」といった表現が用いられたり、特にゆかりはなくとも「讃岐」「讃岐風」を謳われたりしている。 香川県民の生活の中で、うどんは特別な位置を占めている。香川県におけるうどん生産量の推移(ゆで麺・生麺・乾麺の合計、香川県農業生産流通課調べ)は、1980年代は1万トン台中盤から2万トン台中盤、1990年代は3万トン強から4万トン台後半、2000年代前半は5万トン弱から6万トン台中盤であった。2009年の生産量は59 643トン(小麦粉使用量)、全国1位であり、2位の埼玉県の2倍以上となっている。1980年にはわずか5%でしかなかった日本国内シェアは、以後四半世紀で四半分に迫るほどの伸びを見せた。 香川県民を対象とした調査によると、うどんを「週に1回以上食べる」人の割合は90.5%、「まったく食べない」人は9.5%であり、「週1回」が最も多く50.8%であった。 うどんは観光客向けの名物というよりは、老若男女問わず県民の生活に密着した食物・食習慣となっている。うどん店は県全域に分布し、たとえば観光用に店鋪の特定集中区域はない。彼らは県外に出てもうどんへのこだわりを隠さず、里帰りにうどんを食し帰郷を実感するほどである。 うどんにまつわる地域行事も存在する。半夏生(7月2日頃)にうどんを食べるという慣わしがあり、この習慣に基づきさぬきうどん協同組合が毎年7月2日を「さぬきうどんの日」と制定しているほか、大晦日には年越し蕎麦ではなくうどんを食べる県民が一定の割合で存在しており(ただし2010年の四国学院大学の学生による調査では「年越し蕎麦派」が「うどん派」を上回っている)、玉売のうどん店や製麺所は多忙を極める。また新たな行事やイベントのプロモーション活動にも余念なく、2009年からは「年明けうどん」をプロデュースするなどしている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 潮吹とは、打ち寄せる波が絶壁下海面近くの、わずか縦1m、幅20cmの穴に突入し、奥の空洞に圧縮された空気が海水を激しく外に出そうとして、上方に海水を噴出させる噴潮現象のことです。
Image may be NSFW. Clik here to view. 北よりの風が吹き(冬が最良時)海がしけると潮が上がり、海水を最大30mも吹き上げ、遠くから眺めれば、まるで龍が天に向かって昇るありさまに似て、飛び散るしぶきは太陽を反射して銀の砂をまくような光景が見られます。 この奇観は、龍神のなせるわざとして、広く里人の間に信仰を集め、とりわけ干ばつの際には近郷より雨乞いに集まる人が多かったと言われています。
Image may be NSFW. Clik here to view. 所在地 〒759-4712 山口県長門市油谷津黄 アクセス ・JR長門古市駅からタクシーで約20分 ※長門古市駅から運賃の目安 片道約2200円前後(交通状況によりますのであくまで目安です) ・JR長門市駅からタクシーで約40分 ・中国自動車道美祢IC下車、国道316・191号・県道66号経由約65分
Image may be NSFW. Clik here to view. 鉄道以外では大隅半島や離島航路発着港湾とのバス路線や鹿児島空港行きのリムジンバスの発着地であり、鹿児島市のみならず鹿児島県全域とのアクセスの拠点である。 旧称の西鹿児島駅(にしかごしまえき。通称「西駅」)時代から寝台特急、特急などの優等列車をはじめほとんどの列車が当駅を起終点として発着する運行上の拠点であり、古くから鹿児島市の中心駅としての役割を果たしている。 駅敷地内にはアミュプラザ鹿児島やえきマチ1丁目などに大小250を超える店舗が密集しており、駅周辺の店舗と併せて鹿児島中央駅地区と呼ばれる商業エリアを形成し、鹿児島市の一大商業地区のひとつである。 2004年3月の九州新幹線の当駅乗入開始以後、当駅は日本最南端の新幹線停車駅である。
Image may be NSFW. Clik here to view. 乗り入れ路線 鹿児島中央駅 九州新幹線および在来線の鹿児島本線、指宿枕崎線の3路線が乗り入れており、このうち九州新幹線は当駅を終点、指宿枕崎線は当駅を起点としている。在来線における所属線[2]は鹿児島本線である。 鹿児島本線と日豊本線の正式な終点は隣の鹿児島駅であるが、鹿児島本線の列車は大半が当駅で折り返すため鹿児島駅まで乗り入れる列車は少なく、逆に日豊本線の列車は全て当駅まで乗り入れているため、当駅は鹿児島本線と日豊本線の事実上の終点として機能している。鹿児島本線広木駅以遠と日豊本線を直通する列車と、鹿児島駅発着の指宿枕崎線の列車は、当駅で列車番号を変えている。このような運行形態のため、当駅 - 鹿児島駅間を運行する列車は、鹿児島駅発着の列車を除いて、列車番号は慣例とは逆に下りが偶数、上りが奇数となっている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 優等列車については、九州新幹線の「みずほ」「さくら」が山陽新幹線新大阪駅まで直通運転を行っており、始発終着駅となっている。また、山陽新幹線に直通する「みずほ」「さくら」は上り1本(熊本駅始発)を除き全て当駅発着である。在来線では日豊本線の特急「きりしま」、日豊本線・肥薩線直通の観光特急「はやとの風」、指宿枕崎線の観光特急「指宿のたまて箱」が乗り入れている。在来線に乗り入れている全ての優等列車が当駅発着で運行され、当駅を跨いで運転する優等列車は存在しない。
Image may be NSFW. Clik here to view. 国鉄分割民営化以降、優等列車が当駅を跨いで運転されたのは、1992年(平成4年)の夏期における国分駅始発の上り臨時「つばめ」の1例のみである。 当駅では在来線のみ23時52分に全方向に向けて最終列車(鹿児島本線:川内行き、日豊本線:国分行き、指宿枕崎線:五位野行き)が発車する。
Image may be NSFW. Clik here to view. 駅構造 JR九州 ホームは、在来線がほぼ南北方向に敷設された島式ホーム3面6線を有する地上駅、新幹線はその直上に直角の線形で敷設された島式ホーム2面4線を有する高架駅(3階)である。後者は海に向かって行き止まりとなっている。新幹線ホームは8両編成にまで対応し、可動式安全柵が設置されている。なお、10両分までは延伸が可能である。 駅東側の出口を桜島口(東口)、駅西側の出口を西口という。 駅本屋は在来線ホームと新幹線ホームの中間にあたる2階部分にあり、桜島口と西口はコンコースで結ばれている。改札外のコンコースにはみどりの窓口、JR九州旅行、キヨスク、ドラッグイレブン、総合観光案内所などがある。1階・2階部分の商業施設の集まりは「えきマチ1丁目鹿児島」と称され、土産物品店や飲食店、小売店などをはじめ、様々な商業施設が入居している。
Image may be NSFW. Clik here to view. 関連施設として、桜島口側は「アミュプラザ鹿児島プレミアム館」、正面から見て右側(北側)に駅ビル「アミュプラザ鹿児島本館」、左側(南側)に立体駐車場、西口側は正面から見て左側(北側)にJR九州ホテル鹿児島、右側(南側)に立体駐車場が建ち、それぞれ駅構内からの連絡通路が設置されている。 改札口は、新幹線・在来線・新幹線⇔在来線乗換の各改札が1箇所に集中配置され、各改札口とも自動改札機が設置されている。在来線ではJR九州のICカード「SUGOCA」の利用が可能である。SUGOCAは新幹線では利用できない(川内駅 - 当駅間含む)。新幹線⇔在来線の乗り継ぎでSUGOCAを利用する場合は、一旦改札を出て再度入場し直す必要がある。
Image may be NSFW. Clik here to view. 新幹線改札内には待合スペース、無線LANスポット、喫煙室の他、キヨスク、土産物店、飲食店などの商業施設が入居している。 在来線改札内には新幹線乗車券・自由席特急券券売機、ICカードチャージ機が設置されている他、みどりの窓口も設置されており、在来線から新幹線への乗り継ぎ客が多い週末などの多客期に営業する。 新幹線・在来線共に自動放送が導入されている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 九州新幹線が乗り入れる前にあった旧 1番乗り場は、鹿児島本線・日豊本線・指宿枕崎線すべての列車が発着可能であったほか、指宿枕崎線専用の0番乗り場(現 1番乗り場)があった。前者の跡地については2012年現在、隣接する駐車場の通路として使用されているが、ホームが設置されていた頃の面影がある。 3 - 6番乗り場の各ホームにはICカード専用自由席特急券売機が、1 - 6番乗り場の各ホームにはICカードチャージ機が設置されている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 九州新幹線の全線開業以降、在来線の最終列車は全線同時発車である。(鹿児島本線・川内行き、日豊本線・国分行き、指宿枕崎線・五位野行きの3本で23時52分。) 乗り場 路線 行先 備考 1 ■指宿枕崎線 谷山・喜入・指宿方面 2 - 4 ■日豊本線 鹿児島・隼人・吉松・宮崎方面 肥薩線直通列車を含む ■鹿児島本線 伊集院・串木野・川内方面 ■指宿枕崎線 谷山・喜入・指宿方面
Image may be NSFW. Clik here to view. 5・6 ■日豊本線 鹿児島・隼人・吉松・宮崎方面 肥薩線直通列車を含む ■鹿児島本線 伊集院・串木野・川内方面 11 - 14 ■ 九州新幹線 博多・新大阪方面
Image may be NSFW. Clik here to view. 鹿児島中央駅に隣接する中央町19・20番街区にある「中央駅一番街」を再開発し、7階までは商業施設など・上階にマンションを含めた24階建ての再開発ビルを2020年までに完成させる。アミュプラザ鹿児島プレミアム館と当ビルを経由し南国センタービルまでつながるペデストリアンデッキも同時に設置予定。 桜島口広場には昭和57年(1982年)に建立された、彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生17名の像『若き薩摩の群像』も建っている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 桜島口 駅関連施設 アミュプラザ鹿児島本館 アミュプラザ鹿児島プレミアム館 えきマチ1丁目鹿児島 アミュ広場(パブリックスペース) 鹿児島中央ターミナルビル(愛称:Reise(ライゼ)) 2012年(平成24年)4月23日開業[39]。1階に南国高速バスセンター併設。 公共施設など サンエールかごしま - 生涯学習・男女共同参画推進を目的とした複合施設。 鹿児島市立病院 鹿児島県医師会館 鹿児島中央警察署 文教施設 鹿児島女子短期大学 鹿児島県立鹿児島中央高等学校 鹿児島県立甲南高等学校 鹿児島高等予備校(河合塾提携) 北九州予備校鹿児島校 山川義塾予備校 企業・金融機関など 日本銀行鹿児島支店 鹿児島中央郵便局 南日本放送会館 南国センタービル
Image may be NSFW. Clik here to view. 損害保険ジャパン日本興亜鹿児島支社・鹿児島中央支社 アエールプラザ・アエールタワー 石原荘(日本料理) イオン鹿児島中央店(旧・ダイエー鹿児島中央店←ダイエー西鹿児島駅前店店) ベスト電器鹿児島本店(閉店) → エディオン鹿児島本店 日本ガス本店 宿泊施設 鹿児島東急イン ホテルタイセイアネックス 鹿児島パークホテル ホテルガストフ かごしま第一ホテル 東横イン鹿児島中央駅東口 ビジネスホテル すずや ソラリア西鉄ホテル鹿児島(Reise(ライゼ)7F - 14F)
Image may be NSFW. Clik here to view. 西口 駅関連施設 JR九州鹿児島支社 鹿児島鉄道警察隊 公共施設 鹿児島労働基準監督署 文教施設 鹿児島高等学校 鹿児島県立鶴丸高等学校 樟南高等学校 企業など ビックカメラ鹿児島中央駅店 タイセイ交通 日能研九州鹿児島本部 宿泊施設 ホテルアービック鹿児島 ホテルクレスティア鹿児島 JR九州ホテル鹿児島 東横イン鹿児島中央駅西口 グッドイン鹿児島 ホテルユニオン ホテルシティー
Image may be NSFW. Clik here to view. 西鹿児島駅 1927年(昭和2年)に川内本線(八代-鹿児島間、1924年に宮之城線が開通したのに伴い川内線から川内本線に改称)が全線開通し、川内本線は鹿児島本線に編入され、同時に武駅は西鹿児島駅(にしかごしまえき)に改称。 翌年に駅名の改称に伴い鹿児島市電の武駅前停留所は西鹿児島駅前停留所に改称された。1930年(昭和5年)12月7日には指宿線(現在の指宿枕崎線)として西鹿児島駅から五位野駅までの区間が開通し、西鹿児島駅は分岐駅となった。 第二次世界大戦中の鹿児島大空襲では駅本屋等が焼失する等の被害を受け、戦災復興事業により1950年(昭和25年)4月に駅舎が完成するまで仮設駅舎が使用され、完成した2代目駅舎は民間の資金による民衆駅として建設されたものであった。
Image may be NSFW. Clik here to view. 1901年(明治34年)に鹿児島まで鉄道が開通して以降、優等列車の発着駅は鹿児島駅であったが、戦後の復興計画により鹿児島駅は貨物の集散駅、西鹿児島駅は旅客の発着駅としての位置付けにより事業が行われ、西鹿児島駅の駅前広場の拡張が行われた。これにより1971年(昭和46年)から優等列車は鹿児島駅から西鹿児島駅発着に変更され、鹿児島市の中心駅としての機能が移転した。 1996年(平成8年)に現在の駅舎(3代目駅舎)に建て替えられた。
Image may be NSFW. Clik here to view. 鹿児島中央駅 2003年度中に新八代駅と西鹿児島駅間の九州新幹線(鹿児島ルート)が開通することが決定し、それに伴い西鹿児島駅駅名選定委員会が2002年8月に新駅名を公募した結果以下のようになった。 順位 候補駅名 票数 備考 1 鹿児島中央駅 735 採用 2 新鹿児島駅 535 3 鹿児島駅 338 4 西鹿児島駅 68 現状維持 上記の駅名の他にも、さつま駅、薩摩駅、鹿児島セントラル駅、桜島駅、さつま鹿児島駅、新かごしま駅といった案もあった。
Image may be NSFW. Clik here to view. 改名する案の他に、西鹿児島駅のまま現状維持とする案もあったが、公募の結果1位であった「鹿児島中央駅」が第2回西鹿児島駅駅名選定委員会で新駅名として採用され、新幹線開通と共に鹿児島中央駅に改称することとなった。 2004年(平成16年)3月13日に九州新幹線が新八代駅-鹿児島中央間が開通し、同時に西鹿児島駅から鹿児島中央駅に改称、同時に鹿児島市電の西鹿児島駅前停留所が鹿児島中央駅前停留所に改称した。また、駅名の改称にかかった経費6,600万円については西鹿児島駅駅名改称推進協議会より、JR九州に提供された。
Image may be NSFW. Clik here to view. また、同年の9月17日にはJR九州の商業施設としてはJR博多シティに次ぐ規模となる複合商業駅ビルであるアミュプラザ鹿児島が駅敷地内に開業した。鹿児島中央駅に駅ビルを建設する計画については昭和40年代ごろには浮上しており、1984年には鹿児島市と当時の日本国有鉄道の協議会が再開発構想を発表し、国鉄分割民営化後の1990年(平成2年)にはJR九州と地元の百貨店山形屋が共同出店構想を打ち出して「ジェイアール九州山形屋」が核テナントとなることまで決定していたが、経済情勢等の理由で白紙撤回され実現されず、JR九州が独自に出店を行うこととなったという経緯がある。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2010年2月には翌年の九州新幹線全線開業を見据え、駅コンコースなどを拡張、併せてフレスタ鹿児島をリニューアルした。2012年5月には、桜島口大階段を撤去し、跡地を含む約2,000平方メートルの土地に地上7階建て、延べ床面積8,700平方メートルのアミュプラザ鹿児島の別館(アミュプラザ鹿児島プレミアム館)を建設する計画が発表された。建設地となる桜島口大階段の撤去工事が2013年(平成25年)6月10日より開始し、2013年10月には撤去が完了して建物本体の工事に着手した。大階段は、1996年6月に完成した3代目駅舎とともに建設されたもので、幅36メートル、奥行き20メートル、高さ最大7メートルあったが、アミュ広場が併設されたことで利用が減少していた。2014年9月26日にアミュプラザ鹿児島プレミアム館が開業した。主なテナントとして東急ハンズなどが入店している。
Image may be NSFW. Clik here to view. 沿革 1913年(大正2年)10月11日 - 川内線武駅として国有鉄道(当時・鉄道院)により開設される。 1915年(大正4年)12月17日 - 鹿児島電気軌道(現・鹿児島市交通局)の武駅前停留場開設。 1927年(昭和2年)10月17日 - 八代駅 - 川内駅 - 鹿児島駅間の川内本線(通称:海岸線)が全通し鹿児島本線に編入され(八代 - 川内間はのちに肥薩おれんじ鉄道に移管)西鹿児島駅に駅名改称。 1928年(昭和3年)8月7日 - 武駅の改称に合わせ鹿児島市電武駅前停留場を西鹿児島駅前停留場に改称。
Image may be NSFW. Clik here to view. 1930年(昭和5年)12月7日 - 指宿線(現・指宿枕崎線)の西鹿児島駅 - 五位野駅間が開業。 1945年(昭和20年)6月17日 - 鹿児島大空襲被災により駅本屋構内他焼失。 1950年(昭和25年)10月1日 - 鹿児島市電唐湊線として西鹿児島駅前 - 中洲通間が開業 1971年(昭和46年) - 優等列車の発着駅が鹿児島駅から当駅に変更され、中心駅としての機能が移転する。 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道(JR九州)が継承。 1996年(平成8年)6月19日 - 現3代目駅舎完成。9月下旬より旧駅舎解体開始。 2002年(平成14年)12月7日 - JRの駅に自動改札機設置。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2004年(平成16年)1月11日 - 鹿児島市電西鹿児島駅前停留場を駅前広場内に移設。 3月13日 - 九州新幹線鹿児島ルート新八代駅 - 当駅間開業。同時に西鹿児島駅を鹿児島中央駅に、西鹿児島駅前停留場を鹿児島中央駅前停留場にそれぞれ改称。 9月17日 - 駅ビル「アミュプラザ鹿児島」が開業。 2009年(平成21年)1月31日 - 駅構内増床工事のため、西口サンフレスタ営業終了(翌日より該当部分通行不可)。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2010年(平成22年) 2月 - 駅舎が赤色の塗装から黒色の塗装にリニューアルされる(駅名の文字色は銀から金へ変更)。 2月18日 駅構内「フレスタ鹿児島」が増床し再オープン。 2011年(平成23年)3月12日 九州新幹線の全線開業に伴い、「みずほ」「さくら」の新大阪直通運転開始。在来線の最終列車が全線同時発車となる(23時54分)。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2012年(平成24年)12月1日 在来線のみでICカードSUGOCAの使用が開始される。 2013年(平成25年)6月10日 - 大階段の撤去工事開始。 2014年(平成26年) 9月26日 駅ビル「アミュプラザ鹿児島プレミアム館」が開業。 10月14日 駅構内「フレスタ鹿児島」が「えきマチ1丁目鹿児島」へ名称変更。
Image may be NSFW. Clik here to view. 所属事業者 九州旅客鉄道(JR九州) 電報略号 カオ ニマ(西鹿児島駅時代) 駅構造 高架駅(新幹線) 地上駅(橋上駅)(在来線) ホーム 2面4線(新幹線) 3面6線(在来線)
Image may be NSFW. Clik here to view. 乗車人員 -統計年度- 20,153人/日(降車客含まず) -2015年- 乗降人員 -統計年度- 39,978人/日 -2015年- 開業年月日 1913年(大正2年)10月11日 乗入路線 4 路線 所属路線 ■ 九州新幹線(鹿児島ルート) キロ程 288.9km(博多起点) 新大阪から911.2km 東京から1463.8km ◄川内 (46.1km)
S-62の開発に当たっては、シコルスキー S-55のダイナミック・コンポーネントを可能な限り再使用している。また、その機体設計はシコルスキー S-61の縮小版といえるもので、機体の底面が舟型に整形されていることから、水上での離着陸能力を有する。また、エンジンもS-61と同じ1,250 hp (930 kW) ゼネラル・エレクトリックT58-GE-8だが、機体が小型であることから単発配置となった。この強力なエンジンにより、S-62は原型機であるとともにこの時期に広く使われていたS-55よりも高速で、載荷性能も優れている。
Image may be NSFW. Clik here to view. この特性に注目して、アメリカ沿岸警備隊はS-62Cを購入し、当初はHU2S-1G シーガード(Seaguard)として運用していたが、1962年にHH-52A シーガードとして制式化した。HH-52Aは99機が生産され、長く運用されたが、1985年より後継のHH-65 ドルフィンが運用を開始するとともに退役していった。なお、うち1機はアイスランドに輸出された。 また、日本では航空自衛隊と海上自衛隊が救難ヘリコプターとして採用し(航空自衛隊は1963年-1983年まで9機、海上自衛隊は1965年-1986年まで9機)、運用していた。これにともなって、三菱重工業で1961年-1970年まで25機(うち民間7機)をノックダウン生産した。この民間向け生産分のうちの1機であった朝日ヘリコプター当時所属機は、その上昇性能をいかして富士山レーダー建設時にレドーム骨格輸送作業を行い、後にNHKの『プロジェクトX』でも取り上げられた。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2 牧志・県庁前・小禄・那覇空港方面
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駅設備 コインロッカー - 改札内に設置。 中型6個 小型25個
Image may be NSFW. Clik here to view. 公衆電話 - 改札外に1台設置。 自動販売機(飲料) - 改札外に2台(内1台は車椅子対応)、改札内に2台、各ホームに1台設置。 トイレ - 改札内に設置。 売店 - 改札外(改札口横)にコーヒーショップ「35コーヒー」がある。
Image may be NSFW. Clik here to view. おもろまち交通広場 バス乗り場をはじめ、タクシー乗り場、自転車置き場などモノレールへの乗り継ぎを促進するために設置されている。また、路線バスだけでなく観光車両も待機できるスペースがある。 モノレール開通時には交通広場は整備中であった。これは、モノレールの開通が2003年(平成15年)12月から同年8月に早まったためである。その後、同年12月に当初の予定通り整備が完了し、本格供用が開始された。 駅に近い部分はバス乗り場が大部分を占めるが、本島中部地区へ向かう路線の本数は少ない。モノレール開通前は那覇バスターミナル発着だった路線をおもろまち駅前広場発着に振り分けて成立した路線がほとんどである経緯から、ダイヤ編成は時間帯によってまばらで、夕方時間帯の発着は特に少ない。利用客はさほど多くない。 バス停名は「おもろまち交通広場」ではなく「おもろまち駅前広場」である。
Image may be NSFW. Clik here to view. 駅到着時の車内チャイムは、沖縄民謡「だんじゅかりゆし」を編曲したものが流れる。 那覇市役所建て替えに伴う仮庁舎時代は、自動放送に市役所の案内が追加されていた。 駅前広場には、「天野株」と命名されたトックリキワタが植えられている。これは、琉球政府の農業技術者であった天野鉄夫がボリビアのオキナワ移住地を訪問した際に種子を持ち帰り、自宅で発芽に成功し、日本で初めて栽培に成功したものである。 当駅は沖縄都市モノレールの駅で唯一、中国語(簡体字・繁体字)での公式表記が存在せず、案内では英語表記の「Omoromachi」がそのまま用いられている。
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歴史 2003年(平成15年)8月10日 - 開業。
Image may be NSFW. Clik here to view. 駅番号 11 所属事業者 沖縄都市モノレール 所属路線 ■沖縄都市モノレール線 キロ程 8.95km(那覇空港起点) 駅構造 高架駅 ホーム 2面2線 乗車人員 -統計年度- 5,199人/日(降車客含まず) -2015年- 開業年月日 2003年(平成15年)8月10日
Image may be NSFW. Clik here to view. 江波線の軌道は道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが置かれている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように向かい合って配置された相対式ホームである。線路の東に江波方面へ向かう下りホームが、西に土橋方面へ向かう上りホームがある。
スペック(バロン58) 全長:9.09 m 全幅:11.53 m 全高:2.67 m 翼面積:18.51 m2 空虚重量:1,619 kg 最大離陸重量:2,495 kg エンジン:テレダイン・コンチネンタル IO-520-C 水平6気筒ピストンエンジン(285hp) × 2 最大速度:386 km/h(海面高度) 巡航速度:376 km/h(高度5,000 ft) 実用上昇限度:6,300 m 航続距離:2,917 km ペイロード:乗客最大5名 乗員:1名
Image may be NSFW. Clik here to view. その後1938年6月竣工の101号機以降はこの仕様で新製され、この姿が広くD51のイメージとして流布することとなった。 なお、このグループでは一部に台枠が圧延鋼板をくりぬいた棒台枠ではなく、D51 354 - 359・403 - 405など、鋳鋼製台枠を採用したものが存在する他、1943年度製造分以降では、除煙板やナンバープレート、テンダーの石炭庫側板を木材で代用し、また煙室前部上方と煙室扉上部の丸みを省略するなど、金属資源節約と各部工程の簡略化が順次推し進められ、準戦時形と呼ぶべき仕様に移行した。戦後はこれらも徐々に標準形と同等の仕様となるように改修が行われている。
Image may be NSFW. Clik here to view. しかし、本来の使用目的である重量貨物列車牽引においては、出力の増大と入線範囲拡大を目的とした動軸重の減少、それに車体長短縮などの設計上の無理に起因する不適切な動軸重配分によって、上り勾配での牽き出し時に生じる重心移動で空転しやすい傾向があり、勾配線では基本となったD50形の方が有利な局面が多々存在した。また、車体長短縮のために生じた前後方向の重心位置のアンバランスを運転台の小型化で是正しようとするなど、乗務員の作業環境を無視した設計となっていたため、運転台が広くしかも乗り心地に優れるD50形を運用していた各区からは酷評を受けた。中でも初期型(ナメクジ型)の評価が特に低く、事例として1・2号機をはじめとする初期型の新製配置先だった敦賀機関区や松本機関区、それに木曽福島機関区などの各機関区は一旦は初期型を受け入れたものの、ほぼ例外なく2年前後、最短では約10か月で他区へ転出させ、その後は他に選択肢が存在しない状況になるまで初期型を受け入れない対応を行っていた。標準形が浜松工場で急遽試作され、重心位置を修正し、空転問題を多少なりとも改善した背景には、これら勾配線担当各区の受け取り拒否に等しい厳しい対応が影響している。 さらに前記の各区は標準形についても否定的で、一例として上諏訪機関区では1941年にD51形が3両新製配置されたが、その年のうちに全数を他区へ転属させてD50形に戻している。これに対して平坦線を担当する各区は稲沢機関区を筆頭に否定的な反応を示しておらず、高速走行時の脱線対策が採られていたこともあって比較的スムーズに導入が進んだ。 戦時中には輸送力増強のためボイラー増圧に伴う空転対策が必要となったことから、平坦線各区に配置された車両を含め、本形式は初期形を中心にコンクリート製の死重をフロントデッキに搭載するなどの対策が講じられている。 1941年から生産されたC59形は、当初の計画では本形式とボイラ-を共通設計として量産効果や保守の容易化といったメリットが出る予定だったが、本形式において前後方向の重心問題が解決しなかったことで共通設計を断念し、対策として本形式のものを基本としつつ煙管長を500mm延長して重心を前方にシフトさせた専用ボイラーを別途設計することを強いられている。しかも、それでさえ従軸の軸重が過大で列車牽き出し時に車輪の割損事故を引き起こすなど、ボイラー火室付近の重量が過大であることを示すトラブルが頻発しており、この点からも、本形式のボイラーは機関車の重心設計という点で決して好ましいデザインではなかったことが見て取れる。 国鉄形蒸気機関車の中でも特にその末期まで残存した両数の多さと、知名度の高さにより、「名機」[要出典]、「代表機」[12]、「代名詞」[12]などと表現されることもある本形式であるが、実際には前述のように基本設計レベルで深刻な問題を抱えており、その広範な運用と知名度は、戦時体制に伴う貨物機大量需要から来た膨大な量産の結果に過ぎなかった。
Image may be NSFW. Clik here to view. 夕張線(現・石勝線)・室蘭本線の貨物列車牽引では、夕張方面の炭鉱から室蘭港へ向かう2,400tの運炭列車をD50形とともに単機で牽引する運用をしていたことがあった。1953年(昭和28年)時点では本形式で函館本線小樽築港 - 滝川間と室蘭本線岩見沢 - 追分間で牽引定数が換算185両 (=1,850t)、追分 - 室蘭間で換算260両 (=2,600t) を設定。1952年(昭和27年)2月に追分 - 室蘭間で3,000tの牽き出し試験をしたところ、成績は良好だったものの単線区間の線路有効長の関係で実施に至らなかった。ここは従輪を持たず牽き出し性能で有利な9600形が2,000t牽引を行っていた区間であるが、夕張方面の炭坑から追分駅を経て苫小牧駅付近までの片勾配のゆるい下り坂区間においては、いかに長大とはいえセキの積車状態の編成であれば走行抵抗が小さく、D51形の単機でも牽き出しさえすれば、後は室蘭港まで引っ張っていけた。なお、牽き出しは非常にゆっくりしたもので、一両ずつ連結器がぶつかる音をたてながら行われた。この列車の尋常ではない長さは、空車のときにはゆるい上り勾配であることとあわせ、多く連なるセキが空気を巻き込んで抵抗が増え、速度が上らなかったほどである。大戦中は10‰勾配区間でD51形に8620形を補機としてつけることとして1,200t列車の計画が立てられたが、機関車の所要数の増加を招くことから中止となった。 旅客列車の牽引では、函館本線の急行の牽引が特筆される。これは函館 - 長万部を単機で、長万部 - 小樽の通称「山線」を重連で牽引するも、高速運転で各部の損耗の速さによる検修の負担と、振動の激しさと連続力行で助士2人乗務で投炭することによる乗務員の負担過大からC62形への転換が行われ、1971年にはDD51形ディーゼル機関車に置き換えられた。山線区間の仕業は機関車、乗務員共に限界に挑むものであり、牽引機が更新されるたび、運転時分も短縮していった。 電化やディーゼル化の影響による余剰廃車が本格的に出始めたのは1967年頃からのことで、蒸気機関車の最後の時期まで多くのD51形が残っていた。特に1960年代から1970年代にかけて石北本線、東北本線、奥羽本線、伯備線などの急勾配区間において重連や3重連などで活躍する姿は当時の「SLブーム」の波に乗り、鉄道ファンや写真家、マスコミ関係者などの間で大変な人気を集めた。
Image may be NSFW. Clik here to view. また、羽越本線をはじめとする日本の原風景が残っていた線区を走る雄姿を撮影する鉄道ファンの姿も多かった。 しかし、製造両数が多いこともあって、当然蒸気機関車の中でも残存両数が多く、他の機関車よりも多く見ることができたため、鉄道撮影を主とするファンの中には他の少数派形式が来ることを期待していて、D51形が来ると「またD51か」とため息を漏らす者や、D51形牽引列車の場合はシャッターを切らない者も少なからず居たという。 最後に残ったのは北海道の追分機関区に所属していた5機で、C57 135牽引(現:鉄道博物館所蔵)の国鉄最終蒸機牽引旅客列車運転から10日後の1975年12月24日まで使用され、この日は241号機が担当した。これが国鉄における蒸気機関車牽引の最終貨物列車(夕張線6788列車)並びに国鉄最後の蒸機本線走行となった。 これらの国鉄蒸気機関車の最後を飾った追分区所属のD51形は、地元、追分町(現・安平町)(241号機)や東京都台東区上野の国立科学博物館(国鉄工場最終出場蒸気機関車603号機)などといった各地に保存が決定していたが、1976年4月13日深夜に発生した追分機関区扇形庫火災により、国鉄最後の蒸気牽引入れ換え運用機79602号機や、配属されたばかりの新鋭ディーゼル機関車(DD51形)8両と共に4両(241・465・603・1086号機)が焼失した。現在、安平町の鉄道資料館には旧追分機関区の機関庫の火災で焼失した当初の静態保存予定機である241号機他の代わりとして、小樽築港機関区や追分機関区などで使用されていた320号機が静態保存されている。320号機は、本来は静態保存を予定していなかったが、急遽、静態保存機となったものである。また、国立科学博物館には同じく予定されていた603号機の代替として231号機が保存された。なお、最終5機の内、916号機のみが前橋市前橋こども公園に保存されている。 日本国外では、台湾でDT650形として37両が使用された。台湾で使用されていたものは既に全車廃車となっているし、うち4両が静態保存されていたが、2011年11月に、DT668は動態保存にして復活された。これから観光用、イベント用として運用する予定。 サハリンで使用されたものは引退後6両 (1・2・23・25・26・27) が帰国し、各地に保存されているほか、現地でも4号機が観光列車として運行されている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 本形式の愛称としては「デコイチ」、「デゴイチ」ともに用いられている。現在は「デゴイチ」が多く見られるが、過去には、各鉄道趣味誌においても「デコイチ」の表記が多く存在していた。なおこの愛称については、本来は「デコイチ」だがSLブーム以降「デゴイチ」の方が一般的になった、という見解もある。竹島紀元は、戦前の蒸気機関車のニックネームとして鉄道現場に存在したのは自分が知る限りではD50形の「デコマル」とD51形の「デコイチ」であるとし、「鉄道現場のスラングのようなものでその発生や普及変遷について確実な状況はつかめない」と断った上で、以下のような点を指摘している。 戦前の鉄道趣味雑誌の『鉄道趣味』には「凸丸」「凸一」という表記もあったと記憶している。 「デコイチ」は「デコマル」の伝でつけられたと推察される。 鉄道の現場用語ではたとえば「架線」を「ガセン」、「パンタグラフ」を「パンダ」のように濁る場合が多いため、本来「デコマル」だったものが「デゴマル」と呼ばれるようになった可能性がある。 一方、1950年頃の国鉄職員が、Dの51だから「デゴイチ」だと言ったとする記述もあるため、少なくともこの頃に「デコイチ」のみだったと言えない。 初期形(半流線形)の愛称の「なめくじ」は、1936年3月発行の『鉄道趣味』で宮松金次郎が「上から見た処は丁度ボイラーの上に這い廻るなめくじです」と記したものが始めで、後年になって広まったものとされる。