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PS-01しんざん型巡視船 (海上保安庁)

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みはし型巡視船は、海上保安庁の巡視船の船級。区分上はPS型、公称船型は180トン型。ネームシップが配置替えに伴って改名したことから、クラス名もみはし型→あきよし型→しんざん型と変遷してきた。

海上保安庁では、昭和52年から57年度にかけて30メートル型PC 23隻を整備した。これは対馬・根室海峡など領海警備業務への投入を想定して、比較的大型の巡視艇でありながら30ノットという高速を発揮できた。同型の運用実績は極めて良好であり、高速艇の船型を拡大していくことで、外洋での運用に充分たえうる巡視船も設計しうる見込みがついた。
ちょうど当時、海上での犯罪船舶は、外洋化・高速化が進んでおり、摘発が困難になりつつあった。また1985年に発生した日向灘不審船事件では、40時間に渡って不審船を追跡したものの捕捉できずに逃走を許すこととなった。外洋を高速航行可能で航続距離が長く、堪航性・操船性の良好な船が強く求められるようになったことから、対馬海峡から日本海に至る警備救難業務に従事する高速巡視船として整備されることとなったのが本型である。

堪航性改善のためには船体長の延長が最も効果的とされたことから、幅は最低限の復原性能を確保できる程度に絞って、できるだけL/B比の大きな船型が採用されることになった。計画段階では全長46メートル、幅7.5メートルと策定されたが、諸般事情により、本型では全長43メートルと僅かに短縮されることになった。また船型としては、30メートル型PCではV型高速艇の船型が採用されていたが、本型では、波浪衝撃の緩和を狙って、船首部については乾舷を大きく取ってフレアを小さくした丸型高速艇の船型を組み合わせて、他の部分はV型高速艇の船型としており、ハイブリッド型と称される。軽量化のため、船質は30メートル型PCと同じくアルミニウム合金製とされ、また構造方式は溶接構造を広範に導入している。これらの設計手法は、以後に建造された高速型巡視船艇の設計における雛形となった。
30メートル型PCの運用実績より、外洋の長時間航走にあたっては、乗員の身体的耐力が最大の制約条件であると考えられたことから、新しい高速巡視船では、乗員への身体的負担軽減が重要であった。このことから、波浪衝撃や動揺を軽減するために操舵室を船体中央に配置するとともに、全乗員分の衝撃吸収用ダンパー付き椅子を配置した。これらの施策により、波浪中の航行性能は、予想を大きく上回るものとなった。しかし機関室の吸気口などは従来の設計思想であったことから、船体の性能いっぱいの海況で航行すると多くの飛沫が機関室に飛び込むこととなり、「機関室で傘をさして歩く」と揶揄された。
なお工作船事案への対応が想定されたことから、操舵室については防弾性の向上が図られており、防弾板取付枠が設けられたほか、窓も通常の強化ガラスではなく防弾ガラスとされていた。九州南西海域工作船事件ではこれが奏功し、強行接舷を試みた「きりしま」は至近距離から操舵室を銃撃されたにも関わらず、操舵室内への貫通弾はなかった。しかし主船体はアルミニウム合金製であったために弾丸が貫通してしまい、「いなさ」では主機関の冷却系に被弾して、右舷機が使用不能となっている。

機関
本型では、上記のように高速力発揮が求められたものの、一方で、巡視船としては、被救助船への接近などの際に低速時の運動性能も求められるという、二律背反の操船性能が求められた。ネームシップの主機関は、アイドル回転数が定格回転数のおよそ半分であり、従来通りの固定ピッチ・プロペラを推進器とすると最低速度が15ノットを大きく上回ってしまうことから、低速運動性に大きな問題が生じると思われた。30メートル型PCでは主機とプロペラを結ぶクラッチを半クラッチ状態とするスリップ運転装置を搭載していたものの、当時の技術では信頼性が不十分であり、実際にはほとんど使われていなかった。解決策として、本型では、巡視船として初めてウォータージェット推進器が採用されることになったが、信頼性の点で確証を得なかったことから、高速航行時の推力の大部分は使い慣れたスクリュープロペラで確保して、ウォータージェット推進器は補助的な利用とし、また推力についてもカタログスペックより1トン程度安全側にみて設計することとされた。
このような経緯から、主機関としては4サイクル高速ディーゼルエンジンを3基搭載しており、単機出力3,500馬力の両舷機でスクリュープロペラ各1軸(両舷 計2軸)を、単機出力2,400馬力の中央機で低速用ウォータージェット推進器1基を駆動する。機種としては、軽量大出力という条件で、国産機(三菱重工業製)と欧州機(SEMT ピルスティク製; 富士ディーゼルによりライセンス生産)の2パターンの構成が選定された。国産機としては、両舷機として直列12気筒型のS12U-MTK、中央機として直列8気筒型のS8U-MTKが用いられる。欧州機としては、両舷機としてV型16気筒型の16PA4V-200VGA、中央機としてV型12気筒型の12PA4V-200VGAが用いられる。なお実際には、ウォータージェット推進器はほぼカタログスペック通りの性能を発揮していた。

装備
兵装としては、当初は機側操作の13ミリ単装機銃(ブローニングM2重機関銃)1基を搭載していたが、竣工後、赤外線捜索監視装置との連接によって目標追尾型遠隔操縦機能(RFS)を備えたJM61-RFS 20mm多銃身機銃に換装された。
九州南西海域工作船事件では、「いなさ」と「きりしま」が不審船(のちに北朝鮮工作船と判明)を追尾し、「いなさ」が威嚇射撃を実施した。その後、「きりしま」が強行接舷を試みたところ、両船は工作船からの銃撃を受けたため、「いなさ」が正当防衛射撃を行い、工作船は自爆し沈没した。これらの射撃の際にはJM61-RFSが使用されている。

同型船
本型の建造は4隻で終了し、平成4年度計画以降は、船体長を当初計画どおりの46メートルに延長して連続行動時間の延長を図ったびざん型に移行した。

基本情報
種別 180トン型PS
就役期間 1988年 - 現在
前級 あかぎ型 (特130トン型)
次級 びざん型 (2代)
要目
満載排水量 200トン
総トン数 182トン
全長 43.00 m
全幅 7.50 m
深さ 4.00 m
吃水 1.65 m
主機関 ディーゼルエンジン×3基
推進器 スクリュープロペラ×2軸
ウォータージェット推進器×1基
出力 9,400 hp/7,000 kW
速力 35ノット
航続距離 600海里
乗員 15名
兵装 JM61-RFS 20mm多銃身機銃×1門
FCS RFS射撃指揮装置 (20mm機銃用)
レーダー 航海用×1基
光学機器 赤外線捜索監視装置 (RFS兼用)


トーイングカー(pushback truck 航空機特殊車両)

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トーイングカー(pushback truck 航空機特殊車両)

プッシュバック(英: pushback)とは、航空機に特殊車両を接続して、その動力により後方へ押し出して移動させることをいう。

航空機では、機体や翼の前にプロペラを持つ構成をトラクター構成、または牽引式構成 (tractor configuration) と呼ぶ。 反対に、後部にプロペラがある場合にはプッシャー構成、または推進式構成 (pusher configuration) と呼ばれる。

空港で旅客の乗降などのために駐機している航空機がエプロンから離れて滑走路に向かう際、機体の大きさや空港建物のレイアウトの都合により、機体を後退させて移動する必要が生じる場合ある。しかし、航空機自身の動力で後退することができない場合はプッシュバックが行われる。

飛行機には、ジェットエンジンを逆噴射させたり、プロペラのピッチを反転をさせたりして、自力で後退するパワーバックが可能なものもある。しかしパワーバックは後進のため前進するよりエンジン出力を上げる必要があり、騒音問題や周囲の航空機や建物、設備などに強風が当たることで損害を与える可能性があることから、一部の例を除いて空港内でのパワーバックは禁じられている。

また、強風によって巻き上げられた砂や塵をエンジンが吸い込むことでエンジンにダメージを与える可能性がある(タービンの羽根1本が折れるだけでも推力に影響が出る)ため、逆噴射を利用した後退を運用上認めていない航空機も多い。

プッシュバックで用いられる特殊車両は、日本では「トーイングトラクター」もしくは「トーイングカー」と呼ばれ、英語では英: pushback truckあるいは英: tugと呼ばれる。これらは空港内で機体を牽引して移動させる場合など、プッシュバック以外においても用いられる。大型機の牽引に用いられるものは、長さ約 7メートル、幅約 2.8メートル、自重は 40 - 50トン程、エンジン排気量は14,000 - 15,000 cc 程である。また、この作業を行うためには牽引免許の他に航空機機種毎に後進時の旋回半径や切り返し挙動に差があるため、機種毎の社内資格が必要となる。

トーバー・トラクター
トーバー((英: Tow bar、トウバーとも)という棒を、航空機の前脚と車両の間に接続する方式でトーバー自体は手動で機体と連結し、外す必要があり時間がかかり、航空機との連結点と車両との連結点との両方が屈折する。構造上日本国内では基本的に、最高速度は時速15キロメートルと決められている[1]。大きな荷重が加わった際、破断することでトラクターと航空機の双方をダメージから守る、シェアピン/シアピン(シェアボルト/シアボルト、ヒューズピン)が用いられる。シェアピンのせん断限界は、機体ごとに異なるノーズランディングギアのストラクチャーダメージ許容度に合わせ、数種類設定されている。同様に、ランディングギア側のトーバー取り付け部も、機種により形状が異なる場合が多い(B767、B777、DC10、A330、A340等は、オプションにより形状が統一されているエアラインもある)。

そのため、機種によりトーバーを付け替える必要があり、複数の機種をもつ航空会社は、必要な種類のトーバーを用意しなければならなかったり、運用時には航空機側のコックピットにブレーキマン(運航時はパイロット)が乗り込み、機体を円滑に停止させ、機体へのダメージ軽減のため、車両と航空機の双方が同じタイミングでブレーキを操作する必要もある。例えばトラクター側だけでブレーキをかけた場合、飛行機の惰性によってノーズランディングギアに慣性力が集中してジャックナイフ現象を起こし、破断するが破断方向によっては、トーバー本体に応力が作用し、結果的にノーズランディングギアが損傷してしまうなど人員や技術が必要で育成する費用や時間もかかり、トーバレスや電気自走タキシングシステムと比較しても航空機の燃費にも良くなく効率が悪いため、今後は減少していく可能性がある

 

広大附属学校前停留場(広島電鉄宇品線)

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広大附属学校前停留場(ひろだいふぞくがっこうまえていりゅうじょう、広大附属学校前電停)は、広島市南区翠一丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。国立大学の附属小中高校が隣接し、朝夕は多くの通学利用されています。

宇品線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが置かれている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配されている。ただし互いのホームは斜向かいに位置しており、南側に広島港方面へ向かう下りホーム、北側に広島駅・紙屋町方面へ向かう上りホームがある。

ホーム長は3両・5両連接車に対応している。ただホーム幅は50センチメートルほどと狭く、朝夕のラッシュ時にはホームが混雑する。1990年代までは安全地帯のない平面電停だった。ホームには長い上屋が設置されています。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、1号線、3号線、5号線、それに0号線が乗り入れる。

下りホーム 1号線3号線5号線 広島港ゆき
3号線5号線 宇品二丁目ゆき
上りホーム 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき
5号線 比治山下経由広島駅ゆき
ホームには横断歩道からスロープで連絡します。

周辺
路線が敷かれている宇品通り沿いには商店が立ち並ぶ。路地裏は古くからの住宅街である。

停留場名にもなっている広島大学附属小学校および附属中学校・高等学校は東に隣接する。停留場名は「広大附属学校前」であるが、近隣にあるバス停の名称は「広大附属高校前」、停留場の前にある交差点の名称は「広大附属校前」とそれぞれ異なる名称である。

広島信用金庫皆実支店
広島翠一郵便局
前進社中国支社

当停留場は1935年(昭和10年)、宇品線の御幸橋東詰から宇品までの区間が新線に移設されたのに合わせて開設された。開設時の停留場名は高等学校前停留場(こうとうがっこうまえていりゅうじょう)であり、停留場前には旧制広島高等学校が立地していた。

その後太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に停留場はいったん廃止されるが、戦後まもなく復活、このとき皆実分校前停留場(みなみぶんこうまえていりゅうじょう)に改称した。その後も広大教養部前停留場(ひろだいきょうようぶまえていりゅうじょう)、広大付属高校前停留場(ひろだいふぞくこうこうまえていりゅうじょう)と相次いで改称されたのち、1964年(昭和39年)から広大附属学校前停留場と称している。

1935年(昭和10年)12月27日 - 御幸橋東詰 - 宇品間で新線が開業、同時に高等学校前停留場として開業。
1942年(昭和17年)5月頃 - いったん廃止。
1945年(昭和20年)8月頃 - 復活し、皆実分校前停留場に改称。
1955年(昭和30年)頃 - 広大教養部前停留場に改称
1961年(昭和36年)2月28日 - 広大付属高校前停留場への改称が認可される。
1964年(昭和39年)6月10日 - 広大附属学校前停留場に改称。

駅番号 ●U10
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宇品線
キロ程 3.2km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日

 

蒲郡駅 JR東海・名鉄

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蒲郡駅(がまごおりえき)は、愛知県蒲郡市元町および港町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋鉄道(名鉄)の駅である。駅番号は名古屋鉄道がGN22。

蒲郡市の中心駅で、「観光交流立市宣言」をした観光の街「蒲郡」の玄関口である。JR東海・名鉄ともに駅員が配置されている。かつてはJR東海と名鉄の共同使用駅であったが、蒲郡駅付近連続立体交差事業(鉄道高架化)の完了により、駅舎・改札が分離された。


JR東海の東海道本線と、名鉄の蒲郡線が乗り入れ、接続駅となっている。蒲郡線は当駅が終点となっている。1888年(明治21年)に官設鉄道(現在の東海道本線)浜松駅 - 大府駅間の開通と同時に開業し、のちの1936年(昭和11年)に三河鉄道(現在の名鉄蒲郡線)が乗り入れた。なお駅設置当時、駅が所在していた当時の蒲郡村は「かまごおり」と読んでいたが駅は「がまごおり」で開業しており、これが現在の「がまごおり」読みのルーツとされている。


蒲郡駅周辺の鉄道高架化事業(正式名称:蒲郡駅付近連続立体交差事業)は、踏切による交通渋滞や事故、鉄道による市街地分断を解消し、魅力的で質の高い街づくりを目的とするもので、高架化および南口再開発が2008年(平成20年)3月に完了した。南北連絡通路(コンコース)の完成で南北地下道は廃止されたが、北口周辺の地下街は現在も営業中である。

今後は北口広場において既存の市営駐車場と駐輪場を高架下に移設し、北口広場の再整備を行い、既存施設の移動が完了次第、コンコース西側の高架下(1,191m2)に「観光交流センター」や誘客効果が見込める有名店を含む商業施設を設置する予定である。これらの施設は当初2011年(平成23年)の開業が予定されていたが、工事発注の遅れがあって先延ばしになっており2013年(平成25年)3月ごろの完成を目指している。
かつては南口から竹本油脂本社工場と日本通運蒲郡支店への貨物専用線[3]が伸びていた。現在は南口土地区画整理事業が完了し、当時の面影はほとんど残っていないが、蒲郡市民会館臨時駐車場に当時の枕木やレールが保管されている。

高架駅。南北連絡通路を挟んで、JR東海・名鉄の改札口がそれぞれ設置されている。コンコースは広めに確保されている。


JR東海
島式ホーム2面4線を使用している。内側の2・3番線が本線、外側の1・4番線が待避線(副本線)で、朝・夕方には普通・快速の緩急接続が行われている。
ホームは2005年(平成17年)に高架化された。高架化以前は北口側に駅舎があり、駅舎とJR東海・名鉄のホームを結ぶ跨線橋があった。この跨線橋は「鉄道院明治43年」の文字が刻まれた歴史あるもので、1953年(昭和28年)の東海道本線電化で約1mかさ上げされ、高架化工事による仮設跨線橋の供用開始まで使用された。


貨物営業を行っていた頃は、駅舎東側に1面1線の有蓋車用貨物ホームがあり、駅南側には竹本油脂本社工場専用線「竹本1番線(有効長52m)」「竹本2番線(有効長31m)」と国道23号線を横切り三河港木材埠頭へ伸びる日本通運蒲郡支店「日通専用線(約500m)」(当初は日本通運と三和倉庫などで出資の臨港線)の貨物専用線があった。戦前は旧海軍貯木場の木材輸送、戦後は蒲郡港へ運搬船で運ばれてきた石炭輸送が主な輸送品であった。運行は日本国有鉄道(国鉄)が代行していた。


駅長・駅員配置駅(直営駅)である。管理駅として、蒲郡市内にある3駅(三河大塚駅・三河三谷駅・三河塩津駅)を管理している。
駅構内には、みどりの窓口がある。TOICAおよびTOICAと相互利用しているIC乗車券の利用が可能であり、TOICA対応のタッチパネル式自動券売機3台と自動精算機がある。また改札口と各ホームにLED式発車案内板、各ホームにエレベーター、エスカレータが設置されている。
なお、2007年から2008年にかけて東海地方で放映されたTOICAのテレビコマーシャルは蒲郡駅改札口付近で撮影された。

のりば
番線 路線 方向 行先
1・2 ■東海道本線 上り 豊橋・浜松方面


3・4 下り 岡崎・名古屋方面


駅構内施設
みどりの窓口
ベルマート - セブン銀行ATMが設置されている。ただし、nanacoの取り扱いには対応していない。
壺屋

名古屋鉄道
島式ホーム1面2線を使用している。ホームの有効長は4両分で、電車はホーム中央付近に停車する。かつては行灯式発車案内板があったが、現在の電車は全て吉良吉田駅行普通電車のため、撤去された。終日駅員配置駅である。電車はワンマン運転であるが当駅は有人駅かつ終着駅であるため途中の駅とは異なり、到着するとホーム側の全てのドアを開ける。自動券売機はタッチパネル式のものが1台あるが、自動改札機および自動精算機は設置されていない。ホームにはエレベーターが設置されている。以前の名鉄のホーム番号は国鉄・JRからの通しで5・6番線であったが、改札の分離に伴い1・2番線となった。
manacaに関しては、対応する設備が一切設置されていないため取り扱いを行っていない。券売機での乗車券購入・窓口の対応も不可(TOICAとmanacaが乗車券機能の相互利用を行っているため、JR蒲郡駅ではmanacaの利用は可能)。
2012年2月29日に利用終了となったトランパスの利用可能エリアからは外れていたが、当駅から乗車してトランパス対応駅(精算機または窓口での精算が可能な駅)で下車する場合は、当駅の自動券売機で無料発行される乗車駅証明書を持って乗車し、下車駅での精算という形でトランパスが使用できた。
1972年(昭和47年)4月1日に名鉄が高架化された際、南口には1階にバスターミナルを設けた5階建ての「名鉄蒲郡駅ビル」を同年12月に竣工させた。しかしテナントの相次ぐ撤退や観光客減少のため、蒲郡駅周辺連続立体交差事業の際に解体された。また、ホームは当初立体交差事業により建て替えられる予定であったが、従来のものをリニューアルして継続利用している。蒲郡線の立体交差部分延長に伴う工事に際しては、一時的に東海道本線旧下り地上ホームを使用していた時期もある。
2008年(平成20年)6月29日より名鉄蒲郡線は全列車が当駅 - 吉良吉田駅間の2両編成折り返しワンマン運転となった。そのため通常はホーム両端の1両分ずつには電車が停車しない。
バックミラーが設置されている2番線が主に使用され、1番線は深夜留置、臨時・団体列車等を除きほとんど使用されていない。

北口
北口駅前広場は1967年(昭和42年)12月5日の広場完成時とほぼ同じ構造で、西側がタクシープールおよびタクシーのりば、東側が市営駐車場および自家用車専用乗降場である。バスのりばは駅前の道路上に通常のバス停同様に設置されている。愛知県下でも早期に完成した地下道・地下街は、高架化完成に伴い閉鎖された南北地下道を除き引き続き供用されている。かつては北口側がより賑わっていたが、セイフー(ヤオハン)蒲郡店の撤退や駅前ビルの空室が目立ち、現在では南口側に取って代わられた感がある。今後は北口駅前広場の整備が予定されている。
蒲郡北駅前地下街
愛知県道323号芦谷蒲郡線(通称:市役所通り)
蒲郡市役所
蒲郡市勤労福祉会館
蒲郡市立図書館
蒲郡市中部市民センター
蒲郡市民体育センター
愛知県立蒲郡高等学校
蒲郡市立蒲郡中学校
蒲郡市立蒲郡南部小学校
蒲郡市立中央小学校
がまごおり児童館
愛知県警察 蒲郡警察署
蒲郡駅前郵便局
蒲郡信用金庫本店営業部(2015年5月に本町支店・府相支店・塩津支店の3店舗を統合の上、新築移転)
イル・マーレ蒲郡出雲殿
蒲郡名店街ビル

南口
南口駅前広場は、かつては西側(蒲郡駅南交差点)が駅前広場への車両入口、東側(港町3東交差点)が駅前広場からの車両出口となっており完全な一方通行になっていた。2008年の高架化事業に際して整備され、総面積は全体で約12,000m2に拡張された。西側(約2,800m2)がタクシープールおよびタクシーのりば、市営駐車場および自家用車専用乗降場、東側(約3,600m2)がバスのりばおよび竹本油脂専用となっている。バスのりば中心には観光交流立市「蒲郡」を象徴するモニュメントとしてアメリカズカップに参戦した「ニッポン・チャレンジ」のヨット(JPN-3)が設置されている(同チームのベースキャンプ地は蒲郡港であった)。南口駅前広場から竹島埠頭へ続く道路は50m道路として整備されメインストリートとなっている。


道路・交通機関
国道23号線
蒲郡乗船センター
公共施設・教育施設
蒲郡市民会館
蒲郡市博物館
蒲郡市保健医療センター
愛知県警察 蒲郡警察署蒲郡駅前交番
蒲郡商工会議所
豊川公共職業安定所蒲郡出張所(ハローワーク蒲郡)
生命の海科学館
竹島水族館
金融機関・郵便局
蒲郡郵便局
商業施設
アピタ蒲郡店
ユニクロ蒲郡店
エディオン蒲郡店


宿泊施設
ビジネスホテル港
ホテル竹島
公立学校共済組合 蒲郡荘
蒲郡クラシックホテル

 

1888年(明治21年)9月1日 - 官設鉄道(のちの国鉄・JR)浜松駅 - 大府駅間の開通時に開業[4]。一般駅。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
1936年(昭和11年)7月24日 - 三河鉄道本線(現在の名鉄蒲郡線)三河鹿島 - 蒲郡が開業し当駅に乗り入れる。
1941年(昭和16年)6月1日 - 会社合併により三河鉄道本線が名鉄三河線となる。
1947年(昭和22年)4月23日 - 名鉄三河線が600V電化。


1948年(昭和23年)5月16日 - 名鉄の線路名称改定により、三河線の当駅から三河吉田(現・吉良吉田)までが蒲郡線として独立。
1959年(昭和34年)7月12日 - 蒲郡線の電圧を1500Vに昇圧。
1965年(昭和40年)9月24日 - みどりの窓口が設置される。
1967年(昭和42年)
6月15日 - 地下道(第1期)・地下街が完成する。
12月5日 - 北口駅前広場が完成する。


1968年(昭和43年)8月28日 - 国鉄蒲郡駅鉄筋駅舎起工式を行う。
1969年(昭和44年)1月29日 - 国鉄蒲郡駅新駅舎の一部供用開始。地下道(第2期)が完成する。
1971年(昭和47年)9月10日 - 名鉄蒲郡駅改築工事・高架工事が始まる。


1972年(昭和47年)
4月1日 - 名鉄蒲郡駅高架化。
7月16日 - 蒲郡駅南北地下道が開通する。
10月30日 - 名鉄蒲郡駅ビル完成。バスターミナルの供用開始。
1984年(昭和59年)1月10日 - 車扱貨物の取扱を廃止。
1986年(昭和61年)11月1日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により国鉄の駅は東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
1989年(平成元年)3月11日 - 蒲郡 - 大垣間に上下各10本の新快速を設定。「新快速出発式」を実施する。


1995年(平成7年)3月28日 - JR蒲郡駅(北口)仮駅舎使用開始。北口に自動改札機を導入。
1996年(平成8年)5月11日 - 名鉄蒲郡駅(南口)仮駅舎使用開始。区画整理事業で南口駅前広場暫定整備完了。
1998年(平成10年)10月31日 - 連続立体交差化工事のため、名鉄線は旧東海道線下り線を使用した仮線を使用。
2000年(平成12年)11月11日 - 名鉄線高架化(蒲郡駅 - 蒲郡競艇場前駅間、ホーム部分はリニューアル)。11月15日に「発車式」を実施する。
2003年(平成15年)4月14日 - 東海道線下り線高架化。
2005年(平成17年)
12月18日 - 東海道線上り線高架化。
12月26日 - 新駅舎使用開始によりJR東海・名鉄の改札口を分離。
2006年(平成18年)11月25日 - JR東海がTOICA導入。
2008年(平成20年)3月 - 鉄道高架化事業完了。


所属事業者 東海旅客鉄道(JR東海)
所属路線 東海道本線
キロ程 310.6km(東京起点)
電報略号 コリ
駅構造 高架駅


ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 7,642人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1888年(明治21年)9月1日
備考 駅長配置駅(管理駅)
みどりの窓口 有

PL42てわ あそ型巡視船(海上保安庁)

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PL42てわ あそ型巡視船(海上保安庁)
あそ型巡視船(あそがたじゅんしせん、英語: Aso-class patrol vessel)は、海上保安庁の巡視船の船級。分類上はPL(Patrol vessel Large)型、公称船型は1,000トン型。
予算要求時には高速高機能大型巡視船とも称されていた。建造費用は1隻あたり約53億円である。

1999年の能登半島沖不審船事件で出動した高速巡視艇は、船型過小のために外洋域で高速を維持できず、高速で逃走する不審船を追尾しきれなかった。この反省から、海上保安庁では、まず外洋域で高速を維持できる小型巡視船として同年度(平成11年度)の第2次補正計画で高速特殊警備船3隻を建造した。
また平成14年度計画では、改2-900トン型PL「むろと」の代船として1,000トン型PLの建造が盛り込まれていたが、こちらについても、不審船対処とともに、東シナ海および九州北方海域で、外国漁船の監視や不法入国・薬物密輸の取り締まりにあたることも視野に入れて、速力や操船性能の向上が企図されることになった。これによって建造されたのが本型のネームシップである。


その後、平成14年度予算の内示を受けた翌日、九州南西海域工作船事件が発生した。この事件で、不審船が予想以上に重武装であることが判明したことから、単独の巡視船ではなく、ユニット単位で対応する体制が整備されることになった。事件の教訓を反映して、ネームシップの設計・艤装が改正されるとともに、本型は、そのユニットの一員として期待されるようになった。

当初、警備救難部では、2,000トン型PL 1隻を指揮船として、本型2隻、高速特殊警備船3隻でユニット(機動船隊)を構成し、これを5隊整備することを構想した。しかし予算当局の査定を受けた結果、太平洋岸に配備予定だった2隊が削られるとともに、各ユニットからも1,000トン型1隻と高速特殊警備船1隻が削られて、4隻×3隊の整備となった。このため、本型も、平成15年度計画で2隻が追加建造されるにとどまった。

設計
上記の経緯より、本型は、北朝鮮の工作船に対処できる速力と武装を有する高速高機能大型巡視船として開発された。このことから、従来の1,000トン型PLがいずれも排水量型であったのに対し、本型では半滑走型の高速船型が採用された。また船殻重量軽減のため、250フィート級の大型船であるにも関わらず、船体は総アルミニウム合金製とされた。これは、総アルミの船体としては、当時世界最大のものであった。また推進器もウォータージェット推進とされている。
なお、2・3番船では、設計にあたり「高速船の安全に関する国際規則2000」(HSCコード)が適用された。このため、船橋構造や後部の吸気室など、艤装の一部が変更されている。

装備
主兵装としては、当初は30mm口径のブッシュマスターIIを、従来のエリコン 90口径35mm単装機銃と同様の単装砲塔に組み込んで搭載する予定であった。これは、赤外線捜索監視装置と連動することで射撃管制機能(FCS)を備え、精確な射撃を可能とすることとなっていた。
しかし九州南西海域工作船事件では、巡視船に対してRPG-7対戦車擲弾発射器が発射され、更に自沈した工作船を引き上げたところ、82mm無反動砲や携帯式防空ミサイルシステムのように、従来考えられていたよりも長射程で強力な兵器を搭載していたことが判明した。これらの兵器をアウトレンジして、遠距離(概ね5,000m以上)から威嚇射撃を行えるように、長射程の武装を搭載することが求められたことから、より大口径で長射程のボフォースMk.3 70口径40mm単装機銃に変更された。
センサとしては、FCSの一部となる赤外線捜索監視装置のほか、レーダーや遠隔監視採証装置を備えている。また船橋後部の舷側には夜間でも使用可能な停船命令等表示装置(電光掲示板)を装備した。

基本情報
種別 1,000トン型PL
命名基準 配備地付近の山岳の名前
就役期間 2005年 - 現在
前級 おじか型
次級 はてるま型
要目
総トン数 770トン
全長 79.0メートル (259.2 ft)
全幅 10.0メートル (32.8 ft)
深さ 6.0メートル (19.7 ft)
主機関 ディーゼルエンジン×4基
推進器 ウォータージェット推進器×4軸
速力 30ノット以上
乗員 30人
兵装 70口径40mm単装機銃×1基
搭載艇 7メートル型高速警備救難艇
複合型警備艇
FCS FCS射撃指揮装置 (40mm機銃用)
レーダー 対水上捜索用、航海用
光学機器 赤外線捜索監視装置 (FCS兼用)
遠隔監視採証装置

軍艦防波堤(秋田港)

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軍艦防波堤(秋田港)
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、土崎にも大きな被害をもたらしました。戦時中は港湾改修工事も鈍化し、1945年(昭和20年)8月14日(終戦前夜)には土崎大空襲により港は壊滅的な打撃を受けました。数回にわたって落とされた爆弾は100kg爆弾が7,360発、50kg爆弾が4,687発に及びました。
爆撃目標の日石製油所は全滅状態となり、市街地も大きな被害を受けました。死者二百数十名の犠牲者が出ています。


港でも工事中の「浚渫船(海底にたまった砂を掘り出す船)」2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ております。
 当時の港の出口は冬の波で砂が押し寄せ、春には航行出来ない状況でした。敗戦直後は掘ることも出来ずに港は働きを失う寸前にあったのです。
沖から押し寄せる砂を防ぐには北防波堤の建設が必要でしたが、経済が混乱していてお金も材料もありませんでした。いろいろ考えて、軍艦を沈めて防波堤とすることを思いつきました。
昭和23年、駆逐艦「栃・竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、268mの北防波堤となって砂をさえぎり、秋田港を守りました。
この軍艦は戦争中の物が不足した時代に作られたので鉄板が薄く、防波堤の完成直後からこわれはじめました。しかし、たびたび補修されながらも30年間にわたって荒波をさえぎり、昭和50年港の外港展開とともに取り除かれ、その役目を終えました。
 戦後50年以上も過ぎた今でも、不発弾が残っている可能性がある区域では、港の工事などをする前に、磁気探査によって異常物が無いことを確認し、安全を確保してから工事を進めています。

竹(たけ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、樅型駆逐艦の6番艦である。同名艦に松型駆逐艦の「竹」があるため、こちらは「竹 (初代)」や「竹I」などと表記される。

艦歴
1918年(大正7年)12月2日、神戸川崎造船所で起工。1919年(大正8年)8月26日午前7時30分進水。同年12月25日竣工。
1940年(昭和15年)2月1日除籍。除籍後は舞鶴海兵団の練習船。1944年(昭和19年)2月10日、雑役船に編入され、海軍機関学校附属の練習船となる。1948年(昭和23年)解体、船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。
性能諸元
排水量 基準:公表値 770トン
常備:850.00トン
全長 全長:290 ft 0 in (88.39 m)
水線長:280 ft 0 in (85.34 m)
垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m)
全幅 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m
吃水 8 ft 0 in (2.44 m)
深さ 16 ft 3 in (4.95 m)
推進 2軸 x 400rpm
直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m
または直径2.565m、ピッチ3.353m
機関 主機:ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基
出力:21,500shp
ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基
速力 36ノット
燃料 重油250トン
航続距離 3,000カイリ / 14ノット
乗員 計画乗員 107名
竣工時定員 110名
兵装 45口径三年式12cm砲 単装3門
三年式機砲 2挺
53cm連装発射管 2基4門
魚雷8本
搭載艇 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻
備考 ※トンは英トン

海防艦 伊唐 鵜来型海防艦は、大日本帝国海軍が太平洋戦争において運用した海防艦のひとつ。主に船団護衛に用いられた。基本計画番号はE20b、日振型海防艦の準同型艦である。日振型からの振り替えにより、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて同型艦20隻が就役している。
戦後、ネームシップ以下4隻が従来の艦名に丸を付けた定点観測船を経て、1954年から海上保安庁のおじか型巡視船として再就役した。
伊唐(いから) - 1945年(昭和20年)3月24日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、解体。船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。
種別 海防艦
命名基準 島名
同型艦 20隻
前級 日振型海防艦
次級 丙型海防艦
要目
排水量 基準:940t
全長 78.8m
全幅 9.1m
吃水 3.06m
機関方式 22号10型ディーゼルエンジン2基2軸
4,200馬力
速力 最大 19.5ノット
燃料 重油
航続距離 16ノットで5,000海里
乗員 150名
兵装 45口径12センチ高角砲 連装1基・単装1基
25mm連装機銃三連装5基・単装5~8基
九四式爆雷投射機2基
三式爆雷投射機16基
爆雷投下軌条1式
爆雷120個
レーダー 一三号電波探信義1組
二二号電波探信義1組
電波探知機1組
ソナー 九三式水中聴音機1組
三式二型探信儀2組

駆逐艦 栃 松型駆逐艦(まつがたくちくかん)は日本海軍の一等駆逐艦。丁型駆逐艦とも呼ばれる。 太平洋戦争中の1943年(昭和18年)から建造した戦時量産型駆逐艦である。神風型駆逐艦(初代)と並ぶ日本海軍最多の建造数(32隻)と最短の建造日数(約5ヶ月)を記録。そして最後に量産化された駆逐艦でもある。
なお、橘以降の艦は、橘型/改松型/松型改/改丁型/丁型改などとして区別されるが、 艦艇類別等級表では松型と橘型を区別していない。
橘型駆逐艦 仮称第5491号艦(八重桜)からは基本計画番号をF55Bと改め(それまではF55)、「八重桜」は後に工事中止となり「橘」が1番に竣工、このためF55Bの艦は橘型と呼ばれている。その他に改松型松型改改丁型などとも呼称される。 基本設計は横須賀海軍工廠設計部で行われた。

船体
線図の変更
艦尾形状は丸みを帯びたクルーザー・スターン(船尾)から角形のトランサム・スターンに変更
キャンバー(露天甲板の反り)を廃止
艦首のフレア(側面の反り返り)は平面を組み合わせ、ナックルで繋ぐ。
艦首水線下のカットアップを廃止、艦首は艦底まで直線になった
上甲板もHT鋼から普通鋼に変更、その分板厚を増した。
溶接を全面的に採用し、ブロック工法を採用
この経験は後に、現在の日本の造船技術を支える近代工法の確立につながった。
なお、本型は簡易廉価な平面や直線を組み合わせた船体形状を採用したが、速力への影響はあまり無かった。
終戦時には18隻が航行可能状態で残存していた(32隻竣工、9隻沈没、5隻航行不能)。それらは戦後復員輸送に使われ、その後各国に戦時賠償艦(戦利艦)として引き渡された。中国やソ連は引き渡された艦を自国の海軍に編入して使用した。アメリカ、イギリスに引き渡された艦の一部と残った艦(航行不能艦や未成艦)は解体されるか防波堤の一部として使われた。
栃(とち):「第4816号艦」、1945年2月5日命名、同年5月28日船台を空けるために進水(舞鶴)。5月18日工事中止。船体は戦後、秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。
要目 (橘)
基準排水量 1,350英トン
公試排水量 1,640トン
深さ 5.80m
吃水 3.41m
主機関 艦本式タービン(高低圧) 2基
速力 27.3ノット
ソナー 四式水中聴音機、三式探信儀一型
松型からの変更された要目のみ

田無駅 西武鉄道新宿線

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田無駅(たなしえき)は、東京都西東京市田無町四丁目にある西武鉄道新宿線の駅である。駅番号はSS17。

島式ホーム2面3線を有する地上駅。橋上駅舎を持つ。
上石神井駅と同様に、上下本線(1番・4番ホーム)の間にホームに挟まれた中線1本(2番・3番ホーム)を配する形態で、この中線が上下線の待避線として共用されている。

2008年6月14日から2012年6月30日まで時点のダイヤでは、上り始発列車と拝島線からの列車は主に当駅で接続していた。

下り本川越方面列車と拝島方面列車は主に小平駅で接続する。
各ホームおよび南口・北口地上部と改札階を連絡するエスカレーター・エレベーターが設置されている。トイレは改札内コンコース部に立地し、多機能トイレを併設する。

のりば
ホーム 路線 方向 行先
1・2 SS 新宿線 上り 高田馬場・西武新宿方面


3・4 下り 所沢・本川越・拝島方面
通常、当駅始発・終着の列車は中線(2・3番ホーム)に発着するが、運行ダイヤによっては、1番ホームに当駅始発、4番ホームに当駅終着の列車が到着することもある。


本川越寄りには引き上げ線1本が設けられている。有効長は8両編成分であり、朝ラッシュ時に運行される当駅始発の10両編成の準急は入線することなく折り返す。
かつては上り本線の北側に一本、通過型の側線があった。1990年8月の上りホーム拡幅の際に上り本線とされ、旧上り本線部分はホームとなった。


2008年(平成20年)6月14日のダイヤ改正では、拝島快速通過駅の利便性を図るために、当駅 - 玉川上水間を運行する各駅停車が設定され、当駅始発で西(花小金井方面)に向かう列車および西からの当駅終着列車が復活した。

しかし、2012年6月30日実施のダイヤ改正で拝島快速の設定が廃止され、データイムに当駅で西武新宿方面へ折り返す列車に代わっている。当駅以東で事故等などが発生し運転を見合わせている時は、当駅以西で折り返す場合あり。


駅構内店舗(北口駅ビル)
1962年 - 1996年 前駅舎
この時期の北口駅ビルは数度の改装を行っており、各時期で駅ビルの名称や店舗が大幅に異なっている。1982年に西武田無ステーションビル新装開店に伴い、西武新宿よりの屋上に狭山市と同様に、「西武田無ステーションビル」の赤い看板が取り付けられた。

この駅ビル・駅舎は建築時期の関係上、現在の駅ビル・駅舎(1999年 - )より天井が低いため、3階が改札直結となっていた。


西興ストアー田無店(1963年4月5日 - 1971年頃・西友田無店として駅前に移転)
田無ファミリーパーク(1971年12月15日 - 1981年12月頃・西友ストアーが運営する駅ビル)
1F 狭山そば(1973年8月15日 - 1996年)、弁当店(正式店名不明・1974年12月15日 - 閉店時期不明)、
2F ファッションフロア(1971年12月15日 - 1981年12月頃・西武田無ステーションビル移行後に新装開店)
3F 西武観光田無案内所(1981年4月29日 - 1996年・定期券売り場横)ほか
西武田無ステーションビル(1982年10月28日 - 1996年・1階の店舗のみ、田無プリンスデリカとして西武商事が運営)
1F プリンセス(西武系の生花店)(1982年10月28日 - )、ダンキンドーナツ(1982年10月28日 - 1996年)、園芸店(正式店名不明・1982年10月28日 - 1996年)、狭山そば
2F ファッションフロア、西武DPE(1982年10月28日 - 次の駅舎の2003年)、森永LOVE(1982年3月11日 - 1996年・後のロッテリア)
3F 中国料理獅子(1982年10月28日 - )、西武観光田無案内所(定期券売り場横)
1997年 - 1998年 仮駅舎
ロッテリアが駅舎改築のために一時閉店した跡に入居する。
THE 100 STORES(100円ショップ)
1999年 - 現駅舎
建て替えに伴い天井が高くなったため、前駅ビル・駅舎(1962年 - 1996年)では3階が改札直結となっていたものが現在の駅ビル・駅舎は、2階へ変更となっている。大半の店舗は新駅舎完成後に開店したものである。


北口は再開発でロータリーも整備された。その一方で、南口は昔ながらの狭い駅前広場である。北口の青梅街道沿いは旧田無宿であるが、戦時中の空襲で被災して、宿場の面影は地割以外まったくない。
駅周辺の商店街は大栄商店会(北口側)、田無北口商店会、田無商業協同組合(北口側)、田無駅南口商店会、文化通り商店会(南口側)がある。


西東京市民会館
東京法務局 田無出張所
シチズン時計本社 - 駅コンコース天井には同社の時計が設置されており、時報のメロディが流れる。
ハックドラッグ田無駅前店
アスタビル
LIVIN 田無店
みずほ銀行 田無支店
アスタビル専門店街 - 2階の一部にイトーヨーカドー田無店が入居。
エクセル田無(日本中央競馬会の会員制場外勝馬投票券発売所)
アスタ市民ホール
田無警察署
西東京郵便局
ゆうちょ銀行 西東京店
三菱東京UFJ銀行 田無支店
三井住友銀行 田無支店
りそな銀行 田無支店
西東京市田無総合福祉会館
西東京市田無町地区会館
コール田無
シンエイ動画
田無山総持寺
田無神社
西東京市役所田無庁舎(旧・田無市役所)
西東京市立中央図書館・田無公民館
西東京市南町スポーツ・文化交流センター きらっと
イングビル
藤和ハウス本社・田無本店
田無南町二郵便局
田無警察署 田無駅前交番
田無向台郵便局
田無芝久保郵便局
西東京中央総合病院
ヴィーガーデン
社会福祉法人檸檬会レイモンド田無保育園
東京大学農学部 多摩農場
武蔵野大学・武蔵野女子学院中学校・高等学校 - 南東2km。
西東京市立田無小学校
オレンジマーケット
スカイタワー西東京(田無タワー、西2km)
エフエム西東京(西2km)
多摩六都科学館(西2km、バスあり)
青梅街道(東京都道4号東京所沢線・東京都道5号新宿青梅線)
新青梅街道(東京都道245号杉並田無線・東京都道5号新宿青梅線)
所沢街道(東京都道・埼玉県道4号東京所沢線)
武蔵境通り(東京都道12号調布田無線)

 

 


1962年(昭和37年)に建てられた旧駅舎が老朽化したため、田無駅北口再開発計画にあわせ、1996年(平成8年)に解体した。新駅舎を建設するため、仮駅舎(現・りそな銀行の場所)での営業を開始した後、新駅舎は1999年(平成11年)3月に完成した。

同年3月23日から使用を開始し、旧駅舎時代から要望が多かったバリアフリー設備としてエレベーター・エスカレーターを設置している。
新駅舎が完成するまでは自動改札機は設置されず、新宿線最後の自動改札機非設置駅であった。


1927年(昭和2年)4月16日 - 開業。
1961年(昭和36年)- 構内改良工事により、島式ホーム1面2線を島式ホーム2面3線に変更。
1962年(昭和37年)10月12日 - 橋上駅舎化。


1986年(昭和61年)3月23日 - 大雪により列車追突事故が発生。当日夜まで列車の運転を見合わせた。
1990年(平成2年) - 上り線北側にあった貨物列車・作業用車・回送などを留置する側線を撤去し、1番ホーム拡張工事が完了。
1995年(平成7年)3月10日 - 再開発ビル(田無西武店・現 アスタビル)オープンに伴い、旧田無橋上駅舎2階北口側の一部の壁を削り、駅舎と再開発ビルを結ぶペデストリアンデッキの本格的な使用を開始。


1996年(平成8年)
3月 - 北口駅前広場完成。これをもって田無駅北口市街地再開発事業が完了。
3月31日 - 西武田無ステーションビル、北口橋上駅舎改築に伴い営業終了。
4月1日 - 駅舎建て替え工事を開始。北口仮駅舎での使用開始。

駅番号 SS 17
所属事業者 SeibuRailway mark.svg 西武鉄道
所属路線 SS 新宿線
キロ程 17.6km(西武新宿起点)
駅構造 地上駅(橋上駅)


ホーム 2面3線
乗降人員
-統計年度- 75,240人/日
-2016年-
開業年月日 1927年(昭和2年)4月16日
備考 ホーム有効長は10両編成分

大阪府都市開発7000系電車(7020系 )泉北高速鉄道

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大阪府都市開発7000系電車(おおさかふとしかいはつ7000けいでんしゃ)は、大阪府都市開発(現在の泉北高速鉄道)が保有する通勤形電車の1形式である。

老朽化した100系の置き換えを目的として、1996年に登場した。
制御装置にはIGBT素子のVVVFインバータ制御装置を搭載し、台車はボルスタレス台車を装備。パンタグラフには新たにシングルアーム式のものを採用した。
車体は川崎重工業製のアルミ合金製で、全体的に丸みを帯びたデザインとなっている。前面には両開きのプラグ式外扉を装備した自動併結式の貫通扉を設置し、柔軟に編成を組成できるようになっている(この構造を活かして平日朝の10両編成にも運用されていた)。営業運転開始直前に先頭車側面の濃青のラインの窓下部分に「SEMBOKU」のロゴを貼り付けた(既存の3000系・5000系にもこの時から車体に「SEMBOKU」のロゴが付けられた)。
また、関西国際空港開港に備えて南海電鉄が車両限界を拡大したことにより、5000系よりも車体幅が最大で約10cm大きくなっており、裾絞りのある車体断面となった。
7505編成以降と旧7511編成は、側面の車両番号表記がプレート式から突起式に変更された。
内装
5000系の内装を基本とし、座席仕切りにスタンションポールを設置するとともに、棚をパイプ棚に変更した。また、車いす対応スペースが先頭車にも確保されている(各号車の和泉中央・橋本寄りのドア(4番ドア)付近)。 案内表示器は5000系と同型のLED式を採用。スクロールの速さは5000系と比べて少し速くなった。登場時の座席モケットは5000系と同様だったが、7020系(後述)の登場と同時に新デザインのものに交換された。

7000系 車内
本系列の運用をさらに柔軟にするため、2005年に当時4両編成だった7511編成の先頭車を改造し、2両編成の増結車として登場した。改造に伴い、車体番号が7511-7512から7551-7752に改番され、7512を改造した7752は制御車から制御電動車となった。なお、パンタグラフは制御車の7551に装備されている。これは7020系2両編成についても同様である。
この改造によって余った中間車2両は7509編成に組み込まれ、同編成は6連化された。車体番号は7006が7202, 7106が7602(電動車から付随車化)となった。そのため7106の電装品を廃棄せずにそのまま7752に提供した。
編成
1996年から1998年にかけて3回に亘って製造され、2017年3月現在、6両編成が2編成、4両編成が3編成、2両編成(50番台)が1編成の計26両が在籍・運行している。 4両編成は7020系と併結することもある。

7020系
車齢約30年に達していた3000系初期車両を置き換えるために、2007年より製造されている、大阪府都市開発(泉北高速鉄道)では11年ぶりの新形式である。川崎重工業が製造を引き続き担当した。 既存の7000系をベースに、細部の設計変更などを施している。
前面は両開きのプラグ式外扉が廃止され、幌が剥き出しとなった。 標識灯は在来車に近い位置に設置されたが、四角いタイプの単独型となった。従来車では前照灯は腰部に標識灯とともにライトケースに収められた状態で存在したが、これを上部の種別表示器・行先表示器の隣に配置し、HIDを採用した。
VVVFインバータ制御装置は7000系の3Lv-IGBTから純電気ブレーキ対応の2Lv-IGBTに変更された。
価格は6両1編成で9億円(1両あたり約1億5千万円)である。
1次車の6両1編成は、2007年2月下旬に陸送にて搬入し、同月28日までに光明池検車区での搬入作業を完了した。3月6日より試運転が行われ、4月30日より営業運転を開始。2次車は2008年3月に2両・4両・6両各1編成の計12両を製造、陸送にて搬入し、それぞれの試運転終了後、3月31日より順次営業運転を開始した。

内装
車内は従来車をベースとしているが、こちらも各所に改良が加えられている。変更内容は以下の通り。
1人あたりの座席幅を従来の440mmから460mmへと拡大。
乗務員室の仕切りを350mm客室側に移動し、乗務員室長を2000mmに拡大。
スタンションポールを7人掛け座席中間部にも追加設置。
乗降扉を外部は塗装を施された従来の方式とし、室内部の化粧板を廃止。
難燃性基準の改正により樹脂製の蛍光灯カバーを廃止、蛍光灯本数の削減。
ラインデリア整風板を両端の角に丸みがあるものに変更。
つり革吊手を丸形(○)から三角形(△)に変更。
混雑時の対策として出入口扉付近につり手を追加、2種類から3種類の高さのつり手を設置。優先座席側を従来の白色からオレンジ色に変更。
座席モケットを模様入りの紫に近いものに、優先座席のモケットの色は従来のグレーからオレンジ色に変更。
車内の座席仕切りを大型のもの(内側のくぼみがない直線的なスタイル)に変更。
窓ガラスをブロンズ色から濃緑色に変更し、新たにUVカットガラスを採用。
車内案内装置を従来のLED式から液晶ディスプレイ式のものに変更。表示は小田急4000形などに近いが、次駅にフリ仮名が併記された仕様になっている。
従来のLEDと同じドア上の千鳥式配置で、現在は案内用の1台のみ設置されているが、2画面対応の準備工事も施されている。走行中にその液晶ディスプレイを見ながら、駅ホームの階段・エレベーター・エスカレーターの位置や車両の停車ポジションなども一目でわかるようになっている。また、実際に乗って座っていながらにしてどの付近を走っているかを把握できるようになり、過去に新幹線0系電車や国鉄151系電車で一時的に採用され、以後あまり出現しなかった列車位置表示器がその液晶ディスプレイと兼用される形で実質上復活した。


編成
2017年3月現在、6両編成が2編成、4両編成が1編成、2両編成が1編成の計18両が在籍・運行している。 4両編成は7000系と併結することもある。唯一4両編成の7525Fの難波寄りの幌出しは、2014年には撤去されており、7525Fは必ず1~4号車に入る。撤去前は、10両編成では必ず泉北寄りの7~10号車に入っていた。 なお、7000系と7020系は貫通路のサイズが異なるため、7020系側にアダプタを取り付けて7000系と併結している。

ラッピング
当系列の一部編成は記念列車・ラッピング電車として運用されている。
パチンコ店ラッピング
車体側面全体に薔薇の柄のラッピングがデザインされており、2009年から2013年6月までは7509編成に、同年7月から2015年2月までは7523編成にそれぞれ施された。
鉄道むすめ「和泉こうみ」ラッピング
2015年4月11日より、「和泉中央駅開業20周年記念イベント」の一環として7521編成に記念ラッピングが施された。
2016年03月15日からは、好評によりデザインを一部リニューアルし、「鉄道むすめ『和泉こうみ』ラッピング電車」として約1年間運転された。
2017年2月からは、スタンプラリー「つなげて!全国鉄道むすめ巡り」の開催により一部仕様を変更し、引き続き約1年間運行される予定。
大型児童館ビッグバン「フロンティア号」ラッピング
2017年より、7509編成に大阪府立大型児童館ビッグバンのキャラクター等をデザインした「フロンティア号」のラッピングが施され、同年10月2日に運行を開始した。

7020系
基本情報
製造所 川崎重工業車両カンパニー
製造年 2007年・2008年
製造数 18両
運用開始 2007年4月30日
主要諸元
軌間 1067 mm
電気方式 直流1500V(架空電車線方式)
最高運転速度 100 km/h
設計最高速度 120 km/h
起動加速度 2.5 km/h/s
減速度(非常) 4.0 km/h/s
全長 20825 mm
全幅 2844 mm
全高 4,090 mm
車体材質 アルミニウム合金
台車 モノリンク式ボルスタレス台車
SS-173M・SS-173T・SS-173TC
主電動機 かご形三相誘導電動機
駆動方式 WNドライブ
制御装置 2レベルIGBT-VVVFインバータ
制動装置
回生ブレーキ(純電気式)併用
電気指令式空気ブレーキ
保安装置 ATS-N/ATS-PN


双発ターボプロップエンジン旅客機 YS-11

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YS-11は、日本航空機製造の双発ターボプロップエンジン旅客機。第二次大戦後初めて日本メーカーが開発した旅客機。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれる時刻表では主にYS1またはYSと表記、全日本空輸の便では愛称「オリンピア」の頭文字Oと表記されていた。
2006年に日本での旅客機用途の運航を終了。海上保安庁の機体は2011年(平成23年)退役、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用。また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体はレストアされ解体こそ免れているものの、機体そのものが旧式で、使用されている場面は稀である。

機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。
先述のモックアップ完成披露キャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした語呂合わせであるが、これによって数値2桁「11」を「じゅういち」と読み発声することが一般に広まった。こうした経緯もあって、関係者のあいだでは当初正規に「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。

機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。当初の設計案では太胴(外径3.3 m)であったが、設計重量超過が判明したことから、モックアップと違った細胴(外径2.88 m)に再設計された。太胴の重量ではSTOL性を確保できず、日本の地方空港に就航できないとの判断であった。このため、当初案の横列5人掛けから4人掛けに変更となった。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1,200 m 級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱の小牧工場[5]が担当した。

1964年(昭和39年)8月に運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。9月9日には全日空にリースされた2号機(JA8612)が東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。この聖火輸送に因んでその後、全日空が導入したYS-11には機首に「オリンピア」の愛称がマーキングされたが、機体や全日空の時刻表には「YS-11」の型式名や機種名は記されていない。表面上は聖火輸送の実績に由来した名称と説明されていたが、当時の日航製の開発が遅れていたことや、日航製の経営資金の枯渇から経営不安説も流れ、倒産した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う事態を避ける思惑が全日空にあったと言われている。他にも、米国の最有力顧客となったピードモント航空も、当時の米国では日本製品の信頼性が高くなかったことから、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行わなかった。
1965年(昭和40年)3月30日に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して輸出の体制が整った。
民間航空会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月10日に東亜航空に引き渡された量産型2号機JA8639(S/N2004)であったが、納入した国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空である。運輸省の量産一号機の翌々日の4月1日に、東京(羽田) - 徳島 - 高知線で定期航空路線の運用を開始した。日本国内航空は量産機の発注を行っていたものの、納入が路線開設に間に合わず、試作2号機を1965年(昭和40年)3月11日に日航製からリースして間に合わせたものである。この試作2号機は全日空が聖火の輸送で使用したものであり、日本国内航空では自社塗装に塗り直し、「聖火号」(初代)と命名して就航させた。因みに日本国内航空が最初に受領したのは量産型4号機(S/N2006)JA8640で、1965年(昭和40年)5月15日に納入され、「真珠号」と命名されている。同年12月8日に量産型14号機(S/N2006)JA8651を受領し、「聖火号」(二代目)と命名し、初代「聖火号」を日航製造に返却した。
その後、YS-11の定期運航は日本国内航空に続き、1965年(昭和40年)5月10日に東亜航空が広島 - 大阪(伊丹)線、大阪 - 米子線に就航、同年5月31日に南西航空がリース契約で受領し、同年6月8日に那覇 - 宮古線に就航した。同年7月29日には全日空が受領し、同年9月20日に大阪 - 高知線で就航した。南西航空がリース契約となったのは、本土復帰前の沖縄では航空機登録制度が未整備で、南西航空への売却であっても表面上はリース契約とせざるを得なかったからである。南西航空は本土返還後に正式に購入した。
遅れて、1969年(昭和44年)4月1日に日本航空が日本国内航空よりウエットリースで福岡 - 釜山間で初の国際線の就航を始めて、当時の主要国内航空会社がYS-11の定期旅客運航を行ったことになった。日本航空では同路線の就航をボーイング727で計画していたが、同じ路線を運航する大韓航空の機材がYS-11であったことから、機材に差が出ることを嫌った韓国政府の意向から日本航空も同じとせざるを得なくなり、日本国内航空から調達したものであった。
YS-11-100は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良などの欠陥が判明し始めた。そのたび、日航製職員や航空会社の整備士は改修のため徹夜の連続となった。この経験は、1967年(昭和42年)のYS-11A(2050以降)の設計に生かされた。
1968年(昭和43年)にはトラブルもほとんど解消し、1機あたりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率99パーセントを誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。

機体の設計者たちは戦前に軍用機設計に携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない(それどころか乗ったこともない)者がほとんどであった。このため設計は軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪い、(後述する理由で)操縦者に対する負担が大きいという、民間旅客機でありながら軍用輸送機に近い性格の機体となってしまった。快適性・安全性・経済性が重視される民間機としては好ましくなく、運用開始した航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。
それでも日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体に育ったとも言える。やがて東亜国内航空では日本国外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。
機齢が40年を超えた機体も現れ始めたが、自衛隊や日本国外のエアライン等では2013年現在も使用され続けている。航空大国アメリカでは「日本製の飛行機」、「ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機」、「ピードモント航空が使っていた飛行機」という形で知られている。


操縦性
操舵系統には戦後主流になりつつあった油圧を使わず、操縦桿と動翼をケーブルにより直接つなげており、自動操縦装置もなく(後に一部機体にはオートパイロット装備)、ほとんどを人力で動かしているため、沼口正彦を始め多くのパイロットが「世界最大の人力飛行機」と評している。信頼性確保と軽量化を目的としての人力操舵採用であったが当然の結果として操縦に力を要し、通常は低速になると軽くなる動翼は常に重く、特にエルロンが最も重いという。また気流が乱れると自衛官ですら「腕がパンパンになる」と評するほど悪化し、展示飛行で急旋回する際には「ワイヤーが切れると思うほど」引く必要があるという[15]。海上自衛隊ではオートパイロットが装備されていない機体で訓練を行う際、30分ごとに交代するなどの対策を行っていた。
離着陸に関してはパイロットから「上昇もしないんですけど、降りるのも降りてくれない」と評されており、主翼が長めであるため滑空性能が強すぎることが指摘されている。
このように特有の問題を抱えていたため、管制官も降下指示を早めに出したり急かさないなど配慮をしていたという。


客室設備
トイレを装備しているが、当時の輸送機にはまだ多かった蓄積方式(いわゆる汲み取り構造で、消毒・消臭液を汚物タンク部に溜めてある)を採用、便器に水を流す設備はなかった。汚物の液体分だけを漉し取って消毒液を混ぜ、便器の水洗に利用する「循環式」は、YS-11では採用に至っていない。トイレ内の照明はかなり暗めに設定されていた。この他にも冷暖房が必要な時期になると空調関係が不安定になりやすい[15]など、快適装備は旧来型で信頼性も高いとは言えなかった。
荷物棚が座席上部に存在するが、ここは帽子ぐらいの大きさのものしか収納できない(いわゆるハットラック)ため、大きな荷物は搭乗前に手荷物として預けるか、座席の下に置く必要があった。機内の照明には丸形の蛍光灯が使用されており、一昔前のバスを思わせる内装となっていた。日本国外で活躍している機体もほぼ機内は無改造のまま使用されていることが多く、カーゴ設備や機内サービス器具、座席上部の読書灯などにその名残を見ることができる。
一方で、初期の機体には内蔵式のタラップ(エアステア)が用意されておらず、地上設備の貧弱な地方空港での運用に難があるなど、ここでも旅客機としては使い勝手の悪い面が見られた。なお、後にユーザーの要望を受けて、内蔵式タラップも装備されている。


合計182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造され、日本をはじめとする各国の航空会社や政府で使用された。一方で日本国内だけで4件の事故(うち墜落3件)を起こした。
日本国内ではローンチ・カスタマーとなった全日空で1970年代30機の保有がピークとなり、1980年頃より順次退役し、1991年(平成3年)8月31日の新潟 - 仙台間・ANA720便が最後の運航となった。一方、1971年(昭和46年)に日本国内航空(JDA)と東亜航空(TAW)が合併した東亜国内航空(TDA)では、1980年代には42機を保有する最大のオペレーターとなっていた。既に機体は生産中止となっていたことから、日本国外の中古機を買い戻して調達していた。これはTDAが抱える多くの路線が、騒音問題や空港施設の関係から、YS-11に依存しなければならなかったことが理由である。
しかし、経年と共に整備費用(維持費)が上昇したことで、YS-11の経済効率の悪さが顕著になって行き、搭乗率が高くとも運航経費の上昇で赤字となる路線が多かった。1975年(昭和50年)の整備費の指数を100とすると、1977年(昭和52年)には193.7、1978年(昭和53年)に228、1979年(昭和54年)には249.1となり、加えて、燃料費の高騰、公租公課の上昇と、経済性は下がる一方となり、YS-11の就航路線で黒字を計上する例は僅かとなり、ほとんどが赤字路線へと転落、1994年(平成6年)3月8日の南紀白浜 - 東京便を最後に同社(JAS)から引退した[1]。
日本国内の民間航空機としては引退したが、その頑丈なつくりのため、各国に輸出された機体にはまだ現役にあり続けるものも少なくなく、タイやフィリピンなどではまとまった数の機体が各航空会社で活躍している。また、ギリシャでは、海運王アリストテレス・オナシス率いるオリンピック航空への輸出機が転籍を経て、現在もギリシャ空軍機として使用されている。政府専用機として国家元首の移動に使用された機体もある。また、大韓航空にリースされた1機はハイジャックされ、北朝鮮に抑留状態となった(乗客乗員51名の内39名が韓国へ移送)抑留された機体のその後は不明である(大韓航空機YS-11ハイジャック事件参照)
日本国内の官庁向けでは、10機が海上自衛隊、13機が航空自衛隊、5機が海上保安庁、6機が国土交通省(旧運輸省)航空局に納入され、通常の輸送任務のほか練習機や各種任務機として配備運用されている。航空自衛隊ではC-1輸送機導入までのつなぎとして導入したのが始まりだが、後にエンジンをより強力なゼネラルエレクトリック(GE)製のアリソンT64に換装して性能を向上したYS-11EA/EBが登場した。これらは俗に「スーパーYS-11」と呼ばれる。1990年(平成2年)海上保安庁のYS-11「おじろ」は樺太(サハリン)から全身火傷のコンスタンティン・スコロプイシュヌイを搬送する作業に使用された。
日本国内の民間航空会社においては、日本の航空法が設置を義務付ける空中衝突防止装置(TCAS)が搭載されていないため、機体寿命より早く引退した。特例期間として2003年(平成15年)9月30日まではTCASの装備なしでも飛行可能であったが、当時運航していた2社の内、エアーニッポン機材は同年8月31日をもって全機退役させることになり(最終フライトはJA8772で女満別から新千歳)、日本エアコミューターはTCASの簡易版である空中衝突警報装置(TCAD)の装備により、法律上は2006年(平成18年)12月31日まで運航可能の特例が認められた。上記によって2004年(平成16年)には、日本国内において就航させていた航空会社は日本エアコミューターのみとなり、2006年(平成18年)9月30日に法律上の期間を満了することなく全路線から撤退した。しかし日本国外では中古機を含めて当分は旅客機として活躍すると思われる。また、TCAS設置が義務付けられていない自衛隊においては、航空自衛隊にて現役で使用されているほか、日本航空学園では地上訓練用の教材として現役を続けている機体が存在する。


自衛隊
自衛隊では1965年(昭和40年)から1973年(昭和46年)までにYS-11を23機導入した。内訳は航空自衛隊13機、海上自衛隊10機であった。この採用には、世界への信頼誇示のため、防衛庁に進んで採用してほしいとの強い要望が通産省から寄せられたという話もある。空自の一部の機体はジェネラル・エレクトリック社製 T64-IHI-10J を搭載し、プロペラを3枚に変更した「スーパーYS-11」となっている。航空法改正により、日本の航空機は空中衝突防止装置の設置が義務付けられたが、自衛隊機は対象外であり、かつ民間機より飛行時間が短いため、民間YS-11が引退した後も運用されている。
航空自衛隊
航空自衛隊ではC-46の老朽化が進んでいたことから、次期輸送機導入までのつなぎとして、1965年(昭和40年)から1971年(昭和46年)にかけて、人員輸送機YS-11Pを4機、人員・貨物輸送機YS-11PCを1機、貨物輸送機YS-11Cを7機、飛行点検機(フライトチェッカー)YS-11FCを1機、それぞれ購入した。後に大型のC-130H輸送機が導入されたことから、余剰となったYS-11Cを他用途に改造した。2機が電子戦訓練機YS-11Eに、1機が航法訓練機YS-11NTに、2機が電子測定機(電子偵察機)YS-11ELに、2機がエンジンとプロペラを換装した「スーパーYS」電子測定機YS-11EBに、それぞれ改造された。EBの1機はPCからCとなったものを再改造した。YS-11ELの2機も後に「スーパーYS」化されて、YS-11EBに統合された。YS-11Eは「スーパーYS」に改造され、YS-11EAとなった。YS-11Pも2機がYS-11FCに改造された。
部品不足により、2015年6月22日に最初の1機が用途廃止となった[17]。
海上自衛隊
海上自衛隊は1967年(昭和42年)から1973年(昭和48年)にかけて前部が人員(40席)、後部が貨物の混載輸送機YS-11Mを導入した。1・2号機はYS-11-100をベースにした機体だが、3・4号機はYS-11A-300・400をベースにしており、最大離陸重量が増加した。この2機はYS-11M-Aとして区別される。また、1970年(昭和45年)から機上作業練習機YS-11T-Aを6機導入した。2009年、4機のうち1機が事故により用途廃止になるのを皮切りに順次引退が開始され、2014年12月26日、アメリカ海軍から中古のC-130R(アメリカ海軍が保管している中古のKC-130R空中給油機をアメリカ国内で動作可能状態に再生して、空中給油機能を取り外した機体)を6機を後継機に最後まで残っていた2機の退役を持って全機用途廃止となった。整備マニュアルは独自に作成した物を利用していたという。
海上保安庁
海上保安庁では、1965年(昭和40年)のマリアナ海域漁船集団遭難事件により、多数の船員を救助できなかった痛手を教訓とし、「行動半径700海里において2.5時間の低空捜索能力を有する」長距離捜索救難機を導入することになった採用されたYS-11Aは洋上での長距離飛行に備え、航法通信設備、六分儀、偏流計などの装備を追加、また、胴体後部には直径800mmの球形見張り窓(バブルウィンドウ)と横向き見張り窓、胴体下面にはシーマーカーなど標識投下装置2本、救命いかだなど物資投下口も設置された。翼内バグタンクのほかに815L入り胴体タンクを3個追加し、1,300kmの空域を低空で2時間半捜索できるようになった。LA701は尾部に磁気観測ヘッドを納めた強化プラスチック製の磁気探査装置ブームが装備されており、水路の地磁気と真方位、磁方位を定期観測していた。
1969年(昭和44年)3月20日、羽田航空基地にLA701号機が導入され、同年には根室沖で発生した船舶火災事件で15名の救出に成功するなど、早くも航空救難に活躍した。1971年(昭和46年)11月にはLA702号機が就役し、2機体制となった。その後、新海洋秩序による排他的経済水域の設定に伴う業務拡大で、1977年(昭和57年)度に全日空の中古リース機を3機購入し直し、羽田・千歳・那覇に5機が配備され、日本の領海をカバーする体制が完備された。千歳と那覇の4機には1991年(平成3年)5月に「おじろ」「しゅれい」の名が付けられたものの、羽田のLA701だけは名称がなかったが、1995年(平成7年)5月に「ブルーイレブン」と名づけられた。2000年(平成12年)からは「JAPAN COAST GUARD」のロゴ、次いでマスコットの「うみまる」シールも貼られた。
海上保安庁のYS-11Aは、救難や航路監視、領海警備、海底火山の観測などのほかにも、羽田所属機は特殊救難隊の空輸や南鳥島・硫黄島ロランC局の職員の送迎や物資運搬に、千歳所属機は冬季の流氷観測にも運用された。特に千歳所属機は、1990年(平成2年)にサハリンで大火傷を負った少年コンスタンティン・スコロプイシュヌイの北海道への救急搬送に用いられたほか、2度にわたるロシアへの緊急支援物資輸送に用いられた。「ブルーイレブン」はヨット捜索救助と中国密航船発見の功から、2度の長官表彰を受けた。
老朽化により2009年(平成21年)2月から解役が始まり、09年12月には「おじろ2号」が解役。最後まで残った「ブルーイレブン」も、42年間の総飛行時間は2万3,000時間以上に達していた上に、航空法の改正で改造が必要なことから、2011年(平成23年)1月13日に解役。退役した機体は、部品取り用に航空自衛隊に提供された。後継機には、2006年(平成18年)11月に、ボンバルディアのDHC-8 Q300海保仕様機を3機発注した。2009年(平成21年)から導入が始まっている。
航空局
運輸省(現国土交通省)航空局では飛行検査機として採用され、管制保安部に配属となった。前方右側の貨物扉を廃止、機体上面に短波・高周波アンテナ、2本のUHFアンテナ、後方下面にTACANアンテナ、2個のマーカーアンテナ、補助動力装置 (APU) の吸排気口増設などの改造が行われ、キャビンは前方に各種無線機器、自動操縦装置関係機器、オーディオ機器が置かれた作業室、後方を8名が搭乗できる客室とした。最初は機首部分と垂直尾翼、主翼先端が蛍光オレンジ色に塗られていたが、後に全身モノトーンホワイトと細帯に変更された。元東亜の2084(JA8709)は、後に飛行検査情報システム(AFIS)と空中衝突防止装置(TCAS)を搭載していたが、老朽化のために2006年(平成18年)12月22日に全機引退した。
航空局では後継機としてボンバルディアBD-700、サーブ2000、ボンバルディアDHC-8 Q300を採用した。引退した2003(JA8610)は量産1号機であり、記念として国立科学博物館によって東京国際空港内で年間約900万円かけて動態保存されており、2007年には日本機械学会によって機械遺産に、2008年4月には日本航空協会によって重要航空遺産に認定されている。
製造番号2084の機体(JA8709)は中古機として1985年に航空局へ登録された後、2007年4月に用途廃止され、長らく東京国際空港(羽田空港)にて保管されていた。2014年12月に実施された競売で大阪府のエアロラボインターナショナルが機体を落札、レストアを実施して再飛行を目指している。2015年5月27日午後、羽田空港から高松空港に飛行した。

YS-11は以下の記録を持っている。
定時出発率
エアーニッポンで使用していたYS-11は、1997年(平成9年)に定時離陸率99.6 - 99.8%、日本エアコミューターで運航されていたYS-11も2004年(平成16年)に定時出発率91.8%を達成している。これは世界の最新鋭飛行機でもなかなか達成できないものである。

退役したYS-11の一部は日本国内各地の博物館などに寄贈され、静態保存され展示されている。みちのく北方漁船博物館展示機は、元日本エアコミューターの機体だったが、日本エアシステムの塗装で展示されている。電車とバスの博物館のYS-11は、1988年1月10日に事故を起こした機体の前頭部コクピット付近のみのカットボディ。東亜国内航空塗装でフライトシミュレータとして使用されている。
試作1号機
千葉県山武郡芝山町(成田国際空港に隣接)航空科学博物館(展示開始 1989年8月)
元エアーニッポン機
岐阜県各務原市 かかみがはら航空宇宙科学博物館(展示開始 1996年)
埼玉県所沢市 西武新宿線航空公園駅東口駅前広場(管理は所沢航空発祥記念館)(展示開始 1997年)
香川県高松市香南町 さぬきこどもの国(展示開始 1998年)
佐賀県佐賀郡川副町 佐賀空港 (展示開始 1998年)
兵庫県豊岡市 但馬空港 (展示開始 1999年)
元日本エアコミューター機
青森県青森市 あおもり北のまほろば歴史館(展示開始 2003年)
青森県立三沢航空科学館(展示開始 2003年)
神奈川県川崎市宮前区 電車とバスの博物館
元崇城大学機
熊本県上益城郡益城町 熊本空港(展示開始 2013年)
元航空自衛隊機
あいち航空ミュージアム(展示開始 2017年秋)

総生産数は決して多くはないが、日本の高度経済成長期を象徴する存在の一つとしてのノスタルジーや、武骨な構造・独特のエンジン音などを持つ個性的な機体として、日本には多くのファンがいる。
日本国内の航空専門誌では「日本の名機」「日本初の名国産機」などとも評しているが、実際にはエンジンを初めとして計器類などパーツのほとんどは海外製で、重量過大や操縦性の問題といった未熟さを指摘する意見もある。
鉄道雑誌では同じ1964年東京オリンピックの前後にデビューした日本の乗り物として、陸の新幹線0系電車と対をなす存在として語られることがある。両者にはかつて軍用機製造に携わっていた人々によって作られた(YS-11については同じ航空分野のため自然な経過であるが、新幹線については三木忠直や松平精らのエピソードが著名)、という共通点がある。

仕様
出典: イカロスMook 旅客機年鑑、前間孝則著「YS-11 国産旅客機を創った男たち」
乗員= 2名
定員= 56-64名
全長= 26.3m
全幅= 32.0m
全高= 8.98m
主翼面積= 94.8m2
胴体直径= 2.88m
自重= 14,600kg(A-100型) 15,400kg(A-500型)
最大離陸重量= 23,500kg(A-100型) 24,500kg(A-200型) 25,000kg(A-500型)
エンジン= ロールス・ロイス ダート ターボプロップエンジン2,660-3,060 shp×2
最大巡航速度= 470-480km/h
失速速度= 140km/h
航続距離= 1,090km(フル搭載時) 2,200km(最大)
記録映画
日本航空機製造により、3本の記録映画が製作されている。現在フィルムは製作プロダクション等が所蔵しているが、目にする機会はきわめて少ない。作品中では「わいえすじゅういち」の呼称が使われている。 なお、『YS-11 新しい日本の翼』『YS-11 そのすぐれた性能』は2004年9月にチャンネルNECOで放送されている。

四ツ谷駅(JR東日本)中央・総武線

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四ツ谷駅(よつやえき)は、東京都新宿区四谷一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。駅の敷地内を区境が走っており、JR東日本の大部分および東京メトロ丸ノ内線の一部は千代田区麹町六丁目に所在している。


一部案内では「四ッ谷」と小さい「ッ」を用いることがある。丸ノ内線の隣駅は「四谷三丁目」、町名は「四谷」、駅前のバス停留所は「四谷駅」「四谷駅前」で、「ツ」が入らない。


当駅付近では、JR中央線、東京メトロ丸ノ内線ともに、ほぼ南北に走っている。経由地の違いから、JR中央線では北側が東京方面、丸ノ内線では南側が東京方面となっている。

JR東日本
配線
急行線、緩行線それぞれに島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。各ホームは御茶ノ水駅のような方向別ではなく線路別となっており、急行線・緩行線相互の乗り換えは階段を利用する必要がある。


ホームの信濃町寄りは曲線区間にあり、電車との隙間が広く開いている。主に快速で運用されるE233系の車内液晶ディスプレイでも到着時の案内で表示される。
特急列車は2017年3月現在「かいじ121号」のみが停車する。

「かいじ」は急行線を走行するため、2番線に停車する。
なおJR中央線は、2021年度以降の向こう5年以内をめどに快速電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行なう。そのため今後12両編成の列車が停車できるようにホームを延長する工事などが実施される。


駅舎
改札は2か所、出入口は3か所あり、出入口は、西側が四ツ谷口、東側が麹町口、南側が赤坂口となっている。ホームの中央付近に位置する改札は改札外コンコースを経て四ツ谷口と麹町口につながり、四ツ谷口にはびゅうプラザ・みどりの窓口・駅ビル「アトレ四谷」が立地している。南側の改札内跨線橋には立ち食い蕎麦店があり、南側の改札とつながる赤坂口は東京メトロ丸ノ内線のホームと直結している。


エスカレーターとエレベーターは、ホーム中央付近の改札内コンコースと各線ホーム間、四ツ谷口・麹町口と改札外コンコース間を結んでいる。
2011年2月、JR東日本は「エコステーション」事業に取り組むと発表した。

その事業第1号が当駅で、赤坂口駅舎の屋上に太陽光パネルを敷き詰めて太陽光発電を行うとともに、ホームの屋根上などを緑化するなど、環境に配慮した駅に改良する工事が行われた。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 JC 中央線(快速) 上り 東京方面


2 下り 新宿・立川・高尾方面
3 JB 中央・総武線(各駅停車) 東行 御茶ノ水・船橋・千葉方面


4 西行 新宿・中野・三鷹方面

 

JR東日本と東京メトロの2社が乗り入れ、接続駅となっている。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は中央本線のみであるが、一般列車の運転系統としては、急行線を走る中央線快速電車および緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が停車する。中央線快速電車については、八王子駅・高尾駅方面の列車と、立川駅から青梅線へ直通する列車も運行している。

また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属しており、各路線ごとに駅番号が付与されている。

 

JR東日本
JC 中央線(快速) - 駅番号「JC 04」
JB 中央・総武線(各駅停車) - 駅番号「JB 14」


東京メトロは丸ノ内線と南北線の2路線が乗り入れており、各路線ごとに駅番号が付与されている。
東京メトロ
M 丸ノ内線 - 駅番号「M 12」
N 南北線 - 駅番号「N 08」
南北線の列車は東急目黒線と埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)との3社直通運転を行っている。

駅周辺
迎賓館
外濠公園
紀尾井ホール
麹町本通郵便局
四谷駅前郵便局
文教施設
上智大学
日本教育大学院大学
学校法人雙葉学園
雙葉小学校
雙葉中学校・高等学校
学習院初等科
東京中華学校
四谷学院
主な法人・団体
聖イグナチオ教会
土木学会本部
法テラス東京
セブン&アイ・ホールディングス本社
オリエントコーポレーション本社
高千穂交易本社
主な宿泊施設
ホテルニューオータニ
東急ステイ四谷・東急ステイ四谷レジデンス
三井ガーデンホテル四谷
主な道路
国道20号(新宿通り・甲州街道)
東京都道405号外濠環状線(外堀通り)
東京都道414号四谷角筈線

 

1894年(明治27年)10月9日 - 新宿駅 - 牛込駅間開通と同時に甲武鉄道の駅として開業。旅客営業のみ。
1906年(明治39年)10月1日 - 甲武鉄道の国有化により、官設鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる。


1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道発足。
1959年(昭和34年)3月15日 - 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)丸ノ内線の駅が開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、中央本線の駅はJR東日本の駅となる。


1996年(平成8年)3月26日 - 営団地下鉄南北線 当駅 - 駒込駅間が開通。当初は始発駅だった。
1997年(平成9年)9月30日 - 営団地下鉄南北線 当駅 - 溜池山王駅間が開通。途中駅となる。


1999年(平成11年)5月3日 - 営団で女性駅職員が深夜勤務を開始(営団初。池袋駅・後楽園駅と同時。)。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本でICカード「Suica」の利用が可能となる。
2004年(平成16年)4月1日 - 営団地下鉄民営化により、丸ノ内線・南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)の駅となる。


2007年(平成19年)
3月18日 - 東京メトロでICカード「PASMO」の利用が可能となる。
5月18日 - 丸ノ内線でホームドアが運用開始。
2010年(平成22年)6月23日 - 目白駅とともに、東京都内としては国鉄・JRを通して史上初の女性駅長が着任。

所属事業者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 ヨヤ
駅構造 地上駅(橋上駅)


ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 95,546人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1894年(明治27年)10月9日
乗入路線 2 路線
所属路線 JC 中央線(快速)
(正式には中央本線)
駅番号 □JC 04
キロ程 6.6km(東京起点)
◄JC 03 御茶ノ水 (4.0km)(3.7km) 新宿 JC 05►
所属路線 JB 中央・総武線(各駅停車)
(正式には中央本線)
駅番号 □JB 14
キロ程 6.6km(東京起点)
千葉から42.7km
◄JB 15 市ケ谷 (0.8km)(1.3km) 信濃町 JB 13►
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅
* 四谷一丁目5番地25、千代田区麹町六丁目1番地などにまたがり、構内のテナントにはこれらの地番を使用するものがある。

JR四国)うずしお特急列車

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うずしおは、四国旅客鉄道(JR四国)および西日本旅客鉄道(JR西日本)が岡山駅・高松駅 - 徳島駅間を宇野線・本四備讃線・予讃線(瀬戸大橋線)・高徳線経由で運行する特急列車である。

基本的に高松市と徳島市の輸送を担う列車で、1988年4月10日に本四備讃線(瀬戸大橋線)の開通に伴い、それまで高松駅 - 徳島駅間で運転していた急行「阿波」をすべて特急に格上げする形で運転を開始した。1990年11月には、本四備讃線の開通時に「むろと」から改称された「阿波」も「うずしお」に吸収されている。
列車名は徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市(淡路島)の間にある鳴門海峡で発生する渦潮を平仮名表記したものである。なお、「うずしお」の名称は1961年から1972年まで、大阪駅(1964年以降は新大阪駅) - 宇野駅間を運行する特急の名称として使用されていた。


運行概況
2016年3月26日現在、高松駅 - 徳島駅間に14.5往復(下り15本・上り14本)、岡山駅 - 徳島駅間に2往復の計16.5往復(下り17本・上り16本)が運転されている。これは、気動車特急の運行本数としては同じくJR四国が運行する「宇和海」と共に日本最多である。なお、岡山駅発着の2往復(下り11・27号、上り6・22号)は、2001年3月3日からは宇多津駅 - 岡山駅間で「南風」と併結して運転されているが、こちらは日本の定期運行を行う特急列車としては唯一、二回方向転換する列車である。

停車駅
岡山駅 - 児島駅 - 宇多津駅 - 高松駅 - 栗林駅 - (屋島駅) - 志度駅 - (オレンジタウン駅) - (讃岐津田駅) - 三本松駅 - (讃岐白鳥駅) - (引田駅) - 板野駅 - (池谷駅) - (勝瑞駅) - 徳島駅
( )内の駅は一部の列車のみ停車する。
大麻比古神社への初詣客対応のため、板東駅に臨時停車することがある。
引田駅を通過する列車の一部は、2月末から3月3日までの引田ひなまつり期間中に同駅に臨時停車する。
- ( )内の駅が全通過:下り11号、上り22号
- 各駅停車:下り1・25・33号、上り2・4号

基本的には高松運転所に所属する車両が使用される。使用車両によって、ヘッドマークの色は異なる。
一列車あたりの車両数は、朝ラッシュ時の通勤・通学列車として利用の多い「うずしお4号」(高松駅 - 徳島駅間、5両編成)をのぞき、2両または3両編成で運転されている。ただし、阿波踊り期間中は5両編成に増結される列車もある。全列車が普通車のみで、グリーン車が連結されることはなく、指定席は常に1/3両から1両の設定で、自由席よりも多くなる列車はない。これは高松駅 - 徳島駅間の運行距離が100km未満であり、短距離利用の乗客が多く頻繁に乗り降りがあるため、自由席でも簡単に座れることなどの理由による。同じ車両で指定席と自由席に分かれる場合、「南風」などと同じく指定席部分には青色の座席カバーが装着される。
なお、高松駅・栗林駅・徳島駅以外の停車駅はホームの有効長が4両分しかないため、5両編成以上で運転される場合はドアカットを行う。
キハ185系気動車
「剣山」や「むろと」の高松運転所からの送り込み運用を兼ねて、高松駅発着の2往復(下り7・29号、上り8・32号)のみに充当されている。このうち、「うずしお」7号は土曜・休日などにキロハ186形を改造したイベント車両「ゆうゆうアンパンマンカー」が連結され、3両編成での運転になる。また、この車両の連結日には折り返しとなる「うずしお」32号が3両編成の運転になるが、「ゆうゆうアンパンマンカー」の営業は行わない。
N2000系気動車
最高速度130km/h運転に対応するN2000系が限定使用されている。2011年3月のダイヤ改正で「南風」の一部と運用が入れ替えられ、N2000系に統一された。
2両編成の2号車(7号車)、3両編成の3号車(8号車)には、車いす対応座席が設置されている。5両編成の4号は3・5号車(土曜・休日は2・4号車)に設置されている。
岡山駅発着の列車は2001年以降「南風」と併結運転を行うため、号数は6 - 8号車が付番される。N2000系が導入された当初は4両編成だったが、利用者の減少などもあって2008年以降は3両編成となり、2011年3月以降は2両編成も存在する。なお、線形の関係上、高松駅と宇多津駅で列車の進行方向が変わる。
過去の使用車両
キハ181系気動車
1993年に香川県と徳島県で開催された東四国国体秋季大会開催時期に2往復の定期列車に臨時運用で入り、5両または7両編成で運転された。同年3月の時点ですでに一般営業から離脱しており、この臨時運用で運転された「うずしお」がJR四国所有のキハ181系の特急列車としてのラストランとなった。
なお、先頭車のキハ181形にトイレが設置されていないこと、運転室後部に機器室が設置されているために定員が確保できなかったこと、2両編成での運転が不可能であったことから、定期列車には使用されなかった。
2000系気動車
2011年3月のダイヤ改正で「南風」の一部と運用が入れ替えられ、定期運用からは撤退。ただしダイヤが乱れた際やN2000系やキハ185系が緊急入場した場合、多客時(増結用含む)には運用に就くことがある。

国鉄時代
1959年(昭和34年):高松駅 - 徳島駅間を運行する準急列車「阿波」(あわ)運転開始。
1961年(昭和36年):「阿波」の一部列車に「なると」・「眉山」(びざん)の名称を与える。
別名称を与えられた「なると」・「眉山」は宇高連絡船を介して宇野駅で接続する列車が決まっているため、その誘導のためとされている。[要出典]
1962年(昭和37年):高松駅 - 牟岐駅間を運行する準急列車「むろと」運転開始。また、「眉山」・「なると」の名称を廃止。「阿波」に統合。
1966年(昭和41年):準急「むろと」を急行列車に昇格。
1968年(昭和43年):準急「阿波」を急行に昇格。
1969年(昭和44年):急行「むろと」の一部を高徳本線内をノンストップとして、牟岐線区間への速達化を図る。(高徳間1時間22分)
1975年(昭和50年):「阿波」の一部列車にグリーン車の連結を行う。その際、キロハ28 1を導入する。
1980年(昭和55年)10月1日:このときのダイヤ改正により、四国島内の急行列車へのグリーン車連結を廃止。
1982年(昭和57年)11月15日:ダイヤ改正で、急行「阿波」「むろと」にあった高徳本線内ノンストップ運行を終了。


民営化後
1988年(昭和63年)
4月10日:高松駅 - 徳島駅間運転の急行「阿波」をすべて特急列車に昇格し、全列車座席自由席列車である「うずしお」11往復で運転開始。1往復は瀬戸大橋線開業に伴い、岡山駅まで乗り入れ。「むろと」を「阿波」に名称変更。
当初は、岡山駅発着列車も含めた全列車が2両編成(全車普通車自由席)での運転が計画されていた。これは日本国有鉄道(国鉄)・JRグループの特急列車史上最短編成となったが、瀬戸大橋線の開業ブームにより、運転開始当日から岡山駅発着列車で1両が増結され、これが恒常的に行われるようになった。そのため、すぐに全列車が3両編成に増強され、しばらくして岡山駅発着列車以外は2両編成で運転されるようになった。
9月:「うずしお」の岡山駅乗り入れを2往復に増発。
1989年(平成元年)7月:瀬戸大橋上の騒音対策の関係で児島駅を通過とし、JR四国の乗務員が岡山駅まで乗務するようになる。
1990年(平成2年)
7月:「うずしお」の岡山駅乗り入れの2往復に指定席を連結。
11月21日:急行「阿波」を「うずしお」に格上げし、13往復に。3往復が牟岐線に乗り入れを開始し、海部駅までは上り2本・下り1本となる。これにより、高徳線・牟岐線の優等列車は特急「うずしお」に統一。
1992年(平成4年)3月:阿佐海岸鉄道阿佐東線開業で甲浦駅まで乗り入れ開始。
1993年(平成5年)
10月:「うずしお」の高松駅 - 徳島駅間が全列車3両編成での運転となり、指定席1両を連結。
10月24日 - 29日に開催された東四国国体秋季大会に合わせて、2往復の定期列車に臨時運用としてキハ181系気動車が充当される。また、キハ185系でも一部がグリーン車(キロハ186形)を連結した4両から7両編成となり、うち下り3本・上り2本が岡山駅まで延長運転されたほか、臨時列車として上り「うずしお」86号(高松駅 - 岡山駅間)が運転された。
1996年(平成8年)3月:「うずしお」の岡山駅乗り入れ2往復を含む6往復に、グリーン車指定席を連結。
1998年(平成10年)
3月14日:「うずしお」の岡山駅 - 徳島駅間2往復、高松駅 - 徳島駅間1往復にN2000系気動車を導入。1往復増発し、14往復に。児島駅に停車するようになり、JR西日本とJR四国の乗務員交代も再び児島駅で行われるようになった。牟岐線優等列車は「うずしお」が上り1本・下り2本、「剣山」が上り2本・下り1本となる。また、高松駅 - 徳島駅間の最速達列車は、途中、志度駅・三本松駅のみ停車として、55分で運転した。
10月3日:「うずしお」の高松駅 - 徳島駅間5往復にN2000系気動車を導入。1往復増発し、15往復になる。キハ185系のグリーン車の連結を中止。
1999年(平成11年)3月13日:「うずしお」のほとんどの列車を2000系気動車とする。徳島駅で系統分離され、徳島駅 - 甲浦駅間が上り1本・下り2本、徳島駅 - 牟岐駅間1往復は特急「むろと」となる。牟岐線に入る「剣山」は上り1本となる。


2000年代の動き
2001年(平成13年)3月3日:ダイヤ改正により、次のように変更。
1本のみ予讃線伊予西条発の列車が設定される。
岡山駅発着列車は従来停車していた坂出駅を通過とし、宇多津駅に停車するようになる。同時に、岡山駅 - 宇多津駅間で「南風」と併結運転を行うようになる。
2002年:リバイバルトレインとして西日本旅客鉄道(JR西日本)のキハ181系国鉄特急色編成による「うずしお」が高松駅→徳島駅間で運転。

2003年(平成15年)10月1日:伊予西条発の列車が高松駅で系統分離され、伊予西条駅 - 高松駅間は「いしづち」となる。
2005年(平成17年)3月1日:「うずしお」を1往復増発し、16往復になる。
2008年(平成20年)3月15日:全車禁煙になる。
2010年代の動き[編集]
2011年(平成23年)3月12日:ダイヤ改正により、次のように変更。
エル特急の呼称を廃止。
讃岐白鳥駅への停車が1往復増加。
「うずしお」4号を毎日5両編成、折り返しとなる「うずしお」3号(平日は5両、土曜・休日は3両)を毎日2両編成での運転に変更。これによって捻出した3両を活用することで、新たに「うずしお」5号を増発し、上り16本・下り17本になる。
2012年(平成24年)3月17日:ダイヤ改正により、次のように変更。
栗林駅・屋島駅・引田駅・板野駅・勝瑞駅への停車を拡大(勝瑞駅のみ臨時停車扱い)。これにより、栗林駅と板野駅に全列車が停車するようになる。
「うずしお」4号の土休日を4両編成に、「うずしお」5号の土休日・「うずしお」31号の金曜・土曜・休前日を2両編成に変更。
2014年(平成26年)3月15日:「うずしお」29号が讃岐白鳥駅に停車するようになる。
2016年(平成28年)3月26日:しおかぜ及びいしづちへの8600系投入によりしおかぜと宇和海の運転を完全に分離したことにより、宇和海の運転本数が増加。宇和海と共に気動車による最多運転本数の特急列車となる。


国 日本の旗 日本
種類 特急列車
現況 運行中
地域 岡山県の旗 岡山県
香川県の旗 香川県・徳島県の旗 徳島県
前身 急行「阿波」
運行開始 1988年4月10日
運営者 四国旅客鉄道(JR四国)
西日本旅客鉄道(JR西日本)
路線
起点 高松駅・岡山駅
終点 徳島駅
営業距離 74.5 km (46.3 mi) (高松 - 徳島間)
146.3 km (90.9 mi) (岡山 - 徳島間)
運行間隔 16.5往復
列車番号 3000D+号数(高松発着)
5000D+号数(岡山発着)
使用路線 JR西日本:宇野線・本四備讃線(瀬戸大橋線)
JR四国:本四備讃線・予讃線(瀬戸大橋線)・高徳線
車内サービス
クラス 普通車
座席 普通車指定席:1号車(半室)
普通車自由席:1 - 3号車(1号車半室)
その他 「ゆうゆうアンパンマンカー」:2号車(185系・増結)
技術
車両 2000系気動車(JR四国高松運転所)・185系気動車(JR四国高松運転所)
軌間 1,067 mm
電化 非電化
最高速度 最高130 km/h (81 mph)(2000系)
最高110 km/h (68 mph)(185系)

西尾口駅 名鉄西尾線

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西尾口駅(にしおぐちえき)は、愛知県西尾市寄住町柴草にある、名鉄西尾線の駅である。駅番号はGN09。駅周辺は駅名通り西尾市街地の入口に位置し、周辺は住宅が密集しています。

隣の西尾駅まで約800mしか離れておらず、利用者も非常に少ないため、昔は一部の普通も通過していた。現在通過していた列車は急行または準急になっており、普通列車は全て停車する。当駅を通る線路は直線であるため、当駅のホーム端から西尾駅のホームを見ることが出来る。
2006年(平成18年)2月、西尾線への駅集中管理システムの導入に伴う設置費用の軽減のため、名鉄は1日の乗降客数が300人以下の駅を廃止する事を関係自治体に通告したが、市街地にある駅は除外することとしたため、西尾口駅はこれに該当し廃止を免れている。

4両編成対応の単式1面1線ホームの高架駅で駅集中管理システム(西尾駅管理)導入の無人駅。トランパス対応。トランパス対応工事の際に同時に多目的トイレが設置されている。駅はコンクリート打ち放しで、武骨なイメージです。

駅入口には改札機が1台のみ設置、切符売場にはもタッチパネル式の券売機が設置されています。
1989年(平成元年)7月に完成した連続立体交差事業の際、将来の2面2線化に対応可能な構造に作られている。

2008年(平成20年)6月14日に西尾口駅手前から隣の西尾駅までの約600mが複線化された。西尾方面の列車は当駅を出るとすぐに35km/hの速度制限が掛かる。

のりば
路線 方向 行先
■西尾線

上り 新安城・名古屋・津島方面
下り 西尾・吉良吉田方面


高架下には自転車の駐輪場。

駅周辺
西尾市民病院
西尾市立伊文保育園
寄住稲荷
伊文神社
西尾スターボール
グラッチェタウン西尾(ヤマナカ西尾寄住店、ヤマダ電機西尾店)
マックスバリュ西尾店
愛知県道43号岡崎碧南線


1928年(昭和3年)
8月5日 - 碧海電気鉄道(碧電)が碧電西尾口駅(仮駅)を現在地より約200m新安城方に開業。
10月1日 - 愛知電気鉄道(愛電)により現在地付近に西尾口駅(仮駅)開業。碧電は碧電西尾口駅(仮駅)を廃止して西尾口駅(仮駅)に接続。
1929年(昭和4年)4月1日 - 西尾口駅(仮駅)廃止。
1930年(昭和5年)4月3日 - 再開業。愛電は西尾口駅、碧電は碧海西尾口駅と呼称。
1935年(昭和10年)8月1日 - 愛電が名岐鉄道と合併して名古屋鉄道が発足。「西尾口駅」が同社の駅となる。
1943年(昭和18年)12月16日 - 愛電西尾線岡崎新駅 - 西尾駅間休止に伴い「西尾口駅」休止。
1944年(昭和19年)3月1日 - 碧電が名古屋鉄道へ合併し、「碧海西尾口駅」が同社の駅となり、西尾口駅に改称(駅名を統合)。
1989年(平成元年)7月2日 - 高架化。
2007年(平成19年)11月14日 - トランパス導入。
2008年(平成20年)6月14日 - 西尾 - 西尾口(手前まで)の約600mを複線化。
2011年(平成23年)2月11日 - ICカード乗車券「manaca」供用開始。
2012年(平成24年)2月29日 - トランパス供用終了。


駅番号 GN 09
所属事業者 名古屋鉄道
所属路線 西尾線
キロ程 14.2km(新安城起点)
駅構造 高架駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 254人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1930年(昭和5年)4月3日
備考 無人駅(駅集中管理システム導入駅)
*1944年碧海西尾口から改称
*1989年高架化

Learjet 25B(ビジネスジェット機)

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リアジェット25は、アメリカの10席(2人の乗務員、8人の乗客)、ツインエンジン、高速であるビジネスジェット航空機リアジェット製。これは、Learjet 24の拡張バージョンです。Learjet 25Bは改良されたバージョン。FAAは1970年9月4日に認証を取得しました。

 

最初のモデル25は1966年8月12日に飛行し、最初のフライトは1967年11月でした。
Learjet 25はモデル24に似ていますが、長さは1.27m(4フィート2インチ)で、3人の追加の乗客が乗ることができます。1970年、Learjet 25Bは同年にLearjet 25Cとともに製造されました。タイプの開発は、より高度なCJ610-8Aエンジンと51,000フィートまでの天井の増加を含むモデル25Dおよび25Gで継続されました。

2機のゼネラルエレクトリックCJ610-6シングルロータ軸流ターボジェットエンジンは、後部胴体の両側にパイロンマウントされています。各エンジンは、海抜で2950ポンドの推力で評価されています。エンジン区画は、2段タービンに直接結合された8段軸流圧縮機、貫流環状燃焼システム、可変入口案内羽根、制御された圧縮機段間抽気、排気ノズルおよびアクセサリ駆動システムからなる。点火の開始は、二重出力コンデンサ放電システムによって行われる。点火サイクルが完了すると、点火プラグが点火を止め、燃焼が自立する。燃料制御計量システムは、エンジン燃焼器への燃料流量を選択する。

電気式RPMタコメーターは、エンジンの信号発生器と計器パネルの中心に位置するインジケーターで構成されています。ダイヤルのマーキングは、最大許容エンジン速度のパーセンテージに基づいています。大きなマーキングは0%から100%まで2%刻みで調整され、小さなダイヤルは0%から10%まで1%刻みで調整され、パイロットはより正確なエンジン速度設定を達成することができます。エンジン圧力比(EPR)システムにより、パイロットは、エンジンの制限を超えずに、認定された航空機の性能を満たすのに必要な電力を得ることができます。エンジン圧縮機入口圧力およびタービン吐出圧力は、EPRトランスミッタによって感知され、EPRインジケータに送信される電気信号に変換される。

燃料流は、燃料流システムを介して示される。各エンジンにおけるロータタービンを通る燃料流はロータを回転させ、ロータブレードがコイルフィールドを通過するとピックアップコイルがパルスを発する。脈動する直流電圧は平均化され、セレクタスイッチを通って燃料流量インジケータに送られる。

着陸装置、ブレーキ、フラップおよびスポイラーシステムは油圧作動式である。航空機25-061から25-180では、エンジン駆動の油圧ポンプは1500psiの圧力で流体をシステムに供給し、システム圧力は圧力調整器によって1250〜1500psiに維持される。航空機25-181およびその後の可変容積エンジン駆動ポンプは、1450psiの圧力で流体をシステムに供給し、静圧は1500〜1550psiに維持される。過度の加圧は、1700psiで開く圧力逃し弁によって防止される。プリチャージされたアキュムレータは、圧力サージを減衰させて吸収します。2つのモーター駆動シャットオフバルブは、緊急時にエンジン駆動ポンプへの油圧の流れを止めます。

補助油圧ポンプを装備した航空機では、インストルメントパネルの下部中央に位置する油圧ポンプスイッチが補助油圧ポンプを作動させ、機内待機油圧を提供します。圧力スイッチが液圧がプリセットレベルを下回るとポンプに通電し、圧力が正常に戻ったときにポンプを停止します。ポンプモータの過熱を防ぐには、3分のデューティサイクルと20分の冷却時間が必要です。

油圧収縮式着陸装置は、空気圧式ショック式ノーズおよび主ギアを備えた従来の三輪車構成のものである。メインギアは、各ストラットに2つのホイールとブレーキを装備しています。ブレーキシステムには、アンチスキッドシステムを備えた4つのパワーブースト型ディスクタイプのブレーキが組み込まれています。ノーズホイールは、エンジンに水が跳ね返るのを防ぐために特別に成形されたタイヤを備えています。

ノーズホイールステアリングは、同期原理を利用してラダーペダルによって電子的に制御されます。歯車の引き込みおよび伸長のための油圧は、配管、ホースおよび作動シリンダのシステムによって伝達され、リミットスイッチおよび電磁弁によって電気的に制御される。緊急延長は、油圧システムまたは電気システムに障害が発生した場合に空気圧で行うことができます。メインギアは、格納後に2つのドアで囲まれています。インボードドアは油圧式に作動され、一方アウトボードドアはメインギアストラットに連結されたリンケージによって機械的に作動される。鼻歯車ドアは、鼻歯車ショックストラットに取り付けられたリンケージを用いて機械的に作動する。
Learjet 25は、着陸後スピードを落とす主要な方法として車輪ブレーキを利用しています。ブレーキシステムは、パワーブーストのために油圧を利用します。ブレーキバルブは、メカニカルリンケージを介してラダーペダルトーブレーキを介して制御されます。圧力ライン内の2つのシャトル弁は、パイロットと副操縦士のペダル間の流体フィードバックを防止します。緊急制動のために、空気圧システムをブレーキシステムに接続する4つの追加のシャトルバルブ。最大制動効率に影響を与えるために組み込まれたアンチスキッドシステム。ブレーキの発熱を最小限に抑えてブレーキ摩耗を減らすために、パイロットはタッチダウン時にスポイラーを配備することをお勧めします。

各主車軸の車輪速度変換器は、それらが車輪によって駆動されるときに車輪速度に比例したDC電圧入力に交流周波数を誘起する。この周波数は通常の減速曲線と比較され、偏差があれば、影響を受ける車輪制御弁内の小さなトルクモータを作動させ、スプール弁によってブレーキ圧力を戻りラインに分流する。車輪回転速度が正常な公差限界まで加速すると、通常のブレーキ圧力が回復される。

Learjet 25は一般に5つの燃料タンクを備えています。2つの翼のタンク、胴体のタンクと2つの翼の先端のタンク。各翼のタンクは、外側の中央バルクヘッドから翼先端まで延び、各エンジンに別々の燃料を供給する。翼のタンク間の燃料移動を防ぐために、タンククロスフローバルブが設置されています。様々な翼リブに配置されたフラッパータイプのチェックバルブは、船内の自由な燃料流れを許容しますが、船外の流れを制限します。ジェットポンプおよび電気的ブーストポンプが、中央の隔壁の近くの各翼タンクに取り付けられ、圧力下で燃料をそれぞれのエンジン燃料システムに供給する。

先端タンクは、より長い時間を可能にする追加の燃料容量を提供する。各先端タンクに設置されたジェットポンプは、燃料を翼タンクに移送する。フラッパチェックバルブを介して燃料をウイングタンクに流すこともできるが、チップタンク内の燃料の下半分をジェットポンプで移送しなければならない。

Learjet 25のほとんどの機体には胴体タンクが取り付けられていました。胴体タンクは、搬送ラインおよび燃料移送弁を介して翼ブーストポンプによって充填することができる。タンクがいっぱいになると、フロートスイッチがウィングブーストポンプの電源を切ってバルブを閉じます。燃料移動中、胴体タンク移送ポンプは燃料を両翼タンクに汲み上げます。

航空機にはAC(交流)およびDC(直流)電気システムが装備されています。DCシステムは、2つの28ボルト、400アンペア、エンジン駆動スタータジェネレータから給電されます。2つの24ボルトバッテリは、DCシステムのスタンバイ電力を提供し、エンジンの始動に使用されます。AC電流は、2つの1000ボルトアンペア(VA)ソリッドステートインバータによって供給されます。インバータ出力は、並列バスタイを通して周波数同期されます。一部の航空機には、追加のシステム容量のオプションとして使用される1000 VA補助インバータがあります。

一次飛行制御は、二重制御車輪と舵ペダルの使用によって達成される。制御ホイールはエレベータとエルロンをケーブル、プーリ、プッシュプルチューブ、ベルクランクのシステムを介して機械的に操作します。トリム機能、マイクキーイング、オートパイロットオーバーライド、ステアリングシステムスイッチはコントロールホイールにあります。ラダーペダルは、方向揺れ制御のために舵を機械的に操作する。ノーズホイールステアリングは、ラダーペダルを介して電気的に制御されます。

従来のウィングフラップは、低速飛行特性を改善し、着陸および離陸速度を低減するために使用される。フラップは油圧作動式である。相互接続ケーブルは、その移動範囲全体にわたってフラップを同期させ、左フラップセクタに位置するリミットスイッチは、過度の移動を防止する。着陸装置がダウンしてロックされていない場合、可聴減音ホーンがフラップの伸びを25度以上に警告します。

失速警告システムは、鼻の両側に失速警告翼を使用する。羽根は、迎角トランスデューサへの調整された電圧入力を提供し、フラップ位置を補償するためのストール警告バイアスボックスによって修正される。迎え角変換器は航空機の迎え角に比例した電圧を供給します。機体速度が失速より7%上回ると、失速警報が制御コラムシェーカーに通電し、制御コラムを通じて低周波ビュッフェ信号を生成して乗員に警告する。両方の迎え角トランスデューサベーンが失速より5%上に増加すると、ピッチサーボは航空機のノーズダウン姿勢を指令する。ノーズダウン方向に加えられる力は、コントロールホイールで80ポンドです。迎え角トランスデューサの羽根が失速点を下回って減少すると、鼻下げコマンドが除去される。アタックアタックインジケータは、ストール警告システムからの信号を航空機の迎え角の視覚的表示に変換し、乗組員がストール注意ゾーンの近接を監視することを可能にする。インジケータ面は、緑色(安全)、黄色(注意)、赤色(危険)セグメントに分割されています。

対気速度表示は、単一のポインタ、デュアルスケール対気速度/マッハメーターによって提供されます。ポインタは、鼻区画上のピトーヘッドからの動圧に応答する。従来の対気速度スケールはノットで較正され、マッハスケールはマッハのパーセンテージで較正され、圧力高度の変化を補償するためにスケールを動かすアネロイドに接続されています。

エンジン抽気は、流量制御弁を介して熱交換器に流入する。キャビン温度は、キャビンを通る圧力ブリード空気の温度を調節することによって制御されます。ブリード空気は、背部フィン入口に入り、熱交換器を通過するラム空気によって熱交換器内で冷却される。熱交換器でのブリード空気冷却量は、熱風バイパス弁(H-弁)によって制御することができる。乗員は、Hバルブの位置を調整して、熱交換器でのブリード空気の冷却量を増減することができます。

冷凍式の冷却システムは、航空機が地上にあるとき、または18000フィート以下の高度で運転しているときに冷却および除湿に使用されます。再加熱システムは、荷物室の上に配置されたコンプレッサー、レシーバー脱水機および蒸発クーラーで構成されています。

Learjet 25キャビンは加圧されており、補給酸素を使用せずに高度の操作が可能です。キャビン圧力は、分配ダクトを介してキャビンに入る空調空気によって提供され、キャビンから排出される空気の量を調節することによって制御される。地上操作中、ソレノイドは、ドアと緊急出口が正常に機能するように、圧力差を0.25psiに制限します。最終的な巡航高度での圧力差は、圧力高度とキャビン高度の差8.7psiに維持されます。レートコントローラは、乗員が予め設定された限界内でキャビンの速度加圧を選択することを可能にする。通常の圧力リリーフバルブは8.9psiの差圧で開き、安全流出バルブは9で開きます。最大許容差圧である2psiの差圧。酸素は、航空機の背鰭に位置する加圧されたボトルに収容される。酸素の使用は、キャビンの減圧またはキャビン空気の汚染の場合にのみ、緊急時に必要とされる。酸素は乗組員にとって常に利用可能であり、乗客が手動または自動で利用できるようにすることができる。酸素貯蔵シリンダは38立方フィートの容量を有し、1800psiで貯蔵される。酸素破裂板は、酸素シリンダーの圧力が2700〜3000psiに達すると酸素圧を解放します。背鰭の外側表面にある緑色の船外インジケータは、破裂板が元のままでないことを示すために破裂または欠損する。酸素の使用は、キャビンの減圧またはキャビン空気の汚染の場合にのみ、緊急時に必要とされる。酸素は乗組員にとって常に利用可能であり、乗客が手動または自動で利用できるようにすることができる。酸素貯蔵シリンダは38立方フィートの容量を有し、1800psiで貯蔵される。酸素破裂板は、酸素シリンダーの圧力が2700〜3000psiに達すると酸素圧を解放します。背鰭の外側表面にある緑色の船外インジケータは、破裂板が元のままでないことを示すために破裂または欠損する。酸素の使用は、キャビンの減圧またはキャビン空気の汚染の場合にのみ、緊急時に必要とされる。酸素は乗組員にとって常に利用可能であり、乗客が手動または自動で利用できるようにすることができる。酸素貯蔵シリンダは38立方フィートの容量を有し、1800psiで貯蔵される。酸素破裂板は、酸素シリンダーの圧力が2700〜3000psiに達すると酸素圧を解放します。背鰭の外側表面上の緑色の船外インジケータは、破裂板が元のままでないことを示すために破裂または欠損する。酸素貯蔵シリンダは38立方フィートの容量を有し、1800psiで貯蔵される。酸素破裂板は、酸素シリンダーの圧力が2700〜3000psiに達すると酸素圧を解放します。背鰭の外側表面にある緑色の船外インジケータは、破裂板が元のままでないことを示すために破裂または欠損する。酸素貯蔵シリンダは38立方フィートの容量を有し、1800psiで貯蔵される。酸素破裂板は、酸素シリンダーの圧力が2700〜3000psiに達すると酸素圧を解放します。背鰭の外側表面にある緑色の船外インジケータは、破裂板が元のままでないことを示すために破裂または欠損する。

タクシー操作は、電子式ノーズホイールステアリングを用いて行われる。可変権限ノーズホイールステアリングを持たない航空機のステアリングシステムでは、パイロットがマスターまたはプライマリステアリングモードを選択する必要があります。マスタモードでは、10度の操舵が可能です。このモードは、タクシー、離陸、穏やかなターンに適しています。プライマリステアリングモードでは、最大45度の旋回角が可能で、低速の積極的なステアリング操作に適しています。可変権限ステアリングを装備した航空機では、操縦権限は地上速度によって変化する。Learjet 25に搭載されたCJ610-6エンジンは、慣性が非常に低く、急速に加速します。アイドリングから100%RPMに加速するのに要する時間は約4秒です。この優れたスロットルレスポンスは、迅速な加速と正確な出力設定を可能にします。

スポイラーは、通常の降下速度を高める有効な手段を提供し、速い対気速度減速を達成するための抗力装置として使用することができる。

エンジンの風車との最適な滑空距離は、きれいな飛行機の構成で、160〜170ノットの滑り速度で得られます。このスピードでは、リアジェット25は高度10000フィート毎に約26海里を滑空します。これは16:1の滑空比で、ギアとフラップを持ち、11,000〜12,000ポンドの総重量を持つ翼レベルの滑空に基づいています。

Learjet 25は、最も一般的な航空機やより現代的なライトジェット機と比較して飛行機に乗ることが難しい航空機です。パイロット作業負荷は高く、接近、着陸、離陸の速度は民間航空機の平均以上です。Learjet 25はまた、高高度または周囲温度で長い滑走路を必要とします。Learjet 25Bは6,000フィートの仰角、50°の華氏、平均5人の乗客で滑走路を約8,000フィート必要とします。


一般的な特性

乗組員: 2人のパイロット
定員: 8名
長さ: 47フィート7インチ(14.50メートル)
ウィングスパン: 35フィート7インチ(10.84メートル)
高さ: 3.73m(12フィート3インチ)
翼面積: 21.73平方フィート(21.73m 2)
エアフォイル: NACA 64A109
空重量: 7,640ポンド(3,645 kg)
マックス 離陸重量: 15,000ポンド(6,804 kg)
パワープラント: 2× General Electric CJ610 -6ターボジェット、2,950 lbf(13.1 kN)
パフォーマンス

クルーズ速度: 41,000フィート(12,500m)で534mph(464ノット、859km / h、マッハ0.81)
ストール速度: 105mph(91ノット、169km / h)
範囲: 1,767 mi(1,535 nmi、2,853 km)、4人の乗客、最大燃料、および45分間の予備
サービス上限: 45,000フィート(13,715 m)
上昇率: 6,050フィート/分(30.7 m / s)

 

 

痛車初音ミク(EVERY )スズキ

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初音 ミク(はつね ミク、Hatsune Miku)は、クリプトン・フューチャー・メディアから発売されている音声合成・デスクトップミュージック (DTM) 用のボーカル音源、およびそのキャラクターである。
ヤマハの開発した音声合成システム「VOCALOID」に対応したボーカル音源で、メロディや歌詞の入力により合成音声によるボーカルパートやバックコーラスを作成することができる。息継ぎ、強弱も入力可能。また、声に身体を与えることでより声にリアリティを増すという観点から女性のバーチャルアイドルのキャラクターが設定されている。

初音ミクは、クリプトン・フューチャー・メディア(以下クリプトン)が2007年から展開している、ヤマハが開発した音声合成システムVOCALOIDにより女声の歌声を合成することのできるソフトウェア音源で、対応エンジンのバージョン、声質の違いにより複数の製品が発売されている。最初の製品は、2007年8月31日に、声に歌い手としての身体を与えることでより声にリアリティを増すという観点からソフトウェア自体をバーチャルアイドル(バーチャルシンガー)と見立ててキャラクター付けした製品シリーズ「キャラクター・ボーカル・シリーズ(CVシリーズ)」の第1弾として発売された。初音ミクは「未来的なアイドル」をコンセプトとしてキャラクター付けされている。名前の由来は、未来から来た「初めての音」から「初音」、「未来」から「ミク」。発売元のクリプトンはキャラクター画像については非営利であればほぼ自由な利用を認めており、ユーザーによる歌声の利用だけでなくキャラクターを用いた創作活動をも促進する形がとられている。
動画を中心に初音ミクが「歌っている」歌という形をとった、あるいは初音ミクを題材とした、10万曲以上に上るとされる楽曲や、イラスト、CGによるプロモーションなど様々な作品が発表されており、初音ミクはこうした多くのユーザーの手による多彩な創作物から形づくられる、消費者生成メディア (CGM) により成立している女性アイドルという性格を持つ。ユーザーによる創作物の中には、キャラクター利用の許諾を受けた上でCD、書籍などの形で商業展開が行われているものもある。また、キャラクターとしての人気の高さからゲームソフトや、キャラクターフィギュアなど関連商品、CG映像を使ったライブなど企業の企画からなる商業展開も多く行われているが、それらについてもフィギュアにアイテムとしてネギを付属させるなど、ユーザーによる創作から広まった流行を取り入れることも行われている。

初音ミクの元々のキャラクターデザインはイラストレーターのKEIによるもので、頭髪は青緑色、髪型はくるぶしまで届く長さのツインテールで、黒のヘッドセットを装着している。衣装は襟付きノースリーブの上着にネクタイ、ミニスカートにローヒールのサイハイのブーツ、黒を基調として所々に青緑色の電光表示をあしらっている。左上腕部には赤色で「01」とキャラクター名をデザインしたタトゥーが入れられており、数字についてはキャラクター・ボーカル・シリーズで最初に発売された製品であることを表す。初音ミクのデザインは、ヤマハのシンセサイザー・DX7をモチーフとしており、これは1983年に発売されデジタルシンセサイザーの普及に貢献したヒット商品であるDX7にちなみ、初音ミクも一時代を築いて欲しいとの願いを込めて、ヤマハの担当者を説得した上でデザインに取り入れたものであるという。また、後述の公式プロフィールにあるように年齢、身長、体重も定められている。
キャラクター設定については、キャラクターを色付けしすぎないことも考慮されており、企画時には考えられていた背景設定なども採用は見送られ、最低限のプロフィールだけとなっている。また、発売後ブームとなってからはキャラクターを用いた作品の商業展開(初音ミクのメディア展開を参照)も行われているが、ユーザーによる創作物において好きなイメージの初音ミクがそれぞれ存在しているという状況があり、そうして拡散した初音ミクのイメージを収束させてしまう懸念から「初音ミクの公式コミックスを作ったり、公式アニメにしたりすることは考えていない」としている。キャラクターデザインを行ったKEIの手がける漫画作品「メーカー非公式 初音みっくす」もタイトルにあるように「非公式」という扱いになっている。ユーザーの創作から生み出されたものの中には後述の「ネギ」のように広く受け入れられ、関連グッズなどの商業展開に取り入れられた例もあるが、これも公式設定に組み入れられているわけではない。
各製品のパッケージ等に使用されているキャラクターイラストは、最初のVOCALOID2版のパッケージではKEIの描いたものが用いられているが、以降に発売となる各製品ではそれぞれ異なる作家が起用されている。2010年4月に発売された『初音ミク・アペンド』のパッケージでは初音ミクがその流行の中で様々な絵師によって描かれてきたことを踏まえ、特定の絵師が描くのではなく、フィギュア原型師の浅井真紀がデザインした3Dのフィギュア「Miku(Zero-Vocalist ver)」にイラストレーターの ねこいた が着色をする、という形がとられた。2013年8月に発売の『初音ミクV3 English』では ざいん が、同年9月発売の『初音ミクV3』ではiXimaがイラストを担当している。


エブリイ(EVERY )は、スズキ(1990年9月以前は鈴木自動車工業)が製造、販売するワンボックス型の軽自動車。
車名は英語で「どこへでも」の意味といわれるが、everyには「あらゆる」の意味しかない(「どこへでも」は「エブリウェア(everywhere)」である)。高い積載性と、キビキビ走る軽快さを兼ね備えたワンボックス車をイメージして命名された。なお、カナ表記に関しては源流である姉妹車の軽トラック「キャリイ」同様、「エブリィ(最後のイが小文字)」「エブリー(長音)」などと誤表記される例が少なからず存在する。

5ナンバー登録の乗用車と4ナンバー登録の商用車がラインナップされ、商用はエブリイ、乗用はエブリイワゴン(EVERY WAGON)を名乗る。現時点で7代51年(ただしキャリイバンを除いた場合は6代33年)の歴史があり、軽自動車の中では4番目に息の長い車名である。
マツダにOEM供給を行っているスクラム、日産自動車にOEM供給を行っているNV100クリッパー/NV100クリッパーリオ、三菱自動車工業にOEM供給を行っているミニキャブバン/タウンボックスは、この車両を元にエンブレムや一部外装パーツの変更を行ったものである。
大宇国民車(現:韓国GM)からは、2代目(キャリイにおける9代目)が「ダマス(DAMAS)」(キャリイトラックは「ラボ(LABO)」)と言う名称で登場し、いずれも現在も韓国やウズベキスタン(GMウズベキスタン)で生産されているが、ダマスはフェイスリフトを受け、「ダマスⅡ」に進化している(その大宇国民車経由で南米でも「Chevrolet CMV」として販売されている)。
台湾・福特六和においては2代目が「フォード・プロント」、4代目が「フォード・PRZ」としても販売された。

5代目/ワゴン2代目(2005年-2015年)
販売期間 2005年8月 - 2015年2月
乗車定員 4人
ボディタイプ 5ドアセミキャブオーバー型ワンボックスカー/ライトバン
エンジン K6A型 660cc 直3 DOHC
K6A型 660cc 直3 DOHC ターボ
駆動方式 FR/4WD
変速機 5MT/3AT/4AT
サスペンション 前:マクファーソンストラット
+コイルスプリング
後:I.T.L.
(アイソレーテッド・トレーリング・リンク)+コイルスプリング
全長 3,395mm
全幅 1,475mm
全高 1,795-1,880mm
ホイールベース 2,400mm
車両重量 870-1030kg
別名 マツダ・スクラム
日産・NV100クリッパー
三菱・ミニキャブ
-自動車のスペック表-
2005年8月26日
フルモデルチェンジ。[DA64]
共通特徴として、5MT車を含めて全車インパネシフトを採用し、前席の左右ウォークスルーが可能になった。また、ドアハンドルはグリップタイプに変更した。「エブリイワゴン」は『軽のミニバン』をコンセプトに開発され、軽自動車では初となる後席パワースライドドアを「PZターボ(左側のみ)」、「PZターボスペシャル(両側)」に装備。また、「PZターボスペシャル」では電動オートステップも採用している。外装は開放的な大きな窓を表現する為、ピラーの一部をブラックアウト化したほか、ドアハンドルにはメッキを、スライドドアのレール部分もスライドドアレールガーニッシュで覆い、すっきりとした。「エブリイ」は「GA」以外の全グレードでリアコンビランプをバンパーに組み込み、開口部を広くした。また、長尺物を運ぶ際に最適な助手席前倒し機構やパワードアロック、運転席・助手席SRSエアバッグを全車に標準装備し、「PC」・「JOIN」・「JOINターボ」ではセキュリティアラームシステムも標準装備した。また、「JOINターボ」を除く2WD車と「JOINターボ」の5MT車は「平成22年度燃費基準+5%」を達成すると共に、「PU」の2WD車は「平成17年排出ガス基準50%低減レベル(☆☆☆)」認定を取得した。
中華圏特別行政区の香港、およびマカオでは660ccの排気量のまま輸出されている。
2006年1月
仕様変更(2型)。
2006年2月2日
福祉車両「ウィズシリーズ」の「後席リフトアップ車」をフルモデルチェンジ・改名した「乗降シート車」及び新たなラインナップとして「車いす仕様車」を発売。
「乗降シート車」はベースモデルをエブリイからエブリイワゴンに変更するとともに、リモコンはキーホルダータイプに変更。乗降シートには専用フットレストが新たに装備され、シートスライドとリクライニングも電動式となった。新たに設定される「車いす仕様車」はリアシート無のエブリイとリアシート付のエブリイワゴンの2種類が設定されており、共通でリモコン操作できる電動ウインチを標準装備。また、エブリイ「車いす仕様車」には乗車中の介助を可能とする介助者用の補助シート付車を設定。エブリイワゴン「車いす仕様車」は内装色に明るめのベージュ系色を採用し、折り畳みや脱着ができるリアシートを採用したことで、車いすで乗車しない時は通常車と同じく4名乗車できるようにした。
2006年10月30日
エブリイ「PU」をベースにICカード読取装置や通信機を装備した「カーシェアリング専用車」の受注生産・納入開始。
2006年12月4日
「エブリイワゴン」の「PZターボスペシャル」をベースに、本革使用の専用シート、木目調インパネなどを装備した特別仕様車「レザーセレクション」を発売。
2007年7月9日
「エブリイ」、「エブリイワゴン」共に一部改良(3型)。
「エブリイワゴン」は、フロントシートを改良し、ボディカラーは「ミステリアスバイオレッドパール(オプションカラー)」を追加の上、「ターコイズグリーンパールメタリック」、「ディープローズレッドパールメタリック」、「アズールグレーパールメタリック」の3色を廃止して5色に整理。「PZターボ」・「PZターボスペシャル」はフロントメッキグリルのデザインを一新し、シート表皮をベージュに変更。新たにディスチャージヘッドランプを追加設定(ディスチャージヘッドランプ装着車にはセンタースピーカーが追加装備され、MD/CDプレイヤーのオプション設定ができる)された。このディスチャージヘッドランプは、当時のスズキの他車種のディスチャージランプ車がロービーム/ハイビーム兼用のプロジェクタータイプの2灯式なのに対し、スズキ初のロービーム専用のマルチリフレクタータイプとなり、同装着車はハイビーム専用のマルチリフレクタータイプハロゲンヘッドランプがロービームの上につく縦4灯式となっている。「PZターボスペシャル」にはルーフエンドスポイラーを追加装備したハイルーフ仕様を追加設定。「JP」・「JPターボ」はフロントフードにメッキガーニッシュを追加し、シートとドアトリム表皮をブラウンに変更。「JP」のハイルーフ仕様は3AT車のみとなる。
「エブリイ」は、フロントシートを改良したほか、「PC」・「JOIN」・「JOINターボ」はシートとドアトリム表皮(「JOINターボ」のみ)を変更し、ボディカラーの「ターコイズグリーンパールメタリック」を廃止し、替わって「ブルーイッシュブラックパール3」を追加。
2007年11月
「エブリイワゴン」を仕様変更。ボディカラーに同年2月に発売を開始したワゴンRスティングレー設定色の「スパークブラックパール(オプションカラー)」を追加した。
2008年4月
仕様変更(4型)。
2009年12月10日
「エブリイワゴン」の「JPターボ(標準ルーフ車)」をベースに、フロントメッキグリル、アンダースポイラー(フロント・サイド・リア)、13インチアルミホイール、フロントフォグランプ、LEDサイドターンランプ付ドアミラーを装備し、ベージュのファブリックシート表皮とドアトリムクロスを採用した特別仕様車「JPターボリミテッド」を発売。ボディカラーは4色を設定し、オーディオレス仕様としている[23]。
2010年5月18日
「エブリイ」、「エブリイワゴン」共に一部改良(5型)。「エブリイワゴン」はエンジンの圧縮比を上げたことで燃費を0.2km/L向上すると共に、ターボチャージャーの高効率化などで低回転域のトルクが向上し、街中での走行性能を高めた。また、「PZターボ」・「PZターボスペシャル」ではエクステリア・インテリアを変更し、フロントにはメッキグリル、エアロバンパー、マルチリフレクターハロゲンフォグランプを採用。リアにもエアロバンパーを採用すると共に、コンビネーションランプをクリアタイプに変更。サイドもアンダースポイラーのデザインを変更し、ターンランプのレンズ色にはホワイトを採用。また、シート表皮のセンター部分を細かなブロック柄に変更するとともに、フューエルキャップを給油時の紛失防止のために、既にパレットなどで採用されていた、フューエルリッド裏側から伸びたプラスチック製のひもに引っ掛けられた形とし、給油時にキャップがボディに当たらないようにするためのキャップホルダーがフューエルリッド裏側に取り付けられた。ボディカラーは新たに「ブリーズブルーメタリック(2010年6月発売)」を追加する共に、既存色を整理し、全5色となった。なお、今回の変更でNA車の「JP」が廃止し、全車ターボエンジン仕様となった。「エブリイ」はNA・3AT車のギア比の見直しを行い、「JOINターボ」は「エブリイワゴン」と同じくエンジンとターボチャージャーの改良などを行い、燃費を0.2km/L向上。「JOINターボ」は街中での走行性能も高めると共に、5MT車は「平成22年度燃費基準+10%」を達成した。
2012年5月17日
仕様変更(6型)。同年7月からのシートおよびシートベルトに関する保安基準の改正に対応し、エブリイは「JOIN」系を除くグレードにおいて、フロントシートをヘッドレスト一体型から分離型に変更。従来からヘッドレスト分離型フロントシートを採用していたエブリイの「JOIN」系とエブリイワゴンは、フロントシートのヘッドレスト大型化と、リアシートのヘッドレスト形状を鞍(くら)型に変更し大型化した。
2013年4月10日
エブリイの3AT車を一部改良。エンジン制御を改良し、4WD車には転がり抵抗低減タイヤも併せて採用することで燃費を向上するとともに、触媒の変更により排気ガスのクリーン化も行ったことで、ガソリン車の軽キャブバンクラスで初となる「平成17年排出ガス基準75%低減レベル(☆☆☆☆)」と「平成27年度燃費基準」を同時に達成した。なお、今回の一部改良により「PU」を廃止した。
2013年12月3日
日産自動車へ2代目NV100クリッパー及びNV100クリッパーリオとしてOEM供給を開始。
2014年2月27日
三菱自動車工業へ7代目ミニキャブバン及び2代目タウンボックスとしてOEM供給を開始。これにより、日本国内の自動車市場では稀な4兄弟車種となった。
2014年10月
仕様変更。「ミステリアスバイオレットパール(オプションカラー)」と「ブリーズブルーメタリック」を廃止した(OEM車種のスクラムワゴン(「ミステリアスバイオレットパール」のみ)、NV100クリッパーリオも同様、ミニキャブタウンボックスは当初から当該色は未設定である)。

県病院前停留場(広島電鉄宇品線)

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県病院前停留場(けんびょういんまえていりゅうじょう、県病院前電停)は、広島市南区宇品神田一丁目および翠一丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。


宇品線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが設けられている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配置されている。ただし互いのホームは南北方向にずれて位置しており、交差点の北側に広島港方面へ向かう下りホーム、南側に広島駅・紙屋町方面へ向かう上りホームがある。

ホーム長はいずれも3両・5両連接車に対応している。利用客が多い停留場であるが設備の安全性に難があったため、2014年(平成26年)には改修工事が実施され、下りホームの上屋の延長と上下両ホームに設置されていた安全柵の交換がなされた。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち1号線、3号線、5号線、それに0号線が乗り入れる。ホームの幅は車椅子利用者には狭いホーム幅です。

下りホーム 1号線3号線5号線 広島港ゆき
3号線5号線 宇品二丁目ゆき
上りホーム 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき
5号線 比治山下経由広島駅ゆき
ホームには横断歩道からスロープで連絡します。

周辺
周辺は古くからの住宅街である。県立広島病院は停留場の南東方向にあり、付近には県立広島大学や宇品郵便局が立地している。かつての停留場名にもなっていた旧制広陵中学校の校地はみゆきプラザ(みゆきパーク・マンション、イオンみゆき店)として利用されており、その北には千田廟公園がある。

県病院方向に伸びる県道86号はかつての海岸線・堤防に相当する。それ以南はかつて海であり、明治時代以降に宇品港築港により造成された埋立地である。堤防があった名残として、当停留場から宇品方面に向けては路面が下っている。堤防の土手には桜の木が植えられていたことから「桜の土手」と称され、戦時中の1945年(昭和20年)6月には県道86号の方向に「桜土手引込線」と呼ばれる留置線が敷かれ、車両の疎開が行われた


当停留場は1935年(昭和10年)、宇品線の御幸橋東詰から宇品までの区間が宇品通りを通る新線に移設されたのと同時に開設された。当時は停留場近くに旧制広陵中学校が存在していたため、広陵中学前停留場(こうりょうちゅうがくまえていりゅうじょう)という停留場名であった。

1945年(昭和20年)8月6日には原爆投下により宇品線をはじめ広島電鉄の市内電車は全線不通となるが、当停留場を含む宇品線の電鉄前から向宇品までの区間は被爆の同月中に復旧を果たしている。1948年(昭和23年)には原爆投下により焼失した公立広島病院の後を継いだ県立広島病院が当地に開院、これを受けて停留場名は県病院前停留場に改められている。


1935年(昭和10年)12月27日 - 宇品線の御幸橋東詰 - 宇品間が新線へ移設、同時に広陵中学前停留場として開業。
1948年(昭和23年)頃 - 県病院前停留場に改称。
2014年(平成26年)12月15日 - ホームの改良工事が完了する。

駅番号 ●U11
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宇品線
キロ程 3.5km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日


DD54形ディーゼル機関車33号機

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- 1971年、三菱重工業製。
交通科学博物館から移転してきた機関車で、移転前は交通科学博物館第2展示場で保存されていた。

DD54形ディーゼル機関車は、日本国有鉄道(国鉄)が1966年から設計・製造した亜幹線用液体式ディーゼル機関車である。

国鉄の幹線・亜幹線用ディーゼル機関車としては既にDD51形が実用化されていた。DD51形では1,000馬力級エンジンを2基搭載として大出力を得たが、1950年代後半以降、ヨーロッパの各国国鉄では西ドイツ国鉄V160形(後の216形。2,000馬力機関搭載)やベルギー国鉄200形(2,000馬力機関搭載)、フランス国鉄BB67000形(2,400馬力機関搭載)など、2,000馬力から2,700馬力程度の出力のディーゼルエンジンを1基搭載し、車両重量の軽減・保守の容易化・製造コストの削減を狙った設計の本線用ディーゼル機関車の量産が行われており、日本でも注目されていた。
しかし、この時代の日本においては、車載可能なクラスの2,000馬力級ディーゼルエンジンの製作経験がなく、またこのクラスの単一機関出力に対応するトルクコンバータを自力で設計・製造することも技術的に困難であった。
そのような状況下で、三菱重工業が当時、液体式ディーゼル機関車の設計製作で先進国であった西ドイツ(当時)のメーカーからライセンス供与を受けて技術を導入、まず1962年に西ドイツから輸入され、無分解運用が可能と謳われた1,820馬力級ディーゼルエンジン、およびこれに対応し自動変速を可能とした液体式変速機を搭載したDD91形を試作製造。同機は1965年まで国鉄に貸し出されて山陰本線の京都 - 園部間などで試験運用された。
同形式は試験終了後国鉄籍に編入されずそのまま三菱重工業に返却された。
試験結果が好成績であったこと、さらに同等の車両がイギリスでも導入・運用されていた実績から、これを基本とした亜幹線用液体式ディーゼル機関車が量産されることとなり、本形式が設計された。
ただ実際の運用に入ると、当時の日本では手に余る技術であった事にくわえ、西ドイツ側との連携不足などもあり、トラブルを頻発させていた。そのためいずれの個体も法定耐用年数(18年)を終えず運用を離脱している。結果、失敗機関車との烙印を押され、国鉄の資産運用について国会で質疑応答が行われる事態にまで発展した。
製造
1966年に試作車としてDD54 1 - DD54 3の3両が製造され、各種試験に供された後、1968年から1971年までの4年間にDD54 4 - DD54 40の37両が量産車として製造。西ドイツ側メーカーと三菱重工業がライセンス契約を結び、国内で製造を行った。
その開発経緯から、全車とも三菱重工業が製造を担当しており、製番は順に1389 - 1391・1485 - 1489・1631 - 1640・1738 - 1744・1750・1751・1753・1765 - 1776となる。
なお、わずか4年間に集中して37両が製造されたにもかかわらず製番が連続せず、かなり細かく細分化されている。これは当時の三菱重工業三原製作所が国鉄向けの他形式の機関車も国鉄から受注・生産していたため[4]であり、欠落部分の番号の大半はそれらに割り当てられている。
ライセンス生産となったエンジンや変速機については契約上、日本側での設計変更や改造は認められておらず、あくまで製造のみが認められていた。この事項が同機関車の運命を決定づける要因になった。
車体
車体は前後に運転台を配した「箱形」である。試作車にあたるDD91形ではいわゆる湘南形の、2枚窓構造の運転台を備えた平凡な構造・形状であったが、本形式に先行して設計・製造されたED72形・ED73形交流電気機関車と同様に窓下を突出させた「くの字」状の前面形態が採用され、車体断面も側板の上半分を内側に傾斜させた、ヨーロッパ調の独特のエクステリアデザインとなっている。
重連運用は想定していないため正面貫通扉は装備せず、総括制御に必要な釣り合い管や制御用ジャンパー線などを設置していない。

製造所 三菱重工業
製造年 1966年 - 1971年
製造数 40両
引退 1978年
主要諸元
軸配置 B-1-B
軌間 1,067 mm
全長 15,300 mm
全幅 2,922 mm
全高 4,058 mm
機関車重量 約70t
台車 DT131B
(動力台車:DD54 1 -DD54 3)
DT131E
(動力台車:DD54 4 -DD54 40)
TR104
(付随台車:DD54 1 - DD54 3)
TR104A
(付随台車:DD54 4 - DD54 40)
動力伝達方式 液体式
機関 V型16気筒ディーゼル機関
DMP86Z
機関出力 1,820 ps / 1,500 rpm
保安装置 ATS-S
最高速度 95 km/h
備考 製造時期により外観に差異
32 - 37は元空気溜管引き通し装備

元宇品口停留場(広島電鉄宇品線)

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元宇品口停留場(もとうじなぐちていりゅうじょう、元宇品口電停)は、広島市南区宇品海岸二丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。かつては当停留所周辺に国鉄宇品線の線路跡が残っていました。

宇品線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷かれた併用軌道であるが、宇品地区では軌道敷が道路から独立した専用軌道の区間があり、当停留場は併用軌道と専用軌道との境界に位置する。ホームは低床式で2面あり、東西方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配置されている。ただし互いのホームは交差点を挟んで斜向かいに位置しており、交差点の東に広島港方面へ向かう下りホームが、西に広島駅・紙屋町方面へ向かう上りホームがある。

ホームは上屋とベンチが備え付けられ、ホーム長は3両・5両連接車に対応している。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、1号線、3号線、5号線、それに0号線が乗り入れる。

下りホーム 1号線3号線5号線 広島港ゆき 3号線は午前ラッシュ時のみの運行
上りホーム 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき 午前ラッシュ時のみの運行
5号線 比治山下経由広島駅ゆき
ホームには横断歩道からスロープで連絡しています。

周辺
付近は北側が住宅街、南側は元宇品(宇品島)への入り口となっている。島とは暁橋でつながっていて、島内には元宇品公園が広がる。いっぽう軌道のすぐ北側には、国道の広島南道路・高速道路の広島高速3号線が並走している。

西堤防沿いに敷かれていた宇品線の旧線跡は2車線の道路となっていて、当停留場から北に伸びている。

広島港公園
瀬戸内海汽船株式会社
広島海上ビル
広島市営桟橋


1915年(大正4年)に宇品線が御幸橋の東詰から宇品までの区間を開通させた際、線内の一停留場としてまず向宇品口停留場(むこううじなぐちていりゅうじょう)が設けられた。当時の軌道は御幸橋の東詰から宇品地区の西堤防沿いに南下し、この停留場を過ぎた先で東に折れて海岸通りを東進する経路をとっており、終点の宇品停留場は宇品桟橋(現在の広島市営桟橋)の前、現在の海岸通停留場付近に存在していた。軌道は全線が単線であり、向宇品口停留場には列車交換のため設備が設けられていたとされる。

向宇品口停留場は1929年(昭和4年)ころに移設のうえ二丁目裏停留場(にちょうめうらていりゅうじょう)と改称されたが、西堤防沿いを通っていた軌道が1935年(昭和10年)に東の宇品通りを経由する新線に切り替えられると、これを受けて廃止された。そして同日、新線上に代わって開設されたのが当停留場である。当時の停留場名は向宇品停留場(むこううじなていりゅうじょう)であった。

新線は宇品通りを南下し、今度は桟橋前から海岸通りを西進して当停留場に至る経路をとったため、かつての宇品停留場に代わって当停留場が路線の終点となった。1945年(昭和20年)8月6日には原爆投下により宇品線をはじめ広島電鉄の市内電車は全線不通となるが、宇品線の当停留場から電鉄前までの区間は同月18日に運行を再開させている。その後数年は宇品線の終点であり続けたが、戦前から計画されていた西堤防の西側の埋め立てが1951年(昭和26年)に完了すると、その埋め立て地にできた広島県営桟橋に向けて路線が延伸され、新たに宇品終点が開業した。当停留場は宇品線内の一停留場となり、その後停留場名は向宇品口停留場へと改められた。元宇品口停留場と称するようになったのは2001年(平成13年)のことである。

1915年(大正4年)4月3日 - 宇品線の御幸橋東詰 - 宇品間の開業時に向宇品口停留場が開業。
1929年(昭和4年)頃 - 停留場移設とともに二丁目裏停留場に改称。
1935年(昭和10年)12月27日 - 御幸橋東詰 - 宇品間が新線に移設され二丁目裏停留場が廃止、代わって新線の終点として向宇品停留場が開業。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下により、運行休止。
8月18日 - 電鉄前 - 当停留場間が複線で復旧。
1951年(昭和26年)4月1日 - 向宇品から宇品終点まで路線延長。
1969年(昭和34年)以前 - 向宇品口停留場に改称(時期不詳)。
2001年(平成13年)11月1日 - 元宇品口停留場に改称。

駅番号 ●U17
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宇品線
キロ程 5.4km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日

 

痛車シャルロット・デュノア(Stream)本田技研工業

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シャルロット・デュノア

ISに登場するキャラクター

プロフィール
国籍 フランス
専用IS ラファール・リヴァイヴ・カスタムII
IS適正 A
所属クラス 1-1
所属部 料理部
身長 154cm
CV 花澤香菜

S学園の1年1組に所属。フランスの代表候補生。
フランスのISメーカー、デュノア社社長の娘(ただし妾の子)。
主人公の一夏に次いで二人目の男性ISパイロットとして「シャルル・デュノア」を名乗り男装した状態で学園に編入してくる。

男としての編入は、父親の経営するデュノア社がIS開発の遅れにより陥った経営危機を回避する為、一夏の使用する白式のデータを盗む為の措置だった。

編入直後は男子として扱われていた為、同じ男子である一夏と同室になり、訓練などを通し親交を深めていたが、ある時を機に一夏に女であることが発覚してしまい、自らの素性と男として編入して来た理由を一夏に話し学園を去ろうとするが、一夏の篤い説得により学園に留まることを継続する。

この出来事を境に自らの出生の因果により実家ですら居場所のなかった自分に居場所を作ってくれた一夏に好意を抱くようになっていく。

その後、実家と決別し素性を明かした状態で再入学することになり、その際はラウラ・ボーデヴィッヒと同室となって、年頃の女の子の感覚に疎遠な彼女にアドバイスしたりしている。
男装の頃の癖で女ということが発覚した後も一人称が「僕」になる時がある。

ストリーム(Stream)は、本田技研工業がかつて生産・発売していたミニバン(またはステーションワゴン)に分類される小型乗用車である。

全幅が1.7m未満の5ナンバーサイズの3列シート7人乗りのロールーフ・ミドルサイズミニバンとして2000年10月に登場した。2006年7月に2代目に引き継がれ、その後2010年9月には5人乗り仕様が追加された。
初代は2000-2001年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、2代目でも2006年-2007年の日本カーオブザイヤーのベストバリュー賞を受賞した。

車名の由来
Stream:英語で「流れ」「時流」の意味。新しい7人乗り車両の潮流を創り出すという意思を込めている。また、本田技研工業はかつて同名の三輪スクーターも製造していた。

2代目 RN6/7/8/9型(2006年-2014年)
ホンダ・ストリーム(2代目)
RN6/7/8/9型
日本仕様 標準車 中期型 フロント
(2009年6月-2012年4月)
2nd Honda Stream.JPG
日本仕様 標準車 中期型 リア
2nd Honda Stream Rear.JPG
製造国 日本の旗 日本
販売期間 2006年–2014年
乗車定員 標準:7人
RST/TS:5人
後期型RSZ:6人
ボディタイプ 標準:5ドアミニバン
RST/TS:5ドアステーションワゴン
エンジン R20A型:2.0L 直4 SOHC i-VTEC
R18A型:1.8L 直4 SOHC i-VTEC
駆動方式 FF/4WD
変速機 5速AT/CVT
サスペンション 前:マクファーソンストラット
後:ダブルウィッシュボーン
全長 4,570mm
全幅 1,695mm
全高 1,545-1,570mm
ホイールベース 2,740mm
車両重量 1,350-1,490kg
-自動車のスペック表-
2006年7月13日にフルモデルチェンジを行なわれた。ロゴが「Stream」からすべて大文字の「STREAM」に変更された。5ナンバー枠いっぱいに収め、車高を低床低重心設計にし機械式駐車場に入れるよう低くなり、スタイリッシュなデザインになった。また、低重心効果により走行性能が向上している。本体価格は180万6千円から販売されている。
エンジンは、R20A型とR18A型の2.0L/1.8L 直4 SOHC i-VTECが用意され、それぞれ150PSと140PSの出力を発生する。これらのエンジンは従来のものよりロングストローク化され、「可変吸気量制御」i-VTECにより部分負荷時に2個のうち1個の吸気バルブを遅閉じするミラーサイクルを採用し、低回転域のトルクの向上と低燃費を実現している。
トランスミッションには1.8Lおよび2.0L 4WDには5速ATが、2.0L FFにはトルクコンバータ付CVTが採用されている。さらに、「RSZ」はステアリングにパドルシフトを備えており、マニュアル感覚の操作を行うことができる。シフトレバーがDポジションにある場合では、パドルを操作すると自動的にマニュアルモードに切り替わり、その後走行状況等により自動的に自動変速モードに復帰する。Sポジションは、自動変速モードに復帰しないマニュアル変速モードであり、初代はレブリミットまで回すことができたが、2代目ではレッドゾーンに達すると自動的にシフトアップする。ダウンシフトブリッピングコントロールも装備されない。パドルはステアリングと連動して回転する。
初代の「アブソルート」に代わり設定されたスポーツグレードの「RSZ」は、通常グレードと比較してカタログ上の動力性能(エンジン出力)/車体寸法(車高は同じ)の差はなく、サスペンションのセッティングやタイヤサイズ、パドルシフトの有無等が異なるのみである。また、標準仕様と比べ、「RSZ」の車両重量は20kg重い。販売上でもRSZはスポーティな装備が充実しているにも関わらず200万円前後からの割安な価格が受け入れられ、前期形の販売の中心となる。
新車乗用車販売台数は、2007年1月~12月の販売台数は57,351台。対前年比では139.4%であった[5]。なお、目標月間販売台数は5,000台と発表されている。フルモデルチェンジにより基本性能が大幅に進化した2代目ストリームは、ウィッシュから人気を取り戻した。
2007年8月30日、新タイプ「スタイリッシュ パッケージ」を追加し、同時に販売比率の低いボディカラーを廃止した。
2007年12月20日、特別仕様車「HDDナビ エディション」を発売した。HDD インターナビシステムや、ディスチャージヘッドライトなどを装備している。
2009年6月18日、 マイナーチェンジを実施した。新たに、優れた加速性能とスポーティなエクステリアを採用した2列シート仕様の「RST」(1.8L・2.0L共に設定)を追加し、2.0Lの「G」を、追突軽減ブレーキ(CMBS)、アダプティブクルーズコントロール(ACC)、車両挙動安定化制御システム(VSA)やサイドカーテンエアバッグなど安全重視装備を追加した「Gi」に変更した。
2列シート仕様は、近年日本市場で少なくなった5ナンバーサイズの手頃なワゴンを望む層の需要に対応する意味合いもある。また、既存の「X」「RSZ」も前後サスペンションの熟成による乗り心地、応答性、安定性の向上やフロント周り(フロントグリル・フロントバンパー)やシート表皮の変更、カップホルダー付大型コンソールボックスの追加など内外装の質感を向上。また、メーカーオプションで人気の高い「Honda HDD インターナビシステム」等を追加した「HDDナビパッケージ」を新たに設定した。なお、「X」と「Gi」は「平成22年度燃費基準+15%」を達成した。
2009年9月3日、一部改良を実施し、既存の「X スタイリッシュパッケージ」をベースに、「RSZ」のエアロパーツ・ブラック内装並びに15インチアルミホイールを装備した「ZS」(1.8L・2.0L共に設定)を追加し、当時のエコカー減税の適合対象外であった「RSZ」に代わり、販売の中心グレードになっていく。「ZS」は通常仕様の他に、2列シート仕様車「RST」に採用のフロントグリルと大型テールゲートスポイラーなどを装備した「Sパッケージ」、Honda HDDインターナビシステムとキーレスエントリーを追加した「HDDナビパッケージ」の3種類が設定された。
2010年4月5日 既存の「X」をベースに、メッシュタイプのフロントグリル、大型テールゲートスポイラー(ハイマウントストップランプ内蔵)、15インチアルミホイール、ディスチャージヘッドランプなどを装備した2列シート仕様の新グレード「TS」(1.8L・2.0L共に設定)を追加した(4月8日販売開始)。
2010年9月にエアウェイブが生産を終了し、2011年6月にフィットシャトルが発売するまでの間、当車種の「RST」と「TS」がホンダでは唯一の5ナンバーステーションワゴンであった。
2011年8月22日 「ZS」をベースに、メッシュタイプのフロントグリル、LEDハイマウント・ストップランプを内蔵した大型テールゲートスポイラー、エアロリアバンパー&アンダーカバー、レッドステッチ付の本革巻3本スポークステアリングホイール、応急パンク修理キット(本装備に伴い、スペアタイヤレスとなる)を装備した特別仕様車「スポーティエディション」を発売した。
2012年4月5日 2度目のマイナーチェンジを実施し、グレードを「RSZ」と「RSZ・Sパッケージ」の2タイプ(いずれのタイプにも、1.8L車と2.0L車を設定)に整理した。乗車定員を6人に変更するにあたり、乗員を2名に減らした2列目シートにはセンタートレイを追加した。VSAも全グレードに標準装備した。さらに、メーカーオプションとしてリンクアップフリー対応Hondaインターナビ、キーレスエントリー一体型キー(追加分)、フルセグテレビチューナーをひとまとめにした「インターナビパッケージ」を設定した。
2013年11月をもってオデッセイは車高高いスライドドア付きになったため、それ以降は、ホンダが生産するミニバンとしては唯一車高低いモデルであった。
2014年6月5日に、本田技研より同月中に生産中止することを明らかにした。これにより、2015年2月にジェイドが発売するまでの間、ホンダが生産するミニバンで車高低いモデルが一旦消滅した。

 

亀戸駅 (JR東日本総武線)・東武鉄道

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亀戸駅(かめいどえき)は、東京都江東区亀戸五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の駅である。
JR東日本の総武本線(緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車)と、当駅を起点とする東武鉄道の亀戸線が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅は特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。

駅ビル「アトレ亀戸」(2006年3月に「エルナード」より改名)が併設されている。
2か所あるJRの改札のうち、北口改札はアトレ亀戸の1階コンコースに直結している。東武亀戸線の改札も同様に1階コンコースの東側奥に位置する。対して東口改札は京葉道路からはビル一つ隔てた裏路地に位置し、初見ではその所在が分かりにくい。かつて旧平和相互銀行亀戸支店が入居していた改札正面のビルに、京葉道路との自由通路が設けられていたが、現在は飲食店がテナントとして入ったため自由通路はなくなったが、自由通路のあったビルのすぐ西側に、京葉道路に通じる狭い路地があり、そこを通ると京葉道路に抜けられる。


周辺はいわゆる下町として知られ、また高度経済成長時代には京浜工業地帯の一翼を担っていた。昭和40年代に大工場が広い敷地を求めて郊外へと移転した後、その跡地に住宅団地や学校が整備され、都心に近い住宅地として変貌を遂げた。
駅周辺施設のうち、サンストリート亀戸は、セイコー電子工業(現:セイコーインスツル)の本社・工場跡地が再開発されたものであり、亀戸中央公園も以前は日立製作所の工場だった。
亀戸は、隣町の錦糸町(墨田区錦糸・太平・江東橋)と合わせて「錦糸町・亀戸副都心」として東京都から副都心指定を受けている。各企業のオフィスもそれなりに存在しており、ラッシュ時には都心方向からの流動もある。

島式ホーム1面2線を有する高架駅である。
総武本線支線である越中島貨物線は新小岩駅から平井駅までは本線の北側に平行しているが、旧中川を渡ったところで高々架となり、当駅のすぐ東側で本線とオーバークロスして南側に移る。

貨物線は当駅の西ですぐに、越中島貨物駅へ向かうため南へと離れていく。貨物線を利用して、当駅から小名木川貨物駅まで、さらにはそれ以南に新線を建設して江東区内の南北方向のローカル輸送を担う構想が古くから存在する。
北口にはエスカレーターとエレベーターが、東口は車椅子昇降機が設置されている。北口改札の有人通路は珍しいオープンカウンター式です。

のりば
番線 路線 方向 行先
1 ■総武線(各駅停車) 西行 秋葉原・新宿・中野方面
2 東行 新小岩・市川・船橋・千葉方面

当駅最寄りの停留所は、「亀戸駅前」、「亀戸駅通り」、「水神森」となる。各バス停を通る路線は異なっている。
1968年9月まで、上野公園 - 今井間のトロリーバスが駅前から発着していた。現在は、当駅を境に上26と亀26に分断されている。
亀戸駅前は駅北口に面したバス乗り場である。国道14号(京葉道路)に面していないため、錦糸町駅を経由する系統は発着しない。したがって、これらの系統を利用する場合は、次に述べる水神森バス停か亀戸駅通りバス停から乗車することになる。また日曜日、祝日の12時頃から17時頃まで、明治通りの亀戸駅前から蔵前橋通り交差点までにおいて歩行者天国が実施されるため、当駅から北方面に向かうバスは迂回運行を行う、そのため草24系統と上26系統は亀戸四丁目バス停を通過する。全路線、東京都交通局により運行されている。


1904年(明治37年)
3月29日 - 総武鉄道(現・総武本線)の駅が開業。
4月5日 - 東武亀戸線の駅が開業。
1907年(明治40年)9月1日 - 総武鉄道が鉄道国有法により買収、国有化。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により損壊。
1945年(昭和20年)3月10日 - 東京大空襲により全焼。

1968年(昭和43年)9月30日 - 都営トロリーバスが廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅はJR東日本の駅となる。
2001年(平成13年)11月18日 - JR東日本でICカードSuica供用開始。
2006年(平成18年)3月24日 - 駅ビルの名称を「亀戸エルナード」から「アトレ亀戸」に変更する。
2007年(平成19年)4月1日 - 東口を業務委託化。

所属事業者 JR 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 ■総武線(各駅停車)
(正式には総武本線)
キロ程 6.3km(東京起点)
千葉から32.9km
電報略号 カメ


駅構造 高架駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 56,693人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 1904年(明治37年)3月29日
備考 みどりの窓口 有
区 東京都区内駅

SkyWatch 有人移動監視システム

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SkyWatch 有人移動監視システム

有人移動監視システム
高度なモバイルセキュリティソリューション
有利な点は、監視に関してはすべてです。SkyWatch ™モバイル観測塔は、一連の監視オプションに高度なプラットフォームを提供します。すべてのポータブルタワーには、調節可能な熱と空調、着色されたスライディングガラス窓、快適な座席を通して、役員の快適さと安全のための基礎が含まれています。また、アプリケーションに関係なく、ユニットのセットアップと配備には一人の人しか必要ありません。

SkyWatchポータブル監視タワーは、簡単に再配置することができ、最も原始的なオフロード状態でさえも十分に扱うことができます。各油圧式セキュリティタワーモデルは、カメラ、ラジオ、パブリックアドレスシステム、その他の機器統合に対応しています。現在、1人の役員が、以前は3人以上の人員を必要とする領域をカバーすることができます。

モデル
SkyWatchの有人監視監視塔には、SentinelとFrontierという2つのモデルがあります。SkyWatch Sentinelは、囚人作業部会から災害対応まで、警察官やセキュリティ専門家が必要とする、ハイプロファイルの抑止と監視機能を提供します。SkyWatch Frontierは、高度なセキュリティシナリオで最も堅牢で柔軟な監視オプションを提供します。フロンティアには、1人または2人の運転手台もあります。

SkyWatch Mobile Surveillance Towerの特徴
・全く自立した・油圧運動・暖房および空調・カスタマイズされた監視装置の統合・着色された窓・増加したエネルギー出力のためのソーラーパネル・耐候性スイッチパネル付きコントロールコンソール・屋根に取り付けられた洪水灯・2つの110V GFIアウトレット・12Vコンセント1個・電気および手動の昇降制御付きのフェイルセーフ油圧システム・風速計・発電機または陸上電力オプション・デュアルアクスルトレーラー・25フィートを超える目の高さ

スカイウォッチセンチネル
SkyWatch Sentinelは、特定のアプリケーションのカスタマイズオプションを増やして、大きな利点を提供します。より大きな車両の柔軟性のために、このユニットは、スカイウォッチフロンティアが過剰である可能性のあるアリーナに適用されます。SkyWatch Sentinelは、セキュリティとフォースプロテクション機能との完璧なバランスと、仕事を完了するために必要な適応性を提供します。

利点
コマンドと制御機能
カスタマイズ可能なセンサープラットフォーム
第二階屋根の上に上がる

監視塔(英語:watchtower、watch tower、物見やぐら、見張り塔)は、世界の多くの地域で使われている要塞の一種である。それは通常の塔とは異なり、主な用途は軍用で、高所から安全に周囲を領地や国境を確認できる場所を提供する目的で建設される。場合によっては、宗教的な塔のような非軍用の塔も見張り塔として流用される。

ローマ人は、通信システムの一部として数多くの塔を建てた。例としては、イギリスのハドリアヌスの長城や、ドイツなどに残るリメスに沿った塔がある。またローマ人は、現存しているスペイン北部のヘラクレスの塔のように、多くの灯台を建設した。

中世ヨーロッパでは、多くの城やマナー・ハウス、または要塞建造物に見張り塔が併設されていた。フランス西部のマナー・ハウスでは、矢狭間や銃眼を備えた見張り塔が主な防衛手段の1つであった。領主は、見張り塔の上から自らの領域を監視することが可能であった。

サウジアラビア南部やイエメンでは、アスィール山岳地帯に、小型の石造か泥製のカサバ(英語版)と呼ばれるキープや物見の塔を建設した[5]。さらにナジュドでは、山の頂上から遠くから近づいてくる敵を発見し警報を行う「Margab」と呼ばれる監視塔が建てられた。

 

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