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秋田駅(JR東日本)秋田新幹線・奥羽本線・羽越本線

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秋田駅(あきたえき)は、秋田県秋田市中通七丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。

秋田駅は、1902年10月21日、官設鉄道奥羽北線の五城目 - 秋田間の開通によって仮駅舎扱いで設置され、1905年8月1日に駅周辺が秋田市に編入された際には本駅舎も完成した。以後、その駅舎を補修しつつ使用してきたが、1961年9月1日には民衆駅として改築され、併設施設として秋田ステーションデパートが開業した。
1995年2月、秋田新幹線の開業をより効果的にするため、秋田県知事、秋田市長、JR東日本、秋田ステーションデパート間で「秋田駅関連整備事業に関する基本協定」が締結され、同年11月、秋田市が事業主体の橋上駅舎と秋田駅東西連絡自由通路「ぽぽろーど」およびJR東日本と秋田ステーションデパートが事業主体の駅ビル「トピコ」が整備着手に入った。


橋上駅舎は事業費30億円(JRは8.5億円を負担)を投じ、「光と風の駅」をメインコンセプトとして、さらに緩やかにうねる大屋根などをデザイン要素として織り込み、1997年3月16日、オープンした。


秋田駅東西連絡自由通路「ぽぽろーど」は橋上駅舎が完成後の1999年8月に事業費39億円(国11、県15、市13)を投じ着工され、翌年7月29日に供用を開始した。デザインポリシーとして橋上駅舎と自由通路を一体化した空間として捉え、また延長186mの長い通路を単一なデザインによる均一な空間ではなく、連続性を意識させるデザインを持ちながら、場の持つ空間の質の違いを持たせ分節化を図るとの構想を具現化した。なお2000年にぽぽろーどは西口広場を跨ぐ76m、さらに2003年には東口の再開発ビル秋田拠点センターアルヴェにつながる59mが延伸されている。


駅ビルトピコは、事業費20億円を投じ、ぽぽろーどと同時にオープンした。全3フロアで土産物店を中心に物販・飲食・サービスの店舗を展開し、中央に3層の吹き抜けを設け、上下階の一体感を創出した上で多目的に利用可能なスペースも設けた。


2002年(平成14年)、国土交通省東北運輸局によって「日本海のうねりや秋田の山並みをモチーフにした波形の屋根が印象的な駅舎」として、東北の駅百選に選定された。
2017年(平成29年)3月25日に西口にJR秋田支社ビルが落成、秋田新幹線の開業20周年や同年4月から秋田県春の大型観光キャンペーンが開始されることを踏まえ、JR東日本が整備を進めてきた中央改札前の秋田杉のファサードや、新待合ラウンジなどが新たにお目見えした。また同年4月1日には新築となった秋田駅西口駐車場ビルも開業したほか、トピコも改装オープンした。

地上駅。駅舎は橋上駅舎である。秋田駅東西連絡自由通路「ぽぽろーど」にある。自由通路の北側は、駅ビル・待合室・みどりの窓口(営業時間:5:30~22:40)・在来線改札口・新幹線改札口の順。新幹線改札口には自動改札機(モバイルSuica利用可)が3台設置されている。在来線は、中央改札口のみ自動改札機(Suica非対応)が導入されている。自動券売機は各改札口に、みどりの窓口・指定席券売機は中央口のみ設置されている。なお、乗車券類の払戻は中央改札口精算所での取扱となっている。


自由通路の南側は、駅ビル駐車場・びゅうプラザ秋田駅・NewDays秋田ぽぽろーど店(新幹線改札脇のNewDays秋田駅中央とは別店舗。なお、秋田駅中央の側では、SuicaショッピングサービスやSuicaコインロッカー利用者の便宜を図るため、無記名Suicaを販売している)・秋田市観光案内所がある。2017年3月の改装工事で、NewDays秋田ぽぽろーど店には、みずほ銀行のMMKタイプの店舗外ATMの設置がなされ、同店の一時改装休業明けと同時に稼働開始となった。


直営駅(駅長・副駅長配置)。ただし新幹線乗換口と新幹線ホームの案内放送はJR東日本東北総合サービス、駅ビル口改札、メトロポリタン口改札は秋田ステーションビルに委託されている。管理駅として、奥羽本線の大張野駅・和田駅・四ツ小屋駅および羽越本線の下浜駅 - 羽後牛島駅間の各駅を管理している。


北跨線橋
橋上駅舎の北側にも跨線橋があり、駅ビル側に改札口(メトロポリタン口)が設けられている。これらは国鉄時代から使用されている。
現在の駅舎が開業した直後は、中央改札口から直接アクセスできるのは第1ホームから第3ホームまでの在来線と第4ホーム南側の新幹線だけになっていた。第4ホーム北側の在来線7・8番線へ行くには、一旦第2ホームへ降り、北跨線橋を上って再度第4ホームへ降りる必要があった。その後、中央口・トピコ口から7・8番線へ旅客をスムーズに移動させるために、駅舎と北跨線橋をつなぐ連絡通路が第2ホーム真上に建設された。
北跨線橋の更に北側へ隣接して、秋田駅東西連絡歩道橋「Weロード」が設置されている。1997年(平成9年)に橋上駅舎が完成してからは通行者が減っていたが、2008年(平成20年)に自転車の通行が可能になった。


コインロッカー
西口自由通路下(交番向かい)、待合室、駅ビル「トピコ」内の階段(Weロード入口階段)踊り場に設置されている。
一部のコインロッカーはSuica対応になっている。

のりば
ホームは4面10線で、下記の通りになっている。
在来線ホーム
1番線は切欠きホームで、2番線の青森方にある。2番線からは全ての「リゾートしらかみ」が発車している。3 - 5番線の中でも3番線は大口団体列車などが発着し、優等列車の割合が多い。2・3番線の間と、6・7番線の間に通過線がある。7・8番線は福島方の半分を秋田新幹線ホームとしたため行き止まりである。また発着する列車も少なく、特急「つがる」の発着などに使われる。1番線がイベントなどで使用時はこのホームが代行発着扱いとなる。
なお、案内標では各ホームを右表のように色で区分して案内している。


在来線ホーム
1 ■奥羽本線 下り 東能代・大館・青森方面
■男鹿線 - 二田・男鹿方面


2 - 6 ■奥羽本線 上り 大曲・湯沢・新庄方面
下り 東能代・大館・青森方面
■羽越本線 - 羽後本荘・酒田・新潟方面
■男鹿線 - 二田・男鹿方面
7・8 ■奥羽本線 下り 東能代・大館・青森方面

新幹線ホーム
秋田新幹線は本駅が終点であり、頭端式1面2線ホームである。

土崎寄りには、在来第4ホーム(7・8番線)への乗換改札口(自動改札機)がある。

11 ■秋田新幹線 下り到着・臨時「こまち」・田沢湖線列車回送、
および臨時快速「花火」号(大曲の花火開催日運転)


12 盛岡・仙台・大宮・東京方面

貨物列車
本駅より1駅北に貨物専用の秋田貨物駅があるため、本駅への発送・到着はない。ただし、秋田車両センターへ搬入・搬出する臨時専用貨物列車による甲種輸送の到着がまれにある。
また、すべての列車が運転停車する。


乗り入れ路線
乗り入れている路線は、線路名称上は、本駅の所属線である奥羽本線[11]と、本駅を終点とする羽越本線の2路線である。また本駅は、田沢湖線・奥羽本線経由で本駅へ乗り入れるミニ新幹線である秋田新幹線の終着駅となっている。このほか、奥羽本線追分駅を路線の起点とする男鹿線の列車もすべて本駅まで乗り入れている。


駅弁
主な駅弁は。
鶏めし弁当
秋田日本海たこびより
白神浪漫
秋田比内地鶏のいいとこどり弁当


秋田比内地鶏 こだわり鶏めし
あきたこまち弁当
おばこ弁当
白神 鶏わっぱ

駅周辺
老朽化したたため2017年4月末から近隣に新築した新社屋で業務を本格化するJR東日本秋田支社の跡地に、秋田放送(ABS)がJRから土地を借り受け本社を新築移転する計画を発表している。ABSの新社屋は2018年冬着工。翌年1月竣工。2020年春から新社屋にて放送を開始する予定である[広報 4][16]。
2017年2月末を以て秋田フォーラスは営業を終了し、同年10月に「秋田OPA(オーパ)」として全面改装の上、開業を予定している[17]。
秋田銀行が主導し、高齢者が住みやすい地域づくりと持続可能な地域づくりを目的に2014年8月に設立した秋田プラチナタウン研究会に参画する、JR東日本秋田支社と医療法人城東整形外科(秋田市)が、2016年10月28日、JRが秋田駅東口の秋田拠点センターアルヴェの南側で駐車場として運用している土地を城東整形外科が借り受け、診察と治療およびリハビリを担う城東スポーツ整形クリニック(仮称)を開院する方針を発表している。同クリニックは2017年春着工。翌春の開院を目処としている[19]。また2017年3月16日には、同クリニック予定地の隣にJR東日本秋田支社が同社用地を活用した体育館である「JR秋田ゲートアリーナ(仮称)」を開設する方針を明らかとした。同アリーナは、秋田支社のバスケットボール部であるペッカーズとB.LEAGUEに所属するプロバスケットボールチームである秋田ノーザンハピネッツの拠点施設として整備し、保育所も併設するとしている。2018年夏着工。翌年末の完成を目処としている。

駅東口に、主に「こまち」で遠方に向かう乗客を対象にした完全予約制の専用駐車場「こまち駐車場」を330台分設けている。有料で、目的地や条件に制約があり、これを満たしている場合に限り秋田駅内の予約センターか窓口で駐車券が発券される。

 

1902年(明治35年)10月21日 - 奥羽北線の五城目 - 秋田間開通に伴い終着駅として開業。当時の所在地は南秋田郡広山田村楢山字長沼。
1903年(明治36年)10月1日 - 奥羽北線の秋田 - 和田間開通に伴い中間駅となる。
1905年(明治38年)8月1日 - 駅所在地および周辺の鉄道用地が秋田市へ編入される。
1920年(大正9年)2月22日 - 羽越北線の道川-秋田間が開通。接続駅となる。
1931年(昭和6年)12月17日 - 路面電車の秋田電車による秋田駅前 - 県庁間が開通。
1932年(昭和7年)2月15日 - 秋田電車による県庁間 - 大町二丁目間が開通。
1940年(昭和15年)4月 - 秋田電車による秋田駅前 - 大町二丁目間が廃止。


1951年(昭和26年)2月7日 - 秋田電車から路面電車を譲り受けた秋田市運輸課(のちの秋田市交通局)によって秋田駅前 - 県庁間が秋田市電として再開通[1]。
1955年(昭和30年)9月1日 - 駅構内に青森鉄道郵便局秋田分局が開局。
1961年(昭和36年)9月1日 - 「秋田民衆駅」として駅舎改築。
1966年(昭和41年)3月31日 - 秋田市電が全線廃止。
1971年(昭和46年)7月15日 - 「秋田駅旅行センター」(日本旅行と提携)が開業。
1978年(昭和53年)9月30日 - 同年10月2日に行われた53.10ダイヤ改正(ゴーサントオ)で行われた列車増発に伴い第4ホーム(当時は7・8番線/秋田新幹線開業後は7・8・11・12番線)使用開始。


1984年(昭和59年)2月1日 - 青森鉄道郵便局秋田分局が廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR東日本が継承。
1988年(昭和63年)4月2日 - 秋田駅東西連絡歩道橋「Weロード」開通(北改札口に直通)。橋上駅舎になるまでの9年間、駅東口としての役割を果たした。
1996年(平成8年)
1月22日 - 駅舎改築のため、仮駅舎にて営業開始。南改札口閉鎖。
6月9日・10日 - 橋上建設工事のため、2日間だけほとんどの発着列車がバス代行輸送。追分駅、土崎駅・和田駅・新屋駅で列車折り返し輸送。
1997年(平成9年)
3月16日 - 現駅舎に改築。南改札口開設。
3月22日 - 秋田新幹線開業。


1999年(平成11年)1月19日 - 新幹線改札口に自動改札機導入。
2000年(平成12年)7月29日 - 秋田駅東西連絡自由通路「ぽぽろーど」開通。
2002年(平成14年) - 東北の駅百選に選定される。
2004年(平成16年) - 新幹線乗換口業務を「ジェイアールアトリス」に委託。
2006年(平成18年)3月28日 - 在来線中央改札口に自動改札機導入。
2007年(平成19年)7月1日 - 北改札口をメトロポリタン口、南改札口をトピコ口に改称。
2008年(平成20年)8月2日 - Weロードの自転車通行が可能になる。
2015年(平成27年)
7月1日 - JR東日本グループ再編に伴い、新幹線乗換口業務を「JR東日本東北総合サービス」に委託。
9月1日 - 秋田県・秋田市とともに三者による連携協定の締結。
9月30日 - びゅうプラザ内の旅先サポートカウンターの業務を終了。
2017年(平成29年)
3月22日 - 発車メロディを高橋優「明日はきっといい日になる」に変更。
4月1日 - 秋田駅西口駐車場ビル(トピコ・アルス第1駐車場)がオープン。

所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 アキ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 4面10線
乗車人員
-統計年度- 10,879人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1902年(明治35年)10月21日
乗入路線 4 路線
所属路線 ■秋田新幹線
キロ程 127.3km(盛岡起点)
東京から662.6km
◄大曲 (51.7km)
所属路線 ■奥羽本線
(■男鹿線直通含む)
キロ程 298.7km(福島起点)
◄四ツ小屋 (6.4km)(7.1km) 土崎*►
所属路線 ■羽越本線
キロ程 271.7km(新津起点)
◄羽後牛島 (2.7km)
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
* この間に秋田貨物駅有り。(福島起点 302.3km)


盛岡冷麺

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冷麺とは、朝鮮半島由来の冷製麺料理。朝鮮語では냉면(ネンミョン、韓国の標準語)または랭면(レンミョン、北朝鮮の標準語)。冷やし中華と区別するため、韓国冷麺や韓国風冷麺などとも呼ばれる。
日本における冷麺
1939年(昭和14年)に神戸市長田で平壌出身の張模蘭と全永淑が開業した「元祖 平壌冷麺屋」が日本で朝鮮半島式の冷麺を提供する現存最古の店である。現在、日本の多くの焼肉店で定番メニューとして提供されている。日本人の口に合うようアレンジされた冷麺も各地にあり、代表的なものに岩手県盛岡市の盛岡冷麺と大分県別府市の別府冷麺が挙げられる。


盛岡冷麺は咸興出身の在日朝鮮人1世である青木輝人(朝鮮名:楊龍哲)が1954年(昭和29年)5月に開業した「食道園」が発祥で、1987年(昭和62年)に「ぴょんぴょん舎」を開業した在日2世の邊龍雄らが「盛岡冷麺」というブランド名を確立させた。小麦粉を主材料とする透明感のある太麺が特徴である。盛岡冷麺の生麺は「さぬきうどん」などとともに公正取引委員会から「特産」「名産」などの表示に基準が設けられた10品目の一つにもなっている。
別府冷麺は1950年(昭和25年)頃に満州からの引揚者が開業した店が発祥とされる。スープは和風ダシ、麺は店によって太麺と中細麺の2種類あるのが特徴である。食堂やラーメン屋や居酒屋などでも提供されるメニューとなっており、金属製の器ではなくラーメン用の丼鉢などに盛りつけられる。

盛岡冷麺は、岩手県盛岡市の名物麺料理。辛味のある冷麺である。わんこそば、じゃじゃ麺と並んで「盛岡の三大麺」と称されている。盛岡では一般的に「冷麺」というとこれを指す事が多く、主に焼肉店での定番として供される。公正取引委員会が承認する特産・名産麺料理10品目の中で唯一の冷製専用品目である。
盛岡冷麺の麺は、スパゲッティなどのパスタと同様に小麦粉、片栗粉などを用いた生地に強い力を加え、麺の太さに合わせた穴から押し出して作られる。この際、麺が高温になりアルファ化するために強いコシがもたらされる。この押し出し麺という製法は、盛岡冷麺には不可欠とされる。
その後の製品開発により、非押し出し製法である混練法で冷麺を製麺している製麺所も存在する。盛岡冷麺の殆どに付け合わせ(口直し)として果物が載せられるが、リンゴ、スイカ、梨など季節に合わせて変えるのが一般的である。 また、盛岡で冷麺の辛みとして合わせるキムチは主に大根であり、カクテキと表す方が適切である。殆どの店では辛みの程度を数段階(辛みなし、弱、中、強)から選べるが、冷麺とは別の皿で出させる別辛を選ぶ者も多い。
朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の咸興(かんこう、ハムフン)生まれの在日朝鮮人1世の青木輝人(朝鮮名:楊龍哲(よう りゅうてつ、ヤン・ヨンチョル:양용철))が、1954年(昭和29年)5月に盛岡でテーブル4つの「食道園」を開業し、店で出したのが最初である。料理人としてのプロの技術を持たなかった楊は、自分が子供のころに食べた咸興の冷麺を独力(独学)で再現しようとしたという[1]。
咸興の冷麺はスープのないピビム(ビビン)冷麺が有名だが、咸興冷麺にもユクス(肉水:牛肉の出汁スープ)つきのものもあったといい、楊は自分が好きだったスープつきの咸興冷麺を自分の店で出した。咸興独特のかみきれないほどコシの強い麺は当初、盛岡市民には不評で「ゴムを食べているようだ(ゴムみたいだ)」などと言われてしまい、また当時は辛いキムチも日本では一般的ではなかったこともあり、まったく受け入れられなかった。 楊によると、咸興の冷麺はそば粉入りの灰色の麺だったといい、初期は店でもそば粉入りの麺を出していた。この灰色の麺は楊自身にもおいしそうに見えなかった。 楊はかつて働いた東京の韓国料理店で出されていた、白い冷麺を参考にそば粉を抜き、麺を白く変える。が、ジャガイモのでんぷんを使ったコシの強い麺や、キムチのトッピング、牛骨ダシ中心の濃厚なスープという「故郷の味の3要素」は守り続けた。やがて盛岡の新しいもの好きな若者たちの間で、そのユニークさが「一度食べたらあとを引く」と評判になり、店には客が入る様になった。ここに、「盛岡冷麺」の基本形が完成したといわれる。ただし楊自身は、「盛岡冷麺」でも「咸興冷麺」でもなく、「平壌(へいじょう、ピョンヤン)冷麺」という看板を掲げ続けた。商売っ気のある楊は「咸興より、平壌の方が大きな街で有名だからそうした」と生前、いたずらっぽく語っていたという。
1979年(昭和54年)に都南中央跨線橋の西袂に開業した郊外型店「焼肉ガーデン ペコ&ペコ」(2001年閉店)は、テレビ・ラジオ・市内映画館などのメディア広告を使い「冷麺」を宣伝し、この宣伝がヒットして「冷麺」は岩手県内に知れ渡ることとなった。なお、「ペコ&ペコ」では「平壌冷麺」ではなく、単に「冷麺」と呼称していた。
「盛岡冷麺」の名称を市内の店で初めて使用したのは、1987年(昭和62年)に「ぴょんぴょん舎」を創業した在日韓国・朝鮮人2世の邊龍雄(へん りゅうゆう、ピョン・ヨンウン)である。それまで盛岡では、楊の店にならって「平壌冷麺」、または単に「冷麺」と呼ばれていた。 まだ「ぴょんぴょん舎」開店の準備中だった邊に、1986年(昭和61年)10月に盛岡で開かれた「日本めんサミット」出店の声がかかり、小さなブースで出した冷麺の看板に「盛岡冷麺」「ぴょんぴょん亭」の文字が書かれたのである。 「盛岡冷麺」という呼称を使うよう勧めたのは、サミット運営を担当した盛岡市職員の田口善政だったという。 田口は、盛岡式の冷麺が県外で「盛岡冷麺」と呼ばれているのを知っていたのである。


「盛岡冷麺」という名称は当初、在日のコミュニティーからは「故郷の味を安売りするもの」「祖国の食文化を日本に売り渡す」と猛反発を受けた。が、これを機に徐々に「盛岡冷麺」の名が市民に浸透し始め、全国的にも盛岡の名物として知られるようになる。邊をはじめ、楊を追って冷麺をつくり始めた店では、それぞれが独自の試行錯誤を繰り返し、盛岡冷麺の味は次第に日本人の味覚に合ったものに変化しつつある。
こうした「盛岡冷麺」誕生と浸透の経緯は、1993年(平成5年)に朝日新聞岩手版に小西正人記者によって連載された記事「冷麺物語 日本と朝鮮・韓国の間に横たわるもの」で初めて詳細に明らかにされた。連載記事は2007年(平成19年)に「盛岡冷麺物語」(リエゾンパブリッシング刊)として書籍化された。その後、この記事をベースにしたTV番組「ザ・ルーツ 俺たちの盛岡冷麺」が、2009年(平成21年)3月、岩手朝日テレビで放送されている。
2000年(平成12年)4月からは、讃岐うどん、札幌ラーメン、長崎ちゃんぽん、沖縄そばなどと同様に、公正取引委員会が「盛岡冷麺」の生麺に対して「特産」・「名産」表示を認め、盛岡冷麺は "本場" として認定された。

セスナ411A (おおたか号)プロペラビジネス機

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セスナ411A おおたか号

(JA5151)1960年代にアメリカのセスナ社で製作されたプロペラビジネス機です。この機は中日新聞社の「おおたか」で、取材連絡で活躍しました。アメリカセスナ社が1962年(昭和37年)から生産した8人乗りビジネス飛行機です。1973年(8000万円)

セスナ411 小型双発機 (Multi Engine)双発レシプロ機。310の主翼を基本とし、幅広の胴体を新設計。強力なギア駆動ダーボ過給エンジンを装備する。

セスナ・エアクラフト・カンパニー(Cessna Aircraft Company )は1927年にカンザス州ウイチタに設立されたアメリカの軽飛行機・ビジネス機のメーカー。ビーチクラフト、パイパー・エアクラフトと並び軽飛行機の世界3大メーカーのひとつ。かつては特に小型単発機を多く生産したことから、日本では軽飛行機の代名詞となっている。

現在はビーチクラフトと共にテキストロンの航空機部門テキストロン・アビエーション傘下となり、機体のTCホルダーも移行された。

セスナ・エアクラフト社は1927年、カンサス州ウィチタ[1]で創業。創立者クライド・セスナは、スタントパイロットとして自作飛行機で曲技飛行ショーを行う傍ら、数々の記録(ex.1917年自作複葉機でブラックウェル-ウィチタ間 平均時速 200km/h公式記録)を樹立している。

クライド・セスナは、セスナ社設立の2年前の1925年に、ウオルター・ビーチ(ビーチクラフトの創立者)、ロイド・ステアマン(英語版)らと共にトラベルエア(英語版)を設立し社長をつとめたが、設計上の意見対立(セスナが単葉にこだわったと伝えられる)から独立、1927年9月カンザス州ウィチタにセスナ・エアクラフト社を設立した。創立から間もなく大恐慌が起こり、セスナ社は1931年一時解散に追い込まれる。

1934年、甥のドゥエイン・ウォレスの出資で会社は再開、2年後の1936年、ドゥエイン自身が社長となりクライド・セスナは引退した。以後ドゥエインは1975年までセスナ社の舵取りをし、ラッセル・メイヤーがその地位を引き継ぐ。家族的な企業であるといい、未だに手造りの部分が多い小型航空機産業は、家内制手工業の側面を持つ。この点はビーチクラフト社なども同様、アメリカの小型航空機産業の特徴である。

創業者のクライド・セスナは会社を退いたのち、農業に従事。その間もアメリカ航空界の先駆者として数々の栄誉と表彰を受けつつ、1954年に死去。

1952年1月14日にSeibel ヘリコプターを買収して、1956年にCH-1ヘリコプターを発売した。

現在では、1971年9月に初飛行したビジネスジェット機サイテーション・シリーズが主力製品となっている。

第二次世界大戦中は多くの軍用機を生産。AT-17ボブキャット(英語版)は米軍の練習機として1940年から1944年に5,400機を生産している。

戦後、ただちに民間機の製造に転じた。多数の復員パイロットが自家用機やビジネス機を飛ばす時代にマッチした、操縦しやすく安全な「空のファミリーカー」という発想から生まれたのが、世界中に普及したセスナ軽単発機シリーズである。1963年に生産50,000機目、1975年に100,000機目の単発機が出荷された。

1980年代、世間ではPL(製造物責任、プロダクト・ライアビリティ)法が取り沙汰されるようになり、セスナ社が生産した小型レシプロ機もその標的にされ、事故や不具合に関する訴訟が次々と発生した。多くの判例同様、必ずしもメーカ側に過失責任があったわけではなかったが、生産にまつわる賠償保険料が急増して、もはやセスナ社にとって軽飛行機の生産は商業上のメリットがなくなった。1986年、セスナ社は軽飛行機の生産中止を決断、これに伴い従業員を18,000人から3,000人へ減じた。

PL法問題の渦中にあっても操業は続けられ、ビジネスジェット・サイテーションシリーズ、モデル208キャラバンが商業的に成功していた。モデル208は頑丈な単発ターボプロップ機、モデル172型のコンセプトをより大型のタービン機にも適用した点で当時のアメリカでは新たな試みであった。実用性の高さと信頼性からフェデラル・エクスプレスの宅配便の輸送機としても採用され、販売機数を大きく伸ばす。

PL法に対しては、セスナ社ラッセル・メイヤー会長が先頭に立って改正運動を行った。その甲斐があってか1994年に「ジェネラル・アビエーション再生法」が議会を通過し、1996年クリントン大統領が署名した。それを受けて、1996年セスナ社はカンザス州インディペンデンスに新たな軽飛行機工場を建設、小型レシプロ機の製造を再開した。現在もモデル172スカイホーク、182スカイレーン、206ステーショネアなどの製造を行っている。

日本では1951年以来、中堅商社の野崎産業がセスナの代理店であったが、1999年に野崎が川鉄商事(現・JFE商事)と合併して代理権を移管、2004年には伊藤忠商事系列の航空部門新設会社である日本エアロスペースに業務移管されている。官公庁向けの機体については2015年から兼松が代理店となっている。

新幹線こまち

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新幹線こまちは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が主に東京駅 - 秋田駅間を東北新幹線・秋田新幹線(田沢湖線・奥羽本線)経由で運行している特急列車。種別を示す色はピンク。

「こまち」は、山形新幹線「つばさ」に次ぐ2番目のミニ新幹線方式の列車として、1997年3月に秋田新幹線の開業より運転を開始した。東京都と秋田県を結ぶ役割を担っている。
なお、営業上は在来線である盛岡駅 - 秋田駅間は在来線特急の扱いを受ける。


列車名の由来
列車名は、公募の結果1位であった「こまち」が採用された(2位は「おばこ」・3位は「たざわ」)。秋田県湯沢市小野出身とされる小野小町が由来とされている。運転開始までは「こまち」の名称は秋田支社のジョイフルトレインが使用していたが、こちらは「おばこ」に改名した。
2013年3月16日からはE6系電車の営業運転を開始し、E6系で東北新幹線を最高速度300km/hで走行する列車については、「スーパーこまち」として運転されていた。(置換が進んだ2013年6月からは順次一部の「こまち」運用にもE6系が使用されている。)これは置き換えの過渡期に伴う区別のためで、E3系0番台の置き換えが完了する2014年3月15日のダイヤ改正で全列車「こまち」に戻され、「スーパーこまち」は1年足らずで名称が消えることとなった。


運行概況
2016年4月現在、定期列車は東京駅 - 秋田駅間に15往復、仙台駅 - 秋田駅間に1往復の計16往復が運転されている。東京駅 - 秋田駅間の所要時間は最短で3時間37分。
東京駅 - 盛岡駅間は、新青森駅もしくは新函館北斗駅・盛岡駅発着の「はやぶさ」と併結し、東北新幹線上を最高320km/hで走行する。盛岡駅で増解結し、在来線である田沢湖線・奥羽本線上を最高130km/hで走行する。一部の臨時列車には仙台で増解結し、以北を単独で走行するものがある。これは仙台で切り離した後、「はやぶさ」は各駅停車となるが、「こまち」を盛岡までノンストップで秋田までの速達性を確保するためである。
なお、2013年春以降E3系0番台をE6系に順次置き換え、2014年3月のダイヤ改正以降、東北新幹線上ではE5系と併結して最高320km/hで走行されている(在来線上は従来通り最高130km/h)。
大幅なダイヤ乱れが発生した場合は、遅れ状況や運用の都合等に応じて以下のような対応を行うことがある。
東京駅 - 盛岡駅間もしくは盛岡駅 - 秋田駅間で区間運休を行う。
通常連結する「はやぶさ」とは別の「はやぶさ」(例えば「こまち」16号が「はやぶさ」18号)と連結して運転。
東京駅 - 盛岡駅間の「はやぶさ」併結を取りやめ、(臨時列車として)同区間で単独運転を行い直通運転する。

E6系(Z編成)により運転されている。在来線区間も走行することから車体は通常の新幹線より幅が小さい。なお、E5系と併結した状態で東北新幹線内のみを「やまびこ」・「なすの」または「はやぶさ」として運行するものもある。市販の時刻表ではこのような列車には「E6」(E6系)の案内がある。
グリーン車は1両のみで、(東京駅 - 大曲駅間で)東京駅側の先頭車両となる11号車に連結されている。座席配置は1列あたり2+2の4席。フル規格の新幹線のグリーン席と違い横幅が狭いため、簡易スリッパがウェルカムドリンクとともにサービスされている。
普通車は全席指定席で、座席配置はグリーン車と同様に2+2の4席構成になっている。
この列車は全車指定席で、自由席は設定されていない。これは区間列車や全国花火競技大会時に秋田駅 - 大曲駅間のみを運転する臨時列車のような場合でも全列車例外がない。ただし、東日本大震災後に在来線区間でのみ運行再開した際にはグリーン車は締め切り扱いとし、その他の車両を全車自由席で運行した例もある。
なお、盛岡駅 - 秋田駅間の相互間では特定特急券で普通車の空いている席を利用できる。ただし、座席指定券を持っている乗客が来た場合は席を譲る必要があり、当然満席の場合には立席となる。
「こまち」は大曲駅で必ずスイッチバックをするため、東京駅 - 大曲駅間と大曲駅 - 秋田駅間とでは進行方向が逆となる。秋田駅発の「こまち」の座席は予め進行方向逆向きにセットされている[注 4]。座席の向きに関しては、開業前に盛岡支社と秋田支社との協議が行われていた。
秋田新幹線開業から2014年3月まではE3系(0番台)も使用されていた。


1997年(平成9年)3月22日:「こまち」の運転を開始。当初の運行形態は、従来の特急「たざわ」のダイヤを踏襲した形で設定され、東京駅 - 秋田駅間13往復、仙台駅 - 秋田駅間に1往復とされた。また、東京駅・仙台駅 - 盛岡駅間で「やまびこ」と併結していた。
このうち、3往復は上野駅・大宮駅・宇都宮駅・郡山駅・福島駅の順に停まり仙台駅で分割併合を行ったが、「やまびこ」は仙台駅 - 盛岡駅間の各駅に停車する一方、「こまち」は仙台駅 - 盛岡駅間をノンストップで運転されたため、東京方面から盛岡までの客が「こまち」に集中し、混雑するという問題があった。
1998年(平成10年)
10月26日 - 12月7日:1両(14号車)増結し、順次6両編成化。この間、増結車両は自由席であった。
12月8日:6両編成化が完了し、増結車両を指定席に変更。東京駅 - 秋田駅間に1往復増発。仙台駅での分割併合をいったん廃止し、全列車東京駅 - 盛岡駅間を「やまびこ」と併結となる。
1999年(平成11年)12月4日:併結車両の「やまびこ」を全列車E2系に統一、宇都宮駅 - 盛岡駅間は最高速度275km/h運転となる。
2000年(平成12年)12月31日:秋田駅 - 東京駅間の最終列車「こまち28号」は列車名を「ミレナリオこまち28号」に変更して運転。
2001年(平成13年)12月1日:半室喫煙できたグリーン車を全面禁煙化。
2002年(平成14年)12月1日:東北新幹線盛岡駅 - 八戸駅間開業に伴い、以下のように変更。
東京駅 - 盛岡駅間は「はやて」と併結。ただし、臨時列車の場合には「やまびこ」との併結もあった。
2両あった自由席を廃止し全車座席指定席に変更]。
宇都宮駅・郡山駅・福島駅の各駅にそれぞれ1往復ずつ停車していたが、併結列車を「はやて」に変更したことにより、定期列車はすべて通過。
2005年(平成17年)12月10日:臨時「やまびこ」併結列車を「はやて」との併結に変更し、1往復を定期列車に変更して増発。


2006年(平成18年)
1月5日:大雪の影響で、終日運休する(秋田新幹線としては開業以来初めての終日運休)。
2月10日:志度内信号場 - 田沢湖駅間の第四生保内川橋梁で、「こまち」3号が雪崩の雪に乗り上げ、以降の列車が運休し、翌日も除雪と安全確認のため、終日運休した。
2007年(平成19年)
3月18日:全車両禁煙化。
4月30日・5月6日:「こまち」26号が全国花火競技大会以外では初となる、大曲駅始発で運転(大曲発15:50 → 東京着19:36)
2008年(平成20年)3月31日:13号車に設置されていた列車内飲料自動販売機の営業を終了(撤去)。
2009年(平成21年)3月14日:秋田発東京行きの始発列車である 「こまち」2号が大宮駅停車開始。これにより「こまち」は全列車が大宮駅停車になる。
2010年(平成22年)12月4日:ダイヤ改正により、定期列車の仙台駅における「はやて」との分割併合が廃止される。
2011年(平成23年)
3月:東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響により、東京 - 盛岡間が運休。盛岡 - 秋田間において、普通車全車自由席(グリーン車は指定席)で運転。
4月29日:東京 - 秋田間の全線で臨時ダイヤで運転再開。東京 - 秋田間13往復、仙台 - 秋田間1往復。
11月19日:東北新幹線内の一部の併結車両がE5系になる。


2013年(平成25年)
3月2日:神宮寺駅 - 刈和野駅間で、下り「こまち25号」の先頭車両が脱線。乗客130名には負傷なし。この事故の影響で盛岡駅 - 秋田駅間で4日まで運転見合わせ。
3月16日:ダイヤ改正により、次のとおりに変更。
E6系が営業運転を開始。「こまち」4往復を「スーパーこまち」に置き換え。
「スーパーこまち」と併結する列車を「はやて」から「はやぶさ」に変更し、宇都宮駅 - 盛岡駅間の最高速度を300km/hへ引き上げ。
6月1日・15日:「こまち」2往復をE6系に置き換え。
7月20日:「こまち」1往復をE6系に置き換え。この日をもって量産先行車E3系R1編成(元・S8編成)の定期運用を終了(引退)、秋田駅にてラストランのセレモニーが実施された。他にも、6月から8月にかけてE6系で運転する「こまち」を複数設定。
9月28日:「こまち」3往復を、新たに「スーパーこまち」に置き換え。同時に東北新幹線内の併結車両をE5系に統一。
11月15日・16日:「こまち」の一部をE6系に置き換え。以後も、2014年(平成26年)2月にかけて、順次E3系の運用をE6系に置き換え。


2014年(平成26年)
3月15日:ダイヤ改正により、次の通りに変更。
「スーパーこまち」を廃止し、列車名を「こまち」に統一。
「こまち」充当列車全てをE6系に置き換え、E3系の定期運用終了
東北新幹線区間の併結列車を「はやぶさ」に統一し、宇都宮駅 - 盛岡駅間の最高速度を320km/hへ引き上げ。
2015年(平成27年)3月14日:グリーンアテンダント・サービスを廃止。

種類 特別急行列車(新幹線)
現況 運行中
地域 東京都、埼玉県、茨城県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県、秋田県
前身 特急「たざわ」「秋田リレー」
運行開始 1997年3月22日
運営者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
路線
起点 東京駅・仙台駅
終点 秋田駅
営業距離 623.8 km(東京 - 秋田間)
使用路線 東北新幹線
秋田新幹線(田沢湖線・奥羽本線)
車内サービス
クラス グリーン車・普通車
身障者対応 11・12号車
座席 グリーン車(11号車)
普通車(12 - 17号車)
(全車指定席)
技術
車両 E6系電車
(秋田車両センター)
軌間 1,435 mm
電化 交流25,000 V・50 Hz(東北新幹線)
交流20,000 V・50 Hz(秋田新幹線)
最高速度 320 km/h(東北新幹線)
130 km/h(秋田新幹線)

宇品四丁目停留場(広島電鉄宇品線)

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宇品四丁目停留場(うじなよんちょうめていりゅうじょう、宇品四丁目電停)は、広島市南区宇品神田四丁目および五丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。

宇品線はほぼすべての区間で軌道が道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが置かれている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配置されている。ただし互いのホームは斜向かいに位置しており、北に広島港方面へ向かう下りホーム、南に広島駅・紙屋町方面へ向かう上りホームがある。

いずれのホームとも3両・5両連接車に対応したホーム長をもっているが、上屋は単車の乗車口あたりにしかない。軌道が敷かれている宇品通りは幅員が狭小であるため、かつては安全地帯が設けられていない平面停留場であったが、同じく平面停留場であった宇品三丁目停留場で交通事故が起きたことにより整備が進められ、1994年(平成6年)8月末に安全地帯の設置が完了している。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、1号線、3号線、5号線、それに0号線が乗り入れている。入口側の反対端に列車接近案内が設置されています。

下りホーム 1号線3号線5号線 広島港ゆき 3号線は午前ラッシュ時のみの運行
上りホーム 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき 午前ラッシュ時のみの運行
5号線 比治山下経由広島駅ゆき
ホームには横断歩道からスロープで連絡します。

 


当停留場は1935年(昭和10年)、宇品線の御幸橋東詰から宇品までの区間が新線に移設された際に開設。当時は七丁目停留場(ななちょうめていりゅうじょう)と称していた。1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下により宇品線をはじめ市内電車は全線不通となるが、当停留場を含む宇品線の電鉄前から向宇品までの区間は同月18日に運行を再開している。

戦後、1960年(昭和35年)には宇品七丁目停留場(うじなななちょうめていりゅうじょう)へと改称される。しかし1968年(昭和43年)8月には宇品町で町名変更が実施され、同年9月には宇品四丁目停留場へと停留場名が改められている。なお、当停留場が宇品四丁目と称するまでは隣の宇品五丁目停留場が同名を称していた。

1935年(昭和10年)12月27日 - 宇品線の御幸橋東詰 - 宇品間で路線が新線へ移設、同時に七丁目停留場として開業。
1960年(昭和35年)3月30日 - 宇品七丁目停留場に改称。
1968年(昭和43年)9月1日 - 宇品四丁目停留場に改称。


付近は古くからの住宅街である。ところどころではマンション建設など小規模な再開発が進む。

広島市立宇品小学校
うじな保育園
神田神社
宇品第二公園
宇品公民館
マツダ宇品工場
広島都市学園大学
中国郵政研修センター


駅番号 ●U14
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宇品線
キロ程 4.4km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日

 

 

 

 

古庄駅 静岡鉄道静岡清水線

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古庄駅は、静岡県静岡市葵区古庄三丁目にある静岡鉄道静岡清水線の駅。駅番号はS07。高校の最寄駅でもあるため、朝夕は通学利用が目立っています。

対向式ホーム2面2線。ホーム間は構内踏切で連絡。ホーム全面に上屋が設置されています。 通勤急行停車駅で、急行は通過駅となっている。過走防止用に20キロ制限のATS地上子が設置されている。


便所は上りホームにある男女共用の水洗式。

切符売場には券売機が2台とICカードチャージ機も設置されています。

のりば
1 ■静岡清水線(下り) 草薙・新清水方面
2 ■静岡清水線(上り) 長沼・新静岡方面

駅前のスペースはほぼありません。駅舎は鉄骨造の駅舎です。

改札口の頭上にはLED式の案内表示機、改札機2台が設置されています。

駅周辺は住宅地で静岡県立静岡農業高等学校・静岡中央警察署古庄交番・古庄自動車学校・ヤマダ電機テックランド静岡国吉田店・コジマ×ビックカメラ静岡店・ファミリーマート古庄店などがある。

1908年12月9日 開業。
1996年(平成8年)3月31日以前のダイヤにおいては急行停車駅であった。現在では急行(新清水行き)は通過し、通勤急行(新静岡行き)は停車している。

駅番号 S07
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 3.8km(新静岡起点)


駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線


乗車人員
-統計年度- 1,594人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日

シエンタ(SIENTA)放課後 ティータイム 痛車

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シエンタ(SIENTA)は、トヨタ自動車が2003年から製造・販売を行っている5ナンバーサイズの7人乗りミニバン型乗用車である。

2代目
発売から12年を迎え、初のフルモデルチェンジを実施。チーフエンジニア(CE)はプリウスαのCE等を歴任した粥川宏(かゆかわ ひろし)。
2代目は「ミニバン=四角いハコ型」というこれまでの概念を打ち破り、「Active & Fan」をキーワードとしてトレッキングシューズをイメージした機能性と動感を表現したデザインを目指して設計され、サイドビューはシアターレイアウト(後席に行くほど乗員位置を高めに配置)に沿ったサイドシルエットやベルトラインによってキャビン全体を前傾に見せ、フロントはヘッドランプからフォグランプ・グリルへと一筆書きのようにつながるバンパーガーニッシュで構成され、バンパーコーナーを強調させた、なお、フロントのエンブレムはトヨタのCIマークのエンブレムに変更された。リアは機能的かつユニークな表情を演出するため、コンビネーションランプとバンパープロテクターを融合したバンパーガーニッシュを採用。また、初代では独立して装着されていた車名エンブレムが無くなり、電気式バックドアハンドルに車名ロゴを刻印した。ボディカラーはイエロー系の新規開発色「エアーイエロー」を含む全8色(。内装ではインストルメントパネルはアッパー部とロア部で構成され、ロア部にはスイッチなどの操作系を腕の動きに沿って配置。オレンジのアクセントカラーやサテンメッキ・ピアノブラックの加飾を施し、助手席アッパーボックスにもオレンジ加飾を施した。
燃料タンクを薄型化してセカンドシート下に搭載し、ハイブリッド車に搭載されているバッテリーをセカンドシート足元の下に搭載したことで段差の少ない低床フラットフロアを実現し、スライドドアの乗り込み高さを2WD車で55mm低くなり、ドア実開口幅も50mm拡大したことで乗降性を高め、座面のヒップポイントを後席に行くほど高くすることで見晴らしも良くした。セカンドシートはニークリアランスを25mm拡大して足元のゆとりを確保し、ワンタッチのレバー操作で折りたたみできるタンブル機構を備えた。サードシートはシート幅を70mm拡大した幅広のベンチ風シートとなり、ロックを解除して前方に送り込んでセカンドシート下に格納できるダイブイン格納機構を備えた。
取扱店については、初代の発売開始時から継続しているカローラ店に加え、2006年5月のマイナーチェンジ以降取り扱いが無かったネッツ店へも約9年2ヶ月ぶりに取り扱いを再開。さらに、フルモデルチェンジを機にトヨタ店・トヨペット店でも取り扱いを開始することとなり、すべてのトヨタ販売店での取り扱いとなった。生産は2017年現在、カローラアクシオを生産しているトヨタ自動車東日本本社(宮城大衡工場)にて行われるほか、インドネシアのトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・インドネシア(TMMIN)の西ジャワ州カラワン工場、中華民国(台湾)・桃園市中壢区の国瑞汽車でも生産される。
なお、当代は少量ではあるが、先代に引き続き、香港・マカオ(いずれも中華圏特別行政区)市場でも販売されるが、こちらは日本からの輸出となる。


メカニズム
パワートレインにはエンジンに1NZ-FXE型を採用した「リダクション機構付THS II」を搭載したハイブリッドモデルを新設。これにより、ミニバンでトップクラスとなるJC08モード燃費27.2km/Lを実現し、「平成32年度燃費基準+20%」を達成した。初代から踏襲するガソリンエンジンモデルは2WD車がハイブリッドモデルに採用されているミラーサイクル、クールドEGR、VVT-iEなどを採用した2NR-FKE型に置換し、新たにアイドリングストップ機能の「Stop & Start System」を標準装備したことでJC08モード燃費を20.6km/L(X-Vパッケージ。X、Gは20.2km/L)に向上し、「平成32年度燃費基準」を達成した。一方で4WD車は2NRエンジンを搭載しても減税対象レベルまで燃費が向上しないため、コストを抑えるため若干の改良が施された既存の1NZ-FEエンジンのままとされた。同様にアイドリングストップ機能についても4WD車には装備されない。
プラットフォームは、フロントにアクア用のBプラットフォーム、リヤにはウィッシュ(2代目)用のMCプラットフォームを低床化した物を使用している。 なお、このモデルはホイールハブがPCD100のまま、先代の4穴から5穴に変更された。
安全面も強化し、レーザーレーダーと単眼カメラを組み合わせた2つのセンサーを採用し、衝突回避支援型プリクラッシュセーフティ(PCS)、レーンディパーチャーアラート(LDA)、オートマチックハイビーム(AHB)の3つで構成され、付帯機能として先行車発進告知機能も設定した衝突回避支援パッケージ「Toyota Safety Sense C (トヨタ・セーフティー・センス・シー)」を全車にメーカーオプション設定した。
さらに、ガソリンエンジンモデルには先代同様ウェルキャブが設定されているが、2代目は「車いす仕様車(タイプI)"助手席側セカンドシート付"」が型式指定自動車として通常仕様と共にカタロググレードにラインナップ。持ち込み登録の手間が省かれ、納車までの期間が短縮されるメリットがある。リクライニング機構付車いすなど、多様な車いすの乗車に対応したほか、後輪にエアサスペンションを採用した車高降下機構により9.5度の緩やかなスロープ角度を実現した。また、サードシートをなくし、セカンドシートを専用設計に変更。助手席側のセカンドシートを倒して車いすごと乗り込み、その隣に介助ができるほか、手動スロープ前倒れ機能の採用により、普段はラゲッジスペースを確保した2列5人乗りのミニバン(=トールワゴン)として利用できる。また、ボディカラーは車いす仕様車専用色の「スーパーホワイトII」が設定される。


沿革
2015年
7月9日 - 初のフルモデルチェンジを行い、同日より販売開始。
キャッチフレーズは「HOW DO YOU USE TODAY? 今日を、どう使う?」で、CMキャラクターにはハメス・ロドリゲスと滝川クリステルが起用された。
グレード体系はハイブリッドモデル・ガソリンエンジンモデル・「車いす仕様車(タイプI)"助手席側セカンドシート付"」いずれも「X」と「G」の2グレードとなり、「X」のガソリンエンジンモデルにはUVカットガラス(スライドドア・リアクォーター・バックドア)をグリーンに、LEDサイドターンランプ付カラードドアミラーを電動リモコンにそれぞれグレードダウンし、助手席側ワンタッチスイッチ付パワースライドドア(挟み込み防止機構付)を非装備化した「Vパッケージ」も設定される。
8月 - ガソリンエンジンモデルが現地代理店の「クラウンモーターズ」を通じ、中華圏特別行政区の香港、およびマカオで販売開始(型式は日本国内仕様と異なり「P17#R」型となる)。
9月 - 「Toyota Safety Sense C」を搭載した「HYBRID X」がJNCAP予防安全アセスメントで最高評価の「先進安全車プラス(ASV+)」を排気量1500cc以下の小型ミニバンで初めて獲得。全46点満点中、満点の評価となった。
2016年
1月 - ハイブリッドシリーズが香港とマカオで販売開始(ガソリンエンジンモデル同様、型式は日本国内仕様と異なり「P17#R」型となる)。
4月 - インドネシアで「All New SIENTA」として発表。同年7月より販売開始。
最上級のエアログレード「Q」以外にはCVTに加えて6速マニュアルトランスミッションも設定される。
現地の整備事情や道路事情を鑑み、ハイブリッドは設定されず、ロードクリアランスが日本仕様より20mmプラスに(=全高1695mm)、エクステリアの一部(フロントグリル、フロント&リアバンパー部のエアロパーツ等、ボディカラー等)、インテリアの一部(インパネシフト→フロアシフト、足踏み式→サイドレバー式パーキングブレーキ、エアコンスイッチパネルの形状変更等)が国内仕様と若干意匠が異なる。
8月 - マレーシアでも販売開始。
ハイブリッドの設定はなく投入されたモデルは2NR-FE搭載の2WD車のみで1.5V(CVT)と1.5G(CVT)のみとなる。
日本仕様との相違点として、現地の道路事情を考慮して車高が25mmプラス、6MT車の設定(ならびに専用インパネの新設)、リヤクーラーの設置、パーキングブレーキレバーの設置などが挙げられる。CVT仕様であってもフロアシフトとなる。ボディーカラーは日本仕様とは大きく異なり、「グレーメタリック」「オレンジメタリック」などが設定される代わりに「エアーイエロー」、「グリーンメタリック」などが設定されない。
11月 - 台湾で販売開始。
ガソリン車のみの設定(1.5Lと1.8L)。同市場においてはウィッシュの後継という位置付けである。
マレーシア仕様以上に日本仕様との相違点が多く、リヤクーラーの設置、パーキングブレーキレバーの設置、ヘッドアップディスプレイの追加、7人乗りに加えて5人乗り仕様の設定(前者は小客車、後者は小客貨両用車の扱い)、2ZR-FAE型1.8Lエンジンの設定などが挙げられる。ボディーカラーは日本仕様に準じているが、「ブルーメタリック」、「グリーンマイカメタリック」、「ヴィンテージブラウンパールクリスタルシャイン」の3色が設定されておらず、代わりに日本仕様では初代中期・後期に設定されていた「グレーメタリック」の設定がある。
2017年
8月1日 - 特別仕様車「G"Cuero(クエロ)"」を発売。
「G」をベースに、シート表皮に合成皮革と上級ファブリックのコンビシートを採用するとともに、シート・シフトノブ・ステアリングホイールにオレンジステッチを施した。また、ベース車ではオプション設定となる「Toyota Safety Sence C」、LEDランプパッケージ(Bi-Beam LEDヘッドランプ(ハイ・ロービーム、オートレベリング機構、LEDクリアランスランプ付)、フロントフォグランプ(ハロゲン)、専用リアコンビネーションランプ、コンライト(ライト自動点灯+消灯システム))、先行車発進告知機能などを標準装備。ボディカラーは特別専用色の「クールボルドーガラスフレーク(オプションカラー)」を含む5色を設定する。

『放課後ティータイム』(ほうかごティータイム)は、放課後ティータイムのミニアルバム。2009年7月22日にポニーキャニオンから発売された。
TBS系列の一部とBS-TBSで放送のテレビアニメ『けいおん!』の劇中歌を収録したミニ・アルバム。
同作の登場キャラクターからなる桜高軽音部(平沢唯(豊崎愛生)、秋山澪(日笠陽子)、田井中律(佐藤聡美)、琴吹紬(寿美菜子))の4人、そして新入部員の中野梓(竹達彩奈)を加えたバンドユニット「放課後ティータイム」名義の作品。
本編第12話で歌われた「ふわふわ時間(唯Vocal Ver.)」、第8話で歌われた「わたしの恋はホッチキス」、第12話で歌われた「ふでペン 〜ボールペン〜」、またアニメ内では第8話でのエンディング部分の演奏とタイトル名のみの登場となった「カレーのちライス」の4曲で構成されている。
アルバムタイトルであるバンド名の「放課後ティータイム」は、劇中では2年時の学園祭直前(原作第2巻p74、アニメ第11話)に決定したものである。この作品はStudio Mix盤とLive Mix盤の2パターンで収録した2枚組であり、初回限定盤として、キラキラ外箱、ワンコーラス分の全曲メロ譜が封入されている。
なお、収録された全曲について、劇中では登場人物である秋山澪が作詞、琴吹紬が作曲を手掛けたという設定になっているが、実作詞・作編曲は別の人物が担当している。
2013年3月20日に発売された『K-ON! MUSIC HISTORY'S BOX』で、本作の「Disc-1(StudioMix)」「Disc-2(LiveMix)」をまとめた物がディスク3として収録されている。

 

ライト R-3350 サイクロン 18(航空機用空冷星型エンジン)米カーチス・ライト

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 ライト R-3350 サイクロン 18(Wright R-3350 Cyclone 18)は、アメリカのカーチス・ライトによって開発・製造された航空機用空冷星型エンジン。通称デュプレックスサイクロン(Duplex Cyclone =二重のサイクロン)エンジンとも呼ばれる。B-29戦略爆撃機に搭載され、対日戦に非常に大きな役割を果たした。このエンジンは、当時の航空機用レシプロエンジンとしては、最大規模の出力を誇る。しかし、その分開発も非常に難航し、開発自体は第二次世界大戦の開戦以前から開始されていたが、大戦時にB-29に採用されるまでには長い期間が必要であった。戦後は民間旅客機のエンジンとして、ターボコンパウンド仕様のエンジンが製造されたが、こちらは信頼性に欠け、不評であった。

1927年にライト(Wright Aeronautical )は有名なサイクロンエンジンを開発し、1930年代の航空機に多く用いられていた。1929年、ライトはカーチスと合併しカーチス・ライトとなったが、1,000馬力クラスのエンジンの開発は続けられた。1931年に完成したR-1820 サイクロン 9は、1930年代、および第二次世界大戦初期の軍用機において広く使われたエンジンの1つである。

同時期に、航空用エンジンメーカーのプラット・アンド・ホイットニー(P&W)は、有名なワスプ・エンジンのシリーズの開発を始めた。この二重星型(複列星型)のワスプ・エンジンは、サイクロンよりコンパクトで高性能であった。1935年、カーチス・ライトはP&Wに追いつくため、サイクロン 9をベースにした新エンジンの開発を開始し、これを複列14気筒化したR-2600と複列18気筒化したR-3350が開発された。

1937年5月に最初のR-3350の試運転が行われたが、このエンジンはやや気難しいことが判明した。運転状態が安定しなかったことに加え、14気筒のR-2600がはるかに大きな注目を集めたことで、開発スピードは上がらなかった。1941年になってようやく、アリソン製のV-3420 エンジンにかえてXB-19に採用され、R-3350は初めて空中にあがった。

1940年、アメリカ軍は、2,000lb(約908kg)の爆弾を積んでアメリカ本土からドイツを攻撃しようという長距離爆撃機の開発を計画した。これには大馬力のエンジンを必要としたので、R-3350の開発が重要になった。1943年までにB-29の機体は完成したが、空気抵抗削減を狙いエンジンカウルを極端に絞った設計のため、特に後列上段シリンダーの冷却が足りず、エンジンは常にオーバーヒート気味であった。また、エンジン軽量化のために多用したマグネシウム合金製の部品が発火しやすいという問題も抱えていた。このため、エンジン火災を起こす機体も多く、軍はその対策に頭を悩ませることになる。

R-3350の初期型の燃料供給方式はキャブレター式で混合気の供給に問題を抱えていたが、1944年後半には燃料噴射方式に変更され、この点については信頼性が改善された。

戦後は、民間機市場に供給するため燃費の向上が図られ、ターボコンパウンド方式が開発された。これは、エンジン1基につき3個のタービンにより排気エネルギーを回転エネルギーに変換し、それを流体継手を使用しクランクシャフトに伝えることにより排気中の熱エネルギーの20%を回収するというものであった。この改良を加えられたR-3350は、ロッキード コンステレーションやダグラス DC-7などの大型旅客機などに採用された。しかし、このターボコンパウンド仕様のR-3350は、その複雑な構造が災いしてトラブルが頻発し、より簡便で高性能なターボプロップ方式の普及に伴い、第一線から退くことになった。

タイプ:空冷二重星型18気筒
ボア×ストローク:155.6 mm×160.2 mm
排気量:54.56 L
全長:1,985 mm
直径:1,413 mm
乾燥重量:1,212 kg
過給機:排気タービン式2段2速
離昇馬力:2,200 hp/2,800 rpm
高度馬力:1,800 hp/2,400 rpm(高度4,267 m)

主な搭載機
B-29 スーパーフォートレス
B-32 ドミネーター
マーティン JRM
C-97 ストラトフレイター
A-1 スカイレイダー
P-2 ネプチューン

 

 

 

 


警備艇 たちばな

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警備艇 たちばな

船舶番号 280-29685
船 籍 日本
船籍港 尾道
所 管 総務省
所 属 広島県警察 尾道警察署

日本の警察においては、水上警察活動は通常、管轄区域に水上を含む警察署の地域課が所掌している。管轄水域が小規模である場合は可搬式の舟艇や借上げ船舶により業務が実施されるが、水域が大きくなると専用の船舶(警備艇。公式には「警察用船舶」と称される)が配備される。本署から管轄水域が離れている場合や業務の増大等により、警備艇繋留施設の近隣で勤務するほうが効率的である場合は、水上派出所・水上警備派出所等が設置される。更に水上警察活動に特化した警察署として水上警察署が設置されることもあったが、近年は警察署の再編に伴って陸上の警察署との統合等が進められる傾向にあり、水上警察署の数は減少している。


また、都道府県警察によっては、警察本部の生活安全部等の執行隊として水上警察隊を設置し、警察署ではなくこの隊で警備艇を集中運用する場合もある。
警備艇の運航は、資格を有する警察官自身によって行われる場合もあるが、一般的には固有の乗員(船長・機関長等)として技官等の職員が配置される場合が多い。この場合は更に、正規職員である場合と嘱託職員である場合がある。固有の乗員が配置される場合も、乗員だけでは警察官としての職務執行はできないため、警ら活動等は警察官を乗船させて実施される。

尾道警察署は広島県警察が管轄する警察署の一つである。
所在地
〒722-0014 広島県尾道市新浜一丁目7番34号
管轄区域
尾道市(因島・浦崎・瀬戸田地区を除く)
1881年8月尾道水上警察所が設置される(1946年7月廃止)。

海岸通停留場(広島電鉄宇品線)

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海岸通停留場(かいがんどおりていりゅうじょう、海岸通電停)は、広島県広島市南区宇品海岸二丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。

宇品線はほぼすべての区間で軌道が道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが置かれている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように向かい合って配置されている(相対式ホーム)。線路の東に広島港方面へ向かう下りホームが、西に広島駅・紙屋町方面へ向かう上りホームが位置しており、乗降客は南にある横断歩道を利用してホームに渡る。ホームには屋根がほぼ全長にわたって取り付けられている。列車近接表示は入口付近に設置されています。

広島港寄りの軌道には渡り線がある。毎年7月に広島港で開催される「広島みなと夢花火大会」の際には当停留場で折り返しを行う臨時便があり、渡り線はこの時使用される。普段は無人の停留場であるが、花火大会の際には多数の係員が配置される。

軌道が敷かれている宇品通りは幅員が狭小であることからかつては安全地帯が設けられていない平面停留場であったが、同じく平面停留場だった宇品三丁目停留場で起きた交通事故を機に整備が進められ、1994年(平成6年)8月末に安全地帯の設置が完了している。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち1号線、3号線、5号線、それに0号線が乗り入れる。ホームは長く、上屋も全面に設置されています。

下りホーム 1号線3号線5号線 広島港ゆき 3号線は午前ラッシュ時のみの運行
上りホーム 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき 午前ラッシュ時のみの運行
5号線 比治山下経由広島駅ゆき
スロープの勾配は緩く、化粧タイルで装飾されています。


周辺
西側・北側は住宅街である。東側・南側には広島港の港湾関連施設や企業の事業所・倉庫群が並ぶ。
広島競輪場
宇品体育館
広島信用金庫宇品支店
ディオ宇品店
ダイキ宇品店
広島海上ビル
広島市営桟橋
広島市南消防署水上出張所
広島県広島港湾振興事務所
旧広島県港湾事務所(被爆建物)
広島港湾合同庁舎
第六管区海上保安本部
第六管区情報通信管理センター
広島海上保安部
広島検疫所
海上保安協会広島地方本部
神戸植物防疫所広島支所
広島地方海難審判所
神戸税関広島税関支署
中国地方整備局広島港湾・空港整備事務所
広島海員会館
宇品波止場公園


当停留場の開業は1935年(昭和10年)12月のことであるが、それ以前に宇品線はすでに開業しており、当地にはかつての終点である宇品停留場(うじなていりゅうじょう)が設けられていた。ここではこの停留場についても併せて扱う。

1912年(大正元年)に紙屋町停留場から御幸橋停留場までの区間が開業した宇品線は、1915年(大正4年)に宇品地区まで路線が延伸された。当時の軌道は御幸橋の東詰すぐのところで南下し、そのまま宇品地区の西堤防沿いに進んだあと堤防の南端近くで東に折れ、海岸通りを東進して宇品桟橋(現在の広島市営桟橋)に至るという経路をとっていた。路線の終点である宇品停留場はこの桟橋前に置かれ、東には国鉄宇品線の宇品駅が立地していた。

西堤防沿いに御幸橋東詰から宇品までを結んでいた軌道は1935年(昭和10年)、東側に開通した新街路(宇品通り)上へ移設される。この新線は御幸橋から東に進んだ皆実町で南下をはじめ、宇品通りの上を進んだあと今度は桟橋前で西に折れ、海岸通りを西進して西堤防の南端近くに至るという経路をとるようになった。この移設により宇品停留場は廃止され、代わって開設されたのが当停留場である。停留場は宇品停留場と同様桟橋前に置かれ、当時は宇品桟橋前停留場(うじなさんばしまえていりゅうじょう)と称していた。その後1942年(昭和17年)に一度廃止されるが、戦後の1950年(昭和25年)に復活、このとき海岸通停留場と改称された。2002年(平成14年)には広島南道路の工事に伴い、北に0.1キロメートル移設されている。なお、この移設先には広島競輪開催時のみ営業を行う臨時の競輪場入口停留場が1952年(昭和27年)ころより存在していたが、海岸通停留場が移設してきたのに伴って廃止されている。


旧競輪場入口停留場広島港方面のりば。安全地帯はなく、白線のみで位置を示していた(2007年)
1915年(大正4年)4月3日 - 宇品線の御幸橋東詰 - 宇品間が開業、終点として宇品停留場が開設される。
1935年(昭和10年)12月27日 - 御幸橋東詰 - 宇品間を新線に切り替え。宇品停留場に代わって宇品桟橋前停留場が置かれる。
1942年(昭和17年) - いったん廃止。
1950年(昭和25年)12月1日 - 海岸通停留場として復活。
2002年(平成14年)8月31日 - 国道2号線広島南道路・高速道路広島高速3号線の建設に伴い、宇品五丁目寄りに約100メートル移転。広島競輪開催時のみ営業していた競輪場入口停留場はこのとき廃止される。

駅番号 ●U16
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宇品線
キロ程 5.1km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日[

 

Military M970 Semi trailer 5000 Galon Fuel Tank(米軍)

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Military M970 Semi trailer 5000 Galon Fuel Tank

M-970セミトレーラーRefuelerは、5,000ユーロ(19,000 L; 4,200 imp gal)の燃料配給タンカーで、航空機のアンダー/オーバーウイング給油用に設計されています。それは、フィルター/セパレーター、再循環システム、およびアンダーウィング用のものとオーバーウィング用のものの2つの燃料補給システムを備えています。タンカーは、5t、6x6のトラックトラクターまたは五番車を装備した同様の車両によって牽引されるように設計されています。M-970は、底部を通って、または上部充填開口部を通して装填することができる。セミトレーラの前部にはトップマンホールへのアクセス用のはしごがあり、4気筒のディーゼルエンジンとポンプアセンブリは自己ロード/アンロード機能を備えています。燃料補給装置の本体は、5,000 USガロンのシングルコンパートメントのステンレススチールタンクです。シャシーは溶接されたスチール製の構造で、フルフローティングタンデムアクスルと手動着陸装置が装備されています。M-970の引退についての話がありましたが、適切なオフロード交換は見つかりませんでした。海兵隊はR-9とR-10のタンカーも使用していますが、道路利用はできません。M-970は、米国海兵隊メンテナンスセンター - 米国ジョージア州アルバニー - 統合エンタープライズスケジューリングケーススタディ "は、今後の使用のためにセミトレーラーをアップグレードするために取り組んでいます。


米海兵隊R-9、非戦術航空機補給兵
M967とM969のバージョンは類似していますが、車両燃料(ガソリン、ディーゼル)を搭載するように構成されています。M967A1、M969A1、およびM970A1バージョンでは、タンクの前面から上部のアクセスラダーを背面に移動します。

M-970はスタンドアローンの燃料タンカーとして使用でき、フライトライン上の航空機に燃料を直接運ぶことができます。セミトレーラは、前線またはそれ以降の燃料供給作業を迅速に行うために、複数のノズルに燃料を送る前方武装および燃料補給ポイント(FARP)にも使用されます。これは一般的にヘリコプターに使用されますが、AV-8B Harrier IIまたは遠隔飛行場(EAF)でも利用できます。M-970は、現場の戦術飛行場燃料供給システム(TAFDS)用の袋を積み込むのを助けるために使用された。


燃料袋のTAFDSの一部。
M969 / M969A1は、フォワードアーミングと燃料補給ポイントで他の車両に燃料を運び払うために設計された、自己積み降ろし用のタンクセミトレーラーです。M967 / M967A1は類似していますが、燃料ターミナルとデポの間で大量の燃料のみを運ぶように設計されており、他の車両に燃料を供給するための装備はありません。[2]

仕様

米海兵隊M-970
M-970 / M970A1、M969 / M969A1、M967 / M967A1の全機種は共通の基本シャーシ、モータなどを共有しています。基本タンクは5,000 USガロン(19,000 L)のバッフル付きタンクです。

長さ:366インチ(9.3 m)
幅:96 cm(2.4 m)
高さ:104.5インチ(2.65m)
正方形:24.7平方フィート(22.7 m 2)
立方体:2,126立方フィート(60.2m 3)
重量:空 - 15,200ポンド(6,900 kg)
重量:負荷 - 49,150ポンド(22,290 kg)
グランドクリアランス:M-970 - 16インチ(410mm)/ M-970A1 - 19.5インチ(500mm)
キングピンの高さ:56インチ(1.4m)
燃料容量:

33,950ポンド/ 5,000米国ガロン(19,000 L; 4,200 imp gal)の高速道路
クロス・カントリー25,800 lb / 3,800 USガロン(14,000 L; 3,200 imp gal)
最大サイドスロープ20%/リーク:5,000 USガロン
最大縦スロープ10%/リーク:5,000 USガロン
4シリンダーエンジンタイプの燃料データ:ディーゼル

1時間あたりのギャロン:1.5 USガロン(5.7 L; 1.2 imp gal)

拘束力:硬い平らな底を鍛えることができます。深さは原動機とセミトレーラーのペイロードに依存します(燃料は水よりも軽く浮遊します)。強制的なキットがなければ、タンクは安全に24インチ(610mm)の水を入れることができます。

電気システム:24ボルト、負の地面、原動機によって動力を与えられる; ポンプモータ、12ボルト、負のグランド、65アンペア

ブレーキ:原動機を搭載した空気

機器のオプション:キット:蒸気回収、再循環システム、2つの燃料補給システム - アンダーウィングおよびオーバーウイング整備用

エンジン
M-970およびM-970A1モデルは、空冷圧縮点火を備えたCummins Onanの 4気筒インラインディーゼルエンジンを使用し、27.5馬力(20.5kW )を生産します。それは3.2ガルの燃料タンクを持っています。

タイヤ
M-970は11:00 R20タイヤを使用しています。

M-970シリーズには、以下の基本モデルが含まれています。

モデル 説明
M-970 5,000米ガロンの燃料タンカー
M-970A1 M970と同じですが、3インチ(76 mm)以上の地上高があります
M-970は以下の原動機によって牽引されます:

モデル 説明
M-931 トラクタートレーラー
M-932 M-931と同じですが、前面に15,000ポンド(6,800 kg)のウインチが付いています
M-818 トラクタートレーラー
MTVR(MK31) MTVRトラクター


安全性
燃料から水分や堆積物を除去するフィルターセパレーターシステムを装備。燃料分注のための緊急遮断弁を有する。使用中にホースがホースリールから分離し、燃料がデッキにこぼれないようにするために、給油ホースにはせん断ピンとスプリングバルブがあります。Purple-K消火器を備えています。

メーカー ハイル・カンパニー
製造 1980年以前
アセンブリ アテネ、テネシー州
ボディとシャーシ
クラス 大型セミトレーラートラック
ボディスタイル タンカーセミトレイラートラック
レイアウト オーバー・アンド・アンダーウィー給油
関連する M-967、M-969
パワートレイン
エンジン 4サイクル。インラインディーゼルカミンズ オナン
寸法
長さ 366インチ(9.3m)
幅 96 in(2.4 m)
高さ 104.5インチ(2.65m)
カーブの重さ 15,200ポンド(6,900 kg)空、49,150ポンド(22,290 kg)
年表
前任者 M-131シリーズ
後継 なし

河戸帆待川駅 (JR西日本)可部線

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河戸帆待川駅(こうどほまちがわえき)は、広島県広島市安佐北区亀山二丁目にある西日本旅客鉄道(JR西日本)可部線の駅。

可部線の延伸区間で唯一の中間駅である。旧・可部線の廃線区間を活用したものであるが、廃線前は設置されていなかった。延伸計画を進めていく中で、可部駅とあき亀山駅の中間に位置しており、直線区間で廃線敷地内にホームを設置可能な場所に当駅が設置されることになった。

一度廃線になった可部線の可部-三段峡間の一部があき亀山駅まで電化復活。
正式駅名が決定する前の仮称は「新可部駅」(しんかべえき)であった。

単式ホーム1面1線を持つ地上駅。平屋の鉄骨造駅舎です。駅前は公園風に整備されています。


自動券売機および簡易自動改札機が各1台設置されており、ICOCAが利用可能。JRの特定都区市内制度における「広島市内」の駅である。


改札とホームの間は緩やかなスロープがあり、バリアフリー対応となっている。改札外に車椅子対応トイレが設置されている。ホームへは幅の狭い通路があります。

幅の狭いホームには透過性の高い上屋があり椅子が設置されています。

駅周辺は住宅地で、駅前には郊外型店舗が立地する。
広島県道267号宇津可部線
国道54号可部バイパス
帆待川(駅名の由来となった川で、ホーム下を流れる小さな川)
DCMダイキ可部店
生鮮壱番館エブリイ可部店
スーパードラッグひまわり可部店


安佐北区役所
安佐北警察署
広島北税務署
可部簡易裁判所
可部区検察庁
広島交通 下河戸バス停
可部四日市簡易郵便局
広島市立可部小学校
可部ひかり保育園

2014年(平成26年)
2月25日 - 新可部駅を含む延伸区間の鉄道事業が許可。
12月19日 - 広島市による駅建設用地取得の手続きが遅れていることから、開業が2017年春に1年延期が決まった。
2015年(平成27年)2月6日 - 延伸区間の駅舎の設計がほぼ終了した為、新駅イメージパースを発表。

2016年(平成28年)
7月8日 - JR西日本が正式駅名を「河戸帆待川駅」に決定。
12月23日 - 可部線延伸区間の試運転を開始。
2017年(平成29年)3月4日 - 可部線の可部駅 - あき亀山駅間の開通と同時に中間駅として開業

所属路線 B 可部線
キロ程 14.8km(横川起点)
広島から17.8km
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 2017年(平成29年)3月4日
備考 無人駅(自動券売機 有)
広 広島市内駅

レンジャー(陸上自衛隊)

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陸上自衛隊におけるレンジャー(Ranger)は、陸上自衛官の中でレンジャー課程を修了し、レンジャー徽章を有する者。

徽章の意匠は、「勝利」の象徴・月桂冠に囲まれた、「堅固な意思」の象徴・ダイヤモンド。

レンジャーという用語そのものは、上記のように陸上自衛隊の資格(特技)の一種であり、特殊部隊員ないし特殊部隊を意味しない。レンジャー有資格者のみで構成されている部隊として、「富士学校普通科部レンジャー班」と、西部方面普通科連隊の各中隊に編成されている「レンジャー小隊」の二つが存在する。

アメリカ陸軍では、優秀な歩兵による遊撃戦部隊として第75レンジャー連隊が編成されていたのに対して、陸上自衛隊では、レンジャー資格の保有率が高い普通科部隊において任務遂行に際し必要がある場合にレンジャー資格を保持する隊員を集め、臨時にレンジャー小隊を編成することはあったものの、長い間常設のレンジャー部隊や特殊部隊は組織されず、レンジャーは隊員個人の資格に留まっていた。

第1空挺団、対馬警備隊等は部隊に占めるレンジャー資格者の割合が極めて高く、「即応性を高めた精鋭部隊」という点では、米軍のレンジャー部隊と同様の機能を求められていたが、常設の部隊としては西部方面普通科連隊(西普連)におけるレンジャー小隊が創設されるまで存在していなかった。

陸上自衛隊における正式な課程教育としては、陸上自衛隊富士学校の「幹部レンジャー課程」及び空挺教育隊の「幹部/陸曹空挺レンジャー課程」がある。これらを修了すると、付加特技「r(レンジャー)」及び「レンジャーき章」が付与される。これらの教育課程を一定基準以上の成績で修了し、相当とする成績を収めた者は、「教官適任証」が与えられる。なお、幹部レンジャー課程卒業者及び教官「適任証保有者」は徽章が金色となる。

また、レンジャー修了者に対し、寒冷積雪地における戦技を教育する冬季戦技教育隊の「冬季遊撃課程」(修了者には「冬季遊撃徽章」が付与される。)、助教としての専門的教育をする、陸上自衛隊富士学校の「レンジャー助教課程」がある。

このほか、各師団・旅団等でも部隊の精強化策の一環として集合教育「部隊レンジャー」を実施しており、前述の教官適任証を持つ幹部または上曹が主任教官となって、幹部の一部[2]や陸曹・陸士を対象として教育している。これらは、正式な課程教育ではないが修了者には付加特技「r」が付与される。平成15年頃までは、主に防大出身の幹部も「部隊レンジャー」を受講していたが、現在幹部のレンジャー教育は富士学校の幹部レンジャーに一本化されている。

これらの「部隊レンジャー」の教育内容や卒業生の練度の不斉一さなどが指摘されているが、その地方の特性に合った遊撃活動のエキスパートを育てるという意味では適しているとも言える。第13普通科連隊の「山岳レンジャー」などはその好例である。

訓練の進行区分としては、「幹部レンジャー課程」及び「部隊レンジャー」が9コ想定、「空挺レンジャー課程」が6コ想定(空挺隊員であるため、体力向上運動や一部の基礎訓練が免除)で構成される。いずれの訓練も筆舌に尽くし難いほど過酷なことで知られている。

訓練期間中、学生は、教官からのあらゆる指示には絶対服従であり、一切反論せず「レンジャー!」とのみ応える。

陸上自衛官約14万人のうち、約8%の隊員がレンジャー資格を持つ。なお、レンジャー隊員になっても、手当が増額するなど、直接的な待遇面での優遇は無い。例外として、西普連レンジャー小隊に所属する隊員に関しては「特殊作戦隊員手当」が支給されている。

陸上自衛隊の特殊部隊である特殊作戦群では、空挺基本降下課程、もしくは空挺基本降下課程と特殊作戦課程両方の履修が必須とされているが、レンジャー資格については特に書かれていない。

レンジャー課程は例年、5月下旬から約3ヶ月間行われ、前半の体力訓練と後半の実戦訓練に分かれる。訓練に参加するには、年齢・体力の基準を満たしていなければならない。

前半(体力訓練)
かがみ跳躍
ロープ渡り、ロープ登り
ハイポート(小銃を“控え銃”状態で行う長距離走)
20キロ走:炎天下で、戦闘服を着用し背嚢も背負い、小銃をハイポート状態で保持した完全装備で行なう。アスファルトの地面を半長靴(ブーツ)で蹴るので、相当な苦痛を味わうことになる。
ちなみに現用の89式5.56mm小銃の重さはおよそ4キログラム。

後半(実戦訓練)
爆破、小銃の射撃、襲撃(伏撃など)、斥候、徒手格闘、隠密処理(刃物等の無音武器のみを用い襲撃、暗殺)
通信術(FM無線機での戦術交話、手信号など)
野戦築城、潜伏
ヘリボーン、舟艇潜入、武装水泳、緊急脱出(水中において装具、靴等を放棄する訓練)
森林戦、夜戦、山岳戦、雪中戦、市街戦(CQB)
生存自活(「生きた蛇を調理して食べる訓練」として知られており、いわゆるサバイバル実習。食べることのできる動植物の知識や判別法、調理法などを学び、実際に蛇や鶏等を解体処理し食する。)
野外衛生
対尋問行動
パルチザン(敵の勢力圏内で、金銭や食料などを活用して協力者を獲得する)
すべての訓練が終了すると、帰還行事が行われ、隊員にレンジャー徽章が授与される。

空挺レンジャー資格の規定
一般部隊から第1空挺団へ転属した隊員のうち、「部隊レンジャー」を修了している隊員に関する規定

陸曹になってから「部隊レンジャー」を修了した隊員は、現在、「陸曹空挺レンジャー課程」は免除されている。但し、本人が受講を望む場合はこの限りではない。(過去においては必須であった。)
陸士で「部隊レンジャー」を修了し空挺団に異動した場合、資格は取り消される。陸士の「部隊レンジャー」を修了し、陸曹昇任後、空挺団に異動した場合、「陸曹空挺レンジャー課程」の受講が必要である
空挺団に所属する幹部及び陸曹は、基本的に「空挺レンジャー課程」修了を求められる。経歴管理上、教育に参加できなかった隊員も存在するが、資格があるにもかかわらず未了者は他部隊への異動対象となる。

冬季遊撃レンジャー
冬季戦技教育隊で10週間の「冬季遊撃課程教育」を修了することで冬季遊撃レンジャー資格を授与される。2008年度より集合訓練から課程教育に昇格した。参加資格はレンジャー資格、及びスキー検定1級または部隊スキー指導官資格を保有する幹部・陸曹であること。

資格者は、冬季遊撃徽章を制服及び迷彩服に着用できる。この資格保有者は冬季におけるスキー機動、雪中戦のスペシャリストとして認められ、雪山の遭難者捜索の際は出動要請がかかり、優先的に派遣される。

訓練内容は積雪寒冷地の山岳地帯における戦闘行動、ゲリラ戦についての訓練である。スキー・装具を装着してのリペリング降下訓練や雪洞内での宿営訓練、無反動砲や小銃を携行し30kgを超える背嚢を背負ってのスキー行進訓練、ゾンデ棒による遭難者救出訓練等も行い雪中戦のスペシャリストになるべく訓練を行う。 しかしながら、一晩の降雪が60cmを超える豪雪地帯であり吹雪で体感温度が-40℃以下にもなるニセコ山中での状況下の機動訓練は、火気の使用を厳重に禁じられる中で凍ったレーションを食することを余儀なくされ、十分に休養もとれない中で実施されるなど壮絶を極め、体力・精神ともに限界まで追い込まれる。常に凍傷や遭難の危険にさらされるため、徹底した安全管理下での訓練とはいえ教官・助教も含めた教育参加隊員は命がけで行っている。心身の故障で訓練についていけなくなった隊員は、失格となり原隊に送り返される。

資格者、特に冬季戦技教育隊所属隊員は「ゲリラ・フォース(遊撃部隊)」を自任し、多分に不正規戦争を意識しているものとされる。

有事の際、冬季遊撃レンジャー徽章保有者は集合命令を受け、冬戦争の際のフィンランド軍スキー部隊のような特殊部隊を編成する。それを冬季戦技教育隊が担任するとされている。

ワゴンR 艦これ痛車

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ワゴンR(ワゴンアール、Wagon R)は、スズキが生産・販売している軽トールワゴンである。
誕生当時、軽自動車の弱点であった室内の狭さを、背を高く取ることで克服した軽の革命的モデルである。男性にも受ける軽自動車を作ろうと開発がスタートし、1987年頃すでに原型はできあがっていたが、紆余曲折を経て1993年に発売(当初のキャッチコピーは「クルマより楽しいクルマ、ワゴンR」)。
それまで軽自動車と言えば、低車高の乗用型もしくは、商用車派生型のワンボックスモデルしかなかったが、ワゴンRの場合はフロアパネルを二重構造とし座面も高く取ることで、足を窮屈に曲げずに座ることで圧迫感を軽減し、視点を高くすることにより眺望性・視認性および開放感を向上させた。床面が高く乗降に不便なワンボックスカーに対し、ワゴンRでは床面は地面からワンステップの高さのため乗降もスムーズとなった。


ワゴンRはまた、厳しいコスト管理により徹底した部品共用化が図られた。バブル景気の後遺症でコストダウンの方向を探っていた当時、現スズキ会長兼CEOの鈴木修はフォルクスワーゲンの製造工場を見学した際に、車種の多様さと比べて基本の車体(プラットフォーム)が少ないことに驚き、VWとの本格的な提携は実現しなかったものの、その後のスズキの徹底した共用化へのきっかけとなった。 当初は月販目標台数を4,000台としていたが、受注はそれをはるかに超え、発売して数か月、増産に対応すべく、約1億円の費用を掛けて生産ラインを拡張したほどである。若年の男性ユーザー層をターゲットとしていたが、優れた使い勝手で購買層は瞬く間に老若男女の幅広い層に拡大した。他車に与えた影響も大きく、類似車種が多数登場した。特に、後にスズキ最大のライバルであるダイハツ工業が投入したムーヴとは販売台数を巡り鍔迫り合いを演じるようになり、共に軽トールワゴンの代表的車種として認知された。


販売台数においては、おおむね軽自動車市場のトップシェアを長らく維持し、車名別月別国内販売台数1位、すなわち、登録車(普通車)の販売台数1位車種の販売台数を上回った時期もあった。2009〜2010年に実施されたエコカー減税・補助金等を発端とした、いわゆる「エコカー・ブーム」の影響によりシェアは低下し、2009年以降、国内販売台数1位の座はトヨタ・プリウスに譲ったものの、全国軽自動車協会連合会の記録がある2006年〜2011年までの5年間にわたり年間軽自動車販売台数No.1を維持。年間軽自動車販売台数No.1の座を譲った2012年から4年間も年10万台以上の販売台数を記録し、2016年は約8.1万台の販売台数を記録している。
ワゴンRの派生車種としては、OEM車種のマツダ・AZ-ワゴン(4代目まで)およびフレア(5代目)、初代ベースでサイズを拡大した登録車(普通車)のソリオ(ワゴンRワイド→ワゴンRプラス→ワゴンRソリオ→ソリオと改名、2代目まで)があり、さらにソリオ派生のシボレー・MWもある。また、日本国外では、ワゴンRプラスを基にしたオペル・アギーラがポーランドで生産されていた。
軽トールワゴンでは少なくなってきているMT車の設定を現行の6代目まで継続採用している(軽トールワゴンでMT車の設定があるのはワゴンRのみである(OEM車種のフレアに関しては初代には設定されていたが、2代目は現時点で設定なし)。スズキの軽乗用車ではワゴンR以外にも、アルト、ジムニー、ハスラーにもMT車の設定がある)。

セダンもあるけど、ワゴンもある。『ワゴンもあーる』ということからワゴンRとなった。また、Rは「Revolutionary=画期的な」と「Relaxation=くつろぎ」それぞれの頭文字「R」をも指し、「軽自動車の新しい流れを作る新カテゴリーのクルマ」「生活にゆとり感を与えるクルマ」という2つの意味も、後付ながら込めている。
3代目以降のバリエーションモデル・「スティングレー」は「STING(刺激)」と「RAY(光線)」を合わせた造語であるが、英語ではアカエイという意味[64]もある。なお、過去スズキでは主力車種だったフロンテの3代目(LC10型)に「スティングレイ・ルック」というコピーを採用している。
当初は「ジップ(ZIP)」という名前で発売予定であり、鈴木修社長(当時)も承諾していたが、開発を手がけた戸田昌男(後の社長)が「あまり良くない」と主張したことから急遽変更されたことが、戸田元社長の葬儀での鈴木会長の弔辞で明らかにされた。

3代目 MH21S/22S型
初代に立ち返り再びスクエアデザインとなった。スバルと共同開発したフロントサスを採用、プラットフォームを新しくした。スポーツグレードの「RR-DI」には軽市販車初の直接噴射式ターボエンジンが搭載された。歴代モデルで唯一、全グレードにタコメーターを標準装備する。グレード体系では標準モデルは「FA」・「FX」・「FT」・「FS」に、スポーツモデルは「RR」と「RR-DI」となった。なお、この型からエンブレムが社章の「Sマーク」をデフォルメしたものから「Sマーク」そのものになり、リアにも「Sマーク」が装着される(「Sマーク」は他のスズキの車種にも順次採用されたが、2012年現在、アルトラパンが唯一「Sマーク」を採用せずキャリイと同じく「SUZUKI」のデカール(縁取りは異なる)がリヤに貼られている。また、ジムニーとキャリイはフロントのみ採用)。併せて、リアの車名ロゴが2代目までのデカールから「Sマーク」と同じメッキエンブレムに変更されている。
全グレードドアに電動アクチュエーターが内蔵されパワードアロック標準装備(FAより上のグレードにはキーレスエントリーなどが付く)となったためか助手席・バックドアハンドルは鍵穴を廃止し、形状を変更した。同じGM系列のスバルと共同開発(2003年当時)したフロントサスペション用L字形ロアアームを採用している。ターボ車については、空冷式インタークーラーの小型高効率タイプへの変更と、フロントグリルからインタークーラーへの専用エアーインテーク/ダクトを設置したことにより、2代目モデルまでエンジンフードにあったインタークーラー冷却用のエアーインレットがなくなり、先代同様「TURBO」デカールも存在しないためこの代からターボカーと一目で分かる要素は消滅した。「RR-DI」、「スティングレー DI」のインタークーラーも上部に設置されているが他のターボにある専用エアーインテーク/ダクトは存在せず従来どおりにも見えるがこれもインテークはボンネットに存在せずスズキの乗用車としては珍しい方法であった。

『艦隊これくしょん -艦これ-』は、角川ゲームスが開発しDMM.comがブラウザゲームとして配信している育成シミュレーションゲームおよび、そのメディアミックス作品群。ゲーム内容は、第二次世界大戦時の大日本帝国海軍の軍艦を中心とした艦艇を女性キャラクターに擬人化した「艦娘(かんむす)」をゲーム中で集め、強化しながら敵と戦闘し勝利を目指すというものである。2013年4月23日にブラウザ版のサービスを開始した[3]。2016年6月10日からは、ブラウザ版とデータが同期するAndroid版を提供している。
公式略称は「艦これ」。表記揺れとして「艦隊これくしょん〜艦これ〜」などがある。
2016年2月下旬現在、ブラウザ版における登録や課金サーバーなどのプラットフォーム系以外は全て「「艦これ」運営鎮守府」(運営)が担当している。

この作品では女性の萌えキャラクターに擬人化された艦艇(軍艦)を「艦娘(かんむす)」と呼んでいる。艦娘がどういった存在であるのかについては明確にされていない。『艦これ』の田中謙介プロデューサーから「僕の中のイメージ」と前置きされた上で語られているものもあるが、基本的にはユーザーそれぞれの想像に委ねるとしてい。例えば「赤城は大食い」という設定は、元はユーザーの想像から生まれたものである。
公開初日時点の登場艦娘数は100艦ほどで、その後も随時、新規艦娘や新規改造艦娘が実装されている。登場している艦娘は大半が第二次世界大戦期の大日本帝国海軍艦艇を元にしたもので、少数の大日本帝国陸軍船舶の艦娘も登場している。また海外艦として、2017年8月現在、ソ連海軍、ドイツ海軍、イタリア海軍、アメリカ海軍、イギリス海軍、フランス海軍の艦艇を元にした艦娘が実装されている。
主人公に相当する艦娘は明確にされておらず、メディアミックス作品でもそれぞれで異なっている。
アイテムとして実装されている間宮と伊良湖を除き、ゲーム中での使用キャラクターとして実装されている「艦娘」の一覧である。本作では大日本帝国海軍艦艇類別標準とは異なる艦種、艦型が使われていることも多いが、この表ではゲーム内の図鑑に従って記述している。特に、航空母艦の分類(正規空母、軽空母、装甲空母)の内訳は本作独自のものであるほか、正式な類別ではない航空戦艦、航空巡洋艦、重雷装巡洋艦、潜水空母や、当時日本軍の艦船には用語として存在しない揚陸艦などといった類別も使用されているので注意が必要である。また、艦娘のステータスの1つである「速力」が高速となっている戦艦は高速戦艦と呼ばれ、ブラウザ版でも任務(クエスト)などで低速の戦艦とは異なる扱いを受けることがあったが、『艦これ改』では戦艦とは別の艦種として設定されている(ただし、ブラウザ版と共通であるカードのマークなどは戦艦のままである)。

テレビアニメ『艦隊これくしょん -艦これ-』は、2015年1月から3月にかけて全12話を放送。タイトルはブラウザゲームと同じく『艦隊これくしょん -艦これ-』だが、ブラウザゲームとはロゴが若干異なる。劇場アニメ『劇場版 艦これ』は2016年11月26日公開。『劇場版 艦これ』は略称ではなく正式なタイトルで、「艦隊これくしょん」という言葉は含まれていない。
「KADOKAWA GAME STUDIO MEDIA BRIEFING 2013 AUTUMN」において、 PS Vita版『艦これ改』の発表と同時に本作のテレビアニメ化の企画が進行していることが発表された。2015年1月から3月まで放送され、同年3月26日に放送された最終話で続編の制作が発表された。また、4月8日からTOKYO MX、4月9日からBS11で再放送が行われた。2015年8月9日、パシフィコ横浜国立大ホールにて行われた公式イベント、「第二回『艦これ』観艦式」にて、テレビアニメ『艦隊これくしょん -艦これ-』の劇場版が製作開始され、2016年秋に公開予定であることが発表され、「第3回『艦これ』観艦式」にて、公開日が2016年11月26日であることが発表された]。劇場版は、角川映画40周年記念作品[169]。2016年11月26日、全国60スクリーンで封切。60スクリーンという規模ながら興行通信社調査の全国映画動員ランキングで初登場5位となった。2016年12月27日には、1月からはこれまで上映がなかった県での追加上映が発表された。2017年2月11日から、4DX・MX4Dでの上映された。一部の劇場では、音響にこだわった特殊な上映も行なわれた最終的に3月末まで上映を行い、興行収入は5億6000万円となった。
2015年1月-3月放送のアニメの主人公は吹雪。提督は存在するが、ブラウザゲームでの描写を逆輸入する形で画面には映らない設定になっている。放送前には声優はブラウザゲームと同じであるとアナウンスされていたが、実際には一部変更され、ブラウザゲームでは川澄綾子(本作では大淀役で出演している)が担当していた「中間棲姫」の声をアニメでは榊原良子が担当している。
テレビアニメ版では、新たに鎮守府に着任した吹雪の成長と「MI作戦」での勝利までを描く。劇場版では、テレビアニメ版で作戦行動中行方不明になっていた如月が帰還を果たしたところから始まり、艦娘と深海棲艦の関係と、本作の吹雪が「特別な艦娘」である理由が明かされる。

 

 

 

八丁堀停留場(広島電鉄本線・白島線の路面電車停留場)

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八丁堀停留場(はっちょうぼりていりゅうじょう、八丁堀電停)は、広島県広島市中区八丁堀および鉄砲町にある広島電鉄本線・白島線の路面電車停留場。両路線の乗換え停留場である。

広島電鉄の市内線はほぼ全区間で道路上に軌道が敷設された併用軌道で、当停留場も相生通りと白島通りが交差する八丁堀交差点の上に軌道が敷かれている。本線は東西方向に2本の線路が伸び、ホームはそれを挟みこむように2面置かれている。ただし互いのホームは交差点を挟んで斜向かいに位置していて、交差点の東に広電西広島駅方面の下りホーム、西に広島駅方面の上りホームがある。

いっぽう白島線の軌道は本線の両ホームの間から分岐し、2本の線路が北方向へ通じる。白島線の線路は西方向に伸びる本線下り側の線路とつながっている。ホームは交差点の北、上り線側に1面のみで、片面のみが線路に接するように配されている(単式ホーム)。乗り場の北側には渡り線があり、折り返しの営業列車は上りホームに到着後そのまま折り返し、渡り線を通って白島方面へ向かう。

1977年(昭和52年)には電車の接近を知らせる表示器が、1988年(昭和63年)には上屋が備え付けられている。このうち接近表示器は2008年(平成20年)2月に改良が加えられ、到着までの時間や車両の種類も表示されるようになった。駅員は配置されていない無人駅であるが、フラワーフェスティバルやとうかさんの開催時には出札要員が配置され、可搬式運賃箱を用いた運賃収受を行う。

運行系統
当停留場には広島電鉄が運行する系統のうち1号線、2号線、6号線、9号線、それに0号線が乗り入れる。当停留場を経由して本線と白島線を結ぶのは9号線で、それ以外の系統は本線の乗り場のみを使用する。

9号線は従来白島停留場と当停留場を結ぶのみだったが、2013年に当停留場から本線に直通し、江波線の江波停留場まで運行が延長された。この直通運転の際には、白島行きが本線広島駅方面行きホームに、江波行きが白島線ホームに停車する運用となっている。

本線下りホーム 0号線 日赤前ゆき・広電前ゆき ホームには長い上屋が設置ほか背もたれが設置されています。
1号線 広島港ゆき
2号線 広電宮島口ゆき・広電西広島ゆき
6号線 江波ゆき
本線上りホーム 1号線2号線6号線 広島駅ゆき
9号線 白島ゆき 本線からの直通電車のみ
白島線ホーム 9号線 白島ゆき 本線からの直通電車を除く
9号線 江波ゆき

周辺は広島市の繁華街で、南には広島三越と福屋八丁堀本店が店を構える。百貨店をはじめとして商業施設が集中し、曜日を問わず買い物客で賑わっています。
広島金座街商店街
広島市中の棚商店街
広島本通商店街
袋町裏通り
えびす通り商店街
流川
流川通り
天満屋八丁堀ビル - ヤマダ電機LABI広島を核とする商業施設
ひろぎんウツミヤ証券
広島ちゅうぎんビル
中国銀行広島支店
岡山県関係のマスコミ(山陽新聞、山陽放送、岡山放送、瀬戸内海放送)の広島支社が集まっている。
広島パルコ
四国銀行広島支店


八丁堀停留場に乗り入れる2つの路線、本線と白島線は1912年(大正元年)11月に同時に開通し、当停留場もこれと同時に開設されている。「八丁堀」の名からも窺えるように、路線は広島城の外堀を埋め立てて造られた道路上に敷かれ、白島線の線路は現在より西側の道路上に敷かれていた。

1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下により広島電鉄の市内線は被害を受けるが、本線は己斐方面から順次復旧し、同年9月には当停留場から紙屋町方面が、10月には広島駅方面も運行を再開した。一方の白島線は戦後に新しく建設された白島通りへと路線が移設され、1952年(昭和27年)に運行を再開している。当停留場の白島線ホームもこのとき100メートル東へ移設され、それまでの線路は廃止された。

1912年(大正元年)11月23日 - 本線および白島線開業に伴い設置。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下により休止。
9月7日 - 本線の紙屋町 - 当停留場間が運転再開。
10月1日 - 本線の当停留場 - 山口町間が運転再開。
1952年(昭和27年)6月10日 - 白島通りの完成により、白島線が営業再開。路線が移設され、当停留場の白島線ホームも現在地に移設。
2013年(平成25年)2月15日 - 9号線の運行が当停留場から江波まで延長。

駅構造 地上駅
ホーム 2面2線(本線)
1面1線(白島線)
開業年月日 1912年(大正元年)11月23日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■本線
駅番号 ●M7
キロ程 1.6km(広島駅起点)
◄M6 胡町 (0.2km)(0.2km) 立町 M8►
所属路線 ■白島線
駅番号 ●W1
キロ程 0.0km(八丁堀起点)


成田エクスプレス

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成田エクスプレス(なりたエクスプレス、Narita Express)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が大船駅(横須賀駅)・横浜駅・高尾駅(富士急行線 河口湖駅)・大宮駅・池袋駅・新宿駅・品川駅 - 成田空港駅間で運行する特別急行列車である。

成田国際空港(当時の新東京国際空港)と、東京都心・横浜および東京近郊の主要都市を結ぶ空港アクセス列車として、1991年3月19日に運行を開始した。国際空港アクセス列車であることから、外国人乗客を意識して、英語名の Narita Express から N'EX(ネックス)と略されることがある。
成田空港の開港は1978年5月20日であるが、開港後の鉄道アクセスは長い間京成本線の旧成田空港駅(現・東成田駅)からバスに乗り換える必要があった。のちに、当時の運輸大臣石原慎太郎の指示により、建設が中断されたままとなっていた成田新幹線(東京駅 - 成田空港駅間)の路盤と駅などの設備の一部を活用し、1991年3月19日にJR東日本と京成電鉄がそれぞれ成田空港に乗り入れを開始した。

東京駅 - 成田空港駅間で15 - 30分間隔で運転されているが、夜間は1時間間隔での運転となる。大半の列車が東京駅にて分割・併合を行い、横浜方面および新宿方面発着となる。横浜方面は横浜駅・大船駅、新宿方面は新宿駅・池袋駅・大宮駅発着が設定されている。当列車は都心と成田国際空港間を東京駅経由で結ぶ空港アクセス列車であるため、一部列車を除き東京駅 - 空港第2ビル駅間を途中無停車で運行する。ただし、朝の上り列車と夕方以降の下り列車は千葉駅・四街道駅・佐倉駅・成田駅にも停車する(ただし、一部の列車は佐倉駅を通過する)。所要時間は東京駅 - 成田空港駅間が最短53分。

運行開始当初より専用車両である253系で運転されたが、2009年10月1日より後継のE259系が投入され、2010年6月30日をもって253系での運転は終了し、以降はすべての列車がE259系で運転される。車両の配置は253系、E259系ともに鎌倉車両センターである。一部の列車は東京駅で分割・併合が行われる。東京駅での分割・併合は運行開始当初より行われており、当時は東京駅 - 成田空港駅間は6両編成を基本とし、号車番号は1号車からではなく4号車から付番されていた。
なお、「ウイングエクスプレス」が「成田エクスプレス」に統合された際に数日間253系の手配がつかず、183系によって代走したことがある。


全列車が座席指定席である。
253系の大部分はかつて奇数番号の席と偶数番号の席が通路で分離されているほか、A - D がボックス席単位で固まっているなど、普通車の座席配列がほかの特急形車両と大幅に異なっていた。その関係で、ほかの特急形車両と同様の配列になって以降も指定席券売機などで普通車の特急券を購入する場合は座席の細かい位置が購入者自身で指定できなかったが、2010年7月1日に使用車両がE259系に統一されたことにより普通車でも指定席券売機での座席位置選択が可能になった。
また、253系の大部分の普通車の座席の配列は集団見合い式(以前はボックスシート)となっており、着席者の半分は後方向きに座ることになる上に座席のリクライニング機能はない。ただし、ごく一部の253系とE259系は回転式リクライニングシートを採用しているためこれらの問題はない。富士急行線直通列車では途中の富士山駅で進行方向が変わるため、成田空港行き列車では後方向きに座席がセットされている。
デッキとコンパートメント席を除き運転開始当初から禁煙とされていた。なお、2003年3月1日よりデッキを禁煙とするのと引き換えに 1 - 2 両の喫煙席を設けたが、2005年12月10日から全車禁煙となった。

車内販売は東京駅 - 成田空港駅間のみ実施されていたが、2015年3月13日をもって車内販売を終了。運転開始当初はグリーン車利用客向けに無料のドリンクコーナーが設けられていたが、普通車利用客の持ち去りが絶えないことなどから後に廃止された。
また、E259系では車体に無線LAN用のアンテナ(WiMAX / Wi-Fi レピータ)が設置されており、UQコミュニケーションズの UQ WiFi とBBモバイルポイント(ソフトバンクテレコム、「Yahoo! JAPAN 無線LANサービス」などのローミングも含む)契約者向けに、インターネット接続サービスが利用できる。

JR線(構想当初は日本国有鉄道(国鉄))で東京と成田空港を結ぶ最初の構想は、未成線に終わった成田新幹線計画である。しかし在来線においては、成田線経由で運行されたエル特急「あやめ」や総武本線直通の快速列車より最寄駅となる成田駅を介したバス連絡で行っていた。
成田空港駅開業前の1989年から1991年にかけて「ウィング踊り子」が成田駅 - 伊豆急下田駅間で、1990年から1991年にかけて「ウイングエクスプレス」が成田駅 - 新宿駅間で運行されていた。
そして1991年3月19日に、成田新幹線計画の遺構(土屋 - 成田空港)を利用した成田空港駅の開設により成田駅直通の快速列車を延伸する形で運行を開始した「エアポート成田」や「成田エクスプレス」の運行開始により、JRによる成田空港アクセスが開始された。なお運行開始時には、一部列車を除いて、千葉県庁所在地かつ政令指定都市である千葉市の表玄関・千葉駅を通過することに対する地元からの批判や、その事象を取り上げた地域新聞である千葉日報も紙面で取り上げた。


当初は、東京駅 - 成田空港駅間を6両で運行し、東京駅で分割し新宿・横浜方面へそれぞれ3両編成で運行することや、新宿方面へは品川駅より目黒川信号場経由で山手貨物線経由での運行を行うなど運行上の妙があったものの、東京都心直通とりわけ山手線沿線の東京23区西部より鉄道による直通運転は初めてであることや、バブル景気を背景とした海外旅行客を利用者の核としたことから利用が定着し、1993年までには末端区間でも6両編成での運行となり、また、他地域より成田空港駅への乗り入れも行われた。また、東京駅地下にグリーン車利用客専用のラウンジが設置されたが、その後1990年代中盤ごろに廃止された。
その後、1990年代後半以降の日本経済の低迷により、空港利用客の少ない早朝の空港発・夕ラッシュ時間帯の空港行きについては千葉駅など途中停車駅を増やし、通勤客の着席輸送に供されるようにもなっている。


種類 特別急行列車
現況 運行中
地域 埼玉県・神奈川県・東京都・千葉県・山梨県
運行開始 1991年3月19日
運営者 東日本旅客鉄道(JR東日本)、富士急行
路線
起点 高尾駅(富士急行線 河口湖駅)・大宮駅・大船駅(横須賀駅)
終点 成田空港駅
営業距離 139.4km(高尾-成田空港)・129.8km(大宮-成田空港)・128.6km(大船-成田空港)
使用路線 中央本線・東北本線・山手線・横須賀線・東海道本線・総武本線・成田線・(富士急行線)
車内サービス
クラス グリーン車・普通車
身障者対応 多目的室・車椅子対応トイレ:6(12)号車
車椅子対応座席:5(11)号車
座席 全車指定席(座席未指定券制あり)
6(12)号車:グリーン車指定席
1-5(7-11)号車:普通車指定席


技術
車両 E259系電車(鎌倉車両センター)
軌間 1,067 mm
電化 直流1,500 V
最高速度 130 km/h
線路所有者 JR logo (east).svg 東日本旅客鉄道(JR東日本)
[高尾・大宮・大船-成田線分岐点間 第1種鉄道事業者]
富士急行
[大月-河口湖間 第1種鉄道事業者]
成田空港高速鉄道
(成田線分岐点-成田空港間 第3種鉄道事業者)

 

 

 

 

宇品二丁目停留場(広島電鉄宇品線)

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宇品二丁目停留場(うじなにちょうめていりゅうじょう、宇品二丁目電停)は、広島市南区宇品神田一丁目および二丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場。

宇品線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷設された併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが置かれている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配されている。ただし互いのホームは南北方向にずれていて、北に広島港方面へ向かう下りホーム、南に広島駅方面へ向かう上りホームがある。ホーム長は3両・5両連接車に対応している。

隣の宇品三丁目停留場との間には渡り線を有しており、2011年(平成23年)4月11日より当停留場の折り返し便が復活した。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行される系統のうち1号線、3号線、5号線、それに0号線が乗り入れる。ホームは交差点を挟んで千鳥に位置します。ホーム北端には列車近接案内が設置されています。広島電鉄が定める乗換え指定電停の一つである。ホームには横断歩道からスロープで連絡します。

下りホーム 1号線3号線5号線 広島港ゆき 3号線は午前ラッシュ時のみの運行
3号線5号線 当停留場止まり
上りホーム 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき
5号線 比治山下経由広島駅ゆき
ホームは連接車に対応している。

周辺
周辺は古くからの住宅街である。停留場名は「宇品二丁目」であるが、所在地は「宇品神田二丁目」であり、停留場名と地名が食い違っている。

西には宇品陸軍糧秣支廠の建物の一部を利用した広島市郷土資料館がある。1935年(昭和10年)に新線へと移設される前の宇品線はこの糧秣支廠の脇を抜けており、途中には糧秣支廠北裏門、糧秣支廠西裏門という停留場が設けられていた。

隣の停留場
当停留場は1935年(昭和10年)、宇品線の御幸橋東詰から宇品までの区間が新線に移設された際に女専前停留場(じょせんまえていりゅうじょう)として開設された。停留場近くに存在した広島女子専門学校が停留場名の由来である。1942年(昭和17年)に停留場は一度廃止されるが3年後の1945年(昭和20年)に再び開業、戦後の学制改革により広島女専に代わって大学(広島女子大学を経て現在の県立広島大学)が開学すると、1950年(昭和25年)ころ停留場名も女子大前停留場(じょしだいまえていりゅうじょう)に改められた。

1953年(昭和28年)ころになると停留場名は宇品十三丁目停留場(うじなじゅうさんちょうめていりゅうじょう)に改称される。その後1968年(昭和43年)8月に町名変更が行われると、これを受けて9月には宇品二丁目停留場に改称された。

1935年(昭和10年)12月27日 - 御幸橋東詰 - 宇品間が新線へ移設、同時に女専前停留場として開業。
1942年(昭和17年)5月 - いったん廃止。
1945年(昭和20年)8月 - 復活。
1950年(昭和25年)頃 - 女子大前停留場に改称。
1953年(昭和28年)頃 - 宇品十三丁目停留場に改称。
1958年(昭和33年)6月20日 - 当停留場 - 草津駅間で、午前ラッシュ時のみ鉄軌道直通運転開始。
1968年(昭和43年)9月1日 - 宇品二丁目停留場に改称[。
2003年(平成15年)4月20日 - ダイヤ改正により、平日午前ラッシュ時の宮島線からの宇品二丁目行きが広島港まで延伸される。
2004年(平成16年)11月16日 - 5号線の最終電車が皆実町六丁目ゆきに変更となり、当停留場止まりの電車はいったんなくなる。
2011年(平成23年)4月 - 渡り線の折り返し自動化が完了。4月11日のダイヤ改正により当停留場折り返し電車が復活し、同日より乗換停留場に指定される。

駅番号 ●U12
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宇品線
キロ程 3.8km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日

角島大橋

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角島大橋(つのしまおおはし)は、山口県下関市豊北町神田と同市豊北町角島間の海士ヶ瀬戸に架かる橋。

1993年(平成5年)9月6日に着工し、2000年(平成12年)11月3日に開通した。総工費149億円。山口県道276号角島神田線の一部。かつて、角島へは渡船による交通が主であったが、完成により陸路でつながった。当初は(県道ではなく)豊北町道として建設された(過疎代行道路整備事業として山口県が発注)こともあり、道路構造令の第三種第四級で設計が行われた。このため、最高速度は40 km/hに制限されており、強風時には一般車両が通行止めになる。
北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを押さえ、周囲の景観に配慮した構造となっている。また、架橋ルートの選定にあたっては、本土と角島の中間に位置する鳩島に橋脚を建設する案も検討されたが、自然景観保護の観点から島を迂回する現在のルートが採用された。このような取り組みが評価され、2003年(平成15年)には「土木学会デザイン賞2003」の優秀賞を受賞している。


完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている。テレビCM、特に自動車のCM(レクサス・GS450h、三菱・ギャランフォルティス、スズキ・スイフトなど)のロケ地として多く採用されている。
また、完成当初は通行料金が無料の離島架橋としては日本最長であったが、2005年に古宇利大橋(沖縄県・全長1,960m)、2006年に新北九州空港連絡橋(福岡県・全長2,100m)、2015年に伊良部大橋(沖縄県・全長3,540m)と、本橋梁よりも長い通行料無料の離島架橋が建設されている。

かつて角島とフェリーでの往来しかできなかった角島大橋周辺の海は、貝殻が砕け散った残骸が海底に堆積した白い砂で、そのうえ海水が澄み切っているため、太陽光の加減でエメラルドグリーンから紺碧色まで微妙に色合いが変化していく。ロケーションの良さから2000年開通後は、映画『四日間の奇跡』の舞台になったほか、テレビドラマ・CMロケ地として話題をあつめ、年間約90万人が訪れる観光地となっている。橋を渡った先にある角島北西端の角島灯台までは、約5 kmの距離がある。


1991年(平成3年)

4月1日 - 市町村道補助事業として事業採択。
7月6日 - 海上部地質調査に着手。
1992年(平成4年)
4月1日 - 県事業・市町村道代行橋梁整備事業に移管。
7月2日 - 架橋ルート発表。
1993年(平成5年)9月6日 - 角島大橋建設工事起工式。
2000年(平成12年)11月3日 - 開通。
2003年(平成15年) - 土木学会デザイン賞優秀賞受賞。
2015年旅行サイト「トリップアドバイザー」の「口コミで選ぶ 日本の橋ランキング」で1位に選出。


所在地 下関市 - 角島間
交差物件 海士ヶ瀬戸
座標 北緯34度21分9.98秒東経130度53分10.17秒座標: 北緯34度21分9.98秒 東経130度53分10.17秒
構造諸元
形式 21(=7+8+6)径間連続PC箱桁 + 3径間連続鋼床版箱桁 + 5径間連続PC箱桁
全長 1,780m
幅 6.5 m(2車線)
高さ 航路高18 m
最大支間長 102 m(橋脚:28基)

 

戦闘糧食I型(自衛隊)

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戦闘糧食I型(せんとうりょうしょくいちがた)は、自衛隊で使用されているレーション。通称「カンメシ」。

自衛隊が創設された1954年から採用された缶詰タイプの糧食で、レトルトパウチ包装タイプの戦闘糧食II型が出た現在でも耐久性や保存性の面で優れているとされ、陸海空三自衛隊で使用され続けている。メニューは大きなご飯缶(およそ二合入っている・通称「カンメシ」)一つと、おかず、たくあんそれぞれ一つ(通称「オカズ缶」)で構成されるのが一般的である。

なお、陸上自衛隊納入分に関しては、平成28年度製造分をもって終了となる。 技術の進化によりパック型でも落下傘による破損が減り空中投下による耐久性が確保された事と、食事後に発生する空き缶の廃棄に関してパック型に比べかさばる為に、陸上自衛隊納入分に関しては平成26年度よりパック型の非常用糧食と併用し部隊実験が完了した経緯から製造終了となる

支給
自衛隊での予算会計では、「非常用糧食」として要求され購入されている。そして賞味期限である3年間のうち、業者から納入されてからの1年は各方面隊補給処、2年目は駐屯地業務隊補給科糧食班倉庫で備蓄糧食として保管され、3年目に各部隊へ計画に基づき配分され演習などで隊員達に食事に供給される際、便宜的に「戦闘糧食I型」と呼ばれることとなる(本来は防衛出動・治安出動・災害派遣の際に、出動先で食べるものなので、正確に言えば戦闘糧食I型と言う装備は自衛隊には存在しない)。

官給品であるため、部隊外への持ち出し(自宅への持ち帰りなど)は禁止されていた。しかし、近年になって協力本部・部隊より稀に配布される他、陸上自衛隊朝霞駐屯地内陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」の売店でも、デザインや量は異なるが、ほぼ同等品を購入することができる。


通常、缶全体が暗緑色(オリーブドラブ)に塗られており、内容が側面に黒字で書いてある。しかし、缶切りを使った際に、剥げた塗料が食品に混じらないための配慮から、缶上部の縁は無塗装となっている。1990年代初頭までは無塗装のまま支給されていたが、隠掩蔽の不都合(光を反射するので備蓄点が知られてしまう)などの理由で順次OD塗装された物が支給された。ごく一部であるが、貯蔵用のもので全体が無塗装のものもある。特に災害救助派遣では、無塗装の物が支給される場合もある。これらの缶は大きさが工夫され、一番大きなご飯の空き缶の中に小さなオカズ缶の空き缶を重ね、入れ子にすることで、ゴミの減量化に伴う隠蔽性の向上が期待されている。

21世紀初頭現在、一般に出回っている缶詰はプルトップなどの簡単に開けられる物が多いが、このI型では航空機から投下する際の衝撃に耐えられるよう、あえてプルトップを採用しないようになっており、このため開缶には別途缶切りなどが必要である。航空機投下ではもちろんパラシュートを用いるものの、着地の衝撃は大きく、汁物の入ったレトルトパウチでは耐えることができない点も、II型にI型が取って代わられることのない理由となっている。2005年にはJIS改正に伴い缶詰サイズも変更になったほか、従来型の上面と底面にあったリムが、底面のプレス加工板金への変更に伴い、より接合部の少ない(強度の増した)缶詰へと変更された。

また、銃剣など他の装備を缶切りに使うと、それらが本来の使い方ができなくなる損傷・破損を起こす可能性がある。それを回避するためと、個別に缶切りなどの道具を持ち運ぶ必要をなくすために、小さな缶切りが缶の縁もしくは段ボールの箱にビニールに包まれた形で付属している(乾パンに付属するウインナー缶のみすべての缶に付いており、それ以外は箱に同封)この缶切りは、カンメシ24個1ケースに付き4個ずつ・オカズ缶48個1ケースにも4個ずつ、プレス加工の簡単な缶切りが付属しているという。写真では、左の列の手前から2番目の缶に、缶切りが装着されている。缶切りには「10円玉で外して下さい」と打刻してある。この簡易缶切りは一つで25個以上の缶が開けられる耐久性がある。ただ、数が少ないため取り合いになりやすく、自前の缶切りを携行する隊員もいる。

パック型
2013年度より試験的に部隊運用開始、2015年度調達分より正式採用となっている。内容物は戦闘糧食2型とほぼ同一の主食2パックとおかず1もしくは2種類であるが、耐久性向上の為に主食パックの封を厚手のビニール素材からアルミ素材に変更し耐久性と賞味期限3年間を確保している。また、2型と違いプラスチック製のトレイを同封し、主食とおかずを盛りつける事でワンプレート方式で食事が出来るようになっている。

内容物
ご飯缶は、冷えた状態では米がβ化しており、固いだけでなく栄養として消化吸収できない。湯煎してα化する必要があるため、通常配給前に一度湯煎する。一度湯煎すればβ化するまで夏場は3日間・冬期間は保温処置をしない場合は数時間の間、そのまま食べることができる。ご飯缶は五目飯や赤飯・鳥飯・しいたけ飯などのバリエーションがあり、日本人には相性の良いメニューといえる。また、主食に関してはもち米が高比率で配合されているため、非常に腹持ちが良い。また、白飯以外は基本的にそのまま食せるよう味付けがなされている。赤飯は塩味、他の五目飯などは醤油と塩で味付けがされている。

おかず缶も主に醤油風味の味付けで、和食が充実したメニューである。ウインナーなどの洋食もある。但し、ウインナーに関しては原則乾パン食のみ。また、たくあんの缶詰は隊員達には好評で、演習終了後、酒の肴としても食せるためカンメシの傑作との評もある。 オカズ缶ではこの他、コンビーフや牛肉大和煮などというバリエーションがあり、この辺りは「メニューを充実させることで兵員の士気維持を図る」という他国レーションと同種の工夫が見られるが、特に米飯に特化したメニュー構成というのは珍しい。この他、乾パンなどのような別メニューも存在する。

おかず缶の栄養比率は比較的塩分が高く少ないおかずでご飯を大量に食せる内容量となっている。任務中の隊員には塩分比率が合っていても、災害派遣などで被災者などに配られる場合、高血圧症などに気をつける必要がある。

戦闘糧食I型には、乾パンと金平糖・ウインナー缶のセットがある。乾パンは透明色の袋に黒字で「乾パン」と書かれており、米飯と違い寒冷地で冷たくなっても食感が変わらないため、冬季演習中には好んで乾パンを食べる隊員もいる。オレンジスプレッドというオレンジ味のやや固い水飴が添付されている。金平糖は赤み掛ったピンク・黄色・青・白の4色で、香味はついておらず、単純に甘い。オレンジスプレッドと金平糖は、唾液を促進させ乾パンを飲み込む際の補助的な役割を果たすためと、味にバリエーションを加えて食欲を増進させる目的がある。

処分方法
陸上自衛隊のマニュアルなどでは、食べ終わった後は原則として潰してから埋める事になっている。これは、空き缶の数から部隊の規模を推測されるのを防ぐためである。ただし、このような廃棄方法は有事における扱いで、演習場においては各部隊で空缶を回収。携行食・運搬食配布時に別途回収もしくは隊員自ら処理、廃棄される。部隊に配分された缶飯は多くが食されずに一定期間の保管後は廃棄処分となる(現在はコンビニによる演習前および演習終了後の食事の調達が容易なため)。演習で使用されたレーションの容器は、その使用による損傷が腐敗の原因となるおそれがあるため、回収および再使用されることはない。

災害派遣
自衛隊の災害派遣への増加に伴い、被災者への食料として使われることが多い。しかし、「苦しい状況下で赤飯を配るとは何事だ」といった苦情が出るなどの問題がある。そのため、災害派遣にはなるべく使わないよう配慮がなされている[2]。ただ、実際は、米食の中でも特に「もち米」が高比率で配合されているため腹持ちが良いという実用的な面と、単純に配布する食料のバリエーションをふやす目的で赤飯が選ばれたと推測される。その後、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の災害派遣を機に、陸上自衛隊・航空自衛隊は赤飯の調達を中止することを決定した。これにより、1957年の調達開始以来54年目に、赤飯が陸・空自衛隊の戦闘糧食のメニューから外れた[2]。

阪神淡路大震災の際は、緊急食料として缶飯が供給されたが、大量の缶詰を湯煎する設備が無かったため、神戸港接岸中の護衛艦の浴槽で代用した。 北海道南西沖地震の際 奥尻島の住民に対して航空自衛隊奥尻分屯基地に保管されていた緊急用のカンメシを配布する際には大量のカンメシを湯煎する設備が奥尻島に無かったため部隊の浴室の浴槽に熱湯を入れて湯煎して配布した

野外炊事車
詳細は「野外炊具」を参照
陸上自衛隊には野外炊事車(野外炊具)がある。カンメシは基本的に野外炊具で湯煎されてから配布される(隊員個人が携帯している装備でカンメシを湯煎することは困難である)。野外炊事車は戦闘糧食を使用しないような待機中などの場面において使用される。災害派遣にも携行される。

YF5150 交通船2150号型(交通船2121号型の拡大型)

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YF5150 交通船2150号型(交通船2121号型の拡大型)

交通船2121号型(LCM YF-2121 class)は、海上自衛隊の第1種支援船。公称船型は25トン型交通船。


輸送艦に搭載された上陸用舟艇(LCM)を拡大して開発されており、船体は鋼製、船首にバウ・ランプを有し、アメリカ海軍のLCM(6)型と同スペックである。

主に各港務隊に配属されており、港内において人員や物資の輸送を行なう。


なお、2003年に2隻が就役し、呉基地のLCAC基地に配備された交通船2150号型(55総トン, 全長19.8m)は、本型を拡大したようなLCM型交通船であるが、こちらはおおすみ型輸送艦に搭載して上陸用舟艇として運用することも可能である。

また、人員輸送を主任務とする交通船とは別に、物資輸送を主任務とする運貨船においてもLCMタイプのものが建造されており、アメリカ海軍のLCM(8)型に相当する50トン型運貨船である運貨船9号型は7隻が運用されている。


交通船2150号

船質  鋼
推進方式 ウォータージェット
装備 GPS・磁気コンパス

排水量50t
長さ19.8m
幅5.4m
深さ2.3m

喫水0.7m  
速力16ノット  

出力3000PS

おおすみ型輸送艦でLCACが使いづらい状況のときや、故障した時は交通船2150号を2隻代わりに搭載することができる。

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