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宇品三丁目停留場(広島電鉄宇品線)

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宇品三丁目停留場(うじなさんちょうめていりゅうじょう、宇品三丁目電停)は、広島市南区宇品神田二丁目および三丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場


宇品線はほぼすべての区間で軌道が道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームを有する。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配置されている。ただ互いのホーム位置は斜向かいにあり、北側に広島港方面へ向かう下りホーム、南側に広島駅・紙屋町方面へ向かう上りホームがある。上りホームは乗り場の長さが短いため、連接車では客扱いの際に後方のドアで締切が発生する。

軌道が敷かれている宇品通りは幅員が狭小であることから、かつての停留場には島状の安全地帯がなく、乗り場が道路と同一平面にある平面停留場であった。しかし1988年(昭和63年)10月に当停留場で下車した乗客が乗用車にひき逃げされるという死亡事故が発生、これを契機に安全地帯の整備が進められ、1990年(平成2年)4月に設置が完了している。上屋はわずかに設置されるのみです。ホーム幅が狭く、椅子は設置されていない。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、1号線、3号線、5号線、それに0号線が乗り入れる。

下りホーム 1号線3号線5号線 広島港ゆき 3号線は午前ラッシュ時のみの運行
上りホーム 0号線 広電前ゆき
1号線 紙屋町経由広島駅ゆき
3号線 広電西広島ゆき 午前ラッシュ時のみの運行
5号線 比治山下経由広島駅ゆき
連接車には対応しない短いホームです。

周辺
古くからの住宅街や商店が立ち並んでいる地区である。ところどころでは大きな商業施設やマンションの建設も進む。

停留場名は「宇品三丁目」であるが、所在地は「宇品神田三丁目」であり[8]、停留場名と地名が食い違っている。

ファミリーマート
イオン宇品ショッピングセンター
コジマNEW宇品店
ベイシティ宇品
広島市立宇品中学校
広島宇品神田郵便局
宇品東保育園
広島南税務署

駅番号 ●U13
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宇品線
キロ程 4.0km(紙屋町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1935年(昭和10年)12月27日
当停留場は1935年(昭和10年)、宇品線の御幸橋東詰から宇品までの区間が新線に移設された際に開設された。当時の停留場名は十丁目停留場(じっちょうめていりゅうじょう)であった。1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下により宇品線をはじめ広島電鉄の市内電車は全線不通となるが、当停留場を含む宇品線の電鉄前から向宇品までの区間は同月18日に運行を再開している。

戦後、1960年(昭和35年)には宇品十丁目停留場(うじなじっちょうめていりゅうじょう)と改称されたが、1968年(昭和43年)8月には宇品町で町名変更が実施される。この直後、同年9月には宇品三丁目停留場へと停留場名が改められている。

1935年(昭和10年)12月27日 - 御幸橋東詰 - 宇品間で新線が開業、同時に十丁目停留場として開業。
1960年(昭和35年)3月30日 - 宇品十丁目停留場に改称。
1968年(昭和43年)9月1日 - 宇品三丁目停留場に改称。

 


ブライトリング DC-3

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ブライトリング DC-3

ブライトリング DC-3
腕時計メーカーのブライトリングは、1940年に製造されたDC-3A(HB-IRJ)の修復に出資し、『ブライトリング DC-3』として顧客を乗せるイベントの開催や航空ショーへの出張フライトを行っている。操縦系統はオリジナルだが、新しいアビオニクスを導入したことで計器飛行に対応している。


2017年には修復した機体で世界各地を巡るワールドツアーを実施した。日本には熊本空港、岩国基地、神戸空港、福島空港、仙台空港、松島基地に寄航し、各空港で機内の公開が行われた。また6月4日開催のレッドブル・エアレース・ワールドシリーズ千葉大会ではデモフライトを行い、その後は帯広空港に6日まで一晩停泊していた。

ダグラス DC-3(ダグラス ディーシースリー、Douglas DC-3)は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるダグラス・エアクラフト社(現ボーイング社)が開発した双発のプロペラ旅客機・輸送機である。1936年運用開始。アメリカ軍用輸送機としての制式名称「C-47 スカイトレイン」(C-47 Skytrain)、イギリス軍用輸送機としての名称「ダコタ」(Dakota)でも知られる。

DC-3は飛行性能と輸送力・経済性を高い水準でバランスさせた希有な機体であり、1930年代 - 1940年代において世界の航空輸送変革の原動力となった不朽の傑作機である。事実上、世界で最初の本格的商業旅客機と言ってよい。その影響故に、第二次世界大戦後のジェット旅客機ボーイング707および747と並ぶ、民間航空史上もっとも重要な機体の一つとされている。
1945年までにDC-3は1万機以上が製造されたが、これは双発輸送機としては屈指の量産記録である。もっともその多くは当初連合国軍用輸送機C-47として製造され、第二次世界大戦後に民間輸送機仕様に改造されてDC-3となったものである。合衆国以外にも、日本とソビエト連邦でライセンス生産が行われた。
2017年現在、世界に残存する飛行できる機体は150機程度と推測されている。

1920年代以降、広大な米国国内での新しい高速輸送手段として航空機は急速に台頭したが、ジェット機出現よりはるか以前の1930年代はプロペラ旅客機の時代であり、北米大陸横断航空路にはほとんど一昼夜を要した。この高速化・効率化を狙い、航空各社の競争は熾烈なものとなっていた。
DC-2の改良機(DST)
トランス・ワールド航空(TWA)のオファーによってドナルド・ダグラス率いるダグラス社が1933年に開発した試作機旅客機の「DC-1」と、次いで1934年に開発した「DC-2」は、ともに低翼単葉の双発機であった。これらは、全金属製モノコック構造を持ち、引き込み脚、可変ピッチプロペラ、高揚力確保のためのフラップを採用するなど近代的旅客機に不可欠とされる構造・装備をほとんど具備しており、進歩的な機体であった。DC-2の、1930年代前期の双発旅客機としては多人数といえる14名の定員と、機内空間を有効活用できる胴体設計も大きな長所で、当時の航空会社から歓迎された。
アメリカン航空は1933年、北米大陸横断航空路に寝台旅客機「カーチス・コンドル」を就航させた。しかしこの機体は鋼管羽布張り構造の複葉式であるなど古典的な設計の機体であり、登場して間もない1930年代中葉には既に旧式化しつつあった。このためアメリカン航空は、DC-2をベースにした寝台旅客機を、ダグラス社にオーダーすることにした。
その開発は1935年中頃から開始された。列車同様なプルマン・スタイルの開放式寝台を配置するためには、DC-2は機体幅がやや不足することが指摘された。そこで機体幅が若干拡大された。
僅か半年余りで急ピッチの開発・製作が進められ(DC-2の拡大設計から始まったが、実際には機体の大部分を新設計せねばならなかった実情からすれば、かなりの早業である)、1935年12月17日に初飛行したこの寝台機は、Douglas Sleeper Transport、略してDSTの名称で呼ばれた。DSTは14名分の寝台とキッチンを備え、途中一度の燃料補給のみで北米大陸を横断できる長距離快速機で、1936年に就航してアメリカン航空の看板旅客機となった。

DC-3
DSTはDC-2に比して機体幅が拡大されていたが、この大型化は良い方向に働いた。DC-2では客室中央通路の両側に1列ずつ計2列しか座席を配置できなかったが、DSTの幅員であれば片側にもう1列増やした3列配置ができたのである。従って寝台の代わりに通常座席を配置すれば、定員はDC-2の1.5倍、21人を確保できる(後には4列座席としてピッチを詰め最大32人定員としたケースもある)。
DST完成後すぐに派生型として、この広いキャビンを活用した通常座席型バージョンが開発された。これがDC-3で、1936年中に就航、瞬く間に当時のベストセラー旅客機となり、1939年までに600機以上が製造された。アメリカン航空、TWA、イースタン航空といった当時の一流航空会社がこぞって採用し、DC-3はアメリカ合衆国の民間航空業界を席巻した。ヨーロッパでもルフトハンザなどに導入されている。
DC-3の偉大さは、DC-2に比して定員を5割増としながら、その運航経費は僅か3%ほどの増に過ぎなかったという事実に端的に表われている。DC-3登場より前のアメリカ合衆国の航空旅客輸送は、旅客運賃収入だけでは必要なコストを賄えず、連邦政府の郵便輸送補助金を受けることで何とか成り立っていた。ところがDC-3は大きな輸送力ゆえに、自らの運賃収入だけで運用コストをまかなえるようになったのである。郵便補助金に頼る必要のない「飛ばして儲けの出る飛行機」の出現は、航空輸送の発展における重要なエポックであった。
しかもDC-3は1930年代中期の機体としては快速で、飛行特性も非常に安定しており、エンジン脱着が短時間で可能であるなど整備もたやすく、ユーザーにとって実に扱いやすい機体であった。これらはDC-2から受け継いだ美点であり、さらに収容力を大幅に向上させていたことは、まさに当時における理想の旅客機の具現化というべきものであった。

第二次世界大戦
DC-3の信頼性と絶大な輸送能力は、航空会社のみならず各国の軍関係者にも注目された。通常型の旅客設備を撤去した輸送機型とすれば、軍用輸送機としても非常に理想的な機体となるからである(輸送機タイプの貨物搭載能力は2.7t)。
C-47 スカイトレイン
アメリカ陸軍航空隊のC-47A
アメリカ陸軍航空隊は第二次世界大戦に際し、既存のダグラスDC-3を民間航空会社から139機徴用して軍用に用いたが、1941年にはDC-3の輸送機バージョンを正式に軍用輸送機として採用し、制式名称をC-47とした。
以後戦時中を通じて全力で生産が行われ、1945年までに約1万機を生産した。これらはイギリス空軍や南アフリカ軍にも供与され、「ダコタ」(Dakota)の呼称を与えられた。派生型として兵員輸送に重点を置いた設計のC-53 スカイトルーパー(Skytrooper)も生産された。その用途は幅広く、兵器・食糧や兵員の輸送に用いられたほか、欧州戦線では空挺部隊のグライダー牽引機にも用いられたほどである。連合軍の主力輸送機として世界中の戦場を飛行し、戦闘による損失も多数生じた。
連合軍欧州総司令官であり、のちにアメリカ合衆国大統領となったドワイト・D・アイゼンハワーは、第二次世界大戦の連合軍勝利に著しく寄与したのは「ダコタ(C-47)とジープとバズーカ砲である」とコメントしている。1948年のベルリン封鎖における大空輸作戦にも、DC-3およびC-47がその初期から投入されている。
日本のDC-3
日本では中島飛行機が1935年(昭和10年)からDC-2をライセンス生産し、日本航空輸送などで用いられ優秀機として高い評価を得ていた。ゆえに後継型DC-3への注目も早かった。日本海軍は三井物産にダグラス社からDC-3の製造ライセンスを取得させ、実際の生産は1937年(昭和12年)に設立された昭和飛行機工業に委ねることとした。
昭和飛行機では、当初少数の機体をノックダウン方式で生産、その後完全に国産化した。完全国産化にあたっては、アメリカ本国のDC-3がアメリカ流にヤード・ポンド法のインチ単位の設計図で作られていたため、既に工業界がメートル法に移行していた日本では設計図のメートル法換算を行う必要があった。このため、アメリカ本国製のオリジナルDC-3と、昭和飛行機で国産化されたDC-3とでは、厳密には随所の部品の寸法が異なっている。
エンジンは三菱の「金星」に変更され、日本海軍から零式輸送機(L2D2)として1940年(昭和15年)に制式採用された。零式輸送機は、一〇〇式輸送機(MC輸送機)[6]と比べ最高速度・巡航速度で大きく劣るものの、一方では搭載量では勝るなど性能は比較的優秀であった。また零式輸送機は、エンジン換装によりカタログデータ上ではC-47を一部上回っていた(この零式輸送機について「DC-3のデッドコピー」という説も流布しているが、実際には上記の通り正式なライセンス生産に出自を発している)。太平洋戦争中期からは中島飛行機も一時生産を行った。昭和飛行機と中島飛行機によって、1945年(昭和20年)までに合計486機が製造された。
ソ連のDC-3
ソ連は第二次世界大戦中、連合国としての同盟国のアメリカからレンドリースによって700機のC-47を供与され、軍用輸送機としての大きな成果を上げた。その実績によってDC-3の製造ライセンスが取得されることになる。
ダグラス社に派遣された経験もあった技術者ボリース・リスノーフは、DC-3をもとに、ソ連の寒冷地・不整地向けに小改良を加え、ソ連製エンジンを搭載した輸送機「PS-84」を開発する。この機体は1942年以降Li-2の名称で軍用輸送機として量産され、対ドイツ戦で用いられた。簡易な爆撃機(爆弾を1tまで搭載)としての運用も行われた。1945年までに約2,000機が製造され、戦後はソ連のアエロフロート航空および東側諸国で旅客機・輸送機として有効活用された。なお、ソ連も日本同様にメートル法を採用していたためDC-3の国産化に際して設計図のメートル換算を強いられており、PS-84/Li-2シリーズの部品寸法はアメリカ製DC-3と差異がある(換算を一律切り上げにしたため、DC-3原型機よりも機体が重くなったという)。

戦後のDC-3
第二次世界大戦で生き残ったC-47の多くは、終戦後民間向けに放出された。それらは旅客機・民間輸送機としての設備・装備を加える改造を施され、新たにDC-3Cへと生まれ変わった。
「軍服を脱いだ」元C-47のDC-3Cは、無慮数千機がアメリカ国内のローカル航空会社、そして世界各国の航空会社に安く買い取られ、世界中にあまねく行き渡った。世界の航空輸送ビジネスは、この並外れて信頼性が高く、輸送能力と経済性に優れた機体によって、1940年代 - 1950年代に著しい発展を遂げた。日本の民間航空会社でも1950年代 - 1960年代中期にかけて、ローカル路線で用いられていた。具体的には、アメリカ製のDC-3(後述のC-47払下機を含む)が、まず1955年(昭和30年)11月に日ペリ航空に導入された。これを皮切りに、日本航空(フィリピン航空からのウエットリース)、極東航空、北日本航空、藤田航空、伊藤忠航空、長崎航空などで次々とDC-3が購入され定期路線に投入された。DC-3はさらに運輸省航空局にも導入されていた。
1950年代に入るとアメリカでは旅客機の大型化が進んだため、DC-3は過去の機体となったが、その他の世界各国では1970年代に至ってもローカル航空路や不定期輸送用として広く用いられていた。日本でも旅客機のジェットが進展すると、それに押し出される形で1964年(昭和39年)3月15日に国内航空会社としては最後まで利用していた全日本空輸もDC-3を退役させて日本の旅客機からはその姿を消した。
コンベアやフォッカー、アブロなど、世界各国の多くの航空機メーカーが、「ポストDC-3」となる機体の開発に取り組んだが、その名に相応しい成功を収めた例はない。DC-3の完成度がいかに高かったかを如実に示している。
最初のDC-3が出現してから75年以上を経た21世紀初頭でも、全体の現役機数は百機単位で存在していると言われ、カナダのバッファロー・エアウェイズ等旅客輸送にDC-3を用いている航空会社も少数ながら存在している。[7] スカイダイビング用の飛行機として使われているケースも多い。一部の途上国では軍事用としても現役であり、南アフリカ海軍(英語版)では現在も対潜哨戒機に同機を用いている。
経年劣化対策を中心に、機体に独自の改造を施されることもある。

派生型
DST
最初に量産された、寝台旅客輸送機型。ライト・サイクロンエンジン搭載。
DST-A
DSTのエンジンをツイン・ワスプに変更。
DC-3
昼間旅客輸送用の基本型。ライト・サイクロンエンジン搭載。
DC-3A
DC-3のエンジンをツイン・ワスプに変更。
DC-3B
前部客席が寝台/座席に転換でき、後部客席は座席のみとした型。胴体両側の第1窓と第3窓の所に小窓が追加されているため外見からも識別できる。
DC-3C
戦後余剰となったC-47に、民間向けの改造を施した機体。
DC-3D
C-47の余剰部品から生産された機体。
DC-3S
スーパーDC-3(Super DC-3)とも呼ばれる。胴体を延長して30座席とし、翼端の短縮、水平尾翼の形状変更などを行った他、エンジン強化に伴うナセル形状の変更により主輪は完全引き込み式となり、尾輪も半引き込み式となった。性能は大きく向上したが、登場が1949年と遅く、より近代的な機体が登場し始めていたため、総生産数は4機のみに終わる。試作1号機はYC-129の名称でアメリカ空軍に転売され、YC-47Fと改称されて審査を受けた後、アメリカ海軍へ譲渡されR4D-8の原型機となった。
DC-3Aを基にした、初期の軍用型。VIP輸送用として1機のみ製造。
C-48、C-48A/B/C、C-49、C-49A/B/C/D/E/F/G/H/J/K、C-50、C-50A/B/C/D、C-51、C-52、C-52A/B/C/D、C-53C、C-68、C-84、R4D-2/4
アメリカの各種航空会社から軍に徴用された機体の名称。製造中だったものもあれば、完成機だったものもある。
ターボプロップ改造型
戦後も長く飛び続けるDC-3/C-47には信頼性や性能の向上のため、専門メーカーによるターボプロップエンジンへの換装が数多く行われた。
特に成功したのがベイズラー・ターボ・コンヴァージョン社のBT-67で、1990年に登場した。ターボプロップエンジンはプラット・アンド・ホイットニー・カナダPT6A-67Rを使用し、プロペラは5翅ブレードのものに変更されたほか、重心の関係でオリジナルのレシプロエンジンより前に突き出したため、コックピットがプロペラの回転面より前に来るよう前部胴体が延長された。また、航続距離も燃料タンクの増設により大幅に伸びている。
コンロイ・エアクラフトは中古のビッカース バイカウントから取り外したプラット・アンド・ホイットニー・カナダのPT6A-45を既存のエンジンと交換するだけでなく、機首にも追加し三発機としたコンロイ トライ・ターボ3だけでなく改造キットも販売していた。

スペック
DC3 Silh.jpg
全長:19.66m
全幅:28.96m
全高:5.16m
翼面積:91.7m2
空虚重量:7,650 kg
積載重量:11,430 kg
最大離陸重量:12.7t
最大速度:182kn(346km/h)
巡航速度:140kn(266km/h)
操縦乗員:2名
乗客数:3列席21人、4列席28 - 32人
エンジン:P&Wツインワスプ空冷二重星形14気筒レシプロエンジン(推力1,200hp)×2
ライト・サイクロン空冷星形9気筒レシプロエンジン(推力1,200hp)×2
最大積載航続距離:2,420 km
実用上昇限度: 23,200 ft(7,100m)

主な導入航空会社
トランス・ワールド航空
アメリカン航空
デルタ航空
イースタン航空
ピードモント航空
ブラニフ航空
コンチネンタル航空
全日本空輸
藤田航空
伊藤忠航空
キャセイ・パシフィック航空
フィリピン航空
タイ国際航空
オランダ領インド航空
エアインディア
サウジアラビア航空
イベリア航空
アリタリア航空
スイス航空
KLMオランダ航空
エアリンガス
スカンジナビア航空
ラン航空
ヴァリグブラジル航空
VASP航空
南アフリカ航空
サデルカ航空

登場作品
第二次世界大戦で活躍し、戦後は世界中のローカル航空路に翼を広げた機体だけに、1940年代以降の映画や小説にもしばしば登場する。
映画[編集]
『007 慰めの報酬』
『彼女が水着にきがえたら』
『ザ・ナイト・マイ・ナンバー・ケイム・アップ』
『太平洋の翼』
零式輸送機が登場する。
『飛べ!ダコタ』
ゲーム[編集]
『グランド・セフト・オート・サンアンドレアス』
「Nevada」の名称で登場する。
『コール オブ デューティ2 ビッグ レッド ワン』
小説[編集]
『ちがった空』
ギャビン・ライアルの古典的な航空冒険小説。この作品においては主人公の愛機である「ダコタ」が、深い愛情をもって描かれている。
『鷲は舞い降りた』

 

スノーヴァー(機体除雪車)除氷車(ディアイサー)

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除氷車(de-icer、ディアイサー)は、着氷した航空機の機体や滑走路に向けて加熱済み除氷剤を噴霧する。除氷剤にはプロピレングリコールまたはエチレングリコールが使われることが多い。それらは航空機が地上に駐機する間に発生する機体への着氷を防止する。氷は翼の表面を荒くし、翼による揚力を減少させ抗力を増加させる。また氷は航空機の重量を増し、バランスに影響を与えこともある。

航空機除氷車は通常大きなタンクローリーを持ち、濃縮された除氷剤と周囲の気温に応じて除氷剤を薄めるための水が貯えられている。また、通常除氷車は高所作業車用クレーンも持っていて、少ない回数で航空機全体に除氷剤を噴霧することができる。例えばボーイング737の場合、1台の除氷車で10分以内に機体全体を処理することができる。

道路建設業者の中には、除氷車を除雪剤散布車の代わりに使うところもある。塩水(brine)をタンクで運び、路面に散布する。塩水は固体の塩よりも早く反応し、踏みつぶして圧縮する必要もない。また、同じ長さの道を処理するのにより少量の塩しか必要としないため、塩水はより環境にやさしい。

空港の滑走路の除氷では、長い噴霧アームに取り付けられた噴霧機も使用される。これらのアームは滑走路の横幅全体をカバーできるように十分長く、1回の行き来で滑走路の完全な除氷を行うことができ、滑走路の利用不能時間を短縮することができる[33]

松本零士シンボルロード「銀河鉄道999(スリーナイン)」・「宇宙戦艦ヤマト」

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敦賀駅前から氣比神宮にかけて続くアーケードに沿った道で、「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」にまつわる名場面を再現したモニュメントブロンズ像がずらりと設置されています。

敦賀は日本海側で最初に鉄道が敷かれた街です。かつて、東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、昭和32年には国内では最初の本格的交流電化が完成、さらに昭和37年には、完成当時日本一、世界第5位の北陸トンネルが開通しました。敦賀は日本海側の交通の要所として「日本でも有数の鉄道と港の町」だったのです。このシンボルロードに設置されているブロンズ像は、1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて設置されたものです。

JR敦賀駅を背にして右側から商店街に入っていくと、銀河鉄道999の正面を模したモニュメントが迎えてくれる。WANTEDの貼り紙を眺める少年星野鉄郎(未来の地球では機械人間が生身の人間を支配していた。宇宙に憧れる少年・星野鉄郎は母を機械伯爵に殺された孤児である。彼は機械人間になり、永遠の命を持つことを誓う)、スーツケースを持ったメーテルとの出会い(999号は無料で機械の体をくれる星へ向かう銀河鉄道である。機械人形から999号のパスを盗み、追い詰められた鉄郎は、死んだ母に生き写しのメーテルに助けられる 。しかし気を失い、パスを落としてしまう。)、母との記憶(メーテルは、自分を連れて行くことを条件に、鉄郎にパスを提供した。メーテルは誰かに指令を受けているような気配もあったが、999号に乗りたい鉄郎は一も二もなく承知し、二人の旅は始まった。)そしておなじみの車掌さんの姿・旅立ち(人はみな、星の海を見ながら思い描いた希望を追い求めて、果てしなく長い旅に出る。終わることない永遠の流れの中で、果てしなく続くレールの上を、夢と希望と野心そして若さを乗せて列車は走る。永遠の星の海へ(メーテルはドリームセンサーを使って気を失っている鉄郎の過去を調べる。彼は母を殺した機械伯爵への復讐のために、機械の体になる必要があったのである)いま、汽笛が新しい若者の旅立ちの訪れを告げる)。物語に沿ってキャラクター像が配置されており、商店街を進むことでストーリーを追っていくことができる。


迷いの星(冥王星には、大氷河が広がり氷の下には無数の死体が並ぶ。氷の墓の管理人で機械の体を持つシャドウは鉄郎をずっとそばにおきたくて、凍らせるが、あわやというところでメーテルに助けられる。)


食堂車に勤めるウエートレス、ガラスのクレア(ある日,食堂車に乗った二人は、クリスタルガラスの体のクレアというウエイトレスと知り合う。彼女は元の体に戻りたくて働いてお金を貯めているのだ。彼女の元の体は冥王星にあり、ときどき立ち寄り会いに行くという)、999号に乗り込んできたエメラルダス(999号の針路をクイーンエメラルダス号が横切り鉄郎は時間城のある星が知りたい一心で、それに発砲した。乗り込んできたエメラルダスは鉄郎の銃を見て驚く。彼女はその銃の持ち主を捜していたのだ。そして時間城の場所をおしえる)、時間城(機械伯爵がやって来るというトレーダー分岐点。鉄郎は同じ志を持つ男、トチローに出会う。宇宙病で亡くなる彼の遺志を胸に、鉄郎はついに時間城に乗り込み機械伯爵をたおした)、友の眠る星(トチローは息を引取ったが、彼の心は親友の乗るアルカディア号の心となった。その船とは鉄郎の憧れのキャプテンハ-ロックのものだった。トチローの墓をお返しにハーロックは鉄郎の危機を救う)機械帝国の女王 プロメシューム(終着駅メーテルは、機械帝国であり、あらゆるものが生きた人間から作られていて、鉄郎も女王プロメシュームの前でネジにされそうになる。そこでメーテルがプロメシュームの娘であると知る。)のモニュメントも。主要人物だけでなく、物語のキーとなるサブキャラクターの像も多いのが興味深いところ。限りある命のための戦い(鉄郎を見守り続けていたハーロックはエメラルダスと共に、機械帝国と戦う鉄郎を援護した。さらにクレアの活躍によってプロメシュームと機械帝国を滅ぼすことが出来た。)最後には、鉄郎とメーテルの別れのシーン、別離(地球へと戻った鉄郎。そしてメーテルとも別れる時が来た。メーテルは昔の体に戻るために冥王星に旅立ち、少年とメーテルとの旅は終わった。)地球に帰った鉄郎がメーテルを思い出す姿、

青春の幻影(「青春の幻影」とメーテルは自分を指してそう言った。だが、彼女は現実に存在していた。鉄郎の隣に。唇に残る温もりがそれを物語っている。)。


単なるキャラクター像ではなく、名場面のキャラクターたちの表情をばっちり切り取っている。『銀河鉄道999』の像が16体、『宇宙戦艦ヤマト』の像が12体、計28体が並んでいる。

商店街左手には『宇宙戦艦ヤマト』のキャラクター像が並ぶ。宇宙戦艦ヤマト』は、氣比神宮を背にして商店街の右手にあるロボットのアナライザーからスタート。イスカンダル星の女王 スターシャとその娘・サーシャ、古代進ら一行と森雪との別れのシーン、森雪とアルフォンの再会シーン(パルチザンに加わった雪は、戦場でアルフォンと再会する。しかし彼は銃弾に倒れてしまう。彼は爆弾の起爆装置解体法と、地球侵略の目的を告げ息を引取った)、信じ合う古代進と森雪など、最後は佐渡先生が登場。

アナライザー(時には看護夫の役目もする、万能旧式ロボット。
地球に帰ってからは、佐渡先生の経営する犬猫病院で働いている。)

英雄の丘(西暦2202年、暗黒星団帝国による地球侵略に対し、旧ヤマトの乗組員は英雄の丘に終結した)

スターシャ(イスカンダル星の女王スターシャは、暗黒星団帝国の侵略により、イスカンダル星共々滅ぼされてしまう。しかし、古代進の実兄、守との間に授かった娘、サーシャをやさしく、時には厳しく見守り続ける)

別れ~出会い(古代ら一行は、ヤマトのある小惑星イカルスへ向かうが、途中、森雪は帝国軍の銃弾に倒れ、取り残されてしまう。彼女は敵の将校アルフォンに保護される)

サーシャ(一行は、小惑星イカルスで新旧乗組員達と合流する。古代は、その中の一人の女性が名のサーシャだと知る)

サーシャの最後(雪は爆弾の起爆装置解体に成功する。だが、弱点究明に浸入したサーシャが居るため、母星に波動砲を撃てない古代。しかし彼女は聖総統に撃たれてしまう。古代は波動砲の引き金を引いた)

スカルダートの罠(帝国軍と戦い、辿り着いた敵母星。将校スカルザードは「ここは200年後の地球」という。そしてヤマトの悲劇を予言する)

惑星デザリアム(スカルダードの罠に気づき、反撃に出るヤマト。波動砲によって敵母星は炎に包まれ、その中から、超金属の惑星デザリアムが姿を現した)

雪とアルフォン(パルチザンに加わった雪は、戦場でアルフォンと再会する。しかし彼は銃弾に倒れてしまう。彼は爆弾の起爆装置解体法と、地球侵略の目的を告げ息を引取った)

帰郷(波動エネルギーは敵母星のエネルギーと融合反応し、大爆発をおこした。敵母星を粉砕したヤマトは地球へ帰還していく。

信じあう愛(互いの無事を信じ、愛を信じあった二人 「古代 進」と「森 雪」)

佐渡酒造(宇宙戦艦ヤマトの名鑑医。普段は一升瓶を片手に酪酊情態にあるが、医者としての腕前は超一流である。愛ネコのミーくんとの晩酌が楽しみ。故沖田艦長の親友であった)

そしてサーシャは、母スターシャのもとへ・・・)

水口城南駅(近江鉄道本線)

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水口城南駅(みなくちじょうなんえき)は、滋賀県甲賀市水口町水口にある近江鉄道本線の駅。1989年の開業の駅です。

周辺には官公庁や公共施設が集中し、旧水口町内では最も賑わいがある駅です。

単式1面1線のホームを持つ地平駅。日中のみの有人駅。二階建ての木造駅舎を持つ。

ホームは狭い。2009年頃に錆びていた駅名標を交換した。左の区画にはタクシー会社が入居しており、出札業務も受託している。

待合室には丸太を半分に割った長椅子が設置されています。駅へは階段でのアプローチですがスロープがありバリアフリー化しています。切符売場、改札口。日中は窓口が営業し、平日の朝夕は集札係員も配置されます。

 

駅前広場には城下町をイメージした白壁の塀が設置されています。

駅周辺
甲賀市役所
甲賀市消防本部
甲賀区検察庁
法務局甲賀支局
城南交番
水口郵便局
あいこうか市民ホール
碧水ホール
甲賀市立水口図書館
滋賀県立水口高等学校
甲賀簡易裁判所
水口城跡
水口公園
水口神社
国道307号
大池寺・蓬莱庭園
西友水口店
エディオン水口店

1989年(平成元年)4月5日 - 近江鉄道により開業

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 45.1km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
乗車人員
-統計年度- 529人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1989年(平成元年)4月5日

国鉄111系電車 (クハ111

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所属:京都総合運転所
塗装:地域色
製造:川崎重工 昭和55年1月16日
検査:
定員:132人
重量:
冷房:AU75形
編成:L12編成

111系
構造
湘南電車(東海道本線東京地区普通列車)には1950年代末期から1960年代初頭にかけて80系と153系が使用されていた。しかし両形式は片開きの片側2ドア・デッキ付き構造でラッシュ時の客扱い能力に難があり、打開策として両開き片側3ドア・デッキなし構造の近郊形電車が投入されることになった。
1960年に常磐線用に開発された交直流電車である401系とその姉妹車421系の直流専用型というべき位置付けで、主電動機として1時間定格出力100kWのMT46A形直巻電動機を搭載することも共通する。車体構造や座席配置についてもほぼ同様であり、詳細は同系列の概要を参照のこと。


台車は、電動車用は401・421系用と同一のDT21B形であるが、付随車用台車はブレーキ頻度の高さを考慮して、401・421系に使用している踏面ブレーキ式のTR64形ではなくディスクブレーキ式のTR62形とされた。
前面形状については、153系のうち1961年度以降製造されていた高運転台タイプと同じ構造とされた。前照灯は落成時点では大型タイプで、のちに前面強化工事と併施で小型のシールドビームに改造された車両もある。また、クハ111形のうち偶数向き(静岡・神戸方)に連結される車両は、床下に電動空気圧縮機 (CP) を搭載することから、300番台として区分されている。
相前後して1時間定格出力120kWの強力型モーターMT54形が開発されたため、直流近郊形電車もこれを搭載した113系に移行し、111系の新規製造は1962年 - 1963年と短期間で終わっている。


111系の形式
記載順は過去からの慣例に準じる。
モハ111形 (M)
モハ110形とユニットを組む電動車で、主制御器、主抵抗器、電動発電機 (MG) を搭載する。JR四国に配置された車両は冷房改造時にMGが撤去された。
モハ110形 (M')
モハ111形とユニットを組む電動車で、パンタグラフと空気圧縮機 (CP) を搭載する。JR四国に配置された車両は冷房改造時にサイリスタインバータ (SIV) が設置された。
クハ111形 (Tc)
111・113系を通しての制御車である。3位側隅にトイレがあり、300番台はCPを搭載している。同時期に登場した115系と異なり、奇数向き(東海道本線基準で東京方)が0番台 (Tc) 、偶数向き(神戸方)が300番台 (Tc1) と区別されているが、非冷房車は奇数向き・偶数向き双方に使用が可能な両わたり構造となっている(クハ111-1017 - 1025・1332 - 1339を除く)。初期車については、中間組み込み時に助士席側を折りたたみ、立席スペースとすることができるようになっている。

運用と改造
1962年に東海道本線用として大船電車区(現・鎌倉車両センター)と静岡運転所(現・静岡車両区)に導入され、秋には横須賀線にも進出した。この際には塗装変更はされず、東海道本線と同じ湘南色のまま前面に横須賀線のラインカラーであるスカ色のヘッドマーク形行先表示板が取付けられていた。登場当初の編成を以下に示す。基本編成中間に先頭車両(Tc)が組み込まれているが、これは新幹線が開通した際の編成短縮を見込んだためである。

1974年以降、113系0'番台の投入によって大船所属車は広島運転所へ転出し、その後は東海道本線静岡地区と山陽本線広島・下関地区で集中使用された時期が長い。なお、111系と同じ時期に製造されたクハ111形の一部は、鳳電車区(のちに日根野電車区)に転配され、関西本線湊町(現在のJR難波) - 奈良間や阪和線、紀勢本線などで使用された。


これらは国鉄末期から廃車が始まっていたが、国鉄最末期の1987年3月に四国地区(予讃本線高松 - 坂出、多度津 - 観音寺間と土讃本線多度津 - 琴平間)で電化が実施されるのに伴い、12両(モハ111/110-13・24・36, クハ111-6・11・28、303・317・323)が4両編成3本を組んで四国(高松運転所)に転用され、そのまま四国旅客鉄道(JR四国)に承継された。
JR化後の1988年にJR四国用としてさらに日本国有鉄道清算事業団が保有していた8両(モハ111/110-3・4, クハ111-2・10・27・29)の車籍が復活したが、この時に車籍編入されたクハ111形は上り向き用の0番台ばかりであったため、同年2両(10・11)が下り向きに方向転換改造されてクハ111形3000番台(3001・3002)となった。
四国の111系は使用開始にあたり塗装が独自のもの(四国色)に変更され、本四備讃線用の無線アンテナが設置された。またクハ111形のトイレは撤去(クハ111-27・29だけはトイレを撤去していない)され、モハ110形には2両分しかホームがなかった無人駅で車掌が集札を行うために車掌用設備(放送装置や車掌スイッチなど)がある業務用スペースを設置した。新製導入された121系と同様に全車禁煙としたため全車両とも灰皿は撤去された。さらに1988年から翌1989年にかけて集約分散形AU101形を用いた冷房化改造が実施され、あわせて電源装置が電動発電機 (MG) から静止形インバータ (SIV) に変更された。一部、窓サッシの交換や前照灯のシールドビーム化がなされた車両も存在する。
瀬戸大橋線開業直後は岡山 - 高松間の臨時快速にも使用されたが、おもに瀬戸大橋線岡山 - 観音寺間と、ラッシュ時の高松 - 観音寺・琴平間の列車に使用されたほか、団体専用列車にも使用された。先述のように各部に改造がなされていたが、老朽化のために1996年から2001年3月にかけて6000系や後述の113系改造車(→#JR四国)に置換えられ、全車が廃車となった。
なお、111系として落成し、西日本旅客鉄道(JR西日本)に継承されたクハ111-314は後述の高速化改造施工によりクハ111-5314に改番のうえ、2006年5月まで在籍していた。また、台車・主電動機の一部は豊橋鉄道へ譲渡され、同社渥美線用の1900系の走行機器[3]として使用されたのち、さらに京福電気鉄道福井支社(現 えちぜん鉄道)へ譲渡されモハ1101形(MC1101形)の走行機器[3]として2014年に同形式が全廃されるまで使用された。
現在、旧静岡地区所属車のクハ111-1がリニア・鉄道館[* 1]、モハ111/110-1が東海旅客鉄道浜松工場に、旧四国地区所属車のクハ111-3002が四国旅客鉄道多度津工場にそれぞれ保存されていたが、モハユニットに関しては、すでに解体されているものと思われる。保存車はいずれも湘南色 である。

運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
四国旅客鉄道
製造所 日本車輌製造、川崎車輛/川崎重工業、汽車製造、近畿車輛、帝國車輛工業、東急車輛製造、日立製作所
製造年 1963年[1] - 1982年
製造数 2,943両
主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
(架空電車線方式)
最高運転速度 110 km/h
設計最高速度 110 km/h
起動加速度 1.6 km/h/s (MT比1:1時)
減速度(常用) 3.0 km/h/s
減速度(非常) 4.0 km/h/s
自重 31.6 t (最小 クハ111)
38.6 t (最大 モハ113)
全長 20,000 mm
全幅 2,956 mm
全高 4,077 mm
車体材質 普通鋼
ステンレス(サロ124・125形)
主電動機 直流直巻電動機
MT46A形 100kW×4基 / 両(111系)
MT54形 120kW ×4基 / 両(113系)
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比 1:4.82
定格速度 111系: 59.5 km/h (70%界磁)
113系: 52.5 km/h (全界磁), 84.5 km/h(40%界磁)
引張力 6,690 kg (全界磁・電動車1組)
制御方式 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
制御装置 CS12A形(111系)
CS12D形(113系)
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ

高須駅(広島電鉄宮島線)

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高須駅(たかすえき)は、広島県広島市西区庚午北三丁目にある広島電鉄宮島線の駅である。山陽本線とは並走している。

当駅はホームが地面に接する地上駅という形態をとる。ホームには幅広のスロープで連絡します。ホームは2面あり、2本の線路を挟んで配置されているが、互いのホーム位置は斜向かいにずれている。

路線の起点から見て手前に広電西広島駅方面へ向かう上りホームが、奥に広電宮島口駅方面へ向かう下りホームがある。ホームには整理券発行機が設置。両ホームの間には道路が通り、踏切が設けられている。

広電宮島口方面乗場脇には、駐輪場が設置されています。

北を山陽本線が並走していて、当駅付近で特に近接している。

広島高須郵便局
スパークニュー庚午店
ユアーズ高須店
ファミリーマート高須駅前店


高須駅は宮島線が1922年(大正11年)に営業を開始した際に開設された。開業当時の路線は己斐町から草津町までの2.8キロメートルあまりで、当駅は古江駅とともに中間駅として設けられた。

1922年(大正11年)8月22日 - 宮島線の己斐町 - 草津町間の開通と同時に開業。

『広島市統計書』によると、2015年度の年間乗車人員の総数は推計で584千人であった。参考として、日数で除して1日当たりの平均乗車人員を算出すると1,596人となる。

駅番号 ●M21
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宮島線
キロ程 1.4km(広電西広島起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 1,596人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1922年(大正11年)8月22日

航空貨物

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航空貨物(こうくうかもつ)は、飛行機によって運搬される貨物。また貨物そのものではなく、貨物の運搬サービスを指すこともある。

一般的には旅客機の貨物室、または貨物運搬専用の飛行機である貨物機によって輸送される。通常の旅客便にて旅客と共に貨物を運搬するケースと、貨物運搬専用に飛行機を飛ばすケースの2種類がある。特に後者を、前者と区別する意味で貨物便と呼ぶ。貨物便による輸送を専門に手がける航空会社を貨物航空会社と呼ぶ。

貨物便
貨物便は使用する飛行機の機材によって、さらにベリー便とフレーター便の2種類に分けられる。

ベリー便
旅客機を用いた貨物便。狭義では、旅客機ではあるが旅客を乗せず貨物のみを輸送するものを指す。ベリー便の「ベリー(belly)」はお腹の意で、通常旅客機の腹部に当たる部分に貨物室があることから名付けられた。主に旅客の利用が見込めない深夜帯に運行される。

従来ベリー便として運行されていた貨物便を、旅客を乗せて旅客便に転用することで増収を図る試みも一部で行われており、例えば全日空では、2014年7月から8月にかけて期間限定で、深夜帯に羽田 - 那覇間でベリー便を転用した旅客便を運航する。ただしあくまで貨物輸送を優先するため、販売される座席数は貨物の積載量によって増減し、全日空の例では概ね総座席数の4割程度となっている。また同様の理由で乗客の手荷物の預入も通常より制限が厳しくなるため、手荷物を持たない乗客用のプランを一部旅行会社経由で販売している。

フレーター便
貨物機を用いた貨物便。貨物機は旅客機の客席を撤去して内部を貨物スペースとしているため、大型・大量の貨物を輸送できる。反面、ベリー便の様に旅客と貨物の混載が出来ないため、機体を確保・維持するためにコストがかさむ。貨物機には、当初から貨物機として製造される機材のほか、旅客機の客室スペースの座席や内装を撤去するなどして改造し貨物機として転用される機材もある。

旅客便による貨物輸送
旅客便による貨物輸送は、使用する飛行機の機材によって、一般的な旅客機でベリー便にも使用される胴体下部(腹部)に貨物室がある機材のほか、胴体下部に加え客室の一部(通常は後部)を仕切って胴体上部にも貨物の搭載スペースを設けた機材がある。こうした機材を貨客混載機(コンビ)と呼ぶ。


貨物が小型で軽量、少数である場合、小型の汎用機で輸送することがある。日本では野菜や果実など生鮮食品を空輸するため、生産地に近い場所に農道離着陸場を作り、消費地である都市部へ輸送する実験が行われていた。

軍隊では貨物機が足りない場合、多目的機や哨戒機などで物資を輸送している。


原爆ドーム前停留場(広島電鉄本線)

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原爆ドーム前停留場(げんばくドームまえていりゅうじょう、原爆ドーム前電停)は、広島市中区基町にある広島電鉄本線の路面電車停留場である。海外からの利用客が多く、国際的な雰囲気に溢れています。旧市民球場も近い停留所、試合開催日の当停留所は多くのファンで溢れかえっていました。

ユネスコの世界遺産に登録された原爆ドームの最寄り停留場であり、日本語のほか英語でも「Atomic Bomb Dome」と車内放送される。また当停留場に停車するときには、慰霊碑の鐘の音をモチーフとした音が車内放送で流れる。

本線はほぼすべての区間で道路上に軌道が敷設された併用軌道で、当停留場も道路上にホームが置かれている。ホームは低床式で上下2面あり、東西方向に伸びる2本の線路を挟み込むように向かい合って配置されている(相対式ホーム)。線路の北側が広島駅方面の上りホーム、南側が広電西広島駅方面の下りホームである。

乗り場は広島電鉄が1994年より各所で行った停留場整備の一環で美装化が進み、開放感を旨とした装いに改められたほか、2006年にはバリアフリー化が完了している。ひろしま菓子博の開催を控えた2012年には停留場前の軌道敷に芝生が植生され緑化された。また駅名標などの案内サイン類には、日本語に加え英語、中国語、韓国語の4言語表記が導入されている。

運行系統
本線には広島電鉄が運行するすべての路線が乗り入れるが、このうち当停留場には2号線、3号線、6号線、7号線、9号線、それに0号線が乗り入れる。

上りホーム 2号線6号線 広島駅ゆき
3号線 広島港ゆき 朝時間帯のみ
3号線 宇品二丁目ゆき
0号線7号線 広電前ゆき
9号線 白島ゆき
0号線 日赤病院前ゆき
下りホーム 2号線 広電宮島口ゆき
2号線3号線 広電西広島ゆき
6号線9号線 江波ゆき
7号線 横川駅ゆき

原爆ドーム、および広島平和記念公園は停留場の南にある。西隣の本川町停留場との間には旧太田川が流れ、軌道は相生橋にて渡河する。この橋より下流で元安川が旧太田川から分流して全国でも珍しいT字型の構造となっています。橋の東詰北側には広島商工会議所のビルが立地し、その隣には2010年8月31日をもって閉鎖された旧広島市民球場の跡地がある。球場跡は現在、暫定的に観光バス駐車場やイベント広場として使用されている。

広島市中央公園
広島県立総合体育館(広島グリーンアリーナ)
広島市こども文化科学館・広島市こども図書館
広島市立中央図書館・広島市映像文化ライブラリー
メルパルク広島
おりづるタワー


紙屋町寄りには渡り線がある。停留場の北側正面に広島市民球場があったころは、ナイター試合終了時にこの渡り線を用いて当停留場始発の臨時電車が運行されていた(電車に設置されている方向幕にも当停留場を終着とするためのものが存在する)。

通常は無人駅であるが、ひろしまフラワーフェスティバルおよび、毎年8月6日に行われる広島平和記念式典の開催時は、臨時の集札員が配置される。また8月6日の原爆投下時刻には、当停留場を被爆電車が営業運行をしながらすれ違う運行ダイヤが組まれる。


1912年(大正元年)11月23日に本線が広島駅前から開通した際、その路線は当停留場まで工事が完了していた。しかしトラブルもあって同日実際に営業を開始したのは手前の紙屋町までで、紙屋町から当停留場までの区間が営業を開始したのはそれより2週間後の12月8日のことである。同じ日には当停留場から先、己斐までの区間も合わせて通じている。

開業時の停留場名は櫓下停留場(やぐら(の)したていりゅうじょう)で、これはかつて当地に広島城三番櫓があったことに由来する。線路の北側には櫓下変電所も設けられ、ここから路面電車に電気が供給された。その後、広島市で昭和産業博覧会が開催された1929年(昭和4年)ごろに相生橋停留場(あいおいばしていりゅうじょう)に改称。この停留場名にもなっている相生橋は停留場の西にあり、はじめは軌道と道路とで橋が分けられていたが1932年(昭和7年)に併用橋として架け替えられ、のちにT字型という特徴的な形状となった。

太平洋戦争下の1944年(昭和19年)、相生橋停留場は営業を休止する。そして翌年の1945年(昭和20年)8月6日に広島市に原爆が投下された。投下の際、T字型の相生橋は格好の目標になったといわれている。爆心地の直近であった当地も甚大な被害を受け、先述の櫓下変電所は瞬時に倒壊、相生橋の下流にあった広島県物産陳列館も破壊された。広島電鉄の市内線も全線が休止されるが、それでも己斐方面から復旧が行われ、1か月後の9月7日には当停留場を含む左官町 - 八丁堀間が運行を再開した。

原爆投下により破壊されたものの全壊を免れた広島県物産陳列館は戦後、原爆ドームとして保存されることになった。この原爆ドームおよび広島平和記念公園を訪れる人々への案内のため、1974年(昭和49年)12月に停留場名は相生橋から原爆ドーム前に改称されている。

1912年(大正元年)
11月23日 - 本線が広島駅前から当停留場まで竣工。同時に営業を開始するが、その区間は広島駅前から紙屋町までであった。
12月8日 - 紙屋町から己斐まで路線が開通し、当停留場も櫓下停留場として開業。
1929年(昭和4年)ごろ - 相生橋停留場に改称する。
1944年(昭和19年)6月10日 - 休止する。
1945年(昭和20年)9月7日 - 当停留場を含む左官町 - 八丁堀間が営業を再開する。
1974年(昭和49年)12月16日 - 原爆ドーム前停留場に改称する。
2006年(平成19年)7月31日 - 施設の改良工事が完了、バリアフリー化される。
2012年(平成24年)3月23日 - 停留場前の軌道が緑化される。
2013年(平成25年)2月15日 - 9号線の運行が八丁堀から江波まで延長され、当停留場にも乗り入れる。

駅番号 ●M10
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■本線
キロ程 2.4km(広島駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1912年(大正元年)12月8日

WACOクラシック航空機

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WACOクラシックエアクラフト社として1983年に設立されたクラシックエアクラフト社とに位置バトルクリーク、ミシガン州、あるメーカーの一般的な航空 飛行機。

WACOクラシック航空機は、WACO(Waco Aircraft Company)が議会図書館に提出したオリジナルの製造計画に基づいて、3席の複葉機であるWACO Classic YMFを比較的少数生産しています。航空機は、ミシガン州バトルクリークにあるWKケロッグ空港の空港に建設されています。同社はオリジナルの「クラシック」WACOとヴィンテージ航空機も修復します。

それが構築する航空機は長年にわたる設計ですが、WACOクラシック航空機は、ブレーキなどの多くのシステムをより新しい、より安全な技術にアップグレードしました。彼らは、元の手の建設方法の多くで構築され、古典的なオープンコクピットの航空機として追求されているが、現代のデジタルエレクトロニクス。現在まで、ウェーコクラシックだけで構築されたWacosのいくつかのモデルの一つを提供しています。2007年までに100機以上の新しいYMF-5C機が完成しました。

2009年6月、同社はJacques R-755-A2 300馬力(224kW)エンジンを搭載した改良型YMF-5Dバージョンを発表しました。このタイプは2009年10月にタイプ認定され、新しいMT-Propeller、デラックスレザーインテリア、新しい軽量カーボンファイバー製のホイールパンツとフェアリング、アップグレードされたアビオニクスパッケージ、カップホルダーが特徴です。

2011年1月に、Great Lakes Model 2T-1A-1/2複葉機を生産に戻すと発表しました。航空機は1980年以来利用できませんでした。航空機はより大きな操縦室と高度な航空電子工学を含むいくつかの変更を取り入れます。2011年にSun 'n Funで航空機が展示されると発表された時点で、2011年の夏に生産が開始され、2012年初めに出荷が予定されていました。Lycoming IO-360-B1F6とLycoming AEIO-360-B1F6エンジンを搭載したスポーツモデル。2012年5月に、同社は最初の生産量のGreat Lakesが建設中で、2013年6月に完成したと発表しました。

ウェイコFシリーズは、の範囲だったアメリカの -built民間パイロットの所有者と研修 複葉機から1930年代のウェイコエアクラフト社。

Waco 'F'シリーズの双平面は、1927/33の初期の「O」シリーズに取って代わりました。「F」シリーズは、機体が「O」シリーズよりも軽く約450ポンド(200kg)小さく、タンデム型オープンコックピットで3人の宿泊施設を提供し続けました。以前のモデルと同様の性能が、より小型でより経済的なエンジンのパワーで得られました。

最初のモデルはINF(125馬力(93 kW)Kinnerエンジン)、KNF(100 hp(75 kW)Kinner)、RNF(110 hp(82 kW)Warner Scarab)であり、これらはすべて外部牽引車輪を支えていました。さらに多くのサブモデルには、さらに強力な225 hp(168 kW)エンジンが搭載されました。範囲内で最も強力なのは、1936/37年のZPFで、役員の使用を目的としていました。

「F」シリーズは、スポーツやその他の用途のプライベートオーナーのパイロットに人気があり、1930年代後半まで生産を続けました。タンデムコックピットUPF-7は、民間パイロット訓練プログラムによって採択され、1942年まで生産を続けていたが、これまでに600を超える時間が建設された。

1934年モデルYMFは、実質的に長い、より広い胴体、大きな舵およびその他の構造変化と再設計、およびにより1986年3月に生産に入れWACOクラシック航空機のランシング、ミシガン州 YMF-5として。 150個以上のYMF-5が2017年に完成し、特定の注文に新しい例が作られた。

オハイオ州のWACO航空会社は2011年12月までに3つのレプリカを建設し、MFと命名した。

かなりの数の「F」シリーズの複葉機は、元のものと新しく作られたものの両方を使用しています。

乗組員: 1
能力: 1名の訓練生または乗客
長さ: 7.0 ft(23フィート1インチ)
翼スパン:9フィート10インチ(9.14メートル)
高さ: 8 ft 5 in(2.57 m)
翼面積: 244 ft 2(22.67 m 2)
空重量: 1,870ポンド(848.22 kg)
総重量: 2,650ポンド(1202.02 kg)
パワープラント: 1xコンチネンタルW-670-6A 7気筒ラジアル、220hp(161.81kW)
最高速度: 128 mph(207 km / h)
クルーズの速度: 114mph(185km / h)
範囲: 400マイル(644 km)
サービス上限: 14,800フィート(4,511 m)

 

白島停留場 広島電鉄白島線

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白島停留場(はくしまていりゅうじょう、白島電停)は、広島県広島市中区東白島町にある広島電鉄白島線の路面電車停留場。同線の終点である。

白島停留場は1912年(大正元年)の白島線開通当初から路線の終点として存在する。当時の白島線は広島城の外堀を埋め立てて造成された道路上に軌道が敷かれており、その終点は中国郵政局前の交差点に置かれていた。1945年(昭和20年)8月6日には原爆投下により被災、白島線をはじめ広島電鉄の市内電車は全線が不通となった。
戦後白島線が運転を再開したのは、被爆から7年経った1952年(昭和27年)のことである。運転再開までに7年を要したのは、戦後の都市計画の中で新たな幹線道路(白島通り)が建設され、白島線の軌道をその上に移設することになったからである。このとき軌道は城北通りとの交差点まで北に100メートル延伸、当停留場も移設のうえ白島終点停留場(はくしましゅうてんていりゅうじょう)へと改称された。この停留場名については、1960年(昭和35年)に再び白島停留場へと戻されている。また1969年(昭和44年)から白島線で広島電鉄初のワンマン運転が行われることになると、交差点内に伸びていた終端部の軌道を9メートル短縮し、停留場内の配線も変更された。


1912年(大正元年)11月23日 - 白島線が開業、同時に白島停留場を設置。
1945年(昭和20年)8月6日 - 原爆投下により被災、運行不能になる。
1952年(昭和27年)6月10日 - 白島通りが完成し、白島線は城北通りまで100メートル路線が延長され営業再開。停留場も移設され、白島終点停留場に改称。
1960年(昭和35年)3月30日 - 白島停留場に再改称。
1969年(昭和44年)12月1日 - 白島線がワンマンを運転開始。それに合わせて、交差点内にあった軌道を9メートル短縮し、ホームの位置を変更する。

構造
白島線の軌道は道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが設けられている。白島線の軌道は起点から複線で北へと伸びているが、当停留場の手前で下り線が上り線へと合流し、単線となって停留場に差し掛かる。ホームは低床式で線路の西側、ちょうど下り線の延長上に置かれている。ホーム1面、そしてその片側のみに1本の線路が接するという1面1線の単式ホームは広島電鉄の他の路線の終点に比べると簡素であり、ホームには2両以上電車が停車することはできない。線路はこの先、白島交差点の横断歩道の手前で途切れている。
ホームはかつて線路の東側(停留場に到着した電車から見て右側)に置かれていたが、1969年(昭和44年)に西側(左側)へと移されている。これは同年から始まった白島線でのワンマン運転に際して、ワンマン運転時には電車の左側からしか下車ができないことを受けての措置であった。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、9号線のみが乗り入れる。9号線は従来八丁堀までの運行で、白島線内で完結していたが、2013年に八丁堀から本線へ直通するようになり、江波線の江波停留場まで運行が延長された。
9号線 八丁堀ゆき・江波ゆき

周辺
白島地区の南東に位置する。南側にはオフィスビルなども点在するが、周辺はほとんど住宅街である。東側には京橋川が流れ、対岸は東区と南区の境界となる。
アストラムラインの白島駅とは1キロメートルほど離れている。当停留場からは白島駅よりも南側の城北駅もしくは新白島駅の方が近い。
日本郵政グループ広島ビル(旧日本郵政公社中国支社、中国郵政局)
日本郵便株式会社中国支社・広島監査室・広島共通事務集約センター・広島白島郵便局
ゆうちょ銀行中国エリア本部・広島地域センター
かんぽ生命保険中国エリア本部・広島支店
日本郵政株式会社中・四国ファシリティセンター
広島逓信病院
広島逓信病院旧外来棟被爆資料室
中国総合通信局
白島キューガーデン(NTTクレド白島ビル)

駅番号 W5
所属事業者 広島電鉄
所属路線 白島線
キロ程 1.2km(八丁堀起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1912年(大正元年)11月23日

旅客機 コックピット

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旅客機のコックピットとは、旅客機の操縦室のことである。操縦室で操縦などの機械操作を行う乗務員のことは運航乗務員やコックピットクルーと呼ばれる。21世紀現在では、電子化された航法装置や通信装置、エンジン制御などのアビオニクスと呼ばれる航空機に搭載されている電子機器がコンピュータによって高機能化されたことにより、定常的な操作の多くが人手を介さずに自動的に制御されるようになり、計器表示も多機能ディスプレイによるグラスコックピット化されている。こういったことから、小人数の運航乗務員で操縦・運航できるようになっている。

第二次世界大戦後すぐの旅客機は戦中の爆撃機に準じたコクピットを持ち、コクピットクルーは機長、副操縦士、航空機関士、航空通信士、航空士の5人だった。このうち音声無線機の全面的な導入などで航空通信士が、航空保安無線施設と航法装置の進歩で航空士が必ずしも必要ではなくなり、ボーイング727の時代には機長・副操縦士・航空機関士の3人体制で運航される時代となった。一方、単通路のナローボディ機では1960年代半ばから後半に初飛行したダグラス・エアクラフト社のDC-9やボーイング社のB-737では航空機関士を廃して機長と副操縦士という2人の操縦士だけで運航するようになった。

それからしばらくは大型機は3人乗務、小型機は2人乗務という時代が続いたが、コンピュータなどの発達によって、1970年代後半の同時期に開発が開始されたボーイング757/767とエアバスA310では、システムの監視をコンピュータが行うようになりワイドボディ機としてはじめて航空機関士を廃した2人乗務とした。また、これらの機種ではメーター式の多数の計器から読み取っていた情報を、コンピュータによって見やすく整理されたかたちで画面上に適宜表示するように改善したグラスコックピットが採用された。これ以降ボーイングとエアバスが開発した旅客機はすべて2人乗務のグラスコックピット機となっており、時期の差こそあれ他メーカーも同様である。世界的に見れば、現在でも旧式の旅客機を運航する航空会社は、2人の操縦士に航空機関士、さらには航空通信士なども加えた3人、4人、またはそれ以上の乗務員を必要とする機種が空を飛んでいる。その後、旅客機の新機種では、表示装置がCRTから液晶ディスプレイへ変わるなど進歩している。

計器と操作(グラスコックピット化された旅客機の計器と操作の概要)
MCP
MCP とはモード・コントロール・パネル (Mode Control Panel) の略で、コックピットの計器の中でも最も上方にあり、横に細長い。このパネルは、グラスコックピット化される以前から現在まで、形態、機能、操作方法等ほとんど変わっていない。

このパネルでは速度、高度、方位、昇降率の指定がおこなわれる。また、オートパイロットの操作(フライト・ディレクタスイッチに代表される自動操縦と手動操縦の操作)もおこなわれることから、オートパイロット・パネルなどとも呼ばれる。

PFD
PFDとはプライマリ・フライト・ディスプレイ(Primary Flight Display)の略で、このディスプレイは右席と左席に1つずつある。

姿勢(機首の上げ下げ、傾斜角)、高度計規正値(気圧補正値)、速度、高度、昇降率、ILS(着陸装置)の状況などが表示される。ボーイング767では、このパネルをEADIと呼んでいる。また、次のNDとこのPFDを切り替えて表示させることも可能である。

ND
NDとはナビゲーション・ディスプレイ(Navigation Display)の略で、このディスプレイでは操縦している旅客機のナビゲーターやフライトプラン(運航路線)、風向、風速に関する情報が表示される。このディスプレイも、PFDと同様で左右に1つずつある。車で言えば、カーナビゲーションに当たる。また、切り替えて気象情報を表示させることも可能である。さらに、ボーイング737-800、787では、垂直方向の表示(VSD: Vertical Situation Display)[7]もされるようになった。

EICAS
EICAS(アイキャスと読む)とはエンジン・インディケーション・アンド・クルー・アラーティング・システム(Engine Indication and Crew Alerting System)の略で、NDにはさまれる形で中央に上と下で2つある。上方のディスプレイにはエンジン情報、燃料、油圧、客室温度、電気、フラップ情報、システム関連などが表示される。また、緊急事態の時の警告やメッセージもこのディスプレイに表示される。

下方のディスプレイは、このディスプレイの操作などがおこなわれるが、必要がないときは何も表示されないように設定出来る。B777-300では、地上にいる際には機体後方に設置されたカメラの映像を表示させることもできる(自動車でのバックガイドモニターに相当する機能)。

FMS/CDU
FMS/CDUとはフライト・マネジメント・システム/コントロール・ディスプレイ・ユニット(Flight Management System/Control Unit)の略で、コックピットのやや下方にあり、左右に2つずつある。乗務員はこのユニットを操作し FMS に対し必要な情報の入力(燃料の搭載量や機体重量)および航法データの入手(目的地までの時間、距離、自機の位置)を行い、それらを元に航路の設定に用いる。

HUD
HUDとはヘッド・アップ・ディスプレイ(Head-up Display)の略で、操縦士の目線上に透明なスクリーンを置き、そこに情報を投影するものである。


EFB
EFBとはエレクトロニック・フライト・バッグ(Electronic Flight Bag)の略で、従来操縦士が持ち込んでいた紙に書かれたマニュアル類やチャートなどを電子化し、画面上に表示するものである。また、離着陸性能の計算をしたり、地上では空港の地図と自機の位置を表示することもできる。コックピットの両端に設置される。

操縦桿とサイドスティック
操縦輪とは、旅客機の操作をするもののひとつで、ハンドル状になっている。ピッチ(上昇と降下)とロール(左右の傾き、横滑り)などの操作をするための装置で、ハンドルにも無線の送信用・自動操縦解除などいくつかのボタンがついていることがある。また、エアバスが製造する旅客機では、エアバスA320シリーズから、操縦輪に換わってサイドスティックと呼ばれる装置が採用されている。これは操縦輪より小型でジョイスティックのように片手で操作でき、左席の左側と右席の右側に取り付けられている。操縦輪は引いたり押したり捻ったりだけで、回す必要がないので自動車のステアリングホイールのような全円ではない。

このように操縦桿とサイドスティックの2方式があるのには、ボーイングなどの操縦桿主流のメーカーと、エアバスのようなサイドスティック主流のメーカーとの考え方の違いに理由がある。例えばボーイングは、最終的に操縦判断を下すのはパイロット(人間)、対してエアバスはコンピューターが操縦において大きな役割を果たし、パイロットの操縦の負担を軽減する、という考え方を持っている。そのために、ボーイングは速度や姿勢などの微調整をそのまま行える、トリム・スイッチを取り付けられるよう操縦桿の方式を採用し、エアバスは逆に、単純化されたジョイスティックのようなサイドスティックの方式を採用したのである。どちらが効率的で安全かに関しては、現在でも議論が大きく分かれる(一例として、エアバス#エアバス航空機の特徴にあるように、自動操縦システムの設定が優先される仕様の問題など)。

スラストレバーとリバースレバー
スラストレバーとリバースレバーは、中央の下方にある。

スラストレバーはエンジンの噴射力を調節するためのレバーである。レバーは、エンジン毎に一つずつある。

リバースレバーは、エンジンの逆噴射をかけるためのレバーで、滑走路上に着地するとすぐに逆噴射と降着装置に備えられたブレーキが予め設定された強さで自動的にかかり減速する。逆噴射と聞くと強力そうだが、実はかなりの比率をブレーキが担っている。最近は環境や騒音問題、燃費向上の観点から、滑走路に余裕がある場合、アイドルリバースを多用する場合もある。ブレーキは油圧で動作し、油圧が動作しない駐機中は、すべての車輪に輪止めをはめる。このレバーもエンジンの数だけあるのが普通だが、エアバスA380の場合、エンジン4つに対し2本しかない。これは、エンジンの取り付け間隔が広く、万が一故障した際に直進が困難になることから第2、第3エンジンのみで逆噴射を行うためである。

予備計器
停電や故障したときなど、緊急事態に備えた予備計器も用意されている。水平・定針儀、速度計、高度計の3つはグラスコックピット化された当初、アナログ式が取り付けられた。ボーイング777以降は、ボーイング他社を含めてLCDタイプの予備計器物が搭載される傾向にあるが、アナログ式予備計器と同様に、常用計器とは別の情報源から表示を行なっており、主要計器の多重化が計られている。

レバーやスイッチ類
フラップ操作レバーはフラップの、降着装置(要は車輪である)操作レバーは車輪の形をしたノブが付いている。これは誤操作を防ぎ、視覚的にすぐ認識出来るようにした人間工学に基づくもので、旅客機に特有の作りである。

写真はボーイング747-400テクノジャンボを再現したものです。

 

 

南海2000系2044編成「真田赤備え列車」

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南海2000系電車(なんかい2000けいでんしゃ)は、南海電気鉄道の一般車両(通勤形電車)。山岳直通車両「ズームカー」の一系列であり、「ステンレスズームカー」「ハイテクズーム」「VVVFズームカー」の異名をとる。

64両が新製され、製造年次によって1・2次車、3・4次車、5 - 7次車に分かれる。

高野線の山岳区間である橋本駅 - 極楽橋駅間に入線することが可能な車体長17mの2扉車ズームカーである21001系・22001系および同形式の更新車である2200系の置き換え用として、1990年(平成2年)に運用が開始された。
制御方式は、南海では初採用となる日立製作所製GTO素子によるVVVFインバータ制御で、主電動機は東洋電機製造製で、出力は100kW、全電動車方式である。全車M車で初期型GTO素子VVVFインバータ装置を搭載している。機器的には2両1組の構成となっていて、一部の機器は2両に1つしか搭載されていない。このため、2両編成単独での営業運転は行われない。


インバータ制御であるため、停止時および下り勾配での抑速制御時の回生ブレーキが可能となっている。回生ブレーキは運転本数の多い区間では発生した電力を他の列車の力行(加速)に容易に回せるので有効だが、それが少ない山岳区間では他に電力を消費する列車がなく回生失効となるケースが多い。そこで、本系列の導入に当たって山岳区間の変電所に回生電力吸収装置を設置することにより回生失効を防止するようにした。 ちなみに、常用ブレーキの初速が40km/h程度以下の場合は空制のみが作動し、回生は使用されない。
車体は軽量ステンレス製のダルフィニッシュ(梨地)仕上げとし、コルゲート板はなくビードラインを入れている。先頭車の正面はFRP製で、曲線を多く取り入れた形状となり、行先表示器は種別と行先に分けて左右に配置し、側面も種別用と行先用を独立して配置している。車内は荷棚がポリカーボネート製、蛍光灯にはアクリルカバーが付く。在来車との併結の必要性から、ブレーキは電磁直通ブレーキとなっている。


本系列は7回に分けて製造されたため、途中での仕様変更が多く、製造年によりパンタグラフの取り付け位置、車体外板のビード数、内装、座席配置などに違いがある。
車体長を高野線山岳区間の車両限界にあわせて17mとしたことや、ドアの数も片側2ヵ所と少ないので、通勤車としてはやや不向きの面もある。
本系列は女性専用車両の設定対象外となっている。また、17m車の運用の無い泉北高速鉄道では運行されない。

 

5 - 7次車
クロスシートを採用した車内
4両編成と2両編成の合計44両が在籍し、本系列の大半を占める最大勢力である。このうち2042・2043編成は2005年秋の高野線ダイヤ改正以降運転休止状態となり、2042編成は羽倉崎検車区に回送されて疎開留置の状態であったが2006年12月から他の編成に先駆けて本線で試運転を開始、その後他の運転休止編成(1 - 3次車)も相次いで試運転を開始し、2007年8月11日の南海線ダイヤ変更にてすべての運転休止編成が南海本線・空港線に営業復帰した。なお、南海線転用の本系列はすべてが普通列車運用限定となっている。


車端部にクロスシートを設置している。このうち中間部は3・4次車同様のロングシートだが、ドア付近の座席を減らした分立席スペースを広く確保している。この編成以降連結面の妻窓は廃止され、列車種別選別装置は最初から双方向デジタル伝送(トランスポンダ)方式を採用した(1 - 4次車も同時期に同装置を更新)。
なお、2046編成は一時期の塗料の配備の問題でスカートが灰色から白色に変化していたが、しばらくしてから元に戻った。また、2043編成は2002年3月28日に極楽橋発難波行急行の運用中に紀伊細川駅 - 紀伊神谷駅間で早朝に発生した土砂崩れで積もった土砂に乗り上げてスカートと床下機器、パンタグラフ1基を破損していた。


2007年10月より2044編成が「花のラッピング電車」として、シャクナゲ、サルスベリなど沿線の花を沿線の小学校に通う小学生200人がデザインした「花の絵」を部分ラッピングして出場し、運転を継続してきたが、2011年3月を以ってこのラッピングは解除された。その後、同編成は2015年11月1日より1年間の予定で、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公である真田幸村蟄居の地である九度山活性化を目的として、赤を基調とした外装の「真田赤備え列車」として運行している。
なお南海本線に転属していた2042編成は2012年9月24日付で南海線住ノ江検車区から高野線小原田検車区へ転属し、古巣の高野線へ「里帰り」した。


その5 - 7次車の内訳は次の通り。
5次車(1995年5月竣工):2035 - 2039の各編成・2041編成(計14両)
6次車(1996年8月竣工):2040編成・2042 - 2044の各編成(計14両)
7次車(1997年7 - 8月竣工):2021 - 2024の各編成・2045・2046の各編成(計16両)

基本情報
製造所 東急車輛製造
主要諸元
編成 4両編成(9本)
2両編成(14本)
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1500V架線給電
最高運転速度 南海線:110km/h
高野線平坦・準山岳区間:100 km/h
設計最高速度 120 km/h
起動加速度 3.1 km/h/s


編成重量 2両編成:71.5t
4両編成:140.0t
全長 17,725 mm
全幅 2,744 mm
全高 4,130 mm
車体材質 ステンレス
台車 緩衝ゴム式ダイレクトマウント空気ばね台車
FS-541
主電動機 かご形三相誘導電動機
TDK6310-A
駆動方式 TD平行カルダン駆動方式
編成出力 2両編成:100kW×8=800kW
4両編成:100kW×16=1,600kW 
制御装置 GTO素子VVVFインバータ制御(1C8M)
制動装置 電磁直通空気ブレーキ(回生ブレーキ併用、応荷重装置付)

女学院前停留場 広島電鉄白島線

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女学院前停留場(じょがくいんまえていりゅうじょう、女学院前電停)は、広島県広島市中区鉄砲町および上幟町にある広島電鉄白島線の路面電車停留場。

白島線の開業は広島電鉄の前身である広島電気軌道が電車の営業を始めた1912年(大正元年)にさかのぼるが、女学院前停留場が開設されたのは第2次世界大戦後の1952年(昭和27年)のことである。1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下以来休止していた白島線が、戦後新たに建設された幹線道路(白島通り)上に敷設された新線で運転を再開したのに合わせて開設された。停留場名は広島女学院中学校・高等学校が近くにあることに由来する。
1952年(昭和27年)6月10日 - 戦後の白島線運転再開と同時に開設。

構造
白島線の軌道は道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが設けられている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配置されている。ただし互いのホームは交差点を挟んで斜向かいに位置していて、交差点の北に白島方面へ向かう下りホーム、南に八丁堀方面へ向かう上りホームがある。
1988年(昭和63年)4月には上屋が取り付けられた。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている路線のうち、9号線のみが乗り入れる。
上りホーム 9号線 八丁堀ゆき・江波ゆき
下りホーム 9号線 白島ゆき

周辺
広島女学院中学校・高等学校は東にすぐの所にある[4]。周辺はビジネス街であり[4]、広島合同庁舎の最寄停留場でもある。
進物の大進 広島本店
城南通り

隣の停留場
広島電鉄
白島線
八丁堀停留場 (W1) - 女学院前停留場 (W2) - 縮景園前停留場 (W3)
1967年(昭和42年)までは隣の八丁堀停留場との間に鉄砲町停留場(てっぽうちょうていりゅうじょう)が存在した。

駅番号 W2
所属事業者 広島電鉄
所属路線 白島線
キロ程 0.5km(八丁堀起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1952年(昭和27年)6月10日

プラット・アンド・ホイットニー JT9D(民生用ジェットエンジン)

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プラット・アンド・ホイットニー JT9D

JT9D は、アメリカにある3大航空機エンジンメーカーのひとつ、プラット・アンド・ホイットニーが製造した民生用ジェットエンジン(ターボファンエンジン)のシリーズである。

高バイパス比ターボファンエンジンのさきがけともいえる存在でもあり、1960年代後半に開発された。
いくつか派生形式があるが、ボーイング767型機、エアバスA300-600R型機、同A310型機に搭載された-7R4D型がPW4000シリーズに似た外観であるほかはみな似た外観を持っており、7R4D型とそれ以外の派生形式を見分けるのは容易だが、7R4D型以外の各形式を見分けるのは容易ではない。なお、7R4D型はETOPS180分の認定を受けている。

1961年、アメリカ空軍はC-133 カーゴマスターの後継となる大型輸送機を求め、幾つかの航空機メーカーへの開発を依頼し研究が始まる。 この内容を受け、エンジンメーカーも対応可能なエンジンの開発研究を開始する。この対応策としてエンジンメーカが考えたのが、高バイパス比ターボファンエンジンで、ターボジェットエンジンの前に直径の大きなファンを取り付け、適切なカウルを使用することでエンジン推力と低騒音の達成を目論んだ。ここで、エンジン中心部を通過するコア排気と、外側を通過するバイパス排気の割合をバイパス比という。
高バイパス比ファンエンジンの総推力は、空気流量とジェット排気速度の積となるので、ファンを大きくしてバイパス比を高くして大量の空気流量を確保して、総推力が増大させる。さらに バイパス比を高くするほどコア排気とバイパス排気が混ざって、ジェット排気速度が音速以下で運航される機体速度に近づき、ジェット排気によって効率的に機体を推進できると同時にファンからの低温気流は、コアから噴出する高温高速の排気を包み込み騒音を抑える。
1963年、ゼネラル・エレクトリック社(GE社)は、高バイパス比ファンエンジンのテストに入り、推力が2倍で燃料消費率が30パーセント低くなる目途を立てる。以降、大型機のエンジンはこの高バイパス比ファンエンジンを採用する方向となった。


1963年後半には「CX-X計画」として、エンジン4発搭載型、総重量249t(55万ポンド)積載量81.6t(18万ポンド)およびマッハ0.75(805km/h)で飛行可能であり、胴体前後に貨物ドアを備えた機体が構想される。「CX-X計画」は、その後「CX-HLS計画」に名称が変更され、その仕様をもって、航空機メーカー各社に提案が求められ、ロッキード社、ボーイング社、ダグラス社、マーティン社、ジェネラル・ダイナミクス社がこの提案に応えた。
それら設計案の中から、ロッキード社、ボーイング社、ダグラス社案が次の選考に進む。一方この大型機のエンジンに関しては、4発搭載ということで、最大推力が18トンにもなる強力な推力を発揮する高バイパス比ターボファンエンジンの開発が必要となり、プラット・アンド・ホイットニー(P&W)社とゼネラル・エレクトリック(GE)社というアメリカを代表するメーカーが名乗りを上げる。なお当時のエンジンは、ボーイング707型機やDC-8型機に採用されていたファンエンジンのJT3Dの代表的モデルのJT3D-5Aが直径1.3m、バイパス比1.4、最大推力9.5トンであった。それに対して、高バイパス比ファンエンジンのP&W社製のJT9D-1は直径2.36mのファンを備え、バイパス比は5、最大推力は18.6トンになった。
この高バイパス比ターボファンエンジンのJT9D-1のエンジンの構成は、ファンセクション/低圧圧縮機/高圧圧縮機/燃焼室/高圧タービン/低圧タービンからなる構成で2軸式のエンジンになっている。


この大型輸送機の提案に関しては、ロッキード社に開発が委ねられることに決定した。敗れたボーイング社の設計案は、この大型機開発の技術・スタッフを民間機向けに転用し、民間向けのボーイング747(B747)へと発展させる。 しかしながらB747は開発が進むにつれて予定重量が増加し、1965年12月には重量249トンの予定が、18ヵ月後には80トンもオーバーしていた。そのためJT9Dエンジンに対して、開発期限が限られた上に、予定よりも大きな推力が求められた。そこでP&Wは、JT9Dエンジンの基本設計を変えずに当初よりも大推力を得るために、コア側の改良を加え順次推力向上を行い機体側の要求に対処する方針をとった。この派生型の開発では、B747以外の機体にも装着されるようになった後年は、コア側のみではなく外形変更を伴う改良(ファン直径の拡大)も行われるようになった。
高バイパス比ターボファンエンジンでは、ファンの口径が巨大になるのでファンブレードには,鳥などの衝突に耐えられるだけの強度と軽量化が必要になる。そこでP&Wは、ファンブレードの素材にチタン合金を用いて、軽量化と強度の両立を図った。
高バイパス化実現のためには、エンジン・コア部分からのコア排気によって推力を発生させると同時に、タービンを回転させて巨大なファンや圧縮機の駆動動力を確保する必要がある。そこでP&Wは、コア排気の推力増大に力を注いだ。
コア部分の推力を増すためには燃料流量を増やせばよいが、そのためには高温ガスを浴びて高速回転するタービンブレードに、さらなる高温高強度が必要になる。そこで 高温高強度のタービンブレードを求めて、新たな素材と製造方法が導入された。


素材の面では耐熱合金が開発された。1960~70年代にはファンや圧縮機などの低温部にはチタン合金が、高温部には耐熱合金であるニッケル合金が使用されるようになった。
製造方法の面では、耐熱性を高めるために、精密鋳造による空冷タービンが開発された。従来の精密鍛造で加工されたニッケル合金は、加工が困難であることから、精密鋳造を利用してタービンブレードを中空成形し、相対的に低温の圧縮空気をブレード内部に流すことで冷却が可能になったのである。
また,精密鋳造により耐熱合金の結晶構造を操作することで、耐熱性が改善された。高温での金属破壊のほとんどは、金属の原子配列の向きが乱れた領域である結晶粒界に沿って発生する。そこで、破壊の原因を取り除いた一方向凝固ブレードや単結晶ブレードが開発された。
一方向凝固ブレードは、遠心力のかかる外方向への結晶粒界を少なくすることで高温強度が高められた。その製法は、セラミック製の鋳型に溶湯を注ぎ、徐々に炉から引きだすことにより結晶を一方向の柱状に凝固成長させるというものである。
単結晶ブレードは、一方向凝固ブレードでは外方向に結晶が何層にも成長するのに対して、一方向凝固ブレードの製造装置に豚の尻尾のようなセレクタを取り付けることで、一つの結晶を選択して、ブレード全体を一様の結晶質に製造したものである。


JT9Dのシリーズ展開としては、JT9D-1からさらに推力を高めたのがJT9D-3(推力19.8トン)で、このエンジンでB747-100は、当初の予定より航続距離を低下させて就航を開始する。しかしながら、まだ推力が不足していたので水噴射装置付のJT9D-3W(推力20.4トン)に換装した。ジェットエンジンの水噴射は、レシプロエンジンの水メタノール噴射と同様に噴射した水又は水メタノール混合液を気化させ吸入空気温度を下げる事で空気密度を増してタービン入口温度を下げ、その分だけ燃料を更に多く燃焼させる事で推力を増加させる。しかしながらB747にとっては、水メタノール噴射を採用したJT9Dであっても推力が低く、当初の航続性能を発揮することができなった。 そこで、1968年10月には最大離陸重量を352トンとして燃料搭載量を増加させた長距離型B747-200の開発着手を発表、エンジンをJT9D-7(推力20.7トン)に換装して、最大離陸重量334.7tを達成した。さらにP&Wは、JT9D-7をベースに推力向上と燃費改善を図っていった。

搭載機種
ボーイング747クラシックやマクドネルダグラスDC-10など割合古い形式に搭載されていることが多いが、ボーイング767などいわゆる第4世代のジェット機にも一部搭載されている。写真はJT9D-3A型
ボーイング747-100
初めて ボーイング747-100に搭載されたエンジン。
推力が低く、オプションで水メタノール噴射を使用したJT9D-3Wを用意した。
JT9D-7A型
ボーイング747-100
ボーイング747SR-100
ボーイング747SP

(JT9D-3A)
圧縮機段数:15段
ファン段数:1
タービン段数:高圧2、低圧4 2軸
バイパス比:6対1
重量:4 t
静止推力(ポンド):45800
基本エンジン重量 (ポンド):8608
全長 (インチ):128.2
ファン直径 (インチ):92.3

(JT9D-7A)
軸流式ターボファンエンジン
直径:2,247 mm
全長:3,255 mm
重量:4 t
最大出力:21 t
圧縮比:22.3
バイパス比:5.15
ファン段数:1
圧縮機段数:低圧3、高圧11
タービン段数:高圧2、低圧4

 

 


ランサーエボリューションIV(痛車:Re:ゼロから始める異世界生活)

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ランサー (LANCER) は、三菱自動車工業が生産している自動車の名称である。なお、日本国内においてはスポーツセダンのランサーエボリューション、および商用モデルのランサーカーゴを除くオリジナルのランサーは(ランサーの名称としては)2009年8月まで生産されていた(2010年5月をもって販売終了)。

派生モデルとしてハッチバッククーペのランサーセレステ(1975年 - 1981年)や世界ラリー選手権のベース車として開発されたランサーエボリューション(1992年 - )等が存在する。

車名の由来
ランサー…英語でランス(騎槍)を持った騎士、つまり「槍騎兵」という意味。
EX…英語のEXCEED(卓越する)の略語。
フィオーレ…イタリア語で「花」という意味。
セディア (CEDIA) …Century(世紀)とDiamondの合成語。
エボリューション…英語で「進化」という意味。


ランサーエボリューションIV 第2世代(CN9A/CP9A)
型式名“E-CN9A”。通称“エボIV”。
ベースモデルのランサーが前年にフルモデルチェンジしたため、ボディを新型に刷新した。同時に、第一世代に対しエンジン搭載方向を左右反転させ、トランスミッション内部に設けられていたインターミディエイトギヤ(カウンターシャフトと同じ役割)を廃止したため、駆動ロスを軽減し、全く違うともいえる車に進化した。本モデル最大の特徴はGSRに搭載された、左右の後輪への駆動力を変化させ、旋回性を向上させるアクティブ・ヨー・コントロール(AYC)である。AYCの採用により、エボIIIに比べて大幅に旋回性能を向上させた。
しかし、エボIVに搭載されたAYCは比較的完成度が低く、異音が発生するトラブルが多発した。対策として、AYCの作動油の交換や、AYCの調整を行うことで一時的に異音をなくすことができたが、根本的な解決にはならなかった。そのため、HKS関西サービスが発売したコンパクトLSDに交換することが多く見られた。サーキットやジムカーナ等の競技用途では、フロントにヘリカルLSD、リアに1.5WAY機械式LSDが装着された、競技用グレードのRSが用いられた。フロントデフはGSRではオープンデフが採用されている。
エンジンは鍛造ピストン、ツインスクロールターボの採用、PCCSおよびタービンのノズル面積アップ、ブースト圧のアップにより出力を当時の自主規制値いっぱいの280PSまで向上させた。しかし、本モデルで採用された鍛造ピストンは過給圧の上昇に弱く、エボVでは再び鋳造ピストンが採用された。対策のため、エボV以降のピストンに交換する、などの方法がある。エアロパーツは、エボIIIでリアウイングを大型化した結果、前後の揚力バランスが取れなくなったため、バランスを見直して設計されている。これによりフロントゼロリフト、空気抵抗係数(Cd値)0.30を実現した。
歴代のエボ同様に限定生産というかたちを取ったが、センセーショナルな形が人気を呼び歴代モデルの中では最も生産台数が多い[3]。ただしフルモデルチェンジ後の最初のモデルということでトラブルが多いことが欠点だが、歴代モデルの中でも派手ながらもまとまったデザインであることや、5ナンバーで開発された最終モデルであることなどを好むオーナーも多い。
用意されたボデーカラーは、スコーティアホワイト、スティールシルバー、パルマーレッド、ピレネーブラック、アイセルブルー。
WRC Gr.Aに1997年第1戦ラリー・モンテカルロから1998年第4戦ラリー・ド・ポルトガルまでの18戦に参戦し、1997年第4戦ラリー・ド・ポルトガル、第5戦ラリー・カタルーニャ、第7戦ラリー・アルゼンチン、第10戦ラリー・フィンランド、1998年第2戦スウェーディッシュ・ラリー、第3戦サファリ・ラリーで優勝、1997年シーズンのドライバーズチャンピオンをトミ・マキネンが獲得した。

製造国 日本の旗 日本
販売期間 1996年8月
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドア セダン
エンジン 4G63型:2.0L 直4ターボ
駆動方式 4WD
最高出力 280PS/6,500rpm
最大トルク 36.0kg-m/3,000rpm
変速機 5速MT
サスペンション 前:マクファーソンストラット式
後:マルチリンク式
全長 4,330mm
全幅 1,690mm
全高 1,415mm
ホイールベース 2,510mm
車両重量 GSR:1,350kg
RS:1,260kg

『Re:ゼロから始める異世界生活』(リ・ゼロからはじめるいせかいせいかつ、英: Re:Zero -Starting Life in Another World-)は、長月達平による日本のライトノベル。イラストは大塚真一郎(短編集3のみ楓月誠)が担当している。アニメ化するとたちまち若者の間で大人気となり、グッズなどの売り上げ急上昇した。公式略称は「リゼロ」

小説投稿サイト『小説家になろう』にて2012年4月より連載が始まり、MF文庫J(KADOKAWA)より2014年1月から刊行されている。また、『月刊コミックアライブ』において2014年6月号より書き下ろし短編小説『Re:ゼロから始める異世界生活 外伝』が掲載されている。

2017年12月現在、今までに公開された作品はすべて閲覧が可能で、作者により削除の予定はないとされている。

2016年4月から9月までテレビアニメが放送された。

突然異世界へ召喚され、自分の死亡と共に時間を巻き戻す能力を得た少年の、運命に抗う奮闘を描くストーリー。

2017年12月現在、シリーズ累計部数は430万部。

『このライトノベルがすごい!』2017年版では文庫部門第2位。『SUGOI JAPAN Award 2017』ではアニメ部門・ラノベ部門の2部門で1位を獲得した(同賞で複数部門を同時に制した作品は史上初)。
台湾の歌手や俳優を務める柯受良が、1997年6月1日に中国山西省臨汾市にて、黄河の壺口瀑布(幅55m)をエボIVRSで飛び越える。

八日市駅(近江鉄道)本線(湖東近江路線・水口・蒲生野線)・八日市線(万葉あかね線)

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八日市駅(ようかいちえき)は、滋賀県東近江市八日市浜野町にある近江鉄道の駅。本線(湖東近江路線・水口・蒲生野線)と八日市線(万葉あかね線)の乗換駅で利用客も多く、窓口も終日営業する主要駅の一つです。

終日有人駅。
第1回近畿の駅百選に選定されている。

乗り場は駅舎に隣接した単式ホーム1面と島式2面の3線構造で、単式ホーム側から1・2・3番のりばとなっている。また、単式ホームと島式ホームの間に中線が、島式ホームの外側と米原方に側線がある。
ホームと駅舎は跨線橋で結ばれており、エレベーターも設けられている。駅舎は近江鉄道の中で最も大きく、近代的な作りで大きな三角屋根の吹き抜けが特徴の駅舎です。駅には旅行センターなどテナントも入居しています。


改札口。複数のラッチとLED電光式の列車発着表示器が改札口頭上に設置されている。

切符売場は有人窓口の他、タッチパネル式の券売機が設置されています。細長い待合室には。壁沿いに長椅子と自動販売機が設置されています。

隣の新八日市駅との駅間距離は500mと短いため、当駅と新八日市駅の場内信号は駅南側の踏切を挟んで向かい合うように立っている。
当駅構内配線の都合上、当駅始発・終着の列車は踏切を支障する。そのため北側の踏切には「入替中」表示が、南側の踏切には「この踏切は本数が多いため」といった旨の看板が立っている。

のりば
1 ■本線(水口・蒲生野線)(下り) 日野・貴生川方面
2 ■本線(湖東近江路線)(上り) 彦根・米原方面
3 ■八日市線(万葉あかね線) 平田・近江八幡方面

駅周辺
東近江警察署八日市駅前交番
ホテルルートイン東近江八日市駅前
駅前グリーンロード
ショッピングプラザアピア(アル・プラザ八日市)
京都銀行八日市支店
滋賀県立八日市高等学校
滋賀県民信用組合八日市支店
大津地方法務局彦根支局東近江出張所
東近江簡易裁判所
滋賀労働局東近江労働基準監督署
東近江市役所
東近江警察署
グリーン近江農業協同組合本店
本町商店街(アーケード商店街)
滋賀銀行八日市支店 - 本町商店街を南へ抜けた所に所在
延命公園
御代参街道
延命新地(かつて延命公園周辺にあった花街)


1898年(明治31年)7月24日 - 開業。
1946年(昭和21年)1月1日 - 八日市線 当駅~新八日市間が開業し、同線との乗換駅となる。

所属事業者 近江鉄道
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 2,023人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 1898年(明治31年)7月24日
乗入路線 2 路線
所属路線 本線(■湖東近江路線・■水口・蒲生野線)
キロ程 25.3km(米原駅起点)
◄河辺の森 (2.3km)(2.2km) 長谷野►
所属路線 ■八日市線(万葉あかね線)
キロ程 0.0km(当駅起点)
(0.6km) 新八日市►
備考 * 以前のローマ字表記は「YOUKAICHI」だったが、後に現在の表記に変更された。

横川一丁目停留場(広島電鉄横川線)

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横川一丁目停留場(よこがわいっちょうめていりゅうじょう、横川一丁目電停)は、広島市西区横川町一丁目にある広島電鉄横川線の路面電車停留場。

沿線には雑居ビルが建ち並んでいますが、これといった集客施設もなく、終点の横川からもほど近い立地です。

横川線の軌道は道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが設けられている。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように向かい合って配置された相対式ホームという形態をとる。線路の東に十日市町方面へ向かう上りホーム、西に横川駅へ向かう下りホームがある。ホームには横断歩道からスロープで連絡します。

ホームには折りたたみ式の椅子が設置されています。
2003年(平成15年)には停留場の設備が改修された。

運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、7号線と8号線が乗り入れている。

下りホーム 8号線8号線 横川駅ゆき
ホーム幅は広く、バリアフリー対応となっています。
上りホーム 7号線 広電前ゆき
8号線 江波ゆき
連接車対応の長いホームの全面に上屋が設置されています。

周辺
JR横川駅
広島市立西区図書館・西区民文化センター
広島市立中広中学校
横川駅前バス停- 広電バス吉田線・あさひが丘線・広島交通旧道・新道経由路線・広島バス22号線・JRバス広浜線が停車する。


当停留場は1917年(大正6年)、横川線の開通と同時に光隆寺前停留場(こうりゅうじまえていりゅうじょう)として開設された。名前の通り、当時は停留場のすぐ西に光隆寺という寺院が存在していた。横川線は当初、道路から軌道敷が独立した専用軌道にて開通したが、都市計画道路の建設によりこれを併用軌道とすることになった。このとき光隆寺は境内が道路の建設用地となるために立ち退きを行い、三篠町へと移っている。道路が建設され、併用軌道となった1938年(昭和13年)ころには停留場名も横川一丁目へと改められた。

横川線をはじめとする広島電鉄の市内電車は1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下により全線が不通となる。また直後の9月には枕崎台風が襲来し、南隣の別院前停留場との間に架けられていた軌道橋(現在の横川新橋)が流失する。軌道橋が復旧し、当停留場を含む別院前 - 横川間が運転を再開したのは1948年(昭和23年)のことであった。

1917年(大正6年)11月1日 - 横川線が開通、同時に光隆寺前停留場として開業。
1938年(昭和13年)頃 - 横川一丁目停留場に改称。
1945年(昭和20年)8月6日 - 原爆投下により横川線が全線不通となる。
1948年(昭和23年)12月18日 - 横川線の別院前 - 横川間が運転再開、横川線が全線で復旧。


駅番号 ●Y4
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■横川線
キロ程 1.2km(十日市町起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1917年(大正6年)11月1日

近江鉄道100形電車

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近江鉄道100形電車は、近江鉄道の通勤形電車である。水色を基調とした車体色から「湖風号(うみかぜごう)」の愛称を有する。

2009年(平成21年)以降に西武鉄道より譲り受けた新101系電車車両を自社彦根工場にて改造、モハ100形-モハ1100形として導入した。また100形という形式はもと岳南鉄道1100形電車であるモハ100形に続く二代目となる。
導入に際して、900形同様、ワンマン運転対応改造のほか、行先表示器の発光ダイオード (LED) 化、扉の開閉時に鳴動するドアチャイムの新設バリアフリー対応改造などが施工された。

900形とは違う点として、側面にローマ字入りLED行先表示器を新設しているほか、車内の運賃表示器が当時一部の近江鉄道バスで既に導入されていた液晶ディスプレイになった点が挙げられる。つり革の黄色塗装化および優先席のクロスシート化は施行されていない。


車体塗装は琵琶湖をイメージした水色(オリエントブルー)に白帯を巻いたカラーリングとなっている。また近江鉄道は車体色と合わせて,滋賀県東部を走る鉄道会社として県内全域に親しみを持ってもらうことを目指しているという。
主要機器は西武時代と大きな変化はない。特に900形が空気制動を従来のHSC電磁直通ブレーキから近江電鉄の他車に合わせたHRD-1電気指令ブレーキへ改造したのに対し、100形はHSC電磁直通ブレーキのままである。


101編成は2013年(平成25年)12月27日に近江八幡駅にて出発式が執り行われ、近江八幡 - 八日市間にて運行された臨時快速列車への充当をもって運用を開始した。

臨時列車運転終了後は彦根駅に隣接する「近江鉄道ミュージアム」において12月21日・22日の2日間一般公開され運転士の習熟運転で試運転を重ねた後、12月27日より通常の営業列車として、全線で運用を開始した。2014年(平成26年)3月8日には近江鉄道多賀線開業100周年記念の臨時列車で運用されている。また、102編成以降は出発式は行われずに運用を開始している。


製造所 東急車輛製造
主要諸元
編成 2両編成
軌間 1,067 mm(狭軌)
電気方式 直流1,500 V(架空電車線方式)
編成定員 114名
車両重量 40 t
全長 20,000 mm
全幅 2,881 mm
全高 4,246 mm
車体材質 普通鋼(全金属製)
台車 FS372
主電動機 直流直巻電動機
主電動機出力 150 kW(一時間定格)
搭載数 4基 / 両
駆動方式 中空軸平行カルダンたわみ板継手方式
制御装置 抵抗制御、直並列組合せ制御、弱め界磁制御
電動カム軸式間接自動制御
制動装置 HSC-D電磁直通ブレーキ
保安装置 自動列車停止装置 (ATS)
備考 各数値は近江鉄道公表のデータによる

 

高宮駅(本線・ 多賀線)

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高宮駅(たかみやえき)は、滋賀県彦根市高宮町にある近江鉄道の駅。
地元では「た」を高く発音して「たかみや」と呼ばれており、車内放送もこれに合わせている。

近江鉄道
本線
多賀線(当駅起点)
両線のダイヤは一体的に運用されており、本線の米原方面と、多賀線の多賀大社前方面間を相互に直通する便もある。
これにより、本線を含む当駅止まりの電車に乗車しても、他方面への別の電車との接続がほぼ考慮されているため、短時間で乗り換えられることが多い。運転士による肉声放送で、乗り換えの案内も行われる。

駅構造
駅は業時からの歴史広い構内をもつ。
単式・島式複合型2面3線のホームを有する和風コンクリート造駅舎、地上駅。日中のみ有人駅となる(平日7:10~18:15、土日祝7:20~17:45)。

中央の吹き抜けにより開放感を感じられる駅舎は西側の1番線側にあり、扇形の2・3番線島式ホームへは構内踏切で連絡している。また、1・2番線の間には中線もある。


3番線は急カーブ上にあり、以前は20m級の車両である800系や700系は入線できなかったが、2000年にホームの急カーブの緩和工事を行い入線できるようになっている。また2013年登場した900形、100形は連結面の裾角の切り欠きが実施されておらず、3番線に入線するとホームと接触するためホームが再び削られた。

これによりホームと車両の隙間が広くなり、注意喚起のためホームの先端部分には赤色のテープが貼られホーム上の柱には注意を促す紙が貼られるようになった。
このほか、3番線の外側には使用されていないホームの跡と多くの留置線があり、使われていない車輌が置かれている。


1,2番線では、本線の列車が上下線とも両方向へ入線、発車できる。3番線は、多賀線経由の電車が上下両方向に入線発車可能である。多賀線経由の列車は必ず3番線を通ることになる。


開業以来、長年にわたって使用されていた駅舎は解体され、2002年3月末にコミュニティセンターを併設した瓦葺きの数寄屋造りに建て替えられた。

待合室は造り付けの長椅子が設置されて明るい。

ただし、年季のある旧ホームの上屋や待合室、「のりかへ」と書かれた案内看板はかつてのまま残されている。

切符売場の窓口は終日営業しています。

のりば
1 ■本線(彦根・多賀大社線)(上り) 彦根・米原方面
2 ■本線(湖東近江路線)(下り) 八日市・貴生川・近江八幡方面


3 ■本線(彦根・多賀大社線)(上り) 彦根・米原方面
■多賀線(彦根・多賀大社線) 多賀大社前方面


1898年(明治31年)6月11日 彦根駅 - 愛知川駅間の開業と同時に営業開始。
1914年(大正3年)3月8日 当駅 - 多賀駅(現・多賀大社前駅)間が開業。
2002年(平成14年)3月29日 新駅舎(高宮駅コミュニティセンターを併設)が開業。

駅周辺
駅西側の中山道沿いを中心に住宅地があるが、東側はのどかな田園地帯が広がる。
彦根市役所高宮出張所
彦根市立高宮小学校
彦根市立高宮幼稚園
国道8号
中山道高宮宿

 

所属事業者 近江鉄道
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 134人/日(降車客含まず)
-2012年-
開業年月日 1898年(明治31年)6月11日
乗入路線 2 路線
所属路線 本線(■彦根・多賀大社線・■湖東近江路線)
キロ程 9.9km(米原駅起点)
◄彦根口 (2.1km)(2.8km) 尼子►
所属路線 ■多賀線(彦根・多賀大社線)
キロ程 0.0km(当駅起点)

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