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R-2800 飛行機用ピストンエンジン

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R-2800 飛行機用ピストンエンジン
このタイプは、アメリカのプラット&ホイットニー社が1940(昭和15)年頃から製作した星型エンジンで、ピストンエンジンの最高傑作といわれています。このエンジンは、航空自衛隊で使われていたカーチスC-46D輸送機に2基搭載されていたものです。∥PRATT&WHITNEY R-2800-75 PISTON ENGINE(航空自衛隊 所蔵)

R-2800(通称:ダブルワスプエンジン)は、アメリカのプラット・アンド・ホイットニーによって開発・製造された空冷星型複列18気筒の航空用エンジン。第二次世界大戦期において、F4Uコルセア、P-47サンダーボルト、グラマンF6Fヘルキャットなどのアメリカの主力戦闘機やダグラスA-26インベーダーなどの爆撃機に採用され大いに活躍した。

特筆すべき事項として、大出力発揮に比例して生じるクランク・シャフトの二次元的振動を、前後両端に2倍の速さで逆回転するダイナミックバランサー(慣性平衡装置)を取り付けて解決させたことが挙げられる。一方、大戦時の日本側技術陣は墜落したアメリカ機からその存在を確認できたにも関わらず、その重要性を理解できずに国産発動機にこの機構を採用せず、結果として終戦まで高出力発動機の振動問題に悩まされていた。

R-2800-8
タイプ:空冷星型18気筒
ボア×ストローク:146 mm×152.4 mm
排気量:45.9 L
全長:2,241 mm
直径:1,321 mm
乾燥重量:1,000 kg
過給機:遠心式スーパーチャージャー2段2速
燃料供給方式:キャブレター
離昇馬力:2,000 hp/2,700 rpm
高度馬力 
1,675 hp/2,550 rpm(高度1,676 m)
1,550 hp/2,550 rpm(高度6,705 m)

採用機
製造元        機体名
Curtiss Wright   C-46 (R5C)、P-60A/E、XC-113、XF15C、SB2C-6
Douglas      A-26、JD-1、XC-112A、DC-6 (C-118, R6D)
Fairchild           C-82、C-123B
Goodyear         FG-1/3/4
Grumman    F6F、F7F、F8F、AF-2W/S
Lockheed         RB-24 (PV-1)、PV-2、C-69E
Martin       B-26 (JM-1/2)、AT-23、PBM-5、Model 202,A、4-0-4 (RM-1)
North American   XB-28、AJ-1/2
Northrop          XP-56、P-61 (F2T)、F-15F (RF-61)
Republic            P-47
Vought       AU-1、F4U、XTBU-1

 

 


多賀大社前駅(近江鉄道多賀線)

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多賀大社前駅(たがたいしゃまええき)は、滋賀県犬上郡多賀町にある近江鉄道多賀線の駅。
同線の終着駅で、その名の通り多賀大社の最寄り駅である。


駅構造
櫛形3面2線の頭端式ホームを持つ地上駅。無人駅であるが、窓口や改札口が設けられている。


窓口は朝の短時間のみの営業です。


駅舎は線路に向かって南の1番線側にあり、2番線へは駅東端部の通路で連絡している。2つの乗り場ともに、両側をホームに挟まれる構造である。


また、近江鉄道で多いコミュニティハウス併設型で、ホームとの間には段差がない。
大きい窓がある待合室は明るく、ギャラリーが併設されています。


かつては、この駅から高宮寄り600メートルのところに土田駅があった(1953年10月廃止)。

毎年4月の例祭や初詣には臨時列車も運行される。


駅周辺
駅の北西や南東側を中心にまとまった住宅地があるが、主に田園地帯が広がる。
また、駅前には湖国バス・愛のりタクシーたがの「多賀大社前駅停留所」がある。
多賀大社
駅正面に大鳥居があり、それをくぐって徒歩約10分ほどの距離にある。
胡宮神社
赤坂公園、高宮池
多賀町役場
町立多賀小学校
びわ湖東部中核工業団地
多賀郵便局
滋賀銀行 多賀支店
サークルK 多賀大社駅前店
コメリ 多賀店
キリンビール 滋賀工場
住友セメント(大阪セメント) 多賀工場
かつては、この2つの工場に向かって専用線が敷設されていた。
国道306号、国道307号
名神高速道路 多賀サービスエリア
多賀SLパーク(多賀ハイウェイパーク)跡
蒸気機関車(D51 1149、ただしナンバープレートには「D51 999」と表記)は現存しているが、施設が廃業してからは長年にわたって放置されており、荒廃している。

1914年(大正3年)3月8日 - 多賀駅として開業。
1974年(昭和49年)6月1日 - キリンビール工場専用線開通。


1983年(昭和58年)10月 - キリンビール工場専用線廃止。
1998年(平成10年)4月1日 - 多賀大社前駅に改称。
2002年(平成14年)12月19日 - コミュニティハウス併設駅舎に改築。


所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■多賀線(彦根・多賀大社線)
キロ程 2.5km(高宮駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 頭端式 3面2線
開業年月日 1914年(大正4年)3月8日

 

近江鉄道800系電車

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近江鉄道800系電車(おうみてつどう800けいでんしゃ)は、近江鉄道の通勤型電車である。

本系列は西武401系を1990年(平成2年)から1997年(平成9年)にかけて譲り受け、自社彦根工場にて改造の上で登場したもので、近江八幡・貴生川寄りからモハ800形(820形)-モハ1800形(1820形)の順に編成されている。。
ワンマン運転対応工事施工(車外バックミラー・料金表・運賃箱設置等)
空気制動の電気指令ブレーキ化
連結面寄り裾角の切り欠き
電気連結器の撤去
モハ800形の連結面寄りのパンタグラフ撤去
主要機器に関しては制動装置の改造以外はほぼ西武在籍当時のまま使用されている。車体塗装は西武時代と変わらず黄色一色とされており、本系列全編成の標準塗装となっている。また現在、従来ステンレス地むき出しで無塗装とされていた客用扉の黄色塗装化およびシートモケットの更新、つり革の交換が順次施工されている。
15編成計30両を数えた元401系譲受車のうち大半が本系列に改造され、2015年(平成27年)3月現在13編成26両が在籍している。
2015年(平成27年)後半から扉の開閉時に鳴動するドアチャイムの新設が行われている。

800系
本系列のうち11編成22両を占める基幹形式である。正面形状が220形類似の額縁タイプの三面折妻形態に、前照灯および標識灯が角型タイプの一体ケース収納型に改造されているが、本形式では非貫通構造とされた点が異なる。また、種車401系の形態上の相違点の存在[注釈 8]や、改造が長期にわたっていることから、編成ごとに形態の差異が見られる。
以下、編成ごとに仕様の詳細を述べる。なお、竣工に際しては全編成とも近江鉄道従来車の改造扱いとされ、西武鉄道時代からの車籍は継承されていない。
801F
モハ801-モハ1801
1999年(平成11年)登場。種車は元403Fである。普通屋根・露出型雨樋縦管の初期型車体を持ち、本系列のトップナンバー編成として1993年(平成5年)に竣工していたが、落成当初は1801が電装解除されて1M1T編成であったことや、パンタグラフが2基搭載のままとされていたこと、車体塗装が220形と同じライオンズカラーであったこと等がその後に登場した編成と異なっていた。しかし、竣工後八日市線の車両限界に抵触することが判明し、改良工事が完了するまで約6年もの間使用されることなく彦根工場構内に放置されていたという経歴を持つ。1999年(平成11年)にようやく営業運転を開始したが、その際801のパンタグラフを1基撤去し、1801を再度電装して他編成と仕様を揃えている。
長らく本系列唯一のライオンズカラー編成として使用されていたが、2009年(平成21年)の定期検査の際に黄色一色塗装化され、同時に客用扉の黄色塗装化も実施されている。なお、本編成は2代目ギャラリートレインとして使用されていたが、塗装変更を機にその座を805Fに譲っている。ちなみに塗装変更前のライオンズカラーでギャラリートレインだった時はギャラリートレインのヘッドマークが取り外されることがなかったため近年、デビュー時には見られた貫通扉に描かれているヘッドマークの下の「レオ」が見られることはなかった(同様のものは220形で見られる)。 2012年(平成24年)には特定健康診査・がん検診の受診を啓発する広告編成となり滋賀県のキャラクター「キャッフィー」をメインに、ピンク色を基調としたデザインになっている。


802F
モハ802-モハ1802
1998年(平成10年)登場。種車は元425Fである。前述のように801Fが遅れて営業運転に就いたため、事実上のトップナンバー編成として竣工している。当初より車体塗装が黄色一色とされたことや、2M編成として竣工したこと、パンタグラフが1基搭載とされたこと以外は801Fに準じるが、張り上げ屋根の後期型車体を持つため外観から受ける印象は異なる。
なお、本編成は2002年(平成14年)からダイドードリンコ社の広告編成となっており、橙塗装をベースに同社の広告がラッピングされた姿で使用されている。 2002年のデビュー当初はもとの黄色の車体に橙のラッピングテープを貼りつけたラッピング車であったがその後もダイドードリンコ社が広告として継続していたため2003年(平成15年)よりデザインを変更するとともに直接、車体に橙の塗装をしその上缶コーヒーなどの写真をシールとして貼るという形態に変更された。 その後もラッピングは継続し2006年(平成18年)のにも再びデザインが変更された。 なおをラッピングを実施されている期間中にも他の車両などの運用の都合によっては橙一色のまま彦根車庫に留置されたり運用されたりもしている。 2010年(平成22年)には、上半分が薄い橙、下半分が白、全体に缶コーヒーのシールとこげ茶色の斑点模様という、従来とは全く違うデザインに一新した。。
803F
モハ803-モハ1803
1999年(平成11年)登場。種車は元415Fである。801Fと同一形態の初期型車体を持つが、こちらは当初から黄色一色塗装で竣工した。初代ギャラリートレインとして使用された後、2008年(平成20年)にシートモケットの交換および客用扉の黄色塗装化が施工されている。
804F
モハ804-モハ1804
1999年(平成11年)登場。種車は元423Fである。本編成は普通屋根・埋め込み型雨樋縦管の中期型車体を持つが、客用扉窓固定支持が金属押さえタイプである他、座席肘掛が網棚一体型である等、後期型との折衷設計となっていることが特徴である。
805F
モハ805-モハ1805
2000年(平成12年)登場。種車は元417Fである。804Fと同一形態の中期型車体を持つが、こちらは客用扉固定支持がHゴムタイプで、座席肘掛も丸型である等、標準的な仕様とされている点が異なる。本編成も座席モケットの交換が施工され、現在3代目ギャラリートレインとして使用されている。


806F
モハ806-モハ1806
2000年(平成12年)登場。種車は元421Fである。805Fと同一形態の中期型車体で、各種仕様も同一である。2006年(平成18年)の定期検査の際、車体再塗装と同時に客用扉の黄色塗装化が施工され、この形態が標準仕様として現在他編成にも波及しつつある。また本編成も座席モケットの交換を施工しているが、同時に乗務員室直後の座席が撤去され、車椅子スペースが新設されている。
2011年(平成23年)には、近江鉄道で映画「けいおん!」公開記念スタンプラリーが実施されたのに伴い、スタンプラリー告知の車体シールが掲出された。スタンプラリー告知の車体シールの掲出期間はスタンプラリー実施期間の12月3日から12月31日と同期間と近江鉄道ホームページでは告知したが終了が年末ということもあり、年が明けて2012年(平成24年)になってもしばらく掲出されたままだった。
2012年(平成24年)9月よりBIWAKOビエンナーレ2012の開催に伴ってBIWAKOビエンナーレの告知の車体シールが掲出され、当編成を使用した電車茶会も開催された。


807F
モハ807-モハ1807
2002年(平成14年)登場。種車は元413Fである。801F・803Fと同一形態の初期型車体を持つが、本編成より車内外の仕様に変化が生じている。
投入金額表示機能付の新型運賃箱設置
乗務員室直後の座席を撤去し、車椅子スペースを新設
連結面に転落防止外幌を新設
上記仕様は以降の本系列改造に際しても踏襲されることとなった。また、本編成より改造時に車体全体の再塗装が行われるようになっている。本編成はイベント用電気回路を装備しており、毎年夏季に運行されるビア電「一番絞り号」等イベント列車運行の際は本編成が使用される。なお、本編成も座席モケットの交換が施工されている。


808F
モハ808-モハ1808
2002年(平成14年)登場。種車は元433Fである。802Fと同一形態の後期型車体である他は807Fの仕様を踏襲している。
本編成は2006年(平成18年)よりエレベーター大手製造会社フジテックの広告編成となり、赤塗装をベースに同社の広告がラッピングされた姿で使用されていた。
2017年(平成29年)年2月11日より、「豊郷あかね」ラッピング車両として運転されている。


809F
モハ809-モハ1809
2003年(平成15年)登場。種車は元435Fである。802F・808Fと同一形態の後期型車体で、各種仕様も809Fに準じるが、運賃箱が廃車となったLE10形12からの発生品であったことが異なる。
本編成は2009年(平成21年)4月より近江キャラ電「いしだみつにゃん&しまさこにゃん号」として運行を開始し、802F同様のオレンジ塗装をベースにキャラクターのラッピングが施された他、車内座席モケットも水色地にキャラクターの画像がプリントされた専用のものと交換されている。また、同時に運賃箱が807F以降で採用された新型のものに交換された。


810F
モハ810-モハ1810
2005年(平成17年)4月登場。種車は元427Fである。本編成は802F・808F・809Fと同様後期型車体であるものの、客用扉窓固定支持がHゴムタイプである他、座席肘掛が丸型である等、初期・中期型との折衷設計となっていることが特徴である。なお、本編成は当初700系702Fとして竣工予定であったが、諸事情から急遽800系に設計変更された経歴を持つ。本編成も座席モケットの交換を施工されている。
本編成は2010年(平成22年)4月より日本コカ・コーラ社の広告編成となり、白と赤のツートンカラーに塗装変更された上でコカ・コーラのロゴなどのラッピングが施されている。
2015年(平成27年)09月よりピンク一色の塗装になっている。この時点ではラッピングされるのかは不明だった。
2015年(平成27年)10月より特定健康診査・がん検診の受診を啓発する滋賀県のキャラクター「しがのハグ&クミ」をメインにした広告編成となり、ピンク色を基調としたデザインになっている。


811F
モハ811-モハ1811
2009年(平成21年)4月登場。種車は元411Fで、801F・803F・807Fと同一形態の初期型車体を持つ。なお、本編成は当初から客用扉が黄色塗装とされ、座席モケットも青色モケットに交換された上で竣工している。
2012年(平成24年)に、11月2日公開の映画「のぼうの城」に合わせ沿線が舞台ということもあり、10月1日より『映画「のぼうの城」公開記念ラッピング電車&ロケ写真展号』が運転されており車内では、映画「のぼうの城」写真展を開催している。またラッピング電車の運行に合わせて10月14日から近江鉄道では映画「のぼうの城」公開記念乗車券も発売された。
本編成は2015年(平成27年)4月より伊藤園の広告編成となり、黄緑と濃緑に塗装変更された上でお〜いお茶のロゴなどのラッピングが施されている。

運用者 近江鉄道
製造所 西武所沢車両工場
種車 西武401系
改造所 近江鉄道彦根工場
改造年 1993年 -
改造数 22両
運用開始 1999年
主要諸元
編成 2両編成
軌間 1,067 mm
電気方式 直流 1,500 V
車両定員 136 名(座席56名)
自重 37.8 t
全長 20,000 mm
全幅 2,937 mm
全高 4,150 mm
主電動機 直巻電動機HS-836-Frb
主電動機出力 120 kW / 個
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比 15:84=1:5.60
編成出力 960 kW
制御方式 抵抗制御
制御装置 MMC-HT-20A
制動装置 HRD電気指令ブレーキ
備考 数値はモハ800形のもの。

ロールス・ロイスマリーン621 エンジン(航空機エンジン)

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マーリン(英語:Merlin )はイギリスのロールス・ロイスが開発、生産した航空機用レシプロエンジンである。液冷V型12気筒ガソリンエンジンで、バルブ駆動方式はOHCであり、バルブ数は吸気2、排気2の4バルブである。

改良を重ねられながら、主に第二次世界大戦中のイギリスの軍用機で使用された。特に活躍したスピットファイア、ランカスター、モスキートのエンジンとして搭載されたことからもわかるように、軍用の航空用レシプロエンジンとしては最も大きな成功を収めた代表的なエンジンである。

排気量を変更することなく、スーパーチャージャーの改良によって性能を向上させたことから、機体の変更を最小限に抑えることができたため、大戦全期間を通じて利用されることになった。イギリス本国での生産は、ダービー、クルー、グラスゴーのロールス・ロイス社工場で実施されたほか、同じく自動車メーカーである(高級車ロールス・ロイスとは対極のような大衆車メーカーであった)イギリス・フォードのマンチェスター・トラフォードパーク工場でも生産された。

イギリス以外にもアメリカのパッカードがマーリン66をマーリン266としてライセンス生産を行い、P-51 マスタングでアリソン V-1710に代わって使用された。P-51はエンジンをマーリンに変えたことで大成功をおさめた。

クロムウェル巡航戦車やチャレンジャー巡航戦車、コメット巡航戦車、センチュリオン戦車に搭載されたミーティア・エンジン(英語版)は、このマーリンエンジンを戦車用に改修したものである。

1930年代初頭、フレデリック・ヘンリー・ロイスは当時順調な売れ行きを見せていた航空エンジン「ケストレル」に過給機を組み込んだ885馬力のペレグリン (Rolls-Royce Peregrine) を開発した。このペレグリンを重ね、爆撃機のような大型機向けにヴァルチャーの開発が開始された。

一方、ケストレルを改良して作られたバザード (Rolls-Royce Buzzard) をさらに改良すれば、1,500馬力のエンジンを開発できる見込みがあった。しかし、それでは800馬力級と1,500馬力級の間に大きな隔たりができてしまい、中間クラスのラインナップを欠いてしまうため、ロールス・ロイスは政府の支援を受けることなく独自に1,100馬力のPV-12を開発しはじめた。

PV-12は1935年に新型の蒸発冷却器を採用して複葉機ホーカー ハートに搭載されたが、この冷却器に問題があることが判明した。アメリカからエチレングリコールを輸入できるようになった際、冷却器は従来の液冷式に戻された。

1936年、イギリス航空省は480 km/h以上を発揮できる新型戦闘機の要求を明らかにし、ホーカー・エアクラフトもスーパーマリンもこの要求に応えて設計した機体にPV-12を搭載した。1936年にホーカー ハリケーンとスーパーマリン スピットファイアの生産契約が結ばれると、ただちに最優先供給にPV-12が据えられ、コチョウゲンボウを意味する「マーリン」の名がつけられた。


装備航空機:チューダー (Tudor) 。チューダー はイギリスの航空機メーカーであるアブロ社がリンカーン爆撃機を原形にして開発・製造したレシプロ旅客機である。


諸元

タイプ: 12気筒 過給水冷式60° V型ピストン航空機エンジン
シリンダー直径: 5.4 in (137.2 mm)
ストローク: 6 in (152.4 mm)
体積: 1,648.96 in³ (27.04 L)
全長: 88.7 in (225.3 cm)
全幅: 30.8 in (78.1 cm)
全高: 40 in (101.6 cm)
重量: 1,645 lb (746.5 kg)[5]
機構

バルブ: オーバーヘッドカム、2吸気口、2排気口、ナトリウム-冷却排気弁ステム
スーパーチャージャー: 2速式2段スロットルに合わせて連動する過給器、2段目とエンジンの間に水-空気アフタークーラー搭載
燃料システム: ツイン・チョークアップドラフト気化器、自動混合気制御
燃料: 100 オクタン価 1944年半ばより 100/150 グレード航空燃料
潤滑システム: ドライサンプと加圧ポンプ1台と排出ポンプ2台
冷却システム: 70% 水と30%エチレングリコール、加圧
性能

出力:
100 オクタン燃料, +12 lb 加圧
1,315 hp (981 kW) 回転数 3,000 rpm 離陸時
1,705 hp (1,271 kW) 回転数 3,000 rpm 高度 5,750 ft (1,753 m) (MS gear)
1,580 hp (1,178 kW) 回転数 3,000 rpm 高度 16,000 ft (4,877 m) (FS gear)[6]
100/150 グレード航空燃料、+25 lb boost
2,000 hp (1,481 kW) 高度 5,250 ft (1,600 m) (MS gear) (bmep = 320.2psi)
1,860 hp (1,387 kW) 高度 11,000 ft (3,353 m) (FS gear)
比出力: 0.95 hp/in³ (43.3 kW/L)
出力重量比: 0.80 hp/lb (1.76 kW/kg) take-off; 1.21 hp/lb (2.69 kW/kg) 100/150 grade fuel/MS gear.

サンダーバード683系4000番台特急列車

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サンダーバードは、西日本旅客鉄道(JR西日本)およびIRいしかわ鉄道が大阪駅 - 金沢駅・和倉温泉駅間を東海道本線・湖西線・北陸本線・IRいしかわ鉄道線・七尾線経由で運行する特急列車である。

1995年4月20日に、485系で運転されていた「雷鳥」の一部列車に、当時新型車両であった681系電車を投入し、この列車を「スーパー雷鳥(サンダーバード)」としたのが「サンダーバード」の始まりである。1997年3月22日のダイヤ改正で「スーパー雷鳥(サンダーバード)」から「サンダーバード」に改称された。
これ以降、681系とその後継車である683系電車を使用する列車はすべて「サンダーバード」としていたが、683系の投入により485系で運転されていた「スーパー雷鳥」は「サンダーバード」に統合され、廃止された。その後、683系の増備により「雷鳥」の運転本数は徐々に減少し、2011年3月12日のダイヤ改正ですべての列車が681系または683系の「サンダーバード」として運転されるようになった。


2015年3月14日の北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間の開業により、新幹線と重複する金沢駅 - 富山駅・魚津駅間は廃止され、金沢駅 - 富山駅間は新幹線「つるぎ」(シャトルタイプ)、それから先の黒部宇奈月温泉駅以東は新幹線「はくたか」(停車タイプ)で代替されている。金沢駅 - 和倉温泉駅間についてJR西日本は「七尾線に乗り入れる特急の存続に前向きな方針を示し」、最終的に1往復がIRいしかわ鉄道を経由して七尾線に継続して乗り入れることになった。そのほかは金沢駅 - 和倉温泉駅間のシャトル列車「能登かがり火」で対応する。また、山陽・九州新幹線沿線から北陸新幹線沿線ならびに「しらさぎ」・「ダイナスター」・「能登かがり火」とともに石川県の南加賀・能登地方から首都圏への重要なアクセスを担っている。
2017年3月のダイヤ改正以降、一部の列車に於いて2か国語(日本語・英語)による列車自動放送が投入されている。

列車名の由来
名付け親は当時のJR西日本社長・井手正敬。JR西日本の公式説明によれば、「サンダーバード」 (Thunder bird) は、アメリカ先住民族のスー族に伝わる神話に登場する雷光と雨を起こす巨大なワシに似た空想上の鳥であり、これに由来して命名されたものとしている。
当初「スーパー雷鳥(サンダーバード)」という列車名だった経緯もあり、「サンダーバード」は鳥の「雷鳥」の英語名(「雷鳥」の「雷」が「サンダー」、「鳥」が「バード」であるため)としばしば誤解される。

実際の「雷鳥」の英語名は「Grouse(グラウス)」もしくは「Ptarmigan(ターミガン)」である。
681系が「スーパー雷鳥(サンダーバード)」として営業運転を開始した際のJR西日本のテレビコマーシャルには、1960年代のイギリスのテレビSF人形劇ドラマ『サンダーバード』(国際救助隊)のキャラクターを起用していた。CMの内容は北陸エリアと関西エリアとで若干異なっていた。

運行概況
2016年3月26日現在、定期列車は大阪駅 - 金沢駅間で24往復が運転されている。うち1往復は和倉温泉駅まで延長運転されている[5]。所要時間は大阪駅 - 金沢駅間が2時間35 - 40分である。
全列車が湖西線経由で大阪駅を発着として運転されるが、強風などで湖西線が運転見合わせになった場合は、米原駅経由で迂回運転される。米原駅では原則として運転停車だが、事情により客扱いをすることもある。2000年代に入ってからは比良おろしとよばれる強風による運転規制の強化により迂回運転が増えていたが、防風柵の設置工事により迂回運転は減少するとしている。

迂回運転による所要時間の増加は約30分だが、折り返しとなる列車がさらに遅れる場合も多い。風が小康状態となり、かつ運転規制が解除されると湖西線経由に戻される。なお、何らかの理由で湖西線が不通になった事態を想定して、米原駅経由のダイヤもあらかじめ設定されている。
なお北陸新幹線金沢開業以前の2015年3月13日までは、14往復が大阪駅 - 富山駅間、1往復が大阪駅 - 魚津駅間での運行であり、大阪駅 - 富山駅間の平均所要時間は3時間20分であった。富山駅・魚津駅発着系統は増結により12両編成で運転される場合、列車によっては金沢駅で1 - 9号車と10 - 12号車の増解結を行うことがあった。


吹田総合車両所京都支所もしくは金沢総合車両所に所属する681系電車及び683系電車9両編成が充当されている。681・683系の使い分けはなく共通運用で、681系及び吹田総合車両所の683系0番台は1 - 6号車が基本編成、7 - 9号車が付属編成で、和倉温泉駅発着列車では付属編成が金沢駅で増解結され、金沢駅 - 和倉温泉駅間は6両編成での運行となる。

また、金沢総合車両所の4000番台は1 - 9号車まで9両固定の編成である。なお多客期は大阪方に681系もしくは683系の3両を増結して12両編成での運転となる。また、吹田総合車両所京都支所に所属する681系1000番台(先行試作車)は2015年3月14日の北陸新幹線の金沢開業から暫くの間は「しらさぎ」運用に就いていたが、同年7月からはその使用車両に余裕が出てきたことが理由として「サンダーバード」運用に復帰している。
かつては1号車(グリーン車)が大阪方の先頭車であったが、北陸新幹線開業に伴うダイヤ改正に伴い編成の方向転換が行われ、2015年3月14日以降は1号車が金沢方の先頭車となっている。

JR化以降の高速化

1989年(平成元年)3月11日:ダイヤ改正により、次のように変更。

パノラマ型グリーン車と「和風車だんらん」を再改造した「ラウンジカー」(半室グリーン車)が連結された「スーパー雷鳥」4往復が運転開始。湖西線内の最高速度が130km/hに引き上げられ、大阪駅 - 金沢駅間は最速2時間39分で運転された。スーパーを名乗らない「雷鳥」(18往復)の列車号数は11号から始まることになった。
「スーパー雷鳥」1往復が神戸駅発着で運転される。
1990年(平成2年)4月1日 - 9月30日:国際花と緑の博覧会へのアクセスを図るため、京橋駅発着の「エキスポ雷鳥」を運転。また、単身赴任者向けに早朝に金沢発大阪行き、金曜日の夜間に大阪発金沢行き「ホームズ雷鳥」を設定していたこともあった。


1991年(平成3年)9月1日:七尾線電化により、「スーパー雷鳥」「雷鳥」が和倉温泉駅まで乗り入れ開始。これにより、基本編成7両と付属編成3両の10両編成で増解結が行われた。この時点で「雷鳥」16往復、「スーパー雷鳥」7往復。「ゆぅトピア和倉」が廃止。
「サンダーバード」登場以降の京阪神対北陸特急群


1992年(平成4年)12月頃:臨時「雷鳥」として、同年7月に落成され試運転などを続けていた681系の試作編成での運行を開始。
時刻表などには「ニュー雷鳥」や「ハイスピード雷鳥」などと記されていた。この681系試作編成での運行は1995年(平成7年)にデビューする同系量産車登場まで運行された。
1995年(平成7年)4月20日:ダイヤ改正により、次のように変更。
681系(車両愛称:サンダーバード)による「スーパー雷鳥(サンダーバード)」が運転開始。全区間130km/h運転の実施により、最速所要時間が大阪駅 - 金沢駅間を2時間29分、大阪駅 - 富山駅間を3時間07分に短縮。この時点で「雷鳥」11往復、「スーパー雷鳥」4往復、「スーパー雷鳥(サンダーバード)」8往復。
「スーパー雷鳥」のグリーン車のみ「サンダーバード」と同じく大阪寄りを向くようになる。
「雷鳥」「スーパー雷鳥」「スーパー雷鳥(サンダーバード)」の列車号数が通し番号になる。
当初3月のダイヤ改正を予定していたが、1月17日に発生した阪神・淡路大震災により車両の完成が遅れ、ダイヤ改正が延期された。


1997年(平成9年)3月8日:「スーパー雷鳥(サンダーバード)」が「サンダーバード」に改称。「スーパー雷鳥」の神戸駅 → 大阪駅間が廃止[広報 23]。この時点で、「雷鳥」11往復、「スーパー雷鳥」4往復、「サンダーバード」8往復。
当初、大阪駅 - 和倉温泉駅・富山駅間の「雷鳥」・「サンダーバード」は和倉温泉駅発着編成に基本編成を充当していたが、利用率などを考慮し富山駅編成に充当されるようになる。
1998年(平成10年)7月1日:「サンダーバード」に初めて、湖西線内主要駅停車列車が設定される。


1999年(平成11年)12月4日:臨時列車の富山地方鉄道への乗り入れが廃止。
2001年(平成13年)
3月3日:ダイヤ改正より以下のように変更。
683系の投入により、「スーパー雷鳥」が廃止される。「サンダーバード」は15往復になる。
「雷鳥」の系統を富山駅・和倉温泉駅発着の「サンダーバード」と、金沢駅発着の「雷鳥」に整理。「雷鳥」は10往復になる。
「雷鳥」の新潟駅発着列車が廃止され、金沢駅 - 新潟駅間は「北越」に編入。なお、新潟駅発着は多客期のみ「ふるさと雷鳥」として運転される。
「雷鳥」の自由席がこれまでの7 - 9号車から「サンダーバード」と同じ5 - 7号車に統一される。
7月:「ユニバーサルエクスプレス」が運転開始。


2003年(平成15年)
9月1日:「おわら」が運転開始。
9月20日:「雷鳥」の定期列車における485系のボンネット型先頭車の運用が終了[注 6]。代わりにパノラマグリーン車が復活し、「雷鳥」のグリーン車も「サンダーバード」と同じく大阪寄りを向くようになる。「加越」から転用された非パノラマグリーン車も「雷鳥」ファミリーに同時追加。
12月1日:「ビジネスサンダーバード」が運転開始。
2005年(平成17年)4月20日 - 12月31日:「サンダーバード」の運転開始から10年を記念して「サンダーバード10周年キャンペーン」が実施される。
2007年(平成19年)
3月18日:指定席の8号車が禁煙車化され、喫煙車両は指定席・自由席1両ずつとなる。
10月1日:6両または9両編成のうち、指定席12席が女性専用指定席になる。
2008年(平成20年)
7月1日 - 9月31日[要検証 – ノート]:『この夏は「雷鳥号」で出かけよう!』キャンペーンを実施。期間中、雷鳥号の車内で、特製駅弁「雷鳥御膳(「大友楼」が調製、2007年11月にも限定販売)」の販売を行う。
2009年(平成21年)
5月:ゴールデンウィークに運転されたのを最後に「ふるさと雷鳥」は以後、設定されなくなる。
6月1日:683系4000番台が運転開始。また、すべての列車が禁煙となる。
10月1日:ダイヤ改正により、次のように変更。
683系4000番台の追加投入により、「雷鳥」3往復が「サンダーバード」に置き換えられる[広報 27]。ただし「サンダーバード」化による所要時間の変更はない。
「雷鳥」は6往復になる。同日以降は基本的にパノラマ型グリーン車を連結した編成のみ運用されるようになる[29][注 7]。「サンダーバード」にも大津京駅・松任駅に停車する列車が設定される。
2010年(平成22年)
3月13日:ダイヤ改正により次のように変更。
「雷鳥」4往復が「サンダーバード」に置き換えられ、「雷鳥」は1往復に、「サンダーバード」は22往復になる。
土曜・日曜運転の「雷鳥」1往復(23・22号)、日曜運転の「雷鳥」1往復(29・42号)が廃止。
七尾線に乗り入れる「サンダーバード」が富山駅発着編成との併結運転が中止され、全区間グリーン車が連結された6両編成の単独運転になる。
「サンダーバード」3往復が平日のみ9両編成から6両編成に減車、また「雷鳥」は6両編成となり多客期のみ9両編成での運転になる。
この改正と同時に「雷鳥」は市販の時刻表上でのエル特急の指定が解除され、荷物便である「雷鳥レールゴーサービス」の取り扱いも廃止される。
「サンダーバード」統一後


2011年(平成23年)3月12日:ダイヤ改正により次のように変更。
「雷鳥」が廃止され、列車名が「サンダーバード」に統一される。
大津京駅への停車を取りやめる。
2014年(平成26年)9月15日:車内販売営業を終了。
2015年(平成27年)
3月14日:北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間開業に伴い、「サンダーバード」の金沢駅 - 富山駅・魚津駅間を廃止し、金沢駅 - 和倉温泉駅間に直通する列車を1往復に削減。全列車編成の向きを転換、基本編成を9両に統一した。また、主な運用は683系で行っているが、「サンダーバード」運用から外れた681系車両のうち、3両編成の3編成については暫定的に増結編成として運用している。先行試作車の681系9両については運用に余裕ができ次第、整備面からの都合により廃車の方向で検討していたが、同年7月からは「サンダーバード」運用に復帰している。
廃止時の金沢駅 - 富山駅・魚津駅間の停車駅:金沢駅 - (石動駅) - 高岡駅 - (小杉駅) - 富山駅 - 魚津駅 ()は一部の列車のみ停車。
4月23日:22号・31号において、元北越急行車の683系8000番台で運行された。この時点では北越急行色の塗装であったが、現在は側面に青とオレンジ色の帯を施された「しらさぎ」塗装に変更されている。
7月18日:台風11号による大雨の影響で、「サンダーバード」の大阪駅 - 敦賀駅間が終日運休になり、敦賀駅 - 金沢駅間が「ダイナスター」として臨時運転された。また、名古屋駅・米原駅発着の「しらさぎ」も終日運休になったため、「ダイナスター」の臨時運転には「しらさぎ」の定期時刻が活用された。
秋頃:「サンダーバード」全車両のリニューアルを2018年度末まで順次実施(予定)。
2016年(平成28年)3月26日:ダイヤ改正により1往復増発、24往復体制となる。これにより下り始発の時刻が繰り上がる。また上り終発の時刻も繰り下げ]。
2017年(平成29年)3月4日:上り3本下り4本の時刻を繰り上げて北陸新幹線との接続を改善。新たに4往復が高槻駅に停車。

種類 特別急行列車
現況 運行中
地域 大阪府・京都府・滋賀県・福井県・石川県
前身 特急「雷鳥」・「スーパー雷鳥」
特急「白鳥」]
運行開始 1995年4月20日 ...(「スーパー雷鳥」として)
運行終了 2015年3月13日(金沢駅 - 富山駅・魚津駅間)
後継 新幹線「つるぎ」・「はくたか」
運営者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
IRいしかわ鉄道
路線
起点 大阪駅
終点 金沢駅・和倉温泉駅
使用路線 A東海道本線(JR京都線・琵琶湖線)・B湖西線・北陸本線・IRいしかわ鉄道線・七尾線
車内サービス
クラス グリーン車・普通車


技術
車両 681系・683系電車
(吹田総合車両所・金沢総合車両所)
軌間 1,067 mm
電化 直流1,500V(大阪駅 - 敦賀駅間、津幡駅 - 和倉温泉駅間)
交流20,000V 60Hz(敦賀駅 - 津幡駅間)
最高速度 130 km/h

九度山駅 南海電気鉄道高野線

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九度山駅(くどやまえき)は、所在地九度山町の代表駅で和歌山県伊都郡九度山町にある、南海電気鉄道高野線の駅。高野線はこのあたりから終点極楽橋駅まで本格的な勾配区間となる。

橋本以南の山岳線区間中間駅では利用者数は最大となっています。駅番号はNK80

交換設備を備えた相対式2面2線のホームを持つ駅で妻面に入口のある古い木造駅舎です。ホーム有効長は2扉車4両。駅舎は難波方面ホーム側の難波駅寄りに建てられており、反対側の高野山方面ホームへは構内踏切で連絡している。

なお、のりば番号は設定されていない。また、何れのホームの待合所へ行く際も一旦屋根のない部分に出なければならないため、雨天時の連絡用に傘が用意されている。

かつての売店は現在、自動販売機コーナーに改装されています。
難波駅側には保線基地があり、常時保線車両が留置されている。また、難波駅側にのみ安全側線が設置されている。

改札口、切符売場には自動券売機とPiTaPa・ICOCA対応の自動改札機、のりこし精算機、ICカードの現金積増機(チャージ機)がある。


「こうや花鉄道」プロジェクトの一環として、2009年(平成21年)11月14日、橋本方面ホームに「九度山真田花壇」が設置された。

木材には和歌山県で育った紀州材を使い、また、「真田幸村ゆかりの地・九度山」にちなんで、「真田幸村と十勇士」のイラストが配された。

これに併せて、当駅の駅名標も「こうや花鉄道」独自のものに更新された。2015年11月には、2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』放映にあわせて、真田家の家紋「六文銭」の陣幕や暖簾が飾られるなど駅舎が真田仕様に改装された。

九度山駅 駅名標
のりば
(駅舎側) 高野線(上り) 橋本・なんば方面
(反対側) 高野線(下り) 高野山方面
※案内上ののりば番号は設定されていない。


上屋下には長椅子がせっちされています。

利用状況
2016年(平成28年)度の1日平均乗降人員は909人で、南海の駅(100駅)では75位[4]である。
九度山町民に留まらず、橋本市(旧高野口町域)民やかつらぎ町民からの利用客も多い。これは、難波方面へ出る場合、JR和歌山線を利用して橋本駅で高野線に乗り換える場合よりも運賃が安く、加えて着席乗車の確率が上がることなどが要因として挙げられる。

しかし、ズームカー増解結の三日市町駅から橋本駅への変更、同駅始発列車の増発、さらには同駅での急行の系統分割運転開始に伴い、同駅からの着席乗車が容易になったため、現在では後者のメリットは事実上消滅した。


駅周辺
九度山町役場が西方にある。真田庵、慈尊院(高野山町石道)は駅から北西方向。
九度山郵便局
九度山町立九度山中学校
九度山町立九度山小学校
JR西日本和歌山線の高野口駅は北へ約3km。

歴史
1924年(大正13年)12月25日 - 南海鉄道が学文路駅から延伸した際の新たな終着駅として開業。
1925年(大正14年)7月30日 - 当駅 - 高野山駅(現・高野下駅)延伸により、途中駅となる。


1944年(昭和19年)6月1日 - 会社合併により近畿日本鉄道の駅となる。
1947年(昭和22年)6月1日 - 路線譲渡により南海電気鉄道の駅となる。


2009年(平成21年)2月6日 - 紀伊清水駅、学文路駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線とともに近代化産業遺産(高野山参詣関連遺産)に指定される。
2013年(平成25年)4月1日 - 終日無人駅化。

 

駅番号 NK 80
所属事業者 南海電気鉄道
所属路線 高野線
キロ程 52.2km(汐見橋起点)
難波から51.5km
駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線
乗降人員
-統計年度- 909人/日
-2016年-
開業年月日 1924年(大正13年)12月25日

備考 無人駅


D50-140 (D50形 貨物用テンダー式蒸気機関車)

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D50形は、日本国有鉄道(国鉄、製造時は鉄道省)の貨物用テンダー式蒸気機関車の1形式である。

当初は9900形と称したが、1928年10月、D50形に形式変更された。

鉄道の現場を中心に“デコマル”またはデゴレの愛称があった。

 

設計・製造
第一次世界大戦に伴う国内貨物輸送需要の増大を背景として、鉄道省では1916年頃から9600形の後継機の計画が取りざたされるようになっていた。ここでは、より強力な貨物機を投入し、輸送上の隘路となっていた箱根越えなどの勾配区間での輸送単位の増大を図ることが計画され、当初は改軌論争とのからみもあり、従軸を持たない9600形にそのまま動軸を1軸追加してデカポッド形軸配置(1E=先輪1軸、動輪5軸)に拡大した機関車が検討の俎上に載せられた。

だが、鉄道国有化後長期にわたり議論が続けられていた改軌論争が最終的に狭軌派の勝利で決着し、狭軌に最適化した設計の18900形(後のC51形)が大きな成功を収めたこともあり、貨物用についてもデカポッド機案を放棄し、18900形と同様に軸配置を従台車付きのミカド形(1D1=先輪1軸、動輪4軸、従輪1軸)とした9600形を上回る高性能機が計画されるようになった。

かくして本形式は、鉄道省の小河原藤吉技師を主任設計者として、鉄道省とメーカー各社により共同設計された。

本形式は川崎造船所が主体となり、汽車製造、日本車輌製造、日立製作所により、1923年から1931年の間に380両が製造された。しかし折からの昭和恐慌による貨物輸送量の減少により、強力な貨物用機関車の需要が小さくなったため、製造が打ち切られ、以後の増備は改良型のD51形へ移行した。

構造
それまでの貨物用標準型蒸気機関車であった9600形よりボイラー、シリンダーなど各部分を大型化したが、設計はほぼ完全に新規で起こされており、アメリカ流のラージエンジンポリシーの影響が色濃く現れている。

ボイラー
3缶胴構成の広火室過熱式ストレートボイラーを搭載する。

煙管長は18900形の設計を踏襲し5,500mmとされ、火格子面積は3.25m2で、従台車装備により火格子を台枠間に収める必要性がなくなったことから、9600形と比較して1.4倍に拡大された。使用蒸気圧は12.7気圧で、国鉄制式機では初採用となった給水暖め器 を前部デッキ上に搭載してボイラーの熱効率の向上を図り、また自動空気ブレーキの採用に伴い動力源が確保されたことから動力式焚戸口が採用され、乗務員の労力軽減が図られている。

さらに、1927年製造の19992からはアルコ社から輸入された8200形(後のC52形)の最新設計を参考に、火室にアーチ管を追加し、煙管の伝熱面積を縮小、過熱面積を拡大することで燃焼効率の改善と性能の向上が図られている。

なお、火床面積や煙管長などの特徴や構造から、このボイラーの設計にあたっては、1910年にアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社が南アフリカ連邦鉄道へ1両を納入した、やはり従軸で広火室を支える構造のボイラーを備える10D型機関車が参考にされた可能性が指摘されている。

走り装置
先台車は1軸心向(リンク)式、従台車は18900形での実績を踏まえて改良が施されたコール式を採用し、動輪径は高速貨物列車牽引を念頭に置いて9600形の1,250mmから1,400mmに拡大された。

動軸の支持は当初、担いばねを欧米と同様、下ばね(アンダースラング)式としていたが、9922以降は検査時の動輪の着脱(車抜き・車入れ)の簡略化を狙って上ばね(オーバースラング)式に設計変更され、これに伴い干渉する部品の位置関係を順番に修正していった結果、火室を支える後台枠を延長し、ボイラーそのものも後退させるという大がかりな設計変更を強いられた。そのため、後述するロッドの材質変更もあって、D50形乗務経験のある乗務員の乗り心地に関する評価では、「前期車の方が格段に良かった」とする意見が残されており、運動部品の慣性質量の増加と上ばね化によるロールセンターの上昇が、走行中の車体振動に直接影響を与えていたことを示している。

また、新設計が導入されたリンク式の先台車は、心向棒と軸箱の結合や案内装置の設計が適切でなかったことから脱線事故や第1動輪のフランジ偏摩耗が多発し、さらに炭水車と機関車本体の連結装置の設計が適切でなかったことから、側線などで用いられる8番分岐の通過時に脱線を頻発させた。これについては機関車本体のみで8番分岐器を通過させたところ脱線が発生せず、炭水車連結時に限って脱線したことなどから、機関車本体と炭水車を連結する連結装置を両側式から中央式に変更し、先台車心向棒を短縮して機関車全体としての曲線通過性能を引き上げることで対処された。また、先台車そのものについてはD50 364 - 369・376 - 380でC10形にて好成績を収めていたコロ式に変更することで最終的な解決が図られた。

台枠は八八艦隊計画がワシントン海軍軍縮条約締結により中止となったことで大量に余剰となった肉厚の圧延鋼板を活用することで、日本で製造された国鉄制式機としては初となる、90mm厚鋼板を刳りぬき加工した部材による棒台枠構造となった。

国鉄制式機では既に、1912年(明治45年)に製造された8850形や4100形で棒台枠が採用されていたが、これらはいずれもドイツからの輸入機であり、日本の粗鋼生産量の多くを占めていた官営八幡製鐵所が未だ第2期拡張工事(鋼材生産年間量30万トン目標)の途上にあって国内市場で適切な板厚の圧延鋼板が調達できなかったことから、前者の川崎造船所によるスケッチ生産機では鋳鋼製台枠が、後者の模倣改良型に当たる4110形では板台枠が、それぞれ代用設計として採用される状況であった。そのような事情から、八幡製鐵所の第3期拡張工事(鋼材生産年間量65万トン目標)が完成した1917年以降の設計となる本形式についても、戦艦・巡洋戦艦だけで八幡製鐵所の年間生産目標量を超える、膨大な量の粗鋼を消費する予定であった八八艦隊計画の中止がなければ、棒台枠の採用は困難であったと見られている。

弁装置・ロッド類
シリンダーは行程が18900形と共通の660mmであるが内径を530mmから570mmに拡大することで牽引力の増大に対応している。

弁装置は一般的なワルシャート式で、19910まではばね下重量や慣性質量の軽減を図ってロッド類を小断面かつ軽量のニッケルクロム鋼製とした。もっともこれは後に折損事故が発生したことから、19911以降は断面を拡大し材質をバナジウム鋼に変更して対処した。

ブレーキ
ブレーキ装置は自動空気ブレーキへの切り替えと、連結器の自動連結器への交換、そしてそれらによる列車重量の増大をにらんで、新造当初よりウェスティングハウス・エアブレーキ(WABCO)社製K14自動空気ブレーキが標準搭載され、これに必要となる空気圧縮機や空気タンクなどもボイラー左右側面の歩み板周辺に搭載された。

その一方で牽引される客貨車には1930年代初頭まで真空ブレーキのみ搭載する車両が残されていたことから、その撤去終了まで真空ブレーキ用機器も併せて搭載されていた。

炭水車
本形式では炭水車として、当初20m3形と呼ばれる水槽容量20.3m3、炭庫容量8.13tの専用設計品が採用されたが、これは水槽容量の大きさゆえにロングランを実施する旅客列車用C51形・C53形などに転用されるケースが多く、実際に少なくない数の本形式がそれら旅客機から振り替えられた12-17形などを連結していた。また、この実情を反映し1927年製造分の途中からは、当初より12-17形装備で竣工している。

運用
アメリカ流の機関車設計手法をストレートに導入した本形式は、新造直後の同一条件の下での性能比較試験において、9600形に対してボイラー性能の飛躍的な向上と出力の増大により、60%の性能向上を実現した。

こうした、アメリカ流が随所に持ち込まれた本形式の設計については、鉄道省の主流たるドイツ派を率いる朝倉希一からは「缶が過大」と酷評された。だが、本形式初号機の竣工当時、貨物列車牽引の主力であった9600形で600tから700tの牽引が限度であったところを、D50形では連結器の自動連結器化と空気ブレーキの採用により、一挙に最大950t(後に1,000t)の列車牽引が可能となったことから運転を担当する部局からは好評を博し強い支持を得た。そのため、川崎造船所(後に川崎車輌へ分社化)・汽車製造・日立製作所・日本車輌製造本店、と大手鉄道車両メーカー各社を動員して量産が進められた。

初期車は登場後、ただちに東海道本線山北駅 - 沼津駅間、常磐線田端駅 - 水戸駅間などで使用開始された。東海道本線の特急の補機仕業では、本務機であるC51形やC53形と同様、90km/h以上を出すこともしばしばであった。本形式は四国を除く全国各地の主要線区で貨物列車牽引用に、あるいは急勾配線区の旅客・貨物列車けん引用として使用された。

特に急勾配と大きな輸送単位で厳しい使用条件にあった北陸本線や中央線、信越線などの勾配区間を抱える各線では、D51形の新製開始後も長く同形式の配置を拒否し、動軸重がわずかに重く空転が発生しにくい本形式の配置を長く要求し続けたと伝えられており、「土壇場で頼りになる」本形式に乗務員が寄せる信頼は非常に大きなものであった。

また、先台車と動輪の間のスペースが広く検修が楽だったことから、本形式は保守を担当する各機関区や工場の職員からも支持された。もっとも、これは言い換えれば前部のオーバーハングが長いということを意味し、さらに前述のとおり曲線通過性能にやや難があったため、本形式は退行運転や推進運転時に軽量な2軸車を中心とする牽引車両を脱線させてしまう事故をしばしば起した。

室蘭本線の石炭集結列車では、1930年(昭和5年)から9600形で2,000t列車が設定・運行されていたが、1936年(昭和11年)に本形式が投入されると2,400t列車が設定・運行され、後にD51形がこれに加わった。

もっとも、戦前から戦時中にかけて特に厳しい運用に重点的に投入され、酷使で急速に疲弊が進んだことから、1955年(昭和30年)頃より老朽化による廃車が出始め、1965年(昭和40年)頃までにほとんどが廃車あるいは後述するD60形の改造種車となった。

末期に残ったのは若松、直方両機関区に配置され、筑豊本線の石炭列車に使用されていた数両と一ノ関機関区に配置され、大船渡線一ノ関駅 - 陸中松川駅間の貨物列車の牽引にあたっていた2両であった。最後の1両は直方機関区に配置されていたD50 140で、1971年(昭和46年)まで使用されたあと梅小路蒸気機関車館に動態保存(後に静態保存化)された。

昭和期の国鉄ではD50形の性能諸元をもとに幹線の貨物列車の牽引定数が決まり、そこから駅の有効長や貨車ヤードなどの鉄道施設の規格が決定され、今日の鉄道に引き継がれている。あらゆる意味で日本の鉄道の基礎を築いた機関車といえよう。

また、蒸気機関車に限ってみても、ドイツ派に過大と批判された本形式のボイラーの設計・構造はC53形、D51形(C61形)からC59形(C60形)までの各形式に搭載されたボイラーの基本となり、また足回りの設計は、後継車種であるD51形・D52形にほぼそのまま受け継がれることとなった。

本形式は特急列車を中心に華々しく活躍したC51形や、製造数の多かったD51形の陰に隠れて目立たない。だが、その完成以後の国鉄における蒸気機関車設計のみならず地上設備の整備計画に重大な影響を与え、また輸送計画についても決定的といってよい影響を及ぼしており、本形式は日本の国鉄制式蒸気機関車の技術発達史上において一大画期をなした重要な機関車の一つであると言える。

改造
1939年(昭和14年)にD50 193は陸軍の要請で標準軌化改造を施されて供出、上海 - 南京間の華中鉄道で運用された。中華人民共和国成立後も存在し1951年ㄇㄎ16形(注音記号ミカ)となったが、1955年にはすでに存在していない。

大船渡線一ノ関駅 - 陸中松川駅間の石灰石輸送を行っていた一ノ関機関区のD50 267とD50 346は陸中松川駅に転車台がないため、炭水車を先頭にしたバック運転(逆機)を強いられていた。そのため、逆機時の後方視界確保策として、C56形同様、炭水車両肩を大きく切り欠く改造が施された。その結果、石炭搭載量もタンク機関車並みとなっている。同様の改造は、入換専用となった他形式のテンダー機関車にも見ることができる。

後年、D51形が大量製造されたこともあって両数に余剰を生じた。そのため、丙線規格線区向け転用のために、1951年(昭和26年)から1956年(昭和31年)にかけて、78両は従台車を新造の2軸従台車(LT254)に振り替え、シリンダ内径を550mmへ縮小、ボイラそのものも煙管の構成を全面的に変更してD60形に改造された。

1952年(昭和27年)には大宮工場機関車課鋳物職場長であった宇佐見吉雄が考案した、自動可変リード弁を備える宇佐見式弁装置をD50 190に装備したが、これは1956年に旧状に復された。

吉長鉄路・吉敦鉄路500形
日本が清や中華民国との契約を元に建設、南満州鉄道の委託経営で運営されていた吉長鉄路と吉敦鉄路では、1923年(大正12年)からD50形の設計を基に標準軌化した500形テンダー機関車16両を川崎造船所(製造番号970, 971, 1140 - 1147)と汽車製造(製造番号965 - 970)に発注した。500形の外形はD50形に近いものであったが、軌間や車両限界の違いもあってボイラー中心高など各部の寸法が一部異なっており、給水暖め器の有無などの差異があった。吉長鉄路と吉敦鉄路は1931年(昭和6年)の合併を経て1933年(昭和8年)には満州国有鉄道京図線の一部となり、吉長・吉敦鉄路時代は501 - 516の番号が与えられていた500形は6540 - 6555に改番、1938年(昭和13年)に満鉄社線・満州国鉄線・華北交通で行われた形式称号改正ではミカナ形とされたが、戦後の消息は不明である。

保存機
大半のものが早く廃車あるいは改造されたため、保存機は少なく、京都鉄道博物館(旧・梅小路蒸気機関車館)に保存されているD50 140と、北海道北見市の三治公園に保存されているD50 25の2両のみである。動態保存機はない。D50 140は、2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

D50形が登場する作品
1940年制作の記録映画『鐵道信號』では貨物列車の牽引機としてD50 140が登場する。
大阪圭吉の小説『とむらい機関車』にD50 444(実在しない)が登場する。

主要諸元
全長 17,248mm
全高 3,955mm
軌間 1,067mm
軸配置 2-8-2 (1D1) - ミカド
動輪直径 1,400mm
シリンダー(直径×行程) 570mm×660mm
ボイラー圧力 13.0kg/cm2
火格子面積 3.25m2
全伝熱面積 222.3m2
過熱伝熱面積 64.4m2
全蒸発伝熱面積 157.9m2
煙管蒸発伝熱面積 142.7m2
火室蒸発伝熱面積 13.5m2
ボイラ水容量 7.4m3
大煙管(直径×長サ×数) 140mm×5,500mm×28
小煙管(直径×長サ×数) 57mm×5,500mm×90
機関車運転整備重量 78.14t
機関車空車重量 70.36t
動輪軸重(最大) 14.70t
炭水車運転整備重量 49t
炭水車空車重量 20t
ボイラ圧力 13kg/cm2
最高速度 70km/h

極楽橋駅(南海電気鉄道)高野線・ 鋼索線

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極楽橋駅(ごくらくばしえき)は、和歌山県伊都郡高野町大字高野山国有林第8林班にある南海電気鉄道の駅である。駅の標高は538mである。駅番号はNK86。駅の周囲はほとんど人家もなく、ほぼ高野山へのケーブルカーとの乗換客だけです。

南海電気鉄道
高野線
鋼索線
高野線は当駅が終点、鋼索線は当駅が起点である。

駅構造
高野線ホームは櫛形3面4線、鋼索線ホームは頭端式2面1線となっている。駅舎は大きな三角屋根の木造駅舎です。難波方には事業用車の留置線がある。


高野線と鋼索線の乗り換えのために作られた駅で、周辺には駅以外の建物がなく駅前広場などもありません。券売機は設置されておらず、乗車券は改札窓口で購入する。改札口および出口は狭くこぢんまりしている。

自動改札機は扉の無い簡易型のもので、磁気乗車券のみに対応しており、乗り越し精算や、PiTaPa・ICOCA等ICカードによる入出場の場合は、改札窓口内に設置された端末での、係員による手作業処理となる。両線の駅舎は不動谷川を挟んで両岸にあり改札内の連絡橋で結ばれている。


のりば高野線 橋本・なんば方面
1 一般種別(各停・急行・快速急行)用
2 一般種別(各停・急行・快速急行)・観光列車「天空」用
3 特急こうや用
4 特急こうや・観光列車「天空」用
ホームの上屋下には長椅子が多数設置されています。


鋼索線 高野山行き
(左側) 乗車専用
(右側) 降車専用
特急用の3・4番ホームは列車到着までは封鎖される。また、鋼索線列車は高野線列車の発着に合わせて運行されており、乗り切れない場合は約7分後に臨時列車を運行して捌いている。2009年、鋼索線ホームにスロープと車椅子用自動昇降機が新設された。

専ら乗換駅として利用されている。以前は当駅で下車する利用客はかなり稀で、ほとんどの乗客はそのまま鋼索線を利用して高野山駅まで向かうか、その反対方向への乗換えをするだけである。高野山駅から先の道路はバス専用と一般道路があり、バス専用道路は人も通行できないため、歩いて高野山中心部に向かう場合は、当駅から登山道(和歌山県道118号高野橋本線)を進み、女人堂へ出るルートと、高野山駅から大門方面へ進むルートの2つがある。

駅周辺
駅の北側に駅名の由来となった極楽橋があり、不動坂という高野山への参道に通じている。駅から極楽橋の袂へは改札を出て右に折れ、林道を歩いてケーブル駅への連絡橋をくぐり、右(駅構内方向)の道を登ると抜けることが出来る。不動坂(極楽橋駅~高野山女人堂間の約2Kmにある旧道と新道)は高野参詣道の一つ京大坂道の区間として2016年に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録され、橋の塗装が塗り替えられた。


1929年(昭和4年)2月21日 - 高野山電気鉄道が神谷駅(現在の紀伊神谷駅)から延伸した際の終点として開業。
1930年(昭和5年)6月29日 - 鋼索線 当駅 - 高野山駅間が開業。
1947年(昭和22年)3月15日 - 社名変更により南海電気鉄道の駅となる。
2000年(平成12年)10月 - 駅業務を子会社の南海ビルサービスに委託。
2009年(平成21年)2月6日 - 紀伊清水駅、学文路駅、九度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線とともに近代化産業遺産(高野山参詣関連遺産)に指定される。

駅番号 NK 86
所属事業者 南海電気鉄道
電報略号 コ゛ク
駅構造 地上駅
ホーム 櫛形 3面4線(高野線)
頭端式 2面1線(鋼索線)
乗降人員
-統計年度- 41人/日
-2016年-
開業年月日 1929年(昭和4年)2月21日
乗入路線 2 路線
所属路線 高野線
キロ程 64.5km(汐見橋起点)
難波から63.8km
◄NK85 紀伊神谷 (1.5km)
所属路線 鋼索線(高野山ケーブル)
キロ程 0.0km(極楽橋起点)
(0.8km) 高野山 NK87►
備考 業務委託駅

 


南海コ11・21形客車

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南海コ11・21形客車(なんかいコ11・21がたきゃくしゃ)とは、南海電気鉄道の鋼索線極楽橋駅 - 高野山駅で運行しているケーブルカーの車両。

1964年(昭和39年)に、増加する夏季輸送需要及び翌年に控えていた高野山開創1150年記念大法会に対応すべく、巻上機と地上設備の更新を行うとともに新造されたケーブルカーである。
山上(高野山方)がコ11形、山下(極楽橋方)がコ21形となっている。2両固定編成を組み、コ11 - コ21、コ12 - コ22の2編成がある。1両の定員は130名(座席定員はコ11形が36名、コ21形が34名)で、17m級4両編成の20000系こうや号(現・こうや)の乗客全員を輸送できる能力を持つ。また、ケーブルカーでは初めて電気式自動扉が採用されている。


塗装は当初20000系と同一であったが、1983年に30000系と同一のものに変更されている。
運転中、日本語と英語、およびフランス語の自動放送により、世界遺産・高野山の観光案内(上りと下りで別内容)などが流れるようになっている。


2015年4月現在、歴代の同社鋼索線車両としては使用年数が約50年と最も長い。単一車で高野山の周年記念大法会の輸送を二度担当することになり、2015年の開創1200年記念大法会輸送に従事するにあたって、前回よりも外国人訪問客の大幅な増加が見込まれることもあり、法会期間に先駆けて車内のリニューアルを施行した。
2014年3月に、座席モケットがこれまでの赤地のものから、高野山の地形が八連葉の蓮の花に似ていることにちなみ、蓮の葉をイメージした明るい緑地にピンクの花柄模様をあしらったものに交換された。


また、2015年3月1日より、車両両側先頭の頭上に、ワイド画面タイプの液晶ディスプレイ車内案内表示装置を設置した。この案内装置は日本語・英語・フランス語の各言語の文字案内を担当しており、ドアの開閉予告など、普通鉄道車両に近年見られるような車内案内が可能である。なお、南海では同年秋に南海本線で運行を開始した8300系や、50000系のリニューアルにおいても液晶ディスプレイ車内案内装置の導入を予定しているが、同車はそれらに先駆け、南海では初めてとなる液晶ディスプレイ車内案内装置の設置車両となった。

スバル・BRZ(痛車)ご注文はうさぎですか?

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BRZ(ビーアールゼット、海外:ビーアールズィー)は、SUBARU(旧社名、および開発当時・富士重工業)がトヨタ自動車と共同開発したスポーツカー。トヨタブランドでは兄弟車のトヨタ・86として販売され、生産は両車ともスバル群馬製作所本工場にて行なわれる。

2012年3月28日発売。小型・軽量・低重心を狙って開発されたモデルで、車名の由来はBはボクサーエンジン (Boxer Engine)、Rは後輪駆動 (Rear wheel drive)、Zは究極 (Zenith)を意味している。

エンジンは富士重工(当時)が開発したFB20型をベースに、トヨタの直噴技術である「D-4S」を組み合わせた新開発のFA20型。証としてインテークマニホールド上面のカバーには「TOYOTA D-4S」と「BOXER SUBARU」が併記されている。高回転出力型を目指したためFB20型と比べてストロークが短縮された結果、ボアxストロークは奇しくも86x86mmとなった。

共同開発車であるトヨタ・86と仕様上の大きな違いはないが、ヘッドランプ・フロントバンパー・フェンダー部のエンブレムや内装デザインなどが違う。開発技術は両社から持ち寄られており、開発費も両社で折半されている。車両コンセプトやパッケージングなどの企画策定と全体デザインはトヨタが、設計と確認作業は富士重工が担当したが、基本的には両社技術者陣の合議の元に開発が進められた。生産は一貫して富士重工が担当しているが、「トヨタから富士重工への開発委託」という単純な体制ではない。

スバルの多くの車種に搭載されている運転支援システム「EyeSight」は、トヨタでは「Toyota Safety Sense」と言う該当する装置はあるが、車両検知システムの違いにより全グレードで搭載されていない。

R
標準仕様で6速MTと6速ATから選択可能。シリーズで唯一「17インチパフォーマンスパッケージ」「スポーツインテリアパッケージ」の2つのオプション(これらは単独装着不可でセットのみ)に加え、Sと共通の「エアロパッケージ」を設定。86の「G」に相当。
R Customize Package
RAに代わるベース仕様で、6速MTと6速ATから選択可能(2016年8月のマイナーチェンジ以降は6速MTのみ)。Rからアルミホイールやスピーカー等を省いている。86における相当グレードは無い。
S
上級仕様。6速MTとパドルシフト付き6速ATから選択可能。プッシュエンジンスタートと左右独立調整エアコンを装備。シリーズ唯一となる「レザー&アルカンターラパッケージ」と、Rと共通の「エアロパッケージ」の2つのオプションを設定。86の「GT」にほぼ相するが、リヤブレーキディスクは15インチとなる。
GT
2016年11月に発売された仕様。「S」をベースに、ZF社製SACHS(ザックス)ダンパー、ブレンボ製17インチベンチレーテッドディスクブレーキ(フロントは対向4ポット、リアは対向2ポット)、17インチアルミホイール(スーパーブラックハイラスター)、リアスポイラー、BRZロゴをあしらったアルカンターラ/本革シートを採用した。
STI Sport
2017年10月に発売された最上級仕様。スバルテクニカインターナショナル(STI)との共同開発により設計されており、「GT」をベースに、ZF社製SACHSダンパーにSTIによる専用チューニングを行ったほか、アルミホイール(ブラック塗装)・タイヤを18インチにサイズアップし、STI製のフレキシブルVバーとフレキシブルドロースティフナーフロントを追加。外観はSTIオーナメントをあしらったフロントバンパー、STIロゴ入りのフロントフェンダーガーニッシュを装備し、BRZエンブレム・電動格納式リモコンドアミラー・シャークフィンアンテナをブラックに変更。内装はアルカンターラ/本革シートをブラックとボルドーの2トーンに、ドアアームレストにボルドーをそれぞれ採用したほか、メーターバイザーやショルダーパッドには、セーレンの「グランリュクス」を採用した。
RA Racing
競技ベース仕様のRAに、更に以下の装備を付け加えている。
フロント/リアベンチレーテッドディスクブレーキ
専用ブレーキダクト(フロント左右・車両搭載)&専用ブレーキバックプレート
トルセンLSD
空冷式エンジンオイルクーラー
4点式シートベルト(FIA公認、競技専用部品・車両搭載)&アンカーボルト装着
6点式ロールケージ(サイドバー付)
マニュアルエアコン(クリーンフィルター付)
専用フロアマット(運転席/助手席・車両搭載)
フロントトランスポートフック&リアトランスポートフック(競技専用部品・車両搭載)

2012年、英国のUKIPメディア&イベンツが主催する「VDI (ビークル ダイナミクス インターナショナル) アワード」のでトヨタ・86と共にカーオブザイヤーを受賞した。
2012年、米国の自動車専門メディア「ワーズ オートワールド誌」が選ぶ「2013ワーズ テン・ベスト・エンジン」にBRZが搭載するFA20型エンジン選出された。この選考にはBRZのコストパフォーマンスも考慮された。
2013年12月13日、日本流行色協会が主催する「オートカラーアウォード2014」において、前述の「Premium Sport Package」のダークグレー・メタリック(ボディカラー)とブラック+タンレザー(インテリアカラー)の組み合わせが、文化学園大学の学生が学生ならではの視点で評価し、最も優れているカラーデザインに表彰される「文化学園大学セレクション」を受賞した。

販売期間 2012年3月 -
設計統括 多田哲哉(トヨタ自動車)
増田年男(富士重工業)
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドアクーペ
エンジン FA20型:水平対向4気筒 ポート噴射+筒内直噴(D-4S)
駆動方式 FR
最高出力 147kW (200PS)/7,000rpm
最大トルク 205N·m (20.9kgf·m)/6,400-6,600rpm
変速機 6速MT/6速AT
サスペンション 前:ストラット
後:ダブルウィッシュボーン
全長 4,240mm
全幅 1,775mm
全高 1,300mm
ホイールベース 2,570mm
車両重量 1,190kg-1,250kg
最小回転半径 5.4m
兄弟車/OEM トヨタ・86
先代 スバル・インプレッサリトナ/クーペSTi
(実質上。約12年の空白あり)

『ご注文はうさぎですか?』(ごちゅうもんはうさぎですか、英称:Is the order a rabbit?)は、日本の漫画家であるKoiによる4コマ漫画作品。略称は「ごちうさ」。『まんがタイムきららMAX』(芳文社)にて2010年12月号掲載の後、2011年3月号より連載中。また、『まんがタイムきららキャラット』2012年4月号にてゲスト掲載されたほか、『アニメディア』(学研パブリッシング)にも2014年5月号から7月号まで掲載された。2014年よりテレビアニメ化された。

高校入学を機に木組みの家と石畳の街に引っ越してきたココア。下宿先を探して道に迷う途中、ラビットハウスという名の喫茶店を発見する。その名前からうさぎだらけの喫茶店に違いないと思い店に入ると、そこにはチノという店員の少女と、ティッピーといううさぎがいた。そこで休憩がてら下宿先の場所を尋ねると、なんとこの店こそが探していた自分の下宿先であった。ココアは、お世話になる家に奉仕をするという高校の方針により、ラビットハウスの店員として、そしてチノの“自称”姉として働くことになるのであった。

「木組みの家と石畳の街」という場所が舞台。西洋風の家屋が目立つ街並みをはじめ、建築物・構造物・植生・雑貨等に日本国内であることを思わせるような要素は、甘兎庵を除いてほとんど見られないが、通貨単位は円が用いられている。 作者曰く、東フランスのストラスブールやコルマールの街並み、ハンガリーの温泉チェス(セーチェーニ温泉)など、ヨーロッパの色々な世界観を広く浅くモデルにしているとされる。このため、テレビアニメの制作にあたってはコルマール・ストラスブール・モンマルトル・リクヴィール・エギスハイムの街への取材旅行を行った。

街にはラビットハウスや甘兎庵など主要登場人物にゆかりのある喫茶店をはじめ、いくつかの学校、図書館、温水プールなどがある。公園や街路には野生の兎が多く生息している。また、街の住民の間では「シスト」と呼ばれる宝探しゲームが有名で、街の至る所に宝の地図が隠されている。子供向けアニメの『怪盗ラパン』が放送されている。原作は、青山ブルーマウンテン。

 

 

新今宮駅(JR西日本)・南海電気鉄道

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新今宮駅(しんいまみやえき)は、大阪府大阪市浪速区・西成区にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・南海電気鉄道の駅である。南海電気鉄道の駅番号は南海本線・高野線とともにNK03。JR西日本の駅シンボルフラワーは「ハギ」である。

概要
大阪の主要観光地である新世界に近く、JR西日本と南海電鉄が乗り入れている。浪速区と西成区の境界付近に駅があるため、ほぼ同一の位置にありながら、所在地はJRが浪速区、南海が西成区となっている。
JR西日本の駅はICOCA、南海の駅はPiTaPaおよび「スルッとKANSAI」対応各種プリペイドカードの利用エリアに含まれている。

乗り入れ路線
JR西日本の駅に乗り入れている路線は大阪環状線と関西本線であり、線路が並行している天王寺駅 - 当駅 - 今宮駅間は両線の重複区間とされている。先に大阪環状線のみ停車する駅として開業し、あとから関西本線の停車が開始されたという歴史的経緯から、当駅の所属路線は大阪環状線となっている。

アーバンネットワークエリアに入っており、関西本線は「大和路線」の路線愛称設定区間に含まれている。また、特定都区市内制度における「大阪市内」に属する。


南海電気鉄道の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は南海本線1路線のみであるが、複々線を利用して南海本線の列車と高野線の列車の2系統が乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。当駅の駅番号としてNK03が設定されている。
また、以下の路線の駅とも近接している。
大阪市営地下鉄御堂筋線・堺筋線 - 動物園前駅
阪堺電気軌道阪堺線 - 新今宮駅前停留場(2014年12月1日より「南霞町停留所」より名称変更)

 

JR西日本
当駅は駅長が配置された直営駅であり、管理駅として大正駅・芦原橋駅・今宮駅・JR難波駅の4駅を管理している。


駅構造
島式ホーム2面4線を有する高架駅で、ホームは2階にある。3・4番ホームは1・2番ホームよりも東にずれており、南海との乗り換えは更に距離を要する。
改札口は1階にある東口(通天閣口)と、JR線と南海電鉄線との相互乗り換え口がある4階の西改札口の2か所。トイレは東口改札内(1階)と西口改札外(4階)にあり、いずれも男女別の水洗式。エレベーターは東口(通天閣口)にのみ設置されている。(JRの)西口改札にエレベーターが無いため、南海-JRの車椅子での乗り換えは不便である(南海電鉄の駅構造の箇所に詳述)
駅自動放送は2009年9月上旬まで、1・2番のりばは女声(山本恵子)、3・4番のりばは男声(片山光男)であったが、同時期に大阪環状・大和路線運行管理システム導入に伴い、案内放送が更新され、2番のりばが女声から男声(津田英治)に、3番のりばが男声から女声(向山佳比子)に変更されている。

のりば
のりば 路線 行先 備考
1 O 大阪環状線(内回り) 天王寺・鶴橋・京橋方面
2 Q 大和路線 王寺・奈良・高田方面
S 関西空港線 関西空港方面
R 阪和線 鳳・和歌山方面
3 Q 大和路線 JR難波方面
O 大阪環状線(外回り) 弁天町・西九条・大阪方面 主に阪和線・大和路線からの直通
4 O 大阪環状線(外回り) 弁天町・西九条・大阪方面
上表の路線名は旅客案内上の名称で表記している。


環状線外回り列車のうち、京橋・鶴橋方面からの列車は全て4番のりばから発車する。大和路線・阪和線から乗り入れてくる列車は基本的に3番のりばを使用しているが、4番のりばからも発着する列車があり、2015年現在は曜日や時間帯を問わず4番のりばから発車する大和路快速が増えている傾向にある。2番のりばは大和路線、阪和線、関西空港線および、きのくに線方面へ向かう電車が共用するため、ダイヤ乱れ時は駅手前で入線待ちをすることが多々ある。

発車メロディ
「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、2015年3月22日からドヴォルザーク作曲の『交響曲第9番「新世界より」』が1・4番のりばの発車メロディとして使用されている。当駅の近くにある新世界にちなんでいる。

ダイヤ
外側2線には大阪環状線の列車が、内側の2線には大和路線の列車および阪和線の直通列車が発着する(大阪環状線からの直通列車についても内側の2線から入線する)。外回り列車は大和路線・阪和線直通の列車との緩急接続、あるいは特急の通過待ちを行うことがある。
当駅の前後に、環状線と大和路線をつなぐ渡り線がいくつかある。
天王寺方面ゆき
環状線内回り→大和路線上り(今宮方)
大和路線上り→環状線内回り(天王寺方)(2007年新設)
今宮方面ゆき
大和路線下り→環状線外回り(天王寺方)(2007年新設)
環状線外回り→大和路線下り(今宮方)(2007年新設)
大和路線下り→環状線外回り(今宮方)
2008年3月15日のダイヤ改正ではこの新設渡り線を生かし、大和路線・阪和線から大阪環状線に入る快速列車を、従来の大和路線3番のりばだけでなく、大阪環状線4番のりばにも振り分けることで、JR難波方面に入る列車が停車中でも当駅に進入できるようなダイヤが組まれていた。

 


1964年(昭和39年)3月22日 - 日本国有鉄道大阪環状線の大正駅 - 天王寺駅間に新設開業(旅客駅)。当初は2面2線の相対式ホームで、大阪環状線の列車のみ停車し、関西本線の列車は通過していた。
1966年(昭和41年)12月1日 - 南海の新今宮駅が開業し、乗換駅となる。なおこの頃、近接駅の今宮駅廃止計画が持ち上がるが、反対が強く存続となる。
1968年(昭和43年)3月25日 - 天王寺 - 新今宮間の複々線化により大阪環状線と関西本線が分離され、外側に大阪環状線ホーム(1・4番線)が設けられ島式2面4線となるが、この時点では内側の関西本線ホーム(2・3番線)に停車する列車はなかった。
1972年(昭和47年)3月15日 - 関西本線の列車の停車が開始。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、関西本線で「大和路線」の愛称を使用開始。
1994年(平成6年)10月14日 - 電光掲示板導入。
1996年(平成8年)7月16日 - 自動改札機設置。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。これに伴い、9月上旬に案内放送を更新。
2015年(平成27年)3月22日 - 1・4番のりばに発車メロディを導入。曲はドヴォルザーク作曲の「交響曲第9番「新世界より」」。
2016年(平成28年)2月10日 - 駅東口に愛称「通天閣口」が制定される。
2018年(平成30年) - 駅ナンバリング導入予定。

所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
電報略号 シヤ
駅構造 高架駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 64,614人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1964年(昭和39年)3月22日
乗入路線 2 路線
所属路線 O 大阪環状線*
キロ程 10.0km(大阪起点)
◄今宮 (1.2km)(1.0km) 天王寺►
所属路線 Q 関西本線(大和路線)*
キロ程 172.4km(名古屋起点)
加茂から51.5km
◄天王寺 (1.0km)(1.2km) 今宮►
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有
阪 大阪市内駅
* 今宮駅 - 新今宮駅 - 天王寺駅間は両線の重複区間。
(当駅は線路名称上は大阪環状線所属)


南海電気鉄道

駅構造
3面4線の島式・相対式ホームを併せ持つ高架駅。東側の2線に高野線の列車が、西側の2線に南海本線の列車が発着する。ホームは4階。有効長は4番のりばのみ8両、その他は10両編成に対応しているが、2016年現在両線共に10両編成で運転する列車は存在しない。各ホームへの移動は、地下道(3階)を通る階段が南北に2箇所設置してある。そのうちの南側階段のみが、西側出入口と繋がっている。JRと南海の乗り換え口がある4階の東口のほかに、2階に西口も設置されている。
トイレは改札内と改札外(JRと共用)の2箇所にあり、いずれも男女別の水洗式。エスカレーターは中央のホーム(2・3番のりば)のみ、エレベーターは全てのホームと2階を結ぶものと、西口(2階)と地上を結ぶものの計4台が設置されている。


JRの西口(乗り換え口・南海東口の正面)にはエレベーターが無いため、車椅子利用で自力で南海からJRへ乗り換える場合は、南海の西口から出場しJRの通天閣口から入場する必要がある。エレベーターを3回乗り継ぐ必要があり、屋根の無い一般公道を200メートル近く移動しなければならない。


駅西側の外壁には、現在の南海電車の塗装であるオレンジと青の帯が塗装されている。
なんば駅からは二駅しか離れていないが、南海本線・高野線とも特別料金が必要な特急を含めて全ての列車が停車する。
当駅は駅長が配置され、今宮戎駅~岸里玉出駅の各駅を管轄している。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 g高野線 下り 高野山方面
(泉北高速線)和泉中央方面 各駅停車のみ萩ノ茶屋停車


2 高野線 上り 今宮戎・なんば行き 各駅停車のみ今宮戎停車
3 南海本線 下り 和歌山市方面
( 空港線)関西空港方面 全列車萩ノ茶屋は通過
4 南海本線 上り なんば行き 全列車今宮戎は通過


上りは行き先がなんばしかないため、発車標が反転フラップ式単独だったころは4番線の表示は「なんば」と「なんばまでとまりません」のコマを発車標に貼り付けただけのものであった(2番線の表示は各停が今宮戎に停車するため「なんば」のみ貼り付けで停車駅は可動式)。

現在はホーム上での表示については、2番線は「なんば行き」と表記されたボードの下にLEDで今宮戎停車の有無が表示される。4番線は2番線と同様の装置で、通過電車や特急の指定席案内、接近案内がされる。また、改札口には2・4番線の反転フラップ式発車標も設置されている(2番線の高野線は各停以外、4番線の南海本線は全列車、次駅は終着駅なんばであるが発車時刻や種別も案内される)。

 

1966年(昭和41年)12月1日 - 南海本線の今宮戎駅 - 萩ノ茶屋駅間に、国鉄線への乗換駅として新設開業。同時に南海本線・高野線の全列車停車駅となる。
1994年(平成6年)9月4日 - 関西国際空港開業に伴い特急「ラピートα」が運転開始し、同列車は通過扱いとなる。
2001年(平成13年)3月24日 - 特急「ラピートα」が新規停車となり、再び全列車停車駅となる。

駅番号 NK 03
所属事業者 南海電気鉄道
電報略号 シンイマ
駅構造 高架駅
ホーム 3面4線


乗車人員
-統計年度- 44,019人/日(降車客含まず)
-2015年-
乗降人員
-統計年度- 89,848人/日
-2015年-
開業年月日 1966年(昭和41年)12月1日


乗入路線
所属路線 南海本線
キロ程 1.4km(なんば起点)
◄NK01 なんば (1.4km)(1.6km) 天下茶屋 NK05►
所属路線 g高野線
(線路名称上は南海本線)*
◄NK02 今宮戎 (0.5km)(0.6km) 萩ノ茶屋 NK04►
備考 * 高野線は汐見橋が起点


駅周辺
北東には歓楽街として知られる新世界があり、南側はあいりん地区(釜ヶ崎)が広がる。駅周辺は日雇い労働者向けの簡易宿泊所が建ち並ぶ、いわゆるドヤ街で、近年では「福祉マンション」も増加している。

バブル期以降は日雇い労働者の高齢化や減少にともなって宿泊所の廃業が相次いでいたが、宿泊費が全般的に安い事や新今宮駅・動物園前駅からは大阪市内をはじめとした関西一円の観光スポットへのアクセスが容易なため、21世紀以降はおもにバックパッカーなどの利用者が増加し、宿泊所側も外国人対応を進めた事で、ビジネスとして再生を果たしている。

それに伴い、駅周辺では外国人旅行客の姿を多く見かけるようになった。駅の北西部の空き地には、2022年に星野リゾートがホテルを開業する予定。

バス路線
最寄り停留所は、駅南を走る道路にある新今宮駅前、地下鉄動物園前となる、以下の路線が乗り入れ、大阪市交通局により運行されている。

国鉄6200形蒸気機関車(1070形:1080号機)

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国鉄6200形蒸気機関車(1070形:1080号機)
6200形は、1897年(明治30年)および1900年(明治33年)に、イギリスのニールソン(ネルソン)社 (Neilson & Co., Hyde Park Locomotive Works) で製造され、官設鉄道が輸入したテンダー式蒸気機関車である。

概要
他社製の同形機をあわせて1909年(明治42年)までに135両が輸入された、明治時代後期を代表する旅客列車用テンダー機関車の一つである。後述の他社製造機も含め、原設計を行なった会社の名を取って「ネルソン」と愛称された。

本項では、同形機であるイギリスのダブス社 (Dubs & Co., Glasgow Locomotive Works) 製の6270形、アメリカのアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社クック工場 (American Locomotive Co., Ltd. (=Alco.) Cooke Loco. Works) 製の6300形、ドイツのハノーバー社 (Hannoversche Maschinenbau Actien-Gesellschaft (=HANOMAG) ) 製の6350形についても取扱う。これらは、鉄道作業局では一括してD9形と称された。

また、15両が東武鉄道に譲渡(6200形 → B5形、6250形 → B6形)されて長く使用され、官設鉄道に残った多くが大正時代末期に性能向上のため飽和式から過熱式に改造(6200形・6270形 → 6250形)されたり、タンク式蒸気機関車に改造(6200形・6270形 → 1070形、6350形 → 1000形(2代)、6300形 → 1150形(2代))されたりした。


1070形
1070形 (1070 - 1118) は、6200形および6270形を支線の小運転や入換に適するよう、従軸を1軸追加して、側水槽および炭庫・背水槽を増設し、4-4-2 (2B1) 型タンク機関車に改造したものである。過熱式改造および譲渡されなかった全49両が1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)までに大宮工場、浜松工場および鷹取工場で改造され、改造の終了により6200形および6270形は消滅した。種車のシリンダの弁室は上側、内側両方のタイプがあるが、上側タイプであっても内側に移設されたものとそうでないものがあり、まちまちである。また、側水槽は左右とも前半部上面に傾斜のついた五角形である。改造年および施行工場、新旧番号の対照は、次のとおりである。

1925年改造(5両)
大宮工場 6207, 6206, 6204, 6209 → 1070 - 1073
鷹取工場 6293 → 1086
1926年改造(32両)
大宮工場 6205, 6210, 6208, 6284, 6288, 6287, 6289, 6291, 6294, 6292, 6271, 6290, 6203, 6211, 6201 → 1074 - 1085, 1094 - 1096
鷹取工場 6280, 6281, 6282, 6283, 6270, 6272, 6278, 6213, 6215, 6218, 6231 → 1087 - 1093, 1106, 1107, 1109, 1111
浜松工場 6224, 6229, 6233, 6227, 6235, 6225 → 1100 - 1105
1927年改造(9両)
大宮工場 6200, 6202, 6216 → 1097 - 1099
鷹取工場 6217, 6221, 6275 → 1108, 1110, 1117
浜松工場 6286, 6279, 6285 → 1112 - 1114
1928年改造(3両)
大宮工場 6273, 6274 → 1115, 1116
鷹取工場 6276 → 1118
改造後は、原則として改造工場の属する鉄道局管内に配置されたが、移動は激しかった。これは、電化や支線区の建設の進行により、制式機が配置されることによるものである。1933年(昭和8年)6月末現在では、17両が東京鉄道局(宇都宮、水戸、木更津、真岡、勝浦、高崎)、14両が名古屋鉄道局(信濃大町、高岡、美濃太田、福井、長野工場)、15両が大阪鉄道局(米子、鳥取、出雲今市、浜田、和歌山、貴生川)、3両が仙台鉄道局(鰺ヶ沢、野辺地、青森)に配属されていたが、うち4両は廃車前提の第2種休車であった。

1945年(昭和20年)3月末には24両が在籍していたが、1952年(昭和37年)には2両となり、間もなく全車が除籍された。

民間へは13両が払下げられている。

1078(1940年) → 三井鉱山三池鉱業所 20
1080(1939年) → 日鉄鉱業赤谷鉱業所 1080 → 羽鶴鉱業所
1083(1940年) → 筑前参宮鉄道 8(→西日本鉄道宇美線) → 鉄道省(1944年)
1088(1940年) → 加悦鉄道 1088
1090(1939年) → 日本製鐵八幡製鉄所 350
1097(1940年) → 東洋埠頭 1097
1099(1938年) → 東北振興化学 1099
1102(1939年) → 日曹炭鉱天塩砿業所専用鉄道 1102
1103(1942年) → 西日本鉄道(宇美線) 1103 → 鉄道省(1944年)
1107(1939年) → 江若鉄道 1107
1113(1940年) → 夕張鉄道 1113
1117(1941年) → 江若鉄道 1117 → 桜島埠頭 1117(1949年)
1118(1937年) → 江若鉄道 1118
西日本鉄道に譲渡された2両は、1944年の戦時買収により再び国鉄籍となった。番号は、八幡製鉄所へ譲渡された1090が350に、三井鉱山三池鉱業所へ譲渡された1078が20に改められた以外は、国鉄時代の番号のまま使用された。このうち、八幡製鉄所の350は先輪のボギー台車と従輪を外して軸配置を2-4-0 (1B) に改造され、前部を詰め背部炭庫を縮小して寸詰まりのユーモラスな姿となっていた。

江若鉄道の1107, 1108や日鉄鉱業の赤谷鉱業所から羽鶴鉱業所に移った1080が1960年代まで使用され、特に羽鶴鉱業所の1080は1970年代後半まで現役で使用された。1080(旧6289)は、使用終了後に非公開で保管されていたが、2008年(平成20年)7月に西日本旅客鉄道(JR西日本)へ譲渡の申し入れがされた。これを受け同社は、現在唯一残る貴重なD9系蒸気機関車であることから、2009年(平成21年)9月以降の梅小路蒸気機関車館での保存を決定した。保存実施後は同館保存機では最古の、かつ唯一の明治時代に製造された車両となる。その後、2009年11月14日に同館で日鉄鉱業からJR西日本への譲渡式が行われた。2016年4月に梅小路蒸気機関車館を拡張・改称した京都鉄道博物館で引き続き保存されている。

主要諸元
全長:11,381mm
全高:3,808mm
軌間:1,067mm
車軸配置:4-4-2(2B1)
動輪直径:1,520mm
弁装置:スチーブンソン式
シリンダー(直径×行程):406mm×610mm
ボイラー圧力:11.0/12.0kg/cm2
火格子面積:1.32m2
全伝熱面積:73.9m2
煙管蒸発伝熱面積:66.1m2
火室蒸発伝熱面積:7.8m2
ボイラー水容量:3.3m3
小煙管(直径×長サ×数):45mm×3,229mm×163本
機関車運転整備重量:48.00t
機関車空車重量:36.00t
機関車動輪上重量(運転整備時):23.70t
機関車動輪軸重(第1動輪上):12.00t
水タンク容量:6.20m3
燃料積載量:2.5t
機関車性能
シリンダ引張力:6,190kg(11.0kg/cm2のとき)
ブレーキ装置:手ブレーキ、真空ブレーキ → 空気ブレーキ

自律型水中環境モニタリングロボット(REMUS100)水中無人機OZZ-1 4OT(海上自衛隊)

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自律型水中環境モニタリングロボット(REMUS100)水中無人機OZZ-1 4OT(海上自衛隊)

REMUS(リモート環境監視ユニット)シリーズは、自律型無人潜水機(のAUV)によって行われたウッズホール海洋研究所とその海洋システム研究室(OSL)によって設計されました。より最近では、REMUSはスピンオフ会社Hydroid Inc.によって製造されています。このシリーズは低コストに設計されており、ラップトップコンピュータから操作できます。

REMUS100は、小型のAUV(UUV)です。
サイドスキャンソナーはもちろんCTセンサー、ビデオカメラ、クロロフィルセンサー、酸素センサー等を搭載する事が可能です。
航続時間は最大で22時間と長く、またオペレーションソフトは誰でも出来るように簡単に出来ています。

小型軽量
レイマスは小型軽量であるため(37kg)、運搬・投入・回収はすべて人力のみで行えます。
ミッション・オペレーションのために大型船や特別な設備を必要としません。
輸送コストを抑えて迅速に輸送できます。

信頼性
レイマスは米国ウッズホール海洋研究所(WHOI)で開発されました。
5年間の製品開発・試験期間において何千時間ものフィールド・オペレーションをこなし、その信頼性は実証済みです。
現在、世界で200台以上が実用機として利用されており、沿岸・港湾・湖などの環境モニタリングや水中捜索に活躍しています。
また、レイマスは機雷掃海のために米国海軍が選んだ唯一のコンパクトAUVです。

操作性
レイマスのオペレーションは驚くほど簡単です。
直感的に扱えるGUI(グラフィカル・ユーザー・インタフェース)は、数日のトレーニングを経て誰にでもオペレーションが行えるように配慮しています。
オペレーションには特別な知識を必要としません。

装備
レイマスは下記の標準センサー、システムを装備し、データ記録を行います。
ADCP(超音波ドップラー多層流向流速計/上方下方2式)
サイドスキャンソナー
温度と電気伝導度
バックスキャッター
ナビゲーション(LBL、USBL、DVL推測航法)
また、使用目的によりユーザーが必要な他のセンサーカメラ、クロロフィル計、シアープローブなど)を組み込むことができます。

仕様
寸法(直径×長さ) 19 cm×160cm
重量 (空中) 37 kg
トリム重量 (空中) 1 kg
耐圧 100m(標準)
電池 1 kwh 充電式リチウムイオンバッテリー
航続時間 1.5m/s(3ノット)で22時間2.5m/s(5ノット)で8時間
推進力 直流ブラシレスモーター直結駆動、三枚プロペラ
速力 0.25m/s から 2.8m/s(1~6ノット)
制御 2連縦横フィン
起動 マグネットスイッチ
外部接続 2ピン:イーサネット、レイマスの電源、バッテリーの充電
4ピン:シリアルコネクター
ナビゲーション LBL(Long Base Line)、USBL(Ultra short base line)、DVL推測航法 (オプション:GPS)
トランスポンダ 周波数 20-30 kHz
トラッキング 緊急トランスポンダ、ミッション中止、ORE社 トラックポイント
センサー ADCP(DVL)流速プロファイラー(RDI社 1200kHz 2式・上方下方)
サイドスキャンソナー 600、900、1200kHzから選択(MSTL社 AUV model)
Light Scattering Sensor(Wetlabs社 LSS600) 水温/電気伝導度センサー(YSI社 600XL CT)
ソフトウェア GUIベースのノート型コンピュータ対応ソフトウェア
(ミッションプログラム、トレーニング、ミッションの分析、記録、メンテナンス・トラブルシューティングデータ出力及びHTML報告書作成、Matlab及びASCIIデータ出力)

対地速度計DVL
標準の対地速度計は、1200kHzDVLですが、エクスプローラDVL600kHz(オプション)にする事で最大海底探知深度を65mにする事ができます。

WetLab社製 クロロフィルセンサー
環境センサーとしてクロロフィルセンサーや酸素センサー等を搭載する事ができます。

Hovering
Hovering機能を搭載する事で設定した場所でのホバーリングを行いターゲットを精密に調査する事ができます。

Wi-Fi
Wi-Fi機能を搭載する事で有線でのデータのダウンロード、ミッションファイルの送信がなくなります。その為REMUS自体が海面に浮上している状態でデータのダウンロードを行い、次のミッションを送信し、すぐに観測に入れます。

すべてが魚雷型ですが、REMUSの設計はいくつかあります。彼らは最大サイズのREMUS 6000を3.84メートル(12.6フィート)から直径が最小のREMUS 100 まで変化させています。中規模のREMUS 600は以前はREMUS 12.75として知られていました。その直径は12.75インチ(32.4cm)である。それは、それが動作できる最大深度に対応するように600に改名された。

REMUSユニットが中に2003年に成功裏に使用されたイラクの自由作戦、地雷を検出するために、と2011年に行方不明の航空機「のための第四探索中にブラックボックス墜落から」エールフランス 航空AF447.、彼らが正常に見つけました。 3つのREMUS 6000ユニットがAF447検索で使用されました。コロンビア大統領が投稿した動画ではフアン・マヌエル・サントス、REMUS 6000で使用されて見られているコロンビア海軍の沖1708年に沈んガレオン船サン・ホセの難破船、カルタヘナ・デ・インディアスを調査。

福島町停留場(広島電鉄本線)

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福島町停留場(ふくしまちょうていりゅうじょう、福島町電停)は、広島市西区福島町二丁目にある広島電鉄本線の路面電車停留場。停留所名は周辺の地名によるものですが、停留場より徒歩3分の距離には西区役所があり、西区役所前の副名称がつけられている。


本線はほぼすべての区間で軌道が道路上に敷かれている併用軌道であり、当停留場も道路上にホームが設けられている。

ホームは低床式で2面あり、東西方向に伸びる2本の線路を挟み込むように向かい合って配置されている(相対式ホーム)。線路の北側に広島駅方面の上りホーム、南側に広電西広島駅方面の下りホームがある。広島駅方面ホームが若干長くなっています。

運行系統
本線には広島電鉄が運行するすべての系統が乗り入れるが、このうち当停留場には2号線、3号線、それに0号線が乗り入れいている。

上りホーム 0号線 日赤病院前ゆき・広電前ゆき
2号線 広島駅ゆき
3号線 宇品二丁目ゆき 朝時間帯は広島港ゆき
下りホーム 2号線 広電宮島口ゆき
2号線3号線 広電西広島ゆき
電照式駅名標が現存しています。

周辺
停留場は平和大通りのほぼ西端に位置している。周辺は主に住宅街となっているほか、中小規模の工場や事業所も点在する。太田川放水路は西へ徒歩5分の距離。西区役所は南西に位置し、停留場近くには「西区役所前」バス停もある。

広島酔心調理製菓専門学校
広島市西保健センター
広島市西地域交流センター
福島生協病院

 

福島町停留場は1912年(大正元年)12月、本線が己斐まで全通した際に開設された停留場である。ただ当時の軌道は今よりも北側、土橋方面から己斐までを一直線に結ぶように敷かれていて、停留場も今より北側に設置されていた。周囲は山手川と福島川という2本の河川に挟まれた土地で、本線はこの2河川を軌道専用橋にて渡っていた。1945年(昭和20年)8月6日には広島市に原爆が投下され広島電鉄の市内線も休止されるが、当停留場を含む本線の己斐 - 西天満町間は被爆から3日後の8月9日に運行を再開している。

停留場のあった場所を挟み込むようにして流れていた2河川は、1932年(昭和7年)から戦後にかけて行われた太田川放水路の造成工事に利用され、山手川は拡幅され放水路の流路となり、福島川は埋め立てられて廃川となった。また軌道専用橋も福島川に架かっていたものは役目を終え、山手川に架かっていたものも拡幅された放水路の規模には対応できなかったため、代わって道路(平和大通り)と軌道の併用橋である新己斐橋がそれより南に新設された。1964年(昭和39年)、軌道はこの新己斐橋を渡るように平和大通りを経由する新線へ移設され、福島町停留場も新線上の現在地に移された。

1912年(大正元年)12月8日 - 開業。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下により休止。
8月9日 - 本線の西天満町 - 己斐間が復旧。
1964年(昭和39年)9月1日 - 線路付け替えにより軌道とともに移転。このときは下り線のみの移設で、上り線は9月7日に移設された。

駅番号 ●M18
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■本線
キロ程 4.7km(広島駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1912年(大正元年)12月8日

非常用位置指示無線標識装置(海上自衛隊 掃海艇ゆげしま)

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非常用位置指示無線標識装置(ひじょうよういちしじむせんひょうしきそうち、Emergency Locator Transmitter )とは、船舶の遭難時に無線信号(遭難信号)を発信する装置のこと。イーパブ (E-PIRB - Emergency Position Indicate Radio Beacon )とも呼ばれる。Global Maritime Distress and Safety System (GMDSS) によって規定された設備の一つ。
船舶への設置にあたっては、無線局の免許が必要となる。
航空機向けの製品は航空機用救命無線機である。

沈没など遭難時に406MHzの電波を発射し、人工衛星(コスパス・サーサット)を介して各国主務管庁(日本では海上保安庁)に船名及び国籍を送信(この登録のために無線局免許が必要)、連絡が届き次第、捜索が行われることとなる。 手動でスイッチを操作して救難電波を発射する方法と沈没時におおむね水深4m以上に該当する水圧が加わると動作する水圧センサーにより取り架台から自動離脱、浮上し電波を発射する方法がある。


日本製品
総務省令無線機器型式検定規則による検定機器でなければならない。 検定機器には検定マークの表示が義務付けられている。 EPIRBを表す記号は、検定番号および機器の型式名の1-2字目のSE又はSSである。(無線機器型式検定規則 別表第8号)
遭難自動通報局(または無線航行移動局あるいは船舶局の無線設備の一部)として免許される。
太洋無線、日本無線などの無線機器製作会社が数種類の機器を製作している。価格は18万円~40万円程度。

遭難信号による把握が容易になったものの、誤作動や誤発信が非常に多い。子供のいたずらや、廃棄処分となった船舶の解体中にスイッチが入れられるなどの例もあるという。また、操作方法は単純化されているものの、電池の消耗を避けるために通電防止用の紙を挟んだり出港後にスイッチを「切」から「待機」に切り替えるのを忘れたりしてしまい、遭難時に気が付かず作動できなかった事例もある。

 


エアロコマンダー680E (双発軽飛行機)アエロ社

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エアロコマンダー680E 双発軽飛行機 (アジア航測) JA5074
この機種は、アメリカのアエロ社が1952年(昭和27年)から生産した7人乗りビジネス飛行機です。この機体は、地図を作るため地上の写真を撮影する航空測量に使用され、無事故で活躍しました。この展示物は、エンジンをモーターに換装してあり、有料で機内に搭乗できる双発プロペラ作動体験機です。∥AERO COMMANDER 680E ASIA AIR SURVE(寄贈 アジア航測) 年代:1952年生産開始

エアロコマンダー 680E:560Eの軽量型、100 機生産

エアロコマンダー 500シリーズ(Aero Commander 500)は1940年代後半に開発されたアメリカ合衆国のレシプロエンジン双発の軽飛行機シリーズである。1985年まで生産され、2000機ほどが生産された。

エアロコマンダー 500シリーズはダグラス・エアクラフトの技術者、テッド・スミスが構想したが、会社は興味を示さなかったので、スミスのグループは Aero Design and Engineering Company という会社をつくって、自主開発をすることにした。当初3機の試作機の製作を計画したが、試作機は1機だけとなり、NX1946と登録され、1948年4月23日に初飛行した。乗客5人を収容でき、ライカミング O-435-Aエンジンを搭載した全金属製の高翼機である。

試作機は成功し、資金を得ることができ、オクラホマシティ近くのベサニーに生産工場を作り、1951年8月に新工場から生産型がロールアウトした。最初のモデルはコマンダー 520と命名された。

軍用としては、最初、L-26連絡機として採用されたが、1962年に米空軍用としては雑用機の記号 U-4となり、陸軍用はU-9という記号で呼ばれた。

1956年から1960年の間、U-4Bの1機がドワイト・D・アイゼンハワー大統領の移動専用機として使われた。大統領専用機「エアフォースワン」としては最も小さい機体で、現在のエアフォースワンの白と青の塗装がはじめて採用された。ベルギー空軍では1961年から1973年の間、王室の専用機として運用された。

1950年に耐空証明審査のための作業中に片発飛行の安全性と性能をアピールするため、片方のプロペラを取り外して、工場のあるベサニーからワシントンまで、片発で飛行した。ワシントンで民間航空局(CAA)の担当者と会った後、プロペラをとりつけてオクラホマへ帰還した。この飛行は新聞に取り上げられた。

1991年の始めに老朽機の主翼の主桁の疲労による事故が問題となった。1961年から1993年にかけて24機が主翼を失う事故で墜落事故を起こし、35機の翼の桁でクラックが発見された。

1964年6月19日にエドワード・ケネディが乗ったエアロ・コマンダー 680が着陸時に2人の死亡者をだす事故を起こし、ケネディも重症を追った。1971年5月28日、有名な俳優で、監督のオーディ・マーフィの乗ったエアロ・コマンダー 680が悪天候のなか墜落し、マーフィの他、5人の乗客とパイロットが死亡した。

乗員: 2名
乗客: 4名
全長: 11.22 m
全幅: 14.95 m
全高: 4.42 m
空虚重量: 2,102 kg
総重量:3,062 kg
エンジン: 2 × Lycoming IO-540-E1B5 エンジン 、290 hp
最高速度:346 km/h=M0.28
巡航速度:326 km/h=M0.27
失速速度:109 km/h=M0.08

日野駅 (近江鉄道本線)

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日野駅 (ひのえき)は、滋賀県蒲生郡日野町にある近江鉄道本線の駅。


近江鉄道の主要な駅(主管駅)の一つで、日中のみ有人駅となる(平日7:30~9:00および15:45~19:35、土日祝7:30~11:45)。


当駅~貴生川駅間において、朝と夜に当駅を始発・終着とする便が運行されている。

相対式ホームの間に中線を挟んだ2面3線の地上駅で、ホームは千鳥配置となっている。中線が一線スルーとなる配線である。駅舎は東の1番線(水口・貴生川方面行きホーム)側にある。

反対側の2番線(八日市・米原方面行きホーム)へは、遮断機の付いた構内踏切で連絡している。両のりばとも、折返し可能であり、当駅発着の列車に活用されている。


駅舎は1900年(明治33年)開業以来のものであると考えられてきたが、1916年(大正5年)に待避線増設工事のために改修工事を受けていたことが判明した。

なお、私鉄最古の現役駅舎とされ、2016年1月に役目を終えた南海電鉄浜寺公園駅の駅舎は1907年(明治40年)築であり、日野駅も現役最古級である。

2015年12月、近江鉄道は駅舎解体を検討中と日野町に伝えたが、藤沢直広町長は日野の宝として現駅舎の保存に向けて近江鉄道と協議を進めていると、2016年3月に町議会で明らかにした。


1986年から1996年に八日市 - 貴生川間ではレールバス(LE10形)が運行されていたが、それにあわせて当駅にレールバスの基地が設けられていた。現在もその名残で構内は広く、屋根の付いた車庫も残されている。 当駅の窓口では硬券が日常的に用いられており自社線内の駅と、貴生川経由でJR西日本の駅までの乗車券を購入することができる。

上りホームには立派な木造上屋のある待合所があります。ホームには誘導ブロックがありますが列車接近装置はありません。

近江鉄道本線が、八日市 - 日野間を1900年に開業した際に、当駅は開設された。当時、近江鉄道では建設費用を抑えるために、駅を郊外に設置する方針であったが、地元ではより町中心部に近い場所への設置を求めて陳情を行ったという記録が残されている。

1916年(大正5年)に、待避線を設置する工事のために駅舎が改築され、その費用の57パーセントを地元の住民が負担したほか、必要となる土地も地元の村が買収した上で近江鉄道に寄付した。


近江鉄道本線の中でも輸送量の少なかった八日市 - 貴生川間で、費用の節減を狙って1986年からLE-Carと称するレールバスの運行を開始し、このために日野駅構内にはレールバスの車庫と給油・給水施設が設置された。

しかしレールバスは整備に費用が掛かる傾向にあり、また輸送力が不足していたことからラッシュ時に電車の運行が残されていたこともあり、1996年にレールバスの運行は終了となって、全列車が電車による運行に戻された。


築100年以上経過し、老朽化が進んできた駅舎の取り壊しが検討されるようになってきたが、地元の日野町では駅舎は町の宝であるとして保存のための予算を計上し、耐震補強の実施や、タクシー乗務員待合室に使われているスペースに観光案内所やカフェスペースを設けるなどの改修事業を実施する方針となり、2016年度中に完成させる方向で近江鉄道と協議している。

駅自体は日野町の西の外れにあり、町の中心部からは2kmほど離れている。
駅の西側は田園地帯で、住宅地は駅舎のある東側に向かって広がっている。
滋賀県道183号日野徳原線
内池郵便局
日野町立必佐幼稚園
日野町立必佐小学校
東近江警察署北比都佐警察官駐在所
内池公園
日野川
滋賀県立日野高等学校
日野町役場
近江日野郵便局
JAグリーン近江 日野西総合支店
日野町立日野中学校
日野町立日野小学校
母子健康センター
滋賀農業公園 ブルーメの丘
グリム冒険の森

 

1900年(明治33年)
10月1日 - 八日市 - 当駅間の開通に伴い設置。
12月28日 - 当駅 - 貴生川間の開通に伴い、途中駅となる。
1916年(大正5年) - 待避線を設置する工事に伴い駅舎改築。
1972年(昭和47年)10月 - 貨物取り扱いを廃止。
2017年(平成29年)10月1日 - 新駅舎および観光案内交流施設が完成


所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 37.8km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面3線
乗車人員
-統計年度- 481人/日(降車客含まず)
-2014年-
乗降人員
-統計年度- 953人/日
-2014年-
開業年月日 1900年(明治33年)10月1日

65式 66cm測距儀(海上自衛隊)

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65式 66cm測距儀は出入港時に岸壁や障害となるものとの距離を計測したり、陣形運動時に自艦と先行艦との距離計測等に使用する。海上自衛隊では艦艇の基本装備として多くの艦艇に搭載されています。

レーダーやレーザーなどによる測距も一般的にいるが、このようなアナログな測距儀も残されている。入出港の際など、防波堤や岸壁との距離を測るために頻繁に現在も使用されている。


光学視差式を採用した測距儀で、左右の対物レンズから取り込んだ画像を距離計と連動したプリズムで合成プリズムに送り、接眼レンズから覗いて画像を重ね合わせ、距離を測ります。左右の対物レンズの間隔を基線長と呼び、基線長が長いほど精度が高くなります。接眼レンズから覗いた時に画像が上下に分割されているタイプと二重に重なっているタイプがあり、65式66cm測距儀は上下に分割されているタイプです。

取り外し式で、通常は艇内ブリッジに保管され使用する時のみ艦橋ウイングのブルワークに取り付ける。なお、現用艦が装備する測距儀はこの航海用だけです。

接眼部の右側にプリズムを回転させるダイヤルがあり、覗きつつ目標の画像が上下でぴったり揃うように調整し、揃ったところで距離計を読んで距離を測ります。

製造メーカー:興和株式会社

 

国鉄117系電車(濃黄色)編成番号C103(岡山電車区・100番台)

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117系電車(117けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1979年から製造した直流近郊形電車。1979年から1986年にかけて、主に老朽化した153系の代替用として216両が製造され、1987年の国鉄の分割・民営化時には東海旅客鉄道(JR東海)に72両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に144両がそれぞれ承継された。

京阪神地区の東海道本線・山陽本線で運行している新快速には、1972年からそれまでの113系に代えて、山陽新幹線岡山駅開業に伴う山陽本線急行の淘汰で余剰となった153系が投入されていた。153系はこの時点では113系と異なり、既に冷房装置を搭載していたが、製造初年が1958年と古く、座席がボックスシートであり、並行する阪急電鉄京都線や京阪電気鉄道京阪本線の特急車両がいずれも転換クロスシートを採用していたのに比べると見劣りしていた。また、本来は急行形車両として設計された車両であり、デッキを有する客室構造はラッシュ時の輸送に難点があった。
117系は153系のこうした問題点を解消し、かつ、並行私鉄に対抗できる客室設備を備え、京阪神地区の輸送事情に適合する車両として設計された。客室設備は1975年に北九州地区に投入されたキハ66・67系を基本としており、それまで一貫して車両の標準化を推進してきた国鉄が地域の事情に応じて設計、製造した嚆矢となっている。
新造開始後、本系列による新快速には153系時代の「ブルーライナー」に対して、「シティライナー」という新たな愛称が与えられた。
さらに、1982年には東海道本線名古屋地区の快速に使用されていた153系の置換え用として、「東海ライナー」という愛称で名古屋地区にも投入されている。

車体
全長20 mで、各種の腐食対策が施された鋼製車体に片側2か所の半自動対応の両開扉を設置する。
屋根部分は張り屋根となっており、車両妻面上部には押え用金具を確認することができる。車体番号は、車両側面にステンレス製の切り抜き文字を張り付けている。
外観から見た側面の構造は先行するキハ66・67系・阪急2800系などに類似しているのが特徴で、戸袋部を除いて2段上昇式の窓を2セットずつ1組としたユニット窓が並ぶ。このため、窓配置は制御車がd1(1)D(1)2222(1)D(1)2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)、中間電動車が2(1)D(1)2222(1)D(1)2という独特の形態である。
客用扉窓および戸袋窓に設置するガラスの支持方式を、従来のHゴム式から押え金式に変更した。
前面形状も独自のもので、157系に類似する「鼻筋」の通った流線形の構体に高運転台、左右各2灯を腰部に備えた前照灯、中央窓下に設けられた列車種別表示器とタイフォン(警笛)、と従来にないデザインとなっている。
塗装はクリーム(クリーム1号)を基本とし、マルーン(ぶどう色2号)の細帯が窓下に入る構成である。

登場時の6両編成はパンタグラフが一般的な電動車ユニット2両の中央寄りではなく、一方の外側寄りに搭載されていることが特徴。

JR東海所属0番台車の車内
このクリームとマルーンの2色塗装は新快速のルーツである急行電車[注釈 4]に使用されていた52系や、戦後の1950年に製造された80系の塗装に類似した、大阪鉄道管理局伝統のカラースキームに則った塗色が選ばれている。従来、国鉄の近郊形電車は電気方式が同じであれば同一の塗装を施すルールとなっていたが、本系列ではそのルールを打破して系列専用色が採用され、以後、105系などで地域固有色が採用される先駆けとなった。

冷房装置の両脇に設置された新鮮外気導入装置
冷房装置は国鉄標準のAU75B集中式冷房装置を屋根中央に搭載するが、その前後にキハ183系や781系などと同様に新鮮外気導入装置を設置している。そのため、従来の車両に取り付けられていた押込式通風器は廃止されている。
座席は全席転換クロスシートでつり革は一切設けられず、車内妻面の化粧板を木目調の仕上げとして、さらに蛍光灯には乳白色のグローブ(カバー)が取り付けられるなど、近郊形電車としては破格の高級感を演出している。天井は平天井となったが、両隅(荷棚上部)に境目があり角張っている。この処理は製造初年が近い781系や185系も同様であり、本系列以前では新幹線0系[注釈 7]や京成旧AE形にも見られた特徴である。また、編成中に1か所、和式便所を備える。
なお、当初計画された車体は前面形状が異なり、客用ドアは実際に採用されたものより各々910mm車端寄りにあり、車体塗色は711系に倣い赤2号にクリーム4号で、車端部にロングシート、室内化粧板は薄茶色6号、屋根に押し込み式通風器があるというキハ66に近いものであった。
主要機器
設計当時の標準品を多用しているが、最高速度が従来の近郊形電車の標準である100km/hから110km/hに引上げられた関係から、その多くは上位機種を採用している。
電源・制御機器
MM'ユニットを採用し、M車(モハ117形)には主制御器・抵抗器 (MR136)・集電装置が、M'車(モハ116形)には電動発電機・電動空気圧縮機が搭載される。
主制御器は CS43(381系)の流れをくみ、信頼性と保守性を考慮して417系で使用し、実績のあった電動カム軸式の CS43A で、抵抗制御と直並列制御を組み合わせて加減速を行う。勾配抑速ブレーキや条件が整っていれば並列段からの再加速が可能である。当時すでに16 - 17年に亘って増備が継続していた113系では153系と共通のCS12系が、115系では165系と共通のCS15系がそれぞれ最終増備車まで搭載されたが、新形式の本系列には、カム軸機構の改良などにより内部動作の多段化が行われスムーズな加速を可能とした、当時最新のCS43Aが採用されることになった。主制御器1基で2両8基分の主電動機を制御する1C8M方式である。主電動機は当時の国鉄電車の標準機種の一つであり、113系などと共通の直流直巻式整流子電動機であるMT54Dを装備し、歯車比も従来の近郊形と同様の1:4.82とされた。
制御用や冷房用電源として、東芝が原設計を担当した電動発電機 MH135-DM92 を採用する[6]。103系や113系・115系などで採用された実績のあるタイプであり、集電装置からの直流1,500Vを電源として三相交流440V 60Hz(定格容量160kVA・4両給電)を出力する。
空気圧縮機は、集電装置からの直流1,500Vを電源とした2段圧縮直結駆動式の MH113B-C2000M を搭載する。


台車
台車は高速走行時の走行特性やDT24系空気バネ台車を装着していた153系からの置き換えであることなどを考慮し、近郊形標準のDT21系金属バネ台車ではなく、特急・急行形で使用実績のあるインダイレクトマウント空気バネ台車であるDT32E(電動車)・TR69H(制御車)を採用する。
集電装置
集電装置は設計当時に直流形電車の標準品であったPS16系菱形パンタグラフであるが、アルミニウム製の枠を使用し、湖西線での運用を考慮してばね部分にカバーを施した耐寒耐雪仕様のPS16Jが採用されている。
連結器
連結器は国鉄標準の柴田式密着連結器を採用するが、153系の運用形態を踏襲し、ラッシュ時に6両編成を2編成組み合わせて12両編成で運用する計画であったことから、増解結作業の容易化のために、連結器には国鉄初となる自動解結装置と電気連結器が採用されている[注釈 12]。
形式と編成
本系列の編成、および構成する諸形式を以下に示す。本系列は、電動車4両・制御付随車2両によるMT比2:1の6両編成を基本として計画・製造された。これは設計当時における国鉄の標準的な構成である。後年の編成組み換えにより、電動車2両・制御付随車2両による4両編成(MT比1:1)と電動車6両・制御付随車2両による8両編成(MT比3:1)が加わった。本系列においては、各派生番台も含め中間付随車は存在しない。
クハ117形 - 奇数(東海道本線上で東京より)向きの先頭に連結される制御車(Tc)。
モハ117形 - パンタグラフ、制御器を搭載する電動車(M)。モハ116形とユニットを組んで使用される。
モハ116形 - 電動発電機(MG)、空気圧縮機(CP)を搭載する電動車(M')。モハ117形とユニットを組んで使用される。
クハ116形 - 偶数(東海道本線上で神戸より)向きの先頭に連結される制御車(Tc')。
新造時の各番台の概要
0番台
1979年から製造された基本番台である。
1979年9月12日に川崎重工業兵庫工場で量産先行試作車となる第1編成6両が竣工し、各種性能試験と習熟運転の合間に鉄道記念日イベントの一環として同年10月13・14日に大阪・京都・神戸・姫路の各駅で車両展示会を開催した。
営業運転は1980年1月22日に第1編成を当時運行されていた新快速・快速の内、分割併合を伴わない単独運用に充当する形で開始された。
その後は同年3月末までに8編成48両が宮原運転所(現:網干総合車両所宮原支所)に出揃って同数の153系(クハ165形を含む)が捻出され、このうち状態不良の25両を廃車、名古屋鉄道管理局へ19両、長野鉄道管理局へ1両、広島鉄道管理局へ3両をそれぞれ転属し、各局に在籍する153系老朽車との置き換えや車両増に充当された。
これにより新快速は本系列8編成、153系13編成となった。さらに同年4月から7月にかけて2期目の置き換え作業が実施され、本系列が13編成新造されて予備編成を含めた新快速運用の必要数である6両編成21本(126両)が宮原運転所に揃ったことで、1980年7月10日には全新快速運用の本系列への置き換えが完了し、1972年3月以来約8年に渡って新快速に使用されていた153系が完全に淘汰された。153系は状態不良車39両が廃車され、27両は名古屋鉄道管理局へ、12両は東京南鉄道管理局へ転属となり、それぞれ153系状態不良車との置き換えが実施された。
さらに1982年には、名古屋地区用として、扉の半自動機能使用停止措置(戸閉機械は従来車と同一)[注釈 16]および自動解結装置の省略、パンタグラフの暖地仕様化、クハ117形へのトイレの設置など一部仕様を変更の上、大垣電車区に6両編成9本(54両)が投入されている。
100・200番台
国鉄の分割民営化直前に実施された1986年11月1日のダイヤ改正にともなう、京阪神地区の新快速増発用および名古屋地区の編成短縮(6両→4両)[注釈 17]による快速増発用に投入された増備車である。4年ぶりの増備であることから、その間の技術の進歩や運用実績を反映し、各部の設計が変更されている。主な変更点は以下の通り。
車端部の配電盤など、デッドスペースを減らして扉回りの立席スペースを拡大。
側窓を外はめ式のユニット構造から、2列1組のバランサー付き1段下降式に変更。
車体裾部にステンレス材を使用するなど台枠付近の防錆構造を強化[。
台車のDT50C(電動車)・TR235B(制御車)への変更と、これに伴う床面高さの45mm引き下げ(1235mm→1190mm)。
座席のセミバケットタイプへの変更。
冷房装置のAU75Eへの変更。
本番台車は京阪神地区用に6両編成3本(18両)、名古屋地区用に先頭車のみ18両(クハ117形、クハ116形各9両)、計36両が投入された。
クハ117形は、0番台では名古屋地区向けの増備車においてトイレ付きに変更されていたが、京阪神地区向けは従来車に合わせて再びトイレなしに変更された。一方、名古屋地区向け車は従来の6両編成を3両ずつに分割の上、それぞれに新造の先頭車を連結するという方式[注釈 20]で投入されることとなった。よって、名古屋地区向けでは全ての編成で1両だけ形態の異なる先頭車が連結されることになった。なお、編成中のトイレを1箇所とするため、クハ117形100番台は京阪神地区向けと同仕様のトイレなしで、クハ116形は京阪神地区向けと異なるトイレなし仕様の200番台として投入された。なお、名古屋地区向けは編成短縮と同時に神領電車区に転属し、中央西線快速の増発にも充てられた。
運用
本系列は新造以来国鉄分割民営化まで、京阪神・名古屋両地区において新快速・快速を中心に運用された。
国鉄の分割民営化に際しては、京阪神地区への投入車は全車JR西日本に、名古屋地区への投入車は全車JR東海に承継され、両者間でのやりとり(連結・譲受など)は現在まで皆無となっている。2013年3月16日のダイヤ改正で、JR東海所属車は全て定期運用を失い、2013年度中に全て廃車された。

JR西日本
新快速運用からの撤退と転用
JR西日本発足時、144両(6両編成24本)が宮原電車区に配属されていた。
1988年3月13日ダイヤ改正で運用範囲を彦根から米原まで延長するなど勢力を拡大し、翌1989年3月11日ダイヤ改正では朝ラッシュ時間帯に2編成連結した12両編成「新快速」での運転を開始した。しかし、同時に221系が登場し、徐々に新快速での運用を縮小することとなる。1990年3月10日のダイヤ改正から新快速の最高速度を115km/hに引き上げた。また、新たに福知山線(JR宝塚線)での運用を開始することになり、48両(6両編成8本)が福知山色(クリーム10号に緑14号の帯)に塗装変更された。
1991年3月16日ダイヤ改正では早朝深夜を除いて新快速の最高速度が120km/hとなった関係で、新快速運用は米原 → 大阪と大阪 → 野洲の2本のみとなり新快速の運用が縮小したことから、6両編成10本(C11 - C20編成)を8両編成5本と4両編成5本に組み替え、4両編成は奈良線快速に、6・8両編成は米原 - 網干・播州赤穂間の快速列車に充当した。同年9月14日に北陸本線(米原 - 長浜)直流電化が完成したことから、運用範囲が長浜まで拡大している。
1992年3月14日ダイヤ改正では、岡山・広島地区の115系非冷房車置き換えと岡山地区の快速「サンライナー」(岡山地区への転用を参照)充当のため岡山電車区・広島運転所(現・下関総合車両所広島支所)へ転属した[21]。サンライナー向けに投入する編成は4両編成であり、その他組み替えで発生した余剰車を115系へ改造し組み込み115系非冷房車を置き換えた(。これにより、117系として、初めて車両数が減少した。また、福知山線混雑対策として座席のセミクロス化を行った。
新快速用に残った117系も、片側2扉という構造で乗客数の増加に対応できず、さらに120km/h運転に対応できないことから日中とラッシュ時の新快速運用への充当が困難になり、1992年3月14日のダイヤ改正以降は新快速運用は原則的にダイヤと輸送力に余裕がある朝晩のみ、それも大阪駅 - 京都方面間限定[注釈 24]とした。そして、1999年5月11日のダイヤ改正から新快速の西明石 - 草津 間130km/h運転開始に伴い、定期新快速運用が終了した。
2016年現在、原形をとどめるのは、吹田総合車両所京都支所(旧:京都総合運転所)の8両編成2本16両のうちの12両。残り4両にはトイレの増設とバリアフリー対応化改造が行われた。2004年10月10日に「リバイバル新快速」として、限定運用ではあったが再び新快速運用に充当された。また、2009年4月には湖西線の臨時列車で再び新快速運用に充当された。
しかし他線区へ転用された車両も、福知山線(JR宝塚線)では221系による丹波路快速が2000年3月11日に運転が開始されたことによって運用が削減。奈良線では2001年3月3日から221系によるみやこ路快速の運転開始に伴って運用が終了する一方、紀勢本線・和歌山線・山陽本線下関地区で運用が開始するなど、さらなる運用範囲の変化が発生している(下関地区の運用は2016年1月に終了)。

福知山線(JR宝塚線)へ転用された]編成は、当初塗装を変更したのみで客室設備は変更しなかった。[しかし、片側2扉では乗降に時間を要することから、通勤時間帯を中心に慢性的な遅延が発生していた[25]。そこで、混雑緩和対応策として改造されたグループが本番台である[25]。車両番号は元番号+300となり、1992年3月以降に計58両が改造された[26]。改造内容を以下に示す。
乗降扉に近い転換クロスシート3列を撤去してロングシートを設置[注釈 26]
ブレーキに応荷重装置を追加し、元空気ダメ圧力を変更[26]した。
新旧番号対応
モハ117/116-3 - 16, 19, 20, 41, 42 → モハ117/116-303 - 316, 319, 320, 341, 342
クハ117/116-2 - 8, 10, 18, 20, 21 → クハ117/116-302 - 308, 310, 318, 320, 321
京都地区への転用
300番台改造が施しても福知山線(JR宝塚線)のラッシュ輸送に対応しきれないため、ラッシュ時には乗客の比較的少ない朝晩の列車が運用の主体になり、2000年3月から同線から撤退を開始。JR福知山線脱線事故を受けたATS-P保安装置設置を期に、機器未搭載だった残りの車両も運転再開(2005年6月19日)を前に全て撤退した。これらの車両を転用したのが始まりである。
当初は宮原運転所所属のままだったが、2006年5月から6月にかけて京都総合運転所に転属した[27]。湖西線・JR嵯峨野線(現在は運用終了)・JR琵琶湖線・草津線で運用されている。(2006年10月21日の湖西線・北陸本線永原から敦賀での直流転換がなされたが、地上設備の関係で従前の通り湖西線永原が北限である。)2002年から2009年にかけて福知山色の車両は順次オリジナル塗装に戻されたが、現在は緑単色塗装への変更が進んでいる。なお、2007年から2009年にかけてATS-P保安装置の取り付けが行われた。


岡山地区への転用

下関から転入した100番台(E-07編成)。この編成のみ前面窓枠が黒く塗装されている。

1992年に0番台4両編成6本(24両)が岡山電車区に転用され、快速「サンライナー」などで使用開始した。転用に際して、吹田工場で外部塗色を白に赤のグラデーションに塗り替え、トイレの汚物処理装置を循環式からカセット式に交換している。これらは1999年に後藤総合車両所でワンマン運転対応改造を施工されたが、車内で運賃を収受しないことから運賃箱などは設置されていない。転用車は次のとおり。
編成番号 クハ117 モハ117 モハ116 クハ116 備考
E01 9 18 18 9 2015年9月14日廃車
E02 11 22 22 11 2015年9月9日廃車
E03 13 26 26 13 2015年10月13日廃車
E04 15 30 30 15
E05 17 34 34 17
E06 19 38 38 19
E07 101 101 101 101 2015年8月12日転入
E08 102 103 103 102 2015年8月30日転入
E09 103 105 105 103 2015年10月2日転入
100番台4両編成3本(12両)を宮原総合運転所から借入し、E11 - E13編成として岡山地区でのローカル運用を中心に米子地区での多客輸送臨時列車としても運用した。しかし100番台に装備されていたトイレの循環式汚物処理装置の抜き取り設備が岡山電車区にはなく、設備のある後藤総合車両所を拠点とする米子地区での運用時以外はトイレ使用停止状態で使用したため運用上の制約を生み、2005年10月までに下関車両管理室(現下関総合車両所)へ転用した。2010年2月8日に網干総合車両所に検査入場していたE05編成が濃黄色一色に塗り替えられて以降、順次塗装変更を行っていたが2016年7月のE04編成への施工をもってサンライナー色は消滅となった。
2015年に下関総合車両所運用研修センターから100番台4両編成3本(12両)が転入し、0番台4両編成3本(12両)を廃車とした。転入に際しては、汚物処理装置のカセット式への換装とE08・E09編成の濃黄色への塗り替えが行われた。
2016年7月から、サンライナー色消滅に伴いサンライナーのイラストが描かれた前面幕の表示を中止し、種別文字のみを表示するようになった。
同年10月19日から2017年9月まで、E05編成が地元のサッカークラブ・ファジアーノ岡山FCのラッピングを施した「ファジアーノ岡山ラッピングトレイン」として運行された[33]。
115系3500番台への改造[編集]
1992年に本系列を「サンライナー」へ転用する際、短編成化(6両→4両)によって発生した余剰中間電動車が山陽地区で使用されている115系の先頭車と混結できるよう改造されたものである。

新旧番号対応
モハ117/116-17, 21, 23, 25, 27, 29, 31, 33, 35, 37, 39, 303, 315, 316→モハ115/114-3501 - 3514
紀勢本線・和歌山線への転用
2000年3月に、福知山線(JR宝塚線)用の300番台4両編成2本が福知山色のまま日根野電車区へ転属し、G801編成、G802編成として和歌山線全線で使用されるようになったのが始まりである。それまでの和歌山線専用の同区113系湘南色車(G416編成・G417編成)による朝夕ラッシュ時の運用をそのまま移管する形で運用された。なお、運用の間合いで阪和貨物線の路線維持回送列車(錆取り列車)としても使用された。
運用上の常駐先であった新和歌山車両センター(現:吹田総合車両所日根野支所新在家派出所)のトイレ汚物処理設備が同車の循環式に対応しておらず、トイレは使用停止とされていた。2編成配置2運用使用であったため、日根野電車区での検査実施時には同区113系(阪和色車または湘南色車)が代走した。
2001年3月、先述の通りみやこ路快速の運転開始によって宮原総合運転所所属車による奈良線運用が消滅したため、同所0番台の6両編成1本(C14編成)が原色のまま日根野電車区へ転属前提で貸し出された。このうち4両が予定通りG803編成として就役し、上記113系の検査代走の置き換えに使用された。
同年12月、宮原総合運転所で余剰となった300番台先頭車(ともに308号)の2両と、上記G803編成とならなかった2両(40号電動車ユニット)が接客設備が異なったまま組み合わされ、ワンマン運転対応改造と外部塗装のオーシャングリーン地にラベンダー帯化が施工された上で、「G804編成」として翌年1月から和歌山線で運行を開始した。その後同区配置の残りの編成も順次ワンマン改造・塗装変更が行われた。
2002年3月、宮原総合運転所から下関車両管理室に貸出され、宇部線「きらら博」臨時快速列車として使用されていた4両編成1本(C12編成)が返却時に転入し、4両編成5本の陣容(G801 - G805編成)となった。この時日根野電車区所属車の運用範囲が阪和線日根野 - 和歌山間、紀勢本線(きのくに線)和歌山 - 紀伊田辺間にも拡大。同時に全編成がワンマン対応、塗装変更され、和歌山線でワンマン運転を開始した。ただし、4両編成のために無人駅でも全扉開放となることから不正乗車防止の観点から、扉扱いや車内放送を行わない特別改札車掌が乗務して車内改札を行うことが多い。
この際、運用上の拠点も循環式汚物処理装置の抜き取り設備が設置されている日根野電車区になったことから、トイレも使用可能となった。同年11月、所属が新和歌山車両センターに変更され、阪和線と紀勢本線御坊 - 紀伊田辺間での定期運用が消滅した。この際に各編成のトイレの汚物処理装置を循環式から使い捨てのカセット式へ交換し、トイレの使用可能状態を維持している。さらに2008年8月、所属が日根野電車区に戻された。2012年現在は和歌山線で運用されているが、日根野電車区の113系の臨時検査入場などで編成不足が起きた場合、代走として紀勢本線を走行することもある。ただし、不足が2本以上の場合は本系列は使用されず、奈良電車区の221系を使用する。しかし日根野区所属の117系は2014年春のダイヤ改正できのくに線(和歌山 - 御坊)での運用が減少した。
吹田工場に検査入場していたG3編成(現:SG3編成)が青緑色一色に塗り替えられ、2012年4月2日に出場した。
2015年11月と2016年1月に300番台4両編成2本(8両)が下関総合車両所運用研修センターから転属[35]。転属車のうち先頭車4両を廃車した上で、中間車4両をSG1・SG2編成に組み込み、代わりに0番台4両を廃車した。

下関地区への転用
2005年3月ダイヤ改正にともない、新山口 - 下関間の車両数不足により宮原総合運転所所属車を転用して運用を開始した。
2005年3月ダイヤ改正以前は、新山口 - 下関間でJR九州が所有する415系電車を一部便で使用していた。しかし同ダイヤ改正にて415系の下関以東への乗り入れは中止となり、新山口 - 下関間で車両が不足する事態となった。この事態に伴って宮原総合運転所所属の100番台2編成を岡山電車区に転属、岡山電車区から下関総合車両所への貸出という形で下関地区での運用を開始した。その後、100番台1編成と300番台2編成が下関での運用に追加される。2007年11月より正式に下関総合車両所の所属となった。
転用に際しての塗装変更は行われず、100番台はクリーム地にマルーン帯のオリジナル塗装、300番台は白地に緑色の2本帯を巻いた福知山線塗装のまま転用された。ただし前面の表示幕は使用されなかった。
2015年に、岡山電車区へ100番台4両編成3本(12両)が、吹田総合車両所日根野支所新在家派出所へ300番台4両編成1本が、それぞれ転出した。2016年1月に最後まで残った300番台4両編成1本が吹田総合車両所日根野支所新在家派出所に転出し、2016年4月時点では下関地区への配置はなくなっている。
転用車は。
編成番号 クハ117 モハ117 モハ116 クハ116 備考
C101 101 101 101 101 2015年8月12日転出
C102 102 103 103 102 2015年8月30日転出
C103 103 105 105 103 2015年10月2日転出
C104 302 311 311 302 2015年11月27日転出
C105 303 312 312 303 2016年1月25日転出

 

JR東海
民営化後の運用
民営化直後は、JR東海名古屋地区都市圏輸送(東海道本線、中央西線)の主力車として重用された。しかし、混雑の激しい中央西線ではその車体構造ゆえ乗客を捌き切れなくなり、1988年には3扉ロングシートの新製車211系5000番台に置換えられて撤退し全車が大垣電車区に転属した。東海道本線においては、後継の311系の登場によりメインの新快速を同系に譲ったものの快速用の主力として使用されてきた。しかし、1999年の313系投入に伴う運転速度引き上げが行われると、東海道本線の日中のダイヤは快速が最高速度120km/hとなり、普通についても211系5000番台3両編成 (2M1T) の走行性能を基準とするダイヤ編成となったため、最高速度、起動加速度ともに対応できない117系は日中の運用がほぼ皆無となり、朝晩のラッシュ時における金山 - 米原間の快速が中心となり、主に4両編成を2本連結した8両編成で運転された他、平日、あるいは土休日に1本程度の新快速運用が復活した。日中には浜松 - 豊橋間や大垣 - 米原間の運用が見られたが、ほとんどの編成は大垣車両区や留置線を多数備えた熱田駅、大府駅、豊橋駅構内などに留置されるようになった。2006年10月改正以降は大垣 - 米原間の日中の普通運用の大半を占めるなど、多少運用が増加した他、2008年3月改正以降は平日朝に増発された岡崎駅発着の新快速列車にも使用されるようになった。2011年3月改正では一部の快速、新快速運用は残存したが、岡崎以東の運用は消滅している。
改造
車内は、運転席直後や車端部の転換クロスシートをロングシートに改造された車両が存在したが、特に改番等は行われていなかった。また、晩年当時の運用状況を鑑みた追加改造や、転落防止幌および車椅子スペース整備改造も行われなかった。2009年からは一部の編成にはATS-PT設置工事が施された。
車体外見
塗装は311系登場の1989年にJR東海のコーポレートカラーであるアイボリーにオレンジ帯の試験塗装編成が登場したあと、全車が塗り替えられた。当時は雨樋に1本、窓下に太帯と細帯各1本の計3本の帯が入っていたが、1999年頃より試験塗装と同じ塗り分けに変更され、側面帯が窓下1本に簡略化された。
また前面の快速幕は、当時は白地に黄色で「快速」と表記され、文字の周りが黒く縁取りされており、視認性に問題があったため塗装簡略化とほぼ同時に交換された。列車番号表示器はJR東海では本来の目的では使用されないため、当系列の場合には大垣車両区における編成番号を表示していた (S1 - S18) 。
S11編成は2009年8月に落成当時のクリーム地にマルーン帯の車体塗装に変更された。これは同年10月に佐久間レールパークで開催される見学ツアーでの運行に合わせ、登場時の塗色を再現したものであった。


S9編成は2010年8月1日から同年9月26日までの土曜日・休日に飯田線で運行される観光列車「そよかぜトレイン117」用として、同年7月に改造工事が施工された。2号車に組成されるモハ116-45は客用扉部分に走行中でも外気を取り入れることが可能な展望柵を設置し、客用扉間の座席を撤去した上で窓に向けてベンチを配した「ウィンディスペース」に改装され、他の3両についても一部の座席の背もたれ部を撤去し大型テーブルが設置されていた。
引退
2010年に313系4次車が投入されると、捻出された311系や313系0番台によって本系列の一部の運用が置き換えられ、2010年度中にATS-PT未設置の5編成20両が廃車された。このうちS1編成が、旧塗装を復元させたうえでリニア・鉄道館で静態保存されている。展示スペースの関係上、元の4両編成ではなくモハ116を外した3両編成での保存展示となっている。
2013年3月16日のダイヤ改正で、JR東海の本系列は定期運用から退いた。2013年8月5日、JR東海の所有する本形式としては最後まで残った「トレイン117」が浜松まで回送された。同年12月27日と12月30日に残存していた車両のほとんどが廃車され、少数残った車両も2014年1月27日付で廃車され、ここにJR東海の117系は全廃された。
今後の予定
JR西日本が1編成(6両編成を想定)を2020年夏までに改造し、新たな長距離列車に投入する計画が2017年6月の社長定例会見で明らかになった。「多様性」「カジュアル」「くつろぎ」をコンセプトに内装を全面改装し、個室及び1列+2列シートのグリーン車とコンパートメント車両、ノビノビ座席を備えた普通車とすることが想定されている。デザインはえちごトキめきリゾート雪月花の設計・プロデュースや中村駅のリノベーションを手がけた川西康之が担当する。期間を定めて京阪神と山陰・山陽方面を結ぶ複数の区間で運行される予定。
保存車
元S1編成であるクハ117-30、モハ117-59、クハ116-209 - リニア・鉄道館(名古屋市港区)、2010年11月に同館へ搬入された。

朝日野駅 (近江鉄道本線)

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朝日野駅(あさひのえき)は、滋賀県東近江市鋳物師町にある近江鉄道本線の駅。


ホームは蒲生郡日野町大字石原に跨っている。

八日市~日野間の開業に3ヶ月遅れで設置された古参駅です。

駅周辺は田園風景が広がっている。

駅舎は無く1面1線の無人駅である。トイレはない。

かつては2面2線であり、使われていないホーム跡がある。切符販売機、列車接近装置はありません。

かつてはホームに構内踏切がありました。

 

駅前はスペースがありますがアスファルトなどの舗装はされていません

駅前駐輪場があり稼働率は高い。

駅周辺
竹田神社
朝日野郵便局
山下塗装店
ガリ版伝承館


計画中止となったびわこ空港の最寄駅となる予定であった。


1900年(明治33年)12月28日 開業

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 35.2km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 単式1面1線
乗車人員
-統計年度- 33人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1900年(明治33年)12月28日

 

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