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N360(軽自動車)本田技研工業

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N360(エヌさんびゃくろくじゅう)は、本田技研工業がかつて製造、販売していた軽自動車である。

前輪駆動(FF)方式を採用して広い車室空間を確保すると共に、1967年時点での軽乗用車としては突出した高出力のエンジンを搭載。当時の軽自動車業界における「馬力競争」の火付け役になった。高性能と低廉な価格が相まって、当時のベストセラーモデルとなった。愛称はNコロ、他にエヌサンなどとも呼ばれていた。

1966年の第13回東京モーターショーで発表。1967年3月に販売開始。それ以前の同社はスポーツカーのSシリーズや商用車を製造販売していたが台数は限られており、本モデルが同社初の本格的量産型乗用車となった。車名の「N」は一説に「乗り物(Norimono)」の略とされ、本田宗一郎社長がミニマム・トランスポーテーションとしての普及を目的に命名したとされる。

内外装
2ドアの2ボックス形状は、小径タイヤを四隅に配置して車室空間を稼ぎ出そうとした設計である。当時の軽乗用車としては極めて広い車室を備えており、設計思想および駆動形式は1959年から市販されたイギリス製小型車ミニの影響が色濃く出ている。またトランクリッドを備えているのもミニと共通であるが、本モデルではリヤバルクヘッドやトレイを省略したトランクスルー構造を採用した。

本田宗一郎は当初のリヤデザインが気に入らず、すでに生産用の金型を取り終わったクレイモデルに後からカンナで削りを入れて「これで行け」と指示したため、金型の作り直しで多額の出費が生じたという逸話が残る。

初期形のスピードメーターはテスターのインジケーターを思わせる単純なデザインで、シフトレバーはダッシュボード下から突出させた一種の「インパネシフト」式とされた。ステアリングシャフトはフロア中央から出ており、左右どちらのハンドルにも対応しやすいように設計された。

ドライブトレイン
フロントに搭載された横置きエンジンによる前輪駆動を採用した。エンジンは4ストローク強制空冷直列2気筒チェーン駆動SOHCで、ドリームCB450に搭載されていた空冷並列2気筒[5]DOHCエンジンをベースに開発された。このためタイミングチェーンは通常の自動車エンジンのようなシリンダーブロックの一端ではなく、2気筒オートバイと同等にカムシャフトおよびクランクシャフト中央に配置される。

このエンジンは内径x行程62.5x57.8(mm)から排気量354cc・最高出力31PS/8,500rpmをマークする四輪車としては異例の高回転型エンジンである。この時期の他メーカー製軽自動車は2ストロークエンジンが主流であり、それらの最高出力が一般に20PS台前半であったことと比較すると格段の高出力であった。これはホンダがオートバイで得意とした、高回転許容で出力を稼ぐ手法をそのまま適用した結果である。公称最高速度115 km/hも、当時の軽乗用車では最高水準である。エンジンの構造上騒音や振動が激しいものの、性能確保と構造簡易化を優先して防振・防音対策は簡易な水準に留められている。

4速マニュアルトランスミッションは、初期型ではオートバイの構造に近く、エンジンと直列に配置される常時噛み合い(コンスタントメッシュ)式ドグミッションを搭載した。サスペンションはフロントがコイルスプリング+ストラットの独立懸架、リアは半楕円リーフスプリングの車軸懸架とし、前後とも簡略・省スペースな構造とした。車室暖房は空冷エンジンの廃熱を利用する方式で、このためガソリンやエンジンオイルの臭いが室内に入り、温度制御の面でも不利であるが、簡易なことが優先された。

発売当初のグレードは1種類のみで、価格は狭山工場渡しで31万3,000円、東京・神奈川店頭渡しで31万5,000円と、他社の同クラス車が設定した35万円~45万円程度より大幅に安価な水準とされた。

他車を大きく下回る価格設定を可能とした理由は、すでにオートバイ販売で培養されていた末端の販売店とメーカーとの間に、通常介在する代理店を省き、中間マージンを減らすという、新規参入メーカーならではの戦略を採れたからである。
高性能でしかも廉価なことから一般大衆の人気を得てヒット作となり、当時「スバル・360」が長く保持していた軽自動車月間販売台数トップ記録を、発売から数か月のうちに奪取した。同年6月には姉妹車としてライトバンタイプの「LN360」が追加された。

「N360」のハイパワーぶりに驚愕した競合他社は2ストロークエンジンを高回転化してパワーアップすることで対抗、その後オイルショック直前までの数年間に渡って軽自動車業界はカタログ出力を誇示しあう馬力競争に突入した。360ccの軽自動車でありながら、実に排気量1L当たり100PSに相当する36~40PSに達したのである。もっとも40PS級のスポーツモデルとなると超高回転型の特性で常用域のトルクに乏しく、実用性欠如を露呈する弊害が生じた。

1968年4月には、ホンダ初の自動変速機を搭載した「N360 AT」も発売されている。これは自社開発製品で「ホンダマチック」と称した。この「ホンダマチック」は、後にシビックなどに搭載される「★(スター)レンジ」を持つ半自動式「ホンダマチック」とは異なり、本格的な3速フルオートマチックであり、セレクトレバーはハンドルコラムに設置され、「P-R-N-D-3-2-1」の7ポジション式であった(3,2,1の各ポジションは各ギア固定)。最高速度は110km/hに達し、4速MT車とほとんど遜色ない。

1968年7月にはキャンバストップを備えた「N360 サンルーフ」が追加された。

1968年9月、ツインキャブレターを装備して36PS/9,000rpmを発生する「T」、「TS」、「TM」、「TG」のグレード(TはTwinの意)を追加。最高速は120km/h。

ホンダはすでに「Sシリーズ」を海外輸出していたが、「N360」が開発されると、これをベースに排気量を400ccに拡大した「N400」、600ccエンジン搭載・最高速度130km/hの「N600」が製造され、アメリカ合衆国・ヨーロッパに輸出された。ヨーロッパでは、メーカーの競争激化による淘汰や各社の生産モデルの上級移行で、最小クラスにあたる廉価な小排気量ミニカーが徐々に減少していたこと、またオートバイレースやF1レースで知名度の高いホンダの高出力車であることから、若年層を中心に収入や免許制度での制約のあるユーザーの支持を受け、一定の販売実績を収めたという。また当時の西ドイツでは250cc以下の自動車は日本の軽自動車に類似した優遇税制、免許制度があったことから、現地ではボアダウンキットで250ccにするユーザーもいた。

600ccモデルは日本国内向けにも1968年6月から「N600E」として市販されたが、海外ではヒットしたのとは裏腹に、居住性は軽自動車並であるのに税法上普通車扱いとなることから販売が振るわずわずか半年間、1,500台程度で販売を終了した。これは大手メーカーの量産乗用車としては最短命である。機構的には輸出用と同じ部分があるが、インテリアや機構細部は全く異なっていた。ホンダにとっては、日本国内向け初めての普通車登録4座乗用車となった車である。

1969年1月にモデルチェンジを行った。通称N IIと呼ばれるこのモデルでは、外装はわずかなデザインの変更にとどめられたが、内装ではダッシュボードの大部分がパネルで覆われ、乗用車らしいムードとなった。

1970年1月には再度のモデルチェンジにより「N III」へと進化している。このモデルチェンジでは正式に「N III 360」の名称となり、外装にも大きな手を入れられている。特徴的だった4速MTがドグミッションから一般的なフルシンクロ式に変更された。また象徴だった高回転・高出力エンジンにも手を入れた「N III 360 タウン」が同年9月に追加されている。低速域性能を重視したタウンのエンジンは、27PS/7,000rpm(トルクは不変)へとチューニングされている。

「N360」は、発売からわずか2年足らずで25万台を販売、総生産台数は65万台に達した。

一定以上の商業的成功を収め、またドライブトレーンを共用したスペシャリティカーの「Z」や、軽トラック「TN360」などの派生展開によって、ホンダの業績拡大に著しく貢献した。既存の軽乗用車に挑戦状を叩きつけたことで、カテゴリ全体が大幅な性能向上を果たし、良くも悪しくも、1960年代末からオイルショックに至るまでの軽乗用車業界の活性化を促した存在とも言える。

しかしオートバイ用をベースとしたピーキーなエンジンに依存した高性能は、創業者・本田宗一郎に代表される初期ホンダが備えていた一種の「蛮勇」の現れとも言え、空冷ゆえの騒音やドグミッション等は乗用車としての洗練を欠いたものであった。それらはN360の欠陥訴訟問題や、N360の志向をさらに拡大・尖鋭化した空冷小型乗用車のホンダ・1300における商業・技術両面の敗退で一挙に露呈し、本田宗一郎の経営第一線からの引退を促す結果ともなった。

その後のホンダは高性能空冷エンジンに代表されるエキセントリックな面を抑え、1971年のN360後継モデル「ライフ」、翌1972年発売の小型乗用車「シビック」以降、量販4輪車のエンジンは、いわゆる「まろやか路線」のもと水冷方式に転換し、より普遍性のある設計への移行を進めていくことになった。


販売期間 1968年6月-1969年1月
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドアショートファストバック型セダン
エンジン 強制空冷4ストローク2気筒SOHC 598cc
駆動方式 FF
最高出力 43PS/6,600rpm
最大トルク 5.2kgf·m/5,000rpm
サスペンション 前:ストラット
後:半楕円板バネ式固定軸
全長 3,100mm
全幅 1,295mm
全高 1,330mm
ホイールベース 2,000mm
車両重量 545kg
生産台数 不明(メーカーにデータなし)
先代 なし
後継 ホンダ・1300

 

 

 

 

 


「海上保安シミュレーションセンター」一般公開

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BRM(Bridge Resource Management)の導入等による、安全面を強化した 船艇業務執行体制の充実を図るための訓練が必要であり、また、近年の不審船事案へ の対応など、武器を使用する蓋然性が高まってきている中、実弾を使用した訓練には 制約が多く、射撃に関する訓練についても充実を図る必要がありました。

 「海上保安シミュレーションセンター」は、双方の訓練について効率的且つ系統立てた訓練を 実施するため、日本財団及び海上保安協会の支援の元、海上保安大学校に当該施設を整備し、 海上保安庁船艇職員、海上保安大学校学生に対し、シミュレータによる訓練を実施することに よって、海上保安庁船艇職員の安全運航に対する意識及び技術の向上、並びに、業務対応能 力の向上を図ることを目的として建設されたものです。

第1船橋
 船舶の操舵室を再現しています。各種航用機器のほかに、巡視船艇に搭載されている警備救難情報装置等を設置しています。

船舶の操舵室を再現しています。各種航用機器のほかに、巡視船艇に搭載されている警備救難情報装置等を設置しています。


このシミュレータ装置は自船のブリッジから外を見た映像を表示できるだけでなく、視点を任意の位置に変えることが可能で、 自船の操船状況を客観的に見ることもできます。

ブリッジから見た映像
操船シミュレータでは、必要に応じて、自由に訓練海域の映像を昼間及び夜間に切り替えて表示することができます。


視点を外部に移動した映像
視点を任意の位置に変えることが可能で、自船の操船状況を客観的に見ることも可能となっています。


 また、第1船橋から逃走船舶に対して、自動照準を用いた射撃あるいは目視照準による射撃が可能です。

 

 

 

 

他のセンター施設として

第2船橋
 逃走船舶等に見立てた第2船の操船を行います。視界再現装置として4台のプラズマディスプレイを使用しています。

スクリーン室と制御用コンピュータ群
 大型円筒形スクリーンに、14台のDLP方式プロジェクタにより縦6m長さ27.5m(水平視野角245度、垂直視野角 60度)の高精度な映像を映し出します。船橋左右後方には大型ディスプレイが1台づつ設置され 後方視界を映し出します。船舶の操縦運動性能やリアルタイムコンピュータグラフィックは機械室に設置された高性能のコンビュータ群を並列運転して制御されています。

教官・操作室
 シミュレーター全体の制御、訓練シナリオの編集、操船状況や訓練海域の監視、訓練条件の設定等、 訓練の実施に必要な全ての機能を集約しています。

研修室

 訓練説明や講義に使用します。スクリーンや28台のモニターにより、訓練中の操舵室の映像や訓練結果の 再現映像等を表示させ、効果的に講義などが実施できます。

 

ヤンキー単発軽飛行機 (京葉航空) JA3613

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AMERICAN AVIATION AA-1 YANKEE

この機種は、超軽量の小型スポーツ機を取扱うアメリカのビード社の設計、原型は1963年(昭和38年)に初飛行、456機生産された2人乗りの軽飛行機です。
この機体は、千葉県茂原市の真名飛行場をベースとする京葉航空が所有していましたが、日本への輸入は1機のみです。

年代:1963年初飛行
 スピード:時速220km
 エンジン:ガソリンエンジン 1台(4リットル 108馬力)
 機体全体の重さ:0.7トン
 運べる重さ:0.2トン
 当機が飛行していた期間:1971~1976

ヤンキーは、もともとは1962年にジム・ビー(Jim Bede)がBD-1として設計したもので、キット製造機として販売されることを意図していました。Bedeは、その後、FAR Part 23の新規則の下で設計を認証し、完成した航空機として提供することにしました。BD-1キットは今まで販売されていませんでした。

このプロトタイプは、1963年7月11日に初めて飛行し、トレーラーリングと保管の容易さのために折り畳み式の羽を備えていました。Bedeは、オハイオ州クリーブランド に本拠を置くBede Aviation Corporationを設立し、航空機の生産に成功しましたが、BD-1は決して認定航空機として生産に入らなかったのです。当時、FAAは軽い航空機に折り畳み式の翼を付けることを躊躇していました。認証プロセスは複雑で高価であり、Bedeと他の株主との間に意見の相違が生じました。その結果、Bedeはビジネスパートナーによって追放され、同社はAmerican Aviationと改名されました

AA-1は、わずか385のパーツを使用した小型でコンパクトなデザインのBede BD-1と、ハニカム構造を接合したものです。元のBD-1は65kW(90hp)のコンチネンタルC90-14を搭載し、1963年7月11日に最初に飛行しました。しかし、BD-1はキットの建設を意図していませんでしたが、同社のクリーブランド工場でBD-1をシリーズ生産に投入しました。

生産航空機は、プロトタイプとは異なり、翼のレイアウトと垂直尾翼、トラックの幅が広い車体、より強力なLycoming O-235がありました。最初の生産航空機はAA-1ヤンキーと指定され、最初の航空機は1968年に、1971年には最後に納入されました。

ヤンキーはAA-1Aトレーナーの代わりに改造された翼とパイロット訓練用に装備されています。

1972年にAA-1AはAA-1Bに変更されました。AA-1Bはより大きな離陸重量を持つ改訂版です。AA-1Bはトレーナーとして、または高級車のインテリアトリム、ホイールフェアリング、より包括的な標準的な航空電子工学に適合した優れたスペックのデラックスバージョンであるTr2として利用可能でした。

Grumman CorporationのAmerican Aviation買収後、AA-1はGrumman American Aviation Corporationバナーの下で生産されました。1978年、Grumman Americanは、より大きな離陸重量、より強力なO-235エンジン、改訂された尾部表面を備えたAA-1Cの改良を導入しました。AA-1Cは、T-Catトレーナーモデルとしても、Lynxよりも豪華なツアーモデルとしても利用できました。

AA-1生産はGulfstreamがGrumman Americanを買収する直前、1978年中頃に中止された。

井口駅(広島電鉄宮島線)

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井口駅(いのくちえき)は、広島県広島市西区井口明神二丁目にある広島電鉄宮島線の駅である。かつては漁師町として賑わいましたが、高度経済成長期後の埋め立てと山腹の宅地開発により変容しています。

井口駅はホームが地面に接する地上駅という形態をとる。ホームにはスロープで連絡します。ホームは2面あり、2本の線路を挟み込むように配置されているが、互いのホームは斜め向かいにずれて位置している。

路線の起点から見て手前にあるのが広電西広島駅方面へ向かう上りホーム、奥にあるのが広電宮島口駅方面へ向かう下りホームで、両ホームの間には踏切が設置されている。

すなわち上下線とも電車は踏切を過ぎてからホームに停車するようになっている。駅がこのような構造となったのは1982年(昭和57年)からのことで、客が電車に乗ろうと踏切を無理にくぐってホームへ渡るのを防ぐための措置であった。

上りホームの広電西広島寄りには、かつて宮島線で運行されていた鉄道車両専用の高床ホームが残されている。下りホームは2011年(平成23年)に改修され、広電宮島口方向へホームが延長された。合わせて手すりとスロープが備え付けられ、バリアフリーに対応している。ホームには上屋が設置されています。

駅前後は西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線との並走区間。下りホームの南側すぐ横には国道2号(宮島街道)も走っている。

駅の北側は旧井口村地区であり、井口鈴が台や井口台などの住宅街が広がる典型的なベッドタウンである。南側は1970年代以降、広島市西部開発事業により埋め立てられた土地である。それまでは国道の南側が海岸線であった。駅の南にある西部埋立第二公園の中には、埋め立て前の海に存在した小己斐明神(男明神島)という小島がそのまま残されている。住宅街やその先には商工センターがある。なお、商工センターの最寄り駅は商工センター入口駅である。

広島市立井口明神小学校
広島市立井口小学校
広島市立井口中学校
広島県立広島井口高等学校
広島井口郵便局
広島井口明神郵便局
山口銀行広島西支店
早稲田自動車学園

1924年(大正13年)4月開業。宮島線の草津町駅から廿日市町駅までの区間が開通した際に設けられた4つの中間駅のうちの一つである。開業当初は「井ノ口」と表記されていた。

1924年(大正13年)4月6日 - 宮島線の草津町駅 - 廿日市町駅間の開通と同時に井ノ口駅として開業。
時期不詳(1965年以降) - 井口駅に改称。
1982年(昭和57年) - ホームを移設する。

『広島市統計書』によると、2015年度の年間乗車人員の総数は推計で416千人であった。参考として、日数で除して1日当たりの平均乗車人員を算出すると1,137人となる。

駅番号 ●M26
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宮島線
キロ程 4.8km(広電西広島起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 1,137人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1924年(大正13年)4月6日

大阪市交通局20系電車

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大阪市交通局20系電車(おおさかしこうつうきょく20けいでんしゃ)は、大阪市高速電気軌道(Osaka Metro,旧・大阪市交通局の高速電気軌道(大阪市営地下鉄))用通勤形電車である。2018年(平成30年)4月の大阪市交通局民営化にともない、大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)に継承された。

電機子チョッパ制御車である10系の試作車として1973年に製造された20系(初代)、1984年より量産が開始されたVVVFインバータ制御車の20系(2代)、1990年(平成2年)に登場したVVVFインバータ制御の新20系(21 - 25系)の3グループが存在する。


1985年の4号線(中央線)深江橋 - 長田 間開業などに伴う所要車両数増加への対応や、老朽化や陳腐化が目立ち始めていた50系・30系などの抵抗制御車の淘汰とこれに伴う保守の合理化、それに冷房化率の向上による乗客サービスの改善を目的として開発・量産された18.7m級4扉車群である。

3相交流誘導電動機をインバータ制御器で制御・駆動する当時最新のVVVF制御システムを搭載しており、大阪市交通局の第3軌条集電方式を用いる高速電気軌道全線で使用可能である。

その外観形状から、先行する10系のそれを踏襲したアルミ合金製車体を備える20系と、軽量ステンレス製車体を備える新20系の2グループに大別される。

開発経緯
本系列開発の基礎となった、大阪市交通局におけるVVVF制御の実用化研究は、元々石油ショックをきっかけとする建設費高騰に抗するべく1979年3月に局内に設置された「地下鉄小型化調査委員会」における地下鉄車両の小型化研究を出発点としている。

後に7号線(長堀鶴見緑地線)向け70系や8号線(今里筋線)向け80系として結実することになるこの研究の過程では、建設費高騰の最大の要因であるトンネル断面の縮小を目的として、車輪径や床面高さの縮小が重要課題として取り上げられた。これらの課題については、折からの半導体技術の進歩、特にインバータ装置の心臓部となる主回路のスイッチング素子とそのパターン制御に必要となるマイクロプロセッサの急速な進歩によって、解決の道が開かれた。

これらの技術革新により、従来は実用化が困難と見られていた、三相交流誘導電動機と小直径車輪を用いた駆動システムの実用化の目処が立った。

従来、三相交流誘導電動機は整流子を持たないため保守上問題となる摩耗部品が軸受に限られ、フラッシュオーバーの危険がなく軽量・コンパクトで高回転数化や大出力化が容易、しかも直流電動機を上回る再粘着特性が得られるという大きなメリットを備えていて、鉄道技術者からは「夢の電動機」とさえ呼ばれていた。

だがその反面、三相交流誘導電動機には一定周波数・一定電圧の下で一定回転数を保とうとする性質があり、起動トルクが小さいという問題があって長らく高速電気鉄道での利用は困難視されていた。この問題が、この時期になって実用段階に入りつつあった高速・高耐圧・大出力かつコンパクトなスイッチング素子と、これをプログラムに従って波形制御するマイクロプロセッサを組み合わせ、電圧型PWM制御によって可変電圧・可変周波数(Variable Voltage Variable Frequency:VVVF)制御を行うことで解決可能となったのである。しかも、この制御法により直流整流子電動機に近い、あるいはそれを上回る優れた出力・粘着特性を得ることさえも可能となった。

こうした周辺技術の進歩・成熟を踏まえ、高速電車用VVVF制御システムの開発が日立製作所、三菱電機、それに東芝といった有力電機メーカー各社を交えて開始された。この制御システムについては大阪市交通局と同時期に日本国有鉄道や近畿日本鉄道と東京急行電鉄などが、それぞれの取引先である電機メーカー各社と共同で大規模な研究開発を実施していたが、直流1500Vの下での高速電車への適用にフォーカスしていた各社とは異なり、大阪市交通局のプロジェクトは低床のミニ地下鉄での使用を前提としてコンパクトな機器開発を重視していた点で一線を画していた。

もっとも、ミニ地下鉄の技術的可能性を探るというその開発経緯ゆえに、大阪市ではVVVF制御そのものの開発とスイッチング素子の開発[注 1]が同時進行するという異例の事態となった。この点では単純に大形高速電車への適用に特化して研究を進められた他社とは状況が異なっており、これは後にVVVF制御車の営業運転開始時期で近鉄や東急の後塵を拝する一因となった。

この全く新しい制御システムの開発過程では、漏洩ノイズ等によるATSの軌道回路や変電所などへの影響を調べるため、営業線上での機器の車載運用試験を行う必要があった。そこで、当時3号線(四つ橋線)から5号線(千日前線)への転用の過程で余剰車が発生していた100形(2代)がそのテストベッドに選ばれ、ミニ地下鉄を想定した低い床面高さに設けられた支持架に装架する形で試作機器を搭載して試験運転が実施された。

この試験運転では黎明期の低耐圧で動作の不安定なGTOサイリスタ素子を使用していたこともあって素子破壊が頻発しており、その開発は難航したという。もっとも、その後半は回路構成上の様々な対策や実装ノウハウの蓄積、それに何よりメーカー各社で量産がようやく軌道に乗り始めた2500V 2000A級GTOサイリスタ素子そのものの動作安定性および生産歩留まりの向上により、飛躍的に信頼性や動作安定性が向上して順調にテストメニューを消化しており、この一連の試験結果はミニ地下鉄実用化に当たっての技術的な裏付けとなり、また20系の搭載機器設計に貴重なデータを提供することともなった。

こうした技術開発の成果を受け、量産先行試作車としてメーカー各社が分担して製造した20系第1編成は1984年3月に竣工した。これは日本初のVVVF制御による誘導電動機搭載鉄道車両となった熊本市交通局8200形に続くものであり、したがって高速電気鉄道用として完成したものとしては日本初のVVVF制御車となっている。

2900形
空気圧縮機や補助電源装置などの補機を搭載する制御車(Tec)。4両編成(千日前線25系)の場合に限り両方の台車に集電装置を装備する。


車体
各系列ともに、18.7m級車体に両開き扉を4か所ずつ設置する、7000・8000形以来の標準的なレイアウトに従う。このため窓配置は2600・2900形がdD2D2D2D1、それ以外が1D2D2D2D1(d:乗務員扉、D:客用扉、数字:側窓数)となり、全車に戸袋窓が設置されていない。

座席はいずれもロングシートである。

20系
10系と同様に側窓として2段上昇窓を備える切妻構造のアルミ合金製車体である。

ただし、アルミ合金の加工法の発展によって大型押し出し型材や薄肉型材、あるいは中空型材の使用が可能となったことで構体設計が全面的に見直されてよりシンプルにリファインされ、また従来よりも105mm薄くなった新型冷房装置の開発によって当時の10系では1段低くなっていた両端部分の天井が他と同一平面とされ、冷房の吹き出し口も通常のスリット型となるなど内装もより洗練されたものとなっており、開発時期の相違を反映して10系より一歩進んだ設計[注 7]となっている。

前面は10系と同様に周縁部に枠状のFRP製縁飾りを取り付けたいわゆる額縁スタイルであるが、ガラス窓が10系と異なり上辺が屋根との接合部まで届かず本来の窓枠上部に設けられた方向幕の部分で止められ、その代わりに窓周辺をブラックで塗装する当時流行のスタイルが取り入れられている。このため、前照灯と標識灯は前面窓上部の妻板左右に各1灯ずつ角形灯具を左右に並べて一体化したユニットを振り分けて埋め込まれており、10系に近いながらも固有性の高いデザインとなっている。


本系列は、日本の高速電車におけるVVVF制御技術開発の揺籃の一つとなった点で特筆される。

主電動機

新20系 VVVFインバータロゴ
20系では上述のような開発経緯によってVVVF制御が採用された。このため、従来の10系までと比較して整流子が不要となり、主電動機容積に余裕が生まれて磁気回路の容量が増強され、10系の東芝SE-617Aと比較して10kW増の端子電圧550V時1時間定格出力140kW/1600rpmが実現された。

もっとも、製造メーカーはこれまで東芝の1社指名であったものが、制御器の製造に参加する3社全てから供給される[注 11]ように改められており、このため東芝SEA-309、日立HS-34529-02RB、三菱MB-5012-Aと3種の4極自己通風式三相かご形誘導電動機が採用されている。また、後継となる新20系ではそれぞれ小改良が加えられ、東芝SEA-309B、日立HS-34529-04RB・-05RB、三菱MB-5012-A3・-A4となっているが、型番がサフィックスの変更で終始しているという事実が示す通り、いずれも基本的な仕様には変更はない。

なお、中央線用車両である20系および24系については、けいはんな線開通による95km/h走行に対応できないとの三菱による見解で高速化改造の際に三菱製主電動機が排除され東芝製および日立製に置き換えられた。 20系および24系から取り外された三菱製主電動機については大阪市営地下鉄の他の路線の新20系車両で使用されている。

駆動システムは全電動車とも従来通りのWNドライブを採用しており、歯数比は103:14である。

制御器
20系の段階ではGTOインバータの容量などの制約から1台の制御器で2基の主電動機を制御する1C2M構成のものを2セット搭載しており、制御器はそれぞれ東芝BS-1408-B、日立VF-HR-103、三菱SIV-V564-M-1・-2であった。なお、インバータの制御周波数は2 - 111Hzである。

これに対し新20系ではGTOサイリスタの急激な容量増大を受けて1台の制御器で4基の主電動機を制御する1C4M制御が実現しており、それぞれ東芝SVF-001-A0・-A1、日立VF-HR-129、三菱MAP-144-75V26に変更された。ただし、制御器が各メーカーでの競作となった20系とは異なり、新20系では細部は違うものの、全編成日立製制御器をベースとしたOEMのものに変更したため、メーカーの違いで励磁音が違うことはなくなった。また、こちらのインバータの制御周波数は0 - 111Hzでわずかながら制御域が拡大され、起動加速がよりスムーズとなるように改良されている。

いずれの制御器も高発熱のスイッチング素子の冷却用冷媒にフロンを使用して冷却システムのコンパクト化を実現している。

台車

集電装置付きDS-20形台車
全形式とも、10系用インダイレクトマウント・ノースイングハンガー・軸ばね式空気ばね台車であるDS-10[注 14]とほぼ同仕様のDS-20[注 15]が採用されている。いずれの台車も車輪内周部に異種金属による防音リングを圧入してきしり音の低減を図った、防音波打車輪を装着する。


試験中のFS560試作台車
なお一時期、四つ橋線23613Fにて試作インダイレクトマウント・ノースイングハンガー・モノリンク式空気ばね台車の実用試験を行ったことがある。

集電装置
集電装置は10系と同様に離線等による回生失効を防止する目的で、隣接する2両の電動車の内一方(Ma車)の全台車ともう一方(Mb車)のMa車寄り台車の合計左右3カ所ずつに設置されている。

ただし、4両編成時には電動車が2両ともMb車であるため制御車2両が共に全台車集電装置付きとされ、6両編成時には4両と2両で電気的に分割されることからペアとなるべきMa車のない2両側のMb1車(2100形)[注 18]のために隣接する制御車(2600形)の全台車に、そして9両編成・10両編成時にはペアとなるべきMb車を持たないMa車(2400形)のために隣接する付随車(2700形)のMa車寄り台車に、それぞれ集電装置が設置されている。

なお、集電装置付台車が3台車連続するように配置されているのは、両端の集電装置付台車に取りつけられた集電装置の間の距離がデッドセクションの有効長を確実に下回るようにする=母線結合された各集電装置付台車が第三軌条のデッドセクションをまたいで電気的に異なるセクションをショートさせる事故が発生するのを防止するためである。

ブレーキ
空気ブレーキは10系のOEC-2の改良型に当たる、回生制動演算装置付全電気指令式のOEC-3を採用する。これは電動車の回生ブレーキを有効活用するために付随車の空気ブレーキを遅れ込め制御するよう改良が加えられている。なお、回生制動機能は各系列とも運転台ブレーキノッチの結線変更と主制御器のプログラム変更などで抑速制動が使用可能となっており、長田以東の乗り入れ区間に連続急勾配区間を擁する中央線用各車ではこの機能が有効化されている。 また、回生ブレーキは停止寸前(3km/h)までと広い。

冷房装置:10系での実績を基に開発された新型の超薄型冷房装置である三菱電機CU-74Cおよび東芝RPU-4410を搭載する。

開発当時の技術で極限に近い薄型化を実現していた10系用冷房装置であったが、その後の技術の進歩、特にスクロール型コンプレッサーの実用化によってより一層の薄型化が可能となり、20系開発に合わせて厚さ300mmと従来比約74%として実用化が図られた。もっとも、外観上は屋根高さなどほとんど変化しておらず、薄型化の恩恵は全て客室内の天井高さ引き上げに振り向けられており、10系で圧迫感を与えていた車内両端部の冷房装置の露出部がなくなって通常部分と同じルーバーが設置されている。

20系
1984年に中央線用2601F[注 23]が、1985年末に中央線用2602F - 2605Fが、1989年には中央線用2606F - 2607F、谷町線用初の冷房車となる2631F - 2639Fが、いずれも6両編成(計96両)で製造された。

本系列の中でも第1編成(2601F)については3両の電動車の電装品を東芝(2101)・日立製作所(2201)・三菱電機(2301)の3社がそれぞれ1両ずつ分担して担当するなど試作要素が多く見られ、各社が量産に必要なデータを収集するための量産先行試作車的な性質の強いものであった。また、1985年の深江橋 - 長田間延伸開業時の祝賀列車には当時1編成しかなかった20系が抜擢され、前面に「祝 深江橋 - 長田 開通」のヘッドマークを掲げて運転した。

投入線区ごとに0番台と30番台に区分されたが、ラインカラーが異なる以外は基本的に同一設計であり、警笛の変更、行先表示器への英字表記追加やその設定器の変更といった量産中に行われた数少ない仕様変更点も全て、両番台車の同時期製造分に等しく適用されている。なお、電動車の電装品のメーカーは、2601F以外については編成内で1社に統一されている。

2006年3月27日の近鉄けいはんな線生駒駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅間開業時の同線における最高速度の向上に合わせて、2004年に第1編成の制御素子がGTOサイリスタ素子から日立製IGBT素子に交換され、他の編成も順次交換された。

なお、30番台車は、この近鉄けいはんな線延伸開業の際に、全編成が車両番号の変更を実施せずに谷町線から中央線に転用されている[注 28]。

2006年までに全編成の制御装置の改造工事が完了し、最高速度は70km/hから95km/h、起動加速度は2.5km/h/sから3.0km/h/sにそれぞれ変更された。また、けいはんな線延伸開業時に近鉄線内でのワンマン運転が開始され、それに対応した機器が設置されている。改造と同時に行先表示器のローマ字表記から英語表記に変更したものに交換され、側面への行先表示器の設置も実施された。車内ではバリアフリーの一環としてLED式の車内案内表示器、ドアチャイム、車いすスペースも設置された。

中央線に配属された車両のうち、2601Fと2602Fは、車体側面全体に沿線の観光地である海遊館にいる魚たちのラッピングフィルムが施されたことがあり、車体中央に大きく描かれたジンベイザメから、「ジンベイ号」や「おさかな電車」と呼ぶ鉄道ファンや子供連れもいた。この2編成はラッピングフィルムが剥がされたあとに側面行先表示器が取り付けられた。

大阪市営地下鉄24系電車
中央線用24系電車(未更新車)
中央線用24系電車(未更新車)
基本情報
製造所 日本車輌製造
日立製作所
アルナ工機
東急車輛製造
製造年 1991年 - 1995年
製造数 11編成66両
投入先 中央線
主要諸元
編成 6両編成
最高運転速度 地下鉄線内 70 km/h
近鉄線内 95 km/h
起動加速度 地下鉄線内 2.5 km/h/s
近鉄線内 3.0 km/h/s
編成定員 820(258)人
自重 (Tc車)32.0t
(M車)36.0t
(T車)24.5t
編成重量 196.5t
編成長 112,600 mm
車体材質 ステンレス
編成出力 140kw×4基×3両 = 1,680kw
制御方式 GTOサイリスタ素子VVVFインバータ制御(製造当初)
IGBT素子VVVFインバータ制御(更新後)
制動装置 回生ブレーキ併用電気指令式ブレーキ(抑速ブレーキ付き)
OEC-3
OEC-4M(更新車)
保安装置 WS-ATC
備考 改造後のデータ
ワンマン対応

ビーチクラフト ボナンザ(単発レシプロ軽飛行機)ビーチ・エアクラフト社

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ビーチクラフト ボナンザ (Beechcraft Bonanza) は、ビーチ・エアクラフト社(現ホーカー・ビーチクラフト社)が開発した単発レシプロ軽飛行機シリーズ。英単語 bonanza は、良質の(当たりの)鉱脈、という意味で、「大当たりの」といった感じで使われる。この機体は国土交通省、航空大学校で学生の事業用免許の訓練に使用されていました。

モデルC35(1951年)
309機生産。出力向上、コンチネンタル社製 E185-11(205hp)搭載。プロペラが木製からアルミ製に材質変更。YAW方向の安定性増加の為、V尾翼角度を変更(120度→114度)するとともに、弦長が20%延長された。主翼根元にフィレット追加。収納式の乗降ステップ
モデルE33(1968年)
116機生産。IO-470-K(225hp)装備。前面風防がより空気抵抗の少ない形状("Speed Sweep" windshield)に形状変更、この年から愛称がボナンザに変更となる。 

堅牢な訓練機、高級な自家用機として高く評価されている。1947年から生産開始されたが、時代に合わせて改良され続け、現在も生産が続く長寿な機体。現在のビーチクラフト社の発展の基礎を築いた、商業的にも技術的にも重要なモデルである。

技術的には、戦後のビーチ社の双発機シリーズの出発点でもあり、ボナンザをベースに双発化したものとしてモデル95 トラベルエア、モデル50 ツイン・ボナンザがあるが、前者は後にバロンシリーズに発展、後者もモデル65 クイーンエアを経てキングエアシリーズへと発展し、それぞれ現在も生産が続く。

軍用機としてはT-34およびその派生型の使用国が多いが、ボナンザも各国の軍隊・公的機関・航空会社などで練習機や連絡機として使用されている。特殊な例として無人電子偵察信号中継機のQU-22が存在する。

モデル35 ボナンザ
ビーチ社では第二次世界大戦中から、来るべき戦後の民間航空市場向けの小型単発機の開発に着手していた。戦前、ビーチ社ではモデル17が好評で、複葉機ではあったが4人乗り単発機に大きな星形エンジンと引込脚を搭載した「小型ながらも豪華な高速機」であった。

モデル35の開発コンセプトは「大人4人と手荷物が積める、自動車のように手軽で快適な軽飛行機」というもので、構造的には全く一新し、単葉・全金属製・水平対向エンジンを採用、斬新なデザイン(V字尾翼配置、美しい窓周り、モダンな内装)、小型軽量化など、新しい時代に合わせた「小型ながらも豪華な高速機」であった。

インスツルメント・パネルは明るい色彩に曲線を多用し、従来の航空機の計器盤というより自動車のダッシュボードに近いものである。特徴的なスローオーバー式操縦桿も、通常は操縦することの少ない前席右席の同乗者の快適さに貢献(操縦桿を取り除くことで膝まわりのスペースを広く)することを目的としていた。

発売初年度に1500機を生産する程の爆発的な売れ行きを見せたボナンザは、当時のアメリカ製乗用車がそうであったように、毎年改良されニューモデル(イヤーモデル)として発表された。その後1982年まで生産が続き、モデル35だけで10000機以上生産され、その名の通り[1]「最も成功した商業製品のひとつ」となった。

スペック(モデルB36TC)
全長:8.38 m
全幅:11.53 m
全高:2.62 m
翼面積:17.47 m2
空虚重量:1,104 kg
最大離陸重量:1,746 kg
エンジン:テレダイン・コンチネンタル TSIO-520-UB 水平6気筒ピストンエンジン(300hp) × 1
最大速度:394 km/h(高度22,000 ft)
巡航速度:370 km/h(高度25,000 ft)
実用上昇限度:7,620 m以上
航続距離:2,022 km
ペイロード:乗客最大5名
乗員:1名

桜川駅(近江鉄道本線)

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桜川駅(さくらがわえき)は、滋賀県東近江市桜川西町にある近江鉄道本線の駅。

開業当時からの設置駅で駅舎は木造駅舎、開業当時からのものである。

2013年まで運行されていた快速列車も停車していました。

相対式2面2線の交換可能な駅である。

案内上ののりば番号は割り当てられていない。

駅舎側が上り(八日市方面)、反対側が下り(日野、貴生川方面)のりばである。

下り線には、上り方面の出発信号もある。

ホームと駅舎は遮断機付きの構内踏切で結ばれています。ホームには上屋が設置されています。


待合室には造り付けの長椅子と、丸太を半分に割った椅子が設置されています。

無人駅であるが、待合室や改札口が存在する。窓口跡は塞がれています。駅前には公衆電話と郵便ポスト、があります。


駅周辺
東近江市立蒲生東小学校
滋賀銀行桜川支店
湖東信用金庫蒲生支店
東近江市蒲生医療センター
東近江市役所蒲生支所
蒲生郵便局
石塔寺
佐久良川(日野川支流)

1900年(明治33年)10月1日 - 開業。


所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 31.2km(米原駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面2線
乗車人員
-統計年度- 156人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1900年(明治33年)10月1日

国鉄9600形蒸気機関車(9633)

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9633:京都府京都市「京都鉄道博物館」 - 2006年、梅小路の蒸気機関車群と関連施設として、準鉄道記念物に指定

国鉄9600形蒸気機関車(こくてつ9600がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が1913年(大正2年)から製造した、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車である。「キューロク」、「クンロク」あるいは「山親爺」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用された。国鉄において最後まで稼動した蒸気機関車ともなった、長命な形式である。

9600形という形式は、1912年度に12両が試作された2-8-0 (1D) 型過熱式テンダー機関車が最初に使用 (9600 - 9611) したが、本形式に形式を明け渡すため、落成後わずか3か月で9580形 (9580 - 9591) に改められた。したがって、本形式は9600形の2代目である。

概要
本形式は、1913年(大正2年)3月に先行製作された軸配置2-8-0 (1D) 型の過熱式テンダー機関車初代9600形(9580形)の欠点を改良すべく設計されたものである。

明治末期の大型輸入機の設計を参考にし、独創的な発想で日本の国情によく合致する性能の機関車となった。狭軌鉄道向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にした。そのため出力は上がったが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2,591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手であった。また、動輪直径が小さいので振動が多く、「腹の減る機関車」とも言われていた。

このような構造を採用すれば、重心位置が高くなるのは設計段階から明らかであったが、あえてこの構造を採用したのは、同様の構造を採用していたドイツ・ボルジッヒ社製の8850形の使用成績が良好で、さらに同社の確信ある提言があったからに他ならない。実際、9600形の使用上、それが問題になることはなかった。

設計当初は8850形のように圧延鋼板を切り抜いた棒台枠を採用する予定であったが、国内では製造することができず、やむなく従来どおりの軟鋼板製の板台枠式となった。初期の製造車では、ピストンバルブをシュミット社から輸入し、軸バネも川崎造船所が輸入した貯蔵品を使用したため、厳密にいうと標榜したような純国産とはいかなかったが、9618号機以降は看板どおりの純国産となり、設計も変更された。外観上、運転台下部のラインが、S字形屈曲から乙字形屈曲に変更されたのが目立つ。

9600形の特徴としては、左右動輪のクランクピンの位相が、通常の右先行型に対し、逆の左先行型となっていることがあげられる。これは、動輪の釣合錘の位置をドイツ製機関車に倣って、回転軸を含む平面で動輪全体の回転質量のバランスを取るクロスバランシングを取り入れ、クランクピンから180°の位置からわずかにずらす設計変更を行なった際に、右先行の場合は後ろに、左先行の場合は前にずらすのを設計者の太田吉松(おおたきちまつ)が逆向きに間違え、それが当時の車両局長・朝倉希一をも素通りしてしまったのが原因である。つまり、本来右先行で設計されたものが、釣合錘のずらし方を間違えたのを救済するために左右動輪の位相を逆にセットし、左先行型として活かされたというのが真相である。製造は、この異例の構造のまま770両(全製造数は828両)まで続いたが、その原因は判明していない。当時の日本は基礎技術力が低く、経済的にも恵まれた状況ではなかったため、容易に設計変更には踏み切れなかったと推測される。後に、朝倉は左足から歩を進めるというので「武士道機関車」と名付けている。

また、製造当時は標準軌への改軌構想があったため、標準軌への改造を考慮した設計がされていたというのが通説であるが、朝倉や島秀雄はこれを明確に否定している。「満州事変中に内密に指令があったとき、軸守箱と担バネを台枠の外側に移せば、台枠をくずさずにすむ簡単な方法を偶然発見した。これは日支事変まで伏せてあり、実施のとき役立った。」と2人は自伝中で述べている。蒸気機関車研究家の臼井茂信はこれについて、広軌改築論を偏執的に耳にしていた原設計者の太田がここぞの「隠し設計」として胸三寸に収めていたのではないかとも指摘しているが、真相は藪の中である。

なお、9600形は、1918年(大正7年)に石炭を満載した10トン貨車75両を牽引して北海道室蘭本線を走行した。これは日本で蒸気機関車が最も多くの車両を連結した記録である。

9600 - 9617のテンダーについて
一般的な9600形のテンダー(炭水車)は、台車が3軸固定式の水タンク13m3、燃料6t積載のものであるが、最初に製造された9600 - 9617の18両については、小型の水タンク9m3、燃料2.5tで2軸固定式台車であった。これは、東海道本線(当時)山北 - 御殿場間、沼津 - 御殿場間の箱根越え区間の推進(補助機関車)用として設計されたためである。しかし、予定どおり箱根越え用に配置されたのは9610 - 9617の8両のみで、9600 - 9609の10両は神戸鉄道局に配置された。その後に製造された9600形は前述のように3軸テンダーとして石炭と水の積載量を増加したため、2軸の小型テンダーでは、別運用を組まねばならないなど、運用に不都合が生じるようになっていた。

しばらくの間は、そのままで凌いでいたものの、1923年(大正12年)2月から3月にかけ、鷹取工場で9600 - 9605の6両について標準タイプのテンダーと交換された。その時余剰となった2軸テンダー2両は、同時期に鷹取工場で組み立てられていたロータリー式雪かき車ユキ300形(後のキ600形)2両に連結されたが、後年不足を生じて大容量のテンダーに交換されたという。残りの4両分については、水運車ミ160形となった。

残りの12両についても、引き続いて交換が計画されていたようであるが、これらについては1925年度までずれ込んだ。この遅れは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によるものと推定されている。つまり、それどころではなくなった、ということである。これらの改造(交換)については、テンダーを新製せず、既存の6700形のテンダーとの振り替えによって実施された。テンダーを供出したのは、6704 - 6708, 6728 - 6734であったが、その後の6700形/B50形同士のテンダー交換によって乱れを生じている。

また、9608は戦前、2軸ボギー式テンダーを連結していたことが知られており、テンダーの交換、振替が長期間かつ広範囲に行われていたことが推測される。

製造
メーカーは大半が川崎造船所(686両)だが、汽車製造(69両)、鉄道院小倉工場(15両)で製造されたものもある。1913年(大正2年)を製造初年とし、1926年(大正15年)までの間に770両(9600 - 79669。ただし、百位への繰り上がりは万位に表示され、数字的には連続していない。付番法については後述)が量産された。このほかに三菱大夕張鉄道、夕張鉄道、美唄鉄道の自社発注や、樺太庁鉄道、台湾総督府鉄道向けなどに断続的に同形機が生産され、最終製造年は実に1941年(昭和16年)である。樺太庁鉄道に納入された同形機5両 (D501 - 5) は、1943年(昭和18年)の南樺太の内地編入にともない鉄道省籍となり、79670 - 79674に、樺太鉄道向けに製造された細部の異なる準同形機80形9両 (80 - 88) も、樺太庁鉄道を経て79680 - 79688(79675 - 79679は欠番)となっている。樺太向けの14両を鉄道省としての製造両数に含め、製造両数を784両と記載している文献もある。

樺太鉄道80形
80形は、樺太鉄道に納入された鉄道省9600形の準同形車で、9両全車が汽車製造で新製された。ボイラー容量がやや小さく、テンダーは2軸ボギー台車を2つ履いており、運転台は耐寒構造の密閉式となっており、当初から除煙板を装備しているのが鉄道省のものと異なっている。また、樺太の鉄道の仕様として、自動連結器の取付位置が低い。樺太庁鉄道に買収された後、1943年、鉄道省に編入され、79680 - 79688となった。

樺太庁鉄道D50形
D50形は、樺太庁鉄道に納入された鉄道省9600形の同形車で、5両が製造された。煙突前側に給水加熱器を装備している。運転台が耐寒構造の密閉型で連結器の取付け高さが低いのは、80形と同様である。1943年、鉄道省に編入され、79670 - 79674となった。

台湾総督府鉄道800形
800形は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省9600形の同形車で、1923年(大正12年)から1939年(昭和14年)にかけて、39両 (800 - 838) が製造された。こちらは、鉄道省籍に編入されたことはない。1937年にD98形に改められたが、番号は変更されなかった。太平洋戦争後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局では、DT580形 (DT581 - 618) と改められた。戦後には、廃車の部品を組み合わせて1両 (DT619) が再製されている。

台湾の「9600形」について特筆すべきは、本形式に先立つ1920年(大正9年)にアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社スケネクタディ工場で、同系機(600形)が製造されていることで、14両 (600 - 613) が輸入されている。原型の板台枠を棒台枠に変更し、火格子面積も増大されており、乗り心地や投炭の楽さは、本形式に優っていたという。細部の設計もアメリカナイズされていたが、原設計を日本で行なった機関車をアメリカで製造した唯一の例である。

私鉄の同形機
9600形は、北海道の炭鉱鉄道を中心に同形機が製造されている。これは、軸重が軽い割に牽引力が大きいという本形式の特徴が、炭鉱鉄道の要求に合致したものといえよう。後述の払下げ機とともに石炭輸送に従事した。

三菱鉱業大夕張鉄道
1937年(昭和12年)8月にNo.3(製造番号876)、1941年1月にNo.4(製造番号1300)がいずれも日立製作所で新製された。この機関車は逆機に適するよう、C56形に似た、炭庫の側部を削り、その後端を低くしたスロープ型テンダーを装備している。No.4は、当初から美唄鉄道に貸し渡されていたが、1947年(昭和22年)12月に大夕張鉄道に戻った。
1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)にかけて、美唄鉄道の5が貸し渡されてNo.15として使用され、1969年(昭和44年)10月に同機が転入してNo.2となった。No.2とNo.4は1974年(昭和49年)1月、No.3は同年3月に廃車となった。
三菱鉱業美唄鉄道
前述のように、1941年(昭和16年)日立製作所製のNo.4が借入れられたが、1947年(昭和22年)に大夕張鉄道に戻っている。また、1940年(昭和15年)川崎車輛製の5(製造番号2393)が三菱石炭油化工業から転入しているが、1974年(昭和49年)に大夕張鉄道で廃車となった。
三菱石炭油化工業(樺太本斗郡内幌村)
1940年(昭和15年)に2両 (21, 22) が川崎車輛で製造された。1両(22。製造番号2393)は、美唄鉄道に移って5となっている。21のソ連接収後の消息は不明。
夕張鉄道
開業以降9600形の縮小版である11形を使用してきた夕張鉄道には、1941年(昭和16年)7月に川崎車輛製の1両(21。製造番号2530)が入線している。この機関車が、9600系蒸気機関車の最終製造車である。1975年の夕張鉄道廃止時まで在籍し、同鉄道の一部を引き継いだ専用線で行われた、映画新幹線大爆破の撮影でSL+貨車+DLの推進運転での爆破シーンに登場。その後、整備され栗山町に保存された。

運用
製造当初は東海道本線などの幹線でも用いられたが、より牽引力の強いD50形が1923年(大正12年)に、またD51形が1936年(昭和11年)に出現すると主要幹線を追われ全国各地の亜幹線や支線に分散した。1929年(昭和4年)に30t積み石炭車の走行抵抗を測定した上で、1930年(昭和5年)に室蘭本線の運炭列車で単機牽引の2000t列車が設定された。

出力の割には軸重が軽く運用線区を選ばないのが特長で、このため1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、陸軍の要請により、鉄道省の工場で標準軌に改軌のうえ中国に送られた。改造は1938年(昭和13年)2月から1939年(昭和14年)4月にかけて6次にわたって行なわれ、実に本形式の総両数の3分の1弱にあたる251両が供出されている。詳細は不明であるが、150両が華北交通でソリホ形 (1501 -)、残りの一部が華中鉄道でソリロ形と称したとされる。戦後、華中鉄道から中華民国へ引き継がれたのは、80両であった。そのうちの10両が華北交通に貸し出されており、これら以外については、日本陸軍が管理した線区で使用されていたと推定されている。

さらに1941年(昭和16年)に4両 (9620, 9622, 9639, 9659) が廃車となっているが、これらも改軌の上で中国に送られたものと思われる[8]。また、1944年(昭和19年)には、6両 (29619, 29655, 59660, 59677, 69626, 69687) が輸送力増強のため樺太鉄道局に転属した。いずれも日本の太平洋戦争敗戦とともに中国およびソ連に接収され、帰還したものは1両もない。中国に接収されたものはKD5型と改称され、さらに一部は1,000mm軌間に改軌されKD55型となった。KD55型は昆明鉄路局宜良機務段(機関区)に配属されベトナム国境に続く昆河線にて1980年代まで運用されていた。

戦後は北海道・九州の石炭輸送路線や、米坂線・宮津線など、貨物輸送量が多かったり急勾配を抱えていたりするにもかかわらず、路盤の弱い路線を中心に使用された。特筆すべき点として室蘭本線にて牽引力テストが行われた際、3000トンの超重量列車の引き出しに成功したことが挙げられる。使い勝手の良さ、レールへの粘着力、列車の牽引力において決定的な代替能力を有する機関車がなかなか開発されなかったため[9]、古い形式でありながら蒸気機関車の運用末期まで残った。

歴史が長いだけにその形態は変化に富んでいる。キャブ裾や窓の形状、自動連結器への改造工事跡のバッファー穴や、空気制動化への改造によるエアータンクの位置など、個体ごとの変化が多い。さらに四国を除く、北海道から九州まで数多くの機関区に所属。これらの地域や事情に適合させるために様々な改良、改造が行われた。テンダーの形状、デフレクターの有無や形状、煙突や蒸気ドームの形状や高さ、前照灯の増設など、そのスタイルは実にバラエティに富んでいる。

最後に残ったのは室蘭本線追分駅近くにあった追分機関区の入換用に使用されていた39679、49648、79602の3両で、1976年(昭和51年)3月2日に最終仕業となった。そのうち79602は3月25日まで有火予備で残っていた。これを最後に国鉄の蒸気機関車は保存用を除いてそのすべてが姿を消した。実働63年、最初期の標準型国産蒸気機関車として登場し、日本の蒸気機関車の終焉を見届けた最も長命な蒸気機関車であった。

この後39679は、苗穂工場に長期留置されたものの、保存されずに解体され、49648は中頓別町の寿公園に保存された。また79602も保存のため追分機関区扇形庫内に保管されていたが、1976年(昭和51年)4月13日の追分機関区の火災により焼損し、解体されてしまった。文献によっては39679、49648も火災により焼失したとの記述も見られるがこれは誤りである。

譲渡
その特性上重量貨物列車の運転される北海道の炭鉱鉄道を中心に払下げられた。最初は1942年(昭和17年)に三菱鉱業美唄鉄道に払下げられた69603であるが、その後、1964年(昭和37年)までに21両が9社に払下げられている。

保存機
広義の動態保存機としては圧搾空気を使用して走行可能とした真岡駅SLキューロク館の49671がある。当機は運転台を右側に移設改造という特徴があるが、これは青函連絡船函館桟橋の入換機関車であった名残である。静態保存機は青梅鉄道公園の9608や京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)の9633、大井川鐵道の49616、九州鉄道記念館の59634をはじめ、全国各地に見られる。

9600形の付番法
9600形の製造順と番号の対応は、1番目が9600、2番目が9601、3番目が9602、…、100番目が9699となるが、101番目を9700とすると既にあった9700形と重複するので、101番目は万位に1をつけて19600とした。その後も同様で、下2桁を00から始め、99に達すると次は万位の数字を1つ繰り上げて再び下2桁を00から始め…という付番法とした。したがって、100番目ごとに万位の数字が繰り上がり、200番目が19699、201番目が29600、…となる。

このため、ナンバーと製造順を対応させる公式は、

万の位の数字×100+下二桁の数字+1=製造順
となる。

例えば59634であれば万の位の数字が5、下2桁が34となるので、製造順は5×100+34+1=535両目となる。

登場した作品
映画
吹雪の名寄本線 天北峠に挑む9600 - ヒストリーチャンネル(2007年6月20日放送)
新幹線大爆破
テレビドラマ
旅路 - 1967年(昭和42年)のNHK連続テレビ小説。主に現・梅小路蒸気機関車館保存機の9633号機が登場。

運用者 鉄道院→日本国有鉄道
製造所 川崎造船所(川崎車輛)、汽車製造、国鉄小倉工場
製造年 1913年 - 1926年
製造数 770両
引退 1976年3月2日
愛称 キューロク、クンロク
主要諸元
軸配置 1D
軌間 1,067 mm
全長 16,551 mm
全高 3,813 mm
機関車重量 59.82 t
動輪上重量 52.73 t
総重量 94.32 t
固定軸距 4,572 mm
先輪径 840 mm
動輪径 1,250 mm
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 510 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 12.7 kg/cm2
大煙管
(直径×長さ×数) 133 mm×4039 mm×22本
小煙管
(直径×長さ×数) 51 mm×4039 mm×126本
火格子面積 2.32 m2
全伝熱面積 153.6 m2
過熱伝熱面積 35.2 m2
煙管蒸発伝熱面積 108.4 m2
火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 6.00 t
水タンク容量 13.00 m3
制動装置 真空ブレーキ→自動空気ブレーキ
最高速度 65 km/h
出力 870PS


京セラ前駅 (近江鉄道本線)

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京セラ前駅(きょうセラまええき)は、滋賀県東近江市川合町にある近江鉄道本線の駅。

駅周辺には工場がが立地するのみで人家は少なく、閑散としています。京セラ滋賀蒲生工場が駅東側にあるほか、東方に京セラ滋賀八日市工場などがある布引工業団地がある。

駅舎はなく、ホームに待合所が設置された単式ホーム1面1線の無人駅。 当駅が京セラドームの最寄駅と間違われないようポスターが貼られている。サイクルトレインへの対応。

工場従業員向けの送迎バス運行の為なのか駅前広場がきれいに整備されている。

ホーム待合所には、FRP製の椅子と木製長椅子が設置されています。


近江鉄道の主要駅では「京セラドーム大阪の最寄り駅は京セラ前ではありません」という趣旨の注意書きが掲示されている。京セラドーム大阪は大阪府にあり、滋賀県にある当駅とは100km以上離れているが、実際に乗り間違えて当駅で降りてしまう人が少なからずいるため、このような注意書きがなされているという。


本当にそのような間違いをする人がいるのかどうか確かめようとしたテレビ番組では、同ドームにおける音楽グループ「嵐」のイベント開催日に2組が誤って当駅にやってきてしまった様子を放送している。

この2組はともに土地勘はなく、経路検索アプリなどで「京セラ」と入力したところ「京セラ前駅」が候補で挙がったので「京セラドーム大阪の前」にある駅だと思い込みそのまま来てしまったという

1991年(平成3年)3月16日 - 開業


所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 29.9km(米原駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 片式1面1線
乗車人員
-統計年度- 36人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1991年(平成3年)3月16日

 

「きぼう」宇宙実験棟(JAXA)

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きぼうは宇宙航空研究開発機構 (JAXA) が開発した日本の宇宙実験棟で、国際宇宙ステーション (ISS) の一部。ISSでは最大の実験棟である。計画時の呼称はJEM(Japanese Experiment Module:日本実験棟)。エアロックやロボットアームを備え、ISSでは唯一、重量50キログラム程度までの超小型人工衛星を軌道投入できる機能を有し、JAXAが各国から衛星射出を受託している。


日本はアメリカ合衆国が冷戦末期の1980年代に、西側諸国の結束の象徴として、宇宙ステーション建設を主張した当初から参加を訴えており、計画自体は幾度の変遷を経たが、日本の立場・方針は変わらず一貫して参加を表明してきた。そのなかで日本は費用面だけでなく、構成するモジュールの建設にも意欲を示し、宇宙開発事業団(NASDA・当時)が製造・保有・運用を担当することとなった。

「きぼう」には日本国の主権が及ぶことから管制は全て日本で行うが、電力・廃熱・姿勢制御などの宇宙基地としての基本的なインフラをアメリカ側モジュールから提供されるため、対価として施設使用権の46.7パーセントをアメリカが保有している。また、カナダはカナダアーム2の提供により施設使用権の2.3パーセントを保有する。日本が保有する施設使用権は残りの51パーセントである。


1982年6月、ジェームス・ベッグスアメリカ航空宇宙局 (NASA) 長官から日本の中川一郎科学技術庁長官へ、初めて宇宙ステーション計画への参加要請が行われた。これを受けて8月、日本政府は宇宙開発委員会に宇宙基地計画特別部会を設置して検討を開始した。1985年5月には、NASAと科学技術庁の間で宇宙ステーション計画予備設計了解覚書が署名され、日本でも設計作業に着手した。

日本は実験モジュールを設置することで計画に参加することになった。このときの計画では、既に与圧部(現在の船内実験室)と曝露部(現在の船外実験プラットフォーム)、それぞれの補給部(船内保管室と船外パレット)とロボットアームからなる構成が示されており、現在のきぼうと概略的には違いはない。宇宙ステーションの全体計画が大きく変化する中で、これほど変更が加えられていないのは特異とも言え、各時代の完成予想図の中で日本の区画は容易に見出すことができる。

宇宙ステーションの全体設計は繰り返し見直され、時期も延期されてきたが、これはアメリカ側が一方的に行ったことで、日本側は従うしかなかった。日本が担当した部位は実験室であり、電力や生命維持などの宇宙ステーションの基幹部分に関しては参加を許されなかった。また、輸送はスペースシャトルに依存していた。日本には、アメリカに強く意見できるだけの影響力はなかったのである。


特に、1993年に行われた変更で、きぼうは大きな影響を受けた。それまでは宇宙ステーションの進行方向前側に居住モジュールとスペースシャトルのドッキング装置が、後側に日欧の実験モジュール(現在のきぼうとコロンバス)を設置する計画だったが、この変更で日欧のモジュール設置位置は進行方向前側に設定された。また、進行方向と平行に設置される予定だったものが、横向きに変更された。この場所はデブリの衝突を受ける可能性が高く、しかもモジュール側面を大きく晒すことになったため、きぼうはデブリシールドと呼ばれる外部装甲板の厚さを増すなどして強化された。

開発担当企業
三菱重工業 - 与圧部(船内実験室・船内保管室)
アイ・エイチ・アイ・エアロスペース - 曝露部(船外実験プラットフォーム・曝露パレット)・与圧部搭載ラック・実験装置等
川崎重工業 - エアロック・EF/PM結合機構[4]
NEC東芝スペースシステム - ロボットアーム、衛星間通信システム、管制制御装置 (JCP)、実験装置


「きぼう」は与圧部である船内実験室 (PM) と船内保管室 (ELM-PS)、曝露部の船外実験プラットフォーム (EF) と船外パレット (ELM-ES)、きぼう専用マニピュレーターのロボットアーム (JEM-RMS)、衛星間通信システム (ICS) といった6つの主要部位で構成されている。

船内実験室 (PM)
きぼうの中心となる部位。地上と同じ1気圧の空気が保たれ、飛行士はシャツ一枚で過ごせ、最大4名が同時搭乗できる。主に微小重力環境を利用した実験を行う。内部にはきぼう全体のシステムを管理・制御する装置や実験設備が備えられた23個のラックを設置できるよう設計されており、そのうち10個は実験ラックを予定している。船内と船外実験プラットフォームとの間で実験装置や交換用の機器などの出し入れに使うエアロックも装備されている(サイズが小さいため宇宙服を着た人間の出入りはできない)。これらを使用して、地球観測、材料の実験や製造、生命科学(宇宙医学・バイオなど)、通信などの実験が行われる。

形状 - 円筒形
直径(外径) - 4.4m
直径(内径) - 4.2m
全長 - 11.2m
乾燥重量 - 15.9t
搭乗員 - 通常2名、最大4名(時間制限あり)、居住設備は米国モジュールに依存
搭載ラック - 総数23台
システム機器用ラック - 11台
電力ラック - 2台設置し冗長構成にしている
情報管制ラック - 2台設置し冗長構成にしている
空調/熱制御ラック - 2台設置し冗長構成にしている
ロボットアーム制御ラック - ロボットアーム操作卓を収めたラック
ワークステーションラック - 音声端末装置、TVモニタ、警告・警報パネルなどを装備したラック
衛星間通信システムラック - 衛星間通信システム機器とHTV用のPROX装置を搭載したラック
保管ラック - 2台
実験ラック - 10台(予定)(2011年9月時点で、JAXA 4台、NASA 2台、冷凍・冷蔵庫ラック 2台を設置)
電力 - 直流120V・最大24kW
通信制御 - 32ビット計算機システム、高速データ伝送最大100Mbps
環境制御性能 - 温度:18.3~26.7度、湿度:25~70%
寿命 - 10年以上


船内保管室 (ELM-PS)
軌道上で保管庫として使用される部位。日本が打ち上げた初の有人施設となった。実験室同様に1気圧が保たれ、8台のラックを搭載できる。打ち上げ時に搭載していたラックは船内実験室打ち上げ後に移設され、その後は、保管スペースとして荷物の保管に使われている。

上部が斜めにカットされたような形状になっているが、ここには船外実験プラットフォームと同じ実験装置交換機構が1基設置されている。これはHTV到着時に、後述の船外パレットをここに仮置きして、HTVの曝露パレットを取り付ける場所を空けるために使用する計画であったが、その後船外パレットは地上に回収することになったため、このような使い方は必要なくなった。

当初計画では、この船内保管室はスペースシャトルを使用して、運用を終えたラックや試料などを地上に回収したり、新しいラックや実験材料をISSへ輸送することを考慮していた。しかし、シャトル運用がISS完成と同時に終了することになり、地上へは持ち帰らない方針になったため、スペースシャトルへの積み込みに必要な部品の一部(グラプルフィクスチャなど)は実機からは取り外された。

形状 - 円筒形
直径(外径) - 4.4m
直径(内径) - 4.2m
全長 - 4.2m
乾燥重量 - 4.2t(打ち上げ時8.4t)
搭載ラック - 8台
電力 - 直流120V・最大3kW
寿命 - 10年以上


船外実験プラットフォーム (EF)
微小重力・高真空の宇宙曝露環境を利用して、科学観測、天体観測、地球観測、通信、理工学実験、材料曝露実験などを行う多目的実験スペース。船外実験装置や衛星間通信装置を取り付けるための12箇所の結合部があり、ここに各実験装置を取り付けることで様々な実験が行える。なお、曝露実験装置の設置場所は米、露、欧州も有しているが、排熱用の冷却能力まで提供可能なのは「きぼう」の船外実験プラットフォームだけである。

EF先端(後方側)の結合部は、スペースシャトルで船外機器を輸送した「船外パレット」と、HTVで船外機器を輸送するための「曝露パレット」を取り付けるのに使われる。

形状 - 箱形
幅 - 5.0m
長さ - 5.2m
高さ - 3.8m
質量 - 4.1t
実験装置取付け場所 - 12箇所
システム機器用 - 2箇所
実験装置設置用 - 9箇所
実験装置仮置き用 - 1箇所
電力 - 直流120V・最大11kW
システム機器用 - 最大1kW
実験装置用 - 最大10kW
通信制御 - 16ビット計算機システム、データ伝送速度:最大100Mbps
環境制御性能 - なし

船外パレット (ELM-ES)
船外実験プラットフォームに取り付ける船外機器を3基取り付けて、スペースシャトルで輸送するためのパレット。船内保管室と同様に、シャトルによる複数回の利用を想定して設計され、機器の地上への回収も可能なように設計されたが、同様な理由で再使用はしない方針になった。

2J/Aミッションでは、船外実験装置2基 (MAXI, SEDA-AP) と衛星間通信システム (ICS-EF) を搭載し運搬した。これらの搭載機器はJEMRMSを使用して船外実験プラットフォームに移設され、船外パレットは空のままスペースシャトルのペイロードベイに戻されて、地球へ回収された。

形状 - フレーム型
幅 - 4.9m
長さ - 4.1m
高さ - 2.2m(実験装置を含む)
質量 - 1.2t(実験装置を含まない)
実験装置取付け場所 - 3箇所
実験装置2個+ORU 2~3個とすることも可能
電力 - 直流120V・最大1kW
環境制御性能 - なし

ロボットアーム (JEM-RMS)
実験や船体の保全作業支援に使用する実用ロボット(マニピュレーター)。全長10mの親アームと、親アームの先端に取り付けて使用する2.2mの子アームの二つと船内のアーム作業卓(RMSラック)からなる。アームはそれぞれ6つの関節を持ち、人間の腕と同じような動作が可能である。子アームはHTV初号機の与圧部に搭載して打ち上げられ、きぼう内で組み立てられた後、きぼうのエアロックを使って船外実験プラットフォームへ搬出され、所定の保管場所に収納された。JEM-RMSは地上からも遠隔操作で動かすことができる。2012年のHTV3号機からこの地上からの遠隔操作を本格使用する予定であり、そのための試験が2011年12月6日に行われた。

衛星間通信システム (ICS)
きぼうの運用を効率的に行うため、船外実験プラットフォームには直径約80cmのアンテナを持つICS-EFが2J/Aで設置された。これとJAXAのデータ中継衛星こだまを利用して、筑波宇宙センターとの間でデータ・画像・音声などの双方向通信が行われている。こだまが1機しかなく、連続通信は不可能であるため、管制には使用せず大容量の実験データ送受信等に使用する。通信速度は、地上へのダウンリンクが50Mbps、地上からのアップリンクが3Mbpsとなっており、きぼうから地上へのハイビジョン映像の送信にも使われている。


きぼうの運用と利用を主たる目的とした日本における国際宇宙ステーション計画の2010年までの総費用は約7,100億円で、その内訳は、きぼう開発費に約2,500億円、きぼう実験装置開発費に約450億円、HTV開発費(技術実証機の建造費含む)に約680億円、地上施設開発費と宇宙飛行士訓練費とシャトルによるきぼう打ち上げ費に約2,360億円、運用費(管制・保全など)と利用費(実験関連費)に約1,100億円である。なお、ここにはH-IIBの開発費と試験1号機の打ち上げ費は含まない。

2011年以後の1年毎の日本の国際宇宙ステーション計画費用は約400億円で、その内訳は、運用費(管制・保全・宇宙飛行士訓練など)に約90億円、利用費(実験関連費)に約40億円、物資輸送費(H-IIBによるHTV打ち上げ)に約250億円である。日本の宇宙開発費のうちJAXA独自の予算は毎年約1,800億円であることを考えると、毎年約400億円の支出となる国際宇宙ステーション計画費用は日本の宇宙開発予算の中で相当のウェイトを占めていると言える。


名称
「きぼう」という愛称は1999年に宇宙開発事業団(当時)が公募したものであり、この愛称を応募した総数は132人であった。宇宙開発事業団から組織改編された宇宙航空研究開発機構が、応募者名簿を2005年4月施行の個人情報保護法の下、誤った認識により破棄し、「きぼう」の命名者も一時不明になっていたが、後に再発見された。
展示モデル
日本実験棟「きぼう」の展示モデルは、JAXA筑波宇宙センターの展示館「スペースドーム」内に、内部にも入れる実物大模型が展示されているほか、名古屋市科学館の屋外展示スペースに実際に開発に使われた船内実験室の構造試験モデルが展示されている。

 

 

溝口駅(JR西日本)播但線

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溝口駅(みぞぐちえき)は、兵庫県姫路市香寺町溝口にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅。駅付近には高校も立地し、朝夕の通勤時は特に混雑します。香呂駅からは2kmと駅間が短い立地です。

 


駅構造
相対式ホーム2面2線を持つ、交換設備を備えた地上駅。妻面に入口のある瓦葺きの木造駅舎です。配線は一線スルー化されておらずY字分岐となっているため、発着ホームは方向別で分けられている。

駅舎は寺前方面行きホーム側にあり、反対側の姫路方面行きホームへは跨線橋で連絡していたが2016年4月より姫路方面行きにも請願改札口が設けられ跨線橋を渡らずとも姫路方面へ連絡が可能となった。なお、請願口改札口にも自動券売機(UT-50型)が設置されている。

福知山支社管内にありながらジェイアール西日本交通サービス受託の業務委託駅であったが、2005年(平成17年)10月改正からジェイアール西日本福知山メンテックに移管された。福崎駅が当駅を管理する。

切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台。みどりの窓口が設置されている。待合室に椅子が壁沿いに少数設置。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 J 播但線 上り 姫路方面

上りホームにはスレート葺の待合室が設置されています。
2 下り 寺前・和田山方面

駅周辺
2003年以降、2006年に開催されたのじぎく兵庫国体に向けた道路開発とともに駅周辺の開発が急ピッチで進み、駅の前に公園が造成されている。

出勤ラッシュ時になると大変な混雑を見せていた、国道312号線に通じる県道410号線は、中寺小学校西側の信号を基点に新たに片側1車線の新道が作られている。この新道は溝口駅のやや南で線路と立体交差しており、踏み切り待ちで発生していた渋滞の緩和の効果が期待される。

利用状況
「兵庫県統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗車人員は1,713人である。

1898年(明治31年)3月28日 - 播但鉄道の香呂駅 - 福崎駅間に新設開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1903年(明治36年)6月1日 - 播但鉄道が山陽鉄道に営業譲渡。山陽鉄道の駅となる。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道国有化により、国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1962年(昭和37年)3月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2007年(平成19年)
7月1日 - みどりの窓口開設。
8月1日 - 窓口営業時間を変更。1時間延長し、7時10分 - 21時(変更前 - 20時)となる。
2016年(平成28年)3月26日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2017年(平成29年)3月25日 - 駅前ロータリー完成。ロータリー完成と同時に駅舎の外壁を塗替えプチリニューアルした。また地域住民に長年親しまれてきた駅名が書かれた木目の駅看板が新しくなった。

所属路線 J 播但線
キロ程 13.2km(姫路起点)
電報略号 ミソ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 1,713人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1898年(明治31年)3月28日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有

 

JR東日本キハ100系気動車

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キハ100系・キハ110系気動車(キハ100けい・キハ110けいきどうしゃ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の一般形気動車。

老朽化したキハ20系・キハ45系などの取り替えとローカル線における輸送サービスの改善を目的に製造され、1990年(平成2年)3月10日に北上線でキハ100形、釜石線と山田線でキハ110形量産先行車がそれぞれ営業運転を開始した。製造メーカーは富士重工業および新潟鐵工所である。

気動車であるが、車体と台車の軽量化を図り、高出力直噴式エンジンと効率の高い液体変速機との組み合わせにより電車並みの性能を有している。ブレーキシステムも電車で実績のある応答性の高い電気指令式を採用し、連結器も密着連結器であるため、従来車との併結はできない。

本系列の導入により、特に急勾配の多い山岳路線では速度向上による時間短縮が実現した。さらに冷房装置を搭載したことにより、夏期における旅客サービスの向上が図られている。

車両系列・形式の呼称について
本系列は短尺車体(16m級)のグループと長尺のグループ(18m級)がある。本項目では便宜上、短尺車体のグループをキハ100系、長尺車体のグループをキハ110系と呼称する。

両車は基本設計に共通部が多いこともあり、「キハ100・110系」と呼称される。

キハ100系
16m級車体(後年の設計変更で17m級車も存在)の車両である。いずれも両運転台。

キハ100形
キハ101形(トイレなし)
キハ103形(改造車。実質片運転台。710番台のみに設定)
キハ110系
20m級車体となっており、片運転台車も設定されている。キハ111形とキハ112形は1両単位で分割することも可能であるが、基本的に同番号の車両とユニットを組んで運用される。

キハ110形:両運転台車
キハ111形:片運転台車
キハ112形:片運転台車(トイレなし)
キクシ112形:片運転台車(改造車。エンジンなし。700番台のみに設定。)

車体
車体は角を落とした独特の形状、普通鋼製ながら板厚の見直しと強度に無関係な箇所への穿孔、プラグドア化および固定窓化による側構体の厚みの低減(50mm、通常の電車は100mm)により軽量化を図っている。一方で「キハ54形などの従来型気動車なみ[2]」の車体前面強度を確保している。なお、キハ101形および各型式の200番台以降はさらなる車体の強化とドアの引き戸化が行われている。

床面高さは1,175mmであり、地方線区の低いプラットホームに対応するため出入り台にはステップ(高さ1036mm)が設けられている。なお、キハ101形および各型式の200番台以降ステップ高さは970mmに変更されている。窓は複層ガラスの固定窓である。

塗装は一部の特別仕様車を除いて共通となっており、わずかに緑がかった白色(「ベリーペールグリーン」)を基本に、車体隅などに「ダークライムグリーン」をアクセントとした。

機関
キハ100系はDMF11HZ(コマツ製SA6D125H)またはDMF13HZ(新潟鐵工所製)、DMF14HZ(カミンズ製NTA855-R1)(ともに連続定格出力330PS/2000rpm、排気量コマツ製11045cc、新潟鐵工所製12742cc、カミンズ製14016cc)、キハ110系はDMF13HZA(新潟鐵工所製)またはDMF14HZA(カミンズ製NTA855-R4)である(ともに連続定格出力420PS/2000rpm、排気量は13.3または14.0l)。いずれも小型軽量の直列6気筒、直接噴射式エンジンで、排気タービン過給器・吸気冷却器付きであり、これを1台搭載している。小型軽量のエンジンで、乾燥重量はキハ40系のDMF15HSAの2,720kgに対して1,365kgとなっている。

液体変速機
変速機は試作車・量産車を通じ、すべての形式がトルクコンバータを1組内装する液体式である。

キハ100系はDW14Bを1台、キハ110系についてはDW14A-Bを1台搭載する。湿式多板クラッチ式の変速1段、直結2段の多段式で、トルクコンバータは3段6要素である。コンバータブレーキ機能も搭載している。

なおキハ110形量産先行車は充排油式の変速1段、直結(流体継手)1段式のフォイト製T211rzで、リターダブレーキ機能付きであったが、量産化改造時に他と同様とされた。

いずれもプログラマブルコントローラにより機関とともに制御され、力行指令は5ノッチ、変直の切り換えも自動である。

ブレーキ
応荷重装置付電気指令式空気ブレーキ装置で、制御装置形式はC-76、常用(8ノッチ)、非常、直通予備(保安ブレーキとして使用)、耐雪、抑速(2段指令で押しボタン式)の各ブレーキを装備している。このうち、抑速ブレーキは機関ブレーキ+コンバータブレーキ(キハ110形量産先行車はリターダブレーキ)で対応し、空気ブレーキは使用しない。ブレーキシステムも電車で実績のある応答性の高い電気指令式を使用している。

性能
キハ110系の50 km/h での動輪周引張力は約1,300 kg で、キハ20系の約600 kg や、キハ40系の約800 kg と比較して大幅に向上している。キハ100系・110系とも25 ‰ の上り勾配で、補機負荷100 %・乗車率100 % でも60 km/h 以上の均衡速度となっている。

台車
いずれもボルスタレス式の空気バネ台車で、動台車は2軸駆動、基礎ブレーキはユニット式である。

キハ100系は動台車がDT59・従台車はTR243となっている。

キハ110系は動台車がDT58・従台車がTR242であるが、量産車では動台車が減速機の歯数比の変更により動台車はDT58Aに区分されており、200番台の陸羽東線・陸羽西線向け増備車については台車は軸ばねをロールゴムから円すいゴムへ変更した、DT58B形・TR242A形となっている。

キハ100系とキハ110系では軸距の違い(2,000mmと2,100mm)がある。

冷暖房
冷房はコンプレッサを機関で駆動する機械式のAU26J-B×1台(キハ100形)・AU26J-A×2台(キハ110・111・112形)で、除湿機能付き、暖房は機関の廃熱を利用する温水・温風方式であるが、始動性のよい直噴エンジンの採用により機関予熱器を装備しないため、下り勾配での暖房能力低下対策としてコンバータブレーキでの変速機油の廃熱を暖房に利用している。

その他機器
車内温度保持のために、客用ドアは半自動扱いを可能としており、ドアの横に開閉スイッチが設置されている。また、ドアチャイムも搭載されている。 連結器は従来車の小型自動密着連結器にかわり、電気連結器付きの密着連結器を採用し、分割併合を容易としている。電気連結器は当初1段式を採用したが、後年高崎車両センター所属車については、2段式とされている。

他形式との混結について
ブレーキや連結器の違いから既存車(国鉄形)との併結はできない。なお、後年登場したキハE130系0番台・キハE120形とは混結が可能となっている。なお、同じ系列内でも、キハ100・101形(および登場時のキハ110形0番台)については幌枠の形状がキハ110系列とは異なっており、そのままでは幌を直接つなぐことはできない。

形式・番台区分(キハ110系)
0番台
急行列車用として投入された番台である。1990年(平成2年)1月から2月にかけ試作車としてキハ110-1 - 3が製造されたのち、1991年(平成3年)3月に量産車となるキハ110-4, 5とキハ111・112-1 - 3が製造された。製造所はキハ110-1, 2, 4, 5が富士重工業、そのほかが新潟鐵工所である。

外観上は、他番台と異なり、パイプ式のスカートを使用している。また、試作車についてはキハ100形試作車と同様、側面へのダミーガラス使用、先頭車の正面の左右が黒色に塗装(登場時のみ)が行われている。

室内は他の番台と異なり940mmピッチの回転リクライニングシート(キハ111・112の後位のみ4人掛けボックスシート)を装備し、照明にはグローブがつけられている。デッキは省略されているが、ガラス製の仕切りが設けられている。この番台のみキハ111・112形の後位側の貫通扉は前面と同じ狭幅となっており、通常ユニットで運用されるキハ111・112形も1両単位で運用されることが多い。

定員はキハ110形が52名、キハ111形が60名、キハ112形が64名となっている。

2016年(平成28年)現在、JRグループにおいて急行列車で使用されることを前提として新製された最後の車両である。なお、2013年にキハ111-2およびキハ112-2は、700番台に改造されている。

当初は全車が盛岡客車区(→盛岡車両センター)に配属され、東北・釜石・山田線急行「陸中」で使用を開始した。2002年の「陸中」廃止後は、後継の快速「はまゆり」をはじめ、釜石線および東北本線日詰 - 盛岡間の普通列車に使用されている。快速「はまゆり」では、指定席となる3号車に優先的に使用される。また、東日本大震災以前の2007年(平成19年)7月から2011年(平成23年)3月まではキハ110形の一部が小牛田運輸区に所属し、石巻・気仙沼線快速「南三陸」の指定席車両でも使用されていた。2013年(平成25年)にキハ111・112-2が後述の700番台へ改造され転出し、代替として小牛田からキハ110形が戻り、2016年(平成28年)現在は全車が盛岡所属となっている。

100番台
普通列車用として設計された番台であり、1991年(平成3年)2月から翌年2月にかけキハ110形39両、キハ111・112形2両編成21本の計81両が製造された。郡山運輸区(→磐越東線営業所→郡山総合車両センター郡山派出所)を皮切りに新津運輸区・小海線営業所や常陸大子運転区(→水郡線営業所)に投入された。うち、新津運輸区投入車は後述の200番台投入でいったん全車が水郡線営業所に転属している。のちに水郡線営業所所属車についてもキハE130系投入による後述の転用により盛岡車両センターや小牛田運輸区、新津運輸区へ転属している。

外観はほぼ0番台と同様であるが、パイプ式スカートは通常の鋼板によるものに変更され、以降の番台にも踏襲されている。 車内はキハ100形と同様のセミクロスシートであり、クロスシート部はキハ100形と異なり、ワンマン運転時の旅客の動線や混雑時を考慮して1-3位側(キハ112形のみ2 - 4位側)を1人掛けとした横2+1列配置となっている。また、この番台以降、キハ111・112形の後位側貫通引き戸は幅広の両開きのものが採用されているため、ユニットを分割する場合、貫通扉にアダプターの装着が必要となっている。定員はキハ110形が119名、キハ111形が131名、キハ112形が136名である。

なお、キハ110-105は2013年(平成25年)に700番台へ、キハ110-108は2017年(平成29年)に710番台へ改造されている


陸羽東線・陸羽西線向け車両
1999年(平成11年)12月の山形新幹線新庄延伸に合わせ、1998年から陸羽西線(キハ110-237 - 245)と陸羽東線に投入された車両(キハ111・112-213 - 221)は本系列の最終増備車となり、設計変更がなされている。いずれも小牛田運輸区に配置された。現在では明確な線区の区分は消滅し、どちらも両線および仙台・小牛田地区で運用される。

外観は専用塗装とし、「雪景色」の白をベースに「豊かな自然」の緑を用いている。窓下にはアクセントカラーとして、陸羽西線向けのキハ110形は「最上川のもたらす豊かな恵み」の黄色、陸羽東線向けのキハ111・112形は「鳴子渓谷の紅葉をイメージした」赤色を配している。先頭車前面左下に両線の愛称(奥の細道最上川ライン・奥の細道湯けむりライン)にちなみ「奥の細道」のロゴが表記されている。なお、塗装については1998年度導入分のキハ110-237 - 239およびキハ111・112-213 - 217については従来のもので登場したのち、1999年度(平成11年)増備車に合わせ変更されている。

客室については基本的に従来どおりであるが、熱線吸収ガラスを採用し、カーテンを省略している。キハ110-243 - 245の3両については「眺望車」とされ、1列側のクロスシートが窓側に45°回転あるいは通路側に180°回転可能となっている。そのためこの3両は定員が112名に減少している。便所はいずれも車いす対応の洋式となり、キハ111形については300番台編入車同様、車端部に移設されている。また、側面の行先表示器はキハ111形については省略、キハ112形は車端部に移設されている。

機器面でも、ワンマン機器がバス用の改良品から鉄道車両用のものとなり、自動放送装置もROM方式からICカード方式となっている。台車は軸ばねをロールゴムから円すいゴムへ変更した、DT58B形・TR242A形に変更されている。

盛岡支社
八戸運輸区

キハ100形0・200番台
大湊線全線、青い森鉄道線(八戸 - 青森間)で普通・快速「しもきた」として運用される。
キハ110形700番台(「TOHOKU EMOTION」)
八戸線全線で運用される。
盛岡車両センター

キハ100形0番台
釜石線全線、東北本線(花巻 - 盛岡間)で運用される。
かつては間合い運用で三陸鉄道南リアス線、三陸鉄道北リアス線、いわて銀河鉄道線(盛岡 - 好摩間)で運用された。
東日本大震災以前は山田線(宮古 - 釜石間)でも運用された。
2017年(平成29年)2月より、キハ100-10に動物との接触時に床下への巻き込みを防ぐための排障器が試験的に導入されている。
キハ110系0番台
東北本線・釜石線快速「はまゆり」として盛岡 - 花巻 - 釜石間で運用されるほか、間合い運用として釜石線や東北本線(盛岡 - 日詰間)の普通列車で運用される。うち、「はまゆり」の指定席は本番台が限定使用される。
東日本大震災以前は山田線(宮古 - 釜石間)でも運用された。
キハ110系100番台・150番台
0番台と併結して東北本線・山田線・釜石線の快速「はまゆり」(自由席)・普通列車に運用される。
単独では山田線(盛岡 - 宮古間)、いわて銀河鉄道線・花輪線(盛岡 - 好摩 - 大館)間、奥羽本線鷹ノ巣 - 大館間で運用されている。
かつては被災前の山田線(宮古 - 釜石間)、岩泉線でも運用されていた。

 

JR東日本キハ100系・110系気動車
基本情報
製造所 富士重工業・新潟鐵工所
主要諸元
最高速度 100km/h
最大寸法
(長・幅・高) 17,000×2,928×3,995(キハ100系200番台)
20,500×2,928×3,995(キハ110系150番台以降)
台車 ボルスタレス台車
機関出力 330PS/2000rpm(キハ100系)
420PS/2000rpm(キハ110系)
駆動方式 液体式
制動装置 電気指令式ブレーキ
保安装置 ATS-P, ATS-Ps, ATS-SN

C-2 航空自衛隊(輸送機)川崎重工業

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C-2は、航空自衛隊がC-1の後継機として保有・運用する輸送機。防衛省技術研究本部と川崎重工業がC-Xの計画名で開発し、川崎重工業が製造する。

C-2は、C-1の後継として2000年(平成12年)に「第二次C-X」として計画され、防衛省技術研究本部と川崎重工業によって開発が進められた、ターボファンエンジン双発の大型戦術輸送機である。2010年(平成22)1月26日に初飛行した。初飛行に際して、試作機に対しXC-2の型式名称が与えられた。
当初の計画では2014年度末(平成26年度)に美保基地に配備する予定であった。開発途中、機体の強度不足が発覚するなどで配備が予定より遅れたが、2016年度中にC-2として制式採用、部隊使用承認された。2016年度中に3機、2018年度末までに8機配備される見込みである。開発総額は2016年時点で約2,610億円とされる。


防衛庁(現防衛省)では、国産のC-1(25機)と輸入したC-130H(16機)を戦術輸送機としているが、C-1が耐用飛行時間を迎えるため、後継が検討された。日本国内の航空産業の技術育成の観点から、2000年(平成12)末に中型戦術輸送機の国産化を決定、MPA/P-X(P-1固定翼哨戒機)と同時に開発し、一部部品や治工具の共用によって両機種あわせた開発費を抑えることとされ、その額は両機合わせて3,400億円と見込まれた。
平成13年度予算の要求53億円は満額が認められ、2001年(平成13)初めよりエンジンの選定を開始、また防衛庁技術研究本部(技本)によって研究が行われた。5月25日に航空メーカーを選定する旨を官報にて告示、30日まで希望メーカーを募集した。応募した8社を招いて31日に説明会が開催され、7月31日午後5時を期限として、仕様の提出を行わせたが、1社は希望を撤回した。


主契約では川崎がP-X・C-Xの両機製作を希望、富士重工業が両機製作の新会社設立を提案、三菱重工業はどちらか一方(C-Xを希望)とした。分担生産では、川崎が主翼と水平尾翼、富士が主翼・水平尾翼・垂直尾翼・翼胴フェアリング・C-Xのバルジ、三菱が中胴・後胴・垂直尾翼、さらに新明和工業・日本飛行機・昭和飛行機・ジャムコが各部品を希望、計7社が参加を表明した。11月26日に防衛庁は主契約企業に川崎を選定したと発表、「次期輸送機及び次期固定翼哨戒機(その1)」(以下C-X/P-X)契約が締結され、三菱・富士を筆頭に各社が分担生産することとなった。平成14年(2002年)度予算の要求410億円が承認され、開発が開始された。


なお、このとき一部で国産旅客機「YSX」と共通化させると報じられたが、2001年末に防衛庁と川崎は共同で否定している。しかし、自社で計画中の125席クラスジェット旅客機(2007年に実現を最終決定)では、P-Xの主翼技術を利用するとしている。また、日本航空機開発協会(JADC)では、平成14年(2002年)度よりP-XおよびC-Xを民間旅客機(100席〜150席クラス)へ転用するための開発調査を行っている。

開発計画は、設計が平成13年度〜16年度、試作が平成15年度〜21年度、試験が平成18年度〜23年度(2012年3月まで)、契約は毎年度ごとに「その1」から「その7」まで7段階、総開発費は若干増額されて3,450億円とした。三菱が中胴と後胴、富士重工が主翼と垂直尾翼の開発・分担製造を担当している。中型機2機の同時開発と部品共通化は世界的にも珍しい。
2001年(平成13)度に防衛庁と川崎は「P-X/C-X(その1)」契約を締結し、川崎は社内に大型機設計チーム・MCET(MPA and C-X Engineeiring Team)を設置、三菱・富士・日本飛行機などの出向を含め約650名によって設計作業を開始した。基本図は技本による技術審査にまわされ、2003年(平成15)6月12日に「妥当」と判断された。これにより、三面図と性能諸元が想定できるエンジンの範囲内で確定した。翌日からは細部設計に段階に移行し、製造図を2004年(平成16)に完成させた。また、6月には岐阜県岐阜工場に自社最大規模のハンガーが竣工、C-Xの製造をここで行い、将来の旅客機製造も視野に入れている。12月2日に岐阜工場内でP-X/C-Xの実大模型を公開した 。
地上試験用の2機(#01・#02号機)と飛行試験機2機(1・2号機)をまず製造、2003年(平成15)度の「C-X/P-X」により、静強度試験用機体(#01号機)の製造が開始された。2005年(平成17)には富士重工から#01号機用の主翼が納入、川崎で組み立てられた#01号機は2006年(平成18)3月15日に防衛庁に引き渡された。#01号機は空自岐阜基地の第2補給処内に新設された強度試験場で再組み立ての後、耐久試験が行われていた。この静強度試験において、防衛省は2007年(平成19)7月30日に、C-Xの水平尾翼の変形、主脚及びその付近の胴体構造の一部に変形及び接触、胴体の床構造の一部にひび・変形といった不都合事象が複数発生したと公表した。このため、各部の改設計が行われることとなったが、三菱が担当した中部胴体の改善に予想外の時間がかかったことから、その後の計画に遅れが生じた。


2004年(平成16)度契約の「C-X/P-X」により、飛行試験機1号機(機体番号:08-1201)の製造が開始され、2007年(平成19)3月6日にロールアウト、地上での整備と試験を経て、同年夏に初飛行予定であった。しかし直前の2月に、輸入した米国製のリベット(長さ13.5mm)に強度不足が判明し、使用箇所の確認(数千箇所)と交換、再検査をする必要があるためロールアウトは延期された。 防衛省航空機課が6月7日に発表した調査結果によれば、交換が必要なリベット数は3663点に上り、ほとんどのリベットは川崎によって交換され、369カ所の交換不能な不適合リベットについては、周囲のリベットをより強度の大きいファスナー類に交換することで処置。別の手段を用いた補強が37カ所、あて板を用いた補強個所が2カ所で、航空機課ではこの改善処置により、機体強度の問題点は解消されたとしている。

2007年(平成19)7月4日にロールアウト(完成披露式典)が行われたが、静的強度試験機の不都合発生により、一日の作業量を増やすなどして9月中に繰り下げて行う予定だった初飛行は、早くて12月とされたが、年内の飛行は達成できなかった。また2008年(平成20)3月31日に防衛省へ納入される予定であったが、不具合箇所が広範囲に及ぶため、初飛行は早くて同年夏以降とされた。C-X量産機の調達開始は2008年度予算では見送られ、事前に1年繰り下げたため、スケジュールには余裕があるが、防衛省では川崎に対し違約金の請求を検討するとしている。開発の遅れにより、2009年(平成21)度予算での調達も見送られた。
2005年(平成17)度契約の「C-X/P-X(その5)」により、疲労強度試験機(#02号機)の建造が開始された。2006年(平成18)度契約の「C-X/P-X(その6)」では飛行試験機2号機が建造される他、空中受油機能と暗視装置対応機器が新たに追加される。2007年(平成19)度の「C-X/P-X(その7)」が最終契約となり、一連の開発は冒頭の通り、2012年(平成24)3月の完了を予定していたが、試験の進捗により蓄積されたデータ等を踏まえて強度の再計算を行い構造上補強を要する部位が複数確認された。これを受けて所要の措置を施すために開発期間を1年間延長し平成26年度までとすることが決まった。
2010年1月26日、試作初号機の初飛行が行われ、3月30日に防衛省へ納入された。
2014年1月7日、岐阜基地で機体の強度を確認する地上試験中に貨物扉が脱落する不具合が発生。機内の圧力を、通常の運用で想定される上限よりも1.5倍にまで高めようとしたところ、1.2倍に加圧した段階で機体後部の貨物扉が破損し、一部が脱落したという。
2014年7月4日、防衛省は加圧試験中に扉が外れた原因について、試験機後部のフレーム強度が不足していた事を発表。再度試験のため平成26年度末に予定していた部隊配備を2年間延期する事を発表した。再試験には400億円の追加予算が必要とされた。
2014年11月以降、1月の機体構造地上試験中に発生した不具合対策として、試作1号機に対し量産機と同じ胴体への交換作業を実施。
2015年10月。機内の圧力を通常の運用で想定される上限よりも1.35倍まで高め、強度に問題ないことが確認された。
2016年2月24日、胴体交換作業完了により、防衛装備庁が川崎重工業岐阜工場において防衛装備庁のロゴをまとった試作1号機を受領。今後は岐阜基地において性能確認試験等を実施する予定。
2016年3月、正式採用される見込みであることが報じられた。
2016年5月17日、C-2量産初号機「68-1203」が岐阜基地で初飛行に成功した。
2016年6月30日、川崎重工は同社岐阜工場で航空自衛隊向けC-2輸送機量産初号機「68-1203」を、防衛省に納入したと発表した。

開発完了
防衛省は2017年3月27日、C-2の開発を完了したと発表した。3月28日には鳥取県美保基地の第3輸送航空隊第403飛行隊にC-2が3機配備され、3月30日には配備を記念した式典が行われた。2018年9月まで運用試験を実施した後、空輸任務に使用される予定である。

調達と配備
当初は2011年(平成23)度以降にC-1の減数が始まることに合わせ、中期防衛力整備計画(平成17年度〜21年度対象)で、4機のKC-767J(空中給油・輸送機)と共に、8機程度が調達される予定で、量産1号機(通算3号機)を2008年(平成20)度予算で計上する予定であった。しかし次期戦闘機の選定が先送りとなり、当初より多くのF-15J近代化改修ための予算を確保する必要が生じたため、C-Xの予算要求は1年見送られ、さらに開発の遅延により、2009年(平成21)度と2010年(平成22)度予算での調達も見送られた。
2010年12月に、中期防衛力整備計画(平成23年度〜27年度対象)で10機が整備される予定であることが発表され、同月の2011年(平成23)度防衛予算政府案決定概要において初めて2機の予算が計上され、2013年(平成25)度以降に配備されることになった。調達総数はC-1を完全に置き換えるためC-130Hとの兼ね合いもあるが、20数機から40機となる見通しで、国際平和協力業務や国際緊急援助活動にも運用される。
航空幕僚監部では、電子情報収集(ELINT)機として使用している4機のYS-11EBの後継として、改造機を4機程度購入することも検討している(#派生型を参照)。C-1をベースにした電子戦訓練支援機EC-1も、C-2派生型で置き換えることが検討されているが、はっきりとしていない。C-1試作1号機である試験機C-1FTBについては、2012年12月現在は後継機の計画が無い。 C-2とKC-767Jの導入により、C-130Hの一部は余剰となり空中給油機能を付与される予定だが、更新時期の来る非改修のC-130HをC-2で置き換えるかは、機種の統一が戦略に与える影響を考慮して検討される。

C-2は戦後日本が自主開発する機体としては過去最大のサイズとなる。機体はターボファンエンジン双発、主翼は高翼配置、尾翼はT字タイプ、胴体後部に貨物出し入れ口を設け、主脚は胴体下部にバルジ(膨らみ)を設けて収納する等、現行のC-1と同様の形式であるが、サイズ・性能共にC-1を凌駕しており、C-1と比較し全長は1.51倍、全幅は1.45倍、全高は1.42倍、空虚重量は2.5倍、最大積載量は3.75倍、最大速度は1.2倍、エンジン合計推力は約4.24倍となっている。また航続距離は、C-1が有効積載量2.6t搭載時に約1700km、C-130Hは5t搭載時に約4,000kmなのに対し、XC-2は12t搭載時に約6,500kmである[30]。
C-2開発での基本的なコンセプトは、大搭載量・長距離航続・高速巡航である。C-1での航続距離不足は輸送任務において足かせになっており、C-130Hと共に搭載量も大きくはない。また、旅客機は早くから高速化に取り組んできたため、民間航空路は「高速路線」と化しているが、戦術輸送機は人員や荷物の空中投下が容易なように高翼配置が多く、旅客機に多い低翼配置に比べて、貨物室をできるだけ広く取るため胴体側面及び底面の補強のための張り出しなどが空気抵抗となり、高速化には不利である[31]。加えて車両などの大型貨物を搭載する為に断面積が旅客機より大きく、広い機内スペースを確保する為にバルジを設けて主脚を収納するために歪になった機体形状によっても空気抵抗が増えるため、高速巡航には向かなくなりがちである。
このような条件がある中でC-2には、ISO 40フィートコンテナを積んだセミトレーラを牽引車込みで搭載可能なスペースと高速巡航という相反する性能が求められた。これらの課題解決のため、C-2の主翼は胴体より上にあり、主翼桁が貨物室を圧迫しない配置になっている。これにより、例えばA400Mの貨物室高さが主翼部でそれ以降の4mより15cm低い3.85mに対し、C-2は全貨物室で4mの高さを確保している。なおこの主翼配置によって増大する空気抵抗は、主翼前後を大型のフェアリングで覆うことで抑えており、C-2の外見上の特徴となっている。また高速巡航のため主翼形状を遷音速領域に適応したスーパークリティカル翼型とし、エンジンもボーイング製やエアバス製の旅客機にも使われている大推力エンジンを採用した。
上記の通り機体サイズ・最大積載量・航続距離のいずれの点においてもC-1、更にC-130Hを大きく上回り、国際共同開発のエアバス A400Mに匹敵するが、ターボプロップエンジン推進のA400M、あるいは他のジェット輸送機に比べて巡航速度が速く、民間の旅客機並みの高亜音速で、民間の旅客機と同じ高度や航路を活用して目的地への迅速な輸送が可能となる。またC-1等より大型の機体であるが、スラストリバーサー搭載型大推力エンジンの搭載等によりC-1並みの短距離離着陸(STOL) 性能を維持しており、滑走路の短い地方空港への輸送にも運用できる。一方で不整地での運用能力は有していない。


機体形状はC-1同様、曲線を多用したものとなっている。胴体後部の貨物扉は平たい形状で、C-1が観音開き扉を備えていたのに対し、XC-2ではそのままローディングランプとなる。降着装置は主脚が片側6輪ずつ12輪の車輪を持つ。主翼前縁にスラットを装備、フラップカウリングは片側に4ヶ所ある。垂直尾翼の方向舵は2分割式で、後縁はアンチバランスタブの役割も果たす。水平尾翼は全遊動式で、さらに後縁に昇降舵を持つ。機首には航法・気象レーダーを搭載。レーダードームの左右横と機体後部にはミサイル警報装置 (MWS) とレーダー警報受信機 (RWR) のセンサーを備える。編隊飛行時に点灯する編隊灯は、後部側面と垂直尾翼に設置される。上部には空中給油口を備えており、空中受油が可能である。機体下部に大きく張り出した主脚バルジに補助動力装置 (APU) を持つ。ペイロード搭載量の増加により、大型の手術車や装輪装甲車などの空輸も可能となり、災害や有事の際の実用性が増す。後部空挺扉にはデフレクター(風除け)が追加され、空挺部隊降下の際の安全性が高められている。
同時に開発されたP-1哨戒機とは、機体では操縦席風防、主翼外翼(全体の3分の1)、水平尾翼、システムでは統合表示機、慣性基準装置、飛行制御計算機、APU(補助動力装置)、衝突防止灯、脚揚降システムコントロールユニットの共通化を図り、機体重量比で約15パーセントの共通部品、搭載システム品目数で約75パーセントの共通装備となっており、これにより、開発費を250億円程度削減できたとしている。一方、P-Xはフライ・バイ・ライトや国産エンジンなど新技術を採用しているのに対し、C-Xは運用が確立された操縦系・エンジン系を採用して将来の民間転用を考慮している(。
機体の配色は、試作1号機(#201)は白地に赤いストライプと胴体下面が灰色の、技本試作機の標準色であるが、試作2号機および量産機は灰色中心の迷彩色である。また海外派遣時には、C-130Hに採用された水色一色のような、特別迷彩が施される可能性もある。 2015年には量産型を使用しての積雪時離陸滑走試験を成功させるなど、主力輸送機としての地位を盤石な物にしつつある。
機体の開発・製造では、三菱重工業が中胴・後胴・翼胴フェアリング、富士重工業が主翼を分担し、日本飛行機も参加している。システムでは、搭載レーダーは東芝、管制装置は神鋼電機(現シンフォニア テクノロジー)、自己防御装置は三菱電機、空調装置は島津製作所、脚組み立ては住友精密工業など、国内大手企業が参加している。


機内
コックピットはP-1と共通であり、NVGに対応する。大型液晶ディスプレイを6台、 HUD(ヘッドアップディスプレイ)を2台装備し、新たに搭載される戦術輸送飛行管理システムにより、低空飛行の際、操縦席のヘッドアップディスプレイ画面に飛行経路が誘導表示される他、経路上の脅威も示唆し、その回避経路を表示することで生存性の向上を図っている。また、省力化搭載卸下システムにより陸上で短時間の積み降ろし作業が行える。操縦系統はフライ・バイ・ワイヤ (FBW) 方式を採用した。
長時間の任務に備え、操縦席後部には仮眠用の2段ベッドの他、冷蔵庫や電子レンジを有するギャレーが設けられた。トイレは乗員が多くなるため民間旅客機と同等の設備が2カ所用意されている。


エンジン
装備するジェットエンジンは防衛庁が2002年(平成14)からロールス・ロイス(トレント500)、ゼネラル・エレクトリック(CF6)、プラット・アンド・ホイットニー(PW4000)の3社からの提案を検討した結果、2003年(平成15)8月にゼネラル・エレクトリック(GE)のCF6-80C2K1F型エンジン(推力:約27.9t)とナセルシステムを採用した。
このエンジンの選定にあたっては、当時すでに航空自衛隊に導入されていたボーイング747-400(政府専用機)、E-767、KC-767Jが同一のエンジンを採用しており、整備面で都合が良いことから決定されたと思われる。海外でも民間で広く普及している為、渡航先での整備拠点もあり、また日本国内の航空会社もボーイング製の機体と共に、同系統のエンジンを600基以上採用しており、形式は新しく無いが、信頼性の高さと国内での運用経験も選定の根拠とされている。


エンジンは防衛省が商社山田洋行(官庁が営業年数や年間平均売上等から算出する企業格付け(A~D)でAランク)を随意契約で代理店としてGE社から購入し、機体を組み立てる川崎へ支給されることになっており、2004年(平成16)度と2005年(平成17)度に5基が納入された。しかし、山田洋行の経営陣が株式をめぐって分裂し、GEエンジン担当者を含む約30名が2006年(平成18)9月に日本ミライズ(同Dランク)を設立。GEは2007年(平成19)7月に山田洋行との契約を解消して、日本ミライズを代理店とした。XC-2エンジンについては、防衛省は試作機用予備エンジン1基について、官製談合事件の余波により随意契約を見直し、同年8月に日本ミライズ以外の数社に競争入札させたが、条件(GE代理権を有し、かつランクがA〜C)を満たす業者がないため不調に終わった。2回の不調後は任意の業者と随意契約が可能となるため、日本ミライズと随意契約を結ぶことを検討していたが、当時の守屋武昌防衛事務次官と宮崎元伸日本ミライズ社長との癒着が当初から省内で疑惑化しており、守屋武昌事務次官が8月末に退官した後は、具体的に進められず、守屋武昌事務次官と宮崎元伸元日本ミライズ社長は逮捕され、防衛省は山田洋行・日本ミライズとの取引を停止した。その後、代理権は2007年に双日に移行している。


諸元
乗員: 3名(操縦士2名・ロードマスター1名)、2~5名+110名
全長: 43.9m
全高: 14.2m
翼幅: 44.4m
貨物室: L15.7×W4×H4m ランプ長5.5m
翼型: 高翼機
空虚重量: 60.8t
有効搭載量: 32t(2.5G)、36t(2.25G)
基本離陸重量: 120t
最大離陸重量: 141t(YCXからの参考値)
動力: GE・アビエーション CF6-80C2K1F ×2 ターボファンエンジン、22,680kg[51] (50,000lb) × 2
性能
最大速度: マッハ 0.82 (917 km/h)
巡航速度: マッハ 0.8(890 km/h) (高度12,200m)
航続距離: 9,800km/0t、7,600km/20t、5,700km/30t、4,500km/36t、(XC-2向け要求: 6,500km/12t)
実用上昇限度: 40,000 ft (12,200 m)
最短離陸滑走距離: 500 m
武装
なし

 

紫香楽宮跡駅(信楽高原鐵道信楽線)

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紫香楽宮跡駅(しがらきぐうしえき)は、滋賀県甲賀市信楽町牧にある信楽高原鐵道信楽線の駅。

駅名由来のように史跡紫香楽宮跡の最寄駅です。

ホームを降りた直ぐ横を東海自然歩道が通っている。利用の観光客は多くなく、駅利用客も少ない。

単式ホーム1面1線の地上駅で、無人駅。駅舎はないが、駅前にトイレがある。駅のホームに向かう道は、東海自然歩道と併用している。

ホームの小さな待合所には長椅子が設置されています。

ホームへは、スロープで連絡します。ホーム貴生川方面へは緩く左にカーブしています。

運行情報を伝えるスピーカーがあり、運休等の情報を伝えることができる。

 

駅周辺
紫香楽宮跡
国立病院機構紫香楽病院
国道307号
新名神高速道路信楽インターチェンジ
東海自然歩道


1987年(昭和62年)7月13日 - 開業。

所属事業者 信楽高原鐵道
所属路線 信楽線
キロ程 9.6km(貴生川起点)
駅構造 地上駅
ホーム 単式1面1線
開業年月日 1987年(昭和62年)7月13日

海上保安庁(海猿・潜水士)

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海上保安庁(海猿・潜水士)
海上保安庁において海難救助は「特殊救難隊」の役割だが、部隊が到着するまでの救助活動の主力は巡視船で勤務する「潜水士」である。潜水士は、各管区に配備されている潜水指定巡視船、特定潜水指定巡視船に150名ほどが配置されている。


事案が発生すると巡視船からヘリコプターで現場に急行し、ホイスト降下で当該船に降着したり、海面すれすれの低空から海面にジャンプすることもある。潜水のスタイルは環境圧潜水の自給気式潜水器(SUCUBA)式が基本。空気ボンベなどの潜水装備や救助資機材は、潜水指定巡視船に標準搭載されている。救助事案以外にも海上犯罪の捜査・予防活動、海洋汚染事件の調査などで、潜水調査したり、巡視船艇の保守整備で船底を調査したり、整備作業をすることもある。


潜水士は、通常は一般海上保安官と同様に巡視船艇乗組員として海上保安業務に従事しているが、海難等が発生した場合には、「潜水士」として出動し、その能力を駆使して人命救助等に従事する。
潜水士になるには、海上保安学校で「船舶運航システム課程」「情報システム課程」などの研修を受けたのち、「潜水研修」を受ける。体力検査・泳力検査などの適性検査後、遭難者を担いでの水泳、素潜りで呼吸せずに水中で活動するなど約2カ月間、厳しい研修を受ける。

研修を終えると、厚生労働省の法令に基づく「潜水士国家試験」(筆記のみ)を受験し、合格すれば海上保安庁の潜水士として任務につくことができる。さらに、経験を積むことで、特殊救難隊を希望したり、機動救難士を希望して、高度な潜水士にステップアップする隊員もいる。

特殊救難隊
第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地とは、海上保安庁第三管区海上保安本部が特殊な海難に対応するために東京国際空港(羽田空港)内の第三管区海上保安本部羽田航空基地に隣接して設置された特殊救難基地である。高度な技術を用いて、人命救助・災害対応を行うことを任務としており、所属する隊員は、現在、6隊態勢(各隊6人)で、隊員は全国の潜水士から選抜され、要請があれば航空機で全国の現場に飛び、船舶火災、海上での毒物・劇物の流出、転覆船の捜索・救助やヘリによる救助など高度で専門的な知識・技術を必要とする特殊海難に対応する。


特殊救難隊(とくしゅきゅうなんたい)の呼称でも知られ、他の呼称としては、特救隊(とっきゅうたい)またはSRT(Special Rescue Team)と呼ばれている。

1974年11月に発生したLPGタンカー第十雄洋丸と貨物船パシフィック・アレス号の衝突事故(第十雄洋丸事件)を契機に、東京消防庁の特別救助隊等から教育・研修を受けて[7]、特殊救難隊として、1975年(昭和50年)10月に創設された。第三管区海上保安本部警備救難部救難課内であり、当初人員は5名であった。
現在は第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地(位置)となり、羽田空港内の羽田航空基地(位置)に隣接した二階建ての建物が基地の所在地になっている。なお、羽田特殊救難基地としての設置は、1986年(昭和61年)4月になる。
羽田特殊救難基地の組織は、指揮官として基地長がおり、次長・専門官・管理係長が置かれ、実働部隊として、それぞれ6名(隊長1名・副隊長1名・隊員4名(火災及び危険物・レンジャー・潜水・救急救命士)の隊員からなる、第一から第六の6個隊(計36名)が編成されている。隊長は一隊から六隊の各隊の長である。隊員は各管区で行われる「競技会」にて優秀な成績を収めた救難強化巡視船や潜水指定船に乗船している潜水士から選抜される。隊の能力の均一化を図る目的で年1回、第一隊〜第六隊の隊長及び基地長を交えて隊員の入れ替え(通称「ドラフト会議」)が行われる。なお、東京消防庁の特別救助隊等から指導を受け創設されたために現在も消防機関から指導を受けている。


三管に属してはいるが出動地区に限定は無く、通常の各巡視船艇の装備・人員では対応が難しい特殊な海難(船舶火災、毒物劇物の流出、転覆・沈没船からの救助)が発生した場合、各管区海上保安本部からの出場要請に基づいて航空機・ヘリコプターなどを乗り継いで現場海域へ急行する。船舶火災の消火、危険物が流出している現場での救難、転覆船に潜り込んでの要救助者捜索及び救助、ヘリコプターから降下しての人命救助など、高度で専門的な知識や技能を必要とする特殊海難に対応する。なお、通常、羽田特殊救難基地の隊員が到着した段階で、救助作業の指揮権は、各現場責任者から羽田特殊救難基地に移管される。
海難救助などに出動するため、羽田特殊救難基地と羽田航空基地は、建物は別だが同じ敷地内にあり、海上保安庁で最大のヘリコプターである、アエロスパシアルAS332L1「MH805(JA6805) わかわし1号」「MH806 わかわし2号」の2機やガルフストリーム V「LAJ500 うみわし1号」「LAJ501 うみわし2号」の2機の小型ジェット機等が配備されている。
また、基地の隊員は海難救助以外でも海外で大規模災害が発生した際には、他の管区の機動救難士や潜水士も含めて国際緊急援助隊救助チーム(消防庁、警察庁、海上保安庁ほか)の一員となり、世界中の被災した地域に派遣されることがある。2011年、ニュージーランドで発生したカンタベリー地震の災害に際し、クライストチャーチにも派遣されている。


組織の特徴
法令上、海上保安庁の組織については、海上保安庁法第13条及び海上保安庁組織規則により、名称が定められており、本組織については「特殊救難基地」と称される。
各隊に最低一名の救急救命士(救護士)が配置されている。メディカルコントロールにより長時間の搬送が強いられる洋上救急において特定行為が実施できる体制を整えている。海上保安庁の救急救命士は特定行為という医療行為と応急処置を実施することができる。また、隊員は消防機関における救急標準過程(総務省消防庁資格)を取得し緊急避難としての応急処置を実施するか、民間の2年制救急救命士養成施設である国際医療福祉専門学校(千葉市)あるいは湘央生命科学技術専門学校にて救急救命士国家試験受験資格を取得している(救急救命士は厚生労働省資格)。
非常に特殊で危険な任務を負う仕事であるが、隊員には1975年(昭和50年)の創設以来1人も殉職はでていないことを誇りにしている。
所属する隊員は、三管以外の管区に移ると機動救難士と呼称される。


広報活動
海上保安庁は特殊救難隊の広報活動に力を入れており、同隊の活躍を描いたマンガ「トッキュー!!」(週刊少年マガジン)に取材協力している。2006年11月2日放送の「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK)で6隊隊長の寺門嘉之(当時)が特集された。
沿革
1974年11月:(第十雄洋丸事件発生。)
1975年10月:特殊救難隊発足。隊員5名。
1986年4月:羽田特殊救難基地設置。

海上保安大学校
海上保安大学校(かいじょうほあんだいがっこう、英語:Japan Coast Guard Academy)は、広島県呉市若葉町5-1に本部を置く、国土交通省所管の省庁大学校である。1951年に設置された。大学校の略称は海保大または保大。日本国海上保安庁の幹部職員(幹部海上保安官)の養成を目的に設置されている同庁の施設等機関である。設置根拠は国土交通省組織令第二百五十四条。

本大学校の目的は、国土交通省組織令で次のように規定されている。
(海上保安大学校)
第二百五十五条 海上保安大学校は、海上保安庁の職員に対し、幹部としての職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練並びに海上保安業務を遂行するに必要な専門的知識又は特殊技能を修得させるための教育訓練を行うことをつかさどる。
また、海上保安庁法(昭和23年法律第28号)第33条の2により、「海上保安大学校の名称、位置及び内部組織に関する庁令」(昭和36年10月16日海上保安庁令第二号)にも規定されている。
本大学校の基本理念は、「人格の陶冶とリーダーシップの涵養」、「高い教養と見識の修得」、「強靭な気力・体力の育成」の3点である。
身分・採用試験
本科学生は、幹部海上保安官となるべき者の教育を前提にしており、卒業後に三等海上保安正に任官する。その後専攻科で3ヶ月間世界一周の遠洋航海、国際業務課程を経て12月に現場に配属される。学生の身分は一般職国家公務員たる「海上保安庁職員」であるが、「海上保安官」ではなく階級は指定されない。強いて言うならば「学生」という階級である。
海上保安大学校は一般大学と同じように入校試験に合格する必要があるが、一般の大学入試とは異なり、入校すると国家公務員としての「課業」となるため、入学試験ではなく「採用試験」が正式な呼称である。
応募条件には年齢や日本国民であることなど海上保安官となる条件を満たしていることが必要であり、一般的な大学の出願条件とは異なる。全寮制であり、学生は、入校と同時に一般職の国家公務員として海上保安庁の職員に採用され、学費は必要なく給与が支給される(2017年現在で俸給月額約14万円)。このように給与の支給される国土交通省の省庁大学校は、気象大学校、航空保安大学校があり、特別職の国家公務員では防衛省の防衛大学校、防衛医科大学校などがある。

本科(学部相当)
毎年50人程度が本科に入学する。大学校全体の学生数は200人程度であり、そのうちの1割程度が女子である。
2016年度採用の学生より定員が60名となり、同時に女子学生の割合も以前と比べて高くなっている。

教育
1年次と2年次は基礎教育科目を学び、2年次からは専門教育科目の履修が始まる。2年次後期から第一群(航海)、第二群(機関)、第三群(情報通信)の各専攻に分かれ、専門基礎科目(群別科目)を学ぶ。3年次と4年次になると国内航海実習が行われる。また、4年間を通して専門基礎科目(共通)や訓練科目、実習科目を勉強する。本科卒業生に対し、独立行政法人大学改革支援・学位授与機構から「学士(海上保安)」(日本国内では本校のみで得られる)の学位が授与される。本科卒業生は、その後専攻科(約6ヶ月間)に進み、実務教育が開始され、3ヶ月の世界一周遠洋航海実習に参加し国際感覚を身に付ける。他にも各管区の海上保安官が希望により2ヶ月の潜水訓練を受けることが出来る(映画「海猿」で取り上げられた)。また、2011年度から、語学力向上や国際的な実務対応のために研修科国際業務課程を開設。2017年度入校生よりカリキュラム変更が行われており、主なものとしては20年ぶりの1学年乗船実習復活や柔剣道の廃止などがある。

学生生活
寮内の生活について、以下に説明する。
食事
食事は週末を除き、1日3回提供される。週末は希望すれば弁当を取ることができる。ちなみに食費は毎月の給料から天引きされる。
「5分前精神」
平日の起床は6時30分である。6時25分になると「総員起こし5分前」の放送が流れる。学生は直ちに起床し、作業服に着替え、布団をきちんとたたみ、5分以内に寮前広場に整列しなければならない。その後は「海上保安体操」が待っている。体操が終わったら次は朝掃除をしなくてはならない。掃除の分担は学生班の班長が決めることになっている。掃除が終わるとようやく朝食をとることができる。海上保安庁では、海上自衛隊同様、大日本帝国海軍伝統の「5分前精神」がある。
自習室
生活の最小単位は「自習室」である。基本的に1年生から4年生が一人ずつ、計4名から構成される。人数の都合上、5人の自習室も存在する。自習室には学習机と椅子、スチールロッカーが置かれ、勉強をすることができる。各自習室の部屋長は基本的にその部屋の4年生である(4年生がいない場合は3年生になる)。寝室は自習室の廊下を挟んだ反対側にあり、3部屋分の学生を収容する。「自習室」が8-9個集まった単位が「班」である。整列時、訓練時はこの「班」が基本単位になる。


オリエンテーション
4月の初めに着校した新入生に対し、3, 4年生から構成されたオリエンテーション委員が行う生活指導のことをオリエンテーションという。寮での生活規則、海上保安体操、基本動作、校歌などを1年生に叩き込む。1週間ほど行われ、このオリエンテーションを終えて晴れて入学式を迎え、制服を着ることができる(オリエンテーション中は作業服しか着ることができない)。普通の高校生活を過ごしてきた新入生にとって、この最初の1週間はかなりハードである。
外出
平日は午後5時15分から、休日は午前6時30分から外出ができる。門限は午後10時15分、休日の前日は午後10時45分。
長期休暇
夏期に約4週間、冬期と春期に約2週間あり、原則として寮が閉鎖される。

 

 

 

 

 


公益財団法人放射線影響研究所

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放射線影響研究所

公益財団法人放射線影響研究所(ほうしゃせんえいきょうけんきゅうしょ、英: Radiation Effects Research Foundation、RERF)は、被爆者の健康調査及び被爆の病理的調査・研究を行う研究機関で、日本国政府とアメリカ合衆国政府により設立・運営されている。

1975年(昭和50年)4月1日、原爆傷害調査委員会 (ABCC) と厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所として発足した。


以前は厚生労働省と外務省所管の財団法人であったが、公益法人制度改革に伴い公益財団法人へ移行した。 放射線影響研究所が外部被曝研究のデータのみで、福島第一原発事故による福島県民の内部被曝の不安に応える事が出来なかった事から、放射線影響研究所の新たな方針として過去の業績と蓄積した資料を使い、原爆に限らず一般の放射線の慢性影響に関する世界の研究教育センターを目指し、「放射線影響研究所将来構想2012」を出した。

将来構想では、内部被曝を含めた低線量被曝のリスク解明し、現在日米共同機関を将来の課題として国際的組織にして、被爆者情報のデータベース化して国内外の研究者に開放し、共同研究で放射線影響研究所に少ない内部被曝のデータ収集をして、福島県民の不安に応えられるようにしていくとしている。


研究所
広島研究所(広島県広島市南区比治山公園5番2号)
長崎研究所(長崎県長崎市中川一丁目8番6号)

正式名称 公益財団法人放射線影響研究所
日本語名称 放射線影響研究所


英語名称 Radiation Effects Research Foundation
略称 放影研、RERF
組織形態 公益財団法人
事務局所在地 日本の旗 日本


〒732-0815
広島県広島市南区比治山公園5番2号
法人番号 9240005012727
理事長 丹羽太貫
活動領域 被爆者の健康調査及び被爆の病理的調査・研究


設立年月日 1975年4月1日
前身 原爆傷害調査委員会、国立予防衛生研究所原子爆弾影響研究所


設立者 日本国政府、アメリカ合衆国政府
ウェブサイト http://www.rerf.or.jp/

舟入本町停留場(広島電鉄江波線)

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舟入本町停留場(ふないりほんまちていりゅうじょう、舟入本町電停)とは、広島市中区舟入本町にある広島電鉄江波線の路面電車停留場である。

江波線の軌道は道路上に敷かれた併用軌道であり、当停留場も道路上にホームを有する。ホームは低床式で2面あり、南北方向に伸びる2本の線路を挟み込むように配置されている。

ただし互いのホームは交差点を挟んで南北方向にずれて位置しており、交差点の北に土橋方面へ向かう上りホームが、南に江波方面へ向かう下りホームが置かれている。
ホームは2008年(平成20年)に改良され、連接車両に対応した長さを持つ。


運行系統
当停留場には広島電鉄で運行されている系統のうち、6号線、8号線、9号線が乗り入れている。ホームには横断歩道からスロープで連絡します。


上りホーム 6号線 広島駅ゆき
8号線 横川駅ゆき
9号線 白島ゆき


下りホーム 6号線8号線9号線 江波ゆき
ホームは連接車対応に延伸された様子が窺えます。

周辺
付近はおおむね住宅街である。停留場のある交差点から東西に商店街が伸びる。その端にはそれぞれ東に旧太田川(本川)、西に天満川が流れている。北側すぐには国道2号が東西に走っている。
舟入本町商店街
広島市立神崎小学校
広島市立舟入市民病院
広島医師会館
広島県立広島観音高等学校
住吉神社
広電バス 舟入本町バス停

 

歴史
舟入本町停留場は1943年(昭和18年)、江波線の開通と同時に開設された。当初は江波線の終点であったが、半年後には舟入南町まで路線が延び、以降は線内の一停留場である。路線は1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下により不通となったが、2年後の1947年(昭和22年)に全線で復旧を果たしている。
1943年(昭和18年)12月26日 - 江波線が土橋から当停留場までの区間で開業。
1944年(昭和19年)6月20日 - 当停留場から舟入南町までの区間が開通。
1945年(昭和20年)8月6日 - 原爆投下により休止。
1947年(昭和22年)11月1日 - 江波線が復旧し、運転を再開。
2008年(平成20年)3月 - ホームの延長工事が行われ、連接車両に対応した停留場となる。
2013年(平成25年)2月15日 - 9号線の運行が八丁堀から江波まで延長され、当停留場にも乗り入れる

駅番号 E2
所属事業者 広島電鉄
所属路線 江波線
キロ程 1.0km(土橋起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1943年(昭和18年)12月26日

セスナ 195(Cessna 195)ビジネスライナー(Businessliner)

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セスナ 190(Cessna 190)とビジネスライナー(Businessliner)の愛称が与えられたセスナ 195(Cessna 195)は、セスナによって1947年から1954年に製造された星型エンジン単発の軽飛行機。
セスナ 195はアメリカ合衆国空軍、陸軍、陸軍州兵に軽輸送機・多用機として採用され、LC-126(後にU-20)の型番が与えられた。
LC-126を含めた総生産機数は、セスナ190と195の合計で1,180機である。

セスナ 190と195は、セスナが第二次世界大戦後に製造した唯一の星型エンジン搭載機である。開発は第二次世界大戦中に始まり、開発開始から半年後の1944年12月7日には試作機が初飛行を遂げ、1945年10月には後のセスナ 190となるプロトタイプが、ついで1946年6月にはセスナ 195となるプロトタイプがそれぞれ初飛行を行っている。生産は、戦後の1947年から開始された。エンジンの生産停止によりセスナ 190は1953年に生産を終了、セスナ 195は改良型の生産を1954年まで継続した。


セスナ 195は、セスナ初の総アルミニウムの機体を有する機体で、主翼は第二次世界大戦前に設計された派生元であるセスナ 165(英語版)と同様の片持ち式の高翼単葉機であった。後年のセスナの機種と異なり、テーパーは翼根から翼端に至るまで直線の翼弦で、上反角(英語版)もなかった。翼型はNACA 2412、後年のセスナ 150、セスナ 172、セスナ 182に同様の翼型が使用されている。
機体は他のセスナ製航空機よりも大型であるが、これは直径42インチ(110cm)の星型エンジンを機首に搭載することが原因である。座席は2列。前列は一人がけの座席が2席と、席間に空間が設けられた。後列はベンチシートで3人まで搭乗可能であった。
降着装置は、スティーブ・ウィットマン(英語版)からビッグX(英語版)に使用されていた鋼鉄製の板バネ式の脚部の権利を取得し、装備した。標準の降着装置に替えて横風着陸用の可動式降着装置を装備することも可能であり、15度までの横風に対応することができたが、これは実際の着陸に際しては操縦を困難にするものであった。セスナ 195には機内へのドアを開けると展開する引き込み式の足掛けが備えられていた。とはいえ、固定式の足掛けが追加される場合もあった。


フロートを取り付け、垂直尾翼を3枚とした水上機型は、横方向の安定性に優れていた。この型の尾翼はロッキード コンステレーションに類似したものであった。
190と195に搭載されたエンジンは、共に燃費でよく知られるものとなった。5米ガロン (19 l)の燃料タンクに2米ガロン (7.6 l)の燃料があれば、飛行が可能となっていた。典型的な燃費は、1時間に2クォート(1.9l)であった。
セスナ 195の燃費は巡航速度が真対気速度(英語版)148ノット(274 km/h、170 MPH)で1時間当たり16米ガロン (61 L) であった。
プロペラは、ハミルトン・スタンダード(英語版)の2翅定速プロペラ(英語版)を使用している]。
同時期にセスナが販売していた二人乗りの軽航空機セスナ 140は、$3,495であったのに対して、1947年のセスナ 190の当初価格は$12,750(2016年時点の$135,120と同等)、最終年の1954年の195Bは$24,700(2016年時点の$217,648と同等)にまで達した。
価格が個人で購入するには高価につくため、セスナはビジネスライナー(Businessliner)の愛称を与えてビジネス機の市場をターゲットとした。


LC-126/U-20
LC-126は、セスナ 195の軍用機型である。スキー板、フロートを降着装置として利用することが可能であった。合計83機が、納入されている。
内訳
アメリカ合衆国空軍:LC-126A 15機
陸軍州兵:LC-126B 5機
アメリカ合衆国陸軍:LC-126C 63機
余剰となったLC-126の大半は、改修キットにより民間機仕様に改修され、払い下げられている。
運用
セスナ 190と195は、パイロットとコレクターの両者から「クラシック機としては最上の一つ」と考えられており、中古市場での引き合いも活発である
アメリカ合衆国では、2016年2月の時点で89機の190、231機の195、133機の195A、125機の195Bが連邦航空局に登録されている。
カナダでは、2009年8月の時点で、3機の190と17機の195が運輸省に登録されていた[13]。この他、ブラジルとイギリスに個人所有の機体が存在している。
型式
190と195の主な相違点は、搭載するエンジンである。
190
出力180kW(240hp)のコンチネンタル W670-23を搭載。1947年7月1日に型式認証を取得。
195
出力225kW(300hp)のジェイコブス R-755-A2を搭載。1947年6月12日に型式認証を取得。
195A
出力184kW(245hp)のジェイコブス L-4MB(R-755-9)を搭載。1950年1月6日に型式認証を取得。
195B
出力206kW(275hp)のジェイコブス R-755B2を搭載し、フラップ表面積を50%拡大。1952年3月31日に型式認証を取得。
LC-126
195の軍用機型。
LC-126A
空軍により採用。アラスカで救難機として運用され、スキー板、フロートを降着装置として使用可能であった。
LC-126B
陸軍州兵仕様。軽輸送機として運用された。
LC-126C
陸軍仕様。練習機として運用された。右側面カーゴドアの拡大、カメラ運用のため左側面の窓を開閉可能とする改修が行われている。
U-20B
1962年の命名規則改訂時にLC-126Bから変更された型番
U-20C
1962年の命名規則改訂時にLC-126Cから変更された型番
運用者
民間
セスナ 190及び195は、個人と企業の双方に普及し、それに加えてチャーター機の運航会社やコミューター航空が使用する機材としても運用された。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
陸軍州兵
アメリカ合衆国陸軍
アメリカ合衆国空軍

要目(セスナ 195)
諸元
乗員: 1
定員: 4
全長: 8.33m (27ft 4in)
全高: 2.18m (7ft2in)
翼幅: 11.02m(36ft 2in)
翼型: NACA 2412
空虚重量: 950kg (2,100lb)
有効搭載量: 1,520kg (3,350lb)
動力: ジェイコブス R-755 星型レシプロエンジン、220kW (300hp) × 1
燃料搭載量 75米ガロン (280 l)
性能
最大速度: 298km/h (185mph)
巡航速度: 270km/h (170mph、出力70%)
失速速度: 100km/h (62mph、エンジン停止・フラップ45度)
航続距離: 1,300km (800マイル、出力70%)
実用上昇限度: 5,600m (18,300ft)
上昇率: 370m/min (1,200ft/min)
翼面荷重: 6.97kg/m2 (15.36lb/ft2)

用途:多用機、ビジネス機
分類:軽飛行機
製造者:セスナ社
運用者
アメリカ合衆国空軍
アメリカ合衆国陸軍
陸軍州兵
初飛行:1944年12月7日
生産数:1,180機
生産開始:1947年
運用開始:1947年
運用状況:運用中
ユニットコスト:12,750USD
原型機:セスナ 165

ドクターイエロー( 3000番台)

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ドクターイエローとは、新幹線区間において、線路のゆがみ具合や架線の状態、信号電流の状況などを検測しながら走行し、新幹線の軌道・電気設備・信号設備を検査するための事業用車両の愛称である。

「ドクターイエロー」は通称であり、正式名称は「新幹線電気軌道総合試験車(しんかんせんでんききどうそうごうしけんしゃ)」である。通称は、車体色の黄色に由来している。
東北新幹線区間などでは、白ベースに赤の塗装の編成である東日本旅客鉄道(JR東日本)E926形が使用され、「East i(イースト アイ)」(正式名称は「電気軌道総合試験車〈でんききどうそうごうしけんしゃ〉」)と呼ばれる。。
これらの試験車による検測結果は、東海道・山陽新幹線においては新幹線情報管理システム (SMIS)、東北・上越・北陸・北海道新幹線においては新幹線総合システム (COSMOS) に送られ、それぞれ乗り心地の向上や安定した集電、信号トラブルの未然防止などを目的とした保線作業のデータとして使用される。
これらの非営業用車両の車両形式は、「系」や「型」ではなく「(900系)○○○形=がた(○○○○番台)」と表記する(例:900系923形3000番台=T5編成)。
運行は10日に1回程度であり、走行時刻も非公開であるため、鉄道ファンを中心に「見ると幸せになれる」など、縁起物のような扱いをされる。
基本的には路線の点検作業のみに使用されるが、阪神・淡路大震災では建設資材輸送に使われるなど、緊急時には例外的な運用も行われる。

922形T2・T3編成の老朽化や、300系以降の250km/h超の車両増加などにより、270km/hでの走行が可能な車両として700系をベースに開発された。

1 - 3号車は日立製作所笠戸事業所、4 - 7号車は日本車輌製造豊川製作所で製造された。
T3編成までの軌道検測車(付随車)は、3台車の相対変位を測定する方式であり車体長も短かったが、T4編成以後はレーザー光を使用した方式に改良され、他の車輌と同じ2台車で車体長も同じになっている。形式も他号車と同じく923形に含まれている。
先頭部には、前照灯の下方、車体中央に前方監視カメラが設置されている。また、尾灯がこのカメラの左右に配置されており、営業用の700系では尾灯となっている左右の2灯も前照灯(この灯火のみ、キセノンやHIDライトと呼ばれることもある、白色のディスチャージヘッドランプ)となっている。このため、前照灯は700系の4灯に対し6灯となり、視認性の向上が図られている。
車体色の黄色が、T3までの編成(黄色5号)に比べて明るく鮮やかなもの(マリーゴールドイエロー)となっている。また、2号車と6号車にはそれぞれ集電用1基、検測用1基のパンタグラフが搭載され、1両に2基のパンタグラフが並んでおり、営業車には例のない長大なパンタグラフカバーと相まって、ユニークな外観となっている。
なお測定走行時には、測定用パンタグラフは進行前方の車両、集電用パンタグラフは進行後方の車両のものを使用し、同一車両の2基のパンタグラフを同時に上げて走行することはない(試運転等、測定以外の特殊な運転の場合は除く)。
走行機器もベースとなった700系に準じているが、編成が短くなったことから、1ユニットを構成する車両数が4両から3両(M1c+M'+M2)に減らされている。それに伴い、新たに制御電動車 (M1c) が設定されたほか、従来は付随車に搭載されていた空気圧縮機や補助電源装置といった補機類が電動車に集約して搭載された。また、計測機器などの電源用および停電対策用として、M'車車内に210kVA電源装置および鉛蓄電池を搭載する。
1号車:変電/電車線/信号/通信測定台・電気/施設測定機器
2号車:高圧室・電気関係測定機器
3号車:観測ドーム・電気倉庫・電力データ整理室
4号車:(軌道検測車)軌道検測室・施設データ整理室・施設倉庫
5号車:多目的試験・電源供給・観測ドーム・休憩室
6号車:ミーティングルーム・高圧室・電気関係測定機器
7号車:電気/施設測定機器(添乗室があり700系普通車と同様の車内。カラーの大型プラズマディスプレイも備える)
なお、923という形式称号は2代目にあたる。先代はレール探傷車が名乗っており、2代目923形が登場した時点ではJR西日本に923-2が在籍していた。


3000番台
2003年のダイヤ改正で高速化された東海道新幹線において、922形T3編成の210km/hでの検測運転では営業車両との性能差からダイヤに支障し、またT3編成自体の老朽化も進んでいたことから、これを置き換える目的で2005年に登場した。JR西日本博多総合車両所に所属し、T5編成と呼ばれる。2005年3月上旬にそれぞれのメーカーから陸上および海上輸送により博多総合車両所に運ばれた。


仕様は923形0番台T4編成とほぼ同一である。T4編成との外観上の差異は、車体側面に博多総合車両所でメンテナンスを行う際のジャッキアップ時にリフトを差し込むための穴があること、および7号車屋根上のアンテナの有無(T4編成にはない)のみである。


博多総合車両所所属でありながら普段は東京に常駐しているため、保守を容易にするため台車もT4編成と同一にしてある。また、定期検査はJR東海に委託し、交番検査が東京交番検査車両所、台車検査・全般検査が浜松工場の施行となっている。

運用
主要駅停車の「のぞみ」(「ひかり」)検測と、各駅に止まる「こだま」検測の2種類があり、通常各タイプとも同じダイヤで営業時間帯に運転される。
「のぞみ」タイプと「こだま」タイプのどちらも、基本的に2日かけて検測を行い、1日目に東京 → 博多、2日目に博多 → 東京となることが多い。ただし、新大阪駅到着時にいったん大阪仕業検査車両所に入区することが多い。


東海道新幹線開通間もないころは、営業列車のない深夜に検測を行っていたが、営業列車と同じ速度で検測可能なT2編成(922形10番台)が1974年に登場してからは昼間に検測を行うようになった。当時は「ひかり」検測は3日かけて、「こだま」検測は4日かけて行った。
ドクターイエローの運用について、区間や走行時刻などの詳細は全く公表されないため、「ドクターイエローを目撃すると幸せになれる」という都市伝説がある。このため、プラレールや鉄道模型(関水金属・トミーテックが発売)といった関連商品が多く売れている。

1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では、東海道新幹線の復旧工事で必要なモルタル輸送にドクターイエローが用いられた。車内いっぱいに積み込まれた200袋のモルタルと24人の作業員を東京から京都まで輸送する任に当たった。
2008年5月26日、JR東海はN700系に上下方向のみの軌道検測システムを取り入れると発表した。

製造所 日立製作所笠戸事業所(1 - 3号車)
日本車輌製造(4 - 7号車)
主要諸元
編成 7両(6M1T)
軌間 1,435 mm
電気方式 交流25,000 V 60Hz
最高速度 270 km/h
起動加速度 2.0km/h/s
編成定員 非営業車両
全長 27,350 mm(先頭車)
25,000 mm(中間車)
全幅 3,380 mm
車体高 3,650 mm
台車 コイルばね+円錐積層ゴム式ボルスタレス台車
TDT204(電動車), TTR8001(付随車)(T4編成)
WDT206(電動車), WTR8001(付随車)(T5編成)
主電動機 かご形三相誘導電動機
TMT6A,TMT7A,TMT8(T4編成)
主電動機出力 275kW/基
駆動方式 WN駆動方式
歯車比 2.96
編成出力 6,050kW 
制御装置 VVVFインバータ制御 (IGBT)
制動装置 回生併用電気指令式ブレーキ(応荷重装置付き)、渦電流ブレーキ
保安装置 ATC-1型、ATC-NS

水口石橋駅(近江鉄道本線)

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水口石橋駅(みなくちいしばしえき)は、滋賀県甲賀市水口町鹿深にある近江鉄道本線の駅。
駅名は、駅北側を東西に通る旧東海道の「石橋」にちなんでいる。戦後に設置された無人駅で、市街地中心部近くの住宅地に立地。

本線に向かって西側に単式1面1線のホームを有する地上駅。平屋のコンクリート造りの小さな駅舎があり、終日無人である。

駅舎内の待合室には長椅子と飲料の自販機が設置されています。窓口は閉鎖され、ラッチ跡が残っています。

ホームはカーブ上にあることから、列車内では駅到着時に乗降時の注意を喚起する放送がなされる。ホームは1後付けの立地のためか、幅は狭い。

サイクルトレインの利用対象外となっている(他に利用できないのは彦根駅と八日市線のみ)。

駅前に駐輪場があります。トイレはありません。

駅周辺
名勝・旧跡
旧 東海道(水口宿)
公共・福祉施設など
滋賀県水口総合庁舎
公立甲賀病院 - 最寄駅は隣の水口駅となっている
企業・金融機関など
滋賀県信用組合本店
湖東信用金庫水口支店
水口本町郵便局
甲賀ケーブルネットワーク


1957年(昭和32年)8月16日 - 開業する。

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 44.4km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 単式1面1線
乗車人員
-統計年度- 104人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1957年(昭和32年)8月16日

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