C11 64 - 京都府京都市「京都鉄道博物館」(2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定)
国鉄C11形蒸気機関車(こくてつC11がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が1932年(昭和7年)に設計した過熱式のタンク式蒸気機関車である。
概要
老朽化した種々雑多な支線・区間運転用機関車群の代替用として、1930年に設計されたC10形の改良増備車として設計・製造された軸配置1C2の小型タンク式蒸気機関車である。
開発経緯
1920年代の国鉄では、第一次世界大戦終結後の日本経済の低迷と、特に都市部での並行私鉄線や自動車の台頭などの事情から、旅客・貨物輸送ともに輸送単位の縮小や列車運行回数の高頻度化が求められるようになっていた。
そこでその要請に応えるべく、C51形やC53形といった大型制式蒸気機関車の新製投入で余剰となった、6200形などの鉄道国有化以前に製造された軸配置2Bのテンダー式蒸気機関車を改造した軸配置2B1などのタンク式蒸気機関車を、支線区運用や都市部の区間運転などに充てることとした。だが、それらの車両は改造の時点で製造から既に20年前後が経過しており、改造後10年を経ずして老朽化のために休車扱いとなる車両が発生するなど、その状態は思わしくなかった。また種車の形式が種々雑多で構造や交換部品の仕様などが完全には統一されておらず、保守作業の規格化という観点からも望ましくなかった。
都市部での旅客列車の高頻度・高速運転については、当時地方私鉄を中心に実用化が進みつつあったガソリンカーなどの内燃機関を動力とする気動車も選択肢の一つであり、1929年(昭和4年)には鉄道省初の制式ガソリン動車であるキハニ5000形が製造されている。だが、これは搭載機関出力の非力さや設計面での未熟などが重なって、これらの老朽タンク機関車による旅客列車を代替するには全く不十分なものであった。
そこで制式テンダー機関車ではもっとも小型であったC50形を基本としつつ、支線区の輸送需要を考慮して一回り小型化し、炭水を無補給で50kmから60km程度の距離を走行可能とする[1]石炭庫と水タンクの搭載、それにそれらの重量の変化による動軸重の変化を抑制するために2軸従台車を付加する形[2]で、国鉄としては1917年(大正6年)の4110形最終増備グループ以来13年ぶりとなる、新設計の制式タンク機関車が作られることとなった。
その先駈けとなったのは鉄道省の島秀雄を主務設計者として鉄道省・国内機関車メーカー各社によって共同設計され、1930年に製造されたC10形である。これは主として都市部に配置され、短区間の折り返し運転による快速列車運用などで好評を博した。だが、このC10形は性能面では概ね満足な成績が得られたものの、従台車を2軸台車としたにもかかわらず動軸重が13tを超過し、軸重制限の厳しい丙線以下の支線区への投入には適さないという問題があった。そこでこの新型タンク機関車の本格量産にあたって、C10形に続き1931年(昭和6年)に設計されたC54形で得られたノウハウを盛り込んで設計をさらに見直し、特に薄鋼板部品の接合に折から実用化が急速に進みつつあった電気溶接を採用するなど、新技術を積極的に導入して軽量化を図ることで、動軸重を13t以下に抑えることになった。
この新型機関車はC10形の続番としてC11形という形式が与えられ、C10形に引き続き島秀雄を主務設計者として設計作業が行われた。
本形式では水タンク・石炭庫・運転室など薄鋼板を使用する部分について構造の見直しと工作法の工夫が行われ、これにより運転整備重量をC10形比で約5パーセントの削減となる66.05t、動軸重で最大12.5tの範囲内に収め、C10形と比較して入線可能線区を大幅に拡大することに成功した。
本形式は不況期の輸送需要減少を背景として開発された機種であるがコンパクトで使い勝手がよく、戦時中に貨物輸送能力の増強用として支線区を中心に投入されたこともあり、その総数が381両に達するという、国鉄近代型制式蒸気機関車の中でも有数の成功作となった。また、その設計で得られた知見はC54形の後継機種となるC55形の設計にフィードバックされ、国鉄最後の新設計制式蒸気機関車となったE10形まで引き継がれており、その面でも大きな成功を収めた形式である。
構造
C50形のものよりボイラバレル径をやや太く、そして全長を短く再設計した2缶胴構成の過熱式ボイラーを、肉厚圧延鋼板を切り抜いて加工・組み立てした主台枠に搭載する。
ボイラーの火床面積は1.6平方mで、基本となったC50形のものより若干小さいが、ほぼ同等の面積を確保している。
過熱器はC10形と同じ4段構成であるが、最上段を4列、それ以外を6列としていた同形式とは異なり、4段とも6列構成として性能向上を図っている。
シリンダ構成は一般的な単式2気筒、弁装置は鉄道省で標準的に採用されていたワルシャート式で、動輪径は総重量・ボイラー寸法などから8620形やC50形などで採用されていた1,600mmより5パーセント小さい1,520mmとされた。
先台車の復元装置はC50形で初採用されたエコノミー式が踏襲され、従台車は外側軸受支持による釣り合い梁式2軸ボギー台車を備える。
操作性については、扱いよい機関車であったが、蒸気が逃げてスタートが悪くなることもときどきあった。
製造
1932年から1947年(昭和22年)までの16年間に381両が汽車製造会社、川崎車輛、日立製作所、日本車輌製造の各社により生産された。生産時期によって1 - 4次までのバリエーションがある。C10形に比べると溶接部分が多く、ボイラーの過熱器がC10形と比較して2基増強され、除煙板(デフレクター)が装備されているなどの特徴がある。
また、民間向けに製造されたものも少なくなく、11社へ計20両が納入されているが、いずれも概ね同時期の国鉄向けに準じた仕様となっている。
紀勢中線(旧新宮鉄道)に新製配置された当時のC11 98(2次形)。ボイラー側面に細長い円筒形の重見式給水加熱装置が装着され、ねじ式連結器を備える。(1938年3月、紀伊勝浦機関庫)
紀勢中線(旧新宮鉄道)に新製配置された当時のC11 98(2次形)。ボイラー側面に細長い円筒形の重見式給水加熱装置が装着され、ねじ式連結器を備える。(1938年3月、紀伊勝浦機関庫)
C11 75(2次形)
C11 75(2次形)
C11 189(3次形)
C11 189(3次形)
C11 292(4次形)
砂箱と蒸気ドーム被いが角形のままで現存する1両。
C11 292(4次形)
砂箱と蒸気ドーム被いが角形のままで現存する1両。
1次形 (C11 1 - 23)
本形式の基本型で、ボイラー側面の重見式給水加熱装置と、第1缶胴上に設けられた蒸気ドーム、それに惰行時にバイパス路を自動開放してピストンがポンプ作用で加減弁から蒸気を吸い出そうとするのを防ぐ、自動バイパス弁[4]の搭載が特徴である。2次形の一部まで取り付けられていた重見式給水加熱装置は期待した性能を発揮できなかったため、戦後間もないころまでに撤去され、同じく2次形の途中まで搭載されていた自動バイパス弁も動作が思わしくなかったことから1940年(昭和15年)ごろまでにすべて撤去された[4]。
2次形 (C11 24 - 140)
アーチ管が取付けられ、1次形では第2缶胴上にあった砂箱と蒸気ドームの位置が互いに入れ替わった。これは、下り勾配で缶水が前方にいった場合に、蒸気ドーム内に缶水が入る恐れがあったため、その対策として行われた。
3次形 (C11 141 - 246)
貨物列車牽引に対応し、軸重増加を図るべく水槽容量を増大したため、側水槽の下端が運転室床面より低くなり、背部炭庫の上辺が水平となった。重見式給水加熱装置は、最初から取付けられていない。
4次形 (C11 247 - 381)
資材と工数を節約した戦時設計機で、除煙板は木製となり、砂箱と蒸気ドーム被いは工作の容易化のために角形(かまぼこ形)となった。後年の装備改造で3次形までと同様の形態に改められたものが多いが、砂箱と蒸気ドーム被いは原形のまま残ったものがある。
民間向けの同形機
前述のとおり、内地・外地合わせて11社へ20両が納入されている。
京南鉄道(朝鮮)
25 - 1935年・日立製作所(製造番号624)
26 - 1936年・日立製作所(製造番号725)
日本炭鉱高松鉱業所(以下の2両は、除煙板を装備していなかった)
C1101 - 1941年・日立製作所(製造番号1578。発注者は日産化学)
C1102 - 1943年・日立製作所(製造番号1741。発注者は日本鉱業)
松尾鉱業
C118 - 1942年・日立製作所(製造番号1260) → 1952年譲渡・雄別鉄道C118(1970年廃車)
樺太人造石油→帝国燃料興業 内淵鉄道
C111 - 1942年・日立製作所(製造番号1396)ソ連接収後の消息不明
C112 - 1944年・日立製作所(製造番号1783)同上
宇部油化工業
101 - 1944年2月・日立製作所(製造番号1648) → 1947年譲渡・江若鉄道「ひら」 → 1950年改番・C112 → 1953年5月譲渡・三岐鉄道 C111 → 1955年1月譲渡・羽幌炭礦鉄道 C111(1970年12月廃車)
内淵人造石油(樺太)
4 - 6 - 1944年・日本車輌製造(製造番号1257 - 1259)ソ連接収後の消息不明
東武鉄道
C112 - 1945年・日本車輌製造(製造番号1290。奥多摩電気鉄道発注。1963年廃車)
雄別炭礦尺別専用鉄道 - 砂箱が角形、蒸気ドームが丸形、除煙板も角張った戦時形
C1101 - 1944年7月・日本車輌製造(製造番号1331) → 1944年11月譲渡・三菱鉱業大夕張鉄道(1972年9月30日廃車。長島温泉SLランドに保存後解体)
江若鉄道
「ひえい」 - 1947年・日本車輌製造(製造番号1423) → 改番 C111 → 1957年譲渡・雄別鉄道(埠頭線)C111 → 1970年譲渡・釧路開発埠頭C111
三井鉱山芦別鉱業所専用鉄道→三井芦別鉄道
C11-1 - 3 - 1947年・日本車輌製造(製造番号1475 - 1477) → 1950年8月10日移動 、1953年9月6日移動・三井鉱山砂川鉱業所奈井江専用鉄道
同和鉱業片上鉄道
C11-101 - 1947年5月・日本車輌製造(製造番号1474)1968年10月29日廃車
C11-102・103 - 1949年・川崎車輛(製造番号3191・3192)1968年4月1日廃車
運用
最初は主に西日本の都市近郊や主要支線で使用された。近畿地方の快速列車を牽引した際には特急と張り合う俊足ぶりを発揮した[注 6]。やがて活躍の場を広げてほぼ全国各地に配属され、主にローカル線の列車牽引に使用された。気動車が普及するにつれて余剰となり始め、1960年(昭和35年)ごろから少しずつ廃車が出たが、貨物列車用や入換用として蒸気機関車の末期まで数多く残った。
本形式による優等列車運用への充当例としては、現役時代も終わりに近づいた1965年(昭和40年)10月から1968年(昭和43年)9月にかけて、肥前山口駅で長崎発着編成と佐世保発着編成を分割併合して運行されていた寝台特急「さくら」(2001・2002レ)の佐世保発着編成のうち、佐世保線早岐 - 佐世保間8.9kmの牽引に抜擢されたのが最も良く知られている。
これは早岐駅の立地と構内配線の制約から、肥前山口から早岐を経て佐世保に至るルートで直通列車を運転する場合には列車を早岐でスイッチバックさせる必要があったが、早岐以東の本務機であるDD51形を同駅で機回しする所要時間に比して早岐と佐世保の間の運転所要時間が短く、かといって「さくら」の20系客車は機関車を最後尾とした推進運転に対応していなかったことから、機関車の付け替え時間の節減を図って当時早岐機関区に配置され佐世保・大村の両線で運用されていた本形式を早岐 - 佐世保間の牽引機に起用したものである。
この「さくら」では1965年10月から1966年(昭和41年)9月まで、自重軽減のため[注 9]電動発電機とパンタグラフを撤去したカニ22形を正規電源車とする基本編成が佐世保発着編成に割り当てられていたが、その後はマヤ20形簡易電源車を含む付属編成に割り当て変更となっている。
なお、ヘッドマークは本務機に装着されたままとなっていたため、本形式には基本的にヘッドマークは装着されないことになっていたが、実際には、鉄道雑誌の取材などに応じた際に予備のマークを背面に装着したり、機関車を方向転換して正面向けにして、マークを装着して運転するなどのサービスをすることが時折あった。
1970年(昭和45年)10月14日から1971年(昭和46年)6月25日まで、無火ながらC11 91が「日立ポンパ号」の先頭を飾り、全国各地の駅で展示された。
譲渡
動態保存用を除く本形式の払下げは、雄別鉄道への3両とラサ工業宮古工場専用鉄道への1両 (C11 247) 、三井鉱山奈井江専用鉄道への1両 (C11 226) の計5両が存在する。
雄別鉄道へは、C11 65が1961年(昭和36年)、C11 127が1962年(昭和37年)、C11 3が1964年(昭和39年)に国鉄から払下げられ、江若鉄道からのC11 1、松尾鉱山鉄道からのC11 8とともに5両体制で1970年の廃止まで貨物列車の牽引用に使用された。
保存機
動態保存機
小型で運転線区を選ばず扱いやすいことや、比較的に維持費が安く済むことから2016年(平成28年)現在、1両が運用を離脱したものの日本の動態保存中の蒸気機関車としては最多の5両が各地で保存運転を行なっている。
静態保存機
国鉄を代表する蒸気機関車の一つであるC11形は廃車後、全国各地で静態保存された。このうちC11 1は青梅鉄道公園に、C11 64は京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に保存されている。また、動態保存機として復活していたC11 312も保存されている。
また、ニュース番組などで「新橋のSL広場前から…」と言うことがあるが、その新橋駅SL広場にあるのはC11 292である。
C11 64 - 京都府京都市「京都鉄道博物館」(2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定)
運用者 鉄道省→日本国有鉄道
製造所 汽車製造・川崎車輛
日立製作所・日本車輌製造
製造年 1932年 - 1947年
製造数 381両
愛称 Cのチョンチョン
主要諸元
軸配置 1C2
軌間 1,067 mm
全長 12,650 mm
全高 3,900 mm
機関車重量 66.05 t(運転整備時)
動輪上重量 36.96 t(運転整備時)
動輪径 1,520 mm
軸重 12.40 t(第3動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 450 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2
後に15.0 kg/cm2
ボイラー水容量 3.8 m3
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3,200 mm×24本
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3,200 mm×87本
火格子面積 1.60 m2
全伝熱面積 103.0 m2
過熱伝熱面積 29.8 m2
全蒸発伝熱面積 73.2 m2
煙管蒸発伝熱面積 63.2 m2
火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 3.00 t
水タンク容量 6.8 m3
制動装置 自動空気ブレーキ
最高運転速度 85 km/h
最大出力 783 PS
定格出力 610 PS