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金星Ⅱ号 セスナ421 

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アメリカのセスナ社が1965年(昭和40年)から生産した10人乗りビジネス飛行機です。この機体は、毎日新聞社で取材に使用されていたもので、「金星Ⅱ」号と呼ばれていました。∥CESSNA 421 MAINICHI NEWS the "KINSEI Ⅱ"(寄贈 毎日新聞社) 年代:1965年生産開始。

小さな飛行機セスナ421ゴールデンイーグルの建設は、以前のモデルに基づいて開発されました - セスナ411しかし、改善された技術的な特徴、新しいデザイン、および修正の数に、航空機は、前モデルよりも顧客の間で大きな需要を得ました。

セスナ421は、1967年5月に初めて生産されました.421Aは1968年に登場し、1970年に再設計され、421Bとして販売されました。1975年に421Cが登場しました。ウェットウィングは、翼端の燃料タンクと着陸装置がなく、1981年モデルのストレートレッグからトレーリングリンクデザインに変更されました。生産は1,901機が納入されてから1985年に終了した。

421は、最初1967年5月1日に認定及び普通株式たタイプの証明書モデルと401、402 411、414及び425。
いくつかの421はターボプロップエンジンを受け入れるように改造されている。それ自体が421のターボプロップ開発であるCessna 425に非常に似ている。

421は全金属の低翼キャビンリトラクタブル三輪車着陸装置と単葉と、2つの連動によって供給され、コンチネンタルGTSIO-520-Dのエンジンにおいて、翼に取り付けられた牽引式。キャビンは、翼の後ろの左側のドアからアクセスされ、基本421の座席は6つ、後のバリアントの座席は10つまであります。

軽双発自家用輸送機セスナ411の発展型で、両者の違いは421が与圧されていることで、エンジンには減速したコンチネンタルGTSIO-520Dエンジンを装備している。
 減速したエンジンはプロペラーの回転数を下げ、巡航時の騒音を抑える効果がある。このエンジンは初期の421Aモデルの減速歯車設計が低い評価を受けたにも係わらず、非常に信頼性があることを証明した。
 セスナ421Aは1968年に生産が開始され、1970年に再設計されて421Bとなった。
 1976年に燃料を主翼タンク(ウエットウイング)に収容し、翼端の燃料タンクを廃止したセスナ421Cモデルが出現した。更に1980年には421Cの着陸脚が直線形状のものからトレイリング・リンク式に改められた。
 セスナ421の生産は1985年に他の全てのセスナ製ピストンエンジン装備機と同様にPL法(製造物責任法)に関連して終了した。
このモデルはポピュラーな高性能与圧式自家用機として残り、中古機の中で高価格を維持している。

金星Ⅱ号
ガソリンエンジン2つ 8.5L380馬力 タ-ボ
重量3.4トン
運べる重さ1.4トン

 


 

 


旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室

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明治22年の呉鎮守府開庁と同時に「呉鎮守府吉浦火薬庫」がここに置かれたのが始まりです。
その後、明治36年に対岸の昭和町に呉海軍工廠が建設されると呉海軍工廠造兵部第六工場(のちの呉海軍工廠砲熕部)の火薬庫となりました。
昭和10年に砲熕部から独立し、終戦まで「呉海軍工廠火工部」として火薬や砲弾を製造していました。海上保安大学校に唯一残る建物遺構で呉海軍工廠砲熕部第六工場の施設として建設されました。

 


「呉市指定文化財第116号 有形文化財

旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室(海上保安大学校煉瓦ホール)

FORMER KURE NAVAL ARSENAL (JAPAN COAST GUARD ACADEMY BRICK HALL)

平成28(2016)年12月20日指定

現在の海上保安大学校の敷地には、明治22(1889)年に呉鎮守府吉浦火薬庫が設置されました。

その後、明治36(1903)年に呉海軍工廠造兵部第六工場(のち砲熕部第六工場と改称)火薬庫となりました。一方、この地には、明治42(1909)年に古瀬大学と呼ばれた呉海軍工廠火薬試験所が設立されました。

火工場機械室は、大正3(1914)年に呉海軍工廠砲熕部第六工場の施設として建設されました。この煉瓦造りの建物は、完成から約100年以上経過していますが、その間に大きな損傷を受けることなく、建設当時のままの姿が現在まで残っており、かつて海軍の拠点だった呉市の歴史を伝える貴重な文化財であります。

現在は、演奏会などが行える多目的ホールとしても使用しています。

呉市・呉市教育委員会」

呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)とは、広島県呉市にあった日本の海軍工廠。戦艦「大和」建造で有名。終戦により工廠は解散。現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場として大型民間船舶の建造を行っており、艦艇建造は行っていない。

戦前
1889年 (明治22年) 呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置される。当初造船は神戸にあった小野浜造船所に頼っていたが、徐々に呉での設備を拡充、小野浜造船所は後に閉鎖された。 1903年 (明治36年)に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。その後は東洋一と呼ばれるほどにまで設備を充実させた。工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を越える程で、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場であった。戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、日本海軍艦艇建造の中心地となった。

砲熕部(砲塔(砲身を含む)の製造、開発)、製鋼部(装甲板の製造、開発)が設置され戦艦建造の主導的役割を果たしていた。三菱重工業長崎造船所で建造された戦艦「武蔵」の主砲塔、砲身も呉で製造されている。

1912年3月29日、1万人参加のストライキがうたれた。このストライキには、作家の宮地嘉六も参加し、第九工場の首謀者として検挙された。さらに、1918年8月の1918年米騒動には多数の工廠労働者が参加し、銃剣を持った海軍陸戦隊と対峙し、死傷者が出た。

戦中
1945年6月22日9時よりB-29・290機が飛来し、造兵部を中心に施設を破壊した。海軍工廠関係の死者約1900名。
呉軍港空襲

戦後
土地、設備は播磨造船所と米ナショナル・バルク・キャリア社(NBC)が引き継ぐ。呉造船所、石川島播磨重工業(現IHI)呉工場を経て現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場。呉工場での自衛艦艇の建造は無いが、修理は行っている。なお「造船船渠(大和の建造用ドック)」は1993年に埋め立てられ、跡地は工場として再利用されている。しかし、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、自衛艦や米軍艦船などが現在も使用中である。

呉海軍工廠が大和建造時に採用した船体を部分ごとに造るブロック工法、部品共通化などの革新的管理システムは、後に世界に広まる効率的な日本型生産方式の源流ともいわれる。

雲井駅(信楽高原鐵道信楽線) 

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雲井駅(くもいえき)は、滋賀県甲賀市信楽町牧にある信楽高原鐵道信楽線の駅。
駅の周囲には小さな集落があります。

比較的、利用客が多い中間駅です。以前は交換駅でした。

1面1線の駅で開業時以来の駅舎と便所がある無人駅。小ぶりな駅舎は木造駅舎です。

バス乗り場の横には、貨物ホーム跡が残っているが、線路は貨物線の撤退により今は残っていない。

ホームは。嵩上げの後があります。ホームの幅は狭い。

待合室には造り付けの長椅子が設置されています。


駅の規模と比較して台数を数多く整理できる駐輪場が整備されています。


駅周辺
甲賀市立雲井小学校
国道307号

1933年(昭和8年)5月8日 - 開業。
1943年(昭和18年)10月1日 - 信楽線休止(不要不急線)に伴い休業。
1947年(昭和22年)7月25日 - 営業再開。


1962年(昭和37年)5月11日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道に承継。
1987年(昭和62年)7月13日 - 信楽高原鐵道の駅となる。


所属事業者 信楽高原鐵道
所属路線 信楽線


キロ程 10.2km(貴生川起点)
電報略号 クモ


駅構造 地上駅
ホーム 単式1面1線
開業年月日 1933年(昭和8年)5月8日

ライトニング・アレスター(航空機)避雷器

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ライトニング・アレスター(航空機)
避雷器(ひらいき、英: lightning arrester)は、発電、変電、送電、配電系統の電力機器や電力の供給を受ける需要家の需要機器、有線通信回線、空中線系、通信機器などを、雷などにより生じる過渡的な異常高電圧から保護する、いわゆるサージ防護機器のひとつである。日本では、サージ防護機器全てを避雷器と呼ぶこともある。

屋外に設置される送配電線(電力線)や電話線、空中線などは雷の影響を受けやすい。架設線(架空線)への落雷(直撃雷)はもとより、直撃雷よりもはるかに多く発生する避雷針を含む周辺への落雷や、雷雲内や雷雲間で生じる稲妻(雲放電・雲間放電)などによっても、架設線などに過渡的な異常高電圧が発生し、大電流が流れて回路を損傷するため、この対策は重要である。なお過渡的な異常高電圧は「大波電圧」の意味で「サージ電圧」、その結果流れる大電流のことを「サージ電流」といい、まとめて「サージ」という。雷によるものは「雷サージ」という。また、避雷針を含む周辺への落雷や雲間放電などによって架設線などに生じる雷サージを「誘導雷サージ」という。直撃雷によるものは「直撃雷サージ」という。なお、過渡的な異常高電圧として「ノイズ」があるが、これは回路を損傷させるほどのものではないが、回路の正常な動作を妨げる恐れのある程度のものを示し、サージとは区別されている。

重要な回路部分にサージ電圧がかからなければ、サージ電流は流れず、重要な回路部分が損傷することはない。そこで回路中に意図的に絶縁の弱い部分を作り、ここをサージ電圧によって破壊、サージ電流をバイパスさせることにより、サージ電圧を抑制、重要な回路部分を保護する手段をとる。しかし、ただ破壊するだけでは破壊した部分を修復するまで機器が使用できないなどの問題が生じるので、サージ終息後、直ちに元の絶縁を回復する機能を持たせたものが避雷器である。雷によるサージを処理することが多いことから、避雷器の名があるが、実際のサージは雷によるものだけではなく、避雷器は他の原因によるものも処理する必要がある。このことから2003年より、その正式名称はJISにより、サージ防護デバイス (SPD : Surge Protective Device) に統一された。他にも「アレスタ」、「サージアブソーバ」などの呼称がある。なお「サージアブソーバ」は抵抗器とコンデンサを組み合わせ、コンデンサによりサージを吸収、抵抗器により熱に変換して減衰させるようにしたものを示すことがある。

避雷器の歴史は古く、例えば送配電用としては、1900年代初頭に酸化アルミニウム避雷器が実用化されており、1930年代には炭化ケイ素 (SiC) を用いた弁抵抗避雷器が登場、1980年代からより特性の優れた酸化亜鉛 (ZnO) 避雷器に代ってきている。

日本では、高圧送配電系統については以前より避雷器の設置が義務付けられており、電気規格調査会 JEC 203、JEC 217 さらに JIS C4608 などの統一規格があったが、これ以外の低圧回路などに用いる避雷器については特に規定はなく、メーカーの自主規格に依っていた。しかし2003年以降、IECのものに従い、低圧電源用避雷器などについても、統一規格が設けられるようになった。

避雷器はそれ単体で全てのサージを処理させるものではなく、避雷設備の中で一部のサージを処理する部品であり、万一の場合、自身が焼損・破壊して他の部分を保護する目的の部品であることから、特に防火に対する安全性が求められる。このため特に数多く広範に用いられる低圧電源用避雷器などについて、アメリカ保険業者安全試験所(UL)で5つのタイプに分類、それぞれ性能に係る詳細が定められ、避雷設備における使用の詳細も定められた。

 

信楽駅(信楽高原鐵道)

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信楽駅(しがらきえき)は、滋賀県甲賀市信楽町長野にある信楽高原鐵道の駅。

駅は日本六古窯に数えられる信楽焼の産地です。


対面式2面2線のホームを持つが、旅客の乗り降りは駅舎側のホームのみを使用している。

駅は信楽高原鐡道本社が併設され駅舎は平屋の鉄筋コンクリート造です。駅舎正面の右手には大狸像あり四季折々ごと着替えています。

切符売場には切符券売機が1台。有人窓口が営業しています。

待合室には売店が併設されその奥に衝突事故関連の資料などが展示されています。

反対側の構内踏み切りでつながっているホームには、大量の狸の置物が置かれている。

以前はKR200形気動車が留置されていたが、現在は改造後復帰または廃車となり、現在は、夜間停泊などに使われている。

貴生川方面に車庫がある。当駅より先も線路が続いており、終端に引き上げ線がある。

信楽線唯一の有人駅であり、1991年の列車衝突事故以後では、同線において信号機が唯一使用されている駅でもある。

駅前は広いスペースがあり駅左手には駐輪場。奥には駐車場がある。

駅周辺
甲賀市役所信楽支所
陶器流通センター
伝統産業会館
新宮神社
国民保険中央病院
大戸川
国道307号

第3回近畿の駅百選に選定された。
駅敷地内には「セーフティーしがらき」として、1991年5月14日の列車衝突事故に関する資料を展示したコーナーが、事故を風化させるべきでないという遺族の要望によって1997年4月30日より設けられている。


1933年(昭和8年)5月8日 - 国有鉄道の駅として開業。
1943年(昭和18年)10月1日 - 信楽線の不要不急線指定により営業休止。
1947年(昭和22年)7月25日 - 営業再開。
1987年(昭和62年)
4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
7月13日 - 信楽高原鐡道の駅となる。
西日本JRバス(2002年9月30日限りで廃止)

所在地 滋賀県甲賀市信楽町長野192
所属事業者 信楽高原鐵道
所属路線 信楽線
キロ程 14.7km(貴生川起点)
電報略号 ラキ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線(乗降は1面1線)
開業年月日 1933年(昭和8年)5月8日

信楽高原鐵道株式会社(しがらきこうげんてつどう)は、滋賀県で旧国鉄特定地方交通線の鉄道路線である信楽線を運営している鉄道事業者。甲賀市や滋賀県などの出資による第三セクター方式で設立された、第三セクター鉄道の一つである。

路線
信楽線 貴生川 - 信楽 14.7km(信楽高原鐵道が第二種鉄道事業者、甲賀市が第三種鉄道事業者)


JR片町線と信楽駅を結ぶ新線を建設し、信楽高原鐵道信楽線と近江鉄道本線を改良した上で、大阪と滋賀県南部を直結する「びわこ京阪奈線」(仮称)構想があり、関係自治体により、建設期成同盟会が結成されている。
しかし、2005年度の同鉄道の経常損益は4028万5000円の損失、2006年度末の債務超過額は13億4552万円となっているほか、2003年度における営業係数は約150%、2011年度で単年度赤字額は約9,000万円となっており、経営的にはきわめて厳しい。
また、同鉄道の一部に並行する形で、新名神高速道路の信楽ICへのアクセス道路となる「信楽道路」の建設も進められており、道路事情の改善が進展している。
2012年2月6日には、1991年の事故の被害補償に充てるために、滋賀県や甲賀市から借り入れた計約21億円の全額放棄を求める特定調停を大津地方裁判所に申し立て、事実上の税金投入要請を行うことになった。

1987年(昭和62年)
2月10日 会社設立。
7月13日 西日本旅客鉄道(JR西日本)信楽線を転換し、信楽線開業。
1989年(平成元年)12月1日 信楽焼製の干支切符・記念切符を発売開始。以後毎年発売。ただし記念切符は以後不定期。
1991年(平成3年)
5月14日 信楽線において、JR西日本から乗り入れの臨時快速列車と信楽高原鐵道の普通列車が正面衝突事故(信楽高原鐵道列車衝突事故)を起こす。
12月8日 列車運行再開。
1995年(平成7年)12月18日 SKR300形投入。
2001年(平成13年)11月6日 SKR310形投入。
2013年(平成25年)
4月1日 地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく鉄道事業再構築実施計画により上下分離方式に移行。信楽高原鐵道が信楽線の第二種鉄道事業者となり、線路や車両等の鉄道施設を譲渡された甲賀市が第三種鉄道事業者となる。
9月15日 台風18号によりこの日から信楽線が運休。16日には杣川橋梁の橋脚が流失。
2014年(平成26年)11月29日 列車運行再開。
2015年(平成27年)
1月15日 スウェーデンの陶芸家、リサ・ラーソンの作品を描いたラッピング列車「マイキー・トレイン」を6月7日まで運行。
10月4日 SKR400形投入。
2017年(平成29年)2月5日 SKR500形投入

 

降着装置(航空機)

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降着装置(こうちゃくそうち)とは、航空機の機体を地上で支持する機構で、そのうち特に着陸の際の衝撃などを受けられるものを指す。着陸装置、ランディングギア (Landing gear)、アンダーキャリッジ (undercarriage)、着陸脚ともいう。

通常は車輪と緩衝装置から構成されるが、水上用にフロート、雪上用のスキー、艦載機ではアレスティング・フック、ヘリコプターではスキッドを備えることもある。

主脚
重心近くすなわち主翼近辺にあって荷重のほとんどを支持するものを主脚と呼び、通常左右に配置される。静安定維持のためには重心周りに最低3点が必要なので、両主脚以外にあと1点分の脚が必要である。

前輪式と尾輪式
地上滑走用の着陸脚の配置には、主脚以外の1脚の位置によって前輪式と尾輪式の2つに大別できる。これまで製造された航空機の多くはこの2種類どちらかの配置か、またはその類似・派生の配置になっている。

主脚以外の1脚を前方の機首下部に置くものを「前輪式」(首車輪式、首脚式、前脚式、トライアド、Triad)、機体後部に置くものを「尾輪式」(テールドラッガ、Tail-dragger)と呼ぶ。尾部の支持は実際には車輪ではなく橇(そり)のこともあり、その場合には「尾橇式」といわれることもある。3車輪式(3輪式、Tricycle gear)という呼称もあり、厳密に解釈すれば両方の形態を指しているとも取られることがあるが、大勢としては特に前輪式を指して用いられることが多い。逆に「3点姿勢」「3点着陸」等のように、3点と言及されるときには尾輪式を指すのが通例である。

英語では尾輪式を"conventional landing gear"と呼ぶことからもわかる様に、かつては尾輪式が主流だったが、現代のほとんどの航空機は前輪式またはそれの変形方式を備えている。その理由として尾輪式の離着陸が難しいことがあげられる。

グラウンドループ
静安定性では尾輪式と前輪式の差はない。しかし、地上への着陸時の動安定性では大きく差が出る。機体荷重のほとんどを支えブレーキ摩擦によって速度を減殺する主脚の位置が、尾輪式では機体重心位置の前方に位置するため、機首方向が走行方向と異なる状態でブレーキをかけるとますます差が拡大してしまい、修正が困難となる。このため、尾輪式は常に方向を修正しながら制動しなくてはならず、修正が間に合わないと「グラウンドループ」と呼ばれるヨー方向のスピンに入ってしまう。前輪式では制動力は機体重心より後方で生じるのでズレを修正する力が働く。
前輪式では着陸時の制動によって機体が前傾することが少なく、また、離陸滑走開始時から機体の水平(すなわち適切な主翼迎角)が保てるために、滑走中盤に尾輪が浮上するまでは過度に大きい主翼迎角となる尾輪式に比して、離陸性能を高く出来る。尾輪式の離陸滑走初盤では操縦席正面から滑走路が直視できない(空しか見えない)機種も多く、とくに大型機すなわちプロペラ直径が大きく主脚を長くせざるを得ない機体の並列複座操縦席で顕著であり、側面の窓から路面の流れを見て直進を維持するなど操縦に技術を要した。21世紀現在ではそもそも尾輪式の機体が少ないこともあり、尾輪式の航空機を離着陸させるのは習熟したパイロットでないと困難である。

ただし尾輪式には利点もある。降着装置は荷重を支えるため頑丈でなければならず、軽量化を阻害して航空機設計の大きな課題となっているが、前輪に比べて尾輪は機体重心から離れているためてこの原理で簡単・小型にすることができ、その分軽くなる。引き込み式でなく固定式にする場合、前輪式の首脚に比べ小型にでき飛行中の空気抵抗が少ない。

21世紀現在ではほとんど存在しなくなったが、尾輪式でも過去に存在した機体では、無垢のゴムタイヤや金属車輪など簡単な構造の事も多く、そのままで機首上げ状態を維持できているため脚自体も非常に短いかほとんど存在しなかった。前輪式で機首脚を持つ場合は、少なくとも機体姿勢を水平に維持できるよう、主脚と同じぐらいかそれ以上の長さでなければならない。構造も主脚と同様の緩衝装置と中空タイヤとなるのが普通だが、そのため一般的には尾輪より前脚のほうが機体の構造としては複雑になる。

また、ツポレフTu-95やコンコルド、SAABドラケンの様に、高迎え角で離着陸する際に尾部を擦らないように、前輪式機体ではあるが収納式の尾輪を同時に持つ機体も存在する。逆に、ツェッペリン・シュターケンR.IVのように離着陸時の前のめりを防止するため、尾輪式でありながら固定式の前輪を備える機体もあった。

構造
着陸脚の構造は基本となる車輪部と、着地の衝撃を吸収する緩衝装置、そして引込装置やブレーキやトルク・リングなどから構成される。1本の脚柱に複数の車輪がつく場合には、同軸に配置するかボギー(台車)を用いる。

車輪
車輪は一般にゴムタイヤを用いる。大型機のいくつかでは外気温変化の影響を避けるため水蒸気分圧を低くした純窒素ガスを充填するが、旅客機では空気を充填している。整備のよい滑走路を使用する大型旅客機等では着地時のタイヤ変形量と接地面積の増大による転がり抵抗を考慮して充填圧は乗用車やトラック(0.2-0.7 メガパスカル程度)に比べ高く設定される(1 メガパスカル以上)。滑走路上の異物などを踏んでしまった場合、充填圧が高いとタイヤ破裂の危険があるため、不整地や悪条件での離着陸を念頭において運用される際には、わざとタイヤの圧力を低くして滑走中のタイヤ破裂という最悪の事態を避ける。

緩衝装置
油と空気をピストン内に閉じ込めたオレオ式の緩衝装置 (Air/Oil Shock Strut) が普及する前の初期の軽量な機体の衝撃吸収には、車軸と機体の間をゴム製の緩衝コード (Rubber Shock Cord) で結んだ構成が採用されていた[6]。21世紀現在でも一部の小型機などでは同様のものが用いられることがある。小型機では他にも積層ゴム円盤 (Stacks of Rubber Disk) を組み合わせたものや、脚柱自体の弾性をもって緩衝装置とするものも用いられているが、一般的な航空機にはピストン式の緩衝装置が採用されている。また、引き込み式でなく固定脚のままで空気抵抗を減少させる為に、脚と車輪の回りに「スパッツ」と呼ばれる整流覆いをつける機体もよく見られる。

航空機の自重は、空中では主翼が支持し地上では着陸脚が支持する。しかしその水平断面積の差を考えると単位面積あたりの荷重は着陸脚にかかるものの方が桁違いに大きく、着陸脚は主翼よりも遥かに頑丈な構造で衝撃を吸収しなければならない。このため着陸脚は航空機の艤装品の中でもかなり重量があり、運用利便性や不時着時安全性を犠牲にしてでも飛行性能を追及した一部の機体では、離陸後に脚を投棄する形式としたものもあった。

付随装置類
低速飛行を主体とする小型機やフロート式・スキッド式降着装置などを除けば、多くの航空機で一般的に採用されているタイヤ式の脚部は、飛行中の空気抵抗や障害の発生を避けるために、機体内に収納するようにできており、油圧式のアクチュエータやモーターなどで上げ下げが可能な引込装置を備えている。機体への支持方法は、機体の構造部材にブラケットとトラニオンを組合わせた方式が使用されている。トラニオンには緩衝支柱が取付けられており、脚の上げ下げの行程において、そこを支点に前後又は左右に回転するようになっている。支柱の下端は車輪の軸やボギーになるが、緩衝装置のピストン内筒とその下部の車輪が自由に回転しないよう、緩衝装置にトルク・リンクを取付けるか又はピストン内面の溝に凸部が嵌ることによって脚の向きを正面に保っている。また、脚下げ時に、地上において不用意に脚が引き込まないように、脚の周囲にさまざまな形式のリング機構[注 3]が取付けられており、後述するダウン・ロック機構により固定される。その他に、脚操作のハンドルを地上ではロックして、離陸後にはロックを解除する安全スイッチ、脚のいくつかの支持部分をピンで固定するグラウンド・ロックなどがある。

引込装置の確実な動作は航空機にとって重要であり、脚部格納部の格納扉(ドア)の開閉も含めて多くの機体ではモーター駆動による電動式又は油圧による油圧式を採用しており、前者は主に小型機に、後者は主に大型機に使用されている。基本的には、操縦室にあるスイッチ又はレバー又はハンドルを操作すると、脚下げの場には、アップ・ロック[注 7]が解除され脚部格納部のドアが開き、その後、脚部格納部から脚が可動して下がり、完全に下がるとダウン・ロックが作動する。脚上げの場合には、ダウン・ロックが解除され脚が可動して上がり、脚部格納部に収まった後、脚部格納部のドアが閉まり、アップ・ロックが作動する。

脚とその格納扉のアップ・ロックとダウン・ロックにおいては、機械的な機構またはラッチ・シリンダーで作動するラッチ・フックにより行われる。操縦室には、脚位置指示器と脚警報装置が装備されており、脚位置指示器は、前述の機械的な機構またはラッチ・シリンダーで作動するスイッチの信号を受信することにより、脚の動きと位置を目視で確認でき、脚警報装置は、引込装置の脚が1本でもダウン・ロックされていない場合で、エンジンの出力を操作するスロットル・レバーをアイドル(アイドリングの状態にまで出力を下げる)にすると、ホーン音の警報と赤色の警報灯が作動する。また、引込装置には、脚下げの際に動力系統が故障した場合に備えて非常脚下装置が装備されており、油圧式は、操縦室に装備されたエマージェンシ・リリース・ハンドルを操作して、脚のアップ・ロックを解除して脚を自重により下げる方式と手動ポンプ又は電動ポンプを使用し、発生する油圧で強制的に脚を下げる方式があり、電動式は、手動ハンドルを回すことで脚を下げる方式が使用されている。

車輪に駆動装置はないが、主脚の車輪内にブレーキ装置を内蔵しており、自動車と同じく油圧式を使用している。ただ自動車とは違い、ブレーキ系統が左側の車輪用と右側の車輪用とで独立しており、そのため、ブレーキ・ペダルも左側と右側の2つあり、方向舵ペダルの上方に設置されている。また、大型機では、多くの量の作動油と高い圧力でなければブレーキが掛からない為、作動させる際にはエンジン駆動の油圧ポンプによる、油圧系統による高圧の作動油を使用した油圧式が使用される。またこの高圧の油圧系統は引込装置、操向装置、操縦装置なども作動させる。

地上走行中(タキシング)に使用される操向(ステアリング)の作動方式としては、前輪式の場合、小型機は、機械式が使用されており、方向舵ペダルの動きを、プッシュ・プル・ロッドで前脚支柱に取付けられたホーンに伝達し、緩衝装置のトルク・リンクを介して前輪を操作する。大型機は、油圧式が使用されており、操縦席にあるステアリング・ホイール又はハンドルを回すと、索を介して差動装置のコントロール・ドラムに伝達され、差動装置のコントロール・ドラムの動きがフォローアップリング機構の差動リングを介して、油圧系統のラインが繋がっている前脚操向のコントロール・バルブ[注 12]に伝達され、コントロール・バルブが作動すると、油圧系統からの高圧作動油がバイパス・リリーフ・バルブ]を介して、前脚支柱に取付けられている操向ユニット内のアクチュエータとの間で出入りを行いながら作動して、緩衝装置のトルク・リンクを介して前輪を操作する。尾輪式の場合は、方向舵と共に動く構造になっており、それによるステアリング機能か、左右の主脚のブレーキング差動によって行われる。また、古い時代の機体では、ステアリング機能もブレーキもついていない事があり、地上走行における方向転換は方向舵が受けるプロペラ後流の反動に頼っていた。

四国まんなか千年ものがたり(JR四国)特別急行列車・観光列車

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四国まんなか千年ものがたり(しこくまんなかせんねんものがたり)は、四国旅客鉄道(JR四国)が多度津駅 - 大歩危駅間を土讃線経由で2017年より運行している特別急行列車・観光列車である。


伊予灘ものがたりに続く四国で2番目の本格的観光列車として、2017年4月1日より運行を開始した。
「四国まんなか千年ものがたり」は、四国の中央部を走行し、沿線に善通寺や金刀比羅宮、平家落人伝説の祖谷など千年の歴史文化があることから命名された。
コンセプトは「おとなの遊山」。昔、徳島の子ども達は桃の節句などに弁当をもって野山に行く「遊山」と呼ばれる風習があった。その遊山を気軽に楽しめる列車旅として現代風にアレンジしたものが「おとなの遊山」である。車内は「日本のたたずまい」をコンセプトとした和のインテリアとなっており、香川・徳島の地元素材を使用した供食サービス、アテンダントによる観光案内やおもてなし、車窓からは吉野川・大歩危・小歩危の渓谷美が楽しめるようになっている。


多度津駅 - 大歩危駅間が観光列車運行区間に選定された理由として、予讃線の伊予灘沿い区間(愛ある伊予灘線)を走る伊予灘ものがたりが「海」をテーマとしていたため、次の観光列車は「山」「川」としたいと考えていたこと、阿波池田駅 - 大歩危駅間には1997年より「大歩危トロッコ」が運転されていたが、2015年春に琴平駅 - 大歩危駅間を運転する「土讃線秘境トロッコ」にリニューアルしたところ、個人客・団体客とも増加したこと、運転区間が香川県の「香川せとうちアート観光圏」と徳島県の「にし阿波〜剣山・吉野川観光圏」と隣接している2つの観光圏を通っていることから、観光圏をつなぐ観光列車の運行により新たな旅行需要の創出が期待できることがあげられている。

基本的に、毎週金曜・土曜・日曜と祝日に多度津駅 - 大歩危駅間で1往復運行されている。午前に運行する下り列車(多度津発)の愛称は「そらの郷紀行」で、そらの郷とは徳島西部の険しい山岳にある集落とその暮らしのことである。午後の上り列車(大歩危発)の愛称は「しあわせの郷紀行」で、金刀比羅宮のキャッチフレーズ「しあわせさんこんぴらさん」やあたたかい讃岐の里山のイメージなどから名づけられた。


特急列車、かつ全席がグリーン車指定席となっているため、利用には乗車券のほか、特急券・指定席グリーン券が必要である。但し、特急券・指定席グリーン券は琴平駅 - 大歩危駅間を含むことが発売の条件であり、多度津駅 - 琴平駅間のみの利用はできない。また、本列車では特急料金の乗り継ぎ通算制度は適用されない。
食事のサービスを受ける場合は、別途食事予約券が必要である。食事予約券はJR四国のほか、東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本)・九州旅客鉄道(JR九州)管内のみどりの窓口と一部の大手旅行代理店でも発売する。

停車駅
多度津駅 - 善通寺駅 - 琴平駅 - 大歩危駅
また、以下の駅でも運転停車を行い、駅によってはホームに下りることも可能。
「そらの郷紀行」は、讃岐財田駅・坪尻駅・阿波池田駅・三縄駅。
「しあわせの郷紀行」は、小歩危駅・阿波川口駅・阿波池田駅・坪尻駅・讃岐財田駅・金蔵寺駅。このうち、阿波川口駅ではホームで地元特産品の販売等を行う。
琴平駅には「四国まんなか千年ものがたり」利用者専用の待合室「ラウンジ大樹」があり、食事申し込み者のみウェルカムドリンクが提供される。


使用車両

キハ185系気動車を改造した3両編成が使用される。外観のデザインは四季の移ろいを表現しており、1号車「春萌(はるあかり)の章」は緑色、2号車「夏清(なつすがし)の章」は青色、反対側の「冬清(ふゆすがし)の章」は白色、3号車「秋彩(あきみのり)の章」は赤色を基調としている。車内も「日本のたたずまい」をコンセプトに、各号車ごとの外観デザインと合わせ、徳島県産杉など木材に包まれたインテリアとなっている。

編成
↑大歩危
1号車:キロ185-1001(←キハ185-14) - 定員24名。
2号車;キロ186-1002(←キロ186-4) - 定員11名(グループ席であり、原則3人以上でのみ発売)。このほか、カウンターでは飲食物やお土産などグッズ販売を行っている。
3号車:キロ185-1003(←キハ185-3102) - 定員22名。

185系
概要
種類 特急列車(臨時列車)
現況 運行中
地域 香川県の旗 香川県、徳島県の旗 徳島県
運行開始 2017年4月1日
現運営者 JR logo (shikoku).svg 四国旅客鉄道(JR四国)
路線
起点 多度津駅
終点 大歩危駅
使用路線 JR四国:土讃線
技術
車両 国鉄キハ185系気動車
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 非電化

 

 

高速船 和加

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「和加」は以前、広島ー今治間の高速船として活躍。現在は宇品港~江田島・切串間の高速船として25分で結び活躍しています。

高速船「和加」航海速力:21.0ノットはおよそフェリーの2倍の速度です。所属会社ファーストビーチは「瀬戸内シーライン」に社名を変更。船体も新しいカラーリングを施されました。

客船 広島~江田島(切串・小用)
IMO 船舶番号:127263
船籍:日本 船籍港:広島
総トン数:49トン
出力700馬力×2
速力24,0ノット
航海速力:21.0ノット
全長:21.83m 型幅:4.70m
旅客定員:96人 竣工年月:1984.08
船主:瀬戸内シーライン

 

 


大学前駅(近江鉄道本線)

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大学前駅(だいがくまええき)は、滋賀県東近江市布施町にある近江鉄道本線の駅。

隣接地の短大開校に合わせて1990年に開設された無人駅。


すぐそばにあるびわこ学院大学が駅名の由来である。

開校に合わせて1990年に開設された駅で利用者も学生がメインです。

本線の向かって東側に、単式1面1線のホームを有する無人駅である。
駅舎はなく、古い屋根やベンチを備えた程度の簡素な造り(待合所)となっている。ホーム待合所には木製長椅子が設置されています。また、駅前には清涼飲料水の自動販売機が2機置かれている。

駅構内施設は誘導ブロックのみでトイレもありませんが駅前に駐輪場はあります。

駅周囲は人家も少なく、閑散としています。

 

布引グリーンスタジアムの最寄り駅でもあり、イベントの開催時は利用客が当駅に集まる。

駅前に駐輪場があります。

駅周辺
西側を県道13号彦根八日市甲西線が並行して走っている。
周辺は田園地帯だが、東西に少し離れたところに住宅地がある。
びわこ学院大学
駅のすぐ前にあるが、大学独自で近江八幡駅前からスクールバス(所要時間18分)を運行しているため、利用者は分散している。
布引グリーンスタジアム(布引運動公園内、徒歩10分)
当スタジアムを本拠地とする地元のサッカークラブ・MIOびわこ滋賀の公式戦開催日には、鉄道の利用促進を目的として当駅でスタジアムの特別招待券の配布が行われることがある。
セブン-イレブン 八日市布施店
布施公園(徒歩10分)


1990年(平成2年)3月29日 - 開業。
2010年(平成22年)10月16日 - 布引グリーンスタジアムが開場。最寄り駅となる。

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 28.4km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 片式1面1線


乗車人員
-統計年度- 93人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1990年(平成2年)3月29日
備考 布引グリーンスタジアムへ徒歩10分

 

セスナ 172P Skyhawk

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セスナ 172P Skyhawk

アメリカのセスナ社が1956年(昭和31年)から生産した4人乗り軽飛行機で、性能を向上させるためにエンジンを交換しています。この機体は、新中央航空の所有機で、操縦訓練、遊覧飛行、写真撮影などに使用されていました。

1981年製造機から172P型となった。前機172NのエンジンのライカミングO-320-H2ADの信頼性の問題により、172Pは同じ位の定格出力160hpを発生させるライカミングO-320-D2Jに変更されて問題は改善された。172Pはフラップの設定角度の最大値が40度から30度に減らされ、最大離陸重量は2,300lb(1,043kg)から2,400lb(1,089kg)に増やされた。オプションで62ガロンのインテグラルタンクを選択できる。
販売価格は、普及型の「スカイホークP」が33,950米ドルで、アップグレード型の「スカイホークP II」が37,810米ドルであった。さらに、ナビゲーション・コミュニケーション統合通信機を装備した「スカイホークP II」が42,460米ドルで販売された。


1982年製造機から、着陸灯が機首から翼に移動され、また電球の寿命が長くなった。1983年製造機から機内騒音が改善され、キャビンの窓が厚くなった。1984年製造機からドアのロックがダブルロック式となった。
172P型機は1986年に製造が終了した。製造物責任法の問題に絡み、それ以降11年間もの間モデル172系列は製造される事はなかった。

セスナ スカイホーク(Cessna Skyhawk)は、4座席、単発プロペラ推進、高翼式の軽飛行機で、セスナ・エアクラフト・カンパニーが製造している軽飛行機である。


寸法諸元
全長:8.28 m (27 ft 2 in)
全高:2.72 m (8 ft 11 in)
全幅:11.0 m (36 ft 1 in)
翼面積:16 m2 (174 ft2)
ホイールベース:1.65 m (5 ft 5 in)
トレッド:N/A m (N/A ft)
室内高さ:1.22 m (48 in)
室内幅:1.00 m (40i n)
室内長:3.61 m (11 ft 10 in)
座席数:4
貨物重量:54 kg (120 lb)
貨物容積:0.85 m2 (30 cuft)

重量諸元
最大ランプ重量:1,160 kg (2,558 lb)
最大離陸重量:1,157 kg (2,550 lb)
最大着陸重量:1,157 kg (2,550 lb)
最大無燃料重量:N/A kg (N/A lb)
燃料重量:144 kg (318 lb)
燃料容量:201 L (53 gal)
運用自重:744 kg (1,641 lb)
有効積載量:416 kg (917 lb)
最大有償荷重:413 kg (911 lb)
最大燃料時有償荷重:272 kg (599 lb)

性能諸元
最大巡航速度:230 km/h (124 kt)
航続距離:1,185 km (640 nm)
離陸距離:497 m (1,630 ft)
離陸滑走距離:293 m (960 ft)
着陸距離:407 m (1,335 ft)
着陸滑走距離:175 m (575 ft)
実用上昇限度:4,267 m (14,000 ft)
海面上昇率:223 m/分 (730 ft/分)
超過禁止速度:302 km/h (163 kt)
失速速度:89 km/h (48 kt)

パワープラント
製造者:ライカミング・エンジンズ
型式:IO-360-L2A
出力:180 hp
プロペラ製造者:マコーレイ・プロペラ・システムズ
プロペラ形式:金属製2翼、固定ピッチ

 

古江駅(広島電鉄宮島線)

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古江駅(ふるええき)は広島県広島市西区古江新町にある広島電鉄宮島線の駅。広島学院中学校・高等学校の通学利用数が多い駅です。

当駅はホームが地面に接する地上駅という形態をとる。ホームは2面あり、2本の線路を挟み込むように配されているが、互いのホームは斜向かいに位置している。かつての高床ホームの関係で上屋は段違いの上屋の状態です。路線の起点から見て手前に広電西広島駅方面へ向かう上りホームが、奥に広電西広島駅方面へ向かう下りホームがあり、両ホームの間には踏切が置かれている。

駐輪所も設置されていますがホーム沿いに自転車が多数停められています。

周囲は住宅街で、中層住宅が多く見受けられる。北へ徒歩15分の距離には三輪明神広島分祠がある。

広島学院中学校・高等学校
広電バス 古江バスストップ
アバンセ古江店
JR古江駅(仮称)が建設予定と言われるが、未定

古江駅は、1922年(大正11年)に宮島線が開業した際に開設された。開業当時の路線は己斐町から草津町までの2.8キロメートルほどで、当駅は高須駅とともに線内に設けられた中間駅の一つだった。

1922年(大正11年)8月22日 - 宮島線の己斐町 - 草津町間開通時に開業。

『広島市統計書』によると、2015年度の年間乗車人員の総数は推計で1045千人であった。参考として、日数で除して1日当たりの平均乗車人員を算出すると2,855人となる。

駅番号 ●M22
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宮島線
キロ程 2.1km(広電西広島起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 2,855人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1922年(大正11年)8月22日

 

トヨタ・iQ(痛車 艦これ球磨)トヨタ自動車

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iQ(アイキュー)とはトヨタ自動車が販売していたコンパクトカーである。生産拠点はトヨタ・高岡工場(豊田市)。

Intelligence Quotient(知能指数)の略。
iQの「i」は「個性(individuality)」を表すと同時に、「革新(innovation)」と「知性(intelligence)」という意味をあわせもつ。また、「Q」は、「品質(quality)」を表現するとともに「立体的な(cubic)」という言葉の音と、新しい価値観とライフスタイルへの「きっかけ(cue)」という言葉に由来している。
GAZOO Racing tuned by MNの「MN」とは、「マイスター・オブ・ニュルブルクリンク(Meister of Nürburgring)を意味している。。

欧州の各メーカーがマイクロカー(Aセグメント)に力を入れはじめている現状に対するトヨタの回答のひとつとして、2007年9月、ドイツのフランクフルトモーターショーにて「iQコンセプト」を世界初出展したことがはじまりである。

外寸が2985mmx1680mmx1500mmと欧州圏で発売されている同社のアイゴ、あるいは日本の軽自動車よりも長さが400mm以上短く、コンセプトはあくまで「大人3人と子供1人または荷物の3+1シーター」[1]=「Compact, not compromised」= コンパクトではあるが我慢はないというものである。なお、開発は南フランスにあるトヨタの欧州デザインスタジオ、ED2(EDスクエア)が行った。

その後、東京モーターショーでもiQコンセプトが発表され、2008年3月のジュネーブモーターショーにおいては量産仕様を世界初出展。同年10月のパリサロンにおいては正式市販モデルが発表された。

販売期間 2008年11月 - 2016年4月
設計統括 中嶋裕樹
乗車定員 2人-4人
ボディタイプ 3ドアハッチバック
エンジン 1KR-FE型 1.0L 直3 DOHC
1NR-FE型 1.3L 直4
駆動方式 FF
最高出力 1KR-FE型 68ps/6000rpm
1NR-FE型 94ps/6000rpm
最大トルク 1KR-FE型 9.2kgfm/4800rpm
1NR-FE型 12.0kgfm/4400rpm
変速機 Super CVT-i
6速MT(130G MT"→(ゴー)"のみ)
サスペンション 前: マクファーソンストラット
後: トーションビーム
全長 2,985mm
3,000mm(すべての "→(ゴー)" グレード)
全幅 1,680mm
全高 1,500mm
ホイールベース 2,000mm
車両重量 890kg(1.0L車)
950kg(1.3L車)
後継 無し


球磨(くま)とは、大日本帝国海軍の軽巡洋艦、球磨をモデルにした艦娘だクマ。
語尾にクマが付くのが特徴。CVは佐倉綾音。比較的序盤から入手可能な軽巡洋艦娘の一人。4隻の妹。
球磨型の中でも重雷装艦に改装できない2隻(球磨・多摩)に共通する服装は白地の半袖セーラー服とショートパンツ。改二がある艦を除いた中では軽巡最強の火力・雷装・装甲があってとても強いクマ。それでいて燃費は天龍型を除いた軽巡標準グループなので遠征に行っても効率が良いと良い所ずくめ。改二がある艦と比べても対空や対潜とかの得意分野で敵わないだけで、全部負けてると言えるのは神通改二くらいのもの。茶髪ロングヘアーで大きくくね曲がったアホ毛が特徴。性格は不敵でちょっと自信家な所がある。

球磨型軽巡洋艦の1番艦であるが、同時に、大日本帝国海軍の八六艦隊計画に基づき建造された5500トン型軽巡洋艦(球磨型・長良型・川内型)の1番艦としての面もある。姉妹艦は多摩、北上、大井、木曽。
艦名は熊本県を流れる球磨川に由来する。
1918年に佐世保海軍工廠にて起工し、1919年に進水、1920年に竣工。図鑑における『ちょっと古いところもあるけど、頑張るクマー』という台詞はこの艦歴の古さに由来する。
9万馬力という高出力による36ノットという高速での航行を可能とし、さらに14cm砲を7門と53センチ魚雷連装発射管を4基備え、竣工当時としてはかなりの高性能艦であった。とはいえ、太平洋戦争当時には流石に老朽化は否めず、水上機の運用能力を付与する等の改装が加えられている。ただし、この改装の結果排水量が7000tまで増大したため、速力自体は低下している。それに加え、駆逐艦の性能が向上したこともあり、水雷戦隊の旗艦としては運用されていない(その任に就くことが多かったのは川内型だが、これは川内型が艦歴が浅く、優先的に近代化改装を受けていたことによる)。
その最期は1944年1月11日、マラッカ海峡付近で英海軍のツタンカーメン級潜水艦タリホーによる雷撃を受け沈没。5500トン型としては由良、神通、川内に次ぐ4隻目、球磨型としては最初の喪失艦となった。

尼子駅(近江鉄道本線)

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尼子駅(あまごえき)は、滋賀県犬上郡甲良町尼子にある近江鉄道本線の駅。

所在地甲良町の代表駅ですが、中心部からは大きく外れており、駅前に賑わいはありません。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。

以前は米原 - 八日市間で唯一の交換不能駅だったが、2003年に交換設備が設置されたうえ、新幹線側ののりばでは両方向の入線や出発可能で、列車の折り返しも行えるようになっている。

駅舎は木造、寺社デザインの駅舎。相前後して尼子コミュニティハウスとして2代目の駅舎が整備された。


終日無人駅。

ホームへは構内踏切で連絡します。又、ホームには米原方に短い上屋が設置されています。

改札口はラッチなど無く開放された通路の様相です。

待合室には数多くの木製の椅子とテーブルが設置されています。


駅構内施設としては待合室のほか列車接近装置、スロープ、誘導ブロック、トイレ、転落防止柵が案内されてます。


駅周辺
駅前に親水公園がある。
旧中山道
甲良町立甲良西小学校
甲良神社
古河AS
JA東びわこ厚生社配送センター
高虎公園

 

1911年(明治44年)6月1日 - 開業。
2002年(平成14年)11月5日 - 貴生川寄りに100m移転。


2003年(平成15年)11月3日 - 2代目駅舎開業。

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(湖東近江路線)
キロ程 12.7km(米原駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 島式1面2線
開業年月日 1911年(明治44年)6月1日

C11 64(国鉄C11形蒸気機関車)

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C11 64 - 京都府京都市「京都鉄道博物館」(2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定)

国鉄C11形蒸気機関車(こくてつC11がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が1932年(昭和7年)に設計した過熱式のタンク式蒸気機関車である。

概要
老朽化した種々雑多な支線・区間運転用機関車群の代替用として、1930年に設計されたC10形の改良増備車として設計・製造された軸配置1C2の小型タンク式蒸気機関車である。

開発経緯
1920年代の国鉄では、第一次世界大戦終結後の日本経済の低迷と、特に都市部での並行私鉄線や自動車の台頭などの事情から、旅客・貨物輸送ともに輸送単位の縮小や列車運行回数の高頻度化が求められるようになっていた。

そこでその要請に応えるべく、C51形やC53形といった大型制式蒸気機関車の新製投入で余剰となった、6200形などの鉄道国有化以前に製造された軸配置2Bのテンダー式蒸気機関車を改造した軸配置2B1などのタンク式蒸気機関車を、支線区運用や都市部の区間運転などに充てることとした。だが、それらの車両は改造の時点で製造から既に20年前後が経過しており、改造後10年を経ずして老朽化のために休車扱いとなる車両が発生するなど、その状態は思わしくなかった。また種車の形式が種々雑多で構造や交換部品の仕様などが完全には統一されておらず、保守作業の規格化という観点からも望ましくなかった。

都市部での旅客列車の高頻度・高速運転については、当時地方私鉄を中心に実用化が進みつつあったガソリンカーなどの内燃機関を動力とする気動車も選択肢の一つであり、1929年(昭和4年)には鉄道省初の制式ガソリン動車であるキハニ5000形が製造されている。だが、これは搭載機関出力の非力さや設計面での未熟などが重なって、これらの老朽タンク機関車による旅客列車を代替するには全く不十分なものであった。

そこで制式テンダー機関車ではもっとも小型であったC50形を基本としつつ、支線区の輸送需要を考慮して一回り小型化し、炭水を無補給で50kmから60km程度の距離を走行可能とする[1]石炭庫と水タンクの搭載、それにそれらの重量の変化による動軸重の変化を抑制するために2軸従台車を付加する形[2]で、国鉄としては1917年(大正6年)の4110形最終増備グループ以来13年ぶりとなる、新設計の制式タンク機関車が作られることとなった。

その先駈けとなったのは鉄道省の島秀雄を主務設計者として鉄道省・国内機関車メーカー各社によって共同設計され、1930年に製造されたC10形である。これは主として都市部に配置され、短区間の折り返し運転による快速列車運用などで好評を博した。だが、このC10形は性能面では概ね満足な成績が得られたものの、従台車を2軸台車としたにもかかわらず動軸重が13tを超過し、軸重制限の厳しい丙線以下の支線区への投入には適さないという問題があった。そこでこの新型タンク機関車の本格量産にあたって、C10形に続き1931年(昭和6年)に設計されたC54形で得られたノウハウを盛り込んで設計をさらに見直し、特に薄鋼板部品の接合に折から実用化が急速に進みつつあった電気溶接を採用するなど、新技術を積極的に導入して軽量化を図ることで、動軸重を13t以下に抑えることになった。

この新型機関車はC10形の続番としてC11形という形式が与えられ、C10形に引き続き島秀雄を主務設計者として設計作業が行われた。

本形式では水タンク・石炭庫・運転室など薄鋼板を使用する部分について構造の見直しと工作法の工夫が行われ、これにより運転整備重量をC10形比で約5パーセントの削減となる66.05t、動軸重で最大12.5tの範囲内に収め、C10形と比較して入線可能線区を大幅に拡大することに成功した。

本形式は不況期の輸送需要減少を背景として開発された機種であるがコンパクトで使い勝手がよく、戦時中に貨物輸送能力の増強用として支線区を中心に投入されたこともあり、その総数が381両に達するという、国鉄近代型制式蒸気機関車の中でも有数の成功作となった。また、その設計で得られた知見はC54形の後継機種となるC55形の設計にフィードバックされ、国鉄最後の新設計制式蒸気機関車となったE10形まで引き継がれており、その面でも大きな成功を収めた形式である。

構造
C50形のものよりボイラバレル径をやや太く、そして全長を短く再設計した2缶胴構成の過熱式ボイラーを、肉厚圧延鋼板を切り抜いて加工・組み立てした主台枠に搭載する。

ボイラーの火床面積は1.6平方mで、基本となったC50形のものより若干小さいが、ほぼ同等の面積を確保している。

過熱器はC10形と同じ4段構成であるが、最上段を4列、それ以外を6列としていた同形式とは異なり、4段とも6列構成として性能向上を図っている。

シリンダ構成は一般的な単式2気筒、弁装置は鉄道省で標準的に採用されていたワルシャート式で、動輪径は総重量・ボイラー寸法などから8620形やC50形などで採用されていた1,600mmより5パーセント小さい1,520mmとされた。

先台車の復元装置はC50形で初採用されたエコノミー式が踏襲され、従台車は外側軸受支持による釣り合い梁式2軸ボギー台車を備える。

操作性については、扱いよい機関車であったが、蒸気が逃げてスタートが悪くなることもときどきあった。

製造
1932年から1947年(昭和22年)までの16年間に381両が汽車製造会社、川崎車輛、日立製作所、日本車輌製造の各社により生産された。生産時期によって1 - 4次までのバリエーションがある。C10形に比べると溶接部分が多く、ボイラーの過熱器がC10形と比較して2基増強され、除煙板(デフレクター)が装備されているなどの特徴がある。

また、民間向けに製造されたものも少なくなく、11社へ計20両が納入されているが、いずれも概ね同時期の国鉄向けに準じた仕様となっている。

紀勢中線(旧新宮鉄道)に新製配置された当時のC11 98(2次形)。ボイラー側面に細長い円筒形の重見式給水加熱装置が装着され、ねじ式連結器を備える。(1938年3月、紀伊勝浦機関庫)
紀勢中線(旧新宮鉄道)に新製配置された当時のC11 98(2次形)。ボイラー側面に細長い円筒形の重見式給水加熱装置が装着され、ねじ式連結器を備える。(1938年3月、紀伊勝浦機関庫)
C11 75(2次形)
C11 75(2次形)
C11 189(3次形)
C11 189(3次形)
C11 292(4次形)
砂箱と蒸気ドーム被いが角形のままで現存する1両。
C11 292(4次形)
砂箱と蒸気ドーム被いが角形のままで現存する1両。
1次形 (C11 1 - 23)
本形式の基本型で、ボイラー側面の重見式給水加熱装置と、第1缶胴上に設けられた蒸気ドーム、それに惰行時にバイパス路を自動開放してピストンがポンプ作用で加減弁から蒸気を吸い出そうとするのを防ぐ、自動バイパス弁[4]の搭載が特徴である。2次形の一部まで取り付けられていた重見式給水加熱装置は期待した性能を発揮できなかったため、戦後間もないころまでに撤去され、同じく2次形の途中まで搭載されていた自動バイパス弁も動作が思わしくなかったことから1940年(昭和15年)ごろまでにすべて撤去された[4]。
2次形 (C11 24 - 140)
アーチ管が取付けられ、1次形では第2缶胴上にあった砂箱と蒸気ドームの位置が互いに入れ替わった。これは、下り勾配で缶水が前方にいった場合に、蒸気ドーム内に缶水が入る恐れがあったため、その対策として行われた。
3次形 (C11 141 - 246)
貨物列車牽引に対応し、軸重増加を図るべく水槽容量を増大したため、側水槽の下端が運転室床面より低くなり、背部炭庫の上辺が水平となった。重見式給水加熱装置は、最初から取付けられていない。
4次形 (C11 247 - 381)
資材と工数を節約した戦時設計機で、除煙板は木製となり、砂箱と蒸気ドーム被いは工作の容易化のために角形(かまぼこ形)となった。後年の装備改造で3次形までと同様の形態に改められたものが多いが、砂箱と蒸気ドーム被いは原形のまま残ったものがある。

民間向けの同形機
前述のとおり、内地・外地合わせて11社へ20両が納入されている。

京南鉄道(朝鮮)
25 - 1935年・日立製作所(製造番号624)
26 - 1936年・日立製作所(製造番号725)
日本炭鉱高松鉱業所(以下の2両は、除煙板を装備していなかった)
C1101 - 1941年・日立製作所(製造番号1578。発注者は日産化学)
C1102 - 1943年・日立製作所(製造番号1741。発注者は日本鉱業)
松尾鉱業
C118 - 1942年・日立製作所(製造番号1260) → 1952年譲渡・雄別鉄道C118(1970年廃車)
樺太人造石油→帝国燃料興業 内淵鉄道
C111 - 1942年・日立製作所(製造番号1396)ソ連接収後の消息不明
C112 - 1944年・日立製作所(製造番号1783)同上
宇部油化工業
101 - 1944年2月・日立製作所(製造番号1648) → 1947年譲渡・江若鉄道「ひら」 → 1950年改番・C112 → 1953年5月譲渡・三岐鉄道 C111 → 1955年1月譲渡・羽幌炭礦鉄道 C111(1970年12月廃車)
内淵人造石油(樺太)
4 - 6 - 1944年・日本車輌製造(製造番号1257 - 1259)ソ連接収後の消息不明
東武鉄道
C112 - 1945年・日本車輌製造(製造番号1290。奥多摩電気鉄道発注。1963年廃車)
雄別炭礦尺別専用鉄道 - 砂箱が角形、蒸気ドームが丸形、除煙板も角張った戦時形
C1101 - 1944年7月・日本車輌製造(製造番号1331) → 1944年11月譲渡・三菱鉱業大夕張鉄道(1972年9月30日廃車。長島温泉SLランドに保存後解体)
江若鉄道
「ひえい」 - 1947年・日本車輌製造(製造番号1423) → 改番 C111 → 1957年譲渡・雄別鉄道(埠頭線)C111 → 1970年譲渡・釧路開発埠頭C111
三井鉱山芦別鉱業所専用鉄道→三井芦別鉄道
C11-1 - 3 - 1947年・日本車輌製造(製造番号1475 - 1477) → 1950年8月10日移動  、1953年9月6日移動・三井鉱山砂川鉱業所奈井江専用鉄道
同和鉱業片上鉄道
C11-101 - 1947年5月・日本車輌製造(製造番号1474)1968年10月29日廃車
C11-102・103 - 1949年・川崎車輛(製造番号3191・3192)1968年4月1日廃車
運用
最初は主に西日本の都市近郊や主要支線で使用された。近畿地方の快速列車を牽引した際には特急と張り合う俊足ぶりを発揮した[注 6]。やがて活躍の場を広げてほぼ全国各地に配属され、主にローカル線の列車牽引に使用された。気動車が普及するにつれて余剰となり始め、1960年(昭和35年)ごろから少しずつ廃車が出たが、貨物列車用や入換用として蒸気機関車の末期まで数多く残った。

本形式による優等列車運用への充当例としては、現役時代も終わりに近づいた1965年(昭和40年)10月から1968年(昭和43年)9月にかけて、肥前山口駅で長崎発着編成と佐世保発着編成を分割併合して運行されていた寝台特急「さくら」(2001・2002レ)の佐世保発着編成のうち、佐世保線早岐 - 佐世保間8.9kmの牽引に抜擢されたのが最も良く知られている。

これは早岐駅の立地と構内配線の制約から、肥前山口から早岐を経て佐世保に至るルートで直通列車を運転する場合には列車を早岐でスイッチバックさせる必要があったが、早岐以東の本務機であるDD51形を同駅で機回しする所要時間に比して早岐と佐世保の間の運転所要時間が短く、かといって「さくら」の20系客車は機関車を最後尾とした推進運転に対応していなかったことから、機関車の付け替え時間の節減を図って当時早岐機関区に配置され佐世保・大村の両線で運用されていた本形式を早岐 - 佐世保間の牽引機に起用したものである。

この「さくら」では1965年10月から1966年(昭和41年)9月まで、自重軽減のため[注 9]電動発電機とパンタグラフを撤去したカニ22形を正規電源車とする基本編成が佐世保発着編成に割り当てられていたが、その後はマヤ20形簡易電源車を含む付属編成に割り当て変更となっている。

なお、ヘッドマークは本務機に装着されたままとなっていたため、本形式には基本的にヘッドマークは装着されないことになっていたが、実際には、鉄道雑誌の取材などに応じた際に予備のマークを背面に装着したり、機関車を方向転換して正面向けにして、マークを装着して運転するなどのサービスをすることが時折あった。

1970年(昭和45年)10月14日から1971年(昭和46年)6月25日まで、無火ながらC11 91が「日立ポンパ号」の先頭を飾り、全国各地の駅で展示された。

譲渡
動態保存用を除く本形式の払下げは、雄別鉄道への3両とラサ工業宮古工場専用鉄道への1両 (C11 247) 、三井鉱山奈井江専用鉄道への1両 (C11 226) の計5両が存在する。

雄別鉄道へは、C11 65が1961年(昭和36年)、C11 127が1962年(昭和37年)、C11 3が1964年(昭和39年)に国鉄から払下げられ、江若鉄道からのC11 1、松尾鉱山鉄道からのC11 8とともに5両体制で1970年の廃止まで貨物列車の牽引用に使用された。

保存機
動態保存機
小型で運転線区を選ばず扱いやすいことや、比較的に維持費が安く済むことから2016年(平成28年)現在、1両が運用を離脱したものの日本の動態保存中の蒸気機関車としては最多の5両が各地で保存運転を行なっている。

静態保存機
国鉄を代表する蒸気機関車の一つであるC11形は廃車後、全国各地で静態保存された。このうちC11 1は青梅鉄道公園に、C11 64は京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に保存されている。また、動態保存機として復活していたC11 312も保存されている。

また、ニュース番組などで「新橋のSL広場前から…」と言うことがあるが、その新橋駅SL広場にあるのはC11 292である。

C11 64 - 京都府京都市「京都鉄道博物館」(2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定)

運用者 鉄道省→日本国有鉄道
製造所 汽車製造・川崎車輛
日立製作所・日本車輌製造
製造年 1932年 - 1947年
製造数 381両
愛称 Cのチョンチョン
主要諸元
軸配置 1C2
軌間 1,067 mm
全長 12,650 mm
全高 3,900 mm
機関車重量 66.05 t(運転整備時)
動輪上重量 36.96 t(運転整備時)
動輪径 1,520 mm
軸重 12.40 t(第3動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 450 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2
後に15.0 kg/cm2
ボイラー水容量 3.8 m3
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3,200 mm×24本
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3,200 mm×87本
火格子面積 1.60 m2
全伝熱面積 103.0 m2
過熱伝熱面積 29.8 m2
全蒸発伝熱面積 73.2 m2
煙管蒸発伝熱面積 63.2 m2
火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 3.00 t
水タンク容量 6.8 m3
制動装置 自動空気ブレーキ
最高運転速度 85 km/h
最大出力 783 PS
定格出力 610 PS

スクリーン駅(近江鉄道多賀線)

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スクリーン駅(スクリーンえき)は、滋賀県彦根市高宮町にある近江鉄道多賀線の駅である。

SCREENホールディングス彦根事業所の敷地内に存在する。駅名にある企業の敷地内という珍しい立地の駅です。

SCREENホールディングス彦根事業所敷地内で2007年12月から近江鉄道・多賀線の新駅設置工事を進め2008年3月15日に「スクリーン」駅として開業しました。


大日本スクリーン製造(現・SCREENホールディングス)が、従業員の通勤の利便性を目的として駅の設置を近江鉄道に要望し、約1億円の設置費用を提供して設けられた。

「スクリーン」駅は一般の方々の利用も可能なほか、開業と同時に「彦根」—「多賀大社前」間の直通列車が増便されました。


近江鉄道では企業従業員の利便性を図った駅として他にも京セラ前駅やフジテック前駅が存在するが、当駅のみ駅名に「前」がつかない。

単式ホーム1面1線の地上駅。駅舎はコンパクトにまとまった機能的な平屋のコンクリート造駅舎です。駅係員は朝の通勤時間のみ平日の8:00 - 10:00に配置される。

待合室には木製の長椅子が設置されています。

利用客の大半は通勤客なため駅前の駐輪場は小さい。

駅周辺
SCREENホールディングス彦根事業所
ブリヂストン彦根工場
マルホ彦根工場

 


2007年(平成19年)12月5日 - 着工。
2008年(平成20年)3月15日 - 開業。土田駅が1953年に廃止されて以来、54年5か月ぶりの多賀線の中間駅となった。

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■多賀線(彦根・多賀大社線)
キロ程 0.8km(高宮駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
乗車人員
-統計年度- 355人/日(降車客含まず)
-2013年-
開業年月日 2008年(平成20年)3月15日[1][2][3][4]




カモフ(Ka-26)ヘリコプター

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Ka-26(Ка-26)は、ソビエト連邦のカモフ設計局が開発したヘリコプター。二重反転ローターを有する双発ピストンエンジンの機体で、後年発展型としてエンジンをターボシャフトエンジンとした双発機Ka-226と単発機Ka-126が製造された。NATOコードネームはフードラム(Hoodlum、ちんぴら)。

1964年1月、小型双発ヘリコプターの開発が開始された。農業型と輸送型が開発されることになり、1965年8月15日には初飛行した。1965年秋にはモスクワの航空ショーで公開され、 1966年には国際農業機械博覧会(International Agricultural Equipment and Machinery Exhibition)で金賞を受賞、1967年のパリ航空ショーでも展示された。本格的な運用は1970年代に入ってからとなった。

1968年から1979年まで生産され、後継機としては1986年に初飛行したKa-126(不採用)を経て、1990年代に開発されたKa-226が生産されている。


二重反転式ローターを、胴体上部両側面のスタブウイング先端にポッド式で取り付けた2基のヴェデネーエフ M-14V-26ピストンエンジンで駆動する。機体はモジュール式となっており、コクピットのある機首の後方に各種のモジュールを組み込む形式であった。テイルローターを使用しないテイルブームには、水平尾翼と垂直尾翼を有する。
ガラス張りの機首にはパイロットが搭乗し、降着装置は機首とスタブウイング下方に固定されている。テイルブームにプラスチックを使用するなど構造材に占めるプラスチックの比率が約30%に達し、GRPを使用して25kgと軽量化されたローターを採用したソビエト連邦の機体であった。

5つの世界記録を樹立し、その中には1700kg以上3000kg以下の分野での上昇高度5330mや上昇率51秒/3000mも含まれている。

当時のソビエト連邦製ヘリコプターとしては例外的に西側諸国でも導入され、FAAの認証を取得した唯一のヘリコプターでもあった。

モジュールを組み替えることで多種の用途に適用する事が可能であり、農業、救急、救難、輸送、旅客、練習などに幅広く用いられた。

1970年代に広く導入された農業型はKa-15の後継機であり、搭載量が3倍に及ぶものであった。モジュールとしては、農薬散布機、噴霧器、播種機等が用いられた。

乗客用モジュールを組み込んだ場合の定員は7名。6人乗りのモジュールと機首の副操縦席を使用するものである。

輸送機としては、輸送用モジュールを組み込むか、フックを使用して吊り下げることで運用された。

救急搬送用ユニットを組み込んだ場合、担架2台、座席2席に加えて担当者が搭乗可能であった。沿岸部で救難用としても用いられ、降着装置として膨張式のフロートが追加された他、フックによる救命ボートの牽引もテストされた。

小型であることから漁船や砕氷船などへの搭乗も考慮され、魚群観測機としての運用試験が行われたり、森林火災への消火隊員派遣、凍結した河川表面の破壊等の任務にも用いられた。

主に民間向けの機体であるが軍用機としても採用され、ハンガリーやブルガリアでは輸送機や偵察機として用いられた。

諸元

乗員: 1
定員: 2+(モジュールに依存)
ペイロード: 900kg
全長: 7.75m
全高: 4.04m
ローター直径: 13m
翼型: 二重反転式ローター
空虚重量: 1,950kg+(モジュールに依存)
運用時重量: 3,076kg(旅客)、2,980kg(農業)
最大離陸重量: 3,250kg
動力: ヴェデネーエフ M-14V-26 ピストンエンジン、242.5kW × 2
性能

最大速度: 170km/h
巡航速度: 150km/h(最高)、90 - 110km/h(通常)
フェリー飛行時航続距離: 1,200km
航続距離: 400km 巡航時間3時間42分
実用上昇限度: 3,000m

 

 

西国街道(草津・船板壁)

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西国街道とは江戸時代に、京都と下関を結ぶ山陽道を、広島藩では「西国街道」と呼んでいました。当時の五街道(東海、中山道、日光道、奥州道、甲州道)に次ぐ規模を誇り、道幅は2間半(約4.5メートル)もありました。今も、往時をしのぶ歴史的な建造物が点在しています。近世山陽道の別名である。また、西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、山陽路(さんようじ)などとも呼ばれる。

京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。

また、狭義の西国街道として同街道の内、西宮〜下関までの区間、あるいは同じく京〜西宮までの区間を指すこともある。


昔、草津は軍の港につかわれたので「軍津」と呼ばれ、それが「草津」になったといわれます。

草津は千年以上もの歴史をもつ町で、いわれのある社寺が多数あります。

まちの中を西国街道が通っており、江戸時代には間宿が栄え、広島藩(一時期は三次藩)の専売品などの積み出しを取り締まる番所や、浜田藩の船屋敷も置かれるなどにぎわっていました。

また、かき養殖も盛んな地域であり、大阪に向けた「かき船」が評判を得て風物詩ともなり、広島のかきを有名にしました。


船板壁
往古漁業の町として栄えた草津には、廃船になった船板を家の外壁や塀に利用した家屋が多くありましたが、現在は何軒かになってしまいました。 船は永年海水に浸かっており、固くて虫が付きにくく、腐りにくい利点があるところに目を付けた先人の知恵でしょう。また、廃船をリサイクルしたものでもあります。 船板壁には、現在では見られなくなってきている平釘も散見できます。

草津町(くさつちょう)はかつて広島県佐伯郡に存在した町である。1889年(明治22年)の町村制発足時には「草津村」として設置されたが、1909年(明治42年)町制を施行して草津町となり、1929年(昭和4年)4月1日、広島市に編入合併して消滅した。

中世
中世の草津村は古江村(のちの古田村)を村域に含んでおり(慶長年間頃まで)、近隣の己斐村・山田村・井口村と同様、厳島神社の社領(荘園)であった。戦国時代には、当初、厳島社神主家配下の羽仁氏が草津城を拠点にこの地を支配しその後大内氏・陶氏の勢力圏に入った。1554年(天文23年)以後は毛利氏支配下となり、水軍の将である児玉氏が毛利の防長移封まで3代にわたって草津を統治した(詳細は草津城参照)。入江や干潟に富んだ地形は早くからこの地に港を発達させることになり、城の南にある草津湊(くさつみなと / 草津漁港の前身だが埋め立てにより現在は沖合に移転)は毛利水軍の基地になるとともに米・塩などの荷揚げ、厳島社への参拝や瀬戸内の島々への渡船場として賑わい、村には町屋が形成された。

近世
藩政期、草津は広島城下の外港としての役割を果たし、浜田藩(松平氏)の船屋敷が一時設置されていたこともある。また街道筋に位置する草津城址には城下町の西端を示す大門が設けられた。広島およびその近辺の水産物の集散地でもあり、延宝年間以降はカキの養殖が盛んになり、仁保島・江波などと並ぶ特産地となった。さらに沖合に広がる遠浅の干潟では早い時期から新開地の造成が行われた。

近代
1870年(明治3年)、沖合に造成された広大な庚午新開は、1889年の町村制発足により佐伯郡草津村が設置されると、その全体が村域に編入された。1909年(明治42年)には町制が施行され草津町と改称した。新開地である庚午がサツマイモ・大根などの栽培が盛んな野菜の産地であったのと対照的に、草津では住民の多くが水産物の漁獲・加工・販売などに従事していた。1922年(大正11年)には広島瓦斯電軌(現・広島電鉄)宮島線が己斐から草津まで延長され駅が設置された。そして1929年(昭和4年)の広島市編入に至る。

マーズ・エクスプロレーション・ローバー(無人火星探査車)

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マーズ・エクスプロレーション・ローバー(英語: Mars Exploration Rover, MER Mission)は、2003年にアメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げた、火星の表面を探査する2機の無人火星探査車(マーズ・ローバー)である。2機のローバーはそれぞれスピリット(MER-A)、オポチュニティ(MER-B)と名付けられている。

当初の計画では、ローバーの運用期間は3か月であったが、幾度もミッションが延長された。オポチュニティは2018年1月24日時点で火星到着から実に14年が経過しているが、今もなお探査を続けている。スピリットも2010年3月に通信が途絶するまで6年間にわたり探査を実施した。

マーズ・エクスプロレーション・ローバー・ミッションは、1975年と1976年のバイキング着陸船、1997年のマーズ・パスファインダーに続く、NASAの火星探査プログラムの一つである[1]。火星に2機の無人探査車を送り込み、火星表面の地質を詳細に探査し、岩石や土壌を微視的に分析することで、火星に水が存在したことを証明するのがミッションの当初の主要な目的であった。ローバーの探査活動により、過去の火星に液体の水が普通に存在したことや、酸性の湖が存在したことを示す証拠が発見され、この命題は肯定的に解決された。その後ミッションに新たな目的が与えられ、2014年時点でのMERの主要な課題は、(2012年に火星に投入された探査車マーズ・サイエンス・ラボラトリーと共に)火星に生命が存在する可能性について調査することである。

 

火星表面の岩石および土壌を広範囲にわたって分析し、火星に水があった痕跡を発見する(沈積、蒸発、熱水活動など、水が関与して生成された岩石の存在を確認する)。
着陸地点周辺の鉱物、岩石、土壌の空間分布の調査。
着陸地点周辺の地史(水や風による侵食、堆積、火山活動、小天体の衝突などの履歴)の解明。
火星軌道上の探査機がこれまでに得てきた観測成果を、火星表面において再検証し、観測精度を向上させる。
鉄を含む鉱物を定量的に分析し、含水鉱物や水由来の無機物を発見する。
火星表面にある岩石や土壌の結晶構造や鉱物学的特徴を明らかにし、それらの生成過程を解明する。
火星表面に液体の水が存在した時代の環境条件を解明する。火星の環境が生命活動に適しているか評価する。
このミッションは、NASAジェット推進研究所 (JPL) のプロジェクトマネージャ、ピーター・サイジンガーと、コーネル大学の天文学教授である主任研究者スティーブ・スクワイヤーズによって進められた。ローバーの製作、発射、着陸および90日間の初期ミッションの運用にかかった総費用は8億2000万米ドル、第4次延長ミッションまで含めると9億2400万米ドル。

2003年
6月10日17時59分:デルタ IIロケットに搭載されたスピリットが打ち上げられる。
7月7日15時18分:オポチュニティが打ち上げられる。
2004年
1月3日4時35分:スピリットが火星のグセフ・クレーターに着陸。なお、スピリットの着陸後1週間で、NASAのウェブサイトの閲覧回数は今までのミッションを遥かに上回る17億回を記録し、データ転送量(サイトを見た人が画像や動画をダウンロードした量)は34.6テラバイトにも達した。
1月24日1時5分:オポチュニティが、火星の反対側にあるメリディアニ平原に着陸。
1月21日:ディープスペースネットワーク (DSN) とスピリットとの通信が途絶えた。探査機はデータのない信号を転送したが、この後に予定されていたマーズ・グローバル・サーベイヤーとの通信セッションの機会を逃してしまう。
1月22日:JPLがスピリットから異常を示すビープ音を受信することに成功する。
1月23日:フライトチームがスピリットからデータを返送させることに成功する。通信途絶の原因は、初めはオーストラリアにある地球局付近の悪天候によるものと考えられていたが、調査の結果、ローバーに搭載されているフラッシュメモリのサブシステムに問題があることが分かった。スピリットは一切の探査を休止し、10日間をかけてソフトウェアのアップデートとテストを実施した。フラッシュメモリの再フォーマットを行い、メモリの使いすぎを修正するパッチを当て、この問題を解決した。オポチュニティも、これと同じ修正パッチによってソフトウェアのアップグレードが行なわれた[3]。
2月5日:スピリットが活動を再開。
3月23日:NASAは記者会見を開き、火星表面上で過去に水が存在したことを決定づける証拠を発見した、と発表した(これは「主要な発見」と報道された)。科学チームの代表団は、オポチュニティが着陸したメリディアニ平原のクレーター内部にある岩石の露出部分で発見した、流水の痕跡を示す階層パターンの画像およびデータを公表した。また、ここで発見された塩素と臭素の不規則な分布状態は、現在では蒸発した塩水の海岸線の跡ではないかと考えられている。
4月8日:第1次ミッション延長。NASAが探査機の任務期間を3ヶ月間から8ヶ月間に延長することを発表。事業でかかる数ヶ月あたりの280万ドルと同様に、予算の拡大は1500万ドルの追加を交えて9月までに提供された。
4月30日:オポチュニティがエンデュランス・クレーター(英語版)に到着。到達までには5日かかり、走行距離は200mであった。
9月22日:第2次ミッション延長。NASAが探査機の任務期間を6ヶ月延長することを発表。この頃、オポチュニティはエンデュランス・クレーターを離れ、着陸時に投棄した耐熱シールドの横を通過し、ビクトリア・クレーター(英語版)に向かっていた。一方、スピリットはコロンビア・ヒルズの頂上への登山を試みていた。
2005年
4月6日:第3次ミッション延長。2つの探査車が正常通り機能している最中、NASAは2006年9月までの18カ月の追加ミッションを発表した。その頃オポチュニティはエッチド・テレインに到達し、スピリットは岩の多い斜面を進みながらハズバンド・ヒルへの登頂を試みていた。
8月21日:スピリットは4.81キロメートルの走行に581火星日かかった後、ハズバンド・ヒルに到達した。探査機操作担当のクリス・リーガーによれば、ミッション開始時はスピリットとオポチュニティが保障期間の90日間を超えて作動することは予想されなかったし、コロンビアヒルズへの到達は「まさしく夢」であったそうだ。またローバーの調査主任、スティーブ・スクワイヤーズは「火星は寒冷で乾燥しているゆえ、アルミ製のローバーはさびることがない。ほとんど変化のない火星表面で、何百万年も存在し続けるだろう。人類が作った何よりも長く」と述べている。
2006年
9月:第4次ミッション延長(2007年10月まで)。
2007年
7月4日:オポチュニティによるビクトリア・クレーターの探査が決定。
9月11日:オポチュニティ、ビクトリア・クレーターに降下開始。
10月1日:第5次ミッション延長(2009年まで)。
10月2日:オポチュニティ、ビクトリア・クレーター内で調査開始。
2008年
9月2日:オポチュニティ、ビクトリア・クレーターから脱出。
2009年
5月1日:スピリットはトロイと呼ばれる緩い砂地を通過しようとした際に車輪が砂にはまり、身動きがとれなくなる。
2010年
1月26日:NASAはスピリットの砂地からの脱出を断念。以後静止観測を行うとした。
3月22日:この日を最後に、スピリットとの通信が途絶。
2011年
5月25日:スピリットとの通信が幾度も試みられたものの回復する見込みがなく、NASAはスピリットの運用終了を発表した。
2013年
5月15日:NASAは、オポチュニティの累計走行距離が35.760 km に達したと発表した。1972年12月にアポロ17号の宇宙飛行士が月で運転した月面車の総走行距離35.744 kmを上回り、NASAの地球外探査車の最長走行距離の記録を樹立。
2014年
1月24日:オポチュニティ着陸10周年。
7月28日:NASAは、オポチュニティの累計走行距離が40 km に達したと発表した。ソ連の月面車ルノホート2号の総走行距離 39 km を上回り、地球以外で最も長い距離を走行した探査車になった。
2015年
3月23日:NASAは、オポチュニティの累計走行距離が、フルマラソンと同じ42.195 km に達したと発表した。

ローバーは6輪式で全高 1.5 m (4.9 ft)、全幅 2.3 m (7.5 ft)、全長 1.6 m (5.2 ft)、太陽電池を電源とする。重量は 180 kg (400 lb)、車輪と懸架装置は 35 kg (80 lb) 。

駆動システム
ローバーはロッカー・ボギー式の懸架装置に6つの車輪を備える事によって優れた走破性を備えている。この設計はローバー本体の動揺を半減させ、車輪の直径(250 mm / 10 inches)よりも大きな穴や溝を越える事が可能である。車輪にはクリートがあり、軟らかい砂地を登ったり岩石を越えたりするのに十分なグリップ力を確保する。

個々の車輪にモーターがある。前の2輪と後ろの2輪は個々の旋回モーターを持つ。これによりその場で旋回が可能である。ローバーはどの方向でも傾斜角45度までは転倒しない設計で、さらにソフトウェアで設定された「障害回避限界」により、傾斜角が30度を超えないように障害物を回避する。ローバーは他の車輪を固定したまま、前輪を一つだけ回転させる事によって地面を掘る事が出来る。最高速度は平坦地で 50 mm/s (2 in/s) である。ソフトウェアが地形を認識するために10秒から20秒毎に停止する必要があるので、平均速度は 10 mm/s (36 m/h) である。

電源・電子機器
ローバーには、最大140 W の発電能力を有する太陽電池モジュールと、2個のリチウムイオン二次電池(1個あたり7.15 kg)が搭載されている。ローバーの走行には100 W 程度の電力が必要である。太陽電池が最大出力を得られるのは1火星日あたり4時間程度で、1日あたりの発電量は約300 - 900ワット時。ただし、火星特有の砂嵐が発生すると日光が遮られ、発電量が1日あたり100ワット時を下回ることもある。

火星大気には砂塵が多量に含まれており、それが太陽電池パネルに降り積もるため、探査開始から90火星日後には発電量が1日あたり50ワット時程度に落ち込むと見積もられていた(探査機の運用期間が90火星日に設定されていたのはこのためである)。ところが、積もった砂塵が強風や塵旋風により吹き払われることが度々発生し、幸運なことに発電量はあまり低下せず、結果としてミッションは10年以上の長期にわたって延長されている。


CPU:RAD6000(クロック周波数 20 MHz)
主記憶装置:128 MB DRAM(誤り検出訂正機能付き)
補助記憶装置:256 MB フラッシュメモリ、3 MB EEPROM
OS:VxWorks 組み込み用OS
火星は非常に寒冷な環境であり、電力を消費することなく機器を保温するため、ローバーにはプルトニウム238の崩壊熱を利用した原子力発熱装置(RHU)が8個搭載され、さらに胴体部をシリカエアロゲルの断熱材と、金をスパッタリングした遮熱シートで覆っている(電気ヒーターも補助的に用いられる)。この対策により、ローバーの主要な電子機器の温度はマイナス40℃から40℃の間で保たれる。

通信機器
ローバーには2種類の通信アンテナが搭載されている。一つは無指向性のXバンド低利得アンテナで、NASAのディープスペースネットワークに属する各地球局と低速で直接通信する。もう一つは、火星軌道上の探査機を中継衛星として利用するためのXバンド高利得アンテナで、低利得アンテナよりはるかに高速で地球と通信できる。ローバーは火星到着以降、2001マーズ・オデッセイ、マーズ・グローバル・サーベイヤー、マーズ・リコネッサンス・オービターとの衛星通信を介して、地球に大量の観測データを送り続けている。

観測機器
ローバーの観測機器は、動物の頭部のようなパノラマカメラ取付マスト(PMA)と、腕のような観測機器展開装置(IDD、通称「ローバー・アーム」)に集中して取り付けられている。ローバー・アームは人間の腕のように動かすことができ、アームの先端に備えられた各種の計測機器を調査対象の岩石などに、ちょうど人間が手を伸ばすように接近させることができる。

パノラマカメラ取付マスト(PMA)
パノラマ画像撮影カメラ(Pancam)
カラー撮影が可能な2台のカメラ。ローバー周辺の高精細画像を撮影し、地形の調査、地質学的特徴の解析に使われる。
走行用カメラ(Navcam)
2台のモノクロ広角カメラ。ローバーの走行や操作に使う。
小型熱赤外線分光計(Mini-TES)
赤外線の放射スペクトルを測定することで、岩石の組成の調査や、火星大気の温度を測定する。開発担当はアリゾナ州立大学。
胴体部
危険回避カメラ(Hazcams)
ローバー胴体の前部に2台、後部に2台取り付けられている。
ローバー・アーム
メスバウアー分光計 MIMOS II(MB)
ガンマ線を使用した分光計で、岩石に含まれる鉄の状態や磁性を測定する。開発担当はヨハネス・グーテンベルク大学マインツ。
αプロトンX線分光計(APXS)
α線やX線を岩石に照射し、岩石を構成する元素の種類や量を測定する。
磁石
分光計の測定対象となる、鉄を含む塵や砂を捕獲する。開発担当はニールス・ボーア研究所。
顕微鏡カメラ(MI)
岩石の微細構造を観察するための高解像度カメラ。開発担当はアメリカ地質調査所(USGS)。
岩石研磨装置(RAT)
岩石の内部を露出させるための研磨装置。風化した岩石表面を削り取り、新鮮な断面を分光計などで分析する。Honeybee Robotics製。
その他の搭載物
2機のローバーの岩石研磨装置に、アメリカ同時多発テロ事件により倒壊したワールドトレードセンターの瓦礫から切り出した金属片が搭載されている。
スピリットのXバンド高利得アンテナの裏面に、コロンビア号空中分解事故で殉職した宇宙飛行士7名を追悼するプレートが貼り付けられている。

フェラーリ・488GTB

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フェラーリ・488GTB
488GTBは、イタリアの自動車メーカー、フェラーリが製造・販売しているスポーツカーである。

概要
488GTB
488GTBは、2015年1月31日 (イタリア現地時間) に、まずフェラーリが「謎の新型車」を予告するというかたちで情報が公開されるところから始まった。最初に情報が公開された時点では、新型車のキーワードとして「デザイン (DESIGN) 」という語が示されただけであった。

次いで、新型車が夜道を走行する動画が公開された。この動画が公開された時点で一部の自動車専門雑誌などでは、458イタリアをベースとし、大幅な改良が加えられた「458M」となる可能性や、「F12ベルリネッタ」に合せて新たに「F8」というネーミングになる可能性、さらにカリフォルニアTにて搭載されたターボチャージャー搭載の可能性が取り沙汰された。

そして2月3日 (現地時間) に、458イタリアの改良型であることや、車名を「488GTB」と改めることなどが公式に発表された。車名の488は一気筒あたりの排気量を表し、GTBはGranTurismo Berlinetta(グランツーリスモ・ベルリネッタ)の略である。

488GTBはスタイリング、車名とともに、かつての308GTBを彷彿とさせるものとなっている。そして、2015年3月に開幕したジュネーヴ・モーターショーにて、改めて正式に一般公開された。

488スパイダー
2015年9月に開催されたフランクフルトモーターショーにて488スパイダーが発表された。日本では同年10月23日に初公開された。アルミ製のトップを採用し構造は458スパイダーのそれを踏襲している。458スパイダーは走行中の開閉はできなかったが488スパイダーは時速45キロまでは開閉が可能となった。

488チャレンジ/488GT3
2016年12月には、フェラーリのコルセ・クリエンティ部門の主催で世界各国で開催されるワンメイクレースである「フェラーリ・チャレンジ」向けのレース専用車輌「488チャレンジ」が、アメリカ合衆国のデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開催されたフィナーリ・モンディアーリで発表された。2017年初めより世界各国のユーザーに納入され、同年4月にアブダビで開催されたアジア・パシフィック選手権の開幕戦においてレースデビューした。

 

また、FIA 世界耐久選手権や、「ブランパンGTシリーズ」や「SUPER GT」など、各国で開催されるGT選手権に参戦するために「ミケロット・アウトモビリ」の協力を得て開発された、レース専用車輌の「488GT3/GTE」も同部門より販売されている。

なおこれらのレース専用車輌は、ナンバー取得(=一般道での走行)ができないサーキット専用車輌であり、「488チャレンジ」は、「フェラーリ・チャレンジ」に参戦する意向があり、国際C級ライセンスを所持したオーナーのみに、また「488GT3/GTE」は、レーシングカーの整備施設が整えられ、かつGTマシンでのレース参戦の実績のあるレーシングチームにしか行われない。

メカニズム
488GTBは、V型8気筒3902ccの488GTB専用に開発されたIHIツインスクロールターボチャージャーを搭載[5]。458イタリアより600ccダウンサイジングされたものの、100PSの出力アップとなった。なおターボ搭載車は現行モデルでは「カリフォルニアT」に続いて2台目である。

車体のデザインは従来フェラーリのデザインを手掛けたピニンファリーナではなく、「ラ・フェラーリ」同様フェラーリ社内のデザインセンターが手掛けている。両ドアはサイドに設置されたインテークへの吸気流量が最大に採れるようにと大きくえぐられた形状となり、そのサイドインテークはカーボンの板により空気は仕切られ上段がエンジンに導かれ、下段がインタークーラーに導かれる構造である。
製造国 イタリアの旗 イタリア マラネロ(モデナ)
販売期間 2015年 -
デザイン フェラーリ・スタイリング・センター
フラビオ・マンツォーニ
乗車定員 2名
ボディタイプ 2ドアクーペ
エンジン TipoF154型 3,902 cc V型8気筒DOHCツインターボ
駆動方式 MR
最高出力 493kW(670ps)/8,000rpm
最大トルク 760Nm(77.5kgfm)/3,000rpm
変速機 7速DCT
サスペンション 前後:ダブルウィッシュボーン
全長 4,568mm
全幅 1,952mm
全高 1,213mm
ホイールベース 2,655mm
車両重量 1,370 kg (乾燥時)
最高速度 330 km/h以上
先代 458イタリア

福崎駅(JR西日本)播但線

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福崎駅(ふくさきえき)は、兵庫県神崎郡福崎町福田字中溝にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。線内中間駅では最大の利用者数を誇る主要駅で、特急「はまかぜ」を含む全列車が停車し、折返し列車も多数設定されています。

 

駅構造
単式・島式の複合型2面3線のホーム。木造駅舎を持つ地上駅である。駅舎は単式の1番のりば側にあり、島式の2・3番のりばへは跨線橋で連絡している。1番のりばが上り本線、2番のりばが下り本線、3番のりばが上下副本線となっている。主に1番のりばと2番のりばが使われるが、一部姫路駅 - 当駅間の区間列車が設定されており、3番のりばで折り返す。

停車する普通列車は、ドア横の開閉ボタンで乗り降りする。

当駅は駅長が配置された直営駅であり、管理駅として播但線内のすべての中間駅(起点の姫路駅と終点の和田山駅は除く)を管轄している。

改札口上にはLED式行き先表示があります。切符売場に旧型のボタン式券売機が2台。みどりの窓口が設置されている。独立した待合室が設置されています。以前あったキオスクは撤退しています。

のりば
のりば 路線 方向 行先 備考
1 J 播但線 上り 姫路方面 一部3番のりば
2・3 下り 寺前・和田山方面


3番のりばは当駅始発の姫路行きと寺前方面行きの一部の普通列車が使用する。なお、定期ダイヤでは当駅で特急を先に通す列車は設定されていない。臨時の「はまかぜ」が運行される場合、当駅 → 寺前駅間で9時台の普通は時刻変更になり、3番のりばに停車する。また、平日朝の姫路発7時台のうち1本(2017年9月現在ダイヤ)寺前行きは当駅の3番のりばで前後2両を分割、前2両が寺前行き、後2両が当駅始発姫路行きとなる。切り離し作業が行われる関係で停車時間が長く設定されている。2016年3月16日の改正で、姫路発21時台に当駅止まりが設定された。


駅前には客待ちのタクシーが常駐しています。

駅周辺
中国自動車道福崎インターチェンジ
福崎町立神崎郡歴史民俗資料館
柳田國男・松岡家顕彰会記念館
二之宮神社秋祭り
近畿医療福祉大学
中小企業大学校関西校
もちむぎのやかた - 福崎町特産のもちむぎを原料につくられた、もちむぎ麺が賞味できるほか、特産品の、もちむぎ商品の展示・販売を行っており、もちむぎ麺の製造工程も見学できる。


利用状況
「兵庫県統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗車人員は1,736人である。

1894年(明治27年)7月26日 - 播但鉄道が姫路駅 - 寺前駅間で開業すると同時に設置。旅客・貨物の取扱を開始。
1903年(明治36年)6月1日 - 播但鉄道が山陽鉄道に営業譲渡。山陽鉄道の駅となる。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道国有化により、国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1973年(昭和48年)4月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1996年(平成8年)3月16日 - 特急「はまかぜ」が3往復になるとともに、停車駅に追加される。
2016年(平成28年)3月26日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。


所属路線 J 播但線
キロ程 17.1km(姫路起点)
電報略号 フサ
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 1,736人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1894年(明治27年)7月26日
備考 直営駅(管理駅)
みどりの窓口 有

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