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J3 ターボジェットエンジン(日本ジェットエンジン)

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J3とは石川島重工業(現IHI)、富士重工業、富士精密工業、三菱重工業、川崎重工業の5社が共同出資して設立した日本ジェットエンジン(NJE)によって開発されたターボジェットエンジン。


日本初のジェット練習機であるT-1 中等練習機は、搭載するターボジェットエンジンもまた国産品であることが、当初から望まれていた。エンジンは機体の開発とほぼ同時に進められることとなったが、1955年(昭和30年)5月に、T-1搭載の試作エンジンXJ3への要求が防衛庁から寄せられ、12月には庁議でエンジン試作が決定し、翌1956年(昭和31年)3月末にNJEと防衛庁でエンジン試作の契約を行った。

エンジンの設計、開発はほぼ順調に進み、6月末には試作1号機(XJ3-3)が完成した。しかし、11月からの試運転では至るところで故障、破壊が相次ぎ、問題は山積みとなった。12月には初号機が防衛庁に納入されたが、庁内でもやはり問題が相次ぎ、使い物になるにはおよそ2年半を費やした。その間、T-1(T1F1)本体はXJ3よりも1年早く開発し出したことから、1957年(昭和32年)に完成しており、J3が使い物にならないため、英ブリストル社製オーフュースを搭載したT1F2が初飛行した。

XJ3がまだ一向に量産に至らず、だからといって防衛計画をエンジンの都合でずらせるはずも無かったため、トラブル続きのJ3に待ちきれなくなった防衛庁はオーフュースを輸入して搭載させた。また、同時に完成したとしても、試作機に試作エンジンを載せることは不具合が起きた場合にどちらが原因かわからない、ということも考えられていた。T-1量産第一期の20機には間に合わず、第二期の20機にも間に合わず(これらは試作機6機とあわせてT-1Aとなった)、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。

小型エンジン開発にも手間取っている様子から、NJEには途中で通産省の行政指導によって川崎も参加した5社体制になっていたが、その5社の首脳によって1959年(昭和34年)初頭、NJEの今後について話し合いが持たれた。防衛庁がXJ3改めJ3エンジン生産の責任をはっきりさせるため、寄り合い所帯で曖昧になりやすいNJEから一社に集約し、品質やコストを保証していく体制を要求したのである。

J3は防衛庁が50基程度を発注することとしていたが、それはメーカーにとって膨大な赤字が伴うことであった。開発が長引いたために開発費が暴騰し、量産台数が少ないために一基あたりの単価は開発費を上乗せすると非常に高価になるが、ブリストルからの購入を打ち切ってJ3にするためには、性能が落ちる以上、価格が安いから、という理由にしなければ、ブリストル側を納得させることはできなかった。そのためJ3は購入価格が抑えられ、膨大な赤字を出すわけである。

5社によって様々な話し合い、駆け引きが行われたが、結局は石川島重工業に製造権を渡し、各社が協力する、という形で収まった。実質、この時点で4社はJ3に見切りをつけ、ジェットエンジンから手を引いた事になる。年内に開発を正式に引き継いだ石川島重工業は、試作XJ3の各種の試験と改善を行い、量産先行機YJ3-3を7月に完成させた。翌1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併した石川島重工業はIHIとなり、同年にYJ3-3をT1F2の試作1号機に搭載(オーフュースから転換)し、T1F1として5月17日に初飛行させた。J3の量産はIHIに引き渡され、NJEは解散した。1961年(昭和36年)に防衛庁によって制式採用され、J3-3となった。

50基を受注したはずのJ3だったが、F-104戦闘機の導入によって教導飛行方針が転換され、T-1の配備数を削減することから、第三期分の20基で生産終了してしまった。IHIはその後もJ3の改良開発を行い、1967年(昭和42年)から海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機(川崎製)の補助エンジンとしてJ3-7C/Dが採用された。

 

エンジンの設計、開発はほぼ順調に進み、6月末には試作1号機(XJ3-3)が完成した。しかし、11月からの試運転では至るところで故障、破壊が相次ぎ、問題は山積みとなった。12月には初号機が防衛庁に納入されたが、庁内でもやはり問題が相次ぎ、使い物になるにはおよそ2年半を費やした。その間、T-1(T1F1)本体はXJ3よりも1年早く開発し出したことから、1957年(昭和32年)に完成しており、J3が使い物にならないため、英ブリストル社製オーフュースを搭載したT1F2が初飛行した。

XJ3がまだ一向に量産に至らず、だからといって防衛計画をエンジンの都合でずらせるはずも無かったため、トラブル続きのJ3に待ちきれなくなった防衛庁はオーフュースを輸入して搭載させた。また、同時に完成したとしても、試作機に試作エンジンを載せることは不具合が起きた場合にどちらが原因かわからない、ということも考えられていた。T-1量産第一期の20機には間に合わず、第二期の20機にも間に合わず(これらは試作機6機とあわせてT-1Aとなった)、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。

小型エンジン開発にも手間取っている様子から、NJEには途中で通産省の行政指導によって川崎も参加した5社体制になっていたが、その5社の首脳によって1959年(昭和34年)初頭、NJEの今後について話し合いが持たれた。防衛庁がXJ3改めJ3エンジン生産の責任をはっきりさせるため、寄り合い所帯で曖昧になりやすいNJEから一社に集約し、品質やコストを保証していく体制を要求したのである。

J3は防衛庁が50基程度を発注することとしていたが、それはメーカーにとって膨大な赤字が伴うことであった。開発が長引いたために開発費が暴騰し、量産台数が少ないために一基あたりの単価は開発費を上乗せすると非常に高価になるが、ブリストルからの購入を打ち切ってJ3にするためには、性能が落ちる以上、価格が安いから、という理由にしなければ、ブリストル側を納得させることはできなかった。そのためJ3は購入価格が抑えられ、膨大な赤字を出すわけである。

5社によって様々な話し合い、駆け引きが行われたが、結局は石川島重工業に製造権を渡し、各社が協力する、という形で収まった。実質、この時点で4社はJ3に見切りをつけ、ジェットエンジンから手を引いた事になる。年内に開発を正式に引き継いだ石川島重工業は、試作XJ3の各種の試験と改善を行い、量産先行機YJ3-3を7月に完成させた。翌1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併した石川島重工業はIHIとなり、同年にYJ3-3をT1F2の試作1号機に搭載(オーフュースから転換)し、T1F1として5月17日に初飛行させた。J3の量産はIHIに引き渡され、NJEは解散した。1961年(昭和36年)に防衛庁によって制式採用され、J3-3となった。

50基を受注したはずのJ3だったが、F-104戦闘機の導入によって教導飛行方針が転換され、T-1の配備数を削減することから、第三期分の20基で生産終了してしまった。IHIはその後もJ3の改良開発を行い、1967年(昭和42年)から海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機(川崎製)の補助エンジンとしてJ3-7C/Dが採用された。

主要各型解説
J3-3:T-1B用の量産型エンジン
XJ3-S1〜S3:燃焼器短縮型試作エンジン
XJ3-G:抽気用エンジン、飛行艇用吹き出しフラップの予備実験等の様々な実験に使用された
XJ3-F:アフトファンを装着し試作されたターボファンエンジン
J3-7B:推力増大型エンジン、T-1B-10用に量産
J3-7C:P-2J用量産型エンジン、耐食性を向上
J3-7D:P-2J用量産型エンジン、7Cの推力増大型
YJ3-8:推力増大型試作エンジン
XJ3-A/B・I:XJ3-3にアフターバーナーを追加した試作エンジン
YJ3-A/B・II:YJ3-7をベースに、固定ノズルであったXJ3-A/B・Iに対し、F-86D用の可変ノズルを改修し装着した試作エンジン

圧縮機:軸流8段圧縮機
燃焼器:アニュラー型燃焼器
タービン:軸流1段タービン
J3-IHI-3

長さ:2,330 mm
幅:852 mm
高さ:962 mm
重量:374 kg
圧縮比:4.2
推力:1,200 kg
J3-IHI-7B

重量:390 kg
圧縮比:4.5
推力:1,400 kg
J3-IHI-7C

長さ:2,080 mm
幅:630 mm
重量:380 kg
推力:1,400 kg
J3-IHI-7D

圧縮比:4.6
推力:1,550 kg/3,400 lb


J3と関連するジェットエンジン
ネ20 - 第二次世界大戦末期に石川島重工業が開発に協力した日本初のターボジェットエンジン。
JRシリーズ - J3-3型をベースに試作開発されたリフトジェットエンジン。
F3 - 1970年代に始まる防衛庁とIHIの共同研究から生まれたターボファンエンジン。
FJR710 - 産学官連携で研究が進められてきた高バイパス比ターボファンエンジン。
J3と関連する人物
永野治 - 戦前にネ-20の開発に参加し、J3を完成に導いた技術者


高速AGT(三菱重工業)

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“Super AGT”は従来の新交通システムの約2倍に相当する 120km/hの最高速度を実現する車両である。高速化によって都市と都市、または郊外と都市中心部とを短時間で直結することが可能になり、従来の新交通システムの役割を大幅に拡張することができると期待されている。 AGTとしては新たな速度域へのチャレンジであるため、新時代を予感させる新しいフォルムを目指した。デザインテーマは”Aero Crystal”。
新次元へ向かってゆくのカプセル移動体をイメージし、三菱重工のAGTアイデンティティであるクリスタルシェイプと融合させた。

ボディとガラスはウインドフレームレスのフラッシュサーフェイスとし、ドアも表面を大型ガラスで覆うことでボディとの一体感を与えている。

室内も外観に合わせて心地よいカプセル感を演出。先頭部には自動運転ならではのパノラマビューシートを配置し、移動そのものを楽しめる空間としている。

交通システムは、路線計画の自由度の高さと環境負荷の低さから都市部のフィーダー線(枝線)や空港の路線で海外でも幅広く導入されています。
 今回開発した「高速新交通システム」は、120km/時の最高速度を達成したことにより、乗り換えなしに都市部と郊外がつながることになり、通勤客をはじめ多くの利用者に、より高い利便性を提供。

開発した“高速新交通システム”開発車は1両単車構成であるが,車両の編成はオプションで,2両,4両,6両と自由な構成が可能な設計となっており,導入される路線に最適化した車両運用を提案できる。

外観は最高速度120km/時を意識し,空気抵抗の低減に配慮しスピード感あふれる洗練されたエクステリアデザインとした。内装については,全自動無人運転システムとして快適な高速走行のスピード感を味わえるクロスシートレイアウトと,通勤電車としてより多くの乗客が快適に過ごせるロングシートレイアウトの2種類を選択でき,都会的センスに満ちたインテリアデザインとした。

従来の新交通システムの約2倍に相当する 120km/時の最高速度を全自動無人運転システムで可能とするため,車両の開発は多岐に渡った。特に開発のキーとなったのは,走る・止まる・曲
がるといった車両の主機能を有する“台車”である。“高速台車”の開発ポイントは,安全性・高速での乗り心地・経済性である。
安全性については,高速からのブレーキでも十分な制動力と熱容量を有するブレーキシステム
を新規に開発した。次に,高速での乗り心地については,路面へのタイヤ追従性を良くする懸架装置を新たに採用した。経済性の面では,運行保守コストの大きな比重を占める走行ゴムタイヤについて,高速走行を考慮しながら,一方で,消耗交換時の経済性を追及し,市販のトラック・バス用規格タイヤを使用できる設計を行った。
高速走行時でも,軌道側に設置された電車線から,安定した集電を可能とする新型集電装置の採用や,案内軌条に沿って走る案内輪の大型化などの改良を実施している。

現在,“高速新交通システム”車両は,三原製作所内(広島県三原市)の総合交通システム検証施設“MIHARA 試験センター”にて各種走行試験を順調に実施している。コンピュータを活用した各種強度解析や運動シミュレーション,また,単品機器のシャーシダイナモ試験などに加えて,“MIHARA 試験センター”にて実運用に近い条件での実証走行により,新技術,新システムの早期の実用化を推進している。また,お客様の要求仕様,適合規格に沿ったデータ取得,評価も可能となっている。

合わせて“高速新交通システム”の開発・設計・検証においては,第三者機関による安全性評
価を並行して行い,より安全なシステムとする開発プロセスを導入している。
当社は,空港向け APM(Automated People Mover)を“Crystal Mover(クリスタルムーバー)”ブランドで,都市内向け AGT(Automated Guideway Transit)を“Urbanismo(アーバニズモ)” ブランドで米国,アジア,中東など広範囲に展開しており,世界の新交通システムの市場でトップを争うポジションを確立している。

ゴムタイヤ式新交通システムの従来からの優れた特徴はそのままに,従来の約2倍に相当する
120km/時の最高速度を持つ“高速新交通システム”を開発した。今回の高速化により,東南アジアをはじめ新興国での急速な経済発展に伴う都市部の交通渋滞ほか諸問題に対して,“高速新交通システム”をより有効なソリューションとして提案していとのことである。

 

 

 日本の新交通システムを空港向けAPM(Automated People Mover:全自動無人運転車両)や都市内向けAGT(Automated Guideway Transit:自動案内軌条式旅客輸送システム)として「Crystal Mover(クリスタルムーバー)」ブランドで米国、アジア、中東など広範囲に展開しており、世界の新交通システム市場でトップを争うポジションを確立しています。
車両

自動案内軌条式旅客輸送システム(じどうあんないきじょうしきりょきゃくゆそうしすてむ、AGT : Automated Guideway Transit)とは、小型軽量車両が自動運転により専用軌道上の案内軌条に従ってゴムタイヤで走行する中量軌道輸送システムの一種である。三菱重工業では、都市向け AGT とは別に海外・空港向け車両を全自動無人運転車両 (APM : Automated People Mover) と呼称する。
日本では、「新交通システム」の名称が広まると同時期に多く普及したシステムであるため、AGT そのものを「新交通システム」と呼称することが多い。三菱重工業では、2015年より「AGTの時代」として「新交通システム」ではなく正式名称の「AGT」で呼称することを提案し名称の普及を進めている。

普通鉄道や地下鉄では輸送量過多であり、路面電車 (LRT) やバスでは輸送力不足である場合の中間の公共交通機関として誕生した。他の中量軌道輸送システムと大きく異なる点は、コンピュータ制御により無人の自動運転を行う前提で開発が進められており、建設費も少なく安価に導入できる輸送システムとして日本を含めた世界で発達した。世界各国で同時に開発が行われたシステムであるため、多くのシステムが存在する。最大輸送力は、1時間・1方向当たり約 3,000 - 20,000 人程度である場合が多いが、実際は建設する路線によって前提の輸送力は異なる。
法規上は鉄道事業法の「鉄道(案内軌条式鉄道)」または軌道法の「軌道(案内軌条式)」となるが、いずれか一方の法規に基づいている場合のほか、道路占用や開発事業(主に港湾地区)に係る補助金などの関係で、1つの路線に両方の法規が混在している場合も少なくない。また、都市計画法の定める都市施設では、AGT は都市計画道路のうちの「特殊街路」に分類される。
運営を行う鉄道事業者は、第三セクターが行うものがほとんどである(ほかに地方公営企業(公営交通 = 交通局)による路線が2例、純民間企業による路線が2例存在する)。全線が完全立体交差の専用軌道上を走行し、なおかつコンピュータ制御による運行のため、安全性が高く、人身事故やヒューマンエラーが発生しにくい。そのため、開業以来無事故記録を持つ鉄道事業者が多く存在する。また、専用軌道であること、ゴムタイヤで走行すること、コンピュータによる自動運転であることなどにより、駅間距離が短い路線にも対応でき、なおかつ従来の輸送システム以上に定時性に優れた高頻度運転が可能である。路線によっては1分単位の運用がされる場合もある。また、急行列車や快速列車などの運行にも対応している。
また、技術的にも無人運転を前提に開発されたことから、無人運転の導入が容易で労務コストが低減、地下鉄に対して運転費を半分以下に抑えることが可能。加えてその近未来的なイメージが大都市近郊の自治体などに注目され、普通鉄道よりも簡易な公共交通機関として、郊外や港湾地域に造成されたニュータウンやオフィス街などの通勤・通学の足として建設が進んだ。現在では日本以外でも多く採用され、世界の大規模空港内の無人運転の旅客輸送システムとしても活躍している。開発は近年になっても続けられており、高速運転やより廉価に導入できる車両の開発などが進められ、先進国のみならず発展途上国への普及が期待されている。
AGT の長所
小型軽量車両を用いるため建設費を抑えることができ、曲線半径の小さい曲線でも走行が可能。
普通鉄道や路面電車 (LRT) に比べて占有する敷地面積が狭く、過密な都市内や幹線道路上にも高架橋などを建設することが可能。
モノレールとは異なり、路線に並行して避難用通路が併設されているため、車輌故障や災害時の乗客避難経路が確保されている。
ゴムタイヤを使用するため、走行による外部への騒音や振動が少ないほか、乗り心地が向上する。
ゴムタイヤの摩擦力の大きさを活かし、急勾配路線の走行が可能。空転が発生しにくく雨や風に強い。
ゴムタイヤを使用するため、バスと同様に高加速・高減速が可能。短い駅間距離でも対応可能。
普通鉄道のような架線が上部空間に無く、沿線の美観を損ねにくい。
コンピュータによる無人での全自動運転が可能。労務コストの削減が図れるほか、高頻度運転が可能。
AGT の欠点
踏切は作れず、高架橋か地下トンネルの完全立体交差となるため、路面電車や BRT に比べると建設費が嵩む。
ゴムタイヤの負担過重が鉄車輪と比べて小さく、車両の収容力は普通鉄道より小さい。
ゴムタイヤの転がり抵抗が鉄車輪と比べて大きく、動力費が嵩む。
ゴムタイヤの摩耗が鉄車輪と比べて早く、交換費用による維持費が嵩む。
普通鉄道との互換性がなく、乗り入れや設備・部品等の流動性があまりない。
高架構造物の荷重制限のため定員乗車が規定される。

 

日本で初めて導入された一般人でも乗車可能な AGT 路線は、1972年(昭和47年)3月の京成電鉄が経営していた谷津遊園(千葉県習志野市)である。ベースシステムは「VONA」で、園内約 380m の周回コースで試験運転として開始され、遊具の一部として運行されていた。1975年(昭和50年)7月20日より開催された「沖縄国際海洋博覧会」では、「KRT」や「CVS」をベースシステムとした路線が建設された。これらの試験運転等を元に技術の開発や改良などが加えられ、実用化に向けて進められた。同年には AGT が「新交通システム(ガイドウェイシステム)」として都市モノレール法に基づく公的補助の対象となり、各地に登場する AGT の幕開けとなった。
本格的に実用化された、つまり日本初の恒久的な実用路線は、1981年(昭和56年)に開業した神戸市の神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)である。この路線を皮切りに、日本各地でも多くの路線の建設が始められた。日本語ではない AGT の名称は親しみを持たれにくいことから、各路線ごとにそれぞれ愛称がつけられている。旅客案内上でもこの愛称で案内される場合が多く、AGT や新交通システムとして案内されることはない。また、同様の理由からこのシステムを総称する名称として「新交通システム」が使用されることが多い。1983年(昭和58年)3月、日本交通計画協会が発表した「新交通システムの標準化とその基本仕様」により標準規格が定められた。標準化されるまではそれぞれの路線が独自の方式で設計されていた。基本仕様の決定により量産生産やシステムの低廉化を図り、AGTの導入を容易にしたため、その後多くのAGT路線が建設された。
2008年(平成20年)の東京都交通局日暮里・舎人ライナーを最後に、新規路線の建設は日本国内では行われていない。人口減少等により新規路線の建設が活発に行われていないことが大きな原因であるが、LRTやBRTなどの他の交通システムに対する助成制度が制定されたことも原因の一つである。一方、国外では現在でも多くの新規路線の建設が開始されている。開発を終了したメーカーも少なくないが、三菱重工業では現在も開発が続けられており、高速運転が可能な「Super AGT」や新型台車の開発、新興国向けにコスト半減した車両の開発などが行われており、2014年にはアメリカ・フロリダ州の主要空港すべてに AGT(APM) が導入されることが決定するなど、以後の導入も世界各国で期待されている。

河辺の森駅(近江鉄道本線)

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河辺の森駅(かわべのもりえき)は、滋賀県東近江市建部下野町にある近江鉄道本線の駅。

南東約1kmの建部北町にある河辺いきものの森への最寄り駅として開設された請願駅である。

2004年に開業した新設駅です。利用者は少なく普段は閑散としています。

1面1線の無人駅である。

平屋のコンクリート造り駅舎内には待合室とバリアフリー対応トイレ(男女別)が設けられ、屋根には太陽光発電装置が取り付けられている。 車イス用スロープあり。

コンクリート打ち放しの待合室には長椅子やお知らせ掲示板があります。

半地下部分に駐輪場が併設されています。

ホームの幅は比較的広く、点字ブロックもあります。列車接近装置が設置されています。

駅入口からはバリアフリー完全対応の緩いスロープで駅舎に連絡しています。


駅周辺
周辺は田園風景が広がる。駅前にはビオトープが造られている。
苗村神社
河辺いきものの森 ネイチャーセンター


2004年(平成16年)3月13日 - 開業

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(湖東近江路線)
キロ程 23.0km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 片式1面1線
乗車人員
-統計年度- 13人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 2004年(平成16年)3月13日

OPS-39対水上捜索レーダー(掃海艇ゆげしま)

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OPS-39はOPS-9日本無線(JRC)による発展型として海上自衛隊の自衛艦において、対水上捜索レーダーとして搭載された。おおむね機雷戦艦艇に限定されて配備。導波管スロット・アンテナ。

スロット・アンテナ
スロットアンテナは、無線通信用アンテナの一種である。超短波以上の周波数において用いられる。導波管にスロット(細長い切り抜き)を設けた形と、金属板にスロットを設けた形がある。
艦艇の対水上レーダーなど、2次元レーダーで見かけることが多いタイプが、スロット・アンテナ。四角い断面を持つ導波管(電磁波が中を通る管)、あるいは金属板を水平に設置して、一方の側面にスロットを開ける。そのスロットを設けた側からだけ電波が出入りする。スロットの長さは、使用する電波の波長の半分。外からスロットは見えない。

導波管によるスロットアンテナ
構造は、水平に設置した、断面が方形の導波管の側面に、1/2波長の間隔でスロットを設けたものである。スロットは垂直方向からわずかに(15度以下)傾斜しており、隣接するスロットはそれぞれ傾斜が逆向きになっている。スロットによって導波管の表面を流れる電流が断ち切られ、その部分に電界が生ずる。スロットの傾斜により、隣接するスロット同士で電界の垂直成分を打ち消しあうので、全体として電界の水平成分だけが重ね合い、導波管に垂直な方向に鋭い指向性が得られる。給電は導波管の中央部からも、一端からも行うことができる。

導波管
導波管(どうはかん、英語: waveguide)とは、主に光を含む電磁波の伝送に用いられる構造体のことをいう。広義では光ファイバーなども導波管の一形態であるが、狭義では中空導波管を指す。マイクロ波通信などで用いられる導波管。

 

 

MIHARALiner(GENKI君)能勢電鉄1500系電車(阪急2000系電車)

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阪急2000系電車(はんきゅう2000けいでんしゃ)は、阪急電鉄(以下「阪急」)が1960年から神戸線・宝塚線(神宝線)用として製造した通勤形電車である。

本系列の直流600V・1,500V複電圧対応型である2021系電車(電装解除後は2071系)、宝塚線用の低速型である2100系電車、能勢電鉄がこれら3形式を阪急から譲受し、能勢電鉄1500系電車・1700系電車とした車両。


1500系
1983年から1985年にかけて竣工した基本的に阪急2100系を種車とするグループである。譲受した時点で全車が非冷房であり、一方で能勢電鉄は当時600Vだったことから、冷房装置の取り付けと600Vへの降圧化工事のため、入線前にアルナ工機にて冷房改造が行われた。


編成については4両編成とされ、車両番号はモーターの有無でしか区分されていなかった阪急時代のものから、運転台機器の有無でも区分されて、以下の4形式となった。
↑日生中央・妙見口
1550形(1550 - 1555)
圧縮機(CP)を搭載する制御車。
1530形(1530 - 1535)
パンタグラフと制御器を搭載する中間電動車。
1580形(1580 - 1585)
SIVとCPを搭載する付随車。元2000系が2両、元2021系が1両存在する。
1500形(1500 - 1505)
パンタグラフと制御器を搭載する制御電動車。
↓川西能勢口


冷房装置は、当時阪急電鉄が増備していた7000系の初期車が採用していた「スイープファン付き冷房機」と同一のものが設置され、車外は狭い間隔で並んだ3台の室外機が、車内には送風ファン付きの吹き出し口が目立った特徴となっている。また、それまで装備していた電動発電機 (MG) は冷房用の電力を確保する目的もあって静止形インバータ (SIV) に交換されている。


側面左右・前面各1か所ずつに新たに行先方向幕の設置が行われた。前面の方向幕は右(正面向かって左)窓上に設置されたが、この時に標識灯と干渉したことから尾灯が若干車体外側に移設(結果的にライト増設前の阪急3300系や5300系と同一の形態)されている。また、連結器高さが下げられ、Tc車の連結器複心バネが撤去、連結面間隔も当時存在していた川西能勢口駅のR40の急カーブに対処するため、860mmに拡大されている。


また、TとTcの川西能勢口方の妻面には貫通路幅の縮小と扉の設置を行ったが、元2104の1535については、阪急在籍時に狭幅に改造されていた貫通路の拡大工事を実施した。
台車については、エコノミカル台車(KS-66A/B)を使用していた車両は1010系からの廃車発生品に交換、またミンデン台車(FS-345・FS-45)を使用していた車両については入線当初は平野車庫に台車組み立て治具がなかったため、2000系のFS-333・FS-33台車と交換している。

なお、台車のブレーキシューはすべて鋳鉄製に交換され(現在はレジンシューを使用)、ブレーキシリンダーも直径の大きいものに交換されている。
中間に入った運転台付きの車両は第1編成(1550F)中の2両を除いて完全に中間車形態に改造され、第1編成の中間車も乗務員扉はそのまま残されたが、それ以外の機器は前照灯・標識灯・貫通扉とともに撤去され、1530・1580形の1530・1580となった。また、1585は電装解除されていた2021系の2030の運転台を撤去して客室を延長して登場した。


長年にわたって1550F - 1555Fの4両編成6本体制で推移していたが、1997年のダイヤ改正に合わせて日生線の区間運転用(山下駅も参照)に第1編成が編成分割され、2両編成2本に再組成された。先頭2両は1550に電源用MGが追加設置された上で「新1550F」となり、抜き取られた中間2両に運転台機器の再設置と日生中央・妙見口方から1580-1530への連結順序変更が行われ、形式も1550形1560および1500形1510へと変更されて「1560F」となった。これと時期を同じくして全編成がワンマン運転対応改造を受けており、自動放送装置などのワンマン運転設備が追加搭載されている。


1560Fは、1500形への改造時に前照灯・標識灯・貫通扉が撤去されていたため、新たに設置された。工事に際しては、阪急から譲渡された3100系と同じデザインが採用され、前照灯は阪急8000系と同様の四角の形状のものを新たに取り付け、また、標識灯についてはLED式の四角形標識灯が窓下に取り付けられ、その周囲にはステンレスの飾り帯が取り付けられた。前面貫通扉は阪急8000系が採用している窓が下に長いものになり、車両番号は右窓上に掲示されている。

中間車当時に設置されていた1510の屋根上クーラー脇(西側)に設置されていた高圧引き通し線は、両端が切断された状態で残された。乗務員室扉横の手すりはステンレス製となったが、後付けのため、当初から運転台を装備する車両(鋼製の手すり)とは形態が異なる。


1553Fは1500系・1700系の中で唯一ゴムとドア外板の間にステンレス帯を挟まない阪急2000系などではよく見られた旧タイプのドアを阪急時代から装備していたが、2004年の1700系1750Fの廃車の際に、同編成の新タイプのドアを転用している。
2008年5月24日の「のせでん春のレールウェイフェスティバル2008」と同年11月2日の「のせでん秋のレールウェイフェスティバル2008」では、後述の「懐かしのオリジナルカラー」塗装2編成が貸切列車「100周年記念号」として使用され、特製ヘッドマークも装着された。

また、同年7月5日から21日まで開催された「妙見山あじさいフェスティバル」に併せて、この2編成を併結の上期間中の土曜・休日の「あじさい号」の運用に使われた。
2015年より5100系の導入によって本系列はその代替として廃車が始まり、2016年5月29日に最後まで残った1500系4両編成の1551Fによるさよなら運転が行われた。復刻塗装車の1550Fは同年6月15日に[37]、1560Fは6月22日に運行を終了し全廃となる。これにより阪急で21年、能勢電で33年、計54年にも及ぶ歴史に幕を閉じた。


2015年には能勢1500系1554Fの1554・1504が三菱重工業に譲渡された。2016年現在、「MIHARA-Liner」の愛称を与えられ、同社の三原製作所和田沖工場(広島県三原市)内の総合交通システム検証施設「MIHARA試験センター(MTC)」内で各種試験に使用されている。

 

製造所 ナニワ工機
製造年 1960年 - 1962年
製造数 42両
引退 1991年(単独編成)
廃車 2013年(中間付随車)
運用範囲 神戸線・宝塚線
主要諸元
編成 2両 - 8両編成
軌間 1,435 mm
電気方式 直流600V→1500V
最高運転速度 110 km/h
起動加速度 2.8 km/h/s
減速度(常用) 4.0 km/h/s
全長 19,000 mm
主電動機 東京芝浦電気 SE-572B
駆動方式 WNドライブ
歯車比 85:16 (5.31)
制御方式 抵抗制御
制動装置 電磁直通ブレーキ
回生ブレーキ(昇圧時撤去


日本海軍呉鎮守府司令部地下壕

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日本海軍呉鎮守府地下壕の作戦室

太平洋戦争時に日本海軍呉鎮守府(広島県呉市)が使用した地下壕。

呉市が編集した資料などによると、地下壕は米軍機による初の本土空襲があった1942年に旧海軍が設計。呉鎮守府(現呉地方総監部)の庁舎裏の斜面を切り開き、45年春に完成したと伝えられる。

防衛省防衛研究所が保管する史料にも、鎮守府地下に作戦を進める戦闘指揮所があったとの内容が記録されている。

(説明板)
日本海軍呉鎮守府司令部地下壕
(旧地下作戦室)
昭和17年、日本本土は米軍機による初空襲を受け、昭和19年頃からは連日のように空襲を受けるように鳴り、爆撃の被害を避けるため日本海軍の地上施設は地下に建設されるようになった。


当該施設は、呉鎮守府司令部庁舎(現呉地方総監部庁舎)裏側の崖の斜面を切り開いて建設されており、昭和17年設計、昭和18年頃に着工、昭和20年頃に完成し、「地下作戦室」と呼ばれていた。

また、空襲による被害を最小限とするため、当該施設完成後は重要書類等も「地下作戦室」で保管されるようになった。


「地下作戦室」の1階には会議室・発電機室・換気施設・排水施設、2階には通信室・事務室・映写室・休憩室があり、通信室には大本営・連合艦隊司令部・呉鎮守府管下の各要所等との電信・電話線が引かれ、「地下作戦室」1階中央正面の壁一面には西日本の作戦図が掲示され、外部との開口部(窓・出入口)には封鎖可能な鉄製扉が設置されていたようである。


また、地下施設への連絡用として地下通路が整備されており、「地下作戦室」の奥に見える鉄製の扉を開けると、呉地方総監部庁舎裏側にある出入口と繋がっている。


昭和20年7月、米軍機による呉市への空襲により、呉鎮守府司令部庁舎も外壁のみを残して焼失したが、重要書類等は「地下作戦室」に保管されていたため爆撃の被害を受けず、そのため呉鎮守府司令部は終戦まで作戦その他要務を支障なく遂行できたと言われている。

海上自衛隊呉地方総監部によると、当時の技術の粋を集め、アーチ型の天井や厚さ約1.5メートルの壁に覆われた作戦室は、臨時の「指令本部」として使用された可能性もあるという。


 呉地方総監部によると、地下壕は1945年4月ごろ、呉鎮守府司令部庁舎の裏手に建設された。同年7月に空襲で庁舎が焼失した後、海軍は地下壕で任務に当たっていたとされる。終戦後は倉庫として使われていた。


 頑丈なコンクリート壁で覆われ、幅14メートル、奥行き15メートル、最も高い地点6メートルの作戦室と隣の小部屋、鎮守府庁舎をつなぐ地下通路への立ち入りが許可された。

敵機襲来時には作戦室の壁に張られた地図の豆ランプが点灯する仕組みになっていたとする記録が残っているという。


呉鎮守府(くれちんじゅふ)とは、広島県呉市にあった大日本帝国海軍の鎮守府。通称、呉鎮(くれちん)。

1886年4月22日、「海軍条例」において全国に五つの海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置くこととし、5月4日に第二海軍区(範囲「紀伊国南牟婁郡界ヨリ石見長門国界ニ至リ筑前遠賀宗像郡ヨリ九州東海岸ニ沿ヒ日向大隅国界ニ至ルノ海岸海面及四国ノ海面並内海」)を所管する鎮守府は呉港に置くことが定められた。

その後、用地買収、建築工事が進められ、1890年3月末までに建築工事の大部分が完成した。呉鎮守府の開庁は1889年7月1日付で告示がなされ、開庁式は1890年4月21日、明治天皇臨席のもとに挙行された。

また「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として参謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法会議・監獄署などを置いた。


1945年の終戦時に廃止され、1946年から1955年までは司令長官官舎などがイギリス連邦占領軍の総司令部として使用された。その後海上自衛隊に返還され呉地方隊として継承し、現在も「呉鎮」(くれちん)という愛称で親しまれている。

1886年(明治19年)5月4日:呉港に鎮守府を設置することが定められる。
1889年(明治22年)4月1日:海軍病院設置。
4月17日:呉鎮守府海兵団設置。
7月1日:呉鎮守府開庁告示。
1890年(明治23年)3月10日:呉鎮守府造船部小野浜分工場設置(旧小野浜造船所跡)。
4月21日:呉鎮守府開庁式。
1893年(明治26年)5月19日:鎮守府条例改正。予備艦部・造船部・測器庫・武庫・水雷庫・兵器工場・病院・監獄を設置。呉鎮守府造船支部を小野浜に設置。
1895年(明治28年)6月6日:呉鎮守府造船支部(小野浜)廃止。
1896年(明治29年)4月1日:呉鎮守府海兵団、呉海兵団と改称。呉水雷団を設置し、水雷敷設隊・水雷艇隊を置く。仮呉兵器製造所設置。


1897年(明治30年)5月25日:仮呉兵器製造所廃止し、呉海軍造兵廠設置。
1903年(明治36年)11月10日:呉海軍工廠を設置し、造兵廠は工廠の造兵部となる。
1909年(明治42年)12月1日:呉海軍人事部設置。
1920年(大正 9年)8月1日:呉海軍工廠広支廠設置。
9月:海軍潜水学校開校。
1921年(大正10年)3月:海軍燃料廠設置。
1923年(大正12年)4月1日:軍需部開設。呉海軍監獄、呉海軍刑務所と改称。
1931年(昭和 6年)6月:呉海軍航空隊設置。
1937年(昭和12年)6月1日:海軍通信隊設置。
1945年(昭和20年)10月15日:呉海軍工廠廃止。
11月30日:呉鎮守府廃止。

 

武佐駅(近江鉄道八日市線)

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武佐駅(むさえき)は、滋賀県近江八幡市長光寺町にある近江鉄道八日市線の駅である。

中山道武佐宿の最寄駅で、駅周辺には昔ながらのたたずまいを残す町並みが続いています。

相対式2面2線の無人駅。営業時間は中間小駅標準である、朝の通勤通学時間のみです。

駅舎は比較的、新しく宿場町を意識した白壁の木造駅舎です。

ホームは幅は狭いのですが駅舎からホームにかけ庇がでています。列車接近装置はありません。

駅入口からはバリアフリー対応のスロープが設置されています。

待合室には時刻表、木製の長椅子が1脚設置されています。

かつては東海カーボン滋賀工場へ向けて専用線が敷かれ、車扱貨物の取扱いや近江八幡駅経由で原料や製品の貨物輸送も行われていた。

駅周辺
近江八幡市武佐公民館
武佐郵便局
近江八幡市立武佐小学校
国道8号
国道421号
中山道武佐宿
東海カーボン滋賀工場

 

1913年(大正2年)12月29日 : 湖南鉄道の駅として開業。

1927年(昭和2年)5月15日 : 琵琶湖鉄道汽船に合併され、同社の駅となる。
1929年(昭和4年)4月1日 : 八日市鉄道に譲渡され、同社の駅となる。
1944年(昭和19年)3月1日 : 近江鉄道に合併され、同社の駅となる。
1984年(昭和59年)2月1日 : 東海カーボン滋賀工場専用線廃止に伴い貨物取扱廃止。


所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■八日市線(万葉あかね線)
キロ程 6.5km(八日市駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面2線
乗車人員
-統計年度- 166人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1913年(大正2年)12月29日

ロビンソン R22(レシプロエンジン・ヘリコプター)ロビンソン・ヘリコプター

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ロビンソン R22(Robinson R22)は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるロビンソン・ヘリコプターが開発・量産している2座席のレシプロエンジン・ヘリコプターである。1973年より開発が開始され、初飛行は1975年8月28日である。2012年までに4,400機以上が生産された。

1973年にフランク・ロビンソン(英語版)によって設立されたロビンソン・ヘリコプター社が開発した、複座ヘリコプターである。量産開始は1979年。取得費用と維持費用が廉価であるため、ヘリコプターのなかでも世界中でベストセラーであり、4,000機以上が販売されている。価格は約27万ドル、中古機ならば4万ドル程度で入手できる。

単発のレシプロエンジン機であり、エンジンは胴体後部にある。メインローターは2翅のセミリジット・シーソー方式で、胴体上方に突き出して設置されている。

多くは民間機であるが、一部軍隊や警察が運用する機体もある。さまざまな派生型があるほか、座席数がことなるR44とR66もある。

R22は多くの飛行訓練学校で採用されており、訓練生が初めて操縦する初級練習機としての採用が多い。操縦は比較的シビアだとされており、全体的に操縦装置が機敏で、サイクリックレバーを少し倒すだけでも機体が大きく反応する。また、飛行中はサイクリックレバーが左方向に引っ張られるため、パイロットが常時これを中央に保持する必要がある(ただし、レバーを右に押し出すトリムが搭載されており、左右に関してはある程度の疲労が軽減される)。加えて半関節型メインローターであるため、急激な操縦はマストバンピングを引き起こす可能性がある。

メインローターが軽量で、エンジン停止時はほかのヘリコプターに比べると急激にローター回転数が低下するという特徴がある。

最高速度:189km/h
巡航速度:178km/h
搭載エンジン:ライカミング O-360もしくはO-320またはbei Beta II A2BまたはA2C 4気筒124馬力(93キロワット)
航続距離:556km
最大上昇高度:4,267m
最大積載燃料:112リットル
空虚重量:417Kg
最大重量:622Kg
全長:8,75m
高さ:2,71m
回転翼直径:7,68m
座席数:2
販売価格(2007年当時):210,000アメリカ合衆国ドル


第一しょうどしま丸 高松・宇野航路(四国フェリー)

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高松⇔宇野航路に就航。
2017年3月10日の新造船しょうどしま丸就航により、高松⇔小豆島(土庄)航路から脱退。
2017年3月13日の第八十五玉高丸の引退により、高松⇔宇野航路に就航。


2017年11月改装。「OLIVE LINE」「オリーブしまちゃん」は消され、側面に「四国フェリー」「うどん県マーク」が描かれた。

高松・宇野航路(宇高航路)
運航区間:高松港(香川県高松市) - 宇野港(岡山県玉野市)
運航便数:フェリー5往復(6-20時台)
所要時間:約65分
距離:21km
就航船舶:第一しょうどしま丸
四国急行フェリーにより運航。かつては深夜帯を含めた終日にわたり運航していた同社の中心航路。国道30号の海上区間を成す。


長らく、並行航路を結ぶ宇高国道フェリーとは競合関係にあり、高松港ではネオンサインを競っていた[16]が、2009年12月の減便以降は運航時刻を調整するなどの協調もおこなった。しかし、国道フェリーは2012年10月17日限りで運行を休止し、10月18日以降は当航路が宇野と高松を結ぶ唯一の定期航路となっている。

2004年3月からは同じ航路を運航する津国汽船(本四フェリー)との共同運航を行っていたが、同社は2009年4月1日で同航路から撤退した。


2013年4月1日より、四国フェリー本体から子会社の四国急行フェリーに移管された。これは本州四国連絡高速道路の通行料金引き下げおよび宇高航路の存続に関し、宇野高松間地域交通連絡協議会にも状況を説明しやすくなること、収支の明確化や一層の経費削減策を講じるためである。上記の通り、2014年7月15日をもって早朝・深夜便を廃止し、終夜運航ではなくなった。


JR瀬戸大橋線が強風などで運休となった場合は本航路で振替輸送が行われる。2014年7月16日以降は『マリンライナー』の運行時間帯よりもフェリーの就航時間が短くなり、時間帯によっては振替が不可能となった。

2017年4月1日からは1日10往復から5往復に大幅減便となり、高松港の発着場ははサンポート高松に変更した。
四国フェリーの船上から撮影した宇高航路全域のGoogle ストリートビューが2015年1月22日から公開されている

船舶番号 136486
信号符字 JL6626
IMO番号 9233612
船籍港 高松
船主名 四国フェリー(株)
運行者 同上
就航航路 高松~玉野
造船所名 讃岐造船鉄工所 第一
建造番号 1302
起工年月 2000年6月
竣工年月 2000年9月
就航年月  
総トン数 993トン
全長 71.85m
型幅 14.30m
型深さ 3.69m
機関 ディーゼル×2
機関馬力 3,600PS
航海速力 13.50ノット
旅客定員 490名
積荷 トラック22台
備考 2017年3月13日より現航路へ

四国フェリー株式会社(しこくフェリー)は、日本の海運会社。瀬戸内海でフェリーおよび高速船による航路を運航している。

本社所在地: 日本
〒760-0030
香川県高松市玉藻町10番32号
設立 1956年2月16日
業種 海運業
法人番号 3470001003852
事業内容 一般旅客定期航路事業
代表者 代表取締役社長 堀川満弘
資本金 1億円
従業員数 125名
主要子会社 小豆島フェリー(株)
四国急行フェリー(株)
(株)小豆島急行フェリー
小豆島豊島フェリー(株)
日の出商事(有)
外部リンク www.shikokuferry.com
特記事項:小豆島急行フェリー(株)、(株)マリン観光汽船、小豆島フェリー(株)は、2014年(平成26年)10月1日付で社名変更(小豆島急行フェリー → 小豆島フェリー、マリン観光汽船 → 小豆島急行フェリー、小豆島フェリー→小豆島豊島フェリー)

キュリオシティ(探査機ローバー)アメリカ航空宇宙局

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マーズ・サイエンス・ラボラトリー(Mars Science Laboratory、略称: MSL) は、アメリカ航空宇宙局 (NASA) が火星探査ミッションで用いる宇宙船の名称である。探査機ローバー、愛称キュリオシティ (Curiosity) を装備している。

キュリオシティは、2004年に火星に降り立ったマーズ・エクスプロレーション・ローバー (MER)(スピリットとオポチュニティ)の5倍の重量があり、10倍の重量の科学探査機器を搭載している。火星に着陸後、キュリオシティは火星表面の土と岩石をすくい取り、内部を解析する。最低でも、1火星年(2.2地球年)は活動する予定で、これまでのローバーよりも広い範囲を探索し、過去と現在の火星における、生命を保持できる可能性について調査する。

打ち上げまで

組み立て中のMSL

MSLは当初、2009年に打ち上げられ、2010年10月に、火星に着陸する予定であった。ただし、NASAでは2機か3機の全く同じローバーを同時に送ることが議論されており、そのためには打ち上げを2011年まで遅らせる必要があった。MSLの目的の一部は、将来のサンプルリターン・ミッションのために適当な着陸場所を見つけることだが、この案の推進者は、複数のローバーを使って一度に複数の地域を探索したほうがよいと主張した。NASAの太陽系部門のディレクターであるアンディー・ダンツラー (Andy Dantzler) は、MSLの開発は、2009年の打ち上げに向かって順調に進んでおり、この期限に間に合わせるために、最大限の努力をすると語った。ジェット推進研究所のエンジニアたちは、非公式にではあるが、MSLのデザインは、将来のローバーにも利用されるだろうと語った。

2008年に開発費用の超過が問題となり、試験に十分な時間がとれないとして、2008年12月4日、NASAは打ち上げを2011年に延期することを発表した。打ち上げ延期による追加支出は4億ドルで、最終的な予算総額は23億ドルになるという。複数のローバーを打ち上げる可能性については言及されなかった。

2008年11月から2009年1月にかけて、NASAは全米の学生・児童からローバーの愛称を募集した。5月27日、9,000件以上の案の中からカンザス州の12歳の少女が提案した「キュリオシティ(Curiosity、好奇心)」が選ばれたことが発表された。

2011年11月26日15時02分 (UTC)、MSLを搭載したアトラス Vがケープカナベラル空軍基地から打ち上げられた。

着陸後
2012年6月11日、NASAはキュリオシティが8月6日5時31分(UTC)ごろに、ゲールクレーター内にあるアイオリス山のふもとに着陸する見込みであると発表した。

2012年8月6日、NASAはキュリオシティが8月6日5時32分 (UTC) に、ゲールクレーターの中にある高さ3マイル、直径96マイルの山のふもとに着陸したと発表した。

2012年8月22日、NASAはキュリオシティの着陸地点に、2ヶ月前に亡くなった小説家のレイ・ブラッドベリに因み「ブラッドベリ・ランディング (Bradbury Landing)」と名づける案がチームから出され、NASAもこれを承認したと発表した。22日はブラッドベリの誕生日である。

2013年2月8日、キュリオシティが火星表面の岩に直径1.6cm深さ6.4cmの穴を掘り、試料を採取した。火星表面の本格的な掘削は、1960年代に火星探査が始まって以来初めてのことであった。

2013年8月6日、火星着陸一周年を記念して、本体に搭載した楽器で自分のために「ハッピーバースデー」を演奏 。
キュリオシティのアルミニウム製の6輪の車輪には、JPLのモールスコード・パターンを轍として残せるようにするための「・」と「-」マークの穴が開いているが、2013年秋に、予期せぬ穴が開いてきたことが確認された。車輪の摩耗はある程度予想されていたが、想定よりも摩耗が早く起きており、穴が開いた箇所以外の車輪でも窪みや損傷が生じていることが写真から確認された。この問題を受けて、ローバーの運用チームは、でこぼこの激しいルートを避け、尖った岩を回避する運用を行うことにした。さらに悪化すれば、ミッションへの影響が出る恐れもあるとして、JPLはソフトウエアパッチを書き換えて、この車輪の摩耗原因を調査することにした。

火星のゲール・クレーターに着陸して以来、総走行距離6.1kmに達したキュリオシティは、2014年4月2日に大規模調査を予定している「キンバリー」と呼ばれる地点に到着した。4つの異なる種類の岩石が重なりあった「キンバリー」(西オーストラリアの地域名に由来)における調査は、「イエローナイフ湾」と呼ばれる盆地の調査以来もっとも大規模なものとなる


仕様
キュリオシティは長さ3m、総重量は900kgあり、そのうち80kgが科学機器の重量である(MERは長さ1.5m、重量は174kgであり、そのうち6.8kgが科学機器の重量であった)。75cmくらいまでの障害物を乗り越えて進むことができる。走行速度は、自律航法の場合、最大90m/h程度であるが、数々の状況(電力レベル、視界、地表の荒さ、スリップなど)を考慮に入れると、平均では30m/h程度となると思われる。2年間の活動期間の間に、最低でも19kmの距離を移動する予定である。

電力源としては、プルトニウム238の崩壊熱を利用する原子力電池 (RTG) を使用する。火星探査機でのRTGは、バイキング1号とバイキング2号着陸機でも使用実績がある。昼夜や季節に関係なく一定の電力が得られるうえ、余熱はパイプを通じて探査機のシステムの保温に使用できる。キュリオシティで使われるRTGはボーイング社が開発した最新のMulti-Mission Radioisotope Thermoelectric Generatorと呼ばれるタイプである。重量は約50kgで4.8kgのプルトニウム238を搭載しており、打上げ時の事故で衝突、爆発、再突入による落下が起きてもプルトニウムが守られるように保護層で覆われている[13]。ミッション初期には約2000Wの発熱から125Wの電力を得られ、14年後でも100Wの電力が得られる。キュリオシティは1日に2.5kWhの電力が得られる(太陽電池を使用していたMERでは1日に約0.6kWhの電力しか供給出来なかった)。

キュリオシティが活動を予定している地域の火星の気温は、+30から −127℃の間で変動すると予想されている。このため、Heat rejection system (HRS) を使って機器の温度を維持する設計となっている。長さ60mのパイプ内にポンプで流体を流し、MMRTGからの熱で保温する。温度が上昇しすぎる場合は冷却にも使える。

キュリオシティに搭載された記録装置の容量は約4ギガバイトしかないため、打ち上げ時点では容量の大部分は着陸用ソフトウェア保持に使っており、そのままでは最小限の探査しか行えないが、地球から遠隔でアップデートできるように設計されているため、火星到着後は不要になったソフトウェアを観測器機の制御用ソフトに更新してから本格的な運用を始める。


観測機器
Sample analysis at Mars (SAM) 試料を加熱して生じたガスや、大気分析する装置。
ChemCam
 赤外線レーザーを使って、最大7m離れた土壌や岩の表面を蒸発させてスペクトル分析を行う。

Mastcam マストの先端にメガピクセル単位の画素数を持つ2台のカメラが設置され、毎秒最大10フレームのカラー画像を720p (1280x720) のハイビジョン画質取得できる。中解像度のカメラMedium Angle Camera (MAC) と、高解像度のカメラNarrow Angle Camera (NAC)。動画も撮影可能。
αプロトンX線分光計 (APXS) 
CheMin 
Mars Hand Lens Imager (MAHLI) ロボットアーム先端に設置した顕微鏡カメラ。
Radiation assessment detector (RAD)
Rover environmental monitoring station (REMS)
Dynamic albedo of neutrons (DAN)
MSL Mars Descent Imager (MARDI) キュリオシティの降下中に火星表面のカラー画像を撮影する。約2分の間に毎秒5枚の撮影を行う。

誘導突入
火星は大気が薄いため、重量物を着陸させるのは非常に難しい。パラシュートや空力ブレーキだけでは減速が不十分であり、過去に使用されたエアバッグを使って衝撃を抑える着陸方式もキュリオシティほどの重量がある場合は使えない。このため、MSLでは幾つかの方式を組み合わせると共に、新たな着陸方式が採用された。 キュリオシティはエアロシェルに格納されて火星大気へ突入し、その外殻を用いた空力ブレーキで減速する。このエアロシェルは直径4.5mという宇宙用としては過去最大であり、Phenolic Impregnated Carbon Ablator (PICA) という耐熱材で高熱から保護される(MSL用に開発されたPICAは、スペースX社がPICA-Xとしてドラゴンの耐熱シールドに採用した)。これにより、突入時の速度 5.3から 6 km/sをパラシュートが開ける速度であるマッハ2にまで減速する。

パラシュート降下
重心調整用のダミーウエイトを投棄した後、高度約7kmで超音速パラシュートを開傘し、耐熱シールドを分離する。パラシュートは直径16m、長さ50mという巨大なものとなる。パラシュート降下中にキュリオシティの下側に装備したカメラで毎分5枚の写真撮影を開始する。これにより、どこに着陸したか精密な地点を素早く確認できるようになる。

ロケット噴射による降下
高度約1.8km、速度約100m/sの時点で降下ステージを切り離し、推力調節が可能なヒドラジンスラスタ8基(推力各3.1 kN)を噴射して減速する(このシステムはバイキング着陸機の技術が流用されている)。

スカイクレーン
MSLはスカイクレーンを使ってキュリオシティを軟着陸させる。降下ステージとキュリオシティとの間は懸架ケーブルと電気信号を送るケーブルで繋がれた状態で約7.5m吊り下げる。キュリオシティの軟着陸を確認すると約2秒後に火工品でケーブルカッターを作動させてケーブルを切断し、降下ステージはスラスタをフル噴射し退避しながら離れた場所に落下する。このようなシステムは今回初めて使用される


所属 アメリカ航空宇宙局 (NASA)
主製造業者 ボーイング
ロッキード・マーティン
公式ページ Mars Science Laboratory
国際標識番号 2011-070A
カタログ番号 37936
状態 運用中
目的 火星探査
観測対象 火星
打上げ場所 ケープカナベラル空軍基地 LC-41
打上げ機 アトラスV 541型
打上げ日時 2011年11月26日
15時02分(UTC)
軟着陸日 2012年8月6日
5時32分(UTC)
質量 900kg
Sample analysis
at Mars (SAM) 試料を加熱して生じたガスや、大気分析する装置

ロードスイーパー(路上清掃車) DuraStar中型トラック

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インターナショナルDuraStarもともととして導入され、インターナショナル4000シリーズは、ある中型トラックによって生成ナビスター・インターナショナル。2002年に初めて生産されたのは、1990年代の4000シリーズの後継機種です。

同じシャーシ上に構築された3つのバリエーションがあります。エンジン、ドライブトレイン、ブレーキ、貨物容量が異なります。これは、緊急サービス、牽引、フラットベッドトラック、および貨物箱のトラックなど、幅広い種類のアプリケーションで使用される一般的な商用プラットフォームです。Durastarの変種は一般的に両スクールバスのプラットフォームとして使用されています商業バス。DuraStarのキャブは4400シリーズキャブよりもフレームよりもはるかに高く、より大きなラジエータとエンジンの組み合わせに適応し、4400/4300シリーズがそれぞれ4400または4300としてマークされているDuraStarブランドです。WorkStarとDuraStarは非常によく似たレイアウトを持っていますが、WorkStarは厳密に職業的なシャーシです。WorkStarとDuraStarは、昨年からクラス5/6(4300/4400)とヘビー7 /ベイビー8(7600シリーズ)に分類されています。この指定はもはやトラック製造業では使用されていませんが。4400の指定は、2014年のクラス5/6トラックでも引き続き使用されています。4400はCummins ISB6.7で利用可能で、Maxxforce 7とMaxxforce9が利用可能です。WorkStarはMaxxforce 13を介してDT466で利用可能です。


トラック
4100
4100モデルは140インチから217インチまでのホイールベースを持ち、インターナショナルVT 365を搭載し、油圧ブレーキを使用しています。Allison 1000 HS / RDS 6速オートマチックトランスミッションまたはフラー6速マニュアルが付属しています。フロントアクスルの容量は7,300ポンド(3,310 kg)です。リアアクスルの容量は10,500 lb(4,760 kg)、オプションで12,200 lb(5,530 kg)です。

4300
4300モデルは128inから254inまでのホイールベースを持ち、インターナショナルDT466によって駆動され、油圧ブレーキまたはエアブレーキのいずれかを使用します。フラー6または7スピードのマニュアルトランスミッションまたはAllison 2000および3000シリーズのオートマチックトランスミッションが付属しています。フロントアクスルの容量は8000〜14000ポンドです。リアアクスルの容量は12,200〜23,000ポンドです。

4400
4400モデルは、254の140からホイールベースを有することによって電力を供給される国際DT570 / Maxxforce 9 [3]と空気ブレーキを使用します。トランスミッションには、フラー6,7または10速マニュアル、またはAllison Vocational 3000または3500シリーズオートマチックが含まれます。そのフロントアクスルの容量は8,000~14,000ポンドです。リアのシングルアクスルの容量は13,500~26,000ポンドです。

4400はトラクターとしてもご利用いただけます。

派生型
4300と4400はLo-Profile構成でも利用でき、キャブとロードベッドのアクセスを容易にするためのプラットフォームが低くなっています。車軸容量は次のように異なります。

4300LP
フロント - 8,000 - 9,000ポンド(4,100 kg)
リア12,200 - 19,000ポンド(8,600 kg)
4400LP
フロント - 8,000 - 19,000ポンド(8,600 kg)
リア - 13,500 - 19,000ポンド(8,600 kg)
バス

3200
3200はキャブ付きで販売されています。これは、2段目の製造業者のカットアウェイキャブ用に設計されています。Maxxforce7エンジンまたはMaxxforce DTで使用できます。
3300
3300は、2015年までMaxxforce7およびMaxxforceDTエンジンで利用可能な従来型(タイプC)のスクールバスを主な目的としたカウル式シャーシとして販売され、現在はCumminsディーゼルおよびPower Solutions Internationalプロパンエンジンを使用しています3300
それ以前の4000シリーズのように、DuraStarはバスメーカーにとって人気のあるプラットフォームです。


メーカー Navistar International
とも呼ばれている インターナショナル4000シリーズ
製造 2002〜2018年
ボディとシャーシ
クラス クラス5&6
ボディスタイル
トラック

トラクター
ストレートトラック
バス

カウリングシャーシ
切り取りキャブ
レイアウト 従来の4x2
従来の6x4
関連する インターナショナル3300
インターナショナルRXT
インターナショナルワークスタンド
フォードF-650 / F-750
パワートレイン
エンジン ディーゼル
送信 手動
自動
寸法
ホイールベース 128-254インチ(3,251〜6,452 mm)
年表
前任者 インターナショナル4000シリーズ(1989年)

新八日市駅(近江鉄道八日市線)

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新八日市駅(しんようかいちえき)は、滋賀県東近江市八日市清水二丁目にある近江鉄道八日市線の駅。

駅名に「新」が付くのは、湖南鉄道時代、当時は別会社だった近江鉄道の八日市駅が先に存在していたためである。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅であり、平日朝の7:00~8:50および夕方16:00~18:30のみ有人駅となる。ただし夕方は降車客の改札業務のみである。

駅舎内、待合室のは木製の長椅子に自動販売機があります。改札口には木製のラッチ、待合室の窓枠も木製のままです。


薄緑色に塗装された、洋風建築の駅舎を持つ。開業当時の駅舎と良く言われていたが、開業9年後の1922年(大正11年)に建てられたと判明している。

駅舎2階はかつて八日市線の前身である湖南鉄道、八日市鉄道の本社として使用されていた。老朽化が激しく2階は立ち入り禁止になっています。

建築当時は西側に平家部分があったが取り壊され、空き地となっている。

駅舎1階には八日市鉄道時代までの特等客用待合室だったスペースがあったが、2003~2004年に板で塞がれた(駅舎正面から見て右側にあたる)。外壁は夏季にはツタで覆われる。

戦前は当駅でスイッチバックして御園まで運行されていました。

ホーム間は構内踏切で結ばれています。ホームには上屋下があり木製の長椅子が設置されています。

駅前には高い稼働率の駐輪場があります。

駅周辺
天理教湖東大教会
八日市郵便局
国道421号

以前は当駅から御園駅(旧・飛行場駅)に向かっていた(御園方面への分岐点は当駅の近江八幡駅寄りにあり、新八日市からはスイッチバックする形であった)。

近江鉄道に合併後、八日市駅方面への線路が敷設され、後に御園駅方面が廃止された。御園駅方面の隣駅は八日市中野駅であった。


1913年(大正2年)12月29日 - 湖南鉄道の終点、八日市口駅として開業。
1919年(大正8年)7月1日 - 新八日市駅に改称。
1922年(大正11年) - 駅舎改築。


1927年(昭和2年)5月15日 - 琵琶湖鉄道汽船に合併され、同社の駅となる。
1929年(昭和4年)4月1日 - 八日市鉄道に譲渡され、同社の駅となる。
1930年(昭和5年)10月1日 - 当駅~飛行場(後の御園)駅間が開業、中間駅となる。


1944年(昭和19年)3月1日 - 近江鉄道に合併され、同社の駅となる。
1946年(昭和21年)1月1日 - 当駅~八日市駅間が開業し、分岐駅となる。
1948年(昭和23年)8月1日 - 当駅~御園駅の運行を休止。
1964年(昭和39年)9月25日 - 当駅~御園駅を正式に廃止、中間駅に戻る。



所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■八日市線(万葉あかね線)
キロ程 0.7km(八日市駅起点)
駅構造 地上駅


ホーム 相対式2面2線
乗車人員
-統計年度- 441人/日(降車客含まず)
-2011年-
開業年月日 1913年(大正2年)12月29日
備考 御園駅までの路線は1948年休止、1964年廃止

イスパノスイザエンジン(航空機エンジン)旧日本海軍十三艦上攻撃機

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フランスのイスパノ・スイザと技術導入契約が結ばれた。イスパノ・スイザ社が設計、三菱重工が1927年頃から制作しました。
旧日本海軍十三艦上攻撃機などに使われた優秀なエンジンです。

ピストンエンジン(水冷60度V型 12シリンダー)
出力:450馬力
回転数:1800回/一分毎
エンジン重量:435KG
排気量:28L

第一次世界大戦において、飛行機は大いに軍事的な役目を果たした。こうした飛行機の目覚ましい進歩に着目した三菱グループは、この飛行機市場が成長することを見越し、飛行機用発動機の製造に乗り出したのだ。三菱重工はエンジン製造メーカーとしてスタート。

イスパノ・スイサ(Hispano-Suiza )はスペインで創業した企業で、自動車やエンジンの設計、戦争を前後して兵器も開発した。現在はフランスのグループ企業であるサフラングループの傘下に入っている。

1898年にスペイン軍の砲兵指揮官であったエミリオ・デ・ラ・クアドラ(Emilio de la Cuadra )は、バルセロナで電気自動車会社の「ラ・クアドラ」を設立した。デ・ラ・クアドラはパリの街でスイスの技術者マルク・ビルキヒトと出会い、彼の才能を買って雇用した。

1902年に会社のオーナーがJ・カストロに変わり、社名もスペインとスイスを意味する「ファブリカ・イスパノ・スイザ・デ・オートモービル (Fábrica Hispano-Suiza de Automóviles )」となったが、翌年に倒産した。

1904年、再びJ.カストロの下で「ラ・イスパノ・スイザ・ファブリカ・デ・オートモービル (La Hispano-Suiza de Automóviles Fábrica )」 が再建され、翌年に4台のエンジンが販売された。再建した会社は乗用車、トラックを大量生産、手作業でレーシングカーや高級車を少数製造した。

高級車の市場はスペインよりもフランスの方が非常に大きいことを確認し、第一次世界大戦前の1911年にパリ郊外のルヴァロワ・ペレに新しい工場が建設された。1914年には、より大きな工場があるボワ・コロンベへ移り、「イスパノ・スイザ」の名で販売を始めた。高級車ブランドとして大きな成功を収めたほか、航空エンジンの製造会社としても成功した。

バルセロナの工場は第二次世界大戦後の1946年まで操業された。その後も航空エンジンを中心に操業を続けたが、1968年に、フランスのスネクマ(現在のサフラン)によって買収され、現在に至る。

 

むろと(ARC-483)は、海上自衛隊

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むろと(ARC-483)は、海上自衛隊の敷設艦。艦名は室戸岬に由来し、旧海軍の給炭艦「室戸」、先代「むろと」(ARC-482)に引き続いて3代目となる。同型艦はない。


2代目「むろと」(ARC-483)は、先代「むろと」(ARC-482)の老朽化に伴い後継艦として平成21年度に予算が計上され建造された。

旧海軍の敷設艦のように機雷敷設を行うのではなく、先代と同じく基地や港湾、戦略海域等に水中聴音監視装置を敷設することを主任務としていると思われるが、詳細は開示されていない。

ケーブル敷設装置や海洋調査に関わる各種水中機器を装備し、これらを円滑に運用するために船体にはバウスラスターとアジマススラスターが備えられている。

また、船価を抑えるために船体は可能な限り商船構造とし、敷設艦として最低限度の能力を発揮できる程度に収まっている。この為、建造費は約284億円になっている。なお、先代「むろと」は後継艦たる本艦の就役を待つことなく2012年4月4日に退役している。


「むろと」は、中期防衛力整備計画に基づく平成21年度計画4,900トン型敷設艦として、三菱重工業下関造船所江ノ浦工場で2011年9月7日に起工され、2012年7月5日に進水、同年11月20日に公試開始、2013年3月15日に就役し、海洋業務群に直轄艦として編入された。定係港は呉。


同年9月7日~10月30日、第33回グアム島方面派遣訓練の敷設訓練等のために派遣される。
2014年8月19日~11月8日、第34回グアム島方面派遣訓練の敷設訓練等のために派遣される。
2015年7月31日~9月24日、第35回グアム島方面派遣訓練の敷設訓練等のために派遣される。
2015年12月1日、海洋業務群が海洋業務・対潜支援群に改編され、引き続き直轄艦として編入された。
2016年7月1日~8月18日、第36回グアム島方面派遣訓練の敷設訓練等のために派遣される。
2017年6月10日~8月3日、第37回グアム島方面派遣訓練の敷設訓練等のために派遣される。

建造所 三菱重工業 下関造船所江ノ浦工場
運用者 海上自衛隊
艦種 敷設艦
級名 むろと型敷設艦
前級 むろと型敷設艦(初代)
次級 最新
建造費 284億800万円
母港 呉
所属 海洋業務・対潜支援群
艦歴
計画 平成21年度計画
発注 2009年
起工 2011年9月7日
進水 2012年7月5日
就役 2013年3月15日
要目
排水量 基準 4,950t
満載 6,400t
全長 131.0m
最大幅 19.0m
深さ 11.0m
吃水 5.7m
機関 ディーゼルエンジン 3基
電動機 2基
バウスラスター
アジマススラスター
出力 7,500PS
速力 16kt
乗員 110名
その他 埋設装置×1
海洋観測装置×1

フェラーリ・812スーパーファスト

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フェラーリ・812スーパーファスト

812スーパーファスト(812 SUPER FAST)は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリが製造、販売するFRスポーツカーである。

概要
2017年3月に開催されたジュネーブショーでお披露目され、F12ベルリネッタ、F12tdfの後継にあたり、車名の812は、800馬力V型12気筒を意味する。 最高出力の800馬力はフェラーリ史上もっともパワフルなフェラーリとなった。なお、スーパーファストは1964年の500スーパーファストをサブネームを復活させたかたちとなった。

スタイリング
デザインはフェラーリスタイリングセンターが担当し、ロングノーズ&ハイテールのリアは、356GTBをイメージさせ、フェラーリは「ハイ・テールの 2ボックス・スタイルは1969年の輝かしい名車 365GTB4 を想起させます」と述べている。ヘッドライトはフルLED、テールランプはGTC4ルッソに続き、丸型4灯テールライトが採用された。

奇しくも2017年はフェラーリ創業70周年を迎えることから、812スーパーファストには70周年を記念した特別色、Rosso Settantanni(ロッソセンタッタ)、とMatte Warm Grey(マットウォームグレイ)が用意された。

メカニズム
エンジンは6,496ccV型12気筒自然吸気エンジンをフロントに積み、トランスアクスル方式を採用し7速デュアルクラッチを介しリアを駆動する。F12ベルリネッタの6,262ccよりも234cc拡大され、出力は800ps/8500rpm、トルクは73.2kg-m/7000rpm。これは780psのF12TdFを凌ぐ。 フェラーリ初の電動パワーステアリングを採用。またF12tdfに採用された四輪操舵システムをさらに進化させ812スーパーファストにも採用。フェラーリではこれをバーチャル・ショートホイールベース2.0システムと称している。これらはフェラーリの挙動制御システムである、サイドスリップコントロールと連動させるものとみられる。

日本への導入
2017年5月23日に日本で初公開された。

製造国 イタリア
販売期間 2017年-
デザイン フェラーリスタイリングセンター
乗車定員 2
ボディタイプ クーペ
エンジン V型12気筒DOHC自然吸気6,496cc
駆動方式 FR
最高出力 588kW(800PS)/8,500rpm
最大トルク 718Nm(73.2kgm)/7,000 rpm
変速機 7速DCT
全長 4,657mm
全幅 1,971mm
全高 1,276mm
車両重量 1,525kg
先代 F12ベルリネッタ

 


上八木駅(JR西日本)可部線

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上八木駅(かみやぎえき)は、広島県広島市安佐南区八木八丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)可部線の駅である。駅周辺は住宅地です。

可部方面に向かって右側に、1面1線の単式ホームのみを持つ地上駅(停留所)。駅舎は可部寄りにあり、中には自動券売機と簡易式自動改札機が設置されている。

その他、駅舎内待合室はゴミ箱や案内板掲示板、路線図など雑然した感があります。


可部駅管理の無人駅。
可部線は運行されている列車の多数が2両編成であるが、朝夕ラッシュ時や山陽本線や呉線からの直通列車が可部線に乗り入れる場合に4両編成で運行されている。

2008年3月14日まではホームの長さが3両分しかなかったため、4両編成の列車では広島寄りの車両1両はドアが開かなかったが、ホーム拡張工事により広島側が延長され、3月15日から4両編成の列車でも全ての扉から乗り降りが可能となっている。


ICOCAが利用可能。JRの特定都区市内制度における「広島市内」の駅である。
「JR可部線活性化連携計画」によって、列車交換を可能にする駅の線路工事計画がされている。

駅ホームとは交通量の多い道路が並走しています。

駅周辺
中八木バス停(広島電鉄・広島交通)
広島市立城山北中学校
広島市立八木小学校
八木峠
国道54号
太田川

1910年(明治43年)12月25日 - 大日本軌道広島支社線(後の広浜鉄道線)が古市橋駅から延伸し、その終着である太田川橋停留場(おおたがわばしていりゅうじょう)として開業。旅客駅。
1911年(明治44年)6月12日 - 大日本軌道広島支社線が可部駅まで延伸。同線の途中駅となる。
1919年(大正8年)3月11日 - 大日本軌道広島支社線が可部軌道へ譲渡され、同社の停留場となる。
1926年(大正15年)5月1日 - 可部軌道が広島電気に合併され、同社の停留場となる。
1931年(昭和6年)7月1日 - 広島電気線が広浜鉄道へ譲渡され、同社の停留場となる。
1936年(昭和11年)9月1日 - 広浜鉄道国有化、国有鉄道可部線所属となる。同時に駅に昇格し上八木駅に改称。


1953年(昭和28年)11月1日 - 梅林駅方面に0.4km移転。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)が継承。
2006年(平成18年)6月30日 - この日を最後に駅前の個人商店における委託発券が打ち切られる。
2007年(平成19年)
7月29日 - ICOCA対応簡易型自動改札機設置。
9月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。


2008年(平成20年)3月15日 - ホームの延長工事が完了。これにより、4両編成の列車が停車可能となる。
2014年(平成26年)8月20日 - 平成26年8月豪雨により広島市で土砂災害が発生。緑井駅 - 可部駅間で8月31日まで運転を見合わせた。

所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線 B 可部線
キロ程 11.2km(横川起点)
広島から14.2km
電報略号 カヤ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 550人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1910年(明治43年)12月25日
備考 無人駅(自動券売機 有)
広 広島市内駅
* 1936年に太田川橋停留所から改称。

ゆげしま(海上自衛隊)掃海艇(MSC-679、MCL-731)

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ゆげしま(JS Yugeshima, MSC-679、MCL-731)は、海上自衛隊の掃海艇。うわじま型掃海艇の8番艇。艇名は弓削島に由来する。うじしま型掃海艇「ゆげしま」に次いで日本の艦艇としては2代目である。

「ゆげしま」は、平成5年度計画掃海艇379号艇として、日立造船神奈川工場で1995年4月10日に起工され、1996年5月24日に進水、1996年12月11日に就役し、第1掃海隊群に編入され呉に配備された。
1996年12月25日、第1掃海隊群隷下に第1掃海隊が新編され、同日付で就役した「ながしま」とともに編入された。


2000年3月13日、掃海部隊の改編により、第1掃海隊が掃海隊群に隷下に編成替え。
2004年2月16日、大湊地方隊函館基地隊第45掃海隊に編成替え。


2005年8月4日、ロシア、ペトロパヴロフスク・カムチャツキー沖で浮上できなくなったロシア深海救難艇AS28の救助に潜水艦救難母艦「ちよだ」、掃海母艦「うらが」、掃海艇「うわじま」とともに派遣される。空輸されたイギリス無人潜航艇が救出に成功したため同月7日に帰投する。海上自衛隊として初の国際救難任務である。


2009年6月20日から6月29日、硫黄島周辺海域で平成21年度実機雷処分訓練に参加。
2011年3月11日、発生した東日本大震災の災害派遣に参加。宮古湾(日出島)北側などで捜索救難を実施した。
2012年4月15日、陸奥湾で墜落した第25航空隊所属SH-60Jの捜索に参加。


同年6月17日から6月21日、硫黄島周辺海域で実機雷処分訓練を実施。
2015年2月1日から2月10日、伊勢湾で平成26年度機雷戦訓練に参加。
同年6月19日から6月28日、硫黄島周辺海域で平成27年度実機雷処分訓練に参加。
同年11月16日午前5時頃、宗谷岬北東65kmを西に航行するロシア海軍のオスカー型原子力潜水艦1隻、ウダロイ級駆逐艦「マーシャル・シャポシニコフ」、アムガ級補給艦「ダウガヴァ」を発見し、監視した。その後日本海に入った。
2016年7月8日午後16時頃、宗谷岬北東85kmを航行するロシア海軍のキロ級潜水艦1隻を確認し、監視した。その後宗谷海峡を西に通峡した。又、同年7月10日午前1時頃にも、宗谷岬東北東110kmを航行するウダロイ級駆逐艦「アドミラル・パンテレーエフ」、「アドミラル・トリブツ」、宗谷岬東110kmを航行するソブレメンヌイ級駆逐艦「ビストルイ」、宗谷岬北東95kmを航行するアリゲーター型揚陸艦「ニコライ・ヴィルコフ」を発見した。その後宗谷海峡を西に通峡した。
同年11月13日、除籍される「まえじま」に代わり、転籍準備のため呉に向けて函館を出港。その後、JMU因島工場に回航した。
2017年3月27日、掃海管制艇に種別変更され、艇籍番号がMCL-731に変更。掃海隊群第101掃海隊に編入され、定係港が呉に転籍。

建造所 日立造船神奈川工場
運用者 海上自衛隊
艦種 掃海管制艇(中型掃海艇)
級名 うわじま型
母港 呉
所属 掃海隊群第101掃海隊
艦歴
発注 1993年
起工 1995年4月10日
進水 1996年5月24日
就役 1996年12月11日
2017年3月27日(掃海管制艇に種別変更)


要目
排水量 基準 490トン
満載 570トン
長さ 58.0m
幅 9.4m
深さ 4.2m
吃水 2.9m
機関 CODOE方式
主機 三菱6NM-TA(B)Iディーゼル × 2基
出力 1,800PS
推進器 スクリュープロペラ × 2軸
速力 最大速 14ノット
乗員 40人


兵装 JM61-M 20mm多銃身機銃 × 1門
搭載艇 4.9m型複合作業艇 × 1隻
ジェミニ・ディンギー処分艇 × 1隻
レーダー OPS-39-Y 対水上捜索用
ソナー ZQS-3-1 機雷探知機
その他 機雷処分具S-7 1形
53式普通掃海具(O型)改6
85式磁気掃海具S-6
71式音響掃海具S-2改1

 

 

うわじま型掃海艇は、海上自衛隊の中型掃海艇(Mine Sweeper Coastal, MSC)の艦級。
従来の掃海艇よりも深い中深度域に敷設された機雷への対処能力が付与されており、61中期防および03中期防において計9隻が建造された。

1970年代初期、優勢なアメリカ海軍原子力潜水艦に対抗して、ソビエト連邦軍は機雷の高性能化・深深度化を進めており、アンテナ機雷や短係止上昇式機雷のなかには水深2,000メートルまで敷設可能なものも出現してきた。このような深深度に敷設された機雷には、従来の掃海艇では対処困難であり、海中を航行する潜水艦にとって大きな脅威となった。


海上自衛隊においては、特に豊後水道・浦賀水道の2つのチョークポイントに機雷を設置された場合、それぞれ呉基地の第1潜水隊群、横須賀基地の第2潜水隊群の活動が大きく掣肘されることから、深深度の対潜機雷への対処能力の整備は非常に切迫したものとなった。このことから、61中期防においては、中深度域での機雷対処能力を備えた掃海艇(MSC)と、深深度機雷に対処するための1,000トン型掃海艦を整備することとされた。後者として整備されたのがやえやま型(01MSO)であり、前者として整備されたのが本型である。

設計は、おおむね先行するはつしま型最終型(62MSC)を踏襲している。使用樹種は下記のとおりで、キール摩材がケヤキとされた以外はおおむね62MSCと同一である。
ベイマツ - キール・スケグ、船底縦通材、チャイン材、フレーム、外板・甲板
ケヤキ - キール摩材
タモ - 合板


主機関は、62MSCと同系列で出力を増強した6NMU-TA(B)Iに更新された。これは三菱重工業のSU系列ディーゼル(S6U)を非磁性化して技術研究本部が開発した4サイクル6気筒ディーゼルエンジンである。また感応掃海具の電力を賄うための掃海発電機は、62MSCと同じく6NMU-TK-II型1基を搭載する。

装備
センサ
機雷探知機としては、62MSCで搭載されたZQS-2をもとに中深度海域に対応して発展させたZQS-3-1 機雷探知機が搭載された。原型となったZQS-2は、イギリス・プレッシー社のASDIC 193型を参考に技術研究本部が開発したもので、機雷探知用として100キロヘルツ、機雷類別用として300キロヘルツを使用することで、目標を探知すると共に確実に機雷と類別できるようになっていた。
また、対水上捜索レーダーも、62MSCで搭載されたOPS-9の改良型であるOPS-39-Yとされている。


機雷掃討
本型では、機雷処分具は中深度に対応したS-7 1形に更新された。これは有線式の遠隔操作無人探査機(ROV)で、円筒形の機体の後方には可動式のスラスターが、前方には上下動用のスラスターがトンネルを設けて設置されている。先端には精密走査用のイメージング・ソナー(超音波水中映像装置)、低光量ビデオカメラおよびサーチライトが装備されている。
機雷処分用として胴体下に処分爆雷1発を搭載しており、海底の機雷に向けて投下して破壊する。


機雷掃海
係維掃海具
係維機雷に対しては、28MSC以来装備化されたオロペサ型係維掃海具である53式普通掃海具(O型)をもとに、対艇掃海によって中深度域の掃海に対応した53式普通掃海具(O型)改6が搭載された。オロペサ型係維掃海具は、展開器と呼ばれる水中凧によって掃海索を左右数百メートルに展開するとともに沈降器によって一定深度に沈下させて曳航し、機雷の係維索を引っ掛けて、掃海索の数カ所に装備した切断器によってこれを切断していくものである。
感応掃海具
磁気機雷に対しては、62MSCと同じく85式磁気掃海具S-6が搭載された。一方、音響機雷に対しては、62MSCの搭載機を発展させた71式音響掃海具S-2改1が搭載された。これは1個の発音体で低周波と中周波を同時発生することができた。

 

 

尾道らーめん三公(さんこう)

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尾道らーめん三公(さんこう)
住所:広島市南区松原町2-37 広島駅ビルASSE内 2F
TEL:082-262-1374
営業時間:11:00〜22:00 (マツダスタジアムにてナイター開催時は23:00まで)
定休日:広島駅ビルASSEに準ずる。

広島市で気軽に楽しめて、かつ本格派の美味しい尾道ラーメンのお店です。
場所は、広島駅に併設の駅ビル「ASSE(アッセ)」さんの2階、広島駅南口の改札を出たら徒歩3分。一番の奥なので迷わずにつくと思います。

尾道ラーメンの特徴である鶏ガラと煮干しを主体とした澄んだ茶色スープ中に豚背脂が浮かぶのに対して尾道らーめん三公はイリコとアゴ(トビウオ)の煮干し、鶏ガラ、豚背脂は粒の大きい特級品のみを使用しスープの継ぎ足した熟成技法が活きたスープです。


麺は中村製麺所さんの尾道ラーメン特徴である平打ち麺と細麺(三公さんお薦め)の2種類から選べるようになっています。

具材(トッピング)・チャーシュー・青ネギ(京都九条ネギ)・メンマなど

ワコー・クラシック・エアクラフトYMFワコーF5C(米国製)複葉機

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ワコー・クラシック・エアクラフトYMFワコーF5C(米国製)
JA55BP
星形エンジン搭載
機体は鋼管布羽張りの機体
エンジン出力:275hp、最大離陸重量:1338kg、3人乗り

複葉機(ふくようき)とは、飛行機[1]において、揚力を得るための主翼が2枚以上あるものを指す。しかしほとんどは2枚であり、3枚以上の飛行機は少ない。狭義として2枚のもののみを「複葉機」とし、3枚のものを「三葉機」、4枚以上のものを「多葉機」と区別することもある。但しミサイルに見られるような、胴体を貫通する主翼2枚が十字型X字型に直交して配された物は、一般に「複葉機」と呼ばない。


揚力は速度の2乗、密度、翼面積に比例するが、飛行機の発展当初においてはエンジンが非力で速度が小さく、そのため機体を飛ばすのに必要な揚力を確保するには翼面積を大きくする必要があった。だが当時の翼は布張り木製で強度がなかったため、短い翼を上下に配置しその間に桁やワイヤーをめぐらすことで、強度を保ちつつ翼面積を大きくすることに成功した。
しかし、複葉翼は上下の翼間において流れの干渉が起こるため単純に翼2枚分の揚力は発生しないうえ、上下の翼をつなぐのに使用されるワイヤーの抵抗が大きく(抗力係数が翼型の数倍~数十倍)、効率が悪かった。そのため飛行機の速度性能の向上や製造技術の向上に伴う翼の強度の向上とともに欠点が目立つようになり、1930年代後半には金属製の単葉機が一般的となる。
しかしながら上下の翼の干渉は両翼を前後にずらすことにより、空気抵抗はワイヤーの本数を減らすことや、ワイヤーを廃し空気抵抗をできるだけ小さくした桁のみで主翼を支えることで、ある程度の解決はできた。一方で単葉機の側も初期の頃は洗練がなされず、必要な強度を確保するため主翼を厚くして空気抵抗を増して失敗した例もある。そのため1920年代から1930年代は、単葉機と複葉機が併用された時代であった。例えば1925年のシュナイダー・トロフィー・レースでは、複葉機のカーチス R3C-2が単葉機のマッキ M.33に対して勝利している。
第二次世界大戦期には練習機や観測機を除き、ほとんど単葉機への移行が完了したものの、日本、ドイツ、イギリス、イタリア、ソビエト連邦では複葉機の使用例もある。特にイタリアは1930年代において当時最速の時速709kmの単葉水上機マッキ M.C.72を開発しており、この分野では先駆者であったにもかかわらず、複葉戦闘機であるCR.42を1942年まで生産し続けた(なお同機は、イタリア休戦後の1943年にはパルチザン掃討に使用するため、ドイツの命令により150機が生産された)。
省スペース性やロール特性といった理由から、現代でもスポーツ機や農業機、ウルトラライトプレーンに残っている。
航空力学上の研究対象としては、誘導抗力や衝撃波の低減など、いくつかの可能性が現在も研究されている。

ブーゼマン複葉翼
1930年代にドイツの航空工学者アドルフ・ブーゼマンが提唱したブーゼマン複葉翼を戦後NASAなどが研究していた。これは二枚の翼に発生した衝撃波を干渉させ打ち消すもので、超音速機に発生する衝撃波の低減が期待されていたが、迎角が変化すると干渉が崩れてしまう。超音速巡航状態以外では逆に既存の翼より抗力が大きい。翼端では干渉が崩れる
などの問題によって研究は打ち切られた。これらの問題を解決するため、全翼機のように胴体を上の翼上に配置し、上下の翼端を接触させることでメリットを保ったまま、デメリットを打ち消す案が研究されている。

弁天町駅 大阪市高速電気軌道

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弁天町駅(べんてんちょうえき)は、大阪府大阪市港区波除(なみよけ)三丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・大阪市高速電気軌道(大阪市営地下鉄)の駅である。駅番号は、JR西日本がJR-O15、大阪市営地下鉄がC13。JR西日本の駅シンボルフラワーは「向日葵」である。

天保山を擁する大阪築港への入口にあたる駅で、JR西日本の大阪環状線と、大阪市営地下鉄の中央線との乗換駅となっている。

JR駅の高架のさらに上層に地下鉄駅が位置するという構造が特徴的である。この他、駅周辺では阪神高速17号西大阪線・国道43号・阪神高速16号大阪港線が交差し、交通の要所となっている。

駅名は開設当時の町名である大阪市港区弁天町に由来するが、駅自体は2筋西の八雲町に位置していた。この「弁天」は市岡新田会所に弁才天が祀られていたことに由来する。八雲町は現在の波除である。

駅開設当時の大阪市内には、当地の港区弁天町の他にも東区(現在の中央区)弁天町や東住吉区瓜破弁天町があったが、前者は1979年に城見に改称、後者は1974年の平野区分離の際に瓜破に改称された。

大阪市高速電気軌道
駅は中央大通の中央分離帯部分の高架部にあり、大阪市交通局内で最も標高が高い場所にある駅であり、地表面からの高さでは日本国内で最も高い位置にある地下鉄の駅となっている。

相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、2階が改札口、3階がプラットホームである。改札口は東西2ヶ所で、東口はJR駅への連絡通路があり、西口は大阪市教育センター、クロスタワー大阪ベイ、ORC200とつながっている。エスカレーターは東口が1番線ホームへの階段に、西口が1・2番線ホーム両方の階段に併設されている。エレベーターはORC200内がオープンしてからは同施設のものしか利用できなかったが、2006年に4ヶ所のエレベーター(東改札内 - 1番線ホーム、東改札内 - 2番線ホーム、4号出入口 - JR駅連絡通路 - 東改札外、6号出入口 - 東改札外)が大阪市交通局によってそれぞれ設置され、同年8月から供用を開始した。

阿波座管区駅に所属し、駅長を配置する。また、九条駅を管轄する。

PiTaPa、スルッとKANSAI対応各種カードの利用が可能である。

幻の連絡通路
地下鉄中央線とJR大阪環状線の連絡は、地下鉄とJRのそれぞれのコンコースを歩廊橋で結ぶ形となっているが、岩村潔『大阪市地下鉄の歩み』によると、地下鉄弁天町駅の設計時、大阪市交通局は大阪環状線のホームから直接地下鉄のホームへと連絡できるような歩廊橋を計画していた。日本国有鉄道(国鉄)に提出された設計図によれば、大阪環状線の内・外回り両ホームから南側へ20メートルにわたり幅員6.5メートルの連絡通路が延び、階段を上った先で両通路が合流、大阪環状線を跨いで幅員12メートルの通路となるものであったが、この計画は国鉄側が反対したため採用されなかった。なお、設計図は大阪市公文書館に保管されている

大阪市営地下鉄 - 2016年11月8日に行われた交通調査によると、特定日における1日の乗降人員は36,210人(乗車人員:18,299人、降車人員:17,911人)であった。

駅周辺
1990年代以降、梅田・大阪駅への近さから新たな住環境の魅力が見直され、周辺では高層マンションなどが多く建設されている。2014年4月6日までは駅に隣接して交通科学博物館があった(跡地は大阪環状線改造プロジェクトの一環として再開発の予定)。

バス路線
路線バス
大阪市営バスが運行しており、地下鉄中央線2-B号出入口付近に「弁天町駅前」停留所が設置されている。

51号系統:第三突堤前経由 天保山行/ドーム前千代崎行(引き続き98号系統大正区役所前行として運行)
84号系統:地下鉄朝潮橋経由 八幡屋三丁目行/地下鉄西長堀経由 なんば行
高速バス
日本交通が運行しており、乗車は「弁天営業所」、降車は地下鉄中央線3号出入口付近の「大阪弁天町」停留所で扱う。

山陰特急バス:鳥取駅前・倉吉バスセンター・米子営業所行


1961年(昭和36年)
4月25日 - 日本国有鉄道の西九条駅 - 境川信号場間延伸(大阪環状線の全線開通)により開業。
12月11日 - 大阪市高速鉄道第4号線(現在の大阪市営地下鉄中央線)が大阪港駅 - 当駅間で開業。高速鉄道の駅が開業し乗換駅となる。
1962年(昭和37年)1月21日 - 駅の高架下に交通科学博物館(旧称:交通科学館)が開館。
1964年(昭和39年)10月31日 - 大阪市高速鉄道第4号線が当駅から本町駅(仮駅)まで延伸、中間駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅は西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1995年(平成7年)6月8日 - JR西日本に自動改札機導入。
1996年(平成8年)1月11日 - 大阪市営地下鉄に自動改札機導入。


2003年(平成15年)11月1日 - JR西日本でICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2014年(平成26年)4月6日 - 交通科学博物館が閉館。同館の一部機能は2016年(平成28年)4月29日に開業した京都鉄道博物館(京都府京都市下京区)へ継承。
2015年(平成27年)3月22日 - JR西日本に発車メロディを導入。曲は「線路は続くよどこまでも」。
2018年(平成30年)3月17日 - JR西日本に駅ナンバリングが導入され、使用を開始する。


所属路線 C 中央線
キロ程 5.5km(コスモスクエア起点)
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 18,299人/日(降車客含まず)
-2016年-
乗降人員
-統計年度- 36,210人/日
-2016年-
開業年月日 1961年(昭和36年)12月11日

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