J3とは石川島重工業(現IHI)、富士重工業、富士精密工業、三菱重工業、川崎重工業の5社が共同出資して設立した日本ジェットエンジン(NJE)によって開発されたターボジェットエンジン。
日本初のジェット練習機であるT-1 中等練習機は、搭載するターボジェットエンジンもまた国産品であることが、当初から望まれていた。エンジンは機体の開発とほぼ同時に進められることとなったが、1955年(昭和30年)5月に、T-1搭載の試作エンジンXJ3への要求が防衛庁から寄せられ、12月には庁議でエンジン試作が決定し、翌1956年(昭和31年)3月末にNJEと防衛庁でエンジン試作の契約を行った。
エンジンの設計、開発はほぼ順調に進み、6月末には試作1号機(XJ3-3)が完成した。しかし、11月からの試運転では至るところで故障、破壊が相次ぎ、問題は山積みとなった。12月には初号機が防衛庁に納入されたが、庁内でもやはり問題が相次ぎ、使い物になるにはおよそ2年半を費やした。その間、T-1(T1F1)本体はXJ3よりも1年早く開発し出したことから、1957年(昭和32年)に完成しており、J3が使い物にならないため、英ブリストル社製オーフュースを搭載したT1F2が初飛行した。
XJ3がまだ一向に量産に至らず、だからといって防衛計画をエンジンの都合でずらせるはずも無かったため、トラブル続きのJ3に待ちきれなくなった防衛庁はオーフュースを輸入して搭載させた。また、同時に完成したとしても、試作機に試作エンジンを載せることは不具合が起きた場合にどちらが原因かわからない、ということも考えられていた。T-1量産第一期の20機には間に合わず、第二期の20機にも間に合わず(これらは試作機6機とあわせてT-1Aとなった)、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。
小型エンジン開発にも手間取っている様子から、NJEには途中で通産省の行政指導によって川崎も参加した5社体制になっていたが、その5社の首脳によって1959年(昭和34年)初頭、NJEの今後について話し合いが持たれた。防衛庁がXJ3改めJ3エンジン生産の責任をはっきりさせるため、寄り合い所帯で曖昧になりやすいNJEから一社に集約し、品質やコストを保証していく体制を要求したのである。
J3は防衛庁が50基程度を発注することとしていたが、それはメーカーにとって膨大な赤字が伴うことであった。開発が長引いたために開発費が暴騰し、量産台数が少ないために一基あたりの単価は開発費を上乗せすると非常に高価になるが、ブリストルからの購入を打ち切ってJ3にするためには、性能が落ちる以上、価格が安いから、という理由にしなければ、ブリストル側を納得させることはできなかった。そのためJ3は購入価格が抑えられ、膨大な赤字を出すわけである。
5社によって様々な話し合い、駆け引きが行われたが、結局は石川島重工業に製造権を渡し、各社が協力する、という形で収まった。実質、この時点で4社はJ3に見切りをつけ、ジェットエンジンから手を引いた事になる。年内に開発を正式に引き継いだ石川島重工業は、試作XJ3の各種の試験と改善を行い、量産先行機YJ3-3を7月に完成させた。翌1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併した石川島重工業はIHIとなり、同年にYJ3-3をT1F2の試作1号機に搭載(オーフュースから転換)し、T1F1として5月17日に初飛行させた。J3の量産はIHIに引き渡され、NJEは解散した。1961年(昭和36年)に防衛庁によって制式採用され、J3-3となった。
50基を受注したはずのJ3だったが、F-104戦闘機の導入によって教導飛行方針が転換され、T-1の配備数を削減することから、第三期分の20基で生産終了してしまった。IHIはその後もJ3の改良開発を行い、1967年(昭和42年)から海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機(川崎製)の補助エンジンとしてJ3-7C/Dが採用された。
エンジンの設計、開発はほぼ順調に進み、6月末には試作1号機(XJ3-3)が完成した。しかし、11月からの試運転では至るところで故障、破壊が相次ぎ、問題は山積みとなった。12月には初号機が防衛庁に納入されたが、庁内でもやはり問題が相次ぎ、使い物になるにはおよそ2年半を費やした。その間、T-1(T1F1)本体はXJ3よりも1年早く開発し出したことから、1957年(昭和32年)に完成しており、J3が使い物にならないため、英ブリストル社製オーフュースを搭載したT1F2が初飛行した。
XJ3がまだ一向に量産に至らず、だからといって防衛計画をエンジンの都合でずらせるはずも無かったため、トラブル続きのJ3に待ちきれなくなった防衛庁はオーフュースを輸入して搭載させた。また、同時に完成したとしても、試作機に試作エンジンを載せることは不具合が起きた場合にどちらが原因かわからない、ということも考えられていた。T-1量産第一期の20機には間に合わず、第二期の20機にも間に合わず(これらは試作機6機とあわせてT-1Aとなった)、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。
小型エンジン開発にも手間取っている様子から、NJEには途中で通産省の行政指導によって川崎も参加した5社体制になっていたが、その5社の首脳によって1959年(昭和34年)初頭、NJEの今後について話し合いが持たれた。防衛庁がXJ3改めJ3エンジン生産の責任をはっきりさせるため、寄り合い所帯で曖昧になりやすいNJEから一社に集約し、品質やコストを保証していく体制を要求したのである。
J3は防衛庁が50基程度を発注することとしていたが、それはメーカーにとって膨大な赤字が伴うことであった。開発が長引いたために開発費が暴騰し、量産台数が少ないために一基あたりの単価は開発費を上乗せすると非常に高価になるが、ブリストルからの購入を打ち切ってJ3にするためには、性能が落ちる以上、価格が安いから、という理由にしなければ、ブリストル側を納得させることはできなかった。そのためJ3は購入価格が抑えられ、膨大な赤字を出すわけである。
5社によって様々な話し合い、駆け引きが行われたが、結局は石川島重工業に製造権を渡し、各社が協力する、という形で収まった。実質、この時点で4社はJ3に見切りをつけ、ジェットエンジンから手を引いた事になる。年内に開発を正式に引き継いだ石川島重工業は、試作XJ3の各種の試験と改善を行い、量産先行機YJ3-3を7月に完成させた。翌1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併した石川島重工業はIHIとなり、同年にYJ3-3をT1F2の試作1号機に搭載(オーフュースから転換)し、T1F1として5月17日に初飛行させた。J3の量産はIHIに引き渡され、NJEは解散した。1961年(昭和36年)に防衛庁によって制式採用され、J3-3となった。
50基を受注したはずのJ3だったが、F-104戦闘機の導入によって教導飛行方針が転換され、T-1の配備数を削減することから、第三期分の20基で生産終了してしまった。IHIはその後もJ3の改良開発を行い、1967年(昭和42年)から海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機(川崎製)の補助エンジンとしてJ3-7C/Dが採用された。
主要各型解説
J3-3:T-1B用の量産型エンジン
XJ3-S1〜S3:燃焼器短縮型試作エンジン
XJ3-G:抽気用エンジン、飛行艇用吹き出しフラップの予備実験等の様々な実験に使用された
XJ3-F:アフトファンを装着し試作されたターボファンエンジン
J3-7B:推力増大型エンジン、T-1B-10用に量産
J3-7C:P-2J用量産型エンジン、耐食性を向上
J3-7D:P-2J用量産型エンジン、7Cの推力増大型
YJ3-8:推力増大型試作エンジン
XJ3-A/B・I:XJ3-3にアフターバーナーを追加した試作エンジン
YJ3-A/B・II:YJ3-7をベースに、固定ノズルであったXJ3-A/B・Iに対し、F-86D用の可変ノズルを改修し装着した試作エンジン
圧縮機:軸流8段圧縮機
燃焼器:アニュラー型燃焼器
タービン:軸流1段タービン
J3-IHI-3
長さ:2,330 mm
幅:852 mm
高さ:962 mm
重量:374 kg
圧縮比:4.2
推力:1,200 kg
J3-IHI-7B
重量:390 kg
圧縮比:4.5
推力:1,400 kg
J3-IHI-7C
長さ:2,080 mm
幅:630 mm
重量:380 kg
推力:1,400 kg
J3-IHI-7D
圧縮比:4.6
推力:1,550 kg/3,400 lb
J3と関連するジェットエンジン
ネ20 - 第二次世界大戦末期に石川島重工業が開発に協力した日本初のターボジェットエンジン。
JRシリーズ - J3-3型をベースに試作開発されたリフトジェットエンジン。
F3 - 1970年代に始まる防衛庁とIHIの共同研究から生まれたターボファンエンジン。
FJR710 - 産学官連携で研究が進められてきた高バイパス比ターボファンエンジン。
J3と関連する人物
永野治 - 戦前にネ-20の開発に参加し、J3を完成に導いた技術者