Quantcast
Channel: 観光列車から! 日々利用の乗り物まで
Viewing all 3250 articles
Browse latest View live

FA-200改型STOL実験機

$
0
0

FA-200は、日本の航空機メーカー富士重工業で製造された軽飛行機。愛称は富士重工業の自動車のブランド「スバル」からとったエアロスバル。1965年(昭和40年)に初飛行。1986年(昭和61年)に生産終了するまでに、試作機3機を含めて299機が製作された。

富士重工業は、T-34A練習機をライセンス生産し、その改良型として連絡機LM-1、練習機KM-2を製作し、自衛隊に納入していた。こうした小型機の製造のノウハウを活かし、本格的な民間機として開発したのが本機である。原型機は1965年8月12日に初飛行した。

日本の航空法による小型飛行機の耐空類別3種(普通N、実用U、曲技A)を全てを取得した。

機体
ライカミング・エンジンズ製水平対向4気筒レシプロエンジン(160HP/120kWまたは180HP/135kW)単発、低翼、固定脚という保守的なレイアウトのプロペラ機である。機体は全金属製で、風防屋根などにアルミ合金を多用したほか、尾翼と舵面に波板を用い、計器板の上蓋が機体前部の構造材を兼ねるなど、艤装部材と構造部材を一体化させることによる重量軽減がなされている。手動式スロッテッド・フラップ、降着装置に3車輪式固定脚、操縦室にはスライド式キャノピーを採用し、容易な乗降を可能としている。主翼や尾翼、舵の大きさ、翼形、舵の断面、主翼と尾翼の位置関係、胴体線図等は、中島飛行機時代からの富士の過去のデータを元に決定し、絞り加工を必要としない円錐や円筒を多用した胴体、翼端まで同一断面の主翼や尾翼を用いるなど、価格低減の努力が行われた。。主翼は低翼配置の単桁構造で、前縁を大容量のセミ・インテグラルタンクにすることで、航続距離を1,000kmまで延長可能。

良好な運動性と十分な航続距離を備えていたが、キャビン後部が小さく居住性が悪いため旅客や遊覧飛行には適さず、積載スペースが小さく投下用のドアを備えていないため物資の運搬・投下など輸送業務にも向いていなかった。このため、主に練習機やスポーツ機として利用された。


製造・販売
アクロバット飛行も可能な運動性能により評価は高く、1977年まで生産が続けられ、全日本空輸、航空大学校をはじめ、飛行クラブ、個人の自家用などに276機を販売し、その内170機は西ドイツ・イギリス・オーストラリア・南アフリカ・ギリシャと言った海外に輸出した。以降は受注生産となり、1986年(昭和61年)の生産終了までに合計296機を売り上げたが、これは500機を超えて成功と言われる小型機業界で、予想された業績を大きく下回った。

日本の航空宇宙技術研究所(NAL)は1機を購入し、短距離離着陸(STOL)特性を研究する為の実験機として使用した。航空大学校でも、1971年(昭和46年)から1994年までパイロット養成訓練用機として使用していた。航空大学校で使用しなくなった機体が日本各地の航空専門学校で整備訓練用機として使用されている。

富士重工業はFA-200に続いて、アメリカのロックウェル・インターナショナルと共同でビジネス用双発プロペラ機FA-300(富士700)を開発、発表したが、50機ほどの販売で生産中止となり、10億円もの損失を出してしまった。もともと航空産業を厄介に感じていた日本興業銀行出身の首脳は、これを機として民間小型機事業からの撤退を決めた。これ以降も自衛隊向けの練習機として小型機を製造している。

初飛行から40年以上が経過しているが、現在も国内外で多くのFA-200が飛んでいる。また、かかみがはら航空宇宙科学博物館にFA-200改が、航空科学博物館・栃木県子ども総合科学館[2]・神戸市立青少年科学館にFA-200が展示されている。

派生型
FA-200-160
飛行訓練や遊覧用の基本型。160馬力のエンジンに固定ピッチプロペラを装備。
FA-200-180
曲技飛行用の発展型。定速プロペラを装備し、エンジンをライカミング製IO-360-B1B(180 馬力) に換装。燃料系統にはキャブレターでなく、IOのI (Injector) が示すとおり燃料噴射装置が用いられている。
FA-180AO
FA-200-180を元に機体を再設計し、整備の簡素化と価格低減を目指した改良型。180馬力の気化器付エンジンに固定ピッチプロペラを装備。
FA-200改
日本の航空宇宙技術研究所(NAL、現JAXA)によって短距離離着陸 (STOL)の研究用に改修された機体。FA-200-160を元に、エンジンを180馬力に強化し、計測装置の装備。さらに、水平安定板を可変翼(-3~+3度)に改造。
FA-200XS
FA-200改を元に、本格的なSTOL機として再改修された機体。境界層吸込式フラップを装備した主翼を換装し、境界層吸込ブロア用にスバル・360のエンジンを胴体に搭載。

登場するフィクション
『007は二度死ぬ』
大里化学工業の所有機が登場。上空からジェームス・ボンドを追い詰める。
『バトルフィーバーJ』
オープニング映像で、バトル・ジャパンこと伝正夫が曲技飛行する機体が登場。
『フライト・イン・ハワイ』
システムサコムが1987年に発売していたPC用フライト・シミュレーター・ソフト。作中で唯一、搭乗・操縦出来る機体がFA-200エアロスバルであった。対応機種は、PC-9801シリーズ(NEC)、及びFM-16βシリーズ(富士通)。
『1/36 富士FA-200エアロスバル』
東京マルイが1970年頃に販売していたプラモデル。


スペック
FA-200-180
定員 - 4名
全長 - 7.98 m
全幅 - 9.42 m
全高 - 2.59 m
翼面積 - 14.0 m2
空虚重量 - 650 kg
総重量 - 1,150 kg
エンジン - ライカミング・エンジンズ製IO-360-B1B × 1基
出力 - 180 馬力
最大速度 - 230 km/h=M0.19
航続時間 - 6.4 時間
上昇限度 - 4,145 m
用途:民間用
分類:軽飛行機
製造者:富士重工業
運用者:全日本空輸、航空大学校、NALほか
初飛行:1965年8月12日
生産数:299機
運用状況:運用中


FJR710 高性能ターボファンエンジン

$
0
0

FJR710は、日本で研究開発された高性能ターボファンエンジンである。1971年(昭和46年)から2期に分け合計10ヶ年以上をかけて、旧通商産業省(経済産業省)工業技術院の大型プロジェクト制度の基に研究開発され、推力 (Thrust) 5,000 kg、燃料消費率 (SFC) 0.34、バイパス比 6 を目指していた。その成果はV2500エンジンなどに生かされている。

第一期
1971年(昭和46年)度-1975年(昭和50年)度、総開発費 67 億円。通産省工業技術院、科学技術庁航空宇宙技術研究所および民間 3 社(石川島播磨重工、三菱重工、川崎重工)により技術者が派遣され設立された「FJRデザインセンタ」と東京大学等の学界の研究開発能力を結集してこのプロジェクトは行われた。第一期ではターボファンエンジンの「試作」に重点が置かれ、第1次 / 第2次それぞれで "FJR710 / 10" および "FJR 710 / 20" 各 3 機が試作された。これらが性能試験、耐久試験、耐環境試験に供された。

第二期
1976年(昭和51年)度-1981年(昭和56年)度(一部57年に繰越)、総開発費185億円(当初、その後減額されて130億円)。「FJRデザインセンタ」は鉱工業技術研究組合法に基づき「航空機用ジェットエンジン技術研究組合」に名称変更され、第一期の成果をふまえて更に実用エンジンに近づけるため、FJR710 / 600 が3基設計製作(初号機完成が1978年度末)され、耐空性審査要領に定められた耐空性確認試験に供された。第二期第二次として推力7,000 kg クラスのエンジン試作 "FJR710 / 700" も計画されていたが基本設計に着手した段階で後述の理由により中断された。

飛鳥
1982年(昭和57年)12月にプロジェクトは終了し、その後の研究は旧航空宇宙技術研究所 (NAL) に引き継がれた。NAL は FJR710 / 600 をさらにブラッシュアップしたFJR710 / 600S を6基製作し、航空自衛隊所属の試験用機 C-1FTB に同エンジンを搭載してのエンジン空中試験(1984年(昭和59年))等を実施した後、STOL実験機「飛鳥」に搭載し、1985年(昭和60年)10月28日の初飛行以降100回近くの飛行試験に供された(最終試験は1989年(平成元年)3月)。エンジン総運転時間は7,100時間に達している。

研究成果
第一期で試作した FJR710 / 20 は1977年(昭和52年)にイギリスの国立ガスタービン研究所 (National Gas Turbine Establishment : NGTE) に持ち込まれ、擬似高度エンジン試験設備を使用して高空性能を測定した。この結果、FJR710 が極めて性能が良いことが確認され、かつ、試験中のエンジン不具合が皆無であった。この事実を高く評価したロールス・ロイス社は1978年(昭和53年)初頭、推力 10,000 kg クラスのターボファンエンジン(ボーイング 737-300などが想定機種)の共同開発を呼びかけ、1982年(昭和57年)には日英両国で各1機の試験用エンジンRJ500の完成に至った。

この RJ500 エンジンは、ボーイング社がボーイング737-300のエンジンにGE製CFM56-3を選定してしまったためそれ以上の開発は行われなかったが、翌年になりプラット・アンド・ホイットニー(アメリカ)、MTU(西ドイツ、当時)およびフィアット(イタリア)の 3 社グループが加わり、スイスに IAE (International Aero Engines AG) という名称のエンジン製造会社を設立(のちにフィアットは出資者から離脱)。ここでやや推力を高めた新エンジン "V2500" を開発した。この国際共同開発エンジンはエアバス A320 やマクドネル・ダグラス MD-90 等に採用され、2007年(平成19年)現在で 3,000 台を越える受注を得た。

仕様
形式:高バイパス比2軸ターボファンエンジン
長さ:2,352 mm
幅:1,300 mm
高さ:1,700mm
重量:980 kg
最大推力:4,800 kg
圧縮機:1段ファン、1段低圧軸流圧縮機、12段高圧軸流圧縮機
燃焼器:アニュラー型燃焼器
タービン:2段高圧タービン、4段低圧タービン
全圧力比:19

JR四国8600系電車(特急しおかぜ)

$
0
0

JR四国8600系電車
8600系電車(8600けいでんしゃ)は、四国旅客鉄道(JR四国)が2014年(平成26年)6月に営業運転を開始した直流特急形電車

予讃線で使用されている2000系気動車の老朽化に伴い、その置換え用として登場した特急形電車である。JR四国における特急形電車の新製は8000系電車以来21年ぶりであり、開発には、鉄道建設・運輸施設整備支援機構の特例業務勘定の利益剰余金を利用した費用支援が行われており、量産先行車の導入に約10億円が費やされている。
キャッチコピーは「SETOUCHI STREAM EXPRESS」で、8000系電車のキャッチコピー「瀬戸の疾風」を踏襲したものである。
曲線での速度向上のため、車体傾斜制御装置を搭載しているが、本形式では従来2000系気動車・8000系電車で用いられた制御付き自然振子方式ではなく、台車構造の簡素化による省メンテナンス化と、到達時分の短縮の両立を図るために台車枠と車体の間にある左右の空気ばねの内圧を制御して、車体を傾斜させる空気ばね式車体傾斜方式を採用している。


構造
デザインコンセプト
内外装や調度デザインの製作は建築デザインの経験があるJR四国の社員と車両メーカーが共同で行っている。デザインコンセプトは「レトロフューチャー」とし、「ノスタルジックな鉄道車両のイメージを未来特急としてデザイン」している。
車体
エクステリアデザインは、先頭部を蒸気機関車を模したブラックフェイスとし、「列車の力強さ・ダイナミズム」を表現している。車体色はオレンジとグリーンが用いられ、「瀬戸内の温暖な風土」と「穏やかで美しい四国の自然」、「愛媛」と「香川」をイメージし、特急のスピード感を流線(ストリームライン)でなぞらえている。車体下半分はグレーとした。
先頭部はすべて貫通構造であり、貫通扉にはLED式の愛称表示器を装備している。
各客用扉付近には「SHIOKAZE EXPRESS OKAYAMA / MATSUYAMA」・「ISHIZUCHI EXPRESS TAKAMATSU / MATSUYAMA」の文字と各列車のヘッドマークが描かれたステッカーが貼られており、Tc, Tsc車の3位・4位側側面には「SS」・「SETOUCHI STREAM EXPRESS SS8000」のロゴマークがそれぞれ描かれている。
車体はステンレス鋼を用いた溶接組立構造のステンレス車体を採用しており、車体の側面の側構体には、溶接歪による凹凸が少ないレーザ溶接が使用されている。先頭部分の先頭鋼体部は普通鋼製を用いた溶接組立構造である。床面高さは8000系と同様の1105mmである。
また、運転台部分に衝撃吸収構造を採用しており、前面から運転席の乗務員腰掛背面までをサバイバルゾーン、運転席の乗務員腰掛背面から客室扉があるデッキまでをクラッシャブルゾーンとしている。また、Tc, Tsc車後位側には衝撃エネルギーの吸収要素を装備し、確実に機能させるため、車端にアンチクライマを設置している。
客用扉は8000系電車などと同様に各車片側に2つずつ、車端側に設置されているが、本系列ではプラグドアではなく一般的な引戸とされた。また、半自動機能付きで、そのためのドア開閉用ボタンも設置されている。また、車掌や客室乗務員が使用する放送装置は、車外放送が可能となっており、無人駅での集札業務が多いJR四国での地域事情を考慮している。


室内
車両・座席種別ごとに「グリーン(Fresh Green)」・「オレンジ(Shine Orange)」・「茜色(Deep Red)」のアクセントカラーが設定されており、座席色やデッキ部手すり、乗降用ドアの室内側の塗装に反映されている。
また客室にはバリアフリー整備ガイドラインを考慮した設備を導入している。照明にはLED照明を採用している。
車内案内表示器(フルカラーLED式)は客室妻扉上部のほか、普通車半室を指定席とする場合の案内用として客室中央にも設置している。


普通客室
インテリアのコンセプトは「未来を想起させる明るく洗練された車内空間」「先進感の中にナチュラルなぬくもりを感じることができる」インテリアとし、窓下に木質系のテクスチャーを配置している。なお、座席色は車両のインテリアのアクセントカラーに準じ、グリーンとオレンジが存在する。
腰掛は2+2配置の回転式リクライニングシート(座面連動式・可動式枕つき)を980mm間隔で設置している。後述のように、8000系と比較して超過遠心力(横G)の許容値を引き上げて設計しているため、腰掛は着席時の横Gの間隔を緩和するため適度なくぼみを追及し、座席背もたれを高くすることで総合的なホールド感を向上させている。
足元にはフットレストを装備しているほか、肘掛には交流100V用の電源コンセントを備えている。背面テーブルはノートパソコン使用を考慮し、8000系の250mm×380mmから250mm×420mmに拡大されている。また、キャリーバッグなど手荷物の大型化に対応し、航空機の持ち込み可能手荷物の基準を考慮して荷棚を拡大している。


グリーン客室
インテリアは普通車と異なり妻壁を木質系としているほか、じゅうたん敷きの床とすることで「落ち着きのある空間」としている。
Tsc車に半室で設定され、2+1配列の回転式リクライニングシート(可動式枕つき)を1170mm間隔で設置している。普通客室と同様肘掛に電源コンセントを設けているほか、電動レッグレスト・読書灯を設置している。なお、シートモケットはアクセントカラーの茜色にカラフルなドットラインの波形を重ねることで、「瀬戸内海の穏やかな海や豊かな自然」といった「四国の豊潤な自然の恵み」を表現している。


運転台
乗務員室は、列車の分割・併合が容易に行える貫通構造の高運転台構造とし、高速走行時の視界確保と乗務員の安全を確保している。前面窓の運転席側と助士席側にはワイパーが装備されているが、運転席側に補助のワイパーを装備しており、主ワイパーが故障した際にはバックアップとして使用される。
その他設備
Tc・Tsc車に多機能便所・男性用小便所および洗面台、Mc車に通常の洋式便所と男性用小便所を設けている。多目的室はTsc車に設置している。
また、Tc・Tsc車の多機能便所前の通路は立客向けに明かり取り窓とコンセントのついたカウンター(ユーティリティスペース)を設けている。


主要機器
基本的に車両の性能確保を前提としたうえで、既存車両と共通化を図っているほか、新設計された機器も最小限の変更で既存車両に代替品として使用可能としている。
ユニットを組むMc車とTc(Tsc)車の2両に主要機器を分散搭載しており、Mc車にはVVVFインバータなどの主回路機器が、Tc車には集電装置や補助電源装置、空気圧縮機などの補機類が搭載される。
電源・制御機器
主回路制御方式は架線からの直流1,500 VをVVVFインバータで三相交流に変換して交流誘導電動機を制御するVVVFインバータ制御を採用する。
VVVFインバータ装置は S-CS63 と呼称される。IGBT素子を使用した2レベル電圧形PWMインバータ1基で1基の電動機を制御する、いわゆる1C1M構成とすることで故障時に1群ごとの開放が可能となる冗長性の高い設計である。ブレーキ方式は回生・発電ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキを採用しており、常用ブレーキ、非常ブレーキ、抑速ブレーキ、直通予備ブレーキの4種類を備えている。発電ブレーキ時に使用するブレーキチョッパ装置 S-CH63 と自然冷却式ブレーキ抵抗器 S-MR63 も装備しており、架線への回生負荷がある場合には回生ブレーキを優先させ、常用ブレーキ使用時では0km/h付近まで回生ブレーキを使用できるが、架線への回生負荷が無い場合においての回生失効時には、架線電圧の急上昇を検知して発電ブレーキに切替るようになっている。また、滑走制御機能付きのブレーキ制御装置を台車近傍に装備して車輪のフラット防止を行う。
主電動機は東洋電機製造製の全閉外扇形三相かご形誘導電動機 S-MT63(端子電圧1,100V、電流161A、周波数172Hz、1時間定格出力220kW、定格回転数3,400rpm、効率93.5%[2])を採用する。固定子コイルや回転子周辺への塵埃の侵入を防ぐ事ができ、従来の開放形主電動機と比較して保守性に優れた構造となっている。さらに、外扇ファンによる冷却風が固定子鉄心を直接冷却することで冷却性能に優れている。
補機用・制御用電源として、静止形インバータ S-SIV150M を2基搭載する。そのうちの1基を待機予備とする待機2重系とすることで、冗長性を確保する設計である。
空気圧縮機はSIV出力の三相交流440V 60Hzを電源とする S-MH13-SC1600 を採用し、空気ブレーキや空気ばね式車体傾斜などへの圧縮空気の供給を行う。
冷房装置は集中式 AU721S を各車1基搭載する。停電で電力が絶たれた際にも換気が可能となる機能の他、トンネル進入時にダンパを制御して汚れた空気の流入を防ぎ、機器構成単位ごとのモジュール設計を導入して作業性の向上が特徴である。


集電装置
集電装置は、JR四国の車両としては初めてとなるシングルアーム型パンタグラフ S-PS61 が採用され、Tc・Tsc車後位に搭載する。バネ上昇式・空気下降式であり、電磁カギ外し装置を備える[13]。側面にアーク保護板を取り付けたメタライズドカーボンすり板を採用し、高速走行での追従性向上のためにオイルダンパーを搭載する。車体取付寸法は、8000系電車の(S-PS59)と共通とすることで互換性を持たせている。なお、集電装置取付部の屋根は予讃線の狭小トンネルに対応するため通常部の3560mmから3305mmへ255mm低屋根化されている。
8000系に引き続き、パンタグラフの車体傾斜による架線からの離線や、狭小トンネルでの建築限界への支障を防ぐため、常にパンタグラフが軌道中心を維持するよう、車体側部を通してパンタグラフの取り付け台と台車の間をワイヤーで連結し、パンタグラフの左右の動きを拘束、その取り付け台が屋根上の枕木方向に設置されたガイドレール上を移動する架線追従装置を装備するが、摺動とワイヤーの振れ角を小さくするため、台枠下面でのガイドローラーを省略している。また、台車の旋回・上下動の相対動きを相殺するため、ワイヤーロープ下端を台車に直接固定せず、車体側の中間ハリに接続し、台車のアンチローリング機構により中間ハリと台車が平行を保つ仕組みを設けている。
車体傾斜装置
空気ばね式車体傾斜方式を採用しており、床下に車体傾斜電磁弁箱を各車に2台ずつ装備し、曲線外軌側の空気ばね高さを上げることで最大で2度の車体傾斜が可能である。
車体傾斜制御は、従来の制御付自然振子車両が用いていた地点検知システムを応用したもので、地上の路線データなどをTc(Tsc)車のマイコン(TC装置)に記録しておき、ATS地上子により自車の位置を検知して曲線区間の手前から車体を傾斜させるマップ式を用いている。また、補助としてJR北海道キハ261系などで実績があるジャイロセンサーと加速度計から曲率を求めて加速度計の値が目標値となるまで車体を傾斜させるセンサ式も搭載している。
曲線通過速度は、2000系気動車、8000系電車と同様であり、曲線半径R≧600mにおいては、本則+30km/h、曲線半径600m>R≧400mにおいては、本則+25km/h、曲線半径400m>Rにおいては、本則+20km/hである。ただし、通常の在来線車両では曲線通過時の左右定常加速度0.08Gを目指して設計される[注 5]が、本系列では既存の振子車両と同等の条件で走行するため、着席を前提に新幹線で実績のある0.1Gを許容して設計されている。


台車
台車は、空気ばね式車体傾斜制御付き軸梁式軽量ボルスタレス台車で、電動台車が S-DT66、付随台車が S-TR66と呼称する[11]。
軸ダンパ、上下動・左右動ダンパとヨーダンパを装備している。基礎ブレーキは、付随台車では空圧式のキャリパー式車軸ディスクブレーキ、動力台車では短編成時のブレーキ性能の向上を図るため、油圧式のキャリパー式車輪ディスクブレーキが採用されている。Mc車の前位側の台車とTc(Tsc)車の前位側の台車には端梁を設けて、前者にはATS車上子を、後者にはATS車上子と車体傾斜用の地点検知用車上子を取付けているほか、Tc・Tsc車後位側の台車は、先述の架線追従装置によりパンタグラフ台座と接続されている。
駆動装置はTD継手式平行カルダン方式を採用し、はすば歯車を用いた一段減速式で歯車比は89:16=5.56である。収納する歯車箱は鋳鉄製で、整備性の観点から上下分割方式である。
形式・編成解説
8000系では5両編成と3両編成からなる構成としていたが、本系列ではきめ細かな車両運用を行うため、Mc-Tcでユニットを組む2両編成を基本に、中間にT車を連結した3両編成が可能な構成としている。なお、連結可能な編成数は地上設備側の制約で最大3編成までとなっている。


8600形 (Mc)

2・3両編成の岡山・高松方に組成される制御電動車で、全席普通席。定員56名(41.9t])。インテリアのアクセントカラーはグリーン[8]。
後位車端側車内には、自動販売機・洋式便所・男性便所が設置されている。
8700形 (Tsc)
3両編成の松山方に組成される制御車。グリーン室と普通室の合造車。定員はグリーン室12名、普通室17名の計29名(39.0t)。インテリアのアクセントカラーはグリーン客室のある前位側が茜色、普通客室のある後位側がグリーン[8]。
後位車端部の屋根上にシングルアーム式パンタグラフを設置している。
後位側室内には男性便所・車椅子対応の多機能便所・洗面台・ユーティリティスペース・多目的室を備える。また、車内に車いす対応設備を設けている関係で、後位側デッキの乗降扉と客室妻扉の幅は有効開口900mm以上に拡大されている。また、グリーン車の普通車との仕切り側には荷物置き場を設けている。
8750形 (Tc)2両編成の松山方に組成される制御車。全席普通席。定員45名(38.6t[注 8])。インテリアのアクセントカラーはオレンジ。

後位車端側の屋根上にシングルアーム式パンタグラフを設置している。車内後位側デッキはほぼ8700形と同様であるが、多目的室を設置しないため、洗面台と男性用便所のレイアウトが異なっており、空いたスペースに簡易荷物棚を設置している。
8800形 (T)
本形式唯一の中間車(付随車)で、3両編成の中間に組成される。全席普通席。定員68名(32.1t)。インテリアのアクセントカラーはオレンジ。
便所などの設備は無い。
編成
2両編成・3両編成ともにE編成となっているが、2両編成は10番台として区分されている。

改良・改修
量産先行車による走行試験時に、曲線が連続する区間で元空気溜圧が想定以上に低下する事象が発生した。このため、以下の改良が量産車で行われ、量産先行車についても改修が行われている]。
傾斜を行う曲線の見直しなど、制御を行う区間の見直し
空気タンクを330リットル/両から710リットル/両となるよう増設
台車補助空気室の容量変更(45リットル→35リットル)
この改良に伴い、8600形、8750形では空車重量が量産先行車落成時と量産車とでそれぞれ0.3tずつ増加している。
運用
2016年3月26日のダイヤ改正で、本系列は「しおかぜ」4往復と「いしづち」5往復(うち4往復は宇多津駅 - 松山駅間で「しおかぜ」と併結)に使用され、捻出された8000系電車により「しおかぜ」と「いしづち」に使われている2000系気動車を全て置き換えた。ただし、予備車がないため、一部列車を8000系で代走する場合がある。
また、ゴールデンウィークやお盆などの多客輸送期間は輸送力確保の観点から2両編成で高松駅-宇多津・多度津駅間の短距離輸送に充当される場合がある。

沿革
2014年(平成26年)
2月27日:量産先行車2両編成2本が川崎重工業で落成し、同日から28日にかけて高松貨物ターミナル駅まで甲種輸送。
3月5日:高松運転所で報道公開。翌3月6日付で松山運転所に配置。その後、各路線において基本性能の確認のための走行試験や曲線通過性能の確認とブレーキ試験のための走行試験を実施
6月23日:高松駅 - 松山駅間の特急「いしづち」1往復(103・104号)で営業運転を開始。ただし、車両の試験や検査等の関係から、7月1日以降は原則として水曜・木曜の「いしづち103号」と、火曜・水曜の「いしづち104号」は2000系が代走することとした[4]。
9月:同月末からは車両試験でデータの取得が完了したことから、運休日をなくして平日4両編成、土休日2両編成で運用。
2015年(平成27年)
3月14日:引き続き特急「いしづち」1往復(103・104号)のみで運用するが、2両編成時に輸送力が不足したため、毎日4両編成での運用に変更。
10月7日:量産車2両編成2本、3両編成2本の10両が落成。
2016年(平成28年)
2月6日:この日の「いしづち104号」で当形式で初めて3編成(高松方からE14+E11+E13編成)連結した6両で運転。
3月26日:同日のダイヤ改正より特急「しおかぜ」4往復と「いしづち」5往復(うち4往復は宇多津駅 - 松山駅間で「しおかぜ」と併結)に投入。予讃線電化区間を走行する2000系気動車を置き換え。ただし、これに伴う2000系の廃車は発生しなかった。
8月12日 - 15日:多客時に高松駅 - 多度津駅間で運転された臨時「しまんと」に使用。
2017年(平成29年)
7月13日 - E1編成が山陽本線・伯備線(岡山駅 - 倉敷駅 - 備中高梁駅)で試運転を行う。同年7月14・26・27日にも実施。9月にはE2編成を用いて実施。
同年度中:3両編成1本を増備予定。

基本情報
製造所 川崎重工業車両カンパニー
主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
(架空電車線方式)
最高運転速度 130 km/h
設計最高速度 140 km/h
起動加速度 2.0 km/h/s
減速度(常用) 5.2 km/h/s
編成定員
3両編成:141名
2両編成:101名
編成重量
3両編成:113.0t
2両編成:80.5t
(いずれも空車)
全長 20,800 mm
全幅 2,840 mm
全高 3,560 mm
車体材質 ステンレス
台車 空気ばね式車体傾斜制御付き軸はり式軽量ボルスタレス台車(ヨーダンパ付)
S-DT66・S-TR66
主電動機 全閉外扇式三相交流誘導電動機
駆動方式 TD平行カルダン駆動方式
編成出力 220kW×4=880kW
制御装置 IGBT素子VVVFインバータ制御
制動装置 回生・発電ブレーキ併用電気指令式ブレーキ
抑速ブレーキ
直通予備ブレーキ
保安装置 ATS-SSⅡ

しおかぜは、四国旅客鉄道(JR四国)および西日本旅客鉄道(JR西日本)が岡山駅 - 今治駅・松山駅を宇野線・本四備讃線・予讃線経由で運行している特急列車である。

山陽新幹線に接続して、岡山市と香川県の西讃・愛媛県の各都市を結ぶJR四国の主力列車である。
1972年3月15日に、それまで運転されていた急行「いよ」を格上げしたことにより、高松駅 - 宇和島駅間で運転を開始した。同時期に運転を開始した「南風」とともに、四国初の特急列車であり、1986年11月1日にエル特急に指定されている。
1988年4月10日に本四備讃線(瀬戸大橋線)が開通に伴って岡山駅発着に変更され、引き続き高松駅を発着する列車は「いしづち」として運転されるようになった。
列車名の由来
瀬戸内海の「海から吹く塩気を含んだ風」である潮風を平仮名表記にしたものである。「しおかぜ」の名称は、1965年から1968年まで、新大阪駅 - 広島駅間を運行する特急の名称として使用された(「山陽本線優等列車沿革」を参照)。また、房総地区の臨時列車にも漢字は異なるが「汐風」が存在していた。
平成期からの運行概況
岡山駅 - 松山駅間で上り13本・下り14本、今治発岡山行きが上り1本運転されている。
運行区間のほとんどが単線区間で列車の増発が困難であることから、今治駅始発の1本を除き、宇多津駅・多度津駅 - 松山駅間で高松駅発着の「いしづち」を併結している。ただし、多客期(大型連休・お盆・年末年始)は一部列車を除いて宇多津駅または多度津駅での増解結作業を行わず、全編成が岡山駅発着の「しおかぜ」として運転される。この場合、高松駅 - 宇多津駅・多度津駅間に接続列車として臨時「いしづち」が運転され、宇多津駅 - 多度津駅間の各停車駅で乗り換えとなる。また、団体客が乗車する場合も同様で、時刻表に載らない場合が多い。逆に、瀬戸大橋が強風で運転を見合わせる場合は、全列車全編成とも高松駅発着となる。
1990年に2000系の量産車が予讃線に投入された頃から岡山駅 - 宇和島駅間を結ぶ直通列車は宇和島発が朝の上り3本、宇和島着が夜の下り2本のみとなり偏った状態だった。予讃線の電化完成当初は、岡山駅 - 宇和島駅間を結ぶ直通列車は宇和島発が朝の上りと宇和島着が夜の下り各1本のみ残されたが、松山駅で2000系同士の乗り換えが1日1回発生し、乗り換え利用時と直通利用時とで特急料金が異なる[注釈 1]ことが利用客から問題視され、一時的に2往復とされた。2011年3月12日からは、再度宇和島発が朝の上りと宇和島着が夜の下り各1本のみに変更された。
2016年3月26日のダイヤ改正で、8600系の「しおかぜ」への新規投入により、使用車両がすべて電車に統一され、特急列車は松山駅で完全に系統分離された。
停車駅
岡山駅 - 児島駅 - 宇多津駅 - 丸亀駅 - 多度津駅 - (詫間駅) - (高瀬駅) - 観音寺駅 - 川之江駅 - 伊予三島駅 - 新居浜駅 - 伊予西条駅 - 壬生川駅 - 今治駅 - (伊予北条駅) - 松山駅( )は一部列車のみ停車。


全列車が松山運転所所属の車両で運転されている。なお、宇野線・本四備讃線では振り子を含む車体傾斜機構は使用しない。

修大附属鈴峯前駅(広島電鉄宮島線)

$
0
0

修大附属鈴峯前駅(しゅうだいふぞくすずがみねまええき)は、広島県広島市西区井口四丁目にある広島電鉄宮島線の駅。駅名の由来にもある学校は、広島電鉄の前身である広島瓦斯電軌によって創設され、現在も理事や評議員など関係者の一部を占める。

駅構造
当駅はホームが地面に接する地上駅という形態をとる。ホームは2面あり、2本の線路を挟み込むように向かい合って配された相対式ホームである。線路の南側に広電宮島口駅方面へ向かう下りホーム、北側に広電西広島駅方面へ向かう上りホームがある。高さの異なる上屋があるのは、線内専用車両と、市内線直通の低床車両が混在した名残です。

上下どちらのホームにもスロープと手すりが備え付けられ、バリアフリーに対応している。山陽本線を挟んで北側に駐輪場がある。

駅の広電西広島方には西日本旅客鉄道(JR西日本)と共同の踏切(鈴ケ峰踏切/鈴峯踏切)がある。この踏切は「開かずの踏切」であり歩行者の交通量も多く、緊急の対策が必要な踏切として国土交通省によってリストアップされている。

広島電鉄も2008年(平成20年)9月に拡幅工事を行うなど改良を施しているが、その後も死亡事故を含む人身事故が発生しており、安全啓発活動が行われている。

駅前後は西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線との並走区間。駅西方で八幡川を渡る。対岸は佐伯区。井口地区の西端に位置し、北側は丘陵部に住宅地が広がる。南側には新興住宅地と、その先は数々の企業が集まる商工センターの西地区となる。

広島修道大学附属鈴峯女子中学校・高等学校、鈴峯女子短期大学は北へ徒歩5分の距離。#歴史節にもあるように、同校をかつて運営していた鈴峯学園は広島電鉄の前身である広島瓦斯電軌によって設立された法人である。同学園は永らく学園理事・評議員の多くを広島電鉄および広島ガス関係者で占めるなど広電と関係が深かった。

広島工業大学高等学校
サンフィールド
広島井口西郵便局
広島市西部リサイクルプラザ
広島県漁業協同組合
魚と漁業の資料館


当駅は1941年(昭和16年)7月、実践女学校前駅(じっせんじょがっこうまええき)として新規に開業した駅である。駅名になっている実践女学校、すなわち広島商業実践女学校は同年4月、広島電鉄の前身である広島瓦斯電軌が法人を設置することにより開校した女子教育機関である。

広島瓦斯電軌は1939年(昭和14年)に創立30周年を迎えており、女学校の設立とそのための法人の設置は創立30周年記念事業の一環であった。当駅はその後、学校の歴史とともにその名前をしばしば改めている。

『広島市統計書』によると、2015年度の年間乗車人員の総数は推計で763千人であった。参考として、日数で除して1日当たりの平均乗車人員を算出すると2,085人となる。

1943年(昭和18年)に広島実践高等女学校となった同校は1947年(昭和22年)に鈴峯女子専門学校を併設、また学制改革により新制の鈴峯女子中学校を併設した。このころ駅名は鈴峯女専前駅(すずがみねじょせんまええき)へと改称される。

次いで1948年(昭和23年)には新制の鈴峯女子高等学校が設置され、1950年(昭和25年)に鈴峯女子専門学校が鈴峯女子短期大学となると、駅名もこのころ鈴峯女子大前駅(すずがみねじょしだいまええき)へと改められた。校名および駅名にある「鈴峯」は鈴ヶ峰に由来し、法人の名称も1951年(昭和26年)には鈴峯学園へと変更されている。

その鈴峯学園は2015年(平成27年)、広島修道大学などを運営する修道学園と法人合併した。短大は学生の募集を停止し、中学校・高等学校は広島修道大学附属鈴峯女子中学校・高等学校へ校名が変更された。これを受けて駅名は修大附属鈴峯前駅へと改称されている。

1941年(昭和16年)7月4日 - 実践女学校前駅として開業。
1947年(昭和22年)4月1日頃 - 鈴峯女専前駅に改称。
1950年(昭和25年)4月1日頃 - 鈴峯女子大前駅に改称。
2015年(平成27年)4月1日 - 修大附属鈴峯前駅に改称。

駅番号 ●M27
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宮島線
キロ程 6.0km(広電西広島起点)


駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 2,085人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1941年(昭和16年)7月4日

米国海兵隊P-19 FIRE TRUCK

$
0
0

米国海兵隊P-19 FIRE TRUCK

P-19航空機レスキューファイアーファイティング
米国海兵隊P-19 FIRE TRUCKは軍事基地や遠征飛行場での航空機の緊急事態への最初の対応手段として機能する遠隔消防車である。


オシュコシュ・コーポレーション(Oshkosh Corporation、オシュコシュ社)製の化学消防車、Aircraft Rescue and Fire Fighting (ARFF) vehicle 。航空機事故や基地火災等で運用される。
最新型のP-19R消防車。RはReplacementを意味する。

P-19トラックは、飛行機の火災を急速に消滅させる航空機の緊急事態の場面での最初の応答手段として設計されています。このトラックは、必須の飛行ライン操作の安全要件であり、飛行任務を持つ基地では不可欠です。P-19はまた、地方自治体の空港に設置されている空軍警備隊および空軍予備軍隊の消火能力を提供します。設備のP-19要件は、空中施設が頻繁に使用される航空機のタイプと、結果として必要とされる消防隊員の1分あたりのガロンによって決まります。この車両は、衝突場所で乗務員、乗客、武器、機体の防火を提供します。P-19は、C-130以上の航空機で航空輸送可能です。

P-19、P-19A、P-19Bの3種類の機種で調達されました。Oshkosh、Freightliner-Rosenbauer、およびJRI Inc.はベンダーでした。Crash Rescue Equipment Services、Inc.(テキサス州ダラス)は1998/1999年に操業中のP-19トラックの再製造契約を取得しました。約800台のP-19車両がUSAF、米軍、米海軍およびUSMCによって調達された。

新型のOshkosh®P-19R航空機救助消防車は、高度な消防技術で30年にわたる実績のあるP-19の経験を活かし、最先端のオンロードとオフロードの消防能力を提供します。TAK- 4®の独立したサスペンションシステムにより、優れた滑走路性能が得られます。Command Zone ™統合制御および診断システムは、乗組員の状況認識と安全性を向上させます。クロスレイホースベッドはホースへの便利なアクセスを提供し、可変電子速度制御は強化された水タレット操作をサポートします。

P-19R車両は、消防隊員が効果的に対応してミッションを実行できるようにするために構築された、信頼性の高い最先端のソリューションです。

オフロード機能を強化するTAK-4®独立サスペンションシステム
Command Zone ™統合制御および診断システムにより、重要なコンポーネントを簡単に監視できます
600馬力のエンジンは最高72 mph(116 km / h)

オシュコシュは、2013年5月30日に、米海兵隊が次世代の航空救助および消防(ARFF)車両を供給することを発表しました。P-19リプレースメント(P-19R)は、1984年に初めて建設されたOshkosh P-19A艦隊に代わるもので、サービス寿命の終わりに達しています。 P-19R契約は2018年5月まで延長され、総額192百万ドル(192,852,826米ドル)の見積額があります。

テストのために2013年12月に3台のプロトタイプ車を納入した後、 2015年4月に、P-19RがMilestone Cの認可を経てプログラムを移行するために必要な政府開発のテストと評価、低レート初期生産(LRIP)。その納品命令が下され、その月にLRIPが開始され、製品検証テスト(PVT)をサポートするための車両が出荷予定となりました。6つのLRIP車両が2016年2月にアバディーン試験センターに納入されたアバディーンメリーランドではPVT、チェリーポイントノースカロライナではFUE(First Unit Equipped)テストを実施しています。テストは2016年3月から2016年6月まで行われました.2016年8月18日にOshkoshによってFull Rate Production(FRP)決定が発表されました。

2017年5月22日、オシュコシュは、米国海兵隊が、追加の54P-19Rに対して3300万ドル以上の配達命令を受領したと発表しました。オシュコシュは、同社が2017年6月に最初のP-19Rを配給すると予想しており、合計で2019年までに164のP-19Rを配給すると述べた。 2017年7月27日、オシュコシュは米国海兵隊が、追加の23のP-19Rについては1600万ドル以上。 2017年11月2日、オシュコシュは、米国海兵隊が、2019年までの配達のために31のP-19Rを追加するために、1900万ドル以上の配達命令を同社に与えたと発表したOshkoshは2018年2月6日、P-19RがIOC(Initial Operating Capability)マイルストーンに達したと発表しました。

ビジネス用双発プロペラ機 FA-300(富士重工業・ロックウェル・インターナショナル)

$
0
0

FA-300は、日本の航空機メーカー富士重工業と、アメリカ合衆国のロックウェル・インターナショナル社が共同で開発したビジネス用双発プロペラ機。富士での呼称はモデル700。1975年(昭和50年)初飛行。

低価格で快適な機体を目指して製作された航空機である。機体は低翼配置、双発レシプロエンジン、3枚プロペラといったスタンダードな形状をしているが、機首は鋭く尖っており、スマートな印象を与える。主翼は細長いがインテグラルタンク方式を採用、与圧キャビンは高度7000mでも快適な環境を提供する。ジェット機並みの大型鋳造品を多用したところも特徴である。


オイルショックの影響により、販売提携先のロックウェル・コマーシャル社の経営が悪化したため、ロックウェルは1980年に軽飛行機部門から撤退、航空機部門をガルフストリーム・エアロスペース社に売却した。あおりを受けたFA-300は受注が確定する前に販売中止が決まり、すでに生産していた45機で生産終了となった。エンジンを450馬力に増強したモデル710も開発したが、国内向け2機、米国向け2機の4機の製造で終わった。損失は10億円に上り、FA-200の商業的失敗もあり、富士重工は独自の小型航空機事業から撤退せざるを得なくなった(金のかかる航空製造業を厄介に感じていた日本興業銀行出向幹部が富士の上層部を占めたことも影響している)。
その実績の少なさと知名度の低さにより、日本国内でもほとんど存在を知られていない。モデル700の試作1号機(JA5258)が成田国際空港に隣接した航空科学博物館に、モデル710の元・富士社用機(JA5271)が富士宇都宮製作所に展示されている。


スペック
定員 - 乗員2名 / 乗客5名
全長 - 12.04 m
全幅 - 12.94 m
全高 - 4.1 m
翼面積 - 18.6 m2
自重 - 2.3t
全備重量 - 2,993kg
最大離陸重量 - 3.8t
エンジン - アブコ・ライカミング TIO-540-R2AD ×2(モデル700)
性能 - 空冷水平対向6気筒チャージャー付き
出力 - 340hp
最大速度 - 461 km/h=M0.38
経済巡航速度 - 394 km/h=M0.32
上昇限度 - 9,479 m
派生型
モデル700
基本形式。45機生産。
モデル710
エンジン出力を450馬力に強化したタイプ。4機生産。

用途:民間用ビジネス飛行機
製造者:富士重工業/ロックウェル・インターナショナル
初飛行:1975年11月
生産数:49機(モデル700/710)

入江岡駅 静岡鉄道静岡清水線

$
0
0

入江岡駅(いりえおかえき)は、静岡県静岡市清水区浜田町にある静岡鉄道静岡清水線の駅である。駅番号はS14。隣駅桜橋とはわずか300mの距離、終点新清水にも近い立地。

島式ホーム(複線)
島式ホーム1面2線の地上駅。東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線と併走しているがそちらに駅は無い。静岡清水線とJR東海道本線を跨ぐ、県道跨線橋の途中に小さな駅舎があり、階段でホームに降りる構造となっている。


自動改札機は双方向対応のものが1機、自動券売機は1機設置されている。
駅の桜橋駅寄りには、非常用の上下渡り線がある。2006年秋に設置された。

東海地震で警戒宣言が発表されたとき、新清水駅は海抜が低いために津波で浸水する恐れがあり、桜橋-新清水間の運転が抑止される際新静岡方面へ臨時に折返しが出来るようにするためである。この際同駅は閉鎖され、係員を配置の上列車を転線させるためのみに使用され、客扱いを行わない。

のりば
1 ■静岡清水線(下り) 新清水行
ホーム上屋下には長椅子が1脚設置されています。
2 ■静岡清水線(上り) 草薙・新静岡方面
ホームに防護柵は設置されていません。

駅周辺
建物が密集していて、商店や診療所などもある。隣駅桜橋駅までは約300メートルと非常に近い。
淡島神社
浜田公民館
静岡市立清水浜田小学校
ちびまる子ちゃん - 当駅付近の街が、舞台となっている。物語では、「清水駅」になっていた。

歴史
1908年(明治41年)12月9日入江町駅開業。
1934年(昭和9年)2月11日(仮)、8月21日(本)路線経路変更により入江町駅と入れ替わり入江岡駅開業(改称移動扱いか廃駅新設扱いかは不明)。

駅番号 S14
所属事業者 静岡鉄道
所属路線 静岡清水線
キロ程 10.3km(新静岡起点)
駅構造 地上駅


ホーム 島式 1面2線
乗車人員
-統計年度- 337人/日(降車客含まず)
-2014年-
開業年月日 1908年(明治41年)12月9日

三菱エクリプス・スパイダー 痛車:初音ミク

$
0
0

エクリプス(ECLIPSE )は、三菱自動車工業の米国法人、ダイアモンド・スター・モーターズが生産していた自動車である。

販売は北米市場を中心に展開されていた。3代目までは日本でも販売されていた。ただし3代目はモデル末期になって左ハンドルのままスパイダーのみが2004年から2006年まで輸入されていた。

3代目(1999年 - 2006年)
1999年7月にデビュー。北米生産のギャランのプラットフォームを流用しており、駆動方式はFFのみとなる。また先代までの特徴であった4G63エンジンやターボモデルもラインナップされておらず、代わりに3.0L V6 SOHC 6G72 および 2.4L L4 4G64 SOHCが搭載された。

従来モデルよりもラグジュアリー志向に振っており、パフォーマンスカーとしての性格はかなり落ち着いている。また先代までに比べ販売価格も上昇している。クーペは2005年に販売終了。

2004年10月25日にはスパイダーが左ハンドルのままで日本で発売された。日本仕様はAT車のみの設定で本革シートを装備し、アメリカのオーディオメーカー、インフィニティ製カーオーディオを標準装備している。車輌側面のウインカーランプ装着等の日本国内保安基準適合措置以外は、ほぼ米国仕様そのままで販売された。2006年3月で販売は終了。

車名の由来
18世紀の競走馬、エクリプスより。(「エクリプス」自体は「日食」「月食」の「食」の意味を持つ。デンソーテンのカーオーディオにも(より英語の発音に近づけて)「イクリプス」と読ませる同名のブランド、ECLIPSE (ブランド)がある)
一方で2017年に発表されたクロスオーバーSUVの「エクリプス クロス」に関する記述ではこの競走馬の意味はなく、単に「日食」の意味であるとされている。

製造国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
販売期間 1999年7月 - 2006年3月
乗車定員 4名
ボディタイプ クーペ
スパイダー
エンジン 6G72 3.0L V6
駆動方式 FF
最高出力 213PS/5,750rpm
最大トルク 28.30kgfm/3,750rpm
変速機 5MT/4AT
サスペンション 前:ストラット
後:マルチリンク
全長 4,515mm
全幅 1,760mm
全高 1,355mm
ホイールベース 2,560mm
車両重量 1,520kg

 

初音ミク
初音ミク(はつね ミク、Hatsune Miku)は、クリプトン・フューチャー・メディアから発売されている音声合成・デスクトップミュージック (DTM) 用のボーカル音源、およびそのキャラクターである。

ヤマハの開発した音声合成システム「VOCALOID」に対応したボーカル音源で、メロディや歌詞の入力により合成音声によるボーカルパートやバックコーラスを作成することができる。息継ぎ、強弱も入力可能。また、声に身体を与えることでより声にリアリティを増すという観点から[1]女性のバーチャルアイドルのキャラクターが設定されている。

初音ミクは、クリプトン・フューチャー・メディア(以下クリプトン)が2007年から展開している、ヤマハが開発した音声合成システムVOCALOIDにより女声の歌声を合成することのできるソフトウェア音源で、対応エンジンのバージョン、声質の違いにより複数の製品が発売されている。最初の製品は、2007年8月31日に、声に歌い手としての身体を与えることでより声にリアリティを増すという観点からソフトウェア自体をバーチャルアイドル(バーチャルシンガー)と見立ててキャラクター付けした製品シリーズ「キャラクター・ボーカル・シリーズ(CVシリーズ)」の第1弾として発売された。初音ミクは「未来的なアイドル」をコンセプトとしてキャラクター付けされている。名前の由来は、未来から来た「初めての音」から「初音」、「未来」から「ミク」。発売元のクリプトンはキャラクター画像については非営利であればほぼ自由な利用を認めており、ユーザーによる歌声の利用だけでなくキャラクターを用いた創作活動をも促進する形がとられている。

動画を中心に初音ミクが「歌っている」歌という形をとった、あるいは初音ミクを題材とした、10万曲以上に上るとされる楽曲や、イラスト、CGによるプロモーションなど様々な作品が発表されており、初音ミクはこうした多くのユーザーの手による多彩な創作物から形づくられる、消費者生成メディア (CGM) により成立している女性アイドルという性格を持つ。ユーザーによる創作物の中には、キャラクター利用の許諾を受けた上でCD、書籍などの形で商業展開が行われているものもある。また、キャラクターとしての人気の高さからゲームソフトや、キャラクターフィギュアなど関連商品、CG映像を使ったライブなど企業の企画からなる商業展開も多く行われているが、それらについてもフィギュアにアイテムとしてネギを付属させるなど、ユーザーによる創作から広まった流行を取り入れることも行われている。


米軍 Caterpillar 120M CESE モーターグレーダ

$
0
0

Caterpillar 120M CESE

整地用途に使用される自走式の建設車両。「モーターグレーダ」と呼ばれる。商用車両もキャタピラージャパンにより日本国内でも販売されているが、大型機であるため、通常の道路工事現場ではほとんど見られない。


整地、道路工事における路床・路盤の整地作業、除雪作業。路面や広場など精度の高い場所の整形や仕上げ用。のり面の切取りおよび仕上げ、L形溝の掘削および整形、ランディングゾーンの形成や陣地・要塞の建設が主な用途。


全長 8.41m
全幅 2.16m
全高 3.26m
重量 14.142t
備考 多目的な土木作業に使用される装備。地面の均し作業や傾斜形成、また不要物の除去作業や一般的な建設作業、道路や滑走路の保守作業にも用いられる。使用目的が同じためか、自衛隊の保有するグレーダとよく似ている。


仕様
エンジン
製造 キャタピラー
モデル C6.6 ACERT VHP
電力は@ 2000 rpm
シリンダ数 6
正味パワーギア7-8 138馬力 102.9キロワット
マックスパワー 138馬力 102.9キロワット
変位 403 cu in 6.6 L


操作上の
標準動作重量 - フロントアクスル 8233ポンド 3735 kg
標準動作重量 - リアアクスル 22836ポンド 10358 kg
標準運転重量 - 合計 31069ポンド 14093 kg
最大操作重量 - フロントアクスル 16312ポンド 7399 kg
最大操作重量 - リアアクスル 28,378ポンド 12872 kg
最大操作重量 - 合計 44690ポンド 20271 kg
燃料容量 90ガール 340 L
冷却システムの流体容量 10.4ガル 40 L
ハイドロラックシステムの流体容量 15.9ガル 60 L
後部差分/最終駆動流体容量 13.2ガール 50 L
サークルギアボックスの流体容量 1.8ガロン 7 L
タンデムケースの液体容量(それぞれ) 16.9ガール 61 L
送信
タイプ ダイレクトドライブ、パワーシフト、カウンターシャフト
ギア数 - 前方 8
ギア数 - 逆転 6
最高速度 - 前方に 27.7マイル 44.5 km / h
最高速度 - 逆転 23.5マイル 37.8 km / h
操舵
アーティキュレーションL / R 20度
回転半径 24.5フィート 7.5メートル
フロントアクスル
ホイールリーン 18度
振動 - 合計 32度
グランドクリアランス 1.9フィート 572 mm
油圧系
ポンプタイプ 可変ピストン
ポンプの流れ 40ガロン/分 151L /分
リリーフバルブの圧力 3500 psi 24100kPa
モルドボード
モルドバ幅 12フィート 3668 mm
モールボードの高さ 24インチ 610 mm
金型厚さ 0.87インチ 22 mm
最大切削深さ 28.3インチ 720 mm
サイドシフト左 20.1インチ 510 mm
サイドシフト右 26インチ 660 mm
最大重量でのブレード引き 40221ポンド 18244 kg
ブレードダウン圧力 28887.2ポンド 13103 kg
サークル
直径 60.2インチ 1530 mm
左にシフト 25.8インチ 656 mm
右にシフト 25.8インチ 656 mm
マックスリーチタイヤ外 - 左 68.6インチ 1742 mm
マックスリーチタイヤ外 - 右 75インチ 1905 mm
グランド上のマックスリフト 16.8インチ 427 mm
ブレード先端角度 - 前面 40度
ブレード先端角度 - 背面 5度


寸法
キャブの高さまでの高さ 10.8フィート 3278 mm
全体の長さ 27.9フィート 8488 mm
タイヤオーバー幅 8.1フィート 2481 mm
ホイールベース 19.4フィート 5915 mm
ブレードベース 8.2フィート 2511 mm
タンデムアクスルホイールベース 5フィート 1511 mm
リアグランドクリアランス 1.1フィート 347 mm
フロントグランドクリアランス 1.9フィート 572 mm

 

 

観音町停留場(広島電鉄 本線)

$
0
0

観音町停留場(かんおんまちていりゅうじょう、通称:観音町電停)は、広島市西区天満町にある広島電鉄の路面電車停留場である。「かんのんまち」ではない。

複数回に渡って、隣接する天満町停留場と西天満町停留場(現存せず)の間で名称が変更されており、現存する観音町停留場は実質4代目にあたる。

2面2線の相対式ホーム。安全地帯となっているが、道が狭いために安全地帯の幅自体が狭く、ホームに屋根はない。ホーム端に安全地帯標識はがあり時刻表が設置されています。

交差点側の安全地帯は、電車との干渉を避けるために切り欠いてある。また、電車接近表示器は停留場上にはなく、すぐそばの電柱に据え付けられている。

運行系統
東行きホーム 0号線 日赤病院前ゆき・広電前ゆき
2号線 広島駅ゆき
3号線 宇品二丁目ゆき 朝時間帯は広島港ゆき
西行きホーム 2号線 広電宮島口ゆき
2号線3号線 広電西広島ゆき

周辺
周辺は住宅街となっている。すぐそばには中広通りが走り、南へ少し歩いたところには平和大通りがある。
広島西郵便局
都町公園

1921年以前 - 現所在地付近に開業(初代)。
1929年頃 - 旧西天満町停留場(現在の天満町停留場付近)が「観音町」に改称(2代)、当停留場は廃止。
1936年(昭和11年)7月11日 - 初代観音町停留場と同地に、再び観音町停留場が開業(3代)。2代目観音町停留場が元の停留場名と同じ「西天満町」に改称。
1942年(昭和17年)5月 - 戦時下につき一時休止(実質廃止)。
1964年(昭和39年)4月21日 - 3代目観音町停留場と同地に、西天満町停留場が開業(西天満町停留場は3代目。2代目西天満町停留場は45年8月6日戦災休止、同9月9日天満町停留場として再開業)。
1965年(昭和40年)4月1日 - 3代目西天満町停留場、観音町停留場に改称(4代)


駅番号 ●M16
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■本線
キロ程 4.2km(広島駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1921年以前(初代観音町停留場として)

YS-11A-500R(双発ターボプロップエンジン方式・旅客機)

$
0
0

YS-11は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い(後述)時刻表では主にYS1またはYSと表記されていたが、全日本空輸の便では愛称「オリンピア」の頭文字Oと表記されていた。

2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了した。海上保安庁で使われていた機体は2011年(平成23年)に退役し、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用されていた(後述)。また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体はレストアされて解体こそ免れているものの、機体そのものが旧式であることもあり、使用されている場面は稀である。

名称
機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。
モックアップ完成披露キャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした語呂合わせであるが、これによって数値2桁「11」を「じゅういち」と読み発声することが一般に広まった。こうした経緯もあって、関係者のあいだでは当初正規に「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。

機体製造
機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。当初の設計案では太胴(外径3.3 m)であったが、設計重量超過が判明したことから、モックアップと違った細胴(外径2.88 m)に再設計された。太胴の重量ではSTOL性を確保できず、日本の地方空港に就航できないとの判断であった。このため、当初案の横列5人掛けから4人掛けに変更となった[3]。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1,200 m 級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙カンパニー)、富士重工業(現SUBARU)、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱小牧工場[5]が担当した。

各社の分担内容は以下のとおりである。

三菱(分担率: 54.2%) - 前部胴体、中部胴体、
川崎(25.3%) - 主翼、エンジンナセル(エンジンの覆い)
富士(10.3%) - 機首、圧力隔壁、垂直尾翼、水平尾翼
日飛(4.9%) - 床板、補助翼、フラップ
新明和(4.7%) - 後部胴体、翼端、ドーサルフィン(垂直尾翼前方の安定翼)
昭和(0.5%) - 操縦席、主翼前縁
住友(0.1%) - 降着装置
併せて治工具の開発も行われた。輸出を前提として米国のFAA(連邦航空局)の型式証明の取得を目指したため、戦前までの軍用機の生産技術は新しい民間機の生産技術にはほとんど役立たなかったと言われる。

エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため、自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、全脚のタイヤはグッドイヤー社製であった。当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)電子機器も、運行する航空会社が、実績があってアフターサービスが充実しているメーカーの製品を強く指向したため、気象レーダーと無線機は米国のロックウェル・コリンズ(英語版)社やベンディックス(英語版)社の製品であり、ほぼ全て日本国外の製品を輸入する結果となった(それらの機器に、実績がない日本国産品を採用したのは運輸省に納入された機体のみであった)。

当時日本国内での調達が困難だった大型のジュラルミン部材は、アメリカのアルコア社から購入した。当初日本の金属メーカーも採用に向けて意欲を示したものの、YS-11に使用する量のみの生産では量産効果が期待できず、価格で対抗できないうえ、アルコア社のアルミ合金材は米国の軍用規格の金属材料であり、日本のJIS規格よりも品質が高かったため、アルコア社の金属材料が採用された経緯がある。

機体
機体の設計者たちは戦前に軍用機設計に携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない(それどころか乗ったこともない)者がほとんどであった。このため設計は軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪い、(後述する理由で)操縦者に対する負担が大きいという、民間旅客機でありながら軍用輸送機に近い性格の機体となってしまった。快適性・安全性・経済性が重視される民間機としては好ましくなく、運用開始した航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。

それでも日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体に育ったとも言える。やがて東亜国内航空では日本国外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。

機齢が40年を超えた機体も現れ始めたが、自衛隊や日本国外のエアライン等では2013年現在も使用され続けている。航空大国アメリカでは「日本製の飛行機」、「ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機」、「ピードモント航空が使っていた飛行機」という形で知られている。

YS-11A
1967年(昭和42年)製造の2050(通算50号機)以降の機体で、輸出を見込んで大幅に改良を施した。これはアメリカ中西部の中古機や航空部品販売を行うディーラーであるシャーロット・エアクラフト社がアメリカでの販売代理権の取得を目指して提案してきたことを受け入れた仕様であった。同社がコンサルタントを使い競合機(フェアチャイルドFH-227)との比較において、運航コスト、離着陸性能が優れ、短距離ローカル線で需要があると判断したが、ペイロード(有償荷物重量)が少ないとの指摘を受けて改良されたものであった[1]。
エンジンはタービンの耐熱性向上とプロペラ減速歯車の強化によって出力を10%増加させ、ペイロードを1トン増やした。合わせて各部の設計変更を行い、主脚ドアの内面を平滑にして脚下げ時の速度を289km/hから389km/hへ向上、同時に急降下の際に脚をエアブレーキとして使用できるようにした。座席の座面クッションを着水時の浮き具として使用できるものとし、座席間隔も860mmから790mmに改めて、64席に増やした。
2070からは内装をレザー張りからプラスチックに改め、カーテンもシャッター式ブラインドとして、ライバルになると目されたフォッカーF-28などに対抗した。また、オプションとして補助動力装置(APU)を搭載可能とし、空調・発電・油圧装置・エンジン始動を地上設備なしで作動可能とした。これは地上設備の貧弱な日本国外の地方空港乗り入れを目指したものである。2075からは乗降口高さを体の大きな欧米人に合わせて1.6mから1.75mに拡大、2078からはエンジンを、タービンブレードの材質変更で高温時の最大出力を4%増加したダートMk542-10Jに 、2092からは減速歯車を補強して耐久性を向上したダートMk542-10Kに変更した。

YS-11A-500R
改造機体番号 - 2101、102、103、108、115、116、133、146
YS-11A-200のエンジンにMk543を搭載、高気温・高地運用時の片発上昇性能が向上したことで、離陸重量制限が緩和された。開発段階ではYS-11Rであり、1972年(昭和47年)7月に型式証明を取得した。全日空の213のうち、8機が改造の対象となった。

運用
合計182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造され、日本をはじめとする各国の航空会社や政府で使用された。一方で日本国内だけで4件の事故(うち墜落3件)を起こした。

日本国内ではローンチ・カスタマーとなった全日空で1970年代30機の保有がピークとなり、1980年頃より順次退役し、1991年(平成3年)8月31日の新潟 - 仙台間・ANA720便が最後の運航となった。一方、1971年(昭和46年)に日本国内航空(JDA)と東亜航空(TAW)が合併した東亜国内航空(TDA)では、1980年代には42機を保有する最大のオペレーターとなっていた。既に機体は生産中止となっていたことから、日本国外の中古機を買い戻して調達していた。これはTDAが抱える多くの路線が、騒音問題や空港施設の関係から、YS-11に依存しなければならなかったことが理由である。

しかし、経年と共に整備費用(維持費)が上昇したことで、YS-11の経済効率の悪さが顕著になって行き、搭乗率が高くとも運航経費の上昇で赤字となる路線が多かった。1975年(昭和50年)の整備費の指数を100とすると、1977年(昭和52年)には193.7、1978年(昭和53年)に228、1979年(昭和54年)には249.1となり、加えて、燃料費の高騰、公租公課の上昇と、経済性は下がる一方となり、YS-11の就航路線で黒字を計上する例は僅かとなり、ほとんどが赤字路線へと転落、1994年(平成6年)3月8日の南紀白浜 - 東京便を最後に同社(JAS)から引退した。

日本国内の民間航空機としては引退したが、その頑丈なつくりのため、各国に輸出された機体にはまだ現役にあり続けるものも少なくなく、タイやフィリピンなどではまとまった数の機体が各航空会社で活躍している。また、ギリシャでは、海運王アリストテレス・オナシス率いるオリンピック航空への輸出機が転籍を経て、現在もギリシャ空軍機として使用されている。政府専用機として国家元首の移動に使用された機体もある。また、大韓航空にリースされた1機はハイジャックされ、北朝鮮に抑留状態となった(乗客乗員51名の内39名が韓国へ移送)抑留された機体のその後は不明である。

日本国内の官庁向けでは、10機が海上自衛隊、13機が航空自衛隊、5機が海上保安庁、6機が国土交通省(旧運輸省)航空局に納入され、通常の輸送任務のほか練習機や各種任務機として配備運用されている。航空自衛隊ではC-1輸送機導入までのつなぎとして導入したのが始まりだが、後にエンジンをより強力なゼネラルエレクトリック(GE)製のT64に換装して性能を向上したYS-11EA/EBが登場した。これらは俗に「スーパーYS-11」と呼ばれる。1990年(平成2年)海上保安庁のYS-11「おじろ」は樺太(サハリン)から全身火傷のコンスタンティン・スコロプイシュヌイを搬送する作業に使用された。

日本国内の民間航空会社においては、日本の航空法が設置を義務付ける空中衝突防止装置(TCAS)が搭載されていないため、機体寿命より早く引退した。特例期間として2003年(平成15年)9月30日まではTCASの装備なしでも飛行可能であったが、当時運航していた2社の内、エアーニッポン機材は同年8月31日をもって全機退役させることになり(最終フライトはJA8772で女満別から新千歳)、日本エアコミューターはTCASの簡易版である空中衝突警報装置(TCAD)の装備により、法律上は2006年(平成18年)12月31日まで運航可能の特例が認められた。上記によって2004年(平成16年)には、日本国内において就航させていた航空会社は日本エアコミューターのみとなり、2006年(平成18年)9月30日に法律上の期間を満了することなく全路線から撤退した。しかし日本国外では中古機を含めて当分は旅客機として活躍すると思われる。また、TCAS設置が義務付けられていない自衛隊においては、航空自衛隊にて現役で使用されているほか、日本航空学園では地上訓練用の教材として現役を続けている機体が存在する。

屋外展示
退役したYS-11の一部は日本国内各地の博物館などに寄贈され、静態保存され展示されている。みちのく北方漁船博物館展示機は、元日本エアコミューターの機体だったが、日本エアシステムの塗装で展示されている。電車とバスの博物館のYS-11は、1988年1月10日に事故を起こした機体の前頭部コクピット付近のみのカットボディ。東亜国内航空塗装でフライトシミュレータとして使用されている。

仕様
乗員= 2名
定員= 56-64名
全長= 26.3m
全幅= 32.0m
全高= 8.98m
主翼面積= 94.8m2
胴体直径= 2.88m
自重= 14,600kg(A-100型) 15,400kg(A-500型)
最大離陸重量= 23,500kg(A-100型) 24,500kg(A-200型) 25,000kg(A-500型)
エンジン= ロールス・ロイス ダート ターボプロップエンジン2,660-3,060 shp×2
最大巡航速度= 470-480km/h
失速速度= 140km/h
航続距離= 1,090km(フル搭載時) 2,200km(最大)
用途:旅客機
製造者:日本航空機製造
運用者:
国土交通省航空局
航空自衛隊
海上自衛隊
海上保安庁
日本エアコミューター
南西航空
日本航空
東亜国内航空
全日本空輸
エアーニッポン
大韓航空
ピードモント航空
ハワイアン航空
オリンピック航空
VASP航空
クルゼイロ航空
ほか
初飛行:1962年8月30日
生産数:182機
運用開始:1965年3月30日
運用状況:現役

圧縮空気式機関車

$
0
0

重量2.4 t、速度4 km/h、最大牽引力530 kg 自走距離約400M/回
沿層作進の炭車運搬に、又排気坑道の諸運搬に使用するものでメタンガスに対して安全である理由によるものです本機は1ケのレシーバーに圧力5~7KGの空気を入れて約400メーター程度自走します。

無火機関車(むかきかんしゃ)とは化学工場等、粉塵爆発の危険性、空気の供給が限られる鉱山の坑道等、火気の使用が制限されている場所で運用するための機関車である。また、食品工場のように特に清潔性が求められる場所で使用されることもある。

無火機関車には蒸気をタンクに貯める無火蒸気機関車と圧縮空気を使用する形式の2種類がある。英語では無火機関車のことをfireless locomotiveといい、日本語でもそのまま「ファイアレス」と呼称することがある。また後者の圧縮空気を使用した機関車を英語のcompressed air locomotiveからエアーロコと呼称することがある。
要になるまでの間動く。

欧州の無火蒸気機関車はシリンダーが後方にある場合が多い。米国の場合は通常の機関車同様にシリンダーは前方にある場合が多い。英国の無火蒸気機関車の代表的な製造会社は、アンドリュー・バークレー・アンド・サンズ(en:Andrew Barclay & Sons Co.)とW.G. バグノール(en:W.G. Bagnall)である。

英国で最後に商業的に運用された産業用蒸気機関車は無火蒸気機関車であった。カンブリア州アルバーストン(Ulverston)のグラクソ・スミスクラインの工場で動いていたものである。

日本でも八幡製鉄所や浜安善のシェル石油で使用されていた。

ドイツでは2013年現在もいまだ少数が運用されている。

圧縮空気式機関車
圧縮空気式機関車は主に鉱山で使用される。日本では夕張炭砿でアメリカのH.K.ポーター製の4両が使用された。路面電車で使用された例もある。

天満町停留場(広島電鉄 本線)

$
0
0

天満町停留場(てんまちょうていりゅうじょう、通称:天満町電停)は、広島市西区天満町にある広島電鉄の路面電車停留場。停留場周囲は高層住宅も多く、賑わいが感じられます。


複数回に渡って、隣接する観音町停留場と西天満町停留場(現存せず)の間で名称が変更されており、現存する天満町停留場は実質4代目にあたる。

構造
2面2線の相対式ホーム。路線のある道路が狭いためにホーム幅も狭く、屋根や柵がない。

ホームには横断歩道からスロープで連絡します。

駅名標は道路脇の電柱に設置されています。

運行系統
東行きホーム 0号線 日赤病院前ゆき・広電前ゆき
2号線 広島駅ゆき
3号線 宇品二丁目ゆき 朝時間帯は広島港ゆき
西行きホーム 2号線 広電宮島口ゆき
2号線3号線 広電西広島ゆき
広電西広島方面。交差点を挟んで乗場は千鳥に配置されています。

周辺
付近は古くからの住宅街である。少し東へ歩いたところには天満川が流れる。
広島市立天満小学校
広島天満宮
天満公園

 


1912年(大正元年)12月8日 - 天満橋東詰付近に、初代天満町が開業(当停留場とは異なる)。
1917年頃 - 現在地付近に移設。2代目天満町(当停留場)。
1922年頃 - 初代天満町停留場が所在した場所に、天満橋が開業。当停留場は西天満町に改称。
1929年頃 - 天満橋停留場が3代目天満町となる。当停留場も同時に観音町に改称(現存する観音町停留場とは異なる)。


1936年(昭和11年)7月11日 - 当停留場が、再度西天満町に改称。
1942年(昭和17年)5月 - 3代目天満町停留場が廃止。
1945年(昭和20年)8月6日 - 原爆被災により休止。
1945年(昭和20年)9月9日 - 戦災復旧。同時に当停留場が4代目天満町となり、現在に至る。

駅番号 ●M15
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■本線
キロ程 4.0km(広島駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1917年頃(2代目天満町停留場開業年)

 

国鉄B20形蒸気機関車(B20 10号機)

$
0
0

B20形蒸気機関車(B20がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である運輸通信省(のち運輸省)が第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて少数を製造した、主として入換え作業用の小型タンク式蒸気機関車である。


機関車の概要・特徴
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年1月)
これほど小さな国鉄機関車は明治時代以来で、極めて異例といえる。戦時中に規格生産された産業用機関車の一種であり、本線用の国鉄制式機関車の系譜とは、本来全く無関係の存在である。

通常なら車両扱いされない「構内作業用機械」が、都合で「鉄道車両」扱いされて車籍を持った、という捉え方が本形式の実状に近い(類似例としては、私鉄路線に接続する専用線での入換作業や、自社内での保線・除雪作業用のモーターカーの一部に、車両扱いされて車籍を持ったものがある)。なお、形式の「B20」とは、動軸2軸を有する(B型)の運転整備重量20トンの機関車という意味で、まさに産業用機関車の形式付与方法そのものである。国鉄制式蒸気機関車の形式付与体系と照らした場合、動軸数を表すアルファベット+タンク機を表す10 - 49という付与法則には一応合致しているが、B10形との間に存在すべきB11 - B19を飛ばしている形になる。

戦時中の設計・製造ゆえに実用上問題が多く、余りに小さ過ぎたこともあって用途が極端に限定されたこともあり、車齢の若いうちに多くが廃車されたが、2両が保存されうち1両(10号機)は現在自走可能状態にある。

開発の経緯
太平洋戦争開戦直後の1941年12月、大手・中小の鉄道車両メーカー多数が国策によって「車両統制会」を設立、その管轄下で産業用の小型蒸気機関車・ガソリン機関車の統制規格生産を行うことになった。

産業用蒸気機関車については、富山市郊外に工場を持つ本江機械製作所(1943年に立山重工業へ社名変更)が最大の製造業者となった。

規格統制会の「小型蒸気機関車専門委員会」が設計した規格形機関車は、構造を簡易化するため随所に代用材が用いられ、部材寸法も規格材を少ない加工で用いることを主眼に粗く設定されている。また、ボイラー強度を低く済ませる目的で性能を見切り、あえて飽和蒸気方式とした。また、戦時中の物資不足も重なっていたために銘板も木製であるなど、実用上最小限の材料で製作されていた。

多数の蒸気機関車が産業鉄道や軽便鉄道、あるいは軍工廠内専用鉄道に供給されたが、生産と運用の実態は戦時中ということもあり、多くが不明である。

この系列設計の中で、比較的大型に属する軌間1,067mm対応で20トン級(乙B20型[1])の何両かは、運輸通信省(1943年鉄道省から改組、1945年運輸省に改組)に籍を持つこととなる。

構内作業用を目的に1944年、省向けに5両が製造されることになったが、立山重工業に余力がなく、省の郡山工場(製造番号12 - 16)で造られている。戦後1946年から翌年にかけ、立山重工業で10両(製造番号347 - 353, 402 - 404)を追加製造し、合計15両となった。

基本構成
技術的にさして見るべき所はなく、単純化された戦時設計で、あくまでも生産性重視の省力構造である。徹底した資材節約と工数削減化により一切の装飾が排除され、ドームやタンクは直線形態、仕上加工も省略するか最低限に抑えるなど、美観に対する配慮はほとんど見られない。

最大の特徴は、圧縮ポンプなどの空気ブレーキ機構を持たず、代わりに自機用の蒸気圧ブレーキを装備することである。もとより強大なブレーキ力が必要な高速運転や長大編成牽引とは無縁であり、小運転なら機関車単機のブレーキでも制動可能と割り切ったものであった。

蒸気圧ブレーキは、海外の古典機関車に例が見られるが、さすがに昭和時代の国鉄機関車としてはB20形が唯一の採用である。無論、貫通ブレーキを持たず制動力の弱い本形式では本線列車の牽引など不可能で、あくまで構内での入換作業専用であった。

運用
戦後、本来の使用目的の入換として使われたのは、横須賀の米海軍基地の貨車入換仕業に配置されたB20 2、B20 5、B20 6、B20 8号機など数両のみで、あとは各地の機関区に分散配置され、機関区での六検時の無火状態の機関車の入換えや、機関区構内での石炭輸送などで細々と使用されているに過ぎなかった。貫通ブレーキ用コンプレッサーを持たないため、本線営業列車を単独で牽引することは不可能である。

しかし、戦時急造形のため材質・工作は良くなく、国鉄機関車としては特殊過ぎることもあって、早期に整理されることになった。国鉄蒸気機関車全廃まで使用されたものは、小樽築港機関区所属の1号機と鹿児島機関区所属の10号機があるに過ぎない(末期は実用機というよりマスコット的な位置づけだった)。

また、B20形のうち立山製の11・12号機は、戦後1947年に御坊臨港鉄道(現・紀州鉄道)に貸し出された。11号機は短期間で返却されたが、12号機は1948年に正式な払い下げを受けた。

その後、御坊臨港鉄道は、1951年に他の手持ち蒸気機関車を森製作所で改造してディーゼル機関車(DB158号機)とした。寸詰まりな姿で「森ブタ」と通称される、一連の森製作所製蒸機改造機関車の一例である。これにより、B20形は予備機となった。

ところが1953年7月には和歌山県地方が大水害(紀州大水害)に見舞われ、B20形は復旧困難な損傷を受けた。そこでこちらも森製作所によって台枠・輪軸等を流用したディーゼル機関車への改造工事が行われ、1954年に三菱製117HP機関を搭載した凸型のB形15t機関車「DB2012号機」として竣工した。この機関車は森製作所としては最後の蒸気機関車改造ディーゼル機関車である。1970年代初頭まで御坊臨港の貨物列車牽引に用いられた。

主要諸元
全長 : 7,000mm
全高 : 3,150mm
軌間 : 1067mm
車軸配置 : 0-4-0 (B)
動輪直径 : 860mm
シリンダー(直径×行程) : 300mm×400mm
ボイラー圧力 : 13.0kg/cm2
火格子面積 : 0.81m2
全伝熱面積 : 35.86m2
全蒸発伝熱面積 : 35.86m2
煙管蒸発伝熱面積 : 31.8m2
火室蒸発伝熱面積 : 4.06m2*ボイラー水容量 : 1.35m3
小煙管(直径×長サ×数) : 45mm×2,300mm×98
機関車重量(運転整備) : 20.3t
最大軸重(第2動軸上) : 10.86t
機関車性能:
シリンダ引張力 : 3,190kg
粘着引張力 : 5,075kg
動輪周馬力 : 299PS
ブレーキ装置 : 手ブレーキ、蒸気ブレーキ
保存機
B20 1 (万字線鉄道公園)
B20 1 (万字線鉄道公園)
B20 1側面
B20 1側面
1号機 - 北海道岩見沢市国鉄万字線朝日駅跡「万字線鉄道公園」に静態保存[2]
10号機 - 京都市京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に動態保存
梅小路の10号機
10号機は1946年に富山市の立山重工業で製造後、新製配置は姫路第一機関区で、その在籍中の1948年1月から7月までは大和鉄道(近鉄田原本線の前身)に貸し出されていた。1949年6月に鹿児島機関区に移動した。同機関区在籍末期の1969年7月27日に鹿児島鉄道管理局主催[3]のイベント走行でB20+C55+C12+8620形という編成で本線の営業列車を牽引したことがあるが、通常、本線走行は法規的に不可能であった。幸運にも1970年代初頭まで同区に残り、1972年に梅小路蒸気機関車館に収められた。

当初は動態保存対象機であったが、入館当初、数回火が入ったものの、以後はほとんど動くことがないまま1979年(昭和54年)3月31日付で車籍を失い完全に静態保存となった。

2002年には、梅小路蒸気機関車館の開館30周年記念事業の一環とJR西日本発足15周年を迎えるにあたってのビッグイベントとして、数十人のボランティアの手を借りて動態復元されることとなり、5月から修繕工事を施されて再び自走可能となり、同年10月12日に動態復元完成式が行なわれた。大型機関車揃いの梅小路におけるマスコットとなっている。車籍は無く展示走行用備品扱いであるが、梅小路運転区に在籍するDE10形ディーゼル機関車と共に、火の入っていない蒸気機関車の移動などに用いられており、復活後も本来の役目を担っている。また、時折転車台に乗って汽笛吹鳴ショーを披露するなどしている。

10号機の動態復元は関西のメディアで大々的に取り上げられ、多くのSLファンの注目を浴びた。同館では、蒸気機関車の大きな汽笛音に「子供が泣き出して困る」と言った大人の悩みも寄せられていたが、B20はきかんしゃトーマスにも似た小柄さから子供たちにも人気があり、「豆タンク」の愛称で親しまれている。

2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

KAL-1 連絡機 川崎航空機

$
0
0

KAL-1(KALワン)は、川崎航空機(現在の川崎重工業)が製作した小型プロペラ機。連絡機。K・Aは川崎航空機、Lは連絡機の略。

1952年(昭和27年)、GHQ SCAPが撤収し、航空禁止が一部解除された直後、立川飛行機の元社員による新立川飛行機や川西航空機の元社員による東洋航空工業などの航空機メーカーが設立され、試験・研究的な航空機製造に取り掛かっていた。川崎航空機も航空産業の復活を目指し、まず小型飛行機の試作に取り掛かった。

「KAL-1」と名づけられた4人乗りの軽飛行機は1953年(昭和28年)7月に完成した。7月21日に各務原飛行場で初飛行に成功。10月に2号機が完成、両機共に耐空審査試験に合格した。両機は川崎の社用機として使用された。

1954年(昭和29年)4月に日本青年飛行連盟が主催した台湾訪問親善飛行に参加し、セスナの機体と共に台北までの飛行に成功した。

1号機は昭和29年に陸上自衛隊へ買い上げられ、連絡機として使用された後に解体された。2号機は川崎の社用機として生涯を終えた後、1966年(昭和41年)に大阪市港区の交通科学博物館に引き取られ、展示されていた。2014年(平成26年)4月に交通科学博物館が閉鎖されたことにより、2014年12月からは岐阜県各務原市のかかみがはら航空宇宙科学博物館に移され、展示されている。

レシプロエンジン単発の4座席小型機で、低翼・尾輪式の当時一般的な形態であるが、戦後の国産機として初の引込脚・全金属製のボディである。

スペック
乗員2名/乗客2名
全長 - 9.1m
全幅 - 10.4m
全高 - 2.5m
翼面積 - m2
全備重量 - 1,460kg
エンジン - ライカミングGO-435-C2
出力 - 260hp
最大速度 - 295km/h=M0.24
航続距離 - 830km
実用上昇限度 - 5,000m

用途:連絡機(試作)
製造者:川崎航空機
運用者:日本の旗 日本陸上自衛隊・川崎航空機
初飛行:1953年7月21日
生産数:2機
運用状況:退役


本川町停留場(広島電鉄本線)

$
0
0

本川町停留場(ほんかわちょうていりゅうじょう、本川町電停)は、広島市中区本川町二丁目にある広島電鉄本線の路面電車停留場である。駅周辺にはビルが建ち並んでいますが、繁華街からは外れた立地のため、金融機関や商業施設は少ない。

1944年(昭和19年)までは横川線が分岐する停留場であった。


線はほぼすべての区間で軌道が道路上に敷設された併用軌道で、当停留場も道路上にホームが設けられている。ホームには横断歩道からスロープで連絡します。ホームは低床式で上下2面あり、東西方向に伸びる2本の線路を挟んで向かい合わせに配置されている(相対式ホーム)。ホームには短い上屋が設置されています。椅子の類は設置されていません。線路の北側に広島駅方面の上りホーム、南側に広電西広島駅方面の下りホームがある。

運行系統
当停留場には広島電鉄が運行する系統のうち、2号線、3号線、6号線、7号線、9号線、それに0号線が乗り入れる。

上りホーム 2号線6号線 広島駅ゆき
3号線 広島港ゆき 朝時間帯のみ
3号線 宇品二丁目ゆき
0号線7号線 広電前ゆき
9号線 白島ゆき
0号線 日赤病院前ゆき
停留所入口には車止めが設置されています。

下りホーム 2号線 広電宮島口ゆき
2号線3号線 広電西広島ゆき
6号線9号線 江波ゆき
7号線 横川駅ゆき
十日市町に向けて下り勾配が続きます。

 


当停留場は1912年(大正元年)12月、本線が己斐まで路線を延伸させた際に左官町停留場(さかんちょうていりゅうじょう)として開設された。開業当時、本線の軌道は相生橋を渡ると当停留場付近で南に折れ、南下して西国街道を横切った後、さらに西へ折れて土橋方面へ向かうという経路をとっていた。特にこの区間は幅の狭い道路上に軌道が敷設され、また半径の小さいカーブが連続していたため、電車の運行上ボトルネックとなっていた。

左官町から西、十日市町へ向かう線路は1917年(大正6年)に横川線として開通、当停留場は本線と横川線が分岐する停留場となった。ただ1943年(昭和18年)に土橋を起点として江波線が開通すると、ボトルネックを解消して電車の円滑な運行を助けるために、十日市町と土橋を短絡して江波線と横川線を直接結ぶ新たな路線の建設が進められる。結局この路線は翌年の1944年(昭和19年)に開通、これにより横川線の十日市町を経由して土橋に至る新しい経路が通じ、こちらが本線に組み込まれた。同時に左官町から南下し土橋に向かっていたかつての本線は廃止、横川線との分岐駅は十日市町に移ることとなった。

翌年の1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下により路線は被害を受け休止される。それでも己斐方面から復旧がなされ、本線は同年中に運行を再開した。このとき相生橋の西詰から当停留場を経て十日市町へ向かう区間の線路は戦前と同じ位置で復旧されたが、当停留場を境に相生橋方面は本線として、十日市町方面は横川線として後から建設された経緯を持つために両方の線路は一直線上にはなく、左右に蛇行していた。これを解消するため、1956年(昭和31年)に同区間の軌道が移設・直線化されている。その後1965年(昭和40年)4月1日には広島市が市内の町名変更を実施、左官町が本川町に改称されたのに伴い停留場名は本川町に改称された。

1912年(大正元年)12月8日 - 本線が己斐まで開業したのに合わせ、左官町停留場として開業。
1917年(大正6年)11月1日 - 横川線が左官町 - 三篠間で開業。横川線との分岐点になる。
1944年(昭和19年)12月26日 - 本線の左官町 - 土橋間が横川線の十日市町を経由する経路に切り替わる。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下により休止。
8月23日 - 本線が十日市町から左官町まで復旧。
9月7日 - 本線が左官町から八丁堀まで復旧。
1965年(昭和40年)4月1日 - 広島市内の町名変更に伴い、本川町停留場に改称。
2003年(平成15年)4月20日 - 7号線の運行が復活し、当停留場にも乗り入れる。
2013年(平成25年)2月15日 - 9号線の運行が八丁堀から江波まで延長され、当停留場にも乗り入れる

周辺
北には広島電鉄の中央変電所がある。これは原爆投下により破壊された櫓下変電所に代わって1947年(昭和22年)11月に設置、稼働を始めた。当地も爆心地に近く、南にある広島市立本川小学校は原爆で焼け残った旧校舎の一部や地下室を展示施設に転用し、本川小学校平和資料館として活用している。

駅番号 ●M11
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■本線
キロ程 2.8km(広島駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線

米軍 Kalmar RT022ラフテレイン伸縮式フォークリフト

$
0
0

RT022ラフテレイン伸縮式フォークリフト

RT022 Light Capacity Rough Terrain Forkliftは、世界で最も厳しい環境でのコンテナの積み降ろしを支援するように設計されています。RT022は5,000ポンドの持ち上げ能力を持ち、最大36インチの水で作動します。RT022は、世界中で1,500以上のユニットが使用されているため、米国国防総省とその同盟国にとって貴重なツールであることが証明されています。


Kalmar RT022は5,000ポンドまでの持ち上がる容量の荒地勢のフォークリフトである。 容器、それはの中でまた正しく運転するべき十分のコンパクト最も挑戦的な表面の優秀な操縦性のための2車輪の、四輪およびカニのステアリングモードを特色にする。 側面転移によって容器のローディングおよび荷を下すことのために分岐し、ちょうど30フィートの堅い回転半径は、RT022堅いスペースの持ち上がる操作にとって理想的である。

ラフテレインテレハンドラー
このテレハンドラーは、ラフな極限状態で動作するように設計されており、最高の柔軟性と操作性を備えています。RT022は標準のコンテナ(9 "6)に収められており、コンテナの荷下ろしや輸送に適しています。コントロール、ゲージ、インジケータは生産性と人間工学的快適性を促進します。


特徴
内燃機関 ディーゼル燃料
操縦:乗り型
その他の特徴:ハンドリング, 全地形
積載量:5000ポンド
持ち上げ高:最少: 1.5 (4'11") 最大: 5.4 (17'08"

カルマルは、港湾、ターミナル、流通センター、重工業に貨物取扱いのソリューションとサービスを提供しています。私たちはターミナルオートメーションとエネルギー効率の良いコンテナハンドリングの業界先駆けです。世界中の4つのコンテナ移動のうち1つは、カルマル(Kalmar)ソリューションによって処理されます。当社は、幅広い製品ポートフォリオ、グローバルサービスネットワーク、および端末プロセスのシームレスな統合のためのソリューションを通じて、あらゆる動きの効率を改善しています。
製品は、荷役機器、オートメーション、ソフトウェア、およびサービスで構成されています。Kalmarの設備ポートフォリオには、ストラドルとシャトルキャリア、ターミナルトラクター、ヤードクレーン、船舶間のクレーン、リーチスタッカー、空のコンテナハンドラー、フォークリフトが含まれます。Navisターミナルオペレーティングシステム(TOS)、Brommaスプレッダー、Siwertellバルクハンドリングシステムは、Kalmarビジネスエリアの一部として提供されています。

2017年の終わりに、カルマルは30カ国で5,700人以上の従業員を抱えていました。その内、最大のものが米国、マレーシア、スウェーデン、中国、フィンランド、ポーランド、スペイン、インド、オランダでした。

三菱 T-2高等練習機(ブルーインパルス機体)

$
0
0

 

T-2は、日本・航空自衛隊の高等練習機。三菱重工業が製造。初飛行は1971年(昭和46年)7月20日。日本が初めて開発した超音速航空機である。2006年(平成18年)3月2日に岐阜基地・飛行開発実験団のT-2特別仕様機(59-5107)が引退し、初飛行から35年の歴史に幕を閉じた。大抵は「ティーツー」と呼ばれ愛称は無い。

T-2の開発には、1960年代当時のアメリカ空軍の考え方が大きく影響している。米空軍では「戦闘機パイロットの養成には超音速高等練習機が必要である」と言う考え方が主流で、ノースロップのプライベートベンチャーであるN-156F/T(後のF-5、T-38)が使用されていた。超音速飛行そのものが特殊であるとされた時代の認識を引きずったものであり、米空軍ではせっかく採用したT-38を用いての訓練でも、ほとんど超音速を用いなかったが、この論そのものは日本の航空機開発と戦闘機搭乗員養成に大きな影響を与えた。

当時の日本では1962年(昭和37年)から超音速戦闘機F-104J/DJの配備が始まり、1972年(昭和47年)には次期戦闘機F-X(F-4EJ)の配備も始まることとなったため、従来の練習機T-33Aでは性能差がありすぎることから、超音速飛行のできる練習機が求められていた。

同時期に英仏共同で超音速練習機/攻撃機(後のジャギュア)を開発し、高い費用対効果を上げようと言う試みは、国内開発へのはずみにもなったものの、前回のF-X候補のひとつで、F-104に敗れたN-156Fが、航空自衛隊の超音速練習機採用に合わせて再び売り込みを掛けてきていた。防衛庁内には米空軍のT-38/F-5を導入するべきだと強力に主張する勢力がおり、また、制服組からも純技術的経済的問題から国内開発を疑問視する声があがっていた。大蔵省(現 財務省)とのパイプを持つ彼らは、T-38/F-5こそがコストパフォーマンスに優れ、配備予定期日を守ることができる唯一の方法だと強力に主張していた。

しかし、コスト的にはT-38/F-5が優勢であったものの、T-38では要求をクリアすることは不可能とされ、「国内の航空産業と若い技術者の育成、飛躍を目的とする」とした意見が通り、国内開発が決定された。ただ、当初の予定であればF-X導入までに超音速高等練習機を国内開発することは不可能であり、導入を決定したF-4EJファントムIIが複座であることから、これを機種転換に充てるという手法で、運良く戦闘機パイロットの養成スケジュールを消化する目処が立ったために、T-X国内開発の時間的余裕が出来たようなもので、そうでなければ国内開発は時間切れで断念していた可能性もあった。

次期練習機T-Xへの主な要求内容として以下が上げられた。
タンデム複座。
安全性を考えエンジンは双発。
最大速度はM1.6程度。
良好な加速性能と離着陸特性をもつこと。
対戦闘機訓練、対地射爆訓練が可能なこと。
固定武装として機関砲(M61)を装備すること。
火器管制装置を搭載すること。
非常時には補助戦闘機として使用できること。
支援戦闘機F-86Fが近々退役することから、最小限度で支援戦闘機への改造が施せること。
特に量産化による開発費低減を狙って支援戦闘機への改造が大きな要求であり、これらの要求を元に1967年(昭和42年)2月8日に防衛庁が音速ジェット練習機作成に関する性能要求書に対する返答を、三菱重工業と富士重工業が計画書案を提出。9月5日に三菱が主契約企業に決定された。年内に人員75名のXT-2開発設計チーム ASTET(Advanced Supersonic Trainer Engineering Team:超音速高等練習機設計チーム)を編成し、1968年(昭和43年)に基本計画に着手した。エンジンは英仏共同開発のロールス・ロイス/チュルボメカ「アドーア」に決定、1969年(昭和44年)4月に基本設計終了、モックアップ審査が行われ、10月より試作1、2号機の製造に入る。

試作機XT-2の1号機は1971年(昭和46年)4月28日に三菱重工小牧南工場で1号機がロールアウト、7月20日に初飛行、11月19日にマッハ1.08を記録、国産航空機として初めて音速を突破した。12月15日に防衛庁へ納入され、技術研究本部に所属したが、技術試験および実用試験は岐阜基地実験航空隊飛行実験群で行われた。1972年(昭和47年)に試作2号機が航空自衛隊に納入、続いて3号機・4号機が納入された。

1号機(19-5101)
T-2前期型のプロトタイプ。機首ピトー管部には計測ブームが取り付けられており、飛行性能、エンジン関係のテストに使用された。武装はなし。ロールアウト時は全身銀塗装で、胴体尾部にだけ大きな日の丸が描かれていたが、初飛行後に塗装が施された。
2号機(29-5102)
T-2後期型のプロトタイプ。J/AWG-11レーダーとM61機関砲を装備。火器管制システム、武器装備関係の試験に使用された。
3号機(29-5103)
1号機同様に武装は無く、飛行特性などのテストに使用された。特にスピンテストに使用されるため、尾部にスピンシュートを装備、射出座席の改修が施された。T-2前期型のプロトタイプ。
4号機(29-5104)
2号機同様にレーダーと機関砲を装備。火器管制システム、武装関係の試験に使用。機種レーダードームに静電気防止塗装、ネオプレン・コーティングが施された。T-2後期型のプロトタイプ。
XT-2による飛行試験は1974年(昭和49年)3月まで続き、計612ソーティ、691時間に及んだ。 その結果、XT-2に施された大きな改良点は次のとおりである。

まず、着陸形態の低速時における縦安定性が弱いという問題があった。この問題は外部搭載物がある場合には著しく、安定性が負になってしまうものだった。これは、主翼前縁の張り出し部の縮小、境界層板の翼上面への追加、増槽タンクのフィンの形状変更(F-86Fのタンクのような逆T字型からX型へ)、パイロン後端の形状変更(外向きに曲がったような形に)で解決した。

また、加速時に縦の短周期運動が発生することで、過大なGが掛かる問題があった。この問題はボブウェイトの変更とQフィールピトーの位置変更(垂直尾翼右側から前縁部へ)で解決した。

1974年(昭和49年)7月29日に防衛庁長官によって部隊使用の承認を受け、T-2として部隊配備が開始された。T-2配備の結果、従来より10ヶ月も教育期間が短縮されたという。1976年(昭和51年)に松島基地にT-2教育訓練飛行隊である第21飛行隊が新設された。1988年(昭和63年)3月7日に最終号機(#196)が納入され、全96機の生産が終了した。派生型F-1支援戦闘機77機と合わせ、量産効果は十分に達成できたと言える。

機体
T-2は操縦訓練用の前期型と戦術訓練用の後期型の2種類に大別でき、前期型は機関砲やレーダー、火器管制装置を搭載せず、戦闘機操縦課程においての基礎の課程で使用されたのに対し、後期型は実践的な空中戦闘や射撃などの訓練に使用された。なお、一部の航空雑誌や、ファンが前期型を「T-2A」、後期型を「T-2B」とも記述、表現をしている事もあるが、このような区別・呼称は正式にはしていない。前期型と後期型の外見上の主な相違としては、後期型には機関砲が搭載されているため砲口が開口しているのに対し、前期型には砲口が無く、周囲は単なる膨らみとなっている。また、前期型は後期型と重量、重心を合わせるため、各種機器の代わりにダミーウェイト(重り)を搭載している。

主翼が非常に小さく、また、厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状となった。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気の耐熱のためチタニウム合金が用いられている。また、ロールアウトの時点では、胴体後部のベントラルフィンは付いていなかったが、最終設計の段階で低速高迎角時に方向安定が不足することがわかり、新たに装備された。車輪はコストダウンのため、F-104J/DJと同じものを使用している。

エンジンは英仏共同開発のロールス・ロイス/チュルボメカ「アドーア」(RT172 Mk102)を石川島播磨重工業でライセンス生産するものとしたが、そのためか、機体はエンジンを同じくする英仏共同開発のジャギュアに非常に良く似たシルエットである。もちろん、直接の関係は無いが「猿真似」と呼ばれた。 (F-1・形状も参照)

翼面荷重が高い機体の制約から小回りは利かなかったが、上昇力や加速力は良好で、パイロットの評判は良かった。2代目の「ブルーインパルス」に採用され、加速や上昇力を生かしてダイナミックな演技を披露した反面、小回りが利かないので演技の間隔が長くなり、観客には間延びした印象を与えた。また、このため時間内にできる課目が限定され、物足りなさを感じさせたのも事実である。

機体配色は、後期型が基本的にグレー一色(水平尾翼、レドームおよびエンジン周辺の無塗装部等を除く)で塗装されていたのに対し、前期型はグレーを基本にして機首、垂直尾翼全面、主翼と水平尾翼の翼端が視認性向上を目的としてオレンジの蛍光色で塗装されていた。教導隊がアグレッサー(仮想敵機)として使用した機体は、同じ理由でオレンジの部分が機体別に黒・緑・黄・茶で塗装されており、また、機首下面に擬似コックピットが描かれている。

ブルーインパルスの機体色は一般公募したもので、女子高校生のグループが提案したものをベースとして、青を基本に白と水色の帯が入る。
また、築城基地の第6飛行隊や、三沢基地の第3飛行隊・第8飛行隊には、F-1戦闘機と同様の迷彩塗装や標記を施した機体もあった。
なお、平均価格は開発費を上乗せして、およそ19億円ほどと見込まれる。


配備
1971年(昭和48年)にXT-2が制式T-2となり、T-2整備要員の教育が開始された。1974年(昭和49年)には第4航空団(松島基地)内にT-2企画室が設置され、7月29日に防衛庁長官の部隊使用承認を受ける。三菱(名古屋)ではT-2後期型に関する講習が行われる。また、T-2操縦要員の教育を開始、T-2岐阜基地に岐阜作業班が編成され、T-2整備要員の転換教育が開始された。

1975年(昭和50年)3月24日まで松島基地でT-2運用試験第一期を実施、3月26日には量産1号機(#105)が防衛庁に引渡され、3月31日に第4航空団に臨時T-2訓練隊(T-2 2機)が発足、T-2による操縦講習が開始される。同年の松島基地航空祭でT-2がはじめて飛行展示された。なお、同年6月7日には岐阜基地内にT-2用サイレンサーが完成する。次いで松島基地にもT-2サイレンサーが完成、第4航空団は改編されてT-2DOCKが開設、年度内にT-2によって12名が育成された。

1976年(昭和51年)3月25日、臨時T-2訓練隊は臨時第21飛行隊に改編され、T-2による学生教育が開始した。年内に第一期T-2転換課程が終了。25機体制で第4航空団第21飛行隊が正式に発足した。同年、第81航空隊松島飛行班の発足に伴い、昭和52年3月まで支援整備を第4航空団が実施、松島基地に第81航空隊松島飛行班が新設された。

1977年(昭和52年)、CT課程4名が第21飛行隊に入校、年内に第一期生として訓練が完了した。しかし、21飛所属の#127号機の射出座席が地上で誤作動する事故が発生、パラシュートが開かずに教官1名が殉職した。

1978年(昭和53年)4月5日より、第22飛行隊への配備が開始され、空幕による飛行安全特定監査を受けた。この年にはT-2初の1000飛行時間突破パイロットが誕生。また飛行教育集団司令官が第4航空団を初めて視察し、第4航空団は飛行安全褒章を受賞した。第35飛行隊が浜松基地に移動したことにより、第22飛行隊のベースオペレーションが移動した。

1979年(昭和54年)から、第4航空団はT-2用フライトシミュレーターによる要員増強を行う。年内にT-2後期型のフライトシミュレーターが導入され、こちらも運用を開始した。また、無事故を続けていることから、この年も第4航空団が飛行安全褒章を受賞した。ところが、21飛所属の#147号機が訓練終了後の帰途、右脚が出なくなった。T-2/F-1は胴体着陸が禁止されているためパイロットは脱出、機体は放棄されて失われ、最初の消耗機となった。

1980年(昭和55年)2月6日、F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行が入間基地にて実施され、T-2も6機による展示飛行を行った。また、松島基地にて模擬視界装置シミュレーターの運用を開始、矢本海浜緑地公園開園記念に5機による展示飛行を実施した。

アグレッサーとブルーインパルス
1981年(昭和56年)、一般公募によるT-2によるブルーインパルスのデザイン最終審査が行われ、都立高校の女子高生4人組の案が採用された。同年には第4航空団20000時間飛行無事故達成により第3級賞状受賞。一方、22飛の#122号機が築城基地を離陸後に墜落、パイロット2名が殉職した。築城基地には12月17日に航空総隊飛行教導隊が編成され、T-2が6機、T-33Aが2機配備され、アグレッサー(仮想敵機)として運用された。

1982年(昭和57年)、松島基地の第21飛行隊内に戦技研究班を編成、T-2型機による2代目ブルーインパルスの運用が開始され、7月25日には松島基地航空祭にて初公開した。ブルーインパルスの機体配色は前記のように一般公募された女子高校生のグループの案をベースに手が加えられ、青地に白と水色のストライプが入るものとなった。「1982年戦技競技会」にT-2飛行教導隊がフェイカーとして初参加した。第4航空団が飛行安全褒章を受賞。しかし、11月14日に浜松基地航空祭にて展示飛行中のブルーインパルス4番機(#174)が墜落炎上し、パイロット1名が殉職すると共に住民が負傷した。これによりT-2による飛行訓練が一時停止された。ブルーインパルスの展示飛行再開はさらに1年を要した。

1986年(昭和61年)は松島基地の滑走路工事を行うため、第21飛行隊は築城基地、戦技研究班は新田原基地、第22飛行隊主力は小松基地、分遣隊は浜松基地に移動訓練実施した。年内に滑走路工事終了し、移動訓練は完結した。同年、飛行教導隊所属の#171号機が帰投中に墜落、パイロット1名殉職した。さらに、同じく飛行教導隊所属#167が訓練中に墜落、パイロット2名が殉職した。

1988年(昭和63年)、最終号機(#196)を第22飛行隊が受領し、生産は終了した(全96機)1989年(平成元年)3月22日にも飛行教導隊所属の#135がT-2同士の空中格闘訓練中に接触、墜落して乗員2名が死亡。この事故を受けて教導隊は当初の予定よりも早い1990年(平成2年)4月12日にF-15DJに更新された。1991年(平成3年)7月4日には訓練飛行中のブルーインパルス2機(#112・#172)が宮城県金華山沖で墜落してパイロット2名が殉職、同年の航空祭には不参加となった。1992年(平成4年)に訓練を再開したが、6機での展示飛行の再開には3年を要した。なお、同年には量産初号機(#105)が退役し、三沢基地に恒久展示されることとなった。


退役へ
ブルーインパルスは1994年(平成6年)に再復活し、直後の8月に来日したF-16Cサンダーバーズとの競演では、比較的地味に見える課目ながら、当時の規定の範囲内で最良の飛行を行い、目の肥えた観客に強い印象を残した。1995年(平成7年)12月10日の那覇基地航空祭の展示飛行で有終の美を飾る予定であったが、地元との調整に難航し、12月3日の浜松基地祭が最後となった。12月8日にブルーインパルス最終訓練を松島基地にて実施、12月22日に戦技研究班は解散となった。同日、第11飛行隊(ブルーインパルス)が発足し、1996年(平成8年)からT-4中等練習機に変更された。

本機の開発は超音速戦闘機のパイロットを育成するには超音速練習機が必須であるという当時の認識によるものであった。実際には超音速機を用いていても音速を突破する機会は稀であり、後年その認識は必ずしも正しくなかったと考えられている。そのため、練習機専任機に音速突破性能を付与することは非効率であるとされ、飛行教育体系が変更されたことにより、超音速機としての「高等練習機」の後継機は開発されなかった。現代機の速度性能をフルに発揮する高等訓練は、実際の戦闘機の複座型(F-15DJ要撃戦闘機やF-2B戦闘機)によって行われることとなった。

2000年(平成12年)3月22日、1機のT-2が宮城県女川の山林に墜落、乗員1名が死亡した。女川原発の至近であったことから、日本共産党などが抗議する。また、この年は、C-1輸送機やT-4練習機の墜落が相次ぎ、空自にとって災厄の年となった。

2001年(平成13年)3月16日には第22飛行隊の飛行訓練が終了、飛行無事故60094時間を達成した。3月17日に式典を催し、3月27日に第22飛行隊は結成23年で解隊された。T-2初号機は2002年(平成14年)10月18日にラストフライトを迎えた。2004年3月末で教育系統から外れ、松島基地でのT-2訓練も終了した。第21飛行隊はF-2Bが配備される為、2002年(平成14年)4月1日に「臨時F-2教育飛行隊」が設置され、2003年(平成15年)3月末でT-2は退役、更新された。

現役最後の機体は岐阜基地の飛行開発実験団に配備されていたT-2特別仕様機の#107で、2006年(平成18年)3月2日に退役した。

諸元

乗員: 2名
全長: 17.85 m
全高: 4.45 m (※量産機では4.39 m)
翼幅: 7.88 m
運用時重量: 9.45 t (正規全備重量)
動力: RR/石川島播磨重工業 TF40-IHI-801A ターボファンエンジン、3,240 kg × 2
性能
最大速度: 1958.4 km/h (マッハ1.6) ※高度36,000 ft時
失速速度: 231.5 km/h (125ノット)
戦闘行動半径: 300海里以上
実用上昇限度: 15,240 m (50,000 ft)
上昇率: 10.668 m/分 (35,000 ft/分)
離陸滑走距離: 914 m (3,000 ft)
着陸滑走距離: 610 m (2,000 ft)
武装
固定武装: JM61 20mm機関砲 (後期型のみ)
アビオニクス: J/AWG-11火器管制レーダー (後期型のみ)
用途:高等練習機
製造者:三菱重工業
運用者:日本の旗 日本(航空自衛隊)
初飛行:1971年7月20日
生産数:96機
運用開始:1974年8月
退役:2006年3月2日
運用状況:全機退役
ユニットコスト:約19億円(平均)

アストンマーティン・DB11

$
0
0

アストンマーティン・DB11
DB11はイギリスの自動車メーカー、アストンマーティンが2016年から生産するグランドツアラー。2016年3月のジュネーヴ・モーターショーで、DB9の後継としてデビューした。これはアストンマーティンの「次世紀」計画で発売された最初のモデルで、同社がダイムラーと提携後に発表された最初のモデルである。

DB11はアストンのチーフデザイナー、マレク・ライクマンによってデザインされた。それは1:3の比率に焦点を当てたデザインの伝統を継承し、ルーフと車体を隔てる新しいストレーキ、車体前面の「エアロブレード」インテークを含む。これらはサイドストレーキを単なるデザインから機能的なものへと進化させ、乱気流を車体側面からCピラーによって吸気ダクトに導き、「バーチャル」スポイラーとして機能してダウンフォースを生じさせる。

ボンネットは「クラムシェル」デザインで、アストンマーティンは大型のアルミ製単一部品を供給することができる唯一のサプライヤーである。

DB11のエンジンは全く新しい5.2リッター(5204 cc)ツインターボV12エンジンであり、初めてターボチャージャーを搭載した生産車のシリーズとなった。エンジンは600 bhp (447 kW; 608 PS)ないし516 lb·ft (700 N·m)を発揮する。ギアボックスはZF製8速オートマチックギアボックスを装備している。DB11は3.9秒で0~100 km/h (62 mph)まで加速し、最高速は322 km/h (200 mph)に達する。

最初のV12モデルは、2017年の夏に追加された。V8モデルはメルセデスAMGの開発した4.0リッター・ツインターボV8エンジンを搭載し、115kgの軽量化を実現した[。V8エンジンは503 bhp (375 kW; 510 PS)ないし498 lb·ft (675 N·m)を発揮し、最高速度は300 km/h (186 mph)、100 km/h (62 mph)まで4秒で加速する。


生産
DB11は1,400台以上のオーダーを受け、生産は2016年9月28日に正式に開始された。
アストンマーティンは2016年12月現在、DB5と同数のDB11を生産した。(12月23日までに1,019台)

各自動車誌のレビューの反応は、「それは600馬力の背後に座るにはかなり素晴らしい」といった評論を含む、圧倒的に肯定的なものであった。「より良いシャシーを持つGT車があれば、私はまだそれを運転していない。」「華やかで素早いメンバーが集まる未来のポートフォリオへの確かなスタートだが、あなたがどこに向かうにしても、毎日楽しむのに非常に適しているものはない。」

最後に、ジェレミー・クラークソンは次のように語っている。「午前3時のパーティーでパリにいて、午後にモンテカルロでテニスのトーナメントでプレーしているのを覚えているなら、これは仕事のための車です。あなたは風呂から出てきたような気がしますが、それはただの美しい顔ではありません。これは非常に良い車です。非常に良い。しかし、支払う価値がある。」(彼はテスト車のインテリアが気に入らなかった。

メーカー アストンマーティン
生産期間 2016-
生産工場 ウォリックシャー, ゲイドン
デザイン マレク・ライクマン
車体とシャシー
分類 グランドツアラー (S)
車体様式 2ドアクーペ
2ドアコンバーチブル (2018)
レイアウト(英語版) フロントエンジン・リアドライブ
伝動機構
エンジン
5.2 L ツインターボ V12
4.0 L ツインターボ V8
トランスミッション 8速 オートマチック
寸法
ホイールベース 2,808 mm (111 in)
全長 4,739 mm (187 in)
幅 2,060 mm (81 in)
全高 1,279 mm (50 in)
装備重量(英語版) 1,770 kg (3,902 lb)
歴史
前身 アストンマーティン・DB9

東三国駅 大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)御堂筋線

$
0
0

東三国駅(ひがしみくにえき)は、大阪府大阪市淀川区東三国一丁目にある大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の駅。駅番号はM12。駅周辺には飲食店や商業施設が多い。

駅構造
島式ホーム1面2線を有する高架駅。2階に改札・コンコース、3階にホームがある。改札口は南北2か所にある。駅舎には歩道橋で連絡します。東南改札口での改札機は8台。

昇降設備は、改札からホームは北改札内が上りエスカレーターとエレベーターがあり、地上から改札は3番出入口にエレベーターがあり、エスカレーターはない。南改札内にはエスカレーター、エレベーターはない。

トイレは北改札内、南改札内のそれぞれにあり、どちらもオストメイトに対応した多機能トイレがある。

当駅は梅田管区駅に所属し、江坂駅が管轄している。

のりば
東三国駅プラットホーム
番線 路線 行先
1 M 御堂筋線 梅田・なんば・天王寺・あびこ・なかもず方面


2 江坂・千里中央方面


駅周辺
周辺はマンションやビルのほか、飲食店や商業施設も多い。大阪都心へのアクセスの良さと、新大阪駅や東淀川駅に近いことから、単身赴任の住民が多いのが特徴である。

国道423号(新御堂筋)
大阪市立新東三国小学校・保育所
大阪市立東三国中学校・東三国小学校
大阪市立北中島小学校
東三国保育園


常光寺
蒲田神社
大阪府警察第三方面本部
大阪府営三国高層住宅
淀川東三国郵便局
淀川東三国二郵便局
淀川宮原郵便局


スマイル淀川 淀川店
グルメシティ東三国店
ライフ新大阪店
ジャパン東三国店
エディオン三国店
業務スーパーTAKENOKO新大阪三国店


ホームセンターコーナン三国店
ショッピングプラザ新大阪
東海道本線(JR京都線)東淀川駅
関西電力西三国変電所
東三国下水処理場
東横イン新大阪東三国駅前
沢井製薬本社
日本フイルコン大阪支店

接続バス路線
大阪市営バスが運行しており、5号出入口西側に北中島小学校前停留所があり、300mほど離れているものの以前はバス - 地下鉄乗継指定停留所とされていた。2014年3月31日までは、1号出入口北側に東三国二丁目停留所があった。

北中島小学校前
41号系統:新大阪駅東口経由 大阪駅前行 / 榎木橋行

利用状況
2016年11月8日の1日乗降人員は35,773人(乗車人員:17,850人、降車人員:17,923人)である。

1970年(昭和45年)2月24日 - 御堂筋線新大阪 - 江坂間延伸時に開業。
1974年(昭和49年)7月22日 - 分区により駅の所在地が東淀川区から淀川区に変更となる。
2018年(平成30年)4月1日 - 大阪市交通局の民営化により、所属事業者・管轄が大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)に変更。

駅番号 M12
所属事業者 大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)
所属路線 M 御堂筋線


キロ程 2.0km(江坂起点)
千里中央から7.9km
駅構造 高架駅
ホーム 島式 1面2線


乗車人員
-統計年度- 17,850人/日(降車客含まず)
-2016年-
乗降人員
-統計年度- 35,773人/日
-2016年-
開業年月日 1970年(昭和45年)2月24日

Viewing all 3250 articles
Browse latest View live