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155mm榴弾砲 FH-70 (2回目)

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FH-70は、1963年に合意されたNATO基本軍事要求39号によって「牽引・自走両用の近接支援用榴弾砲」として計画された。西ドイツ(当時)とイギリスは協同して研究開発を行い、1968年に細部仕様が決定された。イタリアは1970年から、この計画に参加した。

当初の研究開発はイギリス王立兵器研究開発研究所(RARDE)主導の下、イギリスのヴィッカーズと西ドイツのラインメタルによって行われ、後に参加したフォルクスワーゲンがAPU部分などを担当している。
西側の標準的な榴弾砲で、日本では1983年からライセンス生産が開始された。FH-70を採用した国では日本が最も調達数が多く、現在500門近くが配備されている。
移動には中砲牽引車(クレーン付7tトラック)で牽引するが、砲自体も補助動力用エンジンを持ち、16km/hで自走も可能で、陣地内など近距離での移動が容易に行える。砲架の左前には自走時の専用運転席も備えている。射撃陣地で砲を展開する際は脚を開き砲身を180度旋回させるが、この旋回は砲身にロープを掛けて人力で行なう。操作人員は9人だが、人手不足で6人くらいで運用している部隊もあるそうだ。発射方式は薬嚢式で、隊員に聞いたところでは砲弾と装薬を砲尾から込め、尾栓上のマガジンに納められた発火カートリッジで装薬を爆発させて砲弾を発射するそうで、従って薬莢は不要であり、射撃の後に残るのは発火カートリッジの撃ち殻だけだそうである。


陸上自衛隊では幾種かの自走榴弾砲も装備しているが、そういったものが配備されているのはごく一部の部隊のみで、北部方面隊を除く各師団・旅団の野戦特科部隊ではこのFH-70が主力となっている。砲身後端の下部に砲弾装填用トレイと半自動式装填補助装置を搭載している。このトレイに砲弾を乗せた状態で砲撃すると、砲身の前進運動と連動してトレイが持ち上がると共に尾栓が開き、素早い装填と高い連射速度を実現している。

尾栓と装填補助装置は、砲撃と連動しない状態にしてすべて手動で操作することも可能である。砲架には1,800ccのフォルクスワーゲン製(日本のFH70は富士重工業製)水平対向型ガソリンエンジンと手動変速機を搭載しており、短距離であれば自走が可能であるため、発射位置までの牽引を要しない。このため、展開・撤収が従来の砲と比べて比較的早いという利点がある。ただし、速度は時速16km程度で、また運転手以外の操作要員や砲弾を運搬することは出来ないため、長距離の移動には大型軍用トラックで牽引する必要がある。

陸上自衛隊ではFH70の牽引に74式特大型トラックをベースとした中砲けん引車を使用している。防衛庁(現在の防衛省)は愛称をサンダーストーンとしているが、この名は一般的に普及しているとは言い難く、FH70(えふえっちななまる)、または単にFH(えふえっち)の名で呼ばれるのが一般的である。

愛称 サンダーストーン
種別 榴弾砲
口径 155mm
全長 9,800mm(走行時) 12,400mm(射撃時)
砲身長 6,022mm
全幅 2.56m(牽引状態)
全高 2.56m(牽引状態)
全備重量 約9,600kg
給弾方式 自動装填
発射速度 6発/分
最大射程 30,000m(RAP(噴進)弾) 24,000m(通常弾)
俯仰角 -100ミル〜1,250ミル(-5.6°〜+70°)
旋回角 左右に500ミルずつ(56°)
砲口初速 827m/秒
弾薬 砲弾・薬嚢分離装填式(NATO標準規格)
砲弾 L15榴弾, M107榴弾など
砲尾 垂直鎖栓式閉鎖機
反動 液気圧式駐退機
2段式マズルブレーキ
砲架 開脚式
1,800cc水平対向ガソリンエンジン装備
最大自走速度 20km/h

製作 日本製鋼所

二回目の登場で一回目はhttp://blog.goo.ne.jp/yoshi0749/e/7f15336b095b8b332a14de55037a8d3a

です。立ち寄って下さい。


JR和歌山駅 /阪和線 /和歌山線/紀勢線/きのくに線

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和歌山駅は、和歌山県の県庁所在地である和歌山市のJR・和歌山電鐵側における玄関口であり、東西南北に路線が伸びるターミナル駅となっています。地元では同市内にある南海電鉄の和歌山市駅と区別するため、和歌山駅を「和駅」(わえき)、和歌山市駅を「市駅」(しえき)と通称で呼び分けている。阪和線は「ICOCA」の利用エリアに含まれているが、それ以外は対応していません。和歌山県和歌山市美園町五丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・和歌山電鐵の駅です。


JR西日本の各線と、和歌山電鐵の貴志川線が乗り入れています。JR西日本の路線は、紀勢本線・阪和線・和歌山線の3路線が乗り入れています。このうち紀勢本線を和歌山駅の所属線としており、阪和線と和歌山線は当駅が終点です。また紀勢本線は、和歌山駅からJR西日本管轄区間の東端である新宮駅までの区間に「きのくに線」の愛称が設定されています。また、大阪近郊区間の南限にあたり、阪和線と和歌山線が該当するが、紀勢本線は新宮方面、和歌山市方面ともに該当しない。和歌山市の玄関駅として、バスターミナルとタクシー乗り場がある。西口側には近鉄百貨店など商業中心地として発展しています。一方、東口側は建物の集積が少ないが、学習塾、予備校、専門学校などの教育施設が多いのが特色である。行政機関や金融機関が多く集まる和歌山城、本町周辺へはバスで約7分の距離があります。


5面8線(単式ホーム2面・島式ホーム3面)のホームを持つ地上駅で、各ホームは地下道や跨線橋で結ばれています。但し、貴志川線ホームは地下道のみで結ばれています。
すべての改札口に自動改札機が設置されており、貴志川線の乗り換え口にも簡易型の自動改札機が設置されています。なお、貴志川線との乗り換えには中間改札口を通る必要があります。
構内の紀三井寺方面には、留置線が2線とその南側の踏切を挟んだ所に1線ある他、貴志川線からJR線への渡り線があります(非電化単線)。貴志川線を除けば、当駅の構内案内放送はどのホームもすべて阪和線で使用されているものと同じものに統一されている(貴志川線は南海時代のものをそのまま使っている)。JRの駅としては駅長が配置された直営駅であり、管理駅として、紀勢本線の下津駅 - 紀和駅間の各駅、阪和線の紀伊駅・六十谷駅・紀伊中ノ島駅、和歌山線の紀伊小倉駅 - 田井ノ瀬駅間の各駅を管理しています。和歌山水了軒と阪和第一食堂の2業者が販売しています。民営化前から2業者が営業しており、近畿地方では珍しい例です。なお、阪和第一食堂はその名の通り阪和線ホーム(2・3番線ホーム)のみの営業です。


のりば 路線 行先 備考
JR 1 ■阪和線 天王寺・新大阪・京都方面 主に特急「くろしお」
JR2・3 日根野・鳳・天王寺・関西空港方面 普通・快速
JR4・5 ■きのくに線 御坊・紀伊田辺・白浜・新宮方面 特急はすべて4番線
    ■阪和線 日根野・鳳・天王寺・関西空港方面 快速の一部
JR7 ■和歌山線 粉河・橋本・五条方面
JR8 ■紀勢線 紀和・和歌山市方面

わかやま
電鉄
9 ■貴志川線 交通センター前・貴志方面


6番のりばは存在しません。かつては5・7番線の間にホームなしの線路として存在していたが、現在は撤去されて線路の番号が変更され、旧7番線が6番線、旧8番線が7番線となるも、そのまま7番線、8番線と案内されており、線路とホームの番号が相違しています。


貴志川線の乗り換えには中間改札を通る必要があります。
貴志川線からJR線に乗り換える場合、すでに乗車券類(ICOCAを含む)を所持している時は、自動改札機に乗車券類を通す。所持していない時は、中間改札で精算済証をもらってから(その時に貴志川線の切符は回収される)いったん外に出て切符を買い直すか、乗り換えた列車の車掌もしくは降車駅で精算済証を渡した上で乗車券を購入する必要があります。


逆に、JR線から貴志川線に乗り換える場合で乗車券類を所持していない時は、同じくいったん外に出て買い直すか、9番線入口にある窓口で和歌山駅までの乗車券類を提示の上買う。この場合、カード利用者を除いてホーム内の自動改札は使用できない。なお、貴志川線ではスルッとKANSAIカード、PiTaPaは使えません。

正式には紀勢本線の中間駅だが、運行系統としては、阪和線ときのくに線(新宮駅 - 和歌山駅間の愛称)で直通運転されており、和歌山駅 - 和歌山市駅間は区間運転(実質支線として切り離されている)のみである。よって、和歌山市方面と御坊・新宮方面間の利用では当駅での乗り換えが必要である。他の各線についても、阪和線ときのくに線(御坊・新宮方面)を直通する一部の列車以外は当駅発着となっている。各線とも、特急「くろしお」や快速を含めてすべての列車が停車する。


日中は1番のりばに阪和線方面の特急、2・3番のりばに阪和線の紀州路快速・普通、4番のりばにきのくに線特急と阪和線の紀州路快速、5番のりばにきのくに線の普通が発着する。阪和線の「はんわライナー」はすべて5番のりばから発車していた。


2008年3月15日のダイヤ改正以降、紀州路快速のうち、きのくに線からの普通と接続をとる列車は、乗り換え利便性の観点もあり、4番のりばから発車するケースが多くなった。また、同時期に天王寺寄りで配線変更が行われ、和歌山線と紀勢本線の和歌山市方面は単線に変わっている。
また、2011年3月12日のダイヤ改正より、当駅 - 日根野駅間の快速・普通列車の本数が削減され、日中は従来の快速3、普通3本/hから「紀州路快速」のみの4本/hへ変更となった。これに伴い「紀州路快速」は当駅 - 日根野駅間は各駅停車に変更となり、大阪駅 - 和歌山駅間の標準所要時間は82分から90分に増加した。加えて新幹線接続の新大阪駅までは早朝の始発快速列車(B快速)を除き直通運転しておらず、前述の通り「紀州路快速」の所要時間も長いこともあり大阪方面へは特急「くろしお」の利用客も多い。

最初にできた和歌山市の玄関駅は、1898年に船戸仮駅との間を開業させた紀和鉄道が建設した和歌山駅(現在の紀和駅)です。しかしそのわずか5年後の1903年には紀ノ川駅から伸びてきた南海鉄道(現在の南海本線)が和歌山市駅を開業させる。和歌山市駅の方が大阪への便がよかったということもあり、こちらが新しい和歌山の玄関となりました。現在の和歌山駅は、1924年2月、国鉄紀勢西線の最初の開通区間として、和歌山駅(現在の紀和駅)から当駅を経て箕島駅までが開通したのと同時に東和歌山駅として開業しました。この時、山東軽便鉄道(現在の和歌山電鐵貴志川線)も従来の路線のうち秋月駅(現在の日前宮駅)から中ノ島駅までを廃止し、また秋月駅から和歌山駅まで路線を延ばしてこの駅に乗り入れたので、この駅は開業当初から2路線の接続駅でした。


1930年6月には、阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)が和泉府中駅から阪和東和歌山駅(はんわひがしわかやまえき、東和歌山駅と同位置)までを開業させ、この駅は新しいターミナル駅としての性格を帯びていくようになる。阪和電気鉄道は1940年に南海鉄道に吸収合併されて同社の山手線となったので、阪和東和歌山駅は南海東和歌山駅と改称されました。この駅が国鉄のターミナル駅として重要性を高めたのは1944年でした。この年5月、南海鉄道山手線は国有化により国鉄阪和線となったため、南海東和歌山駅は国鉄の東和歌山駅に統合されたのです。このことによって大阪から和歌山市までが国鉄のみでつながることとなったため、和歌山市駅が南海本線のターミナルであるのに対して、この駅を国鉄のターミナルと呼ぶことができるほどにもなったのでした。


1959年には、三木里駅 - 新鹿駅間の開通をもって和歌山駅(現在の紀和駅)から当駅を経て亀山駅までが全通したため、この区間が紀勢本線となりました。また、和歌山鉄道(1931年に山東軽便鉄道から社名変更)は数度の合併を経て、1961年には南海電気鉄道の貴志川線になりました。
そして、1898年以来和歌山駅を名乗っていた現在の紀和駅が1968年2月1日に現名へ改称される。さらにこの駅についても同時変更による混乱を避けた1ヶ月後の3月1日に現在の名称たる和歌山駅に改称となります。これによって名実ともに和歌山市の玄関駅となったのです。


和歌山線は、かつて田井ノ瀬駅から和歌山駅を経由せず、そのまま紀伊中ノ島駅を経て和歌山駅(現在の紀和駅)に乗り入れていたが、1961年に開通した田井ノ瀬駅から当駅までの貨物支線を利用して1972年3月には全列車が当駅への乗り入れを果たし、正式に営業キロが設定されました(それ以前から紀勢本線箕島方面への直通列車を中心とした一部の旅客列車が乗り入れていたが、貨物線扱いで正式な営業キロがなかったため、運賃を紀伊中ノ島経由で計算していた。)。一方、田井ノ瀬駅から紀和駅までの線路は、1962年12月の貨物営業廃止(当時紀和駅はまだ和歌山駅を名乗っていた)を経て、1974年10月1日に廃止となっています。
その後、国鉄紀勢本線・阪和線・和歌山線は分割・民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の路線となった。そして2006年には南海貴志川線が和歌山電鐵に継承され、現在に至っています。

 

紀伊中ノ島駅 /阪和線

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紀伊中ノ島駅は、和歌山駅が管理している無人駅です。簡易型自動改札機・自動券売機が設置されており、ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができます。


阪和電気鉄道時代には特急列車(一時期は超特急さえも)が、そして国有化し国鉄阪和線になった後も快速列車が停車していました。また、1993年までは一部の快速列車が停車していました。2011年3月のダイヤ改正で、紀州路快速の多くが日根野駅以南を各駅停車としたため、結果的に快速停車駅に戻っている。かつては和歌山線が田井ノ瀬駅から当駅を通って紀和駅(旧和歌山駅)まで通じていたが1974年に廃止されました。和歌山県和歌山市中之島にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅です。

相対式2面2線のホームを持つ高架駅で、開業時からの古い駅舎が現在も残っています。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類されます。
かつてこの駅が和歌山線との乗り換え駅であった名残で、駅舎から和歌山線ホームを通って阪和線ホームへ達する構造であるため、今でも和歌山線ホームの痕跡が残っており、駅舎は現在となっては単なる待合スペースとなっています。
ホーム 路線 方向 行先
1 ■阪和線 上り 関西空港・日根野・天王寺方面
2 ■阪和線 下り 和歌山方面

大阪と和歌山を高速に結ぶことを目的として建設された阪和電気鉄道の中間駅として1932年(昭和7年)1月1日に開業しました。当初から築堤上にある駅で、この駅のすぐそばで既存の鉄道省(国有鉄道)和歌山線の線路を乗り越えていました。この当時、国鉄和歌山線は東側の田井ノ瀬駅からまっすぐ西へ向かい和歌山駅(現在の紀和駅)へと通じていました。その後、双方の連絡を行うために1935年(昭和10年)1月1日に両者の交点付近に国鉄が紀伊中ノ島駅を開業させ、同時に阪和電気鉄道の駅は102 m南の交点付近へ移転しました。この時に国鉄が建設した駅舎が現存する駅舎で、またこの時に阪和電気鉄道が建設したホームが現存するホームです。この時から阪和電気鉄道側では特急も止まるようになった。国鉄・阪和電気鉄道がそれぞれ駅舎を設けていたが、1936年(昭和11年)9月25日に阪和電気鉄道の駅名を国鉄に合わせて紀伊中ノ島と改称するとともに、阪和電気鉄道側の駅舎は撤去され、駅を共同使用するようになった。その後阪和電気鉄道は南海鉄道を経て国鉄に買収され、国鉄阪和線となり阪和線と和歌山線の乗換駅となりました。


阪和電気鉄道が東和歌山駅として開業させた現在の和歌山駅が重要になるにつれて、和歌山線の田井ノ瀬駅から東和歌山駅へ乗り入れる線路(当時は貨物支線として設定)が1961年(昭和36年)に完成し、1968年(昭和43年)には従来の和歌山駅を紀和駅へ、従来の東和歌山駅を和歌山駅へ改称しました。 この貨物支線経由の旅客列車は当初、準急列車だけであったが、やがて普通列車にもこちらを経由する列車が設定されるようになりました。1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正で和歌山線の定期列車がすべて和歌山駅へ直通するようになると、田井ノ瀬から紀伊中ノ島駅を経由して紀和へ向かう元来の和歌山線は支線へ転落し、1974年(昭和49年)9月30日限りで廃止となりました。これにより、紀伊中ノ島駅は阪和線単独の中間駅となり、乗換駅としての機能を失いました。


2008年(平成20年)8月に、この駅のホーム(阪和電気鉄道が建設したもの)の屋根を支える鉄骨が、八幡製鉄所が操業を開始した当初に製造したレールを転用したものであることが発見されました。レールを転用したホーム屋根骨組みは各地に存在するものであるが、八幡製鉄所の創業当時のレールは珍しく、日本の重工業・鉄鋼史の面から貴重な産業遺産と評価され、2009年(平成21年)に産業考古学会の推薦産業遺産として認定されました。

1932年(昭和7年)
1月1日 - 阪和電気鉄道の六十谷駅 - 阪和東和歌山駅(現在の和歌山駅)間に中之島駅(なかのしまえき)として新設開業。
1月15日 - 阪和中之島駅(はんわなかのしまえき)に改称。
1935年(昭和10年)1月1日 - 102 m南側の国鉄線との交点へ阪和電気鉄道の駅を移転。国有鉄道和歌山線の紀伊中ノ島駅開業、超特急停車駅となる(その後、当駅停車列車は「特急」に格下げとなる)。
1936年(昭和11年)
6月10日 - 鉄道省(国有鉄道)と阪和電気鉄道の駅が共同使用となる。
9月25日 - 阪和電気鉄道の駅が紀伊中ノ島駅に改称、阪和電気鉄道側の駅舎を撤去。
1940年(昭和15年)12月1日 - 阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、南海山手線と国有鉄道和歌山線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 南海山手線が戦時買収私鉄指定され国有鉄道阪和線となり、国有鉄道単独駅となる。
1974年(昭和49年)10月1日 - 和歌山線の田井ノ瀬 - 紀伊中ノ島 - 紀和間が廃止。阪和線のみの駅となる。
1985年(昭和60年)3月14日 - 無人駅化[4]。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1993年(平成5年)3月18日 - ラッシュ時の快速停車が廃止される。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」供用開始。
2009年(平成21年) - 「JR紀伊中ノ島駅のレール構築物」が推薦産業遺産に認定される。

電報略号 ナシ
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 261人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1932年(昭和7年)1月1日
備考 無人駅(自動券売機 有)
* 阪和線のりばは1936年まで阪和中之島駅(開業当初は中之島駅)
** 1974年までは和歌山線も乗り入れていた。

 

美祢駅 美祢線

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美祢市の代表駅である、美祢駅は、山口県美祢市大嶺町東分字平城にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)美祢線の駅です。駅前はロータリーもあり広いスペースとなっています。

美祢市は、山口県中央部にある市。四方を山が囲み、特に長門市・萩市との間は中国山地が横たわるため冬季は凍結や積雪などがあります。さまざまな化石が産出されることで知られており、土地は石灰質である所が多く、国道435号が通過する大嶺地区や豊田前地区では道路沿いに石灰層や石炭層を見ることが出来ます。

市名の由来は「山(峰)に囲まれていることから、峰が美祢に転訛した」という説があります。明治維新後に開発された大嶺炭鉱の無煙炭、石灰石の産出などで工業都市として発展。特に大嶺炭鉱の無煙炭は、戦前の軍艦などの燃料に重宝された。石灰石は全国有数の国内シェアを誇っていました。大嶺炭鉱が閉山した後は人口が激減。現在でも宇部興産や太平洋セメントによる石灰石の産出は行っており、工業団地の誘致などにより工業都市としての発展を図っています。2007年(平成19年)5月には日本初のPFI方式で設置された刑務所である美祢社会復帰促進センターが豊田前町の工業団地「美祢テクノパーク」内に開設されました。市東部の秋芳・美東地域は秋吉台国定公園を中心とした観光業が主たる産業であり、秋吉台・秋芳洞をはじめとする観光資源が多数存在します。農業も盛んで、梨やゴボウ・ホウレンソウ(他地域より甘みがあり、生で食べることもできる)が特産です。


 

美祢線(みねせん)は、山口県山陽小野田市の厚狭駅から山口県長門市の長門市駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)です。山口県を南北に貫く地域輸送路線。沿線には秋吉台・秋芳洞への玄関口美祢市や海上アルプスと呼ばれる青海島がある長門市などを控えている。かつては石灰石などの貨物輸送が多かったため幹線に指定されました。

2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正以降、旅客列車はすべて各駅に停車する普通列車で、1 - 2時間に1本程度運転されています。ほとんどの列車が厚狭駅 - 長門市駅間の全区間で運行され、区間運転の列車は登校日の朝に美祢駅→仙崎駅間で運行される1本のみとなっています。約半数が山陰本線仙崎支線まで直通し、厚狭駅 - 長門市駅 - 仙崎駅間折り返し運転を行っている。保守工事のため、日中の列車は奇数月の第4水曜日(休日にあたる場合をのぞく)は運休し、バス代行となります。全列車がワンマン運転を実施しています。

貨物列車は美祢駅以南で運行されています。美祢駅と山陰本線岡見駅との間を山陽本線・山口線経由で1日1往復運転される専用貨物列車で、牽引機はDD51形ディーゼル機関車、貨車はすべてタキ1100形です。これは、宇部興産伊佐セメント工場で生産される炭酸カルシウムと中国電力三隅発電所で発生するフライアッシュを相互に輸送するものです。


 
かつては美祢駅から宇部線宇部港駅との間で石炭・石灰石運搬の専用貨物列車(DD51形牽引、貨車は石炭車のセキ6000形・セキ8000形)が昼夜を問わず多数運転されており、旅客輸送以上に収益をもたらしていたが、主たる顧客であった宇部興産が自社の専用道路を開通させ、石炭・石灰石輸送をトラック輸送に移行させたのに伴い、宇部港駅向けの石灰石列車は1998年(平成10年)に廃止となっています。美祢線南部の各駅に十分な有効長を持つ交換設備を備えることと、松ヶ瀬・鴨ノ庄の両信号場の存在は、石灰石輸送全盛時の設備増強に由来している部分が大きい。


 
また近年まで運行されていた系統として、重安駅と宇部線宇部岬駅との間で1日1往復運転される専用貨物列車が存在した。牽引機はDD51形・DE10形ディーゼル機関車、貨車はホキ9500形で、太平洋セメント重安鉱業所で生産される塊石灰石をセントラル硝子宇部工場へ輸送するものでした。これについては、ホキ9500形の老朽化に伴い2009年10月18日の運行をもって廃止となりました。

 
かつては線内を運行する急行列車として「あきよし」や「さんべ」が運行されていました(美祢線内は美祢駅と長門湯本駅に停車)。いずれも山陰本線益田方面から美祢線・山陽本線を経て九州に至る列車であるが、美祢線を経由する列車・編成は1985年に廃止されています。急行「さんべ」には益田駅で山口線経由の編成と分割、あるいは長門市駅で山陰本線経由の編成と分割後下関駅で併結するという変わった運行形態のものがありました。そのため、実質的に最短経路で運賃を計算できるように選択乗車の制度があった。なお、急行「さんべ」にグリーン車が連結されていたときは山陰本線経由ではなく美祢線経由の編成がグリーン車付きとなっていました。
 
また、急行列車の運転終了後、「北長門」(厚狭駅 - 長門市駅 - 東萩駅間)[2]・「金子みすゞ号」(厚狭駅 - 長門市駅 - 仙崎駅間)・「萩・津和野号」(厚狭駅 - 長門市駅 - 益田駅 - 津和野駅間)といった臨時快速列車も運転されていたが、運行終了となりました。


単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。構内の南東側、1番のりばに接して駅舎がある。2009年3月14日改正ダイヤでは、当駅で旅客列車同士の交換が設定されていないため、旅客列車はすべて1番のりばに発着する。2・3番のりばへは構内踏切で連絡しているが、1番のりば側の段差に蓋がされており、構内踏切へ降りること自体ができなくなっています。登校日のみ当駅始発の列車が設定されています。長門鉄道部が管理し、ジェイアール西日本広島メンテックが駅業務を受託する業務委託駅。美祢線の中間駅では唯一みどりの窓口が設置されている。駅裏への自由通路は設けられていません。また、かつては売店とうどん屋が営業していたが、それぞれ2008年(平成20年)と2007年(平成19年)に閉店しました。


 
美祢駅プラットホーム

ホーム    路線  方向  行先
 1     ■美祢線 下り  長門市方面
                上り  厚狭方面
2・3  (貨物専用のため立入不可)
 
旅客案内上ののりば番号は駅舎側から順に付番されているが、列車運転指令上の番線番号は駅舎反対側から順に付番されているため、番号が逆転する(1番のりばが「3番線」)。JR貨物の駅は、専用線発着の車扱貨物の取扱駅となっています。旅客ホームの北500メートルほどの場所に「美祢ヤード」と呼ばれる小規模な操車場があり、ここから南東方向へ伸び宇部興産伊佐セメント工場へ至る全長2kmほどの専用線がある。当駅と山陰本線岡見駅の間にはタキ1100形で編成された専用貨物列車が1日1往復運転されており(山陽本線・山口線経由)、伊佐セメント工場からは炭酸カルシウム(石灰石)が中国電力三隅火力発電所へ送られ、逆に三隅火力発電所からはフライアッシュ(石炭灰)が伊佐セメント工場へ送られているとのこと。かつては石炭輸送で多くの貨物列車が発着していたが、大嶺炭鉱の閉山により石炭輸送は廃止された。また、宇部港駅への石灰石輸送は宇部興産専用道路の開通後は同道路を使用したトラック輸送に順次切りかわり、1998年(平成10年)に廃止されました。

 

厚狭駅 - 南大嶺駅 - 大嶺駅間は、大嶺から産出される石炭を運ぶために山陽鉄道が1905年(明治38年)に開業した。翌年国有化され大嶺線となった。南大嶺駅 - 重安駅間は、美祢軽便鉄道により1916年(大正5年)に開業した。のちに国有化され美禰軽便線となり、軽便鉄道法の廃止に伴い1922年(大正11年)に軽便線の呼称が廃止され美禰線となった。重安駅 - 長門市駅間は、国鉄線として延伸された区間である。正明市(現在の長門市)駅までは1924年に開通した。その後、美禰線として東は宇田郷駅、西は阿川駅、北は仙崎駅まで延伸されるが、1933年(昭和8年)に正明市駅から先は山陰本線に編入された。なお、美祢線の表記となったのは1963年(昭和38年)のことである。美祢線に編入後、大嶺支線と呼ばれていた南大嶺 - 大嶺間は1997年(平成9年)に廃止されました。


1916年(大正5年)9月15日 - 美祢軽便鉄道の伊佐駅(現・南大嶺駅) - 重安駅間開業と同時に、吉則停留場(よしのりていりゅうじょう)として設置。
 1920年(大正9年)6月1日 - 美祢軽便鉄道が美禰軽便線として国有化され、国有鉄道に移管。同時に駅に昇格し、吉則駅となる。
 1922年(大正11年)9月2日 - 軽便線の呼称廃止に伴い美禰軽便線が美禰線に改称され、当駅もその所属となる。
 1963年(昭和38年)10月1日 - 美祢駅に改称。これに合わせて線路名称の表記も「美禰線」から「美祢線」に改められる。
 1982年(昭和57年)10月1日 - 専用線発着を除く貨物の車扱取扱を廃止。
 1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物の取扱を廃止。
 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道・日本貨物鉄道の駅となる。
 1998年(平成10年) 4月1日 - 宇部港駅への石灰石輸送貨物列車が廃止。
 6月15日 - 岡見駅への炭酸カルシウム、フライアッシュ輸送貨物列車が運行開始。
 
2010年(平成22年)7月15日 - 大雨による厚狭川氾濫で橋梁や路盤が流失、全線不通となり、営業休止。
 2011年(平成23年)9月26日 - この日の始発から美祢線全線の運転が再開。

 

電報略号 ミネ
 駅構造 地上駅
 ホーム 2面3線(旅客使用は1面1線のみ)
乗車人員
 -統計年度-
 394人/日(降車客含まず)
 -2010年-
 
開業年月日 1916年(大正5年)9月15日
備考
業務委託駅
 みどりの窓口 有
 * 1963年に吉則駅から改称。

 

 

PLH-09 りゅうきゅう:海上保安

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1977年、日本の排他的経済水域が沿岸から200海里に拡張され、その面積はおよそ405万km²と増大した。これにより海上交通の安全確保が一層求められるようになった海保であったが、200海里もの広範囲の海域をカバーするには既存の巡視船や陸上機の航続力は不足であり、かといって大型の巡視船を建造したとしても「重量の増加→速力の低下→さらに強力なエンジンの搭載→燃料搭載量の増加→さらなる重量の増加」という悪循環に陥ることが懸念されました。また、最高速度が20ノットに満たない大型巡視船では、外洋での救難信号受信後に急行したとしてもかなりの時間がかかることが懸念された。そこで海保では、しれとこ型巡視船の大量建造を決めると共に、巡視船そうやの設計を基に、ヘリコプターを1機搭載し広範囲にわたる海域を迅速に対処でき(ヘリコプターの速度を100ノットだとしても、巡航速度は巡視船の2倍、上空からの視界で捜索能力は10倍になると見積もられていました)、他の巡視船艇を指揮できる巡視船を建造することを決定しました。


船体・機関 :つがる型巡視船は、そうや型巡視船の設計を参考に建造されたため、外見は「そうや」に非常に酷似する。最大の違いは、砕氷能力を有する「そうや」に対して船首に砕氷能力が無い点である。ただし、北方配備を考慮して船体の耐氷構造と防滴塗装は維持されており、高速航行を維持するために水線長を10m延長して幅を1m狭くしました。1979年から2001年までの長きに渡って建造が続いたため、各船ごとに設計に若干の差異がある。従って、右記の要目は目安である。特に、8番船「りゅうきゅう」以降は船体線図が新たに描き起こされており、事実上の新型とする場合もあります。主機関についてもそうや型巡視船のものを踏襲しており、4サイクルV型12気筒ディーゼルエンジンであるSEMT ピルスティク社製12PC2-5V(7,800ps)を両舷2軸に各1基ずつ配していた。また7番船「えちご」以降では同社製12PC2-6V(8,000ps)に強化するとともに、スクリュープロペラもスキュード・タイプに変更されました。これらの主機関は、石川島播磨、日本鋼管、新潟鐵工所によりライセンス生産されました。

装備 :武装は、当初ボフォースL/60 40mm機関砲とエリコンSS 20mm機銃を船体前方に各1門、単装マウントに配して搭載していたが、PLH-04「うらが」(後に「はやと」に改名)以降は、より省力化され強力なエリコン 35mm機関砲の単装マウント(GDM-B)とJM61-M 20mm多銃身機関砲各1門に換装されています。PLH-09「りゅうきゅう」以降は、20mm多銃身機関砲がRFS連動型のJM61-RFSとなりました。船体後部にはヘリコプター格納庫と飛行甲板を有し、ベル 212中型ヘリコプターを1機搭載・運用することができます。ベル 212は、当時S-58の後継として配備が始まっていた中型ヘリで、ウインチを用いてホバリングしながらの患者・遭難者の収容が可能である。そのため、ヘリコプター離着時の動揺防止に減揺タンクに加え、フィンスタビライザーを2組[5]装備したが、「そうや」が氷海での航行を考慮して引込式になっているのに対し、本型では固定式になっている。また、業務拡大に伴い「そうや」には無かった公害測定室を新設しています。


PLH06「ちくぜん」以降はレール式のヘリコプター引込装置と自動操船装置を装備したほか、PLH07「せっつ」以降は操舵室に機関室機器を制御監視する区画を設けたほか、放射線測定器を追加装備。PLH08「えちご」以降は、操船・機関監視・航行管制などを操舵室で一元管理するIBSを装備しました。
各船の兵装
PLH-01〜03 PLH-04〜08 PLH-09〜10
ボフォースL/60 40mm機関砲×1門 エリコンKDC 35mm機関砲×1門
エリコンSS 20mm機銃×1門 JM61-M 20mm多銃身機関砲×1門 JM61-RFS 20mm多銃身機関砲×1門

運用 :1番船「つがる」は1979年に配属された。 現在、第三、第四、第六管区を除く各管区の海上保安本部にほぼ一隻ずつ配備されている。4番船の「ざおう」は配属先の塩釜海上保安部付近に金華山海峡以外に海峡・島嶼が無く、仮に「きんかさん」または「きんか」と命名しても「金隠し」などと揶揄される可能性があったため、巡視船の命名基準で小型巡視船に用いられていた山の名前から「ざおう」と名づけらました。1999年に発生した北朝鮮による能登半島沖不審船事件においては、PLH06「ちくぜん」が出動。ヘリ搭載という利点を生かし、洋上で特殊警備隊(SST)が乗船した。また、20ミリ機関砲による警告射撃も行っている。2001年の九州南西海域工作船事件においてはPLH04「はやと」が派遣され、後方指揮を担った。2009年7月3日、和歌山県白浜町の南西約29キロの紀伊水道で、神戸海上保安部所属の巡視船「せっつ」が前部甲板にある35ミリ機関砲の射撃訓練を行ったところ、衝撃で砲身が吹き飛んで海中に落下した。乗組員約40人にけがはなかった。神戸海上保安部の発表によると、せっつは20ミリ機関砲の訓練を終え、35ミリ機関砲を右舷に向け1発発射した直後、砲身が外れたという。砲身は、ねじって砲にはめ込む仕組みになっており、常時取り付けられている。訓練前の点検でも異状はなかったという。初期の建造船はすでに船齢30年を超えているが、昨今の緊縮財政化では新造船による代替は困難である。そこで順次改修をおこなって耐用年数を15年延長する計画であり、平成22年度補正予算でPLH03「おおすみ」の延命・機能向上工事費が認められている。

概略
PLH「そうや」型(砕氷船)の準同型後続船として建造された、ヘリコプター1機搭載型巡視船です。
OIC(Operation Information Center)を持ち、大規模な警備救難活動の際、指揮船として活躍することが出来ます。同型船とはいうものの1番船と9番船には20年以上のタイムラグがあり、搭載機能や船内レイアウト、ヘリコプター関連設備など逐次改良が加えられているほか、「りゅうきゅう」「だいせん」の2隻は線図も新規に描き直された事実上の新型船です。大きさは海上自衛隊 「はつゆき」型 よりやや小さいくらいです。
平成2年建造のPLH-08「えちご」は、船橋の大幅省力化が図られています。PLH-09「りゅうきゅう」、PLH-10「だいせん」は実質的に再設計された新型船と言えます。

●総トン数:3221t(旧)/満載排水量:4037t
●主要寸法:全長105.4m×幅15.0m×深さ8.0m
●エンジン:ディーゼル2基2軸 出力:15600PS
●速力:約22kt
●船質:鋼
●航続距離:6000浬
●乗員:69名
●主要装備:フィンスタビライザー バウスラスター レーダー 航空用レーダー 他
●主要兵装:40mm単装機銃×1 20mm単装機銃×1
●搭載ヘリコプター 「ベル212」中型ヘリコプター1機
●航行区域:遠洋(国際航海)

9月3日(火)のつぶやき

9月4日(水)のつぶやき

六十谷駅 /阪和線

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六十谷駅は、和歌山県和歌山市六十谷にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅です。和歌山駅が管理している直営駅。みどりの窓口も設けられ、ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができます。

当初は普通列車のみが停車する駅でしたが、大規模私立学校が2校設立後は利用者が増加し、ラッシュ時(朝の上りと夜の下り)快速停車駅となり、さらに紀州路快速設定と同時に終日快速停車駅となりました。平日朝は相当の混雑となります。

相対式ホーム2面2線をもつ地上駅で、分岐器や絶対信号機がない停留所に分類される。駅舎はコンクリートづくりの平屋建てで、自動改札機が三台設置されています。駅舎は1番のりば側にあり、2番のりばへは跨線橋で連絡さています。開智中学校・高校への通学生のために2番のりばの外れ(和歌山方面行きホーム天王寺方)に専用出口があります。

駅前は狭く、送迎の車で混雑します。2009年3月にエレベーターとLED式発車標が設置されました。待合室には椅子はわずかしか設置されていません。キオスクは平日のみの営業です。

ホーム 路線 方向 行先
1 ■阪和線 上り 関西空港・日根野・天王寺方面
2 ■阪和線 下り 和歌山方面

国鉄時代のままの駅名表示。


1930年(昭和5年)6月16日 - 阪和電気鉄道の和泉府中駅 - 阪和東和歌山駅(現・和歌山駅)間延伸時に、停留場として開業。
1931年(昭和6年)10月10日認可 - 停車場(駅)に昇格。貨物扱い開始(?)。
1940年(昭和15年)12月1日 - 阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、南海山手線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 南海山手線が国有化され、国有鉄道阪和線の駅となる。
1962年(昭和37年)2月1日 - 貨物扱い廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1993年(平成5年)3月18日 - ラッシュ時に一部の快速が停車するようになる(同時に、紀伊中ノ島駅の快速停車廃止)。
1999年(平成11年)5月10日 - 終日快速が停車するようになる(紀州路快速新設)。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」供用開始。

 

 

 


六合駅 東海道本線

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六合駅は、静岡県島田市道悦一丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。駅前は十分なスペースがあります。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅。東海道本線によくある駅の南北を結ぶ簡便な橋上駅舎を備える駅です。
東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、藤枝駅が当駅を管理しています。駅舎内部にはみどりの窓口などが置かれています。


六合駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■東海道本線 上り 静岡・沼津方面
2 ■東海道本線 下り 浜松・豊橋方面

業務委託駅ですが日本交通観光社(日交観、現・ジェイアールバステック)グループ、JRの関連会社などの団体または企業に、業務の全てが委託されている駅です。基本的に業務内容は直営駅と大きな差はありません。業務委託駅の駅員は、例えば東日本旅客鉄道(JR東日本)管内の駅で、支社の系列会社に委託されているケースなどに見られるように鉄道会社の制服を着用していることが多い(秋田支社=ジェイアールアトリス・弘前ステーションビル、新潟支社=ジェイアール新潟ビジネスなどは独自の制服)。このため、その駅が鉄道会社の直営なのか委託駅なのか正規社員か委託係員かを見分けるのは難しい。
東海旅客鉄道(JR東海)では、子会社の東海交通事業に業務委託している駅があり、JR東海が貸与する制服を着用している(名札の取り付け方が違うので、見分けはつきます)。また新幹線鉄道事業本部エリアでは同じく子会社の新幹線メンテナンス東海、関西支社エリアでは関西新幹線サービックにそれぞれ業務委託しています。

1986年(昭和61年)4月26日 - 国鉄東海道本線の藤枝 - 島田間に新設開業(旅客営業のみ)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道の駅となる。
2008年(平成20年)3月1日 - TOICAのサービス開始。


電報略号 ロコ
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 3,108人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1986年(昭和61年)4月26日
備考 業務委託駅 みどりの窓口 有


紀伊駅 /阪和線

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紀伊駅は、和歌山市北部の住宅地、和歌山県和歌山市北野にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅です。この辺りには紀伊国の国府がありました。

駅の西にある府守神社は国府の跡と伝わり府中の地名も残っています。朝夕は多数の通勤通学客で賑わう駅です。和歌山駅が管理している直営駅で、阪和線としては、和歌山県の最北端にある駅である。

みどりの窓口も設けられ、ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができます。岩出市在住者の利用が多いことが特色で、駅近くには紀泉台などの大規模住宅地が開発されている。これは、市街の中心部にあるJR岩出駅は和歌山線沿線であり、大阪へ行くには一旦和歌山駅を経由するため遠回りなのに対し、紀伊駅を利用すれば乗り換え無しで大阪の中心地に行けるからです。

島式ホーム2面4線を持つ、待避設備を備えた地上駅。駅舎と二つのホームとはみな同じ高さにあり、この三つを結ぶ跨線橋がある。のりばは駅舎側から1番のりば、2番のりば、3番のりば、4番のりばである。

現在の駅舎ですが平成15(2003)年3月にエレベーター設置に伴い駅舎が一部増築されました。駅舎やホームはみな駅前の道路、駅前広場から数m高くに位置します。そのため駅舎と駅前とは階段で結ばれています。駅舎は狭い敷地に建てられているためL字型をした変わった構造です。待合室はそれほど広くはなく、椅子が少数設置されるのみです。トイレは改札内にあり、男女別の水洗式となっています。


ホーム 路線 方向 行先
1・2 ■阪和線 下り 和歌山方面
3・4 ■阪和線 上り 関西空港・日根野・鳳・天王寺・大阪方面
2番・3番のりばが主本線、1番・4番のりばが待避線である。待避線は稀にしか使用されません。

1930年(昭和5年)6月16日 - 阪和電気鉄道の和泉府中駅 - 阪和東和歌山駅(現・和歌山駅)間延伸により開業。
1940年(昭和15年)12月1日 - 阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、南海山手線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 山手線が国有化され、国有鉄道阪和線の駅となる。


1968年(昭和43年)9月1日 - 貨物扱い廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 朝夕の一部快速停車駅となる。
1992年(平成4年)11月 - みどりの窓口営業開始。
1999年(平成11年)5月10日 - 紀州路快速運転開始により、終日快速停車駅になる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」供用開始

電報略号 キイ
駅構造 地上駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 4,104人/日(降車客含まず)
-2009年-
開業年月日 1930年(昭和5年)6月16日
備考 直営駅
みどりの窓口 有

 

 

 

化学防護車:陸上自衛隊

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化学防護車は、核兵器や化学兵器が使用された状況下において、放射線や汚染状況を調査、測定するNBC偵察車両である。82式指揮通信車を改設計して開発され、1987年(昭和62年)に制式採用、主に陸上自衛隊の中央特殊武器防護隊(大宮駐屯地)、各師団および旅団内の化学防護小隊などに配備されています。小松製作所製造。

各部の密閉度を上げ、空気浄化装置を装備することで乗員を外部の汚染から守り、車外の放射線の測定や毒ガスの検知が可能になっている。また、放射線測定器やガス検知器などに加え、車体後部にはマニピュレーターが備えられており、汚染された土壌のサンプルを採取できます。総重量が82式指揮通信車に比べて重くなった為、最高速度は低下しています。

武装の12.7mm重機関銃M2は、73式装甲車や96式装輪装甲車で採用された物と同じく車内からの遠隔操作が可能で、乗員を外気に晒すことなく使用できます。

1999年(平成11年)に発生した東海村JCO臨界事故での教訓から、中性子防護板が開発され、原子力災害時など必要に応じて取り付けることが出来ます。又、1999年(平成11年)度以降に取得した車両は化学防護車(B)となり、車体側面に装備していた風向センサが起倒式になり、車体後部天井に置かれている。
長らく自衛隊の車両は緊急車両として扱われることがなかったが、化学防護車は緊急車両として認められ、赤色灯、サイレンが装着されるようになりました。
細菌等を検知する能力はないため、生物兵器の検知には生物偵察車が用いられます。後継車両として、化学防護車と生物偵察車を一本化してNBC偵察能力を高めたNBC偵察車が2010年(平成22年)度から調達されています。

全長 6.10 m
全幅 2.48 m
全高 2.38 m
重量 14.1 t
乗員数 4 名
装甲・武装
主武装 12.7mm重機関銃M2×1
機動力
速度 95 km/h
エンジン いすゞ 10PBI
4ストロークV型10気筒
液冷ディーゼル
305 hp/2,700 rpm
行動距離 500 km

これまでの活動は主に第101化学防護隊と、その後身である中央特殊武器防護隊により行われています。本車両は、1995年(平成7年)に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件の際に初めて出動し、物質特定などを行いました。東海村JCO臨界事故の際も現場近くに待機したが、活動は行われてはいません。2011年(平成23年)の福島第一原子力発電所事故でも中央特殊武器防護隊所属車両が派遣されています。

土佐上川口駅 土佐くろしお鉄道中村線

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土佐上川口駅(とさかみかわぐちえき)は、高知県幡多郡黒潮町上川口にある土佐くろしお鉄道中村線の駅。海岸から少し離れています。

駅番号はTK34。駅名標にあるキャッチフレーズは「幡多青少年の家」。文字どおり駅から県立幡多青年の家が近い。特急は2往復のみ停車いたします。

単式ホーム1面1線の地上駅(無人駅)。駅舎はなく、築堤上のホームに階段で連絡します。ホーム待合所には長椅子が設置されています。

入口横の高架下には木製の長椅子が設置され、待合所として利用されているようです。

1970年(昭和45年)10月1日:日本国有鉄道の駅として開業。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。
1988年(昭和63年)4月1日:土佐くろしお鉄道に転換。

電報略号 カワ
駅構造 地上駅
ホーム 単式 1面1線
開業年月日 1970年(昭和45年)10月1日
備考 無人駅

 

山中渓駅 /阪和線

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山中渓駅(やまなかだにえき)は、大阪府内のJRの駅で最も乗客数が少ない駅です。関西地区における鉄道写真の撮影地としても知られており、桜が満開になる季節にはにぎわいます。

大阪府阪南市山中渓にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅。ハイキングコースの出入口にもあたります。付近には高速道路が並走するため、それほど静かではありません。阪和線の駅では大阪府の最南端に位置し一番の秘境駅です。駅前には旧街道沿いの小さな集落しかありません。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、分岐器や絶対信号機がない停留所に分類されています。駅前広場などはなく、こぢんまりとした木造駅舎です。


和泉砂川駅が管理している無人駅です。簡易型自動改札機が設置されており、ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができます。精算機は設置されていません。
なお、大阪府内におけるJRの無人駅は山中渓駅のみです。

天王寺方面ホームには跨線橋で連絡します。
山中渓駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■阪和線 上り 関西空港・日根野・天王寺方面
2 ■阪和線 下り 紀伊・和歌山方面


和歌山方面、ホーム中央には若干の上屋が設置されています。
和歌山方面行きホーム横は、保線基地でもあったのか、若干スペースが空いています。


1930年(昭和5年)6月16日 - 阪和電気鉄道の和泉砂川駅 - 阪和東和歌山駅(現在の東和歌山駅)間延伸により開業。
1940年(昭和15年)12月1日 - 阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、南海山手線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 山手線が国有化され、国有鉄道阪和線の駅となる。
1961年(昭和36年)10月1日 - 貨物扱い廃止。
1985年(昭和60年)3月14日 - 無人駅化(簡易委託化)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」供用開始。
2007年(平成19年)4月1日 - 簡易委託解除により、完全に無人駅となる。

電報略号 ヤナ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 190人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1930年(昭和5年)6月16日
備考 無人駅(自動券売機 有)

土佐昭和駅 JR四国 予土線

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土佐昭和駅は、高知県高岡郡四万十町昭和にある四国旅客鉄道(JR四国)予土線の駅。 旧所在地は幡多郡十和村で、平成18(2006)年3月に合併により高岡郡四万十町となりました。

駅番号はG31。地名の由来は天皇即位の際に旧村名を昭和村と改称したことによるものです。

国道381号線沿いに続く町並みを見下ろすようなところに駅があります。国道381号線とは、かなり高低差があります。夏場は観光客の利用者もあるが、町内の北琴平町・大正にある高校に通う学生が主な利用者です。

単式ホーム1面1線を有する地上駅です。駅舎はありません。

簡易委託駅。ホーム上にはブロック造りの待合所が設置されています。

待合所には木造の長椅子が設置されています。

崖の中腹にあるホームへは地下道を抜け急なスロープを経て短い階段で上がります。

駅前の「昭和観光案内所」で切符の販売を受託している。案内所の中は駅の待合室のような作りです。

1974年(昭和49年)3月1日 - 日本国有鉄道の駅として開業。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。

電報略号 シワ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1974年(昭和49年)3月1日
備考 簡易委託駅(駅舎外発券)

阿母崎駅 /島原鉄道島原鉄道線

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阿母崎駅(あぼざきえき)は、長崎県雲仙市吾妻町阿母,国道251号沿いに位置する。駅の北側は干拓地で主に水田が広がるのどかな風景が展開され、人家は駅の南側に多い。国道沿いに島鉄バスの中阿母バス停が置かれ、当駅の待合所内にもこのバス停の通過予定時刻表が掲示されている。島原鉄道島原鉄道線の駅。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。線路の南側にホームが置かれている。駅舎はなく、ホーム上に待合所と駐輪場が設置される。待合所はホーム中央に位置しています。広告入りの木製長椅子が待合所には設置されています。また、ホームはややカーブしている。ホームの両端から南側の国道251号へそれぞれ通路が延びており、これが駅の出入り口となる。駅前広場のスペースは、まったく有りません無人駅である。

1955年(昭和30年)3月9日 - 吾妻崎駅として開業。
1960年(昭和35年)11月5日 - 阿母崎駅に改称。

所属路線 ■島原鉄道線
キロ程 14.4km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗降人員
-統計年度- 121人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第23位)。
開業年月日 1955年(昭和30年)3月9日

 

 


96式装輪装甲車 陸上自衛隊

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96式装輪装甲車は、日本の陸上自衛隊が60式装甲車と73式装甲車の後継車両として1992年(平成4年)から小松製作所が開発を開始し、1996年(平成8年)に制式化された装甲車。陸上自衛隊で初めて制式採用された装輪装甲兵員輸送車でもあります。防衛省は愛称を「クーガー」として広報活動に使用しているが、隊員の間では「96」、「96W」、「96WAPC」、「WAPC」とも呼ばれています。

装備実験隊と普通科教導連隊での部隊実験後、1998年に名寄駐屯地の第3普通科連隊に初の部隊配備がおこなわれした。1両当りの調達価格は1億円強で、平成24年度(2012年)予算までに346両が調達されています。装輪車両であることからアスファルト路面等の整地での運用が容易で、車幅は手続きなしに公道を走れる規模に収められているため東北地方太平洋沖地震に際しての災害派遣でも用いられ、イラク人道復興支援の際にも派遣されました。

自衛隊の装甲兵員輸送車としては初の装輪車両。8輪のコンバットタイヤを装備し、パンク等で空気が全て抜けてもある程度は走行を継続できます。また、CTIS(中央タイヤ圧システム)と呼ばれる空気圧調整装置により、状況に応じて空気圧を変更することが可能。通常は前から数えて第3軸と第4軸が駆動するが、全軸駆動に切り替えることもできる。方向転換は前方の第1軸と第2軸で行います。車体は圧延鋼板による溶接構造で、装甲防御力について防衛省は公開していないが、小銃弾や砲弾破片程度は十分に防御できると推測されています。乗員配置は前方から右側に操縦手席、その後方にキューポラをそなえた銃手席、その左側には分隊長兼車長席があり、その後方に左右それぞれ6名、合計12名分のベンチシートが向かい合わせに並ぶ後部乗員席があります。操縦手及び銃手席の左側は消火装置を備えたエンジンルームで、この消火装置は車内外両方から作動させることができます。
エンジンは三菱ふそうトラック・バスのザ・グレート、スーパーグレートなどと同じ6D40 4サイクルディーゼルエンジンで、トランスミッションと一体化されたパワーパックとなっています。


後部乗員室後端部の後部ハッチの両脇上部に左右各1基のベンチレータ(換気装置)を備える。また、NBC兵器防護のための空気清浄機も搭載されており、作動時には空気配管とガスマスクの付属品であるゴムホースを介して、各人が装着するガスマスクに直接、清浄な空気を供給できる。ベンチシート後端の足元にあたる部分に左右各1基のヒーターがあるが、クーラーは装備されていない。内部容積は73式装甲車と比較して広くなり、後部ハッチと床面部分をのぞくほとんどの内面にクッション材が内張りされたことで、車内の居住性と静粛性が向上しました。尚、移動間は分隊長・車長等が交代で車両上部から周囲の安全確認を行わなければなりません。

後部乗員席の天井には観音開きに外側に開く上部ハッチがあります。73式装甲車の上部には重量のある2枚の大型ハッチがあったが、本車では小型軽量化された4枚のハッチとなりました。側面には防弾ガラスのはまった外部視察用の窓が左右それぞれ2枚ずつ取り付けられています。窓にはマジックテープで留めるブラインドが取り付けられるが、素材は合成繊維で装甲としての働きは無い。73式装甲車に備わっていた後部乗員室床面の緊急時脱出用ハッチ、車体側面ガンポート、浮航性能などは備えていません。
後部乗員は車体後方の油圧式ランプドアから乗降する。これは車内外から操作可能で、エンジン停止時でも乗降できるよう、片開きの手動ドアも取り付けられている。最後部には車両牽引用のフック、トレーラ等に電気やブレーキ用圧縮空気を供給するソケット、弁があるが、2006年4月現在で、本車が牽引するためのトレーラ等の車両は採用されていません。
公道上を走行する場合は大型自動車の扱いとなる。また、主として公道を走行する時のために操縦手席及び分隊長席用にガラス窓風防が用意されています。この風防は操縦手席および分隊長席のハッチを全開にして固定し、その空いた空間にボルト止めして装着するため、風防を取り付けている間はハッチを動かすことができない。戦闘時に使用することは考慮されておらず、防弾ではない通常の自動車ガラスに準じたものとなっています。

96式40mm自動てき弾銃を装備する「A型」と12.7mm重機関銃M2を装備する「B型」の2種類がある。生産比率はA型とB型が10:1の割合である。武装の取り付け基部はA型もB型も別々の新規設計(B型は73式装甲車に類似)であるため、両車に武装の互換性は無い。機関銃、自動てき弾銃ともに乗員が車外へ身を乗り出しての直接操作のほか、手回しハンドルによる旋回俯仰、倍率なしペリスコープのJM1照準潜望鏡、電気作動による機械式の引き金で車内から遠隔操作できます。車両後部には左右各1基の4連発煙弾発射機が装備されています。また、73式装甲車と同じく70式地雷原爆破装置を車体に搭載することが可能になっています。

全長 6.84 m
全幅 2.48 m
全高 1.85 m
重量 14.5 t
乗員数
2 名
便乗者(戦闘員)=12名
(装具等をフル装備した者が乗車する場合は10名)
装甲・武装
装甲 圧延鋼板
主武装 96式40mm自動てき弾銃
または
12.7mm重機関銃M2
機動力
速度 100 km/h
エンジン 三菱 6D40
液冷4ストローク直列6気筒
ターボチャージド・ディーゼル
360 ps / 2,200 rpm
トランスミッションは5AT(前進5速、後進2速)
懸架・駆動 トーションバー方式
行動距離 500 km以上


木見駅 /本四備讃線(瀬戸大橋線)

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木見駅(きみえき)は、昭和63(1988)年3月20日、路線と同時に開業。瀬戸中央道水島ICが比較的近い岡山県倉敷市木見にあります。木見の集落からも若干離れ、駅周辺は長閑な場所です。駅前の広場はなく公道に直接面し、公道を挟んで送迎車駐車場があります。西日本旅客鉄道(JR西日本)本四備讃線(瀬戸大橋線)の駅です。

相対式ホーム2面2線を有する駅舎のない高架駅。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。駅の前後はトンネルになっています。


児島駅管理の無人駅であり、高架下の階段(駅名が表示されている)から直接ホームに入る形になっています。ICOCA利用可能駅で、高架下には、自動券売機(ICOCAチャージに対応)と簡易式の自動改札機があります。2009年3月までにホームのかさ上げ工事が実施されました(920mm→1100mm)。階段付近に上屋が設置され、待合所として機能しています。

木見駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1 ■瀬戸大橋線 上り 茶屋町・岡山方面
2 ■瀬戸大橋線 下り 児島・高松・丸亀方面

1988年(昭和63年)3月20日 - 本四備讃線の開通に伴い開業。
2007年(平成19年)
7月18日 - ICOCA対応の簡易型自動改札機を設置。
9月1日 - ICOCA使用開始。

電報略号 キミ
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 199人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1988年(昭和63年)3月20日
備考 無人駅(自動券売機 有)

茶屋町駅 /本四備讃線・瀬戸大橋線

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茶屋町駅は、茶屋町駅は明治43年、宇野線開業と同時に誕生した駅です。旧茶屋町の代表駅で、下津井電鉄が分岐していた茶屋町駅ですが、1988年の本四備讃線開業後、利便性の向上により人口増加が著しく、周囲の風景も急速に変化しています。岡山県倉敷市茶屋町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅です。1972年に部分廃止された下津井電鉄線の乗り換え駅でもあった。児島や香川県方面に比べ岡山市方面の通勤・通学者が圧倒的に多いうえ、岡山方面が単線のため列車増発ができず、1日を通して混雑が激しい。

また、岡山県立倉敷天城中学校・高等学校の最寄り駅になるため多くの生徒が利用しています。四国方面と宇野方面の接続のため殆どの列車が停車します。駅前には立派なロータリーとバスターミナルがあります。東側出口は片側1車線程度の公道に直接面します。

茶屋町駅の所属線である宇野線と、茶屋町駅を起点とする本四備讃線が乗り入れ、接続駅となっています。
宇野線岡山方面から当駅を介して本四備讃線に向かうルートには「瀬戸大橋線」の愛称があり、岡山方面からの列車についても当駅より本四備讃線に入る方が本線扱いとなっています。そのため、事実上宇野線の茶屋町駅から宇野駅までの区間は支線扱いです。


実際に、岡山 - 当間の各駅でも、本四備讃線に入る系統を「瀬戸大橋線」、宇野方面に入る系統を「宇野線」と区別して案内している(ただし当駅の岡山方面行きホームのLED列車案内は「瀬戸大橋線」のみの表記)ため、以下はこの案内に準じた記載とする。茶屋町駅に停車しない四国方面の特急列車は「マリンライナー」により児島駅で連絡しています。

島式ホーム2面3線を有する高架駅。民営化前後の建設のためシックなデザインです。宇野方面行きが主に使用する2・3番のりばは同一の線路(中線)で両側にホームがあり、1・4番のりばの児島方面発着列車とは平面で乗り換えられるようになっています。


直営駅(児島駅の被管理駅)である。ICOCAが利用可能であるが、宇野方面は利用できません。1階にみどりの窓口・近距離切符の自動販売機・改札・デイリーイン・トイレがあり、2階のホームとは階段とエレベーターで結ばれている。トイレは、男女別の水洗式。駅舎内に鬼の面、駅前には鬼の像がありました。茶屋町には鬼にまつわる伝承があります。

茶屋町駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■瀬戸大橋線・宇野線 上り 岡山方面
2・3 ■宇野線 下り 宇野方面 一部4番のりば
4 ■瀬戸大橋線 下り 児島・四国方面


宇野方面行きは基本的には中線(2・3番のりば)に入るが、朝の時間帯に設定されている、児島方面行き列車の接続を受けない岡山からの直通便については、4番のりばから発車する。中線(2・3番のりば)に発着する宇野方面行きは両扉扱いを行うが、駅の案内標識では3番のりばのみが宇野行きホームと扱われている。これは、2番のりばがあくまで1番のりばの岡山方面行き列車との相互乗換専用ホームと位置付けられているためである。宇野方面からの岡山行き直通列車も、基本的には児島方面からの列車同様1番のりばに入る。以前は中線(2・3番のりば)に入線していた列車もあったが、2010年1月現在は設定が無い。中線(2・3番のりば)のりばには茶屋町始発の児島方面行きも発着することになっているが、2010年3月現在のダイヤではそのような列車は設定されていない。


2007年10月12日に、本四備讃線開業時から使用されていた列車案内表示板がホーム、コンコース共に更新された。
4番のりばの東側に、本四備讃線の0キロポストが設置されている。
列車接近メロディは『瀬戸の花嫁』であったが、JR西日本の広域で導入している接近放送に切り替わっている(2012年3月中旬現在)。
改札を通り階段を上ると茶屋町駅乗務員詰所がある。(これは、宇野線の乗務員用)
茶屋町駅が瀬戸大橋線と宇野線の分岐駅であるため出発信号機は宇野線用と本四備讃線用の2つあり、表記は宇野出、本四出である。


岡山方には出発信号機が3つあるが、通常は一番左側(1番のりば用)しか使用されておらず、残りの2つはダイヤ乱れ等が発生しない限り赤のままである。以前は中線から岡山方面へ行っていた列車があったので真ん中の1つは使用されていたが現在はそのようなダイヤがない。
場内信号機は上下線に2つずつある。植松通過直後と彦崎通過後瀬戸大橋線高架との合流点の手前に第1場内信号機がある。
高松方面から中線(2,3番乗り場)に入線する場合は制限45がかかる。本線は制限100?となる。

1972年に廃止となった下津井電鉄のホームは、廃止後も同社のバスのりばとして残存していたが、本四備讃線の開業に伴う駅整備と、児島方面へのバス路線の廃止により撤去されてしまいました。
快速「マリンライナー」はすべて停車するが、特急・貨物列車は通過する。また、これらの特急・貨物列車のうち下り列車はホームをほとんど減速せずに通過していたが最近は減速して通過しています。

1910年(明治43年)6月12日 - 宇野線開通とともに開業。
1913年(大正2年)11月11日 - 下津井軽便鉄道の茶屋町駅 - 味野町駅(後の児島駅)間開業。
1922年(大正11年)11月28日 - 下津井軽便鉄道が下津井鉄道に改称。
1949年(昭和24年)8月20日 - 下津井鉄道が下津井電鉄に改称。
1972年(昭和47年)4月1日 - 下津井電鉄茶屋町駅 - 児島駅間廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1988年(昭和63年)3月20日 - 本四備讃線茶屋町駅 - 児島駅間開業。同時に高架化される。
2007年(平成19年)7月9日 - ICOCA対応の自動改札機導入。9月1日にICOCA使用開始。

電報略号 チヤ
駅構造 高架駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 3,494人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1910年(明治43年)6月12日
乗入路線 2 路線
所属路線 ■宇野線*
キロ程 14.9km(岡山起点)
◄久々原 (1.7km)(3.2km) 彦崎►
所属路線 ■本四備讃線*
キロ程 0.0km(茶屋町起点)
◄*(久々原) (-km)(2.9km) 植松►
備考 直営駅
みどりの窓口 有
* この他下津井電鉄線(1972年廃止)
* 宇野線岡山方面 - 当駅 - 本四備讃線については「瀬戸大橋線」の愛称(案内上の系統名称)で一体運用されている。宇野線宇野方面は実質的に支線扱いで、系統上は正式名称の「宇野線」として案内されている(岡山からの直通も含む)。

 

 

古部駅 /島原鉄道島原鉄道線

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古部駅(こべえき)の北側はすぐ有明海となっています。駅の周囲はそれなりに人家が多い所です。長崎県雲仙市瑞穂町夏峰に所在する島原鉄道島原鉄道線の駅。

ホームからは遠浅の諫早湾が望まれるのどかなロケーションです。急行は停車しません。駅の南側では東西に走る道に沿って集落が発達しています。

駅からさらに南へ向かうと国道251号にぶつかり、その向かい側に天草電子の瑞穂工場がある。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。北側は海に面しています。ホーム中ほどに待合所が置かれ、その大正方から駅の外への構内踏切(遮断機・警報機なし)が南側へ延びています。

構内踏切の出口を東西にはさむ形で自転車置き場が計2棟、また駅の南側、自転車置き場の東側に保線等のために使われる小屋が6棟置かれています。駅舎はありません。無人駅。


かつては貨物の取り扱いも行っていました。


1912年(大正元年)10月10日 - 開業。
1964年(昭和39年)9月1日 - 業務委託化。
1970年(昭和45年)6月30日 - 貨物営業廃止。

所属路線 ■島原鉄道線
キロ程 19.6km(諫早起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線
乗降人員
-統計年度- 75人/日
-2005年度-(島原鉄道線内44駅中第33位)
開業年月日 1912年(大正元年)10月10日


 

 

OH-6DA:海上自衛隊向け練習機型

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OH-6D:陸上自衛隊向け観測機型。海上自衛隊向け練習機型(2011年6月運用終了)。さらに写真はOH-6DA:MD 500ベースの海上自衛隊向け練習機型と思います。

OH-6はアメリカ合衆国の航空機メーカー、ヒューズ・ヘリコプターズ社が開発した小型ヘリコプター。アメリカ軍における愛称は「カイユース」(Cayuse:アメリカ先住民のカイユース族から」)。機体形状から「フライングエッグ(空飛ぶ卵)」の別名でも呼ばれています。

1960年にアメリカ陸軍では、L-19 バードドッグやベル47などの観測機の後継機となる軽観測ヘリコプター(LOH)計画の提案要求を各航空機メーカーに提示した。LOHの要求性能は、アリソン製T63-A-5ターボシャフトエンジンの搭載、ペイロード180kg以上、最大速度103kt以上、航続時間3時間以上、4人乗りとされ、機体のサイズもローター直径10.72m、全長10.6m、全高2.87m以内に収め、C-130 ハーキュリーズ輸送機に4機が搭載出来ることなどでした。LOH計画は、10年間で約3600機が調達される予定であったため、アメリカ国内の航空機メーカー12社が応募し、設計案は22案に上った。このうち、ベル社、ヒラー社、ヒューズ社が最終選考まで進み、1961年5月19日に3社の試作機製造が承認されました。試作機は各社5機ずつ製作され、ベルYOH-4A(後のモデル 206)、ヒラーYOH-5A(後のFH-1100)、ヒューズYOH-6Aの名称が与えられて比較評価試験へと移行。試験は1年間にわたって行われ、1965年5月26日にYOH-6Aが飛行性能の良さと機体価格の安さから採用が決定され、OH-6 カイユースの名称で1200機が発注されました。生産は1965年から開始され、最初の月の生産数は70機に達しました。OH-6は1966年9月からアメリカ陸軍への引き渡しが開始され、1967年12月にはベトナム戦争に投入されている。OH-6は高い機動性を活かして観測や索敵に活躍し、AH-1G コブラ攻撃ヘリコプター2機とOH-6A 2機が1チームとなったサーチ・アンド・デストロイは高い成果を上げました。しかし、OH-6の生産スケジュールは当初予定より遅れ、追加発注分の機体価格が高騰したため、1434機で調達は終了となり、1970年8月に量産最終号機が納入されました。なお、OH-6の調達中止に伴い、1967年秋に第2次LOH選定が行われ、ベル社のOH-58 カイオワが採用されています。なお、ヒューズ社は後にマクドネル・ダグラス社と合併し、同社はOH-6を民間向けモデルMD 500として販売し、この名称でも知られていまする。

川崎重工業がOH-6Aの日本向けOH-6Jをライセンス生産し、1969年(昭和44年)から1979年(昭和54年)まで陸上自衛隊が観測機として117機、海上自衛隊が教育用に3機を導入し海上保安庁でも採用した他、民間機としても販売しました。同年からはOH-6Dに切り替えられ、1997年(平成9年)の生産終了までに陸自に193機、海自に14機を納入し、海保、民間用なども生産しました。川崎での延べ生産数は387機に上る。陸自向けのD型は生産途中から、暗視ゴーグル対応操縦席、赤外線監視装置、赤外線照射装置が追加されています。陸自では1997年(平成9年)から後継の観測機である川崎OH-1の調達が進められたが、各対戦車ヘリコプター隊への配備にとどまったことから、今後もOH-6Dの運用が続けられる見込みです。また、陸自のヘリ操縦士教育に使用されたTH-55Jが退役した後は、専らOH-6Dが使用されており、後継練習機のTH-480が揃うまでは教育用に使用され続ける予定です。なお、2002年(平成14年)には大分県玖珠町上空で2機の陸自OH-6Dが訓練中に衝突、2機ともに墜落して乗員4名が全員死亡する事故が起きました。
2012年3月末時点での陸自の保有機数は90機です。海自では、川崎での生産終了後、OH-6Dの機体数が足りないことから、アメリカからMD 500Eを5機輸入し、OH-6DAとして教育に使用していました。また、中期防衛力整備計画(平成17年度〜平成21年度)でOH-6D/DAの後継機(次期回転翼練習機:TH-X)の機種選定が、アグスタ・ウェストランド A109Eとユーロコプター EC 135との総合評価落札方式で行われ、2009年1月ユーロコプター EC135T2+に決定した。2011年6月に第211教育航空隊(鹿屋航空基地)所属の教育用小型練習機が退役したことにより、海上自衛隊における運用は終了しました。なおかつて、アメリカ海軍のMASH(Manned Anti-Submarine Helicopter)計画にあわせて、海自でもOH-6Jの艦載化が検討されていたが、後にアメリカ海軍がMASHを断念してLAMPS(Light Airborne Multi-Purpose System)計画に移行したことを受けて、この計画も放棄されています。


OH-6Jの改良型として54年度から取得を開始しました。
OH-6D

乗員
1人(P)+3人
■機体
全長
9.40m(胴7.09m)
全幅
8.05m(スキッド幅 2.07m)
全高
2.73m
ローター直径
8.05m(5枚)
製作
川崎重工
■エンジン
名称
250-C20B
出力
375SHP(離昇)×1
製作
米国ロールス・ロイス・アリソン社
最大全備重量
1,361kg
最高速度
281km/h
巡航速度
約240km/h
航続距離
約460km
実用上昇限度
4,877m

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