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宇宙服・セルフレスキュー用推進装置

宇宙服(うちゅうふく)とは、宇宙飛行士が宇宙空間で安全に生存・活動するために着用する、生命維持装置を備えた気密服のこと。宇宙船内で着用する船内服(与圧服)と、船外活動時に着用する船外服に大別される。

宇宙服には主に次の機能が要求される。
気密性と気圧の調整。
動きやすさ(気圧差によって膨張して動きにくくなるため)。
呼吸に必要な酸素の供給と二酸化炭素他の除去(呼気を循環して再使用するため)。
体温の調整、特に冷却(宇宙空間は低温ではあるのだが、宇宙服には宇宙飛行士の体温を逃がす場がなく、また太陽光線も強烈であるから活動時は温度が上昇することになる)。
宇宙塵、デブリ、紫外線など宇宙線からの防護。
外部との通信。
船外活動時、宇宙服内は与圧されているが周囲は真空のため、服がパンパンに膨らみ身動きを取るのはかなり大変な事である。実際、ソビエト連邦の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフが1965年に史上初の宇宙遊泳を行った際、宇宙服が風船のように膨張したため命綱をたぐり寄せて船内に戻るのが予想以上に困難となり、危うく宇宙船に帰還できないところであった。

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アメリカ航空宇宙局(NASA)で船外活動に用いられている宇宙服 船外活動ユニット (EMU) は、宇宙服本体と背中に背負う生命維持システム、TVカメラと照明装置からなる。1980年代初めに使われた有人機動ユニット (MMU) は背中に背負うように装着し、窒素ガスの噴出によって宇宙空間での姿勢の制御、移動を可能にするものであったが、大型で実用的ではなかったためすぐに使われなくなった。代わって1990年代からは小型のSAFER (Simplified Aid For EVA Rescue) と呼ばれる緊急時以外は使用しないセルフレスキュー用の装置が開発され、国際宇宙ステーション(ISS)での船外活動 (EVA) ではSAFERの装着が義務づけられている。

NASAのEMUは、運用圧力が0.3 - 0.4気圧 (4.3psi)、重量約120kg、活動時間はおよそ7時間程度(最長8時間)である。ロシアのオーラン宇宙服の方は、約0.4気圧 (5.7psi) とEMUよりも若干圧力が高いため、作業性は劣るが、作業準備(プリブリーズ)時間が短縮できる利点がある。EMUは1人では装着できないのに対して、オーラン宇宙服は背中の扉を開いて中に入るタイプであり1人でも装着できる点も優れている。

宇宙服についている温度調節などの切り替えスイッチの文字は鏡に映したように、左右逆になっている。宇宙服の中に入った状態では、頭を動かしてスイッチを見ることが出来ないために、腕に取り付けられた手鏡状の金属でスイッチなどを映して操作する際に見やすくなるようにしているのである。

アメリカのEMU宇宙服は、1着あたり1,000万ドル(約10億5千万円)の費用とのことである。また、宇宙服のサイズの関係から、船外活動に携わる宇宙飛行士は165cm以上の身長を求められる。

宇宙服の靴底にアメリカ国旗を彫ることで、アポロ計画の月面歩行時に国旗を刻印しようという計画が上がったが、他国の反対及び宇宙条約に反することから、禁止となった。

日本の取り組み
2009年現在、宇宙服を開発・保有している国はアメリカ、ロシア及び中国のみである。また、カナダと欧州で、研究が進められている。

日本は2011年に完成した国際宇宙ステーション(ISS)計画に参加し、NASA等と共同で将来の月面探査計画にも参加を行うことを考慮して技術蓄積を行うために、宇宙航空研究開発機構 (JAXA) は国産宇宙服の検討を行っている。開発を検討するのは次世代型の船内服及び船外服で、船外服の最終目標は運用圧力1気圧、重量20kg、活動時間一週間を目指す。現在は手動で行われている温度管理を自律的に行い、燃料電池を搭載(現在のEMUは銀亜鉛電池を使用)、グローブやブーツにパワーアシスト機能を盛り込むなど、最先端の技術を結集するコンセプトで検討が行われているが、具体的に開発が行われているわけではない。

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セルフレスキュー用推進装置
セルフレスキュー用推進装置SAFER(-ようすいしんそうち、Simplified Aid for EVA Rescue : SAFER)とは、スペースシャトルや国際宇宙ステーション (ISS) の乗組員が船外活動 (EVA) を行なう時に誤って飛ばされてしまった場合でも、自分で戻れるようにするための小型・独立型の緊急用の推進装置である。不測の事態でのみ使うことを目的として、有人機動ユニット (MMU) を小型化・簡略化したものである。

STS-88(2A)以降、ISSで米国の宇宙服船外活動ユニット (EMU) を装着する船外活動では、SAFERの装着が義務づけられている。SAFERは、ジョンソン宇宙センターにある NASA のロボット工学部門で開発された。初めて使われたのは STS-64 で、命綱無しでの飛行テストが行なわれた。STS-88から実用装備が開始された。SAFER は重さ約34kg(76lb)であり、窒素ガスの噴射で推進力を発生させるものであり、ΔVの合計は少なくとも3m/s(10ft/s)である。使用する時は、右側の腰の下からハンドコントローラを取り出し、胸の所に設置して、操縦を行う。2009年末まで、試験目的以外で使用されたことは1度もない。

STS-121においてピアーズ・セラーズがEVAの最中に、SAFERの左側面にあるラッチを意図せずに何かにぶつけて、ラッチ解除の位置に移動してしまったため、マイケル・E・フォッサムがテザーでSAFERが外れないように仮固定し、船外活動は続けられた。その後のSTS-121、STS-115の船外活動では、ラッチが不意に開かないようにカプトンテープで予防的に固定された。 STS-116からは、ラッチの誤動作防止のためのカバーが開発されて装備されている。


米軍 バレット M82 大型セミオート式狙撃銃

バレット M82 (Barrett M82) は、バレット・ファイアーアームズ(バレット)社が開発・製造した大型のセミオート式狙撃銃である。

概要
軍事目的で開発されたため、兵士が単独で運用できる重量や操作性と火力の両立を目指している。ヘリコプターや装甲車などにも損傷を与えられるよう、ブローニングM2重機関銃などで採用された12.7mm弾が使用される。焼夷弾と徹甲弾のほか、炸裂弾の効果を併せ持つRaufoss Mk 211も使用される。

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弾道直進性が高い12.7mm弾は、小銃や狙撃銃の弾丸として使用されている7.62mm弾と比較すると、弾丸自体が長距離射撃の際に空気抵抗や横風などの影響を受けにくく速度低下が少ない[1]。実際、ベトナム戦争中のカルロス・ハスコックやフォークランド紛争でのアルゼンチン軍の例(共にブローニングM2にスコープを乗せ、単発射撃で遠距離狙撃に使用した)があり、これが対物ライフル開発の契機ともなった[1]。原型のM82は1982年に開発され、1986年には改良型のM82A1が開発された。M82A1をさらに改修したM107(M82A1M)も、アメリカ軍を中心に使用されている。

過去に対戦車用として同口径の弾薬を使用するライフルがあったため、対戦車ライフルと表現されることもあるが、現在配備されているようなものは戦車の装甲を貫くことはできず、陣地・トラックや多目的車を標的とした対物ライフル(アンチ・マテリアル・ライフル)に分類される。

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特徴
基本構造
本体上面のフレームにはスコープマウントが備えられ、その前方にキャリングハンドル、さらに前方下面に二脚(バイポッド)を装備する。スコープマウント後方にはリアサイトを備える。銃身のカバー(被筒)には放熱口が設けられ、銃口にはマズルブレーキがついており、軽量化のために反動利用式の作動機構としてターン・ボルト・ロッキング・ボルトと、ショート・リコイルする銃身を組み込んでいる。当初(初期型)はキャリングハンドルや折り畳み可能なリアサイトは銃本体に固定されており、取り付け位置の変更はできなかったが、マウントレールを有する中期型ではマウントに取り付けるタイプのものに変更され、位置の変更が可能となった。

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射撃は伏せて行う(伏射、プローン)か、土嚢などで支えるのが一般的とされる。セミオート式を採用しているために連続射撃が可能だが、マズルブレーキから噴出する発砲煙と、発射場所によってはそれに巻き上げられる砂埃が射手を覆うほど拡散する。

初期にはマズルブレーキの能力不足で強い反動を伴っていたが、箱型のマズルブレーキに改めた結果、12ゲージショットガンと同程度まで反動が軽減された。バレット社は二脚を立てての片手撃ちや、腰に抱えて連射する(腰だめ撃ち)PR映像を公開しているほか、YouTubeなどの動画共有サイトには、普通のライフルのように構え、砂漠に向かって連射する米海兵隊員を撮影した動画がアップロードされている。

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携行性を向上させるため、15秒で組み立てられるように設計されており、分解してケースに収めることで簡単に運搬が可能である。機関部右側面の排莢口ボルト・ハンドルを後方に引くことで、薬室への弾薬装填を行う。

強力かつ長射程であるため、大きな射撃場でないと長距離射撃の効果を確認する発射試験などはできない。実戦においては、湾岸戦争における2km先の人間に対する狙撃や、イラク戦争でアメリカ軍が掃討で使用した際に1.5km先の敵兵の身体を両断する威力を発揮した例がある。

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種別 対物狙撃銃
口径 12.7mm
銃身長 736.7mm(M82A1&M82A2)
736mm(M95)
838mm(M99)
558mm(XM109)
ライフリング 6条右回り
使用弾薬 12.7x99mm NATO弾
装弾数 10+1発
作動方式 ショートリコイル
全長 1,447.8mm
重量 12,900g
発射速度 32発/分
銃口初速 853m/s
有効射程 2,000m
歴史
設計年 1986年
製造期間 1986年-現在
配備期間 1986年-現在
配備先 アメリカ軍、ベルギー軍、デンマーク軍、フランス軍、フィンランド軍、ギリシャ軍、ブラジル軍など計35か国
関連戦争・紛争 湾岸戦争、イラク戦争
バリエーション M82A2、M82A3、M95、M99、XM109ペイロード、XM500
製造数 10万丁以上

 

フェラーリ カリフォルニアT F1 DCT

フェラーリ カリフォルニアT F1 DCT

カリフォルニア(California )は、イタリアの自動車メーカーであるフェラーリが製造していたスポーツカーである。

フェラーリ初のクーペカブリオレの2+2モデルとして、2008年のモンディアル・ド・ロトモビル(パリ・モーターショー)で発表され、2009年から発売された。車名の「カリフォルニア」とは、1950年代に生産されていた同社の「250GT カリフォルニア・スパイダー」から来ている。

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日常的な乗りやすさや快適性、2+2がもたらす実用性の高さから、カリフォルニアはフェラーリにとって新規顧客の開拓に重点が置かれており、実際に購入者の約70%が初めてフェラーリを購入したオーナーであると発表されている。なお実際に、フェラーリの会長であったルカ・ディ・モンテゼモーロや、「テーラーメイド・プログラム」の発案者のラポ・エルカーンが愛車として通勤などに使用していた。

シャシー・ボディはアルミ製で、クーペ・カブリオレシステムはウェバスト製のカブリオレ・ユニットを採用している。2011年にオプションとして導入されたアイドリングストップ機能をはじめとした、燃費をはじめとするエネルギー効率向上を目的とした機能「HELE」は日本国内では標準装備となる。

ミッションは、7速DCTを採用しており、ギアチェンジの際に発生するロスを軽減している。ステアリングホイールの右下にあるシフトモードを切り替える「マネッティーノ」のスイッチはF430には5種類あるが、カリフォルニアには「スノー」と「レース」は必要ないと判断され3種類となった。ブレンボ製のカーボンセラミックブレーキ、サスペンションはマルチリンクを採用している。

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デザインは内外装ともにピニンファリーナが担当しており、自動車雑誌「NAVI」に掲載された奥山清行の連載によると、奥山がピニンファリーナ在籍時に手がけたが、ヘッドライトのデザインは奥山によるものではない。

内装については、フェラーリ初となるトランクスルー方式を採用しており、実用性も兼ね備えた仕様となった。また後席は、リアシートがない2名乗車仕様も選べる。その場合、中央の盛り上がりがなくなり、ゴルフバッグなども収めやすくなる。テールランプは丸型1灯を採用しているが、丸型テールライトは尾灯のみ点灯し、ウインカー、ブレーキランプ、バックランプはリアエンド下部に設けられているランプユニットから点灯する。

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カリフォルニア
エンジンは4,297ccV8で、同社初となるガソリン直噴エンジンを採用し、さらに「HELE」システムを採用し、これにより二酸化炭素排出量は270g/kmを達成したとアナウンスされている。

最高出力490ps/7,500rpm(2012年のマイナーチェンジ前は460ps)を発生させる。駆動方式は「612スカリエッティ」以来のFRで、V型8気筒のFRはフェラーリ初となる。

カリフォルニア30
2012年にマイナーチェンジを行い、排気量は変わらないまま従来モデル比で最高出力が30psアップの490ps、最大トルクが20N·mアップの505N·mとなったことで、0-100km/h加速は従来の4.0秒から3.85秒に改良された。

また、フロントセクションの剛性強化や30kgの軽量化、ハンドリングの応答性の改良が行なわれるとともに、ハンドリング・スペチアーレ・パッケージをオプション設定した。なお、このマイナーチェンジ後のモデルは、「最高出力30psアップ」と「30kgの軽量化」が行われたことから「カリフォルニア30」と呼ばれることになった。
カリフォルニアT
2014年2月12日に、カリフォルニアのビッグマイナーチェンジモデルである「カリフォルニアT」を発表した。「T」はターボを意味し、3855ccV8直噴ツインターボを搭載。排気量は4,297ccから3,855ccへダウンサイジングされたものの、ターボを装備したことで、出力は先代のカリフォルニアの482PSから552PSに引き上げられた。なお、フェラーリのロードカーでターボ車を発売するのはF40以来である。

エクステリアでは、丸型テールランプにウインカーとバックランプが内蔵された。ブレーキランプはリアエンド下部に設置。マフラーが縦2本配置から横2本となった。またディフューザーのデザインも変更された。

2017年の春先にはフェラーリの70周年記念限定車が限定生産されるとアナウンスされた。その後同年初夏に新規受注が締め切られた。その後9月に後継車種の「ポルトフィーノ」が発表された。

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販売期間 2014年 - 2017年
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドアクーペカブリオレ
エンジン 3,855 cc V8 DOHC
(ツインターボ搭載)
駆動方式 FR
最高出力 560 PS/7,500 rpm
最大トルク 755 Nm/4,750 rpm
変速機 7速 + リバース F1 (パドル・シフト)
DCT方式
全長 4,570 mm
全幅 1,910 mm
全高 1,322 mm
ホイールベース 2,670 mm
車両重量 1,625 kg (乾燥時)
ハンドル位置 左/右
最高速度 316 km/h
先代 カリフォルニア30
後継 ポルトフィーノ

販売期間 2008年 - 2013年
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドア クーペカブリオレ
エンジン 4.3L V8 DOHC 直噴
駆動方式 FR
最高出力 460ps/7,750rpm(2009-2011)
490ps/7,750rpm(2012-)
最大トルク 48.5kg·m/5,500rpm(2009-2011)
50.5kg·m/5,500rpm(2012-)
変速機 7速DCT
6速MT
全長 4,560mm
全幅 1,900mm
全高 1,308mm
ホイールベース 2,600mm
車両重量 1,625kg
後継 カリフォルニアT

 

鶴居駅(JR西日本)播但線

鶴居駅(つるいえき)は、兵庫県神崎郡市川町鶴居字檜戸にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。駅周囲は農村風景が広がっています。

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相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を備えた地上駅である。 駅舎は香呂駅と同じく、1890年(明治27年)築。

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瓦屋根の古い木造駅舎は1番のりば側にあり、反対側の2番のりばへは跨線橋で連絡している。前面中央に駅名看板が設置されています。1番のりばを上下本線、2番のりばを上下副本線とした一線スルーとなっており、通過列車や行違いのない列車は両方向とも1番のりばを使用する。2番のりばは寺前行きの行違い列車が使用する。1998年10月3日の改正では当駅折り返しが設定されていた。

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JR化後に福崎駅管理の無人駅となっており、駅舎内に直立式の自動券売機が置かれている。待合室には椅子が設置されています。

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のりば
のりば 路線 方向 行先 備考
1 J 播但線 上り 福崎・姫路方面
下り 寺前・和田山方面 原則としてこのホーム

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2 行違い時のみ
下りホームには待合室が設置されています。

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駅周辺
市川町立鶴居小学校
屋形郵便局
市川
国道312号

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「兵庫県統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗車人員は235人である。

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1894年(明治27年)7月26日 - 播但鉄道が姫路駅 - 寺前駅間で開業すると同時に設置。旅客・貨物の取扱を開始。
1903年(明治36年)6月1日 - 播但鉄道が山陽鉄道に営業譲渡。山陽鉄道の駅となる。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道国有化により、鉄道作業局の駅となる。

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1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1973年(昭和48年)4月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1991年(平成3年)4月1日 - 無人駅化。
2016年(平成28年)3月26日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。

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所属路線 J 播但線
キロ程 24.5km(姫路起点)
電報略号 ツイ←ツルイ
駅構造 地上駅

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ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 235人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1894年(明治27年)7月26日
備考 無人駅(自動券売機 あり)

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市立病院前停留場(鹿児島市交通局唐湊線)

市立病院前停留場(しりつびょういんまえていりゅうじょう)は、鹿児島県鹿児島市上荒田町にある鹿児島市電の電停。2015年5月1日に市立病院移転に伴い、旧称「たばこ産業前」からから改称された。その際、若干南に移設されています。鹿児島市交通局の敷設する唐湊線の駅で、鹿児島市電2系統が使用する。

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2線2面のホーム 。地上駅。
両のりばとも車椅子及び電動車椅子の使用はホーム幅にが規定に足りないため不可。
無人駅で、乗車券などの販売は行っていない。

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のりば
鹿児島大学側
2系統 - 唐湊、郡元方面 上屋も完備のバリアフリー対応電停です。
JR指宿枕崎線側
2系統 - 鹿児島中央駅、天文館、鹿児島駅方面 ホーム幅も拡幅され点字ブロックが設置されています。
停留所入口へは横断歩道からスロープでホームに連絡します。

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周辺
鹿児島市立病院
鹿児島大学
鹿児島県立甲南高等学校
市立病院前バス停
15-2番・東紫原線(中央駅経由) 
25番・唐湊線

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歴史
1952年6月1日 - 鹿児島市交通課により専売公社前電停が設置される。
1985年4月15日 - 同月1日の日本専売公社の株式会社化に伴い、たばこ産業前へ改名。
2015年5月1日 - 市立病院移転により市立病院前 (2代) へ改称。

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旧称の「たばこ産業前」は電停近くにかつて日本たばこ産業鹿児島工場があったことに由来する。2005年3月に工場が閉鎖された後も電停名はそのままだったが、2015年5月1日に鹿児島市立病院が工場の跡地へ移転したため改称された。なお、鹿児島市立病院の移転前に「市立病院前」を名乗っていた停留場は「甲東中学校前停留場」に改称されている。

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市立病院前電停*
Shiritsubyoin-mae
(Kagoshima City Hospital)
◄中洲通 (0.3km)(0.3km) 神田(交通局前)►
所在地 鹿児島県鹿児島市上荒田町
北緯31度34分32.4秒 東経130度32分30.27秒
駅番号 口14
所属事業者 鹿児島市交通局
所属路線 鹿児島市電2系統
(線路名称上は唐湊線)
キロ程 3.8km(鹿児島駅前起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1952年6月1日
備考 * 2015年にたばこ産業前から改称

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HUGHES MODEL500C HELICOPTER(ヒューズ 500 ヘリ)米国ヒューズ社

 

この機種は、アメリカのヒューズ社が1963年(昭和38年)から生産した7人乗りヘリコプターです。
この機体は、新日本ヘリコプターで、農薬散布などに使用されていました。

スピード:時速230km
エンジン:ターボシャフトエンジン 1台(270馬力)
機体全体の重さ:1.2トン
運べる重さ:0.6トン
価格:5,600万円 (昭和56年当時)
当機が飛行していた期間:1970~1990
(寄贈 新日本ヘリコプター)

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MD500は、アメリカのMDヘリコプターズで製作された、軽量多目的ヘリコプターである。練習機などとして民間や軍隊などで使われている。

MD 500は、ヒューズ500 OH-6Aカイユースの民間向けとして始まった。シリーズは現在500E MD、520N MDと530F MDを含む。

ヘリコプターとして成功したヒューズ500/MD 500シリーズは、当初米軍の軽量観測ヘリコプター開発要求に応じて設計試作が開始され、ベルとヒラーとの審査を勝ち抜き、ヒューズモデル 369として生産を開始した。OH-6Aカイユースとしての初飛行は、1963年2月。

ヒューズ/MD 500
OH-6最初の飛行の前に、ヒューズ社は民間向けの機体を開発していると発表を行い、そしてヒューズ500(基本的に5席と7席の構成を選択し利用できる)として市場に出した。また、より強力なエンジンによる実用の機体は500Uと呼ばれ、後に500Cとして市場に提供された。

より強力なエンジン、T型の尾翼と新しい5枚のメインローターブレードで改良されたヒューズ500Dは、1976年の主要な機種となり、4枚のテールローターブレードは選択装備であった。500Dは、機首部分を鋭利な形状としたり、いろいろな内部の改良を施され(操縦室の面積拡大など)、1982年から500Eへと生産が移行した。530Fは500Eをさらに改良した高出力仕様で、より高負荷での飛行を可能とした仕様である。

マクダネル・ダグラスは、1984年1月にヒューズ・ヘリコプターズを買収し、1985年8月から従来のヒューズ500Eを MD 500Eとして、そして、530FはMD 530Fとして製造を継続することになる。 1997年のボーイング/マクダネル・ダグラス合併により、1999年前半に民間向けのヘリコプター製造はMDヘリコプターズが継続する事になる。

軍用はMD 500 ディフェンダーと呼ばれ、供給されている。

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MD 520N
MD520Nは、ヒューズ/マクダネル・ダグラスが開発した、ヘリコプター設計上の革命である従来のテールローターが不要な方式であるノーターを装備したヘリコプターである。

マクダネル・ダグラスは当初、520N(従来のMD500Eに基づき1989年1月に開始されていた)より強力でな高性能に改良された標準的なMD530Nを開発する予定であった。MD530Nの初飛行は1989年12月29日で、520Nの初飛行が1990年5月1日であったが、マクダネルダグラスはMD520Nが大部分の顧客が必要な要求を満たすと判断し、MD 530Nの開発は中止された。520Nは1991年9月13日FAA(連邦航空局)の型式証明を取得し、最初機体がその年の12月31日工場より初出荷された。

MDヘリコプターズは2000年に、改良されたRR 250-C20R+エンジンを搭載し、デュフューザとファンを強化し、外気温が高い場合にも3-5%性能が向上した520Nを発表した。

ノーターは、警察などの法執行機関にも人気がある。それは従来のテールローターに比べ騒音が低いためである。

民間用
500
民間事業用向け仕様 369/OH-6A。エンジンはアリソン 250C-18B。出力317shp(236kW)。
500C
民間事業用向けの性能向上型。エンジンはアリソン 250C-C20。出力400shp(298kW)。
500D
1976年の新しい民間事業用向け仕様。エンジンはアリソン 250-C20B。出力420shp(313kW)。
500E
機首形状を変更した最新の仕様。
NH-500E
イタリアで製作された500E。
520N
500Eにノーターを装備した機種。
530F
500Eの上位機種。エンジンはアリソン 250-C30B。出力650shp(485kW)。

軍用

軍隊向け仕様はディフェンダー(Defender)と呼ばれ、輸出もされている。

詳細は「MD 500ディフェンダー(英語版)」を参照
500M
500MD
500MG
530MG
500 ASW
ディフェンダーにソナーなどを搭載した対潜ヘリコプター型。機体下に短魚雷1基を搭載可能。
台湾海軍、スペイン海軍が採用。

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モデル 500C
乗員:1-2名
席数:全5席
全長:30ft 10in(9.4m)
主回転翼直径:26ft 4in(8.03m)
全高:8ft 2in(2.48m)
空虚重量:1,088lb(493kg)
最大離陸重量:2,250lb(1.157t)
発動機:アリソン250-C20 ターボシャフトエンジン1基 出力 278hp(207kW)
超過禁止速度:152knots=M0.23(175mph, 282km/h)
巡航速度:125kn=M0.19(144mph, 232km/h)
航続距離:335NM(605km)
実用上昇限度:16,000ft(4,875m)
上昇率:1,700ft/min(8.6m/s)
MD 520N
乗員:1-2名
席数:全5席
全長:33ft 2in(9.78m)
主回転翼直径:27ft 4in(8.33m)
全高:9ft 0in(2.74m)
円盤面積:586.8ft²(54.5m²)
空虚重量:1,636lb(742kg)
最大離陸重量:3,350lb(1.52t)
発動機:アリソン250-C20R ターボシャフトエンジン1基 出力 375hp(280kW)
超過禁止速度:152knots=M0.23(175mph, 282km/h)
巡航速度:135kn=M0.20(155mph, 250km/h)
航続距離:267mi(429km)
実用上昇限度:14,175ft(4,320m)
上昇率:1,850ft/min(9.4m/s)
MD 530F
乗員:1-2名
席数:全5席
全長:32ft 7in(9.94m)
主回転翼直径:27ft 4in(8.33m)
全高:8ft 9in(2.48m)
円盤面積:587.5sq ft(54.6sq m)
空虚重量:1,591lb(722kg)
最大離陸重量:3,100lb(1.61t)
発動機:アリソン 250-C30 ターボシャフトエンジン1基 出力 375hp(280kW)
超過禁止速度:152knots=M0.23(175mph, 282km/h)
巡航速度:135kn=M0.20(155mph, 250km/h)
航続距離:232nmi(267mi, 430km)
実用上昇限度:18,700ft(5,700m)
上昇率:2,070ft/min(10.5m/s)

馬車(大分 由布院)

馬車(ばしゃ)とは、人を乗せたり、荷物を運搬する、馬などに引かせる車である。馬だけでなく、ロバや騾馬などに引かせることもある。

現在は世界的に自動車にとって代わられつつあるが、インドや北アフリカ、東欧の一部や、中国の奥地など、農業の機械化が進展していない国や地域の農村部では、現在でも荷馬車を日常的に見ることができる。

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馬車がいつ何処で発明されたか明らかではないが、インダス文明の遺跡であるハラッパーからは、轍(わだち)がある道路跡が発掘されている。紀元前2800年から2700年の古代メソポタミアの遺跡から、馬車の粘土模型が発掘されている。この模型は2頭立て2輪の戦車(チャリオット)であった。戦車は古代オリエント世界と古代中国の商(殷の墳墓から戦車と馬の骨が多数出土)から周時代などで広く用いられた。紀元前3000年頃の青銅器時代にコロの原理から車輪が生まれ、それが紀元前2000年頃の鉄の発明と結びついて、組み立て車輪の馬車が誕生した。

古代ローマでは戦闘用として戦車が用いられたほか、娯楽として戦車競走が盛んに行われた。現在のローマ市にあるナヴォーナ広場は当時の戦車競技場の跡地であり、広場全体の形が当時の競技場のまま残されている。映画『ベン・ハー』で描かれた戦車競技が良く知られている。また、古代ローマの帝政期には、帝国全土にはりめぐらされたローマ街道を用いた郵便馬車制度が整備された。この郵便馬車は4輪であった。ローマ帝国が衰退すると、都市間の道路網の整備が行き届かなくなり、馬車の発展を妨げた。14世紀のハンガリーでは、紐や鎖で座席を吊り下げた懸架式の馬車が登場し、17世紀にはバネによるサスペンションを備えた馬車が登場した。16世紀後半には、ヨーロッパ諸宮廷において馬車の使用が新しい流行として広まり、同世紀末までに馬車は貴族階級の主要な移動手段となり、宮廷儀礼においても馬車が重要な役割を果たすようになった。こうした馬車の急速な普及により、馬車のための諸設備が必要となり、建築や都市計画にも影響を与えていった。

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1625年、ロンドンに辻馬車が登場。ほどなく、パリにも登場している。辻馬車は、走行時間によって料金が設定されていたが、19世紀にはメーターが導入されたことにより、走行距離によって料金が示されるようになる。このシステムはタクシーに引き継がれた。1662年、ブレーズ・パスカルはパリで乗合馬車「5ソルの馬車」を創業する。これは現代のバスに相当するもので、世界初の都市における陸上公共交通機関とされる。安価で正確な運行により、好評を博した。18世紀に入ると、ヨーロッパの主要都市間を結ぶ駅馬車が整備されてくる。例えばパリ-リヨン間の駅馬車であるdiligenceは、夏は5日、冬なら6日で、両都市間を結んだ。19世紀に馬を動力として鉄道を走る馬車鉄道が発明された。しかし、蒸気機関車が発明されたことから、馬車鉄道は衰退した。蒸気機関車発明後もどこでも自由に移動できる馬車はヨーロッパの都市部で盛んに利用された。また、19世紀のパリでは、「昼は2人乗りの二輪馬車、夜は箱型四輪馬車」を所有することが富裕層のステータスでもあり、悪路の多いパリでは衣服を汚さない馬車の利用が上流階級の証だった。

イギリスでは辻馬車であるハックニーキャリッジのうち、エンジンで走行するものは車体が黒色に塗られており、一般にブラックキャブ(black cabs)と呼ばれていた。現在ではロンドンタクシーの通称ともなっている。

またアメリカ合衆国では西部開拓が盛んになり、開拓民は幌馬車隊を組んで西部に向け移住していったが、その後、馬車の車体を改造し蒸気機関を搭載した蒸気自動車やガソリン等を燃料にしたエンジンを搭載した自動車が発明されたことにより、馬車は陸上交通機関の主役の座を奪われ、急速に衰退していった。アメリカ合衆国のアーミッシュはその教義・信念によって自動車を運転しないため、現在も馬車を実用的な交通機関として使っている。米国の道交法に違反しないよう、方向指示器などを取り付けている。

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馬車の形状や用途ごとに次のような分類がされることがある。ただし、厳密な分類体系があるというわけではなく、一部は重なる。

バギー (buggy) - 1頭立ての軽装馬車
カブリオレ (cabriolet) - 1頭立ての2輪幌馬車
キャラバン (caravan) - 大型の幌馬車
キャリッジ (carriage) - 2頭または4頭立ての4輪馬車
キャリオル (cariole) - 1頭立ての小型馬車
チャリオット (chariot) - 古代の2輪戦車、または18世紀の4輪軽馬車
コーチ (coach) - 4頭立ての4輪大型馬車
クーペ (coupé) - 2人乗りの4輪箱型馬車
ワゴン (wagon) - 通常2頭立て以上の4輪荷馬車
カート (cart) - 1頭立ての2輪荷馬車
コネストーガ幌馬車 - 18世紀後半から19世紀に北米で使用された、河川の横断なども考慮された幌馬車
バギー、カブリオレ、クーペ、ワゴンなど、自動車の分類に引き継がれた呼称もある。

日本にはウシを用いた牛車は近世期でも使われていたものの、馬の引く車は明治時代まで存在しなかった。1869年から東京-横浜間を乗客輸送用として乗合馬車の営業を開始させたのを機に馬車が普及し日本各地で広まり、農業や資材輸送・軍事など各分野で、重量物の輸送に広く使われた。明治13年12月には「馬車取締規則」が作られ、乗合馬車は1匹立て6人、2匹立て10人までと乗車制限が設けられた。明治15年(1882年)にはレールの上を馬車が走る「馬車鉄道」が東京で始まり、電気による鉄道が普及する以前の交通機関として地方でも広く普及した。

旧日本陸軍では終戦まで機械化が進まず、補給や大砲の牽引に多くの馬を使用した。陸軍では明治36年(1903年)に軍用荷馬車の規格を統一し、三六式輜重車として制式化した。これは馬一頭で引くもので、荷物の積載量1.5トン、速度4.5kmと、人間の歩く速度なみであった。

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現在では馬車は基本的に自動車にとってかわられたので、あえて使われる場面は限られていて、ひとつは儀礼的な行事である。現代でも、王皇族の結婚式では馬車によるパレードで使われる。また、日本においては各国から来日した特命全権大使等は、信任状捧呈式のための参内に際して、明治生命館前から宮殿南車寄までの大通りを、宮内庁が差遣わす儀装馬車か自動車どちらかに乗って移動する。ほとんどの大使は騎馬の皇宮護衛官や警視庁警察官によって警護されて馬車に乗って移動することを希望している。→信任状捧呈式の際の馬車列(宮内庁HP) また、鳥取砂丘などの観光客向けの乗り物としても、ロバのパン屋で子供たちを魅了するためにも使われている。

大分きゃんばす(大分バス)

大分きゃんばす(大分バス)


中心市街地循環バス「大分きゃんばす」(ちゅうしんしがいちじゅんかんバス おおいたきゃんばす)は、大分市が運行する中心市街地を循環するコミュニティバスである。大分バス株式会社(おおいたバス)は、大分県中部及び南部を営業エリアとする乗合バス・貸切バス事業者である。

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中心市街地を循環し、大分市美術館と大分県立美術館とを結ぶ路線である。大分きゃんばすを使ってこれら2つの美術館をめぐり、学芸員から説明を受けるまちなかアートツアーも開催されている。

2015年(平成27年)6月13日に実証運行を開始。2年間の実証運行を経て、2017年(平成29年)10月から経路及びダイヤを変更して本格運行を開始した。なお、大分きゃんばすの実証運行開始に伴い、大分バスの駅南循環線は2015年6月12日を以て運行を休止している。

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所要時間:47分※最終便のみ53分
運賃:大人100円、小学生以下及び身障者50円
大分きゃんばす専用1日乗車券:大人200円、小学生以下及び身障者100円
大分バス総合案内所(トキハ本店1階)、大分交通大分駅前バスセンター(大交セントラルビル1階)で発売。
2017年10月1日に、大人300円から200円に(子供および身障者は150円から100円に)値下げした。
2018年1月2日から1日乗車券を提示すると美術館や協賛店舗で特典が受けられるサービスを実施。なお、2016年11月21日から2017年3月31日までの間も、協賛店舗や美術館等の施設で特典が受けられる「1日乗車券とくとくマップ」サービスを実施し、その後も美術館での観覧料割引を継続していた。
運行会社:大分バス・大分交通
支払いは上記の現金ならびに1日乗車券のほか、全国交通系10社ICカード、SUNQパス(北部九州版・全九州版)も使用可能。

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2017年10月1日 -
要町 - 大分駅前7番 - トキハ・フォーラス前 - 竹町赤レンガ通り - 昭和通り - オアシス広場前(県立美術館南) - 大道校区公民館前 - 大分駅上野の森口 - ホルトホール大分 - 東大道1丁目 - 大分県立聾学校前 - 上野丘公園 - 大分市美術館 - 上野丘公園 - 大分県立聾学校前 - 東大道1丁目 - ホルトホール大分 - 大分駅上野の森口 - 大道校区公民館前 - ガレリア竹町西 - オアシスひろば前(県立美術館南) - 昭和通り - 大分市役所合同新聞社前 - 県庁正門前 - コンパルホール入口 - 金池 - 大分駅前 - 要町
2016年2月8日 - 2017年9月30日
要町 - 大分駅前3番 - 金池 - コンパルホール入口 - 県庁正門前 - 大分市役所合同新聞社前 - 昭和通り - オアシス広場前(県立美術館入口) - 大道校区公民館前 - 大分駅上野の森口 - ホルトホール大分 - 東大道1丁目 - 大分県立聾学校前前 - 上野丘公園 - 大分市美術館 - 上野丘公園 - 大分県立聾学校前 - 東大道1丁目 - ホルトホール大分- 大分駅上野の森口 - 大道校区公民館前 - オアシス広場前(県立美術館入口) - 昭和通り - 大分市役所合同新聞社前 - 県庁正門前 - コンパルホール入口 - 金池 - 大分駅前(降車のみ) - 要町(降車のみ)
2015年6月13日 - 2016年2月7日
要町 - 大分駅前7番 - トキハ・フォーラス前 - 竹町赤レンガ通り - 昭和通り - オアシス広場前(県立美術館入口) - 大道校区公民館前 - 大分駅上野の森口 - ホルトホール大分 - 東大道1丁目 - 大分県立聾学校前 - 上野丘公園 - 大分市美術館 - 上野丘公園 - 大分県立聾学校前 - 東大道1丁目 - ホルトホール大分- 大分駅上野の森口 - 大道校区公民館前 - オアシス広場前(県立美術館入口) - 昭和通り - 中央通りトキハ前1番 - 大分駅前(降車のみ) - 要町(降車のみ)

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2015年(平成27年)6月13日 - 実証運行開始。
2016年(平成28年)
2月8日 - ルート見直しに伴いダイヤ改正及び系統番号が付く。
5月31日 - 宮下あきらが描いた大友義鎮(宗麟)やくまモンがデザインされた熊本地震復興のラッピングバスの運行開始。
11月21日 - 協賛店舗や美術館等の施設で特典が受けられる「1日乗車券とくとくマップ」サービスを開始(2017年3月31日まで)。
2017年(平成29年)10月1日 - 本格運行を開始。

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レインボー(Rainbow)は、日野自動車から発売されているバスの名称である。キャブオーバーの小型は1966年に、リアエンジンの中型は1980年に製造を開始し、国内初のスケルトン(マルチチューブラーフレーム)構造を取り入れた中型バスとして、路線、観光用途に1980 - 90年代にかけて広く販売された。もとは中型のほか小型も包括していたが、モデルチェンジによる名称変更が相次ぎ、現在は中型路線系(いすゞ・エルガミオ(ジェイ・バス宇都宮事業所で製造)のOEM供給→統合モデル車・日野レインボーⅡ)のみのラインナップとなっている。2016年5月6日のフルモデルチェンジの際に、車名は「レインボー」に戻されている。

車体製造は日野車体工業金沢工場が担当していたが、2002年より同社小松工場、2004年10月にジェイ・バスへの統合で、その後は、同社小松事業所が製造を担当した。名称のレインボーは、日野の社内公募によって決定した。

9mワンステップ路線車(RJ系)・および7mノンステップ路線車(HR系)は2004年に生産中止、9mノンステップ路線車(HR系)は2007年10月1日に、いすゞ・エルガミオの統合車種(当初はOEM車種)であるレインボー II へ移行し、最後まで製造された10.5mノンステップ路線車(HR系)も、2010年をもって製造を中止した。


新野駅(JR西日本)播但線

新野駅(にいのえき)は、兵庫県神崎郡神河町新野字中村にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。

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駅構造
相対式ホーム2面2線を持つ、交換設備を備えた地上駅。福崎駅管理の無人駅で駅舎らしい構造物はなく、直接ホームに入る形になっている。

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2つのホームの間は跨線橋で連絡し、1番のりばに直立式の自動券売機がある。四国の牟岐線にも同名駅がありますが新野駅 (徳島県) - 牟岐線にある駅は「あらたの」と読む。

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2番のりばを上下本線とした一線スルーとなっており、通過列車は上下線問わず2番のりばを通過する。

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停車列車は上下線問わず、通常は上下副本線である1番のりばに停車する。行違いの場合は寺前方面行きの方が2番のりばに入る。

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東口ホーム入口には簡易型の券売機が設置されています。

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駅東口に立派な駅前広場が整備されています。
瓦屋根の建物のトイレで男女別の水洗公衆トイレです。

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のりば
のりば 路線 方向 行先 備考
1 J 播但線 上り 福崎・姫路方面

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1線スルー構造で、通常は左側の1番ホーム発着となります。

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下り 寺前・和田山方面 下記以外
2 一部列車のみ

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駅周辺
乗徳寺
浄光寺

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「兵庫県統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗車人員は588人である。

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1951年(昭和26年)10月15日 - 日本国有鉄道播但線の鶴居駅 - 寺前駅間に新設開業。旅客営業のみ。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2016年(平成28年)3月26日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。

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所属路線 J 播但線
キロ程 27.7km(姫路起点)
電報略号 ニノ
駅構造 地上駅

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ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 588人/日(降車客含まず)
-2015年-

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開業年月日 1951年(昭和26年)10月15日
備考 無人駅(自動券売機 有)

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米軍 M224 60mm 迫撃砲

M224 60mm 迫撃砲(M224 Mortar)は、アメリカ軍が使用している口径60mmの軽迫撃砲である。

M224迫撃砲は、第二次世界大戦以来朝鮮戦争やベトナム戦争で使用されてきた2種類の60mm迫撃砲、M2とM19を更新するために設計された。

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旧型の60mm迫撃砲弾も使用可能であるが、M224用の新型砲弾を使用すれば射程が1km近く延伸される。その代償としてやや重量が増加している。装填は前装式であり、装填と同時に射撃(撃発)するほか、セレクターを切り替えることで装填後に砲身後部の引き金を引いて射撃(撃発)することも可能である。二脚を外して兵士1人で使用することも可能であるが、照準器は二脚に装着する構造なので、照準は目分量で行わなければならない。

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陸軍と海兵隊の双方に配備されており、陸軍では中隊の迫撃砲班、海兵隊では小隊の迫撃砲班にそれぞれ配備されている。

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諸元

種別: 迫撃砲
口径: 60mm
砲身長: 1,000mm
重量: :21.1kg(二脚使用時)・8.2kg(個人携行形態時)
M225砲身:6.5kg
M170二脚:6.9kg
M7底盤(円形・二脚使用時):6.5kg
M8底盤(長方形・個人携行形態時):1.6kg
M64A1照準器:1.1kg
性能

砲口初速: 213m/秒(榴弾)
最大射程: 70-3,490m
発射速度: 最大:30発/分、持続:20発/分
砲弾・装薬

弾薬:
信管: マルチオプション信管M734, 瞬発信管M935

KAE-240型エンジン(レシプロエンジン)川崎機械工業(株)

 

KAL-1、KAT-1、KAL-2開発の経緯は川崎機械工業(株)明石工場(のちの川崎重工業(株)明石工場)における純国産第一号として開発していたKAE-240(空冷水平対向6気筒・240馬力)にも影響を与えました。
KAL-1型連絡機に搭載された米国ライカミング社のエンジンをモデルとして開発されたKAE-240エンジンは、当時川崎でライセンス生産されていたベル47D型ヘリコプターの他、KAL量産機にも搭載が予定されていましたが、諸種の事情から量産は認めらず、試作のみに終わりました。

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レシプロエンジン
レシプロエンジン(英語:reciprocating engine)は、往復動機関あるいはピストンエンジン・ピストン機関とも呼ばれる熱機関の一形式である。

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燃料の燃焼による熱エネルギーを作動流体の圧力(膨張力)としてまず往復運動に変換し、ついで回転運動の力学的エネルギーとして取り出す原動機である。燃焼エネルギーをそのまま回転運動として取り出すタービンエンジンやロータリーエンジンと対置される概念でもある。

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レシプロエンジンは、自動車や船舶、20世紀前半までの航空機、非電化の鉄道で用いられる鉄道車両、といった乗り物の動力源としては最も一般的なもので、他に発電機やポンプなどの定置動力にも用いられる。

グラーデ単葉機

グラーデ単葉機(グラーデたんようき)は、日本初の動力飛行に使われた飛行機のひとつである。徳川好敏大尉のファルマン機とともに日野熊蔵大尉によって1910年(明治43年)12月19日、公式飛行を行った。

ドイツでは1909年~1914年にかけて計80機が生産され、その形状から"トンボ"の通称を冠し Grade II Libelle と呼ばれた型で、製作者のハンス・グラーデ(1879年-1946年)はドイツでの最初の動力飛行に成功したパイロットである。1909年1月に自製機での飛行に成功している。

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グラーデ単葉機は24馬力のエンジンの小型機で、ファルマン機が複座の50馬力の機体であったのにくらべて、大きさ・重量・価格とも小さく、現代でいえばマイクロプレーンに近い印象の機体である。 なお、日本の航空史などの資料で、グラーデ機、グラーデ単葉機、といった記述の場合は特にこの(日野大尉がドイツで購入し公式初飛行に使用された特定の機体)一機(のみ)を指している場合が多い。 

今日では、レプリカが各務原市のかかみがはら航空宇宙科学博物館に展示されているほか、公式初飛行当時のプロペラは「日本最初の飛行に使用されたプロペラ」として戦前にファルマン機のものと共に寄贈されており、現物が東京上野の国立科学博物館に残っている。

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ハンス・グラーデ(Hans Grade 、1879年5月17日 - 1946年10月22日)はドイツの技術者で、航空業界における先駆者である。1908年10月自作の三葉機で初飛行した。1909年10月30日、単葉機"Libelle(とんぼ)"で一定の間隔のパイロン間の8の字飛行をしたドイツ機に与えられる懸賞飛行Lanz-Priceを獲得した。

1903年からオートバイを作っていたが、1907年ころから飛行機を作り始めた。1910年にマクデブルクに飛行機会社をつくった。第一次世界大戦中は軍用機の修理などをした。戦後は飛行機会社をオーストリアのAVIATIKに売却して、自動車会社を興した。

今日では、レプリカが各務原市のかかみがはら航空宇宙科学博物館に展示されているほか、公式初飛行当時のプロペラは「日本最初の飛行に使用されたプロペラ」として戦前にファルマン機のものと共に寄贈されており、現物が東京上野の国立科学博物館に残っている。


スペック
※数字は資料により多少異なる。

全幅: 10.5m
全長: 7.5m
自重: 225kg
最大速度: 58km/h
航続時間: 3時間
乗員: 1名
エンジン: ハンス・グラーデ製 空冷双頭型4気筒16.3PS(40kg)

用途:練習機
製造者:ハンス・グラーデ
運用者:ドイツの旗 ドイツ帝国
初飛行:1909年8月17日(ドイツ)
      1910年12月14日[1](日本)
生産数:80
生産開始:1909年 - 1914年

生野駅(JR西日本)播但線

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生野駅(いくのえき)は、兵庫県朝来市生野町口銀谷(くちがなや)字中筋にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。特急「はまかぜ」が停車する。

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駅のある生野は戦国時代以降、日本で有数の銀産地として繁栄し、ピーク時には1万人を超す人口を有した当地です。

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しかしながら銀山の閉山後は過疎化が著しく、特急列車こそ停車しますが、往年の賑わいはありません。

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駅構造
相対式2面2線のホームを持ち、交換設備を有する地上駅。

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駅舎は2009年に新設された西口(姫路方面行きホーム側)と東口(和田山方面行きホーム側)両方にあり、ホームの跨線橋で連絡している。

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駅西口の駅舎は白壁に瓦葺の和風鉄骨造駅舎で、観光案内所が併設されています。

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駅東口ですが旧国鉄デザインの鉄骨造駅舎です。市街地はこちら側に広がっています。

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配線上では一線スルー化も可能であるが、信号機が片側設置のため、ホームは方向別になっている。

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一時期無人化されていたが、現在は福崎駅管理の簡易委託駅で、朝から夕方まで2009年3月に竣工した西口駅舎に駅員が配置されている。

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鉄道では全国的に珍しい右側通行となっている。

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新井方面からは上り勾配となっていて、新井方面から見て駅構内は左側にカーブしており、さらに左側分岐であるため、左側通行では勾配途中で分岐制限を受けてしまうので、蒸気機関車はホームへの停車が困難だったからである。

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2010年(平成22年)4月、西口駅舎内に朝来市観光情報センターがオープンした。

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のりば
のりば 路線 方向 行先
1 J 播但線 下り 和田山方面

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2 上り 寺前・姫路方面

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駅前広場は広く整備されています。

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駅周辺
銀山まち回廊
但陽信用金庫会館(但陽美術館・但陽会館)

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生野書院
生野マインホール
旧生野警察署

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生野義挙碑(生野代官所跡)
SUMCO生野クラブ
生野まちづくり工房井筒屋財
旧生野鉱山社宅(甲社宅)

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国史跡生野銀山(当駅から神姫グリーンバス喜楽苑行または黒川行で生野銀山口下車)
播但連絡道路 生野ランプ

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バス
停留所名 生野駅裏(神姫)、生野駅西口(全但)

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神姫グリーンバス
黒川・喜楽苑行き
全但バス
和田山駅・八鹿駅行き
夢但馬周遊バス「たじまわる」

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「兵庫県統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗車人員は267人である。

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1895年(明治28年)4月17日 - 播但鉄道が長谷駅から延伸し、その終着として開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1901年(明治34年)8月29日 - 新井駅までの延伸に伴い、南へ300m移転。途中駅となる。

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1903年(明治36年)6月1日 - 播但鉄道が山陽鉄道に営業譲渡。山陽鉄道の駅となる。

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1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道国有化により国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。

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1973年(昭和48年)4月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。

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所属路線 J 播但線
キロ程 43.6km(姫路起点)

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電報略号 イク
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線

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乗車人員
-統計年度- 267人/日(降車客含まず)
-2015年-

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開業年月日 1895年(明治28年)4月17日
備考 簡易委託駅

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米軍 多目的トラクター John Deere TRAM 624KR

John Deere TRAM 624KR

John Deere Construction and Forestry社製の多目的トラクター。
専用のアタッチメントがあり、フォークリフト等としての運用も可能となっている。
2006年12月より追加ユニットが導入され、TRAMオペレーター用の防弾・対爆用の装甲キットが装備されている。
主な用途は基地建設、道路建設、飛行場建設、土壌の追加と除去を行う。

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米国防総省は連邦政府の頭字語を歓迎し、特別に改良されたDeere 624Jホイールローダをトラクタ、ゴム疲れ型、関節式ステアリング、多目的車両用と呼んでいます。

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ジョン・ディアは、米国海兵隊のために300台を建設する契約を結んでいます。特別装甲パッケージを装備し、戦闘支援オペレーション用に設計されたTRAMは、2.5立方ヤードの多目的バケツを扱い、48ポンドで最低10,000ポンドのフォークリフトとして機能するように設計されていますインチロードセンター。

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これらの新しいTRAMユニットは、1980年代後半に同社が元々供給していたものの代わりとなります。Deereは過去20年間に最初のTRAMモデルを改装し、同社によれば、このマシンは世界中で引き続き使用されています。

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米国防総省は連邦政府の頭字語を歓迎し、特別に改良されたDeere 624Jホイールローダをトラクタ、ゴム疲れ型、関節式ステアリング、多目的車両用と呼んでいます。ジョン・ディアは、米国海兵隊のために300台を建設する契約を結んでいます。特別装甲パッケージを装備し、戦闘支援活動に使用するために設計されたTRAM

ワゴンR 艦これ痛車

ワゴンR(ワゴンアール、Wagon R)は、スズキが生産・販売している軽トールワゴンである。
誕生当時、軽自動車の弱点であった室内の狭さを、背を高く取ることで克服した軽の革命的モデルである。男性にも受ける軽自動車を作ろうと開発がスタートし、1987年頃すでに原型はできあがっていたが、紆余曲折を経て1993年に発売(当初のキャッチコピーは「クルマより楽しいクルマ、ワゴンR」)。
それまで軽自動車と言えば、低車高の乗用型もしくは、商用車派生型のワンボックスモデルしかなかったが、ワゴンRの場合はフロアパネルを二重構造とし座面も高く取ることで、足を窮屈に曲げずに座ることで圧迫感を軽減し、視点を高くすることにより眺望性・視認性および開放感を向上させた。床面が高く乗降に不便なワンボックスカーに対し、ワゴンRでは床面は地面からワンステップの高さのため乗降もスムーズとなった。

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ワゴンRはまた、厳しいコスト管理により徹底した部品共用化が図られた。バブル景気の後遺症でコストダウンの方向を探っていた当時、現スズキ会長兼CEOの鈴木修はフォルクスワーゲンの製造工場を見学した際に、車種の多様さと比べて基本の車体(プラットフォーム)が少ないことに驚き、VWとの本格的な提携は実現しなかったものの、その後のスズキの徹底した共用化へのきっかけとなった。 当初は月販目標台数を4,000台としていたが、受注はそれをはるかに超え、発売して数か月、増産に対応すべく、約1億円の費用を掛けて生産ラインを拡張したほどである。若年の男性ユーザー層をターゲットとしていたが、優れた使い勝手で購買層は瞬く間に老若男女の幅広い層に拡大した。他車に与えた影響も大きく、類似車種が多数登場した。特に、後にスズキ最大のライバルであるダイハツ工業が投入したムーヴとは販売台数を巡り鍔迫り合いを演じるようになり、共に軽トールワゴンの代表的車種として認知された。

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販売台数においては、おおむね軽自動車市場のトップシェアを長らく維持し、車名別月別国内販売台数1位、すなわち、登録車(普通車)の販売台数1位車種の販売台数を上回った時期もあった。2009〜2010年に実施されたエコカー減税・補助金等を発端とした、いわゆる「エコカー・ブーム」の影響によりシェアは低下し、2009年以降、国内販売台数1位の座はトヨタ・プリウスに譲ったものの、全国軽自動車協会連合会の記録がある2006年〜2011年までの5年間にわたり年間軽自動車販売台数No.1を維持。年間軽自動車販売台数No.1の座を譲った2012年から4年間も年10万台以上の販売台数を記録し、2016年は約8.1万台の販売台数を記録している。
ワゴンRの派生車種としては、OEM車種のマツダ・AZ-ワゴン(4代目まで)およびフレア(5代目)、初代ベースでサイズを拡大した登録車(普通車)のソリオ(ワゴンRワイド→ワゴンRプラス→ワゴンRソリオ→ソリオと改名、2代目まで)があり、さらにソリオ派生のシボレー・MWもある。また、日本国外では、ワゴンRプラスを基にしたオペル・アギーラがポーランドで生産されていた。
軽トールワゴンでは少なくなってきているMT車の設定を現行の6代目まで継続採用している(軽トールワゴンでMT車の設定があるのはワゴンRのみである(OEM車種のフレアに関しては初代には設定されていたが、2代目は現時点で設定なし)。スズキの軽乗用車ではワゴンR以外にも、アルト、ジムニー、ハスラーにもMT車の設定がある)。

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セダンもあるけど、ワゴンもある。『ワゴンもあーる』ということからワゴンRとなった。また、Rは「Revolutionary=画期的な」と「Relaxation=くつろぎ」それぞれの頭文字「R」をも指し、「軽自動車の新しい流れを作る新カテゴリーのクルマ」「生活にゆとり感を与えるクルマ」という2つの意味も、後付ながら込めている。
3代目以降のバリエーションモデル・「スティングレー」は「STING(刺激)」と「RAY(光線)」を合わせた造語であるが、英語ではアカエイという意味[64]もある。なお、過去スズキでは主力車種だったフロンテの3代目(LC10型)に「スティングレイ・ルック」というコピーを採用している。
当初は「ジップ(ZIP)」という名前で発売予定であり、鈴木修社長(当時)も承諾していたが、開発を手がけた戸田昌男(後の社長)が「あまり良くない」と主張したことから急遽変更されたことが、戸田元社長の葬儀での鈴木会長の弔辞で明らかにされた。

3代目 MH21S/22S型
初代に立ち返り再びスクエアデザインとなった。スバルと共同開発したフロントサスを採用、プラットフォームを新しくした。スポーツグレードの「RR-DI」には軽市販車初の直接噴射式ターボエンジンが搭載された。歴代モデルで唯一、全グレードにタコメーターを標準装備する。グレード体系では標準モデルは「FA」・「FX」・「FT」・「FS」に、スポーツモデルは「RR」と「RR-DI」となった。なお、この型からエンブレムが社章の「Sマーク」をデフォルメしたものから「Sマーク」そのものになり、リアにも「Sマーク」が装着される(「Sマーク」は他のスズキの車種にも順次採用されたが、2012年現在、アルトラパンが唯一「Sマーク」を採用せずキャリイと同じく「SUZUKI」のデカール(縁取りは異なる)がリヤに貼られている。また、ジムニーとキャリイはフロントのみ採用)。併せて、リアの車名ロゴが2代目までのデカールから「Sマーク」と同じメッキエンブレムに変更されている。
全グレードドアに電動アクチュエーターが内蔵されパワードアロック標準装備(FAより上のグレードにはキーレスエントリーなどが付く)となったためか助手席・バックドアハンドルは鍵穴を廃止し、形状を変更した。同じGM系列のスバルと共同開発(2003年当時)したフロントサスペション用L字形ロアアームを採用している。ターボ車については、空冷式インタークーラーの小型高効率タイプへの変更と、フロントグリルからインタークーラーへの専用エアーインテーク/ダクトを設置したことにより、2代目モデルまでエンジンフードにあったインタークーラー冷却用のエアーインレットがなくなり、先代同様「TURBO」デカールも存在しないためこの代からターボカーと一目で分かる要素は消滅した。「RR-DI」、「スティングレー DI」のインタークーラーも上部に設置されているが他のターボにある専用エアーインテーク/ダクトは存在せず従来どおりにも見えるがこれもインテークはボンネットに存在せずスズキの乗用車としては珍しい方法であった。

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『艦隊これくしょん -艦これ-』は、角川ゲームスが開発しDMM.comがブラウザゲームとして配信している育成シミュレーションゲームおよび、そのメディアミックス作品群。ゲーム内容は、第二次世界大戦時の大日本帝国海軍の軍艦を中心とした艦艇を女性キャラクターに擬人化した「艦娘(かんむす)」をゲーム中で集め、強化しながら敵と戦闘し勝利を目指すというものである。2013年4月23日にブラウザ版のサービスを開始した[3]。2016年6月10日からは、ブラウザ版とデータが同期するAndroid版を提供している。
公式略称は「艦これ」。表記揺れとして「艦隊これくしょん〜艦これ〜」などがある。
2016年2月下旬現在、ブラウザ版における登録や課金サーバーなどのプラットフォーム系以外は全て「「艦これ」運営鎮守府」(運営)が担当している。

この作品では女性の萌えキャラクターに擬人化された艦艇(軍艦)を「艦娘(かんむす)」と呼んでいる。艦娘がどういった存在であるのかについては明確にされていない。『艦これ』の田中謙介プロデューサーから「僕の中のイメージ」と前置きされた上で語られているものもあるが、基本的にはユーザーそれぞれの想像に委ねるとしてい。例えば「赤城は大食い」という設定は、元はユーザーの想像から生まれたものである。
公開初日時点の登場艦娘数は100艦ほどで、その後も随時、新規艦娘や新規改造艦娘が実装されている。登場している艦娘は大半が第二次世界大戦期の大日本帝国海軍艦艇を元にしたもので、少数の大日本帝国陸軍船舶の艦娘も登場している。また海外艦として、2017年8月現在、ソ連海軍、ドイツ海軍、イタリア海軍、アメリカ海軍、イギリス海軍、フランス海軍の艦艇を元にした艦娘が実装されている。
主人公に相当する艦娘は明確にされておらず、メディアミックス作品でもそれぞれで異なっている。
アイテムとして実装されている間宮と伊良湖を除き、ゲーム中での使用キャラクターとして実装されている「艦娘」の一覧である。本作では大日本帝国海軍艦艇類別標準とは異なる艦種、艦型が使われていることも多いが、この表ではゲーム内の図鑑に従って記述している。特に、航空母艦の分類(正規空母、軽空母、装甲空母)の内訳は本作独自のものであるほか、正式な類別ではない航空戦艦、航空巡洋艦、重雷装巡洋艦、潜水空母や、当時日本軍の艦船には用語として存在しない揚陸艦などといった類別も使用されているので注意が必要である。また、艦娘のステータスの1つである「速力」が高速となっている戦艦は高速戦艦と呼ばれ、ブラウザ版でも任務(クエスト)などで低速の戦艦とは異なる扱いを受けることがあったが、『艦これ改』では戦艦とは別の艦種として設定されている(ただし、ブラウザ版と共通であるカードのマークなどは戦艦のままである)。

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テレビアニメ『艦隊これくしょん -艦これ-』は、2015年1月から3月にかけて全12話を放送。タイトルはブラウザゲームと同じく『艦隊これくしょん -艦これ-』だが、ブラウザゲームとはロゴが若干異なる。劇場アニメ『劇場版 艦これ』は2016年11月26日公開。『劇場版 艦これ』は略称ではなく正式なタイトルで、「艦隊これくしょん」という言葉は含まれていない。
「KADOKAWA GAME STUDIO MEDIA BRIEFING 2013 AUTUMN」において、 PS Vita版『艦これ改』の発表と同時に本作のテレビアニメ化の企画が進行していることが発表された。2015年1月から3月まで放送され、同年3月26日に放送された最終話で続編の制作が発表された。また、4月8日からTOKYO MX、4月9日からBS11で再放送が行われた。2015年8月9日、パシフィコ横浜国立大ホールにて行われた公式イベント、「第二回『艦これ』観艦式」にて、テレビアニメ『艦隊これくしょん -艦これ-』の劇場版が製作開始され、2016年秋に公開予定であることが発表され、「第3回『艦これ』観艦式」にて、公開日が2016年11月26日であることが発表された]。劇場版は、角川映画40周年記念作品[169]。2016年11月26日、全国60スクリーンで封切。60スクリーンという規模ながら興行通信社調査の全国映画動員ランキングで初登場5位となった。2016年12月27日には、1月からはこれまで上映がなかった県での追加上映が発表された。2017年2月11日から、4DX・MX4Dでの上映された。一部の劇場では、音響にこだわった特殊な上映も行なわれた最終的に3月末まで上映を行い、興行収入は5億6000万円となった。
2015年1月-3月放送のアニメの主人公は吹雪。提督は存在するが、ブラウザゲームでの描写を逆輸入する形で画面には映らない設定になっている。放送前には声優はブラウザゲームと同じであるとアナウンスされていたが、実際には一部変更され、ブラウザゲームでは川澄綾子(本作では大淀役で出演している)が担当していた「中間棲姫」の声をアニメでは榊原良子が担当している。
テレビアニメ版では、新たに鎮守府に着任した吹雪の成長と「MI作戦」での勝利までを描く。劇場版では、テレビアニメ版で作戦行動中行方不明になっていた如月が帰還を果たしたところから始まり、艦娘と深海棲艦の関係と、本作の吹雪が「特別な艦娘」である理由が明かされる。

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「鉄道むすめ 豊郷あかねフルラッピング電車」近江鉄道800系電車(モハ808-モハ1808)

豊郷あかね
トミーテックの人気キャラクターシリーズ「鉄道むすめ」に、新キャラクター「豊郷あかね」が誕生。

近江鉄道八日市駅で駅務掛を務め、夏にはビア電に乗務しています。名前の由来は「豊郷駅」と「万葉あかね線」から命名されました。車体には近江鉄道のキャラクター「駅長がちゃこん」も。

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近江鉄道は琵琶湖の東岸側、湖東平野を走る営業距離59.5kmの創業119年目の鉄道会社です。駅数は全33駅。鳥居本駅や新八日市駅など歴史を感じさせるレトロな駅舎をはじめ、個性的な各駅の駅舎は一見の価値ありです。彦根駅構内には駅長がちゃこんが登場する鉄道ミュージアムも併設されています。
毎年夏に運行している近江鉄道ビア電も話題好評。特製お弁当付き、約2時間弱の行程でビールなどが飲み放題です。

鉄道むすめとは?
『鉄道むすめ』はトミーテックが展開する、全国の鉄道事業者の制服を着たキャラクターです。「豊郷あかね」は、鉄道むすめのうちの1人です。

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豊郷あかねDATA
・普段は駅務掛ですが、今日はビール電車で業務中。
・特技は手品で、カップを使ったものが得意。
・熱心な野球ファン。しし座。別の事業者に趣味のあう友人がいる。

豊郷あかねグッズ:豊郷あかね竹うちわ・豊郷あかね記念きっぷver.2・豊郷あかねアクリルキーホルダー

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モハ808-モハ1808 ラッピング編成
「鉄道むすめ 豊郷あかねフルラッピング電車」
近江鉄道800系電車(おうみてつどう800けいでんしゃ)は、近江鉄道の通勤型電車。

屋根構造:張り上げ
雨樋縦管:埋込
行き先表示器:LED
客用扉窓:金属
客用扉塗装:有
座席肘掛:網棚一体型
座席モケット:茶色

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運用者 近江鉄道
製造所 西武所沢車両工場
種車 西武401系
改造所 近江鉄道彦根工場
改造年 1993年 -
改造数 22両
運用開始 1999年
主要諸元
編成 2両編成
軌間 1,067 mm
電気方式 直流 1,500 V
車両定員 136 名(座席56名)
自重 37.8 t
全長 20,000 mm
全幅 2,937 mm
全高 4,150 mm
主電動機 直巻電動機HS-836-Frb
主電動機出力 120 kW / 個
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比 15:84=1:5.60
編成出力 960 kW
制御方式 抵抗制御
制御装置 MMC-HT-20A
制動装置 HRD電気指令ブレーキ
備考 数値はモハ800形のもの。
ドアチャイム:有

長谷駅(JR西日本)播但線

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長谷駅(はせえき)は、兵庫県神崎郡神河町栗字下モ所にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。駅周囲は完全に山村の様相です。

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島式ホーム1面2線を持ち、交換設備を有する盛土上の地上駅。一線スルー化はされておらず、発着ホームは方向別である。

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福崎駅管理の無人駅で駅舎はなく、地下道経由で直接ホームに入る形になっている。

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無人化前は、現在の地下道の向かって左側の階段を登った場所に駅舎があり、ホームとは構内通路で結ばれていた。

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地下道で出入りするようになってからは、駅舎は待合室としては使われず物置化していたが、1990年代後半まで比較的よく保存されており、板打ちされた出札口の跡などもよく残っていた。

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のりば
のりば 路線 方向 行先
1 J 播但線 上り 寺前・姫路方面

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ホームには独立した待合室が設置されています。

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2 下り 和田山方面

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※山側が1番のりばとなっている。

駅前には駐輪場があります。

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駐輪場向かいのスペースには旧駅舎跡地が確認でき現在も階段が残っています。

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駅周辺
神河町長谷支所
大河内発電所
砥峰高原(車で20分)への最寄り駅

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路線バス
神姫グリーンバス

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「兵庫県統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗車人員は15人である。

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1895年(明治28年)
1月15日 - 播但鉄道が寺前駅から延伸し、その終着として開業。旅客・貨物の取扱を開始。
4月17日 - 播但鉄道が生野駅まで延伸。途中駅となる。

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1903年(明治36年)6月1日 - 播但鉄道が山陽鉄道に営業譲渡。山陽鉄道の駅となる。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道国有化により国有鉄道の駅となる。

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1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1963年(昭和38年)3月1日 - 貨物の取扱を廃止。

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1973年(昭和48年)4月1日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。
2012年(平成24年)3月17日‐ダイヤ改正により、一部普通列車が通過となる。

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所属路線 J 播但線
キロ程 35.9km(姫路起点)
電報略号 ハセ

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駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 15人/日(降車客含まず)
-2015年-

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開業年月日 1895年(明治28年)1月15日
備考 無人駅

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89式5.56mm小銃(自衛隊・自動小銃)

89式5.56mm小銃(はちきゅうしき5.56ミリしょうじゅう、英:Howa Type 89 Assault Rifle)は、自衛隊が制式化した自動小銃である。1990年代以降、陸上自衛隊の主力小銃となっている。

広報向けの一般公募愛称は「バディー」であるが、部隊内では単に「ハチキュウ」と称される。

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概要
89式5.56mm小銃は、64式7.62mm小銃の後継として開発され、1989年に自衛隊で制式化された。国産のアサルトライフルに相当し、自衛隊と海上保安庁、警察の特殊部隊(SAT)において制式採用されている。開発製造は豊和工業が担当し、1丁あたりの納入単価は20万円台後半-34万円(調達数によって変動)。武器輸出三原則により納入先が自衛隊など日本政府機関のみに厳しく制限されてきたため生産数が伸びず、量産効果による価格の下落は期待できない。そのため、世界各国の現役の主力小銃としては高価な部類に入る。

使用する弾薬および弾倉は、西側の共通規格である5.56x45mm NATO弾とSTANAG弾倉に準じている。そのため、必要があれば在日米軍などの同盟軍とそれらを共用できる。また、5.56mm機関銃MINIMIとも弾薬互換性を持つ。さらには特別な器具なしで06式小銃てき弾を装着できるため、すべての89式で火力支援と限定的な対戦車戦闘が可能となっている。

形状は、日本人の平均的な体格に適した設計がなされている。銃身長420mmというカービン(短縮小銃)に近い長さでありながら、大型の消炎制退器の銃口制退機能によって高い制動性と良好な集弾性能を有する。また、取り外し可能な二脚を有し、展開し接地することで安定した射撃ができる。銃床は固定式だけでなく、コンパクトに折りたためる折曲銃床式が空挺隊員や車両搭乗隊員向けに配備されている。

材質・製造方法は、大量生産が容易なように選択されている。銃床、銃把、被筒には軽量かつ量産性に優れた強化プラスチックを採用し、金属部分はプレス加工を多用している。さらに、銃を構成する部品数が64式から大幅に減り、生産性や整備性が向上している。

冷戦末期に設計された本銃であるが、海外派遣やゲリコマ対策など新たな課題に向けて、各部の改修・改良が実施されている。進捗は部隊によって異なるが、左側切換レバー設置や光学式照準器の装着などが進められている。さらには本銃を試作原型とした「先進軽量化小銃」が開発中である。

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特徴
基本構造
先端に備わる消炎制退器・照星部・ガス調整子
二脚と消炎制退器の間にあるのは剣止め
万一の脱落を予防するため、ガス調整子に針金、被筒先端にビニールテープが巻かれている


第26普通科連隊第2中隊武器庫にて。 初期型のため、現在とは切替軸と負い紐及び刻印に違いがある
銃本体は銃身部、銃尾機関部、引金室部、銃床部で構成される。スチール板プレスやロストワックス、樹脂部品の採用で軽量化を図り、小口径弾薬の使用と効果の高い銃口制退器によって射撃時の反動を軽減している。部品点数は約100点で、64式7.62mm小銃に比べて約10%減少している。

防衛陣地の掩体などからの安定した射撃と連射時の命中精度向上を重視し、64式と同様に二脚を標準装備する。アルミニウム系軽合金製の二脚は64式のものと異なり、脱着が可能で、中央即応連隊のように式典時を含め、取り外している部隊も存在する。二脚は被筒部に畳んだ状態でも銃を保持しやすいよう、突起を少なくし、支柱部分はゆるく曲がった形状になっている。被筒部は前方にある止め軸を外すことで、左右に分離する。外した二脚は専用の収納袋に入れて携行する。

被筒部には放熱口が開けられている他、内部は金属部から熱が直接伝わるのを防ぐための隙間が設けられている。尾筒上面には薬莢受けなどの取り付けを考慮し、マウントが溶接されている。また、ダストカバーも備わっている。

照門部には左右に転輪が備えられ、左が射距離切替用、右が左右調整用となっている。射距離切替の左側転輪を一杯に回すと最大値まで上がった後に最低位置に戻る機構となっている[が、最小値まで戻す際は転輪を逆転させて下げるよう推奨している。これは、最大値を乗り越えてパチンと下がる動きを繰り返すと、金属疲労により調整機構が破損する事があるためである。64式の照門部は起立式で、作戦中倒れるという指摘を受けて、89式の照門部は固定式となった。また、夜間射撃用に「夜間概略照準具」が開発されており、照星と照門に取り付けて使用する。

握把は、プラスチック製の一体成型で、内部にはクリーニング用具や手入れ用オイルを収納するためのスペースが設けられた。下面の蓋は、実包の先端などを利用してロックを解除する事で開く。

銃の前部には89式多用途銃剣が着剣できる。消炎制退器内部は、M16などと同様にテーパ状になっており、奥には空包発射補助具取り付け用ネジが刻まれている。

銃床は64式のものと同様、頬当て部が大きくえぐられた左右非対称の形状となっており、視線を銃の中心に近づけて照準できる。床尾板はゴム製で、銃を保持した際に滑りにくくすると共に消音効果も生みだす。床尾後面には、やはり滑り止めを考慮したX型のリブが設けられている。

89式の尾筒左側面前端に「89式5.56mm小銃」との制式名の刻印が入り、その後方に銃番号・製造年月日・豊和工業のトレードマークが打たれている。なお、2000年頃より納入されている89式には「89R」の刻印が入れられている。

追加仕様
89式は、対テロ・対ゲリラ戦闘や海外派遣など近年の防衛方策の変化に伴い、使用する現場の要求と状況に合わせた改修が施されている。特に第34普通科連隊がアメリカへ訓練派遣されたことをきっかけとし、自衛隊では米軍式CQBを取り入れ始めた。その後、第16普通科連隊、普通科教導連隊と続き、それらの経験を踏まえて野戦一辺倒であったものから機動性に富むものへと、89式の運用方法に新たな方向性を決める事となった。以降、至近距離目標への射撃訓練や、密集隊形による小銃を振り回すような訓練、二脚の取り外し、民間メーカー協力による(制式化以前の)ダットサイトの導入など、それまで行われていなかった動きがみられるようになった。

89式は、自衛隊式の匍匐前進時の上面となる右側面に切換レバーを設けているが、イラク復興支援特措法に基づき、イラクのサマーワに派遣(自衛隊イラク派遣)されていた部隊では、左側にも切換レバーが付けられた。これは、他の自動小銃のように操作性を高めることに重点をおいた物ではなく、左手に持ち替えて発砲する際に右手で撃っているときと同じ程度の操作が行えるようにするための改修とされる。この改修は、イラク派遣における一時的なもので、任務終了時には改造指示書により、左方切換レバーは取り外された。
後に、市街地戦闘訓練で得た部隊からの改善要求に伴い、すべての89式に左方切換レバーの取り付けが正式に決まり、順次左方切換レバーの取り付けが始まっている。
この改造を、折曲銃床式の89式で行うと切換レバーと干渉して銃床が折りたためなくなるため、干渉を避けるための溝をつけたタイプの銃床の配備も同時に行われている。

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89式小銃用照準補助具

光学照準器(ダットサイト・低倍率サイト)
近接戦闘で素早く照準を合わせられる光学式の照準器。2000年代に入ってから陸上自衛隊や海上保安庁で使用されている。訓練を撮影した画像では、サイトロンジャパンのMD-33やAimpoint ABのCompM2もしくはML2、EOTechのEOTech551などが確認されている(これらは、隊員の自費や部隊単位で購入されたものである)。ダットサイトの取り付けに必要なレールマウントは、サイトロンジャパンやスイスのブリュッガー&トーメ社が販売している。
陸上自衛隊ではタスコジャパン(現:サイトロンジャパン)のMD-33や機種不明の官品ダットサイトをイラク派遣の際に採用しており、イラク派遣仕様の89式に取り付けられた。平成19年度予算からは、その後継となる「89式小銃用照準補助具」が調達されている。89式小銃用照準補助具用のマウントは、側面に薬莢受けやレーザー交戦装置(バトラー)用のレーザーを取り付けることが可能になっており、他のマウントのように、それらの装置と併用できなかったり、併用することでダットサイトの取り付け位置が変わることが無いように設計されている。2010年に確認されたものはマウント(ピカティニー・レールを採用)や本体の形状が変更されている。
調達は初年度のみ辰野株式会社からの購入で、以後は東芝電波プロダクツから購入していたが、22年度は辰野株式会社から購入している。
2013年にオーストラリアで行われたAASAM(Australian Army Skill at Arms Meeting)に参加した陸上自衛隊の部隊はピカティニー・レールを取り付け、ACOGを装備している。
また詳細は不明だが、東京スコープからG89と呼ばれる光学サイトが納入されている

赤外線レーザー照準具(JVS-V1)

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愛称 BUDDY
略称 89R
口径 5.56mm
全長 約920mm(固定銃床型) 約670mm(折曲げ銃床型)
銃身長 420mm
重量 3.5kg
作動方式 ガス圧利用
給弾方式 箱弾倉
発射速度 最大850発/分
製作 豊和工業

 

三式戦闘機二型「飛燕」6117号機

三式戦闘機二型「飛燕」6117号機

三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である。ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した、当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機である。防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮したが、防弾装備や燃料タンク等を追加した量産機では鈍重な戦闘機になり下がり、アメリカ軍に「もっとも食いやすい(つまりアメリカ軍にとっては攻撃し易い)戦闘機」という印象を与えている。基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。そこで星型空冷エンジンを急遽搭載した日本陸軍最後の制式戦闘機、五式戦闘機が生産された。

本機は、太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン装備機である。当時、同盟国であったドイツ国のダイムラー・ベンツ社製DB 601エンジンは、Bf 109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンであった。日本陸軍はこのDB 601をライセンス生産し、ハ40として三式戦闘機に搭載した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、本機の外形は水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身なデザインを持つ。開発者の土井によれば、出力が同じ場合、液冷戦闘機の抵抗面積は空冷戦闘機に比べて20%程度も減少し、速度は6%向上する。ただしラジエーターを要する分重量が増すのが欠点である。

その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、エンジンとのちに本機の一部が装備したMG 151/20機関砲以外はBf 109と全く別の設計である。機体設計は川崎設計陣が独自に行ったものであり、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエーター配置、主脚構造などがBf 109と大きく異なる。内部構造的には共通点が少ない。

1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示。キ60は1940年2月から、キ61は12月から設計が開始された。キ60は不採用となったものの、1941年(昭和16年)12月に初飛行したキ61試作機は最高速度591km/hを発揮し、総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。この数値は設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された。しかし、先行して試作され不採用となったキ60の経緯と同様、水冷エンジンに対する日本の生産能力と整備には問題があった。DB 601は日本の基礎工業力では生産や運用が難しい精密な構造のエンジンであったこと、また日本の整備兵は複雑で高性能な液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいものであったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強く悪影響を及ぼした。海軍では、DB 601のライセンス生産品であるアツタを採用し彗星艦上爆撃機を量産化していたが、同様にエンジンの不調による稼働率の低迷に悩まされた。さらに、陸軍で採用されたハ40系のエンジンは、量産開始後に陸軍からニッケルを使用材料から外す決定が下されるなどしたため、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。

は、量産開始後に陸軍からニッケルを使用材料から外す決定が下されるなどしたため、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。

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愛称・呼称
試作名称であるキ番号はキ61であった。制式名称である三式戦闘機という呼称は皇紀2603年(1943年(昭和18年)に制式採用されたことに由来する。制式制定は1943年10月9日。愛称は飛燕(ひえん)、部隊での呼称・略称は三式戦、ロクイチ、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」などがある。川崎社内では「ろくいち」と呼ばれたが、二型登場後は「いちがた」「にがた」と呼ばれるようになった。愛称の「飛燕」は1944年後半に発表されたとする文献もあるが、1945年1月16日付の朝日新聞の、本土防空に当たっていた飛行第244戦隊(後述)の活躍を報じる記事で発表されている。その記事では「その軽妙俊敏さは、あたかも青空を截って飛ぶ燕にも似ているところから「飛燕」と呼ぶことになった」としている。なお碇(2006)の資料によれば、1945年1月の時点で川崎航空機の年表に愛称が見られるともされる。また『世界の傑作機 陸軍3式戦闘機 飛燕』(1989年) では、高アスペクト比を持つ細長い主翼を持つ、独特のスタイルに由来すると解説している。連合軍におけるコードネームはTony(トニー)であった。これはアメリカではイタリア系移民の典型的な名前とされ、当初、アメリカ軍がさしたる根拠なく本機を日本の同盟国であるイタリア空軍のマッキ MC.202のコピー機と誤認したことに因んで名づけられた。本機の印象、特にファストバック型キャノピーがBf109に類似すること、および同系統のエンジンを搭載していたことから日本でも『和製メッサー』と呼ぶあだ名があった。

総生産機数
総生産機数は各型合わせておおよそ3,150機であるが、うち275機の機体が五式戦闘機(キ100)に転用されたため、三式戦闘機としての実数はこれよりやや少なく、2,875機前後となる。総生産数は諸説を列挙する。なお二型は通説では増加試作機30機および量産型374機が生産されているが、文献により413機+α機であるとする説もある。

片渕 (2007)によれば、各型・試作型合わせて3,153機。または+α。
秋本 (1999)によれば、3,148機だが、これより若干多めの可能性も示唆されている。
土井 (2002a)によれば、I型だけで2,750機。これにII型の8機と二型(II-改)の30+374機(五式戦闘機に改造されたものを含む)を加えると3,162機としている。
一般に中島飛行機の一式戦闘機が5,751機、同じく中島の四式戦闘機が約3,500機生産されたとされているので、その発動機の生産に多大な問題を抱えながらも、太平洋戦争世代の陸軍戦闘機としては第三位の生産機数を誇る(ただし九七式戦闘機も1943年までに通算3386機が生産されており、それも含めるなら四位である。なお、旧日本軍全体では海軍の零式艦上戦闘機が10,400機程度生産されており、これが一位となる)。

川崎は複数の工場を持っており、機体は岐阜工場、エンジンは明石工場で生産されていた。

1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。

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キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論で発生した語ともされる。しかし碇(2006年)の文献では、副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もあるなど、川崎側が発祥であるともされる。

土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べているまた、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える引き込み足式の、最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある。

木型審査は1941年6月に行われ[33]、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた。

エンジン
1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用した、先進的なエンジンであった。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった。

川崎の鋳谷社長が土井に語った談として、ヒトラーはこの購入に関し「日本政府として購入すれば50万円で済むのに」なる旨の言を発し、また日本の陸海軍は敵同士かと笑ったともされる。渡辺 (2006年)などによれば当時の陸海軍の反目がエスカレートしており、別々の購入に至った。また林(1994年)の文献によれば、海軍と陸軍は購入に関して別々に交渉を続けており、在ベルリン海軍事務所から在ベルリン日本大使館陸軍航空補佐官加藤敏雄中佐に、既に海軍側が制作権購入の交渉を始めたので手を引いてくれとの電話が有ったとの逸話が紹介されている。また碇 (2006年)の文献では、ダイムラーベンツ社が、道徳上同じ国に二度もライセンス料を払わせる訳にはいかないと一旦辞退を申し出たことが記述されている。

以上はライセンス購入に際し陸海軍の対立の定説として語られている顛末であるが、軍事史家である古峰文三は以下のような説を著述している。DB 600(601ではない)は、愛知がライセンスを購入したものの、愛知が陸軍にエンジンを供給することが許されていた。またDB 601については愛知・川崎とも1社のみで全軍に供給できるだけの生産力が期待できず、2社で生産に当たるのはやむを得なかった。2社で生産する以上ライセンス生産料も2社分支払うのが契約上当然であり、また他の発動機も陸海軍で共用している状況から、DB 601の経緯のみに注目して対立の根拠とすることはし難いとしている。

ライセンス生産にあたり、ドイツから日本に輸入されたのは離昇出力1,175馬力のDB 601Aaで、燃料噴射装置の特許を持つボッシュ社がライセンス生産を認めないなどのトラブルがあったものの、1940年12月、ハ40は完成を見た。量産型の完成は1941年7月、書類上では同9月である。

なお液冷エンジンを搭載したため機首が長く、地上での前方視界は良いものではなかったとする文献もある。

主翼
主翼は全幅12m、面積20m2、アスペクト比7.2という高い比率の翼形を採用した。当時の戦闘機はアメリカ軍の戦闘機P-51B型でアスペクト比は5.9、Bf109Eで6.0、零式艦上戦闘機は6.4であり、日本陸軍が運用していた他の戦闘機、一式戦闘機、二式単座戦闘機、四式戦闘機も6.0 - 6.08程度となっている。これらと比較して三式戦闘機の主翼はアスペクト比が高い。これは翼面荷重を低めるよりも翼幅荷重を低めた方が、高速性能・運動性能、および高々度性能を確保できるという土井の設計思想によるものである。長大な翼幅からくるロール性能の低下は、補助翼(エルロン)の設計でカバーした。なお翼面荷重は147kg/m2で、一式戦闘機(隼)の100kg/m2よりは大きいが、二式単座戦闘機(鍾馗)の171kg/m2よりは小さい値である。

またこの主翼の主桁は左右一体構造で作られた頑丈なものであった。当時、主桁はI型断面のものが多く用いられていたが、三式戦闘機のものは凵型のアルミ合金を二重にしたものを前後のウェブで上下に組み合わせ箱形としたもので、フランジ部は結合された主翼小骨のものも合わせて3重となっており、その上内部にもトラスが組み込まれると言う頑丈なもので、荷重試験では総重量2,950kgと仮定して主翼に15Gをかけても破壊されず、それ以降の試験を中止した。強度過大であることから性能向上のために主翼の軽量化が検討されたが、キ61は既に十分な性能を示していたために見送られた。三式戦闘機は当初計画の2,950kgから、最大で二型の3,800kgにまで総重量が増加しているが、この面での主翼の設計変更は必要が無く、生産が滞ることはなかった。なお、後方にはT型またはL型をした補助桁も設置されている。

また全幅の広い主翼を用いたことから、主脚のスパンは4.05mと降着に際して十分に安定したものであり、荒地での運用に耐えられるものであった。そのため胴体下部は引き込まれた主脚のタイヤと降着装置で占拠されることなく、燃料タンクやラジエーターの艤装が容易となっている。主翼は片側6本のボルトで胴体に取り付けられているが、これはFw190やP-51と類似した取り付け方法である。またこの部分は平らに整形され、将来機体に改造が行われて重心が変わっても、主翼位置の前後修正による重心位置調整が容易である。

なお開発時に、土井技師の不適切な対応もあり、急降下時に補助翼がフラッター(異常振動)で千切れ飛ぶと言う事故が発生しているが、無事着陸に成功し事なきを得ている。

胴体
三式戦闘機の胴体および機首は、日本では一般的かつ大直径の空冷星型エンジンを搭載した各種戦闘機と比べ、液冷エンジン搭載の利点が出たものとなった。全幅は840mmである。キ60より全高は100mm抑えられ、1360mmであった。こうした小型化は空気抵抗を減らして高速化に効果がある。機体の分割部分を減らし、生産性の向上とともに強度と軽量化の両立を図ったのも特長である。

胴体は4本の縦貫通材を骨組みの主材とした。ただしこれらは尾翼直前の第12円框で分離されており、一体構造ではない。この構造は生産性向上に役立ったとされる。本機は量産性にも配慮がなされ、主翼取り付け法も生産性を高めた他、飛行機の外形を作ってから工員が中に入り内装を行う従来の手順を改め、各モジュールを内部まである程度作り上げてから最終的に組み立てるシステムが取られた。機体構造はセミ・モノコック構造となっており、また発動機架は通常の鋼管で組み上げたものでなく、前方で胴体と一体構造、言わばモノコック形状ととなっている。これは一体構造の主翼と相まり、降下限界速度が850km/hまで許容されるなど、機体強度は非常に頑丈なものであり、また重量軽減にも貢献している。。土井によれば速度計は700km/hまでのものが採用された。ただし780km/hまで計測できたとの証言や、のちに1,000km/hまでの速度計に変えられたとの証言もある。この構造は重量軽減にも非常に有効だったともいわれる。設計主務の土井によれば、三式戦闘機が空中分解を起こした事例は一度もなかった。また真偽不明であるが、土井は同じ文献で、三式戦闘機が音速を突破したケースがあると耳にしたと著している。機体が頑強なことから、不時着も比較的行いやすかったと証言したパイロットもいる。

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キャノピーは日本軍機として珍しい形状を採用した。キャノピー後部と胴体が一体化した、空力学的に有利なファストバック方式が採られている。この型式は後方視界が制限され、空戦に際して見張り能力につき指摘される懸念があった。また前下方をのぞき見るための窓が設けられた。視界に関し、実戦部隊からとりたてて指摘はなかったとする文献と、あったとする文献がある。土井によればこのキャノピー形状と前下方をのぞき見るための窓はBf109からの流用である。なお大戦末期、おおよそ1944年12月以降に作られた機体、あるいは五式戦闘機に改造された機体については、日本で一般的な涙滴型風防に改められている。


三式戦闘機の航続距離は8時間以上、3,200kmを飛行可能であった。長大な航続距離で著名な零式艦上戦闘機に匹敵する飛行能力を持つ。燃料は、胴体内タンク、および左右各2つの翼内タンクに820リットルの燃料を収容し、さらに両主翼に200リットルの増槽を懸吊して総計1,220リットルの燃料を確保した。ただしこれは量産型では機体に755リットル、増槽を合わせて1155リットル搭載、航続距離は7時間40分または3070kmと、若干低下している。和泉(1994)では一型初期の燃料搭載量は増槽を含め935リットルとしている。なお増槽を懸吊すると最高速度が80km/hほど低下したという。

武装・その他

なお、川崎側の資料など、一般には試作機には最初からハ40が搭載されていたと言われているが、審査を担当した荒蒔義次らは、3号機までは輸入したDB 601Aaを搭載していたと証言している。また、ハ40を搭載した4号機からは過給器の不調が多かった。量産型第一号機は1942年8月に完成した。

日本陸軍では20mm機関砲の開発が遅れたために、武装は12.7mm機関砲ホ103を採用した。しかしホ103とて制式採用は1941年であり、この時期のホ103の信頼性には懸念が持たれており、採用は機首の2門にとどめ、主翼の2門は7.7mm八九式固定機関銃を装備している。燃料タンクは被弾に対して若干の防弾能力が付与されている。308機目までは3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで防漏しており、388機目までは上面9mm、側面6mm厚のゴムで覆われた。。量産機は1942年末までに34機、エンジンは65台が完成した。

飛行性能
試作時、三式戦闘機は最高速度・上昇力・旋回性の全ての比較領域においてBf109-Eを凌駕した。特に最高速度は30km/h優速であった。

1942年秋頃、福生で「戦闘機研究会」という名称の比較試験が行われた。内容は日本陸軍戦闘機および月光、雷電などの日本海軍戦闘機と、P-40E、ハリケーン、Bf-109Eなど諸外国機を集めて性能比較を行うものであった。キ61は速度の優勢のほか旋回半径の小ささで外国機に比べて勝り、格闘戦では有利と考え得るものであった。海軍側は三式戦闘機に関し、座席よし、舵やや重きも釣り合いよし、安定性よし、前方視界悪し、上昇悪し、急降下時は舵が非常に重いが座り・出足ともによし、と評価している。

三式戦闘機の操縦性には特筆すべき癖や問題はなかった。補助翼・昇降舵の操作にはロッド式が採用され、方向舵には操縦索(ワイヤー)式が採用されている。 1942年12月21日の「戦闘機研究会」または秋に福生の陸軍航空審査部で行われた陸海軍試作機の互乗研究会では、本機に試乗した海軍パイロットの一人が操舵系統の良好さに驚き、こんなに良くできた舵を持った飛行機に乗ったのは初めてだと、陸軍にその秘密を質問した。陸軍側はそれに答えられなかったが、同席していた土井の答えは、液冷戦闘機独特の縦に細長い長方形状の胴体形状が一番大きく影響しているのでは、というものであった。

本機の降下制限速度は850km/hと、非常に頑丈な機体である。軽量化を強く追求した零戦52型以前の機体は降下制限速度が670km/hであり、零戦52型甲でも740km/hである。

三式戦闘機は離昇出力1175馬力のハ40を搭載する戦闘機であり、1型甲の全備重量は3,170kgである。同質のエンジンを搭載するBf109Eを上昇力で凌駕すると説明する資料があるものの、大塚(2007)の文献中の表では、三式戦闘機は全備重量3,170kgで6,000mまでの上昇時間が8分30秒、Bf109E-7は2,540kgで7分30秒、Bf109Fは2,780kgで6分30秒となっている。出力不足は特に上昇力の不足となって性能に現れた。特に燃料満載状態では護衛するはずの爆撃機に劣る上昇力しか持たなかった。また上昇力の不足は、前述の「戦闘機研究会」で海軍側の指摘にも表れている。

 

 

 

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ハ140
1942年春から開発されたハ40改良型のハ140は、吸気圧をあげてエンジン回転数を2,500rpmから2,750rpmに高め、離昇出力を1,175馬力から1,500馬力に高めるものだった。過給器の大型化とその冷却のために水メタノールが導入された。三式戦闘機の場合は95リットルの水メタノールを搭載予定であった。80kg程度の重量増加のほか[162]基本構造はハ40と大差はなかった。航空審査部では、ハ40と比較してさして整備困難と見ておらず、1944年7月の航空審査部による報告ではハ40より信頼性があるとされている]。また航空審査部の2名の士官および下士官も少々の問題は有ったが整備しにくいと言うほどでもなく、大体もしくは十分に動いたと回想している。ただし川崎が航空審査部に精度良好な個体を回すのは当然であるし、ハ40の審査に加わった人物が目を光らせている状態であるのであるから、航空審査部で良く回るのはむしろ当然であろうとの見方もある。なお歴史群像編集部 (2010) では、量産性はハ40より更に悪化し、通常の1000馬力級空冷エンジンの5倍の工程数が必要だったという。この生産性の悪さが「首無し機体」の一因になったのではないかとしている。

実際の所は、好調なものは良く回ったのであるが、やはり従来よりのベアリングの焼き付き、マグネットギアの摩耗、点火栓側極の溶解、冷却水ポンプの不良、排気弁焼損などトラブルは多発、開発は行き詰まりを見せていた。弁の焼損は、隣接するシリンダー同士の熱膨張や歪みの干渉により弁座が歪み、特に排気弁を損傷させたものだという。ハ140は三式戦闘機二型に搭載される予定であったが、エンジンの完成台数は低調であった。このため二型の多くはのちに空冷エンジンを積んで五式戦闘機に改造されることとなった。ちなみにドイツでは、DB601は改良を重ね、DB603では離昇出力2000馬力を突破、1945年にはやはり水メタノール噴射を併用して2850馬力を出している。

なお日本陸軍は1944年以降、燃料不足のため、代用燃料として松根油などから抽出したアルコールをガソリンに混合するか単体で利用し軍用機を飛ばそうとしていた。通常の星型空冷エンジンにはあまりよいものではなかったが、航空審査部でのテストによれば、ハ140を搭載した三式戦闘機二型は、これを用いることでむしろ通常のガソリンよりも高い性能を示したという。

愛知で作られていたアツタもDB601を基とするエンジンである。これはハ40と異なる独自の発展を遂げ、離昇出力1,400馬力を発揮するアツタ32型が開発されていた。両社が独自に原型を発展させたために互換性は全くないが、1943年11月に軍需省が設立されるとこの発動機にも統一の目が向けられた。なお品質的には川崎のハ40系より愛知のアツタ系の方が良好であったとされる。エンジン統一にあたり、プロペラ取り付け位置や排気管の位置、重心の位置など問題点が列挙され、標準型エンジンは基本をアツタ32型とし、プロペラ軸や過給器をハ140に合わせ、水メタノール噴射装置を加えたものとなった。

ラジエーター
液冷エンジンに不可欠なラジエーターは幅約800mm、高さ約480mm、アンドレー式のものである。このラジエーターは胴体下部中央、すなわちパイロットのやや後方あたりに半埋め込み式として配置された。機体から外には250mmが露出している。キ60では上下式としたがこれは重量が嵩むため、三式戦闘機では固定式に改められた。ラジエーターは前方から見て、エンジン冷却水冷却部、潤滑油冷却部、エンジン冷却水冷却部と3つに分かれている。使用された冷却液は化学物質を混合しない通常の淡水であり、冷却するに際して約3.8kg/cm2に液を加圧し、沸点を125度として使用した。

土井は戦後、同じ箇所にラジエーターを配したP-51を見た時、その気流の処理の見事さに、さすがにアメリカの方が進んでいるとの感想を抱いた。また同時に、このアメリカ軍最優秀機と三式戦闘機のラジエーター処理がほぼ同様であったことは感無量であったともしているが、実際類似しているのは設置した場所だけで、構造や形状などは全く異なっている。なお、三式戦闘機における全空気抵抗の内、ラジエーターのそれは14%を占めていた。

飛行第78戦隊ではラジエーターの修理を多く報告しており、中でも油漏れが大きな問題とされた。まず前述のとおり水冷却器と油冷却器が一体構成であり、これを機外に降ろす作業が容易ではなかった。またオイルタンクはパイロットの足下にあり、これは寒冷地やそれなりの高々度では良い暖房になったが、南方の低高度ではコクピット内が相当に暑くなったようである。またこの水油同居形式のラジエーターは、空気取り入れシャッターで各冷却機構の能力を調整するものであったが、調整が難しく、油温の上昇、水漏れなどの不具合が続出した。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、しばしば配管の各所からオイル漏れが生じることとなった。なお、水冷方式である本機は地上待機状態であまりエンジンを回すと、すぐに水温が上がり冷却水が沸騰、圧力逃がし弁が開き、蒸気が排出される。これは「お湯を沸かした」などと言われた。またこの状態はオーバーヒートを起こしている状態であり、離陸は困難である。また飛行中に蒸気を通り越して冷却水そのものまで吹き出すようなトラブルも見られた。

 

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バリエーション
原型機 キ61
1941年12月製造、初飛行。試作3機、増加試作9機。以降は特記無き限り川崎航空機岐阜工場での製造。

一型甲 (キ61-I 甲)
1942年8月から1943年9月生産。最初の量産型である。 日本陸軍は航空機関砲の開発で遅れを取っており、1940年または1941年まで12.7mm航空機関砲を、また事実上1944年まで20mm航空機関砲を持たなかった。12.7mm航空機関砲の試作が決定したのは、1940年になってからのことである。このため1941年に制式化された12.7mm機関砲(ホ103 一式十二・七粍固定機関砲)は1940年に100門、1941年度に439門が生産されたがこの時点では数が不足しており、また信頼性もまだ高い物ではなかった、このため、機首に12.7mm機関砲2門と翼内に7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)2挺と言う装備になっている。 燃料タンクは防漏仕様で、初期には3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで覆っていたものが、421号機からは上面9mm、側面6mmのゴムに改められている。機体番号113から500まで、388機生産。

一型乙 (キ61-I 乙)
1943年9月から1944年4月生産。一型甲の翼内銃を12.7mm機関砲に換装、計4門に強化した型。当初計画ではこの砲の装備が正規状態である。514号機以降には操縦席後方、ラジエーターの上部に厚さ8mm、重量22kgの着脱式の防弾鋼板を追加した。一部燃料タンクには被弾時の危険性が指摘され、現場レベルでは撤去される例があった。空となった当該タンクにはさらに欠陥があり、飛行中に弁の不良で他タンクから燃料が流れ込み、機体の重量バランスを大きく狂わせた。また離陸直後の墜落事故についても、このタンクによる重量バランスの狂いが指摘された。よって乙型の14機目(514号機)からはこれを廃止し、燃料搭載量は755リットルから555リットルに減少。また、150機目(650号機)からは翼内タンクに12mm厚ゴムによる防弾が行われている。このため燃料搭載量は更に、500リットルに減少した。また引き込み式だった尾輪は生産性向上の為、途中から固定式に改められた。

生産数は約600機、或いは592機または603機、592機などと言われている。片渕(2007)によれば、『軍需省熊倉少佐資料』中の『陸軍機装備現況表』では機体番号は501から1092であるとされるが、『三式戦闘機取扱法』では翼内銃を12.7mmにしたのは514号機以降であると明記されていると(ただし、513号機(401機目)からの可能性もあると)している。ちなみに昭和18年度、陸軍による生産内示機数は6,760機と言う実情を鑑みない数値であったという。

一型丙 (キ61-I 丙)
1943年9月から1944年7月生産。翼内銃砲をドイツから輸入したマウザー砲(モーゼルとも呼ばれる)(MG151/20)に換装し、20mm機関砲2門と12.7mm機関砲2門の重武装にした型。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。陸軍では航空用20mm機関砲の開発が遅れていたため、ドイツから20mm機関砲を輸入した。数量は800門、弾丸40万発である。川崎内では「キ61マ式」とも呼ばれた。ただし重量増で飛行性能は低下している。

定説では既存の一型甲、一型乙からの改造機を含めて388機が一型丙となった。だが川崎において1943年に234機、1944年に153機、合計387機が生産され、現地改修機は存在しないとする資料もみられている。しかし前線の搭乗員の手記でも、現地改修が実際に行われたふしがあるとする証言もみられているほか、碇(2006)の文献では235機が新規生産で、400からそれを引いた百数十機が現地改造であろうとしている。その他にも改修機とは別に400機が川崎で生産されたとの資料もみられる。

なお一型乙の機体番号は514から1092が振られているが、一型丙には3001から3400が振られている。

一型丁 (キ61-I 丁)
1944年1月から1945年1月生産。武装を機首にホ5 20mm機関砲2門(弾数各120発[309])、翼内に12.7mm機関砲2門とした型。

輸入マウザー砲を全て使用した後も20mm機関砲の搭載が望まれたため、ようやく実用化の成ったホ103の拡大版である国産20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)を搭載した。弾丸の威力はマウザー砲に及ぶものではなかったが、全長が短いため機首に搭載でき、命中率はあがった。和泉(1994)p.39では発射速度と初速は遜色なかったものの、故障は多かったとしている。1943年11月頃、杉山元元帥が川崎の岐阜工場を訪れ20mm機関砲の搭載を要請したとする資料もある。

渡辺(2006)は、ホ5の搭載に関し、重量物を重心に近づけて機動性を確保し、また命中精度を確保する観点から(翼は捩れるなどするため命中率が劣る)、サイズの大きなマウザー砲では望めなかった機首に搭載したとしている[。

しかし他の文献では、本来マウザー砲と同様に翼内装備としたかったものが翼内に収まりきらず、やむを得ず半年をかけてホ5用の同調装置を開発し、機首に搭載したとされている。この同調装置とは、プロペラ圏内に装備された機関銃を発砲するに際し、自機のプロペラに弾頭が命中しないよう、プロペラが安全な位置にある時にだけ発射機構を機械的に連結する装置である。航空機黎明時代にはプロペラを強化し、多少弾丸が当たってもこれを弾き飛ばすなどしていたが、機銃が強力になるとこの方法は廃れた。20mm機関砲弾では弾頭内部の炸薬によりプロペラが吹き飛ぶ威力があった。20mm弾薬は海軍も危険としてプロペラ圏内への機関砲装備を容認しなかったし、世界的にも稀な部類ではある。1942年6月5日には土井により、翼厚の関係上主翼への搭載は不可能で、この部分の翼厚を100mm程度に再設計する必要があるとの報告がなされている。再設計と生産設備の転換自体は1週間で完了できる比較的容易なものであった。

武装変更に伴い機首の20cmの延長、榴弾の信管過敏による暴発対策で機首上面外板を厚いものに変更、これにより機体重心が前進したため後部にバラストを搭載し、主翼を4cm前方に移動している。また、胴体内タンクを95リットルで復活させた。このため燃料搭載量は595リットルとなった。

翼内から機首への大口径機関砲搭載位置の変更は、命中率向上と重量物の機体重心近くへの移設による旋回性能向上につながるものだが、実際は改造による自重にして約250kgの重量増加により飛行性能全般が低下している。高度6000mでの最高速度は590km/hから560km/hへ、上昇力は5000mまで5分31秒から7分程度へと低下している。なお、351機目から増槽架を100kg爆弾搭載可能なものにしたとする文献もある。

本型は機体に大改修を加えているため当初「三式戦闘機一型改(キ61-I改)」と称されたが、のちに「三式戦闘機一型丁(キ61-I 丁)」となった。計画では機体番号4001から4900までの900機の生産であったが、後継の二型が間に合わず、機体番号5354機までが生産された。生産機数は1,358機、または1,354機と最多である。

なお、「首無し」の機体は後述するハ140搭載の二型のものが有名だが、ハ40の徹底的な改良という要因により供給が不足し、I型についても1944年秋から首無しの機体が増えており、11月には最大の190機を数えていた。

キ61-II
1942年4月頃より計画され、エンジンはハ40の改良型であるハ140(離昇出力1,400馬力)に換装、主翼をホ5を内蔵できるように再設計、翼面積22m2のものとした。さらに垂直安定板を若干増積、胴体を42cm延長した。土井(2002b)によれば、機能の確実化と整備の容易化にも配慮がなされた。 武装はホ5 20mm機関砲を4門、またはホ5 2門に12.7mmホ103 2門を装備、最大速度640km/hを目指し、上昇限度は13,500mとなるはずであった。さらに30mm機関砲ホ155の搭載も検討されている。渡辺(1999)によれば、キ61とキ61-IIは遠目にはよく似ているが、近づいてみるといたる部分が異なっており、同一部分を探すのが困難な程だと言う。

1943年8月に試作器が完成・初飛行したが、エンジン、特に水ポンプの故障の頻発で実用化は遅延した。1943年9月から1944年1月までに試作機を8機生産したものの、空戦性能もあまり芳しくなく、8号機も完成こそ1944年1月とされているが、6月に至ってもやっと発動機空中試験を始める状況で、最終的に計画は中止された。なおエンジン出力の強化に伴いラジエーターも管長を250mmから300mmとし、冷却力を20%強化している。

二型甲(キ61-II甲)
1944年2月頃より計画が開始された。キ61-IIの主翼を一型丁のものに戻したもので、このため翼内武装も一型丁と同等のものに戻っている。なお、大型主翼を採用した理由とそれを元に戻した理由は資料が無く、よくわかっていない。従来の主翼にはサイズの問題で20mm機関砲ホ5が搭載できなかったが、これの搭載のために新たな主翼を用意した可能性のほか、飛行性能の向上のためとする説もある。碇(2006)は、大型主翼の飛行性能が悪く、速度向上の意味から元のものに戻したとし、渡辺(1999年)は、主翼大型化の効果があまり見られなかったためとする。歴史群像編集部 (2011) では、理由は明確に言及されていない。そのほか、主翼を元に戻した理由は古峰文三が以下の様な考察を行っている。当時の二型はエンジンの問題により全力を発揮した飛行試験が充分に行える状態ではないと推測され、比較により性能上の問題が露呈したとは推察しにくい。よって、単にホ5の供給不足により、新型主翼に生産を切り替えてこれを搭載する必要がなかったから元の主翼に戻したのではないか、とする説である。また秋本(1989)では、単に一型丁にハ140を載せて各部を改修した方が良いとのことになっただけとしている。

全備重量は355kg増加した。しかし速度は高度6,000mで610km/h、高度8,000mでも591km/hと向上しており、上昇性能も一型丁より改善を見た。また武装は一型丁と同等だが、機首の20mm機関砲ホ5の弾数が、各120発から200発へと増加した。また燃料タンクの防弾能力を強化したため、翼内タンクが合計265リットルから210リットルへ低下した。ハ140を搭載したこの機体は従来のものとは異なり、完全武装状態でも10,000mまで楽に上昇できた。なお二型機体は、航空審査部飛行実験部に所属する機体のほか、1944年11月ごろより[338]、片岡載三郎掛長(かけちょうまたはかかりちょう。現在で言うところの係長)を隊長とし、川崎航空機のテストパイロットで編成された川崎防空戦闘隊によっても一線部隊に先行して運用された。後者は一型機体と合わせ、1944年12月13日、1945年1月3日あわせB-29、B-25合計3機または4機の撃破を報告し、航空本部長から感謝状を贈られている。そのうちB-29 3機は片岡掛長による戦果である。

増加試作機が30機または36機生産された後、1944年9月より「キ61-II改」として量産が開始された。ハ140が順調に量産され、所期の性能を発揮すれば機体が高性能をあらわすことも可能であったが、機体こそ374機が完成したものの、ハ140に大きな問題が生じていた。生産は遅延し品質も悪かった。生産台数は44年7月に20台納入の予定が8台、8月には40台納入予定が5台、9月には1台のみが完成したに過ぎない[344]。こうした生産状況からは本機を実用機として戦力化することが極めて困難であった。航空審査部の担当名取智男大尉はハ140を生産している川崎の明石工場に通い詰め不具合を調査したが、性能の維持は不可能であり、これに乗って飛んでくれとは整備屋としてとても言えないと言った惨状であった。したがってキ61-II改の生産は100機程度で打ちきられた。これは整備条件の良い、内地の防空部隊に限って配備される予定であったという[345]。ちなみに二型の制式化は、生産の打ち切りが決定した後、間もない頃のことである。

結局、エンジンを搭載し完成機となったものは99機であったが、B-29による爆撃で機体が破壊され、最終的に軍に納入されたのは約60機程度という状況であった。この後、川崎はキ61-II改の生産を縮小し、四式重爆撃機を生産するよう指示された。結論としてエンジンの不調および生産遅延が三式戦闘機の大量生産を阻害した。なお、製造番号は5001以降が振られている。

半完成品となった三式戦闘機の残余である275機は「首無し」の状態で放置された。これらは後に空冷エンジンを搭載し、後述の五式戦闘機に改造された。定説では二型の機体の生産機数は374機、完成機が99機、5式戦闘機への改造機が275機である。だがこの数字には試作機の39機が入っておらず、また374機という数量には新工場である都城工場で製造された分が計上されていない。古峰によれば川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』「機体之部」では「374+」とされており、実数はやや多く機体生産がなされたのではないかとする説もみられる。

三式戦闘機二型は、エンジンが完調であれば性能自体は良好だった。土井によれば高度10,000mにおいても容易に編隊飛行が行えたと評価される。また本土でB-29の迎撃に当たった第55戦隊の隊員らも、古川戦隊長が故障は見受けられるが同条件ならP-51にも引けを取らないのではないかと評価したほか、旋回性能だけは一型に劣るが全体的に二型が上である、高度11,000mでも確実に飛行ができる、さらにはエンジンの故障も少ないと証言している。また明野の飛行学校で行なわれたテストでは、急降下性能は四式戦闘機、五式戦闘機を凌駕していた。五式戦闘機の登場後も二型が完全に捨てられたわけではなく、五式戦闘機で当座を凌ぎながら信頼性の向上を目指し、1945年6月に40機、7月に40機、8月に10機という補給計画が残されている同じく、機体を五式戦闘機に取られながらも、終戦直前まで少なくとも2個戦隊の充足・戦力化を目指し細々と生産が続けられていたとする文献もある。しかし同時に1945年7月には生産の完全打ち切りと五式戦闘機への完全移行が決定したともされる。

さらなる発展型として、キ61-IIに大口径砲を搭載する、すなわち、ハ140特エンジンに37mm機関砲をモーターカノンとして搭載する計画が存在した。これは古峰(2007)にキ61-II武強として紹介されているが、現在までのところ、ウィキペディア編集者には、他の文献ではII型についてこの呼称は確認できない。ただし三式戦闘機一型については、「陸軍現用試作機称呼名称一覧表」(1945年2月25日、陸軍航空本部)において、丙型と丁型の「区分」を「武強」としている例が有る。この機体の翼内武装は廃止され、他の武装は機首に20mmホ5が2門のみ装備された。のちにこれはキ88と呼ばれるものとなり、1943年6月には組み立ての開始が行える状態になったようだが、1943年9月、計画は中止された。また正式名称不明であるものの、性能向上型である三型には離昇出力1800馬力のハ240の装備が計画されていた。

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二型乙(キ61-II乙)
日本機研究の権威、レネ・フランクリン氏や秋元実氏の文献で二型甲の武装を20mm×4に強化した実験機として製造されたと紹介されている。ただし、三式戦闘機の薄い翼内にホ5が搭載できたかどうかについては諸説ある。(ただし、同じ20mmではマウザー製のものは搭載できた前例があることに留意すべきであるし、機関砲を覆うブリスターを設けて対応したという文献もみられる。)このため主翼が大型化して主桁から変更されているであろう当初の2型を用いているとの説もある。

三型(キ61-III)
生産性を向上させるため、風防をファストバック型から涙滴型に変更し、胴体後部の改良を加えたるという五式戦闘機一型乙と同じ措置をとったバージョン。1機が試作されたとされている。同様の措置をとった五式戦闘機は0.1065m全長が長くなり、121kg質量が増加している。また、風防の「合わせ」はあまりよくなく、隙間に大量のグリースを注入しておかねば、飛行時に操縦士は振動から来る轟音に襲われたとする資料もあり、気密性もあまり良くなかったようである。

五式戦闘機 (キ100)
五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを星形空冷エンジンに換装した戦闘機である。1945年(昭和20年)に制式採用された(制式採用されたか否かには諸説あり。詳しくは当該項目を参照)。 前述のとおりハ140の生産は遅延し、エンジン未装着の三式戦闘機が多数放置された。早急な戦力化のため、陸軍ではハ140に換えてハ112-IIを搭載することを計画した(日本海軍も同じく艦上爆撃機彗星のアツタエンジンに換えて金星62型エンジンを搭載している)。金星62型エンジン、陸軍名称ハ112-IIは星型空冷であるため、直径こそ121.8cmと大きいが、離昇出力1,500馬力を発揮するものであった。これは広く部隊に配備されている三式戦闘機一型丁のハ40が発揮する1175馬力より強力で、ハ140の1500馬力に匹敵した。またハ112-IIには水メタノール噴射装置も装備されていた。航空本部や土井技師は三式戦闘機の空冷換装を前向きに検討開始した。軍需省の意向や川崎航空機のエンジン部門の実戦化への努力等、空冷化に対して考慮すべき点があったものの、戦局と生産の観点から、1944年4月、航空審査部は川崎に対し内々に三式戦闘機の空冷化を依頼した。また上記二型の戦力化の失敗により、10月1日には正式に空冷化三式戦闘機・キ100の試作が命じられた。

三式戦闘機の840mmの胴体に直径1218mm、カウリングなども含めれば外径1280mmのハ112-IIをいかに収めるかは、ドイツより輸入されていたFw190 A-5の機首まわりの処理を参考とした。エンジンと機体の接続部に生じる段差は渦流を生じ大きな空気抵抗となるが、この部分にエンジンの推力式単排気管を設置し渦流を吹き飛ばし、最小限の整形のみで空気抵抗を低減する処理を施した。

1944年の12月末には換装のための設計を終え、試作一号機は翌1945年2月1日(または11日)に初飛行を行った。空冷化により前面投影量が増え、空気抵抗の増加により最高速度が580km/hとなった。これはキ61-II改より30km/hほど低下していた。しかし、空冷化による水冷装置の撤去など軽量化に伴い、上昇力は四式戦闘機を上回るものとなった。空戦性能は三式戦闘機を上回ると判定され、三式戦闘機一型丁と比較すれば最高速度においても凌駕した。窮余の策の空冷エンジンへの換装は大成功であった。

第59戦隊のパイロットたちも、三式戦闘機を装備運用した時期に比較し、五式戦闘機は敵新鋭戦闘機とも相当に善戦できると評価した。また何より、稼働率が大きく向上した。取り敢えずの戦力化・稼働率の向上に加え予想外の高性能を発揮したキ100は、2月には五式戦闘機として制式採用された。量産機第一号は2月に完成し、3月には36機、4月には89機、5月には131機が生産された。生産の停止した三式戦闘機二型に代わって陸軍の主力戦闘機となり、陸軍航空隊はこれを大歓迎する。だが米軍の空襲のため6月は88機、7月は23機にまで生産が落ち込んだ。8月に生産された10機をもって生産完了し、試作機3機を含め総生産数は390機または393機程度であった。ほか、生産機数は文献により諸説が存在する。

ただしハ112-IIはハ140より良く稼動したとされるが、やはり新型エンジンであり、信頼性が抜群であったと言うわけではなかった。1945年7月に五式戦闘機を装備した第59戦隊の稼働率が48パーセント、三式戦を装備した第55戦隊の稼働率が62パーセントとのデータもある。

本機の完全な現存機は日本国内に1機(三式戦闘機「飛燕」二型(キ61-II改))が存在するのみである。この機体は1944年に川崎航空機岐阜工場で製造された「飛燕」二型試作17号機である。戦争中、この機体は陸軍航空審査部所属であり、終戦直後に福生飛行場でアメリカ軍に接収され、のちに日本航空協会に譲渡返還されたものである。同機は戦後に大規模な修復を受けているものの、現在良好な状態で保存されている三式戦闘機としては世界で唯一である。この機体は、遊園地での展示や航空自衛隊岐阜基地での23年間の保管ののち、1986年からは鹿児島県知覧町に貸与され知覧特攻平和会館に展示されていたが、2015年9月に岐阜県各務原市にある川崎重工岐阜工場に搬入されて修復を受け、神戸市での展示を経て、2016年11月に再び各務原市へ戻って、かかみがはら航空宇宙科学博物館(増築・改装中)の博物館本館裏手の収蔵庫にて展示されており、2018年3月24日からは、同博物館の改築後の本館内で恒久展示される。

日本にはこのほか高知県沖の海中から引き上げられた機体が京都嵐山美術館にて、胴体前部と主翼桁のみと言う不完全な状態のものが展示されていたこともある。

また、オーストリア南部のワンガラッタ市の航空機復元会社に、川崎重工業の現役及びOB社員によるボランティア・グループが協力して飛行可能なように復元中のI型があるそれ以外では、ニューギニア島、チェンデラワシ湾の海底に残る機体と主翼の一部が水中写真家の戸村裕行によって撮影され、それが飛燕であると潮書房「丸」編集部の鑑定により発表されている。

2017年に入り、1970年台にパプアニューギニアのジャングルで発見されオーストラリアのコレクターが保有していた残骸がヤフーオークションに出品された。この機体は倉敷市の会社経営者が1500万円で落札し、11月30日に倉敷市にて引き渡された。

 

 

森ノ宮駅 大阪市高速電気軌道(愛称:Osaka Metro)旧大阪市交通局

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森ノ宮駅(もりのみやえき)は、大阪府大阪市中央区森ノ宮中央一丁目にある、大阪市交通局(大阪市営地下鉄)の駅である。

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大阪市営地下鉄の駅番号は中央線がC19、長堀鶴見緑地線がN20。中央線の車両基地が併設される運行上の拠点駅です。

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JR西日本の大阪環状線と、大阪市営地下鉄の中央線・長堀鶴見緑地線の合計2社局3路線が乗り入れている。JRの駅は特定都区市内制度における「大阪市内」に属する。JR西日本の駅シンボルフラワーは「パンジー」である。

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大阪市営地下鉄
中央線用に島式・単式の複合型2面3線のホーム、長堀鶴見緑地線用に島式1面2線ホームを持つ地下駅。改札口は本町寄りの西改札と長田寄りの東改札の2ヶ所。

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長堀鶴見緑地線ホームへは東改札のコンコースからのみつながっているため、西改札から同線ホームに向かうには中央線ホームを経由する必要がある。東改札切符売場の券売機は4台。すべて最新型のタッチパネル式に更新されています。

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2016年3月23日から、JR西日本、大阪市営地下鉄それぞれの改札内に、相手方の運行情報を表示するディスプレイが設置された。JR西日本設置のものは大阪市営地下鉄、大阪市営地下鉄設置のものはJR西日本、それぞれの内容が表示されている。

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当駅の所属は、阿波座管区駅で同副管区駅長が当駅と谷町四丁目駅を管轄する。PiTaPa、スルッとKANSAI対応各種カードの利用が可能である。

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長堀鶴見緑地線のコンコースは地上からの光が入るように設計されている。中央線の車庫である森之宮検車場が近接しているため、この駅を始発・終着とする中央線列車がラッシュ時を中心に設定されている。

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長堀鶴見緑地線の当駅のデザインテーマは「大阪城と公園」。

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のりば
番線 路線 行先 備考
中央線ホーム
1 C 中央線 長田・生駒・学研奈良登美ヶ丘方面 森ノ宮止・森ノ宮始発列車用
2 コスモスクエア始発列車用 
3 本町・阿波座・弁天町・大阪港・コスモスクエア方面

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長堀鶴見緑地線ホーム
1 N 長堀鶴見緑地線 京橋・門真南方面
2 心斎橋・大正方面
中央線の1番線ホームは日中使われないため、その間1編成が留置されている。

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駅周辺
駅西側はオフィスや公共施設が多く、東側は医療機関が集積し大規模団地もある。

大阪市営地下鉄 - 2016年11月8日の1日乗降人員は32,230人(乗車人員:16,102人、降車人員:16,128人)である。

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バス路線
かつて、大阪市営バスの森之宮東停留所が駅から約400m、東側を通る市道上新庄生野線(疎開道路)上にあった。赤バス(東成環状)の停留所だったが、2009年8月31日をもって廃止された。

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大阪市営地下鉄
1967年(昭和42年)9月30日 - 大阪市営地下鉄4号線(現在の中央線)谷町四丁目駅 - 森ノ宮駅間開通により同線の駅が開業。当初は終着駅だった。
1968年(昭和43年)7月29日 - 大阪市営地下鉄4号線が当駅から深江橋駅まで延伸、途中駅となる。
1996年(平成8年)12月11日 - 大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線の心斎橋駅 - 京橋駅間延伸により、同線への乗換駅となる。
2010年(平成22年)11月8日 - 長堀鶴見緑地線ホームで可動式ホーム柵の使用を開始。
2011年(平成23年)2月12日 - 不発弾処理のため、西改札やそれにつながる出口を閉鎖する。

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所属事業者 大阪市交通局(大阪市営地下鉄)
駅構造 地下駅
ホーム 2面3線(中央線)
1面2線(長堀鶴見緑地線)
乗車人員
-統計年度- 16,102人/日(降車客含まず)
-2016年-
乗降人員
-統計年度- 32,230人/日
-2016年-
開業年月日 1967年(昭和42年)9月30日
乗入路線 2 路線
所属路線 C 中央線
駅番号 C19
キロ程 12.4km(コスモスクエア起点)
◄C18 谷町四丁目 (1.3km)(1.2km) 緑橋 C20►
所属路線 N 長堀鶴見緑地線
駅番号 N20
キロ程 7.9km(大正起点)
◄N19 玉造 (1.0km)(1.1km) 大阪ビジネスパーク N21►

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