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北大阪急行電鉄9000形電車

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北大阪急行電鉄9000形電車(きたおおさかきゅうこうでんてつ9000がたでんしゃ)は、北大阪急行電鉄の通勤形電車である。ポールスター II (POLESTAR II) の愛称がある。


基本情報
製造所 近畿車輛
製造年 2014年 -
製造数 40両(2017年4月現在)
主要諸元
編成 10両編成 (4M6T)
軌間 1,435 mm
電気方式 直流750V第三軌条方式
最高運転速度 70 km/h
設計最高速度 95 km/h
起動加速度 2.8 km/h/s
減速度(常用) 3.5 km/h/s
減速度(非常) 4.5 km/h/s
車両定員 先頭車128人 中間車138人
全長 18,200 mm
全幅 2,800 mm
全高 3,745 mm
車体材質 ステンレス鋼
台車 モノリンク式ボルスタレス台車
主電動機 全閉式永久磁石同期電動機
主電動機出力 170kW
歯車比 103:14 (7.357)
編成出力 2720kW
制御装置 IGBT素子VVVFインバータ制御

 

2020年度開業予定で計画されている新箕面駅(仮称) - 千里中央駅間の路線延長に備えて車両の増備が必要となったため、「お客様への静かなやすらぎ空間の提供とさらなる環境性能の向上」を開発コンセプトに、第1編成が2014年4月28日に、続く第2編成が2015年2月2日に、マイナーチェンジされた第3編成が2016年2月27日に、第4編成が2017年4月28日にそれぞれ営業運転を開始した。

全密閉高効率主電動機、前照灯を含む全ての照明機器をLED化といった最新技術を積極的に採用しつつも、同社で従来から運用されている8000形で採用している木目調の化粧板やゴールデンオリーブ色のシートなど、親会社の阪急電鉄譲りの北大阪急行電鉄の伝統も踏襲している。

機器
主電動機には定格出力170kWの永久磁石同期電動機 (PMSM) を採用している。

制御装置は主回路に2レベルのIGBTを採用し保守性の向上を図っている。

加速度は8000形より落とされて2.8km/h/sであるが、定加速度領域を上げているため、8000形とほぼ同等の所要時分での運転が可能である。また、8000形と異なり、設計最高速度は95km/hとなっている。

外観
8000形ではアルミニウム合金の構体だったが、9000形は2000形以来のステンレスとなり、塗装の必要がなくなった。また、レーザー溶接工法の導入によって、外板と補強材が連続溶接可能となり、従来のスポット溶接より強度向上が図られた。

前照灯にはLEDを搭載し長寿命化を図った。また、前照灯の位置を8000形よりも上部に設置することで、従来よりも照射距離が伸びた。

行先表示器は8000形では方向幕であるが、9000形では前面・側面ともにフルカラーLEDを搭載している。ただし、大阪市交通局30000系電車で行っている側面の号車表示は省略されている。

3次車はデザインが大幅に変更された。外観は、緑地公園以北の沿線風景として馴染みがある「竹林」をテーマとし、色彩は沿線の文化的なイメージを重視し、側面上部に「菊炭色」、側面窓周りには濃いマルーン系の地色に竹柄のグラフィックとグラデーションをアレンジし、腰部は8000形「ポールスター」でも馴染みのある「マルーン」・「アイボリー」・「レッド」の3色を組み合わせている。また、先頭部は「マルーン」をベースとした配色でまとめている。

車内
内装
車内は8000形と同様にロングシートが採用され、木目調の化粧板やゴールデンオリーブ色のシートも踏襲されている。従来の車内照明には通勤車両として初めて調色・調光可能なLED照明を導入し、季節や時間帯によるシチュエーションに応じたやすらぎ空間を演出する。8000形からの改良点として、座席の仕切り板の大型化と握り棒の増設、側扉への開閉予告ランプの設置、ドアチャイムの自動化、車いすスペースの大型化が行われている。第3編成から、車内を出来るだけ広く見せるために、座席中間のスタンションポールを取り、荷棚の先端をつかみやすい形状とするなど、設備が一部変更された。

車両間の貫通扉には自動扉を採用しているが、8000形とは異なり扉の外側にある押ボタンを押すことで扉が開く仕組みとなっている。

8000形では8006FにLED式車内案内表示装置が千鳥配列で搭載されているが、9000形では各ドア上にはLCD型車内案内表示装置を搭載しており、15インチのLCD2画面と横長のLCD1画面(コイト電工の「パッとビジョン」)を交互に配置することで全てのドア上に車内案内表示装置を設けている。15インチのLEDは、IPコア「Sesamicro(セサミクロ)」を採用した大阪市営地下鉄30000系とは異なり、「パッとビジョン」に準じた表示内容となっている。

運転台
8000形ではマスコンとブレーキが独立した2ハンドルとなっていたが、9000形では阪急に準じ、御堂筋線を走る車両で唯一ワンハンドルとなっている。

8000形は速度計に大型7セグメントディスプレイが採用されていたが、9000形では一般的な指針式速度計となった。

従来個別に設置していた機器モニタリングシステムと運行情報記録システムを車両モニタ装置として1つに統合することで、機器のスリム化を図った。


トヨモータースT9型(90cc 1954年)

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ほかにトヨモーター T8 - 1954年発売。2サイクル水平単気筒88cc。60ccのT6もあった。

トヨモータースは社名の「トヨ」はトヨタにあやかって付けられたものだが資本関係はない。
ただし販売は日新通商(後の豊田通商)との提携によってトヨタ自販の販売網を
通じて全国販売されており、事実上はトヨタグループの一員であった。

 

青倉駅(JR西日本)播但線

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青倉駅(あおくらえき)は、兵庫県朝来市物部字前田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。駅周辺には農村地帯が広がっています。

駅構造
和田山方面に向かって左側に単式ホーム1面1線を持つ地上駅。待合室のみの簡易駅舎です。福崎駅管理の無人駅で、ホーム入口付近に待合所程度の簡易駅舎があるのみ。

播但線の途中駅では唯一行違い設備のない棒線構造のため、同一ホームに和田山方面行きと寺前方面行きの双方が発着する。

かつては貨物の取扱も行われていましたが、現在は利用客も少なく、典型的なローカルです。

駅前は駅舎に比べ広いスペースがあります。

駐輪場も立派です。

待合室には椅子が少しとゴミ箱が設置されています。

駅周辺
青倉神社
クラインガルテン伊由の郷

利用状況
「兵庫県統計書」によると、2016年(平成28年)度の1日平均乗車人員は52人である。


1934年(昭和9年)8月10日 - 国有鉄道播但線の新井駅 - 竹田駅間に新設開業。旅客と小手荷物のみの営業。
1949年(昭和24年)9月15日 - 貨物の取扱を開始。
1960年(昭和35年)12月15日 - 貨物の取扱を廃止。
1973年(昭和48年)4月1日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。

 

所属路線 J 播但線
キロ程 55.6km(姫路起点)
電報略号 アオ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
乗車人員
-統計年度- 52人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1934年(昭和9年)8月10日[1]
備考 無人駅

米軍 M240機関銃

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M240機関銃
M240機関銃(M240きかんじゅう、M240 Medium Machine Gun)は、アメリカ軍で使用されている、7.62x51mm NATO弾を使用する中量級の汎用機関銃である。

基本的には、NATO加盟国軍が採用しているFN MAGをアメリカ軍向けに改修設計したもので、他の機関銃と違い、まず同軸機銃として採用され、後に歩兵用に採用されたという経緯を持っている。

1970年代から使用され始め、歩兵部隊、戦車の同軸機銃、車両・ヘリコプター・舟艇への搭載用まで幅広く運用されている。中量級の機関銃としてはもっとも軽く、高い信頼性を持っている。また、結果的にNATO諸国との火器の標準化を果たしたこととなり、これらの点が高く評価されている。

M240の制式名はシリーズ全体を識別するために割り振られている。しかし、この他にも特殊モデルや同軸機銃モデルが存在する。多数の派生型が運用に就いているが、大まかには次のように分類される。

M240
1977年に陸軍が戦車の同軸機銃として採用した。このバージョンはFN MAGの改修型であり、それまでのM60E2やM73A1(M219)などの従来の同軸機銃(MG3やAA-52の同軸機銃バージョンも含む)を置き換えた。1980年代には、M1エイブラムス戦車の同軸機銃として採用された。
M240E1
1980年代に海兵隊が装甲車搭載機銃として採用した。ピストルグリップにかわりスペードグリップを持ち、銃床は装着されない。
M240B
1991年から陸軍が地上戦用として配備し始めたバージョン。反動吸収バッファと前部過熱ガード(ヒートシールド)を装備している。M60を始めとする他の軽機関銃を置き換えるために採用された。
M240G
1994年に、M60に代わり海兵隊が採用し始めたバージョンで、歩兵が携行する他、車両搭載用としても採用された。
すべてのモデルは、射撃直後に自動分解する金属製M13 リンクにより7.62x51mm NATO弾(通常弾、曳光弾、徹甲弾など)を給弾する方式となっている。これらの派生型は全て機関部が共通となっており、重要パーツすら他のモデルやNATO加盟国のFN MAG(またはその派生型)と交換が可能になっている。これらのモデルとM240の主要な相違点は、重量と若干の特徴(反動吸収バッファなど)である。製造は、武器に関して長い歴史を持つFN社の、アメリカ子会社で行われている

発射手順
発射可能にするには、まず装填ハンドルを手前に引いて遊底(ボルト)を後部に固定し、安全な場所に置いた後で装填ハンドルを前に押し出す。その後で給弾カバーを開き、給弾トレイに弾薬ベルトを載せる。給弾カバーを閉じれば発射可能となる。

射撃が終わったあと、携行のためM240をクリアにするためには、遊底を後部に固定し、安全な場所に置く。給弾カバーを開け、もし給弾ベルトが残っていれば給弾トレイから外し、弾薬が薬室に残っていないかどうか、給弾トレイと遊底の前面を目視で確認する。トレイ上に給弾リンクや空薬莢が残っていれば撤去する。

もし不幸にも遊底の先端に実包が見えた場合は、清掃用ロッドか堅いものでゆっくり叩きながら実包を取り外す。もし薬室に実包が残っている場合、かつ、銃身が加熱している場合には、射手はすぐに銃から離れ、実包を取り出すことができるかどうか検討し、可能であれば銃身がじゅうぶんに冷えるのを待ってから実包を取り外す。この手順を省き、給弾カバーを開けたまま銃身を交換しようとすれば、弾薬がすぐに撃発する原因となり得る。

実包を取り除いたあと、一度引き金を引いてから、装填ハンドルを手前に引く。これで、安全な状態となる。

これらの手順は、確認漏れの場合などに実弾発射の原因となるので、銃身が安全な方向を向いている状態で作業しなければならない。

発射速度の変更
発射速度は3段階に調整できる。初期設定では750発/分となっている。他の二つの設定は100発/分と、850-950発/分である。これらの設定は、まず銃身を取り外し、ガス調整弁を取り外し、レギュレーターを回すことで変更可能である。作戦中に設定を変更することは望ましくないので、作戦実行前に調整すべきである。

銃身の交換方法
銃身は非常に素早く交換できる。左側に銃身交換ボタンがあり、M240をクリアにした後、交換ボタンを押す。銃身は機関部から外れ、中程から右側に動く。ここでボタンを離し、機関部から外れた銃身を、キャリングハンドルを使って手前に引き抜く(キャリングハンドルは銃身に直接付いている)。次に新しい銃身を差し込んで機関部にセットし、キャリングハンドルを右に倒して定位置にロックする。

発砲が長時間におよんだ場合、むき出しの皮膚と銃身が触れないように気をつけなければならない。銃身は熱くないように見えても、第二度のやけどを起こすのに十分な熱をもっていることがある。このような銃身は暗視装置で見た場合、誰にでも明るく輝いて見える。

種類 軍用機関銃
製造国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
設計・製造 FNハースタル(設計・製造)
USオードナンス(製造)
仕様
種別 汎用機関銃
口径 7.62mm
銃身長 627mm
使用弾薬 7.62x51mm NATO弾
装弾数 ベルト給弾式
作動方式 ガス圧利用(ロングストロークピストン式)、ティルティングボルト、オープンボルト
全長 1,245mm
重量 12,500g
発射速度 650-950発/分
銃口初速 905m/秒
有効射程 800m(二脚)
1,800m(三脚)
3,725m(最大射程)
歴史
設計年 1958年
製造期間 1977年-
配備期間 1977年-
配備先 アメリカ軍
関連戦争・紛争 湾岸戦争
イラク戦争
アフガニスタン紛争

 

113系 JR四国譲受車 クハ112形(JR四国)

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JR四国には分割当時、111系のみが配置されていたが、それらの老朽取替えにあたり、1999年にJR東日本で廃車となった0'番台4両編成3本12両と、部品提供車として車籍の無い3両が譲渡された。当初は自社形の6000系増備が計画されていたが、資金難などを理由に増備されることはなかった。


譲渡車は、部品提供車1両(クハ111-507)が幕張電車区所属車である他はすべて東海道本線および伊東線で使用されていた国府津電車区の所属車であり、一部はロングシート改造車も含まれていたが、JR西日本の体質改善40Nリニューアル工事が利用客から好評であったことから、各部にそれに準じた徹底的な更新が実施された。内装材の交換、座席の転換クロスシートへの交換などの内装関係と補助電源装置の静止形インバータ化とこれにともなうパンタグラフの2基化などの機器関係の更新、窓サッシの黒色化、雨樋形状の変更が行われている。


JR西日本車と異なり前面にも改造が加えられ、前照灯および尾灯形状が角型のものに変更され、種別・行先表示器部分にも前照灯2灯が増設。行先表示器は貫通扉下部に移設された。また乗務員保護のために窓下の鉄板が厚くされ、内部に衝撃吸収材を埋込むと同時に、貫通路部分の窓が拡大されている。一方で、窓枠は種車のものが再利用されたため、銀枠とはなっていない。また、四国のモハ110形や6000系と同様の方式の中間車乗務員室がモハ112形に設置されたことなどもあり、座席数は西日本のリニューアル車より少ない。中間乗務員室は6000系よりも若干広く取られている。


1両に片側3箇所あるドアには1つずつ、合計で3つの、それぞれ違う音が3回鳴るドアチャイムが設置された。それぞれの音には、ずれがあるため、乗務員がドア操作をした場合は混ざってずれた音が3回鳴る。
従来111・113系の制御車はクハ111形であったが、新形式のクハ113形(元クハ111形0番台)・クハ112形(元クハ111形300番台)が与えられ、中間車のモハ113・112形も旧番を踏襲せず、それぞれ1番から付番された。113系モハの1・2番ユニットはJR西日本に、モハの3番ユニットはJR東海にそれぞれ承継されていたが、1・2番ユニットは当時高速化改造を受け-5001と-5002に改番されており、また3番ユニットはすでに廃車となっていたため、車番の重複は発生していない。


第1・第2編成は2000年、第3編成は2001年から営業運転を開始した。全車が高松運転所に在籍し、高松近郊の予讃線・土讃線を中心に運用されている。かつては本四備讃線(瀬戸大橋線)・宇野線でも運用され、JR西日本管内で運用された時はドアは季節に関わらず自動であった。
また、本系列は予備車を保有していないため、故障・検査時は121系4両(2両+2両)が代走する。ただしかつて運行されていた、岡山 - 観音寺間およびその列車の運用に絡む予讃線・土讃線の普通列車には必ず本系列が充てられていた。これは、121系はトイレが非設置かつ側窓が上昇式であることから、規定上、瀬戸大橋の海上区間では営業運転できないためである。
2013年3月より、第3編成が「瀬戸内国際芸術祭」の作品として荒木経惟による『エロス(生)とタナトス(死)の共存』をテーマとしたラッピング車両として運転され、2016年3月19日に運転を終了した。
JR四国リニューアル色


111系の代替としてJR東日本からJR四国に譲渡された車両に施された塗色である。編成毎に配色が変えられており、現在は、空色+緑、ピンク+赤、黄色+オレンジの3パターンが存在している。
JR四国では民営化後にJR東日本から3編成12両が譲渡され、以下の路線で使用されている。
予讃線 高松 - 伊予西条間(観音寺 - 伊予西条間は1日1往復のみ)
土讃線 多度津 - 琴平間(ただし2017年11月時点で同区間での定期運行は無い)

竹田駅(JR西日本)播但線

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竹田駅(たけだえき)は、兵庫県朝来市和田山町竹田字中町西側にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。旧和田山町の南に位置し、駅裏手の山には、中世の山城としては日本屈指の規模を誇る竹田城址があります。

特急「はまかぜ」のうち、1号・4号が通年停車するほか、竹田城址の開山時期には3号・6号が臨時停車する。また、臨時列車「天空の城 竹田城跡号」も停車する。

駅構造:白壁の木造駅舎です。観光案内所が入居しています。
単式ホーム2面2線を持ち、交換設備を備えた地上駅。

かつては単式・島式の複合型2面3線のホームを有していたが、現在では中央の1線が外されて、2面2線となっている。

一線スルーではなくY字分岐の配線で、ホームは上下線で別になっている。委託の窓口が営業しています。

重厚な造りの木造瓦葺きの駅舎が、現役で使われ続けている。その駅舎は元々単式であった寺前方面行きホーム側にあり、反対側の和田山行きホームへは跨線橋で連絡している。なお、簡易委託駅(福崎駅管理)のため、早朝と夕方以降は無人となる。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 J 播但線 上り 寺前・姫路方面


2 下り 和田山方面

古いながらよく手入れされている駅舎内の待合室には造り付けの長椅子が設置され自販機やコインロカーもあります。

駅周辺
立雲峡
竹田城跡
円山川
国道312号
但馬銀行竹田支店
但馬信用金庫竹田支店
俵米神社
金梨山
寺町通り
えびす橋


路線バス
全但バス

山口・生野駅裏・建屋
和田山駅・八鹿駅
和田山病院
竹ノ内・白井
天空バス(山城の郷・竹田城跡)

かつては急行「但馬」の一部が停車しており、同列車の廃止後は長らく普通列車のみの停車となっていたが、竹田城跡への観光客増加により2012年度より竹田駅の利用客が増加していることから、2013年4月27日から6月30日までの土日祝日に特急「はまかぜ」が下り2本、上り1本臨時停車することとなり、臨時停車と同時に全但バスが周遊バス「天空バス」の運行を始めることとなった。

その後も利用が好調なことから、現在では竹田城跡山開きに合わせて3月下旬から11月末まで毎日、特急「はまかぜ」1号・3号・4号・6号の臨時停車と「天空バス」の運行が実施されており、2015年からは和田山 - 寺前駅間で観光列車「天空の城 竹田城跡号」が運行開始され当駅に停車する。前述のように、2016年春のダイヤ改正からは、「はまかぜ」1号・4号が通年停車となり、引き続き「はまかぜ」3号・6号の臨時停車も継続されている。

利用状況
「兵庫県統計書」によると、2016年(平成28年)度の1日平均乗車人員は173人である。

1906年(明治39年)
4月1日 - 山陽鉄道の新井駅 - 和田山駅間の延伸と同時に開業。旅客・貨物の取扱を開始。
12月1日 - 国有化により官設鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1963年(昭和38年)3月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1973年(昭和48年)4月1日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。
2016年(平成28年)3月26日 - はまかぜ1号、4号が竹田駅に通年で停車を開始し初めて定期運転の特急停車駅となった。


所属路線 J 播但線
キロ程 59.9km(姫路起点)
電報略号 ケタ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 173人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1906年(明治39年)4月1日
備考 簡易委託駅

野外通信システム 自衛隊

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野外通信システム
野外通信システム(やがいつうしん-、英語: Field Communication Infrastructure、Field Communication System、FC net)は、陸上自衛隊の通信システムの一つ。試作段階では新野外通信システムと呼称されてきた。
開発は技術研究本部(現防衛装備庁)、製作はNECが行っている。
略称は「野通(やつう)」。

概要
戦略階梯(方面隊)で用いられてきた方面隊電子交換システム(AESS)、作戦術階梯(師団・旅団)で用いられてきた師団通信システム(DICS)、戦術階梯で用いられてきた地上無線機・野外無線機(85式および新野外無線機)を一括して更新するシステムとして開発された。平成19年度から平成22年度にかけて試作が行われ、平成21年度から平成23年度にかけての技術試験及び平成22年度から平成23年度にかけての実用試験を経て、平成24年度に装備化、同26年度より整備が行われている。開発試作総経費は168億円。なお野外通信システムは平成16年度から試作を、平成18年度から翌年度にかけて所内試験を実施した「統合無線機の研究」の成果を反映させている。

周波数としてはHF・VHF・UHFが用いられる(ハンドヘルド型はVHF・UHFのみ)。通信プロトコルにはInternet Protocolが採用されており、モバイルアドホックネットワークの技術により、迅速に高速かつ広域にわたる通信ネットワークを構成可能とされている。初動対応時には、部隊間では広帯域多目的無線機のみ、あるいはアクセスノード装置と広帯域多目的無線機の間でネットワークが形成され、基地・中央との通信は民間通信事業者や衛星通信システムを通じて確保される。その後、より大規模な部隊が展開する本格的対応時には、指揮所には指揮所用ネットワーク装置が設置されるとともに、ノード中継装置やバックボーンノード装置、整備支援装置やネットワーク管理装置によって独自のネットワークインフラが構築される。なおオペレーティングシステムとしては、情報処理端末にはMicrosoft Windows、携帯情報端末にはAndroidが採用されている。

システム内の無線通信端末として開発された広帯域多目的無線機(略称: 広多無(コータム))は、その名の通り、周波数帯域としてはHF・VHF・UHFに対応し、また音声通信とデータ通信のいずれも可能となっている。NECが開発していたソフトウェア無線技術が採用されており、所要のソフトウェアを使用することで、3自衛隊間およびその他の部外関係機関との直接通信が可能となっている。ソフトウェア無線機規格としては、アメリカ軍が統合戦術無線システム(JTRS)で採用したのと同じSCA(英語版)が採用されている。可搬通信速度は11Mbpsで、これはIEEE 802.11bに相当する通信速度である。

今後の展開
陸上自衛隊の指揮統制システムをソフトウェア化して野外通信システムに搭載することで、指揮階梯から第一線部隊まで情報の共有を可能とし、海自・空自・米軍との秘匿情報の共有も可能とする研究が行われている。

具体的には師団等指揮システムと基幹連隊指揮統制システムのサーバ装置(計算機室装置・中央処理装置)やPDA(携帯II型)・GPS(自己位置評定装置)が、ノード装置や広帯域多目的無線機(携帯用I・II型)に置き換えられ、前者が有していた計画や命令・共通メッセージ(メール)・部隊配置・地形や気象・敵情報等の情報授受の機能が、ソフトウェア化された上で後者へ搭載される。これにより先述の効果以外にも師団等指揮システムや基幹連隊指揮統制システムを新たに購入する必要が無くなり、またその分増備される野外通信システムも量産単価の低減に繋がり、情報共有による機能強化とコスト削減の両立が可能となる。なお対空戦闘指揮統制システム・火力戦闘指揮統制システムについては、システム・装備双方に野外通信システムが搭載される予定であり、これにより同様の情報共有による機能強化の効果が得られる。

この研究は平成25年度に「野外通信システムのフォローアップ」(72億円)の名で概算要求を提出したが、予算不足等を理由に取り下げられている。ただし研究の一部が別事業として、平成25年度から平成28年度までに将来的に野外通信システムの広帯域多目的無線機と海上自衛隊の艦船部隊のソフトウェア無線機と航空自衛隊の高射部隊のソフトウェア無線機との間で音声秘匿通信を可能とし、島嶼防衛や弾道ミサイル防衛の効率化を実現する「広帯域多目的無線機への機能付加(統合通信)の研究」(10億円)が行われている。その後、平成26年度には「野外指揮・通信システム一体化技術の研究」(58億円)と名称を変更したものが承認され、平成26年度から平成29年度までに運用実証型研究として「野外指揮・通信システム一体化技術の研究試作(運用実証型研究)」(総経費80億円、内26年度予算58億円)が行われる予定である。続いて平成27年度には「野外指揮・通信システム一体化」(20億円)の名で予算が承認された。

構成
ネットワークインフラ
バックボーンノード装置
アクセスノード装置
ノード中継装置
ネットワーク管理装置
運用管理装置
セキュリティ装置
整備支援装置
ユーザネットワーク
広帯域多目的無線機
機上用 JARC-Z100/310…全幅:約600mm、全高:約195mm、奥行き:約390mm、重量:約42Kg、電源:DC28V
車両用 JVRC-Z200…全幅:約210mm、全高:約280mm、奥行き:約280mm、重量:約17Kg、電源:DC24V
携帯用I型(マンパック型) JPRC-Z100…全幅:約250mm、全高:約470mm、奥行き:約275mm、重量:約5.5Kg、電源:DC14.8V
携帯用II型(ハンドヘルド型) JPRC-Z10…全幅:約80mm、全高:約200mm、奥行き:約30mm、重量:約0.6Kg、電源:DC7.2V
指揮所用ネットワーク装置
多重化装置
端末接続装置
信務処理装置
LAN延長器(無線/有線)
端末装置
データ端末装置
無線LANアダプタ
電話端末装置

国重要文化財:本庄水源地堰堤水道施設・本庄ダム

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国重要文化財:本庄水源地堰堤水道施設・本庄ダム


1918年(大正7年)、大日本帝国海軍呉鎮守府の軍用水道「呉鎮守府水道」の水源地(貯水池)として築造された。1999年(平成11年)5月13日に、稼働している水道施設としては日本で初めて重要文化財に指定された。

指定名称は「本庄水源地堰堤水道施設」で、ダムのほか丸井戸・量水井・天端に続く階段が指定されている。ダム湖「本庄貯水池」としてダム湖百選に選出されている。

取水施設も含め2013年現在現役利用されており、ここから呉市中心部の宮原浄水場へと水が送られている。

ダムの左岸側は海上自衛隊呉地方隊敷地であり、2010年3月26日に閉所した「呉焼山送信所」跡地が存在する。右岸側は2003年9月に休止した「本庄浄水場」になる。

また呉市における桜の名所である。普段はダムには立ち入り禁止だが、サクラとフジの開花時期である春先のみ一般開放され多くの花見客で賑わう。湖畔の一部、旧浄水場北側が「レイクパーク本庄」としてピクニック広場が整備されており、桜やもみじ、けやきなどが植えられている。湖面には神社が祀られた島があり、地元では「水神さん」と呼ばれている。

ダム湖西側を広島県道31号呉平谷線が通る。

施設
鎮守府専用の水道用ダムとしては舞鶴鎮守府の桂ダム(桂貯水池堰堤)が最初ではあるが、近代水道の設備を備えた鎮守府専用の大規模ダムとしては本庄ダムが日本初である。

本流である二河川の他に平谷川・小田川・鬼切川の計4つの川から流入し、それらから流入する堆積土砂防止のためそれぞれに沈砂・ろ過機能の持ち合わせた取水施設が造られている。県道31号に沿って流れる現在の二河川はダム建設の際に付替河川として整備されたものである。

以下、国重文「本庄水源地堰堤水道施設」に指定されている設備を列挙する。これらは竣工当時からあるものである。

堰堤 - 堤頂部長さ97m、堤頂部幅3.64m、高さ25m。アールを描く重力式コンクリートダムで、堤体は控え壁で補強され、堤体中心付近に取水塔を設ける。表面はこの工事の際に現場採掘された花崗岩を用いた切石積処理されており、重厚感を醸し出している。
丸井戸 - 石造、直径9.9m×1基。堰堤取水塔からの水ではなく、二河川から直接取水された水用の沈砂施設で、ここから第一量水井へと流れていく。
第一量水井 - 石造、14.8m×5.5m×1基、配管は鋳鉄製、仕切弁×2基。堰堤取水塔からと丸井戸からの水がここに集められ、ここから取水場に送られる。
階段 - 石造、長さ36.5m×幅3.6m。堰堤北側の土盛を上がる階段。
その他の主要設備を列挙する。

溢流堤 - コンクリート造で天端のみ花崗岩処理。レイクパーク本庄北側にある洪水吐。本庄ダム本体には溢流口は設けられておらず、水量過多の際にはここから二河川へ流す。


本庄浄水場 - 1980年呉市水道第5期拡張事業により建設された浄水場。本庄水源地を水源とし、処理能力4,500m3/日で運用されていたが、2003年を持って休止している。
レイクパーク本庄 - 1996年本庄浄水場北側に整備された自然公園。入場無料。
海上自衛隊呉通信隊焼山送信所跡
なお戦前の民間に流通していた土木系資料には、軍事機密のため具体的な数値など詳細に書かれているものはない。

歴史
呉鎮守府水道
1886年(明治19年)海軍区が制定され呉鎮守府が置かれることになり、安芸郡呉港は軍港として整備されることが決まった。そこで海軍へ安定した上水を送る軍用水道「呉鎮守府水道」(海軍水道あるいは軍港水道とも)の建設が決定した。呉市中心部を流れる二河川中流域の大字荘山田村字東二河平甲に水源(二河水源地)を設け、海軍敷地内であった宮原浄水場まで運ばれ浄水し、鎮守府関連施設に送られることとなった。ただ1903年(明治36年)呉海軍工廠が正式に発足すると、供給不足となったことから呉鎮水道の抜本的な補強を行うことが決定した。

1906年(明治39年)測量を開始し、1909年(明治42年)12月西尾虎太郎呉海軍経理部建築科員により4つの水源地案が作成された。1910年(明治43年)6月吉村長策海軍省臨時海軍建築部工務員による現地踏査が行われた後、同年11月西尾は新たな案である第5案を作成し、同年12月これを吉村が認定したことにより本庄ダムの建設が決定した。

案 位置 推定貯水量(m3) 検討結果
1 二河川下流 940,000 工事費大、却下
2 賀茂郡郷原村 1,000,000 将来的な拡大不可、却下
3 荘山田村二河川側丘腹 300,000 貯水量不足、却下
4 1案を修正 800,000 再考
5 本庄村・焼山村 1,700,000 決定
1911年(明治44年)6月「第3期拡張工事」起工、1912年(大正元年)9月水源地着工、1918年(大正7年)2月竣工]。ここから宮原浄水場に水が送られた。同年4月28日に竣工式が行われている。その規模は当時東洋一と言われ、過大なものとさえ言われた。工事費1,801,246円60銭。呉鎮建築科の設計担当の技師2人が途中体調不良により辞職し、工事に延1,727,800人を使い、死者15人・負傷者259人を出すなど、難工事であった。

その後、呉鎮は更に拡大を続け水需要は更に増加し、他所にも水源地を建設している。

呉市水道
呉市は軍港都として拡大していく中で、市民から上水道創設の要望が出ていた。ただ呉鎮水道はあくまで海軍専用であり市民には供給されていなかった。日露戦争以降人口は増加したことから、呉市側は衛生上と防火上の問題から上水道の必要性を痛感し、海軍側も市の環境悪化は士気に繋がることから上水道布設に理解を示した。

1904年(明治37年)、呉市議会にて上水道布設を決議、技術者を招集し調査に入る。ただ呉市中心部を流れる二河川は呉鎮水道により取水されていたため更に呉市水道用に取水することが出来ず、また呉市の財政上の問題から新たな水源地の確保は困難な状況だった。ちょうどその時、海軍は呉鎮水道拡張工事を行なっており、1911年(明治44年)7月呉市はここ本庄水源地からの余水分与を呉鎮に陳情した。1913年 (大正2年)3月呉鎮はこれを許諾したことから、同年5月呉市は実施設計を始め、同年8月呉市水道布設計画案を市議会にて可決した。

1915年(大正4年)7月12日呉市水道着工、1918年(大正7年)3月竣工、同年4月1日ここから平原浄水場に送られ通水開始した。

1945年(昭和20年)呉軍港空襲を始めとする市街地の空襲、同年9月枕崎台風、と呉市中心部は立て続けに被害に遭遇し水道も壊滅状態となった中で、終戦後に呉に常駐したイギリス連邦占領軍(BCOF)により水道復旧命令が下され、市職員のほか旧海軍の応援で同年10月6日まずBCOF用の浄水を確保し、のち市民用の上水を復旧させていった。

1950年(昭和25年)旧軍港市転換法施行に伴い、1954年(昭和29年)12月までに旧呉鎮水道は国から呉市に移管された。以降、拡張工事により市水道施設との一体化を図り、現在に至る。1980年本庄浄水場を運用開始したが、2003年を持って休止している。

交通
バス
広電バス、「水源地前」バス停・「本庄」バス停・「押込」バス停下車。

名称 本庄水源地堰堤水道施設
堰堤(堤体本体,取水塔よりなる)1基
丸井戸1基
第1量水井(鋳鉄製配管,仕切弁2基を含む)1基
階段1基
水道用地1542番1号の一部
よみがな ほんじょうすいげんちえんていすいどうしせつ
指定 国指定
種別 重要文化財
種類 建造物
所在地 呉市焼山北
員数 1構
指定年月日 平成11年5月13日
構造形式 重力式コンクリート造堰堤
法量
公開状況 毎年4月上旬から中旬にかけて水源地施設の一部公開
交通案内 ○JR「呉駅」から「熊野方面行」バスで「本庄」下車,南へ約200m。又は「泉ケ丘」下車,東へ約300m。
関連施設 名称 本庄水源地堰堤水道施設
堰堤(堤体本体,取水塔よりなる)1基
丸井戸1基
第1量水井(鋳鉄製配管,仕切弁2基を含む)1基
階段1基
水道用地1542番1号の一部


河川 二河川水系二河川
ダム湖 本庄水源地
ダム諸元
ダム型式 重力式コンクリートダム
堤高 25 m
堤頂長 97 m
堤体積 20,000 m³
流域面積 28,4 km²
湛水面積 28 ha
総貯水容量 20,000 m³
有効貯水容量 1,960,000 m³
利用目的 上水道
事業主体 呉市上下水道局
施工業者 大日本帝国海軍
着工年/竣工年 1912年/1917年
出典 #参考資料
備考 重要文化財(1999年5月13日指定)
ダム湖百選

 


甘地駅(JR西日本)播但線

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甘地駅(あまじえき)は、兵庫県神崎郡市川町甘地字荻原にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅。


駅構造
相対式ホーム2面2線を持つ、行違い設備を備えた瓦葺の古い木造駅舎の地上駅である。配線はY字分岐ではないものの一線スルーにはなっておらず、ホームは方向別で分かれている。

上りホームの東側には留置線があり、冬期などには保線車両が夜間滞泊している姿を見ることもできる。

駅舎は姫路方面行きホーム側にあり、反対側の寺前方面行きホームへは跨線橋で連絡している。福崎駅管理の簡易委託駅だが、早朝と夕方以降は無人になる。切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 J 播但線 上り 福崎・姫路方面


2 下り 寺前・和田山方面
下りホームにはオープン区画のある構造の待合室が設置されています。

駅舎のかつて営業していたキオスクは自動販売機コーナーに変わっています。また貨物扱いしていた名残が残っています。

駅周辺
甘地駅を出て左手には甘地駅前公園があり、播但鉄道に関わった内藤利八の顕彰碑が置かれている。

以前は駅を出てすぐの所にキヨスクがあり新聞や土産物などが売られていたが撤去され、同じ場所にはジュース等の自動販売機がある。

周辺には、新聞の自動販売機・但陽信用金庫・市川町立市川中学校などがある。

駅から出てしばらく直進すると旧JA兵庫西甘地支店がある。ここでは駅周辺の町おこしの一環として、地元の自治体等によって年に一度ビアガーデンが計画されている。

さらに東へ市川を越えると市川町役場があり、更に南東にはマックスバリュやゴダイ薬局、ザ・ダイソー、町立の文化センターや図書館などがある。 北方向に徒歩10分ほどで、市川町立甘地小学校や市川郵便局に行ける。

利用状況
「兵庫県統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗車人員は865人である。


1894年(明治27年)7月26日 - 播但鉄道が姫路駅 - 寺前駅間で開業すると同時に設置。旅客・貨物の取扱を開始。
1903年(明治36年)6月1日 - 播但鉄道が山陽鉄道に営業譲渡。山陽鉄道の駅となる。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道国有化により、国有鉄道の駅となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1973年(昭和48年)4月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2016年(平成28年)3月26日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。


所属路線 J 播但線
キロ程 20.6km(姫路起点)
電報略号 アチ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 865人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1894年(明治27年)7月26日
備考 簡易委託駅

X1G サーブ・サフィール91B改(防衛庁技術研究所)

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X1Gは、日本の防衛庁技術研究所とその後身である技術研究本部(現防衛装備庁)によって運用された研究用航空機。スウェーデン製の練習機サーブ 91B サフィールの改造機であり、サーブ・サフィール91B改とも呼ばれる。

1953年(昭和28年)、航空自衛隊の初等練習機候補として保安庁によって1機のサーブ 91Bが民間機として日本に輸入されたものの、T-34が初等練習機として採用されたため航空自衛隊に配備されることはなかった。その後、この機体は1956年(昭和31年)に技術研究所によって購入され、短距離離着陸(STOL)に用いられる高揚力装置の研究実験機「X1G」に改造された。X1Gの最初の形態であるX1G1は、主翼を原型機のものからフル・スパン・フラップとスポイラーを有する新設計の高揚力主翼に換装したもので、1957年(昭和32年)12月から航空自衛隊岐阜基地で飛行試験を開始した。

1958年(昭和33年)には、主翼前縁のフラップ上面に高圧空気を吹き出して境界層制御(BLC)を行うシステムを搭載したX1G2形態への改造が開始された。この形態ではBLC吹き出しのために胴体内にガスタービンエンジンが搭載されたほか、重量増に対応するために推進用のエンジンがより大馬力のコンチネンタル IO-470-D(英語版)(260 hp)に変更された。X1G2の飛行試験は1959年(昭和34年)4月から1960年(昭和35年)9月にかけて行われている。

続いて、新たな主翼に良好な失速特性を発揮できる翼断面形を採用するとともに、翼端渦制御を目的とした翼端板を追加して高揚力装置の操縦性改良を図ったX1G3形態への改造が行われた。X1G3は1962年(昭和37年)4月から同年8月にかけて飛行試験を行い、これをもってX1Gを用いた研究実験は終了した。その後、X1Gは主翼をX1G1時のものに戻したX1G1B形態に改造され、1985年(昭和60年)に用途廃止となるまで技術研究本部岐阜試験場で連絡機や飛行試験支援機として用いられた。

X1Gによる飛行実験によって得られたデータは、UF-XSからUS-2に至るまでの日本製飛行艇を初めとして、C-1やMU-2などの開発に活用された。用途廃止後のX1G1Bは岐阜試験場内で保管されていたが、現在はかかみがはら航空宇宙科学博物館に開館当初の1996年(平成8年)から展示されており、日本航空協会によって重要航空遺産に認定されている。

X1G以降、技術研究目的の航空機に与えられる「X」の型式番号を与えられた機体は日本では長らく存在していなかったが、2016年(平成28年)に初飛行した防衛装備庁の先進技術実証機X-2に「X」の型式番号が引き継がれた。

全長:7.90 m
全幅:10.80 m
全高:2.20 m
主翼面積:14.60 m2
エンジン:ライカミング O-435-A(英語版) 水平対向6気筒(190 hp) × 1
翼面荷重:78.8 kg/m2
馬力荷重:6.05 kg/hp
乗員:2名

用途:高揚力研究機
分類:実験航空機(英語版)
製造者:SAAB(原型機)
運用者:日本の旗 日本(防衛庁技術研究所)
初飛行:1957年12月(改造後)
生産数:1機
運用開始:1957年12月
退役:1985年
運用状況:退役

第八十八福丸 起重機船

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第八十八福丸 起重機船

港湾工事、海洋開発、サルベージ、港湾荷役等の目的のため、各種重量物のつり揚げを行う作業船で、自航、非自航があります。起重機の型式により、ジブ固定・ジブ俯仰・旋回式等があります。

クレーン船(クレーンせん、浮きクレーン、フローティング・クレーン、英語 floating crane, crane vessel)、または起重機船(きじゅうきせん)とは、重量物を吊り上げて移動させる用途に特化した船舶である。移動式クレーンおよび海上起重機の1種で、船にクレーンを搭載した形体が一般的である。最大級のクレーン船はパイプライン建設など沖合での工事、海上橋梁の建設などに使われている。大きいものは半潜水型で造られているが、単胴船型のものも用いられている。また、クレーンが旋回型のものと、旋回できないものがある。なお、港に配備されていることのあるガントリークレーンとは異なる。

クレーン船は14世紀初頭に現れ、中世ヨーロッパでは、ほとんどの港や入り江に、必要に応じて配備されていた。1898年に進水したアメリカ海軍のキアサージ級戦艦「キアサージ」 (USS Kearsarge) は、1920年に吊能力250トンのクレーンを据え付けることにより、クレーン船に改造された。後にこれは「クレーン船1号」(Crane Ship No.1) と改名された。この船は戦艦の造船する際の砲塔や装甲の据え付けを多数行った。また、1939年に沈没したサーゴ級潜水艦「スコーラス」 (USS Squalus, SS-192) を引き揚げたことがよく知られている。

1949年、J・レイ・マクダーモット (J. Ray McDermott) がデリックバージ4号 (Derrick Barge Four, クレーン船4号) を建造。これは旋回可能な吊能力150トンのクレーンを装備していた。この種の船の登場によって、沖合工事産業の方向がそれまでと一変した。かつては陸上でパーツごとに作成して運んでいた石油プラットフォームなどを、モジュールごとに作成し、海上で組み立てできるようになった。メキシコ湾など浅瀬での事業では、バージで充分であった。

1963年、ヘーレマ (Heerema) はノルウェーのタンカー Sunnaas を300トンの吊能力を持つクレーン船に造り変えた。これは沖合工事として、半潜水型ではない最初のものとされている。後に Global Adventurer(グローバルアドベンチャー)に改名された。この種のクレーン船は北海などでの事業に適している。


1978年、オランダのヘーレマ社の設計、三井造船の造船で2隻の半潜水型のクレーン船が造船された。Hermod と DCVボールダーの2隻であり、それぞれ2000トンと3000トンのクレーンを備えていた。2隻合わせて5000トンの吊能力を持ち、また、後にどちらも更に大きな吊能力に増強された。半潜水型のクレーン船は海のうねりに対して強く、冬の北海のような環境でも使うことができる。また、瞬間的安定性が非常に高く、それによって単胴船の物と比べて非常に大きい吊能力を得ることができる。大きな吊能力の物が出てきたことで、石油プラットフォームの建設にかかる期間が3〜4ヶ月だった物が数週間にまで短縮された。この成功に触発され、半潜水型のクレーン船が多く作られた。1985年にアメリカ合衆国マクダーモット社の DB-102 が就航した。これにはそれぞれ6000トンの吊能力を持つクレーンが2つ搭載されていた。1986年にはイタリアの Micoperi 社が7000トンのクレーン2機を積んだ M7000 を造船した。

しかしながら、1980年代半ばに沖合建設の経済的好機が過ぎると、建造は下火になった。1988年にヘーレマ社とマクダーモット社の合弁事業 HeerMac が開始された。1990年には Micoperi は破産し、それにSaipem が融資を行った。M7000 は引き継がれ、後に サイペム7000 に改名された。1970年代の巨大コンテナリフトの産業から始まった巨大クレーン船の業界だったが、1980年代半ばに終焉を迎えるまでにこの分野で活躍したのは数社だけしかなかった。ヘーレマは1997年に合弁事業解消後にマクダーモット社の DB-102 を引き継いでいる[2]。船は Thialf と改名され、2000年に7100トンのクレーンが2基に増強され、これは現在世界最大の吊能力のクレーン船である。また史上最大のつり上げ記録は サイペム7000での 12,150トン(サブラタ港造成)である

日本の主なクレーン船
船名 企業 吊能力
海翔 寄神建設 4,100t
洋翔 寄神建設 4,000t
第50吉田号 吉田組 3,700t
武蔵 深田サルベージ建設 3,700t
新寄隆 寄神建設 3,000t
第28吉田号 吉田組 3,000t
富士 深田サルベージ建設 3,000t
駿河 深田サルベージ建設 2,200t
金剛 深田サルベージ建設 2,050t
さんこう 日興産業 300t
武蔵は、瀬戸大橋などの建設に携わったことで知られる。
さんこうは、大正時代から活躍する現役の船であり、かつて呉海軍工廠において大和 (戦艦)などの建造に携わった。

 

第八十八福丸
船舶番号 127075
信号符字 JM5362
IMO番号 8410445
船籍港 薩摩川内
船主 (株)植村組
運航者 同上
航路  
造船所 石川島造船化工機
建造番号 564
起工年月 1984年6月
竣工年月 1984年9月
就航年月  
総トン数 498トン
全長 44.22m
型幅 18.00m
型深さ 3.20m
機関 ディーゼル×2
機関出力(馬力) 1,177kW(1,600PS)
航海速力 10.50ノット
旅客等定員  
備考 起重機船

久留米師団司令部跡(久留米税務署・社会保険事務所・病院)

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久留米師団司令部跡(久留米税務署・社会保険事務所・病院)

第18師団(だいじゅうはちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。日露戦争後の1907年(明治40年)と、支那事変(日中戦争)勃発後の1937年(昭和12年)に編成された。通称号は皇室の紋章「菊」を与えられた事から「国軍最強」を自負し、他の兵団からも一目置かれていた。派兵や転属などで戦力を削がれながらも終戦まで戦い抜いた兵団である。

第一次編成
日露戦争終結後の戦力増強策の一環で第17師団と共に1907年(明治40年)11月に創設された。同年12月5日、師団司令部を久留米市に開庁。1914年(大正3年)から始まった第一次世界大戦では第18師団を基幹に歩兵第29旅団等を編合した独立第18師団が編成され、青島攻略戦に参戦する。同年11月14日、独立第18師団は青島の占領を完了した。1918年10月3日、兵器部が福岡県三井郡国分村の師団司令部内に移転し事務を開始。

その後、第一次世界大戦やシベリア出兵の為に戦費が嵩み、1922年(大正11年)から三次にわたり行われた軍縮の一環として、1925年(大正14年)に加藤高明内閣で行われた所謂「宇垣軍縮」によって4個師団の廃止が決まり、第18師団も第13・第15・第17師団と共に廃止された。

歴代師団長
木村有恒 中将:1907年(明治40年)11月13日 - 1910年(明治43年)11月30日
大迫尚道 中将:1910年(明治43年)11月30日 - 1912年(大正元年)12月26日
神尾光臣 中将:1912年(大正元年)12月26日 - 1914年(大正3年)11月26日
斎藤力三郎 中将:1914年(大正3年)11月26日 - 1915年(大正4年)5月26日死去
柴勝三郎 中将:1915年(大正4年)6月4日 - 1919年(大正8年)7月25日
高山公通 中将:1919年(大正8年)7月25日 - 1922年(大正11年)8月15日
金谷範三 中将:1922年(大正11年)8月15日 - 1925年(大正14年)5月1日(廃止)
最終所属部隊
歩兵第23旅団
歩兵第46連隊(大村)
歩兵第55連隊(佐賀)
歩兵第24旅団
歩兵第48連隊(久留米)
歩兵第56連隊(久留米)
騎兵第22連隊
野砲兵第24連隊
独立山砲兵3連隊
工兵第18大隊
飛行第4大隊
輜重兵第18大隊
第二次編成
支那事変
支那事変が始まると日本本土から次々と師団が中国大陸に派遣され、第18師団も1937年(昭和12年)9月9日に、留守第12師団の担当で、四単位編制の特設師団として再度編成された。

編成完結後第二次上海事変の更なる増援軍として第6師団・第114師団とともに第10軍(司令官:柳川平助中将)に編入され杭州湾に上陸し中国軍の背後からの攻撃にあたる。上海戦の後南京攻略戦に参戦した。

第10軍廃止後は中支那派遣軍戦闘序列に編入、占領地の警備と治安維持にあたり、1938年(昭和13年)9月12日に第21軍戦闘序列に編入広東作戦に参戦、10月12日に第104師団とともにバイアス湾から奇襲上陸し広東を攻略する。

太平洋戦争
1941年(昭和16年)南方に転用、11月6日第25軍(司令官:山下奉文中将)戦闘序列に編入され、マレー作戦・シンガポール攻略戦に従事する。シンガポール陥落後は飯田祥二郎中将の第15軍に移り、ビルマ攻略戦に参戦する。

1943年(昭和18年)10月からフーコン河谷のニンビン(現在の Ningbyen,en:Tanai Township)においてレド公路の早期打通を目指すスティルウェルによって練兵された新編中国軍と交戦するが、アメリカ軍に支援された新編中国軍に包囲された為補給が途絶え、栄養失調とマラリアによって3,000人を越える戦病死者を出した。フーコンから転進の途中で第53師団と行き違った際には同師団の糧食や武器を強奪し、「泥棒部隊」と呼ばれるようになった。

また、分遣しミートキーナに在った歩兵第114連隊は連合国軍との交戦で2,000名以上の損害を出した。この時歩兵第114連隊は第56歩兵団(第56師団の歩兵団)の指揮下に入っていたが、第56歩兵団長の水上源蔵少将は、昭和19年(1944年)8月、残存将兵に包囲を突破し脱出するよう命じた後自決した。

歩兵第114連隊は他に拉孟守備隊(拉孟・騰越の戦い)にも兵力を派遣していたが、この守備隊も9月7日に玉砕する。第18師団のビルマ方面参加兵力は31,444名であったが、20,000名以上が戦死している。慢性的な物資欠乏の影響はどの部隊でも同様であったが、ビルマ方面に展開していた連合軍が「菊」の名を冠する第18師団との交戦を名誉としていたことも戦死者を増大させた一因とされている。

川口支隊
師団は当初四単位師団として編成されたが、1941年(昭和16年)11月に、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹の川口支隊(川口清健少将指揮)が編成され、師団の指揮下を離れフィリピン戦・ガダルカナル戦に参戦した。その後川口支隊は、1943年(昭和18年)3月に第31師団に転用、第18師団は三単位編制に改編された。

歴代師団長
牛島貞雄 中将:1937年(昭和12年)9月11日 - 1938年(昭和13年)7月15日
久納誠一 中将:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)2月10日
百武晴吉 中将:1940年(昭和15年)2月10日 - 1941年(昭和16年)4月10日
牟田口廉也 中将:1941年(昭和16年)4月10日 - 1943年(昭和18年)3月18日
田中新一 中将:1943年(昭和18年)3月18日 - 1944年(昭和19年)9月22日
中永太郎 中将:1944年(昭和19年)9月22日 - 終戦
最終司令部構成
師団長:中永太郎 中将(陸士26期)
参謀長:白崎嘉明 大佐(陸士34期、1944年(昭和19年)9月1日 - 終戦)
作戦参謀:三橋泰夫 少佐(陸士44期)
参謀:鈴木重直 少佐(陸士44期)
参謀:正宝治平 少佐(陸士49期)
高級副官:猪瀬重雄 少佐
経理部長:木村烝逸 主計大佐(1943年(昭和18年)8月2日 - 終戦)
軍医部長:大橋要人 軍医大佐(1943年(昭和18年)3月1日 - 終戦)
獣医部長:佐々木孝仕 獣医中佐(1945年(昭和20年)7月15日 - 終戦)
最終所属部隊
歩兵第55連隊(大村):山崎四郎 大佐(陸士28期、1943年(昭和18年)9月28日 - 終戦)
歩兵第56連隊(久留米):佐藤又三郎 大佐(陸士28期、1945年(昭和20年)5月31日 - 終戦)
歩兵第114連隊(福岡):大塚宏 大佐(陸士28期、1945年(昭和20年)3月1日 - 終戦)
山砲兵第18連隊:江口太郎 大佐(陸士28期、1945年(昭和20年)5月3日 - 1945年(昭和20年)7月26日)
後任連隊長:松川信正 大佐(陸士30期、1945年(昭和20年)7月26日 - 終戦)
工兵第12連隊:井上義一郎 中佐(陸士39期、1944年(昭和19年)9月1日 - 終戦)
輜重兵第12連隊:水谷虎吉 中佐(陸士32期、1944年(昭和19年)3月17日 - 終戦)
第18師団第1通信隊:山崎達男 大尉
第18師団第2通信隊:土生洋平 少佐(陸士53期)
第18師団衛生隊:小倉弘成 中佐(陸士38期)
第18師団第1野戦病院:鈴木行雄 少佐
第18師団第2野戦病院:荻生謙修 少佐
第18師団第3野戦病院:佐藤進 少佐
第18師団第4野戦病院:原田大六 少佐
第18師団防疫給水部:尾能吉一 少佐
第18師団病馬廠:安梅寿永 少佐
第18師団編合
独立速射砲第13大隊
野戦重砲兵第21大隊

第18師団
創設 1907年(明治40年)11月13日
廃止 1925年(大正14年)5月
再編成 1937年(昭和12年)9月9日
廃止 1945年(昭和20年)
所属政体 Flag of Japan.svg大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務/特性 歩兵
人員 約25,000名/約30,000名
所在地 久留米-中支/久留米-南支-マレー半島-ガダルカナル-ビルマ
編成地 久留米/久留米
通称号/略称 菊
補充担任 第18師管/第12師管・久留米師管・久留米師管区
最終上級単位 天皇直隷/第33軍
最終位置 久留米/ビルマ チャイト
主な戦歴 第一次世界大戦/支那事変/太平洋戦争

朝日大塚駅(近江鉄道本線)

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朝日大塚駅(あさひおおつかえき)は、滋賀県東近江市大塚町にある近江鉄道本線の駅。

大正5年設置と歴史ある駅ですが、周辺は静かで、利用客は多くありません。

駅舎は無く、1面1線の無人駅である。

ホーム待合所には、長椅子と上屋が設置されています。列車接近装置、切符販売機はありません。


誘導ブロックがあるホームはかさ上げ工事のあとが残っている。

駅前はスペースがありますが整備されていません。

 

駅周辺には駐輪場が複数箇所設置されています。
妙厳寺


1916年(大正5年)10月16日 開業。

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(水口・蒲生野線)
キロ程 32.8km(米原駅起点)


駅構造 地上駅
ホーム 単式1面1線
乗車人員
-統計年度- 83人/日(降車客含まず)
-2011年-


開業年月日 1916年(大正5年)10月16日

UF-XS 実験用飛行艇(新明和工業)

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UF-XSは、日本の航空機メーカー新明和工業による実験用飛行艇。原型機の提供を受けての改造機であるが、改造箇所は多岐にわたっている。

第二次世界大戦以前、日本の航空技術は急成長を遂げたが、敗戦によってGHQ SCAPが占領すると、日本人の航空の運行、製造、研究を一切禁止した。7年後に解禁されるが、その間に世界の航空機技術は格段に進歩していた。

ところが、アメリカ合衆国では日本から持ち帰った二式大艇を飛行実験したところ、アメリカやイギリスの同時期の飛行艇よりも優れていたことが明らかになり、驚いたグラマン社やマーチン社は1958年(昭和33年)に、二式大艇を製作した川西航空機の後身、新明和興業(現新明和工業)に対して、自社の飛行艇の改造実験を行うように求めた。

一方、かつて川西で活躍した技術者、菊原静男は1953年(昭和28年)から社内で飛行艇の構想を練っており、1957年(昭和32年)には防衛庁に対し、飛行艇の実験機を作らないかと持ちかけていた。これを受けて防衛庁でも飛行艇の実用化を検討して、1960年(昭和35年)には、新型飛行艇を対潜哨戒機として使用する案がまとまった。すでに菊原は新型の波消し装置を付けた模型飛行艇の試験でグラマンとマーチンから高い評価を得ており、日本独自の優秀な飛行艇を作り、海外にアピールする好機だと捉えていた。

菊原の考えた新型飛行艇は、波高3メートルでの離着水能力と高揚力装置を備えた挑戦的なものだった。興味を持ったグラマンは、菊原の技術を将来的に自社に取り入れられると考え、気前良く米海軍向けのUF-2救難飛行艇1機を提供した。新明和は当時の金額で約7億円をかけ、UF-2を基に艇底を自社開発の試作品に変更、垂直・水平尾翼を採用予定の試作品に取り替え、主翼を延長してエンジンを4機に増設した実験飛行艇UF-XSを製作した。

機体
UF-2をベースにしており、コックピット周辺を含めた機体上部は面影をよく残しているが、機体下面(艇底)は模型を基に自社開発した試作品に取替えられ、波押さえや波消し装置が加えられた。波消し装置は魚の鰓を参考にしており、艇首側面の入水口から波を吸い込み、艇体中央部側面から排水することで着水時の波を消すようになっている[2]。この波消し装置の採用によって、吸水時の水圧で艇首が浮き上がって離水しやすくなるという特性も兼ね備えている。ごく一般的だった垂直尾翼・水平尾翼は完全に取り払われ、自社開発のT字型尾翼(輸送機などで多用)に変更したほか、水上滑走中の安定性を高めるために、艇尾部に水中安定板を追加した。機体上部にはBLC用のT58ガスタービンエンジン×2を搭載、主翼も変更され、自社開発の前縁スラットと後縁吹き出し(BLC)フラップを装備、高揚力装置によりSTOL性を求め、エンジンはUF-2の双発(プロペラ3翔)に、さらに輸入エンジン双発(プロペラ2翔)を加えた4発とし、主翼下の着水用フロートも自社開発品とした。以上のような形態の変更の他、機体色は黒をベースにオレンジのアクセント、試験用に白い区画線が幾本も入るもので(この塗装も現在は復元されているが、三保時代は後のPS-1の一般的な塗装に類似した、実験機という印象の薄いものになっていた)、一見では元のUF-2を意識することは難しい。機体の大きさは、PS-1の4分の3となっている。

UF-XSは、1962年(昭和37年)12月20日に初飛行、1963年(昭和38年)3月30日から大村航空隊に配備され、1966年(昭和41年)まで波消し装置、自動安定装置、高揚力装置などの様々な実験、試験、調査を行い、十分な基礎データを取得した。このデータを基に、防衛庁は対潜哨戒機の製造を新明和に求め、海上自衛隊PS-1の完成、救難飛行艇US-1、US-2に繋がっていく。また、その高性能からアメリカ、イギリスから照会があったほか、ニュージーランド、オーストラリア、インドネシアなどからは商談もあり、新明和工業が200~300人乗りの大形旅客飛行艇PX-Sを企画するきっかけになった。

UF-XSは1967年(昭和42年)10月16日に用途廃止とされた。

機体はその後、下総基地、静岡県清水市(現静岡市清水区)三保の東海大学航空宇宙科学博物館(1984年7月31日で閉館。ただし閉館後もしばらくの間、本機については、同地の展示館群の他の屋外展示物とともに屋外に静置されていた)を経て、現在はUS-1と共にかかみがはら航空宇宙科学博物館に展示されている。

スペック
乗員 - 7名
全長 - 23.1m
全幅 - 24.4m
全高 - 7.8m
空虚重量 - 12,484kg
エンジン
P&W R-1340(600馬力)×2
ライト R-1820(1,425馬力)×2
最大速度 - 333 km/h=M0.27
用途:研究機
分類:飛行艇
製造者:新明和工業(グラマン)
運用者:新明和工業
初飛行:1962年12月20日
生産数:1機
運用開始:1963年3月30日
退役:1967年10月16日
運用状況:退役

トヨモータースFE.S15型(1956年)150CC

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1955年に発売されたFE.S普及型125CCの排気量を150CCにあげて製造された上位モデル。FE.s普及型の発売当時、トヨモータースは、雑誌「モーターファン」とともに、走行性能や乗り心地の公道テストを行った。

その時に社長の川真田は、実用車の性能に徹底して買う初していると、トヨモーターのコンセプトについて語っていた。高速をあえて犠牲にして低速トルクを太くし、また、ホイールベースを長くするなど、楽になるように設計されていた。

この車両は、150CCだが、フロントフェンダーに原動機付自転車二種(125CC)であることを示す白帯の印が付いているため125CCとして登録したものと思われる。

空冷2サイクル単気筒エンジン 総排気量147.5CC 総出力6.2HP/4500RPM 最大トルク1.16KG/3200RPM 始動方式キック 変速機3段 最高時速75KM/H 燃料消費率50KM/L


新井駅(JR西日本)播但線

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新井駅(にいえき)は、兵庫県朝来市新井字中川原にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)播但線の駅である。

旧朝来町の代表駅で、かつては急行も停車する主要駅でしたが、現在優等列車の停車はなく、利用客は通学の高校生が主力のローカル駅となっています。

かつては隣駅の生野駅と並んで急行「但馬」の停車駅であったが、廃止後は、優等列車通過駅となった。生野駅と竹田駅が特急「はまかぜ」の停車駅に昇格したのとは対照的である。

えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインにある「新井駅 (あらいえき)」が信越本線に属していた時にはこれと区別するため、当駅発着の乗車券には「(播)新井」と表記していた。

駅構造
相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有する地上駅。古い木造駅舎は和田山方面行きホーム側にあり、反対側の寺前方面行きホームへは跨線橋で連絡している。

駅舎の壁の丸窓などハイカラな造りがみられます。福崎駅管理の簡易委託駅で、早朝と夕方以降は無人となる。かつて2面3線を有していたが、1線は撤去された。

駅舎と1番ホームの上屋には「明治34年8月」表記の建物財産標が付けられている。2000年当時、山陽鉄道の社紋の入った瓦が駅舎に使われていた。

当初は単純な切妻屋根だったが、1937年(昭和12年)の改修で現在の姿になった。切符売場、券売機は未設置で、委託の窓口が営業しています。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 J 播但線 下り 和田山方面


2 上り 寺前・姫路方面

待合室には少数の椅子、ゴミ箱、壁にはポスターが貼られています。


駅前には広いスペースがありタクシーが常駐しています。

駅周辺
朝来市役所朝来支所
国道312号
道の駅フレッシュあさご(Asago)(当駅から全但バス伊由市場経由和田山病院行きに乗車、「道の駅あさご」バス停下車、またはタクシー利用)
あさご芸術の森(タクシーで10分)
あさご芸術の森美術館


バス
全但バス
特急バス 大阪 - 湯村温泉 浜坂駅 ・ 神戸 - 城崎温泉間
生野駅裏行
和田山駅・八鹿駅行
神子畑行
建屋・(建屋)経由八鹿駅行
アルバ・和田山病院行

「兵庫県統計書」によると、2016年(平成28年)度の1日平均乗車人員は132人である。

1901年(明治34年)8月29日 - 播但鉄道が生野駅から延伸し、その終着駅として開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1903年(明治36年)6月1日 - 播但鉄道が山陽鉄道に営業譲渡。山陽鉄道の駅となる。
1906年(明治39年)
4月1日 - 山陽鉄道が和田山駅まで延伸。途中駅となる。
12月1日 - 国有化により官設鉄道の駅となる。


1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定。播但線の所属となる。
1980年(昭和55年)4月1日 - 車扱貨物の取扱を廃止。有蓋車用の貨物ホームが設置されていた。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道の駅となる。

所属路線 J 播但線
キロ程 51.9km(姫路起点)
電報略号 ニイ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 132人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1901年(明治34年)8月29日
備考 簡易委託駅

日産・ステージア(WC34型)痛車:けいおん!

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日産・ステージア

ステージア(STAGEA )は日産自動車が製造・発売していたステーションワゴン。スカイライン、ローレルのプラットフォームをベースに設計されていた。

通称・愛称は「ステジ」。

初代 (WC34型 1996年-2001年)
販売期間 1996年 - 2001年
デザイン 井上真人
乗車定員 5人
ボディタイプ 5ドアステーションワゴン
エンジン RB26DETT 2.6L 直6 280PS
RB25DET 2.5L 直6 280(235)PS
RB25DE 2.5L 直6 200(190)PS
RB20DE 2.0L 直6 155PS
RB20E 2.0L 直6 130PS
駆動方式 FR/4WD
変速機 4速AT (M-ATx)
4速AT (E-ATx)
5速MT
サスペンション 前:ストラット式(FR)
/マルチリンク式(4WD)
後:マルチリンク式
全長 4,800 - 4,885mm
全幅 1,755mm
全高 1,490 - 1,515mm
ホイールベース 2,720mm
車両重量 1,480 - 1,720kg

1996年(平成8年)10月3日、セドリックワゴン・グロリアワゴンの実質的な後継車としてWC34型登場。Lクラスステーションワゴン専用車種としてローレル/スカイラインのシャーシと走行装置を採用。搭載するエンジンは直列6気筒のRB25DET型インタークーラー付ターボ、RB25DE型、RB20E型の3機種。グレードは「RS FOUR (V) 」・「25X (FOUR) 」・「25G (FOUR) 」・「20G」。また、純正エアロパーツには「DAYZ」(デイズ)のブランド名が付いていた。ステーションワゴンに6気筒ターボエンジンの搭載は7代目スカイラインワゴンに設定のターボ車以来となる。スバル・レガシィツーリングワゴンと同様、ドアはサッシュレスとなった。

テレビCMには田口トモロヲ、栗山千明が出演。

1997年(平成9年)1月、ボディーカラーにシルキースノーパール (#WK1) を追加するとともに、DAYZのエアロ(バンパー、サイドシルプロテクター、ルーフスポイラー等)を標準装備した「ホワイトエアロセレクション」を設定。

1997年(平成9年)8月、マイナーチェンジ。エンジンをNEOシリーズへ変更(RB25DETを除く)。よってRB20EがDOHC化されRB20DEになった。「25tX FOUR」・「25RS(FOUR)」・「20X」追加。「RS FOUR V」は「25tRS FOUR V」にグレード名を変更。ボディーカラーにシルキースノーパールツートーン(#5S5)を追加。

1997年(平成9年)10月、R33 スカイラインGT-Rのエンジン、ドライブトレーン、リアサスペンションを流用したオーテックジャパンが手掛けた特別仕様車「260RS」が発売された。なお260RSは5速MTのみの設定で、外側に移動したリアハブ位置と全幅の関係から、ホイールオフセットが前後で異なる仕様となっている。

1998年(平成10年)8月31日、マイナーチェンジ。フロント・リア周りのデザインを変更し、いわゆる「後期型」に移行した。RB25DETエンジンもR34スカイラインと同様のNEOシリーズになった。

1998年(平成10年)10月、「オーテックバージョン260RS」のマイナーチェンジが行われた。

2000年(平成12年)6月、RB20DE型搭載「20RS」追加。「25t RS V」・「25t RS FOUR S」にカスタマイズベースグレードの「Type-B」を設定。260RSはR33スカイラインで限定販売された4ドアセダンGT-Rであるオーテックバージョンとは異なり、M35にバトンタッチするまで販売が続けられた。

2001年(平成13年)4月からM35へバトンタッチした同年10月迄はグレード整理され、「RS」シリーズのみに絞られていた。

生産台数:13万3251台

ローレル/スカイラインの兄弟車であることから、主にR34型スカイラインGT-Rのフロントバンパーやライトなどを流用する顔面スワップと称される改造が行われるケースがある(通称スカージア)。この改造の特許を取った車両が岐阜で発売された。またステーションワゴンの実用性+スカイライン譲りの素性の良さからチューニングカー、とりわけドリフトマシンとしての需要もあり、普通のステージアに260RSよろしくRB26をスワップする例もみられる。

当初村山工場で生産されていたが、後に村山工場が閉鎖されて栃木工場に移管された。

海外仕様車は存在しないが、中古輸出でも人気が高く特にオーストラリアでは現地生産のスカイラインワゴンからのリプレース組としても受け入れられた。

翡翠亭:和泉つばすが商業での活動のお知らせや個人サークル翡翠亭の情報、また雑記などを中心とした個人サイト。

けいおん!:『けいおん!』(K-ON!)は、かきふらいによる日本の4コマ漫画作品、およびそれを原作としてメディアミックスで製作される作品群。部員0で廃部寸前の私立桜が丘女子高等学校(桜が丘高校)軽音部。唯、律、澪、紬の4人の生徒がバンドを組み、ゼロから部活動を行っていく。途中からは新入生の梓も加わり、5人となる。軽音部の結成から卒業までの3年間を描く。

イオンエンジン(ロケットエンジン)

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イオンエンジン (Ion engine) は、電気推進とよばれる方式を採用したロケットエンジンの一種で、マイクロ波を使って生成したプラズマ状イオンを静電場で加速・噴射することで推力を得る。イオン推進、イオンロケット、イオンスラスタなどともいう。最大推力は小さいが、比較的少ない燃料で長時間動作させられる特徴をもち、打ち上げられた後の人工衛星や宇宙探査機の軌道制御に用いられることが多い。

以前は実証試験として搭載される例が多かったが、近年では、従来のヒドラジン系推進器に替わる標準装備となりつつある。比推力が化学ロケットよりも格段に高いため、静止衛星の長寿命化に貢献している。

推進原理
陽イオン源で推進剤を陽イオン化して電界の中に放出すると、正の電荷をもつ陽イオンは負電極にむかって加速運動を始める。このとき機体は陽イオンが得た運動量の総和と同じ大きさで逆向きの運動量を得る(すなわち、イオンの加速の反作用により機体が加速する)。イオン源の反対側にある負電極はグリッド状(グリッド電極)になっているため、加速された陽イオンのほとんどは負電極に衝突せず通過していく。その後通過した陽イオンは、再び負電極や機体に引き戻されないように、電子を放出する陰イオン源(中和器)により電気的に中性にした上で外部に放出される。陽・陰イオン源と電極は機体の各部位の電位を維持するために電気的に接続されている。

推進剤のイオン化手法や電極の構成には後述のように複数の方式があるが、陽イオンを加速することで推力を得ることがイオンエンジンの特徴である。つまり、キセノンガスにマイクロ波を当てることによって 電離し、キセノンイオンに電圧をかける(静電気を当てて加速させる)ことによって加速・放出し推力にしている。

なお、推進剤としてはキセノンを用いる場合が多い。他にリチウムやビスマスを用いる形式もある。また、高度数百km以下の低軌道を周回する衛星においては、希薄に存在する大気を吸気して、これを推進剤として利用する事が構想されている。

静電荷電粒子推進器
電極静電荷電粒子推進器
静電荷電粒子推進器は推進剤としてアルゴン、キセノン、クリプトンなどのプラズマになりやすい元素を使用する。加熱されたフィラメントの陰極からの電子でガスをイオン化する。この方式は電子の損失が大きい。 加速したイオンビームをそのままにしておくと、宇宙機側がイオンと逆の電荷に帯電し、ビームが戻ってきて推進できなくなる。それを防ぐため、イオンビームを噴射した後逆電荷を噴出してビームを電気的中性のプラズマに中和する[2]。

電極型静電推進器の研究 (past/present)
NASA Solar electric propulsion Technology Application Readiness (NSTAR)
NASA’s Evolutionary Xenon Thruster (NEXT)
Nuclear Electric Xenon Ion System (NEXIS)
High Power Electric Propulsion (HiPEP)
Dual-Stage 4-Grid (DS4G)
ホール効果推進器 (ホールスラスタ)
ホール効果推進器 (ホールスラスタ) は荷電粒子を筒状の陽極とマイナスに帯電したプラズマとの間で加速する。推進剤の塊は陽極から注入されイオン化される。比較的高い比推力を持ち、比較的低い電力でも大きな (イオンエンジンに比べて) 推力密度を発揮する。ただし、特有の推力ノイズを持つ 。
電界放射式電気推進 (FEEP)
電界放射式電気推進 (FEEP:Field Emission Electric Propulsion) は液体の金属イオンを加速して推力を得る単純なシステムである。セシウムを短い隙間から流して加速環に導く。セシウムとインジウムが原子量が大きいので使用される。イオン化傾向が小さく、融点が低いからである。

応答性がよく制御性に優れ、推力ノイズが少ないという利点を持つ。イオンエンジンと同様に中和器が必要となる。

セシウムを推進剤とする二次元スリット構造タイプと、インジウムを推進剤とする三次元プラグ構造のものがある。

また、FEEPと同様の構造で、(電離していない) 金属粒子を直接噴射するコロイドスラスタというものが存在する。


電磁荷電粒子推進器
パルス誘導推進器 (PIT)
パルス誘導推進器 (PIT) はパルスを連続的に出す事で推進力を得るものである。メガワット級の出力を出す事が出来る。アンモニアガスが通常使用される。コイルから発生する磁場で荷電流子を集束させて噴射する。ローレンツ力を用いる。

磁場プラズマ力学 (MPD) / リチウムローレンツ力加速器 (LiLFA)
磁場プラズマ力学推進器 (MPD) プラズマ化したリチウムイオンをローレンツ力で加速する(LiLFA) 。

比推力可変型プラズマ推進機(VASIMR)
比推力可変型プラズマ推進機 (VASIMR) DCアークジェットよりもはるかに高いプラズマ温度を達成することが可能である。電熱加速のシステムとも、電磁加速のシステムであるともいえる。

無電極プラズマ推進器
無電極プラズマ推進器(英語版)は2つの特徴がある。電極の消耗がないことと出力を加減できることである。電極が消耗する要因はイオンにさらされるからである。電極の寿命が事実上イオンエンジンの寿命と言っても過言ではない。中性のガスは電磁波によってイオン化され、別の電磁波によって加速される。イオン化と加速の分離は出力を加減することを可能にした。

特徴
イオンロケットは化学ロケットの10倍以上の比推力を誇り、また非常に高い速度差が実現可能である反面、その加速に要する時間は非常に長い。これはイオンは軽量であり、推力密度が低いためである。また、イオンが高速でグリッド電極に衝突するため、長期間にわたる運用ではグリッド電極への侵蝕が問題になる。

応用
イオンエンジンは推力密度が低いことや真空中でしか作動できないため、地球からの打ち上げに使うことはできない。その反面、少ない推進剤で長時間作動させる事により大きな速度変化を与えることが可能であるため、静止衛星の、軌道上の位置ずれ制御や、惑星間飛行、小惑星・彗星探査などの用途には最も適している。実際に使用された例として以下のようなものが挙げられる。

SERT I (NASA)
電気推進器試験衛星。イオンエンジンの動作テスト。8cm径Cs使用エンジンと10cm径Hg使用エンジンをテスト。1964年7月20日打ち上げ。
SERT II (NASA)
電気推進器試験衛星。イオンエンジンの動作テスト。15cm径Hg使用エンジンをテスト。1970年2月3日打ち上げ。
きく4号 (ETS-III) (NASDA)
技術試験衛星。2mN級イオンエンジンの動作テストを実施、1982年(昭和57年)9月3日打ち上げ。
きく6号 (ETS-VI) (NASDA)
技術試験衛星。南北制御用25mN級イオンエンジンXIESを搭載。アポジモーターの不調で静止軌道投入を断念。動作試験を行う。1994年(平成6年)8月28日打ち上げ。
かけはし (COMETS) (NASDA)
通信放送技術衛星。南北制御用25mN級イオンエンジンXIESを搭載。第2段ロケットの不具合により静止軌道投入を断念。動作試験を行う。1998年(平成10年)2月21日打ち上げ。

Deep Space 1 (NASA)
技術試験探査機。主推進器としてNSTARを1機搭載。小惑星 (9969) ブライユとボレリー彗星に接近。1998年10月24日打ち上げ。
ARTEMIS (ESA)
光通信実証衛星。南北制御用にRITA-10とUK-T5を2機ずつ搭載。アリアン5の不具合によって半分以下の高度に投入されたが、主推進機として転用することで静止軌道まで達した。2001年7月12日打ち上げ。
はやぶさ (MUSES-C) (ISAS/JAXA)
工学実験探査機。主推進器として、イオン源・中和器共にマイクロ波放電式を採用した8mN級イオンエンジンμ10を4機搭載。小惑星 (1998SF36) イトカワに到達。2003年(平成15年)5月9日打ち上げ。2010年(平成22年)6月13日地球に帰還。
SMART-1 (ESA)
月探査用の技術試験衛星。68mN級ホールスラスタPPS-1350を主推進器として搭載し、月軌道までイオンエンジンで航行。2003年9月27日打ち上げ。
きく8号 (ETS-VIII) (JAXA)
技術試験衛星。南北制御用25mN級イオンエンジンXIESを搭載、2006年(平成18年)12月18日打ち上げ。
Dawn (NASA)
小惑星探査機。小惑星ベスタ、準惑星ケレスの探査を予定。主推進器としてNSTARを3機搭載。2007年9月27日打ち上げ。
GOCE (ESA)
地球重力場観測衛星。低高度における空気抵抗相殺の為の主推進機としてUK-T5を2機搭載。2009年3月17日打ち上げ。
LISA パスファインダー (ESA)
技術試験衛星。別名SMART-2と呼ばれ欧製FEEPと米製コロイドスラスタを搭載し宇宙重力波望遠鏡の試験を行う予定。2015年12月3日打ち上げ。
ベピ・コロンボ (ESA & JAXA)
水星探査機。水星軌道までの主推進器として採用予定。
ほどよし4号
ほどよし信頼性工学の確立を目的とした超小型技術試験衛星。次世代宇宙システム技術研究組合(NESTRA)によって民生品を活用して開発されたMIPS(Miniature Ion Propulsion System :小型イオン推進システム)というイオン液体リチウム二次電池の電力を使用するイオンエンジンを備える。
ボーイングX-37(アメリカ航空宇宙局・国防高等研究計画局・アメリカ空軍)
2015年-2017年の軌道飛行の中で、イオンエンジンの試験を行った[14]。
その他、1997年8月に打ち上げられたPAS-5以降、商用通信衛星でもイオンエンジンを装備する衛星が出てきており、HS-601HP(現在のBoeing-601HP)衛星バス、Boeing-702衛星バスでXIPS (xenon ion propulsion system) が使われている。

 

新橋駅(JR東日本)(東京メトロ)(都営地下鉄)(ゆりかもめ)

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新橋駅(しんばしえき)は、東京都港区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)・ゆりかもめの駅である。

所在地は、ゆりかもめの駅が東新橋一丁目、その他の駅が新橋二丁目となっている。

乗り入れ路線
当駅には以下の4社・局の路線が乗り入れている。

JR東日本:各線(後述) - スリーレターコード「SMB」
東京メトロ:G 銀座線 - 駅番号「G 08」
東京都交通局(都営地下鉄):A 浅草線 - 駅番号「A 10」
ゆりかもめ:U 東京臨海新交通臨海線 - 当駅が起点。駅番号「U 01」
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東海道本線1路線のみである(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照)が、運転系統としては以下の4系統が停車し、それぞれ専用の線路が割り当てられている。旅客案内でも以下の系統名で案内されている。

JT 東海道線:列車線を走行する東海道本線の中距離電車。2015年3月14日より、上野東京ラインの開通に伴い、多くの列車が東京駅・上野駅を経由し宇都宮線・高崎線・常磐線へ直通運転をするようになった。 - 駅番号「JT 02」
JK 京浜東北線:電車線を走行する東海道本線・東北本線の近距離電車。横浜駅から根岸線への直通運転も実施している。 - 駅番号「JK 24」
JY 山手線:電車線を走行する環状路線 - 駅番号「JY 29」
JO 横須賀線:地下線を走行。下り列車は大船駅まで東海道本線(品鶴線経由)、同駅より線路名称上の横須賀線に入る。上り列車は多くの列車が東京駅を経由し、総武快速線へ直通する。 - 駅番号「JO 18」
また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。

駅構造
JR東日本の改札は日比谷口・銀座口・烏森口・汐留口の4か所である。山手線・京浜東北線・東海道線のホームは高架部に、横須賀線のホームは東口地下にある。また、東京メトロ銀座線のホームは駅北側の地下に、都営地下鉄浅草線のホームは駅東側の地下に、ゆりかもめのホームは東口駅前広場の高架上にある。

高架部に東海道線・山手線・京浜東北線の島式ホーム3面6線と、地下に横須賀線の島式ホーム1面2線を有する。横須賀線のホームは、東京寄りの4両分をシールド工法で、それ以外の11両分を開削工法で建設した。横須賀線ののりば番号は、地上ホーム番線からの通し番号(7・8番線)ではなく、1番線から振り直している。ホームは曲線部に位置しているため、いずれのホームも立ち番の駅員が常駐する。カーブ上にあるため、電車とホームの間が広く開く。

改札内コンコースと各ホームを連絡するエスカレーターが設置されている。ただし、山手線内回り・京浜東北線大宮方面ホームのエスカレーターは日中帯はすべて上り(ホーム方向)運転で、下り(コンコース方向)運転は平日朝の通勤時間帯のみとなっている。また、横須賀線のホームと連絡するエレベーターも設置されているが、通常は荷物運搬用として利用されている。

烏森口改札内コンコースの一部には途中に階段が設置されている。3・4番線ホームの浜松町寄りに、「一声園」と称するミニ庭園が設置されている。

横須賀線ホームへ通じる駅改札内地下通路の、ちょうど東海道新幹線の高架下にあたる部分はJR東海の敷地であり、東海キヨスクが管理・運営するベルマートおよび飲料水自動販売機が設置されている。

2010年9月に駅施設のリニューアルが発表され、同年11月から工事に着手した。2016年度までの完成を予定している。その内容は次の通り。

南北の改札内コンコースを一体化して拡幅、ホームとを連絡するエスカレーターの増設、乗客用エレベーターの新設
日比谷口・銀座口の改札口を1か所に集約
南北の改札内コンコースに各1か所設置しているトイレを北側に移設・集約
高架橋の耐震補強・改築工事
山手線・京浜東北線・東海道線ホームの上屋を撤去し、大屋根を設置
なお、2012年度から本格的に設置を進めている山手線ホームへのホームドア設置は、リニューアル工事の完了後に行われる予定である。

のりば
番線 路線 方向 行先
地上ホーム
1 JT 東海道線 下り 品川・横浜・小田原・熱海方面
2 JT 東海道線
(JU 宇都宮・高崎線・JJ 常磐線) 上り 東京・上野・大宮・宇都宮・高崎・水戸方面
(上野東京ライン)
3 JK 京浜東北線 南行 品川・蒲田・横浜方面
4 JY 山手線 外回り 品川・渋谷・新宿方面
5 内回り 東京・上野・池袋方面


6 JK 京浜東北線 北行 東京・上野・大宮方面
地下ホーム
1 JO 横須賀線 下り 品川・横浜・鎌倉方面
2 JO 横須賀・総武線(快速) 上り 東京・船橋・千葉・Pictograms-nps-airport.svg 成田空港方面
日中時間帯の京浜東北線は快速運転のみ。

発車メロディ
1・地下1 JT・JO 春風(日本電音製)
2・地下2 JT・JO 陽だまり(日本電音製)
3・6 JK JR-SH1(五感工房製)
4・5 JY Gota del Vient(一滴の風)(東洋メディアリンクス製)
なお、2010年7月19日から同年8月20日の間、発車メロディに『ウイスキーが、お好きでしょ』が使われ、話題となった[5]。これは発車メロディを使ったサントリーの広告という位置付けであり、JR東日本としては初めての試みであった。

利用状況
JR東日本 - 2016年度の1日平均乗車人員は271,028人である。
同社の駅では渋谷駅に次ぐ第7位。ここ10年は微増傾向が続いていたが、2015年度以降は上野東京ラインの開業で大幅な増加傾向となっている。

汐留口側(駅東側)
以前この先一帯は汐留貨物駅だったが、2001年 - 2002年頃より再開発が進み、近代的なオフィス街として変貌を遂げている。

ヤクルト本社ビル
ヤクルトホール
汐留駅(都営地下鉄大江戸線・ゆりかもめ)
ウィング新橋(地下街、旧・京急しんちか)
汐留シオサイト
電通本社ビル
カレッタ汐留
アド・ミュージアム東京
電通四季劇場[海]
日本テレビタワー
日本テレビ放送網 本社
パナソニック電工 東京本社ビル
汐留ミュージアム
汐留シティセンター
汐留シティセンター郵便局
富士通 本社
ANAホールディングス・全日本空輸 本社
旧新橋停車場(鉄道歴史展示室を併設) - ホーム跡と線路跡の一部も併設されているが、日本テレビタワー付近にはそれらの位置をLEDランプで色分け表示しているところがある。
汐留タワー
資生堂 汐留オフィス
ザ ロイヤルパークホテル 東京汐留
東京汐留ビルディング
ソフトバンクグループ
ソフトバンク
コンラッド東京
汐留住友ビル
JSR本社
クレディアグリコル
セガサミーホールディングス本社
ソフトバンクグループ
ホテルヴィラフォンテーヌ汐留
日本通運 本社ビル
汐留メディアタワー
共同通信社 本社
パークホテル東京
トッパン・フォームズビル
東京ツインパークス
アクティ汐留(UR都市機構)
三井ガーデンホテル汐留イタリア街
JRAウインズ汐留(TCKオフト汐留)
新橋駅前ビル - 元来、当地には様々な飲食店が存在していたが、防災面を考慮し一つの建物へ集約することによって1966年に竣工した、日比谷口のニュー新橋ビルと並んで新橋駅周辺では歴史あるビルである。新橋駅前ビル内部には立ち飲みの居酒屋や老舗の料理店、金券ショップなどが所狭しと店舗を構えている。そして建物の入口や内部には2013年時点においても「国鉄新橋駅」や「営団地下鉄銀座線」などの案内表示が残っている。


烏森口側(駅南西側)
古くからの商店街や中小様々な雑居ビルが混在する、ビジネスマンの歓楽街となっている。

烏森神社
港区生涯学習センター ばるーん
新橋四郵便局
新橋文化劇場(映画館)
日比谷口(駅北西側)
駅前広場にはC11形蒸気機関車 (C11 292) が静態保存されていることから、通称「SL広場」と呼ばれている。テレビのニュース番組などでサラリーマンやOLへの街頭インタビューがこの広場で行われることが往々にしてある。広場に隣接して競輪場外車券売場のラ・ピスタ新橋(会員制)がある。また、SL広場横にあるニュー新橋ビルには金券ショップが多く入居している。

SL広場になる以前は野外ステージ(通称:新橋ステージ)があり、昭和20年代後半から30年代初めまでは街頭テレビが設置され、ステージの下部には場外馬券売場(のちに移転、ウインズ新橋)も置かれるなど多くの人達で賑わったが、1972年の駅前再開発計画でステージは解体され、SL広場となった。

また広場にあるSLは毎日3回 (12:00, 15:00, 18:00) 汽笛がなる。ただし2015年1月12日から約2か月間、8年ぶりに塗装工事をするのに伴い、その期間汽笛は鳴らない。

ニュー新橋ビル
ニュー新橋ビル内郵便局
ヤマダ電機LABI 新橋 - 旧・キムラヤセレクト新橋店
新橋亭
第一ホテル東京
内幸町ホール
内幸町
航空会館
みずほ銀行 東京営業部
東京電力 本店
内幸町駅(都営地下鉄三田線) - 新橋界隈と三田線沿線との移動では同駅を用いた方が至便である。
日比谷シティ - 旧・NHK東京放送会館跡地
日比谷公園
日比谷野外音楽堂
千代田区立日比谷図書文化館 - 旧・東京都立日比谷図書館


銀座口(駅北東側)
JRを利用して、銀座6 - 8丁目ないし銀座ナインへのアクセスが便利な出口である。

ヤマダ電機 LABI アメニティー&TAX FREE新橋銀座口店 - 旧・十仁美容整形。
土橋
KONAKA THE FLAG - 旧・キムラヤセレクト銀座口店の店舗を再利用。
資生堂銀座ビル
博品館
銀座博品館劇場
ヤマハホール
ホテルコムズ銀座
三井ガーデンホテル銀座プレミア
新橋郵便局
銀座郵便局
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
バス路線
東口ターミナルの新橋駅前停留所には、都営バスの他に深夜急行バスが発着する。

都01・渋88系統は外堀通り沿いにある新橋駅北口停留所での乗降も可能で、実際に乗り降りする客はこちらの方が多い。また、深夜の駅前周辺の交通事情から深夜01系統は北口停留所までの運行となり、ターミナルまでは客扱いを行っていない。また、橋63系統は北口停留所に停車しない。

なお、業10系統のとうきょうスカイツリー駅・深川車庫方面は新橋一丁目交差点北側(銀座線3番出口付近)の新橋停留所から発車するが、20時以降は駅前ターミナルから発車する。

都06系統においては、国道1号沿いの新橋駅前終点停留所においての下車の他、ターミナルまでの乗車も可能である。]

2010年3月24日からは、駅前に港区コミュニティバス『ちぃばす』が乗り入れるようになった。

新橋駅前
都営バス(東京都交通局)
[ 都01 ] 溜池・赤坂アークヒルズ・六本木駅・青山学院中等部経由 渋谷駅行 - 一時期に急行01系統が存在していた時期があった。
[ 市01 ] 国立がんセンター・築地中央市場循環(築地中央市場を経由しない国立がんセンター循環の便もあり) - 以前は築地中央市場行を市01甲系統、朝日新聞社前循環を市01乙系統として運行していた。
[ 都06 ] 大門駅・麻布十番駅・古川橋・天現寺橋経由 渋谷駅行
[ 業10 ] 銀座四丁目・豊洲駅・木場駅・菊川駅経由 とうきょうスカイツリー駅行/銀座六丁目・豊洲駅経由 深川車庫行(20時以降のみ運行)
[ 橋63 ] 国会議事堂・永田町・市ケ谷駅・牛込柳町駅・新大久保駅・大久保駅経由 小滝橋車庫行
[ 橋86 ] 御成門・神谷町駅・広尾橋経由 目黒駅行(※平日および土曜朝夕のみ運行) - 2000年12月11日までは日本橋三越まで運行されたため、第一京浜上に停留所が設けられていた。
[ 渋88 ] 神谷町駅・六本木駅・南青山五丁目経由 渋谷駅行
港区コミュニティバス『ちぃばす』(フジエクスプレス)
[ 芝ルート ] 虎ノ門二丁目・港区役所・浅草線三田駅前経由 田町駅東口・みなとパーク芝浦行
京成バス
深夜急行バス:新浦安駅経由 サンコーポ西口行
深夜急行バス:新浦安駅・行徳駅・下総中山駅入口・西船橋駅・行田団地経由 桐畑行
深夜急行バス:新浦安駅・海浜幕張駅・検見川浜駅・稲毛海岸駅・稲毛駅経由 千葉駅行(1989年(平成元年)12月18日運行開始)
ちばグリーンバス
深夜急行バス:船橋駅・津田沼駅・八千代台駅・勝田台駅・ユーカリが丘駅・京成臼井駅経由 京成佐倉駅行
深夜急行バス:津田沼駅・八千代台駅・勝田台駅・ユーカリが丘駅・京成臼井駅・公津の杜駅経由 JR成田駅行
成田空港交通
深夜急行バス:西船橋駅・鎌ヶ谷大仏駅・千葉ニュータウン中央駅・印旛日本医大駅・JR成田駅・京成成田駅経由 成田空港行 ※毎日運行
深夜急行バス:金町駅・松戸本町(松戸駅入口)・新松戸駅、常盤平駅・五香駅・六実駅・新鎌ヶ谷駅・西白井駅・白井駅・千葉ニュータウン中央駅・京成成田駅・成田空港行 ※毎日運行
船橋新京成バス
深夜急行バス:西船橋駅・新船橋駅入口・船橋駅北口・東船橋駅入口・高根木戸駅・北習志野駅・船橋日大前駅・八千代緑が丘駅・二和向台駅入口・鎌ヶ谷大仏行
京浜急行バス
深夜急行バス:大船駅・鎌倉駅経由 逗子駅行
深夜急行バス:上大岡駅経由 金沢文庫駅行
羽田京急バス
空港連絡バス(早朝便):シナガワグース・品川駅東口・大井町駅西口経由 羽田空港国際線ターミナル行
西東京バス ※都営バス渋88系統の停留所から発車
深夜急行バス:西八王子駅・高尾駅北口経由 恩方車庫行
新橋駅北口
都営バス
[ 都01 ][ 深夜01 ] 溜池・赤坂アークヒルズ・六本木駅・青山学院中等部経由 渋谷駅行/新橋駅行 - 一時期に急行01系統が存在していた時期があった。
[ 渋88 ] 虎ノ門・神谷町駅・六本木駅・南青山五丁目経由 渋谷駅行/新橋駅行 - 駅前まで乗り入れる前は当停留所が始発・終着だった。
港区コミュニティバス『ちぃばす』(フジエクスプレス)
[ 芝ルート ] 虎ノ門二丁目・港区役所・浅草線三田駅前経由 田町駅東口行
新橋
都営バス
[ 業10 ] 銀座四丁目・豊洲駅・木場駅・菊川駅経由 とうきょうスカイツリー駅行/銀座四丁目・豊洲駅経由 深川車庫行(20時以降は新橋駅前へ)
2000年12月11日までは、渋88系統が東京駅南口まで運行されたため、当停留所にも停車していた。
第一ホテル東京
東京空港交通
成田空港行
将来の予定
東京モノレール羽田空港線が浜松町駅から当駅を経て東京駅方面まで延伸される計画が存在するが、2013年時点では具体化されていない。東京モノレール羽田空港線#新橋・東京延伸計画も。なお、この路線は計画当初、当駅を始発駅としていた。

フィクションでの登場
アニメ映画『機動警察パトレイバー 2 the Movie』では、東京地下鉄の旧駅、いわゆる「幻の新橋駅」が劇中に登場している。ただし、内部の様子に関してはほぼ架空の設定が充てられており、そもそも実際の銀座線は集電方式が第三軌条方式のため一般的な架線方式と比してトンネル断面も小さいうえに車輛寸法自体が長さも幅も小柄と、路線自体の設計規格が小さく、当路線での貨物輸送は全く考慮されていないため、作中のような大型貨物の輸送は不可能である。
映画『252 生存者あり』(2008年公開)でも同様に「幻の新橋駅」が、また現在運用されている銀座線新橋駅の改札口やホームが登場する(すべて千葉県内にセットを設営して撮影された)。ただし、劇中では高潮による駅構内の水没シーンなどがあるため、「フィクションである」ことを明確化するために、企業名を架空の「東京サブウェイ」と変更し、セット内の企業名や駅構内売店の名称なども架空の名称にするなど、実在のものと区別する配慮がなされている。

JR東日本
1872年10月14日(明治5年9月12日)、当駅 - 横浜駅(現・桜木町駅)間に日本初の鉄道が正式開業する際に起点駅として開設された(日本の鉄道開業を参照)。S字カーブのほぼ中間に位置する。なお、1872年6月12日(明治5年5月7日)に品川駅 - 横浜駅間は仮開業していた。

その後、1889年(明治22年)7月1日には東海道本線が神戸駅まで全通し、国土の重要幹線に於ける東京側のターミナル駅として、東京駅の開業まで重要な役目を担うこととなった。1900年(明治33年)に大和田建樹が作詞した「鉄道唱歌」では、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」と歌われた。

現在の駅は2代目で、1914年の東京駅完成により東海道本線の起点が変更され、それまでの烏森駅を新橋駅に改称して現在に至るとともに元の新橋駅は汐留駅に改称され、荷物列車と貨物列車の専用駅となった(その後は汐留駅を参照)。烏森駅は1909年に開業した現在の山手線に相当する電車専用駅であった。開業に遅れて竣工した初代の駅本屋は、辰野葛西建築事務所が設計した万世橋駅を参考に鉄道院が設計したルネサンス様式煉瓦造りであった。その後関東大震災で内部を焼失する被害にあったものの、構体そのものの被害は軽微であったことから屋根部分の改修で戦後まで使用されたが、東海道線と横須賀線の分離運転に伴う同線の地下ホームの建設に支障をきたすことから、1970年(昭和45年)に撤去された。

上野東京ライン開業後は東海道本線の乗降客数が増加すると見込まれるため、2013年2月22日に東海道本線のホーム拡幅工事が実施された。上り線を約400メートルに渡って最大0.78メートル西側へ移設してホームの拡幅を実施した。

1872年10月14日(明治5年9月12日) - 新橋駅(初代)が開業。
1909年(明治42年)12月16日 - 鉄道院の烏森駅(からすもりえき)として仮本屋で開業。旅客営業のみの旅客駅。
1914年(大正3年)
3月30日 - 煉瓦造りの本屋が竣工。
12月20日 - 東京駅開業により、新橋駅(初代)を汐留駅に、烏森駅を新橋駅(2代目)に改称(その後は汐留駅を参照)。
1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道発足。
1968年(昭和43年)10月1日 - 荷物取り扱いを廃止。
1976年(昭和51年)10月1日 - これまで東海道線と共用していた横須賀線のホームを地下に新設。新設当初は総武快速線からの品川行き列車が停車。横須賀線列車は1980年(昭和55年)10月1日から地下ホーム発着となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は同線が通過するようになる。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2013年(平成25年)4月21日 - 東海道本線プラットホーム拡幅工事を実施。
2015年(平成27年)3月14日 - 上野東京ライン開業により、宇都宮線・高崎線・常磐線の乗り入れを開始。


所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
電報略号 シン
駅構造 高架駅・地下駅
ホーム 3面6線(高架)
1面2線(地下)
乗車人員
-統計年度- 271,028人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1909年(明治42年)12月16日
乗入路線 4 路線
所属路線 JT 東海道線**
(東海道本線列車線)
(常磐線〈快速〉直通含む)
駅番号 □JT 02
キロ程 1.9km(東京起点)
◄JT 01 東京 (1.9km)(4.9km) 品川 JT 03►
所属路線 JO 横須賀線**
(東海道本線地下別線)
駅番号 □JO 18
キロ程 1.9km(東京起点)
◄JO 19 東京 (1.9km)(4.9km) 品川 JO 17►
所属路線 JK 京浜東北線**
(東海道本線電車線)
駅番号 □JK 24
キロ程 1.9km(東京起点)
大宮から32.2km
◄JK 25 有楽町 (1.1km)(1.2km) 浜松町 JK 23►
所属路線 JY 山手線**
(東海道本線電車線)
駅番号 □JY 29
キロ程 1.9km(東京起点)
◄JY 30 有楽町 (1.1km)(1.2km) 浜松町 JY 28►
備考 みどりの窓口 有
山区 東京山手線内・東京都区内駅
* 1914年に烏森駅から改称。
** いずれも正式な線路名称は東海道本線。
所在地 東京都港区
所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
東京地下鉄(東京メトロ)
東京都交通局
ゆりかもめ

海上自衛隊 衛星洋上データ通信 衛星通信アンテナ NORA-1

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防衛省が構築している衛星通信システムに接続する為のものです。護衛艦の他、補助艦艇等にも広く搭載されています。
アンテナは死角をカバーするためにそれぞれ2基搭載されており、つねにどちらかが衛星を自動で追尾しアンテナが向き合う状態となっています。


艦艇用衛星通信システム用の衛星通信アンテナで、1985年度計画の「あさぎり」型護衛艦に初めて実装備された。のちに護衛艦にも順次搭載されています。
使用周波数帯はXバンドで、SUPERBIRD B2衛星のXバンド中継器を介して通信を行います。SUPERBIRD B2にはXバンド中継器の他にKaバンド中継器とKuバンド中継器が搭載されています。

艦艇用衛星通信装置 J-SAT(Japan Satellite)は静止衛星(スーパーバード)を使って艦艇と陸上基地、艦艇同士の間で通信を行なうための装置である。J-SATを使ってできる通信には以下の4種類がある。
・衛星電話
・テレタイプ通信
J-SAtを通じて流れている情報を常にキャッチし、またこちらからも情報を送信する。
・ファックス通信
陸上基地や艦艇との情報交換をファックスを使って行なう。
・ボイスネット
作戦行動中、指揮官が各艦に指示を出す時などに使用する。

スーパーバードは赤道上空36,000kmで地上、洋上からの電波を中継しており、艦艇に装備されたスーパーバード衛星通信アンテナ(J-SAT送受信アンテナ)はこれを受信したり、送信するためのアンテナである。艦の左右に取り付けられているこのアンテナはスーパーバードを自動追尾しており、常にどちらかのアンテナがスーパーバードと向かい合っている。

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