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養老鉄道 近鉄600系電車

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養老線はローカル線のため、現・近鉄吸収合併後は専用の新車が全く製造されず、近鉄狭軌線および名古屋線の中古車全般がかき集められ、バラエティに富んでいた。しかし、現在では型落ちした幹線用統一規格通勤車が転入してきたため、基本的には幹線と変わりなくなっており、転属元は軌間の同じ南大阪線か、桑名駅で接続している名古屋線で占められている。

現在の車両
600系・610系・620系
1992年よりモ601(旧モ1656)-サ551(サ6152)-ク501(ク1751)編成が運用開始

近鉄600系電車(きんてつ600けいでんしゃ)は、近畿日本鉄道(近鉄)が同社養老線において運用する目的で、1992年より従来車各形式を改造して導入した一般車両(通勤型電車)である。

養老鉄道発足に伴う養老線の同社への移管に際しては、近鉄の保有車両として養老鉄道へ貸与される形で運用された。その後2014年4月1日付で形式・車両番号はそのままに養老鉄道の保有車両となり、近鉄からは形式消滅した。

 

近鉄各線で用いられている20m級4扉車体を持つ標準型一般車両のうち、比較的車齢の高い旧型の余剰車を、ローカル線である養老線の輸送改善向けに改造・改装して転用したグループであり、狭軌仕様への統一、比較的低速な養老線での運用に合わせた電動車比率の抑制(もしくはモーターの低出力型への変更)が行われている。当系列の導入に伴い、特殊狭軌線(内部線・八王子線)と鋼索線以外の近鉄線旅客用車両からは、吊り掛け駆動方式と非冷房の車両が消滅した。

転入時にワンマン運転対応改造と車外スピーカー設置が行われた。本線系の車両と異なり増結・解結は頻繁に行われないことから、ク530形使用時代のク510形を除いて貫通幌が撤去され、本線系の車両とは若干異なる顔つきになっている。

2013年以降、養老鉄道養老線の新型ATS導入に伴い、2016年までに当系列では601F・602F・604F・606F・611F - 614F・621F・623F - 625Fに車上装置設置工事が行われた。

2016年以降に検査出場した一部編成のパンタグラフが、従前のひし形および下枠交差型からシングルアーム式に交換されており、2017年10月時点では601F・606F・611F・614F・623Fのパンタグラフが交換されている。

車体塗装
本線系列車と同じ塗装(アイボリー(白)とマルーン(赤)の塗り分け)で、近鉄時代から養老鉄道への運営移管当初まではこの塗装で運転されていた。2008年7月6日に最後のツートンカラーである601Fがツートンカラー惜別イベントを実施し、ツートン車は姿を消した。

600系
養老鉄道600系電車
主要諸元
編成 2両・3両編成
台車 Mc車:KD-101/KD-48
T車:KD-61A
Tc車:KD-39C
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サ550形 (左)
窓のない部分にトイレがあった
1992年登場。この系列の前身となる改造元車両の出自は以下のように雑多である。

近鉄名古屋線用1600系(モ1600・モ1650・ク1700・ク1750)
名古屋線用1800系の増結用Tc車(制御車、ク1950)
近鉄南大阪線用の「ラビットカー」として最後まで現役で残った6800系の単独Mc車(制御電動車)モ6850形
南大阪線用6000系の中間付随車サ6150形
これらのほとんどが本線では増結用だった。転用改造後は中間に南大阪線用サ6150形改造のサ550形を挿入した3両編成(Mc-T-Tc)と、2両編成(Mc-Tc)があり、編成は以下の通り]。

モ601(旧モ1656)-サ551(サ6152)-ク501(ク1751)
モ602(旧モ1657)-サ552(サ6153)-ク502(ク1752)
モ603(旧モ1658)-ク503(ク1951)
モ604(旧モ1659)-ク504(ク1952)
モ605(旧モ1615)-ク505(ク1715)
モ606(旧モ6857)-ク506(モ6858)
種車が製造時期の異なる様々な形式から捻出されたため、標識灯・尾灯の形状やロングシートの形状も微妙な差異があり、601F - 604Fと605F・606Fでは座席のひじ掛けの形状や背面高さが異なっている。3両編成は団体専用列車への充当を考慮してサ550形にトイレが設けられていた。

主要機器
Mcの主電動機は6000系の電動車を電装解除して捻出したMB-3082Aであり、出力は3両編成が135kW、2両編成が75kWであったが、現在は全車135kWに統一されている。養老線転属にあたって一部車両のMc車はKD-101形空気バネ台車を新製した以外は、6800系や6000系からの発生品を改造の上で流用した金属バネ台車のKD-39C形 (Tc車) やKD-48形 (Mc車) を装着する。なお、シュリーレン式台車の新製はこのKD-101をもって最後となった。制御装置は1C4M制御のVMC形である。集電装置はMc車連結側に1基搭載するが、606Fは種車の下枠交差型を引き続き搭載した。電動発電機はHG-634形(120kVA)をTcに、圧縮機はD-3-F形をMcとTに装備している。

改造
2008年11月から2013年12月にかけて601F・606F・602F・604Fの順にB更新(2回目の車体更新)が五位堂検修車庫で施工され、7020系に準じた車内デザインへの変更、側面窓の一部固定化とサ550形のトイレの撤去が実施され、トイレのあった場所は立席スペース化された。先に更新された後述の610系や625系と異なり、雨樋の形状が変更されている。

廃車
2016年までに4両の除籍車両が発生しており、605Fは2001年6月に、603Fは2016年4月に廃車された。2016年4月現在は3両編成が2本、2両編成が2本の計10両が在籍している。

 

B更新出場 編成両数 廃車
601F
2008年11月 3両 運用中
602F
2011年8月 3両 運用中
603F
未施工 2両 2016年4月
604F
2013年12月 2両 運用中
605F
未施工 2両 2001年6月
606F
2009年9月] 2両 運用中


601F:東海じゃらん『東海じゃらん号』(2016年10月1日 - 2017年3月27日運転終了)
養老鉄道と東海じゃらんのコラボ企画の一環で、車内へのラッピングや特殊系統板の新調も行われた。

620系
養老鉄道620系電車
サ560形の屋根上他端のパンタグラフ用の引き通し線とヒューズ箱は残されている
サ560形の屋根上
他端のパンタグラフ用の引き通し線とヒューズ箱は残されている
主要諸元
編成 3両編成
台車 Mc車:KD-61
T車:KD-61H
Tc車:KD-61A

1992年登場。南大阪線6000系6011F - 6017Fを養老線用に転属・改造して生じた系列である。大垣寄りからク520形+サ560形+モ620形の3両編成を組成する。600系や610系とは異なり、桑名寄りがMc車となっている。中間のサ560形は元電動車であり、電装解除された。トイレは当初から設置されていない。

主要機器
主電動機と台車は種車のものをそのまま搭載したが、付随車のサ560形は転属改造時にモ6000形の偶数番号車を電装解除したものであるためKD-61Hに変更されており、大垣寄りのパンタグラフは撤去されたが、桑名寄りのパンタグラフは残されている。Mc車の制御器は1C4M制御のMMC形に変更されている。

改造
2009年2月から2010年7月にかけて2回目の車体更新(B更新)工事が623F・621F・624Fの順に施工され、600系とほぼ同様の内装更新と側面窓の一部固定化が行われた。同時期に更新された600系と同様に、雨樋の形状が610系や625系と異なっている。

廃車
2004年に622Fが塩浜検修車庫に回送された後に廃車解体されている。2016年4月現在は3両編成3本が現存する。

 

B更新出場 編成両数 廃車
621F
2010年2月 3両 運用中
622F
未施工 3両 2004年
623F
2009年2月 3両 運用中
624F
2010年7月 3両 運用中

 

近鉄600系電車(3代)
養老鉄道600系電車
基本情報
製造所 近畿車輛
主要諸元
編成 2両・3両編成
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
最高運転速度 65 km/h
車体長 20,720 mm
車体幅 2,709 mm・2,736 mm
全高 4,146 mm
車体高 4,037 mm
主電動機 MB-3082A
主電動機出力 135kW
駆動方式 WNドライブ
編成出力 540kW
制動装置 電磁直通ブレーキ
保安装置 近鉄型ATS
備考 電算記号:D


五箇荘駅(近江鉄道本線)

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五箇荘駅(ごかしょうえき)は、滋賀県東近江市五個荘小幡町にある近江鉄道本線の駅。

「五箇荘」は開業当時の地名表記に基づく駅名で、現在の地名表記は「五個荘」が一般的である。

旧五個荘町は近江商人発祥の地として知られ、市街地中心には古い商人屋敷の町並みが残っています。

相対式2面3線の無人駅で、構内のすぐ南を東海道新幹線が交差している。

西側の米原方面ホームと東側の貴生川方面ホームは構内踏切で結ばれている。

米原方面ホームに隣接して駅舎が設置されており、現在の駅舎は近江商人発祥地・五個荘の景観に合わせた瓦葺の木造平屋建て。東近江市シルバー人材センター五個荘事業所が併設され、センター職員が駅舎管理やレンタサイクルの貸し出しを行っている。

出札窓口の窓口下には特産品展示コーナーが設置されています。

待合室の内装はウッドハウスの様相です。


貴生川方面ホームの東側には側線があり、その貴生川寄りから引き込み線が延びる。

引き込み線は愛知川河岸の砂利採取場のために引かれたもので、採取場廃止後は愛知川河岸付近(滋賀県道52号栗見八日市線との交点以東)の線路は撤去され、近江鉄道のバラストの積載線として使用されている。

現在は滅多に使用されないので、近所の子供たちの恰好の遊び場となっている。

駅周辺は住宅街であり、商店はほとんどない。五個荘地区の中央部から東にずれた位置であるため、同じく地区東寄りに集中する行政サービス諸施設には比較的近いが、観光の中心である金堂地区までは2kmほど離れており、レンタサイクルが便利である。


駅前からは東近江市が近江タクシーに委託運営している乗り合いタクシー「ちょこっと号」の五個荘循環線が運行されている。乗車するには事前予約が必要。旧五個荘町時代は「五個荘町内循環バス」が運行され、便数は少なかったものの、五箇荘駅(バス停名は「五個荘駅」)と町内各地とを結ぶ路線があった。大正末から昭和初期には五個荘自動車によって金堂から五箇荘駅を経由して能登川駅まで乗合自動車が運行され、昭和16年頃までは五箇荘駅と能登川駅を結ぶ乗合馬車もあった。

東近江市役所五個荘支所
五個荘郵便局
東近江警察署五個荘交番
東近江市五個荘福祉センター
東近江市五個荘保健センター
東近江市立五個荘中学校
東近江市五個荘中央公園
東近江市五個荘体育館
小幡人形工房
国道8号
滋賀県道210号五個荘停車場線
中山道
御代参街道

1899年(明治32年)3月19日 - 中山道との交点付近に小幡駅として開業。
1910年(明治43年)1月1日 - 200mほど南へ移転、五箇荘駅に改称。
1943年(昭和18年)頃 - 引き込み線敷設。
1948年(昭和23年) - 砂利採取場および引き込み線の所有を西武建設が引き継ぐ。


1982年(昭和57年) - 老朽化に伴い、駅舎解体。以後現駅舎完成まで、駅舎と呼べる建物が存在しなかった。
2000年(平成12年)9月21日 - 現駅舎竣工。
2014年(平成26年)4月 - ホームのバリアフリー化が完了。これに伴い、貴生川方面ホームの側線が廃止された。

 

所属事業者 近江鉄道
所属路線 ■本線(湖東近江路線)
キロ程 20.9km(米原駅起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式2面3線
乗車人員
-統計年度- 66人/日(降車客含まず)
-2011年-


開業年月日 1899年(明治32年)3月19日
備考 1899年から1910年までは小幡駅。

遠征フィールドキッチンexpeditionary field kitchen

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1日3回の食事で、1人の食事に1,000人分の新鮮な食糧または現場食糧を供給することができます。

1つのISOコンテナ(8 'x 8' x 10 ')は、360平方フィートの食事準備と台所衛生スペースの3倍のサイズに折り畳まれます
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EFKの説明
配置
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2人のスタッフによる1つのコンテナ(360平方フィート)の3つの折りたたみが容易
装置
2つの重い燃料の対流オーブン
2つの燃料点火チルトスキレット
2つの燃料点火トレイライターヒーター
2 23 cu。フィートの冷蔵庫
5つのNSF作業テーブル
断熱食品および飲料容器
食料調理と食器類の完全な補完
3区画燃料点火廃水グリース分離による衛生シンク
台所のドアに手すりを備えた階段2組、機械室のはしご
キッチンに3つのスペースヒーター
3つの115Vデュプレックス・エクステンション/インテリア・コンセント
4つのメイクアップファン(2つのポータブル/ 1つの固定/オーバーヘッドダクトアレイ)

OVC-ESは、地上支援のための戦術的なキッチンシステムの業界リーダーです。私たちのソリューションは、すべてのサービス拠点で使用されており、米軍全員に知られている作業用のコンテナキッチン(CK)を使用しています。私たちは、キャンプ中であろうと移動中であろうと、戦術的な力のために、移動式、固定式、トレーラー式、シェルター式、コンテナ式のソリューションを提供しています。

フィールドキッチン (Field kitchen) は、主に軍用として使用される、屋外で調理を行うための移動式調理機材 (炊事用の車両) である。炊事設備の無い前線地域において兵士に温かい食事を提供する目的で19世紀に開発され、以来各国の軍で使用されている。

最初のフィールドキッチンは、1800年代のプロイセン王国 (現在のドイツ)で開発された手押し式の4輪型のもので、1848年から1852年に行われた第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で使用されたとみられている。

同じ頃、アメリカではチャックワゴン (Chuckwagon) と呼ばれる炊事用の幌馬車が開発され、西部開拓時代のカウボーイらによって使用された。

1892年にプロイセン王国(ドイツ)、イダー=オーバーシュタインのカール・ルドルフ・フィスラーが製作したフィールドキッチンは長い間、世界初の本格的なフィールドキッチンと考えられてきた。このフィールドキッチンは牽引式の2輪型で、長い1本の煙突を持っていた事からGulaschkanone (グーラッシュ・キャノン、つまりシチュー砲) のニックネームが付けられた。

またこれと同じ頃(1896年)、ロシア帝国軍でもフィールドキッチン開発の要求が軍から提示され、1898年に試作車が完成、評価試験を経て1901年頃より実戦配備された。

これらのフィールドキッチンはいずれも軍馬を用いて牽引するものであったが[2]、時代が進み自動車が発達すると、これらの軍用車両による牽引も行われるようになった。

また、最初から自動車の荷台部分にフィールドキッチンの機能を持たせた自走式の車両も開発された。1930年代に大日本帝国陸軍が開発した九七式炊事自動車は自走式のフィールドキッチンである。

現在の日本の自衛隊においても、陸上自衛隊では野外炊具、航空自衛隊では炊事車という名称でフィールドキッチンを運用している。尚、前者(野外炊具)は牽引式、後者(炊事車)は自走式である。

 

トヨモーターR5型/ロールパワー 50CC 1955年

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トヨモーターの中で最も小型排気量の50CCエンジンであり、自転車の三角フレーム下部に取付ける設計開発された、駆動方式は、ベルトやチェーンではなく、エンジン側のローラーを後輪タイヤに圧着して回転させる摩擦式だった。

こうした仕様は、車両の重心バランスや、エンジンによる衣服の汚れ某氏などを研究して導かれたのだろう。「皆様の快速!!よごれずにキレイに乗れる」「第一種バイクのヒープ」をキャッチコピーに売り出された。

原動機付自転車は1955年4月に法令改正が施行され、2サイクル4サイクル別の撤廃と排気量が拡大し第一種は50CC以下、第二種は125CC以下とする区分が新たに設けられた。

この法令改正に対応したR5型は安価で丈夫、女性にも扱いやすい原動機付自転車一種のバイクモーターとして販売された。

九条駅(大阪市高速電気軌道)

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九条駅(くじょうえき)は、大阪府大阪市西区九条一丁目にある大阪市高速電気軌道・阪神電気鉄道の駅。大阪市高速電気軌道における駅番号はC14、阪神電気鉄道における駅番号はHS 44。駅周辺には町工場の多い。

阪神なんば線の開業以降、どちらの路線を使っても近鉄線を経由して生駒駅へ行くことが出来る。またどちらの駅にも近鉄側から列車が乗り入れている。

相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。改札口とコンコースは2階、ホームは3階にある。コンコースは阿波座駅寄りにのみにあったが、阪神なんば線の開業後は弁天町駅寄りにも設置された。改札口は南北の歩道から歩道橋で入れる2か所と高架下の駐輪場から通じる1か所の合計3か所である。

64年の開業時は、西側改札口及び2両分のホームのみ仕上げ工事を完成させて営業を開始した。東側改札口完成後、西側改札口は何故か閉鎖された。このことに関して大阪市交通局は「閉鎖の理由は記録に残っていない」と説明している。しかし、阪神なんば線開業に伴い、再開することになった。

当駅は阿波座管区駅に所属しており、弁天町駅の被管理駅である。

PiTaPa、スルッとKANSAI対応各種カードの利用が可能である。

のりば
地下鉄九条駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1 C 中央線 森ノ宮・長田・生駒・学研奈良登美ヶ丘方面
2 弁天町・コスモスクエア方面

路線バス
大阪市営バスが運行している。

九条新道停留所は地下鉄九条駅からナインモール九条を経由して400m程離れた国道172号線(みなと通)上にある。また、阪神の九条駅からは阪神九条停留所が近い。同線開業後の2009年3月29日に九条南一丁目から阪神九条に改称された。

九条新道・阪神九条

88号系統:大阪駅前 行/天保山 行


1964年(昭和39年)10月31日 - 4号線(現在の中央線)の弁天町駅 - 本町駅(仮)間延伸時に開業。
2009年(平成21年)3月20日 - 阪神なんば線の西九条駅 - 大阪難波駅間開業。
2014年(平成26年)4月1日 - 阪神電気鉄道に駅番号導入。


その他
京阪中之島線が中之島駅から西九条駅を経由して新桜島まで延伸される計画だったが、2017年7月に京阪ホールディングスの加藤好文社長は、「夢洲へのIR誘致が決まれば、中之島駅から南西に進んで地下鉄中央線の九条駅につなげる」との考えを明らかにした。当初計画していた西九条駅から九条駅への変更について加藤社長は「九条駅で中央線とつなげば、京都とIRのある夢洲が結ばれる」と説明している。

駅周辺
1624年から開発が始まり、林羅山によって衢壌島(くじょうじま)と命名された。1674年の洪水の際に九条家の木笏が漂着したことから九条島と表記されるようになったとの伝承がある。九条島は淀川の河流・航行の妨げとなっていたため、1684年に河村瑞賢が九条島を2つに割いて安治川を開削。以降、安治川左岸が九条、右岸が西九条となった。

九条駅周辺にはねじの工場などが多い。

中央大通
阪神高速16号大阪港線
安治川トンネル
大阪府なにわ西府税事務所
大阪九条郵便局
大阪本田郵便局
大阪市立九条東小学校
茨住吉神社
松島公園
松島料理組合


ナインモール九条(九条新道商店街・バファロード) - 商店街を抜けた先に京セラドーム大阪(2006年7月1日に「大阪ドーム」から名称変更)がある事から、同球場を本拠地としているオリックス・バファローズ(バファロード命名時は大阪近鉄バファローズ)を応援している。
キララ九条商店街
九条親栄会商店街(親ちゃんロード)
九条千日通商店街(SENNICHI STREET)
九条OS
シネ・ヌーヴォ
松島新地
大阪掖済会病院


駅番号 C14
所属事業者 大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)
所属路線 C 中央線
キロ程 6.8km(コスモスクエア起点)
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 11,065人/日(降車客含まず)
-2016年-
乗降人員
-統計年度- 21,750人/日
-2016年-
開業年月日 1964年(昭和39年)10月31日

フェラーリ・458イタリア

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フェラーリ・458イタリア

458イタリア(458 Italia )は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリのミッドシップスポーツカーである。

概要
車名の458は4.5Lのエンジン排気量と8気筒を表す。発売当時の税込み価格は、本国イタリアで19万7,000ユーロ 、日本では2,830万円。

シャーシ、ボディ、エンジンは総アルミ製でサスペンションアームも鍛造アルミ製。車体重量は1,380kgに収まっている。ブレーキはブレンボ製モノブロックキャリパーでブレーキローターはセラミックカーボン製。 タイヤはブリヂストンポテンザS001、ピレリP ZERO、ミシュランパイロットスーパースポーツの中から発注時に選択する。ピレリとミシュランの指定空気圧は同一だがポテンザのみ指定空気圧が高い。ミシュランとブリヂストンの重量を比較すると、タイヤ一本あたり約2kgミシュランが軽い。このため正規ディーラーの中には軽量なミシュランとオプションの鍛造ホイール装着を推薦することが多い。タイヤの空気圧が低下した場合にタイヤがたわみ、リムがサイドウォールを押し潰すと全周が断裂する事故が生じるので、これを防ぐために、オプションの空気圧センサーの装備も推奨されている。

沿革
F430の後継として2009年7月28日にデザイン・主要諸元が公開され、同年9月15日のフランクフルト・モーターショーにて正式に発表された。2010年8月までに製造された1,248台のうち、エンジン断熱材固定用接着剤が可燃性であったために車輌が炎上する事故が、カリフォルニア州、パリ市、スイス、中華人民共和国などで5件以上相次いだ。これを受けて同年9月にフェラーリは458の全車をリコールし、断熱材はリベットによって固定するように改善された。なお、中華人民共和国向けのモデルに限り、右リア上部に「458 Italia」のロゴバッジ(シール対応)が付く。

2010年12月からは、日本やイギリス、オーストラリアや香港などに向けた右ハンドル車も注文可能となり、2012年4月からは458スパイダーの右ハンドル車も受注が開始された。なお右ハンドルはオプションではなく左ハンドルの場合と同一価格である。シートは標準品のほか、デイトナシートとセミバケット式レーシングシートを選択することができる。レーシングシートのシート幅は3種類用意されているが手動式調整機構になる。標準シートとデイトナシートでは、3つまでポジション記憶させられるフル電動式機構のオーダーが可能で、プリセットボタンを押すとシート位置やバックレスト角度のほか、ステアリング上下・前後位置も自動調整される。

スパイダーの登場に伴い、クーペについては磁性流体ダンパーのソフトウェアが改められた他、センサーが一個追加され、走行特性可変システム“マネッティーノ“のRACEモード実行時にDCTとトラクション制御システム“F1トラック”のレスポンスがさらに上がるという変更が施され、既存のオーナーも希望をすれば同じプログラムが書き込まれた新CPUユニットの換装とセンサーの有料でのレトロフィットが可能となった。

458スパイダー
2011年7月にマラネッロで開催された世界ディーラー会議において関係者に公開され、その後の8月23日に写真が公開、10月に開催されたフランクフルト・モーターショーにおいて実車が公開され、直後に東京都港区芝の増上寺で開催されたF1パーティーで、フェルナンド・アロンソとフェリペ・マッサの手によって日本初公開された。

なおこの際に、同年3月11日に発生した東日本大震災で被害を受けた宮城県石巻市の市内2か所の児童放課後クラブの再建費用として、フェラーリから寄贈されたアロンソとマッサのサイン入りポロシャツなどがオークションにかけられ、落札された全額が再建に役立てられた。

従来の幌とは異なりアルミ製の電動格納式屋根が装備されたクーペカブリオレとなっている。車重は458イタリアに比べて50kg増加し1,430kgとなった。2シーターMR車でクーペカブリオレを採用するのは世界初である。ルーフ格納時の重心はクーペより下がっているが、オープン・トップ化によってボディのねじり剛性はクーペ比35%の低下を余儀なくされた。

ルーフの展開・格納にかかる時間はそれぞれ約14秒。格納時にはZ字状に折りたたまれるのではなく、屋根が180度回転しながら格納される2分割式を採用。シート背後にゴルフ・バッグ1個分のスペースが確保されている。展開した状態ではクーペと比較しても遜色のない車体との一体感・連続感があり、格納した状態では往年のフェラーリ・レージングカーを彷彿とさせるような、空気の流れを意識した2つの大きなコブが運転席・助手席の双方から車体後方へ伸びる優雅なスタイリングが特徴。

458スペチアーレ
2013年8月20日、458スペチアーレを発表。458イタリアの570PSから35PS増え605PSとなり、0-100km/h加速は3.4秒から3.0秒に短縮された。フロントバンパーとリアデュフューザーは専用のものが奢られた。日本での価格は3,290万円。限定生産モデルではないが、イギリスに割り当てられたオーダー枠は受け付け締め切り後に注文したジェームズ・メイのために1台増やされている。

458スペチアーレ・アぺルタ
458スペチアーレのスパイダーモデル。限定生産された。

フェラーリ・セルジオ
2014年11月に発表された、458スペチアーレ・アぺルタを元に製作された限定モデル。

メカニズム
エンジンは90度V型8気筒NA。燃料噴射機構はボッシュ製コモンレール式高圧直噴システム(GDI)でMRとして初めての採用となる。着火システムもボッシュ製でエンジン上死点付近で複数回にわたって精密に制御され着火される。このシステムを採用したことによって圧縮比を12.5:1(スペチアーレは14:1)に高めることが出来た。

クランクシャフトは伝統のフラットプレーン形式であり、片バンク4気筒は等間隔爆発となるので排気脈動効果によって充填効率が向上する。このためNAの4.5リットルエンジンにも関わらず9,000rpmで570馬力を発生する。またフラットプレーンクランクシャフトのカウンターウェイトは軽量なのでエンジンのピックアップ特性が優れており、アクセルレスポンスが良い。

フェラーリの公式データでは、0-100km/h加速3.35秒、最高速度325km/h、燃費13.7L/100km、二酸化炭素排出量320g/km。3,250rpm時に最大トルクの約80%を得られるトルク特性だが、クランクシャフトやフライホイールマスが軽量なために1000rpm以下で若干ギクシャクするので街中をスムーズに走行するにはコツが必要であるという意見もある。

潤滑方式はドライサンプで純正指定オイルはShellウルトラヒリックス。容量は10リットル。オイル交換の際はアンダーカバーを取り外してドレンプラグを外すために車両をリフトアップすることになる。このため街中のガソリンスタンドでオイルを交換するのは困難である。また純正指定以外のオイルを注入するとフェラーリ社による車両保証が終了する。ちなみに保証は初車検までの走行距離は不問だが、以後2年間の保証継続をする場合の走行距離は9万Km未満の車両が対象となる。新車登録5年目の車検時に走行距離が9万km未満であれば以後2年間(合計7年間)の保証が受けられる。

トランスミッションは、カリフォルニアに続きゲトラグ製7速デュアルクラッチ式F1マチック (ATポジション装備パドルシフトMT) が採用された。操作方法は従来のF1マチックと同様だが、DCTになり変速時のショックが減少し瞬間的な変速が可能となった。パドルシフトはハンドル操作と連動しない固定式で、クラッチペダルやシフトレバーはない。リバースギアはコンソール中央のRボタンを押すことで選択、パーキングブレーキはハンドル下の小型レバーを引く。

シャーシボディはアルコア社製アルミ素材を用いた新設計であり、F430対比で15%のボディのロール剛性が向上している。サスペンションはBWI社製マグネライド磁性流体ダンパーを用いた第2世代の電子制御方式。

高速コーナーでは踏ん張り、高速道路舗装の継ぎ目などを走行する際には突き上げ感の少ない優れた乗り心地を両立。ステアリングコラム右下には“マネッティーノ”と呼ばれる走行特性可変スイッチが装備され、走行場面に応じてエンジン・サスペンション特性の変更が可能となっている。マネッティーノのSPORTモードでは3000rpm以下の低回転時の排気音も小さくなるほか若干乗り心地がソフトになる。RACEモードを選択すると排気バルブが開き、豪快な排気音と共に勢いのある走行特性となる。両モードを選択時にステアリングコラム左下のバンピーノボタンを押すとダンパーの減衰特性が緩やかになり、凸凹道での突き上げ感が少なくなり乗り心地が向上する。雨天時にWETを選択するとアクセルを踏んだ場合の車輪のスリップを抑制する走行特性になる。

2012年初頭にはサスペンション及びトランスミッションのセッティングの改良を受けた。なおこの改良版については、既存の車輌も正規ディーラーでレトロフィットを受けることが可能である。

過去のモデルとは一線を画しており空気力学上、高度なものである。フロントグリルに一つの開口部、両サイドにエアインテークが配される。これは、車体周囲に流れる空気をエアインテークから直接ラジエーターやアンダーボディに送りダウンフォースを発生させるためのもので、ノーズ開口部の弾性ウィングレットは高速走行時に変形、空気抵抗を低減しダウンフォースをより効率的に発生させる構造となっている。これらの空力処理により200km/h走行時では140kgのダウンフォースを実現する。

ベースのスタイリングについてはフェラーリのほとんどの車種を手がけているデザイン工房ピニンファリーナが行なった。先端が長く低いボンネット、滑らかな稜線を描く屋根、隆起したフェンダーなどといったフェラーリのミッドシップ車の伝統を受け継いでいる。砲弾型のテールランプは上面が露出しており、この意匠はエンツォフェラーリやF430から踏襲しているが、LEDを採用したテールランプの数は左右合わせて2個に減っているため、テールランプ1個に後進灯、制動灯、方向指示灯が集約されている。リアフォグランプはリアエンド下部のデュフューザー付近に装備される。

インテリア
ダッシュボードには、ドライバーの目線中央にエンジン回転計、その両脇にTFT液晶ディスプレイを配置。左側のディスプレイには水温・電圧・残燃料などの車両情報、右側にはカーナビゲーション、リアビューカメラ画像、オーディオ、Bluetooth対応ハンズフリーフォンなどのインフォテインメント情報を表示する。なお、内装の装備やデザインにはミハエル・シューマッハの意見が取り入れられている。

ステアリングホイールの形状は丸みを帯びた六角形をしており、エアバッグが備わる位置にはF430と同様にマネッティーノ電子制御システムのモード切り替えダイヤルとエンジン始動ボタンのほか、ロービーム・ハイビーム切り替え、ワイパー、ウィンカーの操作スイッチが備わる[10]。クラクションボタンはステアリングホイールの親指位置に装備。また、オーディオの音量や選曲、ソース源切替えやラジオ局選局は、ステアリングホイール裏側のボタンで操作することもできる。ステアリングコラムは電動式で上下・前後に調節可能。 メーカーオプションとして、ステアリングホイール上部にシフトタイミングをLEDの点灯で知らせる“シフトフラッシャー”を装着したカーボンステアリングが選べる。

製造国 イタリアの旗 イタリア
販売期間 2009年 - 2015年
デザイン ピニンファリーナ
乗車定員 2名
ボディタイプ 2ドアクーペ
スパイダー
エンジン 4.5L V型8気筒 DOHC
駆動方式 MR
最高出力 425kW (578PS) /9,000rpm
最大トルク 540N·m (55.1kgf·m) /6,000rpm
変速機 7速DCT
サスペンション 前: ダブルウィッシュボーン
後: マルチリンク
全長 4,527mm
全幅 1,937mm
全高 1,213mm
ホイールベース 2,650mm
車両重量 1,380kg
先代 F430
後継 488GTB

J79 1軸式ターボジェットエンジン

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J79 1軸式ターボジェットエンジン

J79は、1950年代後半から1960年代の超音速軍用機に多用された1軸式ターボジェットエンジン。

J79-IHI-11A
F-104J/DJ スターファイター(栄光)で使用したGE-11Aの石川島播磨重工業株式会社(現IHI)でのライセンス版。

ゼネラル・エレクトリック(現GE・アビエーション)が開発し、西側各国で総計17,000基以上が量産された。従来ジェットエンジン分野を主導していたイギリスの水準を越えた、初のアメリカ製エンジンの一つである。

前作J73(英語版)を基に、M2級を狙った発展型J73-GE-X24Aの仮称で、1950年代初頭から開発着手された。亡命ユダヤ人の主任設計者ゲルハルト・ノイマン(Gerhard Neumann)は、小径化・小型化目的で当時少数派となりつつあった単軸式を敢えて選択し、圧縮器静翼を全可動式とすることで必要な効率を確保、チタニウム合金の積極採用など意欲的に新技術に挑戦したため、実用化には比較的長時間を要した。

初の空中試験は1955年5月20日に、4発爆撃機ノースアメリカン B-45Cの爆弾槽から吊下して行われ、主エンジンの J47を全停止し、J79単発のみで飛行した。実機への適用は、1956年2月17日に初飛行したロッキード YF-104Aによってで、J65からの換装によりYF-104Aは、世界初のM2級戦闘機の名を航空史に刻んだ。また、同年、XF4D-1の試作2号機がJ79の追加試験のためGEに貸与され、元々は遷音速機の F4Dを水平飛行で音速突破させている。グラマン F-11F-1 タイガーでもJ79搭載の性能向上型が試作され、最高速度はM2に達した。

構造的に複雑かつ軽金属を多用した初期型は運転温度に制約が強く、F-104はそれゆえに最高速度がM2に制限された(推力にはまだ余裕があった)。後に一部鋼化されるなど生産合理化、耐熱限界の向上が図られており、これを搭載したイタリア空軍のF-104Sや、F-4戦闘機においては、最高速度はM2を越えている。以降30年以上に渡り、アメリカのみならずベルギー、カナダ、西ドイツ、イスラエル、イタリア、日本においても、総計17,000基以上が生産された。

イスラエルにおいては、ネシェル(ミラージュ5の無断コピー機)の改良型であるクフィルの搭載エンジンに採用された。ネシェルのアター9 エンジンと同程度のサイズ・重量でありながら、推力と燃費効率の双方に優り、その高性能を示した。また、アメリカ軍の初期の超音速機に採用されたJ57 エンジンとの比較では、より小型でありながらなおかつ推力に優っていた。F-8戦闘機のエンジンをJ57からJ79に換装した改良型であるV-1000は、制式採用はなされなかったが、その高性能を高く評価されている。

欠点としては、特定の回転域で共振による独特の騒音を発し、また、濃く視認性の高い排気煙が脆弱性を高めることがベトナム戦争時の戦訓で判明している。

また、コンベア(ジェネラル・ダイナミクス)の要請でコンベア880向けに開発した民生版CJ-805は、高価な耐熱金属の使用量を減じたためホットセクションが溶解するトラブルが多発し、燃費も悪く整備も困難で不評を極めた。CJ-805はシュド・カラベルのアメリカ向け原型機1機にも使用されているが、燃費向上策でアフトファン(aft-fan, 簡易ターボファン)化されたCJ-805-23は、搭載機コンベア990が少量生産に留まり普及しなかった。また、戦闘機用途でも、P&W TF30以降アフターバーナー付超音速ターボファンが実現したことで、単軸式の限界に挑戦したJ79は斜陽化した。

とはいうものの、1970年代末においてもエンジンをJ79に換装したF-16/79が開発された。これはノースロップ F-5E/Fの後継機となる途上国向け戦闘機であり、F-16の言わばダウングレードバージョン(モンキーモデル)ではあるが、いまだ第一線の戦闘機用ジェットエンジンとして通用する事を示した。ただし、この機体は、通常の新型エンジンを搭載したF-16の輸出が解禁された事により、試作のみに終わった。

J79の開発、およびF-104が達成した数々の新記録により、1958年ノイマンとGEはコリヤ・トロフィー(Collier Trophy)を授与され、更にF-104設計者のクラレンス・ジョンソンやアメリカ空軍と共に、ダブル受賞している。

大推力機として当時でも異例の単軸式で、多数の可変静翼を備えた17 ステージの圧縮機により、二軸式よりも軽量に同等の圧縮比を確保している。タービンブレードの一部は切削チタニウム製で、現在ではオーバーホール時に単価数千ドル要するとされる。スロットル開度によっては、排気流がバイパスフラップによって擾乱され、独特な共鳴音を発する。このため、NASA機のF-104B N819NAにはHowling Howland(遠吠えするハウランド)の愛称が付いた。

ターボシャフト版はLM1500の名で、発電やパイプライン圧送用に陸上で、船舶推進用に海上でも使用された。

また、軸受機構は、住友金属工業が担当した新幹線0系電車の主軸設計時の参考とされた。

仕様 (J79-GE-17)
形式:アフターバーナー付きターボジェット
全長:17.4 ft(5.3 m)
直径:3.2 ft(1.0 m)
乾燥重量:3,850 lb(1,750 kg)
圧縮機:17段可動静翼付き軸流式圧縮機
推力:
通常時:11,905 lbf(52.9 kN)
アフターバーナー時:17,835 lbf(79.3 kN)
全圧縮比:13.5:1
タービン入り口温度:1,210 °F(655 °C)
定格燃料流量:
ミリタリー推力時:0.85 lb/(h・lbf)(87 kg/(h・kN)
アフターバーナー使用時:1.965 lb/(h・lbf)(200 kg/(h・kN)
推力重量比:4.6:1(45.4 N/kg)(アフターバーナー使用時)


 

養老鉄道 大垣駅(養老線)

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養老鉄道株式会社(ようろうてつどう、Yoro Railway Co., Ltd. )は、岐阜県西部・三重県北部を走る養老線を運営する鉄道会社である。近鉄グループホールディングス傘下の鉄道事業会社である近畿日本鉄道(近鉄)の子会社で、2007年(平成19年)10月1日付けで近鉄から養老線の運営を引き継いでいる。

なお立川勇次郎が設立し1913年(大正2年)から1919年(大正8年)にかけて養老線を開業させ、1922年(大正11年)まで同線を運営していた養老鉄道とは別の企業である。

社紋は親会社近畿日本鉄道の社紋の中央に「 Y 」の文字を入れたものになっている。


JR大垣駅の南西に位置しJR線ホームとは中間改札経由で連絡しています。線内で最大の利用客数を誇ります。

養老鉄道は独立した地上駅舎を持つが、ホームは中間改札を挟んでつながっている。

頭端式ホーム1面2線を有する地上駅で、桑名方面から揖斐方面へはスイッチバックとなる。だが渡り線が片方向であるため、1番線は桑名方面からの出入りしか対応していない。

ダイヤ上では当駅を跨いで直通運転する営業列車はなく、それぞれの方面へは乗り換えが必要である。 また、出口付近には精算券の券売機がある。無人駅から乗車した場合はこの券売機で精算券を購入し、乗車駅で発行された乗車票と一緒に改札係員に渡して出場することになる。

ホームは方面毎に分かれています。古レール支柱の大きな上屋が設置されています。
のりば
のりば 路線 方向 行先
1 ■養老線 上り 養老・多度・桑名方面


2 下り 池野・揖斐方面

待合室は細長く、荷物置き場付きFRP製椅子が設置されています。


駅営業面
有人駅。
きっぷうりば(出札窓口)があり、往復乗車券、回数乗車券、定期乗車券(養老鉄道線内相互間及び大垣接続のJR東海との連絡定期)を発売している。


連絡改札口
JR大垣駅の1番線、米原・美濃赤坂方の養老鉄道への乗換通路上には連絡改札口が設置されている。この連絡改札口は2段階で設置されていて、JR東海側は自動改札機(無人改札)、養老鉄道側は有人改札口になっている。この連絡改札口には自動券売機、自動精算機等が設置されていない為、JR東海から養老鉄道へ乗り継ぐ場合で、乗車券の乗り越し精算が必要な場合、TOICA等のIC乗車券利用の場合でチャージが不足している場合、複数枚の乗車券で乗車の場合でそれが自動改札機に対応していない場合、養老鉄道の乗車券を所持していない場合や、養老鉄道からJR東海へ乗り継ぐ場合で、JR東海の乗車券を所持していない場合やJR東海の乗車券で青春18きっぷ等の自動改札機に対応していない乗車券を所持している場合はこの連絡改札口が利用出来ない為、駅ビルアピオ内2階にあるJR東海の改札口へ向かう必要がある。


所属事業者 養老鉄道
所属路線 養老線
キロ程 43.0km(桑名起点)
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線


乗降人員
-統計年度- 7,789人/日
-2012年-
開業年月日 1913年(大正2年)7月31日


フライバードAC 220cc

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フライバードAC 220cc 1953年 土井産業/名古屋市
1953-54_3rd Model FLYBIRD AC(O.H.V. 220cc) 220ccまで排気量を増大したAC型が登場。

220CC 手動3断変速機、7.5馬力。アルミ製の一体式のヘッドライト、ベルクランク方式のロケッテト型のリヤクション、ウエットサンプのオイル潤滑方式、アルミフロントフォークなど多数の特許を取得した独創的な技術と個性的なスタイルが特徴。


土井産業株式会社(どいさんぎょう、Doi Sangyo Co., Ltd. )とは、愛知県小牧市に本社を置く建設機械や土木特殊機械の修理・メンテナンス・販売を行う会社である。
1945年(昭和20年)4月、土井産業は航空機の組み付けおよび整備を業務として創業。戦後の復興期にはミシンおよびオートバイを自社開発するメーカーとして技術を育み、高度成長期を前に建設機械の整備事業に進出。1959年(昭和34年)には神戸製鋼所の指定工場となり、以来日本の建設機械・産業機械の発展と歩みをともにしてきた。現在、クレーンおよび油圧ショベル、産業用コンプレッサの販売・サービスを主要業務とする機械サービス企業へと成長した。

沿革
1944年4月25日 - 土井航空機工業株式会社を設立。
1945年8月 - 社名を土井産業株式会社に変更。
1948年3月 - 自社製ミシンの製造開始。
1951年3月 - 軽自動二輪車(フライバード号)の製造開始。 
1953年6月 - 建設機械・特殊車輌の整備、 改造製造の研究部を設立。建設機械一般の整備に従事。
1959年9月 - 神戸製鋼所(コベルコ)の中部地区指定工場(建設機械部門・コンプレッサ部門)となる。
1962年2月 - 小牧工場(現在の小牧営業所)完成し操業開始
1965年1月 - 神戸製鋼所及び神鋼商事の販売代理店となる。
1972年2月 - 東海営業所開設
1974年12月 - 静岡営業所開設
1976年11月 - デンヨーの販売代理店、サービス工場となる。
1976年12月 - 豊橋営業所開設
1983年10月 - 神戸製鋼所建設機械の中部地区総代理店となる。
1984年4月 - ヤンマーディーゼルの販売代理店、サービス工場となる。
1986年6月 - 神鋼コベルコ建機の販売指定代理店、サービス指定工場となる。
1997年7月 - コベルコ・コンプレッサの販売代理店サービス指定工場 となる。
1997年12月 - 本社新社屋完成
1999年10月 - コベルコ建機の販売指定代理店、サービス指定工場となる。
2004年4月 - コベルコクレーンの販売指定代理店、サービス指定工場となる。
2007年3月 - コベルコクレーン、コベルコ・コンプレッサと資本提携

国鉄201系電車

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国鉄201系電車(こくてつ201けいでんしゃ)は、1979年(昭和54年)に試作車が登場し、後に量産された日本国有鉄道(国鉄)の直流通勤形電車である。

抵抗制御に代わるより省エネルギーな主回路制御方式として、1960年代よりチョッパ制御方式が注目された。大容量の半導体素子が開発されたこともこの動きを後押しし、国鉄も1967年以降、101系や103系を用いた現車試験を開始した[1]。1970年代後半になると、101系電車の老朽化も進行し、新形式電車の機運も高まってきた[1]。そして1979年、国鉄として初の電機子チョッパ制御(サイリスタチョッパ制御)を採用し、電力回生ブレーキを装備した「省エネ電車」として設計・製造された本形式試作車(201系900番台、5両編成2本)が落成した。

主回路以外も新機軸が多数導入され、試作車完成の段階では次世代標準型通勤形電車として鉄道業界などから大きな期待が寄せられ、1981年(昭和56年)から量産が開始された。だが、当時の国鉄の財政事情では電機子チョッパ制御器の製造コストの高さがネックとなり、中央線快速・中央・総武緩行線・京阪神緩行線の3線区に合計1,018両の投入に留まった。

その後の標準型通勤形電車は旧来の抵抗制御をベースとした界磁添加励磁制御方式を採用し、新開発のDT50系ボルスタレス台車と軽量ステンレス車体によって大幅な軽量化とコストダウンを実現した205系に移行した。
1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化(JR発足)後は、東日本旅客鉄道(JR東日本)に794両が、西日本旅客鉄道(JR西日本)には224両が継承された。JR東日本では未更新のまま2005年から後継系列への取り換えによる老朽廃車が開始され、2011年6月に営業運行をすべて終了した。JR西日本では内外装のリフレッシュ工事を受け、引き続き使われている。

派生系列として東京メトロ千代田線直通用の地下鉄乗り入れ仕様でアルミ合金製車体を備える203系が存在する。この他、福岡市交通局1000系電車は本系列をベースに車体をセミステンレスとしたもので、(落成時の)主要機器類と台車は本系列と同じものを使用している。

車体
車体材質は鋼製とし、基本的な構造は従来の通勤電車を踏襲したが、新系列であることをアピールすべく前面形状は刷新された。試作車1編成5両の製造を担当した東急車輛製造の提案により、591系の平妻側運転台の形状をアレンジした左右非対称型のデザインが採用された。前面の上半分の大半を用いた大きな開口部にジンカート処理と呼ばれる特殊な防錆皮膜処理を行った黒い鋼製パネルをはめ込んだものである。

試作車では、基本では103系の構造を踏襲しているが、新系列車両としての新機軸を盛り込んでいる。

外板材質は熱間圧延軟鋼板 SPHC を引き続き採用し、塩化ビニール製絶縁屋根布を張り付けている。
車両番号標記は特急形車両と同様のステンレス製切り抜き文字を採用。
固定窓の支持のHゴムを廃し、押え金方式を採用。
客用窓は下段上昇・上段下降式の外はめ式ユニット窓が採用され、上段窓にバランサーが取付られた。
車内は冷房装置搭載を前提として構成の見直しを行ない、そのため平天井となったことから外部屋根のカーブ形状も見直され、103系と比較して緩いものとされた。
冷房装置はAU75B形集中式を1基搭載。冷気は平屋根構造の車内風洞を介して車内に送り込み、三菱電機製「ラインデリア」(横流補助送風機)によって扇風機なしでもまんべんなく車内に行き渡る構造とした。
換気用通風器はグローブ形からFRP製の角形押し込み式を採用。
量産車では以下の変更点がある。

外板材質を2.3mm圧の高耐候性圧延鋼材 (SPA) に変更し、構造から見直すことで構体重量で約1.3tの軽量化を実現。
台枠と側板の接合部がスポット溶接から連続溶接に変更。
103系で深刻な問題となっていた雨水の浸入による台枠の腐食がほぼ解決。
屋根部分はビニール布張りを廃止して塗り屋根方式に変更。
試作車では運転台付き車両のみ乗務員扉の開閉角度改善を図って車体長を19.7mと中間車より0.2m長くしたが、量産車では19.5mに統一した。
分割・併合編成で中間に運転台付き車両が入る場合に整列乗車時の扉位置ずれの原因となることが指摘されたためだが、運転台寸法は変わらず干渉する直後の客室スペースが0.2m分縮小されたことに伴い乗務員扉直後の戸袋窓を省略。
前面手すりを大型化。
側面見付の統一感を図る見地から、戸袋窓を客用扉に合わせて小型化した。
試作車では「車内の天井高さが低く感じられる」との評が多かったことから構成の見直しが行なわれ、量産車では天井高さが75mm広がった。また、座席そで仕切の形状が単純な一枚板状のものとなった。
冷房装置はAU75D形およびAU75G形。
横流ファン(ラインデリア)は台数を半減させ、扉付近の4ヶ所のみとした。
増備は継続されたものの、その後の国鉄の財政状況はきわめて厳しいものとなった。このため1983年度分からはコストダウンを計る見地から設計変更が行われた。このグループを指して「軽装車」と呼ぶ。軽装車での変更点は以下の通りである。

前面黒色部のジンカート処理鋼板を、電解二次着色アルミニウム板に変更。
通風器は、FRP製から安価な鋼製に変更。
客用窓は、103系に準じた2段上昇式に逆戻りし、これに伴って構体設計が大幅に変更。
車両番号標記は、一般の通勤形電車と同様の転写式に変更。
車内荷棚は、ステンレス製からアルミニウム製に変更。
一部床下機器のカバー省略。


主要機器
電源・制御機器
MM'ユニットを採用し、M車(モハ201形)にはチョッパ制御器・主制御器・抵抗器・集電装置が、M'車(クモハ200形・モハ200形)には補助電源装置・電動空気圧縮機が搭載される。

主回路にCH1系電機子チョッパ制御器とHS36形補助制御器(試作車のみ)もしくはCS53系主制御器を組み合わせて搭載し、これらによってMT60形主電動機(直巻整流子電動機)を制御する。

電機子チョッパ制御は主回路で最も大きな電流が流れる電動機の電機子回路をチョッピングする方式であるが、回生ブレーキ作動時に昇圧チョッパ回路を構成するため、高速域での回生電圧が架線電圧を大幅に上回って回生失効しやすいという問題点があった。このため本系列が開発された1970年代後半には、地下鉄以外の私鉄各社ではこの方式に代えコスト面でも有利な界磁チョッパ制御方式が普及した。
しかし、1960年代後半より独自にチョッパ制御器の開発に着手していた国鉄は、通勤形のみならず近郊形系列などへの幅広い応用を目指しており、電動機の設計変更と主回路構成の工夫(直並列切り替え)によって120km/hからの回生ブレーキを実用可能とする制御システムの構築を研究していたこと、力行時の抵抗器によるロスを削減することで得られるメリットよりも無接点・無段階制御・最高速度域からの回生ブレーキが実用可能であるメリットを重視しており、主電動機のMT60形もこの目的に沿うよう新たに設計された。
MT60形は定格回転数1850rpm/最高回転数4850rpmと既存のMT54形やMT55形といった前世代の標準形電動機と比較して高い定格回転数となった。

高速域での回生ブレーキ時に発生電圧過大に伴う回生失効を防止することを狙ったため、国鉄の制式電車用直流直巻式電動機としては当時最大の150kW級電動機となったものの特性が高速寄りにシフトしているため、低速域での加速性能は110kW級のMT55形を搭載する103系と大差ないレベルにとどまっている。
回生制動を常用することを基本として計画されたため、本系列ではパンタグラフの架線からの離線による回生失効を防ぐべく、地下鉄乗り入れ用の301系などと共通の架線追随性が高いPS21形パンタグラフが採用された。

主電動機の大出力化に伴う集電容量の不足も考慮して、試作車では各電動車1ユニット(2両)につき2基ずつパンタグラフが搭載された。
補助電源装置にはブラシレスMG DM106(定格容量190kVA)を、空気圧縮機 (CP) にはメンテナンスフリー化を図って誘導電動機を採用したレシプロ式 MH3075A-C2000M を使用する。

試作車では、MGに MH135-DM92(定格容量160kVA)、CPは立形3シリンダ式の MH113B-C2000M といった115系などの在来車で採用実績のあるものを搭載していたが、後に量産車と同じものに換装されている[。
運転台の主幹制御器は、試作車において従来からの縦軸式回転型 MC59X(クモハ201-901、クハ200-901)と新幹線電車に類似する横軸式前後操作型 MC60X(クモハ201-902、クハ200-902)2種類の比較検討が行われた結果、量産車では横軸式ハンドルの MC60 となり、ブレーキ弁は通常のME49形が搭載された。

ブレーキ
応荷重装置付き電機子チョッパ制御回生ブレーキ併用電磁直通空気ブレーキ(SELR)と自動ブレーキ部のブレーキ制御弁として3圧力式のE制御弁が採用された。

100km/hからの回生ブレーキに対応するため、定格速度の高いMT60形を45%弱め界磁で使用することで、回生電圧を抑えて回生失効を防ぐ対策がなされたが、それでも高速域では回生電圧が架線電圧を大幅に超えた。

回生失効が発生しそうな場合は主回路電流を絞ることで発電電圧をコントロールできるが、引き換えに電気ブレーキ力が不足し、空気ブレーキ系に依存すると制輪子磨耗過大の問題点がある。
対策として75km/h以上の高速時からブレーキでは主回路に0.27Ωの抵抗を挿入し発電電圧を落とし、充分な電気ブレーキ力を確保した。さらに90km/h以上では高速絞りが作動する。
これらの問題点は、国鉄の回生ブレーキに対するノウハウの蓄積も不十分だったためで、当初の予測以上に空気ブレーキ系への依存度が高くなってしまっている。このため、量産開始後も回生ブレーキの動作パターン研究が進められ、増備の度に回生特性の改良が実施された。

台車
試作車
301系と同様に乗り心地を重視して車体直結(ダイレクトマウント)式の空気バネ台車が採用され、主としてブレーキ装置の相違からDT46X形・Y形(動力台車)とTR231X形・Y形(付随台車)の計4種が試用された。これらはいずれも軸箱支持方式がシリンダをゴム製シーリングで被覆した円筒案内式である。
量産車
試作車のダイレクトマウント方式が検修設備非対応を理由に整備陣からの反対によって取りやめとなった。このため[要出典]枕バリ部分をDT32系台車と類似のインダイレクトマウント方式(大径心皿方式)に変更し、軸バネ部シリンダのシーリングを省略したDT46形・TR231形、さらに軸バネをエリゴバネに変更したDT46B形・TR231A形に変更された。
接客設備
20年程度先を見越した接客設備を目指して、本系列では様々な改善が図られた。

扉間の7人掛けロングシートのモケットを3-1-3に分割し、中央の1人分だけ色を変えることで座席定員どおりの着席乗車を心理的に誘導するというデザイン面での工夫。
これ以降モケットの柄を1人ずつに区分するなどの手法は、国鉄形車両の更新修繕や他の鉄道事業者にも波及し、目立たないながらも以後の通勤電車のあり方を変えた改革である。
試作車では当初客室内にはスタンションポールが設置されて、ラッシュ時の乗客の動線調査が実施された。
その後の通勤電車における乗降問題に貴重な資料を提供したが、本系列では後に撤去された。
車内のカラースキームは、当時の国鉄車両においては寒色系が一般的であったが、本系列が新世代通勤電車ということから暖色系が採用された。
壁面→ベージュ(一部ブラウン)・座席→濃茶色+中央部オレンジ・床面→ウォームブラウン。
中央線快速用車両の座席モケットは1995年 - 1998年ごろに103系と同時に全編成で下記画像のスカイブルー系に張り替えられた。
ステンレス製客用扉内側は無塗装とした。


形式
本系列は電動車にMM'ユニット方式を採用しており、モハもしくはクモハの201形と200形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。車両の方向は東海道本線基準で奇数向きは東京寄り、偶数向きは神戸寄りを表す。

クモハ200形 (M'c)
モハ201形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機などの補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。試作車のみ存在する。
モハ201形 (M)
クモハ200形またはモハ200形とユニットを組む電動車で、パンタグラフや主制御器などの主回路を構成する機器群を中心に搭載する。
モハ200形 (M')
モハ201形とユニットを組む電動車で、クモハ200形と同様に電動発電機と空気圧縮機を搭載する。
クハ201形 (Tc)
奇数向き専用の制御車。
クハ200形 (T'c)
偶数向き専用の制御車で、試作車には存在しない。
サハ201形 (T)
運転台のない付随車で、試作車落成時には存在しなかった。
各社の状況
国鉄時代を含め、東西間で移動した車両は存在しない。

基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
西日本旅客鉄道
製造所 東急車輛製造、日本車輌製造、川崎重工業、近畿車輛、日立製作所
製造年 1979年(試作車)
1981年 - 1985年(量産車)
製造数 1,018両
主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
最高運転速度 100 km/h
設計最高速度 110 km/h
起動加速度 2.3 km/h/s (2M2T・4M4T)
2.5 km/h/s (6M4T)
2.8 km/h/s (4M2T)
減速度(常用) 3.5 km/h/s
減速度(非常) 5.0 km/h/s
編成定員 560名(4連固定)
848名(6連固定)
992名(7連固定)
1,480名(10連固定)
全長 20,000 mm
車体長 19,500 mm
全幅 2,800 mm
全高 4,140 mm
車体 普通鋼
台車 円筒案内式インダイレクトマウント空気ばね台車
DT46(B)形・TR231(A)形
主電動機 直流直巻電動機 MT60形
主電動機出力 150kW
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比 1:5.6=15:84
定格速度 52.1 km/h
制御方式 サイリスタチョッパ制御
弱め界磁制御
制御装置 CH1/HS36・CS53・CS53A
制動装置 回生制動併用電磁直通ブレーキ
保安装置 ATS-S・ATS-SN・ATS-SW・ATS-B・ATS-P
EB・TE装置(JR西日本所属車一部)

川崎KHR-1リジッド・ローター実験機

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KHR-1は、1968年(昭和43年)、川崎重工が製作し、飛行試験を行ったリジッド・ローターの実験機です。 新技術の研究のために1機だけ製造した実験用のヘリコプターです。
母機は当時川崎重工が製造していたKH-4というヘリコプターで、これはライセンス生産を行っていたベル47Gの能力向上型でした。

リジッド・ロータは無関節ロータとも呼ばれ、構造がシンプルで整備がしやすく操縦もしやすいという優れた特性を持っているため、最近の新しいヘリコプターの多くに採用されています。
KH-4はシーソーローターの機体でしたが、これを独自に開発した特殊鋼製板バネ式ハブの3枚ブレードのリジッド・ローターに置き換えた

試験の結果、リジッド・ローターの良好な操縦性が実証され、このリジッド・ロータをベースにして新たにKH-7ヘリコプターの開発が進められましたが、当時のオイルショックの影響を受けて、このKH-7ヘリコプターの開発は途中で中止されてしまいました。

しかし、同じクラスのヘリコプターの開発を目指していたドイツのMBB(メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム、現在のユーロコプター・ドイツ社)との共同開発のBK117へと発展しました。

しかし、BK117では、ローターシステムはMBBの担当となり、KHR-1で実証されたローターハブ技術は活かされることはありませんでした。
金属製のリジッド型ローターハブ。BK117とは全く異なる設計です。
BK117のハブはチタン製で、ほとんど固定翼機のプロペラ・ハブにようなもの。ヒンジの役割はブレードの根元部が担っています。

このハブは特殊鋼製板バネがフラッピングを担っています。
機械的なベアリングは、ブレードの迎え角を変えるためのフェザリング・ヒンジだけ。
フラッピングとリードラグのヒンジはありません。

BK117で独自ハブ設計を活かせなかった川崎重工は、その後OH-1につながる複合材ヒンジレス・ハブの開発を推し進めます。

OH-1では複合材料に変わって薄い板状のハブプレートが復活している。川崎重工のローター屋の執念とも言える。ヘリコプターの心臓部であるロータを開発した能力と実績は、その後のBK117ヘリコプターやOH-1観測ヘリコプターの開発に大きく貢献した。

西大垣駅 養老鉄道養老線

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西大垣駅(にしおおがきえき)は、岐阜県大垣市木戸町910にある、養老鉄道養老線の駅。養老鉄道本社や富吉検車区大垣車庫が併設されている。

養老線の業務の中核的存在ですが、大垣駅からほど近い立地も災いしてか利用客は少ない。

駅構造
相対式2面2線のホームを持つ行違い可能な地上駅。駅舎は大きな木造駅舎です。中線がある。ホーム間の移動は構内踏切を利用する。駅前の広場は広い。

大垣車庫が併設され、構内は広い。

改札口は普段は閉められており、電車が来た時に駅員が開けて改札する(いわゆる列車別改札)改札口のラッチは木製。

切符売場には簡易型の券売機が1台、有人窓口もあります。

かつては隣接するイビデン大垣事業場(旧大垣工場)から貨物引き込み線があり、昭和40年代まで使用された。

線路や積み込み設備は長らく残っていたが、2000年頃、イビデン大垣事業場の再開発により完全に撤去された。

西大垣駅プラットホーム
ホーム 路線 行先
1(反対側) ■養老線 (下り) 大垣・揖斐方面(行違い時のみ)


2(駅舎側) ■養老線 (下り) 大垣・揖斐方面
(上り) 養老・多度・桑名方面
実際には上記ののりば番号標はない。上記の番号は列車運転指令上の号線番号である。

構内踏切を渡った先の1号線が上下副本線、駅舎側の2号線が上下本線となっており、2線とも両方向の入線・出発に対応している。そのため、行違いがある場合を除き、上下両方向とも2号線ホームのみを使用している(ただし現状のダイヤでは大半の列車が行違いを行っている)。1号線ホームは行違い待ち列車及び車庫へ入出庫する回送列車が使用する。

なお、駅掲示時刻表ではどの列車が1号線ホームを使用するかは記載されておらず、次の列車が1号線ホームを使用する場合にその都度、改札ゲートにその旨を書いた案内板を掲示して対応する。

岐阜フィルムコミッションの事業の一環として、ロケの誘致をはかっている。2005年は「長い散歩」など、2006年には「大奥」・映画「黄色い涙」などのロケ地として撮影が行なわれた。「黄色い涙」(2007年公開)では古い佇まいの駅舎が作中では阿佐ケ谷駅として設定された。

駅営業面
有人駅。きっぷうりば(出札窓口)があり、往復乗車券、回数乗車券、定期乗車券(養老鉄道線内相互間)を発売している。
近鉄時代には駅長が配置され、烏江駅から揖斐駅までを管理していた。(後に養老線管理局が設置され廃止)


利用状況
主として通学・通勤用に利用される。工場への通勤客のための駅及び車庫所在駅という感が強い。

特徴
初発の桑名方面行き列車は当駅を始発としている。これ以外に当駅始終着列車はなく、車庫への送り込み・送り出し列車は基本的に当駅と大垣駅の間を回送する。なお、2018年3月17日のダイヤ改正よりこの回送を営業列車化した上で、西大垣 - 大垣駅間の区間列車が設定される。

また、当駅で乗務員交代が行われることも多い。

駅周辺
岐阜一般県道237号(西大垣停車場線)が通じる。また、周辺にはいくつかの工場が建つ。

イビデン

日本合成化学工業大垣工場
サンメッセ
大垣久瀬川郵便局
大垣市立西小学校
大垣市役所 東1km

 


1913年(大正2年)7月31日 - 養老鉄道(旧)養老 - 池野間開通時に開業。
1922年(大正11年)6月13日 - 合併により揖斐川電気の駅となる。
1928年(昭和3年)4月6日 - 鉄道事業譲渡により養老電気鉄道の駅となる。


1929年(昭和4年)10月1日 - 合併により伊勢電気鉄道養老線の駅となる。
1936年(昭和11年)5月20日 - 分離譲渡により養老電鉄の駅となる。
1940年(昭和15年)8月1日 - 合併により参宮急行電鉄の駅となる。
1941年(昭和16年)3月15日 - 大阪電気軌道との合併により関西急行鉄道の駅となる。


1944年(昭和19年)6月1日 - 南海鉄道(現在の南海電気鉄道の前身)との合併により近畿日本鉄道の駅となる。
2007年(平成19年)10月1日 - 近鉄からの経営分離に伴い、養老鉄道(新)の駅になる。

所属事業者 養老鉄道
所属路線 養老線
キロ程 41.2km(桑名起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線


乗降人員
-統計年度- 379人/日
-2008年-
開業年月日 1913年(大正2年)7月31日
備考 終日駅員配置

日産・スカイライン 5代目 C210型 痛車:ラブライブ

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日産・スカイライン 5代目 C210型(1977年-1981年)
通称:ジャパン

1957年に富士精密工業(のちのプリンス自動車)の主力車種として生産を開始。1966年にプリンスが日産自動車と合併した後も車名が引き継がれ、長期に渡って生産されてきた。

車名は「山並みと青空を区切る稜線」に由来する。2007年3月21日、名付け親の桜井眞一郎がこの名を思いついた場所である群馬県草津町の山小屋「芳ヶ平ヒュッテ」に、生産50周年を記念して「スカイライン命名の地」のプレートが設置される。

ボディラインナップは2018年現在4ドアセダンのみである。過去には2ドアクーペ、5ドアハッチバック、ステーションワゴン、ライトバンなども存在した時期もあるが、日産自動車の類似車種統一化政策等により、他の同クラスと統合されスカイラインとしての製造は廃止となっている。

(特にR34以前は)ミドルクラス(Dセグメント)セダンに位置するが、自動車レースで用いられた過去があり、特にGT-Rグレードは同クラスの他車に比べてレース色が強く、実際に製品としての性格付けもそのようになっている。

GT系は愛称として「スカG」(スカジー)と呼ばれることも多い。

長野県岡谷市の鳥居平やまびこ公園内には、自動車博物館としては異例の単一車種の博物館「プリンス&スカイラインミュウジアム」がある。

C10型からR32型までは、型式毎にCMキャッチコピーなどに基づく愛称(通称)を持つ。

1977年8月
C210型発売。通称は、自ら「日本の風土が生んだ名車」であると名乗った広告キャンペーンのキャッチコピー「SKYLINE JAPAN」から。プラットフォームは日産・ローレル(C230型)と基本的に共通。ボディバリエーションはC110型と同様、4ドアセダン、2ドアハードトップおよびバンの3系列を設定し、セダンおよびハードトップには直列6気筒エンジン搭載車と直列4気筒エンジン搭載車が用意され、ホイールベースはそれぞれ2,615mm, 2,515mmとされた。バンは直列4気筒エンジンのみの設定であった。
搭載するエンジンは直列4気筒OHCがL16S型(1,595cc)、L18S型(1,770cc)、L18E型の3機種。直列6気筒OHCがL20S型(1,998cc 115PS/5,600rpm、16.5kgm/3,600rpm)、およびL20E型(130PS/6,000rpm、17.0kgm/4,400rpm)の2機種。
発売当初は自動車排出ガス規制の影響を受け、DOHCもターボも設定されなかった。
グレード体系は直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TI(ツーリング・インターナショナル)シリーズ」の2系列となった。GTとTIとではラジエーターグリルおよびテールランプの意匠が異なる。ヘッドライトは、前期型はGT系、TI系とも丸目4灯式であった。後期型ではGT系は角目2灯式となったがTI系は丸目4灯式であった。テールランプは、GT系が丸型4灯式なのに対し、TI系は2段重ねの角形4灯式になる。サーフィンラインはエッジのあるブリスター形状となり、リアトレッド拡大に寄与している。足回りはフロント側がストラット式。リア側は4気筒モデルが4リンク式、6気筒モデルがセミトレーリングアーム式の組合せ。GTバッジは3種類となり、GTおよびGT-E・Lが青バッジ、GT-E・Xが金バッジ、GT-E・Sが赤バッジとされた。GT・LおよびGT-E・Xはデジタル時計が装備され、それ以外のグレードはアナログ時計が装備された。GT-E・Sにはリアワイパーおよびヘッドランプクリーナーが標準装備された。また、GT-E・SおよびTI-E・Sには4輪ディスクブレーキおよびリアスタビライザーが装備された。
1978年3月
2ドアハードトップ2000GT-E・Lおよび1800TI-E・Lに特別仕様車「ブラッキー」を設定。アルミホイール、70%扁平ラジアルタイヤ、オーバーヘッドコンソール、およびヘッドランプクリーナーを装備した。
1978年8月
L16/L18型エンジンを、急速燃焼方式(ツインスパークプラグ)を採用する直列4気筒OHC Z16/18型エンジンに変更。L20型エンジンについても一部変更が施され、昭和53年排出ガス規制に適合し、車両型式がC211型となる。同時に「1800TI-E・X」を追加。
1979年7月
マイナーチェンジにより前後の意匠変更がなされる。GTシリーズは角型異型2灯ヘッドランプとされ、TIシリーズは丸型4灯ヘッドランプを継承したが、ラジエーターグリルが変更された。GT-E・Xにはパワーステアリングを標準装備化した。
1979年8月
ワゴン(WPC211型)追加。Z18型エンジンを搭載する。また、バンが昭和54年排出ガス規制対応及び一部車種にサンルーフ、本皮シート、テクニクスカーコンポがオプション設定される。
1979年11月
2000GT-Eに特別仕様車「スーパーGT」を設定。セダンはミケロッティマグネシウムホイール(クロモドラ製)、ハードトップはカンパニョーロホイールを装備した。
1980年3月
2000GT-E・Sおよび2000GT-E・Xに特別仕様車「ゴールデンカー」を設定。専用のゴールド塗装のほか、E・Sはパワーサンルーフ、カンパニョーロマグネシウムホイールを装備し、E・Xはミケロッティマグネシウムホイール、ミシュランタイヤを装備した。
1980年4月
ターボエンジンを搭載したモデルを追加。L20E型エンジンにターボがプラスされ、パワー&トルクは145PS/5,600rpm、21.0kgm/3,200rpmを搾り出した。発売当時の価格は165.8万円。「セドリック/グロリア」、「ブルーバード」に次ぐ日産において3車種目のターボ車であり、日産初のターボとATを組合わせた車種である。同時にノンターボの「2000GT-E」、「2000GT-E・S」が廃止となる。
1980年6月
直列6気筒OHC LD28型ディーゼルエンジンを搭載する「セダン/ハードトップ280D GTシリーズ」(EGC211型)、直列4気筒OHC Z20E型エンジンを搭載する「2000TIシリーズ」(UC211型)、100万円を下回る最廉価版「1600TI-A」(BC211S型)、およびバンに直列4気筒OHC LD20型ディーゼルエンジン搭載車を追加。280D GTはこの当時の国産ディーゼル乗用車としては最速を誇っていた。また、2000TIはリアサスペンションがセミトレーリングアーム式独立懸架となり、4輪ディスクブレーキを装備するなど4気筒エンジンながらGT系に匹敵する高度なメカニズムを持つ。動力性能は6気筒NAとほとんど変わらず、重量(特に前輪荷重)が軽いこのモデルはC210型中の「ベストハンドリングカー」との声もある。
1980年代、先代モデルのケンメリと同じく暴走族の改造車としても人気を得ていた。ケンメリ同様、ワンテール化やライト、グリルの移植が流行していた。

宮城県登米市にある警察資料館には実際に宮城県警察が使用していたC210型のパトカーが展示されており、現存する警らパトカーとしては最も古い。

販売期間 1977年 - 1981年
乗車定員 5名
ボディタイプ 4ドアセダン
2ドアハードトップ
3ドア及び5ドアワゴン / バン
エンジン 水冷直列4気筒/6気筒
駆動方式 FR
変速機 3AT/5MT/4MT
サスペンション 前: マクファーソンストラット
後: セミトレーリングアーム+コイルスプリング
ホイールベース 2,615mm
総販売台数 53万9,727台
データモデル セダンGT

ラブライブ!
音ノ木坂学院を舞台に活動するスクールアイドルグループ「μ's(ミューズ)」を主人公としたシリーズ第1作であり、シリーズの人気を確立した作品である。

東京都千代田区にある、ごく普通の女子高校の「音ノ木坂学院(おとのきざかがくいん)」。地域の人々の想い出に育まれた歴史と伝統あるこの学院も時代の流れには勝てず、3年後に迫る学校統廃合の危機に瀕していた。そんな中、9人の生徒が立ち上がる。彼女たちは、自らがアイドルとして活動し、学校の名を世に広め、入学希望者を増やそうと考えたのだ。今、少女たちと、まだ見ぬファンのみんなで叶える物語=スクールアイドルプロジェクトが始まった。

2010年6月から『電撃G's magazine』誌上で連載が開始され、同年8月にμ’s(当時は「ラブライブ!」名義)のファーストシングル「僕らのLIVE 君とのLIFE」を発売。その最高位はオリコンランキング167位であった。

2011年に鴇田アルミ作画の漫画が『G's』誌上で連載開始となり、翌2012年にはμ’sの声優陣によるファーストライブが開催された。こういったワンマンライブやリリースイベントなど担当声優による精力的な活動を通じて、CDもリリース毎に売上を伸ばしていった。

2013年には設定を一新したテレビアニメを放送、翌2014年にテレビアニメ第2期を放送、翌2015年に完結編となる劇場版が公開された。テレビアニメ化後は女性ファンも増え[2]、2015年初冬の5thワンマンライブではさいたまスーパーアリーナのスタジアムモードで2日間に渡って開催して延べ7万人以上の観客を動員するに至った他、第66回NHK紅白歌合戦に出場を果たすなど社会的な認知も上がっていった。公野櫻子による小説シリーズ「School idol diary」が刊行されたのもこの時期である。

2015年末のファイナルシングル「MOMENT RING」発売、「最後のワンマンライブ」と発表された2016年4月のワンマンライブ開催以降も、『G's』誌上の連載やアプリゲーム『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル』での新規カード追加など、作品・キャラクター・声優の活動は現在も継続中である。

本作に登場するキャラクターはほとんどが女性であるにも関わらず、女性ファンも多数付いた理由として、アイドル活動を通してぶつかる様々な壁を努力によって乗り越えて絆を深めていく、いわゆる「スポ根」的な青春ドラマの要素が本作にはあり、男女を問わず共感して応援できるコンテンツとして受け入れられたのではないかという点が指摘されている。

本シリーズの作品は実在の地域を舞台にすることが多く、本作でもμ’sが通う音ノ木坂学院が東京都の神保町近辺にあると設定されていることから、周辺の店舗や名所でのコラボレーションが盛んに行なわれた(詳しくは#コラボレーションを参照)。また、主人公・穂乃果の実家のモデルとなった竹むらなど、コラボレーションは行われていないが、実在の店舗や名所がモデルとなったり劇中に登場したりすることもあり、取り分けテレビアニメに登場した際は、エンドクレジットで確かめることができる。

フェリーあさひ(2代目) 四国汽船株式会社

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あさひ(2代目)
2018年3月16日就航、藤原造船所建造
船名  総トン数 主機関馬力 航海速力
あさひ 987.00 1,800×2 14.8
旅客定員 積載可能車両数(乗用車換算) 就航年月日
500名  バス12(61台)         2018.03

宇野港 - 直島(宮浦)
所要20分。1日13往復を運航、「あさひ」「なおしま (2代)」が就航する。

内装
ホテルのロビーのような、全体的にモノトーンを基調とした居心地のよい客室は、ワンフロアで広々とした空間を作り出しています。
そこに、瀬戸内海のおだやかな水面と明るい光が差し込む大きな窓が設置され、広い空間を更に
広く感じる工夫も施しています。

座席
幾何学柄に木目のナチュラル感をプラスして、座席までアートに。
また右舷側には瀬戸内海の海景を楽しみながらクルージングを楽しめるビューシートを新設。さらに展望デッキには、リゾート感覚でさわやかな潮風を感じられるソファも。
そして、客室中央には、フリースペースを設け、今後ライブやアート展など、様々なイベントを開催予定。

ユニバーサルデザイン
バリアフリーに配慮した広い通路やエレベーター、車椅子専用の席、そして多目的化粧室も完備。身障者や高齢者の方はもちろん、小さなお子様連れのお客様にも配慮しております。
船内の案内表示及び船内放送は、4ヶ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)対応。
訪日外国人観光客の皆様にも利用してもらいやすい環境を整えております。

四国汽船株式会社(しこくきせん)は、香川県香川郡直島町に本社を持つ海運会社。瀬戸内海の直島へ向かうフェリーおよび高速船を運航している。関連会社として宇野と豊島・小豆島を結ぶ小豆島豊島フェリーがあったが、2014年6月に四国フェリー系列になっている。

なお、同じ高松市に本社を置く四国フェリーとは社名、運航地域が似ているが別の会社である。

アクセス
宇野港:JR宇野線・宇野駅下車。両備バス宇野駅下車(岡山駅から玉野渋川特急もしくは国道30号玉野方面行)。
高松港:サンポート高松内。JR高松駅、ことでん高松築港駅下車、徒歩

事業所
本社:761-3110 香川県香川郡直島町2249番地40
統括事務所:760-0019 香川県高松市サンポート8番21号
宮浦支店:761-3110 香川県香川郡直島町2249番地40
宇野支店:706-0002 岡山県玉野市築港一丁目3番2号

本社所在地 日本
〒761-3110
香川県香川郡直島町2249番地40
業種 海運業
法人番号 3470001000008
事業内容 一般旅客定期航路事業,一般貨物自動車運送事業
代表者 代表取締役社長 野崎朝光
従業員数 74名
外部リンク http://www.shikokukisen.com/

汐留駅 (国鉄)

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汐留駅(しおどめえき)は、東京都港区東新橋1丁目にあった日本国有鉄道(国鉄)の駅。東海道本線の貨物支線(東海道貨物線)上にあった。

1872年10月14日(明治5年9月12日)に日本最初の鉄道路線の起点として開業した新橋駅(初代)がこの駅の始まりである。リチャード・ブリジェンスの設計による木造石張り2階建ての西洋建築の駅舎があり、長らく東京のターミナル駅として機能していた。また1873年(明治6年)9月には、当駅と横浜駅(初代・現在の桜木町駅)との間で日本初の貨物列車の運行が開始された。1日1往復の運行で、イギリス製の有蓋車や無蓋車を使用していたという。

しかし、1914年(大正3年)12月20日に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止された。駅構内が広大だった当駅は貨物駅として再使用されることになり、汐留駅と改称し、同時に、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)と改称している。なお、駅名改称に反対した人もいた。また、歴史ある駅舎を利用して鉄道博物館を建設するという構想もあった。

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により開業時からの駅舎は焼失し、しばらく後になった1934年(昭和9年)3月に鉄筋コンクリート2階建ての駅舎に建て替えられた。

1959年(昭和34年)に当駅 - 梅田駅間で日本初のコンテナ専用貨物列車「たから号」が運転されるようになり、1964年(昭和39年)には小荷物取扱を開始した。東海道・山陽方面へ向かう貨物列車・荷物列車のターミナル駅として君臨し続けたが、荷物輸送が宅配便の登場で衰退し、貨物輸送はコンテナ列車中心に変化していき、駅敷地が狭く増加するコンテナの取扱量に対応できず、やがて鉄道による荷物輸送が1986年(昭和61年)11月1日に廃止されると東京貨物ターミナル駅(1973年開業)に機能を譲り、汐留駅もその長い歴史に幕を閉じた。

なお、当駅からその東京貨物ターミナル駅までの区間には同駅がある大井埠頭と当駅の頭文字を取った大汐線(おおしおせん)という通称がある。また駅構内から芝浦駅、東京市場駅への線路が延びていた。芝浦駅への線路は、駅構内の一番東側の部分から、構内の線路で折り返す形態でつながっていた。東京市場駅へは、駅北東側でコンテナホームや混載ホームの間から、そのまま築地市場への線路が延びていた。

変わったところでは、1985年(昭和60年)に運行を開始したカートレインは、当駅と鹿児島本線東小倉駅間で運行しており、1986年(昭和61年)の駅廃止直前まで、同列車の東京方始発・終着駅として利用され(その後恵比寿駅に、末期は浜松町駅に変更)、こちらから発着する団体専用列車も運転されたこともある。

廃止後
1987年(昭和62年)4月1日にはここで、鉄道発祥の地であることから残った線路を使用して、蒸気機関車の汽笛で日本国有鉄道(国鉄)の終焉とJRの発足を告げる(国鉄分割民営化)イベントが行われた。

民営化後、旧汐留駅跡地は日本国有鉄道清算事業団へ移管され、国鉄の長期債務を返済するための売却対象地で最も注目された。また、その後の再開発では民活と呼ばれる民間資本の導入が検討され、中曽根康弘内閣の行政改革政策の象徴ともなった。

しかし、東京の都心部にある31ヘクタールに及ぶ土地売却は「バブル景気による地価高騰が更に過熱する」という理由で、その実施は延期され、いわゆる塩漬け状態で、空き地のまま放置された。しかも、結局はバブル崩壊による地価暴落後に、安値での土地売却と買い叩かれる結果に終わり、日本国政府による長期債務返済計画は、大きく狂った。

実際の再開発工事は1995年(平成7年)から開始され、その際に下記の旧新橋停車場跡などが発掘された。その後、2002年(平成14年)以降には、同跡地に汐留シオサイトとして、事業者用の超高層ビルが次々と竣工した。同年にはゆりかもめと都営大江戸線の汐留駅が開業し、汐留という駅名が引き継がれる事になった。


旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
跡地は、1965年(昭和40年)5月12日に「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の史跡に指定され、1996年(平成8年)12月10日に指定地域の一部解除・追加をし、「旧新橋停車場跡」へ名称変更した。発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻され、2003年(平成15年)にその上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられた、同年4月10日開館。調査では鋳物工場跡やトイレ遺構などを検出している。


旧新橋停車場の転車台基礎
内部は鉄道の歴史に関する「鉄道歴史展示室」(運営は東日本鉄道文化財団)になっており、以前は三國清三監修によるフランス料理店の「GRAND CAFE SHIMBASHI MIKUNI」(運営はジェイアール東日本フードビジネス)もあったが閉店した。その後、中華料理店「Imperial Treasure」を経て2018年現在は銀座ライオンが出店。

旧新橋停車場の裏手には、鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」が当時と全く同じ位置に再現されており、当時のレールが数メートルだけ敷設されている。

その他
鉄道博物館内に設けられたミニ運転列車の駅のひとつに、この駅にちなんで汐留の名が付けられた。

 

1872年10月14日(明治5年9月12日) - 新橋駅(初代)として開業。初日は式典と明治天皇御座乗お召し列車運行のみで、実際の営業は翌日から。
1873年(明治6年)9月15日 - 貨物の取扱を開始。
1914年(大正3年)12月20日 - 東京駅開業に伴い旅客営業を廃止、汐留駅に改称。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災で被害を受ける。応急復旧でしばらく営業する。
1934年(昭和9年) - 応急復旧の仮施設の改築、本格的な復旧工事を実施。
1952年(昭和27年)10月17日 - 当駅と東横浜駅の間に5500形蒸気機関車が牽引する国鉄80年記念列車「一声号」が運行される。
1954年(昭和29年)9月1日 - 小荷物(特別扱雑誌に限る。)の取扱を廃止。
1959年(昭和34年)11月5日 - コンテナ貨物の取扱を開始。汐留駅 - 梅田駅間でコンテナ専用貨物列車「たから号」が運行開始。これに合わせてコンテナ積卸線と低床ホームの新設、配線変更が行われた。
1963年(昭和38年)1月1日 - 営業範囲を「貨物。ただし、散積の鉱石、石炭および野菜類ならびに活鮮魚(一塩のものを含む)の到着は取り扱わない。」から「貨物。ただし、次の貨物は取り扱わない。1.活鮮魚(一塩のものを含む)ならびに散積の石炭類、鉱石類および野菜類の到着貨物。2.木材、薪炭類、砂利および砂の到着車扱貨物。」へ改正する。
1964年(昭和39年)10月1日 - 営業範囲を「手荷物、小荷物および貨物。ただし、次のものは取り扱わない。発送手荷物および小荷物(特別扱新聞紙および雑誌を除く。)到着駅留手荷物および小荷物活鮮魚(一塩のものを含む。)ならびにばら積みの石炭類、鉱石類および野菜類の到着貨物木材薪炭類、砂利および砂の到着車扱貨物。」へ改正し、小荷物取扱を開始。
1965年(昭和40年)
3月 - 東海道新幹線建設に伴い、敷地の一部を新幹線用地に提供することになり、関連する配線工事が行われてこの頃完成する。
10月1日 - 営業範囲を「手荷物、小荷物および貨物。ただし、手荷物および小荷物は次のものに限る。発送:特別扱新聞紙・雑誌、到着:配達扱のもの(駅渡しとなるものを含む。)。次の到着貨物は取り扱わない。1.活鮮魚(一塩のものを含む。)。2.ばら積みの石炭類・鉱石類・野菜類・車扱の木材・薪炭類・砂利・砂。」へ改正する。
1968年(昭和43年)10月1日 - 営業範囲を「手荷物、小荷物および貨物。ただし、次の到着貨物は取り扱わない。1.活鮮魚(一塩のものを含む。)。2.ばら積みの石炭類・鉱石類・野菜類・車扱となる木材・薪炭類・砂利・砂。」へ改正する。
1972年(昭和47年)10月14・15日 - 当駅と東横浜駅(桜木町駅に隣接)の間で、C57形蒸気機関車が牽引する記念列車「鉄道100年記念号」が運行される。
1974年(昭和49年)10月1日 - 営業範囲を「荷物、貨物。次の到着を除く。1.活鮮魚(一塩のものを含む。)・ばら積の石炭類・鉱石類・野菜類。2.車扱による木材・薪炭類・砂利・砂。」へ改正する。
1978年(昭和53年)10月2日 - 営業範囲を「荷物、貨物。貨物は、次の到着を除く。1.活鮮魚(一塩のものを含む。)・ばら積の石炭類・鉱石類・野菜類。2.車扱による木材・薪・炭類・砂利・砂。」へ改正する。
1984年(昭和59年)2月1日 - 営業範囲を「貨物、車扱貨物。車扱貨物は、次の到着を除く。1.活鮮魚(一塩のものを含む。)、ただし、高速貨物列車による冷蔵車積みのものは除く。ばら積みの石炭類、鉱石類、野菜類。2.車扱による木材、薪炭類、砂利、砂。」へ改正する。
1985年(昭和60年)7月27日 - 汐留駅 - 東小倉駅間でカートレインの運行を開始。営業範囲を「旅客、荷物、車扱貨物。ただし、旅客はカートレインに有効な乗車券類所持者に限る。車扱貨物は、次の到着を除く。ただし、高速貨物列車による冷蔵車積みのものは除く。1.活鮮魚(一塩のものを含む。)、ばら積みの石炭類、鉱石類、野菜類。2.車扱による木材、薪炭類、砂利、砂。」へ改正する。旅客営業再開。
1986年(昭和61年)11月1日 - 廃止。

所属事業者 日本国有鉄道(国鉄)
所属路線 東海道本線貨物支線
(東海道貨物線)
キロ程 4.9km(品川起点)
電報略号 トメ
開業年月日 1872年10月14日
(明治5年9月12日)
廃止年月日 1986年(昭和61年)11月1日
備考 1914年 新橋駅(初代)から改称


1104型車(横浜市電1100型)

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昭和11年(1936)に5両作られた中位の電車です。
戦前はクロスシートが設置されていたため、「ロマンスカー」の愛称があった。(配置は片側クロスで片側ロング)しかし戦時中に撤去され座席数が半減した。1936年(昭和11年)製。全廃まで使用。


1936年登場。1000型に続いて製造されたボギー車であり、梅鉢車輛にて5両が製造された。全長11.4mと1000型に比して短くなっているが、前面のデザインが変更されて当時他の鉄道会社でも多く取り入れられていた流線型を取り入れ、更に側面も袖を絞るなど、従来車に比して洗練された車体となっている。本系列の特徴として、製造当初は路面電車の車両としては珍しく車内座席にクロスシートを備えていたことが挙げられる。

流線形の車体とクロスシートを備えた内装から、当時は「ロマンスカー」と称されることもあるなど戦前製の車両としては花形的な存在であった。しかし戦中期になると徐々に製造当時の特徴は失われていき、更に一部車両は被災(のちに復旧)。

また車内も通常のロングシートへと変更されてしまうなど、栄華を極めた時期は短い。しかし後に主力車両となる全長12mの1500型に近い長さである1100型自体は使い勝手が良く、全車とも車体更新やワンマン化改造を経て、1972年の路線廃止まで継続して使用された。現在は1104号車が現役最末期の状態のまま市電保存館に静態保存されている。

電車の長さは11.4m・定員は75名

人命救助システムII 型(自衛隊・災害派遣)

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人命救助システム(じんめいきゅうじょシステム)は、自衛隊で採用され災害派遣等の際に使用される機材の事である。

1995年に発生した阪神淡路大震災のおり、自衛隊がそれまで有していた装備では対処が難しかった事を教訓に開発された。捜索・救助活動、負傷者の搬送まで完結した機能を有し、各器材はコンテナに収められヘリや車両で輸送される。これによって被災地での速やかな展開を可能としている。

地震・津波等による災害および航空機事故等の大規模な事故により倒壊した家屋や事故機等から被災者を捜索し、救助するために運用する事を目的として、全国各地の部隊に配備されている。器材の殆どは自衛隊専用に開発されたものではなく、民生品の流用である。


人命救助システムには平成7年度予算で取得したタイプの「人命救助システム I 型」と、平成10年度予算で取得したタイプの「人命救助システム II 型」の2種がある。明確な資料がないので詳細は不明だが、この2種の構成品には大差はなく、「I 型」は隊員100名が使用する各種救助用器材をトレーラー牽引式のコンテナに格納したもので、コンテナ本体は拡張・展開させて現場で救護所や指揮所として使用できるように、内部に照明設備やユニットタイプのトイレ・シャワー室を備えている。

これに対し「II 型」は各種器材を個人用器材・分隊用器材・小隊用器材・中隊用器材に分類し、専用のアルミ製コンテナに格納したものを指すようだ。このアルミコンテナは3 1/2tトラックに積載して運搬できる他、大型ヘリコプターや輸送機での空輸も可能となっている。「II 型」は1個中隊が使用できる50人用セットで、人数分の個人用器材の他、分隊用器材4セット、小隊用器材2セット、中隊用器材1セットで構成される。


運用要領として、警備隊区担任部隊長は災害発生に伴い、人命救助システムをすみやかに災害現場に搬送し、災害救援の初動を容易にする、となっている。また大規模な災害に際しては、必要により方面隊・師団等各級レベルの権限の範囲において、人命救助システムを災害現場に増加して対処する。状況次第では他方面隊からの転用も考慮される。


自衛隊の装備品は災害救助に転用できるものが多いが、純粋に災害派遣のためだけの装備というのはなかなか無い気もする。そういう意味でこの人命救助システムは自衛隊内では珍しい装備と言えるだろう。同様のシステムは海・空自衛隊の他、自治体等にも納入されている。

人命救助システムII 型 構成品

[個人用器材]

レスキューベスト レスキューリュック 多用途ナイフ
特殊作業手袋 スリングロープ ペンチ
ピック付き手斧(選択) 折畳み鋸(選択) 防塵マスク
防塵ゴーグル

[分隊用器材(10人用)]

エンジンカッター チェンソー 油圧式ジャッキ
油圧式カッター ピック付きバール ピストン式破壊工具
救助用ロープ サイレン付き警報機 捜索用投光器
組立て式簡易トイレ 収納ケース

[小隊用器材(25人用)]

エアジャッキ エンジン式削岩機 救助用誘導棒
背負い式消火ポンプ 作業用照明具 手動式ウインチ
収納ケース

[中隊用器材(50人用)]

破壊構造物探索機 探索用音響探知機 油圧エンジンポンプ
手動油圧ポンプ カッター(切断機) スプレッダ
ラムシリンダー 手動式コンビツール 可燃性ガス検知器
検電器 万能運搬具 三連伸縮梯子
救助用三脚 折畳式リヤカー 収納ケース
人命救助システムII型コンテナ

[その他分類不明・共通]

拡張式コンテナセット
広域作業用照明具
救助用ロープ発射機

 

川之江駅(JR四国)

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川之江駅(かわのええき)は、愛媛県四国中央市川之江町にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅。駅番号はY22。

旧川之江市の代表駅で、特急を含む全列車が停車する主要駅。


駅表示パネルのコメントは「街中すっぽり紙の駅」。


愛媛県内にある駅では最東端に位置しており、予讃線は隣の箕浦駅との間にある鳥越トンネルで香川県との県境をまたぐ。

島式1面2線ホームの地上駅。大きな吹き抜けを持つコンクリート造駅舎です。

JR四国系列のパン屋も併設されています。

切符売場にはタッチパネル式の券売機が1台。みどりの窓口も営業しています。

改札口にはラッチが残っています。改札口の脇には撤退したキオスクの跡があります。

コンパクトサイズな待合室にはFRP製の長椅子が複数設置されています。

冬はFRP直の長椅子の冷たさから敷物が守っています。


線路配置は一線スルーとなっており、1番線が上下本線(制限速度100km/h)、2番線が上下副本線となっている。

なお、交換列車がないときは列車種別や方面に関係なく1番線に入線する。

交換列車があるときは特急同士、普通同士の場合は1番線に上り列車、2番線に下り列車がそれぞれ入線する。

特急と普通の場合は方面に関係なく1番線に特急、2番線に普通がそれぞれ入線する。

このほか、整備車両留置用の引込線が数本設置されており、以前は川之江止まりの普通列車の留置に使用されていた。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1・2 ■予讃線 上り 観音寺・多度津・高松・岡山方面


下り 新居浜・伊予西条・松山・宇和島方面

駅周辺
川之江港
川之江城
泉製紙
川之江造機
フジ
大平食堂
愛媛県立川之江高等学校

バス路線
瀬戸内運輸
「七田」行き(平日1往復のみ)
かつては土讃線阿波池田駅まで運行されていたが、七田から同駅までは2010年4月をもって廃止された[2。なお、この路線は2001年3月末まで国鉄バス→JR四国バスも運行(川池線)していたことから、撤退後の2007年時点でもバス乗り場の屋根に「JR四国バスのりば」という表示が残っていた。


新居浜 - 川之江線は駅前には乗り入れず、南西(伊予三島方向)へ徒歩10分程の国道11号上にある「港通り」バス停に発着している。


1916年(大正5年)4月1日 - 開業。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、四国旅客鉄道の駅となる。


1988年(昭和63年)6月1日 - 線路名改称により、予讃本線から予讃線の駅となる。

駅番号 ○Y22
所属事業者 四国旅客鉄道(JR四国)


所属路線 ■予讃線
キロ程 72.2km(高松起点)


電報略号 ノエ←ノヱ
駅構造 地上駅
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 543人/日(降車客含まず)
-2013年-


開業年月日 1916年(大正5年)4月1日
備考 みどりの窓口 有

C11 131号 蒸気機関車(国鉄C11形蒸気機関車)直方市石炭記念館

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昭和13(1938)年製のSL。旅客列車・貨物列車を約50年にわたり牽引し、北部・西部九州で活躍した。

日本車輌製造 名古屋NO.566 新製 配属 門司局 
1955-8-1現在 直方
1962-3現在 直方
1964-4-1現在 門司
1970-10-1休車
1971-1-7(1-29?)廃車 門司

2次形 (C11 24 - 140)
アーチ管が取付けられ、1次形では第2缶胴上にあった砂箱と蒸気ドームの位置が互いに入れ替わった。これは、下り勾配で缶水が前方にいった場合に、蒸気ドーム内に缶水が入る恐れがあったため、その対策として行われた。

国鉄C11形蒸気機関車(こくてつC11がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が1932年(昭和7年)に設計した過熱式のタンク式蒸気機関車である。

老朽化した種々雑多な支線・区間運転用機関車群の代替用として、1930年に設計されたC10形の改良増備車として設計・製造された軸配置1C2の小型タンク式蒸気機関車である。

C50形のものよりボイラバレル径をやや太く、そして全長を短く再設計した2缶胴構成の過熱式ボイラーを、肉厚圧延鋼板を切り抜いて加工・組み立てした主台枠に搭載する。

ボイラーの火床面積は1.6平方mで、基本となったC50形のものより若干小さいが、ほぼ同等の面積を確保している。

過熱器はC10形と同じ4段構成であるが、最上段を4列、それ以外を6列としていた同形式とは異なり、4段とも6列構成として性能向上を図っている。

シリンダ構成は一般的な単式2気筒、弁装置は鉄道省で標準的に採用されていたワルシャート式で、動輪径は総重量・ボイラー寸法などから8620形やC50形などで採用されていた1,600mmより5パーセント小さい1,520mmとされた。

先台車の復元装置はC50形で初採用されたエコノミー式が踏襲され、従台車は外側軸受支持による釣り合い梁式2軸ボギー台車を備える。

最初は主に西日本の都市近郊や主要支線で使用された。近畿地方の快速列車を牽引した際には特急と張り合う俊足ぶりを発揮した。やがて活躍の場を広げてほぼ全国各地に配属され、主にローカル線の列車牽引に使用された。気動車が普及するにつれて余剰となり始め、1960年(昭和35年)ごろから少しずつ廃車が出たが、貨物列車用や入換用として蒸気機関車の末期まで数多く残った。

優等列車運用への充当例としては、現役時代も終わりに近づいた1965年(昭和40年)10月から1968年(昭和43年)9月にかけて、肥前山口駅で長崎発着編成と佐世保発着編成を分割併合して運行されていた寝台特急「さくら」(2001・2002レ)の佐世保発着編成のうち、佐世保線早岐 - 佐世保間8.9kmの牽引に抜擢されたのが最も良く知られている。

これは早岐駅の立地と構内配線の制約から、肥前山口から早岐を経て佐世保に至るルートで直通列車を運転する場合には列車を早岐でスイッチバックさせる必要があった[注 7]が、早岐以東の本務機であるDD51形を同駅で機回しする所要時間に比して早岐と佐世保の間の運転所要時間が短く、かといって「さくら」の20系客車は機関車を最後尾とした推進運転に対応していなかったことから、機関車の付け替え時間の節減を図って当時早岐機関区に配置され佐世保・大村の両線で運用されていた本形式を早岐 - 佐世保間の牽引機に起用したものである。

運用者 鉄道省 → 日本国有鉄道
製造所 汽車製造・川崎車輛
日立製作所・日本車輌製造
製造年 1932年 - 1947年
製造数 381両
愛称 Cのチョンチョン
主要諸元
軸配置 1C2
軌間 1,067 mm
全長 12,650 mm
全高 3,900 mm
機関車重量 66.05 t(運転整備時)
動輪上重量 36.96 t(運転整備時)
動輪径 1,520 mm
軸重 12.40 t(第3動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 450 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2
後に15.0 kg/cm2
ボイラー水容量 3.8 m3
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3,200 mm×24本
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3,200 mm×87本
火格子面積 1.60 m2
全伝熱面積 103.0 m2
過熱伝熱面積 29.8 m2
全蒸発伝熱面積 73.2 m2
煙管蒸発伝熱面積 63.2 m2
火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 3.00 t
水タンク容量 6.8 m3
制動装置 自動空気ブレーキ
最高運転速度 85 km/h
最大出力 783 PS
定格出力 610 PS

XF3-30 ターボファンエンジン(石川島播磨重工業 現・IHI)

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XF3-30 ターボファンエンジン(石川島播磨重工業 現・IHI)

F3とは、1975年(昭和50年)より防衛庁技術研究本部第3研究所(現・防衛省技術研究本部航空装備研究所)が石川島播磨重工業(現・IHI)の協力のもと研究・開発し、石川島播磨重工業により製造されたターボファンエンジンである。F3-30型が航空自衛隊のT-4中等練習機に搭載されている。

J3エンジンに関する試験と改良が1968年(昭和43年)に終了し、それ以降日本では無人機用小型ジェットエンジン等の小型ジェットエンジンの研究試作で技術の維持を図っていた。戦闘機やジェット練習機などのエンジンもターボジェットエンジンから低バイパス比ターボファンエンジンへ変わっていく時代の流れのなか、昭和50年度より「運動性を要求される小型亜音速機用エンジン」の基礎的技術資料を得ることを目的としてXF3-1ターボファンエンジンの研究試作が開始された。

1975年(昭和50年) - 「再熱ファン・エンジンの研究試作」としてXF3-1の試作を開始。
1976年(昭和51年) - XF3-1の試験を開始。
1977年(昭和52年) - 「小型機用ターボファン・エンジンの研究試作」としてXF3-20の試作を開始。
1978年(昭和53年) - XF3-1の試験を終了。
1978年(昭和53年) - XF3-20の試験を開始。
1980年(昭和55年) - 「小型ターボファンエンジンの研究試作」としてXF3-30の試作を開始。
1980年(昭和55年) - XF3-20の試験を終了。
1981年(昭和56年) - XF3-30の試験を開始。
1982年(昭和57年)11月 - ラルザックB3C3(スネクマ、チュルボメカ社)およびTFE1042-6(英語版)(ボルボ、ギャレット社)を抑え、XT-4のエンジンにXF3-30が選定される。
1982年(昭和57年) - XF3-30がPFRT(飛行前定格試験)段階に入る。C-1FTBおよびアーノルド技術開発センターの高空試験施設での試験を開始。
1984年(昭和59年)7月 - XF3-30がPFRTを終了。QT(認定試験)段階に入る。
1985年(昭和60年)7月29日 - XF3-30を搭載したXT-4が初飛行。
1986年(昭和61年)3月7日 - XF3-30がQTを終了し、開発を完了する。
1986年(昭和61年)7月12日 - 防衛庁がF3-30の生産担当会社に石川島播磨重工を指名。
1987年(昭和62年)12月17日 - T-4用エンジン2台が防衛庁に初納入。
1990年(平成2年) - XF3-400の研究試作を開始。
1994年(平成6年) - XF3-400を用いた研究を終了。
1999年 (平成11年)10月 - F3-30B型を適用。
2000年(平成12年)11月29日 - 生産機数500台達成。
2002年(平成14年)9月30日 - F3-30最終号機を出荷。
XF3-1
ターボファンエンジンの基礎的技術資料を得ることを目的とし、1基が試作された。

ファン:軸流1段
圧縮機:軸流5段
燃焼器:アニュラー式燃焼器
タービン入り口温度:940°C
バイパス比:1.9
タービン:軸流1段高圧タービン、軸流1段低圧タービン
重量:400kg
最大推力:1,200kg
XF3-20
XF3-1の成果をもとに、より小型軽量化、高出力化を目指し、1基が試作された。 おもな変更点は

バイパス比を1.9から0.9へ
ファンを1段から2段へ
高圧タービンを空冷化、これによりタービン入り口温度を940°Cから1,050°Cへ
低圧タービンを1段から2段へ
である。これにより重量は340kg、最大推力は1,600kgとなった。

F3-30
XF3-20の成果をもとに、XT-4に搭載するための実用エンジンを目指して、PFRT段階で9基、QT段階で5基の合計14基のXF3-30が試作された。 のちにXT-4のエンジンとして正式に選定され、F3-IHI-30として量産された。1999年10月より最新の材料技術を導入し信頼性を向上させたF3-IHI-30Bとなる。

IHI-17
超音速戦闘機用エンジンの技術を取得するために、F3-30をベースにIHIで社内開発された。日本初の純国産アフターバーナー付きターボファンエンジン[1]。

XF3-400
1990年(平成2年)より1994年(平成6年)にかけて、IHI-17の成果を元にF3-30をベースに研究試作されたアフターバーナー付きターボファンエンジン。
おもな変更点は

燃焼器、タービンの変更でタービン入り口温度を1,050°Cから1,400°Cへ高温化
アフターバーナーの追加
低圧タービンを2段から1段へ
これにより、ドライ推力は1,670kgから2,100kgへ、アフターバーナー作動時の3,400kgの最大推力、より高い推力重量比を実現した。なお、このエンジンのために試作したXVM-10と呼ばれる2次元推力偏向ノズルを装着しての運転試験なども行われた[2]。このエンジンの技術的基盤がX-2に搭載する実証エンジンXF5-1の開発に繋がった。

諸元

XF3-30を搭載したT-4試作1号機
F3-IHI-30/30B

長さ:2,020 mm
外径:560 mm
重量:340 kg
ファン:軸流2段ファン
圧縮機:軸流5段圧縮機
燃焼器:アニュラー型燃焼器
タービン:軸流1段空冷高圧タービン、軸流2段低圧タービン
タービン入口温度:1050°C
バイパス比:0.9
全圧力比:11
燃料:JP-4
推力:16.37kN(1670kg)
推力重量比:4.9:1
搭載機体:T-4


IHI-17

長さ:3,000 mm
外径:560 mm
重量:501 kg
推力:2,100 kg
推力重量比:4.2:1
XF3-400 [2]

重量:501 kg
タービン:軸流1段空冷高圧タービン、軸流1段低圧タービン
推力
2,100 kg (ドライ推力)
3,400 kg (アフターバーナー使用時)
推力重量比:6.8-7 (アフターバーナー使用時)
全体圧力比:14
タービン入口温度:1,400℃

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