もともと1次車は「かもめ」、2次車は「ソニック」用として新製されたが、2003年に2次車が1次車と同じ6両に増結されてからは、共通運用によって車両使用効率の向上(例として、総走行距離の調整)や「ソニック」運用に予備編成がなかったことから、1次車が「ソニック」の、2次車が「かもめ」の運用に入ることも見られるようになった。現在は使用される編成の区別はなくなっており、1次車が2次車と同じ青帯に変更され、車体ロゴも「AROUND THE KYUSHU」に統一されている。
Image may be NSFW. Clik here to view. マッハ2クラスの速度 高度15,500mまで約8分以内に到達 最大上昇限度が18,000m 戦闘行動範囲約380km 以上の要求に当てはまる戦闘機はF-104、F-100、N-156F(後のF-5)、F-102の4種となった。F-104は実機が完成し初飛行を成功させてはいたが、アメリカ空軍での配備はまだであった。F-100は当時のアメリカ空軍主力戦闘機、N-156Fは計画機、F-102はもっとも高価な機体であった。これらに加え、米国防総省から予定に無かったグラマンG-98J-11(F11Fタイガーの発展型)の紹介を受け、調査に追加した。当時、最も有力視されていたのが、三菱重工と親密であったノースアメリカン社のF-100で、機首にレーダーを搭載した日本向けF-100Jの発表もなされた。 調査団は1957年9月13日に帰国し報告書を提出したが、結論は明記されておらず、結論は先送りとなった。この折、主力戦闘機であるノースアメリカンF-86Fをライセンス生産する三菱重工に、同じノースアメリカン製F-100Jを「つなぎ」として80機ライセンス生産させる意見も上がり、半ば決定とされていたが、F-100について当時の総理大臣岸信介に「戦闘爆撃機」と説明したために「日本に爆撃機は要らない」と一喝され、沙汰止みとなった。 1958年1月に佐薙毅航空幕僚長が渡米しF-X次期戦闘機の選定を実施し、帰国後に報告書を提出。報告書で候補機はF-104とG-98に絞られたが、米空軍に配備されたばかりのF-104の事故と、同機が3000メートル級滑走路を必要とする事、データリンクの容量不足等から、翌1958年(昭和33年)に防衛庁はG-98J-11の採用を決定、国防会議で内定した。同時に佐薙航空幕僚長らが訪米し、国防総省及び空軍と交渉したが、どちらを採用しても良いとの承認を得た。 だが、G-98の内定に対して批判が起き(第1次FX問題)、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展した。1959年(昭和34年)の国防会議において、内定の撤回と再調査が決定。「乗ってみなければわからない」の名台詞を残した源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米した。G-98はマッハ1級の機体を無理にかさ上げしてマッハ2級にしたものであり、後退翼を採用した事から遷音速域での加速は優れるが、音速突破後の加速に劣り、超音速域での機動が悪かった。対してF-104は、直線翼を採用した事から遷音速域での加速性に劣るが、音速突破後の加速は優れ、マッハ2の最高速度域でもエンジン推力に余裕があり高い機動ができ、両者の性能差は明らかだったという。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づき、「F-104Gを日本向けに改装した型を採用する事を承認する。機数は180機、ほかに訓練用20機を昭和40年を目処として国産する」と決定した。
Image may be NSFW. Clik here to view. これらの機体の導入にあたっては、総経費968億円のうち7500万ドル(270億円)をアメリカ政府による資金援助(無償供与)を受けて配備される事となった。日米の分担比率は72対28である。 生産 J型1号機は1961年(昭和36年)6月30日に米国で初飛行、フライング・タイガー・ライン(貨物航空会社 フライング・タイガース)のCL-44により空輸された。3号機までは完成機として輸入され、国内で再組み立てされた。続いて17機が三菱重工業でノックダウン生産、160機がライセンス生産された。DJ型は20機全てが完成品輸入で、国内で再組み立てされた。 1963年から1966年にかけて、第201から第207までの7個飛行隊が新編された。1964年(昭和37年)10月から第202飛行隊がアラート待機を開始、1965年(昭和40年)には所要飛行隊を維持することが難しいとして、J型30機のライセンス生産による追加調達が決定。1967年(昭和42年)度に計230機が配備された。 機体 F-104Jに搭載されていたJ79エンジン かかみがはら航空宇宙科学博物館展示 F-104J は要撃機という日本の要求にあわせてM-2爆撃コンピュータを取り外しており、NASARR F15Jも、F-104Gの搭載したF15Aと異なり対地攻撃の機能を持たない。空中給油については、C型以降は給油口が一点加圧式であるため、空中給油プローブを取り付ければ可能だが航空自衛隊は装備していない。なお、給油口の位置自体は左エアインテイク前方で自衛隊機もその他の空軍機も同じである。諸外国のF-104もプローブは着脱が可能で、装着したときの最大速度はマッハ1.75に制限された。 武装はJM61 20mmバルカン砲とAIM-9B/Eサイドワインダー空対空ミサイル、2.75in Mk4 FFAR空対空ロケット弾を装備できる。ロケット弾の装備は、サイドワインダーの全天候照準を可能とする赤外線照準機が最初の3機を除いて未搭載であり(プロビジョンだけは残っていた)、当時のサイドワインダー単体では全天候戦闘を行う事ができなかったからである。バルカン砲は当初装備の予定はなく、C-1契約の180機は未装備で引き渡されている。後にバルカン砲が搭載されたが、F-104J計210機のうち、装備した機体は160機前後に留まった。未装備機の機体の銃口はふさがれ、空きスペースには予備の燃料タンクを有していた。 単発エンジンで故障も多く、1969年2月8日に金沢市で落雷を受け民家に墜落し、住民4名が死亡し民家17戸が全焼するという墜落事故を契機に、自衛隊戦闘機の選考にも影響を及ぼした(結局、実態としては攻撃機であった(配備当初の区分において)支援戦闘機のF-2を除けばF-35Aまで単発の戦闘機の導入はなかった)。22年間での大事故は24件とされている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 最後の有人戦闘機 登場時はミサイル万能論の影響もあり、将来的には航空自衛隊の戦闘機は全て地対空ミサイルに置き換えられると予想されていた。そのため、日本では「最後の有人戦闘機」「人間最後の戦闘機」「最後の有人機」などと呼ばれた。当時放送されたドキュメント番組には『F-104J 人間が乗る最後の戦闘機』というタイトルがつけられている。なお、地対空ミサイルは1970年の地対空誘導弾ナイキJの導入によって実現したが、同時期にF-4EJ戦闘機も導入しており、ミサイルによって全ての有人戦闘機が置き換えられる事態には至っていない。 俗説で最後の有人戦闘機の呼び名は“ultimate manned fighter”の意訳とされる。1956年2月16日にYF-104を記者公開した際、米空軍がそう表現したとする記事があるが、英語圏では知られておらず、英語版wikipediaのF-104には書かれていない。ロッキード社によるキャッチフレーズは“Missile With A Man In It”で、これを最後の有人戦闘機の原文と扱う記事がある。 退役 F-4EJ搭載のトラベルポッドとして再利用されたF-104Jの増槽(2014年) F-4EJ、さらにはF-15Jの配備が進むと減数となり、1986年(昭和61年)に那覇基地の第207飛行隊が解隊され、実戦部隊から退役した。このとき多くの機体が用途廃止となり、書類上のみでアメリカに援助相当分を返却したことにして直接廃棄したものもあるが、36機(F-104J:30機、F-104DJ:6機)は状態が良好だったためアメリカに返却された後に阿里山9号計画によって台湾空軍に再供与された。また、アメリカに返還された機体の他に39機が飛行可能な状態だったため、航空実験団に残す4機を除いて35機がモスボール化された。状態の良い機関砲はVADS用に再利用された。 1986年から無人化研究の予算が付き、その中から2機を試作機である有人飛行可能なUF-104Jとして試改修を行い、1992年から臨時無人機運用隊にて試験運用が開始された。1994年に正式に発足した無人機運用隊は、試作機2機、量産型の完全無人標的機UF-104JAを12機の計14機を無人標的機UF-104J/JAに改修して使用した。航空自衛隊最後の「マルヨン」でもあったUF-104J(46-3600)は1997年(平成9年)3月11日に無人標的機として撃墜され、これをもって航空自衛隊から全機姿を消した。 不用になった増槽の一部はF-4やT-4の汎用カーゴポッド(トラベルポッド)に改造され、2000年以降も使われている。
Image may be NSFW. Clik here to view. 評価 F-104は軽量戦闘機であり訪米調査団が「触らせてももらえなかった」アメリカ防空軍団(ADC)の全天候要撃機F-106デルタダートのような充実した電子兵装や重武装、大航続距離のための燃料、レーダー誘導式の中射程空対空ミサイルを搭載できない。ミサイルによる全天候戦闘能力を持たないことは要撃機としては大きな欠点となる。とはいえ、F-106が戦闘機単体での能力ではなくSAGE(半自動防空システム)とのデータリンクで成り立つ兵器であり、システムとして導入しないと効果は期待できない。SAGEは当時の最新鋭のコンピュータシステムで、かつ、特注で作られた一品物であり、アメリカが提供する可能性は低く、当時の日本の経済力・技術力では購入・導入・運用は不可能だった。 日本における防空システムであるBADGE(自動防空警戒管制組織)の運用開始は1969年(昭和44年)であり、これと組み合わせた戦闘機は1969年(昭和44年)の国防会議で採用が決定されたF-4である。従って、F-104は日本が購入できる中では最良の選択だったとされる。要撃機に必須の能力のひとつである上昇性能に関しては非常に優れており、次世代機のF-4よりも高く評価するパイロットもいる。また、バルカン砲の装備方法の違いからF-4EJと比較して弾道が非常に安定していた(機体に抱え込むような装備方法のF-104に対して、F-4E/EJは機首を延長して弾倉を搭載し、機銃そのものは機首にぶら下がる形になるため「落ち着きが無い」と評される事もあった)ため、この点においてもF-4EJ戦闘機よりも優れているとしたパイロットもいた。 高亜音速域での旋回半径が2キロと大きく対戦闘機戦闘においては不利であるが、運用各部隊の精力的な研究成果として、小型の機体に由来する低視認性や旋回時間が短い事などを生かした航空自衛隊独自の運用(フラップモードを固定するなど)を編み出している。その成果の一例に岩崎貴弘は在官時代、日米共同訓練における模擬空中戦で米空軍のF-15を「撃墜」した。アメリカ空軍は本来の目的である制空戦闘機としてF-104を使用しなかったが、空自がケリー・ジョンソンの設計を生かした運用を実現できたと言える。 アメリカ空軍ではF-104やF-106と同時期に、元々侵攻戦闘機として開発された航続距離の長い機体であるF-101も要撃機として採用しており、広大な北極海のパトロールを要するアラスカの部隊で使用された。こちらはカナダに輸出された実績もあり、上述の通りカナダ空軍はF-104を核攻撃任務に用い、要撃任務はF-101が担った。ただし空自においては、選考当時には長大な航続距離は必要な要件とみなされなかったため、F-101は候補にすらならなかった。F-104採用後、小笠原諸島と沖縄がアメリカから返還されると、日本は広大な領海を抱える事となり、航続距離の不足が問題になりつづけた。 配備部隊 第2航空団 (千歳) - 第201飛行隊(F-15に機種更新)・第203飛行隊(F-15に機種更新) 第5航空団 (新田原) - 第202飛行隊(F-15へ機種更新後に解隊)・第204飛行隊(F-15に機種更新と同時に第7航空団隷下へ移動) 第6航空団 (小松) - 第205飛行隊(解隊) 第7航空団 (百里) - 第206飛行隊(解隊) 第83航空隊 (那覇) - 第207飛行隊(第7航空団で編成後、沖縄返還により移駐。86年に解隊) 実験航空隊 (航空実験団を経て現在の飛行開発実験団)
Image may be NSFW. Clik here to view. 2004年(平成16年)10月16日 - 上り線が高架ホームに移行。 2006年(平成18年)5月21日 - 下り線が高架ホームに移行。 2013年(平成25年)9月28日 - 阪和線運行管理システムを2代目のものに更新。 2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始する。
Image may be NSFW. Clik here to view. 駅番号 JR-R23 所属事業者 JR logo (west).svg西日本旅客鉄道(JR西日本) 所属路線 R 阪和線 キロ程 3.9km(天王寺起点)
Image may be NSFW. Clik here to view. 電報略号 ツル 駅構造 高架駅 ホーム 2面4線 乗車人員 -統計年度- 4,961人/日(降車客含まず) -2016年- 開業年月日 1938年(昭和13年)5月22日 備考 直営駅 みどりの窓口 有 阪 大阪市内駅 * 改称経歴 - 1940年 阪和鶴ケ丘停留場→南海鶴ケ丘停留場 - 1944年 南海鶴ケ丘停留場→鶴ケ丘駅
Image may be NSFW. Clik here to view. 1978年(昭和53年)7月1日 - 都営1号線を浅草線に改称。 1978年(昭和53年)12月21日 - 都営新宿線の馬喰横山駅が開業。同時に地下連絡通路が開通し、3駅同時の乗り換え業務を開始し、現在に至る。
Image may be NSFW. Clik here to view. 1998年(平成10年)11月18日 - エアポート快速特急(現・エアポート快特)の停車駅に指定される。 2015年(平成27年)4月1日 - 新橋駅務管理所浅草橋駅務区から馬喰駅務管理所馬喰駅務区の管理下に変更される。同時に東京都営交通協力会委託となる。
アメリカ空軍は、CH-53Aの発展型として機体側面に増槽を装備したCH-53Cを取得したほか、さらに空中給油プローブを装着した戦闘捜索救難機としてHH-53B スーパージョリーグリーンジャイアント(Super Jolly Green Giant)を運用しベトナム戦争に投入した。これは、HH-53CやHH-53H、MH-53Jなど戦闘捜索救難機・特殊作戦機として発展している。
Image may be NSFW. Clik here to view. 国鉄時代に制作されたスタンプ(わたしの旅スタンプ)には「国鉄で一番低い駅」と記されていた(JR化後は"国鉄で"を削除)が、後に高さが−27.14mに修正されたことや、さらに低い京葉線東京駅 (−29.19m) や海峡線吉岡海底駅(−149.5m、2014年3月廃止)が開業したために、2000年頃にスタンプ自体の劣化に伴って作り替えられた際に「問屋街と歴史のある町」に書き換えられた。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2 下り 天王寺・JR難波・大阪方面 跨線橋階段下には上屋が設置され、待合所として利用されています。
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駅周辺 駅前広場も整備されています。 南側 白坂神社 大和川 国豊橋 近鉄大阪線 河内国分駅
Image may be NSFW. Clik here to view. 北側 柏原市立堅下南小学校高井田分校 史跡高井田横穴公園・歴史資料館 サンヒル柏原 東側 大阪府立修徳学院 大阪府立柏原東高等学校
Image may be NSFW. Clik here to view. 西側 高井田公園 天湯川田神社 バス路線 柏原市の無料循環バス(きらめき号)が平日に運行されている。2006年(平成18年)7月からは近鉄バス堅上線の運行を代替し、青谷や雁多尾畑(かりんどおばた)集落へ乗り入れるようになった。
Image may be NSFW. Clik here to view. 大阪府内には、大阪市営地下鉄中央線にも同名の高井田駅がある。この駅は、JR城東貨物線がおおさか東線として旅客化された際に同線との乗換駅となり、当初はおおさか東線の新駅の仮称も「高井田駅」とされていた。結局おおさか東線の駅は「高井田中央駅」となったが、その理由の一つとして「大和路線高井田駅と区別する必要がある」ことが挙げられている。 かつて高井田駅の改札外には、南口駅前広場において当駅開業と同時に公衆トイレが設置されていた。しかし、当公衆トイレの老朽化と及び治安・管理面での事情等により、2016年に閉鎖された。
Image may be NSFW. Clik here to view. 1985年(昭和60年)8月29日 - 日本国有鉄道の駅(旅客駅)として、関西本線の河内堅上駅 - 柏原駅間に新設開業。 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。 1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、「大和路線」の愛称を使用開始。 2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。 2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。 2011年(平成23年)3月26日 - バリアフリー化工事が完成。エレベーターの使用を開始。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2014年(平成26年) 2月20日 - この日をもってみどりの窓口が廃止。 2月21日 - みどりの券売機プラス営業開始。 2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。
Image may be NSFW. Clik here to view. 機体 エンジンを機首に搭載し、主翼は低翼配置の一般的な機体である。価格を抑えるために、極力T-34との部品の共通化を行っているが、それでも時代の要請に合わせ、特に高空性能や航続距離の改善を行っている。具体的には、スーパーチャージャー付きのレシプロエンジンの強化、燃料タンクの増設などである。
Image may be NSFW. Clik here to view. 2番のりばは下り待避線であり、2・3番のりばの間の通過線の下り本線にはホームはない。3番のりばは上り待避線、4番のりばは上り本線である。3番のりばは、天王寺方面から当駅止まりの普通電車の折り返しと、当駅始発の快速電車JR難波行きが発車する。
Image may be NSFW. Clik here to view. 駅周辺 駅から約500メートル東方に近鉄大阪線の堅下駅がある。近鉄道明寺線からの普通運賃の通算制度は原則無いため、1枚のきっぷで道明寺線と大阪線を乗り継ぐことはできない。しかし定期券のみ例外で、柏原駅と堅下駅を徒歩連絡として計算し購入することができる。