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オートビット FF 175CC 1954年 藤田鉄工所

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4サイクル150CCの1号車(1948年)の開発に当時の名オートレーサー平田友衛が協力している。奇抜さはないが、東京の一流部品を使い、堅実で安定した性能を誇っていた。
1953年3月の名古屋T.TレールにFE150CCで出場し、メーカーチーム賞8位に入賞している。同年7月の第1回富士登山レースでは優勝した。

FFはサイクルOHV 150cc、二段手動変速のFEの改良型で、175CC、4馬力、手動3段変速。

藤田鐵工所はエンジン部品・小型汎用部品の一貫生産から熱間鍛造・冷間鍛造・切削・浸炭焼入・研磨の単一加工生産まで行っている。
大正3年 1914 個人経営を以て創業、製茶機械ならびに工作機械を製作販売
昭和16年 1941 日本楽器製造(株)協力工場として軍事品(航空機部品)を製作
昭和20年 1945 運輸省名古屋鉄道局管内の機関車部品を製作
昭和24年 1949 各社の自動二輪車部品の製造を開始、特にクランクシャフト、コンロッド、及びシャフト類の鍛造より切削、熱処理、研削完成まで一貫加工の基盤を確立
昭和26年 1951 株式会社藤田鐵工所に法人改組、自動二輪車部品の増産に対処すべく事容を拡大


昭和35年 1960 同系会社 大和鍛工(株)を設立
昭和39年 1964 社内鍛造金型製作部門を分離して(株)富士金型製作所 を設立
昭和45年 1970 事容拡張のため工場を分離し、南工場と命名創業を開始
昭和53年 1978 同系会社 聖和熱処理工研(株)を設立
昭和61年 1986 クランクシャフト、コンロッド加工専用機及びオートローダー用ロボットの本格的自社開発製造を開始
平成3年 1991 同系会社 (株)フジタ を設立
3軸自動ホーニング機を7~8年かけて10台導入
平成22年 2010 ベトナムにFUJITA VIETNAM CO., LTDを設立
平成25年 2013 南工場第一事務所の竣工
平成26年 2014 創業100年となる


JR九州885系電車

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JR九州885系電車
885系電車(885けいでんしゃ)は、九州旅客鉄道(JR九州)の交流特急形電車。
2000年(平成12年)3月11日に営業運転を開始した。

783系と485系を使用していた特急「かもめ」の速度向上を目的とした振り子式車両である。JR九州の振り子式車両としてはすでに883系が存在し「ソニック」で使用されていたが、本系列は883系と車体構造・内装デザインが変更されている。また2001年(平成13年)には「ソニック」増発用として一部設計変更された編成が製造された。デザインは水戸岡鋭治主宰のドーンデザイン研究所が担当した。

全車が日立製作所で製造された。車両価格は6両編成で10億8000万円(1両平均1.8億円)。
最高速度は883系と同じ130km/hで、80km/hまでの加速性能も883系と同じだが、それ以上の速度領域では加速力を向上させることで高速性能の改善を図っている[2]。速度種別はA68。
2001年に鉄道友の会第44回ブルーリボン賞、ブルネル賞、財団法人産業デザイン振興会グッドデザイン賞を受賞した。

車体
車体は日立製作所のモジュール構体システム「A-train」を採用し、摩擦撹拌方式 (FSW) により製造されたダブルスキン構造のアルミニウム合金製である。ダブルスキン構造の内部に制振材を挿入し、床面上部にも貼り付けることで騒音防止を図っている。前頭部は新幹線や、ドイツの高速列車ICE3を彷彿させるような、非貫通構造で丸みの帯びた流線型とし、併結用の密着連結器はカバーで車体と一体になるようにデザインされている。前照灯のデザインは、スポーツカー「アウディ・TT」のものを基にしている。側面窓は883系に比べやや小さくなるとともに、窓ガラスはUVカットガラスに変更された。また乗降扉の横幅も883系に比べ100mm縮められ、900mmとされた。ただし、床面高さを低くしたことにより、ホームとの段差が小さくなったため出入台にステップは設置されていない。
塗装はそれまでのJR九州の車両に多かった原色を用いたデザインから一変し、白一色で車体下部と前面運転台窓周りに帯を入れたデザインとなっている。この帯の色は「かもめ」に充当される1次車が黄色、「ソニック」に充当される2次車が青色と区別され、ロゴもそれぞれ異なっていた。ただし予備車が少ないことから運用上の自由度を高めるため、車体側面エンブレムは後に撤去され、帯の色も2012年上期までに青色への統一が完了した。

このデザインを採用するにあたり、ICE3のデザイナーであるアレクサンダー・ノイマイスターと親交がある水戸岡は、ノイマイスター本人から快諾を得たという。

電源・制御機器
主回路機器は815系をベースに特急形として見直しを図っている。主回路制御方式は、883系に続いてVVVFインバータ制御を採用する。
主変換装置は、IGBT素子を使用したPWMコンバータ+VVVFインバータで構成される。
主変圧器は自冷式を採用し、モハ885形に搭載される。モハ885形0・400番台は隣接するクモハ885形にも給電することから、二次巻線2線と三次巻線で構成された2M車タイプを搭載する。モハ885形100・200番台は自車のみ給電であることから、二次巻線を1線とした1M車用を搭載する。
中間電動車のモハ885形にシングルアーム式パンタグラフを装備している。パンタグラフ位置が車体の振り子動作に影響されないように、パンタグラフ台は台車枠直結の支持台上に設置されており、パンタグラフを備えるモハ885形のこの部分はデッドスペースとなっている。
主電動機は、883系で実績のある MT402K (定格出力190kW)を電動車両1両あたり4基搭載する。
消費電力は、1両あたりの消費電力の理論値ベースで415系の消費電力を100とした場合、885系は約65パーセントとなっている。。

台車
台車は空気式制御付自然振り子台車のDT406K(電動車)/TR406K(制御車・付随車)となっている。台車の外観や寸法などは883系に類似しているが、台車形式は883系とは異なっている。
883系投入線区のほとんどは最高速度で走行可能で、100km/h未満の速度制限箇所が一部存在するが、長崎本線肥前鹿島駅 - 諫早駅間では日豊本線より厳しい制限70km/h - 75km/hの急曲線が連続するため、振り子電車としての車体傾斜による安定性を高めることを目的に、空気ばねの左右間隔を883系より10cm広い1,900mmとしている。80km/h以上の速度領域での加速度向上を図ったのも同様の理由のためである。

車内
車内デザインはICE3などを参考にしつつ、水戸岡のデザインコンセプトを強く反映したものとなっている。

座席
座席は全席リクライニングシートで、普通席・グリーン席ともに本皮革張りとしている。これにより構造上、座席背面にテーブルを設置することができないため、側面窓の窓かまちを設けることで小物を置くスペースの確保を図っている。また、ヘッドレスト背面にはチケットホルダーが設置されている。座席の本革は、商品価値を損なわない程度の微細な傷などが入ったもの(いわゆるアウトレット品)を用いている。そのため、製造コストは通常の座席と大差はない。なお、運転席はレカロ社製の特注品である。
しかし本革張りの座席を好まない乗客もいるため、各編成の4号車から6号車の座席が順次モケットに変更されることとなっており、2012年にSM2編成で実施された。
グリーン席の座席はすべて1人掛け座席となっているが、中央のC列の座席を片側に寄せてD列席と隣接させることで1+2列配列並みの配置としている(席番配置はA+CD)。また座席背面のフットレストが省略された。A列の壁面とC・D列の中間部に折りたたみ式の木製テーブルを設置している。定員は12名で、883系より1列分少なくなっている。
普通席は一般的な2+2列配置の座席で、座席の前後間隔は883系に比べて20mm短い980mmとなった。普通席では中ひじ掛けに収納式の木製テーブルを設置している(画像でも解るが手前には2つ設置されている。これは、座席を回転させた際にテーブルの位置がずれてしまう為の対策である)。

側面化粧板は白色、床はフローリングとしている。ただし、サハ885形100番台および300番台(いずれも3号車)の化粧板はダークグレーである。
883系に設けられていた客室中央部のセンターブースは廃止され、代わりにデッキの面積を拡大し、車端部にコモンスペースを設けた。コモンスペースには縦長の窓が設けられている。
仕切扉には、車両間の半透明ガラス扉、普通客室とデッキを仕切る上部透明/下部半透明のガラス扉、グリーン客室とデッキを仕切る木製扉の3種類があり、全て自動扉であるが、木製扉は手でセンサに触れなければ開かない。これらのうち、ガラス扉は乗務員室からの操作による一括開閉が可能である。また車両間の扉は、一方の扉の開閉と連動して他方の扉も開閉する。
LED式案内表示器は、客室端部(仕切扉上部)に天井から吊るす形で設置されている。LEDの大きさや配置は883系に準じ、左側から禁煙表示灯、号車番号表示、座席種別表示(グリーン車:グリーンマーク、普通車指定席:緑色で「指」、普通自由席:橙色で「自」)、スクロール式情報表示(8文字分で、当初は「見えるラジオ」を利用したニュース配信も行われていたが、現在は、乗客への注意喚起や特別企画乗車券等の自社広告、ソニックのみ別府駅到着直前に「湯の街別府の案内」が流れている。)、携帯電話使用禁止表示、トイレ使用中表示となっている。なお、スクロール式情報表示での英数字表示は通常は全角だが、「見えるラジオ」のニュース配信では半角である。また、6号車に指定席と自由席が混在していた時期(2003 - 2007年)は、通常の座席種別表示は使用されず、「指/自」と表記されたプレートが当該部分に貼付されていた。
各車両一部座席を撤去し、787系のように大型の荷物を置くことができる荷物スペースを設置している。

運転装置
主幹制御器は左手操作ワンハンドル式(手前から力行5段、中立、抑速ブレーキ、常用ブレーキ7段、非常ブレーキ)とされた。運転室と客室との仕切は液晶ガラスとなっており、通常は透明であり客室から前方の風景を見ることができる。なお、停留中や事故などで先頭車のマスコンハンドルが非常ブレーキ位置にあるときは瞬時に不透明になる機構を備える。ちなみに、運転席右部にこのスイッチがあり、ONにすれば常時透明のままになる。
また、三菱電機製乗務員支援モニタ(合成音声とチャイムによる停車駅接近予告機能を付加。客扱いをしない停車駅でも予告)も備えている。後日装備であるが、運転台の上にATS-DK形のコンソールが搭載された。
ミュージックホーンも搭載されているが、883系と同様に運転台の下のペダルで操作するのではなく、運転室のコンソールボックスの中のスイッチを操作して吹鳴させる。これは各種試験動作などの注意啓発の合図のために設置されたもので、通常は聞くことができない。

編成
3M3T(電動車3両、付随車3両)の6両で構成される。下り長崎・佐伯寄りからクロハ884形 - モハ885形100番台/200番台 - サハ885形100番台/300番台 - サハ885形 - モハ885形 - クモハ885形となっている。
サハ885形100番台もしくは300番台(いずれも3号車)を編成中から外し、5両編成 (3M2T) で運転することも可能である。このため、同車および同車との連結面は密着連結器となっている。他は、先頭部を除き半永久連結器である。
当初「かもめ」用の1次車が6両編成7本、2001年に「ソニック」用の2次車が5両編成4本製造された。2003年(平成15年)に2次車の6両化用として4両が、2004年(平成16年)に事故廃車(後述)された補充として3両が製造された。
2011年(平成23年)4月現在、6両編成11本の計66両が南福岡車両区(本ミフ)に在籍する。編成番号はSM1 - 11で、「SM」の「S」は885系を、「M」は南福岡車両区所属を表す記号である。

もともと1次車は「かもめ」、2次車は「ソニック」用として新製されたが、2003年に2次車が1次車と同じ6両に増結されてからは、共通運用によって車両使用効率の向上(例として、総走行距離の調整)や「ソニック」運用に予備編成がなかったことから、1次車が「ソニック」の、2次車が「かもめ」の運用に入ることも見られるようになった。現在は使用される編成の区別はなくなっており、1次車が2次車と同じ青帯に変更され、車体ロゴも「AROUND THE KYUSHU」に統一されている。

本系列投入以前の783系「かもめ」では17往復で6両編成8本が必要とされ、ほとんどの編成は1本につき博多駅 - 長崎駅間1日2往復半を運用していたが、本系列では16往復で6両編成7本と、ほとんどの編成が博多駅 - 長崎駅間1日3往復を運用しており、運用効率化を図った現実が伺える。一般に振り子電車は製造コストが高価になりやすいとはいえ、本系列登場前は博多駅 - 長崎駅間を往復するのに6時間かかっていたのを5時間へ短縮したことにより、6両編成1本分の車両削減効果を達成している。一方、「ソニック」では2000年3月11日改正以降、「にちりん」の減少による影響で極力883系の車両運用効率化で賄ったとはいえ、同系のみでの編成不足分を補うために2001年3月3日改正で4本が増備された。

車内放送
783系・787系・883系と同様の3打点音に続く自動放送による次停車駅予告が導入されている。又、2000年から2010年頃まで博多駅到着前にJR九州社歌「浪漫鉄道」のボーカルなしのバージョンが、浦上駅到着直前には、長崎行「かもめ」に限りジャコモ・プッチーニ作曲:アリア「ある晴れた日に」(オペラ「蝶々夫人」より)のインストゥルメンタルが流れる事があったが、現在は流れなくなっている。尚、インストゥルメンタル演奏は当初「ソニック」用のSM8 - 11編成では実施されなかったが、2004年ごろから流れる様になっていた。2016年頃より、英語による放送も実施されている。

また、「ソニック」の別府→大分間の昼間の下り列車において、石丸謙二郎によるナレーション放送が2011年3月より実施されている。
車掌や客室乗務員の肉声放送の前後にも、手動でチャイムが流れる場合がある。チャイムは「鉄道唱歌」や5打点音など4種類がある。

行先表示器
本系列の行先表示器は全車にLED式が装備されているが、非常にシンプルなものとなっている。なお一定速度以上で走行中は表示が消え、停車中に消すことも可能である。
上部約2/3では、列車名と行先が表示される。上部より英語列車名、日本語種別・列車名、日本語行先、英語行先となっている。下部約1/3は、号車番号、座席種別(グリーン/指定/自由、禁煙/喫煙)およびその英語表記が表示される。これらは別個に設定可能である。ただし、以下の列車については、列車名と行先の表示が他の列車とは異なる。
大分駅で「にちりん」と接続する「ソニック」では、英語名の表記が省略されるとともに、列車名と行先がそれぞれ「ソニック(&にちりん)」「大分(宮崎空港)」となっている。また、その下に「大分駅で「にちりん号」と接続」の表記が加わる。
柳ヶ浦駅行の「ソニック」では、「特急 ソニック 小倉>中津>柳ヶ浦」の表記となる(883系でも同様)。


JR九州885系電車
基本情報
運用者 九州旅客鉄道
製造所 日立製作所笠戸事業所
製造年 2000年 - 2004年
製造数 66両 + 代替車3両
運用開始 2000年3月11日
主要諸元
編成 6両編成
軌間 1,067 mm
電気方式 交流20,000V (60Hz)
最高運転速度 130 km/h(曲線通過 +30 km/h)
設計最高速度 150 km/h(曲線通過 +40 km/h)[要出典]
起動加速度 2.2 km/h/s
減速度(常用) 4.3 km/h/s
減速度(非常) 5.2 km/h/s
編成定員 314名(6両編成)
編成重量 228.4 t
全長 20,500 mm
21,650 mm (先頭車)
全幅 2,910 mm
全高 3,825 mm
車体 アルミニウム合金
主電動機 かご形三相誘導電動機
駆動方式 TD継手式中実軸平行カルダン駆動方式
編成出力 190kW×12=2,280kW (3M3T)
制御方式 IGBT素子VVVFインバータ制御
制動装置 回生ブレーキ併用電気指令式ブレーキ
保安装置 ATS-SK、ATS-Dk

F-104J 要撃戦闘機

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F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)

F-100 スーパーセイバーに始まるセンチュリーシリーズの一員とされ、また、第2世代ジェット戦闘機に分類される、アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機。初飛行は1954年2月。

細い胴体に短い矩形の主翼を持つ小型軽量の機体にゼネラル・エレクトリック社の強力なJ79型エンジンを一基搭載している。その卓越した高速性と形態はミサイル(当然無人である)を彷彿させ、日本やアメリカにおいては「最後の有人戦闘機」とも称された。

アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、中華民国(台湾)や西ドイツなどアメリカの同盟国や友好国を中心に、世界15ヵ国で供与・運用された。1960年代に勃発したベトナム戦争のほか、第二、第三次印パ戦争等の実戦に投入された。

高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、南ベトナムや韓国、フィリピン、南アメリカ諸国をはじめとする発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。初飛行後から半世紀を経た2004年、イタリア空軍に所属したF-104S退役を最後に全機退役となった。

概要
航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良したF-104J、および複座の練習機F-104DJを採用した。日本にとっては、独自で機体選考を実施した最初のジェット戦闘機ともなった。空自では栄光という愛称を持つ。三菱重工業がライセンス生産を担当し、細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もある。F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役した。
導入経緯
T-33A導入で日本への足がかりを築いたロッキードは、アメリカ空軍での採用以降、空軍からデータが公表されると共に、防衛庁に対して売り込み始めた。アメリカ本国における大量調達の芽が無くなったものの、F-86の後継としてF-100の採用を狙うノースアメリカン社との販売競争が行われていた。
防衛庁は1957年(昭和32年)に次期戦闘機(F-X)調査団を米国へ派遣した。
増強が進むソビエト空軍の爆撃機を意識し、以下の要求を満たす戦闘機の選定を行った。日本としては初めての機体選定作業となった。


マッハ2クラスの速度
高度15,500mまで約8分以内に到達
最大上昇限度が18,000m
戦闘行動範囲約380km
以上の要求に当てはまる戦闘機はF-104、F-100、N-156F(後のF-5)、F-102の4種となった。F-104は実機が完成し初飛行を成功させてはいたが、アメリカ空軍での配備はまだであった。F-100は当時のアメリカ空軍主力戦闘機、N-156Fは計画機、F-102はもっとも高価な機体であった。これらに加え、米国防総省から予定に無かったグラマンG-98J-11(F11Fタイガーの発展型)の紹介を受け、調査に追加した。当時、最も有力視されていたのが、三菱重工と親密であったノースアメリカン社のF-100で、機首にレーダーを搭載した日本向けF-100Jの発表もなされた。
調査団は1957年9月13日に帰国し報告書を提出したが、結論は明記されておらず、結論は先送りとなった。この折、主力戦闘機であるノースアメリカンF-86Fをライセンス生産する三菱重工に、同じノースアメリカン製F-100Jを「つなぎ」として80機ライセンス生産させる意見も上がり、半ば決定とされていたが、F-100について当時の総理大臣岸信介に「戦闘爆撃機」と説明したために「日本に爆撃機は要らない」と一喝され、沙汰止みとなった。
1958年1月に佐薙毅航空幕僚長が渡米しF-X次期戦闘機の選定を実施し、帰国後に報告書を提出。報告書で候補機はF-104とG-98に絞られたが、米空軍に配備されたばかりのF-104の事故と、同機が3000メートル級滑走路を必要とする事、データリンクの容量不足等から、翌1958年(昭和33年)に防衛庁はG-98J-11の採用を決定、国防会議で内定した。同時に佐薙航空幕僚長らが訪米し、国防総省及び空軍と交渉したが、どちらを採用しても良いとの承認を得た。
だが、G-98の内定に対して批判が起き(第1次FX問題)、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展した。1959年(昭和34年)の国防会議において、内定の撤回と再調査が決定。「乗ってみなければわからない」の名台詞を残した源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米した。G-98はマッハ1級の機体を無理にかさ上げしてマッハ2級にしたものであり、後退翼を採用した事から遷音速域での加速は優れるが、音速突破後の加速に劣り、超音速域での機動が悪かった。対してF-104は、直線翼を採用した事から遷音速域での加速性に劣るが、音速突破後の加速は優れ、マッハ2の最高速度域でもエンジン推力に余裕があり高い機動ができ、両者の性能差は明らかだったという。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づき、「F-104Gを日本向けに改装した型を採用する事を承認する。機数は180機、ほかに訓練用20機を昭和40年を目処として国産する」と決定した。


これらの機体の導入にあたっては、総経費968億円のうち7500万ドル(270億円)をアメリカ政府による資金援助(無償供与)を受けて配備される事となった。日米の分担比率は72対28である。
生産
J型1号機は1961年(昭和36年)6月30日に米国で初飛行、フライング・タイガー・ライン(貨物航空会社 フライング・タイガース)のCL-44により空輸された。3号機までは完成機として輸入され、国内で再組み立てされた。続いて17機が三菱重工業でノックダウン生産、160機がライセンス生産された。DJ型は20機全てが完成品輸入で、国内で再組み立てされた。
1963年から1966年にかけて、第201から第207までの7個飛行隊が新編された。1964年(昭和37年)10月から第202飛行隊がアラート待機を開始、1965年(昭和40年)には所要飛行隊を維持することが難しいとして、J型30機のライセンス生産による追加調達が決定。1967年(昭和42年)度に計230機が配備された。
機体
F-104Jに搭載されていたJ79エンジン
かかみがはら航空宇宙科学博物館展示
F-104J は要撃機という日本の要求にあわせてM-2爆撃コンピュータを取り外しており、NASARR F15Jも、F-104Gの搭載したF15Aと異なり対地攻撃の機能を持たない。空中給油については、C型以降は給油口が一点加圧式であるため、空中給油プローブを取り付ければ可能だが航空自衛隊は装備していない。なお、給油口の位置自体は左エアインテイク前方で自衛隊機もその他の空軍機も同じである。諸外国のF-104もプローブは着脱が可能で、装着したときの最大速度はマッハ1.75に制限された。
武装はJM61 20mmバルカン砲とAIM-9B/Eサイドワインダー空対空ミサイル、2.75in Mk4 FFAR空対空ロケット弾を装備できる。ロケット弾の装備は、サイドワインダーの全天候照準を可能とする赤外線照準機が最初の3機を除いて未搭載であり(プロビジョンだけは残っていた)、当時のサイドワインダー単体では全天候戦闘を行う事ができなかったからである。バルカン砲は当初装備の予定はなく、C-1契約の180機は未装備で引き渡されている。後にバルカン砲が搭載されたが、F-104J計210機のうち、装備した機体は160機前後に留まった。未装備機の機体の銃口はふさがれ、空きスペースには予備の燃料タンクを有していた。
単発エンジンで故障も多く、1969年2月8日に金沢市で落雷を受け民家に墜落し、住民4名が死亡し民家17戸が全焼するという墜落事故を契機に、自衛隊戦闘機の選考にも影響を及ぼした(結局、実態としては攻撃機であった(配備当初の区分において)支援戦闘機のF-2を除けばF-35Aまで単発の戦闘機の導入はなかった)。22年間での大事故は24件とされている。


最後の有人戦闘機
登場時はミサイル万能論の影響もあり、将来的には航空自衛隊の戦闘機は全て地対空ミサイルに置き換えられると予想されていた。そのため、日本では「最後の有人戦闘機」「人間最後の戦闘機」「最後の有人機」などと呼ばれた。当時放送されたドキュメント番組には『F-104J 人間が乗る最後の戦闘機』というタイトルがつけられている。なお、地対空ミサイルは1970年の地対空誘導弾ナイキJの導入によって実現したが、同時期にF-4EJ戦闘機も導入しており、ミサイルによって全ての有人戦闘機が置き換えられる事態には至っていない。
俗説で最後の有人戦闘機の呼び名は“ultimate manned fighter”の意訳とされる。1956年2月16日にYF-104を記者公開した際、米空軍がそう表現したとする記事があるが、英語圏では知られておらず、英語版wikipediaのF-104には書かれていない。ロッキード社によるキャッチフレーズは“Missile With A Man In It”で、これを最後の有人戦闘機の原文と扱う記事がある。
退役
F-4EJ搭載のトラベルポッドとして再利用されたF-104Jの増槽(2014年)
F-4EJ、さらにはF-15Jの配備が進むと減数となり、1986年(昭和61年)に那覇基地の第207飛行隊が解隊され、実戦部隊から退役した。このとき多くの機体が用途廃止となり、書類上のみでアメリカに援助相当分を返却したことにして直接廃棄したものもあるが、36機(F-104J:30機、F-104DJ:6機)は状態が良好だったためアメリカに返却された後に阿里山9号計画によって台湾空軍に再供与された。また、アメリカに返還された機体の他に39機が飛行可能な状態だったため、航空実験団に残す4機を除いて35機がモスボール化された。状態の良い機関砲はVADS用に再利用された。
1986年から無人化研究の予算が付き、その中から2機を試作機である有人飛行可能なUF-104Jとして試改修を行い、1992年から臨時無人機運用隊にて試験運用が開始された。1994年に正式に発足した無人機運用隊は、試作機2機、量産型の完全無人標的機UF-104JAを12機の計14機を無人標的機UF-104J/JAに改修して使用した。航空自衛隊最後の「マルヨン」でもあったUF-104J(46-3600)は1997年(平成9年)3月11日に無人標的機として撃墜され、これをもって航空自衛隊から全機姿を消した。
不用になった増槽の一部はF-4やT-4の汎用カーゴポッド(トラベルポッド)に改造され、2000年以降も使われている。


評価
F-104は軽量戦闘機であり訪米調査団が「触らせてももらえなかった」アメリカ防空軍団(ADC)の全天候要撃機F-106デルタダートのような充実した電子兵装や重武装、大航続距離のための燃料、レーダー誘導式の中射程空対空ミサイルを搭載できない。ミサイルによる全天候戦闘能力を持たないことは要撃機としては大きな欠点となる。とはいえ、F-106が戦闘機単体での能力ではなくSAGE(半自動防空システム)とのデータリンクで成り立つ兵器であり、システムとして導入しないと効果は期待できない。SAGEは当時の最新鋭のコンピュータシステムで、かつ、特注で作られた一品物であり、アメリカが提供する可能性は低く、当時の日本の経済力・技術力では購入・導入・運用は不可能だった。
日本における防空システムであるBADGE(自動防空警戒管制組織)の運用開始は1969年(昭和44年)であり、これと組み合わせた戦闘機は1969年(昭和44年)の国防会議で採用が決定されたF-4である。従って、F-104は日本が購入できる中では最良の選択だったとされる。要撃機に必須の能力のひとつである上昇性能に関しては非常に優れており、次世代機のF-4よりも高く評価するパイロットもいる。また、バルカン砲の装備方法の違いからF-4EJと比較して弾道が非常に安定していた(機体に抱え込むような装備方法のF-104に対して、F-4E/EJは機首を延長して弾倉を搭載し、機銃そのものは機首にぶら下がる形になるため「落ち着きが無い」と評される事もあった)ため、この点においてもF-4EJ戦闘機よりも優れているとしたパイロットもいた。
高亜音速域での旋回半径が2キロと大きく対戦闘機戦闘においては不利であるが、運用各部隊の精力的な研究成果として、小型の機体に由来する低視認性や旋回時間が短い事などを生かした航空自衛隊独自の運用(フラップモードを固定するなど)を編み出している。その成果の一例に岩崎貴弘は在官時代、日米共同訓練における模擬空中戦で米空軍のF-15を「撃墜」した。アメリカ空軍は本来の目的である制空戦闘機としてF-104を使用しなかったが、空自がケリー・ジョンソンの設計を生かした運用を実現できたと言える。
アメリカ空軍ではF-104やF-106と同時期に、元々侵攻戦闘機として開発された航続距離の長い機体であるF-101も要撃機として採用しており、広大な北極海のパトロールを要するアラスカの部隊で使用された。こちらはカナダに輸出された実績もあり、上述の通りカナダ空軍はF-104を核攻撃任務に用い、要撃任務はF-101が担った。ただし空自においては、選考当時には長大な航続距離は必要な要件とみなされなかったため、F-101は候補にすらならなかった。F-104採用後、小笠原諸島と沖縄がアメリカから返還されると、日本は広大な領海を抱える事となり、航続距離の不足が問題になりつづけた。
配備部隊
第2航空団 (千歳) - 第201飛行隊(F-15に機種更新)・第203飛行隊(F-15に機種更新)
第5航空団 (新田原) - 第202飛行隊(F-15へ機種更新後に解隊)・第204飛行隊(F-15に機種更新と同時に第7航空団隷下へ移動)
第6航空団 (小松) - 第205飛行隊(解隊)
第7航空団 (百里) - 第206飛行隊(解隊)
第83航空隊 (那覇) - 第207飛行隊(第7航空団で編成後、沖縄返還により移駐。86年に解隊)
実験航空隊 (航空実験団を経て現在の飛行開発実験団)


無人機運用隊

乗員 1人
全長 16.7m
全幅 6.7m
全高 3.0m
全備重量 11,300kg
エンジン 1基 名称:J79-GE-11A 推力:7,170kg/基
最大速度 マッハ2
航続距離 3,250km
武装 20mmバルカン砲×1、AAMサイドワインダー×2~4、70mmロケット弾×38
製作 ロッキード、三菱重工

鶴ケ丘駅(JR西日本)阪和線

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鶴ケ丘駅(つるがおかえき)は、大阪府大阪市阿倍野区西田辺町二丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅である。駅番号はJR-R23。

長居公園の北西角に位置し、同公園内にある長居陸上競技場(ヤンマースタジアム長居)・長居球技場(キンチョウスタジアム)の最寄り駅となっており、サッカーの試合日などには混雑します。

駅構内はここを本拠地とするJリーグ・セレッソ大阪のロゴやチームカラー、所属選手の写真を使った装飾が2009年から行われている。改装費はセレッソ大阪の運営会社である大阪サッカークラブが負担した。

地上時代の鶴ケ丘駅の所在地は東住吉区山坂五丁目だった。鶴ケ丘駅周辺では、阪和線は東住吉区と阿倍野区の境界線に沿って走っている(長居公園は東住吉区に所在)が、高架化工事のために造られた線路や駅舎は阿倍野区側にあるため、高架化に伴って駅の住所も阿倍野区に変更された。

駅構造
島式ホーム2面4線を有する高架駅で、ホーム長は6両分だが、待避線の長さは阪和線の最大両数である9両分ほどある。地上の旧線跡は都市計画道路に転用される予定ですが、フェンスで覆わています。

みどりの窓口があり改札口の改札機は5台。ICカード専用機も設置されています。

かつては相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、2004年10月16日に上り線が高架化、2006年5月21日に下り線が高架化された。地上駅時代は普通の特急や快速の通過待ちを上下線とも隣の長居駅で行っていたが、高架後はこの駅で行うようになった。

堺市駅が管轄している直営駅で、JRの特定都区市内制度における「大阪市内」に属している。高架化完成前は、ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅であった。

ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができる。切符売場ではイベント実施日に備えて、券売機は5台と多めに設置されています。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1・2 R 阪和線 上り 天王寺・大阪方面
優等列車の退避が頻繁に行われます。


3・4 下り 鳳・関西空港・和歌山方面
ステーションカラーの赤に彩られたエレベータ塔の壁には、鶴が描かれています。

内側2線(2・3番のりば)が本線、外側2線(1・4番のりば)が待避線である。


利用状況
長居公園の最寄り駅であり、園内にある大阪市長居陸上競技場(長居スタジアム)でスポーツなどのイベントが行われる際にはかなりの混雑になる。

駅周辺
地上時代は駅の北側の南港通、西側のあびこ筋が阪和線を横断していたが、電車が頻繁に通過していたため、踏切の遮断時間がかなり長く、「開かずの踏切」とも呼ばれるくらいの深刻な状態に陥っていた。遮断機を無理矢理上げて強引に踏切を渡り、結果痛ましい事故になるケースは後を絶たなかった。

このため、この踏切に起因する周辺道路の混雑緩和などを目的として高架化工事が行われ、2006年5月21日に工事が完成し駅周辺の踏切は消滅した。

長居公園
ヤンマースタジアム長居(長居スタジアム)・ヤンマーフィールド長居(長居第二陸上競技場)
キンチョウスタジアム(長居球技場)
大阪市立南田辺小学校
大阪市立田辺中学校
シャープ旧本社
市営地下鉄御堂筋線西田辺駅
東急スポーツオアシス 鶴ヶ丘店
ライフ 西田辺店

1938年(昭和13年)5月22日 - 阪和電気鉄道の南田辺停留場(現在の南田辺駅) - 臨南寺前駅(現在の長居駅)間に阪和鶴ケ丘停留場として開業。
1940年(昭和15年)12月1日 - 南海鉄道への吸収合併。同鉄道山手線の南海鶴ケ丘停留場となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 戦時買収により国有化され、鉄道省(国鉄)阪和線所属となる。同時に駅に昇格し鶴ケ丘駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1993年(平成5年)7月1日 - 阪和線運行管理システム(初代)導入。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。


2004年(平成16年)10月16日 - 上り線が高架ホームに移行。
2006年(平成18年)5月21日 - 下り線が高架ホームに移行。
2013年(平成25年)9月28日 - 阪和線運行管理システムを2代目のものに更新。
2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始する。


駅番号 JR-R23
所属事業者 JR logo (west).svg西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線 R 阪和線
キロ程 3.9km(天王寺起点)


電報略号 ツル
駅構造 高架駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 4,961人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1938年(昭和13年)5月22日
備考 直営駅
みどりの窓口 有
阪 大阪市内駅
* 改称経歴
- 1940年 阪和鶴ケ丘停留場→南海鶴ケ丘停留場
- 1944年 南海鶴ケ丘停留場→鶴ケ丘駅

T-33A改(飛行開発実験団特別仕様機)複座ジェット練習機

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T-33は、アメリカ空軍初の実用ジェット戦闘機P-80から発展した、初の複座ジェット練習機。愛称は原型のP-80同様シューティングスター(Shooting Star:流星の意)だが、Tバード(T-Bird)の愛称も広く用いられた。米海軍でもTO-2(1950年以降TV-2と改称)の名称で使用された。

生産開始から半世紀以上経過した1990年代以降も現役で、日本の航空自衛隊でも1954年から2000年まで運用されていた。

開発
第二次世界大戦の終結後、レシプロ機から格段に高速化したジェット機が長足の進歩を遂げる中、乗員訓練も高速なジェット機で行う必要性が高まった。初の複座ジェット練習機の開発に当たり、P-80Cがベースに選定され、これを複座化した練習機が開発される運びとなった。

P-80は戦闘機としては既に旧態化していたものの、主としてアンダーパワーに由来する離着陸の困難さを除けば、従来の直線翼のため低空低速時の操縦性が比較的マイルドであり、適任と目された。P-80Cの胴体中央部をストレッチし複座化した他、機首の12.7mm重機関銃はオリジナルのP-80/F-80の6挺から2挺に減らされている。また、翼端の増槽(チップタンク)が半固定式になっている(地上で取り外し可能)
練習機型試作機は1948年に初飛行した。こうして開発された練習機型は期待通りの性能を示して制式に採用され、当初はTP-80C(TF-80C)と呼ばれていたが、間もなくT-33Aに改称された。

運用
T-33は6,557機以上が1948年から1959年にかけて製造されるベストセラー機となり、世界30か国以上で使用された。そのうち656機はカナダのカナディアでライセンス生産されたロールス・ロイス ニーン装備のパワーアップ型CL-30 シルバースター(Silver Ster)で、カナダ統合軍航空部隊(カナダ空軍)では後にCT-133の名で運用された。また、ボリビア、ポルトガル、ギリシャ、トルコにも輸出・供与された。フランスでもアップグレードとしてニーンエンジンへの換装を行い、T-33SFと呼称した。

練習機型の他に、発展途上国への輸出・供与用にCOIN機として武装可能にしたAT-33Aや、機首にカメラを装備して写真偵察機としたRT-33A、各種装備の実装実験機としたNT-33A、遠隔操作の無人標的機として改造されたQT-33A、全天候要撃機化されたF-94などが存在する。

アメリカ空軍では、1960年代初頭に練習任務をT-38に譲ったが、その後も連絡機や標的曳航機として長く使用され、アメリカ空軍のアクロバット飛行チームである「サンダーバーズ」でも設立当初から1960年代後半まで補助機として使用されていた。最後に残ったNT-33Aが退役したのは1997年のことだった。アメリカ航空宇宙局(NASA)でもT-33Aが練習機、連絡機、チェイス機として運用された。

現在でも、軍より払い下げられたT-33、F-94、原型機のF-80等が民間のアクロチームや事業会社、個人所有で数十機が運用されているとみられる。ボーイング787の初飛行及び試験飛行時には民間レジのT-33がチェイス機として飛行しており、リノ・エアレースでは退役したCT-133がペースプレーンとして使用されている。アメリカ軍においてもモスボールされている機体を無人機に改造し、標的機として使うことがある。

ボリビア空軍では十数機のAT-33(CT-133)をグラスコックピット化し、COIN機および戦闘機として2017年まで運用した。練習機の為、実戦経験は多くないものの、ピッグス湾事件では、キューバ空軍が軽戦闘機として(キューバ革命前に導入された)T-33を実戦に投入しており、反革命軍側のA-26爆撃機等を迎撃している。

本田技研工業はHondaJetの開発に際し、飛行実験用(米国内)と地上試験用(日本国内)に中古のT-33を2機購入し運用した。

アメリカ海軍における運用
当初はアメリカ空軍のみで使用されていたTF-80(TP-80)であるが、アメリカ海軍も1949年に陸上練習機として同一機体をTO-2の名称で採用し、空軍が制式名称をT-33に改称した後にはTV-2の名称に改称した。次いで艦載機としての装備を追加した改設計型をロッキード社に発注し、T2V-1 シースター(Sea Star)の名称で採用し、1970年代初頭まで使用している。1962年のアメリカ軍による航空機名称統一後はTV-2はT-33B、T2V-1はT-1Aへと改称された。


航空自衛隊における運用
退役するT-33A。翼端タンクに「ありがとう多くのパイロットを育ててくれて」と書かれている。
航空自衛隊では1954年(昭和29年)の創立当初からF-86Fと共にアメリカから68機の供与を受け、翌1955年(昭和30年)からは川崎航空機によって210機がライセンス生産され、計278機が本来目的の乗員育成のみならず、訓練支援、連絡業務、デスクワークパイロットの規定飛行時間維持の為の年次飛行などに広く用いられた。

なお日本では米での愛称「シューティングスター」、日本での公式愛称「若鷹」よりもその型番に由来する「サンサン」の名で広く呼ばれた。

老朽化した1980年代後半から順次退役が始まり、後継機の川崎T-4への置き換えが進められていき、2002年までに退役させる予定だった。しかし、1999年(平成11年)11月22日、入間基地の航空総隊所属の1機に機体故障が生じ、墜落に当たって非人口密集地へ機体を誘導するため無理をして乗員2名が殉職するという事故が発生し(T-33A入間川墜落事故)、残存していた8機全機に対し飛行停止処分が課され、地上に留置されたまま翌年2000年(平成12年)6月に除籍された。
なお、航空自衛隊が保有した全278機のうち、59機が事故による喪失で除籍されている。
ちなみに、その59機の内には、前述の入間川事故で喪失したものの他、1957年に元日本陸軍少佐だった小林照彦が事故に巻き込まれたものも含まれる。

登場作品
『600万ドルの男』
主人公が元米空軍大佐という設定のため、繰り返しカメオ出演。
『BEST GUY』
『暁の翼』(大映、1960年)
新田原基地所属機の遭難の実話を映画化。原作は『257号機帰還せず』(航空情報連載)
『川崎航空機』(東京キネマ、1958年)
川崎航空機工業が企画したPR映画。T-33の生産ラインが登場する。
『ゴジラの逆襲』
神子島でゴジラに対する爆撃を実施。
『汚れた英雄』
原作小説版にて、主人公のバイクレーサー・北野晶夫が自家用として操縦。
『惑星大戦争』

要目
全幅:11.5m
全長:11.2m
全高:3.3m
速度:最高速度M0.8(J33-A-35エンジン、クリーン状態)/巡航速度M0.65(J33-A-35エンジン。クリーン状態)※クリーン状態は、チップタンク、外部兵装なしの状態である。
実用上昇限度:47,500ft(T-33A)
航続距離:約2,000Km(T-33A、チップタンク搭載、兵装なし)
空虚重量:3,017kg
エンジン:アリソンJ33 遠心式ターボジェットエンジン(推力:2t)1基
カナダ製CT-133:ロールス・ロイス・ニーン10遠心式ターボジェットエンジン1基
武装
固定武装:12.7mmブローニングM3重機関銃(12.7mm重機関銃M2の航空機搭載型。弾丸350発)2挺(装備されていないモデルもある)
搭載兵装:2,000lb(907kg)までの無誘導爆弾やナパーム弾、10発までの5inロケット弾などを主翼下2か所のハードポイントに装備可能。
乗員:2名
用途:練習機
設計者:ケリー・ジョンソン
製造者:ロッキード社
運用者
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国他39か国の軍
初飛行:1948年3月22日
生産数:6,557機
運用開始:1948年
運用状況:退役

日本丸 (初代)大型練習帆船

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日本丸 (初代)大型練習帆船
日本丸(にっぽんまる、英語: Nippon Maru)は、日本の航海練習船で大型練習帆船。

1930年(昭和5年)1月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所で進水。その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれていた。日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年(昭和59年)に引退。航海練習船としての役割は日本丸II世が引き継いだ。姉妹船として海王丸がある。2017年(平成29年)9月に国の重要文化財に指定された。

現在、横浜市・みなとみらい21地区の「日本丸メモリアルパーク」内で展示・公開されている。

1927年(昭和2年)3月、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」は千葉県銚子沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事が発生した。この事故が契機となり、1928年(昭和3年)大型練習帆船2隻の建造が決定された。2隻の建造費は合計182万円、当時の国家予算(軍事費および国債費を除いた一般会計予算:約8億7千万円)からすると破格の大型プロジェクトであった。

設計はスコットランドのラメージ・エンド・ファーガッソン社、建造は神戸の川崎造船所が担当した。1930年(昭和5年)1月27日に進水した第1船は「日本丸」、同年2月14日に進水した第2船は「海王丸」と名付けられた。同年3月31日には艤装を終え、文部省に引き渡された。同年にはミクロネシアのポナペ島へ初の遠洋航海を行った。

その後、太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、大阪湾、瀬戸内海にて石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として25,428人の引揚者を輸送した。遺骨収集にも携わった。1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送といった特殊輸送任務に従事した。1952年(昭和27年)、帆装の再設置がなされ訓練航海に復帰した。翌年春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行った。

1984年(昭和59年)9月16日退役。退役までに約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てた。海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現・日本丸)が受け継いだ。1985年(昭和60年)から横浜市の所有となり、みなとみらい21地区の「日本丸メモリアルパーク」内で展示・公開が開始された。1998年(平成10年)に大規模な修繕を受けているが、以後は大掛かりな修繕は受けておらず老朽化が問題となっている。

横浜船渠第一号ドック(国の重要文化財)に繋留保存された後も、船舶安全法に基づく定期検査を毎年受検しており、平水区域を航行区域とする船舶として船舶検査証明書が交付されている。

4檣バーク型帆船で総帆数は29枚、 メインマスト高は46m(水面からの高さ)である。

日本丸 (初代)
基本情報
船種 練習帆船
船籍 日本の旗 日本
所有者 航海訓練所
運用者 航海訓練所
建造所 川崎造船所神戸工場
姉妹船 海王丸 (初代)
経歴
発注 1928年
進水 1930年1月27日
竣工 1930年3月31日
引退 1984年9月16日
現況 日本丸メモリアルパークで保存
要目
総トン数 2278 トン
全長 97 m
幅 13 m
喫水 5.3 m
機関方式 ディーゼル
搭載人員 138名

長居駅(JR西日本)阪和線

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長居駅(ながいえき)は、大阪府大阪市住吉区長居東四丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の駅である。JR西日本の駅番号はJR-R24。Osaka Metroの駅番号はM26。駅東に広がる長居公園の最寄駅の一つで、鶴ヶ丘同様イベント開催時には当駅も大勢の乗客で賑わいます。

乗り入れ路線
JR西日本の阪和線と、Osaka Metroの御堂筋線が乗り入れており、接続駅となっている。JR西日本の駅は特定都区市内制度における「大阪市内」に属している。またOsaka Metroの駅には「M26」の駅番号が与えられている。

JR西日本の駅はICカード乗車券「ICOCA」、Osaka Metroの駅は同「PiTaPa」および磁気カードの「レインボーカード」、「スルッとKANSAI」対応各種カードの利用エリアに含まれている。切符売場。イベント対応か券売機は5台、みどりの窓口も設置されています。

駅構造
JR西日本
相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、分岐器や絶対信号機がない停留所になった。有効長は6両編成分。改札口は1ヶ所のみ。

地上駅時代は島式ホーム2面4線の構造で、有効長は6両編成分で、待避停車の特急電車も6両編成分までだった。普通電車が快速電車や特急電車の待避を行なっていたが、高架化完成後は電車の待避設備は隣の鶴ケ丘駅に移された。また、駅の和歌山寄りに渡り線が設けられていた。かつての地上時代は、駅の南側を長居公園通・駅北側の道路やそのさらに北側はあびこ筋を阪和線が横断する形であり、かつ昭和後期以降の阪和線はダイヤグラムが過密気味であるため、朝夕のラッシュアワーには駅近辺の踏切は「開かずの踏切」となり渋滞の原因ともなっていた。中には時間を焦るあまりに登校・出社する者が遮断機をくぐった結果、列車に撥ねられる事故が過去には幾度も発生した。そうした事故や交通混雑緩和などを解消する意味で地元からの要望も多かった事から高架化工事が実施され、2006年5月の工事完了をもって駅周辺の踏切は消滅した。

堺市駅が管理し、ジェイアール西日本交通サービスが駅業務を受託する業務委託駅である。駅業務は高架化完成と同時に委託された。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 R 阪和線 下り 鳳・関西空港・和歌山方面
ホームの壁は当駅のイメージカラー黄色

2 上り 天王寺・大阪方面
ホーム全面に亘って上屋が整備されています。
高架化駅舎開業の際に、通過列車用の入線メロディが別の新しいものに変更されたが、元のメロディに戻された(南田辺駅・我孫子町駅も同様)。

利用状況
JR西日本 - 2016年(平成28年)度の1日平均乗車人員は5,420人である。

駅周辺
長居公園
公園自体は地下鉄の駅と接しているが広大であるため、長居スタジアムなど競技施設は鶴ケ丘駅の方が近い。

学校
大阪学芸高等学校・附属中学校
大阪学芸中等教育学校
大阪市立長居小学校
大阪市立我孫子中学校
商業施設・金融機関
ライフ長居店
スーパーサンコー長居店
関西スーパーマーケット長居店
食品館アプロ長居店
ショップ長居
長居本通り商店会
長居パークホテル
池田泉州銀行長居支店(■旧泉州店舗)
北おおさか信用金庫長居支店
日本郵政グループ
住吉長居郵便局
住吉長居四郵便局
住吉長居東郵便局
バス路線
大阪シティバス
地下鉄長居停留所
4号系統:千躰・住之江区役所前経由 地下鉄住之江公園 行/湯里六丁目・地下鉄喜連瓜破経由 出戸バスターミナル 行
24号系統:千躰経由 住吉車庫前 行/南長居 行
長居西二丁目停留所
24号系統:南長居 行(南長居到着後、住吉車庫前行として引き続き運行)


1929年(昭和4年)7月18日 - 阪和電気鉄道が阪和天王寺駅(現在の天王寺駅) - 和泉府中駅間で開業した際に、臨南寺前駅(りんなんじまええき)として設置。
1940年(昭和15年)12月1日 - 南海鉄道への吸収合併により、同鉄道山手線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 戦時買収により国有化され、鉄道省(国鉄)阪和線の駅となる。同時に長居駅へ改称。
1960年(昭和35年)7月1日 - 大阪市営地下鉄1号線(現在のOsaka Metro御堂筋線)の西田辺駅 - 我孫子駅間延伸により、同線の長居駅が開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅が西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる[1]。
1993年(平成5年)7月1日 - 阪和線運行管理システム(初代)導入。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2004年(平成16年)10月16日 - 上り線が高架ホームに移行。
2006年(平成18年)5月21日 - 下り線が高架ホームに移行。
2013年(平成25年)9月28日 - 阪和線運行管理システムを2代目のものに更新。
2015年(平成27年)
3月8日 - JR西日本のみどりの窓口の営業を終了。
3月9日 - みどりの券売機プラスが稼働。
2018年(平成30年)
3月17日 - JR西日本に駅ナンバリングが導入され、使用を開始する。
4月1日 - 大阪市交通局の民営化により、御堂筋線の駅は大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の駅となる。

所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
駅番号 JR-R24
所属路線 R 阪和線(JR西日本)
キロ程 4.7km(天王寺起点)
電報略号 ナイ
駅構造 高架駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 5,420人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1929年(昭和4年)7月18日
備考 業務委託駅
みどりの券売機プラス設置駅
阪 大阪市内駅
* 1944年に臨南寺前駅から改称

 

 

レール運搬台車(路面電車)

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レールを敷設したり、交換する時に前後に2台で吊って簡易に人力で所定の位置に移動させる時に使う道具です。


このレール運搬台車は路面電車のレール作業に使用されていました。


5.56mm機関銃MINIMI

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5.56mm機関銃MINIMI

主として普通科部隊に装備し、分隊(班)の支援火器として使用する機関銃。主力小銃が89式小銃に更新されたのにともない、弾薬の共通化を図るとともに近接戦闘火力の増強のために、62式機関銃の更新用として1995年から装備が開始された。ベルギーのFN社が開発したM249「MINIMI」を住友重機械工業がライセンス生産しているもので、従来の軽機関銃より軽量で、携行も容易になっている。通常、リンクベルト給弾および専用の箱型弾倉(200発入り)から給弾されるが、場合によっては89式小銃の弾倉も使用可能である。発射速度は標準(750発/分)と最大(1,000発/分)の2段階に切替ができる。また、下部被筒の下に収容可能な二脚架を展張して射撃ができるほか、アダプタを介した三脚架での射撃が可能となっており、車載も容易である。
陸上自衛隊では2009年度までに4000丁以上が調達されている。

住友重機械工業がライセンス生産を行い、「5.56mm機関銃MINIMI」の名称で自衛隊が採用している。陸上自衛隊では62式7.62mm機関銃の後継として1993年度予算から調達を開始し、2017年度予算までに4,922丁を調達している。調達価格は約200万円。
陸上自衛隊だけではなく、航空自衛隊では基地警備隊やUH-60Jの自衛用火器として、海上自衛隊では護衛艦の搭載火器として調達されている。
ライセンス生産されたMINIMIは、専用のアタッチメントで62式の三脚が装着可能で、精密な射撃を要求される際に使用される。さらに長距離の射撃の際には「直接照準眼鏡」(スコープ)を装着する場合もある。また、微光暗視装置を装着する例もある。
自衛隊が採用したのは金属チューブ製の銃床を備えるいわゆるスタンダード型で、銃身交換レバーの形状が異なるなど、独自の改良が施されている。銃本体側面に「5.56mm機関銃MINIMI」との刻印が入る。銃身上部に独自のヒートカバー(上部被筒)が取り付けられているのが外見上の特徴。このカバーはアメリカ軍と同様に採用後に装備されるようになった後付け品であるが、中央の列の放熱口が7つ(従来品は8つ)に減少しているなど、形状が異なる。また、STANAG マガジン用の装填の弾倉止めは、空包による射撃訓練ができなくなるために使用されていない。
2013年12月18日、防衛省は過去数十年間に渡り検査データを改ざんし、要求性能に満たない機関銃を防衛省に納入したとして、製造元の住友重機械工業を5ヶ月間の指名停止処分にしたと発表した。改ざんは1979年以降、少なくとも5,350挺、12.7mm重機関銃、7.62mm機関銃、5.56mm機関銃の3種類が納入されたとされる。このデータ改ざんが発覚する以前から、現場の隊員においては住友重機械工業製のMINIMIは低性能であると認識されていたという。


口径 5.56mm
全長 約1,040mm
重量 約7.01kg
発射速度 750~1,000発/分
給弾方式 弾倉、ベルト
製作 住友重機械工業

ミニミ軽機関銃(MINIMI Light Machine Gun)は、ベルギーの国営銃器メーカー、FNハースタル社が開発した、5.56x45mm NATO弾を使用する軽機関銃である。

ミニミ(MINIMI)とは、フランス語で「小型機関銃」を意味する「MINI Mitrailleuse」ミニ・ミトラィユーズ)を略したものである。

同社のFN MAGを元に軽量化し、また軽量な小口径弾を採用することにより機関銃手一人当たりの携行弾数を増加させる事に成功した。日本やアメリカでは分隊単位に配備され、火力支援に使用される。弾帯のほか、小銃用のSTANAG マガジンでも給弾を行えるが、装弾不良が起こりやすいために推奨されていない。冷却は空冷式で、銃身交換も容易である。

二脚(バイポッド)が標準装備されており、簡単に携行できる分隊支援火器(Squad Automatic Weapon, SAW)として使用されるほか、アメリカ陸軍や陸上自衛隊では三脚を付けて使用することもある。世界各国の軍隊によって使用されており、ソマリアやイラクにおける各種作戦でも信頼度と射撃性能について優れた評価を受けている。

特徴
分隊の支援火器として、また、歩兵と同じ弾薬を共用できる軽機関銃として設計された。このことから、M27弾帯からの給弾のほか、M16や89式5.56mm小銃をはじめ、NATO加盟国を含み広く採用されているSTANAG マガジンを装填しての射撃が可能となっている。切り替えの際に特別な操作は不要で、弾倉を装填するだけで使用できる。ただし、装弾不良が起こりやすいため、多くの国では弾帯が不足した際の緊急対処としてのみ、これを行わせている。STANAG マガジン用の装填口には、ダストカバーを兼ねた弾倉止めが備わる。

銃弾の薬室への装填は、ベルト給弾方式の場合は引き金を引くと同時に遊底が前進し、それに合わせるように装填機能により給弾が開始されベルトリンクから弾が1発ずつ押し出され薬室に押し込まれ、遊底で固定され遊底内にセットされた撃針が雷管を叩いて銃弾が発射される。弾倉方式の場合は遊底部分が直接弾を押し出し、薬室に装填される。

斜めに固定されたキャリングハンドルは、銃本体の運搬のみならず、銃身交換の際にも用いられる。このハンドルによって、射撃直後の銃身が熱せられた状態でも耐熱手袋などを必要とせずに交換が可能となった。銃身は交換レバーを押し下げ、銃身を前方へ引き抜く動作のみで外すことができる。ハンドルの角度は、射手が右手でハンドルを握って銃を持ち上げた場合に、銃本体や弾薬ケースが射手の体に当たりにくいよう配慮されている。

リアサイトにはつまみが二つ付いており、前部のつまみを回すと左右に、後部のつまみを回すと上下にそれぞれ照門が移動する。

銃把(グリップ)上部に押しボタン式の安全装置が備わる。右側に押し出す(左側から押す)と安全装置がかかり、左側に押し出す(右側から押す)と解除となる。射撃は連発(フルオート)のみ。

二脚を標準装備し、長さ調節は三段階。下部被筒内部には専用の手入れブラシや分解のための工具が収められている。

アメリカ軍やカナダ軍ではピカティニー・レールを装備し、Elcan社M145やACOGなどの倍率付きスコープ、エイムポイント社やEOtech社の光学照準器を標準的に装着している。また、日本の陸上自衛隊でもフィードカバー上部に固定式のマウントベースを装着し、専用の直接照準眼鏡(スコープ)を搭載する場合がある。

なお、全てのM249にはMILES(レーザー戦闘シミュレーションシステム)用のレーザー装備を取り付けることができる。また、サードパーティー製のサプレッサーを取り付けることもでき、ジェムテック(Gemtech)製のものはNATO標準のフラッシュハイダーに取り付けられるように設計されている。しかし、実際にこれを取り付けると持続射撃でサプレッサーがオーバーヒートを起こすため、あまり取り入れられてはいないようである。

東日本橋駅(都営地下鉄)浅草線

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東日本橋駅(ひがしにほんばしえき)は、東京都中央区東日本橋三丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)浅草線の駅である。駅の周辺には東京を代表する小間物繊維問屋街が広がっています。駅番号はA 15。副駅名は問屋街。計画時の仮称は「久松町」であった。

駅名の由来
計画当初の仮駅名は久松町駅であった。日本橋地区(中央区の旧日本橋区の地域)の東端という理由で駅名が付けられた。地名「東日本橋」は、駅開業後の1971年に、住居表示実施に伴い誕生した(駅名が地名に先行して命名された)。

 

連絡通路を経由して、路線への乗り換えが可能である。
・東京都交通局(都営地下鉄)
都営新宿線(馬喰横山駅) - 徒歩3分程。同じ都営地下鉄の駅であるが、改札を出て歩かなければならない徒歩連絡となっている。なお、自動改札機はピンク色のものとオレンジ色のものの2種類が別々に設置されており、このうち後者は都営新宿線への乗り換え専用となっている。なお、定期券・PASMO・Suicaはどちらの改札機でも乗り換えが可能となっている。この方式は東京メトロ 飯田橋駅なども同様である。
・東日本旅客鉄道(JR東日本)
総武快速線(馬喰町駅) - 徒歩6分程。馬喰横山駅を経由しての乗り換えとなるため、多少時間がかかる。新橋駅の方が比較的乗り換えやすい。

駅構造
相対式ホーム2面2線を有する地下駅である。


開業当時は改札外のみ連絡通路があったが、1990年代にエスカレーターを併設したホーム間の連絡通路が新設された。2007年度から防災改良工事や外壁改装工事の他、B1出入口前へのエレベーター新設工事などが行われている。

のりば
番線 路線 行先
1 A 都営浅草線 西馬込・京急線・Pictograms-nps-airport.svg 羽田空港方面


ホームはカラータイルで装飾されています
2 押上・京成線・北総線・Pictograms-nps-airport.svg 成田空港方面

駅周辺
馬喰町、横山町の繊維問屋街(小売りをする店も少なからずある)
薬研堀不動院 - 徒歩3分
中央区立日本橋中学校 - 徒歩4分 他(馬喰横山・馬喰町・浅草橋・浜町・両国の各駅からも通学可)

バス路線
最寄りの停留所は次の通り。
東日本橋駅
都営バス
秋26:葛西駅行
当駅周辺の清洲橋通りは東行一方通行のため、秋葉原駅方面は江戸通りを西へ数分の所にある小伝馬町停留所から利用する。
なお、1996年9月7日までは清杉通り上にも東日本橋駅停留所が存在していたが、錦27(京成バスと共同運行)の箱崎町と両国駅の間が廃止されたのに伴い、廃止された。
馬喰横山駅
日立自動車交通
江戸バス(中央区コミュニティバス)北循環:中央区役所行
富沢町
日の丸自動車興業
メトロリンク日本橋Eライン:地下鉄水天宮前駅方面

1962年(昭和37年)5月31日 - 都営1号線の駅として開業。
1972年(昭和47年)7月15日 - 国鉄(現:JR東日本)総武快速線の馬喰町駅が開業し、乗り換え業務を開始(当時は地上に一度出ての乗り換え)。


1978年(昭和53年)7月1日 - 都営1号線を浅草線に改称。
1978年(昭和53年)12月21日 - 都営新宿線の馬喰横山駅が開業。同時に地下連絡通路が開通し、3駅同時の乗り換え業務を開始し、現在に至る。


1998年(平成10年)11月18日 - エアポート快速特急(現・エアポート快特)の停車駅に指定される。
2015年(平成27年)4月1日 - 新橋駅務管理所浅草橋駅務区から馬喰駅務管理所馬喰駅務区の管理下に変更される。同時に東京都営交通協力会委託となる。

駅番号 ○A 15
所属事業者 東京都交通局(都営地下鉄)
所属路線 ●浅草線
キロ程 14.5km(西馬込起点)
電報略号 東(駅名略称)
駅構造 地下駅
ホーム 2面2線


乗降人員
-統計年度- 80,654人/日
-2016年-
開業年月日 1962年(昭和37年)5月31日
乗換 馬喰横山駅(新宿線)
馬喰町駅(JR総武快速線)

CH-53 シースタリオン(大型輸送ヘリコプター)アメリカ合衆国海兵隊

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CH-53 シースタリオン(CH-53 Sea stallion)は、アメリカ海兵隊の強襲作戦用に開発されたシコルスキー・エアクラフト社製の重量物輸送ヘリコプター(Heavy lift transport helicopter)。愛称のスタリオンは、成長した種馬の意。社内・輸出・民間型などの呼称はS-65。

原型は、当時西側諸国最大のヘリコプターとして初飛行し、アメリカ海兵隊への引渡しは1966年より開始されている。以来改良、強化、多用途化が続けられ、アメリカ海軍、アメリカ空軍はもとより、ドイツ、イスラエルなどにも輸出されている。

1960年代に入り、アメリカ海兵隊はCH-37の後継となる輸送ヘリコプターの検討を開始した。1961年にアメリカ陸海空3軍は、XC-142垂直離着陸輸送機の開発に乗り出したが、海兵隊は開発期間の長さを見越し、それには加わらなかった。結局、XC-142は実用化に至らなかった。

1962年3月に、海軍は航空メーカー各社に次期重輸送ヘリコプター(Heavy Helicopter Experimental/HH(X))の要求仕様を提示した。これは、8,000ポンド(3.6t)のペイロードを搭載し、150kt(280km/h)の速度で、100nm(190km)の行動半径を有するものとされた。人員輸送のみならず、航空救難、航空機回収をも任務とするなど重物資輸送にも重点が置く機体とされた。

海軍の要求に対し、ボーイング・バートル社はCH-47の改良型を、カマン社はフェアリー ロートダイン複合ヘリコプターの発展型をそれぞれ提案した。これに対し、シコルスキー社はシコルスキー S-61R(CH-3)の拡大型のS-65案を提案した。エンジンをGE T64に換装し、シコルスキー S-64の動力機構を参考とした機体である。1962年7月にシコルスキー S-65案が採択され、9月より開発が開始された。

試作機YCH-53Aは2機が製造され、計画より4ヶ月遅れの1964年10月14日に初飛行している。続いて、16機の量産型CH-53Aの発注がなされている。量産機の引渡しは1966年9月から開始された。

CH-53Aは、機内に38名の完全武装兵、または担架に乗せた42名の負傷兵と4名の看護員を乗せることができた。貨物の積載量は3,630kgで、9,070kgまでの大型機材を吊り下げ輸送することもできた。

1967年1月には海兵隊の第463海兵重ヘリコプター飛行隊(HMH-463)の機体がベトナム戦争に投入され、CH-54とともに物資輸送に用いられた。CH-53Aは総計139機が製造されている。

アメリカ空軍は、CH-53Aの発展型として機体側面に増槽を装備したCH-53Cを取得したほか、さらに空中給油プローブを装着した戦闘捜索救難機としてHH-53B スーパージョリーグリーンジャイアント(Super Jolly Green Giant)を運用しベトナム戦争に投入した。これは、HH-53CやHH-53H、MH-53Jなど戦闘捜索救難機・特殊作戦機として発展している。

エンジンをT64-GE-6(2,850shp)からT64-GE-413(3,925shp)に換装したCH-53Dは、1969年1月27日に初飛行している。同年3月より引渡しが開始され、126機が製造されている。トランスミッションなども改良されたことにより、兵員も55名の輸送が可能となった。

アメリカ海軍は1971年に、海兵隊よりCH-53Aを15機取得し、掃海ヘリコプターRH-53Aとして運用した。これは、エンジンがT64-GE-413に換装されている。この機体は後にCH-53Aとして海兵隊に返却された[4]。続いてCH-53Dを原型としたRH-53Dが製造され、海軍は30機を取得している。航空掃海具の曳航の他、機雷処分用にブローニングM2重機関銃を装備している。RH-53Dはイーグルクロー作戦にて長い航続距離と艦載機としての運用能力を買われてデルタフォースを輸送するヘリコプターに選ばれ、砂漠地帯の飛行のため砂漠迷彩に塗り直されて使用されたが、元々この用途に適した機体ではなく、作戦は失敗に終わっている。

海外では西ドイツ陸軍(当時)とイスラエル航空宇宙軍が輸送型を取得した。両国とも近代化改修を施して現在も運用し続けている。オーストリア空軍も少数を取得したが、10年程度で運用を終了しイスラエルに売却した。イラン海軍はRH-53Dを取得したが、イラン・イラク戦争後はもっぱら輸送任務に使用していると見られている。

CH-53は民間にも社内名称であるS-65の名称で売り込みが試みられたが、失敗に終わった。

派生型
CH-53E スーパースタリオン/MH-53E シードラゴン
CH-53をエンジン3基として推力向上を図り、大型化したもの。そのほか、メインローターブレードが6枚から7枚になり、テールローターが左側に20°傾斜しているのが特徴。現在、西側最大のヘリコプターである。

MH-53 ペイブロウ
アメリカ空軍で使用される、特殊作戦型。

そのほかの派生型
CH-53A
アメリカ海兵隊向けの初期生産型。139機製造。
CH-53C
アメリカ空軍向けの輸送型。20機製造。
CH-53D
アメリカ海兵隊向けCH-53Aのエンジン換装型。126機製造。
CH-53G
ドイツ陸軍向けの輸出型。CH-53D相当。
CH-53GA
CH-53Gの改良型。
CH-53GS
CH-53Gのエンジン換装型。
HH-53B
アメリカ空軍向けの戦闘捜索救難型。
HH-53C
HH-53Bの改良型。
RH-53A
アメリカ海軍向けの掃海型。CH-53Aより15機改装。
RH-53D
CH-53Dを元にした掃海型。
TH-53A
アメリカ空軍向けの練習型。
VH-53D
CH-53DのVIP輸送型[1]。2機改装。
VH-53F
マリーンワン向け。6機発注もキャンセル。
S-65
シコルスキー社の社内呼称
S-65C-3
イスラエル航空宇宙軍向けの輸出型。HH-53C相当。
Yasur 2000
イスラエル空軍において1990年代初頭に実施された近代化改修。運用寿命を2000年代まで延ばす事が目的とされた。
Yasur 2025
イスラエル空軍において2007年に実施された近代化改修。運用寿命を2025年頃まで延ばす事が目的とされている。
S-65Öe
オーストリア空軍向けの輸出型。CH-53C相当

性能・主要諸元 (CH-53D)
諸元
乗員:2名(兵員37名)
全長:88ft 6in(26.97m)
主回転翼直径:72ft 2.7in(22.01m)(6枚ローター)
全高:24ft 11in(7.6m)
発動機:ゼネラル・エレクトリック製 T64-GE-413 ターボシャフト×2 各3,925shp
全幅(回転翼含む):28ft 4in(8.64m)
全幅(胴体):15ft 6in(4.7m)
空虚重量:23,628lb(10.740t)
最大全備重量:33,500lb(15.227t)
最大離陸重量(内部積載):69,750lb(31.666t)
最大離陸重量(外部積載):73,500lb(33.369t)
性能
超過禁止速度:130knots=M0.20(240.76km/h)
航続距離:540nm(1,000km)
実用上昇限度:16,750ft(5,106m)
上昇率:2,460ft/min(750m/min)


登場作品
映画・テレビドラマ
『ウォーキング・デッド』
シーズン2第5話にて、5機編隊を組んで爆撃されるアトランタ市街地へ向かう。
『エアポート'75』
HH-53Bが登場。
『キリング・フィールド』
『キングコング: 髑髏島の巨神』
髑髏島調査部隊の機体としてUH-1やCH-47 チヌークとともに登場。
『デルタ・フォース』
CH-53Aが登場。冒頭にて、人質救出作戦を行うデルタフォースを輸送していたが、作戦は失敗し、1機が墜落して炎上する。
撮影には、イスラエル国防軍所属機が使用されている。
『バイオハザードV リトリビューション』
ウェスカーがアリス一行を救助するために送る他、ホワイトハウスでの最終決戦にも数機が参戦しているが、キペペオの攻撃により撃墜されている。
『バトルシップ』
アメリカ海兵隊のCH-53Dが登場。オアフ島の基地に多数の機体が駐機していたが、エイリアンが放った自立型ボール状兵器の攻撃により、全機が破壊されてしまう。
アニメ
『新世紀エヴァンゲリオン』
第10使徒の第3新東京市への襲来から民間人を避難させる際に多数の機体が登場。また、NERV所属406号機に葛城ミサトが搭乗し、使徒の観測にも使用。
『ドキドキ!プリキュア』
第47話・第48話に五星財閥の保有機として登場。四葉財閥のCH-47 チヌークとともに、キングジコチューの襲撃を受けた大貝町から避難民を輸送している。
ゲーム
『Just Cause』
「Jackson JC-2 Alamo」の名称で登場する。主人公、リコの移動手段として使用される。
『World in Conflict』
アメリカ軍が車両配備要請を行った時のみに出現。
『大戦略シリーズ』
『マーセナリーズ』
韓国軍が使用する輸送ヘリコプターとして「K-53」の名称で登場する。

用途:大型輸送ヘリコプター
製造者:シコルスキー・エアクラフト
運用者:
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(海兵隊、海軍、空軍)
ドイツの旗 ドイツ(ドイツ陸軍)
イスラエルの旗 イスラエル(イスラエル空軍)
初飛行:1964年10月14日
生産数:409機
運用開始:1966年9月
運用状況:現役

 

馬喰町駅(JR東日本)総武本線

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馬喰町駅(ばくろちょうえき)は、東京都中央区日本橋馬喰町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。駅番号はJO 21。中央区の鉄道駅では最も北にある。

当駅は総武本線の地下区間に設置されている駅の一つである。

島式ホーム1面2線を有する地下駅である。ホーム階は地下5階。都営地下鉄新宿線の馬喰横山駅とは改札口を併設した乗り換え用の連絡通路が出入口とは別にある(都営線は上階である地下2階にホームがある)。

当駅のホームは単線シールド工法で建設した。開業時はホームの側壁が未設置だったが、1984年3月に設置された。西隣の新日本橋駅と同様に発車ベルが用いられている。

エレベーターはホームと西口改札を結ぶものが設置されている。

終日社員配置駅。西口・東口改札の2か所あるが、東口改札は終日無人となっており、遠隔対応のインターホンが設置されている。指定席券売機は東西改札に設置されている。かつてはみどりの窓口も営業していたが、2010年10月31日に終了した。NEWDAYSは西口にある。

のりば
番線 路線 方向 行先 備考
1 JO 総武線(快速)・横須賀線 上り 東京・横浜・横須賀・久里浜方面 東京駅から JO 横須賀線へ直通
2 JO 総武線(快速) 下り 千葉・成田・茂原・木更津方面 JB 総武線(各駅停車)は錦糸町駅で乗り換え

開業当時はJR東日本の前身である日本国有鉄道(国鉄)の駅で最も地中深くにある駅(海抜-30.58m[1])だった。そのため、国鉄で一番高い野辺山駅と友好関係にあり、改札前に長野産の白樺でつくられたオブジェが設置されている。


国鉄時代に制作されたスタンプ(わたしの旅スタンプ)には「国鉄で一番低い駅」と記されていた(JR化後は"国鉄で"を削除)が、後に高さが−27.14mに修正されたことや、さらに低い京葉線東京駅 (−29.19m) や海峡線吉岡海底駅(−149.5m、2014年3月廃止)が開業したために、2000年頃にスタンプ自体の劣化に伴って作り替えられた際に「問屋街と歴史のある町」に書き換えられた。

乗り入れ・接続路線
当駅は、運転系統としては総武快速線の列車が停車する。(上り線でいうと)錦糸町駅から緩行線と分かれて地下区間に入ってから最初の駅であり、総武快速線のうち、この地下区間は東京支社の管轄となる。

当駅は連絡通路経由で都営地下鉄新宿線の馬喰横山駅や都営地下鉄浅草線の東日本橋駅に乗り換えが可能となっている。

当駅構内と馬喰横山駅の間に連絡改札口があり、乗換専用自動改札機・有人改札通路・精算窓口が設置されている(都営馬喰横山駅が管理)。


駅周辺
当駅周辺は繊維系製品を扱う問屋街である。

日本橋横山町・馬喰町問屋街 - 日本最大の現金問屋街で、衣服・アクセサリー関係など多数の店舗がある。
繊維問屋街(東神田・岩本町) - 老舗の衣料品問屋が集まっている。
東神田一丁目郵便局
東浴信用組合本店
明治座
坂善商事本社・サカゼン馬喰町店
ニットーパック本社
中央・総武緩行線浅草橋駅まで6番出入口から徒歩5分ほど
かつては、長崎屋やサンクス&アソシエイツが駅周辺に本社を構えていた。

バス路線
都営バス
最寄りの停留所は、馬喰町(1・2番出口付近)および浅草橋(4・5番出口付近)である。以下の路線が乗り入れており、各路線共東京都交通局により運行されている。東42甲系統の浅草方面は2ヶ所に分かれており、東京駅始発の便は1番出口そばの停留所を、東神田始発の便は清洲橋通り上の停留所を用いる。

東42甲:南千住駅西口・南千住車庫行 / 東京駅八重洲口行
秋26:葛西駅前行
馬喰町周辺の清洲橋通りは東行一方通行のため、秋葉原駅方面は江戸通りを西へ数分のところにある小伝馬町停留所から利用する。
かつては、草43系統の千住車庫~東神田線、錦27系統の小岩駅~箱崎町線(京成バスとの共同運行)、草28系統の神田駅~葛西橋・葛西車庫線も発着していたが、いずれも20世紀末に廃止された。

日の丸自動車興業
最寄りの停留所は、富沢町である。

メトロリンク日本橋Eライン:地下鉄水天宮前駅方面

 

1972年(昭和47年)7月15日 - 開業。都営地下鉄浅草線との乗り換え業務を開始。
1978年(昭和53年)12月21日 - 都営地下鉄新宿線の馬喰横山駅開業に伴い、乗り換え駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2010年(平成22年)10月31日 - みどりの窓口営業終

 

駅番号 □JO 21
所属事業者 東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線 ■総武快速線
(正式には総武本線)
キロ程 2.3km(東京起点)
電報略号 ハク
駅構造 地下駅
ホーム 1面2線
乗車人員
-統計年度- 25,275人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1972年(昭和47年)7月15日
乗換 馬喰横山駅(都営地下鉄新宿線)
東日本橋駅(都営地下鉄浅草線)
備考 区 東京都区内駅
* この間に東京支社と千葉支社の境界あり(当駅から新日管内)本橋寄りは東京支社

人車

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鉱山鉄道などにおける、従業員などを輸送するための鉄道車両(客車)。

この7両編成の救急車、人車は筑豊炭田において最後の坑内掘りをした大之浦炭鉱(宮田町)で昭和52年2月の閉山まで使用された記念すべき資料です。


鉱山や炭鉱などの採掘場で使用される鉱車で,もっぱら労働人員を輸送するために用いられるもの。車箱は木製と鋼板製とがある。使用場所によって多種類の人車が使用され,規格は一定していない。

鉱山や炭鉱において,主として鉱石,石炭,廃石などを運搬するのに使うトロッコ様の車両。炭鉱では一般に炭車と呼ぶ。これを何台か連結して列車編成とし,機関車,ロープなどにより牽引する。鉱車の車輪、車軸は、玉軸受入れまたはころ軸受入れを用い、連結器はリンク、シャックル付き2連チェーンおよび連結ピンからなる手動式である。数台ないし十数台を連結して機関車または巻上げ機で運搬するので、連結器が外れて事故を起こさないよう、種々の安全装置が考案されている。

形,容積,材質にはいろいろあるが,鉱石や石炭の粉があまり底に残らず,掃除も容易なことから,丸底鋼製鉱車が好んで用いられる。また,運搬の能率をよくするため積載物を降ろす際に鉱車を回転させる装置があり,チップラーと呼ばれる。一般に軌条を持つ鉱製円筒形の枠組みに鉱車を載せる構造のもので横に回転させ積載物をあける機構になっているものが,多く使用されている。なお労働人員の輸送専用に椅子(いす)席を備え利用される鉱車を特に人車と呼ぶ。

CCV研究機 三菱 T-2

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CCV研究機

防衛庁技術研究本部(技本)が将来の戦闘機開発に必要な要素の研究を実施する為に用いた機体。CCVは Control Configured Vehicle の略で、運動能力向上機と称する。コンピュータ制御により機体に見かけ上の静安定を作る事により、運動性が著しく向上する。

CCVの研究は三菱を主契約企業として1978年(昭和53年)に始まった。T-2 #103号機の機体をベースにして、機首に垂直1枚・水平2枚のカナード翼を取り付け揚力中心位置を変更しているほか、主翼のスポイラーを廃止して主翼後縁フラップをフラッペロンに変更、デジタル・フライ・バイ・ワイヤ・システムを使用して、動翼をコンピューターで制御する機構をもたせている。1983年(昭和58年)8月9日に初飛行、10月14日に小牧飛行場にて一般にも公開した。

しかし、その後のCCVモードでの初飛行の際、脚上げ直後から始まったロール振動が発散を始め、最終的に左右に90度近くなった。パイロットは咄嗟に脚下げとMBU(Mecha­nical Back UP)システムへの切り替えを行い、緊急事態を宣言して着­陸した。原因はフライ・バイ・ワイヤ・システムのロールゲインを100%にしたところ、PIO(Pilot Induced Oscillation)を励起したものであった。この時期、フライ・バイ・ワイヤ・システムを搭載した最新鋭機で似たような事故が多発していた。最終的にこの問題はロールゲインの設定値を調整する事で解決した。 この模様はテレビカメラで撮影されており、全国ネットの報道番組で放映される事となった。 1984年(昭和59年)に技本が受領し、実験航空団による各種支援のもと、操縦性応答の最適化など基礎実験が2年にわたり延べ90時間行われた。機体は1987年(昭和62年)に返還され、T-2CCVの部隊使用が認可された。

技術は将来の次期支援戦闘機FSX(F-2)に利用できると考えられていたが、FSXは米国との共同開発でF-16をベースにすることになったので、技術を生かしきることはなかった。しかし、当初輸入としていたフライト・コントロール・システムは、T-2CCVで確立した技術を採用している(米議会によるF-16のFBWソースコードの供与拒否でFSXが開発中止にならなかったのは、T-2CCVの成果が一応あったので、独自開発することができたためだとされている)。

技術研究本部(ぎじゅつけんきゅうほんぶ、英語:Technical Research and Development Institute、略称:TRDI)は、かつて防衛省に置かれていた特別の機関のひとつである。略して技本(ぎほん)とも呼ばれる。

自衛隊の装備品等(装備品、船舶、航空機及び食糧その他の需品)についての技術的調査研究、考案、設計、試作及び試験並びに自衛隊において必要とされる事項についての科学的調査研究を行っていた。

防衛省本省並びに陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊が使用する車両、船舶、航空機、誘導武器などの兵器等、電子機器、防護服などの各種装備品の研究開発を一元的に行っていた機関。陸上、船舶、航空機及び誘導武器担当の4技術開発官が置かれ、研究と試作品の評価は装備別の4研究所とセンターが行っていた。 その他に4試験場と3支所を有していた。岐阜試験場ではBK117ヘリコプター2機保有していた。

F-2戦闘機や10式戦車、P-1固定翼哨戒機などの多くの国産装備品の研究開発を担当してきた。末期には、ミサイル防衛に関する日米共同技術研究やXC-2次期輸送機、X-2先進技術実証機などのプロジェクトが実施されている。

予算は、人件費81億円、歳出化経費710億円、一般物件費257億円の計1,047億円で、新規後年度負担は1,039億円、装備品試作など物件費1,296億円である。人員は、事務官・技官等820人、自衛官273人が所属していた。

2015年6月10日に成立した防衛省設置法の一部を改正する法律に基づき、装備施設本部とともに防衛装備庁へ発展改組の形で統合され、廃止された。

1952年8月 - 保安庁技術研究所として江東区深川越中島において発足
1954年7月 - 防衛庁技術研究所と改称
1955年9月 - 三宿地区に移転
1956年7月 - 陸上自衛隊初のロケット「TMA=0」の試験を王城寺原演習場にて実施
1958年5月 - 防衛庁技術研究本部と改称
2000年3月 - 市ヶ谷地区に移転
2006年7月 - 大幅な組織改編を実施
第1~第4研究所は艦艇装備・電子装備・航空装備・陸上装備研究所へと名称を変更し、第5研究所は艦艇装備研究所の久里浜地区となったほか、先進技術推進センターが新設された
2014年3月 - 土浦試験場を廃止し、航空装備研究所土浦支所に改編
2015年10月1日 - 防衛装備庁発足に伴い廃止

 

高井田駅(JR西日本)関西本線

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高井田駅(たかいだえき)は、国鉄末期に設置された駅です。大阪府柏原市大字高井田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線の駅である。駅番号はJR-Q28。「大和路線」の愛称区間に含まれている。駅周囲は宅地で、朝夕は多くの利用客で賑わいます。

相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を持つ。ホーム有効長は6両編成分。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。

八尾駅が管理し、ジェイアール西日本交通サービスが駅業務を受託する業務委託駅である。

みどりの窓口は2014年2月20日をもって営業を終了し、2月21日よりみどりの券売機プラスが稼動した(ただし、これ以降も市販の「JR時刻表」などでは、「みどりの窓口設置駅」として扱われる)。ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができる。

改札口には改札機は3台。切符売場にはタッチパネル式の券売機が2台と、みどりの券売機プラスが1台設置されています。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 Q 大和路線 上り 王寺・奈良・高田方面


2 下り 天王寺・JR難波・大阪方面
跨線橋階段下には上屋が設置され、待合所として利用されています。

駅周辺
駅前広場も整備されています。
南側
白坂神社
大和川
国豊橋
近鉄大阪線 河内国分駅


北側
柏原市立堅下南小学校高井田分校
史跡高井田横穴公園・歴史資料館
サンヒル柏原
東側
大阪府立修徳学院
大阪府立柏原東高等学校


西側
高井田公園
天湯川田神社
バス路線
柏原市の無料循環バス(きらめき号)が平日に運行されている。2006年(平成18年)7月からは近鉄バス堅上線の運行を代替し、青谷や雁多尾畑(かりんどおばた)集落へ乗り入れるようになった。


大阪府内には、大阪市営地下鉄中央線にも同名の高井田駅がある。この駅は、JR城東貨物線がおおさか東線として旅客化された際に同線との乗換駅となり、当初はおおさか東線の新駅の仮称も「高井田駅」とされていた。結局おおさか東線の駅は「高井田中央駅」となったが、その理由の一つとして「大和路線高井田駅と区別する必要がある」ことが挙げられている。
かつて高井田駅の改札外には、南口駅前広場において当駅開業と同時に公衆トイレが設置されていた。しかし、当公衆トイレの老朽化と及び治安・管理面での事情等により、2016年に閉鎖された。


1985年(昭和60年)8月29日 - 日本国有鉄道の駅(旅客駅)として、関西本線の河内堅上駅 - 柏原駅間に新設開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、「大和路線」の愛称を使用開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2011年(平成23年)3月26日 - バリアフリー化工事が完成。エレベーターの使用を開始。


2014年(平成26年)
2月20日 - この日をもってみどりの窓口が廃止。
2月21日 - みどりの券売機プラス営業開始。 
2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。

 

駅番号 JR-Q28
所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線 Q 関西本線(大和路線)
キロ程 156.4km(名古屋起点)
加茂から35.5km
電報略号 カイ


駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 4,656人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1985年(昭和60年)8月29日
備考 業務委託駅
みどりの券売機プラス設置駅

 

 

 

 


T-3 (練習機) 航空自衛隊(レシプロエンジン単発・初等練習機)

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T-3は、航空自衛隊のレシプロエンジン単発の初等練習機。パイロットが最初に訓練するために乗る事を目的とした機体。富士重工業が製造した。30年間近くパイロット育成に使用され、2007年(平成19年)4月23日に退役した。

導入経緯
航空自衛隊は発足以来、初等練習機としてT-34Aを使用していたが、老朽化してきたために新型機を必要とした。当時、富士重工は自社のKM-2(海上自衛隊練習機)をベースとして、航空自衛隊の要求に合わせてタンデム(縦列)複座とした試作機KM-2B(JA3725)を製作、1974年(昭和49年)9月26日に初飛行した。1976年(昭和51年)に入間基地で行われた航空祭で展示飛行し、10秒以上にわたる背面飛行を行うなど、性能の高さを実証した。当初、民間機として発表されたKM-2Bを、富士は航空自衛隊のT-34後継として提案した。初等練習機の装備を施したKM-2改は1978年(昭和53年)1月17日に初飛行し、航空自衛隊によって制式採用され、T-2に続く3番目の国産練習機として、T-3と名づけられた。3月から量産機を納入、1982年(昭和57年)までに50機が生産された。

静浜基地と防府北基地に配備され、パイロットの育成に使用されたが、2003年(平成15年)から後継機として富士T-7の導入が進められ、平成16年度に防府北基地でのT-3による教育が終了、2007年(平成19年)2月22日に静浜基地での教育も終了した。静浜で最後まで使用された3機の機体のうち、2機は岐阜基地の飛行開発実験団へ引き渡され、岐阜基地の1機と共に業務に使用されたが、この3機も同年4月23日に退役した。岐阜で最後まで使用された初号機(81-5501)は静浜基地で静態保存されている。

T-7は燃料の効率利用のためターボプロップエンジンを採用しており、T-3の退役により自衛隊からレシプロの固定翼機が消えた。

用途廃止された1機がOH-6Dと共に金沢工業大学航空システム工学科の教材としてキャンパスに展示されている。


機体
エンジンを機首に搭載し、主翼は低翼配置の一般的な機体である。価格を抑えるために、極力T-34との部品の共通化を行っているが、それでも時代の要請に合わせ、特に高空性能や航続距離の改善を行っている。具体的には、スーパーチャージャー付きのレシプロエンジンの強化、燃料タンクの増設などである。

また、先に作られたKM-2とは違い、航空自衛隊の戦闘機に合わせた縦型(タンデム)複座とし、中等練習機に移行した際の違和感を排除している。このため、外観はKM-2と同じハーツェル製3枚プロペラを除くと、T-34とほぼ変わりが無いが、自社の小型民間機FA-200の技術も一部流用されるなど、内容的には異なる部分もある。

非常事態用の射出座席は備えられておらず、パラシュートを使った脱出の際はキャノピーを開き、翼端まで走るように説明書で指示されている。あるいは、背面飛行を行いながらキャノピーを開き、そのまま落下して脱出することとなる。なお全機損失することなく退役したので、最後までこの脱出方法を実践した者はいなかった。

配備基地
静浜基地:第11飛行教育団(平成18年度終了)
防府北基地:第12飛行教育団(平成16年度終了)
岐阜基地:飛行開発実験団


スペック
乗員 - 2名
全長 - 7.9m
全幅 - 10.0m
全高 - 2.9m
空虚重量 - 1.1t
エンジン - ライカミングIGSO-480(レシプロエンジン) 1基
出力 - 340hp
最大速度 - 340km/h=M0.28
航続距離 - 963km
実用上昇限度 - 8,200m

用途:初等練習機
製造者:富士重工業
運用者:日本の旗 日本(航空自衛隊)
初飛行:1978年1月17日
生産数:50機
運用開始:1978年4月
退役:2007年4月23日
運用状況:退役

自衛隊 二酸化炭素消火器 (50形 )車載式

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50形:二酸化炭素消火器は高圧ガス容器に充填した二酸化炭素を放出し窒息作用で消化するもので、油火災・可燃性ガス・電気火災の消火に優れた性能と特質を持っている。

規格: JIS B 8241 継目なし鋼製高圧ガス容器
ホーン ホーンは,導管又はホース及びノズルと直結され,掃射放射に適する形状のもので,強
じんで非吸湿性及び電気絶縁性のあるものとする。
c) 安全装置 安全装置は,腐食,安全栓の曲がりなどによって安全装置が外れず,放射不能の状態
になるのを防ぐ設計で,かつ,使用済みの状態を確認できるものとする。
d) 車載式 車載式は,次による。
1) 車載式は,容易に移動できるものでなければならない
2) 車台(かじ棒及び車輪を含む。)は,堅ろうで,運搬及び作動に適したものとする。
3) ホースは,走行中に脱落することのないよう,ホース架,ホース押さえなどによって確実に保
持され,使用する場合は,容易に引き延ばせる構造とする。
50形 全高 1700以下 容器直径 240以下 質量㎏ 115以下

使用温度範囲 -30℃~+40℃
総質量 約100kg(台車含む)
ガス質量 23kg
全高 約1000mm
全幅(管胴径) 約580mm(φ232mm)
放射機構 開閉式(ホース長さ約5000mm)
放射時間 40秒(於20℃)
放射距離 2~5m(於20℃)
製作 宮田工業(株)

柏原駅(JR西日本)・(近鉄)

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柏原駅(かしわらえき)は、大阪府柏原市上市一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・近畿日本鉄道(近鉄)の駅である。JR西日本の駅番号はJR-Q27、近畿日本鉄道の駅番号はN17。近鉄道明寺線との乗換駅です。


JR西日本と近鉄の共同使用駅で、JR西日本が駅業務を担当する管轄駅である。みどりの窓口も設置されています。JR線はICカード乗車券「ICOCA」、近鉄線は同「PiTaPa」(スルッとKANSAI協議会)の利用エリアに含まれている。スルッとKANSAI対応カードは、自動券売機で乗車券に引き替えることにより近鉄では使用可能となっている。

切符売場に券売機は3台、指定席券売機も導入されています。改札口、改札機は5台。

乗り入れている路線はJR西日本の関西本線と、当駅を終点とする近畿日本鉄道道明寺線の2路線である。JR関西本線はアーバンネットワーク内であり、「大和路線」の路線愛称設定区間に含まれている。

1932年(昭和7年)1月に亀ノ瀬トンネルの崩壊で関西本線当駅 - 王寺駅間が運休となったが、同年6月からその代替輸送として、柏原駅より南方900メートルの地点、大阪電気軌道(大軌)桜井線(後の近鉄大阪線)安堂駅付近に柏原仮乗降場が設置され、和歌山線下田駅(後の香芝駅)との間を大軌桜井線を用いることで、大晦日に復旧するまでの間、代替輸送を行ったことがある。もともとこの辺り(亀ノ瀬)は地滑り地帯で開業が遅れ、1891年(明治24年)- 1892年(明治25年)の一時期は、亀ノ瀬の両側に仮駅を置いて人力車による輸送を行っていたこともあった。

 

島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有する。1番のりばを近鉄線、2 - 4番のりば(線路は下り通過線を含めた4線)をJR線が使用する。

1番のりばは切り欠き式である。トイレは改札内にあり、多機能トイレも設置されている。有効長は1番のりばは近鉄列車2両(約45m)分、2番のりばはJR電車6両(約125m)分、3・4番のりばはJR電車8両(約165m)分。

八尾駅が管理している直営駅である。

近鉄の駅業務はJR西日本に委託しているが、吉野口駅と異なり、1番のりばの駅名標は近鉄仕様となっている。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 N 近鉄道明寺線 上り 道明寺方面
上下線のホームは千鳥気味になっています。
2・3 Q 大和路線 下り 天王寺・JR難波駅・大阪方面
3・4 上り 王寺・奈良・高田方面


2番のりばは下り待避線であり、2・3番のりばの間の通過線の下り本線にはホームはない。3番のりばは上り待避線、4番のりばは上り本線である。3番のりばは、天王寺方面から当駅止まりの普通電車の折り返しと、当駅始発の快速電車JR難波行きが発車する。

駅舎橋上化工事
かつては地上駅舎を持ち、改札口は1・2番のりばに接続する西口と、3・4番のりばの線路を挟んだ所の東口があり、各改札口と3・4番のりばは跨線橋で連絡していた。エレベーターもエスカレーターもなく、跨線橋は改札内であるために西口と東口間を外部から通り抜けすることができず、数百メートルほど北にある踏切(西一番踏切)または併設の歩道橋を渡らなければ、反対側へ行けなかったことから、橋上駅舎の工事が進められてきた。

そして2007年(平成19年)3月24日、西口側の新しい出入口と改札口がほぼ完成したことにより橋上駅舎の仮営業が開始された(東口側には仮設階段が設置)。東口側の新しい出入口は同年7月の完成を目指していたが、11月29日にようやく使用を開始した。これは当初の計画通りエスカレーターおよびエレベーターを設置すると隣接道路が狭くなるため、着工直前に出入り口が旧東口付近になるように変更する必要性が出たためである。

2008年(平成20年)に入り、西側ではアゼリア柏原と橋上駅舎を結ぶペデストリアンデッキが完成。東側でもようやく歩道の整備などを含めた工事が終了した。西側においてはペデストリアンデッキ完成後もバス乗り場を含めたロータリー整備工事が漠然と続いていたが、それも2009年(平成21年)暮れまでに終了した。一方で、西一番踏切のすぐ北側にあった歩道橋は橋上駅舎完成後に取り壊された。

近鉄線の利用について
先述の通り、駅業務はJRが行っており、スルッとKANSAI対応カードを自動改札機に直接投入して使用することはできず、自動券売機で乗車券に引き替えることで使用できる。また、2007年(平成19年)4月1日から近鉄でもICOCA・PiTaPaが使えるようになった[4]が、JR線と近鉄の互いの乗り換えの際は、ホーム上にある中間改札機にタッチする必要がある。また、当駅から近鉄を利用する場合または近鉄線を利用し当駅で下車する場合、自動改札機と簡易改札機の2つ両方にタッチする必要がある。

大和路線
当駅折り返し列車
後述するように、開業から1年余りは終着駅であった事に加え、当駅より奈良方は山間部に入り利用客が減少するため、当駅折り返しの普通がラッシュ時と夕方・夜の時間帯に設定されている。

国鉄時代から1995年(平成7年)9月29日までは日中も当駅折り返し便があり、天王寺駅 - 当駅間が10分間隔、当駅 - 王寺駅間が20分間隔で運行されていた。高井田・三郷方面への利便性向上から1995年9月30日の改正で当駅折り返し系統の大半が王寺駅折り返しに延長されたが、福知山線脱線事故によるダイヤ見直しで2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正で日中の半数は当駅折り返しに戻された(ただし1995年以前の王寺行きに当たる電車は、王寺より先の奈良まで運転する便となっていた)。2011年(平成23年)3月11日のダイヤ改定でほぼ現在の形になっている。

2008年(平成20年)3月15日に、おおさか東線の開業を含めたダイヤ改正が行われた。平日のラッシュ時に奈良発快速JR難波行きが、おおさか東線経由直通快速尼崎行きに変更されたが、天王寺・JR難波方面に向かう利用者にとっては実質減便となるため、久宝寺発の快速が当駅始発として平日ダイヤの7時台に3本設定された。当駅から先は、久宝寺駅・天王寺駅・新今宮駅・終点のJR難波駅の順に停車する。この快速列車はJR難波駅から当駅まで回送運転されている。

待避列車
日中は当駅で普通が快速の通過待ちを行う。朝夕にはおおさか東線の直通快速が運転され、快速列車が続行運転となるため、2本の快速列車の通過待ちを行う普通もある。

1996年(平成8年)3月16日のダイヤ改正から2011年(平成23年)3月11日までの日中ダイヤでは、快速高田行きが当駅で普通奈良行きを追い抜いていた。これは王寺駅の構造上、奈良方面行きと高田方面行きの同一ホームでの接続ができないため、同駅で快速高田行きから後続の普通奈良行きに数分で乗り継げるようにしていたためである。

2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正で、普通電車の日中1時間の本数が6本(当駅発着・奈良駅発着がそれぞれ3本)から王寺駅発着の4本に整理されたが、この時間帯の快速列車が増発されたことに伴い、当駅で上下ともに快速の通過待ちを行うダイヤとなった。しかし2014年3月15日のダイヤ見直しで日中の王寺駅折り返し快速が廃止されたため、上下とも日中の1時間あたり4本の普通列車のうち2本は快速列車を待たずに発車することになった。ただ、上り便においては停車列車は待避線である3番のりばを使用する(朝晩の通過待ちがない停車列車のみ4番のりばを使用)。

なお、当駅始発以外の快速は従来通り当駅を通過する。平日のラッシュ時には王寺方面発の快速が、発車を待つ当駅始発の快速の横を通過するという珍しい風景も見られる。


駅周辺
駅から約500メートル東方に近鉄大阪線の堅下駅がある。近鉄道明寺線からの普通運賃の通算制度は原則無いため、1枚のきっぷで道明寺線と大阪線を乗り継ぐことはできない。しかし定期券のみ例外で、柏原駅と堅下駅を徒歩連絡として計算し購入することができる。

アゼリア柏原 - 柏原市立市民プラザ、サンプラザ柏原店、りそな銀行柏原支店
柏原市立柏原中学校
大阪府立藤井寺支援学校
東大阪大学柏原高等学校
宮脇書店大阪柏原店
河内柏原公共職業安定所(ハローワーク)
柏原郵便局
関西アーバン銀行柏原支店
日鉄住金ファインテック
長瀬川
※ かつて駅前にダイエー柏原店が存在したが、2010年8月31日に閉店。跡地には八百彦商店(奈良県王寺町)が展開する「スーパーヤオヒコ」が出店した(←過去に存在したダイエーの店舗#大阪府)。

バス路線
柏原市の無料巡回バス「きらめき号」が西口に乗入れる。かつては近鉄バスも西口の国道25号上に「柏原駅筋」という停留所を設置していたが廃止されている。

同じ表記の駅
「柏原」と表記される駅は当駅以外にも存在し、滋賀県にあるJR東海道本線の柏原駅(かしわばらえき)と兵庫県にあるJR福知山線の柏原駅(かいばらえき)と、読みはいずれも異なる。

これらと区別するため、JRの乗車券においては当駅を示す部分に「(関)柏原」と表記されているほか、ICOCAの使用履歴については片仮名表記されている。

1889年(明治22年)5月14日 - 大阪鉄道 (初代) の駅(一般駅)が開業。当時は湊町駅(現在のJR難波駅)方面からの終着駅であった。
1890年(明治23年)9月11日 - 大阪鉄道線が当駅から亀瀬仮停車場(現在の河内堅上駅 - 三郷駅間に存在)まで延伸。
1892年(明治25年)2月2日 - 大阪鉄道線の亀瀬仮停車場 - 稲葉山仮停車場間の開業(両仮停車場はこの時廃止)により、奈良駅 - 湊町駅間の路線が直結する。
1900年(明治33年)6月6日 - 関西鉄道が大阪鉄道の路線を承継。
1907年(明治40年)10月1日 - 関西鉄道が国有化し、国有鉄道の一路線となる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により、関西本線所属となる。
1974年(昭和49年)10月26日 - 貨物の営業が廃止され、旅客駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、関西本線は西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継。
1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、「大和路線」の愛称を使用開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2007年(平成19年)3月24日 - 橋上駅舎が完成し、使用を開始。エレベーター、エスカレーターの使用を開始。
2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。

所属事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本)
近畿日本鉄道(近鉄)
電報略号 カシ(JR西日本)
ワラ(近鉄)
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- (JR西日本)11,096人/日
(近鉄/全日)3,223人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1889年(明治22年)5月14日(JR)
1898年(明治31年)3月24日(近鉄)
乗入路線 2 路線
所属路線 Q 関西本線(大和路線)
(JR西日本)
駅番号 JR-Q27
キロ程 158.8km(名古屋起点)
加茂から37.9km
◄JR-Q28 高井田 (2.4km)(1.7km) 志紀 JR-Q26►
所属路線 N 近鉄道明寺線
駅番号 N17
キロ程 2.2km(道明寺起点)
◄N16 柏原南口 (0.6km)
備考 共同使用駅(JR西日本の管轄駅)
JR西日本:直営駅
JR西日本:みどりの窓口 有

 

GTC4ルッソ(Ferrari)イタリア

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GTC4ルッソ(Ferrari GTC4 Lusso)はイタリアの自動車メーカー、フェラーリが生産している4人乗りのシューティングブレークである。

GTC4ルッソ
GTC4ルッソは、フェラーリ初の4座かつ四輪駆動モデルとなった「フェラーリ・フォー(FF)」の後継車である。2016年3月に行われたジュネーブショーに先駆けて2月8日に発表された。

2010年代以降のフェラーリは、1950年代から1960年代の往年のフェラーリの車名を復活させる傾向にあり、車名である「GTC」は「330GTC」、「356GTC」、「ルッソ」は「250GTCルッソ」に付けられていたものである。なお「ルッソ(Lusso)」は、イタリア語で「ぜいたく」を意味する。

エンジンはFFと同じく排気量6262cc、V型12気筒自然吸気エンジンを搭載、出力は「FF」より30馬力増え690馬力となった。「FF」の最大の特徴である四輪駆動と4座席は継承され、GTC4ルッソではさらに四輪操舵も装備された。四輪操舵は「F12ベルリネッタtdf」以来2車種目であり、フェラーリの市販車で四輪駆動と四輪操舵があるのはGTC4ルッソが初である。また「FF」で搭載した電子制御デフのE-Diff、トラクションコントロールのF1-Trac、マグネティックライド・コントロール・サスペンションの3つを統合し、4RM-EVOに進化した。

エクステリアでは「FF」から大きな変更はないものの、ヘッドライト周りは他車種とデザインは共通。両サイドのフィンが追加。4灯テールランプが久々に復活した。

日本では2016年5月10日に、東京都港区で開催された「FF」オーナーと注文者向け発表会の場で正式発表され。日本導入時期は2016年末である。

GTC4ルッソT
2016年9月29日に開催されたパリモーターショーにて、V型8気筒ターボモデルである「GTC4ルッソT」がお披露目された。カリフォルニアTと同様のエンジンユニットであるV型8気筒3,855ccターボエンジンを積み後輪を駆動する。

四輪駆動は採用されていないが四輪操舵は搭載される上に、FRを採用したことやシリンダー数が少ないために、V型12気筒エンジンに四輪駆動のGTC4ルッソより50kgほど軽くなっているため、軽快なハンドリングが楽しめる。なお、V型8気筒の4シーター車はフェラーリ初である。

製造国 イタリアの旗 イタリア マラネロ(モデナ)
販売期間 2016年-
ボディタイプ シューティングブレーク
エンジン 6,262ccV型12気筒NA
エンジン位置 フロント
駆動方式 四輪駆動
最高出力 690PS/8000rpm
最大トルク 697nm/5750rpm
変速機 7速DCT
全長 4922mm
全幅 1980mm
全高 1383mm
ホイールベース 2990mm
車両重量 1790kg
先代 FF

523号(横浜市電500型)

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横浜市電(よこはましでん)、横浜市営電車(よこはましえいでんしゃ)とは、横浜市交通局が経営していた軌道(路面電車)である。

00型 500-559号 60両
横浜市電を代表する大型単車。1928年(昭和3年)に、東京瓦斯電気・蒲田車両・雨宮製作所で20両ずつ作られた。

高馬力なため、1300型と一緒に3系統で運用されることが多かった。現在523号が市電保存館で静態保存されている。

横浜市電500型は1000型と同様に、関東大震災の復興事業の一環として1928年(昭和3年)に60輛が製造された半鋼4輪単車車輛。シングルルーフの車体。戦前から横浜市電の中心的な電車で横浜市電と豊橋鉄道、岡山電気軌道辺りは2軸単車が多かった事で有名。

製造したメーカーは東京瓦斯電気、雨宮製作所、蒲田車輛の3社で、モーターはどのメーカーの車輛であってもGE製の265Gモーター。

運転席後部のHポール上部の仕切りは曲線を描き、ダブルルーフを想わせる客室天井とともに優美な内装。全長91.44m。定員75人。台車形式ブリル79E。


横浜市電500型は戦後、昭和44年(1969)まで走りつづけました。 


1904年(明治37年)7月15日 横浜電気鉄道の手により、神奈川 - 大江橋間開業
1921年(大正10年)4月1日 横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。
1923年(大正12年)9月1日 関東大震災。焼失した車両の穴埋めに、焼け残った車両を使用した屋根無しの「バラック電車」を運行。また、水道が復旧するまでの間、散水車を給水車に代用した。また、軌間が同じ京王電気軌道より旧型2軸車を購入(この際、新宿から生麦まで、東京市電 - 京浜電鉄経由で自走回送した])。
1928年(昭和3年)5月 - 10月 市内路線の付け替え実施。
1928年(昭和3年)11月10日 市営バス開業。
1946年(昭和21年)6月1日 電気局、交通局に改称。
1956年(昭和31年)4月1日 井土ヶ谷線(保土ケ谷橋 - 通町一丁目間)の開通で最盛期を迎える。
1959年(昭和34年)7月16日 トロリーバス開業。
1966年(昭和41年)8月1日 生麦線(生麦 - 洲崎神社前間)、中央市場線(神奈川会館前 - 中央市場間)廃止。市電撤去始まる。
1967年(昭和42年)12月18日 ワンマン運転を開始(4・5系統より)。
1971年(昭和46年)3月21日 車掌の乗務を廃止。
1972年(昭和47年)4月1日 市電・トロリーバス全廃。

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