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Channel: 観光列車から! 日々利用の乗り物まで
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我孫子町駅(JR西日本)阪和線

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我孫子町駅(あびこちょうえき)は、大阪府大阪市住吉区我孫子三丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅である。駅番号はJR-R25。厄除で知られるあびこ観音の最寄り駅で、節分時期には大勢の参拝客で賑わいます。

駅構造
相対式ホーム2面2線を持つ高架駅である。分岐器のない棒線駅の構造であるが、踏切長時間鳴動対策のために駅前後の信号機が絶対信号機に変更されたため、停留所ではない。改札口は1ヶ所のみ。

堺市駅が管理しているジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅で、JRの特定都区市内制度における「大阪市内」に属している。

ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができる。みどりの窓口があり改札口の改札機は3台。優等通過駅に3列車表示の発車案内。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 R 阪和線 下り 鳳・関西空港・和歌山方面
ホームに待合室はありません。

2 上り 天王寺・大阪方面
高架化駅舎開業の際に、通過列車用の入線メロディが別の新しいものに変更されたが、のちに元のメロディに戻された(南田辺駅・長居駅も同様)。


改札内コンコースは非常にゆとりのある造りになっています。


利用状況
OsakaMetro御堂筋線あびこ駅とともに、吾彦山大聖観音寺(あびこ観音)への最寄り駅であり、節分の時はかなり混雑する。

駅周辺
吾彦山大聖観音寺(あびこ観音)
金光教(こんこうきょう)吾彦(あびこ)教会
住吉区役所・大阪市立住吉図書館
住吉郵便局(ゆうちょ銀行住吉店併設)
我孫子町商店街
ユニクロ住吉我孫子店
スーパー玉出アビコ店
浪速高等学校・中学校
大阪府立大阪南視覚支援学校


あびこ幼稚園
よさみ幼稚園
あびこ病院
阪和病院
阪和第二病院
阪和住吉総合病院
大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)あびこ駅
バス路線
大阪シティバス(JRあびこ町駅停留所)
54A号系統  地下鉄あびこ・苅田経由 鷹合団地前行
54B号系統・54D号系統  殿辻・千躰経由 住吉車庫前 行
63号系統 地下鉄あびこ経由 浅香 行/住吉車庫前・播磨町経由 あべの橋 行


1930年(昭和5年)
1月1日 - 阪和電気鉄道の臨南寺前駅(現在の長居駅) - 杉本町停留場(現在の杉本町駅)間に我孫子観音前仮停留場(あびこかんのんまえかりていりゅうじょう)として開業。
12月6日 - 停留場に昇格。
1940年(昭和15年)12月1日 - 南海鉄道への吸収合併により、同鉄道山手線の駅となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 戦時買収私鉄指定により南海山手線は国有化。同時に駅名改称(駅へ昇格)され、鉄道省(国鉄)阪和線我孫子町駅となる。
1970年(昭和45年) - 点字ブロックを日本の鉄道駅で初めてプラットホームに敷設。


1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1993年(平成5年)7月1日 - 阪和線運行管理システム(初代)導入。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2004年(平成16年)10月16日 - 上り線が高架ホームに移行。
2006年(平成18年)5月21日 - 下り線が高架ホームに移行。
2013年(平成25年)9月28日 - 阪和線運行管理システムを2代目のものに更新。
2014年(平成26年)6月1日 - ジェイアール西日本交通サービスによる業務委託駅となる。
2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。

駅番号 JR-R25
所属事業者 JR logo (west).svg西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線 R 阪和線
キロ程 5.9km(天王寺起点)
電報略号 アヒ
駅構造 高架駅


ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 6,446人/日(降車客含まず)
-2016年-
開業年月日 1930年(昭和5年)1月1日
備考 業務委託駅
みどりの窓口 有
阪 大阪市内駅
* 1944年に我孫子観音前停留場から改称。


MMV 全地形フォークリフト 米国海兵隊

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MMV 全地形フォークリフト

MMVは、米国海兵隊とのサービスで使用される標準的な粗面地材用のフォークリフトです。

Millennia Military VehicleまたはMMVはOmniQuip International(現JLG Industries)によって開発された全地形フォークリフトです。軍用ニーズに合わせて変更された商用機です。生産契約は2001年に米国海兵隊によって授与された。最初の車両は2002年に納入された。合計730台の機械が納入された。現在、米国海兵隊の陸上で使用されているフォークリフトを扱う標準的な粗面地材です。270MV以上のフォークリフトが米国海軍に配達されました。一部の筋によれば、これらのフォークリフトは米軍によっても使用されていると主張している。これらの支援機は、イラク戦闘中に使用された。

MMVは最大重量が5トンまでのパレタイジングされた材料および箱を積み下ろし、積み降ろし、運ぶために使用されます。伸縮式ブームにより、輸送用コンテナやトラック内に深くアクセスできます。また、障害物の上に荷物を持ち上げることができます。最大到達距離は9m、最大揚力の高さはほぼ13mです。MMVはまた、フォークマウントされたバケツおよび人員プラットホームを含む様々な付属品を受け入れます。

この軍事支援車両は、一人の人間によって操作されています。キャブは落下物やロールオーバーから保護します。MMVはサポートユニットでの運用を目的としているため、防御軍備は持たない。

 

このマシンはCummins QSB4.5Tターボディーゼルエンジンを搭載し、110馬力を開発しています。ギアボックスには、前進4速と後退3速があります。MMVにはフルタイム全輪駆動と高い地上高があります。荒れた地形や改良されていない面でも操作できます。このマシンは、泥、砂、雪を通過することができます。MMVには、2輪、4輪、カニのステアリングを含む3つのステアリングモードがあります。カニのステアリングは、壁やその他の物体に近い狭いスペースで使用されます。MMVは、C-130ヘラクレスまたはより大きな軍用貨物航空機、ならびに CH-53ヘリコプターによって空輸されることができる 。

クルー 男性1人

寸法と重量
重量 13.15トン
長さ 6.3メートル
幅 2.54m
高さ 2.57メートル
パフォーマンス
最大荷重 5トン
最大到達距離 9 m
最大揚力の高さ 12.9メートル
モビリティ
エンジン カミンズQSB4.5Tディーゼル
エンジンパワー 110馬力
最大道路速度 34 km / h
範囲 ?
機動性
勾配 60%
サイドスロープ 40%
垂直ステップ 約0.4m
溝 約0.5m
フレーズ 0.64m

アイサンスピット 25CC 1954年 愛三産業

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愛三産業は1938年に創業し、戦後、自動車用キャブレター関係部品を制作した。
海外の先進技術を学ぼうと、1952年に西ドイツのローマンモーター社と技術援助契約を結んだ。

アイサンスピットエンジンの重量は、わずか5KGしかなく、2サイクル25CCの小型バイクモーターである。プラグはなく、ディーゼルエンジンの燃料噴射装置もない。燃料と空気の混合気を高圧縮し、温度の上昇で自然点火する仕組みになっており、燃料はガソリン、灯油、経由のいずれでも走行可能な非常にユニークなエンジン。始動と性能の安定に難があり、異常過熱による出力低下でエンジン寿命は短かった。生産台数は3000台といわれている。

愛三産業は現在の愛三工業
1938年12月:名古屋市瑞穂区に設立
軍需品の製造を目的として設立。最初の出資者が愛知県と三重県の会社だったことから、両県の頭文字を取って「愛三工業」と命名されました。
1945年10月:キャブレタなど自動車部品生産開始
当社2代目社長 石田退三(トヨタ自動車(株)、(株)豊田自動織機の社長を歴任)が工場再開に奔走。(株)豊田自動織機から自動車部品製造の事業移管を行い、工場閉鎖からわずか1ヵ月半後に生産を再開しました。


1953年11月:自転車用アイサンモータ生産、発売(~54年)
ドイツ・ローマン社と技術供与契約を締結し、自転車用エンジン「スピットAS型」の生産販売を開始しました。「可変圧縮機構」と「予混合圧縮自着火方式」をもつ”究極のエンジン”でしたが、低温時の始動性や耐久性等の課題からわずか1年で生産中止。「幻のエンジン」となりました。

LE-7エンジン 第1段用液体ロケットエンジン 

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LE-7エンジンは、宇宙開発事業団(NASDA)が航空宇宙技術研究所(NAL)、三菱重工業、石川島播磨重工業と共に開発したH-IIロケットの第1段用液体ロケットエンジン。日本初の第1段用液体ロケットエンジンである。

現在は、LE-7の設計を元にコストダウンと信頼性向上を図ったLE-7AエンジンがH-IIAロケットおよびH-IIBロケットの一段目に使用されている。

LE-7(名古屋市科学館 2006年)
LE-7エンジンは、宇宙開発事業団(NASDA)が航空宇宙技術研究所(NAL)、三菱重工業、石川島播磨重工業と共に開発したH-IIロケットの第1段用液体ロケットエンジン。日本初の第1段用液体ロケットエンジンである。

現在は、LE-7の設計を元にコストダウンと信頼性向上を図ったLE-7AエンジンがH-IIAロケットおよびH-IIBロケットの一段目に使用されている。


開発
LE-7エンジンの燃焼方式には、SSME(スペースシャトルメインエンジン)に採用されたのと同じ二段燃焼サイクルを採用している。LE-7では、プリバーナーと呼ばれる予燃焼室に気化した燃料の液体水素と酸化剤の液体酸素の一部を導き(多くの液体酸素は主燃焼室に直接送られる)、燃焼させて水素リッチの高圧な不完全燃焼ガスを作り、その燃焼ガスで液体水素用と液体酸素用の両ターボポンプを駆動して両推進剤を加速・加圧させた後に、主燃焼室で再び燃焼ガスと液体酸素を燃焼させて推進力を生み出している。この方式は燃焼効率は良いがエンジンの配管などに高温・高圧部分が多いため技術的に難しく、LE-7の開発においてもトラブルが続出し開発期間が幾度となく延長された。

開発においてまず突き当たった壁はターボポンプの振動が過大で所定の回転数が得られないことであった。原因はターボポンプの羽根車の重心が中心軸から極僅かにズレていたことであり、職人の手作業で羽根車を研磨して重心を適正化することで解決した。その後燃焼試験が始まったが、エンジン始動開始直後に爆発や損傷を繰り返す5秒の壁が問題となった。原因は予備燃焼室に液体酸素が先に溜まりその後に液体水素が来ることで過剰な反応を起こしていたことであり、圧力計をつけて予備燃焼室に両推進剤が来るタイミングを調整することで解決した。この問題を解決するだけで約2年を費やした。その後も燃焼試験が続いたが、エンジンの完成が近いと思われていた1992年にエンジン始動直後に爆発が起き、H-IIの初打ち上げが1年延期されることになった。原因はエンジンの各部品を溶接して接合した際に生じた微妙な凹凸部に熱や力が集中して損傷したことであり、職人の手作業で鏡を使って部品の内側の溶接部分まで徹底的に研磨して平滑にすることで解決した。なおこの工程は手間隙がかかり信頼性やコストに関わることから後継のLE-7Aでは溶接箇所が四分の一以下に減らされている。

開発と製造においては、三菱重工業が燃焼器・バルブ・全体艤装を、石川島播磨重工業が液体水素用ターボポンプと液体酸素用ターボポンプを担った。

1983年(昭和58年) - 「開発研究」開始。
1986年(昭和61年) - 「開発」開始。
1988年(昭和63年)12月15日 - 種子島宇宙センターのLE-7燃焼試験設備が竣工。
1990年(平成2年)9月 - LE-7の連続200秒燃焼試験に成功。その後の試験にて燃焼試験始動後16秒に大規模な外燃が発生しエンジンが大破。
1991年(平成3年)5月16日 - 角田ロケット開発センターにて、液体水素ターボポンプの開発試験中に事故。
1991年(平成3年)8月8日 - 三菱重工、名古屋誘導システム製作所(小牧北工場)でLE-7エンジン関係の試験中、技術者1名死亡。
1992年(平成4年)6月10日 - LE-7の燃焼試験中に外燃が発生し、エンジン全損及び設備一部を焼損。(試験機初号機打ち上げを一年延期)
1993年(平成5年)2月 - 連続4回の350秒燃焼試験に成功。
1993年(平成5年)5月 - 種子島宇宙センターのH-IIロケット射点にてステージ燃焼試験(CFT)成功。
1994年(平成6年)2月4日 - H-IIロケット試験機1号機の打ち上げ成功。
1994年(平成6年)3月 - すべての性能試験が完了し開発が完了。
1999年(平成11年)11月15日 - H-IIロケット8号機を打ち上げ。打ち上げ3分59秒後にLE-7エンジンが異常停止し指令破壊。LE-7の異常が打ち上げ失敗に直結した最初で最後の事故である。
諸元
エンジンサイクル:二段燃焼サイクル
燃料:液体水素
酸化剤:液体酸素
真空中推力:1,079kN(110.0t)
真空中比推力:445.6秒
主燃焼室圧力:12.7MPa
予燃焼室圧力:21.0MPa
液体水素ターボポンプ回転数:42,200rpm
液体酸素ターボポンプ回転数:18,100rpm
H-II 8号機 事故原因
事故直後のテレメータデータから、LE-7エンジン高圧配管系に何らかのトラブルがあり推進薬の供給が瞬時に停止していたと推定された。1999年12月24日に、海洋科学技術センターの協力で、海底に沈んだLE-7エンジンの残骸を発見。2000年1月23日に、海底3,000mからエンジンを引き上げた。

残骸の調査から、液体水素ターボポンプインデューサが破断していることが判明し、破断面調査の結果から疲労破壊が原因と推定された。インデューサ単体の試験を繰り返した結果、旋回キャビテーションと呼ばれる現象とそれに起因する部品の共振が発生し、インデューサに過大な負荷をかけ疲労破壊に至ったことが事故の原因と判明した。これらの結果は、後のLE-7Aの開発に活かされることになった。

 

山陽女子大前駅 広島電鉄宮島線

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山陽女子大前駅(さんようじょしだいまええき)は、広島県廿日市市佐方本町にある広島電鉄宮島線の駅である。駅周囲は住宅地です。

山陽女子大前駅はホームが地面に接して置かれている地上駅である。駅舎はない。ホームは2面あり、2本の線路を挟み込むようにして向かい合わせに配置された相対式ホームである。

路線の起点から見て左側に広電宮島口駅方面へ向かう下りホーム、右側に広電西広島駅方面へ向かう上りホームがある。

広電西広島方面の奥側にはかつての高床ホーム跡があります。
駅の広電宮島口方には踏切がある。ホームへはスロープで直接連絡します。
道路を挟んで南西に駐輪場があります。

駅周辺
広島市との市境付近に位置しており、周辺は閑静な住宅街が広がる。南にしばらく行くと国道2号沿いに量販店などが並び、賑わいを見せる。

山陽女子短期大学、および山陽女学園中等部・高等部は駅の北東に隣接する。南へ徒歩15分の距離には桂公園(桜尾城址)がある。

広島県立廿日市高等学校
廿日市市立廿日市中学校


広島歯科技術専門学校
西広島バイパス佐方サービスエリア

 


利用状況
『廿日市市統計書』によると、2016年度の1日平均乗降人員(利用者総数をその年の日数で割った値)は3,389人であった。


当駅は1950年(昭和25年)に新規に開業した駅である。開業時の駅名は山陽女学園駅(さんようじょがくえんえき)で、その名のとおり沿線には山陽女学園中等部・高等部がある。1963年(昭和38年)には中等部・高等部に加えて山陽女子短期大学が開校したため、駅名はそのころ山陽女子大前駅へと改称された。

1950年(昭和25年)11月24日 - 山陽女学園駅として開業。
1963年(昭和38年)4月1日頃 - 山陽女子大前駅に改称。

駅番号 ●M31
所属事業者 広島電鉄
所属路線 ■宮島線
キロ程 9.2km(広電西広島起点)


駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度- 3,389人/日
-2016年-
開業年月日 1950年(昭和25年)11月24日

救助訓練坑道(九州炭坑救助隊連盟直方救助練習所)

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ガス爆発や落盤などの炭鉱災害の際に救助隊が編成され救助に携っていた。
九州炭坑救助隊連盟直方救助練習所として実践即応の救助器具を使用した救助隊員の訓練施設。日本でもここでしか目にすることができない程、貴重な施設です。

明治45年に本館の裏山に約11メートルの救護訓練坑道が作られ、炭鉱災害の人名救助や復旧作業の練習会が行われる。大正11年になると筑豊石炭鉱業組合救護練習所と呼称され、より実践的な訓練を実施する本格的な練習所となり、訓練坑道も大正14年には傾斜40度と20度の2本と斜坑道(木造)と水平坑道(煉瓦・コンクリート造)が追加され拡充が図られる。

昭和27年に九州炭鉱救護隊連盟直方救護訓練所に改称。老朽化に伴い昭和41年に傾斜40度の木造斜坑道は取り壊され、傾斜20度の斜坑道をコンクリートに変更するなどして現在の型である117メートルの訓練坑道になりました。

昭和44年に志免炭鉱れ跡地に九州鉱山保安センターとして移転することになり、この訓練所は直方市に寄付され昭和46年より石炭記念館となった。炭鉱が閉山するまで1万人の隊員を養成しました。

明治・大正時代に作られた水平坑道部分の内部は煉瓦巻きになっています。斜坑道は昭和41年にコンクリートで作り直されたもので、わずか2~3年ほどしか使用されていないだけあって内壁もきれいなものです。

訓練坑道には数箇所に外部とつながる“焚き口”があり、そこで石炭を焚いて内部の温度を上げ、煙を充満させるなどして実際の炭鉱災害時の環境を再現した訓練が行われたそうです。

水平坑道奥にある下側半分を塞ぐ壁は訓練時の障害物として作らたもので、またその手前右側には横方向に伸びる坑道も作られています。煉瓦巻きの内壁は所々が煤で真っ黒になっており長年の訓練の痕跡がうかがえる。

1510号車(横浜市電1500型)

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昭和26年(1951)に日立製作所で20両作られた電車。中型の2扉車で横浜市電の中では唯一の4個モーター車です。

出力は25kwモーターが4個の100kWで、横浜市電の車輛としては最強力です。1500型は5系統(間門=本牧1丁目=元町=桜木町駅前=高島町=洪福寺)に充当されることが多かったようです。

戦後各都市で製造されたPCCカーの一種だが、駆動装置は吊り掛け駆動方式である。1951年(昭和26年)製。制御器は間接制御器を使用していたが、モータリゼーションの進行と1967年(昭和42年)のワンマン化に伴い、直接制御器へ取り替えるなどして逆に1150型と同一の性能となった。全廃時まで使用。


1951年登場。旧型車両の置き換えに伴う体質改善と市電輸送のテコ入れを図るべく製造された車両である。

1948年に投入された1400型より、再び流線形を導入する等車両のデザインを意識した車両が再度製造され始めていたが、本車は海外のPCCカーを参考にデザインのみならず更に性能を向上させた車両となっている。

駆動方式は従来同様の釣り掛け駆動ながら、制御方式には低圧電源による回路から遠隔の主回路を操作・制御する間接制御方式を採用。

またブレーキ応答性を向上させるべく電気制動が採用されている。台車は日立製作所が開発した防振台車が搭載され、低騒音化及び乗り心地の向上に寄与している。

全長12mの車体はプレス材を用いることで軽量化を図り、流線形の形状や前面への大型2枚窓の設置等より軽快なデザインへと仕上がっている。

尚、ストップランプは角型のものが採用されているが、製造当時は「STOP」という文字が浮かび上がる仕様となっていた。

PCCカーを意識したデザインに新機軸の採用、更にまとまった両数が製造された同車は一躍主力車両となり、戦後の横浜市電を代表する車両と言っても過言ではない。

ただし同車の特徴の一つであった間接制御は後に増備された1600型には波及せず、逆にこちらがワンマン化改造に際して直接制御方式へと改造されている。

全20両ともワンマン化改造を受け殆どの車両が路線廃止まで残ったが、一部はそれ以前に廃車されている。現在は1510号車が市電保存館に、1508号車が横浜市内にそれぞれ静態保存されている。


全長は12m・定員は100名

米軍 Kalmar RT240 コンテナハンドラ

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Kalmar RT240
粗い地形コンテナハンドラ。Kalmar RT240 RTCHは、標準的な輸送コンテナ

Kalmar RT240ラフテレインコンテナハンドラは、軍用化された商用設計モデルです。これは、1981年に米軍と協力して操縦したキャタピラーRTCHの後継 機である。この機械は、荒天の地形、海岸およびその他の改良されていない地表面で作動する。米陸軍は2000年に新しいRTCHの生産契約を受注した。2004年までに米軍は346のKalmar RT240コンテナハンドラーを操作した。当時、米国海兵隊は25台のRTCHシステムを注文し、別の80システムを注文することができました。それはまた、オーストラリアと英国でも使用されています。

コンテナハンドラは、軍事物流のバックボーンである標準的な輸送コンテナを扱うために使用されます。カルマルRTCHは、標準20フィートおよび40フィートのISOコンテナを持ち上げ、移動し、積み重ね、積み降ろしを行います。この機械は最大重量24tのコンテナを移動できます。それはコンテナを3つ積み重ねることができ、2列目のコンテナをピックアップすることができます。RT240のコンテナハンドラは、サイドシフト、回転、前後/左右の傾きが可能です。

この軍用機は、400hpを開発しているCummins QSM 11ターボチャージャーのマルチ燃料ディーゼルエンジンを搭載しています。車両には全輪駆動があります。このマシンは、ハイウェイでの走行には2輪のステアリングを使用し、拘束された場所での作業と運行には4輪のステアリングを使用します。

また、壁やその他の障害物の近くで操作するときは、パラレルドライブ用のカニの操縦士があります。 RT240は最大1.5mの海水で作動することができます。このコンテナハンドラは、C-17または C-5 軍用貨物機で短期間準備した後に空輸することができます 。準備中、この機械の搬送高さは減少する。Kalmar RTCHは-40℃〜+ 50℃の温度で動作します。


全長 49フィート2インチ(約15m)
全幅 12フィート(約3.65m)
全高 9フィート8インチ(約2.94m)
車輌総重量 118,000ポンド(約53,524kg)
備考 RTCHとは“ Rough Terrain Container Handler”の略で、直訳すれば“荒地でコンテナを扱う”となるが、これはこの手の装備の総称であり、この車輌の個別名称ではない。上の写真はクレーンタイプのものだが、海兵隊ではフォークリフトタイプのRTCHもある。
クルー 男性1人
寸法と重量
重量 53.75トン
長さ 14.55m
幅 3.66メートル
高さ 3メートル
パフォーマンス
吊り上げ能力 24時間
モビリティ
エンジン カミンズQSM 11ディーゼル
エンジンパワー 400馬力
最大道路速度 37 km / h
機動性
勾配 27%

フレーズ 1.5メートル


森下駅 東京都交通局

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森下駅(もりしたえき)は、東京都江東区森下にある、東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。

新宿線と大江戸線が乗り入れている。それぞれの駅番号は新宿線がS 11、大江戸線がE 13である。なお、所在地は新宿線が森下一丁目、大江戸線が森下二丁目となっている。


駅構造
新宿線・大江戸線とも島式ホーム1面2線を有する地下駅である。新宿線ホームは新大橋通りの、大江戸線ホームは清澄通りの地下にある。

大江戸線ホームのエレベーター付近の真上を新宿線が直交しており、このエレベーターは改札口、新宿線ホーム(菊川方の端)、大江戸線ホームを結んでいる。

新宿線ホームの菊川寄りの方面案内サインは大江戸線と同じものが設置されている。

門前仲町駅務管区門前仲町駅務区が管轄し、東京都営交通協力会が受託する業務委託駅。

以前は新宿線構内と新大橋方面改札は馬喰駅務管理所馬喰駅務区、大江戸線構内と清澄通り方面改札は大門駅務管理所門前仲町駅務区の管轄に分かれていた。

のりば
番線 路線 行先
1 S 都営新宿線 馬喰横山・新宿・京王線方面
2 大島・本八幡方面


3 E 都営大江戸線 両国・上野御徒町・春日方面
4 門前仲町・大門・六本木方面

駅周辺
新大橋通りと清澄通りの交差点付近に両線の駅がある。周囲は森下、千歳、高橋、新大橋となる。両国に近く、相撲部屋が多数存在する。

出入口はA1 - A7の7か所設置されている。

バス
最寄り停留所は、清澄通りおよび新大橋通りにある森下駅前となる。以下の路線が乗り入れ、東京都交通局により運行されている。

森下駅前(東京都交通局)

門33系統:都営両国駅・押上経由 亀戸駅行 / 門前仲町・月島駅経由 豊海水産埠頭行
急行06系統:日本科学未来館行(土曜・休日のみ)
錦11系統:住吉駅経由 錦糸町駅、住吉駅・錦糸町駅経由 亀戸駅行 / 水天宮前・茅場町経由 築地駅行

利用状況
2016年度における新宿線の1日平均乗降人員は75,243人(乗車人員37,322人、降車人員37,921人)であり、大江戸線の1日平均乗降人員は68,336人(乗車人員34,470人、降車人員33,866人)である。

1997年に新宿線の急行運転が始まった当初は通過駅であり、大江戸線との乗換駅となったことを期に急行停車駅となった。

1978年(昭和53年)12月21日 - 都営新宿線の駅として開業。
2000年(平成12年)12月12日 - 都営大江戸線が開業し乗換駅となる[1]。同日より新宿線急行の停車駅となる。また、これと同時にバリアフリー化された。
2015年(平成27年)4月1日 - 新宿線駅業務が馬喰駅務管理所馬喰駅務区から大門駅務管理所門前仲町駅務区に移管される。

 

所属事業者 東京都交通局(都営地下鉄)
電報略号 森(駅名略称)
駅構造 地下駅
ホーム 各1面2線(計2面4線)

乗車人員
-統計年度- (新宿線)37,322人/日
(大江戸線)34,470人/日
(合計)71,792人/日(降車客含まず)
-2016年-
乗降人員
-統計年度- (新宿線)75,243人/日
(大江戸線)68,336人/日
(合計)143,579人/日
-2016年-
開業年月日 1978年(昭和53年)12月21日


乗入路線 2 路線
所属路線 ●新宿線
駅番号 ○S 11
キロ程 9.5km(新宿起点)
◄S 10 浜町 (0.8km)(0.8km) 菊川 S 12►
所属路線 ●大江戸線
駅番号 ○E 13
キロ程 12.7km(都庁前起点)
◄E 12 両国 (1.0km)(0.6km) 清澄白河 E 14►

 

 

中川安五郎(文明堂創業者)

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中川安五郎(文明堂創業者)

文明堂(ぶんめいどう)とは、カステラ、和菓子の商号、商標。1900年(明治33年)に長崎で中川安五郎が創業し、実弟の宮崎甚左衛門が東京に進出させ、製造革新と斬新な販売、広告によって全国的に知られる暖簾となった。現在、複数の「文明堂」を冠する企業がある。


文明堂の扱う商品は、カステラ・カステラ巻きと三笠山(どらやき)は菓子製造から撤退した麻布文明堂を除いた6社すべてが製造するものの、地域性から会社ごとにカステラの味が違っていたり、別商品を扱っている点も特徴的で、その特徴ゆえに、会社を間違えて欲しい商品が買えなかったという話も存在する。具体的には以下の会社が独自の商品展開を行っている。

会社特有の商品展開
会社名 商品
文明堂総本店 桃カステラ、レモンケーキ、合わせ最中、ようかん、さざれ菊
文明堂神戸店 爛華カステラ、栗饅頭、半月最中
浜松文明堂 ハニーカステラ、「お茶みかん」・「花絵巻」(タルト)
横濱文明堂 極上金かすてら、サブレ、クッキー、羊羹
文明堂東京 ハニーカステラ、最中、小巻(タルト) 、パイポルト
銀座文明堂 ブッセ、バームクーヘン、マドレーヌ(ボワイヤージュ)
文明堂各社では創業を1900年(明治33年)、初代を中川安五郎としており、東日本を中心にTVCMも共同で放映している(後述)。このため、先述どおり根は同じ長崎であることがわかる。社紋についてはかつて日本橋と浜松は丸文の紋を掲げていたが、現在は全社が中川の紋で統一されている。

株式会社文明堂銀座店が発売している商品には「銀座文明堂」、株式会社文明堂(横浜)が発売している商品には「横濱文明堂」と表示されている。また、株式会社文明堂銀座店の東銀座店は、「文明堂銀座店東銀座店」となるのではなく、「銀座文明堂東銀座店」となる。「文明堂銀座店」はあくまで会社名であり、店の屋号は「銀座文明堂」である。

2008年(平成20年)、日本橋文明堂と新宿文明堂は共同持株会社「文明堂東京ホールディングス」を設立し、2010年(平成22年)10月にその下で合併して文明堂東京となった。なお日本橋文明堂時代から「ハニーカステラ」の商標を持ち、販売されている。ちなみに創業者が日本橋文明堂と同じく宮崎甚左衛門である浜松文明堂でも「ハニーカステラ」は販売されている。

文明堂東京は横浜駅西口・港南台では横濱文明堂と、大阪梅田では神戸文明堂とお互い競合関係にある。また、横濱文明堂と浜松文明堂も浜松市内で競合関係にある。

麻布文明堂は2003年(平成15年)にカステラを含めた菓子類の製造販売を休止し、アロマテラピー商品やオーガニック商品などの販売を行うショップ、「ABJOY(エービージョイ)」を運営している。

のれん分け
大阪の銀装や、東京・千歳船橋の文栄堂は文明堂からのれん分けされた企業である。

CM
関東地方
関東地方では、カンカンダンスを踊るクマの操り人形のテレビコマーシャル(文明堂豆劇場)と、そのCMで流れるジャック・オッフェンバックのオペレッタ「地獄のオルフェ(邦題「天国と地獄」)」の序曲にのせたひばり児童合唱団による「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」というCMソングが有名である。このCMは関東地方の日本橋文明堂を除く文明堂数社が共同で制作したもので、1960年代からモノクロで放映開始。その後1990年代からはリメイクされたカラー版が放映されている。最後のマークは中川の紋である。日本橋文明堂のCMを含む歴代のCMは文明堂東京のサイトで視聴可能。

マリオネットを操っているのは、NHK『私の秘密』に出演していた、オーストラリアから来たノーマン・バーグ、ナンシー・バーグ夫妻で、80年代放映のCMでは映像中に登場し実演を行っている。このクマの人形は夫人の手作りで、クマの割には尻尾が長めに設定されている。これは、欧米で人気のあった猫のキャンキャンキャットを想定して作ったためであり、後で会社の意向によりクマに変更されたときの名残である。

スクウェア・エニックスのSRPGである『半熟英雄VS 3D』のシナリオ間のCMデモとしてモノクロバージョンのこのCMが採用されており、実際に流れる演出がある。
人形が歌う「電話は二番」というフレーズだが、これは、文明堂の加入者番号が2番(2000 - 2999番を全て文明堂で使用し、下3桁のダイヤルを不要とした。)だからで、当時の電話交換機は交換台を経由する時代であったため、交換手に局の名前と2番(例として赤坂局の2番)と告げれば文明堂に繋げた事から1937年(昭和12年)に文明堂が電話帳の裏に載せていた「カステラは一番、電話は二番」というキャッチフレーズに由来する。

文明堂は現在でも加入者番号を0002番にしたり、20番、222番など、電話番号に2を入れる傾向がある。なお、北海道など一部地域のCMでは最後のフレーズが「三時のおやつは」ではなく、「カステラ一番」に変更されている。

兵庫県
文明堂神戸店はかつて、「文明堂・神戸店」名義でフラメンコを踊る女性と共に「カステラ一番、電話は二番、神戸のカステラ文明堂」とのフレーズが流れる独自のCM(旋律も異なる)を、地元兵庫県のサンテレビで頻繁に流していた。宣伝看板も緑と黄の独特のものが、現在も県内あちこちにある。このため、以前の兵庫県下には文明堂を「(モロゾフやゴンチャロフ製菓のような)神戸固有の洋菓子店の一つ」と、CMの音声のみから判断し思い込んでいる子供が多かった。兵庫県では踊る操り人形バージョンのCMが流れていないため、大人でも件のCMを知らないことがあった。現在でもフレーズは「♪文明堂のカステラ」。カステラの部分は音楽が消え台詞のみのCMがラジオ関西で流れる。

長崎県
長崎県内では昔から、文明堂総本店が「ぶんぶぶぶん、ぶんぶんぶん、文明堂のかすてーら♪」という歌い出しで始まるもの、「カステラ一番、電話は二番、文明堂のカステーラ」、別のBGM版では「文明堂の、かすてらー♪」という旋律もフレーズも首都圏版や神戸版とも違うCMを流すなど独自の傾向が見られる。この為、東日本で知られている上記のカンカンダンスを踊る操り人形バージョンのCFは全国ネット番組の同時ネット時間帯で東日本版が長崎でも流れたことはあるが、存在を知らない人も多数存在する。また、長崎県ではカンカンダンスとは違う「デキシーパンダ」なるパンダの人形によるバンド演奏をするCMもあり(楽曲は前述のぶんぶぶぶんのもの)、他にも1984年(昭和59年)頃からは、長崎県の童歌を用いた「でん出らりゅう編」、「赤っかとばい編」のものも放映されている。

1969年(昭和44年)頃には『ひみつのアッコちゃん』や『リボンの騎士』のキャラクターを用いたCMがあり、1973年(昭和48年)頃からは、午後3時の時報を兼ねた東映動画製作によるアニメーションCM「3時のおやつ編」をテレビ長崎で『3時のあなた』・『タイム3』、並びにNBCテレビで『アフタヌーンショー(時差ネット)』の直前に流していた。
その他
東海地方や京都府など、「カステラ一番、電話は二番」というフレーズを使わないCMを最近まで流していた地域もある。

屋号の意匠
現在の、銀座・東京・麻布の文明堂の屋号の文字は、文人としても知られた歌舞伎役者の中村吉右衛門(初世)の筆によるもの。

 

 

 

1900年(明治33年) - 長崎市丸山町72番地で創業
1922年(大正11年) - 東京府上野黒門町(現・東京都台東区上野)に東京支店を開設
1923年(大正12年) - 関東大震災で東京支店を焼失し長崎に帰る。再び麻布箪笥町(現・東京都港区六本木)に出店。
1928年(昭和3年) - 文明堂合資会社(現在の株式会社文明堂総本店)を設立し、大波止店を新築し本店とした。
1930年(昭和5年) - 神戸店を開店。
1933年(昭和8年) - 横浜店を開店。新宿店を開店。
1939年(昭和14年) - 銀座店を開店。
1945年(昭和20年) - 疎開による撤去や、原爆の被害を受けるなどして経営が一時中断。
1946年(昭和21年) - 経営が再開、東京・横浜・神戸等の地方支店は経営を分離。
1946年(昭和26年) - 日本橋文明堂を設立。
1967年(昭和42年) - 浜松文明堂を設立。
2010年(平成22年) - 新宿文明堂と日本橋文明堂が合併し、文明堂東京設立。
2014年(平成26年) - 文明堂東京・文明堂銀座店がグループ化。
第二次世界大戦後に経営が再開されて以降文明堂は、根は同じ長崎の文明堂であるが、別々の会社となる。長崎には文明堂合資会社から改称した株式会社文明堂総本店、神戸には株式会社文明堂神戸店、浜松には株式会社浜松文明堂、横浜には株式会社文明堂、新宿には株式会社文明堂東京、銀座には株式会社文明堂銀座店、六本木には株式会社麻布文明堂と、現在7社の文明堂が存在している。

 

ハンバーガーとホットドッグ(米国基地)

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ハンバーガー
ハンバーガー (hamburger) とは、焼いたハンバーガーパティ[を専用のバンズに挟み込んだサンドイッチの一種。アメリカ合衆国を代表する国民食であり、ファーストフードの一つとして各国にフランチャイズ展開がなされている事から広く知られている。


サンドイッチの中でハンバーガーとホットドッグ、サブ(形がサブマリンに似ているため)が独自の名称を持つが、ハンバーガーもあくまでサンドイッチの一種である。

オーソドックスな調理例としては牛(又は牛豚合)挽肉、塩コショウ、とナツメグを適量振りかけて混ぜ込んだミートパティを作り、テニスボール大に丸めてから平らに引き延ばして両面に若干焦げ目がつくくらい加熱して、トーストしたバンズに乗せてからミートパティにケチャップをかけ、サンドにして食す。好みでマスタード、ピクルス、トマト、チェダーチーズスライス、刻んだレタスやタマネギ、ベーコンその他をパティの上にトッピングする。手で持ち、齧り付くのがポピュラーな食べ方である。

レストラン等で食べる場合はナイフ・フォークを使用する事もあるが、ファストフード店でそれらを使用せず食べる場合、ウェットタイプなどと呼ばれるミートソース等液状の食材を用いたものは紙袋(バーガー袋)に入れて食べられる場合がある。フレンチフライが添えられることが多く、セットメニューとして提供する店も多い。

パンの代わりにご飯やレタスを用いたものや、肉の代わりに大豆タンパクなどを用いたベジタリアンのための「ヴェジーバーガー」(Veggie burger)など、多種多様となっている。

ハンバーガー発祥の地アメリカでも、一部のハンバーガーチェーンでは新しいメニューを作成する場合にバンズにミートパティ以外のものを挟んだ商品も「 - バーガー」の名前を使うチェーンも出てきている。本来ハンバーガーと呼ばれるのは基本的に挽肉のパティを丸いバンズに挟んだサンドイッチであり、ハンバーガーと同じバンズを使ってもパテ(バーガー)が挽肉以外のものはフィッシュ・サンドイッチ、チキン・サンドイッチ(chicken sandwich)、ステーキ・サンドイッチ(steak sandwich)などと呼ばれる。

アメリカでは上記のほか、バイソンや七面鳥の肉を使ったハンバーガー状料理もある。ただし法律上、「ハンバーガー」に含まれる肉は農務省令によって牛肉100パーセントと定められており、合挽肉など牛肉以外の肉が入ったものをハンバーガーと呼ぶことはできない[3]。例えば、植物由来の蛋白質からパテを作るインポッシブルフーズ社は、自社製品を使ったサンドウィッチを「ハンバーガー」ではなく「インポッシブルバーガー」と称している。

ホットドッグ(英語: hot dog)は、ソーセージを細長いバンで挟んだ食品である。なお、英語の"hot dog"は、ソーセージ単体と、ソーセージを細長いバンで挟んだ食品との両方の意味を持つ

アメリカ合衆国ナショナル・ホットドッグ・ソーセージ評議会の声明によれば、ホットドッグはサンドイッチの一種ではなく独自の食種に区分されるということである。

ホットドッグに用いるソーセージは、通常、湯煎あるいは直接茹でて温めるか、焼網や鉄板などの上でグリルされる。店舗や屋台においては保温機能を持つ回転式の専用グリラーが使用されることが多い。パンは常温で用いる以外にも、トーストしたりスチームしたり店や好みによって様々である。

味付けはマスタードが基本であり、好みに応じてトマトケチャップ、タマネギやピクルスを細かく刻んだレリッシュ、ザワークラウトなどが用いられる。チリミートをかけたチリドッグ、溶かしたチェダーチーズをかけたものや、トマトなどの野菜を挟んだシカゴドッグ、サルサをかけたサルサドッグなどさまざまなバリエーションがある。

近鉄新王寺駅(近鉄田原本線)

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近鉄新王寺駅(近鉄田原本線)

近畿日本鉄道は、王寺駅に生駒線が、隣接する新王寺駅に田原本線が乗り入れている。両路線とも当駅が起終点となっている。生駒線王寺駅の駅番号はG28、田原本線新王寺駅の駅番号はI43。

駅舎は平屋の木造駅舎です。JR駅の橋上駅舎からは程近くに位置します。
頭端式ホーム2面1線を持つ地上駅。北側のホームが乗車用、南側のホームが降車用となっている。ホーム有効長は3両分。駅舎は車止め寄りにあり、改札口は1か所のみ。PiTaPa・ICOCA対応の自動改札機および自動精算機(回数券カードおよびICカードのチャージに対応)が設置されている。なお、当駅では定期券の購入は不可能となっている。切符売場に券売機は2台。改札口の改札機は3台設置されています

 

のりば
ホーム 路線 行先
北側 I 田原本線 西田原本方面
ホームには木製の長椅子が設置されています。
南側 (降車専用ホーム)


駅は北側を流れる大和川と南側の丘陵地帯に挟まれた狭い平地に立地する。同平地は当駅の他、工場などが密集しており、住宅、駅前には商業施設、金融機関などが立地している一方、商業地の広がりは小さく、大半が住宅地となっている。周辺ニュータウンなどを駅勢圏に含む。2014年7月1日から駅周辺が路上喫煙禁止条例による対象区域に指定。

歴史
1918年(大正7年)4月26日 - 大和鉄道が新王寺駅 - 田原本駅(現在の西田原本駅)間で開業した際に同鉄道の新王寺駅が設置される。
1922年(大正11年)5月16日 - 信貴生駒電気鉄道が王寺駅 - 山下駅(現在の信貴山下駅)間で開業した際に同鉄道の王寺駅が設置される。
1925年(大正14年)11月5日 - 信貴生駒電気鉄道が信貴生駒電鉄に路線と駅を譲渡。
1945年(昭和20年)7月14日 - 空襲で被害を受ける。
1961年(昭和36年)10月1日 - 大和鉄道が信貴生駒電鉄に合併、新王寺駅は同社の駅となる。
1964年(昭和39年)10月1日 - 信貴生駒電鉄が近鉄に合併、王寺駅が同社の生駒線、新王寺駅が同社の田原本線の駅となる[8]。
2006年(平成18年)4月16日 - 生駒線王寺駅の駅舎改築工事が完了。
2007年(平成19年)4月1日 - PiTaPa利用可能駅となる。


駅番号 I43
所属事業者 近畿日本鉄道(近鉄)
所属路線 I 田原本線
キロ程 10.1km(西田原本[* 1]起点)
電報略号 シオウ
駅構造 地上駅
ホーム 2面1線
乗降人員
-統計年度- 7,183人/日
-2012年-
開業年月日 1918年(大正7年)4月26日
^ 正式な起点は当駅

日野レインボー:音楽隊 (陸上自衛隊)

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日野レインボー:音楽隊 (陸上自衛隊)

レインボー(Rainbow)は、日野自動車から発売されているバスの名称である。キャブオーバーの小型車は1966年、リアエンジンの中型車は1980年に製造を開始し、国内初のスケルトン(マルチチューブラーフレーム)構造を取り入れた中型バスとして、路線・観光用途に1980年代から1990年代にかけて広く販売された。

もとは中型車のほか小型車も包括していたが、モデルチェンジによる名称変更が相次ぎ、現在は中型路線系(ジェイ・バス宇都宮事業所で製造するいすゞ・エルガミオのOEM供給→統合モデル車・日野レインボーII)のみのラインナップとなっている。2016年5月6日のフルモデルチェンジの際、車名が「レインボー」に戻されている。

車体製造は日野車体工業金沢工場が担当していたが、2002年より同社小松工場、2004年10月にジェイ・バスへの統合で、その後は、同社小松事業所が製造を担当した。車名「レインボー」は、日野自動車の社内公募によって決定した。

9mワンステップ路線車(RJ系)・および7mノンステップ路線車(HR系)は2004年に生産中止、9mノンステップ路線車(HR系)は2007年10月1日に、いすゞ・エルガミオの統合車種(当初はOEM車種)であるレインボー II へ移行し、最後まで製造された10.5mノンステップ路線車(HR系)も、2010年をもって製造を中止した。

1995年にリエッセ(RX系)に移行した小型バス、レインボーRB・ABがあり1998年から1999年にかけてメルファにフルモデルチェンジしたレインボー7M・7W、レインボーRJ・RR観光車がある。

レインボーIIは、いすゞ・エルガミオのOEM車として登場し、のちに同車との統合車種となる中型路線バスである。

音楽隊(おんがくたい)は、諸外国の軍楽隊に相当する陸上自衛隊の部隊である。陸上自衛隊の職種の一つである「音楽科」(おんがくか、英: Band)の隊員で編成され、音楽演奏を主な任務とする。同様に海上自衛隊と航空自衛隊にも、それぞれ音楽隊が編成されている。

陸上自衛隊音楽隊の任務
隊員の士気高揚のための演奏
儀式のための演奏
広報のための演奏
必要に応じ、指揮所の警備

師団・旅団の音楽隊(15隊)
各師団・旅団長直轄。各隊の名称は「陸上自衛隊第○音楽隊」。
祭事やオリンピックなどの大規模な行事の際は、複数の音楽隊の合同編制となる場合もある。これら以外で音楽隊を名乗るもの(「○○駐屯地音楽隊」など)は隊員の課外活動であり、音楽演奏を主な任務としている音楽科の部隊ではない。

装備・制服
主な装備品は楽器・人員輸送車等。音楽科の隊種標識の色は藍。職種徽章は、リラ(古代メソポタミア・エジプト・ギリシアなどで用いられた竪琴)の下部に桜星を配し、外側を円で囲ったもの。音楽隊の隊旗の意匠は、桜色の地色に濃黄の帽章、紺青の横線。

音楽科隊員の演奏時の制服は、別途定められており、階級章も装飾の付いた特別なものが用いられる。

隊員の処遇
採用
音楽隊員になるためには、自衛官採用試験に合格するだけでなく、各音楽隊で実施される部隊説明会で実技を行う必要がある。音楽隊員になることができる自衛官採用試験の区分は、自衛官候補生、一般曹候補生および一般幹部候補生である。自衛官候補生と一般曹候補生は入隊後、採用区分別に、戦闘訓練など自衛官としての基礎教育を3か月間 、一般隊員とともに教育隊で受ける。一般幹部候補生は、将来の隊長候補たる幹部自衛官に必要な知識と技能を身につけるために、陸上自衛隊幹部候補生学校で約10か月間の教育訓練を受ける。その後、中央音楽隊において音楽科教育を受け、修了後に各音楽隊へ配属される。

例年、300人程度の受験者の中から、陸上自衛隊音楽隊全体で30~40人程度が採用される。採用者のほとんどは音楽大学・音楽短期大学および音楽専門学校の出身者である。

教育
陸上自衛隊では、すべての音楽隊員が理論と演奏の初・中・上級教育を受けるほか、編曲法、ドリルコンテ作成、音響機材操作など専門実務の教育も行っており、音楽隊員に対して次の教育課程がある。

陸上自衛隊音楽科の教育課程
課程名 期間
音楽科初級幹部集合教育 12週
上級陸曹特技課程「楽手長」 10週
初級陸曹特技課程「音楽」 18週
一般陸曹候補生課程後期「音楽」 13週
新隊員特技課程「音楽」 13週
陸士初級音楽集合教育 10週・隔年
また、これら内部教育に加えて、幹部自衛官には武蔵野音楽大学と東京芸術大学での研修制度もあり、それぞれ1年間、指揮や作曲などの教育を受ける。

日常の業務
日々の訓練においては演奏訓練が主体であるが、自衛隊員として共通の訓練も行う。

通常の楽団では裏方に相当する業務、すなわち演奏会の企画などの事務作業から、車両の運転やステージの設営に至るまで、演奏者である音楽隊員が分担して行う。また、陸上自衛隊の他の職種と同様に駐屯地の警衛(24時間の当直警備)も行う。音楽の前に自衛官としての任務が優先されるため、警衛勤務の直後に演奏会本番に臨むこともある。

定年
自衛隊の多くの職種では、1佐以下の階級の者の定年は60歳未満(2曹・3曹の53歳から1佐の56歳まで4段階)であるが、音楽の職務にたずさわる自衛官の定年は、階級にかかわらず60歳と定められている。

海上自衛隊 あすか (試験艦)ASE-6102 一般公開(外観

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あすか(ローマ字:JS Asuka, ASE-6102)は、海上自衛隊の試験艦。海上自衛隊としては15年ぶりの試験専用艦で、省力化やステルス化を目的とした艦載兵器実験艦。同型艦はない。

なお艦名は試験艦の命名基準である名所・旧跡の文明・ 文化に関する地名という点から、日本の古代大和朝廷が栄えた地、「飛鳥」(奈良県明日香村)に因んで命名された。

曹士婦人自衛官7名が乗員となった最初の艦艇である。


設計・装備
船体は遮浪甲板型の船型を採用している。艦首・底には新水上艦用ソーナー(OQS-XX)を設置したことから、投錨の際の干渉を避け、また砕波発生位置をできるだけ後方にしてOQS-XXから遠ざけるように、艦首は鋭く突出している。OQS-XXはバウ・ドームのシリンドリカル・アレイ(CA)と艦底の長大なフランク・アレイ(FA)からなるが、予算の関係上、FAは片舷のみの装備とされた。艦橋構造物は4層よりなり、その最上部には射撃指揮装置3型(FCS-3)試作機のアクティブ・フェイズド・アレイ(AESA)アンテナを4面配したレーダー機器室が設置されていた。

試験終了後、FCS-3試作機の部品はひゅうが型護衛艦の2隻に転用されており、現在ではAESAアンテナも含めてすべて撤去され、レーダー機器室にはカバーがかけられている。また平成26年(2014年)度以降、マルチファンクション・レーダー(FCS-3)の性能向上策の一環として開発されてきたXバンドの多機能レーダーの試作機が搭載されて海上試験が実施される見込みであり、既に準備工事の一部は始まっているものとされている。

艦橋構造物の直前には01甲板レベルに甲板室が設置され、ここは3甲板吹抜けの空所とされて、のちに新アスロック(後の07VLA)の運用試験のためのMk.41 mod.17 VLS(8セル)が設置された。また同様に、就役後に魚雷防御システムを構成する投射型静止式ジャマー(FAJ、第二煙突前方船体中央部)、自走式デコイ(MOD、右舷短魚雷発射管横)の試作品を搭載し、運用試験を実施しているほか、魚雷発射管も12式魚雷の試験のため更新されている。なお試験艦という性格上、艦艇乗組経験の乏しい試験要員の乗艦機会も多いことから、通常は一方通行のラッタルとされるところを二列並行の階段を配置し、また避難経路を示す誘導灯を設置するなどの配慮がなされている。また第2甲板に配置された固有乗員の居住区に加えて、これらの試験要員などの便乗者用として、第3甲板に約100名分の居住区が設けられているほか、試験関係者の打ち合わせに使える多目的講堂や試験器材などを設置できる計測室が設けられている。なお本艦は、自衛艦として初めて女性自衛官が乗艦した艦でもあった。

主機としては、自衛艦としては初めてガスターボエレクトリック・ガスタービン複合(COGLAG)推進方式を採用した。これは、巡航機としてゼネラル・エレクトリック LM2500ガスタービンエンジン1基を発電機として用いたターボ・エレクトリック方式を、加速機として同じくLM2500 2基による機械駆動を用いるものであった。ただし、COGLAGの試験終了後は発電用LM2500は他に転用されて撤去されていることから、現在ではガスタービンエンジン2基のみが動力となっている。また運航要員の省力化も試みられており、操舵と主機操縦を操舵・主機遠隔操縦装置に統合したことで、従来はそれぞれの操縦員が必要だったのに対してワンマン・コントロールが可能とされたほか、ボタン式速力通信機の採用により主機の直接操縦が可能となった。

上甲板(第1甲板)後部はヘリコプター甲板とされており、着艦拘束移送装置等は備えられていないものの、H-60系ヘリコプターの発着が可能な面積が確保されている。またハンガーもSH-60Jを収容できるようになっているが、それ以外にも試験機材の収容や悪天候時の試験要員待機所など様々に用いられている。ヘリコプター甲板直下の作業甲板(第2甲板)には曳航ソナーの巻上げ装置が搭載されているが、これは試験用という性格上、護衛艦用の実戦装備と比してかなり大掛かりなものとされていた。

艦歴
「あすか」は、中期防衛力整備計画(平成3年度〜7年度)に基づく平成4年度計画4,200トン型試験艦6102号艦として、住友重機械工業浦賀造船所で1993年4月21日に起工され、1994年6月21日に進水、1995年1月19日に公試開始、同年3月22日に就役し、開発指導隊群に直轄艦として編入され横須賀に配備された。建造費は278億3900万円。

1995年から統合化航法システムの性能確認試験を実施。

1995年から1998年、OQQ-XXソナー(後のOQQ-21)、COGLAG推進方式、FCS-3の試験を実施。

1998年、赤外線探知装置の試験を実施。

1999年から2000年、新戦術情報処理装置(後のOYQ-10)の試験を実施。

2002年3月22日、開発指導隊群が廃止となり、開発隊群が新編され、同群隷下に編入。

2003年から2004年、投射型静止式ジャマーと自走式デコイの試験を実施。

2003年から2007年、新アスロック(後の07式VLA)の試験を実施。

2007年から2011年、新対潜用魚雷(後の12式魚雷)の試験を実施。

2007年10月に行われたPSIの海上警備訓練では、本艦を容疑船役として護衛艦「いかづち」の立入検査隊の臨検訓練が行われた。

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による東日本大震災に対し、災害派遣のため地震発生後の53分後の15時45分に緊急出港をする。同月21日まで従事、26日より再開、4月8日まで従事した。

2012年、新水中自走標的の試験を実施。

2015年5月25日、MQ-8Cデモンストレータ(モックアップ)による艦載適合性試験を実施。

2017年、12式地対艦誘導弾の艦載化試験を実施。

建造所 住友重機械工業 浦賀造船所
運用者 Naval Ensign of Japan.svg 海上自衛隊
艦種 試験艦
級名 あすか型試験艦
前級 くりはま型試験艦
次級 最新
建造費 278億3,900万円
母港 横須賀
所属 自衛艦隊開発隊群
艦歴
計画 平成4年度計画
発注 1992年
起工 1993年4月21日
進水 1994年6月21日
就役 1995年3月22日
要目
基準排水量 4,250トン
満載排水量 6,200トン
全長 151.0m
最大幅 17.3m
深さ 10.0m
吃水 5.0m
機関 COGLAG方式.
現在は発電機を撤去し、単純なガスタービン推進式となっている。
主機 ・LM2500ガスタービンエンジン × 2基
・LM2500ガスタービン発電機 × 1基
出力 43,000PS
推進器 スクリュープロペラ × 2軸
速力 最大速 27ノット
乗員 72名+試験要員100名
兵装 ・Mk.41 mod.17 VLS × 8セル
・3連装短魚雷発射管 × 1基
搭載機 ヘリコプター1機搭載可能
C4ISTAR 射撃指揮装置3型
レーダー ・OPS-14 対空捜索用
・OPS-18 対水上捜索用
ソナー OQS-XX 艦首・艦底装備式

三郷駅(JR西日本)関西本線・大和路線

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三郷駅(さんごうえき)は、奈良県生駒郡三郷町立野南二丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線の駅である。駅番号はJR-Q30。

「大和路線」の愛称区間に含まれている。駅周辺は新興住宅地が広がり、朝夕は特に多数の通勤通学客で賑わいます。

駅舎は平屋の鉄骨造駅舎で煙突風のデザインが特徴的です。
相対式ホーム2面2線を持つ地上駅で、分岐器や絶対信号機がない停留所に分類される。

ホーム有効長は8両編成分。駅舎側ホームが王寺方面行き、跨線橋を渡って反対側のホームが、天王寺方面行きである。ただし、ホーム自体は、将来的に島式・単式複合型2面3線のホームへと変更できるようになっている。

王寺駅が管理し、ジェイアール西日本交通サービスが駅業務を受託する業務委託駅である。切符売場にタッチパネル式の券売機が2台。かつてはみどりの窓口があったが、2014年2月13日をもって営業を終了し2月14日よりみどりの券売機プラスが稼動した(以降も市販の「JR時刻表」などでは、「みどりの窓口設置駅」として扱われている)。

ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができる。一部時間帯は無人となる。そのため改札機・券売機・精算機付近にはインターホンがあり、無人時間帯はコールセンターのオペレーターが対応し各種機器を遠隔制御している。

待合室には固定された椅子と自販機が設置されるのみです。改札口に改札機が2台。改札口、LED式の発車案内が併設されています。

のりば
のりば 路線 方向 行先
1 Q 大和路線 上り 王寺・奈良・高田方面


2 下り 天王寺・JR難波・大阪方面

ホーム間はエレベータ付きの跨線橋で結ばれています。


駅周辺
ここから県境にかけては「亀の瀬」と呼ばれる大和川沿いの難所で、歴史上この街道(現在は国道25号)に何度も地滑りの被害をもたらしてきた。関西本線自体が地滑りで不通になってしまうこともあった。

特に1932年(昭和7年)1月に発生した地滑りは隣の河内堅上駅と(当時は未設置の)この駅の間にあった「亀ノ瀬トンネル」を崩壊させ、関西本線を長期にわたり分断した。分断されている間はトンネルの両出口に臨時乗降場を設け、その間を徒歩連絡した。

同年大晦日にこの区間は復旧したが、ルートは変更されている。これが現在線である。現在線の対岸がかつてトンネルがあった場所で、急曲線で大和川を渡り、また対岸に戻っていく不可解なルートを取るのは、この地滑り地帯を避けたためである。ちなみにこのルート自体もトンネルのある山(再度大和川をわたる前のトンネル)の地滑り対策工事が行われており難所である。

龍田大社

奈良学園大学(※2014年4月1日に「奈良産業大学」より改称)
2017年(平成29年)10月22日、台風21号が付近を通過した際の豪雨により大和川が決壊し、当駅のホームが冠水し列車が運休した。

バス路線
奈良交通(三郷駅停留所) ※2014年4月1日現在
14系統:奈良学園大学 行(大学開校日のみ運行)
15系統:信貴山下駅 行(城山台三丁目経由)
33系統:城山台循環内回り
35系統:城山台循環外回り

なお当駅と河内堅上駅の間にあたる地点には、稲葉山仮停車場(王寺駅から路線延伸した際の暫定的な終着)と亀瀬仮停車場(柏原駅から路線延伸した際の暫定的な終着)が、奈良駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間全通までの間それぞれ存在していた。


1980年(昭和55年)3月3日 - 国鉄の駅(旅客駅)として、関西本線の王寺駅 - 河内堅上駅間に新設開業。
地元三郷町の住民達の請願によって建てられている。駅前にそれを記念した碑がある。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、「大和路線」の愛称を使用開始。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。


2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2014年(平成26年)
2月13日 - みどりの窓口の営業が終了。
2月14日 - みどりの券売機プラス稼動開始。
2017年(平成29年)10月22日 - 台風21号による大雨で付近を流れる大和川が氾濫。駅構内が冠水する事態となった。
2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。

所属路線 Q 関西本線(大和路線)
キロ程 151.1km(名古屋起点)
加茂から30.2km
電報略号 サン
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 2,068人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1980年(昭和55年)3月3日
備考 業務委託駅
みどりの券売機プラス設置駅

 

 


石炭車(ロト22)

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石炭車(せきたんしゃ)とは、石炭輸送(運炭)のための専用貨車である。日本国有鉄道が用いていた記号は「セ」。 国内では釧路で唯一か所運用されている。

ホッパ車の一種であり、基本的にはホッパ車と同じ構造をしているが、大量に使用していたこと、積荷の石炭の比重がホッパ車が主に扱う砕石(鉱石)に比べ小さい(砕石1.09、石炭0.8)こと、そしてホッパ車よりも先に開発された事などから管理上、ホッパ車とは別格に位置づけられていた。塗色は黒色に塗られている。

なお、ホッパ車との違いとしては積荷の設計比重が異なるため石炭車のほうが積荷体積が大きく取れるように設計されており、またそれに伴う重心の上昇に対応した設計になっている点が挙げられる。

また九州地区と北海道地区では車両構造が大きく異なっている事も特色といえよう。これは北海道はアメリカ型の鉄道を手本に、九州はドイツ型を手本に建設を行ったため石炭車から排出を行う施設が大きく異なり、石炭産業終焉までその施設を使用していたためである。北海道石狩地区ではボギー車で側面から排出を、九州地区では二軸車で車両中心部の底面から排出する車両を基本としていた。

九州北部や北海道などで石炭が採掘されていた時代には、蒸気機関車が石炭車を何十両も牽引し、炭鉱から港へと石炭を輸送していた。石炭産業縮小の影響を受けて数を大幅に減らしながらも一部の石炭車は日本貨物鉄道(JR貨物)に引き継がれたが、現在は使われていない。

石灰石輸送への転用
美祢線や北九州では石炭車のまま石灰石輸送に転用された。本来北海道用のセキ6000形・セキ8000形がほとんど無改造で使用された他、北九州では余剰のセラに蓋を追加して転用した。JRで最後に残った石炭車は、美祢線で石灰石輸送に使われていたセキ6000形・セキ8000形であった。

残存する石炭輸送
石炭輸送自体は2008年現在も僅かながら残っている。

太平洋石炭販売輸送
北海道釧路市にある太平洋石炭販売輸送では釧路コールマインで採掘された石炭を自社保有の石炭車で港まで輸送している。

太平洋セメント熊谷工場
鶴見線扇町駅-秩父鉄道三ヶ尻駅(希に武州原谷駅)間で、ホキ10000形貨車(ホッパ車)を使用して行われている。これは燃料用の輸入炭を、扇町駅に専用線が接続している三井埠頭から、三ヶ尻駅に専用線が接続している太平洋セメント熊谷工場へ輸送するもので、毎日1本運行されている。

私鉄の石炭車
北海道や九州の産炭地では、炭鉱所有企業が炭鉱と国鉄線を結ぶ鉄道を引くことが一般的であった。距離が短い場合は専用側線とした場合もあるが、多くの炭鉱では国鉄線と炭鉱の間に距離があり専用鉄道(本格的に旅客輸送を行った鉄道は地方鉄道)として、独立した鉄道として運営されていた。このような炭鉱の石炭輸送を目的とした専用鉄道・地方鉄道を、「炭鉱鉄道」と呼ぶことがある。
製品出荷に使用する石炭車は国鉄の車両を使用したが、一部の鉄道では自社線内で完結する石炭輸送用に独自の石炭車を持つ場合もあった。

三井三池鉄道セナ1形
九州の大牟田市・荒尾市にあった三井三池炭鉱の専用鉄道(通称・三池鉄道)では、自社線内用(炭鉱-九州電力)に2軸の石炭車を石炭輸送用として使用していた。初期は木造の小型車であったが、その代替として国鉄セラ1型を譲受して使用した。なお、系列の三井セメントが使用していたホラ1型もほぼ同型のため譲り受け、同系列に組み込んでいる。三池炭鉱の閉山とともに廃車となっている。
太平洋石炭販売輸送セキ6000形
北海道の釧路市にある太平洋炭礦(現釧路コールマイン)で採れる石炭を、釧路港知人埠頭まで運ぶ鉄道で運用されている石炭車。2両1セットで連接構造を持つ特異な構造をしている。なお、太平洋石炭販売輸送は現在営業している唯一の炭鉱鉄道であり、よってセキ6000形も現役で残る唯一の石炭車となっている。

人力車

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人力車(じんりきしゃ)とは、人の力で人を輸送するために設計された車。日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられたが、現在も観光地などで用いられている。人力俥とも表記する。

車軸の両側に1つずつ車輪を持ち、上に乗客が座る台座と、或いは雨避けとなる覆いを持ち、台座とつながれた柄を俥夫(しゃふ)が曳いて進むという構造を持つ。手押し車のように後ろから押すことによって進む車もあった。

日本語では、略して人力(じんりき)、力車(りきしゃ)。車夫はまた車力(しゃりき)とも言った。また英語のRickshaw(リクショー)は「リキシャ」を語源とする日本語由来の英単語。

人力車に関する車の文字はすべて俥とも表記した。俥の字は本来は中国象棋の駒の名称に使われるだけの漢字であったが、明治以降の日本において中国にそのような漢字があることに気付かずに、人力車を表すために作られた国字の一種である(中国にもともとあった漢字の字体に暗合したものであるので、正確には国字ではない。)。そのため「俥」(くるま)一文字だけで人力車を表している。この他に、明治時代ごろの表記では車編の右上に人を、その下に力を書いた合字を書く例もあった。

人力車には乗客が一人乗りのものや二人乗りのものなどがあるが、日本で普及したのは一人乗りのものが圧倒的に多かった。また車夫は通常1人だが、特に急ぎの場合などは2人以上で引いたり、時には押したり、交代要員の車夫が併走したりすることもあった。

運送手段として
馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。

保存
昭和初期までは一般的に存在した庶民的な車両であるため、交通博物館(2006年5月14日に移転の為閉鎖)をはじめ、各地の博物館や資料館などで保存されている。ただし、展示されている人力車には修復されたものや展示のために新たに製造されたものもある。

観光用として
現在は主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。人力車を観光に最初に用いたのは1970年の飛騨高山のごくらく舎であり、後に京都や鎌倉などでテレビ番組等で度々紹介されて各地に普及した。当初、京都といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊豆伊東、道後温泉といった温泉町や大正レトロの街並みが残る門司港、有名観光地である中華街などに広がっていった。観光名所をコースで遊覧し、車夫が観光ガイドとして解説してくれるものが一般的である。

北海道小樽市、秋田県角館、東京都浅草雷門、埼玉県川越市、千葉県成田市、神奈川県鎌倉市・横浜中華街、静岡県伊東市・掛川市・松崎町、岐阜県高山市・郡上八幡、三重県伊勢神宮、京都府嵐山・左京区・東山区、奈良県奈良公園、兵庫県姫路城、岡山県倉敷美観地区、愛媛県松山道後温泉、福岡県門司港レトロ、大分県由布院温泉などで利用できる。

現行の道路交通法では人力車は軽車両の扱いとなるが、自転車とはならないため、自転車以外の軽車両を禁止している自転車道や、自転車通行可とされた歩道であっても人力車で通行する事は出来ない。

観光人力車の乗車料金は10分程度の移動時間中に観光案内を含めた初乗り運賃が1人当たり1000 - 2000円から15分・30分・60分・貸切などさまざまである。2人乗りのものに3人乗車することも可能であるが、相当な重さになることから、観光人力車では料金を割り増しとするものが多い。

観光人力車では到着した後の観光客への観光案内時間中の駐輪場所の整備、客待ち時における待機場所の整備が遅れている。

観光人力車の他、結婚式や祭などでの演出としての使用や、歌舞伎役者のお練りなどに使用されることがある。

人力車の製造
観光人力車や博物館展示用の人力車製造が続けられている。製造台数の多いメーカーとしては静岡県伊東市の株式会社升屋製作所を挙げることができる。

当時の日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。

1870年、東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまう。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている。



人力車は安全性の高さと運賃の安さ、玄関先まで届けられるという小回りの良さが大衆に受けて急速に普及し、1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した。1876年には東京府内で2万5038台と記録されている。19世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという。人力車夫は明治期都市に流民した下層社会の細民の主要な家業となり、明治20年代には東京市内に4万人余も存在したが、その後都市交通の発達により数を減少させていった。また、人力車夫の中には女性もいたといわれている。初期の人力車は、箱に車輪を取り付けただけの単純な構造であったが、日進月歩で改良されて、凸凹道でも耐えうるスプリング付きの車輪が登場するようになり、木輪はゴム輪に変わり、その後空気入りのゴムタイヤへと改良されていった。

また、1870年代半ばより中国を中心として東南アジアやインドに至るアジア各地への輸出が始まり、特に東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助はほろや泥除けのある現在見るような人力車を考案し、性能を高め贅を凝らした装飾的な人力車を制作し、その多くを輸出して大きな富を得た。他方、当初人力車の製造と使用を許可された和泉たちは激増する車夫たちすべてから使用料を取ることができず、また当時の特許制度(「専売略規則」)の不備・使いにくさもあいまってほとんど利益を上げることができなかった。この事実が、後に日本に本格的な特許制度の誕生をうながした。

その後、都市部で路面電車が普及し、自動車が日本に登場するようになる。タクシーが出現するようになると、衰退の一途をたどるようになり、大正時代には人力車の姿はほとんど見えなくなった。近年になって、観光地で明治時代の文化であった人力車を復活する動きが出て、観光客向けにサービスを提供するようになっている。

涙橋停留場 鹿児島市電谷山線

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涙橋停留場(なみだばしていりゅうじょう)は、鹿児島県鹿児島市郡元三丁目にある鹿児島市電谷山線の電停。正式には「涙橋電停」(なみだばしでんてい)と呼ばれる。使用する系統は鹿児島市電1系統のみである。

駅名由来は付近に薩摩藩処刑場があり、処刑者と家族が停留所付近の新川にかかる橋で涙の別れをしたことによるそうです。


2面2線の相対式ホーム。各のりばは電車が通過しない限りいつでも行き来できる。 両のりばには電車接近表示機及びアナウンスがある。両のりばとも車椅子の使用は可。ただし、電動車椅子はホーム幅が規定に足りないため不可とされている。

のりば:かつて鴨池~当停留所間が高架だった名残が奥のホーム構造に残っています。
1番のりば

1系統 - 脇田、谷山方面
2番のりば
横断歩道からスロープでホームに連絡します。標準の電照式停留所名標が設置されています。
1系統 - 郡元、騎射場、天文館、鹿児島駅前方面
※1番のりば、2番のりばの表記は当記事でのみのりばを分かりやすくするために記したものであり、実際には決められてはいない。
ホームにはFRP式の長椅子が設置されています。
停留所を出ると新川を渡ります。

 

 

周辺
当駅より郡元に向かう軌道に緩い勾配と接する道路との間に不自然な段差が生じているが、これはかつての高架の取付口の痕跡である。谷山線は昭和20年代まで全区間が専用軌道で、そのうち鴨池 - 当電停間は高架線であった。その後も、郡元 - 当電停間はセンターポール化計画に追加されるまでは専用軌道であった。


歴史
1917年11月3日 - 鹿児島電気軌道により設置される。駅名は郡元。
1928年7月1日 - 鹿児島市に移管(当時は電気局)。
1959年10月1日 - 新川に改名。
1967年1月1日 - 涙橋に改名。
1990年 - 涙橋架け替え決定のため、郡元電停ダイエー側 - 当電停間がセンターポール化計画に追加される。
1992年 - センターポール化される。


涙橋電停
◄郡元(南側) (0.4km)(0.5km) 南鹿児島駅前►
所在地 鹿児島県鹿児島市郡元三丁目
北緯31度33分33.93秒 東経130度32分49.02秒
駅番号 口18
所属事業者 鹿児島市交通局
所属路線 鹿児島市電1系統
(線路名称上は谷山線)
キロ程 5.4km(鹿児島駅前起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線

ケミカルタンカー 新東弘

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船種:ケミカルタンカー
船籍:上天草
総トン数:199トン
竣工:2017.4
建造:本瓦造船(株)
船主:(有)東弘汽船
運航:(株)辰巳商会

船級 総トン数(G/T) 載貨容積(㎥) 載貨重量(ton) タンク材質 主な積載品目
JG 199      175     300     SUS316L      硫酸

 

ケミカルタンカー(英語: chemical tanker)は、化学物質をばら積みで運ぶために設計されたタンカーの一種である。

海を行くケミカルタンカーは、通常載貨重量トンにして5,000 トンから40,000 トンほどで、これは特定の積み荷に特化しているという船の性質や、積み込みや積み降ろしのために寄港するターミナルの大きさの制約などの理由により、他の種類のタンカーの平均的な大きさよりかなり小さなものとなっている。

ケミカルタンカーは通常、いくつかに分けられたタンクを持ち、それぞれはフェノールエポキシ樹脂や亜鉛ペイントなど特別なコーティングがされていたり、ステンレス鋼で造られていたりする。コーティングやタンクの材質によって、そのタンクが運ぶことができる積み荷の種類が決定される。硫酸やリン酸などの強い酸の積み荷にはステンレス鋼のタンクが必要とされる一方で、より単純な積み荷、植物油などはエポキシ樹脂コーティングのタンクで運ぶことができる。

ケミカルタンカーは、特定の積み荷の粘度を保つためにタンクを暖める装置を持っていることがある。典型的にはこのシステムは、積み荷のタンクの中にステンレス鋼の加熱管が通されていて、圧力の掛かった蒸気をここに送り出すボイラーがある。これにより熱が積み荷に伝わり、対流によりタンク内で循環する。多くの現代のケミカルタンカーは二重船体構造を特徴としており、タンクそれぞれにポンプがあり独立したパイプ系統がつながっている。これは、各タンクに別な積み荷を積んで、互いに混じり合うようなことが無く運べることを意味する。積み荷を降ろした後のタンクのクリーニングはケミカルタンカーの運航ではとても重要なもので、これは適切に洗浄されなかったタンクの残留物が次の積み荷の純度に悪影響を与えることがあるからである。タンクをクリーニングする前には、タンクが適切に換気され、爆発性の気体が溜まっていないことを確認することがとても重要である。

ほとんどの新しいケミカルタンカーは日本、大韓民国、中華人民共和国の造船所で建造されており、他の建造国としてはトルコ、イタリア、ドイツ、ポーランドがある。

ケミカルタンカーによる輸送市場はいくつかの大手ケミカルタンカー運航事業者に独占されている。ストルトニールセン (Stolt-Nielsen)、オドフェル (Odfjell)、アイツェン・ケミカル (Eitzen Chemical)、クリッパー・タンカーズ (Clipper Tankers)、Berlian Laju Tankerなどである。最終的な船の使用者である借受人は、石油メジャーや化学専門企業などである。

3大ケミカルタンカー所有者やそれより小さな所有者のタンカーを予約するために、多くの借受人は最も安い借り賃を得るために専門のブローカーを利用する。

名称 本瓦造船株式会社
事業内容 各種小型鋼船・鉄鋼構造物の製造及び修理
造船部門
通算約600隻、G/T5~749トンの船舶を年間約12隻建造しています。
登録・許可 造船業登録番号 中小鋼船 第102号
第二船台新設許可番号 中国海産 第121号
第二船台拡張許可番号 国海産許 第2621号、第2649号
建造船級 JG、JCI、NK、LR他
設 立 昭和24年4月
資本金 57,500,000円
所在地 本社工場
〒720-0202 広島県福山市鞆町後地1717
TEL (084) 982-2500 FAX (084) 982-1230
第二工場
〒720-0202 広島県福山市鞆町後地242-1
TEL (084) 982-1122 FAX (084) 982-1125
第三工場
〒720-0202 広島県福山市鞆町後地26-95

 

ツンダップ 50CC 1956年 ツノダ自転車

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50CCクラスで手軽な、乗用タイプのモペットバイクのブームがおこると、自転車メーカーも参入した。ツノダ自転車はドイツのツンダップ社のエンジンを購入して完成車の販売を始めた。

1958年、ホンダは50CCのスーパーカブを発売。スーパーカブは4.5馬力という高出力で、燃費のいい4サイクルエンジン。車体はプラスチックを多用し、女性でも気軽に乗れる親しみやすいデザイン。自動遠心クラッチレバーがなく。蕎麦屋が片手で運転できた。ツノダ自転車はじめ、ノーリツの岡本自転車、メヤム自転車の日帝工業などは、月産3万台のスーパーカブを短命に終わっている。

ツェンダップ(Zündapp )はかつてドイツに存在した主要オートバイ製造会社の一つである。
実際のドイツ語での ZÜ の発音に則したカタカナ表記例は「ツュ」であり、正しくは「ツュンダップ」(または日本人には発音しにくいため『ツンダップ』)であるが、日本では長年にわたる古いプラモデルの商品名や書籍等での誤植の伝播により、原語の綴りから乖離した「ツェンダップ」という誤読による表記が多く見られる。

1917年、ニュルンベルクのフリッツ・ノイマイヤー(Fritz Neumeyer )によって、クルップ社とティール(Thiel) 時計・機械製作所との共同で"Zünder- und Apparatebau G.m.b.H."の名称の下、信管の製造会社として設立された。1919年、第一次世界大戦の終結に伴い兵器部品の需要が減少したことで、ノイマイヤーは会社の単独所有者となった。2年後、彼は会社の多様化の一環としてオートバイの生産に参入した。
最初のツェンダップのオートバイは1921年製のZ22である。"Motorrad für Jedermann"(全ての人達にオートバイを)の理念で単純で信頼性の高い設計により大量生産された。1928年には新工場がニュルンベルク市ディーゼル・シュトラッセに建設された。ツェンダップの大型オートバイの歴史は1933年のKシリーズから始まる。駆動系統は2個の自在継手を介した伝達軸が使用されていた。このシリーズは排気量が200ccから800ccまであり、販売は成功した。1935年のノイマイヤーの死後も会社は業績を伸ばし、1931年に5%であったツェンダップの市場占有率は1937年に18%にまで達した。1940年には18,000台以上のデフロック機構を備えたKS750サイドカーがドイツ国防軍向けに生産された。
1931年、フェルディナント・ポルシェはツェンダップの依頼で"Auto für Jedermann"(全ての人に自動車を)の理念の下で最初の"フォルクスワーゲン"となるツェンダップ・フォルクスアウトを開発した。


第二次世界大戦後、会社は小型の機械の製作に軸足を移しスクーター、ツェンダップ・ベラを開発した。最後の大型オートバイは1951年に発売されたKS601 ("green elephant")である。排気量は598cc2気筒エンジンだった。
1957年から1958年までツェンダップ・ヤヌス(バブルカー)を生産した。
1958年、会社はニュルンベルクからミュンヘンに移った。間もなく会社はいくつかの新しい小型のモデルを開発した。4ストロークエンジンの開発をあきらめ2ストロークエンジンのモデルのみだった。ツェンダップのスクーターとモペッドは当初は売れ行きが良かったがやがて売り上げは落ちて1984年、会社は破産して廃業し、生産設備は天津のオートバイ製造会社へ売却された。
ツェンダップのモデルは1980年代までインドのロイヤル・エンフィールド・モーターズで生産された。

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