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武市半平太旧宅(高知市仁井田)

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下田川にかかる瑞山[ずいざん]橋をわたって南にのびた道を進むと昔のたたずまいを残した家並みと田園が開けてくる。途中の小道を東に進むと武市半平太の旧宅につきあたる。もとは、藁葺で間数6室、客室は8畳で柱に半平太が字を刻んだ痕がある。東南の客室の前面に池や庭をつくってあり、土蔵(現存しない)、物置もあって、典型的な郷士屋敷である。

半平太は1829(文政12)年9月27日生まれた。家は郷士で約52石を領したが祖父・父は白札格となり上士待遇であった。1849(嘉永2)年家督を相続。高知城下新町田渕の郷士島村源次郎の娘、富と結婚し、妻の叔父島村寿之助とともに田渕に剣術・槍術の道場を開いた。

 

武市半平太伝―月と影と   松岡 司 新人物往来社

 

1861(文久元)年江戸に赴き、長州の久坂玄瑞・桂小五郎、薩摩の樺山三円らと交わり薩長土の提携に尽力した。同年8月大石圓[まどか]らとはかって土佐勤王党の盟約書をつくり、党主となった。

土佐藩の一藩勤王を説いたが、吉田東洋に書生論として退けられ、1862(文久2)年4月8日東洋を暗殺して土佐藩を勤王化することに成功した。同年10月半平太は柳川左門と称し、副勅使姉小路公知の雑掌として護衛にあたり東下の大任を果たした。1863(文久3)年3月には京都留守居加役となったが、4月には帰国し、その後山内容堂に藩政改革をせまったが、容堂の公武合体論をかえることはできなかった。

 

武市半平太―ある草莽の実像 (中公新書 645)   入交 好脩 中央公論新社

 

同年8月18日の公武合体派による政変の結果、土佐勤王党も弾圧をうけ、9月21日半平太は投獄された。1865(慶応元)年閏5月11日切腹を命ぜられ37歳の命を絶つ。「花は清香に依って愛せられ、人は仁義を以て栄ゆ。幽囚何ぞ恥づべき、只赤心の明かなるあり」は半平太の獄中の作である。


旧宅は、半平太が城下に出たとき以来、武市家の所有を離れているが、母屋・土蔵などは郷士屋敷の面影を残している。
「武市半平太旧宅及び墓」と書いてあり、国指定の史跡です。旧宅から右手に伸びている道路を歩くと石段があり、その先には瑞山神社や瑞山資料館、瑞山の墓などがある。もとは藁葺屋根であったが、現在は銅板で、間数6室、客室は8畳で柱に半平太が字を刻んだ痕がある。
 半平太の墓は旧宅の前の小道を南に進むと、瑞山神社があるが、その上の丘陵にある。


<所在地>
高知市仁井田3021
<交通アクセス>
はりまや橋から土佐電鉄バス・パークタウン線「前浜」方面行き乗車、「瑞山神社前」下車後、徒歩約3分
駐車場無料
普通車5台

 

武市半平太 (現代小説の発見 2)   島本 征彦 沖積舎

 


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