福岡県北九州市小倉南区呼野と田川郡香春町採銅所を結ぶ峠です。
金辺峠は江戸時代以前から交通の要所でした。峠には日田彦山線の金辺トンネル、国道322号(香春街道)に新金辺トンネルと第二金辺トンネル、その旧道には金辺トンネルがあり、計4本のトンネルが峠を南北に貫く。なお国道322号の第二金辺トンネルは上り車線(北九州方面)、新金辺トンネルは下り車線(田川方面)専用となっています、
日田彦山線の金辺トンネル(1.4km)は20年に及ぶ難工事でした。1897年にトンネルの建設工事が始まったが、落盤事故などで犠牲者が出しました。そして小倉鉄道(現在の日田彦山線)の路線となり1915年に完成。1917年には香春街道に初代の金辺トンネルが完成し、戦後の1967年には新金辺トンネル(590m)が開通し、旧道はあまり使用されなくなりました。1970年に国道322号に昇格し、その後も交通量は増え続けたため、1989年には新金辺トンネルの隣に、歩道が設けられた第二金辺トンネル(850m)が完成し、現在に至っています。新金辺トンネルには歩道が無く、歩行者や自転車は第二金辺トンネルを通る必要があります。
現在、不当投棄防止の為、旧道の金辺トンネルは通行不可です。またトンネル内は水浸しの状態です。香春側の旧道は金辺トンネルの手前までは舗装されているが、北九州側はトンネル付近では未舗装で悪路となっています。
なお、旧道の北九州側には採石場が所在しているため、現在でも旧道は使用されています。峠はフェンスがあり人以外は越えることが出来ない。
島村志津摩は、天保四年(1833年)小倉に生まれ、10歳で千二百石の家を相続、20歳で家老となる。財政逼迫の時期で、産業進行策を次々に打ち出すが、大した利益も上げられず安政6年(1859年)家老の職を解かれました。
慶応2年(1866年)長州軍が田野浦に上陸、島村の隊も戦うが、志津摩は体調を崩し長浜に居た。小倉藩は、8月1日城を焼き香春に退くが、島村は金辺峠に陣を張ってゲリラ戦を展開した。慶応3年、企救郡を長州が管理することを条件に講和が成立し、島村は香春藩の家老(後に執政)となった。明治2年、藩庁が豊津に移るとともに執政を辞退、明治9年京都郡二崎(苅田町)で逝去、44歳でした。金辺峠を最後の砦と死守し、田川郡を戦禍から守ったこと等から、死後の明治19年に志津摩の人徳を慕って碑が峠に建立されました。
峠には、以前清水が湧いていましたが、現在は土砂で埋まってしまい水を汲むことは出来なくなっています。